「タルムードの中身その2、悪の論理」

 (最新見直し2006.2.22日)

 「タルムードの中身その1、処世訓」は学ぶに価する叡智も多い。問題は、タルムードの悪の狡知学性にある。「徹底した悪智恵学」であり、学べば学ぶほど「恩を仇で返す知行合一」を見につける思想となっている。本サイトでこれを検証する。ネット検索で得た「タルムードの中身」を紹介する。「タルムードに生きるユダヤ人を信用で来るか」に拠れば、「この文章の内容はアラン・R‐クリチリーとマイケル・ホフマンにより調査され確認されている」とある。これを読み、その中身に卒倒せずんば共に語るに値せず。それがれんだいこの実感である。

 れんだいこの敬愛するフォイエルバッハもラビの家系であった。そのフォイエルバッハは確か父の代に改宗している。近代の曙光にあって、偏狭なタルムード世界から抜け出したのだと思われる。ならば、「シオンの議定書派」とは、逆にシオニズムを強めたグループということになる。この辺りを考究したいが、それは別サイトで為そうと思う。ここでは「タルムードの中身」を検証する。

 2005.2.22日 れんだいこ拝


【ユダヤ原理派を律する驚くべき「タルムード、ラビ説法」の中身】
  「タルムード」に次のような記述があると云う。イルミナティ(啓明会)の創設者(アダム・ワイスプト)の手紙「阿修羅♪タルムード」「角笛」「世界支配の計画書」「タルムード」「タルムードに生きるユダヤ人を信用で来るか」、 「悪魔の囁き」「タルムード」その他を参照する。小石泉牧師の「タルムード」は、「この文章の内容はアラン・R‐クリチリーとマイケル・ホフマンにより調査され確認されている。http//:www.hoffman/1nfo・com」とある。

 以下、タルムード及びラビの言説を内容的に仕分けしてみる。その方が理解しやすいからである。もっとも純然と分けられる訳ではない。とりあえず次のようにカテゴリー化してみた。
(思索篇1) ユダヤ人の選民意識について
(思索篇2) ユダヤ人の選民意識の裏返しとしてのゴイム観について
(思索篇3) ユダヤ人の対ゴイムご都合主義、得手勝手論理について
(思索篇4) ユダヤ人のサタニズム及びその陰謀論理について
(同士篇1) ユダヤ人同士の諸規定について
(同士篇2) ユダヤ人の衛生観について
(実践篇1) ユダヤ人の「性交権限」について
(実践篇2) ユダヤ人の非ユダヤ人に対する商取引原則について
(実践篇3) ユダヤ人の非ユダヤ人に対する財産及び所有権について
(実践篇4) ユダヤ人の非ユダヤ人に対する法原則について
(実践篇5) ユダヤ人の非ユダヤ人に対する婚姻及び葬儀に関する律法について
(実践篇6) ユダヤ人の宗教上の秘密主義について
(実践篇7) ユダヤ人のキリスト教及びその他異教に対する態度について
(実践篇8) ユダヤ人の非ユダヤ人異教徒に対する復讐と呪詛について
(実践篇9) ユダヤ人の非ユダヤ人異教徒に対する徹底殺戮論理について
(未来篇1) 来るユダヤ王社会の秩序について

【(思索篇1)、ユダヤ人の選民意識について】
 ユダヤ人の選民意識について次のように語られている。
 「ユダヤの民は神に選ばれたる唯一の民にして、爾余の民は軽蔑に値する不快な民である」。
 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(申命記、七章六)。
 「神言い給う、我は我が予言者を畜獣に過ぎざる偶像崇拜の徒の為に遣わしたるにあらず。人間なるイスラエル人の爲に遣わしたるなり」(ミトラシュ・コヘレート)。
 「人間の獣に優れる如く、ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり」(アブラハム・ゼバ法師)。
 「もしイスラエル人無かりせば、この世に幸福なかりしならん。これ申命記二八の八に記されたる如し。またイスラエル人無かりせば、天の諸星も昇らざるべし。これエレミヤ記三三の三五に記されたる如し。また地の上に雨の降る事なかるべし。これ申命記二八の一二に記されたる如し」(シメオン・ハダルサン法師)。
 「選ばれたる民のみ永遠の生命を受くるにふさわしく、他の国人はロバに等し」(アバルバネル法師)。
 「レヴィ法師教えて曰く、神が世界の諸々の民を裁き給うは、彼等が罪の中に眠れる夜の間においてなり。しかもイスラエルを裁くには、彼等が掟を学ぶ昼においてこれをなし給う」(ヴェネツィア版ミトラシュ、一五一六年版)。
 「イスラエル人はアダム(人間)と呼ばれん。然れど他の諸族はアダムと呼ばるることなし」(アブラハム・ゼバ法師)。
 「聖書に「隣人」と記されたる個処はいづれも非ユダヤ人を含まざるなり」(「シュルハン・アルフ」の注釈書)。
 「イスラエル人は、他のすべての民に対し優越する者なり、他の諸族の中には賢く利き者唯一人も居らざるに、イスラエル人にあっては全部が特に賢く利き人間なり」(アブラハム・ゼバ法師)。
 「一人のイスラエル人の魂は神の前において他の民族全部の魂より価値多く、また神によって悦ばるるところのものなり」(シェフテル・ホルヴィッツ法師)。
 「ただユダヤ人だけが人類である(ただ汝のみ人として選ばれたり」(パパメジア114a−b)。
 「ユダヤ人の男性は自分を女や異邦人に造られなかった神に感謝すべきである」。
 「あるユダヤ人の男は毎日こう祈ったと非難されている、「神よ私を異邦人や女や奴隷に お作りにならなかったことを感謝します」 (メナホス43b~44a)。
 「我々はユダヤ人の血はゴイ(異邦人)の血と同じものでは無 いと言う事を認識しなければならない」(NY Times、June 6、1989、P‐5、ラピ・イッハク・ギンスバーグの言)。

