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the deconstruKction of right このページをアンテナに追加

2008-06-26

ポストモダンとネオリベラリズムについてのメモ


   ロスジェネのイベントでフリーター論壇と東浩紀のバトルを見に行くので、その前に、ちょっと自分なりに考えてから行こうと思う。僕も、大学でポストモダン系の批評を習い、ポストモダン文学大好きで、なおかつ非正規雇用に直面しているので、リアルに考えなきゃいけない問題だろう。


   ポストモダン思想がネオリベラリズム的心性を準備したというのは、芹沢一也が「ネオリベラリズムポストモダンの幸福な結婚」(α-synodos4)で述べているが、おそらくそうなのだろう。少し長いが引用させていただくと、

文化領域におけるポストモダンと、経済領域におけるネオリベラリズム

両者は共通の敵に対立しながら姿を現わした。共通の敵とは、フォーディ

ズム的な産業社会のロジックであり、いわゆる規律訓練型の権力が支配

する体制である。そこでは生産性を向上させるために、規律訓練型の組

織(家族や学校、企業や工場)によって、画一的で同質的な労働主体がつ

くられる。

(中略)

70年代のアウトノミア運動のスローガンに、「不安定なのは良いことだ」

というものがあったが、それは安定した職と生活を提供していた社会で

こそ可能なものだった。資本主義規制緩和と労働のフレックス化によっ

て、そのような不安定性を再解釈しつつ領有したとき、不安定なことは

創造的な生を裏打ちする霊泉であることをやめて、生を鈍く不活性化す

るような絶望や自死の淵源となりはててしまった。

(中略)

そして、わたしたちの眼前に横たわる、すでに見慣れたネオリベラルな

風景というわけだが、要するに、ポストモダンネオリベラリズムは共

犯関係にあった。ポストモダンにおける差異やハイブリッド性の肯定は、

多極分散型の管理によって生産性を高めようとするネオリベラルな資本

ロジックに回収されたのだ。

   まぁこんな感じなので、非正規雇用の現場でグローバル経済と直面している俺なんかは、ポストモダン小説とか読んで2ちゃんねるで「記号の戯れ」とかやってないで、『蟹工船』でも読んで路上に出ろ! ということなのだろう。僕は散々言っているが、80年代の多幸的な祝祭は物質的基盤を失って2ちゃんねるで続いていると考えている。2ちゃんねるポストモダン状況であると思う。

   しかしながら工場とかで長時間労働している身にしてみたら、広告産業とかのような「記号の戯れ」とか、ふざけんな! 何が戯れだ! ということになってしまう。90年代の不況で「戯れ」性がなくなってしまった。そしてさらにポストモダン社会の特徴のひとつである「ポストフォーディズム」ってのも、工場なんだから、フォーディズムそのものになってしまう。そうすると反マルクス主義的側面を持っていたポストモダンが凋落してマルクス主義的なものが復活しかけている。これが現状。

   不安定な生、フリーターも、昔は肯定的な「スキゾキッズ」だったが、今はコンビニ漫画喫茶派遣の現場で「規律訓練」されて資本の論理に組み込まれた「奴隷」と化した。浅田彰をひっぱたきたいというわけだ。俺は工場の人とは違って、漫画喫茶なので、一応サービス業で、多少楽なので、スキゾキッズ的に「楽しんでやってる」とか言えるが、同時代の同世代はそうは言ってられないようだ。「戯れ」「祝祭」はなくなってしまったわけだ。

   もう一方、ネオリベラリズムは、スティグリッツの指摘によると、「自由」をイデオロギー的に信じすぎたアメリカの人間が盲目的に押し付けた結果であるということだ。だがどう考えても、その「新自由主義」の自由には二種類あり、金を持っているものの自由と、金を持っていないものの自由、という風に二種類に分かれている。金を持っているものは、税金も安くなり、規制緩和もされ、自由になったかもしれないが、労働者の多くは賃金が低くなり「不自由」になったのではないか。自由を追求していった結果、自由がなくなっていっている。社会的にもセキュリティ化で、「自由」は減ってきている気がする。この自由の二重の問題をどう考えるか。先のゼロアカ論文で「自由」を擁護すると書いたが、僕が擁護するべき自由は後者であり、前者は否定したい。「搾取し、抑圧する」自由とでも呼ぶべき強者の自由だ。

   つまり、自由だけではダメなのだ。自由を平等に配分すること、「平等」も大事なのだ。大澤真幸さんが、20世紀は「自由」と「平等」のバランスをやっていた時代だと言っていたが、自由を追求した結果、不自由になって、平等により自由を回復すると言う状況なのではないか。だからマルクス主義的なものが復活すると言うのも当然の流れだろう。これは完全に賛同できるのである。といっても革命やインターナショナルとかはほとんど信じない。そこは萱野稔人の意見に近い。資本主義の問題点を「修正」するという点に限定して肯定するのである。

   さらに言ってしまえば僕はマルクス主義社会主義が大嫌いなのだ。そういうのが支配的な文化である土地で抑圧されてものすごくムカついた経験が僕の思想の核にトラウマとしてある。だからマルクス主義的なものを擁護しつつ、一方では、それを否定し、乗り越えようとしたポストモダン的な部分に賛同するのである。

   かくして厄介な戦略を採るしかなくなる。社会主義とか、左翼のクソ真面目な正義感、正しさ、倫理を追求するあまりの苛烈な抑圧の暴力から逃れつつ、それでも「自由」と「平等」を志向し、その「自由」で戯れて遊び、ふざけまわるような、そんなものが可能であると言う状態を目指すしかないのではないのだろうか。

   僕がずっと書いている「笑い」や「2ちゃんねる」や「カーニバル」の問題は、結局この「自由」の問題なのだ。ちょっと抽象的なことになるが、僕が肯定するべきは、この路線でしかないだろう。

whitestonerwhitestoner 2008/06/27 14:41  小林多喜二さんの『蟹工船』が若い人に読まれる世の中よりも、黒井千次さんの『働くということ』が若い人に読まれる世の中のほうがいいなあ。

 あれいい本だし。

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