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12.シュメール民族の謎
   メソポタミア地方に最古の都市文明を築いたシュメール民族は、突然この地方に都市文明を築いた。かれらは、自らを「黒い頭」と呼び、海からやってきたといっていた。イラクの高原からやってきたという説もある。それ以上はさかのぼることはできない。
  ここから話は飛躍する。
  高楠順次郎は仏典の研究から、メソポタミアのシュメール民族と、インド文明を築いたアーリア民族、あるいはポリネシア、メラネシア、マレーシアのマライ族、インドネシア太平洋海洋民族のルーツはただ一つ、中央アジアのコンロンの大平原のコタン文明を築いたシュメール族にあるとした。
  また、釈迦の出自も「世界最の知識民族であったシュメール族」王家の子孫であるとした。先祖に須彌(スメル)王が居たとして、仏典「仏本行集経」から系図も示している。
  また、伊勢などにつたわる「蘇民将来之子孫也」の護符をもたらしたのは、弓月の君に率いられてコタンから日本に移住した秦氏で、蘇民はシュメールのことであるとのことである。つまり、シュメール民族の流れは、秦氏として日本にも移住してきているとの説を唱えている。最近でも高楠順次郎の説を、岩田明、太田龍、中丸薫などのシュメール民族中央アジア起源説の根拠としているようである。

  高楠順次郎など説にしたがえば、中央アジアのコンロン山脈の麓であるホータンのあたりにいた世界最高の知識民族であったシュメール民族は、人口増加、天変地異や気候変動をうけて、各地に移住して文明を起こしていった。西にいってシュメール人となりメソポタミア文明を起こした。南下して、アーリア民族としてインド文明を起こした。また、海洋民族として東南アジアからポリネシア、ミクロネシアの海洋文明をおこした。
  岩田明は、メソポタミアのシュメールの粘土板の船の設計図から、古代シュメールの葦の舟の復元をおこない、日本への旅を試みている。シュメール人は自らの国を「ギエンギ(葦の主の地)」と呼んでおり、古代日本の「豊葦原瑞穂の国」に通じる。また、言語が、膠着語といって、日本語の語順とシュメール語の語順がにていること。道祖神など類似の風習があることなどにヒントを得て、古代シュメール人が日本に来ているということを証明しようとしたのである。この航海は、目的地である東京到着目前の沖縄の久米島での難破でおわったが、十分古代シュメール船で日本までの航海が可能であることを証明した。
  中丸薫によれば、中央アジアのタリム盆地がシュメール民族の故郷であり、「ノアの洪水」物語は、氷河期が終了し地球規模での気温が上昇した折に、天山山脈の氷河が溶けて大洪水になったことが、シュメール民族の移動にともなってメソポタミアに伝えられたものであるという。
  縄文時代の謎の絵文字にペトログラフというのがある。有名なのは、壇ノ浦で滅びた平家の最後の根拠地であった彦島(下関市)や、広島の厳島神社の森のペトログラフである。このペトログラフとシュメールの絵文字と一致するという。平家は日宋貿易で巨万の富を得て天下に覇を唱えた。平家のDNAに海洋のシュメール民族の血がながれているのか。
  いずれにしても、古代は現在想像している以上に交通がさかんであったことはまちがいないであろう。海のシルク=ロード、中央アジアを経由するオアシスをつなぐシルク=ロード、遊牧民族による草原を通る「草原の道」をつうじて、4大文明に時代から、あるいはもっと古くからつながっていた。

