猫を償うに猫をもってせよ

2008-05-30 わが心の強くて自殺せぬに非ず

 「わが心のよくて殺さぬには非ず」と親鸞が言ったのは、私見では別に深遠なことを言ったのではなくて、素質のない人間には殺人はできないということに過ぎない。もちろん戦争とか異常な状況は別として、日常的なあれこれから人を殺す人というのは、元来そういう素質を持っていたか、生育過程でそういう素質が身についたかである。たとえば私が、にっくきあいつを殺してやろうと思っても、できないだろう。それは私が善人だからではなくて、そういう素質がないからである。

 自殺もまた然りで、そういう素質のない人には、よほどのことがない限り自殺はできない。よって、自殺する人は心が弱いとかそういうことはなくて、自殺しない人はそういう素質がなかっただけなのである。

 ところで千葉俊二先生は茂木健一郎の「偶有性」という概念が、とか書いていたけれど、いったいその概念はどこが新しいのかまるで分からぬ。クオリアだってそうだが、サンタクロースを思い浮かべられるのはクオリアの働きだって、そりゃ違うだろう。サンタクロースの絵とかを見ているから思い浮かべられるんであって、じゃあストレプトコッカスミュータンス菌を思い浮かべることができるかね。

 呉智英さんが未だに仇討ち制度なんて言っているのは困ったもので、最近呉さんは左翼回帰しているような気がする。だって、国家が人を殺すのはいかん、って前提を認めているんだもの。

 (小谷野敦

2008-05-29 嶋中雄作宛谷崎書簡

 千葉俊二先生が増補した『谷崎先生の書簡・増補版』読了。あわせて「谷崎詳細年譜」は修正した。谷崎と松子の「密通」について私への異論もあるが、これは改めて活字にしたい。ただ『谷崎伝』における明らかなチョンボが分かった。敗戦後すぐ谷崎は、『細雪』に蒋介石やロシヤ、英国の悪口があるのでどうしようかと嶋中宛に書いていて、とりあえず現行版を見てみたがやはり悪口はあることはあるので、別に何もしなかったと判断してそう書いたのだが、実は私家版からの削除があった。まあ私家版は大学図書館では明大和泉にしかないようで、当時明大は辞めていたから見られなかった、というのは言い訳で怠慢ですね。

 あとがきに「文学研究において新資料による新事実の発見ほど研究の醍醐味を味わわせてくれるものはない」とあるがまったくその通りで、「作品論」とか「テクスト論」とかいって作品だけ読んで感想文みたいな「解釈」をしている者どもよ剋目して見よ、とも思うが、まあそういう人は実際にはごく一部なので…。

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 瀬戸内寂聴の『奇縁まんだら』が売れているようだ。日経新聞に連載されたらしいが、この日経新聞というやつ、私は自分ではもちろん実家でもとっていたことがないから、世間で「日経の連載小説が」云々と言われても、へーえ経済新聞なんかみんなとってるんだー、という感じがしている。ニフティの新聞記事検索でも日経は別枠で料金をとるから、日経の記事というのはほとんど見たことがない。

 さてその『奇縁まんだら』は瀬戸内がこれまで会った作家やらの思い出を書いたもので、毎日新聞張競さんの書評が載っており、和田周の話には驚かされた、と書いていた。和田周というのは、昭和四年に谷崎潤一郎が妻千代を譲ろうとした和田六郎の息子で、既に和田周の話は瀬戸内の『つれなかりせばなかなかに』に、小説体ではあるが書いてある。何か目新しい話でもあったのかなーと思ったら、佐藤春夫との結婚後も千代は和田が好きだったとか、まあその辺は目新しいが、それがびっくりするほどのこととは思われず、たぶん張競さんは、和田六郎が佐藤の弟子になって大坪砂男になったとかいうことを、忘れていたか知らなかったかのどちらかだろう。もっともそれは私の『谷崎伝』に書いてあるのだが、張さんはいま米国にいるから、確認できなかったのだろう。そう考えると、外国にいる人が書評をするというのは、いかがなものかなあ、と思うのである。いや、待てよ、インターネットで私の谷崎年表を見れば…。いや深く考えないことにしよう。

