タルムード

以下は小石泉牧師の本からの引用;
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これは、何も変なことではない。聖書でもユダヤ人はいつかはキリストを信じると書かれているからであ
る。あのユダヤ教からの脱却を高々と宣言したバウロがキリスト教の基礎ともいうべき新約聖書ロ−マ書
に書いているのである。今や、このメサニック・ジューは全世界に何十万人ともいわれる規模になってき
た。そして、彼らはいろいろなルートでキリスト教会の中に入り込んできている。それは悪いことではな
い。ユダヤ人が救われてイユスをキリストと呼ぶことに勝る素晴らしい事もない。ただ、なぜかクリスチ
ャンがユダヤ人を自分たちの「信仰の兄」と呼び、彼らが「福音のユダヤ性の回復」などという言葉や本
を出すに至ると、私のアンテナは敏感になるのである。実際、「福音のユダヤ性の回復」という奇妙な本
は、実に巧妙にキリスト教のユダヤ化、ないしは後退を育んでいるように思えるのである。また、ここ数
年フロリダ州のペンサコーラという町で強烈なリバイバルと言われる現象が起こっている。何万人もの
人々が救われ、悪い道から改心し、麻薬から解放され、犯罪が滅少している。それ自体、悪いものではな
く、極めて健全なものに見えるのだが、その中心的指導者には幾人かのユダヤ人がいる。私が、ここまで
書くと恐らく幾人もの人々が「なぜユダヤ人ではいけないのか。それは

人種的な偏見で、お前こそ悪いのではないか」と言ってくるに違いないことが私にはありありと分かる。
ユダヤ人で何が悪いのか?私には消えない一つの懸念がある。それはタルムードである。もし、メサニッ
ク・ジューがタルムードを非難し、そこに書かれているイェス・キリストへの冒涜とキリスト教徒を殺害
することを目的としているこの書を恥とし民族を代表して悔い改めるのでなければ、私には彼らが本心に
おいてはマラノでありキリスト教会を誤導するために遣わされた蝶者ではないのかと言う疑いを持たない
わけにはいかない。ここで言うマラノは、強制されてではなくある目的を持って本心を隠してクリスチャ
ンを装っていると言う意味に置いての言葉である。マルチン・ルターはその改革の初めにはユダヤ人の助
けを受け、自らフリーメーソンであったらしい。しかし、彼が一度タルムードを読むに及んで(彼はヘブ
ライ語、ギリシャ語に極めて秀でていた)彼のユダヤ人観は一変したという。私はまたしても友人を失う
だろう。「君は余りにも疑り深い。君の事を聞いていると希望も信仰もなくなってしまう。なぜ、聖霊に
逆らうのかね。神の御業に難癖を付けるのかね。見たまえ、兄弟が和合してともに居るのは何と美Lい事
ではないか」

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しかし、私はただ一人になっても、ユダヤ人の中にタルムードがあるかぎり「へびのように聡くあれ」と
言われた主イェスの言葉に従いたい。そこで読者のために膨大なタルムードの中からとくに注意したい言
葉を並ぺたテキストを紹介して判断を顧うこととしよう。これはすでにインターネットなどで公にされて
いるし多くの人々に知らせてほしいという事なので、無断で拝借するがお許し頂けるであろう。

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タルムードに生きるユダヤ人を信用で来るか

「この文章の内容はアラン・R‐クリチリーとマイケル・ホフマンにより調査され確認されている。http
//:www.hoffman/1nfo・com
エルビン21b 誰でもラビに従わないものは死に値し、地獄の熱い大便の中でゆでられる懲らしめを受ける
だろう。
モードカッタン17aユダヤ人が悪を行うように誘惑されたら、彼は自分が知られていない町に行ってその
悪を行わなければならない。
パパメジア114a−b ただユダヤ人だけが人類である(ただ汝のみ人として選ばれたり)。
カリソス6bの〃油注ぎ〃の副題とペラコス58aに異邦人の女は動物として選ばれた(造られた)とある
(ロパ女)。
サンヒドリン58bもし異邦人がユダヤ人を蹴ったら、彼は殺されなければならない。ユダヤ人を蹴ること
は神を蹴ることと同じである。

