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【コラム】集会に参加する子どもたち(下)

 「米国産牛肉に関する討論」で、最初から決まった結論を導き出すのは難しいことではない。全教組(全国教職員組合)に所属する教師が行ったように、ある映像を見せて子どもたちに「君たちはどう思うか」と尋ねれば、帰ってくる答えなど分かりきっている。討論という民主的な形をとっているようだが、実際はそうではない。一方的な情報を注入し、その枠の中で考えさせるに過ぎないのだ。

 「自ら考える権利」は子どもたちが生来持つものだ。子どもたちに偏向した情報を一方的に注入し、一方しか見えなくするのは人権侵害だ。他人が自分の子どもに対してそうすれば騒ぎ立てるような行為を、最近は親たちが自ら行っているのだ。

 「少年少女のデモ隊」が目につくのは、「目的は手段を正当化する」という386式の古い考え方の結果かもしれない。この世代の一部は「悪いものをなくすためには、いかなる方法をとっても良い」という論理に親しんできたのだ。

 もちろんこのような大きな決意を持っているわけでもなく、「清渓川に遊びに行く」ような気分で、外食をした後、子どもたちの手をとって集会やデモの現場に出かける夫婦もいる。切迫感に欠ける最近のデモ文化の反映でもあるのだろうが、これもまた両親が子どもに勧めるようなものではない。道路を占拠してその場で声を上げるという違法行為から感じられる歪んだ爽快感。このような「バンダリズム(文明破壊)の初期教育」を受けた子どもたちが学校に戻って規則的な生活を求められるとすれば、それこそ拷問のように感じるのは間違いないからだ。

 赤ん坊をベビーカーに乗せて集会やデモの現場に連れてくるのも、一見勇敢なように見える。たとえ安全な場所だけを選んで歩くとは言っても、現場というのは状況によってどうなるか誰にも見当がつかない。意図しなくても、ベビーカーが機動隊員に対するバリケードとなる危険性があるのだ。「子どもたちの健康を守るため」と親たちはよく言うが、もしかすると子どもたちよりも信念の方に比重があるのではないか。もしそうなら、それを母性愛であるかのように偽るべきではない。

パク・ウンジュ記者(エンターテイメント部長)

【ニュース特集】米国産牛肉輸入問題

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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