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目次
(1) 縄文時代の定義
何をもって縄文文化の始まりとするかは、諸説ありますが、通説通り土器の出現を縄文時代の始まりとします。 その上で、竪穴式住居などによる定住化と、煮炊きする土器により、それ以前には食料にすることができなかったものを、食料化することによって、年間を通しての食料の確保が可能になった時代といった視点も加味します。青森市大字三内字丸山の三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期(約5,500年前~4,000年前)の大集落跡です。そこでは、長期間にわたって定住生活が営まれていて、更に栗・瓢箪、牛蒡(ごぼう)、豆等の栽培もしていました。 今から約1万3千年前に最後の氷河期が終わり、その後約1万年前に、温暖な間氷期への過渡期といえる比較的温暖な晩氷期が始まります。 自然環境の変化は、その都度、人類の生存生活に、大きな試練を与えてきました。それに適応しょうとする懸命な努力が、文化発展の画期になりました。日本列島においても、この現象の例外ではありません。この温暖化は大型哺乳類の生息環境の悪化を招き、同時に人類の人口増加による乱獲と相まって大型哺乳類の減少を引き起こし、新たな食糧資源を探す必要性を生じさせました。それ迄の遊動・狩猟活動主体の生業体系に、根本的な変革を迫られます。一方、この温暖化は、木の実を豊富に生産する落葉広葉樹の森を育成することとなり、半ば必然的に植物性食料へと、人々の目を向けさせることとなりました。縄文人の生業活動は、落葉広葉樹林の高い植物性食料の供給力に支えられるようになります。これにより、縄文文化的定住を実現するための基盤が、整っていきます。 縄文文化確立の前提条件としての「縄文的な定住化」が、はるか1万年以上も前、まず九州地方南部で始まったことにもそれが理由です。 当時は、最終氷期の名残で気候は今よりかなり冷涼、極地を被う大陸氷河も厚く、日本列島周辺でも海面が40メートルほど低かったと言われています。それが次第に温暖化していく過程で、日本列島でまず落葉広葉樹林が形成されたのが、低緯度に位置した南九州の地でした。そして、縄文時代前期を頂点とする気候温暖化の進行をなぞるように、縄文時代早期前半には関東地方、近畿地方、そしてそれに続いて東北地方へと、落葉広葉樹林帯が広がり、それにより高緯度地域にも縄文文化的な定住が可能になっていきます。 しかし、後述するように、更なる気候の温暖化は、近畿地方以西の植生を、やがて常緑照葉樹林に置き換えました。堅果(けんか;果皮が木質か革質で堅いブナ・クリ・トチ・コナラなどの果実)
類採集による植物性食料主存型の生業が困難になっていきます。その結果、縄文文化は東日本を主体に発展します。 そんな環境変化の中、木の実などの採集・貯蔵、煮炊き用の容器の必要性から土器が生み出されます。約1万3千年前という時期には青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡から無文土器と、一群の最古となる隆起線文(りゅうきせんもん)土器が出土します。 同時期のものとして、長崎県佐世保市瀬戸越町の泉福寺洞窟遺跡から最古の土器とされる豆粒文(まめつぶもん)土器が、佐世保市吉井町の福井洞窟遺跡からは隆起線文土器が出土しています。この時期、九州北部のいくつかの遺跡では、大陸起源の“細石刃(さいせきじん)”が、土器ともに出土している事実も見逃せません。 縄文文化草創期、九州地方北部と東北地方北部が重要な初源的地域であった、しかし、縄文時代の起源に関しては、未だ、今後、発掘される遺跡によってしか解明されようもない多くの課題が残されています。その上発掘調査は、文化庁をはじめ一部の売名行為の危機に晒されていますが、多くの人々の真摯な根気作業よる、多年の努力の積み重ねによって成果を生むのです。野尻湖の立が鼻遺跡の長年の調査が好例です。なにより重大なのは、発掘調査は一方では、遺跡の破壊でもあるのです。それは、高松塚古墳における文化庁のずさんな調査だけの問題ではありません。
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(2) 大平山元遺跡
青森県の津軽半島の中程に、太宰治の「津軽」にも登場する蟹田町があります。この町の西外れに、旧石器時代(約
16,000年前)から縄文時代草創期(約13,000年前)にかけての大平山元遺跡群があります。それは、東北の縄文文化の幕開けとなる遺跡とみられています。昭和46(1971)年、青森県立郷土館に寄贈された一本の磨製石斧がその発見のきっかけとなりました。刃部のみを磨いた大形な石斧でした。それまでは、中部地方や青森県長者久保遺跡で散見されていた程度でした。この石斧こそ、旧石器時代末期の特徴的な磨製石器でした。 当時、この時期の遺跡に関しては、東北地方ではまだ本格的な調査例がありません。そのため、郷土館は早速に学術調査を開始、その結果、磨製石斧と石製ナイフなどの石器と一緒に、同じ層から新しいタイプの石鏃(ぞく)とともに、予想さえしなかった土器が出土したのです。石製ナイフなどの石器は旧石器時代の物、後者の石鏃
(矢尻)と、土器は縄文を代表する遺物というのが、当時の常識でした。土器片は、文様の全くない親指大がほとんどで、30点ほど出土しました。それは非常に脆く、細片でしたが、無文で隅丸方形の平たい底部をもつ鉢形土器であることが判明、それまで土器の伴わない段階と見られていたこの時代に、既に土器がつくられていたことが、初めて明確になりました。これまで北海道以外の日本列島各地に分布していた、口縁部にみみずばれ状の装飾のある「隆起線文」を持つ縄文草創期の土器とは異なります。むしろ隆起線文付土器に先行する祖源的土器と見られ、同一地層から出土した石器類から旧石器時代末期の土器と認められます。 当時、茨城県後野(うしろの)遺跡から、旧石器時代終末期の大陸起源の石器・細石刃に伴う無文の平底土器が発見されたばかりでした。九州北部が縄文時代の起源で、次第に日本列島を東進したというそれまでの考えに、再考を促された矢先でもありました。 大平山元遺跡から出土した土器は、縄文土器の祖源を示すものであると同時に、土器の起源が、かつて山内清男の主張したように、樺太・北海道経由の北方ルートを通って、遠くシベリアに求められる可能性を再び示すものでもあったのです。しかし大陸側には、今のところ、1万年以上の古さを持つ土器の発見がないのです。 日本最古段階の土器が、津軽半島から出土している事実は、その地で創造したのか、あるいは他の地より伝承したのか、未だ判明しませんが、縄文文化黎明期の東北地方に、それを十分受け入れるだけの文化力が備わっていたことを意味します。異なった時代に属する石器と土器が同時に、しかも同じ地層から出土するというケースはもちろん青森県内では初めてです。ただ、土器を除けば、石器群の構成は青森県東北町の長者久保遺跡から出土したそれと、かなりの共通点をもっていました。 土器を伴わずに、新旧タイプの石器が混在している文化を御子柴(長野県)・長者久保文化と呼びます。それに共通する特徴から「大平山元1遺跡」の問題の土器片は、旧石器から縄文時代に移行する際の「草創期」のものと推定されました。それから25年後、新たな調査に伴って同遺跡から出土した、炭化物が付着した土器(無文)片五個について「放射性炭素C14年代測定法」で、年代測定を行ったところ、何と1万2千―1万3千年前という結果が出ました。 それまで国内で一番古いとされていた隆起線文土器より、さらに古い無文土器の存在が浮上してきたわけです。衝撃はそれだけで終わりません。さらに炭素年代判定の精度を高めるため、今度は「暦年代較正」という新手法を加えて分析したところ、問題の土器片の較正暦年代は、最も古い値で「約1万6千年」前、平均値で「約1万5千年」前、という数値が得られたのです。
縄文時代はざっと5千年ぐらい前というのが、ひところの常識でした。最近は1万2千―1万3千年前が一般的な見方です。較正暦年代はそれをさらに数千年も押し上げるデータです。それは土器の出現時期が旧石器時代、それも最終氷河期の中という可能性が出てきたことを意味しています。 炭素年代と較正暦年代の出現は、大きな宿題を突き付けることになります。いずれにしても、縄文の年代観そのものが再検討されなければならない時期にきていることは間違いないのです。可能性の問題として、縄文時代の起源は1万5千年以前にまでさかのぼれるというわけです。
