沖縄でいう「慰霊の日」、6月23日は、1945年に沖縄地上戦が終わった日である。筆者は06年に沖縄で戦跡ガマ(自然洞窟)を見学した。死と隣り合わせのガマの中には炊事場や野戦病院や、慰安所まであったという。慰安所・慰安婦について日本軍の責任を認めた93年8月の官房長官談話をこの目で確認した。内閣不信任決議を受け総辞職する前日にこの談話を出した首相・宮沢喜一の慧眼を高く評価したい。
◆沖縄地上戦終結の日
6月23日は、1945年に沖縄地上戦が終わった日である。沖縄では「慰霊の日」であり、今年も記念行事が行われた。岩波書店「近代日本総合年表第3版」では、1945年4月1日に米軍が沖縄に上陸、6月23日に「守備隊、全滅」としている。沖縄戦の「戦死9万、一般国民死者10万」と書いている。
◆194カ所の戦跡ガマ
地上戦の間、米軍に追い立てられた軍人、民間人が混在する形でたてこもったのがガマ(自然洞窟)であった。沖縄の島々は隆起サンゴ礁として形成されたから、雨水の浸食によって、地下には無数の自然洞窟がある。それがガマであり、いまでも沖縄地上戦の戦跡として残っている。沖縄県の調査では、沖縄本島と周辺離島の戦跡ガマは194か所にものぼるという。
◆ガマの中にも慰安所があった
2006年1月、沖縄で戦跡ガマを見学する機会があった。学生時代からの友人である堺市議長谷川俊英氏が主宰する都市政策研究所主催の「第78回自治体議員勉強会 in 沖縄」に参加したのである。3日間とも文字どおり「勉強」ずくめだったのだが、その中でいちばんびっくりしたのは、ガマの中にも慰安所があったことだった。
ガマ見学には、ちょっとした決断が必要だった。私は1994年に脳こうそくで倒れた。リハビリで回復したとはいえ、ほんらい左の片マヒ(かつては「半身不随」と言った)になるべき症状だった。左手足の力は弱く、いまでもラジオ体操で「跳ぶ」運動ができない。左で片足立ちするのも怖い。ガマは足場が悪いというので、転んだりしたら困る。怪我するなどということになったら、同行の皆さんに迷惑をかけてしまう。そんなことも考えたのだが、ともかくガマに入った。
◆朝鮮人慰安婦がいた
やはり現場は見るものだと思った。ガマの中には炊事場や、傷病者を治療した野戦病院的なスペースもあったのだが、同じように慰安所があったのである。案内してくれた沖縄の方の話では、その慰安所には、チマチョゴリを着た朝鮮人の従軍慰安婦がいて、戦場での性行為が行われていたという。
◆死が迫っている空間なのに……
私はこんなこと想像もしていなかった。ガマは「死」と直結したスペースである。「野戦病院」も含めて、湿気の多い不衛生な場所だから、十分な治療ができたはずはない。重症患者は次々死んでいったはずだ。米軍に包囲されているから、死体の処理もできない。死体は放置され、ウジが湧いたりしていたといわれる。
生きている人たちはすべて、死が間近に迫っていることを意識していたはずだ。米軍の包囲の下で、残りの生命は、数日にすぎない。それでも、ともかく死を避けよう、1日でも遅らせようとしているにすぎないのが現実だったはずだ。
そんな極限状況の中で、何故慰安所・慰安婦なのか? そんなことを考えるだけでもおぞましいという思いがする。しかし考えなければなるまい。
◆物資の補給を軽視した日本陸軍
そもそも日本陸軍ほど、物資の補給=兵站を軽視した軍隊は例がないのではないか。山本七平の軍隊ものを読むと、兵士たちの戯れ歌に
「輜重(しちょう)輸卒が兵隊ならば チョウチョ・トンボも鳥のうち」
というのがあったという。
輜重輸卒とは、兵站のためのもっぱら輸送に当たる兵士である。戦場の軍隊は、徒手空拳で戦うことはできない。大砲などの兵器、さまざまな銃・刀剣など武器、弾丸・火薬などの消耗品、さらには衣服、食料、医薬品などが必要である。
◆輜重部隊をバカにする戯れ歌
一人ひとりの兵が運ぶものは限られている。当然、輜重部隊が必要となる。輜重兵の役割は、ほんらい極めて重要なのである。
軍歌の類について、兵士たちが「(自主的に)歌った」と考えるのは、あまり正しくない。組織としての軍が「歌わせた」と考えた方がいい部分も大きい。「輜重輸卒は兵隊ではない」と言わんばかりの戯れ歌など、その典型だろう。
輜重兵など、誰もやりたくない。だから、物資は不足で当たり前だ。「武器・弾薬が不足で戦えるか」とか「腹が空いては戦ができぬ」などといった不満は漏らしてはならない。こういうムードをつくるために、輜重兵は兵隊でないという戯れ歌は、まことに好都合だった。
◆食料は略奪が原則だった日中戦争
いずれにせよ、およそ「補給」というものをすべて軽視し続けたのが日本陸軍であった。武器・兵器から銃弾・火薬に至るまで、直接戦闘に使う物資さえ、十分に供給しなかった。食料にいたっては、「前線で調達」が日本陸軍の原則だったのである。
中国戦線では、すぐに食料調達=略奪に走るのが日本軍であり、略奪禁止を徹底させていた毛沢東・朱徳の紅軍との対照は、あまりにも明らかだった。日中15年戦争があまりの惨敗に終わった一因は、兵站無視の思想だったといえる。
◆兵士には慰安婦が必要という認識?
