200712月19日は、日本フットボールリーグ(JFL)のFC琉球にとって、特別な1日となった。2002年日韓W杯で日本を決勝トーナメント進出に導いた元日本代表監督のフィリップ・トルシエ氏(53)が総監督に就任するという驚きの人事を発表し、3年以内のJリーグ入りを公言した。それから半年、沖縄初のプロサッカークラブとして生まれ変わったFC琉球が、JFL3年目のシーズンで遂げた大きな発展と、突き当たった最初の壁、そして『トルシエ革命元年』と銘打たれた変革の深層に迫る。
(宮崎厚志)
敗戦をあきれ気味に見つめるFC琉球サポーターとスタンド=沖縄・北谷公園陸上競技場で
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沖縄の梅雨は気まぐれだ。猛烈な雨が降ったかと思えば、翌日にはカラリと晴れる。この日、梅雨の合間に顔を出した南国の日差しは、誰の目にも最悪な状態のチームをじりじりと照り付けていた。
「きょうの試合はなんだ!! お前たちからは戦う意思が感じられない!! 闘争心がなければどんな相手にも勝つことはできない!! 私は情けない!!」
ビニールシートで仕切られた仮設ロッカールームから、トルシエ総監督の怒声は30分以上もの間、響き続けた。その外では、まさに蚊帳の外となったスタンド観戦組の選手たちが顔をこわばらせて座り込み、隣に設置された簡素な会見場ではスタッフと地元報道陣がきまり悪そうに聞き入る。6月8日、JFL第15節・ソニー仙台戦。FC琉球は0−2というスコア以上の完敗を喫した。日本代表でも採用され、トルシエ戦術の代名詞とも言える『フラット3』はあまりに未熟。攻撃でも決定的シーンはほとんどなく、運動量でも圧倒された。するべくしてした4連敗。2781人を収容したスタンドでは、ため息と罵声が入り交じり、北谷総合運動公園陸上競技場は、なんともやるせない空気に包まれていた。
既存概念を飛び越せ
試合中、ベンチを飛び出し派手なアクションを見せるトルシエ総監督=沖縄・北谷公園陸上競技場で
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『トルシエ革命元年』。そう銘打たれ、FC琉球のJFL3年目のシーズンは華々しくスタートした。クラブは日本を初のW杯16強に導いた元日本代表監督の総監督就任という大看板を掲げ、体制を一新。沖縄から初のJリーグ入りに向け、急速なチーム改革を公に宣言した。
プロジェクトの始まりは、昨年5月だった。仕掛け人は、格闘技イベント『PRIDE』を主催していた株式会社ドリームステージエンタテインメント(DSE)の代表だった榊原信行氏(44)だ。手塩にかけて育てた『PRIDE』を米格闘技団体『UFC』に売却し、格闘技界から身を引いた榊原氏は、サッカー界への本格参加を検討。自身も小・中学校時代に選手経験を持ち、かねてから着目していた「世界に通用するコンテンツ」だった。そして新規参入への道を模索するなかで、FC琉球の代表・野口必勝氏(31)と出会った。
沖縄から初のJリーグ入り、そしてサッカーを軸としたスポーツ文化の成熟をめざす野口氏と、「生まれたばかりのチームと関わり、5年、10年というスパンで取り組んでいきたい」と考えていた榊原氏は意気投合。新生FC琉球をチーム強化の面でもビジネスの面でも軌道に乗せるため、「世の中に向けた顔に、またFC琉球にとってのアイデンティティとなる人材が必要。既存の概念を飛び越して、サプライズな人事を起こす」という考えから、無理を承知でトルシエ氏の招聘を画策した。選手では引退した元日本代表の中田英寿氏、元フランス代表のジダン氏、イングランド代表MFベッカムなどの名前も挙がっていた。そして榊原氏は『沖縄ドリームファクトリー』という法人を新たに設立。三顧の礼を尽くしてトルシエ氏と5年契約を結び、出向という形で、FC琉球の総監督に据えた。
同時に野口氏はチームを一新する。創設時からのメンバーを含む11人を解雇。引退選手などと合わせ計18人が退団した。そして新たに25人の選手を獲得。そのなかには、元日本代表のFW山下芳輝(30)、J1清水で長くプレーし、トルシエ監督時代に日本代表候補にも選ばれたMF平松康平(28)もいた。クラブ初の外国人選手として、フランスリーグでプレー経験のあるアフリカ出身選手3人も入団。そして全員とプロ契約を結び、沖縄初の完全なプロサッカークラブが誕生した。
環境と意識と
契約上、トルシエ総監督の沖縄での年間活動日数120日。年間予算約3億円という限られた条件のなかで、トルシエ総監督はまず選手、スタッフに環境面、精神面での"プロ化"を強く訴えた。開幕前は福島・Jヴィレッジなどで2度のキャンプを実施し、試合前日のホテル泊も導入。昨年までは選手が自分で練習着やユニホームの洗濯を行っていたが、新たに用具係を雇った。よりJレベルに近い環境にこだわり、選手にはプロであることを徹底的に意識させた。
ピッチ外でも変革の動きは大きかった。1月に行ったJリーグ準加盟申請は認められなかったが、それは「Jリーグに入るんだという意思を示し、そして何が足りないのか、課題を明確にするため」(野口氏)だった。そして始まった新たな取り組みのひとつは、下部組織の充実。すでに活動していたジュニアユースは、日本サッカー協会のエリートプログラムに選手を輩出するほど質が高い。今季はこのジュニアユースの受け皿となるユースを創設した。選抜テストの通過者はわずか9人。試合はまだできない。しかもアメリカやフィリピン国籍の外国人が5人という沖縄ならではの異色チームとなった。
さらに、昨年までほとんどなかった本格的な行政支援を受けることにも成功しつつある。これまでは練習場を固定できず転々としていたが、沖縄本島南部の八重瀬町と交渉し、東風平グラウンドを常設練習場として確保した。さらに「地元の誇り、シンボルとして絶対に必要」(野口氏)という専用スタジアム建設に向けても、仲井真県知事や複数の県議会議員に積極的にアピール。ついに予算確保に向けた動きが始まった。
しかし、これらの活動はすぐに実を結ぶ類のものではない。シーズン開幕というふたを開けてみれば、急速な改革のひずみが、徐々に姿を現し始めた。
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