発掘された土器などの遺物には炭化物が付着しているケースが多いのです。放射性炭素C14年代測定法は、放射壊変の性質を利用して、遺物に含まれるC14の減り具合を調べることで、土器などの炭素年代(BPで表記)を特定するのものです。近年はこれが考古学に導入され、年代判定の分野で効果を上げています。
C14年代は、スタンダードのC14濃度と、試料がCO2の供給を絶たれた時のC14濃度が同じであるということを条件に計算しています。ところが実際には、銀河宇宙線の強度変化、地球磁場の変動、太陽活動の変動、海洋に蓄積された
CO2供給量の変動、化石燃料からのCO2の供給、核実験の影響などにより、それらのC14濃度に違いが生じるため、C14年代と暦年代の間に計測結果の誤差が生じます。厳密に言えば、この炭素年代も実年代とは必ずしも一致しません。
大気中のC14濃度が常に一定でなく、経年変化しているので、その誤差を補正する手法として登場してきたのが「暦年代較正」です。現在では年輪年代測定との照合により、およそ1万年を少し遡る時点まで放射性炭素年代値
(BP) と実際の年代の対応表が作られています。
年代の分かっている木年輪のC14年代測定(約10000yBPまで)、サンゴのC14年代測定とウラントリウム年代の比較(約10000yBPから約19000yBP)により作られた補正曲線が用いられます。年輪年代の及ばない古い年代は、およそ24,000年前までは、サンゴのU/Th(ウラン/トリウム)年代と照合されています。較正された年代値は、calBPで表され、較正年代は、暦年代
(Calendar Age)
とも呼ばれています。しかし、約1万5千年前は較正暦年代(calBP)のことですが、未だ、研究途上の段階であり、信頼性の確立が今後の課題となります。
他方大平山元Ⅱ遺跡は八幡宮境内にあり、地層・石器形態から約16,000年前のモノと見られる数多くの石器類のほか、人々の生活の様子が残されていました。石で囲った炉跡・石蒸し料理に使った焼け石などです。出土した旧石器時代の石器類は、槍先形尖頭器・削器(さっき)・石刃・両面調整石器等です。
大平山元Ⅱ遺跡のこれらの石器類は、遺跡現場付近から採取できる頁岩(けつがん)製で、今日でも境内の地表面から、当時の石器片が顔を出しているといわれています。石器工房跡かもしれません。また、付近から、今でも石器の材料として良好な、頁岩を採取できます。
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(3) 上野原遺跡
鹿児島県国分市上野原遺跡は、南に鹿児島湾や桜島,北に霧島連山を望む、国分市街地より南東約2km、霧島市東部の標高約250mの上野原台地(シラス台地)上にあります。シラス(白砂)とは、南九州の方言で白い砂を意味します。地質学的には鹿児島県を始めとする南九州一帯に厚く堆積している、白色の火山噴出物(細粒の軽石や火山灰など)が集積した地層をいいます。シラスの大部分が約2.5万年前に発生した姶良(あいら)カルデラの大噴火時の入戸(いと)火砕流により形成されました。 常に噴火をくり返す桜島の鹿児島湾北部は、海水に沈んだ日本最大の大噴火のカルデラがあり、姶良カルデラとして知られています。南九州地方には、この姶良カルデラ形成時に噴出した「入戸火砕流」と呼ばれる軽石質の噴出物に覆われています。厚いところでは
10m以上も堆積しており、俗にシラスといわれる台地を形成しています。このシラスこそ「丹沢パミス」とともに「姶良カルデラ」という同じ母体から噴出したものです。噴出物の中で密度の大きい部分が火砕流となって周辺に堆積し、密度の小さいものが、上空の偏西風にのって遠く東北地方まで運ばれ堆積したものです。実にその距離は1,000kmを越す。以上のことから、起源の「姶良カルデラ」と最初に発見された「丹沢パミス
(TnP)」から、「姶良Tn火山灰」通称 AT
と命名されることになりました。 このATは、顕微鏡で見ると、角ばった透明な火山ガラスの破片の集合体です。その粒子の中に含まれる斜方輝石(きせき)
という鉱物の屈折率が1.731~1.733という稀(まれ)な高屈折率を示すところから、各地のATの比較が容易となり、その後の、ATの急速な研究の進展を助けることになりました。 上野原遺跡発見の契機は、テクノポリス構想にともなうハイテク工業団地「国分上野原テクノパーク」の造成工事でした。その造成中に土器片が発見され、それから地道な調査発掘が
10年以上続けられていました。その過程の終盤において、約9,500年前に桜島から噴出降下した火山灰P-13層直下の地層から、上野原台地の北側になりますが、集落と水場とを結ぶ2筋の道路跡に沿った52軒の竪穴住居群を中心に,65基の集石や16基の連穴土坑
(れんけつどこう)などの調理施設をもった集落(ムラ)が発見されました。南九州地域における定住化初期の大集落でした。なお,これらの住居の中には、住居址が重なり合っていることや,埋まり方に違いがみられることから,建てられた時期に差があり,ムラは長期間にわたって営まれていたこともわかりました。 一方、上野原台地南側の最も高い所には、口辺が丸いのと四角2個の原初的な、壺型土器(壺そのものの素朴な形です)が完全な形で埋めてありました。それは、弥生時代によく使われた壷形土器に似た形で,弥生時代よりもさらに約5,000年前の縄文時代早期後葉の時期に使用されていたことが確認されました。縄文時代の壺形土器の出現は、南九州が最初であることが最近明らかになりつつあります。国内最古の壷形土器の一つです。出土の2個の壺形土器は、何かの祭(まつり)に使用されたものと考えられています。 また,その周りには壺型土器や鉢形土器を埋めた11か所の土器埋納遺構と石斧を数本まとめて埋めた石斧埋納遺構が見つかり,さらに,これらを取り囲むように,日常使用した多くの石器や割られた土器などが,置かれた状態で出土しました。 鉢形土器とは、高さに比較して口径が大きい土器を鉢形土器と呼んでいます。上野原遺跡のこの土器は,口の部分と胴の部分の中ほどに穴のあいた把手が付けられていることから,つり下げて使用していたとも考えられています。
これまで「縄文文化の中心地は、東北、中部などの東日本である」との見方がほぼ定説となっていました。上野原遺跡での今回の発見によって縄文文化の起源や、東日本の縄文文化との比較等、様々な再検討課題が浮上いたしました。また、上野原遺跡では、約
7500年前の地層から土偶、耳栓(耳飾り)、壺形土器等も発掘されており、儀式を行う場として確認されています。森の恵みを受け,縄文時代の早い段階から多彩な文化を開花させ、個性豊かな縄文文化が築かれていました。精神的にもかなり高い暮らしが営まれていたようです。
出土した土偶は、子孫の繁栄や豊かな自然の恵みへの願いや感謝をこめてつくられたと考えられています。その土偶は,頭と両腕を三角の突起で表現し,胸には小突起で乳房を表し,横位の細い線で肋骨を表現した女性像で,九州最古の土偶です。 玦状(けつじょう)耳飾りは、ピアスのように耳たぶに、穴をあけて付ける耳飾りです。土製と石製があり,合計28点出土しました。土製の耳飾りには,土器と同じ「幾何学文様」や「渦巻き文様」,「S字文様」などの文様を付けたり,赤いベンガラで彩色したものもあり,縄文人の美意識や精神世界をうかがうことができます。
石製耳飾りは、軽石や凝灰岩(ぎょうかいがん)
を削ったり、こすったりして土製耳飾りと同じ様な形に仕上げています。中には赤色顔料で彩色したものもありました。祭り事などで使用されていたのではと推測されます。
このような先進的な縄文文化は、氷期から完新世(約10,000年前からはじまる現在の間氷期)への気候温暖化にともなう環境の変化に応じて花開いたといえます。氷期末の約15,000年前には、南九州では、既に落葉広葉樹林に覆われていました。そして、定住化によって上野原遺跡の集落が形成された約9,500年前は、晩氷期にあたり、遺跡の付近一帯は基本的に落葉広葉樹林でした。しかしながら、温暖化にともない照葉樹林が徐々に混じりはじめ、一般には、照葉樹林下で生育する猪等の動物も、落葉広葉樹林の中に活動範囲を広げだしたため植物性食料、動物食料などの食糧資源が、豊富で多様になり、食物供給が安定してきました。また、定住化の要因としては、平坦であるにもかかわらず水はけの良いシラス台地の立地性、連穴土坑や土器作成時に加工しやすいシラスの土性、国分隼人地区周辺のシラス台地の特性である崖地途中や、山地接続部での湧水の存在などなどが、相乗的に働いたことなどが好条件となったとみられます。この意味でシラス台地が存在する南九州という利点が大いに生かされ、南九州で、縄文文化がいち早く発達したのでしょう。
