画 家
熊田 千佳慕
【くまだ ちかぼ】
PROFILE

1911年、横浜市中区住吉町の医師の家に生まれる。
1934年、東京美術学校(東京芸大)卒業後、写真家の土門拳らと「日本工房」でデザインの仕事をする。
1945年、横浜大空襲で被災後、絵本作家として再出発。
1981年、70歳のとき、『ファーブル昆虫記』を描いた作品がイタリア・ボローニャ国際絵本原画展に入選。
1989年、小学館絵本賞受賞。
1990年、横浜文化賞受賞。
1996年、神奈川県文化賞受賞。
ライフワークの絵本シリーズ『ファーブル昆虫記の虫たち』(小学館)の5巻目を制作中。





今年おいくつになられましたか。
 7月21日で94歳です。明治44年生まれ。

お元気そうですね。
 毎朝レモンパックやってますんで。絞って、顔にパンパンッて、その日の気合いを入れる。

ほおーっ。でも、ご幼少のころはあまり丈夫ではなかったそうですね。

 ええ、いわゆる虚弱児ですね。でも、今、5人いた兄弟は亡くなって、10歳まで生きるかと言われた僕1人だけ残ってる。
 小さいころは外に行けないからしょっちゅう庭で遊んでました。出てくるのは虫でしょ、すっと友達になっちゃう。幼稚園の園庭に藤がたくさん咲いていて、クマンバチが来る。その黄色がきれいで触りたくてしょうがなかった。ぴょんぴょん跳び上がって、思いを達したら、ずっと見てらした園長先生は「良くやったね」って。クマンバチに触ったときピッと感じたのは、生命でしょうね。それから虫がいとおしくて、どんどん虫の世界に入っていっちゃう。


昆虫学者になろうとは思われなかったのですか?
 ええ、僕は虫屋さんでも学者でもなくて、ただ、虫の友達なんです。死体をピンで留めてるの嫌いなんですよ。
 虫の世界を寝転がって見たのは、中学5年のとき。軍事教練で富士の裾野で戦争のまねやるんです。寝撃ちで撃ちまして「突撃!」と言われると銃に剣をくっつけてワアーッて行くんですね。僕、撃つの嫌いだから、弾は友達にやっちゃって寝っころがってたんです(笑)。そうしたらね、草むらでしょ、上から草が被さってて、下から見るとジャングルなんですよ。秋だったものでコオロギなんか出てくる。ああ、これが虫の世界だなあと思って。うれしくなっちゃって。見てたら、みんな行って静かになっちゃった。これでは怒られちゃう。考えて、銃を杖にして(よろよろと)芝居しながら行ったんです。「戦争だったら負傷者があるじゃないですか、僕、それやってみたんです」って、かえって褒められちゃって(笑)。

出征もされたのですか。
 ソビエトが参戦して根こそぎ動員されたんです。僕は電信隊で、兵隊の中では食べ物もいいし、いいとこ来たと思ったら、機械を馬に乗せて引っ張る役。これには参っちゃった。糞掃除に志願したら、手でやれっていうから爪が真っ黄色になっちゃう。餌の役ならいいかと志願して、飼い葉を担いだりする。そんなの持ったことないですから〈向こうに軍医さんが見えた、しめた〉と思って倒れちゃった。軍医さんは看病してくれて「お前、筆より重いもの持ったことないだろ」って、「僕の部屋で解剖の絵を描いてくれ」って。うちは医者だったんで、解剖の絵ならたくさんありましたから(笑)。いい軍医さんでしたね。
 僕が結婚して8日目に横浜大空襲。全部焼かれて丸裸になっちゃいました。

奥様とのなれそめは?
 ははは……。東京で同じ社に行ってました。大空襲があって、ガラス張りの会社でしたけど、バリバリする音が聞こえてほうぼう落っこちてる。いよいよこっち来たときに、翻訳やってるおじいさんと家内を机の下に潜らせて、僕が上から被さってかばうようにしてたの。そんなのが縁で。全部、芝居がかってるんですよ(笑)。
 焼け出されてからここ(三ツ沢町)へ。しばらくデザインの仕事してたんですけど、当時の絵本はひどいんです。こんなの小さい人に見せたら大変だと思ってそっちに行っちゃった。サラリーなんてないですから、すっかり貧乏になっちゃいました。
 家内は一度も不満を言ったことがないですね。ほんとに助かりました。僕の仕事は細かいから、今もここに……。(机上に殿様バッタの絵を広げる)。