2008-05-27 カリスマ中井久夫

 小倉千加子が『週刊朝日』に丸山ワクチンのことなど書いているから、一瞬小島千加子のような似た名前の医者かと思った。まあ小倉医学博士なのだが…。で、丸山ワクチンはもう効果のない薬とされているけれど、中井久夫が、そうでもないことを書いているという話。

 丸山ワクチンのことはどうでもいいが、中井久夫という人はカリスマ的なところがあって、精神医学者だが人間への洞察に満ちた随筆を書き、果てはギリシャ誌の翻訳までやって文学賞を受賞する人だというので、崇拝者が多い。私も一時期、ちょっと崇拝しかけて、手紙を書いたことすらある。もちろん、お返事も来た。

 しかし何ごとであれ、カリスマ化、個人崇拝というのはいいことではない。特に中井の文章を読んでいると、要するにその臨床は職人藝みたいなもの、あるいは天賦の才能に幾いと思わせるものがあり、ということは科学ではない、ということになる。カリスマ的人物がいる分野というのは、それだけ科学から遠いということで、民俗学など特にそうだし、経済学でも、その嫌いはある。哲学はむろんそうだが、あれは科学とは違うものだ。ノースロップ・フライや中村幸彦、荒井献がいかに偉大であろうと、カリスマにはならない。

 ところで「精神分析などという非科学を教えるのはやめろ」と言っていた石浦章一先生は、とうとうトンデモ本の著者になってしまったようだ・…。

 ゆえあって、四半世紀前の朝日新聞を見ていたら、聖路加看護大学長の肩書で、日野原重明が「習慣病」というエッセイを書いていた。こいつが言い出したのだということは知っていたが、その下にあるのは、酒もタバコも好き放題(晩年まで)やって96で死んだ人の、藤枝静男(医師)による追悼文、右側には河野多恵子文藝時評で、石原慎太郎の作を絶賛している。うーん、考えさせられる紙面だ。藤枝静男は、間違いをはっきり認める誠実な人だった。

 (小谷野敦

2008-05-25 カド番大関が強いわけ

 琴欧洲が初優勝。カド番での優勝である。知らない人のために解説すると、大関は二場所連続で負け越すと関脇へ落ちる。だから負け越した次の場所を「カド番」という。角番と書き、囲碁将棋から来た言葉のようだ。なお横綱は、下へ落ちるということはない。だから横綱が弱い時は、引退するしかない。

 さて、角番大関が大勝、あるいは優勝するというケースは珍しくない。なぜか、またしても相撲入門であるが、ふだんは稽古をサボっている大関が、角番になると本気で稽古するからである。

 それなら、不断からもっと稽古しておけば横綱になったり、もっと勝てるではないか、と思う人がいるかもしれない。むろんそうだが、それを言うなら学者や学生が、論文やレポートを締切日が来てから書き始めたり、締切前日に徹夜して書いたり、修論提出日になって駆け込んできたりするのはなぜか、というのと同じだ。まあ教授になってしまえば、締切を二年くらい遅らせても、地位には影響しないわけだがね。

 さて、将軍が「作り阿呆」だと分かって、『篤姫』も面白くなってきた。なお史実では、家定は病弱だっただけで、別に阿呆だったわけでも作り阿呆だったわけでもない。ところで学者の世界でも「作り阿呆」をする必要はあって、三十代前半までに著書を出すとか、十数本も論文があるとかいうことになると、嫉妬されて就職しづらくなるからね。もっとも専任になってからだって、あまり本を出したりしないほうがやりやすいわけだが、まあ作り阿呆のつもりでいるうちに、本当に阿呆になってしまう教授も多いけどね・・・。

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とってはいないのだが、朝日新聞に、死刑に関する各界100人へのアンケートとかいうのが載ったようだ。まあ、反対論者を多めに集めているようだし、「回答の一部を掲載しました」と言い条、『なぜ悪人を殺してはいけないのか』で死刑廃止論を徹底的に論破した私には何も言ってこなかったわけだから、これであの本が「マスコミ的には反時代的」であることが証明されたようなものだ。いやまあ、私の本を誰もが読んでいるとは思っていないが、見事な言論統制だねえ。

