イエスの惑星BBS

キリスト教信者の方、又はキリスト教や聖書に興味のある方の 交流の場です。

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サボテンさん タロウさんの赤ちゃん風邪ひいた  投稿者:Pas  投稿日:2008年 6月24日(火)06時23分36秒    編集済
  「タロウさんの赤ちゃん風邪ひいた」って、「権兵衛さんの赤ちゃん(が)風邪ひいた」のことですよね?
「おたまじゃくしはかえるの子」とか、いろいろな歌詞がついていますが。
あのメロディは、アメリカの南北戦争の時に愛唱された軍歌「リパブリック賛歌」由来のはずです。
http://www.7andy.jp/cd/detail/?accd=C1048968
http://music.yahoo.co.jp/shop/c/10/kicg3238/
プロテスタントのある教派ではあのメロディに歌詞をつけて賛美歌としているところもあるようですが、
ポルトガル語圏との関係はあるのかないのか......。
関東地方やその周辺各県の人たちにとっては「ヨドバシカメラの歌」といった方が有名だと思います。
あれはダメでしょう。あのメロディから連想される雑念?が多過ぎます。カトリックの聖歌には不適です。
 

この際、言ってしまおう  投稿者:ノコさん  投稿日:2008年 6月24日(火)01時31分11秒
  神学院ですら学生の編纂による「フォーク聖歌集」があったりして
「召命祈願ミサ」では使ってたりします
神学生にとってもフォークというのは2世代は前の音楽のはずですが
やはり「ゆず」とかそういうノリを狙ってるのかもしれません。

フォークミサも嫌いですが、今まで"怒髪天を突く"レベルの黙想会があって、
1回目は神父様は女装してきました
2回目は松ケンサンバの音楽を鳴らしながらご登場されました
(思わずお前、表(聖堂外)に出ろ!といいかけた。もちろん途中退席)

「典礼は、天才的監督や有能な俳優たちを必要とするショーや演劇ではない。典礼は、”好感を覚える”驚きや”共感”を呼んで生きるものではなく、荘厳な反復を生きる」 (ベネディクト16世-枢機卿時代のV.メッソーリとの対談集「信仰についてP.165)
 

この際、言ってしまうか・・・  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 6月24日(火)00時44分9秒
   ギターを弾きつつ、ご自分の演奏に酔いしれて、素人が作ったフランシスコの祈りの曲だとか、マザー・テレサの祈りの曲だとかを、ご自分が歌ったり、ご丁寧にプリントまで印刷させて、黙想会のはじめなどに歌わせる司祭がおられますね。

 恥を知れ・・・!といいたいです。あなたの仕事は、なんですか?黙想会の講話を準備し、信者の回心を促し、深い祈りの境地にいざなうことではないのですか?・・・と、いいたいです。

 まあ、教会では目くじらを立てるべきことが多いので、この程度のことについてまで、ぐちゃぐちゃ言っていると、肝心なことがぼやけてしまうので、黙って、目をつむって聞いていますが、やってほしくないです。司祭が、堂々と聖堂でやるから、信徒もまねをするのでしょうね。

 私のところは、現在はフォーク・ミサと名づけられたミサはありません。しかし、数年前には入祭・奉納・拝領・閉祭に、ギターを伴奏にしてやっていたような記憶があります。曲は、マラナタ、アーメン・ハレルヤ、主に愛されて、忘れないで、ごらんよそらの鳥、などでした。

 音楽的完成度のレベルの低い曲を、子ども用、としてしまうのは、問題がありますね。上のような曲をどうして子どもに歌わせるのですか?と聞いたことがあります。

 すると、「子どもが喜ぶから・・・」と、教えている方から返ってきました。

 なんと、安易な考え方でしょう!子どもが喜ぶもなにも、あのような曲しか教えないで、その範囲の選択肢しか与えないで、どれが好き?と聞けば、その中から選ぶしかないのですから・・・。

 フィリピンの方のグループ、ブラジルの方のグループ、インドネシアの方のグループ、韓国の方のグループの聖歌を聞いたことはあります。それから、このあいだの御聖体の祝日の荘厳ミサで使われていたイタリア語聖歌が、イタリアの方の聖歌ですよね。

 韓国の方のサンクトゥスは、ヨーロッパ音楽の「語法」で作曲されたものでよかったです。オルガンの伴奏がよく合う曲でした。もしかしたら、ヨーロッパのメロディーに韓国語の祈りを乗せたのかもしれないです。イタリアの聖歌も違和感はないです。

 この間、「タロウさんの赤ちゃん風邪ひいた」のメロディーが、グロリアでした。ポルトガル語で・・・。ハワイアンのような、聖歌もありますね。いいにくいですが、音楽的完成度が低い・・・。