連穴土抗は16基あり、大きな穴と小さな穴を掘り,両方の穴をトンネルで繋いであります。大きな穴で火をおこし,小さな穴(煙突の役割をします)に煙を出して燻製を作っていたと考えられます。
65基の集石も、調理施設で、石を焼いてその上に葉などで包んだ魚や肉などを置き,上から土をかぶせて「蒸し焼き料理」をしていたと考えられています。
石斧には,表面を磨いた斧(磨製石斧)や打ち欠いただけの斧(打製石斧)があり,上野原遺跡からは両石斧とも出土しています。石斧は,全長20cm,重さ1kg,刃の長さ9cmの大型品から,全長5cm,重さ10g,刃の長さ2cmの小型品まであり,大木の伐採用の斧から加工具の鑿(のみ)まで、幅広く用途に応じた種類の石斧を使用していたものと思われます。 環状石斧(かんじょうせきふ)は、ドーナツ形で,外側の縁は鋭い刃がつけられており,全部で5点出土しました。いずれも割れたり,表面は焼けてくすんでいたりしていますが,用途は不明です。
環石(かんせき)は、環状石斧と同じようにドーナツ形ですが,環状石斧と違い外側に刃が付いていません。用途も不明です。1点出土しました。
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(4) 上野原遺跡の消滅
6,300年前に、九州地方に鬼界カルデラの大噴火の猛威が襲い、その恵まれた自然と、それによって育まれた縄文人の文化施設の全てを破壊尽くします。その後3,000年間に渡り九州地方の縄文文化の担い手は、歴史から姿を消してしまいます。それどころか九州地方は、その間無人状態になります。
鬼界カルデラは、鹿児島県
南方の薩摩竹島と薩摩硫黄島を陸上のカルデラ縁の一部とするカルデラで,噴火後そのほとんどが海中に沈みました。
縄文の早期初頭の異彩を放つ輝きは、九州地方では消滅しますが、南九州の文化を特徴づける丸ノミ形石斧と同系統の円筒型の磨製石斧が黒潮の流れに沿って、高知、和歌山、八丈島の各地の遺跡で発掘されています。大噴火後、かろうじて生き延びた人々が、ある者は陸路を九州中部、北部へと、又ある者は黒潮と共に日本列島各地へと広がっていき、その地域の人々に同化し、新たな縄文文化の担い手となっていったものと考えられます。
この時、海洋民族たる南九州の縄文人の一部は、遠く南米に到達していたのではないかとも考えられ始めています。
縄文時代早期初頭の段階で確立した南九州の縄文文化は、壊滅しました。当時、温暖化による縄文海進の最中で、近畿地方以西の植生が、やがて常緑照葉樹林帯にかわる過程にありました。
その食料供給力は落葉広葉樹林に対して著しく低いのです。その結果、縄文時代のこの時期以降、西日本の人口は伸び悩み、縄文時代を通して東日本よりも、その生業痕跡が稀薄になります。この環境悪化に加え、6,300年前に、九州地方に鬼界カルデラの大噴火の猛威が襲い、九州から本州の大半を被うアカホヤ火山灰の存在にも示されるように、九州地方の全ての文化を壊滅させました。"東高西低”と言われる縄文遺跡分布の片寄りは、実はこのような過程で生み出されました。ただの気候環境の変化程度でしたら、九州縄文人も対応しえたでしょう。
その後復活するのに、約3,000年という人類にとって、気の遠くなるほどの時を必要としたのです。 上野原台地は、ようやく、よみがえり、縄文時代後期(約3,500年前)には、台地南側の斜面に近い場所からは,深さ2mから3mのおとし穴が長さ約400m,東西方向に2列ならんでみつかり、集団で動物を追い込む狩り場だったのでしょう。
縄文時代晩期(約2,500年前)には,台地の北側がおもな生活の場となり,竪穴住居跡や掘立柱建物跡などが発見されました。建物の周辺にはドングリなどが入った「貯蔵穴」があり,再び森からの恵みを受けていました。
弥生時代中期~後期(約2,000年前)、台地北側には,東西約500mの範囲にムラが営まれ,竪穴住居跡5軒や掘立柱建物跡2棟,長さ100mの柵列も発見されました。またイネの植物の痕跡やモモの種も見つかりました。
古墳時代(約1,600年前)、竪穴住居跡1軒,中世は掘立柱建物跡8軒,戦後はイモなどの耕作地になりました。
上野原遺跡だけが重要な縄文遺跡と見られがちですが、南九州に存在する他の縄文時代の遺跡も、考古学的には非常に価値の高いものが多いのです。約11,000年前の東黒土田(ヒガシクロツチダ志布志町)、掃除山(鹿児島市)、鹿児島県の栫ノ原(かこいのはら)(加世田市)では、木の実の貯蔵穴、調理用の集石や連穴土坑、住居跡等が見つかっています。
栫ノ原遺跡は、縄文時代草創期、1万1千数百年前と推定されます。この時代は気候がまだ不順で、ドングリの収穫量が一定でないため、「振り子型定住」をしていたと考えられています。「振り子型定住」とは自然環境に合わせ、半年ごとに場所を移して住み替える生活のことです。旧石器時代の「移住社会」から縄文時代の「定住社会」に移り変わる過渡期の生活形態とされています。季節によって移り住む「振り子型」の定住から、その後の食料事情の好転により、上野原遺跡などのように通年定住が可能になったのでしょう。
上野原遺跡は、県のいち早い判断によって現地保存が決定されましたが、その背景には、なかなか企業誘致の進まないテクノパークの現状と、近年の考古学ブームに便乗して遺跡を単なる「観光の目玉」としようとする思惑とが絡んでいたと思われます。
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(5) 三浦半島の縄文時代
昭和21(1946)年、群馬県赤城山麓を踏査していた相沢忠洋による岩宿遺跡の発見、昭和25(1950)年、神奈川県横須賀市夏島町の夏島貝塚の発掘調査などは、静岡県登呂遺跡の発掘と並んで、戦後の考古学研究に指導的役割を果たしました。
夏島貝塚の発掘調査では、放射性炭素(C14)による絶対年代の測定という、新しい化学的手法を活用したことで知られます。貝塚の牡蠣殻についての C14 による年代測定の結果、9,240±500BPという測定値が得られ、この貝塚の年代は、予想を超えた古いものでした。この測定値は、それまで推定されていた縄文文化の初源年代を、更に遡る契機となりました。
夏島遺跡は、三浦半島東岸の金沢湾に面した小丘陵の南端にあります。三浦半島の縄文人は、海をすぐのぞむ丘に集落を造り、かなり長期間生活しています。9,500年前の縄文早期末から後期(4000年~)前半まで、各年代の土器が見つかっています。
この遺跡は、世界最古の貝塚で、今から1万年近く前(縄文早期初頭)の遺跡として世界的に貴重なものです。昭和25(1950)年から5年間に渡り、明治大学考古学研究室の発掘調査が行われ、貝、魚骨、獣骨、土器、石器などが多数発見されました。
当時は、世界最古の土器が発屈されたと、世界的に話題になりました。各年代層ごとの土器の出土により、撚糸文系の井草式・大丸式と夏島式との新旧関係が確実に把握され、その上層に、縄文時代早期の田戸下層式土器も出土しています。
夏島(なつしま)式土器は、夏島貝塚で初めて出土しました。尖底深鉢の縄文早期特有の土器様式で、関東地方で、その後広く分布していることが分かりました。土器の大きさがまちまちで、最大口径40から10cm程度のものまであります。実用的に使用目的に応じて、製作されていたと考えるのが自然でしょう。文様は撚糸文と縄文が主体です。
最後の氷期で、最も寒くなるのは2万年前です。その後、地球上を覆っていた氷や雪が溶け始め、更には極地の氷河も海水となり、海水面は、次第に上昇をはじめます。
こうして、縄文前期(約5,000~6,000年前)から中期(約4,000~5,000年前)には、縄文海進が起こります。それで、横須賀市の横須賀港・日出町など低地は、水没します。海面は、現在より5メートル前後高くなったようです。
久里浜付近から徐々に海が入り始め、平作川流域が海の底になり、衣笠十字路付近まで海が進出し、古久里浜湾という内海ができていました。この湾をのぞむ周辺の小高い丘に、三浦半島の縄文人は集落を作り始めます。
当時の縄文人の生活跡は、横須賀市内の吉井城山、伝福寺裏、茅山など、古久里浜湾を取り囲むような場所で発見されています。ただ、市街地として開発が、早いため、史跡の殆どは消滅しています。それでも、この時代の人々の生活は、夏島・平坂・吉井などの貝塚遺跡で、相当程度、推測は可能です。
吉井の丘にも、波が打ち寄せますが、内湾なので潮騒穏やかな海でした。汀から少し上がった丘に、竪穴住居を造り始めます。目の前の海からマガキ、ハイガイ、アサリなどを採り、マダイやブリを釣りあげます。
