批判いろいろ
・「お寺との接点は、葬式・法事ばかり、実際、何をしてくれるのですか?」
・「シュウキョウなんかで救われるのですか?」
・「今まで親の世代のジジババは何となく因習に乗っかってやってたけど、俺らの世代になったら、お前ら坊主なんて相手にされないし、通用しないよ」
以上は、ここ最近会った人達からワタクシに投げかけられた言葉の内容の数々をまとめたものである。
批判も、皮肉も、僕や坊さんに対する「愛のムチ」と捕らえ、真摯に受け止めさせていただく。
批判も皮肉も、
(1)きちんと批判する相手を「取材」したり、「勉強」した上で出てくるもの
と、
(2)漠然としたイメージや、好みや、思いこみの世界から導き出されるもの
がある。
意見を言う人が(1)なのか(2)なのかは、その人の話の内容を吟味すればすぐに分かる。
そして、(2)の人とは、たぶんずっと分かり合えないだろうな・・・というアキラメを感じる。 なぜならば、(2)の人は、「自信満々」だし、「善人」だし、「常識人」であるし、「評論家」である場合が多いから。(だからこそ、きちんと勉強してなくても相手に意見を言えてしまうのだ。つまらん。)
だから、僕は、(2)のような批判ならビビらないようになった。
僕は、思う。
「葬式でしか接点がない」からこそ、その「葬儀」という場で、僕は、仏教の中味を「表現」させていただく。亡き人の「死」を通じて、「生」を学ばせていただく。 そこから、やがてお寺への「ご縁」が生まれる方もいるのだ。だから、「葬儀」という接点を、その後のキッカケへなるように大切にする。
「次世代には、相手にもされず、通用もしなくなる」というならば、変な言い方だけど、その相手にされなくなった時点でケツをまくればいい。少なくとも、「世襲制」は俺の代で終るつもり。申し訳ないが、寺の「未来」などどうでもいい。今をキッチリ積み上げるしか考えられないから。 ホネのある「次世代人」が、やりたいなら、受けて立てばよい。
そして、「救い」は何なのか?
単純に自分の都合が叶う事ではなく、釈尊の教えを学びながら、自分の都合を「基軸」にしてしかモノを見れていない自分に先ず気づくのだ。そして、そんな自分自身を確認しながら、成長させていただく、その歩みの中にあるのだ。
ある意味、苦しみなんてなくならない。悩みなんて消えない。
喜び、哀しみ、山あり谷ありの人生を、今、現在、こうして、くじけずに、歩けていること、いや、歩かせていただいていること。そこを「救い」と言わずして、どこにそれがあるのか?
自分の現状の不満を、他人やら、占いやら、方角やら、日の良し悪しやら、オーラやら、前世やら、先祖やら、霊などの責任に押しつけて、右往左往してフラフラしなくてもいい歩み。
そんな自分の、頼りなくも一歩一歩の歩み、そのものが愛しい。
そして、同じ道を往く「仲間」が愛しい。
同じ道を往く仲間は、(1)の批判を真っ直ぐにくれる人。
僕を、現状に座り込ませず、育ててくれる人。
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