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サンヒドリン57aユダヤ人は異邦人またはクサン(クタ人)の労役に対して賃金を支払う必要はない(訳
注*クタ人、列王記下一七:三ここでは異邦人のこと)。
パパカンマ37b イスラェル人の牛がカナン人の牛を突き殺しても債う必要はない。カナン人の牛がイス
ラエル人の牛を突き殺した場合は支払いは十分行われなければならない。
パバメジア24aもしユダヤ人が異邦人の落とし物を見つけた場合、返す必要はない(パバカンマ23bでも
確認)。
サンヒドリン76a神はユダヤ人が彼の娘を老人に嫁がせたり、幼児の息子に妻をめとったり、異邦人の紛
失物を返さなくてもとがめられない。
サンヒドリン57aユダヤ人が異邦人を殺しても死刑にはならない。ユダヤ人が異邦人のものを盗んでも返
さなくても良い。
パバカンマ37b異邦人は律法の保護の外にある、そして神は彼等の金を〃イスラエルにさらされる。
〃パパカンマ113aユダヤ人は異邦人を罠にはめるために虚をついても良い。
イエパモス98a異邦人の子供は動物である。
アボダーザラ136b異邦人の娘は生まれつき卑猥である。

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アボダーザラ22a−b異邦人は雌牛と交尾することを好む。
アポダーザラ‐67b異邦人の食器は彼等の料理に一層ひどい匂いをつけないだろうか。
サンヒドリン106aイェスの母は売春婦だったという。〃彼女は大工と売春婦遊びをした総督の王女の子
である〃。またシャパット104bの脚注#2には〃確認できない〃タルムードのテキストにはイエスの母マ
リヤは美容師で多くの男と交わったと書かれているとある。サンヒドリン106にはイエスが若くして死ん
だことを満足げに書いている。〃バラム(イエス)は何歳だったとお聞きか。彼は答えた、はっきりはい
たしませぬが書き記された所によれば、この血みどろの詐欺男は彼の従者たちの半分も生きなかった三三
歳か三四歳だったそうじや。〃
サンヒドリン43aイエス(イエシュアまた脚注58にはナザレ人イエシュア)は魔術を行ったので処刑され
たと言われる。
ギソテン57aイェスは(脚注四)熱い大便の中でゆでられている。
サンヒドリン43aイェスは死刑を執行された。〃過ぎ越しの祭りの前夜、イェシュアは木に掛けられた。
彼は自分を防衛することができたはずではないか。たぷらかす事が出

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き来なかったのだろうか
ロシュハシャナ17a タルムードを拒否するクリスチャン(minim)と他のものは地獄に行き、永劫に懲
らしめられる(minimについては脚注#11参照)。
サンヒドリン90a新約聖書を読むものは(脚注#九に正典ではない書物とある)
来るべき世において立場はない。
シャバット116a ユダヤ人はクリスチャンの本(新約聖書、脚注#6)を撲滅しなければならない。(イ
スラェル・シャハクによれば一九八○年三月二三日パレスチナでシオニストたちが何百冊という新約聖書
を焼いた。「ユダヤの歴史と宗教」P21)。
ギッテン69a 肉体をいやすためにユダヤ人は家の外の便所の陰のごみを取り、蜂蜜に混ぜあわせて食べな
ければならない(訳注*これは具邦人に対してではないかと思われるが、要するに自虐的になっていると
言う事なのかもしれない)
シャバット41a 律法は小便をいかに聖なる方法でするかについての規定を与えている。
イエバモス63aアダムはエデンの園のすぺての動物たちと性交を行ったという
イエパモス63a農業は最低の織業である。
ザニヒドリン55bュダヤ人は三歳(特に三歳と一日)の女子と結婚できる。

サンヒドリン54bュダヤ人は九歳にならない子供とでも性交することができる。
ケスボス11b成長した男が幼女と性交しても、別にどうということもない。
イエパモス59b獣姦をした女でもユダヤ教の祭司と結婚する資格がある。悪霊と性交した女でもユダヤ教
の祭司と結婚できる。
アボダアゼラア17b世界にラビ・エリエゼルと性交をしなかった売春婦はいない。
ハギガー27a地獄に行ったラビは一人もいない。
パパメツイア59bあるラビは神と討論し彼を打ち負かした。神はラピに負けたことを認めた。
ギッテン70a戸外の便所から帰ってきたときは、半マイル歩くだけの時間、性交をしてはならない。もし
そうするなら便所の悪霊が一緒にいて、彼の子供はてんかんになる。

タルムードは全巻を通して便所と大便の脅追観念にとりつかれている。それはスビルパークの「シンドラ
ーのリスト」にも表れているようにハリウッドの監督はユダヤ人の子供が便所で便器を飛び越して肥だめ
の中に落ちたさまを描いている。一人のユダヤ人の子供が半分肥えだめに埋まっている二人のユダヤ人の
子供に出会う、彼らは通報者の事を聞い