【(思索篇2)、ユダヤ人の選民意識の裏返しとしてのゴイム観について】
 ユダヤ人の選民意識の裏返しとして次のようなゴイム観が述べられている。「ゴイ」とは不潔を意味し、非ユダヤ人に対する蔑称。
 「汝等は人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である」(ババ・メチア、146の6)。
 「世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして、他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼等はことごとく空皮に過ぎざればなり」(イェシャヤ法師)。
 「イスラエル人は人間と呼ばる。しかれども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものなれば、豚と呼ばるるなり」(ロイベン法師)。
 「汝等イスラエル人は人間なれど、他の民族は人間に非ず。彼等の魂穢れし霊より出でたればなり」(メナヘム・ベン・シラ法師)。
 「悪魔と世界の諸民族とは、畜獣に数えらるべきなり」(ナフタリ法師)。
 「犬は異邦人より勝れたるものなり」(アシ法師)。
 「ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽、住居、田園は不潔である」(トセフタ・ミクワト、vの1)。
 「九歳と一日以上のゴイの少年と、三歳と一日以上の少女は、不潔とみなされる」(パーフォコヴィッツ、タルムード、t・v、11頁)。
 「安息日には非ユダヤ人の焼きたるパンを食すべからず。非ユダヤ人に公衆浴場を貸すべからず」(シュルハン・アルフ、第一巻生存の道)。
 「ユダヤ女を求め得る場合には、異邦女の乳を幼児に吸わしむべからず。異邦女の乳は心眼を閉ざし、悪しき性格を形成するが故なり」(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 「成人せる非ユダヤ人奴隷は、牧者なき家畜の如し」(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)
 「聖書に「隣人」と記されたる個処はいずれも非ユダヤ人を含まざるなり」(「シュルハン・アルフ」の註釋書より)。
 「他の諸族はイスラエル人と同じ姿を有すれども、真の人間に比ぶれは模造に過ぎず。彼等は、ダニエル書四の十四・十七に記されたる如く、劣等なる種類の人間なり。これに対しイスラエル人はアダム(人間)なる語の真の意味における高き価値ある人間にして、この故にまた単に人間とも呼ばるるなり」(シメオン・ハダルサン法師)。
 「偶像礼拝者は畜獣と呼ばるべきものにしてただ最広義においてのみ人間と呼ばれ得るに過ぎず」(ロイベン法師)。
 「イスラエル人は人間と呼ばる。然れども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものなれば、豚と呼ばるるなり」(ロイベン法師)。
 「割礼を受けずまた安息日を守らざる者は人間に非ず」(ロイベン法師)。
 「異邦人の女は動物として選ばれた(造られた)とある」 (ロパ女)(カリソス6bの〃油注ぎ〃の副題とペラコス58a)。
 「異邦人の子供は動物である」(イエパモス98a)。
 「異邦人の娘は生まれつき卑猥である」(アボダーザラ136b)。
 「カリソス6bの〃油注ぎ〃の副題とペラコス58aに異邦人の女は動物として選ばれた(造られた)とある(ロパ女)」。
 「異邦人は雌牛と交尾することを好む」(アボダーザラ22a−b)。
 「異邦人の食器は彼等の料理に一層ひどい匂いをつけないだろうか」(アポダーザラ‐67b)。
 「總べてゴイは月經時の子にして、根絶さるべきものなり」(ベハイ法師)。

【(思索篇3)、ユダヤ人の対ゴイムご都合主義得手勝手論理について】
 ユダヤ人の選民意識、ゴイム観が重なって、次のようなご都合主義の得手勝手論理が開陳されている。
 「異邦人は律法の保護の外にある、そして神は彼等の金を〃イスラエルにさらされる」(パバカンマ37b)。
 「ユダヤ人は異邦人を罠にはめるために虚をついても良い」(パパカンマ113a)。
 概要「正しきユダヤの民は、他の民の人々には道徳原理が与えられているが、これに拘束されぬ。言い方を変えれば、正しきユダヤの民は、あたかも自分自身やユダヤ人自身の利益の為に道徳を利用することが出来る」。
 「他の民の資産はなべてユダヤの民に属し、必然的にいかなる良心の咎めもなく占有する権利がある」。
 「ユダヤ人を攻撃する異邦人は、死に値する。ユダヤ人を攻撃することは、聖所で神を襲撃することである。たった一つのイスラエルを破壊する者は、誰でも永遠なる世界を破壊したのと同じである。もし、異邦人がユダヤ人の物を略奪するならば、ユダヤ人はそれを取り返さなければならない。同様に異邦人がユダヤ人を殺すならば、異邦人は殺されなければならない。しかし、ユダヤ人が異邦人を殺したならば、ユダヤ人は自由にされる。法廷においてユダヤ人が異邦人をだますことは差し支えない」。
 「ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せらるべきであるが、イスラエル人がゴイに損害を負わせることは差支えなし。なんじの隣人を傷つけるなかれとは書いてあるが、ゴイを傷つけるなかれとは書かれていない」(ミズナ、サンヘドリン、57)。
 「ゴイがゴイ若しくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが、ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず」(トセフタ、アブタ・ザラ、8の5)。
 「ユダヤ人が異邦人を殺しても死刑にはならない。ユダヤ人が異邦人のものを盗んでも返さなくても良い」(サンヒドリン57a)。
 「ユダヤ人はゴイから奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは金を持つべきではなく、持てば神の名において不名誉となるだろう」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズバット、348)。
 「拾得物をゴイに返却せんと思うは罪なり」(モシェー・バル・マエモン)。
 「アクム[非ユダヤ人]に対しては詐欺は成立せず。然れどもアクムにしてユダヤ人を欺ける時は、詐欺せる所のものを我等(ユダヤ人)の法律に従って返さざるべからず」(シュルハン・アルーフ、第3卷正義の盾)。
 「『汝は主なる汝の神が汝に与え給いしすべての民を喰い尽くさん』との文句(申命記七ノ十六)は、今は亡き吾等の教法師達により次の如く解せられたり。すなわち、すべての民を喰い尽くし、すべての民より掠奪することは、彼等すべてが吾等の權力下に置かれる時に始まるべし、と」(ベハイ法師)。
 「神はユダヤ人にすべての方法を用い、詐欺、強力、高利貸、窃盗によってキリスト教徒の財産を奪取することを命ずる」(オルディン一、トラクト一、ディスト4)。
 「神を畏るる者は悪しき人(非ユダヤ人)を憎まざるべからず」(ゲルソン法師)。
 「レビ記十九章十一節には、汝は汝の隣人に不法を為すべからず、と記されたり。この文句は、ゴイ(非ユダヤ人)がその中に含まれ居らざる事を明白に示すものなり」(モシェー・バル・マエモン)。
 「ゴイが住んでいる家を見て、人はこう言った。神は傲慢の家を亡ぼすだろう=Bそして家々が亡ぼされたのを見て人は言った。復讐の神が顕現されたのだ=v(バビロニアン・タルムード、ベラチョット、五八の六)。
 「汝殺すなかれ、との掟は、イスラエル人を殺すなかれ、との意なり。ゴイ、ノアの子等、異教徒はイスラエル人にあらず」(モシェー・バル・マエモン)。
 「神はイスラエル人を審くには立ちてなし、尋問も簡単にして速かなり。世の諸民族を審く時は坐して、嚴格に長々と取調べをなす」(ラバ・バル・ナハマニ法師)。
 「世界はただイスラエル人のみの為に造られたり。」この文句は極めて明瞭なれど、人々はこれをなほよく熟考しまた味うべきなり。イスラエル人に掟の与えられし時、イスラエル人はその掟によりて種々の美点をことごとく保持せしが、他の民は掟を受入れざりしによりこれ等の美点を全く有せざるなり」(アブラハム・ゼバ法師)。
 「悪しき者(非ユダヤ人)を憐むことは、正しき者(ユダヤ人)に相応わしからぬなり」(ゲルソン法師)。
 「拾得物を紛失者に返却すべしとの戒は、ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにして、ゴイに対しては然らず。この事に就き亡き吾等の教法師達の言えるあり。即ち、「遺失物とはすべて汝の兄弟の失いしところの物を指すものにして、ゴイの失える物は然らず。その理由は、ゴイは神に属する者に非ずして、地の邪神に属する者なる故なり。故にゴイの失える総べての物は、此の世にては再び見付けらるる事なき遺失物にして、その所有者に還るべきにあらず。財宝は唯イスラエル人にふさわしく、他の民はこれに値いせざるものなればなり。これ預言者イザヤ(二六ノ一九)の言えるが如し」と」(ゲルソン法師)。
 「神はユダヤ人が彼の娘を老人に嫁がせたり、幼児の息子に妻をめとったり、異邦人の紛失物を返さなくてもとがめられない」(サンヒドリン76a)。
 「他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。ゆえになんらの遠慮なくこれをユダヤ民族の手に収むること差し支えなし」(シュルハンアルクのショッツェン・ハミッバッド348)。
 「盗賊≠ニいう言葉の解釈。ゴイは、ゴイからであろうとユダヤ人からであろうと、盗むこと奪うこと女奴隷を使うことは禁じられる。だが彼(ユダヤ人)はゴイに禁じられているこれらのすべてのことを為しても禁じられない」(トセフタ、アボダ・ザラ、[の五)。
 「レビ記十九章十三節には、汝は汝の隣人に不法を為すべからず、と記されたり。この文句はゴイ(非ユダヤ人)がその中に含まれ居らざる事を明白に示すものなり」(モシェー・バル・マエモン)。
 「非ユダヤ人の証人たることろの証書はすべて無効なり」(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)。
 「神を畏るる者は悪しき人(非ユダヤ人)を憎まざるべからず」(ベハイ法師)。
 「もし異邦人がユダヤ人を蹴ったら、彼は殺されなければならない。ユダヤ人を蹴ることは神を蹴ることと同じである」(サンヒドリン58b)。
 「ユダヤ人は異邦人を罠にはめるために虚をついても良い」(〃パパカンマ113a)。
 「エルサレム大学の教授ユフド・スプリンザックはカハナとゴールドスタインの哲学について「彼らはゴイム(ヘブル語の言棄で非ユダヤ人のことだが)に対して暴行を加えることは神の意志だと信じているのだ」と述ぺた」(NY Daily News、Feb。28、l994、P6) 」。
 「ゴイに向って誓いを立てた者は、盗賊であれ税吏であれ、責任を取らなくてよい」(トセフタ・スゼブノット、11)。
 「盗賊≠ニいう言葉の解釈。ゴイは、ゴイからであろうとユダヤ人からであろうと、盗むこと奪うこと女奴隷を使うことは禁じられる。だが彼(ユダヤ人)はゴイに禁じられているこれらのすべてのことを為しても禁じられない」 (トセフタ、アボダ・ザラ、[の5)。
 「ユダヤ人が悪を行うように誘惑されたら、彼は自分が知られていない町に行ってその悪を行わなければならない」(モードカッタン17a)。