 (小谷野敦

2008-05-23 白い巨塔続き

 続けてDVDで『白い巨塔』を観ている。大河内教授という硬骨漢が突然登場するのだが、70歳くらいに見えて、それまで悪玉教授だった石坂浩二伊武雅刀より年上に見える。しかし石坂の東教授の定年退官後の人事なのだから、大河内は東より年下のはずで、なんかおかしい。まさか井上由美子だって、人によって定年の年齢が違うと思っていたわけではないだろう。原作に出てくる大河内は、別にそういう人物ではない。

 しかるに、DVDプレイヤーの具合が悪いのでパソコンで観たら、「リージョンコードの変更はこれで最後です」と出た。何だこれは、と思ったが構わず観ていたら、その後、米国から取り寄せた『荒涼館』のドラマのDVDを観ようとしたら、もう観られないのだ。富士通へ電話して訊いたら、リージョンコード破りをしてもらいたくないので、そういうドライバを使っているそうで、ドライバの交換でもしない限りもう観られないという。

 別にリージョンコードは法律で決まっているわけではないし、こんなの独占禁止法違反ではないかと思い、公正取引委員会に電話して訊いたら、出た人がリージョンコードというのが何だか知らなかった。しかしとりあえず説明したが、特に独禁法違反とはまだ言えないとのことだったが、これを統括しているDVDフォーラムという業界団体は、ほとんどパソコン製造会社がみな入会していて、やっぱり談合だと思う。

 ところで個人タクシーで禁煙にしないところへの配車停止が独禁法違反だというので再開されたが、「禁煙NPO」が再度停止を要求しているという。何もそういう個人タクシーに乗らなければいいだけのことで、こんなのはもはや喫煙行為を排除しようとする政治活動であり、NPO法違反だと思う。

2008-05-22 恐るべきレベッカ

 しばらく、ヨコタ村上がいることに抗議して退会していた比較文学会に戻り、昨日学会誌『比較文学』が届いた。中に、巽孝之の英文著作の、ヨコタ村上による書評が載っていたが、その末尾を見て私は「ここまで・・・」と思った。「評者は夢みたい。西田幾多郎平川祐弘が、巽孝之が、異形のゴジラに変容して、太平洋を、大西洋をわたり、デリダを、ラカンを、ジェームソンを、けちらし踏みちらしていくさまを」と結ばれている。「巽孝之」はまあ書評対象だからいいとして、「平川祐弘」というのは、恐るべきレベッカ、いやおべっかである。恥も外聞も振り捨てたというかっこうだ。蹴散らされるのは、何の説明もなくガダマーがどうとかいうヨコタ村上のほうだと思うし、かつてナショナリストとしてひどく嫌っていた平川先生に、なぜ今になってこんなあからさまなおべっかを使うのであろうか。ヨコタ村上は阪大助教授であり、まあ財前五郎といったところだが、別に放っておいたって教授になるだろうし、これ以上何が欲しいのか。学会での出世でもしたいのか。

 「比較文学などやめてしまえ」と言いつつ学会にしぶとく居座り、その上学会での出世までしようというのだろうか、この男は。つくづく呆れ果てた。そのうち、また退会するかもしれん。

 (小谷野敦

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ファイザー社製の禁煙薬、なんか副作用があるとかで。一ヶ月ほど前、某週刊誌がこの薬が日本でも発売されるというので私に電話取材があったのだが、どうやら私の禁煙ファシズム関係の本など碌に読んでいないらしく、ひとくさりまくしたてたら「いやあ、過激な話で…」とか言って、その禁煙薬は、使う気はありませんよね、と言うから、当たり前だと言って切ったら、ほどなく再度かかってきて、「デスクが確認しろというので、…禁煙薬を使う気は、ありませんか・・・いやないですよね」みたいな話で、結局私のコメントは載らなかったのだが、最近は週刊誌まで禁煙ファシストになってきている。

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前に書いたと思ったが書いていなかったかな。私の友人が某五流大学で教えていた時のこと。学生に「明治四十年以前の小説を読んでレポートを出せ」と課したところ、学生から通報でもあったのか、学科長か何かに呼び出されて、「そんなものどうやって見つけるんだ。古本屋で探せというのか」と言われたという。もう、五流大学がいかに何々、というより、こりゃ怪談だよ。

