2008年6月24日 (火曜日)

批判いろいろ

 ・「お寺との接点は、葬式・法事ばかり、実際、何をしてくれるのですか?」

 ・「シュウキョウなんかで救われるのですか?」

 ・「今まで親の世代のジジババは何となく因習に乗っかってやってたけど、俺らの世代になったら、お前ら坊主なんて相手にされないし、通用しないよ

 

 以上は、ここ最近会った人達からワタクシに投げかけられた言葉の内容の数々をまとめたものである。 

 批判も、皮肉も、僕や坊さんに対する「愛のムチ」と捕らえ、真摯に受け止めさせていただく。

 批判も皮肉も、

 (1)きちんと批判する相手を「取材」したり、「勉強」した上で出てくるもの

 と、

 (2)漠然としたイメージや、好みや、思いこみの世界から導き出されるもの

 がある。

 

 意見を言う人が(1)なのか(2)なのかは、その人の話の内容を吟味すればすぐに分かる。

 そして、(2)の人とは、たぶんずっと分かり合えないだろうな・・・というアキラメを感じる。 なぜならば、(2)の人は、「自信満々」だし、「善人」だし、「常識人」であるし、「評論家」である場合が多いから。(だからこそ、きちんと勉強してなくても相手に意見を言えてしまうのだ。つまらん。)

 

 だから、僕は、(2)のような批判ならビビらないようになった。

 

  

 僕は、思う。

  「葬式でしか接点がない」からこそ、その「葬儀」という場で、僕は、仏教の中味を「表現」させていただく。亡き人の「死」を通じて、「生」を学ばせていただく。 そこから、やがてお寺への「ご縁」が生まれる方もいるのだ。だから、「葬儀」という接点を、その後のキッカケへなるように大切にする。

 

  「次世代には、相手にもされず、通用もしなくなる」というならば、変な言い方だけど、その相手にされなくなった時点でケツをまくればいい。少なくとも、「世襲制」は俺の代で終るつもり。申し訳ないが、寺の「未来」などどうでもいい。今をキッチリ積み上げるしか考えられないから。 ホネのある「次世代人」が、やりたいなら、受けて立てばよい。

 

 そして、「救い」は何なのか?

 単純に自分の都合が叶う事ではなく、釈尊の教えを学びながら、自分の都合を「基軸」にしてしかモノを見れていない自分に先ず気づくのだ。そして、そんな自分自身を確認しながら、成長させていただく、その歩みの中にあるのだ。 

 ある意味、苦しみなんてなくならない。悩みなんて消えない。

 喜び、哀しみ、山あり谷ありの人生を、今、現在、こうして、くじけずに、歩けていること、いや、歩かせていただいていること。そこを「救い」と言わずして、どこにそれがあるのか?

 自分の現状の不満を、他人やら、占いやら、方角やら、日の良し悪しやら、オーラやら、前世やら、先祖やら、霊などの責任に押しつけて、右往左往してフラフラしなくてもいい歩み。

 

 そんな自分の、頼りなくも一歩一歩の歩み、そのものが愛しい。

  

 そして、同じ道を往く「仲間」が愛しい。

 同じ道を往く仲間は、(1)の批判を真っ直ぐにくれる人。

 僕を、現状に座り込ませず、育ててくれる人。 

 

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2008年6月23日 (月曜日)

完敗

食事の時間。


まず、父がむせた。激しく咳き込んでいる。「またか〜 いつも食事の時、そうなるよなぁ…」と僕は呆れる。


しばらくすると、
次に、母がむせた。激しく咳き込んでいる。「あぁ、賑やかだなぁ。むせるのは我が家の飯時恒例のセレモニーか!?」 と僕は呆れる。

しかし、
そのあと、
僕もむせた。激しく咳き込んでしまった。先ほど両親を呆れた自分が恥ずかしくて、なんとか態勢を立て直そうと頑張るが、一向に咳は止まらず、僕は涙目になりながら、咳き込み続ける。


