K-1・PRIDE・格闘技

ガイド:井田 英登

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掲載日: 2003年 02月 26日

「ジョシュ君のこと」(2)


[新日本プロレス]「WRESTLING WORLD 2003」

 2003年1月4日(土)
 東京ドーム



 
 第11試合 IWGP選手権試合
 ○永田裕志
 ×ジョシュ・バーネット
 10分40秒 片エビ固め






ョシュ君と初めてあったのは、いつのことだろう。

調べてみると、どうも2000年の11月17日のことらしい。彼の誕生日は1977年の11月10日だから、当時彼は23歳になってちょうど一週間。その日彼は、生まれて初めてあこがれのオクタゴンに一歩足を踏み入れたのだった。場所はアトランティックシティのカジノ、タージマハール。
いまでこそラスベガスのMGMグランドをホームグラウンドのようにして使っているUFCだが、当時は暴力ショーだとあちこちのアスレチックコミッションから締め出されて、比較的規制の緩い南部を転々としていた時代だった。採算ベースだったはずのケーブルTVからも撤退を余儀なくされ、主催会社のSEGにはお金がなくなっていく。そうなるとどんどん開催会場の規模も小さくなり、時にはシーズンオフのアイスホッケー会場だったり、郊外の大学の体育館なんてこともあったりしたものだ。ケァーやコールマンといった脂の乗ったクラスのスターは、日本で始まったスーパーイベントPRIDEにどんどん転出していき、きら星のようだったヘビー級に残ったのはケビン・ランデルマンとぺドロ・ヒーゾの二人、それにライト級で着々と防衛記録を伸ばしていたパット・ミレティッチぐらいのもの。誰の目からみても、UFCの存続は風前の灯火だった。

んな中でのカジノ進出は、SEG最後の賭けだったのだと思う。本来カジノでの興行というのは、ボクシングの世界では常識となっている興行形式だが、そのボクシング興行を統括するアスレチックに叩かれて虫の息だったUFCを、当のボクシングの文脈で「正式なスポーツ」の文脈に乗せようという発想はSEGにはなかった。今にして思えば、この大会の直後に、UFCを買収する事になるZUFFAのアイディアだったのかもしれない。ZUFFAの会長ロレンツォ・ファティータはラスベガスのカジノオーナーで、ネバダのボクシングコミッションの役員も勤めたボクシング寄りの人物だった。だから、当時虫の息だったUFCに「蘇生」の芽があるのか実験するために、まずアトランティックで実験したのではないかという気がする。すでにランデルマンvsヒーゾという最後の「切り札」を切ってしまったSEGが、かつて王座はく奪という形で放逐したランディ・クートゥアを呼び戻しランデルマンの持つ王座に挑戦させたのも、少しでも知名度のある選手をメインに据えて、UFCというイベントのバリューを取り戻そうとしたのだと考えれば平仄の合う部分が多い。
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