【(思索篇4)、ユダヤ人のサタニズム及びその陰謀論理について】
 ユダヤ人の選民意識、ゴイム観、ご都合主義の得手勝手論理が重なって次のようなサタニズム及び陰謀論理が開陳されている。
 「偽善はこの世においては許される。即ち、背神者に対し慇懃になし、彼等を敬い、彼等に向いて『我汝を愛す』というもよし」(ゲルソン法師)。
 「ユダヤ人も非ユダヤ人の判断に信を置く事を、非ユダヤ人をして知らしむべからず」(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 「すべてのイスラエル人は一定の法式により動物及び動物視されている非ユダヤ人を屠ることを許さる。(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 「偶像礼拝に帰依せる非ユダヤ人及び賎しき牧人はこれを殺すことを許さず。されど彼等が危険に面しまた死に瀕せりとて彼等を救うことは許されず。例えば彼等の一人水に落ちたる時、報酬ある場合と雖も彼を救い上ぐべからず。また彼等を瀕死の病よりも癒すべからず・・報酬ある場合と雖も。しかれども吾等と彼等の間に敵意の生ずるを防止する為ならば、報酬無き場合にも彼等を救出しまた癒すことを許さる。しかれども偶像を拝む者、罪を犯す者、掟と預言者を否む者は、これを殺すべし。而して公然と殺すを得ば、その如くなせ。しかするを得ざる場合には、彼等の死を促進せよ。例えば彼等の一人井戸に落ちたる時、その井戸に梯子あらば、これを取去り、直ちに再び持来るべしとの遁辞を用い、かくすることにより落ちたる者の身を救い得べき道を奪うべし」(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 「偽善はこの世においては許さる。すなわち、背神者に対し慇懃になし、彼等を敬い、彼等に向いて「我汝を愛す]と言うもよし。すなわち、必要上止むを得ざる場合、恐怖に驅られたる場合は然り」(ベハイ法師)。
 「ゴイ、計算をなして過つ時は、イスラエル人は、我知らず、と言え。しかれどゴイをして過ちをなさしめんとするはよからず。ゴイ、イスラエル人を試みんとて故意に過ちをなすことあればなり」(モシェー・バル・マエモン)。
 「總べてこれ等の條項(三十箇條のユダヤ信仰箇條)を信ぜざる者は異教徒なり。故にかかる者を憎むは吾等の義務にして、彼を賎しみ、出來得べくんばその亡ぼしまた根絶するは當然の事なり」(アバルバネル法師)。
 「偽善はこの世に於ては許さる。即ち、背神者に対し慇懃に為し、彼等を敬い、彼等に向ひて「我汝を愛す」と言うもよし。すなわち、必要上止むを得ざる場合、恐怖に駆られたる場合は然り」(ゲルソン法師)。
 「ユダヤ人が悪を行うように誘惑されたら、彼は自分が知られていない町に行ってその 悪を行わなければならない」(モードカッタン17a)。

 「神の名はユダヤ人が嘘をついたと云う事をゴイによって知られない時には汚される事はない」(バブハカーマ(113b)。

 「もしユダヤ人が星の礼拝者であるふりをする事によって、彼等(偶像崇拝者)を騙す事が出来るなら、彼はそうする事を許される」(イオレ・ディア(157、2 ハガー) この章句は1873年のヴィルナ版にも見られる)。