でも、両親はそんな僕の姿を見ても呆れてはいない。むしろ、心配してくれる……

ハイ、
僕の完敗(^_^;)

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2008年6月19日 (木曜日)

オールナイトニッポン40周年記念 ドリームコンサート

昨日(6月18日)は、札幌・厚生年金会館での

「オールナイトニッポン40周年記念 ドリームコンサート」

に行ってきた。http://www.adash.jp/ann2008-0618.html

出演する9人のアーティストの中には、我が師匠・みのや雅彦の名前も。

行こうか行くまいか当日まで迷っていたが、午後のお参りの予定がキャンセルになり、「時間的にまだ間に合う!!」という事が判明。

「最近、師匠の歌うとこ見てないなぁ・・・」と思いながら、カーラジオで師匠のラジオ番組を聴いてたら「当日券あります」と言っているのを耳にしたら、

もう~~~、いてもたってもいられなくなり、

急遽、札幌に車を走らせていた!!!

師匠のCDを聴きながら運転をしていたら、あっという間に札幌に着いてた。

さっそく「当日券」を買おうとならんでいると、見知らぬご婦人が「主人が急に来れなくなったので……」と声をかけてくれたので、チケットをその人から買った。 だから幸運にも、当日券よりも前方の席に座ることができた。

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あと、会場入口前にいたら、久しぶりに会うファン仲間の方と会えて、話せて嬉しかった。

このコンサートの9人の出演者は、宇崎竜童・山本潤子・尾崎亜美・ばんばひろふみ・中村中・原田真二・細坪基佳・クミコ、そしてみのや雅彦師匠。

  

午後6時半の開演時間。喜瀬ひろしアナの司会で、出演者が順番に登場。

師匠が現われた!会場からは「みのや!!」という声援が飛ぶ。みんなで師匠を盛り上げようという雰囲気。僕も周囲の目をはばからず、大きな拍手を贈った。

出演者全員で、「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌い、まずトップバッターに師匠が紹介される。  

やはり師匠がトップバッターか・・・。やはり「知名度」の問題か・・・。

僕の中に、室蘭で4月に行ったコンサートでの「前座」の場面が蘇る。《4月の当ブログ「オープニングアクト」を参照(http://minoyamakono.way-nifty.com/tomo/2008/04/post_5b7a.html)》

でも、今回のコンサートは、室蘭の時とは違った。師匠は「出演者の1人」だった。

  

たしかに、会場にはビックネーム目当てのお客さんが多数だっただろう。でも、師匠は、そんな予備知識のない観客も含めた会場を引き込んで、MCで笑わせ、「笑えないピエロ」と「夢しかなかった」をキッチリ歌い上げた。

この「オールナイトニッポンドリームコンサート」の為に編制されたバックバンドの演奏が、他の出演歌手にはサポートされていたけど、師匠はいつも通りの「ギター1本スタイル」だった。

そう、

ギター1本スタイル。

札幌ローグでの「マンスリーライブ」に通ってた頃。月に1度、師匠の歌を聴けることが楽しみだった。ギター1本でシンプルなのに、その剥き出しの声が、歌詞が、メロディーが、師匠の人生ドラマを伝えてくれた。バックバンドなんかなくたって、迫力・気迫が僕にビンビン伝わり、「人生を喰らう・噛み締める」というみのや雅彦の「生身の姿」を見せてくれた。

そんな師匠のライブをいつも「少人数」で独占していた。懐かしいなぁ・・。

  

今。

すっかりSTVラジオの「昼の顔」になった師匠は、北海道内でも「あの頃」のような位置にいなくなった。ライブも減って、ラジオ番組でもあまり歌わなくなったから、「生の歌声」を聴くことが貴重になった。