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たので、とりあえずそこに隠れていたのである。前の子供もそこに隠れないわけには行かなかった。これ
らのいやらしい不健全な類いの心理的なイメージはホロコーストの映画やその類似のこと、さらにはタル
ムードの中にすら表れる〃礼拝〃としてユダヤ人の子供が常にさらされているものである(訳注*そうか
もしれないが、実際にユダヤ人にはそういう歴史があったのだろうから同情も感じる。ユダヤ人の脅追観
念の全てを否定することは出来ないと私は思う)。

ギッテン69b(p239)肋膜炎を癒すために、ユダヤ人は白い大の糞をパルサム油とこねて会ぺなければな
らない、しかし、もし手足を緩める事ができるなら犬の糞を食ベてはならない(訳注*意味が良く分から
ないのだがこうとしか訳せない)。
ベサヒム111a犬と女と椰子の木が二人の男の間を通り抜けることは許されない。また、犬と女と椰子の
木の間を通り抜ける事もあってはならない。女が生理のときと十字路に座っているときは特別に危険であ
る(訳注*恐らく真面目な読者は犬と女と椰子の木の関連性が分からないかもしれない。これは単に女性
を馬鹿にした表現である)。
メナホス43b~44aあるユダヤ人の男は毎日こう祈ったと非難されている、「神よ私を異邦人や女や奴隷に
お作りにならなかったことを感謝します」

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シャパス86aーbュダヤ人は聖いから昼間は部屋を暗くする事ができなければ性交をしない。ユダヤ人の
学者は昼間でも彼の外套をテントのようにして暗くする事ができれば性交をする事ができる。
タルムードには二つのホロコーストに関する昔話がある。ギッテン57bはベサーの町でローマ人によって
四○○万人のユダヤ人が殺されたと主張している。また、ギッテン58bは一六○○万人のユダヤ人の子供
がローマ人によって巻き物に巻かれて生きながらに焼き殺されたと主張している。古代の人口統計によれ
ば、その時代、世界中に一六○○万人のユダヤ人の子供どころか四○○万人のユダヤ人も居なかった。
アポダーザラー70aラビに質間が寄せられた「バンペディサの町で用いようとしていたワインの一部が盗
まれたか汚された場合、泥棒が異邦人だとしたらどうすれば良いか」(異邦人がワインに触れた場合それ
は汚れるから)「別に気にすることはない」とラビは答えた「そのワインはユダヤ人が用いても構わな
い。そのワインがバンペディサの町で盗まれたのだとしたら、バンペディサの町の盗人はほとんどユダヤ
人だから、それを盗んだのはユダヤ人だ」(訳注*これなどは単なるューモアに過ぎないと思う)
エルビン21bある人にラピ・アキバが言った。「手を洗う水をくれないか」相手は

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「飲むにも足りないのです、あなたの手を洗うためには十分ではありません」とつぶやいた。ラビ・アキ
バは言った。「ラビの言葉を無視することは死に値する。私は自分の同僚の意見に逆らうくらいなら自殺
するほうがましだ」(これはイエス・キリストがマタイー五:一九で非難した儀式としての手洗いの事で
ある)
カラー51a(Soncinominortractes)は神が嘘つきのラビを認めると教えている。ある時、長老が町の門
に座っていると二人の若者が通りかかった。一人は頭にかぶり物をしていたがもう一人はしていなかっ
た。ラビ・エリエゼルはかぶり物をしていない若者を評して「彼は私生児だ」といった。ラビ・ジョシュ
アは「彼はニダーの子だ」と言った。(ニダーとは生理中に妊娠した子のこと)ラビ・アキバは「彼は私
生児でニダーの子だ」と言った。彼らは「あなたはなぜ同僚の意見を否定しようとするのか」と聞いた。
彼は「私は彼の事について証明しよう」と言い、その若者の母親の所に行った。彼女は市場で豆を売って
いた。彼は彼女に言った「娘よ私の質間に答えるならあなたを来るぺき世(永遠の命)に連れていこう」
彼女はラビ・アキバに「どうぞ言って下さい」と言うので、彼は一年に一回のくちびるの誓いをして「あ
なたの息子について話しなさい」と言った。彼女は答えた。「私が初夜の寝室に入ったとき、私は生理中
でした。それで私