 教会にはフランスの方やドイツの方もおられ、その方たちは日本人と同じように掃除や雑用をしてくださり、維持費も納めておられるのに、フランスの聖歌、ドイツの聖歌を歌わせてくださいとはおっしゃいません。典礼には謙虚なのです。でも、私的な会話では、カトリック聖歌集を歌いたい、ダサい(私と同じ歳のドイツ人の言葉!)曲は嫌だ、といわれます。この感覚は、万国共通だと思います。私たち日本人が、ヨーロッパの伝統音楽・伝統建築・美術作品にあこがれを感じ、芸術性を感じるように、アジアの方々も芸術的完成度の高いものを、否定はされないと思います。

 日本の典礼聖歌を外国人に押し付ける気はありませんが、その代わり民族的な音楽も、勘弁して欲しいというのが本音です。

 カトリックは普遍的・・・。教会音楽も普遍的であって欲しい・・・。

 カトリック教会には、何ヶ国語にも訳されている聖歌があります。この間の荘厳ミサ中の「ひせきにこもりて」、「くしきぶどうのき」など・・・。せめて、こういう聖歌の英語版くらいを、国際ミサで使ってほしいです。

 聖堂内のギターは、はんたーーーーーーーーーい。
 

(無題)  投稿者:おつる  投稿日:2008年 6月23日(月)19時25分16秒
  サボテンさん・・>おつるさん、ランバダですか・・・。演奏技術や表現は、ラテン音楽としては洗練されているのですか?

洗練はされていません。 大阪教区でよくあるフォークミサなんかも ど素人の下手な
演奏で 聞いているほうが恥ずかしいと思いますが 似たようなもんでしょう。

ダンボさんのおっしゃるイタリアのフォークミサなんかはお洒落かもしれないですね
日本人が フォークとかやっても 演歌みたいでダサいです。
京都のフリーチベットデモで 京都ピースウォークの団体に遭遇しました。
八坂神社・円山公園という外国人も多い景観も美しく 外国人観光客も多い中で
大騒ぎして だっさーーーーーい フォークソングを歌っていて 日本の恥と思いました。

フリーチベットの人は 静かにおしゃべりしてたのに・・・

外国人が多いからといって なんで外国人向けにサービスしないといけないの??
郷に入れば郷に従えです。
日本人向けにミサを変えても外国人にサービスしたミサにしても・・・・
どんどん 日本人信者が減るだけの自己満足だと思います。

私の同僚の同年代のアメリカ人はクリスチャンですが ラテン語のミサがあるなら
日本の教会に行くけれど 日本のミサは嫌いだから 行かないと言っています。

ノコさんの 郡山司教様 へのコメント グッドジョブ!!ですね。
しかし 私が K司教にメールしたときと同じような
いいわけみたいな 返答ですね

http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/

 

Re: 松爺さん  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 6月23日(月)18時59分33秒
  私を知っておられる感じですね。
ということは私も松爺さんを知っている訳ですね。
草加辺りにお住まいの方ですか?

http://www.nomusan.com/~essay/index-jubilus.html

 

サボテンさん  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 6月23日(月)15時13分37秒
  異文化って、本当に難しいですね。
昔、イタリアの片田舎に滞在中、毎日、ミサに与っていたのですが、
落ち着いた、伝統をそこはかとなく感じさせるミサでした。
信仰を中心に生活しているといった感じでした。
同じくイタリアで、フォーク・ミサにも与ったのですが、
日本のゴチャゴチャした感じではなく
自然な言葉で、心を合わせて歌う♪ 心地よいものでした。

インカルチュレーションは、外国の方が多くなってくると、特に困難です。
それぞれ、文化も感性も異なるのですから。

某教会でのベトナム語のミサは、オルガンではなく、キーボードを使っていました。
何より驚いたのは、奏法です。
ズンチャカ・ズンチャカ…派手にドラムのようなリズム音を入れ、
まるでプールサイドのハワイアン・ショーのようなノリで・・・
茫然としたのを覚えています。

ショックを受けている私に、友人は
「今日は変わったミサに与って、明るくって踊りだしたいような感じで、
           良かったです。いい体験をさせていただきました」と。
人、それぞれに感じ方って違うんだなぁって思ったのですが、
「祈れました?」との問いには、苦笑されていましたから、
落ち着いて祈れなかったんでしょうね。

そこの信徒の方が、他教会のミサに与って、感想をもらされました。
「ここの教会のミサには、『祈り』がありますね」・・・

日本人の多くの信徒は、義務感からミサに与るものの、
落ち着いて祈れる典礼ではなかったということです。

でも、移住難民問題に関わる聖職者や信徒は
「彼らは故国を離れ、慣れない環境で、苦労してやっているのに、
             それを迎え入れる側に努力が足りない」と。