【(同士篇1)、ユダヤ人同士の諸規定について
 「ユダヤ人同士の諸規定」について次のようにな記述が為されている、と云う。非ユダヤ人に適応する基準と対照的であり二重基準となっている。
 「結婚、誓約、約束を取り消すには、ユダヤ人はラビの所に行かねばならぬが、ラビが不在の場合は、他のユダヤ人を三人呼び集め、かれらに残念ながら取り消すと言えばよい。そうすると三人はなんじは許された≠ニ言う(シュルハン・アルーフ、二、一の247)。
 「裏切り者を放逐せんがために、何人も共同体に寄付をしなければならない」。
 ありとあらゆる種類の誓いごとをあらかじめ御破算にし無罪放免とするように願う、最後の審判のコル・ニドルの祈りというのがある。「神にかけし誓い、人にかけし誓い、物にかけし誓い、和解のその日よりかけし誓いのくさぐさを、われら果たすつもりでおりましたが、もはやその時は尽きたので、ここにお願い申し上げます。くさぐさの誓いをいっさい取り消し、取るに足らざるものとなし給わんことを。われらの誓約はいっさい誓約に非ず、われらの宣誓はいっさい宣誓に非らざらんことを」(シュルハン・アルーフ、編Tの136)。

【(同士篇2)、ユダヤ人の衛生観について】
 タルムードは全巻を通して便所と大便の脅追観念にとりつかれている。
 「戸外の便所から帰ってきたときは、半マイル歩くだけの時間、性交をしてはならない。もしそうするなら便所の悪霊が一緒にいて、彼の子供はてんかんになる 」(ギッテン70a)。
 「肋膜炎を癒すために、ユダヤ人は白い大の糞をパルサム油とこねて会ぺなければならない、しかし、もし手足を緩める事ができるなら犬の糞を食ベてはならない(訳注*意味が良く分からないのだがこうとしか訳せない)」(ギッテン69b、p239)。
 「犬と女と椰子の木が二人の男の間を通り抜けることは許されない。また、犬と女と椰子の木の間を通り抜ける事もあってはならない。女が生理のときと十字路に座っているときは特別に危険である(訳注*恐らく真面目な読者は犬と女と椰子の木の関連性が分からないかもしれない。これは単に女性を馬鹿にした表現である)」( ベサヒム111a)。

【(実践篇1)、ユダヤ人の性交権限について】
 「ユダヤ人の性交権限」とでも名づくべき次のような記述が為されている、と云う。理論篇の応用版となっている。
 「アダムはエデンの園のすぺての動物たちと性交を行ったという」(イエバモス63a)
 「ユダヤ人は三歳(特に三歳と一日)の女子と結婚できる」(ザニヒドリン55b)。
 「ユダヤ人は九歳にならない子供とでも性交することができる」(サンヒドリン54b)。
 「成長した男が幼女と性交しても、別にどうということもない」(ケスボス11b)。
 「獣姦をした女でもユダヤ教の祭司と結婚する資格がある。悪霊と性交した女でもユダヤ教 の祭司と結婚できる」(イエパモス59b)。
 「世界にラビ・エリエゼルと性交をしなかった売春婦はいない」(アボダアゼラア17b)。
 「ユダヤ人は聖いから昼間は部屋を暗くする事ができなければ性交をしない。ユダヤ人の 学者は昼間でも彼の外套をテントのようにして暗くする事ができれば性交をする事ができる」(シャパス86aーb)。
 「異邦人と性交渉したならばラビに鞭打たれる。ラビは、その懲らしめられたユダヤ人は雌驢馬と性交渉したからだと言った」(Bera  koth)。

【(実践篇2)、ユダヤ人の非ユダヤ人に対する商取引原則について】
 ユダヤ人の選民意識、ゴイム観、ご都合主義の得手勝手論理、サタニズム及び陰謀論理が重なって、次のような非ユダヤ人との商取引の際の原則が開陳されている。明らかに意図的な二重基準(ダブル・スタンダード)を良しとしている。
 「農業は最低の織業である」(イエパモス63a)。
 「ユダヤ人が異邦人に親切を施すことは、神に不快感を与える。異邦人に贈り物をすることは禁じられている。しかし売ることは許される。異邦人の財産は砂漠の砂のようである。初めにそれを得る者が誰でも得ることが出来る。異邦人が物を失った場合ユダヤ人はその持ち物を知っていたとしてもそれをそのまま持っていても良い。それを異邦人に返す者は誰でも神の呪いがある。もし、その地区の大多数の人々が異邦人であるならば、ユダヤ人だけがそれを持っていることが出来る。もし、大多数の人々がユダヤ人である場合、その持ち主を捜す努力をしなければならない。H異邦人はユダヤ人に賃金を支払わなければならないが、ユダヤ人は異邦人に貸金を支払ってはならない」。
 「タルムードの誡において神は命じて曰く、ゴイに金を貸すには必ず高利を以てすべし、と。これ、彼等が借りたる金により利する事なからんため、かつまた、我等が金錢にて彼等に助力を與うることなく、むしろ損害を與えんがためなり」(モシェー・バル・マエモン)。
 「ユダヤ人はユダヤ同族より利子を取るべからず。唯アクムよりのみこれを取るべし。而してかかる取引は使者をしてこれをなさしむべし。使者ならば、かく為しても、罪を犯したるには非ずして、戒律もまた遵守されたるなり」(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 「ユダヤ人は異邦人またはクサン(クタ人)の労役に対して賃金を支払う必要はない」(訳 注*クタ人、列王記下一七:三ここでは異邦人のこと)(サンヒドリン57a)。
 「イスラエル人の牛がカナン人の牛を突き殺しても債う必要はない。カナン人の牛がイス ラエル人の牛を突き殺した場合は支払いは十分行われなければならない」(パパカンマ37b)。
 「もしユダヤ人が異邦人の落とし物を見つけた場合、返す必要はない」(パバカンマ23bでも 確認)(パバメジア24a)。
 「ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが、[ユダヤ人が]ゴイに返すことは禁じられている」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、266の1)。
 「獣は非ユダヤ人の所有にして、積荷はイスラエル人の所有なる時は、手を貸すべからず。然れども、若し牛がイスラエル人の所有にして、積荷が非ユダヤ人の物なる時は、これを助くべきなり」。(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)