だからこそ、昨日のコンサートでの2曲は、ものすごく僕の胸に響いた。何度も聞き慣れた曲なのに、その時間の密度がものすごく濃かった。

小さなライブハウスも、

ウチのお寺でコンサートをしていただいたときも、

そして、

昨日の札幌厚生年金会館の大ホールも、

師匠の「姿勢」は「同じ」だった。

  

だから、 

やっぱり師匠は、すごい。

いつでも、「そのまま」の師匠で勝負しているから。

どんな場面でもゴマカシなく、ひたむきに歌うその姿は、

(お馴染みの大ヒット曲をチラッと歌い出せば、観衆みんながウットリ、納得するビックネームの出演者も、もちろんスゴイとは思うけど・・・・)

20年以上、師匠の「ストーリー」を見てきた僕にとって、昨日の出演者の中で、師匠は、一番カッチョよく、輝いていた。

 

 

  

「ドリームコンサート」という名の通り、9人の出演者が2曲ないし3曲を披露した豪華なコンサート・・・・。師匠のあとに8人を立て続けに、しかも「有名な曲」ばかりを聴いてたら、ちょっとお腹いっぱいって感じ(笑)。

宇崎竜堂さんが最後を閉め、その後、9人全員が再びステージに登場。山本潤子さんが中心になり「翼をください」を歌い終了。

最後に着ていた師匠のノースリーブの衣装・・・、俺、同じの持ってます(笑)

  

 

そういうわけで、

昨日、

札幌まで行って良かった。

次はいつ、師匠の歌に逢えるだろうか・・・・。

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2008年6月17日 (火曜日)

仕切り直し

 このブログは、もう「公然のヒミツ」ではなくなってしまいました。

 どうやら、親が閲覧しているようであります(笑)。

 ネットとは言え、「身内」に「日記」を読まれるくらい恥ずかしいことはありません。

 

 ・・・・・このブログ「朋~KONOの気持ち~」を初めて3年。みのや師匠のブログ開設の翌日に僕もマネをして始めたブログ。自分の気持ちを「みのや雅彦師匠」に伝えたくて開始したブログでありました。

 いつのまにか、色んな方に見ていただくようになり、コメントやメールを頻繁にいただきながら、励まされたり、学んだり、支えていただきながら、日常の中で感じた色んな事を綴ってきました。

 自分の内面を文章として「表現」することは、自分の気持ちの整理にもつながり、「現在地」を確認しながら日々を歩む、大切な「生活の一部」にもなっておりました。

 そして、何より、「密やかな楽しみ」でした。

  

 しかし、3年もやっていれば、近隣の人や、見て欲しくない同業者にもバレバレになってしまい、その中の「口の軽い誰か」から身内へとバレてしまう・・・という展開は予想された事であり、当然といえば、当然であります。

 当初の予定では、「身内にバレタ」時点で、このブログ「朋~KONOの気持ち~」を閉鎖して終了する予定でおりました。

  

 でも、そんな「後ろ向き」な事ばかり考えていても仕方有りません。

  

 ここいらで、このブログの方向性を考え直す時期に来たのだと思います。

  

 そこで・・・・ 

 このブログを、ウチのお寺の「オフィシャルブログ」にして、檀家さんを含めた皆さんにも公開していきたいと考えています。お寺から送付する手紙とか文書に、このブログのURLを載せたいと思います。

  

 だから、

 今までのとニュアンスが変わるかもしれませんし、変わらないかもしれません。

 「お坊さんブリッコ」したワザトラシイ内容になるかもしれません。

  気がつけば、「別ブログ」を内緒で立ち上げて、ここでは吐き出せない事を綴っているかもしれません・・・。

  

  

 ま、何はともあれ、

 このブログ、「朋~KONOの気持ち~」を仕切り直します。

 

「密やかな楽しみ」から、責任ある「表現者」へ

  

今後ともよろしくお願いいたします。

 

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2008年6月16日 (月曜日)