2008-05-20 教えてください

 この世に行きとし生ける者の〜すべてに命が〜、じゃなくて、『リチャード三世は悪人か』のアマゾンのレビューで「青」という人が、初歩的な間違いが多いと書いておられた。poetがpoerになっている誤植とか、フォリオとクォートが逆になっているとかは気づいているのだが、他は何も気づいていないので、どうぞ青さん、教えてください。やはりアマゾンの著者のことばででも訂正しておきたいのです。人物関係がややこしいので、そのあたりかと思いますが。

 (小谷野敦

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ミネルヴァ日本評伝選の新刊は福沢諭吉。正直言って、まだ伝記がない人のを出してほしいのである。

2008-05-15 宣伝

 ここでは「何々に何々を書きました〜」みたいな宣伝はしないことにしているのだが、これは宣伝しないと多分誰も気づかないので、『実話漫画ナックルズ』(明日あたり出るのかな?)で私の「禁煙ファシズムと戦う」が漫画化されて載っています。いやープロの絵力はすごいなー。

 ところで最近とんと漫画を読まなくなったのだが、ふと思い出したのは十数年前に出た『いきなり最終回』は有名漫画のあまり知られない最終回を集めた本で当時売れたものだが、なぜか原画をもとに製作していて、原画が失われている時は漫画家に改めて描いてもらったという。しかし『アタックNo1』の最後のヒロインの顔の大ゴマが原画がないとかで浦野千賀子が新しく描いていたのだが、元の絵をなぞるのじゃなくて今の画風で描いたものだから、全然違う顔(目がずっと小さい)になっていて、なぜ原画にこだわったのか、よく分からなかった。

2008-05-14 一件落着

 文藝家協会書記局長・桐原良光が謝罪してきた。私は、謝る人間には寛大なので、これまでの桐原への悪口は削除した。山本有三の「海彦山彦」が、原典『古事記』の善悪を逆転させ、謝れば許す、と言う海彦に対し、頑なに謝ろうとせず、自分で釣り針を作って返すと言い張る山彦を描いたのを、私はしばしば思い出す。

 大塚さんの意見をまだ聞いていないので、聞いてから返事はするが、坂上理事長が桐原に謝罪させたのだろう。理事長に感謝する。

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ウィキペディアを見ていてしばしば「このバカどもめ」と思うのは、作家の著作一覧を書くのに、文庫版の刊行年を書いている奴が多いことだ。見つけると直しているが、「新潮社、2001」などとあっても、それが新潮文庫だったりして、元本について書いておかねば書誌的意味がないだろうに、もちろん文庫オリジナルならそれでいいのだが、実にもってこの・・・そういう作家を読む連中の頭の程度が知れたりもする。

 (小谷野敦

2008-05-13 おどおどモード

 今日は久しぶりに「おどおどモード」になった。きっかけは、駒場の書庫で、電動式のところで職員の女性が作業をしていて、私の見たい雑誌がその近くにあったので、一時どいてもらって開けて入って出てきて職員さんが入ったあと、メモを置き忘れたことに気づいて、「あっ、すいません、ちょっとメモを」と言ってまたどいてもらったことで、これになった。

 小腰をかがめんばかりに、あるいは猫背になって、「あっ、あっ、すいません、私が悪いんです、どうぞどうぞ」みたいな姿勢と精神状態になるのが、「おどおどモード」である。いつからか知らないが、時々外を歩いていてこれになる。というのは、いつも私は他人の悪や卑怯や怠惰や禁煙ファシズムと戦いながら歩いているので、これをやると骨休めになるのである。これに入ると実に楽である。何しろたいていは自分が悪いことにするので、怒らずにすむ。まあ変な話だが、最近はあまりにも相手が悪いことのほうが多いので、久しぶりのおどおどモードだったが、実はこのモードで授業をやると、少しくまずいので、30分ほどしか続かなかった。

 さて文藝家協会だが、日曜に理事長から私と大塚さんに速達が来て、桐原が職務を逸脱した行為をしたことを認めて詫びている、などと書いてあるからびっくりしてすぐに、桐原はそんなことはまったく言っていない、とファックスを送った。そして今日、桐原から協会の規約が送られてきて、みたら、やっぱり入会は委員会で決めるとなっていたので、理事長がかくかく、規約によればやはり委員会で決めることだ、とメールしたら、それは知らない、理事長はいま遠方へ行っているから帰ったら相談する、また規約については、一般入会はそうだが推薦入会は違う、などと言うのだが、どう見たって推薦入会も委員会を通すと書いてあり、桐原が言うように、書記局から理事会へ直行などとは書いていない。なぜそんなすぐばれる嘘をつくのか。

