Excite エキサイト : 社会ニュース <朝日「死に神」報道>犯罪被害者の会が抗議
以下引用。 死刑執行の件数を巡り、朝日新聞18日付夕刊1面のコラム「素粒子」が鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した問題で、全国犯罪被害者の会(あすの会)は25日、朝日新聞社に趣旨の説明を求める抗議文を送付した。 文書は「感情を逆なでされる苦痛を受けた。犯罪被害者遺族が死刑を望むことすら悪いというメッセージを国民に与えかねない」と抗議した上で、「法相の死刑執行数がなぜ問題になるのか」などと回答を求めている。 同社広報部は「真摯(しんし)に受け止め、速やかにお答えする」とコメントした。 新聞はまったくといっていいほど読まない。 だから、ネットで話題になった時くらいしか、新聞のことは考えたことがない。 今回は、相次ぐ死刑執行を朝日新聞が風刺するつもりで、法務大臣を「死に神」と表現したことが、犯罪被害者の会の怒りを買い、物議を醸しているらしい。 記事を読んでいないのでこのニュースから判断するしかないが、下劣この上ない表現だ。法務大臣は、あくまでも法律に則って、厳正に死刑を執行したまでであって、その行為は法治国家にあっては当然のことだろう。その法務大臣を、自称800万部の大新聞が、「死に神」と罵ったというのだから、新聞の卑しさもここに極まれり、ということか(大体、この場合「死に神」と形容することは日本語の使い方として正しいのだろうか?よくわからん、教えてーエロい人ーw)。下手をすると、これは法治国家に対する重大な挑戦なのかもしれない。 死刑制度に反対するなら、反対だと正々堂々論陣を張ればいいわけで、このように法律に従って死刑執行サインを出した法相を「死に神」と罵るのは筋違いという以前にたんなる阿呆だろう。 まあ、所詮、新聞なんてこの程度のオピニオンだということだ。 それをありがたがって拝読している気が僕にはわからない。 だいたい、決まった新聞が毎日毎日同じ時刻に家に届くというのは、考えたら恐ろしいことだ。 同じ新聞社から垂れ流される情報の洪水を毎日毎日浴びているということなのだから。 しかも、その情報というのが、ほんとに新聞社がいう中立で客観的なものなのかははなはだ疑わしいのだから。 このような強固な宅配制度というのは世界的には珍しく日本特有のものなのだそうだ。そして、そのような制度がいまの新聞の特権的な地位を支えているというのなら、こりゃ考え物だろう。 新聞なんて読みたいときにキヨスクで買えばいいだけの話なのではないだろうか。 すくなくともこの高度情報化社会において新聞を宅配で頼むという意義はもはや無いだろう。 まあ、けど、朝日はよかったんじゃないかな。 このようなくだらない記事にも1800件も抗議を寄せてもらえたというのだから。 それだけまだ相手にされているんだから幸せだろう。 いや、単にバカにされているだけなのかなw 本を読むとき、どこで読むのが一番良いんだろうか?
なにげに僕の中での重要な、そして永遠の問題です。 そして、どこで読むのかということとともに、音、つーか雑音が僕にとっては、読書をするうえでとても深刻な問題なのです。 最近、ある本で、とある評論家がずっと電車の中で本を読んでいる、とおっしゃっているのを読んで、なかなかいい試みだと思って僕も実践してみました。 大阪の阪急電車を使って、宝塚から梅田へ、梅田から京都の河原町や神戸の三宮へ、電車に乗りながらの読書。景色を眺めながらの読書はなかなかイイものでした。 けれど、電車の中にはいろいろな人がいて、ぺちゃくちゃおしゃべりに余念が無い人、周りに音を漏らしながら音楽を聴いている人、体臭のする人、傍若無人に振舞う人・・・など、読書の妨げになることが頻りでした。 もちろん、そんなところで読書する奴が悪い!と言われればそれまでなのですが、僕にとってとりわけ雑音は読書の大敵。もう少しみんな静かに過ごしてくれないかなあ~とどこへいっても思ってばかりいます(汗) 今の世の中、賑やかさがないとどーも落ち着かない人たちが多いのかなあ~ テレビメディアと戯れていることで、ブラウン管の向こう側に広がる派手な世界こそが正常であると思い、それに影響されてまるで芸能人にでもなった気分で自分の周りの世界にもそんな派手な世界を演出しよう、としている人もいるのかもしれません。 読書をしたい僕なんかは、もっともっと静かな空間ができればいいのになあ~ そういう空間が日常的に自然な形で共有できればそれに如くは無いのになあ~ なーんて思ったりするのですが、 そういう人間は、テレビメディアが華やかなこのご時世、まっさきに迫害されるのかもしれませんw 最近、日本語についての本をちょくちょく読んでます。