【(実践篇3)、ユダヤ人の非ユダヤ人に対する財産及び所有権について】
 ユダヤ人の選民意識、ゴイム観、ご都合主義の得手勝手論理、サタニズム及び陰謀論理が重なって、次のような非ユダヤ人に対する財産及び所有権原則が開陳されている。「お前の物は俺の物、俺の物は俺の物」論法として揶揄されている。明らかに意図的な二重基準(ダブル・スタンダード)を良しとしている。
 「非ユダヤ人はイスラエル人の財産に対し所有権を有せず」(シュルハン・アルフ、第3巻正義の楯)。
 「非ユダヤ人の所有する財産は、本来ユダヤ人に属するものなれど、一時彼らに預けてあるだけである。汝に何らの代償もなくして、これら財産をユダヤ人の手に収めるも可なり(シュルハン・アルクーショッツェハミツバッド第348条)。
 「ゴイの財産は主なき物品のごとし」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、116の5)。
 「ゴイの土地は荒野のごとし。最初に鍬を入れた者に所有権が帰する」(ババ・バトラ、14のb)。
 「ユダヤ人が ゴイの土地に鍬を入れれば、その土地全部の所有者となったのである」(ババ・バ トラ、55のa)。
 「ユダヤ人はゴイから奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは金を持つべきではなく、持てば神の名において不名誉となるだろう」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、三四八)。
 「ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せらるべきであるが、イスラエル人がゴイに損害を負わせることは差支えなし。なんじの隣人を傷つけるなかれとは書いてあるが、ゴイを傷つけるなかれとは書かれていない」(ミズナ、サンヘドリン、五七)。
 「ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが、[ユダヤ人が]ゴイに返すことは禁じられている」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、二六六の一)。
 「拾得物をゴイに返却せんと思うは罪なり。コイの紛失せる物は、これを己が所有となすも差支えなし。「汝の兄弟の物は総べてこれを返却せよ」とタルムードに記されたる故なり。然るにゴイは兄弟に非ざる故に、拾得物を彼に返却する者は罪を犯すなり」(モシェー・バル・マエモン)。
 「葡萄園にて草食う牛を発見せし人は、それを所有主に牽き行くべし。但しその葡萄園が非ユダヤ人の所有なる時は、かく為すに及ばず」(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)
 「非ユダヤ人が平常居住徘徊する場所において遺失物を発見せし時は、これを返却するに及ばず」(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)。
 「非ユダヤ人の失いたる物は、拾得者これを己が許に留め置くべきのみならず、返却することを禁ぜらる。その理由は、申命記の二十二章一節には「汝の兄弟の失いし物は返却すべし」とあればなり。但ししばしば非ユダヤ人の物を返却し、あるいは盗難より免れしむるを要する場合あるも、そは無事平穏を期する時のみなり」(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)。
 「拾得物をゴイに返却せんと思うは罪なり。ゴイの紛失せる物は、これを己が所有となすも差支えなし。『汝の兄弟の物は總べてこれを返却せよ』とタルムードに記されたる故なり。然るにゴイは兄弟に非ざる故に、拾得物を彼に返却する者は罪を犯すなり。かくなすによりこの世の神を拜せざる者の勢を再び増すが故なり」(モシェー・バル・マエモン)。
 「拾得物を紛失者に返却すべしとの誡は、ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにして、ゴイに対しては然らず」(ベハイ法師)。

【(実践篇4)、ユダヤ人の非ユダヤ人に対する法原則について】
 ユダヤ人の選民意識、ゴイム観、ご都合主義の得手勝手論理、サタニズム及び陰謀論理が重なって、次のような非ユダヤ人に対する法原則が開陳されている。商取引と同様明らかに意図的な二重基準(ダブル・スタンダード)を良しとしている。
 「異邦人はユダヤ人に賃金を支払わなければならないが、ユダヤ人は異邦人に賃金を支払う必要はない」(Sanhedrin 57a)。

 「もし異邦人がユダヤ人の物を略奪するなら、ユダヤ人はそれを取り返さなければならない。しかしもしユダヤ人が異邦人を殺したなら、ユダヤ人は罪を問わない」(Sanhedrin 57a)。

