2008年06月24日(火曜日)

【HR】 自信作って本当か?

 清々しく晴れた。朝、スバル氏が、出かけよう、と急に言いだす。着替えをして、さあ行こうか、という段階になって、やはりどうも気が進まない。「こんな天気が良い日に出かけるなんてもったいない」と僕は説明した。どうせ出かけるなら雨の日にしよう、と。そういうわけで、スバル氏を駅まで送り、僕は留守番をすることにした。

 留守番をしている間に、小説の仕事。朝方は気温も上がらず、ホットコーヒーを飲みながら仕事をするのに適していた。「D&D」の5編のエッセィのうち3編をそれぞれ、3/4、1/2、1/3だけ書いた。1編ずつ仕上げるよりも、お茶を淹れるように、全体的に少しずつ書く方が僕には適しているように思える。「ZOKUDAM」の2校は指摘箇所のみ確認して、終わり。映画のパンフのゲラが来たのでこれも確認。「スカイ・クロラシリーズ」文庫がまた重版。凄いな。
 昨日の宝島のゲラは、やはりネタばれが酷すぎるので、直す箇所を指摘したところ、すべて取りやめになり、出版社指定の「あらすじ」だけになった。ネタばれで本が売れなくなるなどの被害はないけれど、未来の読者の楽しみを奪う行為であることはまちがいない。

 機関車製作部のレポートは昨夜アップした。また海外からメールが沢山来るだろう。今度はミステリィ制作部の近況を書かなくては(3カ月も書いていない)。いろいろ細かい仕事がある。
 昼寝をしたあと、工作室でピースコンで吹き付け塗装。4両の貨車が完成して、庭で機関車に引かせて遊んでいたら、スバル氏から電話があって、パスカルを乗せて迎えにいってきた。もし一緒に出かけていたら、今頃疲れて頭痛がしていただろう、と思った。良かった家にいて。仕事も工作もできたし。

 自分の書いたもの、自分の作った製品について、「これは素晴らしい」とはなかなか言えないものだ。しかし、「自信作」くらいは謳う場合が多い。特に製品の場合は、「まだ不満があります」なんて言ったら、「ちゃんとしたものを作れ」と消費者から叱られてしまうだろう。
 しかし、素直なところ本心では、たいてい、ちょっとくらいの不満はあるものだ。たとえ完成したときには「完璧だ」と信じていたとしても、次の日には「やっぱりまだまだだな」と思う。もし、そう思わないようなもの凄い自信家は、もの作りには向かないといっても過言ではない。というのは、その不満こそが、次の作品、次の製品への動機になるからだ。
 趣味で作っているものでも、また仕事で作るものでも、ある程度は期限というものがある。一生かかって作り上げる、なんてことはないわけで、どこかで手離れをしなければならない。満足度はバイオリズムのように刻々と変化しているが、ちょうど高い満足度の時点で、「これで完成!」となれば幸せである。けれど、仕事ではそれは望めない。強制的に時間切れになることがほとんどだ。
 「やり遂げた」「終わった」という感情と、「出来が完璧だ」という自己評価は、別のベクトルのものである。それでも、商品になるものを「不満の残る作品です」「できればすぐにでも作り直したい」などとはプロならば言えない。「まあ、こんなものでしょう」くらいがせいぜいだ。それが普通というか、本当だと思う。もちろん、そうはいっても、作り上げたばかりの作品に絶大な自信はある。おそらく、「不満は残るものの、価値は充分にあるはずだ」という楽観的な評価だろう。これは、「自分にとって価値のあるものは、他人にも価値があるはずだ」という芸術家の楽観的観測と類似している。つまり、完成時は、誰でも芸術家に近づけるのだ。
 職人気質の人は、たいていの場合、ユーザよりもはるかに理想が高い。この理想が高いことが、商品の品質を上げるかどうかは、まったく別の問題だし、また、ユーザがそれほど高品質のものを望んでいるケースも、実は非常に稀である。

 スバル氏を迎えにいって帰ってきたら、パスカルがホビィ・ルームへ入っていき、お座りをする。そしてなにかをじっと見上げている。棚の上に、なんと、ジャーキィがあった。どうしてパスカルはそれを知っていたのだろう? スバル氏が、「駄目じゃないの!」とパスカルを叱る。もしかして、これは内部告発か……。(つづく)

【国語】 「ない」にときどきつく「さ」

 「ある」の反対は「ない」と辞書に書いてあった。こんなことは当たり前だという気もするけれど、ちょっとひっかかることがある。「ある」は動詞だが、「ない」は形容詞なのだ。
 動詞と形容詞の違いがあるため、後ろにつくものが異なる。「あります」はあるが「ないます」はない。そう、「ありません」である。また、「ないです」はいえるが、「あるです」はおかしい。「あるのです」が正しい。
 同じように使える場合もある。「あるらしい」と「ないらしい」、「あるみたい」と「ないみたい」、「あるようだ」と「ないようだ」はOKだ。「あるそうだ」と「ないそうだ」もいける。これらは、「あった」「なかった」と過去形になっても同様である。
 ところが、「あるそうだ」ではなく、「ありそうだ」という言葉があって、これに対応する否定は「なさそうだ」だと思われるが、この「なさ」の「さ」は何だろうか? どこから来たのだろう? 同様に、「ありすぎる」の反対は「なさすぎる」で、やはり、「ない」が「なさ」になっている。普通、「重い」が「重そうだ」になるように、形容詞は「い」が取れて「そうだ」がつく。「重すぎる」もそうである。だったら、「なそうだ」「なすぎる」となるのがルールに準拠しているように素人目には見える。うーん、例外だろうか。そう思って少し考えると、「良い」も「良さそうだ」になる。でも、「良さすぎる」にはならず、「良すぎる」だ。法則性が今ひとつ見出せない。
 動詞を否定する「ない」の場合も微妙である。たとえば、「あの車は走らなさそうだ」なのか「走らなそうだ」だろうか。どちらも会話では聞く。「君は少しものを言わなすぎる」だろうか「言わなさすぎる」だろうか? これも「さ」があるものとないものと、両方耳にする。それに、「さ」があってもなくても、意味は変わらないように思える。
 この頃の会話では、「そうだ」の「だ」がなく、「美味しそう」が多いし、「すぎる」も「る」がなく、「美味しすぎ」になる。これの否定は、やはり(よく耳にする)「美味しくなそう」「美味しくなすぎ」ではなく、「さ」が入って「美味しくなさそう」「美味しくなさすぎ」だと思う。では、「情けない」の場合は、「情けなすぎ」か、それとも「情けなさすぎ」か、どちら?

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