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の夫は私を近付けなかったのです。しかし、私の愛人が抱いてくれたので彼の子を生みました」結局、そ
の若者は私生児でニダーの子だった。かくして「ラビ・アキバに秘密を明かされたイスラエルの神に栄光
あれ・…・と宣言された。この話につけ加えると、神がほめたという先の討論の嘘つきたちの言っている
のは、イエス・キリスト(かぶり物をしていなかった若者)の事である。この若者の母とはもちろんイエ
スの母、神の祝福されたマリヤの事である(タルムードではミリアム、または髪結いのミリアムと言われ
ている)。
ソフェリム15  Rule10(Minortractes)これはラビ・シモン・ベン・ョハイの言葉である。〃トブシェ
バゴイムハーログ〃「最善の異邦人でも殺さなければならない」この言葉はソンシノ版には出てこない
が、一九○七年版のユダヤ百科事典に引用されているバビロニアンタルムードのヘブル語原典にある(上
記のユダヤ百科事典はファンクアンドワグナルズとイシドール・シンガーによって編集された〃異邦人〃
の項目にある。P六一七)。このタルムード原典の言葉は翻訳では隠されている。ユダヤ百科事典は(多
くの翻訳の記事が変えられているとして)
〃エジプト人の間の最善のもの〃も一般的には取り替えられているとある。ソンシノ版ではここは〃異邦
人の間の最善

117

のものも〃となっている。(Minortractes、sffrim41a-b)イスラエルでは年毎にシモン・ペン・ョハイ
の墓に詣でる国家的な行事が行われ、非ユダヤ人の絶滅を主唱したこのラビを称える(Jewish Press 
June9、l989、P56b)。一九九四年四月二五日プリムの祭り*の日にブルックリン在住のイスラエルの
陸軍軍人でオーソドックスカザールのバルーシュ・ゴールドスタインは子供を含む四○人のバレスチナ市
民を殺害した。彼らはモスクでひざまずいて礼拝していたのである。ゴールドスタインは晩年のラビ・カ
ハネの弟子だった。カハネ:タルムードの解釈ではアラブ人は〃犬〃である(Cf. CBS六○分番組カハネ
より)(訳注*プリムの祭り:旧約聖書エステル記から、王妃エステルがユダヤ人を皆殺しにしようとし
たペルシャの大臣ハマンの策略を破り、逆にユダヤの敵を殺した記念の祭りのこと)。
エルサレム大学の教授ユフド・スプリンザックはカハナとゴールドスタインの哲学について「彼らはゴイ
ム(ヘブル語の言棄で非ユダヤ人のことだが)に対して暴行を加えることは神の意志だと信じているの
だ」と述ぺた(NY Daily News、Feb。28、l994、P6)。

118
 

ラピ・イッハク・ギンスバーグは言った。「我々はユダヤ人の血はゴイ(異邦人)の血と同じものでは無
いと言う事を認識しなければならない」(NY Times、June 6、1989、P‐5)また、ラビ・ヤアコ
ブ・ペリンは「一○○万人のアラブ人は1人のユダヤ人の指の爪にも当たらない」と言っている(NY 
Daily NewS、Feb 28、1994、P6)。
現代の法王たちやプロテスタントの牧師たちで、かつて一人もユダヤ教のラピたちに、タルムードを拒否
し非難することを要求したものはいない。それどころか、教会の指導者たちはキリストに従う者たちを激
励する代わりに、タルムードに従う者たちをほめたたえ支持したのである。それゆえカトリックとプロテ
スタントの指導者たちは今日、地上で最悪のイエス・キリストへの裏切り者たちである』

たとえこれがそのほんの一部分だったにしても、この便所の落書きみたいなものが、一つの宗教の経典な
のである。一体そういう宗教とはどんな宗教なのだろうか。それは宗教と呼ぶぺきものなのだろうか。ま
た、このタルムードを「人類の叡智」などと褒めたたえた〃宗教者〃は何を考えて居

119

るのだろうか。もし私がユダヤ人でキリストを信じたら、真っ先にこのタルムードを恥じて、謝罪を表明
するだろう。さらに、このタルムードを信奉するマービン・トケイヤーのような人物と親交を結んだと嬉
嬉として報告する馬鹿者もいる。私の言っていることに何か間違いがあるだろうか?そう思うならもう一
度読み直してほしい。私はこの文書の最後の言葉をそのままメサニック・ジューとたわむれるクリスチャ
ンたちに投げ掛けたい。あなたは裏切り者ではないのか!ユダではないのか!私はこの本を書くことによ
っていよいよ人種差別主義者とよばれ、すぺてが危うくなるだろう。もし私が欧米に住んでいたら、ただ
ちに監獄行きとなるだろう。幸いに日本にはまだ人種差別法がないだけの話である。しかし、いつの時代
でも本当のことを言うのは命懸けなのだろう。私は私のようなものの命が真実を明らかにするなら、いつ
取り去られてもいとわない。私は当初、この後にマルチン・ルターの「ユダヤ人と彼らの嘘」というバン
フレットを出来るだけ詳しく載せるつもりだった。彼はユダヤ人をあますところなく論述している。ルタ
ーはさすがに天才である。その舌鋒は鋭く、理論的であり、彼以外にはこの様なもの