 「法廷においてユダヤ人が異邦人を騙す事は差し支えない」(Baba Kamma 113a)。
 「異邦人の財産は砂漠の砂の様である。初めにそれを得る者が誰でもそれを得る事が出来る」(Baba Bathra 54b)。
「安息日を守る異邦人は死に値する。異邦人を死刑執行する為には、たった一人の証人で十分である。(ユダヤ人を死刑にするには二人以上の証人が必要である。異邦人はイスラエルの律法の保護の外に属する」。
 「二十四項の罪あり。これに触るる者は除名さる。例えば第八項、その地所を非ユダヤ人に売りたる者、第九項、非ユダヤ人法廷においてその隣人(即ちイスラエル人)に対し不当なる証言を為せる者、等」(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 「非ユダヤ人及び奴隷も証言を為す資格なし。敵・混血児・裏切者・自由思想家・変節者(背教者)、キリスト教の洗礼を受けたる者はゴイ(非ユダヤ人)より更に悪しければ、同じく証言を為すを得ず」(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)。
 「他の宗教に改宗したる者は、盗賊になりたると等し」(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)。
 「決して偶像礼拝者と事を共にするなかれ。また彼等を憫むべからず。その故は、申命記七章二節にその如く記されたればなり。故に非ユダヤ人が生命の危険に瀕するか、あるいは河に溺るるを見るとも、これを救助することは許されず」(モシェー・バル・マエモン)。
 「平穩無事を希う為に涜神者を慇懃に遇する者も、彼に関し善き事を語るなかれ。また鄭重なる態度を示す際にも、注意して涜神者を真に尊敬するものなりと人々の信ずる事なきよう心せよ。一般に慇懃を示す際には、その者の真の功績の故にあらず、彼の富すなわち彼の幸運の故にかく為すというが如くせよ。然しいずれにせよかかる事は罪にして、涜神者に慇懃になす事は、涜神者勢力を得て我々を害しあるいは我々に損害を与うる恐れある場合のみに許さるるなり。ただし人間(ユダヤ人)の問題にて涜神者を襃め、彼に関し善き事を言うべからず」(フランクフルト・アム・マイン發行文書、一八六七年)。
 「神はユダヤ人が彼の娘を老人に嫁がせたり、幼児の息子に妻をめとったり、異邦人の紛失物を返さなくてもとがめられない」(サンヒドリン76a)。
 「ユダヤ人が異邦人を殺しても死刑にはならない。ユダヤ人が異邦人のものを盗んでも返 さなくても良い」(サンヒドリン57a)。
 「異邦人は律法の保護の外にある、そして神は彼等の金を〃イスラエルにさらされる」(パバカンマ37b)。
 「ラビに質間が寄せられた「バンペディサの町で用いようとしていたワインの一部が盗 まれたか汚された場合、泥棒が異邦人だとしたらどうすれば良いか」(異邦人がワインに触れた場合それは汚れるから)「別に気にすることはない」とラビは答えた。「そのワインはユダヤ人が用いても構わな い。そのワインがバンペディサの町で盗まれたのだとしたら、バンペディサの町の盗人はほとんどユダヤ人だから、それを盗んだのはユダヤ人だ」(訳注*これなどは単なるューモアに過ぎないと思う)」(アポダーザラー70a)。
 「我々の教えは、以下の様である。ユダヤ人とゴイ(異教徒)が法廷に来た時は、もし出来るならイスラエルの法によって、ユダヤ人の罪を赦免せよ。もしゴイが勝った場合、其れは我々の法律が命じた事であると云う事を彼に告げよ。しかし、もしユダヤ人が異教徒の法によって赦免され得た場合、彼を無罪とし、それが我々の法によるものであると告げるべきである。もしこの事がなされなければ、ラビ、イシュマエルが忠告する様にゴイに対して情け容赦なく訴えを起こすべきである。ラビ、アキブハはしかしながら、神の名を汚したりユダヤ人に偽証を犯させたりしなうように、ユダヤ人は不正手段で行動する事は出来ないと主張している」(ハブハ・カーマ(113a))。
 「アクムに負債あるイスラエル人は、そのアクム死し、その事に就きて知れるアクム無き時は、その嗣子に支払をなす義務なし。イスラエル人が非ユダヤ人に改宗せる時も、彼はその親戚の相続者たり得べし。イスラエル人はまた背教者なる親戚の相続をもなし得。また夫は背教者なるその妻に代りて相続をなし得べし」。(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)。
 「非ユダヤ人より盗みたる物を用いて女と婚約するは差支えなし」(シュルハン・アルフ、第四巻救いの岩)。
 「アクムに対しては詐欺は成立せず。レビ記十九章の十一節に「己が兄弟(ユダヤ人)を欺くべからず)とあればなり。然れどもアクムにしてユダヤ人を欺ける時は、詐取せる所のものを我等(ユダヤ人)の法律に従って返さざるべからず。アクムにしてユダヤ人よりまされる扱いを受くる本なからん為なり」(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)。
 「ユダヤ人にしてアクムより盗みをなしたる時、もし誓うことを強制さるるならば、彼はその心の中にて、その誓の無効なることを宣言すべし。そは強いられたる誓なればなり」(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 「ゴイに向って誓いを立てた者は、盗賊であれ税吏であれ、責任を取らなくてよい」(トセフタ・スゼブノット、一一)。
 「もしも律法の法廷で、ユダヤ人に対する証言をゴイに求められたユダヤ人は、明白に証言可能だとしても、それを行うことは禁じらる。だが、類似の事例で、ゴイに対する証言を求められたる場合は、進んで行ってよい」(シュルハン・アルーフ・・Ch.Ha.、338)。
 「何者かが三度ユダヤ人を裏切るか、もしくは[ユダヤ人の]金をゴイどもに渡したことが疑いない場合は、賢人会議はその男を放逐しなければならない」。
 「その場所を問わずユダヤ人を非難した者は殺してよろしい……その人物が非難しないうちに殺してよろしい……しかしその人物に非難するな≠ニ警告する必要はある。にもかかわらずその人物が非難してやる≠ニ言った場合は殺さなければならず、真先に殺した者には大きな手柄が与えられるだろう」(トセフタ、アブタ・ザラ、388の10)。

【(実践篇5)、ユダヤ人の非ユダヤ人に対する婚姻及び葬儀に関する律法について】
 「ユダヤ人の非ユダヤ人に対する婚姻及び葬儀の戒律」が次のように述べられている。
 「異邦人の少女が6歳で妊娠するかどうか尋ねたときラビ(ユダヤ教の僧=律法学者)によると、女は12歳になる前には妊娠できないと言い、異邦人は人間ではないと答えた。異邦人と性交渉したならばラビにむち打たれる。ラビは、懲らしめられたユダヤ人は雌ロバと性交渉したからだと言った。異邦人は単にゴイム(動物=ブタ)であるので、異邦人の子供達は法律上、私生児である。ユダヤ人の墓は神聖を汚されるが、異邦人の墓はそうではない。なぜなら異邦人は人間ではなくゴイムであるから」。
 「アクムと奴婢の死はこれを悼むことなかれ。彼等の葬式の列に加わる事なかれ」(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 「無事平穏のためならば、非ユダヤ人死者を葬い、その遺族を慰問するも差支えなし。非ユダヤ人の墓所は祭司を汚れしむる事なし。然れども彼処に赴かざる方更によし」(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 「改宗してユダヤ人となれる者は、同様にユダヤ教に改宗せるその母あるいは伯母と婚姻するも差支えなし。改宗者は新たに生れたる者と見做され得る故なり」(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 

【(実践篇6)、ユダヤ人の宗教上の秘密主義について】
 「ユダヤ人の宗教上の秘密主義」が次のように述べられている」 (ジャクトゥ・ハダズ、一七一の二)。
 「律法の秘密を公にすることは禁ぜられる。これを破る者は全世界を葬るに等しい犯罪である」 (ジャクトゥ・ハダズ、171の2)。
 「異邦人に律法(この場合はタルムード)を教える事は禁じられている」(Hagigah)。
 「律法(この場合はタルムード)を研究する異邦人は死に値する」(Sanhedrin 59a)。
 「ゴイにわれらの信教を教える者は、ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイがわれらの教説を知ったならば、かれらは公然とわれらを殺すだろう」(リブル・デヴィッドの書、37)。
 「ユダヤ人がラビの書物のどこかを説明してくれと頼まれたなら、ただただ嘘の説明をするべきであり、ほんとうのことを教えてこの指示を裏切る共犯者となってはならない。この律法を破る者は生かしておいてはならない」(リブル・デイヴィド、37)。
 「ゴイがわれらの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いたら、偽りの誓いを立てなければならない。そして、そのようなことは誓って書いてないと言わなければならない」(ザーロット・ウザボット、ジュル・ダの書、17)。
 「タルムードを学ぶゴイ、それを助けるユダヤ人はことごとく生かしておいてはならない」(サンヘドリン、五九、ア・アボダ・ゾラ、八の六。ザギガ、13)。