「知識民族としてのスメル族」 高楠順次郎著(教典出版社 昭和19年)
一 スメル《=シュメール》民族の発祥地
(四)スメル族集散の基地
 斯る広大なる文化圏に連関し、多大なる言語群に関係する根本のスメル民族は抑も何れより発祥せしか、何人も未だ嘗てその考定を敢てしたものはないのである。
 世界の民族移動史に於て、民族集散の拠点たる地は主として中央亜細亜である。
中亜《=中央アジア》は今は広大なる沙漠となって居るが、
スメル族の移動は必然に新疆が沙漠化せざる以前であらねばならぬ。
 その沙漠化以後に於ても、秦の始皇帝もここに出て、魏の拓跋氏もここに出て、
欧亜(ヨーロッパアジア)の海峡まで歩武(ほぶ)を進めた突厥族《トルコ民族》も、
独澳(ドイツ・オーストリア)の間に介在し今尚存在を全うせる匈奴族《ハンガリー民族》も、
印度を押領した貴霜(クシャナ)月氏も、何れも中亜を根拠地としないものはないのである。
 殊に大沙漠の南部タクラマカン砂漠に存するセリンディヤ〔絹の印度〕はコタンの故地であって、
現地発掘の示す如く、灌漑の規模も広く且深く、水田耕作は盛んに行われて居った。
 殊に桑蚕業、紡織業は以て特色となし、東、支那《中国のこと》を貫き、
西、バビロンに通ずる「絹の通路(シルクロード)」の中心たる都市であって、六城の重鎮とされた大都城である。
これが太古の豁且(クワタン)で今日の和闐(ホータン(和田))である。
 日本に伝ふる蘇民将来の伝説に伴ふ巨丹将来の巨丹(コタン)で、
仏教の于闐(ウテン)である。今は単にコタンと書き習はしたい。(6~7頁)

 首都の外郭西南に牛頭山(ゴーシュリンガ)と名くる小山は、三蔵法師が精しく記載して居る如く、昔より聖地とされて居る。
 今は回教《イスラム教》の「象牙の御殿」となって居るが、ここにコーマル(牛頭窟)と名くる美はしい大石窟がある。
これは朝鮮の曽尸茂梨(牛頭里/ソシモリ)と類比すべきものである。
 中亜の首都というべきコタンは、世界の絹の原産地として、絹布や絹綿の名を、東西倶にコタンの古名より取り、
 スメル語カタ、欧語(ヨーロッパ言語)カタン、コトン、阿刺比亜語(アラビア語)ケタン、日本語ハタとなり、広く古名が残されて居る。(8頁~9頁)

(七)印度釈迦族の世系
 斯く優秀性を有つ民族であるから、
仏は年に一度この国土《スメル民族発祥地のこと》に遊履せられたと伝えて居る。
 この伝説に相応しく、釈迦如来は全くスメル系クル族の裔である。
仏の頭髪が螺旋を為して捲き、胸にバビロンに特有なる卍を印し、小亜細亜から印度、豪州までに関係ありと覚しき転輪王救世主の思想を掲示せる点よりして、
釈尊がスメル族の出爾であることは殆ど疑ひなしと謂ふべきである。その世系を主として仏本行集経より拠って見ると左の如くである。

  衆所許大転輪王―二十七世―大須彌(スメル)小転輪王―…(略)…―甘庶王―…拘盧王…悉達多太子(釈尊)

(14頁~15頁)

(九)結論
   スメル族の根本的発祥地は上示の如く、スメル天宮の北陰を繞(めぐ)るスメル=クル〔崑崙(コンロン)〕大高原である。
最古く最遠く進出したのは小亜細亜のバビロンのスメル族である。(西紀元前四五千年の間))、
 次に印度の西疆〔アパランダ〕に進出したのはスメル系バラタ族、スメル月氏系プル族である(西紀元前三千年)。
次にスメル系山上の崑崙族の陸に降りしものは日氏系甘蔗氏のクル釈迦族である(西紀元前一千年)。
地上の崑崙族としては、その史蹟は十分ではないがムンダ族がある。中印度と北印度に偏布して居る。
 地底の崑崙族としては、慥(たしか)に印度から南洋に移住した形跡の明らかなるものはインドネシャ族で
西起原前二百年頃から唐代にかけて盛んに移住して、印度馬来(マライ)文明を造った民族である。
 この外にスメル系馬来(マライ)族として文化性を発揮した崑崙族、即ち海の崑崙族がある。
 これに太平洋全面に亘る民族、
即ちポリネシャ(布哇(フィリピン)からサモアに至る全群島)ミクロネシャ(日本委任統治の諸島(昭和十九年当時))と
オーストララシャ(オーストラシア)、メラネシヤと
一切の太平洋スメル語群を合わせて海の崑崙族を代表せしめたい。
 これでスメル系全民族を挙示し、その発祥地を明らかにし、
その文化、その言語に於て関係せる全面を示したわけである。(20頁)