私はそのように仰る方々には、反感を持っています。
なぜなら、若い元気な人たちは、
自分たちの感性に合わなければ、他の教会にも行けますが
年老いて、体も弱っていたり、経済的に苦しく、高い交通費を払えず
所属教会に来るのが精一杯の信徒は
日曜日のミサを 心の拠り所にしているのに
苦労して集った教会で、神経を逆なでされる典礼に与らなければならないのです。

最近、外国人のためとか子供たちのためと、ことあるごとに仰いますが、
小さき者の中に、どうして、足も弱った高齢者が入らないのでしょうか。
その方々が、心の支えにしていた信仰を
どうして否定しなければならないのでしょうか。
聖体訪問を否定し、ロザリオの祈りも古臭いと…

司牧者には、偏りのない目で、一人ひとりを大切にしてほしいものです。
本当にそれを行おうとするなら、政治活動に費やす時間などないはずなのです。
 

郡山司教様  投稿者:ノコさん  投稿日:2008年 6月23日(月)14時45分6秒
  郡山健次郎司教Blog-24時間司教
http://sdemo.net/pken/Blog/98108a008005306e307e306a3053#comments

「聖職者として憲法9条の話をするのはいかがなものかと思いますよ
大阪教区から人心が離れていっている現状は
行過ぎる補佐司教様の政治活動だと思いますが...
(あとは良識に任せます)」

と私は書きました。これで良かったのかしら?
「誰かにもらった本を読んだ感想を述べただけですが・・・。
いずれにしても、ご忠告ありがとうございました。」
とはその辺りの事情は判ってらっしゃるご様子ではある。

しかし、誰だ司教にこういう本を謹呈する輩は?どこの回し者だ?正平教か?
もっとも著者が森司教なので、内容はそれほど期待するようなものではなさそうだし
BookOffに持っていくより司教様に差し上げた方がましだと判断したのかも..
 

新求道共同体の典礼音楽・・・嘆息・・・  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 6月23日(月)10時06分45秒
   ピーターさん、情報ありがとうございました。

 おつるさん、ランバダですか・・・。演奏技術や表現は、ラテン音楽としては洗練されているのですか?

 以下、嘆き・・・。

 私から言わせると、楽器が歌(祈り)をささえる以上の自己主張が強すぎる、どう聞いても世俗音楽、気高さや神に対するあこがれ・・・のようなものが感じられない、ギターの表現がこれでもか、これでもか・・・、とつつしみ深さが無い。なぜ、オルガンを使わないのでしょう?

 音楽、特にクラッシックでは、端正な演奏とは、気持ちは100パーセントでも、表現は決してやり過ぎないで、控えめでありながら、音楽性を豊かに表現する・・・、ようなことが大切にされますよね。聞き手が、どぎつい!と感じ、耳をふさぎ、不快感を感じてしまったら、終わりですよね。

 過ぎたるは及ばざるがごとし。

 カトリックのミサは音楽会ではない、演芸会でもない、裏町のの地下の居酒屋でもない、お子さんのお遊戯会でも、フォークダンスでもない、演奏者や歌う人が強い自己主張をしていると聞き手に感じさせてしまっては、アウトですよね。


 主の祭壇が違いますね。大きいです。従来のものを破棄して、独自のものを持ち込んだのでしょうか。

 規約が承認されたのは事実なのでしょう。しかし、規約の中身がわれわれには見えないです。恐らく、規約には、スタンダードな新求道共同体の運動のスタンスのようなものし書かれていない可能性もあります。

 規約に、主の祭壇を独自のものに変える、とか、ミサ中に祭壇の周りをこれこれのステップで手拍子をして踊る、とか、平和の挨拶は「必ず」奉納の前に行う、とか、書いてあるとは思えません。

 第2バチカン公会議が認めた適応やインカルチュレーションにいきすぎがあってはいけない、という警告は、ヨハネス・パウロ2世の晩年から現教皇様もおっしゃっているわけです。

 承認された以上、彼らも、教会文書を忠実に遵守して典礼をやる義務はあるわけです。

 『典礼憲章』、『ローマ・ミサ典礼書の総則』、典礼秘跡省指針『あがないの秘跡』、使徒的勧告『愛の秘跡』、そして、昨年2007年7月7日の自発教令と司教への書簡、に文書として示されていることは、私たちにとって大きな力となると思います。

 規約の承認、と言う言葉におどらされないように、何が承認されていて、何は承認なしにインカルチュレーションとしてやっているのか、何は禁止されているはずだ、と 冷静に一つ一つ検証していくことが大切だと思います。

 こういう作業は、司教様がおやりになることでしょう?

 ★★★谷司教様、

 にこにこしてブラジルの方々と一緒に踊ってしまう軽はずみなことはしないでくださいね。政治運動で暇つぶしをしている時間などありませんよ!
 