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を書く事はできなかったに違いない。いや、もう一人居た。おなし宗教改革の勇、カルビンもあまりの非
道、不遜にあきれ果てユダヤ人の指導者を焚刑にしたが、やはりユダヤ人を知っていたのであろう。しか
し、私はこの書を載せないことにした。それがあまりにも長いこともあるが、あまりにも優れているから
である。それはあまりにも事実をえぐり出しているからである。あまりにもヘビーなのだ。まるでへどろ
の山を移し変えるような作業なのだ。最初この書を読んだときも、その後も、読むたびにいつも私は暗い
陰欝な気分にさせられる。どんなにルターが正しくても、これほどひどい話は愉快なものではない。出来
れば知らないで過ごせればそれに越したことはないのかも知れないがそれは卑怯者の結論だろう。私は、
読者がこの書を自分で購入して読まれることをお勧めする。そうすれば私の気持ちが分かって頂けるであ
ろう(歴史修正研究所出版部新潟市大島二六の四、一部一八一○円送料別)。さて、いまわしい結論だ
が、今、我々に何が出来るというのか。この世は完全に彼らに握られてしまった。この日本でさえ、ユダ
ヤに関する批判はもはや大ぴらには出来ない。この国の支配者はだれなのか。今、我々は自民党や小渕恵
三氏の悪口なら何の妨げもなく

121

言う事ができる。しかし、ユダヤに関しては〃良いことも悪いことも〃言えないのである。昔から本当の
支配者の悪口は言えないものだ。だから、もう一度言うがこの国の支配者はだれなのか。私は結局、これ
は神にしかできない事なのだと思う。ユダヤ人を裁くことは人間には出来ないのだろう。彼らがどんなに
悪辣で、残虐であったとしても、もはや人には彼らを裁く力は無い。これはこの章の目的とは反対の方向
の結論となってしまったが、事実は事実、認めなければなるまい。今、我々に出来る最善のことは、物事
の本質を見誤らない事である。ユダヤ人のやることの何が正しくて何が間違っているのか。世界がいかな
る原則で動かされているのか。そうでないと我々自身が発狂しかねない。ユダヤをそのまま受け入れる者
は、確かにその目が濁り、気が転倒しているのだ。今や歴史は逆転した。これからはクリスチャンがユダ
ヤ教に転ぶだろう。おそらく、
二○○○年からマラノはクリスチャンの呼び名となるだろう。
 

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膨大なタルムードを抜粋したユダヤ鑑百則

その源はモーゼが神から授かった律法
タルムードという語は、ラムードLamud(教える)すなわち教訓を意味する言葉から転化して、この教訓を内容とする書籍の名称となった。この教訓書は、実にユダヤ人の知識と教訓の全てを解説したものといっていい。タルムードの由来について、ユダヤ学者達はモーゼをその最初の著者とみなしている。モーゼがシナイ山で神から受領した石板に書かれた律法、すなわちトーラ・シェビクタブTorah Shebiktbというものの外に、それの解釈あるいは口伝律、つまりトーラ・セベアルペTorah Schebeal pehをも受領したといわれている。神は一日で記録律法を授けたのに、モーゼがあんなにも長く山に留った理由はそこにあるというのである。モーゼはこの口伝律をヨシュアに、ヨシュアは順次に七○人の長老に、長老は予言者達