うわあ、すごいですね。写真よりすごい。
 1枚描くのに3ヶ月かかるんです。(絵の具を)塗ると言うよりちょっとつけて、筆の先っぽで、こうやって線で描いて行くんです。
  現場では描きません。動いてますから現地でスケッチするなんてできませんよね。寝っころがって遊んでて「あ、いいな」と思った所を頭に焼き付けてくる。今だと老いぼれだから行き倒れと間違えられる(笑)。倒れていると、昔の人はすぐ飛んで来て「どうしたの?」って言いましたけど、今の人は10メートルくらい先で伺ってますね。それを観察してると面白いですよ(笑)。
 80歳になったときまた目が良くなっちゃって、筆先の3本の毛でもって描くようになった。
 この画法の由来があるんです。戦災で全部焼けて、師匠が道具そろえてくれたんですけど、啓示のようなものがありまして「いや、先生、6Bの鉛筆1本でけっこうです。消しゴムは要りません」て。消しゴムがないから下手な線引いたらダメになっちゃう。物をよく見る。見て、見つめて、見極める。「ここだっ」と思ったときに1本の線を引く。今までは無駄な線を描いて、要らないのを消しながら描いていたでしょ。無駄な物を見ていたんですね。
 疎開していた家の縁の下に、古ぼけたコチコチの絵の具があったんです。すごいいい色が出たんで、これも神様からいただいたんだと思って。なくなっちゃうから、筆の先にちょこっとつけては線で描いていった。だんだん上へ重ねていって、ああいう深みのある色に。僕の画法は全部神様からいただいた物ばっかり。売るなんてこんな罰当たりはないと思いまして、絵は未だに1枚も売ったことはないです。


欲しいという方もたくさんおありですよね。
 ありますよ。金に糸目は付けません、とかね。「あなたの糸の太さはどのくらいですか。僕のはこんなに細いんです」って(笑)。何をやっても人間てお金でしょ。僕は葉っぱで買えるようになればいいと(笑)。
 人生の節、節にいい方が出てこられて、助かってましたね。僕は世の中に出たの70歳ですから。ボローニャの展覧会に出版社が出品して(ボローニャ国際絵本原画展入選)、世の中が急に明るくなって、こうやって(取材の)人が来るでしょ。
 僕は、ほんとうに喋れなかったんです。出版社の女の子が来ると真っ赤になっちゃって、帰ると汗びっしょり。パンツの紐までぐっしょりになっちゃう(笑)。引っぱり出されて小学校のPTAの会長になって、運動会でしゃべるとき、1番後ろの女の子が僕の顔見てにっこり笑うんです。そうか、この子に問いかければいいなと思って、それでようやく喋れたんです。だけど、お母さんたちの集まりでもこっち向いて下さる方の顔を見てたら「会長はあの人に気があるんだ」って(笑)。

● では、原画展で入選したときは、喜びよりもむしろ大変でしたか。
 僕は100パーセント喜べないんです。「うれしいな」と思った後で、同じような仕事してて恵まれない人がいる、と思っちゃう。
 1989年、神奈川県立博物館で「J・H・ファーブル展」が開かれたとき、僕の絵も飾って下さったんです。フランスから来た「ファーブル友の会」会長が見てびっくりして、「ファーブルのエスプリとあなたのエスプリは全く同じだ。あなたをプチ・ファーブルと言いましょう」って。ガラスケースに入っていた「ファーブルの帽子をかぶりたいんです」って言ったら、「あなたならいいでしょう」って。帰ってきたときは、もう、うれしくて、足が地面につかなかったですね。絵を褒められるよりもエスプリが同じと言われたんで。


● 「千佳慕」というお名前はプレゼントされたものとか。
 僕の絵本を見て気に入った方が、易をやってらして「千佳慕(千人の佳人に慕われる)をお勧めしたい」って。3月たてば効き目が出て、3年経てば名声高まり前途洋々というご託宣。3月たってもちっともよくない、3年経ってもダメ(笑)。改名されて良くなる方は、易者で暗示かけられて、一生懸命になるから成功されるんですよ。僕みたいにいつか良くなるんじゃないかって、そんなのダメなんですよ。

最後に、レモンパック以外に(笑)健康で心がけておられることはありますか。
 皆さんとお話しできること、(取材の)今日までの間、この日休んだらいけないと思って自分をチェックすることですね。エスカレーターなんて乗ったことなかったんだけど、地下鉄の駅にできまして、乗るときちょっとスマートなかっこうしてね、昼間は人がいないんで一生懸命練習して(笑)。洒落っ気っていうか、そういうものをいつまでも持ち続けることが一番いいんじゃないでしょうか。

そして、野球ですね(笑)。お部屋が阪神グッズばっかり。プロの入団試験を受けたことがおありとか。
 ええ、ドラゴンズが名古屋金鯱(きんこ)軍と言ったころ。でも親父に見つかっちゃった。

50年来のタイガースファンというのは阪神から表彰されちゃう(笑)。
 そう、未だにワクワクしてる。この前の日本一のときは74歳で、もう一度くらい見られるかな。


熊田氏ご自宅にて

インタビュアー/廣岡