(無題)  投稿者:テレジア(Prayer改め)  投稿日:2008年 6月23日(月)00時02分28秒
   こんばんわ。僭越ながら、ほかにもピーターさんがいらっしゃるようなので、私はPrayer改めテレジアとさせていただきます(最初、ピーターで・・・私のことであるとは気がつきませんでしたので)

 ただ単純に、お祈りします・・・
 私にはそれしかできませんから・・・

 ”御心が天に行われるように、地にも行われますように”


 また・・・
 こちらの掲示板を読んでいて、聖書のある部分を思い出していました。
                    (マタイ13章47〜50)
 

お詫び  投稿者:松 爺  投稿日:2008年 6月22日(日)23時41分9秒
  先の鷺宮教会の山浦氏は山野氏の間違いです。
訂正してお詫び申し上げます。
尚、彼は叙階式の準備に尽力されたと伺っております。
 

ピーターさん  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 6月22日(日)23時22分3秒
  あの典礼では、カテドラルは無理ですね。
踊るためには出来ていないから。
歌うことは祈りだと教えられてきましたし、実践してきましたが、
踊りも祈り?共同体的一致の表明?
余計に、溝が深くなると思います。
自分たちが、満たされれば、他の人が躓いてもよいと思っているのでしょうか。
あの動画に続き、ピーターさんの実態報告は大きなショックでした。
本当に、高松教区の方々の拒絶反応は 当然ですね。
宣教は、宣教地の文化・民族性を大切にしなければ、実は結びません。
 

典礼について  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 6月22日(日)22時57分58秒    編集済
  第二バチカン公会議以降、バチカンは土着化と共に、
いろんなミサを認めてきたと思います。
実際、教皇様も子供たちのために フォーク・ミサを司式されています。
フォーク・ミサも、常識的な形でなら、1つの形として認めないといけないと思います。
それが、カトリックにおける多様性です。
常識的な形・・・ミサの構成に手を加えたり、
ミサ曲、クレドの固有の言葉から脱線することは、認められないのです。
大阪教区で典礼が乱れた原因の1つは、ここにありました。

カテドラルで行われる教区行事のミサは荘厳さが求められるのではないでしょうか。
悲しいことに、叙階式などでも、フォーク聖歌が歌われ、荘厳さはなくなりました。

一部の教区司祭は、ラテン語聖歌を排除します。
バチカンは、各国での秩序ある多様なミサを認めたからこそ 現在のミサがあるのに、
新しいものが入ったら、古いものをなくそうという考えは誤っているのです。
グレゴリアン ラテン語の聖歌を禁止するなんて、はっきりとした過ちなのです。

教皇様は、ラテン語の聖歌や主の祈りが唱えられるようにと仰ったのに
教区司祭は、それをも否定し、教皇様まで批判します。

昨年、教区長の承認を得ずとも トリエント・ミサがたてられるようになったとき、
地区の典礼研修会で 講師のイエズス会司祭は、信徒の戸惑いの質問に答えました。
「私も最初に、聞いた時、驚きました。どうして…今頃に…と。
しかし、思いました。
教皇様は何を望んでいるのか。
良いものは残るし、良くないものはなくなります。
私たちは、神様を信じて見守っていればいいです。」

私たちに求められるのは、柔軟性、他を受け入れる心の広さだと思います。

トリエント・ミサが認められたことを、一部の聖職者や信徒は、
復古主義などと誹謗しますが、私はそう思いません。
教皇様は、トリエント・ミサを強く望む人々の心をくみ取り、
慈父としてそれを認めてくださったので、今の典礼を否定するものではないのです。
広く開かれた心で、全てのキリスト者を包み込もうとしてくださっていると思います。

自分たちの望まない聖歌が歌われても、私たちはそれを乗り越え、
一つに結ばれ、主に賛美と感謝を捧げることが大切だと思います。

これは、新求道共同体にもいえると思います。
規約の承認の際にも、教区長に従うようにとの指示があったと聞きます。
切り捨てるのではなく、当事者に柔軟性を求められたように思います。
賛同者以外は排除したミサを捧げられていましたが、それは禁じられました。

これらの動きを見ていて、不思議でなりません。
新求道共同体の方たちには、思いやりが感じられません。
典礼に携わる者としては、神様に共同体として祈る際、
会衆が一つに結ばれ、より深く祈れるようにと配慮するのが当然のことなのに。
このことにおいて、前高松教区長の責任は大きいと思います。
特に高松教区の皆さんの、苦悩の日々を思うと・・・。

しかし、これらのことは程度の差こそあれ、
教皇様の指示を拒絶し、ラテン語聖歌を排除する教区司祭にも言えると思います。
 

新求道共同体  投稿者:おつる  投稿日:2008年 6月22日(日)22時32分53秒
  サボテンさん  あのメロディーは ラテン系音楽 ボサノバでもないし・・・
一時 流行したランバダなんかの メロディーに近いですね・・