に予言者達は大教会にと、連続的に特定のユダヤ学者に伝えたが、遂に口伝えでは記憶出来ないまでになった。キリスト降誕前にパレスチナの学校で「神聖」な文学が教えられていたが、律法についても博士達の註釈を記憶しやすいように書きつけられた。これが集められてユダヤ・タルムードの最初のものが形造られたのである。キリスト後第二世紀にラビ・ユダー‐聖徒とか王子とか呼ばれた−−がユダヤ学の衰退しつつあることと、ユダヤ民族が分散しつつあることを憂えて初めて口伝律の復旧法と手段を考えた。彼は全目録と表示を集めて一書を作成した。それをセフェル・ミスナイオトまたはミスナあるいは「第二律法」ともいう。彼はそれを六部に分け各部をまた多くの章に分けた(後述)。このミスナは全タルムードの根幹となり、世界中のユダヤ人に権威ある法典として受け容れられ、パピロニアとバレスチナの学校で採用された。その後年々註解が増加し、ミスナについての博士達の論争と判決とが書下された。それをゲマラという。つまりミスナは法律の本文であり、ゲマラは判決を誘導すべきさまざまな意見の解説である。しかしミスナの全訓言がユダヤの学校で論議されたわけではなかった。このためミスナのある部分はゲマラの中に欠けている。ラピ・ユダのミスナについて、パレスチナとバビロンの学校では各自勝手な解釈を行なった。そのためまた二通りのゲマラが出来た。つまりエルサレム訳とパビロニヤ訳である。エルサレム訳の著者は八○年間エルサレムの教会の長老であったラビ・ヨハナンで、ミスナの註釈三九章を書いて紀元一二三○年に完成した。一方パビロニア訳は一人の著者ではなく、また一時期に完成したわけでもなかった。ラビ・アシが紀元三二七年に始め、六○年間努力し、およそ四二七年にラビ・マレマルがこれを継ぎ、約五○○年にラビ・アビナによって完成された。バビロニア・ゲマラには三六章がある。ミスナに附加されたこのニ通りのゲマラはまた二通りのタルムードも作った。エルサレム訳は簡単すぎ曖味でもあったためにあまり用いられず、パピロニア訳は各時代のユダヤ人に非常に尊重された。ゲマラにトセホトという追録がある。これはラビ・ハイアがミスナに対する自分の意見をこう呼び、彼とラビ・ウシヤイアはこの書物を学校で公然と解説した最初の人物であった。ミスナに対する註釈は校外の博士達によって作られ、バライェトト(外来の教え)あるいは外来意見といわれた。

タルムードのパビロニア訳が出来てから約五○○年間、この研究は一部は一般の災難により一部は学者仲間の軋礫によって妨げられた。しかし二世紀中に更にタルムードが追録されその中の主要部はラビ・アシェルのトセホトであった。このようにミスナ、ゲマラ、オセホト、ラビ・アシェルの傍註ビスク・トセホト及びマイモニデスのペルシュ・ハミシユナイオト‐‐これ等全部が一つに結集されてタルムードと称する彪大な著作を構成したのである。そして完成されたタルムードの主要部は次の六部である。
一、ゼライムZeraim「種子」用法。種子、果物、草木、樹木の処理及家庭的用法。
二、モェドMoed「祭典礼式」。安息日及祭礼の開始終了、挙式時期。
三、ナシムNaschim「婦人法」。結婚女、拒婚女及其の責務、親戚、疾病。
四、ネデキンNezikin「損害額」。人及動物によって蒙った損害額、罰則及賠償。
五、コダシムKodaschim「神聖」儀式。犠牲及各種神聖なる儀式。
六、トホロトTohoroth「斎戒法」。器具、夜具及其の他の品物の汚穢及斎戒法。
以上を「六命令」あるいは「六法今」といい各部は又マッシクトトと呼ぶ書籍または小冊子に分かれ、その書籍は更に章、項目に分かれている。

聖タルムード以上の教典はないという
タルムードはこのように多様で混乱した内容であるため研究を簡易化する概要摘録がユダヤ人達にとって必要となり、イサク・ベン・ヤコブ・アルファジが一○三二年に筒易タルムードを発行し、彼はそれをハラクホト「憲法」と呼んだ。彼は冗漫な全討論を省略し生活上実際的な事象を有する部分のみを残した。しかしこの著述には秩序がなかったために評価は低かった。ユダヤ律法の整頓した著述を最初に発行した人物はマイモニデスで、彼は「教会の鷲」と呼ばれた。一一八○年、彼は有名な著述ミスナトーラ「律法の反覆」別名イアド・ハザカ「強き手」を公にした。この著述は四部あるいは四巻と一四書からなり、しかも全タルムードを含んでいる。この中には多くの哲学的論議があり、独自の法律を作ろうと試みた。そのため彼は人民から破門され死刑の宣告を受け、エジプトに逃れ一二○五年に死んでいる。それにもかかわらずこの著述はユダヤ人達の間で次第に認められ、いかがわしいと考えられた箇所を削除校正した翻訳がユダヤ人によって尊童されるようになった。マイモニデスの著述中の哲学的新考案を削正し、不要の法律を排除し、ラビ達の思想を

