HOME> 本誌連動インタビュー「HUMANE」ノーカット版!
記者 | ワールドユース、お疲れ様でした。 |
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中村 | ありがとうございます。帰って来てから、3日ぐらい時差ボケで苦しみました。帰国初日は、ナギ(柳楽智和)といっしょに、「眠れないね」なんていいながら徹夜しました。 |
記者 | ワールドユースの初戦、あのオランダの7番、オウス・アベイーはすごかったね。 |
中村 | もう、ヤバかったです。あんなにすごい選手と対戦したのは初めてです。これまでの強いチームにもうまくて速い選手はいましたが、1回目の1対1の局面で負けても、2回目からはなんとか対応できていました。だけど、あの選手には2回目以降も全部やられてしまいました。試合の間中、『一体、どういう対応をすればいいんだ』、『次はどんなことをしてくるんだろうって』って、あの選手との1対1の対応についてばかりを考えていました。 |
記者 | オランダ戦のあとはやっぱりヘコんだ? |
中村 | 相当にへこみました。 |
記者 | 周りの選手がなぐさめてくれたとか。 |
中村 | 「あの7番がすご過ぎるんだから、しょうがないよ」と言ってくれました。その気持ちはうれしかったんですが、僕は「しょうがない」で終わりたくなかった。やっぱり、ああいう選手を止めないと、世界で戦っていけないわけですから。 |
記者 | でも、オランダ戦以降は? |
中村 | 最初の試合であのオランダの7番と対戦したことで、『世界』を感じることができたから、あとの試合は余裕ができたんだと思います。次のベナン戦以降は、1対1の局面では対応できました。でも、サイドバックとして、相手のフォワードに対応するだけではなくて、もっともっと、攻撃にも参加しなくてはいけなかったという反省は残りました。世界大会だけあって相手のレベルも高いし、カウンターの精度も高いから、守備の方に意識が偏りがちでした。 |
記者 | ワールドユースで得た課題は? |
中村 | 判断の速さとか、攻撃に出て行くときのタイミングとかを学べたと思います。また、サイドバックとして、ボールをもらって起点になることも大事だと感じました。ベナン戦、オーストラリア戦ではそれができませんでした。あとは、ワンタッチで出すべき状況、少しボールをキープした方がいい状況とかタイミングも大事だと思いました。 |
記者 | 今度はアビスパで活躍することですね。 |
中村 | はい。ワールドユースで感じたこと、学んだことを、今度はアビスパで生かしたていきたいと思います。代表では、3−5−2のウイングバックでも4バックの右サイドバックでも、基本的にはマンツーマンに近い守備のやり方でした。高校時代も人に付くディフェンスだったので、福岡のゾーン・ディフェンスに最初は戸惑いました。それでも何試合かやって、いまは順応できてきたと思います。 |
記者 | ゾーンで守る方が難しい? |
中村 | でも、運動量も少なくてすみますし、攻撃のための力をためやすい。もともと国見高に入ったときもフォワードで入ったし、攻撃は好きです。点を取ることがサッカーの大きな楽しみでもありますから。いまはサイドバックとしてプレーしていますから、得点チャンスは限られていますが、可能な限りゴールは狙っていきたいと思います。 アビスパでは中盤の右サイドとサイドバックでプレーしてきましたが、今後はサイドバックでやることが多くなるかもしれませんから、オランダでの経験を生かせると思います。いや、生かさなくてはいけない。早くボールをもらって、自分がどんどん前に出て、チーム全体を前に押し出していけるようにしたいですね。 |
記者 | アビスパのJ1昇格は? |
中村 | 絶対に上がりたいですよ。だけど、そのためには連勝しないと難しくなると思います。去年のように入れ替え戦に出るよりは、1位か2位で上がりたいですからね。やりますよ。 |
記者 | 国見高校の出身ですよね。 |
中村 | 最初は長崎FCの先輩が行っていた熊本国府高に行こうと思っていました。国見高は第2希望でした。ですが、小嶺(忠敏)先生が家に来て誘って下さいましたし、やっぱり地元だし、しかも強いし。親からもそっちの方がいいと言われて決めました。 |
記者 | 国見高の練習は厳しいということは入学前に聞いていたでしょ? |