かわいいサイボーグ

かわいいサイボーグ

先週、札幌での法話ライブの帰りに、実は見に行ってしまった映画「僕の彼女はサイボーグ」

ま、恥ずかしながら私、綾瀬はるかのファンなので、ホントに良かったです、ハイ。(またこういうネタを書くと、ツッコミを入れられるのが恥ずかしい)

ストーリーとして、「時空を超える」という展開が好きなんです。見終わった後にストーリーを反芻しながらじわじわ余韻に浸れるから。
過去のあのシーンは未来の彼女がやって来て、それは未来の更に未来にいる彼女が今の彼に恋をしたからで…
なんて色々考えていると、時間的に辻褄が合わない部分が残り、もどかしくなって、その不思議さが時空を越えているから、また考えこんでしまったりして(笑)

しかも、綾瀬はるかの可愛さがスクリーンいっぱいに拡がるので、はい、私としては最高の映画でした。(またこういう事を書くと、ツッコミを入れられる…)

で、本屋で買うのは恥ずかしいから、ネットでこの映画のメイキング本や公式ガイドブックを注文し、それが今日届いたのでした。(またこういう事を書くと……)
ついでに、やがてこの映画がDVDになったら欲しいっす。

あと、この秋に公開になる綾瀬はるか出演の時代劇映画「ICHI」も楽しみダス。(http://wwws.warnerbros.co.jp/ichi/)

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私のための営み

あるお宅に月参りに行ったとき、いきなり奥さんがこう言った。

「お参りの方向が、逆だったんですね!」

何のことか分からず、よく話を聞いてみると、浄土真宗ではない他の宗派の親類のウチで法事があり、そこでみんなが話している内容を聞くと、

こうしなきゃ亡くなった人が浮かばれない、とか、

これをきちんとしないと供養にならない、とか、

亡くなった人のためにコレコレこういうことをしないとダメだ、とか・・・・

話の内容が、亡くなった人に対する事ばかり。 みんなそれぞれの長年の経験から培った「考え」を吟味点検することなく主張するから、話す内容がバラバラで、そこに「仏教の教え」はなかった、ということ。

で、奥さんは冒頭の言葉を言ったのである。

他宗派は「死んだ人のため」という方向性でお参りするけど、浄土真宗は「お参りの方向が、逆だったんですね!」と・・・。

つまり、浄土真宗の法事や法要すべては、この私が「教えに会う」ことがメインになっている。

いや、他の宗派だってそうなのだ。

お経はそもそも「お釈迦様の話した教え」が書き留められたもの。内容を紐解けば、「私のため」に書いてあるのだ。【般若心経】だって、この世のものの起こり方、存在の仕方を「空」と見つめて、自分の枠(執着)から解放された人生の歩みを教えている・・・亡くなった人に子守唄みたいに聞かせるものではなく、この私が聞き、学び、会わなければならない内容が示されている。

でも、いつのまにか、自分不在の、いや、自分が不在じゃなくても、自分の都合を守るために死者を供養する為の仏事に傾いてしまった。

いや、僕はこの「供養」という言葉も嫌い。その「供養」というキーワードを簡単に言いすぎることで、誤魔化していることが多く感じる。

まず、

私にとって、いま、今日、現在、ここで、亡くなった人(先祖)は、どのような「存在」となっているのか?その1点を問うてみるのだ。

(A)法事や「供養」を忘れたり、怠ったりしたら、我々に何か「災い・不幸」をもたらしてくる「悪霊・怨霊」の類(たぐい)なのか?

(B)私に先立って「命」を教えてくれる「仏(先生)」なのか?

