ブリーダー崩壊。このところしばしばこの言葉を耳にする。とはいえ、それは私がこうして犬関連の文章を書いているせいで、一般的にはまだまだ馴染(なじ)みのない響きかもしれない。
ブリーダー。崩壊。どことなく不穏なイメージだけは伝わるだろうか。
そもそもブリーダーとは、動物の繁殖を行う業者を指す。動物に子を産ませ、売るわけだ。犬の場合、少数の子犬を慎重に繁殖して希望者へ譲渡する良心的なブリーダーがいる一方で、1頭でも多くをペットショップへ卸すことしか頭にない業者も存在する。
ただでさえ、昨今のペットブームによって、ペット業界は目下、空前の売り手市場だ。どのペットショップも人気種の子犬を仕入れたい。よってブリーダーは子犬を産ませれば産ませるだけ確実に儲(もう)かることになる。もっともっと、と貪欲(どんよく)に利益を追求し、手に負えないほど多くの犬を抱えこんだ挙げ句に、経営破綻(はたん)。そんなブリーダーが後を絶たない所以(ゆえん)である。
個人経営のブリーダーの場合、経営者が行き詰まって店を畳めば、その日のうちに数十、数百の繁殖犬が商売道具から不要品に格下げされる運命にある。多くの犬が行き場を失い、そして犠牲になる。それがブリーダー崩壊だ。
今回はその一例として、約2年前に起こったある事件をご紹介したい。
「三重県でブリーダー崩壊が起こった」
和歌山を拠点とする犬の保護団体「wan life」。その代表である島田香さんの携帯電話にそんな一報が入ったのは、2006年8月18日のことだった。
「たった1人で100頭以上の繁殖犬を飼っていたブリーダーが、交通事故で入院したんです。最初はブリーダーの身内が面倒を見ていたようですが、やはり100頭も手に負えないってことで、犬たちは放りだされることになってしまって……」
ブリーダー宅の離れで飼われていた100頭のうち、状態のいい犬はブリーダー仲間たちに引きとられた。残された53頭に残された時間はあとわずか。3日後には保健所行きが決まっていたのである。
逡巡(しゅんじゅん)している間もなく、島田さんはその場で決断した。
「そんなら助けよう、って」
幸いにして、ブリーダーが飼っていたのは小型犬ばかり。中型犬や大型犬ならばいざしらず、純血種の小型犬ならば里親も見つけやすい。そう判断した島田さんの行動は速かった。
翌々日の20日にはワゴン車に乗りこみ、三重県へ出発。そこに見捨てられた53頭がいるという以外、詳しい情報を得られずにいた島田さんは、到着後、恐るおそる繁殖場へと足を踏みいれた。そして、そこで信じがたい生き地獄を目の当たりにすることになった。
wan lifeのホームページでも公開されているその繁殖場の様子を、一体どう描出すればいいのだろう。
耐えがたい悪臭に満ちた小屋。薄暗いそこには所狭しと錆(さ)びたケージが積み上げられていた。そして--糞尿(ふんにょう)まみれのケージ内には、恐らく一度も外へ連れだしてもらったことのない犬たちが、3歩も歩けないような狭い空間に幽閉されたまま、かろうじて命を繋(つな)いでいた。
目が潰(つぶ)れ、膿(うみ)が出ているヨークシャーテリア。盲目のチワワ。顎(あご)の骨が壊死(えし)したシーズー。ほとんどの犬がノミアレルギーで全身の毛を失い、想像もつかない痒(かゆ)みに耐えていた。又(また)、栄養失調のせいでほとんどの犬の歯がボロボロだった。
「ひどい有り様でした。どうやったらこんなことになるの、ってくらい」
太陽など浴びたこともないのだろう。満足なフードも与えられず、いったいどれだけの年月をこの繁殖場で耐え忍んできたのか? 〓(や)せ衰えた体で何頭の子犬を出産させられたのか?
「あんなのブリーダーじゃありません。ただの繁殖屋です。私にはブリーダーの友人もいますが、ちゃんとやっているブリーダーは儲けていませんよ。良い環境を保持して、いい餌を与えて、運動をさせて……ちゃんとやったら赤字になるんです。それに、繁殖犬の体を考えて、5歳を過ぎたらもう子は産ませません。その一方で、悪質なブリーダーは癌(がん)で余命わずかな犬にさえ子を産ませるんです。ただでは死なせへん、って」
ただでは死なせへん。それが、「可愛い子犬」を商っているペット業界の見えざる裏側だ。
これまで数々の繁殖場を見てきた島田さんも、この三重の現場の凄惨(せいさん)さには目を覆ったという。
生きているのが不思議なほどに弱り切った犬たち。なのに、島田さんの姿を見た彼らは千切(ちぎ)れんばかりに尾を振り、喜んだ。こんな目に遭っても、人間を嫌いになれない。それが犬の哀(かな)しさだ。
「全頭、必ず生かして、幸せにしてみせる」
そう決意した島田さんはただちに救出を開始した。
持参したケージやキャリーに次々と犬を入れ、ワゴン車へと運びこむ。1頭残さず和歌山へ連れ帰った。
島田さん宅ではその日、wan lifeのスタッフたちが53頭の到着を待っていた。知り合いのトリマーや獣医師も応援に駆けつけてくれた。全員がボランティアである。
痛みと、痒みと、空腹と、悪臭と--苦痛のなかでのみ生きてきた53頭の、幸福への一歩がはじまった。(作家)=次回「ブリーダー崩壊<下>」は7月11日掲載
毎日新聞 2008年6月27日 東京朝刊