中村 | はい。でも、それは気にならなかったんですよ。気になったのは『丸刈り頭』にしなくちゃいけないことですよ。僕、中学時代はロン毛だったので「嫌だなぁ」って。でも、入学して丸刈りにしたんですが、実際にはそれが気にならなかった。というより、ヘアスタイルを気にする余裕なんかありませんでした。とんでもなく、練習がきつくて。 |
記者 | 好きな言葉は? |
中村 | 『気持ち』。苦しいことからも逃げださない。そういう『強い気持ち』を持つことが大事だと思います。苦しいことを経験すれば成長できると思うので。 |
記者 | ファッションの好みは? |
中村 | きれい系。ちょっと前までバーバリーとか好きでした。大人っぽいファッションが好きですね、ジャケットとかよく着ます。でもジーンズは好きですよ。ウエストのサイズに合わせて買うと、太ももが入らないので、少し大きめのものを買っています。 |
記者 | オフの過ごし方は? |
中村 | 寮で寝てるか、買い物です。買い物は大体、買うものを決めてお店に行きます。大体の金額もはじきだして。 |
記者 | 最近買ったもので一番高価なものは? |
中村 | BMW、中古ですけど。スポーツタイプの2シーターです。誕生日の7月10日過ぎには、納車されると思います。街中には行きません、怖くて。いまは納車されるまでの借り物の車ですが、寮から練習場の往復のみ。ほかの所に行くときは、ほかの人の車に乗ります! |
記者 | 最近はまっていることは? |
中村 | 車を動かすこと、ですね。バックとか。寮の前にバックで入れるんですけど、かなり緊張してます。縦列駐車はしません。違う場所を探して止めます。(※ワールユース出発直前に普通自動車免許取得!) |
記者 | いま、欲しいもの。 |
中村 | ナビとか。やっぱり車関係のものですね。 |
記者 | 巨人軍の投手でもあるお兄さん(中村隼人)とは? |
中村 | 東京に行ったら、向こうから電話があって、近くにいたら会ったり。ワールドユース前、たまたま二人とも新潟にいて電話で話をしたのですが、『頑張ってこい』とかいう人じゃないので。年の差が10ありますから、あまりべったりした兄弟関係ではありません。 |
記者 | そういえば、『北斗』という名前はそのお兄さんがつけたとか・ |
中村 | そうなんですよ。兄貴が小学校のときに僕が生まれて、そのころってちょうどアニメの『北斗の拳』がはやっていて、兄貴もそれが好きで『北斗』にしたそうです。一番上の兄貴が隼人(はやと)、真ん中の兄貴が将人(まさと)で、最後に「と」が付いて3人そろっているから親も認めたんじゃないでしょうか。でも、「ホクト」って名前、僕は気に入っています。皆、呼びやすそうで。僕「中村!」って呼ばれたこと、ほとんどありません。 |
記者 | 最近感動したことは? |
中村 | DVDを見て泣きました。『スラムダンク』です。けっこう泣けるんですよ、これが。ワールドユースの空き時間に、GKの山本(海人=清水・GK)が持ってきていたのを借りて見ました。大会期間中に同じ部屋だった水本(裕貴=千葉・DF)がパソコンを持ってきていたので、そのパソコンでいっしょに見てました。 |
記者 | ワールドユースで履いたピンクのスパイクは? |
中村 | サプライヤーのアディダスのものですが、誰かが「ピンクにする」と言っていて、「で、北斗は?」って聞かれて、「じゃ、僕もピンクでいいです」って決めました。特にこだわりがあって決めた色じゃないんですよ。 |
記者 | 自分で自分のプロフィールをどうぞ! |
中村 | 1985年7月10日に、長崎県諫早市の多良見町で生まれました。多良見町は西彼杵(にしそのぎ)郡でしたが、ことしの3月に諫早市に合併されました。本格的にサッカーを始めたのは小学校3年のとき。通っていた喜々津小学校にできたクラブでした。はっきりとは覚えていないのですが、そのころちょうどJリーグが発足したんじゃないでしょうか、そういう流れの中でほかのスポーツではなくサッカーを選んだのだと思います。ポジションはフォワード。喜々津中学に入学したあとは、長崎FCというクラブでプレー。中学選抜ではフォワード、長崎FCではボランチをやり始めました。高校は国見高。1年のときと3年のときに高校選手権で優勝しました。小嶺監督から『プロでやるのは厳しいかも』と言われて、一時は大学に進もうかとも考えていたのですが、10月ぐらいにアビスパが誘ってくれたので、迷わず決めました。 |