その物資軽視の日本軍が、なぜ慰安所・慰安婦だけ手厚く「供給」し続けたのだろうか? 兵士のセックスだけを重視することによって、何が期待できると考えたのだろうか? 私にはよく分からない。
◆米軍人向けにも用意された
陸軍だけではない。1945(昭和20)年8月15日の敗戦直後、内務省は国内の警察署に対して、米兵向けの慰安婦を用意するよう指示している。マッカーサーの軍隊は同年9月以降、つぎつぎ日本の各地に展開するのだが、この通達はその時期に出されている。「良家の子女」の貞潔を守るためには、米兵にセックスを提供する慰安婦が必要だという論理である。
どうやら大日本帝国の権力者たちは、「兵士には慰安婦が必要だ」という認識を共有していたらしい。進駐してくる米兵の場合なら、良家の子女の貞潔を守るためという目的も分かる。しかし日本軍兵士に慰安婦をあてがう目的は何なのか?
◆白米を食うと同じ感激?
明治期の小作人の子弟たちは、徴兵で軍隊に入り、白米を腹一杯食べられたことに感激したと書く人たちもいる。そのころの小作農家にとって、コメは年貢を収めるための作物で、白米を食べる習慣などなかったというのである。
白米に感激する兵士なら、慰安婦にも感激するのかもしれない。兵士たちの軍への忠誠心を高める手段として慰安所・慰安婦が位置づけられていたとも考えられる。
◆ひどいミスマッチ
それにしても、ガマに慰安所・慰安婦というのは、恐ろしいほどのミスマッチではなかろうか?
案内していただいた現地の方は、ガマの中で私たちに「懐中電灯を消してください」と言った。当然のことながら真っ暗になる。いま日本のまちに住む人々が経験することのない「漆黒の闇」が出現する。目が慣れてくることがない闇だ。
どうやらガマが使われていた時期の照明は、ローソクが使われていたらしい。それも節約しなければならないから、かなり暗かっただろう。
その暗い中で兵士たちは慰安婦とのセックスに励んでいたのかもしれない。視覚では、周囲の人たちに認識されることはなかったのかもしれない。しかし聴覚ではどうだったであろうか? 臭覚では……。と考えると、いくら何でも、性行為に適した環境とは思えない。
◆指摘するのは「反陸軍思想」
それでも慰安所があり、慰安婦がいた。それはおそらく、「制度の支配」というべきものだろう。慰安所・従軍慰安婦は制度化されていたのだ。ガマに逃げ込んでいる状況下であることを根拠に、軍人の誰かが「こんなところで慰安所でも、慰安婦でもないでしょう」などと言おうものなら、それが即、「反軍的言動」とされたのではないか。
◆「商行為」という自民党のホンネ
自民党国会議員の多数は「国が(慰安婦を)強制連行したわけではない。当時は公娼制度が存在し、商行為として行われた」(96年6月4日、奥野誠亮・元法相の記者会見発言)というのがホンネだろう。安倍晋三内閣は、こう考えていた人たちの政権だった。
◆93年8月の河野官房長官談話
しかしこの問題での日本政府の唯一の公式見解は、1993年8月4日、政府が発表した「調査結果」と、河野洋平官房長官(当時)談話である。官房長官談話のその冒頭部分は以下のとおりである。
<今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。>
◆安倍首相も確認
安倍晋三氏は首相就任後も、政府の公式見解はこの河野官房長官談話であるという発言を繰り返さざるを得なかった。そして河野談話が正しいものであったことを、私は12年半も経とうとしている時期に、この目で確認したのだった。
◆93年夏大政変の中で
しかし調査結果と談話の発表の時期に注目する必要がある。1993年は、55年体制=自民党の政権独占が崩壊した年だった。以下93年政変の経過をたどってみよう。
▼6月17日 宮沢喜一内閣不信任案可決、首相が衆院を解散
▼7月18日 総選挙投開票。自民党は選挙前勢力を1議席上回る223議席にとどまり過半数を大きく割る。社会党も選挙前勢力の半分近くを減らして70議席に後退、55年体制は終わったと評価された。自民党を割って出た新生党(旧羽田派)が55議席で第3党に躍進、衆院初挑戦の日本新党も35議席を獲得。新党さきがけ、公明、民社も勢力を伸ばしたが、共産は1議席減となった
▼22日 宮沢首相が正式に退陣表明
▼29日 非自民・非共産8党派が連立政権に向け調印。首相候補は日本新党代表の細川護煕氏
▼8月5日 宮沢内閣総辞職
▼8月6日 衆参両院本会議で細川氏を首相に指名。衆院議長は土井たか子社会党委員長(初の女性議長、3権の長としても初の女性)
ということになる。
◆宮沢内閣総辞職の前日に決定
つまり慰安婦調査結果と河野官房長官談話が発表されたのは、宮沢政権最後の日なのである。このような措置が「政府の独走」で実行された場合、必ず反発するのが自民党の体質である。ところがこのとき、自民党は政権独占が崩壊したショックで、それどころではなかった。
◆宮沢氏の慧眼と、日本政治の貧しさ
韓国との友好関係確立のために従軍慰安婦問題について日本の責任を認めることは避けて通れない日本政府の必須課題である。自民党が強い時期に、その課題は達成できない……。こうした判断で、総辞職の前日に、この仕事をした宮沢喜一という政治家については、高く評価したい。
しかしこんな形でしか、公式見解を決定できない日本政府とは、なんという貧しい存在なのだろうか、と言わざるをえない。