大野氏はどうも根源的な問題に決着をつけたようである。古代日本に居た神々の故郷を明らかにしたのである。それは南インド・ドラヴィータ系・タミルの地であった。カミ・モノ・ハラエなどの古い祭祀の語源や内容が、古代日本語と古代タミル語でほぼ同じなのである。従来、基本的生活用語や稲作が近いことを岩波新書で書いていたが、宗教につてもこの本でコンパクトにまとめてある。この本を4年間も知らなかったとは何ってこった!
日本の神の古形は kamu(歌牟)であった。これが万葉集では kami'(伽未、柯微、可尾、可味)として出てくる。(a)雷、(b)猛獣または妖怪、(c)山−を指し、「超人的な威力のあるもの、恐ろしいもの」という意味があった。使われ方からカミの存在を整理すると;
このように 1 から 4 まではアニミズム的であり、5 に至って人間的な要素がある(人格神)。前者のカミは「隠身(かくりみ)」と呼ばれた。
日本語の kamu は古代タミル語の koman に対応する。音韻変化( a <− o )の法則にも合致している。その意味は、(1)超能力を有する支配者・神、(2)王・統治者であった。語幹の ko には、(1)と(2)の他に(3)山・天・雷光・偉人・父の意味もあった。タミル語の(1)神には、katavul という語もあり、「いにしえの世においては、神像は造像されず、今日では芸術と呼ばれているようは信仰動作、つまり幾何学的な造形・歌謡・舞踏といった行為にのみ、神が顕現すると考えられたと思われる。」「古代タミル人にとっては神は人間の形を与えられるかどうかよりも、それが地上に顕現する、その具体的な場所・位置が関心事で、人格化・擬人化の度合いは低かった。カタヴルは顕現の座、あるいは依り代としては、山・森林・特定の樹木や植物を好み、夜間に彷徨し、類い稀な力をみなぎらせ、人に恐怖を覚えさせ苛む」(河野亮仙)のであった。これは古代日本の隠身そのものである。
このように日本語の kamu とタミル語の koman は言語的にも意味的にも対応関係がある。ただ、タミル人が koman と共にその概念を持ち込んだのか、古代日本にあったカミの概念に koman - kamu の呼び名を付けたのかは今のところ分からない。
モノ(物、鬼)はどうか。古代日本語では mo"n-o" である。姿は見えないが祟りをして邪悪な力を相手に及ぼす存在である。古代タミル語では mun-i と言う。此の世に恨みを残して死んだ人、殊に自殺者が mun-i になった。いつも喉が渇いていて長い間死なない。それは墓場とか木の上などにいて人に取り付き、人の血を吸う。女が mun-i になることが多いとも言う。激しい恋心が痛みをもたらし、男の不誠実さへの恨みが深くなって、mun-i になるのである。
<モノを恐れ、それを鎮めなくてはならない>という観念は、日本には道教の輸入によって初めて広まったとされるが、道教などより前に、南インドの mun-i に対する恐れの慣習が、そのまま弥生時代に日本に輸入されたと見るべきであろうと大野氏は言う。
他にも対応関係がある宗教上の言葉が見られる。
面白いのがハラヘ(祓)である。養老律令の大祓には、中臣氏が大祓の祝詞を読み卜部氏が祓いの所作をするとある。その祝詞の中に、なぜ大祓が効くのかが解説してある。すなわち、風が霧を吹き祓うように天の神と地の神が罪を吹き払う。その罪は様々の神の手を経て(途中省略)、最後に速さすらひ女という地底の神が罪を持ちさすらい歩いて失くしてしまう。こうして天下の罪が消滅する−と言うのである。要するに、合法的に見えなくし最後にウヤムヤになる−というメカニズムである。古来に定められた大祓の原理は、今も政官や会社の中にありそうだが、幼子に「痛いの、痛いの、飛んでけぇ」と言うと効果があることの共通原理を見つけたようにも思う。とは言え、タミル語とは意味が少しずれてきたか。
霊(fi)の例として、産霊(むすび)・速日(はやひ)・禍津日(まがつひ、悪事をなす活力)・大直[田比](おおなおひ、悪を正す力)などである。音(fi)は奈良時代には「日」と同じであり用字も混乱していた。その「日」の意味は昼( firu )であった。これは古代タミル語では velu(夜が明ける)と対応する。
このように古代における宗教観念を表す言葉のセットがよく対応する。先に書いたように稲作や生活の基本用語セットの対応関係もある。この言語上の対応から次の推定をする。縄文時代末に古代の南インドに由来する民が渡来して、稲作や宗教観をもたらした。これが日本中に広まり、弥生文化の始まりとなったのではないか。その後、朝鮮からの渡来人が漢字を持ち込み古墳時代が始まるのである−と。
ケノ的に一言。ズッと前に半分冗談で「日本はシュメレンクル(閤明族)」だと書いた。「神は kaminaranfi だ」という本も引いた(ハズレだ)。その時も、海からの民は古代日本の文化に彩りを加える程度の規模であったろうと想像していた。それは隼人や越(騎馬系に征服される前の)であったと推定するが、弥生文化の中心ではなかった−と。従来、一部南方からもあるが、主として長江から直接又は南朝鮮経由で稲作が日本列島にもたらされたと考えられている。一方、大野氏は、弥生時代の幕開けの人々は古代の南インドに由来する民だと言う。弥生文化の本流と言うことになる。大野説は従来説とブツカる。では、考古学はこれに決着をつけているのだろうか? 言語・物・人のそれぞれ関係はどうなっているのか? …というように、ケノの頭の中はグチャグチャになってきた。それだけ、この本はガツンと来るということだ。
この本には、コンパクトな神道史も書かれている(第2章から第5章)。Kamu がどのように習合し薄められたかの歴史である。「あとがき」にあるようにカミ・ホトケ・God を猛烈に学んで「門外漢」が書いたわけだが、それが逆に働き、もっと素人の我々にはスッキリした見通しを与える。ケノの好みからすると、第1章と第6章を先に読んで古代日本のカミの源流を知ってインパクトを受けたあと、そのカミの変容ぶりを見るのが分かり易いように感じる。くりかえすが、神の源流が古代の南インドにあったというのはスゴイ発見なのだ。この頁を読んだ人は、e-hon bk-1 amazon をクリックしてはどうか。ちなみに、同じ内容で新潮文庫から『日本の神』もでている。
[#167: 04.09.01]