非常にお下劣で 下品だけれどアメリカをカザフスタンから出てきた人の目から
見て 徹底的に風刺した映画「ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」があります。(上品な方は絶対 見ちゃだめな映画)

その中で アメリカの キリスト教 プロテスタント原理主義(ブッシュも入っている)の
ミサを風刺した場面があるのですが
そのミサが まさに 新求道共同体のミサの動画とそっくりでした。

彦左衛門さんの 投稿文すばらしいです。
ブログに転載させてください

http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/

 

共同体の典礼  投稿者:ピーター  投稿日:2008年 6月22日(日)22時28分28秒
  サボテン様へ
共同体の祭儀は、日本でも同じです。ギターを弾いて、手をつないで祭壇のまわりを廻って躍ります。彼らのメロディーは、向こうの土着民のものが入っていると聞いたことがありますが、真偽の程はわかりません。私が経験した二つのこと、司祭叙階式と葬儀のことを書いてみます。

前司教の最後の年だったと思いますが、高松で司祭叙階式がありました。しかし司教座聖堂ではなく、市内のホテルの会場を借り切って行なわれたのです。あの音楽とギター、そして足を踏み鳴らしての踊り、接吻、抱擁、これにはびっくりしました。司祭叙階式は最も厳粛な雰囲気のなかで行なわれると思っていた私たちは、心を沈めて祈ることなど全然できなかったのです。文化受容という難しいことはよく分かりませんが、普通一般の日本人の感性とは全く違うものを押し付けられたという感じで帰ってきました。求道者の友人が、“なんだか新興宗教みたいだね”と感想を言ってくれました。、

葬儀についても同じことが言えます。共同体の一人の信徒が亡くなられて、葬儀は共同体方式で行なわれました。やはりギター伴奏で歌と踊り、とくに「死ぬことは善いことだ」という歌というか、叫びというか、これでもかこれでもかと歌われました。わが国の葬儀の独特のしめやかさはなく、ただ賑やかさだけが辺りを支配していたのです。葬儀には、キリスト者だけが来るのではありません。地域の方たちも、大勢来て下さいます。この騒がしい葬儀にあずかって、殆どの方が苦々しく思われたに違いありません。表情からも、それがうかがえました。宣教ではなく躓きになったと思います。
 

ノムさんへ感謝  投稿者:松 爺  投稿日:2008年 6月22日(日)22時16分36秒    編集済
  谷脇神父様の初ミサの記事を見て一瞬驚きました。何かしでかしたか???と。。。笑笑
お褒め頂いて有難うございます。
同じ長崎の佐世保地区の出身で神父様の母の知人です。
私が所属するさいたま教区でも、同日叙階式がありましたが横浜教区へ参列させて頂き、久しぶりに厳粛な祭儀に与り、感激致しました。
その節は、ノムさんにもお会い出来るかと期待しておりましたが、あの混雑を見て諦めた次第です。
鷺宮教会の山浦氏(名前を出して申し訳ありません)は私の後輩で、以前からノムさんのご活躍を伺っております。
 

Re: ノコさん  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 6月22日(日)19時43分51秒
  確か双子なんですよね。
叙階式の時も、あとのパーティで同じ顔が二人並びました。
イケメンには違いないですが甘い顔でなく、精悍ですね。
長崎からのプレゼントと、ありがたく思います。
期待しています!
 

新求道共同体の動画5つ・・・  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 6月22日(日)19時05分46秒
   聖堂で子供の演芸会をやっているのですか。司祭は祭服ですが、あれは、ミサ中なのですか。日本でも、あのようだったのでしょうか。典礼音楽の伝統を、破壊することが、「新しい皮袋」ですか・・・。妙なステップ、手拍子・・・。まだ、A.T氏の典礼聖歌のほうがましです。新興宗教(関わったことはありませんが・・・)の雰囲気がします。

 ポピュラー音楽に詳しい方にお聞きしたいです。あのリズムやメロディーは、どういうジャンルに近いのですか? どこかの地方の民俗音楽の影響でしょうか。私は、退廃的な雰囲気を感じました。子どもが、かわいそう・・・。
 

カト新への投稿文紹介感謝。  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 6月22日(日)17時25分9秒
  Pas さん、小生のカト新への投稿文、再現、掲載、有難うございました。  

彦左衛門様 記念としてここに紹介させてください  投稿者:Pas  投稿日:2008年 6月22日(日)17時04分11秒    編集済
  「政治的発言」教会は慎重に  東京・あきる野教会 角田信三郎(75)