縄文人としては、恵まれた環境下にあって、丘に戻れば、生でも食べられるドングリが実るシイの山で、食料源の山野草を採集しながら、猪や鹿を追いかけ、秋になると、無花果(いちじく)など山野の実を、見つけ次第食べながら、懸命に栗やドングリを採集し貯蔵して、厳しい冬に備えたのでしょう。
縄文早期前半(10000年前~8000年前)、夏島・平坂・吉井の縄文人は、家族単位の小さな集団で暮らしていたようです。縄文海進の前後の時代(7000年前~4000年前)になると、集落をつくり数十人の集団で暮らすようになっていきます。集落では、土器や石鑓、石斧などを共同で作っています。古久里浜湾から採れる海の恵みは、貴重な食糧源です。集団で網漁を行い、魚を浅瀬に追い込んだりしたでしょう
この時代の集落は、過酷な自然を相手にしては、抗するすべのない、ただ懸命に耐えぬく生存ための共同体です。血縁関係による集団で、定住し、何世代にもわたり営々と文化を守っていく集落とは、違うのではないかと想像します。生存のための入れ替わりが頻繁で、自然淘汰に適応する、相互の情報の交換が必要不可欠な、職能的な集落だったのではないでしょうか。
縄文人たちは、日常的に他の地域と行き来をして、広範囲に物や人の交流を行っています。生活物資としての、黒曜石製石器、石器文化の必要材料としてのアスファルト、装飾用としてのヒスイ、縄文晩期の製塩など種々です。
鹿、猪等を食べていましたが、せいぜい一年に一家族で、1頭から2頭くらいだったのではないかと思われています。
焚き火で、何人かが骨付き肉を焼いて、そのままかぶり付くのとは違い、実際遺跡から出る骨を調べると、焼けているものはほとんどなく、また、骨は意図的に打ち砕かれたようになっています。それは骨髄を取るために割ったと考えられます。それを、生のまま食べたとしても、骨には肉片や軟骨などが残りますから、それを有効に利用するために、茹でて食べた可能性もあります。
また、骨髄は塩分、ビタミン・タンパク質・脂肪等の栄養に富んでいますし、味わいも豊かです。その汁を、ドングリで団子を作った際、入れたりしていただろうと思われています。
縄文人は、成人するまで生きられるのは、4人に1人の割合だったようです。毎日が命がけです。無事に冬を越した若者は、春になる頃に、新天地をめざして集落を出ていったのではないかと想像します。狐・狼・熊などの生態と一緒です。
それでも、縄文海進前後の時代に人口が増え、東日本各地に多くの遺跡を残していきます。縄文人が最も輝いていた時代かもしれません。狩猟採集に生活の基礎を置く縄文人の活動範囲は、想像以上に広大です。犬を使って猪や鹿の巻き狩りをします。集落の協力作業の必要性が、一段と高まります。
夏島式土器を含む縄文時代最古の貝塚の一つに数えられる第1貝層からは、縄文時代最古の犬骨も検出されています。それ以降の各貝層からは、各年代形式の土器を包含する中より,礫器・局部磨製石斧,石皿が多く発見されました。鹿の骨や角で作った釣針・ヤス(魚を突くモリの先に付ける)などの骨角器も発見され、漁労活動の一端をうかがうことができます。
9千年前の夏島周辺は、マガキが付着する岩礁地帯だったことがわかります。魚類は、マダイが多く、ボラ、クロダイ、ブリ、スズキ、マイワシ、サバ、と続きます。
この頃、三浦半島の縄文人は、丸木舟を東京湾(浦賀水道)に漕ぎ出して、大物を釣り上げていました。魚の顎の骨からマダイやブリは、体長が60cm以上と推定されるそうです。温暖化によって、気候や海流は現在と異なり、近海にも大型魚が群れていたようです。
縄文早期の三浦半島には、コナラ、クルミなどの温帯性の落葉広葉樹林が広がっていました。暖帯性照葉樹林が残る現在の三浦半島より多少寒かったのでしょう。
夏島貝塚の発掘後、約1万1千年前の遺跡、愛媛県の上黒岩陰遺跡から埋葬された犬の骨が出土しています。それにより犬は、縄文時代の当初から日本にいたことが明らかになりました。そして、縄文人は犬をとても大事にしたようで、当時の犬の大部分は、人間と同じように埋葬されていました。稀に解体した痕のある骨が、検出します。飢饉のおり、やむなく食料とされたのでしょう。しかし基本的には、狩猟犬でした。
出土した犬骨を調べると、殆ど6歳までで死んだ成犬と、生後半年ほどで死ぬ幼犬が多く、その成犬中には、狩猟中に怪我をするものも多くいたようで、背骨が折れて助骨と癒着していたり、前足が1本折れていたのもあります。特に、成犬の歯の強い磨滅が目を引くといいます。彼らはヒトの補助役を果し、激しい使役に耐えていたのです。
それでも、骨折が治癒した犬も多く見られ、狩猟犬として役に立たなくなっても、大切に飼育されていたようです。
縄文犬は体高40cmくらいの小型犬で、狐のような顔立ちで、四肢が太く、短く、強靭な骨格で、立ち耳、巻き尾という、柴犬に近い犬とみられています。狼とは、大きさも骨の形態も違います。縄文犬は、東アジアから人と伴に、狩猟用、警護用、なによりも愛玩用として渡来したのです。
一方、弥生犬は前頭部にくぼみを持ち、頬骨が張り出しています。弥生犬は、モンゴルなど東北アジアから、既に狼から犬に形態的に変異した後、朝鮮半島に移入した犬が、さらに突然変異が起こし、それが朝鮮半島からの渡来人に連れられて、日本列島に渡ってきました。弥生人は、犬を食べるために豚等と一緒に連れてきたようです。
犬を食べる習慣は稲作と同様、この時持ち込まれたのです。そしてこの時期の犬が、その後の日本犬の基礎になりました。
長崎県の原(はる)の辻遺跡から、殺されて食べられた跡のある、たくさんの犬の骨が発見されています。弥生人は農耕を生業にしており、犬は害獣から農地を守る、番犬だけの役割を果すだけです。その代りに、食用として手じかな存在になりました。それが6世紀頃になると、仏教の伝来とともに、犬だけでなく牛、馬、鶏などの肉を食べることが禁じられるようになりました。実際にはその後も、わずかながら犬を食べる習慣が残っていたんですが、明治時代以降は欧米の動物愛護思想の影響からか、ほとんどなくなりました。
この夏島遺跡から、住居跡は発見されていませんが、気候が温暖で魚貝類が豊富な夏島に、縄文人は早くから住み始めたようでした。
常に自然の恩恵に浴し、活動的な生業を営んでいた縄文人たちにも、自然の非情な力に対抗するだけの技術は、持ち合わせていません。神奈川県横須賀市平坂貝塚出土の縄文早期人の人骨には、何本もの「飢餓線」が形成されています。一見“縄文ユートピア”のように見られがちの彼らの生活は、想像以上にきびしく、また必死であったに違いありません。
人類は、いまから約4百万年前、アフリカ大陸で誕生しました。それから、約1万年前までは狩猟・採集の段階にあったため、「人類にとって有用な自然物」、すなわち資源は、野生の動植物とそれを捕獲・採取するための岩石、骨、調理・暖房用の薪炭などに限られていました。
食料資源になった野生の動植物は、農産物とは異なり、けっして高密度には分布してはいません。このため、1人の人間の生存に必要な面積は、研究者によってかなりの相違がありまが、10平方kmとも推定されています(『クリーンな地球のグリーンな資源-新時代の食糧生産システム』農林統計協会、1988年)。
地球の「人口支持力」はきわめて限られ、2万5千年前の人口は約3百万人、1万年前の人口も5百万人から1千万人と推定されています。
約1万年前、日本以外の地では、新石器時代に入り農耕・牧畜が始まります。農地・牧草地が最重要の資源となります。当時は、利用できた土地は限られ、単位面積当たりの収穫量もきわめて少なかったでしょう。また、いまから約5千年前までは、原材料資源も、岩石と森林に限られています。人類は、前3千年頃から青銅器時代、前2千年頃から鉄器時代に入ります。しかし、産業革命以前は資源化された金属の種類は限られ、生産量もわずかなものでした。
縄文時代早期の日本人口は、小山修三の推計に依れば全国で約2万人。既にこの段階で、人口密度は、落葉広葉樹帯の東日本に高く、食料源となりにくい常緑広葉樹の多い西日本では低いという、その後の縄文時代1万年間を通して不変の構図ができあがっていたとい思われます。
豊かな縄文時代と時には表現されますが、決して恵まれた環境下にあったわけではなく、ピーク時の人口が26万人、その平均寿命は、30歳位であったと考えられています。これは、100人生まれた乳幼児が15歳になるころには約50人、30歳になる頃には約25人しか生存していないことを意味しています。これでは、一夫婦が最低8人の子供を生まなければ人口が維持できない計算になります。
それで定住生活による文化の伝承が、集落の形成によって可能になり、同時に、集落は自らの生存とって必要不可欠なものとなったのです。個々の家族では、継続発展は無理でしたでしょう。しかも縄文晩期には、寒冷化と環境悪化により8万人ほどに、人口は急減します。