 嘘つきといえば中島ギドー、大学を辞めると言っていたのに辞めていない。そこまでものすごい嘘つきだとは思わなかったぜ。

2008-05-12 勤労感謝の日

 いや実に時期はずれなのだが、私が大学院生だった頃まで、国民の祝日には、朝方NHK総合テレビで映画を放送していた。そして、勤労感謝の日−−といっても新嘗祭の日なのだが・・・には、「労働者映画」が放送されていたのだ。今井正の「米」とか、家城巳代治の「裸の太陽」とかである。「裸の太陽」はその音楽がすばらしい。若者よ、勤労に汗を流そう、そして資本家の搾取と健全に戦おう、お百姓さんに感謝しよう、といったものだ。

 いつしか、祝日に映画を放送すること自体がなくなってしまったが、私はいま、こういう「健全な左翼精神」を懐かしく思っている。いやまあ、北朝鮮では今でもそういう映画・演劇全盛なのだろうが・・・。しかし、北朝鮮で全盛だからいけないということはない。

 ・・・さて、隠居の準備に入るか・・・。

2008-05-11 剣か刀か

 坪内祐三が『文藝春秋』六月号で、映画「靖国」について書いている。映画会社からコメントを求められて、放置しておいたらファックスが来て、「日本人でもここまで深く靖国を考えた人はいません」とあり、坪内は、私は『靖国』という本を書いているのだが、それを知ってそう言うのか、と返事したら、それは知りませんでしたと返事が来たという。むーん、そういうことは、私にもないではない。とはいえ私ならコメント料ほしさに適当なことを言うだろう。ああお金持ちツボちゃん、である。

 ところでタイトルは「映画『靖国』が隠していること」なのだが、正確に言えば、別に隠してはいない。単に靖国神社の御神体は「日本刀」だと映画で言っているのを、坪内が、剣である、と言っている程度で、坪内はこれは悪質な捏造だと言うのだが、まあ確かに凶器である日本刀を御神体とした、靖国神社は戦争のための神社だ、というイメージ操作であるのは分かる。

 しかし、剣といってもこれが、三種の神器の一だという。靖国神社の御神体は、そのうちの二つ、神剣と神鏡だという。しかしまさか本物ではなくてレプリカである。しかし坪内の文章を読んでいると、三種の神器の本物のうち二つが靖国神社にあるかのように読めて、どうもおかしい。といっても本物の天叢雲剣は壇ノ浦に沈んでいるわけだが。

 となると、坪内は例によって触れないのだが、靖国神社は天皇と深い関係があるということになる。私は坪内の『靖国』を批判して、なぜ天皇制について論じないのか、と書いたことがあるが、ここでも同じだ。

 それに第一、日本人というのは刀を崇めてハラキリするような人種だというイメージは、何も外国人が捏造したわけではない。乃木希典を美化する者たちや三島由紀夫が増幅して広めたもので、それに関しては日本人にもずいぶん責任があるのだ。

 まあ、最後は、「靖国」はぜひ上映すべきだ、となっているのだが、私にはいずれにせよ大して興味はない。

 実は、長野での聖火マラソンを妨害された萩本欽一が、「何も欽ちゃんにやらなくてもいいじゃない。ハッピーに終わらせたいじゃない」と発言していたのを、最近めったにニュースを見ないのにふと見てしまい、お笑い藝人だからチベットで何が起こっていても知らないよというその態度に、私は不快感を覚えていて、チベット独立派の人々は全然ハッピーじゃないのだがな、という、まあそちらの方が気になっているのである。

2008-05-08 ドウテイさん?

