think or die :
1970年代生まれの
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わかりやすさ症候群
日本企業の根本的な限界
1998/10/24

先日、小集団活動の成果発表の課内での予行演習があった(いつもより具体的なでだしで期待できますねぇ)。活動の成果物を作ったのも、プレゼンテーションの「ストーリー」を作ったのも、実質的には僕である(小集団活動なんかをやってるヒマがあるのは僕だけということ)。

プレゼンの「ストーリー」を作るときに、僕としては、なぜ××の問題に突き当たったのかという過程を理論的にあとづけるようにした。そこでプレゼンの内容も抽象的なテーマからはじめて、具体的な成果に降りてゆくという演繹的(deductive)な順序でまとめた。

だが、課内の予行演習で上司に指摘されたのは「順序が逆だ」ということ。つまり、具体的な問題から成果へつなげる帰納的(inductive)な「ストーリー」が望ましいということだ。

僕は「なるほど!」と思った。

日本のサラリーマンは、演繹が苦手で帰納的にしかものを考えられない。だから、ISOの品質管理システム・環境管理システムや、コンピュータのOSなど、世界のデファクトとなるものを生み出すことができないのだ!僕の会社にも日本的な帰納法はしっかりと根づいている。

小集団活動というのは、日本的な「改善」活動の中心的役割をになっている。そもそも「改善」とは何か?それは、現場の担当者や作業者が、現場の具体的な問題点を少しずつ良くしていこうということだ。

そこには、根本的な考え方の変更はまったくない。あくまで従来の発想の延長線上で少しずつ良くしていくというのが「改善」である。

しかし、この手の「改善」運動は、あきらかに形骸化してしまっている。現場の努力でどうにかなる問題というのは少なくなり、むしろ時代の要請として、全体的な仕事の流れを根っこから見直すことが求められている。

でも、日本の会社はなかなかそれができない。なぜか?

日本のサラリーマンは、どうしても帰納法でものを考えるからである。しかも、正しい帰納法は、具体的な事実を抽象的な原理原則にまで高めるものだが、日本のサラリーマンは、いつまでたっても具体的な事実のレベルにとどまることしかできない。抽象的なことを抽象的なまま考える能力がないのだ。

日本の実業界には、たしかに抽象的な思考をバカにする文化がある。

経済企画庁の堺屋太一氏は、なにかというと「いつまでも評論家ブッてないで具体的な成果を!」と新聞でたたかれるが、こういう新聞社の発想がそのさいたるものだ。むしろ彼のように、具体的な問題を抽象的な命題にまで高められる「評論家」が入閣したのは、今の日本にとって大きなプラスになる。

しかし日本の実業界では、現場で汗にまみれてドロくさい仕事をしてきた人物の、具体的でわかりやすい発言しか尊重されない。

全員のコンセンサスがないと前に進めないのが日本企業。したがって、全員に理解できる言葉しか受け入れられない。いつまでたっても問題意識を抽象的なレベルにまで高めることはできない。

日本企業の「わかりやすさ症候群」のせいで、いつまでも具体的レベルの「改善」にしばられ、根本的な「改革」に到達できない。

ERPの導入にしたって、現場の具体的な問題を優先して原型をとどめないまでにカスタマイズを繰り返す。ERPにあわせて業務を「改革」することはできない。

ISOなど世界のデファクトになるような規格や、製品を生み出せないのも根は同じだ。日本企業は現場の具体的な問題を、抽象的なルールや基準にまで高めることができないのである。

「わかりやすさ症候群」は日本企業の「悪しき平等主義」からきている。だれもが分かることでないと、だれも動かない。しかしこの変革の時代には、一部の社員だけにしか分からない専門性の高い議論にもとづいて「改革」に踏み出せるかどうかが重要なのではないか?

そして、日本企業が組織として抽象的な問題をあつかえるような体質に変われるかどうかは、残念ながらさしあたり具体的な「改善」に頼るしかない。

現場の上司が「もっとわかりやすく」「具体的に」などと、中途半端な帰納法にこだわっている限り、成熟した経済にふさわしい抽象的な思考のできる企業へ脱皮することは、永久にできないだろう。

...と思うのだが...。