メソポタミア地方に最古の都市文明を築いたシュメール民族は、突然この地方に都市文明を築いた。かれらは、自らを「黒い頭」と呼び、海からやってきたといっていた。イラクの高原からやってきたという説もある。それ以上はさかのぼることはできない。
ここから話は飛躍する。
高楠順次郎は仏典の研究から、メソポタミアのシュメール民族と、インド文明を築いたアーリア民族、あるいはポリネシア、メラネシア、マレーシアのマライ族、インドネシア太平洋海洋民族のルーツはただ一つ、中央アジアのコンロンの大平原のコタン文明を築いたシュメール族にあるとした。
また、釈迦の出自も「世界最の知識民族であったシュメール族」王家の子孫であるとした。先祖に須彌(スメル)王が居たとして、仏典「仏本行集経」から系図も示している。
また、伊勢などにつたわる「蘇民将来之子孫也」の護符をもたらしたのは、弓月の君に率いられてコタンから日本に移住した秦氏で、蘇民はシュメールのことであるとのことである。つまり、シュメール民族の流れは、秦氏として日本にも移住してきているとの説を唱えている。最近でも高楠順次郎の説を、岩田明、太田龍、中丸薫などのシュメール民族中央アジア起源説の根拠としているようである。
高楠順次郎など説にしたがえば、中央アジアのコンロン山脈の麓であるホータンのあたりにいた世界最高の知識民族であったシュメール民族は、人口増加、天変地異や気候変動をうけて、各地に移住して文明を起こしていった。西にいってシュメール人となりメソポタミア文明を起こした。南下して、アーリア民族としてインド文明を起こした。また、海洋民族として東南アジアからポリネシア、ミクロネシアの海洋文明をおこした。
岩田明は、メソポタミアのシュメールの粘土板の船の設計図から、古代シュメールの葦の舟の復元をおこない、日本への旅を試みている。シュメール人は自らの国を「ギエンギ(葦の主の地)」と呼んでおり、古代日本の「豊葦原瑞穂の国」に通じる。また、言語が、膠着語といって、日本語の語順とシュメール語の語順がにていること。道祖神など類似の風習があることなどにヒントを得て、古代シュメール人が日本に来ているということを証明しようとしたのである。この航海は、目的地である東京到着目前の沖縄の久米島での難破でおわったが、十分古代シュメール船で日本までの航海が可能であることを証明した。
中丸薫によれば、中央アジアのタリム盆地がシュメール民族の故郷であり、「ノアの洪水」物語は、氷河期が終了し地球規模での気温が上昇した折に、天山山脈の氷河が溶けて大洪水になったことが、シュメール民族の移動にともなってメソポタミアに伝えられたものであるという。
縄文時代の謎の絵文字にペトログラフというのがある。有名なのは、壇ノ浦で滅びた平家の最後の根拠地であった彦島(下関市)や、広島の厳島神社の森のペトログラフである。このペトログラフとシュメールの絵文字と一致するという。平家は日宋貿易で巨万の富を得て天下に覇を唱えた。平家のDNAに海洋のシュメール民族の血がながれているのか。
いずれにしても、古代は現在想像している以上に交通がさかんであったことはまちがいないであろう。海のシルク=ロード、中央アジアを経由するオアシスをつなぐシルク=ロード、遊牧民族による草原を通る「草原の道」をつうじて、4大文明に時代から、あるいはもっと古くからつながっていた。
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