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週間WEB連載エッセイ 第二弾 No38 ( 2005年11月16日掲載 ) |
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『 第6章 誤った固定観念が変ってオーラが出る 』
4.ぼくには心を病んだ友人が多い
志茂田景樹
ぼくはマルチな活躍をして、さらに新しい分野に進出しようと夢をいつもいだいております。クラーク博士の言う意味でのアンビシャスなら年々高まる一方です。
現状維持でいいよ、と、ぼくの心身システムが要求していればともかく、逆なんですね。本業の作家業はあい変わらず活発ですし、タレント業も講演活動も、また出版社の社長としての仕事も、ライフワークとしての読み聞かせ活動も、すべて立体的、同時的にこなしています。
そんなにいろいろやっていて混乱しませんか、と、よく訊かれます。混乱なんかしません。わかりやすくどうして混乱しないかを説明しましょう。
ごく簡単に作家としての仕事の中で説明しますね。たとえば長編の書きおろしをやっていて、途中で短編やエッセイの締め切りが迫ると中断しなければなりません。ぼくの頭をビデオデッキだと思ってください。途中まで見たビデオを、来客があったり仕事の時間がきたりすると、ひとまずそこでとりだしますね。それと同じです。とりだしたときは、その書きかけの長編小説のことはまったく放念しています。
そのとき用がないから放念しているわけで、そこでなんの心残りもなくエッセイや短編にかかることができるわけです。そして、またその長編にもどるとき、頭の中にビデオを押しこむようなものです。つづきから見ればいいわけで、つづきから書けば、その瞬間にスタートから中断したときまでのすべての内容が頭の中にもどるんですね。簡単でしょう。
要するに気分の転換と同じで、中断してまたその仕事にもどるまでは、すべて放念してしまうという頭の構造になっているんですね。これは書く仕事からほかのジャンルの仕事へ中途で飛びこむときも同じです。
たとえば読み聞かせ公演という土俵に飛びこみますね。すると、ぼくは作家であることを忘れて、ただの語り部として、その土俵で自分をさらけだしています。そこにはなりきったぼくがいるだけで、作家の影はどこにもありません。
この土俵から飛びだして仕事場にもどれば、そこで初めて作家にもどればいいじゃないですか。
時間をどう使っているんですか、とも、よく訊かれます。時間は流れているわけですから、流れに乗っかっているだけでいいんです。
たとえば大阪で午後から講演か読み聞かせがあるとします。朝、事務所でエッセイを書いて、事務所のスタッフの運転する車で東京駅に向かいます。そのとき、インタビューの締め切りが迫っていて、二十分くらいですむものであれば車の中で取材を受けています。
新幹線に乗ったら連載の執筆をし、着いたら仕事をすませ、とんぼ返りで新幹線で東京にもどりますが、東京着が九時十時であれば、もう後の仕事はありません。帰りの新幹線の中でも執筆をしますが、名古屋を過ぎたあたりから酒を飲みだします。東京駅に着けば、スタッフとおさらばして六本木や新宿に出撃するわけです。
新幹線でぼんやりしている時間が多いときは、それはつぎなる飛躍をもとめて幻想、空想、ナルシズムの世界に入っているときです。
無駄な時間とはなんでしょう。過ぎてしまったことを悔やんでいる時間です。あのときはああすればよかった、と、くよくよ悔やんだところでなんにもなりません。子どもでもわかりますね。
それと、悪いストレスに支配されているときです。これも、とても無駄な時間ですね。このエッセイで登場した方々にかぎらず、ぼくのまわりには、ふしぎと心身症的あるいは人格障害的人間が自然に集まってきます。その人たちにとって、ぼくは、自分自身は意識していないのに、あるがままのカウンセラーになっているようですね。
写真家、作家、占い師、酒場経営者、ほかには精神科医もいます。離婚経験者もいれば、子どものとき自閉症だった者もいます。
自殺未遂をおこして手首にカミソリの切り傷のある人もいます。躁うつ症の人もいますし、あきらかに分裂病気質の人もいます。どんな人に対しても、ぼくはフラットに公平に接します。心身のシステムがそれを要求しているからで、けして無理しているわけではありません。
ですから、なかには、だれにでも親切にしないでください、と、見当ちがいな文句をつける方もいます。ぼくが、その人たちに、酒を飲みながら、遊びながら、話していることは、このエッセイのどこかに書いてあることです。
どうも長々と読んでいただいてありがとうございます。もう一度読みかえしてください。トレーニング法のところへ来て、はっきりとその意味がわかります。トレーニングが進めば、食の傾向も変わってきます。自分に課さなくてもマメに身体を動かすようになります。若々しくなり、他人からはオーラが出てると言われるようになりますよ。
もう八、九年も前のことになりますが、英字新聞のデイリーマイニチの記者のライアン・コネルさんが、ぼくに二日間にわたって密着取材しました。
いく先々での密着取材のほか、あいまあいまにかなり多岐にわたってインタビューを受けましたが、
「外国人の多くはあなたをホモだと見ていますがどうなんですか」
と訊かれました。
ちなみに、ライアン・コネルさんは当時二十八歳になるアメリカ人で、奥さんは日本人です。
過去によく訊かれた質問ですね。ファッションから見ての質問だったんでしょうが、S要素、M要素が人間にバランスを保ちながら具備されているように、異性愛要素、同性愛要素も人間には具備されているとぼくは思っています。
それもバランスの問題で、ファッションとか雰囲気からぼくをホモと見る人がいるのだと思います。さすがに日本人では、ぼくをそういう見方で見る人は少なくなりました。
ぼくは服装に垣根がないだけで、男と女をへだてて考えるのはきらいだと答えました。美しいもの、そして元気なものに興味がいきます。それでいいじゃありませんか。
ライアンさんは、ロータリークラブの例会でスピーチしたぼくを取材したあと、ぼくの事務所の車に乗っていっしょに移動しましたが、
「ロータリークラブの会員といえば、それぞれ名誉と社会的立場のある人でしょう。あなたの話のあと、感想を聞いてまわったんですが、うらやましいと言っていました」
と、少し感動した面持ちになりました。
そして、こうも言いました。
「たしかにあなたからはオーラが出ていますね。強いオーラですよ」
オーラがなにか、ぼくにはわかりません。きっと元気をもとめ、死ぬまで愉しく年をとっていこうとしているぼくの覇気のようなものでしょうか。
それがオーラなら、このエッセイを読んで実践したみなさんは、みな、やがてオーラを発するようになります。みなさん、これからの長い「死ぬまで中年」を、どんどん前へ進んでください。いく手にあるのは老いではありません。もっと豊かな自分、もっと大きな自分、そして大きな夢をぱあっと広げた自分です。
今回は、これでひとまず話を閉じさせていただきます。みなさんの美と健康を祈りつつ。
WEB インターネット 週間 連載 エッセイ KIBA BOOK 志茂田景樹事務所
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