厳密に調和した刊行物が一三四○年ヤコブ・ベン・アセルによって出版された。それに彼はアルバー・ッーリム「四命今」という名をつけた。
一、オラハ・ハイムOrach Chaiim「生活の根源」。家庭並に教会に於げる日常生活を記す。
二、イオレ・デアIore Deah食物斎戒及びその他の宗教的律法についての知識を記す。
三、ホシエン・ハンミシユバトHoschen Hammischpat 民法及刑法についての秘密の判決。
四、エブェン・ハェゼルEbhen Haezer「助けの岩」。婚姻法について記す。

アルファジ、マイモニデス並にヤコブ・ベン・アセルが同一律法に対し異説解釈をし、所論が不統一となったので簡潔な解釈でユダヤ人にふさわしい律法書が大いに必要となった。この必要をみたしたのはバレスチナのラビ・ヨセフ・カロ(1488〜1577)のアルパー・ッリンについての有名な註釈書シュルハン・アルク「準備された食卓」であった。しかしながら東方ユダヤ人の習慣は西方ユダヤ人のそれとは非常に異っており、ヨセ

フ・カロのシュルハソ・アルクでさえ随所にユダヤ人に対して満足を与えなかったので、ラビ・モツシエ・イツセレスはシュルハン・アルクについての註釈書ダルケー・モツシエ「モーゼの道」を書いた。これは東方におけるョセフ・力ロの著述の如く西方においても同様の人気を博した。現在、シュルハン・アルクはユダヤ人が遵奉すべき義務ある律法法典とみなされている。ユダヤ人はもっばらこの法典を基に研究し多くの註釈はこの書に基づいて書かれた。特筆すべきは、この著述は常にユダヤ人によって神聖なものと尊重され、聖書以上に重要なものと考えられ、今もなお同様に取扱われていることである。タルムード自らがこの点を至極明瞭に裏書している。すなわち、パパ・メデア書冊三三に、「聖書に精進する者は報酬を得む。されど多からず。ミスナを学ぶ者は恩籠を受けむ、然れどもゲマラを学び、これを行なう者は最高の報酬を得む」ソフェリム書冊の一五の七に、「聖書は水の如く、ミスナは酒の如く、ゲマラは芳香酒の如し」次の言葉はラビ達の書中の有名な箇所で高度に称讃された意見である。

「子よ、律法の言葉に優る学者の言葉に心を留めよ」この理由はサンヘドリン書冊一○のご一の八八に出ている。「学者の言葉に背く罪は律法に背く者に較べ著しく重し」律法と博士達の意見が違う場合も双方共に主たる神の言葉として許容せねばならぬ。小冊子エルビン一三において、ヒレル及びシャマイ両校間に意見の相違があった事が述べられ、「両者の言葉は生ける神の言葉である」と結論してある。ミヅベアハ書五に次の意見が出ている。「聖タルムードに優る何物もなし」

キリスト教徒により何度も発禁に
キリスト教徒達がタルムードについていかに考えて来たかは多くの勅今(布告)と法今によって十分証明される。教会と国家の主権者が幾回となくタルムードを排斥し、このュダヤ人の第二律法法典を火炎中に処分した。紀元五五三年ユスチニアン皇帝はタルムード書籍類のローマ帝国内への流布を禁止した。

一三世紀に法皇グレゴリー九世及びトンノセント四世はタルムードの書籍をキリスト教的信仰に対する低級な精神性を含有しているものとして没収し、またこの書籍が異端を流布するものとして焼却を命じた。その他この書籍は他のローマ法王(大司教)ユリウス三世、パウル四世、ピウス四世、ピウス五世、グレゴリ−一三世、クレメント八世、アレキサンダー七世、ベネディクト一四世によって使用禁止を宣言された。トレント会議の長老達の命により禁書目録の新版を発行した人達がタルムードを没収した。現代も同様である。一六世紀の頭初、キリスト教会の平和は新宗教によって撹乱され、その機に乗じユダヤ人は当時発明の印刷術を使いタルムードを公然と頒布し始めた。最初の全タルムードの印刷出版で反キリスト教的あらゆる冒漬を蔵した書籍が一五二○年ヴェニスで出版された。この世紀に殆んど全部のユダヤ書籍が出版された。一六世紀の末葉から一七世紀の初めにかけて多数の著名な人達がタルムードを丹念に研究し始めた。そのためtyダヤ人自身が却って恐怖を感じてタルムード中のキリスト教徒に公然と敵意を示している箇所の削正を始めた。かくして一五七八年バーゼルで出版されたタルムードは多くの箇所が支離滅裂になってしまった。

