上野原遺跡 発見
46戸、最古級の「ムラ」 9500年前の大規模集落
鹿児島県立埋蔵文化財センターは、同県国分市川内の「上野原遺跡」で、縄文時代早期前葉(約9千5百年前)のものと推定される46戸の集落跡が出土した、と発表した。約7百戸で国内最大級の縄文集落と言われる「三内丸山遺跡」(青森市)より規模は小さいが、時代としては約4千年さかのぼるもので、センターは「定住が始まった同時代の集落としては最大規模で、最古級」としている。
南九州の“先進性”裏付け?
見つかったのは、地面を約15センチ掘り下げた方形の穴と柱穴が残る竪穴(たてあな)住居跡のほか、焼き石を積み重ねて調理したとされる集石遺構39基、2つの穴をつなぎ、薫製肉を作ったと見られる連穴土壙(どこう)15基、食糧貯蔵や墓、ごみ捨て用とされる土壙125基、道の跡2本など。約500点の土器や石器も出土した。
遺跡を覆う桜島の火山灰を「炭素同位法C14」で測定、年代を推定した。また、住居跡の火山灰の覆われ方に違いがあることなどから、一時期に建っていたのは最大時で13戸で、数世代が200−300年にわたって定住したものと見られる。
南九州では他にも縄文時代早期(約9千年前から6千年前)の遺跡が数多く出土しており、縄文文化の先進地だったとの見方が有力だが、上野原遺跡は同時代の前原遺跡A、B(鹿児島県松元町)の各12戸、加栗山遺跡(鹿児島市)の17戸などの規模を大きく上回る。
また加栗山遺跡などからは炉、道、狩猟に使う石鏃(せきぞく)(石の矢じり)、土器、耳飾りなどが見つかっており、当時の豊かな文化を想像させるが、上野原遺跡では貯蔵穴や墓など生活に密接する施設が見つかり、整ったムラを構成していた様子がうかがえるのが特徴。
同センターでは同遺跡が、全国に先駆けて長期的に安定した定住を確立させたことを示す貴重な発見、としている。
遺跡発掘地は県が工業団地造成を進めている上野原テクノパーク内で、県は遺跡公園などの形で保存を検討したいという。
小林達雄国学院大学教授(考古学)の話
「南九州は縄文草創期から全国をリードしていたが、上野原遺跡はその典型。同一時期にあったのは数戸程度の小さな集落だったろうが、生活に密接な施設が整っている集落跡としては最古級といえる」
(1997年05月26日)
縄文集落、100年以上存続 同一時期には数戸規模
縄文早期前葉(約9千5百年前)としては最古級で最大の集落跡が、火山灰に埋もれて見つかった鹿児島県国分市の上野原遺跡。同一時期にあったのは、せいぜい数戸程度の集落とみられ、500人が定住していたとの説もある4千年後の青森市・三内丸山遺跡には及ばないが、賀川光夫別府大名誉教授(考古学)は「縄文人の暮らしがとてもよくイメージできる」と話す。桜島を見ながら、縄文人たちは、どのような生活を送っていたのか――。
縄文人は毎日がキャンプのような生活だったと賀川名誉教授は考える。「調理も食事も住居の外。狭い住居では寝るだけ。炉が屋外にあり、生活のほとんどは屋外だった」と言う。食にかかわる出土品は、石皿とすり石。南九州の縄文土器を研究している同県考古学会の河口貞徳会長は、当時の植生から「クヌギ、アベマキ、カシワ、ナラカシワなど木の実を粉末にしてかゆ状にしたり、ヤマイモをつなぎにクッキーのように焼いたりして食べたのでは」と想像する。
土壌分析をしていないため、連穴土壙(どこう)が薫製用炉とは断定できない。しかし、同県加世田市の栫(かこい)ノ原遺跡(約1万1千年前)で見つかった連穴土壙ではイノシシの脂肪を検出、薫製を裏付けた形で、発掘に当たった県立埋蔵文化財センターの新東晃一調査課長補佐は「上野原でもイノシシやシカ肉を保存用に薫製していただろう」と見る。
縄文時代につきものの貝塚は見つかっていないが、土器には貝殻文様が施されていた。新東課長補佐は「海が近かったので、身だけ取って貝殻は海岸に捨てたのでは」と推定する。
小林達雄国学院大教授は「10戸以上もあるような大きな集落ではなかったと思う」と話す。また、存続期間について、小林教授は「少なくとも百年以上だが、時には場所を移って、環境が回復するのを待ったこともあっただろう」とみている。
(1997年05月26日)