 五月十九日付本欄で京都の平岡氏は、教会も政治的発言を怠ってはならないと主張されている。しかし、特定の政策が国民の幸福や世界の平和に益になるか害になるかという判断は決して容易ではない。「有事法制」の是非にしても、国論が二分しているだけではなく、信徒の間でも意見が分かれているのである。
 教会がこれらの問題に特定の立場から不用意な発言をすることは、かえって教会の威信と信頼性を損なうことにならないだろうか。
 日本の司教団と「日本カトリック正義と平和協議会」は、先の米同時多発テロ事件では、米国の軍事行動を報復戦争として非難し、その停止を求めたが、この立場は世界のカトリックの中では異例のものであり、米国の自衛権発動をやむを得ないものとして認めている世界の多くの司教団、有力神学者、そして教皇庁の見解とも整合性を欠いている。教会の政治的発言に何よりも慎重さが求められる事例である。
 教会の人材と能力は限られている。教会は自分にとって不得手な分野で他に追随するのではなく、カトリックでなければ言えないこと、できないこと、カトリックだからこそ、最もよく言えること、できることに優先権を与えるべきではないだろうか。

 (カトリック新聞第3669号(2002年6月2日)「声」欄より)
 

新しい神父様の弟  投稿者:ノコさん  投稿日:2008年 6月22日(日)11時32分48秒
  ノムさんの向こうをはってノコさんとします(笑)お許しを
谷脇(弟)は3年前に司牧実習で1年間お世話になったのでよく知っています
結構イケメンで、いままでの実習生の中でも聖歌が一番上手だったと思います
 

新しい神父様  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 6月22日(日)10時34分34秒
  今日8:15のミサで、4月29日に司祭叙階された谷脇慎太郎神父の、山手での初ミサがありました。
助祭として長く山手で働いて下さっていましたので、山手信徒へのお披露目の意味もあるでしょう。昨日土曜の18:00、今日の7:00、8:15、12:00が山手での「初ミサ」になります。
今日は午後、茅ヶ崎教会で「湘南地区聖歌隊交歓会」があり、地区外ですが山手も押しかけ参加しますので、私は8:15のミサに参りました。この日は「子供と共に捧げるミサ」(いわゆる子供ミサ)の日で、谷脇神父のお話しも子供たちに話しかけるものでしたが、いいお話しでした。「召命」ということについてですが、ご自身の体験を踏まえ、話されました。
「召命」というのは、単に聖職者になるということでなく、神が期待している自分の役割を果たす、というような意味かな、と解釈しました。
勿論その中に「神父になる」ということもある訳で、神父はその期待も子供たちに話しました。

谷脇神父は佐世保郊外の漁村生まれて、「村全体、全員が信徒」という場所だそうです。
中学から神学校に入り、途中で抜けたりして、17年を要して神父になられました。
弟さんが一足先、昨年、長崎教区で叙階されています。

4/29の叙階式は、梅村司教のお話しも素晴らしいものでした。
私は全文を「横浜教区報」に載せるよう、お願いしてあります。
お父様の「ひとこと」が輝くような言葉でした。
谷脇新神父の「挨拶」と共に全文が載ることを期待します。

横浜教区はお陰様で、ポツポツですが、若い、元気な神父様が生まれています。
「司祭のために祈って下さい」
と谷脇神父は言いました。

祈っていますよ!

−−−−−−−−−−

「湘南地区聖歌隊交歓会」は、各聖歌隊の発表会のようなものです。
山手は、
1.チマッティ神父:Misericordias Domini
2.H.シュッツ:Cantate Domino canticum novum

あと全体でベネディクションがあり、モーツァルトのアヴェ・ヴェルム、フランクのパニス・アンジェリクス、Wernerの“O Salutaris”を歌います。
その後、「交歓」会に入ります。
 

カトリックの本領  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 6月22日(日)08時10分6秒
  Pas さん、曰く。

>カトリック新聞2002年6月2日号も見つかりました。
    「声」欄に「あきる野教会 角田信三郎」さんの御意見が掲載されております。
    "「政治的発言」教会は慎重に”と題されています。
             ちょっと驚きです。これは偶然か、はたまた.....


   彦左衛門:Pasさん、ありがとうございます。
 僕も驚いています。これは、長年地下坑道で、人知れず働いていた僕の近年最初の対社会的発言です。自分でもこの誌は失くして持っていませんが、その内容は、{カトリック教会は司祭の老齢化によって、近年、縮小再生産過程に入ってしまっている。その貴重な人材と資財を無駄に使うことは許されない。だから、カトリックの対社会的言動は、教会でなければ、言えないこと、出来ないこと、教会だからこそ、カトリックだからこそ、最もよく言えること、できることに絞るべきだ。それが教会の日本に対する最上の貢献だ、そしてそれこそ、教会のこの世での任務だ、

  ところが、近年カトリック指導部の言動を見ていると、自己の本領を忘れ、他人の尻にくっ付いて、何もカトリックでなくても出来る、政治運動に狂奔している。そして海千、山千の政治家、政治運動者にいまく利用されている、米英のアフガン軍事行動批判なんかが、その一例だ.、何と愚かなことだろう...} というものだったと記憶しています。