 なんか地震があったが、阪神のを経験した人間からすると、まあだまだ。

ところで読んでいなかった『夏への扉』(ハインライン)を読んでいたら「ドウテイさん」というのが出てきた。これは「ドハティさん」だと思う。綴りはDoughty。阪大にいた頃、新しい外国人教師でこの綴りの人が来たが、紹介した教授がやはり読めずに「ドーティーさん? ドガティでしょうか」などと言っていた。「ドウテイさん」はちょっと・・・。

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桐原は相変わらずである。なぜ旧ソ連とか社会主義シナとか北朝鮮で、「書記長」とか「総書記」が最高権力者なのか不思議に思っていたが、書記局が権力の中心と化すからくりがよく分かってきた。

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こないだ中から田中貴子の書いたものについて私が言ったことについて何か言う人がいて、しかし彼らがおしなべて『一冊の本』を見ていないということが、私は気に掛かる。そんなに見つけるのが難しいのか、それともブロガーというのは引きこもりが多いから、アマゾンが配達してくれるものしか読めないのか・・・。

 (小谷野敦

2008-05-07 死の恐怖

 「死の恐怖」を語る人は多い。宮崎哲弥氏は少年時代、眠ったらそのまま死んでしまうのではないかという恐怖から一週間眠れず、病院に担ぎ込まれたという。ただ宮崎氏は、『中論』を読んでその恐怖を乗り越えたかのように語るが、理屈で越えられるものかどうか、依然として私は疑問だ。

 しかし一般に、子供の頃であれば、「自分がいつか死ぬ」ということに恐怖を覚えることもあろうが、大人になって、仮に90歳まで生きられると保証されて、なお恐れる人がどの程度いるであろうか。むろん、90歳まで生きても怖いものは怖いかもしれないが、多くの大人が語る「死の恐怖」というのは、たとえばあと一年で死ぬとかいう「若死にの恐怖」なのではないだろうか。

 平安時代から、80まで生きる人というのはいたけれど、昭和30年代以前なら、60歳まで生きたら、まあよしという意識が多かったのではないかと思うし「人生50年」はともかく、60年くらいの計算で社会ができていたはずだ。しかるに現在では、60くらいでは、まだ若いと言われてしまう。社会の中核は50代、60代とはいえ、ところによってはそれでも「洟垂れ小僧」で、70代にでもならなければ各種名誉がやってこない、80歳平均寿命の時代となって、かえって「若死にの恐怖」は強まっているのである。

 従来の「死の恐怖」論は、多く、絶対的なものとしての死の恐怖について語ってきたが、実は長寿社会である現代先進国における、相対的な「若死にの恐怖」すなわち、平均寿命まで生きられないことへの恐怖として蔓延しつつある、という観点から、考え直さなければならないのではあるまいか。

2008-05-06 0.5人

 電車の座席は一般的に七人がけである。しかし、子供がいると、どうしても6.5人が座っている感じになる。まあその場合は仕方がないが、1.5人分くらいある奴には、電車賃を1.5倍払って座ってほしいと思う。

 まあ私立であろうと国立であろうと、准教授である以上、大学の専任職というのは優遇されているので、大学へ苦情を持ち込んでも、もちろん筋違いではあるのだが、言論弾圧になるかどうか疑わしいのが実情である。

 だから実際には、非常勤講師である私が、匿名で書き込んでいるやつの実名がウィッシュリストで分かったから実名で罵倒したのを、いきなり大学へ持ち込むほうがよほどひどい言論弾圧なのだ。それを取り上げる大学側も大いに問題ありだがね、私の場合。匿名で発言している奴が、メールで何か言ってきたくらいで取り上げるのは、実にもってやめてほしいものだと思う。

 たとえば新幹線の端っこに喫煙車を設ける。隣の車両との間にはデッキを置く。これでもう「煙が流れ込む」なんてことはないわけだ。あるいは、新幹線の真ん中に喫煙車があっても、その両側は「嫌煙家不可車両」にしておけば問題ないわけ。そういう工夫を全然しないで、全面禁煙。私はこれが続いたら、東北、長野、新潟方面はおろか、房総や小田原へも行けずに生涯を終わるわけ。いったいどっちが自分勝手かね。

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http://ishiken55.exblog.jp/6856384/