しかも、人類は、常に生存の危機に脅かされてきました。縄文人の人骨には、何本かの「飢餓線」が、確認されているのもそのためです。
昭和22(1947)年、神奈川県横須賀市小川町の平坂西貝塚からは9千年前の縄文早期の人骨が一体発見されました。発見された縄文人は「平坂人」と呼ばれています。平坂人は身長163cm以上の壮年男性で、当時としては長身で、筋肉は発達していましたが、歯はかなりすり減っていたようです。この事から、縄文人は、硬く砂混じりの食物を食べていたと考えらます。特に、下顎の切歯部と第一臼歯が、唇側あるいは頬側へ下降するようにすり減っていることから、ものを噛む運動のほかにも、皮をなめすなど、歯を道具として利用していたとみられます。
骨をX線写真でみると、横に走る線が現れています。「飢餓線」です。成長期の頃に極度の栄養失調や重病にかかったりすると、骨の成長が一時止まり、健康を取り戻すときに、骨に変化が起こり線として残るそうです。平坂人の中足骨(ちゅうそっこつ;足の裏を形成する5本の骨)には、11本の年輪のような「飢餓線」があったのです。
この時代、縄文早期の三浦半島にはコナラ、カエデなどの温帯性の落葉広葉樹林が広がっていました。平坂東貝塚からは、マガキが多量にでているため、9千年前の深田台周辺はマガキが付着する岩礁地帯だったことがわかります。それに、ハイガイ、ハマグリ、アサリなどの貝類、魚ではマイワシの骨が大量に見つかっています。サバ、クロダイも多く、マグロやカツオといった外洋性の回遊魚も出土しています。動物では鹿や猪の骨もありました。鹿の角で作った釣針も見つかっています。
以上のことから、その環境は、むしろ恵まれていた方と推測されます。それでも、11本の「飢餓線」があるのです。
現在の日本人にも「飢餓線」が見られます。一番多いのが、戦争体験世代のそれです。
平坂人は、9千5百年前のものといわれる夏島貝塚の「夏島式土器」と同じ土器を携えていました。「夏島」で暮らしていた集団から別れて、「平坂」に移ってきたのかもしれません。
丸木舟を使えば1日もかからない距離です。
海洋に進出し始めた三浦半島の縄文人が、伊豆諸島に移り住むようになるのは、今から8千年前(縄文早期中葉)のことです。横須賀市平坂貝塚から出土した無文土器(平坂式土器)と同じタイプの土器が、伊豆大島で住居跡とともに大量に発見されました。三浦半島にいた縄文人が外洋に積極的に進出を始めた頃の遺跡です。
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(6) 北海道の縄文時代
北海道の縄文人の顔立ちは,北海道のアイヌ民族に近いといわれています。
流氷の訪れるオホーツク海に面し、国内第3位の大きさを誇るサロマ湖の町・北海道常呂町(ところちょう)では早期、前期の遺跡も発見されていますが、数は少なく、遺跡の数では、中期(約4,000~5,000年前)が最も多い様です。そして、中期の遺跡は、東北地方と共通する点が多いのです。常呂遺跡の竪穴住居群は、約2,500軒にも及びます。常呂縄文人は、アイヌの祖系と考えられています。
北海道では,南北双方からの文化的影響が見られる地域であり,南西部と北東部とでは文化に地域差が見られます。その境界は石狩・苫小牧低地帯付近とみられています。
北海道の縄文時代は,本州から土器が渡来して,8千年前ごろ始まります。早期の頃は,道南には東北地方と共通の尖底土器が多く,北東部では平底土器が発見されています。また,道東にシベリヤから石刃鏃文化が流入します。標高約18~20mの常呂川右岸台地にあります、北海道常呂町のトコロ朝日貝塚では、石刃鏃と共に円形刺突文(えんけいしとつもん;丸い押し型が連なった文)土器が見つかっています。
網走郡女満別町(めまんべつちょう)中心部から南西方向およそ5.5kmの地点で、網走川西岸の標高8mほどにある河岸段丘辺縁に位置する、女満別町の豊里遺跡は、約8千年前頃には段丘の裾を海水が洗い、現在より2~3度暖かであった、陸地ではモミ・トウヒなどの針葉樹やミズナラ・シラカバ・ヤナギ・ブナなどの落葉樹が生い茂っていました。 出土遺物には、イルカ・トドなどの海獣、エゾシカ・クマなどの陸獣、ニシン・ヒラメ・カレイなどの寒冷系の魚類及びブリ・スズキなどの暖流系魚類などが混じっていることからも、気温が現在より温暖であったことが分かります。
豊里縄文人は、小形石刃の先端を加工して、特異なヤジリの石刃鏃を作ります。その石刃鏃とは、両側縁が平行な石刃を尖らし、裏側の縁を加工して刃とする独特のやじりです。旧石器時代の流れに属する独特の技術を持っていた集団で、氷河期が終わりを告げ、地球上が温暖になりつつあった約8千年前頃に、中国の東北地方・東シベリヤ地方などから、北海道東部に移ってきたと見られています。
この“石刃鏃文化”の源流は中国の東北地方・東シベリヤ地方・サハリン海岸地方などに分布しており、道内では、東部海岸(オホーツク海沿岸・釧路・根室・十勝地方の沿海岸地帯)の低位段丘上に限定されています。本遺跡の出土は、道内では最大規模で、豊富な石器類を誇り、北海道と大陸との文化的繋がりを究明する手がかりとして注目されています。型押文土器(女満別式土器)が出土し、浦幌(うらほろ)式以外の土器の存在が明らかになりました。石刃鏃を標識とする、縄文早期の石刃鏃文化は、十勝郡浦幌町の共栄で最初に発見され、石刃鏃と共に絡条体圧痕文を口唇・口頭部に持つ平底土器(浦幌式土器)を伴っていました。
シベリアのアムール流域に、同種の石刃鏃が存在していました。浦幌式土器も、アムール河口の遺跡からも発見されたことから、石刃鏃文化の源流はシベリアに遡るのではないかと見られています。
ソバなども北回りで伝来した可能性が指摘されいます。また北海道早期にシベリア方面から石刃鏃文化が伝来したその後も、弥生文化に先駆けて、北海道、東北では北からの影響を受けつつ、それを巧みに吸収し、東北アジア北部に共通の「ナラ林帯文化」を形成していった、という観点は重要です。
ナラ林帯文化とは、ミズナラ、モンゴリナラ、ブナ、シナノキ、カバノキ、ニレ、カエデなどで構成される落葉広葉樹帯で生業を重ねてきた、東北アジアの文化です。縄文文化は典型的な農耕段階前のナラ林文化として位置づけられます。
しかし、荒波に妨げられてままならない状況のもとで、細々と交流が継続したという程度だったとみられ、大陸からの影響は、縄文文化の核心を左右するようなものではないようです。
縄文期を通じて定住性が高まり、他地域への遊動性が抑制されることと、早期末から前期初頭にかけての温暖化による縄文海進により、海峡の幅が最大になり、渡海が困難になると同時に、必要性も低下します。そこから列島の孤立化、そして縄文文化の独自性が確立されていったと考えら得ます。縄文文化のなかで最も絢爛たる文化の花を咲かせたのは、東北地方を中心に栄えた亀ケ岡式文化です。
前述しましたように、縄文前期(約5,000~6,000年前)から中期(約4,000~5,000年前)には、縄文海進が起こります。千歳の美々(びび)貝塚は,そのあたりまで海になったことを示しています。気候の温暖化も進み、縄文時代の最盛期を迎えます。そのころの平均気温は今より2~3度高く、縄文海進により、海面は4~5m高かく、北海道では函館、室蘭、苫小牧、石狩などの低地に海が入り込んで、浅瀬や入り江になっていました。
温暖な気候のせいか、この時期の縄文遺跡は特に東日本に多く、中でも東北から北海道にかけて大規模な集落が多く見つかっています。縄文時代には日本列島の中心は東日本だったといわれています。
三内丸山遺跡が東北の代表とすれば、北海道側の代表は、函館市南茅部町(みなみかやべちょう)から八雲町、伊達市にかけての内浦湾(噴火湾)沿岸に点在する遺跡群があげられます。中でも89カ所に及ぶ南茅部町の遺跡は、その規模や出土品の貴重さから、三内丸山遺跡に匹敵するといっても過言ではないのです。 北海道と北東北でそれぞれ縄文遺跡の発掘調査が進むと、両者には多くの共通性があることが明らかになってきます。
北海道函館市川汲町の大船C遺跡は南茅部町の中心から8kmほど北西を流れる大船川の左岸に位置し、背後には栗の木山や湧水、前面には海産資源の豊富な噴火湾が拡がるなど、集落を維持するのに必要な自然環境に恵まれています。最も明瞭なのは土器の形状で、筒型平底の土器を多用することから、全域を包含して「円筒土器文化」と呼んでいます。その外、住居や装飾品などにも多くの類似性が見られます。