 今から6年前のことですが、この見解に変わりはありません。小生、この投稿を読んだ人の勧奨によって、『教会の政治的言動を憂うる会』なるものを知り、入会することができました。
 

谷司教  投稿者:おつる  投稿日:2008年 6月22日(日)00時27分27秒
  人権擁護法案は 今回成立しなくて ホッとしましたが
それを推し進めているのが カトリック部落問題委員会

そして今 懸念されている 外国人1000万人移民法など
これは カトリック難民移民移住者委員会
このホームページを見ると さいたま教区では 信徒のうち80パーセントが外国人
大阪教区は 60パーセント 全国信者数でも 日本人よりも外国人の信者のほうが
多いということに 驚きましたが・・・
1000万人移民が来たら カトリック信徒数が増えて うれしいのかなぁ
難民受け入れは どんどん推進したらいいと思うけど 移民は危険です。

どたらも谷司教が代表です。

http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/

 

某司教さんの「一番の課題」  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 6月21日(土)23時42分30秒
  部屋を整理していたら、去年「頬白親父」さんから貰った“さいたま教区正義と平和協議会”会報「ロバの耳」56号というのが出てきました。
そこに、編集担当者の谷司教へのインタビュー記事があります。以下、転記します。
−−−−−−−−−−

Q;今年の一番の課題(テーマ)は何でしょうか?
A;私自身のテーマは、「憲法20条を守ろう」を、教会、市民、宗教家の皆さんに訴え、呼びかけることです。
Q;司教さんは、具体的にはどんなことをお考えですか?
A;横浜、京都、広島教区から「信教の自由と政教分離について(憲法20条を守る)」というテーマで講演の依頼を受けています。こうした呼びかけにできるだけ応えて、各地に出向いていこうと思っています。2月の司教総会では「信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ」が司教全員一致で採択されました。3月にはそれに関する小冊子が社会司教委員会から発行されます。この本をいろんな人に読んでもらえるようにしたいですね。
それと、分かりやすいチラシを作って、駅で配りたいですね。
Q;ロバの会に期待することは何でしょう?
A;楽しく、仲良く、にぎやかに、でしょうか。
 

聖母の騎士  投稿者:Pas  投稿日:2008年 6月21日(土)23時27分24秒    編集済
  さきほど荷物の整理をしていたら昔の『聖母の騎士』が二冊も見つかりました。2001年10月号と2002年2月号です。
これで長崎に行ったつもりの気分をちょっぴり味わっています。

(追記)それといっしょに、なぜかカトリック新聞2002年6月2日号も見つかりました。
    「声」欄に「あきる野教会 角田信三郎」さんの御意見が掲載されております。
    "「政治的発言」教会は慎重に”と題されています。
    ちょっと驚きです。これは偶然か、はたまた......。
 

アイデンティティの喪失  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 6月21日(土)22時52分34秒
    ピーターさん:
  >教会とは、聖堂とはいったい何のためにこの地上にあるのか、その根底の全てを否定する活動が公然と行われている現状に、強い危機感を感じます。

  同感!。

 教会は政治的活動の場ではありません。政治が救えなかった人たちを救うとことが教会です。いやそもそも政治が人を救う事は出来ません。それは、人間一般の、生活条件の外的改善を多少とも実現することが出来るに過ぎません。

  しかも政治は一遍も、それに成功したことはないのです。それはそうでしょう。政治という場は、人の原罪的欲望、支配欲、権勢欲に火をつけ、その充足、自己肯定、富と名誉が際限なく追求される世界でもあるからです。

 しかも、これを正当化するイデオロギーが、人々の良心と良識を曇らせ、いかなる反人道的行為をも、正当化させているのが、政治の世界なのです。

 このような世界の犠牲者を『救い』、真の生きる希望と、人生の真実の意味を教えるのが、教会であり、その地上における、可視的現実が聖堂でしょう。

  ところが、連中は、教会の使命を忘れ、特定政治的党派のイデオロギー的宣伝に惑わされ、彼らに追随、彼等を自分たちの先覚者、師と崇めているのです。

  彼らは、もはや、自分たちの信仰に自信を失くしているに違いありません。だから、その代償として自分たちの存在理由を、信仰とその実践以外の場に求めているのでしょう。
 

Pasさん  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 6月21日(土)21時07分10秒
  動画有り難うございます。
フォーク・ミサや奉納のダンス入りミサに慣れ?ていた私でも、衝撃的でした。
まるで、キャンプ・ファイアーのダンス・・・絶句でした。
他の信徒を締め出して、自分たちだけであのミサをやっていたのね。
あの集まりには、ほとんどの人が拒絶反応を起こすでしょうね。