【(実践篇7)、ユダヤ人のキリスト教及びその他異教に対する態度について】
 イエス・キリスト批判が次のように為されている。
 「イエスは姦淫によって生まれた私生児であった。イエスはラビから破門された。イエスは邪悪な人であった。イエスは煉瓦を礼拝した。イエスは魔術師であり、イスラエルを惑わした。イエスは魔術師であり、愚か者であった。イエスは魔法と背教の罪で死刑に値した。イエスはラビをあざけった為に沸騰した糞によって懲らしめられる地獄へ送られた。(新約聖書マタイ23参照)」。
 「イエス(イエシュアまた脚注58にはナザレ人イエシュア)は魔術を行ったので処刑され たと言われる」(サンヒドリン43a)。
 「イエスは(脚注四)熱い大便の中でゆでられている」(ギソテン57a)。
 「イエスは死刑を執行された。〃過ぎ越しの祭りの前夜、イェシュアは木に掛けられた。 彼は自分を防衛することができたはずではないか。たぷらかす事が出き来なかったのだろうか」(サンヒドリン43a)。
 「サンヒドリン106にはイエスが若くして死ん だことを満足げに書いている」。
 「バラム(イエス)は何歳だったとお聞きか。彼は答えた、はっきりはい たしませぬが書き記された所によれば、この血みどろの詐欺男は彼の従者たちの半分も生きなかった三三歳か三四歳だったそうじや」(シャパット104bの脚注#2)。

 イエスの母マリア批判が次のように為されている。
 「マリアは売春婦であった。マリアは姦婦であった。〃確認できない〃タルムードのテキストにはイエスの母マリヤは美容師で多くの男と交わったと書かれているとある 」。
 「イエスの母は売春婦だったという。彼女は大工と売春婦遊びをした総督の王女の子である」(サンヒドリン106a)。
 (Soncinominortractes)は神が嘘つきのラビを認めると教えている。ある時、長老が町の門 に座っていると二人の若者が通りかかった。一人は頭にかぶり物をしていたがもう一人はしていな かっ た。ラビ・エリエゼルはかぶり物をしていない若者を評して「彼は私生児だ」といった。ラビ・ ジョシュ アは「彼はニダーの子だ」と言った。(ニダーとは生理中に妊娠した子のこと)ラビ・ アキバは「彼は私生児でニダーの子だ」と言った。彼らは「あなたはなぜ同僚の意見を否定しようとするのか」と聞いた。

 彼は「私は彼の事について証明しよう」と言い、その若者の母親の所に行った。彼女は市場で豆を売って いた。彼は彼女に言った「娘よ私の質間に答えるならあなたを来るぺき世(永遠の命)に連れていこう」 彼女はラビ・アキバに「どうぞ言って下さい」と言うので、彼は一年に一回のくちびるの誓いをして「あ なたの息子について話しなさい」と言った。彼女は答えた。「私が初夜の寝室に入ったとき、私は生理中 でした。それで私の夫は私を近付けなかったのです。しかし、私の愛人が抱いてくれたので彼の子を生みました」結局、そ の若者は私生児でニダーの子だった。かくして「ラビ・アキバに秘密を明かされたイスラエルの神に栄光 あれ・…・と宣言された。カラー51a

 この話につけ加えると、神がほめたという先の討論の嘘つきたちの言っているのは、イエス・キリスト(かぶり物をしていなかった若者)の事である。この若者の母とはもちろんイエ スの母、神の祝福されたマリヤの事である(タルムードではミリアム、または髪結いのミリアムと言われ ている)。


 イエス・キリストの弟子批判が次のように為されている。

 「イエスの弟子達は殺されるに値した」。

 「ユダヤ人のキリスト教及びその他異教に対する態度」が次のように述べられている。
 「クリスチャンのことをタルムードの中でミンという。これより以後ミンはクリスチャンを意味する。ユダヤ人はクリスチャンから遠ざかるべきである。クリスチャンは地獄と同盟を結んでいる。クリスチャンになることは近親相姦よりなお悪い。売春婦のところへ行くこととクリスチャンになることは同じである。異邦人は穴に落とすべきではない。しかしクリスチャンは穴に投げ出してそこに放置してよい。クリスチャンによって癒されるのは禁じられている。クリスチャンとラビをあざける者は永遠に地獄へ送られる。福音書(新約聖書)を読む者は地獄へ行くことを運命付けられる。メシアが来る時クリスチャンは滅ぼされ、福音書は燃やされる。新約聖書は無意味なものである。人はどんなことがあってもクリスチャンの家に行ってはならない。クリスチャンを憎むことは詩篇139:21によって命ぜられている。福音書は意味のない間違いであり、意味のない罪である」。
 「汝知るべし、イエスの教に從がいて迷えるキリスト教諸國民は、その信仰には種々あれども、ことごとく偶像礼拝者なり。故に彼等は偶像礼拝者相応に扱わるべし。これタルムードの説くところなり」(モシェー・バル・マエモン)。
 「キリスト教徒は異教徒なり」(アバルバネル法師)。
 「第五十の誡は、偶像礼拝者を憫む事を堅く禁ず」(モシェー・バル・マエモン)。
 「惡しき者(非ユダヤ人)を憫むことは、正しき者(ユダヤ人)に相應はしからぬ事なり」(ゲルソン法師)。
 「キリスト教徒は異教徒なり。彼等、神は血と肉なりと信ずる故なり」(アバルバネル法師)。
 「キリスト教徒は偶像禮拜者なり。彼等十字架の前に跪く故なり」(キムヒ法師)。
 「カトリック教司祭が手に持つ銀の十字架及び香を焚く香爐は偶像礼拝に属するものなり」(アシェル法師)。
 「タルムードを拒否するクリスチャン(minim)と他のものは地獄に行き、永劫に懲 らしめられる」(minimについては脚注#11参照)(ロシュハシャナ17a)。
 「新約聖書を読むものは(脚注#九に正典ではない書物とある)来るべき世において立場はない」(サンヒドリン90a)。
 「ユダヤ人はクリスチャンの本(新約聖書)を撲滅しなければならない。(イスラェル・シャハクによれば一九八○年三月二三日パレスチナでシオニストたちが何百冊という新約聖書を焼いた」(「ユダヤの歴史と宗教」P21、シャバット116a)。
 「100万人のアラブ人は1人のユダヤ人の指の爪にも当たらない」(NY  Daily NewS、Feb 28、1994、P6、ラビ・ヤアコ ブ・ペリンの言)。