いろいろ読んでると、知っているようで知らない日本語がまだまだたくさんあるんだなあ~ と痛感します(もちろん、小生が浅学非才なだけかもしれませんが・・・) もちろん、日常の生活を営む分なら、そんなに日本語の語彙力が豊富でなくても難なくやっていくことはできるのでしょうが、文学作品を読むときとかにはできるだけいろいろな日本語を知っているに越したことはありませんし、 なによりも自分で文章を書くときとかに、新しく知った言葉を使うのは新鮮で気持ちが良いものです。 語彙力が増えると、なんだか頭が良くなったんじゃないかなあといううれしい錯覚も起きるし、それがまた新たな知識欲を湧かせてくれるような気分になります。 もしかして、これらは、あらゆる言語を学ぶ時に抱くことなのかもしれませんね というわけで、僕が知らなかった日本語の一端をアットランダムに↓ 「卒爾ながら」 「内股膏薬」 「赤い信女」 「刀自」 「一揖する」 「駕を枉げる」 「薩摩守」 ・ ・ ・ ・ うーん、まだまだ知らない言葉はたくさんあるなあ~ 日本人としてもっと美しく、楽しい日本語をたくさん知る努力を倦まず弛まず続けなきゃ、と気持ちが新たになります。 大阪は暑いです。
しかも断続的な雨。 湿気でムシムシした空気。 同じ日本でも東京と大阪ではかなり気候が違うように思います。 東京のほうが過ごしやすいんじゃないかなあ~? こんな雨と湿気の生暖かい日が続く時の読書は、どんな本がいいんでしょうか。 僕は、志賀直哉の小説を読んでいます。 こういう天候の日々では、カラッとした明るい小説は僕にとっては読みにくいです。 おちゃらけてるのもダメかな。 その点、僕には、志賀直哉の小説はこんな天候にしっくりきます。 読書だけじゃなく、映画も無性に観たくなってきた今日この頃です (久しぶりに映画三本借りてきました) なかなかブログ更新せず。。
更新しなきゃ。 最近読了した本を。 ・干刈あがた『借りたハンカチ』(新潮文庫) ・佐竹秀雄『サタケさんの日本語教室』(角川ソフィア文庫) ・団鬼六『快楽なくして何が人生』(幻冬舎新書) ・大江健三郎『ピンチランナー調書』(新潮文庫) ・小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論3』(幻冬舎) ざっとこんな感じです。 干刈あがたの小説は好きだ。本作は、短編集。高度消費社会の中で、漂流していく個人の運命をうまく捉えているような、そういう作品が多いように思う。不登校になる女子中学生を描いた長編『黄色い髪』(朝日文庫だったかな?)も良かったなあ。総じて、干刈あがたの作品は、80年代の雰囲気がよく掴める小説といえるんじゃあないだろうか。代表作の『樹下の家族』も読まなきゃ。。 団鬼六のは、語り下ろしの新書。快楽的な自叙伝。筆者の生い立ちもさることながら、筆者がこれまで出会った特徴ある人たちについての記述はとても面白い。筆者は、末期の腎不全だそうだ。大丈夫なんだろうか。。。 『ピンチランナー調書』は長編。脳に障害のある森とその父の冒険の物語だ。大江健三郎の長編って、様々なテーマが織り込まれていてなかなか手短に論じることは難しい全体小説になっている。含蓄に富む浩瀚な作品なのだ。本作も、核の問題、トリックスター、戦前に通じる人を支配する父権的なイデオロギー、革命党派の問題・・・など、読み手を考えさせ、想像力を喚起するような問題が多岐に渡って描かれている。力作だ。この著作についての感想は、また、別の機会にいろいろ書いてみたいな。 小林よしのりの『戦争論3』は、イラク戦争前後のアメリカ及び日本がテーマになっている。アメリカへの強烈な批判とともに、日本国内の親米保守へ批判の矛先を向けていることがこの本の特徴。内容的には、昨今話題になっている沖縄の集団自決に関する「沖縄戦神話の真実」の章と、現在のアメリカの帝国主義的な振る舞いに通じる過去500年間に及ぶ白人(主にアングロサクソン)の歴史を描いた「侵略と虐殺の世界史」の章がわかりやすかった。そこらへんの世界史の教科書を読むよりも歴史の流れが理解できて頭に残る内容なんじゃないかなあ。 以上、簡単に感想をしたためてみました。。
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