・・・・・こう尋ねると、「もちろん(B)。「仏さま」です」と答えるだろう。

しかし、たまたま災難・不幸が続き、インチキ占い師に見てもらい、その不幸の原因が「先祖じゃ!!!」・・・・な~~~んて言われようものなら、血相を変えてお寺にやってくる人がいる。

不幸の矛先をすぐに「先祖」の責任に結びつけ、先祖を「悪霊」にしていることにも気付かずに。そう、教えの中身も、お寺にも何にも興味も示さない人が、法事の周り年になると、血相を変えて現れる。そして、週末は法事のオンパレードになる。

それでも、「法事」といっても、「教えに会う」ものではなく、

「はい、これで安心しました」

「親類への面目を保てました」

「これで天国から守ってもらえるね

・・・・大半はそんな反応でしかない。

いや、もちろん、法事というキッカケで滅多に会えなくなった遠方の親類一同が集まって、「お食事会」「懇親会」をする・・・というのも大事なことである。僕だって、親類一同で集まってワイワイと盛り上がってみたい。最近さびしいから・・・。(苦笑)

でもなぁ、僕は、

「亡き人をワルモノ」にして、それを鎮めるための「法事」として勤めようとしているニュアンスの人を見ると、つい言葉が喉まで出かかってしまう・・・・。

なにも、そんなに意固地になって法事なんかしなくたって大丈夫だって。化けて出ないって。法事をしたってしなくたって、どっちだって、関係ないって。

極論を言えば、

亡くなった人が迷っているのではなく、生きている私たちが迷っているのだ!!

としっかりとおさえておけば、問題はクリアーになる。

  

何が言いたいか?

法事なんてしなくていい!

ということじゃない。

法事をするなら、仏教の「中味」も知ってください、ということ。

勝手に「仏教」を改編しないでください、ってこと。

  

親鸞様の言葉が収録された「歎異抄」第5章では

「親鸞は父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まふしたることいまださふらはず」(訳・わたくし親鸞は、父さん母さんの追善供養の為に、1回も念仏を言ったことなど未だかつてありません)

と言われている。

この「念仏」という言葉を「法要」とか「法事」に置き換えてみてもいい。

浄土真宗の宗祖・親鸞聖人ご自身が「亡くなった人の為ではない!」とおっしゃっているのである。

そして、前にも紹介した本ですけど、

去年の5月、京都の本山の「住職修習」でご一緒した「ぐり♪さん」のお爺さまが、この第5章に対する「受け止め」を述べられている一節を紹介する。

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 どうかすると先に死んだ人のために追善供養をするように思うのが律儀のようである。ほんとうの習わしはそうではなく、先人の死によって自分が「死」を学びとることなのである。そうすれば死んだ人は私のために仏の使いとなって世の無情を教えてくれる尊い方となって拝まれよう。

 追善供養はむしろ私のための営みであった

  

※【高光一也著 『別冊ひとりふたり これでよかった ~私の歎異抄ノートより~』(昭和59年 法蔵館)P.22】

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2008年6月15日 (日曜日)

瞬間

 

 「瞬間」に押し寄せる感覚。

  

 恐怖も喜びも。

 怒りも愛しさも。

  

 その「瞬間」が、その後に続く「時間」の流れを導き出していく。

 

 ステキな「瞬間」が積み重なったらいいよね。心の天気模様もコロコロ変わるから(笑)。

 

 「食べる」のが好きだ。

 好きな人と「食事」をする時間が好きだ。

 何気ない会話の「瞬間」に、幸せな時間が流れていく。

 

 そう言えば、みのや師匠の歌の中にもあったフレーズ。

 懐かしいあの歌を、久しぶりに、口ずさんでみた。 

  

  ♪悲しみに閉ざした 胸のアルバム

   一緒の写真を 増やせばいいさ

   こぼれる陽射しに 窓を開けたら

   背中で初めて 呼び捨てにした

   

   しあわせの形は 見えないけれど

   きっと瞬間のものさ

   欲しいもの 全て簡単に

   手に入れることなんて 出来ないけれど 

   今のこの1秒が 嬉しいよ

   

   ・・・・・今の1秒前より 好きだよ♪   

      ☆みのや雅彦「これから」より

 

   

 胸の奥が、その「瞬間」、じゅん♪となった。

 

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