補篇
 
伊勢神宮(内宮)の参道に見られる「蘇民将来子孫家」のしめ縄。ユダヤの過越の祭の故事が思い起こされる「門」の字が見られる。

 巨丹将来は蘇民将来の護符に伴へる伝説に見ゆる名である。護符のことは丹後風土記にありしを釈日本紀に引用して今に存して居る。要領を示せば、ある旅行者(牛頭大王)旅に労れ、巨丹将来(コタン王)の家に到り宿を請ふ。許さず。依て蘇民将来(スメル王)の家に到る。
 歓待供給宜しきを得、そのサガラ(印度川流域名)に向かって去らんとするに臨み、「蘇民将来の子孫は永遠に護る」と云ひ去る。
 依て地方民、護符を作り、之に「蘇民将来之子孫也」と書す。
 信州上田国分寺に於ては木製護符を出す、木を造るもの、字を書くもの、その家定まれりと云ふ。
 佐渡、神戸(天王)、福山、山口、徳島等皆紙製造護符を出す。
 伊勢山田にては祭日には「蘇民将来之子孫宿処也」と家々の門に記すと云ふ。
 蘇民はスメルで巨丹はコタンなることは言ふまでのない。
 これは巨丹の桑蚕業(ようさん)を伝えた弓月君以来秦地の秦氏、西紀二百八十三年(応神帝十四年)以来、長域路を経て百済新羅を経て入朝した。
 欽明帝元年(西紀五百四十年)には秦氏七千五十三戸を日本に分籍せらる。一戸十五人であるから十万以上の秦氏があった。
 分籍の主たる地方は山城盆地(太秦は総本家の居処)、西陣は織場で、江州《近江=滋賀県》百済寺の下に在りし秦氏は売場の主である。
 関東では大秦野、八王子、飯能、桐生、秩父、足利、福島、信州高遠(全部秦氏)などであった。

秦氏の持来したるものと思はるるは、
蘇民将来の護符(一)、
四軍団を遊戯とした将碁(印度のチャトランッギー四軍戯をコタンで作り替へ、玉を以て大将〔将来〕とあって玉金銀を配したものである。印度の元戯は歩兵、車兵、象兵〔角行は象の字を分けたもの〕、馬兵あって玉金銀はなし。)(二)。
折木(かり)四遊戯(カリ戯は木片四個を投ず博羅塞(プラーサカ)〔塞コロ〕の遊びである。万葉に見え、朝鮮にも存す)花かるたの起原たるもの(三)。
双六遊戯(双六はスゴロクで朝鮮語スゴロクと同じである)内識と外境との結ぼれを早く脱したるを可とする仏教遊戯である(四)。
昔から行はるる舞である(五)。

京都・祇園の八坂神社につたわる蘇民将来子孫也の護符。長岡京(784年~794年)からも同様の文字を刻んだ護符が発見されている。八坂神社の摂社「疫神社」の説明書きには、蘇民将来がたすけたのは、スサノオ神であるとされている。
以上の四遊戯と一舞楽は慥(たし)に秦氏の持来したものである。
 スメル族崑崙族に共通なるは水田作業と桑蚕紡織業とであるからこれに因む牛は必然の付属物である。バビロンのスメル族も牛貨州(ゴーダーニ)であり、その美術を見ても牛は多きを占めて居る。
 印度クル族の大戦争も牧牛の奪取を以て開始せらるる。陸のクル族から山の崑崙に族分流したニポール(尼波羅)はグルカ族と自称する。牛護主と云ふ意味である。
 コタンは原語「牛の里」であるとする想定は、当否は別として、その霊地は大石窟ある牛頭山であることは周知の事実である。
その分霊場たる牛頭山は支那にもあるが、朝鮮の曽尸茂梨(ソシモリ)(牛頭里)もそれである。
 日本に祭らるる牛頭天王(祇園の鎮守)もその類である。
その起原も矢張り秦氏の大移住に負ふ所が多いのであらう。
 秦氏の総本家は京都郊外の太秦(うずまさ)に在る。これは秦河勝の邸(今の広隆寺)の在る処である。
うづくしまさしき正系の秦と云ふことに相違ない。
 日本紀の註のやうに、織布が堆だかく積んであるから名けたと云ふのは俗説語原に外ならぬ。
これを後の唐代の太秦(ローマ)に結付けんとする説は時代錯誤である。
 太秦の広隆寺にも牛の祭が行はれ、時に蚕の神も祀られたことが知られてゐる。
牛頭大王も祇園としては王舎城の法道和尚の輸入であるが、牛頭大王としては已に早く秦氏に依て移入されて居たに相違ない。(82頁~85頁)

第36話 シュメール民族の謎  平成19年08月08日up