一六三一年ポーランドの宗教会議でドイツ及びその他の国のラビ達は反キリストとイスラエル迫害についての印刷物がない旨を宣言した。そのためにユダヤ書籍中から逸脱した記事や削除の符号のある書籍は次の世紀及びそれ以後に出版されることになった。ラビ達はこれらの削除の意義を記憶によって説明した。何故ならばラビはキリスト教徒が滅多に見ない本物の書籍を所持していたからである。やがてタルムードはほんのわずかの剤除でオランダで出版された。オランダはスペインから追放されたユダヤ人を優遇していた。だから一六四四〜一六四八年間に出版されたタルムードはヴェニス版と殆んど同様である。検閲官、批判家をだます当時の策略は真正の原文にハイア(であった)という語を挿入することで、何か間題が一度その箇所にあった事を暗示するようにねつ造した。しかしこうする事によって単にコップの外側を清潔にしたに過ぎなかった。書中の各所で「今もなお」「この律法が強いる」「この律法が続く」等の言葉によって本来の意味を読取る事が出来るのである。タルムードに関連して世上著名なユダヤ人の書ゾハルがある。あるラビ達によれば、モーゼがシナイ山上で律法の解釈を教えられて後、この報告をヨ

シュアにも長老達にも述べなかったが、唯アロンに、アロンはエリアザルに伝え、順次に口伝の教えがゾハルという書の型になるまで伝えられた。いわゆる「照り出づ」という意味のゼハルという字からゾハルが出たので、モーゼの書の説明すなわちペンタチユークの註釈という意味に出たものである。署者はラビ・アキパの弟子ラビ・シメオン・ベン・ヨハイだという。彼は神殿の破壊後五○年頃生れ、抗ユダヤ戦たるハドリア戦の際(一二○年頃)殉教者として没した。しかしながらこの書に出ている人名は書が示しているより後世紀の人物で、しかもランバム(ラビ・モシユ・ベン・ナハマン)及びラビ・アセルー−およそ一二四八年没−−の記載がないところから、ゾハルの書は大よそ一三世紀に初めて出版されたという方が真実に近い。大よそこの時代以来公にされた書籍は論証においても文体においてもカルディヤ型文書と同様であると考えられている。大オクタポ版三巻より成る。

重大個所だけを選んだユダヤ鑑百則
前言したように、一五五五年バレスチナのラビ・ヨセフ・カロは膨大なタルムードから実用かつ学校向の抜粋を作って、これをシュルハン・アルク(準備せられた食卓)と名付
けた。これは真にユダヤの法律書として一般に承認され、現代でもユダヤ人達によって評価されている。一八八三年にこのシュルハン・アルクからユストス博士(改宗ユダヤ人で本名はブリマン)がまたその抜粋を独訳し、バーデルポルンのポニフアチウス印刷所から出版した。これが(ユダヤ鑑)、すなわち公開されたタルムードの百則としてユダヤ人と非ユダヤ人・キリスト教徒との交際に関するユダヤ人の法則であり、今もなお有効であるとされているものである。ところがはからずも一八八三年に訴訟され、バーデルポルンの地方裁判所で前記百則を連載したウェストファリッシェ・メルクールの主筆がユダヤ人及びキリスト教徒相互間の平和を撹乱するとして公訴された。この訴訟のためにミュンスターの王立大学セミチック古代言語学講師ヤコブ・エッケル博士が鑑定人として召致されたことが、同博士著「真理の光に照したユダヤ鑑」に出ている。鑑定においてエッケル博士は、ユストス博士の書を正訳と確証した。ただ表現法に不正確、誇張のあること、条項にもユダヤ人に好都合の欠陥があることを発見したが、それ等の誤謬は附随事項に関するもので「ユダヤ鑑」中所載の最悪の章句は正確にユダヤ学者の原著から訳出されてある事を証明した。著者があらかじめ有罪を覚悟すれば「ユダヤ鑑」

中に更に多数の非ユダヤ人に不快な採録が出来た筈である。ユッケル博士は、(一)シュルハン・アルクは真のユダヤ的法律書として一般に承認されていること。(二)現今まで有効であること。(三)ユダヤ人の主張はキリスト教徒をアクムと認めていること、を証言したのである。裁判の判決は公訴の無罪を宣告した。一八九二年、ユストス博士の新版に係る「ユダヤ鑑」はエッケル博士の科学的検証の結果最も正確なるものと認められ、かつその出版中には一八八三年版に採録の法則中にあった不要の誤謬と不正の語法が削除されている。本書に掲載した「ユダヤ鑑百則」がすなわちそれである。

第一企画出版 「世界金融財閥悪魔の法典」 加賀美亮著より引用させていただきました。  
 

   
 
 

タルムードの例; 阿修羅HPのタルムードのページ
 

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