 敵を増やしたくはない。しかし、「谷崎ファン」と言いつつ、全集も持っておらず、「三つの場合」を知らずに図書館から借りてきて読む、という行動は私には理解できないのである。「深入り」とあるが、深入りなどしていないではないか。「晩年の作なので冴えがない」というが、その後で『瘋癲老人日記』や『台所太平記』を書いているのだ。しかも、『谷崎伝』について「作品論ではなく」と書いているが、伝なのだから当たり前だ。若者ならこの程度のことは許す、ないしはたしなめて済ますのだが、もう60近い人のようなので、あえて書く。

 (小谷野敦

2008-05-04 ライターNの「皆さん」

 『週刊朝日』の書評欄は、本紙の文藝時評に移った斎藤美奈子に代わって荒川洋治が再登場したが、いちばん長く連載を続けているのが、鬱陶しいライターNである。今回は、小沢昭一のストリップ本。一条さゆりの公判記録が載っているそうだが、小沢昭一って加藤詩子『一条さゆりの真実』で、公判で証言もしなかったといって批判されていたんじゃなかったっけ。

 ところで可笑しいのは次の一節「足繁く通うというほどではないが、私はストリッパーの皆さんの芸、そして劇場内のあの雰囲気が大好きなので」。なんでしょうか「ストリッパーの皆さん」って。政治家が「国民の皆さま」とかいうのとよく似ている。誰も、「俳優の皆さんの演技がすばらしく」なんて、どこかの挨拶でもなけりゃ言わないよね。

 ストリッパーだからといって差別してはいけない、私は差別してませんよという意識が、この「皆さん」を生んでいるのは、よく分かりますね。その上、私は陋劣な欲情を抱いてストリップへ行くんじゃありませんよ、と言いたげな文章ですね。隣の荒川さんなんか、ストリップへ行くと、女の人のあそこがピカピカ光ってきれいである、わーい、と書いていたが、それとは対照的で、Nが「偽善者」なのは、よく分かります。だから鬱陶しいのです。

小谷野敦

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『大仏次郎 敗戦日記』(草思社)が、昨年文春文庫から『終戦日記』と改題、増補されて出ている。恐らく高見順の『敗戦日記』が同文庫にあるから、それとの区別のためだろうが、それにしてもこれは語の間違いである。日本が米英と「終戦」したのはサンフランシスコ講和条約の時であり、「敗戦日記」が正しいのである。朝鮮戦争は未だに停戦しただけであって継続中、終戦はしていない。

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http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama-hazama/20080502

歴史学においてジェノサイドとは、以下だが、じゃあサン・バルテルミーの虐殺はどうなのか、イスパニアによるインディオ大虐殺はどうなのか。いやすまん、禁煙ファシストであることに気づかずにコメントしていたよ。なんで新幹線を全面禁煙にする必要があるのかね。国民国家がどうとか言っておるが、しかり、ヒトラーの大虐殺は禁煙ファシズムと同質の、世の中をよくしようという意識から来ている。フランス革命だってポル・ポトだってそうだ。生齧りのカルスタ風知識を振り回しつつ禁煙ファシストであるというのは、根っからバカとしか思えないね。自動車の害を隠蔽するための禁煙ファシズムであり、それが資本制の陰謀であることくらいが分からないで、国民国家だって。

 だいたい、「正式に謝罪を」って、それなら実名でするがいい。匿名の卑怯者どもがやりあって、正式な謝罪なんてちゃんちゃらおかしいぜ。愛犬家とともに死ねばいいのに。バカが意見を言っているいい例だ。ほら、誹謗中傷したから、正式に謝罪を要求して来い。ただし書面で、実名を入れて行うこと。でなきゃ正式でも何でもないからね。匿名の人間に謝罪を要求する権利なんかないのだ。

(付記)

ジンバブエや南アフリカ共和国が、白人支配から黒人支配に変わると、今度は白人が迫害に遭う。もちろん革命の前と後だってそうだが、言論は同じようなことを言っていても、その時の時勢によって権力側にもなり反体制側にもなるのだ。

2008-05-03 分かりやすい話

(削除)

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「これから出る本」の五月下期号に黒田龍之助が随筆を書いていた。「ボクには早い『カラマーゾフ』」という題で、たぶん明大理工学部時代の教え子の青年が、『カラマーゾフの兄弟』を読んで(ただし亀さま訳にあらず)「ボクにはまだ早いかな」と言ってきたという。黒田は、ロシア文学にはドストだけじゃなくて面白い作品がたくさんあるよ、と書いている。その通りだ。さては黒田氏もドスト嫌いか? と嬉しくなった。大学を辞めたあたりも好感をもつ。

