2008年6月26日(木) 東奥日報 天地人



 命の誕生を見守り、喜びを分かち合ってきた人たちが、その仕事をできないとは。不安や焦りの日々に「もう一度」の思いが切なく巡る。十和田市立中央病院に働く助産師たちの、そんな声が先日の本紙にあった。医療のゆがみが地域の危機を深めてやまない。

 かつて産婆(さんば)さんと呼ばれた人たちがいた。自宅で出産する女性も多かったころ、町や村では彼女たちが頼りだった。助産だけでなく、もろもろの相談にもあずかった。地域の女性たちの相互扶助を担った人たちに、尊敬と親しみを込めた呼称だった。産婆さんに取り上げられ、その後もあれこれと世話になった世代には、懐かしい響きの言葉か。

 八戸の亀徳(きとく)しづも、そんな先達の一人だった。明治三十年代末に助産院を開き、八戸産婆会も設立、助産師の技術向上と産む環境の改善に努めた。日々あちこちへ駆け回る姿は、キツネのお産にも呼ばれたほどとの逸話を残している。その命への無償の愛は半世紀余にわたり、今も語り継がれている。

 産婆から助産師へ、自宅出産から病院へ。この移り行きは医療の前進や厚みを物語ることではなかったのか。けれど現実は「お産難民」が懸念されるほど崩壊の危機にある。医師不足の底は見えず、助産師の本来の場所も狭まるばかり。政治や行政の無定見が招いたつけだ。

 十和田の助産師たちの思いは、県内そちこちの声でもあろう。せっかくの技術と意欲を腐らしては命の風景がやせていく。「希望は捨てません」との言葉は重い。


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