あのブログの司祭と同じく、結構、押し付けがましくやるもんだから
精神的に病んでしまった方もいると聞きました。

高松教区のM司教は、列福式でお忙しいようだけど、
司教団の役職は返上してでも、片手間ではなく、
じっくりと正面からネオの司祭や宣教家族と向き合って
うまく、導いて、着地点を見出さないと・・・

司教団は何でも、日本文化!と言って、いろいろ歪めてきたけど
ネオの典礼は さすがに認められないのかしら?
外国人が多い教会では、結構、派手?陽気?なミサをやってるけど。
日本の司教団とネオが見誤っているのは、
日本人の多くの信徒は、ミサの神聖さ、荘厳を望んでいるということ。
日本人には、ラテン系もビックリ!みたいなミサは向きません。
教会学校のキャンプのミサで、どうぞって感じ。

大阪教区でも聖霊刷新運動で、小教区が真っ二つに分裂した教会があったけど、
本当に、聖霊に導かれていたのなら、教会に溝ができるなんてことはないはず。
結局は、自分たち中心主義になって行ったんだと思います。
信心は、自分をしっかりと見つめ直すことが大切なのに、
真面目に信心する自分に酔いしれて、驕り、他を排斥するようになったら、
キリストが教えた信仰から、どんどん離れて行ってしまいます。
 

レスポンスをありがとう  投稿者:Prayer  投稿日:2008年 6月21日(土)21時02分7秒    編集済
   こんばんわ、レスポンスをありがとうございました。
 Prayerを名乗らさせていただいています。

 私の通っている付近の教会でも、最近問題となっている政治的な活動のビラを配布しているところが現れるようになりました。教会とは、聖堂とはいったい何のためにこの地上にあるのか、その根底の全てを否定する活動が公然と行われている現状に、強い危機感を感じます。私も最近、そのような活動の講演にたびたび誘われますが、行こうとは微塵にも感じません。

 修道院でお願いし、ミサをたてていただいたあと、司式していただいた修道司祭さまからも、とても信じられないお話をいただいたこともありますが、ここで申し上げるのは避けさせていただきます。


 いと高き天主である、
 イエスさまの御旨、御懐のうちこそが、私たちの道であると確信しています。

 これで私からの・・・答えになるでしょうか。
 

悪魔と戦う祈りの戦列  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 6月21日(土)20時38分11秒    編集済
    Prayerさん、サボテンさんの質問にどうかお答えになってください。

  「こちらの掲示板を読み、本当に悲しくなりました。」 と、おっしゃっているのは、掲示板に投稿している人たちが、司教や聖職の非行を批判していることを悲しんでいるのか、それとも、彼らが指摘、批判しているような事実、現実があることを悲しんで いらっしゃるのか。

 おっしゃる通り、祈りは大切です、いや僕たちの生活は、『祈り』から始まって、『祈り』に帰るものでしょう。 教会の現状を憂い、現教会指導部の逸脱の元凶である、例えば正平協などの犯罪的非違を厳しく指摘している人たちも、そうであると思います。

 彦左衛門もそうです。、吾らにとって、大切な、本来敬愛に値する人たちが、正道に戻ることができるように、日夜祈っています。いや、使徒たちが、悪魔祓いに失敗して帰ってきた時、主は、この類のものを追い出すには、祈りと断食が必要であると、お諭しになりました。(マタイ17,21)

 彦左衛門、断食は出来ませんが、祈りだけでなく、断食に代わる犠牲を探しています。
彦左衛門はもともとがりがりに痩せているのですが、この三年間、さらに7キロ体重が減りました。この上減るのは、危険ですから、断食に代わるもっといい犠牲を探しています。

 かの人たちは、吾らの祈りと犠牲がなければ、永久に改心することなく、堕ちるべきところに堕ちるのは必定でしょう。そういうことがあってはなりません。だから祈りかつ諌めているのです。

 教会を迫害し、多数の殉教者を生じさせている、世界最悪の犯罪国家と、その体制を賛美している男たちを、カトリックの司教が、態々引っ張って来て、信徒にその話を聞かせたり(大阪、広島両教区、田代菊雄)、また自分たちまで、その話をきいている(1月11日、12日、東京。武者小路公秀)。

 そして全くその非異に気がついていない。かれらは、そこまで堕落したのか。他の点では、立派な人たちが、自分たちの反信仰的、反教会的、反人類的非違に気がついていないとすれば、それは、全く彼らが悪魔に誑かされているためとしか考えられないでしょう。

 この悪魔と戦う祈りの戦列に、どうかPrayerさんも加わってください。
 

再度訂正・・・Re.祈ります・・・Prayer 様  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 6月21日(土)18時00分56秒
  管理人さん、すみません・・・・霊的善行→霊的善業  

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天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように
御国がきますように
御心が天に行われるとおり地にも行われますように
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
私たちの罪をお許しください
私たちも人を許します
私たちを誘惑に陥らせず
悪からお救いください
 アーメン


   
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