2008-05-02 無題

(削除)

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『国文学解釈と鑑賞』の五月号が「源氏物語」特集だったので買ったら、青短教授の小林正明の文章が二つも載っていた。この小林なる者、詩的なつもりでもあろうか、おどろおどろしい文章で左翼的なアジテーションをする、完全に文学研究をプロパガンダと心得ている困った奴である。しかも今回は、河添房江先生の言葉を引用して批判しながら、それが誰のものか書いていない。こういうやり方は卑怯千万である。しかも小林は、天皇制に反対しているわけではないと言う。ではいったい君は何がしたいのだ小林よ。もうまるで二十年くらい前の党派的左翼の悪文そのもので、こんな奴に二本も書かせる編集部の見識を疑う。しかも死人に口なしをいいことに盛んに三谷邦明を持ち出しているが、晩年の三谷はまるっきりボケていた。私は物語研究会で目撃したのだが、いきなり「最近の研究では欲望というのは他者の欲望の模倣だというが」などと言う。冗談ではない。30年も前のジラールの得体の知れない一般論を持ち出して何を言っているのかと呆れ返ったものだ。わけの分からぬ左翼活動がしたいなら、文学研究など廃業するべきである。

 (小谷野敦

 mailinglistくんにはメールを送ったのに返事もよこさずに私のことに触れている。けしくりからん。

 「真に恐ろしい目」は殺人だけではないよ。まあ酒乱の渡辺秀樹とか、飲酒運転の前歴があるヨコタ村上とかを牢屋に放り込んでくれるならそれはありがたいがね。いじめっ子とかもね。そういう基準で拘禁していたら、国民の五割くらいが拘禁されてしまうわけだが、それをどうやって管理するのだろう。そういう意味で言ったら、世の中悪人の方が多いに決まっているではないか。

2008-05-01 田中貴子の「氏」の基準

 『一冊の本』に連載している田中貴子の文章を読んでいると、やたらと人名に「氏」がついている。「笹川種郎氏」「芳賀幸四郎氏」「原勝郎氏」「サイデンステッカー氏」などである。いずれも物故者である。しかし「小林秀雄」「唐木順三」は呼び捨てである。有名人だから? じゃあサイデンステッカーは無名人なのか? 笹川臨風(種郎)など小林よりひと世代も上の物故者でしかも結構有名なのに氏つけなら、何が基準なのか。「学者」なら「氏」づけということらしい。田中が「学者主義者」であるのは何となく知っていたが、何か空恐ろしい気がするのである。

(付記)

ここで説明しているが、

http://blog.goo.ne.jp/ayakashi1154/e/eb7122f13f521b5a6f11bc6c2cd67021

 笹川臨風が人口に膾炙していないなら、三条西実隆だって膾炙していないから「三条西氏」になるのだろうか。村田春海は「村田氏」になるのだろうか。何にせよ、とうの昔に死んだ人に「氏」をつけるのは気持ちが悪い。

 それに、今回はポカも多い。足利義政が屈折した人物だというイメージが大河ドラマ『花の乱』などで国民的イメージとなった、とあるが、『花の乱』は大河史上最低の視聴率だったので、国民は足利義政のことなんか知らないのではないかな。

 もう一つ、古代ギリシャ・ローマ文化は中世には忘れられていて、ルネサンス期にイスラームから逆輸入されたとある。村上陽一郎がそう書いているらしく、私もむかし村上に教わって以来長くそう信じていたが、実は間違い。クルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン的中世』を来週までに読んでくること。アリストテレスが中世神学の柱だったことも常識である。ただ私も、プラトンは知られていなかった、と思ったが、これもネオ・プラトニストによって伝えられているから、中世は古典文化を忘れていたというのは、ギリシャ劇とか、プラトンの原典およびソクラテスに限定された話でしかない。何しろ田中さんは昔、『性愛の日本中世』で、ジュディス・バトラーを省略するのに、「ジュディス、B」とやった人で、西洋のことになると馬脚を現す。アニェス・bじゃあるまいし。