【(実践篇8)、ユダヤ人の非ユダヤ人異教徒に対する復讐と呪詛について】
 「ユダヤ人の非ユダヤ人異教徒に対する復讐と呪詛」が次のように述べられている。
 過越祭の夕の祈りで現在も唱えられている。プラナイティス、クリスマス・イン・タルムード・ジュデオラム「シナゴーガ・ジュダイカ」212P、「ミンハギン」23P頁、「クラチ・シャイム」480頁に記されている。
 「神よ、あなたを信ずることなく、その御名を称えざる民どもの上に、あなたの怒りを注がしめ給わんことを。かかる民どもの上にあなたの怒りを下らしめ、あなたの怒りもて屈伏せしめ給え。かの民どもをあなたの怒りもて追い散らし、粉々に打ち砕き給え。おお神よ、かの民どもの骨をすべて抜き取り給え。あなたの民に敵対するものすべてを瞬時に殺傷し給え。これら存在の価値なき民どもを根絶、四散、殱滅し給え。誅殺し給え! 今ただちに誅殺し給え!」。
 「ゴイが住んでいる家を見て、 人はこう言った。神は傲慢の家を亡ぼすだろう=Bそして家々が亡ぼされたのを見て人は言った。復讐の神が顕現されたのだ=v(バビロニアン・タルムード、ベラチョット58の6、シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット425の50)。
 「トーラーを持たざる者と予言する者とを、すべて殺さなければならない。かれらを殺す力ある者は、剣あれば憚ることなく剣もて殺せ。剣なければ策略もて放逐せよ」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、四二五の五〇)。
 「(新年二日以前のもの)彼等非ユダヤ人の評議を狂氣をもって悩まし、その思想を乱し給え。彼等の君侯を狂氣ならしめ、彼等が吾々になしし如く彼等になし給え」(「ユダヤ祈祷集」より)
 「イスラエル人を呪いたる者は、三十九の殴打刑に処せらるべし。教法師を罵りたる者は、追放の罰を受くべし」(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)。
 「何者かが三度ユダヤ人を裏切るか、もしくは[ユダヤ人の]金をゴイどもに渡したことが疑いない場合は、賢人会議はその男を放逐しなければならない」。
 「裏切り者を放逐せんがために、何人も共同体に寄付をしなければならない」(前掲書)
 「教法師にして公然と侮辱を受けたる者は、恥辱に甘んずることなく、侮辱に対して復讐をなさざるべからず。侮辱したる者が赦しを乞いまた彼にして赦さんと思うに至る時までは、蛇の如くに怨恨を心の中に懐き居るべし」(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)。
 「涜神者(非ユダヤ人)の血を流す者は、神に生贄を捧ぐるに等しきなり」(シメオン・ハダルサン法師)。
 「自由思想家及びトーラと預言者を否む者を殺すは掟なり。公然と刀剣を以て為し得る時は然かなすべし。もし然か為し得ずば、策計をめぐらして死に至らしむべし」(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯)。
 「キリスト教徒の中最も善き者を絞殺すべし」(アシ法師)。
 「最善の異邦人でも殺さなければならない」(Minortractes これはラビ・シモン・ベン・ョハイの言葉である。〃トブシェ バゴイムハーログ〃この言葉はソンシノ版には出てこない が、1907年版のユダヤ百科事典に引用されているバビロニアンタルムードのヘブル語原典にある。上記のユダヤ百科事典はファンクアンドワグナルズとイシドール・シンガーによって編集された〃異邦人〃 の項目にある。P617)(ソフェリム15  Rule10)。
 「神にかけし誓い、人にかけし誓い、物にかけし誓い、和解のその日よりかけし誓いのくさぐさを、われら果たすつもりでおりましたが、もはやその時は尽きたので、ここにお願い申し上げます。くさぐさの誓いをいっさい取り消し、取るに足らざるものとなし給わんことを。われらの誓約はいっさい誓約に非ず、われらの宣誓はいっさい宣誓に非らざらんことを」(シュルハン・アルーフ、編Tの一三六)。
 イスラエルでは年毎にシモン・ペン・ョハイ の墓に詣でる国家的な行事が行われ、非ユダヤ人の絶滅を主唱したこのラビを称える(Jewish Press  June9、l989、P56b)。

【(実践篇9)、ユダヤ人の非ユダヤ人異教徒に対する徹底殺戮論理について】
 「ユダヤ人の非ユダヤ人異教徒に対する徹底殺戮論理」が次のように述べられている。
 「主はあなたの意のままにあしらわせ、あなたがかれらを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。(申命記、七章二)」。
 「神を拜せざる者の齒は三度毀たるべし。すなわち、一度はこの世において、次はメシア來る時において、然して最後には來世において。然もイスラエル民族を喰う者の歯は、二十二エレの長さに伸ぶべし」(アキバ法師)。
 「ユダヤ人を攻撃する異邦人は死に値する。ユダヤ人を攻撃する事は神の前で聖所を襲撃する事である」(Sanhedrin 58b)。」

【(未来篇1)、来るユダヤ王社会の秩序について】
 「来るユダヤ王社会の秩序」について次のように述べられている。
 「メシヤ來る時代において各ユダヤ人は、エジプトより出で行きたるイスラエル人の数に等しき数の子孫を持つべし。エジプトより出で行きし者六十万人なれは、各ユダヤ人はメシヤの時代の間に六十人の子を持つべし」(エリエゼル法師)。

【「タルムードの中身」考察】
 **管理人は次のようにコメントしている。
 「これらは、二重論理の古典である。この論理を成り立たせる為には、世界には二種類の人間がいることを前提とする。優秀な人間(支配する人間)と劣等の人間(支配される人間)と。この二種類をどうやって決めるのか。投票なんかではない。自分達で勝手に決めて、『二つの民』をつくるのである」。
(私論.私見) 「れんだいこのタルムード考」

 れんだいこには、典型的な「悪の論理」の学習本のように見える。だとすると、ユダヤ人原理派はかような「悪の論理」の実践常習者であったことになる。歴史的にユダヤ人が嫌われてきた理由の一端が垣間見られる気がしないでもない。「シオンの議定書」が、確実にタルムード論理及び論法を継承していることも判明しよう。

 (その他)

 (タルムードには二つのホロコーストに関する昔話がある)ベサーの町でローマ人によって 四○○万人のユダヤ人が殺されたと主張している。ギッテン58bでは、一六○○万人のユダヤ人の子供 がローマ人によって巻き物に巻かれて生きながらに焼き殺されたと主張している。古代の人口統計によれ ば、その時代、世界中に一六○○万人のユダヤ人の子供どころか四○○万人のユダヤ人も居なかった。(ギッテン57b)
  1994.4.25日、プリムの祭り*の日にブルックリン在住のイスラエルの陸軍軍人でオーソドックスカザールのバルーシュ・ゴールドスタインは子供を含む四○人のバレスチナ市民を殺害した。彼らはモスクでひざまずいて礼拝していたのである。ゴールドスタインは晩年のラビ・カ ハネの弟子だった。カハネ:タルムードの解釈ではアラブ人は〃犬〃である(Cf. CBS六○分番組カハネ より)(訳注*プリムの祭り:旧約聖書エステル記から、王妃エステルがユダヤ人を皆殺しにしようとし たペルシャの大臣ハマンの策略を破り、逆にユダヤの敵を殺した記念の祭りのこと)。




(私論.私見)