町営の墓地造成に先駆けて発掘調査が実施されましたが、縄文前期末から中期終焉まで約1,000年間続いた大規模集落跡であることが判明しました。
平成8年以降断続的に発掘調査が実施され、現在も継続されていますが、遺跡全体の拡がりは7万㎡ほどにも及ぶと見られ、今後は山側に向けて更なる発掘調査が進められるそうです。
今日までの調査で、竪穴住居址110軒・フラスコ状ピット64ヶ所・盛土遺構などの遺構が、見つかっています。今後とも近くに湧水があることで、水場遺構のほか墓域などの検出が想定されています。平成13年に“大船遺跡”として国の史跡に指定されました。
大船遺跡は、今から6,000年も前に、北海道と東北地方北部との間に活発な人の往来があったことを示します。一般的な竪穴住居は長さ4~5m・深さ0.5mほどの大きさに対し、当遺跡で発掘された住居址は、長さ8~11m・深さ2.0m以上の大型住居が10数軒ありました。防寒対策と共に食糧の備蓄スペースが必要だったためと推測されます。
平面が円形・楕円形住居と共に、船形住居も見つかっています。最終的には住居址が1,000軒を超える大集落が推定され、同時代の“三内丸山遺跡”に匹敵する縄文遺跡として注目されています。
新潟糸魚川産のヒスイのほか、秋田県昭和町のアスファルト(接着剤)などが多量に出土しています。日本では、縄文時代、アスファルトを弓矢の鏃(やじり)と棒との接着剤として、また土器や土偶等の欠けた部分の補修に使用されていました。石を棒につけ、槍にしていたこともわかっています。
古代メソポタミア文明の壁画などに、大規模な利用が見られます。天然アスファルトが大規模に利用されたのは、紀元前3800年頃のチグリス・ユーフラテス河流域、現在のイラク地方に誕生した古代メソポタミア文明です。ここは石油の産地で、当然、天然アスファルトも豊富にあり、人々は接着剤として利用してきました。イラクのウル地方から出土した「ウルのスタンダード」は、紀元前2700年頃の壁画ですが、貝殻や宝石を天然アスファルトで接着しています。古代メソポタミア文明の技術を継承した古代バビロニア帝国では、天然アスファルトによってレンガを固め、巨大で堅牢な建造物を数多くつくりました。また、道にレンガを敷き詰めて、それを天然アスファルトで固定することも行っていました。
旧約聖書に出てくる「バベルの塔」は、古代メソポタミアの人々の間で語り継がれていた物語が原形だとされていますが、その実在が古代バビロニア帝国の首都・バビロンで確認されています。天然アスファルトの接着力が、当時としては驚異的な建造技術を可能にしたのです
縄文後期(約3,000~4,000年前)は縄文海進が終わり,現在よりも低温な寒冷期でした。そのため人口が激減します。縄文後期の中頃以降,気候が回復し,遺跡の数も増えます。その特徴的なものがストーンサークルです。これは墓地と考えられています。これは,北方との文化交流の中でとらえられ,北海道に特徴的なものです。縄文後期後半になると,土塁を築く環状土籬(周堤墓)の形式に推移します。環状土籬は、いわゆるストーンサークル(環状列石)とは違い、石ではなく土を円形に盛り上げます。これに同じようなものがサハリンにも確認されていますし、また、別の場所では人骨も確認されていますので、北方系の民族のお墓といわれています。 縄文晩期になると,東北地方の亀ヶ岡文化の影響を受け,呪術・儀式という精神文化の高揚がみられます。
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(7) 三内丸山遺跡
青森市大字三内字丸山の遺跡は、縄文時代前期(約5,000~6,000年前)から中期(約4,000年前~5,000年前)の大集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。発見された竪穴住居跡は、約600棟にのぼり、遺跡全体では1,000棟を越すとみられています。縄文時代の家は、地面を掘り下げて床を作った竪穴住居が普通ですが、時代により形や構造が変化します。特に炉は、地面を掘ったもの、土器片を敷き詰めたもの、石で囲ったものなどがあります。
現在では、発掘された遺跡をもとに、シンボル的な3層の大型掘立柱建物、大型竪穴住居、竪穴住居などの住居群、倉庫群が復元され、当時の様子を窺い知ることが出来ます。掘立柱建物は、地面に柱穴を掘り、柱を建てて屋根を支えたものと考えられます。集落の中央、南の盛土の西側などから密集して見つかりました。中期の住居跡は、長軸を3~5mとするものが多いのですが、10mを超える大型住居跡も、各時期を通じて構築されていることが判明しました。大型竪穴住居跡例として、長さ約32m、幅約10m程で、床面積は252.38㎡のものもあります。その広さから、集会所、共同の作業場、冬の間の共同家屋などの用途が考えられています。
その他、大量の遺物がすてられた谷、大規模な盛土、大人の墓、子供の墓、土器作りのための粘土採掘穴などが見つかりました。また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒)、袋状編み物、編布、漆器など、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。
この地に遺跡が存在することは、江戸時代から知られていましたが、本格的な調査は、県営の野球場を建設する事前調査として、平成4(1992)年から行われました。
その結果としてこの遺跡が大規模な集落跡と分かりました。
1994年には、大型建物の跡とも考えられている直径約1mの栗の柱が6本見つけられました。これを受け、同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定しました。また、墓の道の遺構が非常に長く延びている事が分かったため都市計画道路の建設も中止しました。
この遺跡は現在の敷地から、当初、広場を囲むように住居が造られた環状集落と見られましたが、現在では、住居が非同心円状に、機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられています。
遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されています。
道路は地面を少し掘り下げて、浅い溝のようになっていて、集落の中心から幅約12m、長さ420mにわたって、海に向かって延びています。さらに土を貼って「舗装」されているものもあります。最近の調査で、南北にのびる道路も見つかりました。
三内丸山遺跡で出土した動物骨の特徴として興味深いのは、猪や鹿など大型動物が少ないことです。三内丸山遺跡で出土する動物遺体の7割が、兎とムササビのような小型動物でした。それに動物性の蛋白質は余り多くなかく、胡桃や栗などの植物性蛋白質が主体で、縄文人の食料の8割以上が植物性食料だったことは人骨の分析からも明らかになっています。
貯蔵穴(ちょぞうけつ)は、集落の外側、台地の縁近くにまとまって造られていました。入り口がせまく底が広い、断面がフラスコ状のものが多く、栗などの木の実、食料がたくわえられたものと考えられます。中には、幅3m深さが2m近くもある大型のものもあります。遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、さらにはヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土しました。それらは縄文時代の文化が、従来考えられているよりも進んだものであることを示すものでした。
興味深いのは、盛土(もりど)で、竪穴住居や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物をすて、それが長年月に亘り、繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになっていることです。土砂が水平に堆積しているので、整地しながら廃棄作業がなされていたと考えられます。中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物がたくさん出土しています。
子どもは亡くなると、埋設土器といわれる、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いた土器の中に入れられ、住居の近くに埋葬されました。土器の中から握り拳大の丸い石が出土する場合が多く、当時の習慣に関係するものと考えられます。
大人は、土坑墓(どこうぼ)といわれる、地面に掘られた円形や楕円形の穴に埋葬されました。その墓は集落東側の道路に沿って、両側に2列に配置されています。
