奈良・唐招提寺金堂の本尊の左側に侍す梵天(ぼんてん)立像は、大きな目鼻立ちと量感あふれる立ち姿で知られる国宝の仏像だ。だがもう一つ、この仏像を有名にしているのは台座の見えないところに描かれた「落書き」だという▲墨で描かれたカエル、ウマ、ウサギなどのほか、ちょっと文字にするのははばかられるような絵まで、どうやらこの像を作った人の手になるものらしい。こうした工人の落書きは、法隆寺金堂や五重塔の天井などで見つかったものも有名だ▲梵天立像は鑑真と共に来日した仏師の作ではないかともいう。世界遺産への落書きといっても、これくらい由緒正しく年季が入れば、それ自体が文化遺産となる。だが、普通は何年たとうと文化財損壊以外の何物でもないのが落書きである▲奈良の文化財と同じく歴史地区として世界遺産になっているイタリア・フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂への岐阜の女子短大生の落書きはむろん後者だ。壁にフェルトペンで名前や学校名も書いていたから、モノも恥も知らないというのは恐ろしいことだ▲学生は短大の厳重注意を受け、教会に謝罪の手紙を出したという。先方は「謝罪すれば賠償不要」とのことだったが、状況次第では多額の損害賠償を伴う重大犯罪だ。教会の寛大な言葉に、同じ日本人として顔から火の出そうな方もいよう▲クマが木をつめで傷つけて、存在を誇示するような行為をマーキング(印づけ)という。人の落書きもこの動物的本能の名残かもしれない。だが天平の仏師はいざしらず、旅先の落書きがその主の愚かさのマーキングにすぎないことは、この際はっきりさせよう。
毎日新聞 2008年6月26日 東京朝刊
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