遺跡は、他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていません。これほどの遺跡がなぜ終焉を迎えたのか?縄文人が大規模な村落を、三内丸山に形成して2,000年もの長い期間、ここで暮らしてきました。この営みも気象変動で崩壊するのです。寒冷化によって栽培していた栗の収穫が激減し、他の採集食糧も欠乏します。また海が後退したことから、大規模な集落の営みが不可能になったのです。しかし、それだけで遺跡全土を手放すとは考えづらく、それが何であるかは分かっていません。
出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われます。土器、石器が中心であすが、日本最大の板状土偶などといった土製品や石製品も多く出土しています。また、この他にも北海道地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土しています。
現在まで、三内丸山遺跡で発見された遺構の中で、最も重要視されているのは、竪穴住居など址です。その柱の大きさのさることながら、その柱の穴の間隔、深さがそれぞれ4.2m、2mで全て一致することです。これは、その当時既に測量の技術が備わっていたことを示すもので、知的な面から見てもここに住んでいた住民達が当時としては高度な領域に達していたことを示すものなのです。特に4.2mというのは他の遺跡でも確認されており、何らかの技術の共有をしていた可能性が考えられています。
柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術を使っており、腐食を長い間防いだ一因となっています。大型掘立柱建物は、地面に穴を掘り、柱を建てて造った建造物で、6本柱で長方形の大型高床建物と考えられています。その柱穴跡は直径約2m、深さ約2m、間隔が4.2m、中に直径約1mのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。
道の跡周辺からは環状配石墓(ストーンサークル)も見つかっています。この墓はムラ長の墓とも考えられています。石の並べ方が、南方のやや離れた所にある小牧野遺跡と共通しているとして注目されています。また、平成11(1999)年10月6日にこの墓の一つから炭化材が出土しましたが、これは最古の「木棺墓」の跡であるとも言われています。
平安時代の集落跡(約1000年前)、中世末(約400年前)の城館跡の一部もみつかっています。
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(8) 北陸地方の縄文時代
縄文人の生活に、地域的特性の好例として、縄文早期の末から前期の初め(6,000年前)、富山湾周辺の遺跡群、朝日町の明石A遺跡や、石川県穴水町の甲・小寺遺跡、能登島町佐波遺跡など海岸部の遺跡から、興味深い発掘証拠があります。これら海岸部の遺跡から、漁が行なわれていたことを推定させる石で作った錘(おもり)が発見されました。
これら縄文前期初頭の集落で、どんな魚が食膳に上ったかが分かります。氷見市朝日貝塚(中期)では、アカエイ・タイ・マグロの骨が検出されています。石川県能都町の真脇遺跡(前期~晩期)では、サバ・カツオが比較的多く、スズキ・クロダイ・マダイ・イシダイ・マフグ、あるいは大型魚のマグロ類・サメ類など、20種近くの魚骨が検出されています。
網漁のほかに釣りによる漁も行なわれていたことは、富山市の小竹貝塚(前期)から出土している釣り針がそれを物語っています。
朝日貝塚は、アカガイやハマグリ・バイを主とした貝塚ですが、発見された貝の種類は40種類にも上っています。よく現代人は、なまこ等、見るからに気持ち悪い食材を、どうして食用と認識しえたか?といわれます。日本人が日常的に食料を得られるようになるまで、どれだけ飢餓の苦しみを味わってきただろうか?それを克服したのは、戦後の一時の現代でしかないのです。それまでは、食べられるものは、一切食します。江戸時代度々襲った東北地方の飢饉の時、その地方は、鳥・蛇・鼠等食せる者すべて、食べ尽くしているのです。
その朝日貝塚出土の骨で見落とせないのが、イルカです。現在氷見市立博物館に保管されている資料では、少なくとも24頭を数えることができます。内訳は、マイルカ17頭、カマイルカ3頭、バンドウイルカ2頭、ゴンドウクジラ類1頭、不明1頭。この数は朝日貝塚出土のイノシシやシカなどの陸獣の2倍以上も多い数です。
朝日貝塚の人びとは、殆ど、富山湾から生活の糧を得ていたのでした。小竹貝塚でも、イルカ骨が他の獣骨より多い、真脇遺跡でも、300頭に近いイルカの出土が確認されていて、ここでもイノシシやシカに圧倒的な差をつけています。全てが温暖種で、カマイルカ・マイルカ類が主です。
縄文時代にイルカ漁を盛んに行っていた遺跡が残されている地域は、富山湾岸以外では、北海道東部の釧路川河口付近と中央部の内浦湾沿岸地域、それに東京湾・相模灘沿岸地域があるだけです。同じ北陸でも、日本海に直接面している石川県宇ノ気町の上山田貝塚では、イルカの比重は極端に少ないのです。
岸近くまで深さを保つ富山湾では、真脇の小さな湾や、かつての十二町潟(じゅうにちょうがた)や放生津潟(ほうじょうづがた)の潟口まで、イカやイワシの群を追って、イルカが回遊していました。
真脇遺跡のイルカ骨の出土状態は、「足の踏み場もない位」と表現されるもでした。それは、縄文時代もイルカの大量捕獲があったのでした。真脇遺跡の近辺では、江戸時代から昭和初期までイルカの追い込み漁が盛んであったという記録も残されています。
イルカの捕獲活動について研究を進めた平口哲夫氏(金沢医科大学)は、「1回に何十頭も捕獲したのではなく、5、6頭以下というのが平均的な捕獲数ではなかったか」といわれます。数十頭数百頭という大量捕獲がなかったとしても、小型イルカ類の平均体重は、シカやイノシシと極端な差はないので、その数頭の捕獲はムラの食卓を潤して、なおあまりあるものであっでしょう。
縄文人は、その地その地の自然を巧みに利用し、採集経済社会としての極めて高度な生活を、各地で展開していましたが、富山湾岸に住む人々には、対馬暖流に乗って春から秋に回遊して必ずやって来るイルカは、まさに富山湾からのまたとない贈り物でした。
イルカの群れが発見されると、丸木舟で漕ぎ出して湾内に追い込み、網で仕切り、槍で突き刺し、浅瀬に追い込んだものは素手で引き上げます。危険性と緊張感を必要とするこの共同作業は、集団の結束を促すものでもあったでしょう。朝日貝塚で発掘された15歳前後と推定される男性人骨は、魚の脊椎骨を首飾りとしていたと報告されています。イルカの歯に穴を開けた装身具もあります。海に生活を求めた朝日貝塚人に似つかわしい飾り物です。 |
(9) 亀ヶ岡遺跡
亀ヶ岡遺跡は、青森県つがる市木造亀ケ岡で発掘されました。木造亀ケ岡は、最終氷期後半の極寒期(約2万5千年前)まで、うっそうとした針葉林帯であり、その後温暖化により針葉樹林は水没し、洋々たる入り江になりました。西北からの風波が泥土を堆積させ、三角州ができ砂丘が築かれ七里長浜になりました。この地に、今から約3千~2千年前、縄文時代の晩期の文化(亀ヶ岡縄文文化)が開花します。
この時代、寒冷化により、中部・関東地方北部が再び衰退します。その過酷な自然環境の中、当時の亀ケ岡縄文人は、優れた知恵と卓越した技術を駆使し、縄文文化の集大成ともいえる、数々の精巧な石器や、華麗な装飾をほどこした洗練された土器等を作りあげました。
この遺跡の発掘は、元和8年(1622)年津軽藩主信牧(のぶひら)公が亀ヶ岡築城を計画したことに始まります。信牧は、弘前藩祖・津軽為信の三男です。津軽為信(ためのぶ;1550~1607)は、戦国大名の典型的な道を歩み、津軽地方を支配する南部一族の内紛に乗じて、元亀2年(1571)5月、石川城(別称:大仏ヶ鼻城)の津軽郡代・石川高信を急襲(石川城の戦い)して自立を示し、それより和徳城、天正3年(1575)に大光寺城、天正6年(1578)には浪岡城、天正13年(1585)には油川城・田舎館城・横内城、天正16年(1588)には、飯詰高楯城など南部氏の属城を蚕食して勢力を伸ばし、津軽地方を統一します。
これに対し南部家当主・南部信直(なんぶ・のぶなお)はこれを奪還しようと企て、配下諸将に津軽氏討滅を命じますが、九戸政実(くのへ・まさざね)以下の諸将は、事前に為信と密約を結んでいたため、これを拒否、一方の為信は小田原討伐に向かう羽柴秀吉に沼津で謁見し、津軽3郡3万石の安堵状を得たことで既成事実を作り、信直の策動を封じます。以降両家の反目の感情は江戸時代に至っても続いきます。
こうして、為信は元々は南部氏の家臣でしたが、小田原征伐の際、自立せんとして逸早く、豊臣秀吉への働きかけが成功し独立大名となます。
信牧公当時の木造地方は、一面不毛の湿地帯でしたが、信牧公が、新田開拓事業に乗り出し、その拠点として亀ヶ岡城の築造準備を進めました。その際資材運搬のため、湿地に材木を敷いて街道を造ったことから、「木作村」と称されるようになり「木造」の地名の由来となります。
その後、築城は幕府令により取り止めになりましたが、4代津軽藩主信政の時代も引き続き新田開拓を行いました。しかし、開拓に障害となる七里長浜からの砂塵を植林により克服し、約4千町歩の田畑を開墾し、また信政は三新田を管轄する代官所、さらにはその中に仮館を設け、新田各地を巡視しました。
以後の藩主も同様に行ったことから、「木作」は新田地方の中心として栄えました。先の述べましたように、元和8年(1622)年、信牧公が亀ヶ岡築城を計画、工事を始めたところ、多数の瓶(かめ)や壷等の土器類や石器類が数多く出土したのです。それが「亀ヶ岡」の地名の由来です。
元和9年菅江真澄の「永禄日記」に「ここより奇代の瀬戸物を堀し・・・・・」とわが考古学上の最初の記録がなされています。その「元禄日記」にも、昔から瓶(かめ)が多く出土することによる地名の由来が記載されています。
出土品は縄文後期から晩期のもので、特に、黒漆(くろうるし)の地に赤漆で紋様を描いた藍胎(らんたい)漆器(竹、樹皮等を編み、麻布を貼り付け漆を塗った皿状のものに、赤漆で模様が描かれています)、櫛などの漆塗、漆やベンガラを塗った土器や装身具、ヒスイの勾玉、丸玉、日本最古のガラス玉など、その形状、紋様、塗飾等は精巧で完成度が高く、卓越した芸術性がうかがわれます。そのため、江戸時代から既に「亀ヶ岡もの」として好事家の手により江戸、長崎ばかりかオランダあたりまで輸出され、乱掘がくり返えされました。
出土品が散逸することをふせぐため、昭和19年文化財保護委員会から「亀ヶ岡石器時代遺跡」、および近くの縄文前期~中期の土器が、出土している「田小屋野(たごやの)貝塚」も史跡として指定されました。
明治20年に亀ヶ岡遺跡から出土したもので高さ34.5㎝、胴体からすぐ頭部で、非常にデフォルメされた目が、エスキモーが使う真ん中にスリットが入っている雪眼鏡(ゆきめがね)に似ているため遮光器土偶(重要文化財)と名付けられました。昭和32年国指定重要文化財に指定され文化庁が所有しています。
その斬新な形、驚くほどの精緻さ、赤く彩色されていた事、その文化力の高度さに、圧倒されます。遮光器土偶をはじめ、縄文晩期の亀ケ岡の土器は黒漆の地に赤漆で描いた文様などが特徴で「亀ケ岡文化」「亀ケ岡式土器」と呼ばれています。
ただ、遮光器土偶は、他にも旧都南村(現在の盛岡市)の手代森遺跡からも発見されています。現在では、黒っぽく見えるのですが、当時は朱(しゅ)が塗られていたようです。発見当時は、ほかの土偶と同じようにバラバラになっていたそうです。今はきちんと復元されています。それ以外にも岩手町豊岡遺跡・宮城県恵比寿田遺跡・宮城県尾田峯貝塚・宮城県北上町泉沢貝塚でも出土しています。いずれも、念入りに作られて、大きいものが多いということです。ほかの土偶を超えた、深い思想が込められていたのかもしれません。
亀ヶ岡遺跡では、完全な形の土器が1万個以上も出土したといえわれています。その中でも、精製土器は、薄い器壁に文様を描き、朱色に塗色され、装飾されたものが一般的ですが、浅鉢、壷形、台付き浅鉢、注口などがあり、縄文時代のなかでも際立った多様な器種分化を遂げています。中でも朱・丹などベンガラ塗飾、漆塗り、独特な入組文様などが施された、赤色顔料塗り壷形土器、漆塗り彩文土器、漆塗り異形土器、彩文藍胎土器片などは、亀ヶ岡縄文人の高度な技巧に驚嘆させられます。
壷形土器では、全体が、赤色ベンガラで彩色された色彩感覚、“藍胎漆器”では、竹・樹皮などを編み、麻布を貼り付けて漆を塗り、それに模様を描くという漆文化の知恵、及び卓越した芸術完成度には目を見張るばかりです。香炉形土器は、上部2ヶ所に窓状の穴を開け、周囲に緻密な透かしを彫り、下半部には流麗な雲形文が施されており、装飾効果を高めています。それは、呪術的文様を超えて、意欲的な美的構想にもとづいて文様を施した創作的なものとみられます。
さらに、鯨骨に塗飾した皿らしき器、玉類用の砥石、朱塗り耳飾り・ペンダントなど身体装飾品などにも、作業工具に秘められた知恵、彫刻風の多様な文様、工夫を施した形状など、多才な芸術感覚が示されています。
亀ヶ岡縄文人が、どのような物を食べていたかを知るためには、貝塚を調べてみるとよく分かります。大浦貝塚は、青森市野内字浦島の海岸線に立地し、昭和43年の発掘調査の結果、亀ヶ岡文化を有する縄文晩期の貝塚遺跡であることが判明しました。
青森県内の縄文貝塚は、八戸市・三沢市など太平洋沿岸に集中し、50ヶ所以上確認されていますが、亀ヶ岡文化の貝塚は極めて少なく、陸奥湾岸では本貝塚1ヶ所だけと云われています。
貝塚は、陸奥湾を望む鼻繰崎の西側で、汀から50mの畑で、丘陵裾にありますが、道らしいアクセスのない、隔離された海岸線に、ひっそりとありました。
貝塚は、貝殻やごみ類などを捨てた場所で、貝殻に含まれるカルシウム分が酸性の土壌を中和するために、酸性土壌の日本の遺跡では、普通腐ってしまうような貝類・骨類・木材・布などの有機質が良好な状態で保存されます。
漁労用具として網や土錘、骨角製の釣針とモリなど、この貝塚から出土しました。特に、鹿の角で作った各種釣針は、返しがあり、糸を巻く溝も付けられています。
鹿の角の先端を2股にして、その間に石鏃を挟み、それをアスファルトを使って矢柄の先端に装着する、異色な骨角器も出土しています。鹿角製のやす、猪の犬歯の装身具もあります
骨角器のほか、食料源のアワビ・レイシ・イボニシ・イガイなどの岩礁性貝類、ボラ・マグロ・サバ・マダイ・メバルなどの魚類、ウミガラス・アホウドリなどの鳥類、狸・鹿・猪・イルカ・クジラなどの哺乳類なども検出されました。
大浦貝塚の南へ150m離れた、汀から150mの平坦な畑で、製塩址が発見されました。海水を煮詰めるための製塩土器片が、火熱を受けて赤や灰色に焼け、細かく割れ、バケツのように上向きに口が広がった状態で見つかり、塩作りも盛んに行なわれていたが分かりました。それ以外にも、製塩土器の破片が多数発見されました。
塩作りによって、食料の塩漬け保存が可能になり、この地域に住む人びとの食生活は、格段に向上したでしょう。塩作り遺跡は陸奥湾岸に集中していますが、作られた塩は、生活に欠かせない大切な食品として、山間部の集落などとの交易物資にもなっていたと考えられます。
亀ヶ岡遺跡は、東に岩木川と広大な沖積地・津軽平野を眺望する台地の先端部にあります。史跡は、亀山・近江野沢・沢根の3地区に亘り、2万5千m2あります。台地上の亀山地区は、居住地と墓地群があります。台地下の近江野沢・沢根の泥炭層には、多数の遺物が包含されています。さらに遺跡からは、炭化米・籾殻・粟ときびの雑穀・栃の木の種実などが出土しています。
縄文晩期を代表するこの「亀ヶ岡文化」は、北海道では函館を中心とした西南部が、青森県の影響を受け、同じような変遷をたどり、共通の文化圏を形成したと思われます。縄文晩期後半には、その分布はほぼ全道的な広がりを示すようになります。本州でも青森県・岩手県を中心として、更に新潟・富山の北陸や、東海・近畿地方の一部に影響を与えます。東日本で亀ヶ岡文化が栄えたようです。
「亀ヶ岡文化」が、隆盛期を迎える約3,000年前から約600年の間に、西日本は、大陸からの渡来人による稲作文化によって、その荒廃から弥生時代へと復興していきます。一方、関東や中部地方の1万年を超える縄文時代は、退潮期を迎えます。亀ヶ岡文化も、気温低下→動植物資源の枯渇→海岸線後退→貝塚減少→人口減少→縄文時代の終焉といった、東日本の宿命からは逃れられなかったようです。
現在、亀ヶ岡遺跡に行って見ると、小さな神社と、昔、遺跡があった事を示す看板があるだけで、何にもありません。ただの住宅地になっています。出土品のいくつかは、少し離れた所にある公民館の一室で展示されています。肝心の遮光器土偶は東京国立博物館が所蔵しています。壁に遮光器土偶の大きな写真が張ってあり、文化庁に召し上げられてしまったというような事が書いてあります。出土資料の一部は、県立郷土館・木造町縄文館等で公開されています。
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