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2008/06/22

沖を通るは笠戸丸

ブラジル移民100周年というので、新聞でも色々と書かれているんだが、そんな中で
笠戸丸という船の名前がよく聞かれる。
笠戸丸は6000総トンで平均速度約10ノット。船足は遅いが長距離航行に優れており、明治時代後期から昭和初期にかけて、外国航路や内台航路(当時)用の船舶として用いられた。ハワイやブラジルへ移民が開始された時に移民船として使われたことでもよく知られている(移民用としては、船底の貨物室を蚕棚のように2段に仕切って使用した。最大1000人程度の移民を収容できたようである)。その後漁業工船に改造され、漁業会社を転々とする。最後は、貨客船として一番はじめに籍を置いた国であるソ連の手によって、太平洋戦争終結直前カムチャッカ沖で爆沈されるといった数奇な運命をたどった。
第一回ブラジル移民船として100年前に就航し、その後も台湾航路、南米航路などで活躍、その後は日本海で鰯工船や蟹工船になる。最後はソ連機の空爆で沈没という数奇な運命をたどった。で、笠戸丸というとなんだか聞き覚えがあるので思い出してみると、コレだ。





北原ミレイの名曲、石狩挽歌です。

北原ミレイというと、「石狩挽歌」と「捨てるものがあるうちはいい」と、あとは「ざんげの値打ちもない」だったかな。大ヒットというのではないが、ジワジワと心に浸み込むような名曲を歌う人という印象があるんだが、中でも石狩挽歌は作詞のなかにし礼の自伝的作品として知られている。

石狩挽歌

石狩挽歌
価格:¥ 1,200(税込)
発売日:2006-12-06

で、なかにし礼なんだが。
1938年 中国黒龍江省牡丹江市生まれ。
立教大学文学部仏文科卒。
大学在学中よりシャンソンの訳詩を手がけ、1964年『知りたくないの』のヒットを機に作詩家となる。
ヒットメーカーとして活躍を続け『今日でお別れ』『石狩挽歌』 『時には娼婦のように』 『北酒場』など約4000曲の作品を創る。

『天使の誘惑』ほかで日本レコード大賞を3回、同作詞賞を2回、またゴールデンアロー賞など受賞歴多数。
その後作家活動を開始、98年に『兄弟』を発表。
最近ではTVのコメンテイターとして有名なんだが、もともと阿久悠と並んで昭和を代表する作詞家だった。作詞家としては、新婚旅行で石原裕次郎と知り合ったのがきっかけでデビューしたそうだが、実はその前にシャンソンの「訳詞」を1000曲も手がけている。で、コレなんだが、

さらば銀巴里~なかにし礼シャンソン詩集
価格:¥ 12,233(税込)
発売日:1991-04-26
昼は大学の授業中でも歌を書き、夜は「銀巴里」の隅の席で歌を書き、そして下宿では、徹夜でまた歌を書き、そうやってたぶん七百曲は書いたであろうと思う。
昭和三十五年から三十九年、私の二十二歳から二十六歳頃までの話だ。
そうやって、わが青春時代に書いた訳詩の中から百曲を選んで、今回、訳詩リサイタルをやった。そのライブレコードが、この五枚組みCDである。
時間の都合で割愛した曲もあるが、私は自分の青春時代が、音の缶詰となったような心境だ。
『青春という宝』を、わたしはそっくり、シャンソンに捧げたといっていい。
「時には娼婦のように」という曲があるんだが、覚えているだろうか? 黒沢年男というオッサンが歌っていたな。あの曲は、作詞がなかにし礼なんだが、実は作曲もなかにし礼。作曲も出来る人なわけだ。上記アルバムでは、五枚組の一枚を本人が作曲、歌っている。

で、シャンソンなんだが、シャンソンというのはストーリーがあり、物語になっているわけだ。一曲に凝縮された他人の「人生」を言葉として紡いで行くという作業を、なかにし礼は延々とやってきたわけで、下積みというのは大事だよ、というわけだな。で、なかにし礼は「兄弟」という作品で小説家になるんだが、
「兄さん、死んでくれてありがとう」十六年間絶縁状態だった兄の死を聞いた弟の胸裡に、破滅的な生涯を送ったその姿が甦る。敗戦後、特攻隊から復員した兄は博打と女に溺れ、一攫千金を狙ってさまざまな事業に手を出しては失敗を繰り返す。作詞家として成功しながら、巨額の借金を肩代わりし続ける弟。破天荒な兄に翻弄され、苦闘を強いられた弟の愛憎と葛藤を描く、衝撃の自伝小説。
兄弟 (新潮文庫) 兄弟 (新潮文庫)
価格:¥ 660(税込)
発売日:2004-01

実の兄がロクデナシで、ずいぶん苦労したらしい。で、話は終戦直後なんだが、
この小説にあるように、なかにし礼の兄は終戦後間もなく引揚者として小樽へ帰還したが、母親の小樽の自宅を担保にした借金で増毛のニシン網を一ヶ統買いしました。
郡来は最後に見事に網に入り大金をつかんだように見えたのです。

ここでやめておけば良かったのだが、山師である兄はやめられない。
ニシンを船五隻をチャーターし内地に運んで大もうけしようとしたが、時化で失敗。
一家は離散し、各地を転々とする事態となりました。いくら面倒を見ても、借金の尻拭いをしようと、弟であるなかにし礼を苦しめ続けた。そんな兄とニシンの思い出からこの詩が出来、そして近年に小説が出来たのです。
ニシンバブルというのがあったわけだ。魚というのは、獲れたり獲れなかったり、周期がある。今はイワシが豊漁だとか、サンマが豊漁だとか、ニシンが豊漁だとか、どれかが獲れればどれかが獲れない。終戦直後はニシンバブルが続いていて、ニシンは肥料にもなるわけだが、内地に出荷もする。肥料は安いが、内地に出荷すると高く売れるというわけだ。だが、日本海は時化が多くて、うまく運べないと腐らせてしまう。それで失敗したらしい。しょせん、素人商売だったわけだ。

で、石狩挽歌には、幼き日になかにし礼自身が見聞きした原風景が詰め込まれているわけで、そこに「沖を通るは 笠戸丸」という一節が出てくるわけだ。実際には笠戸丸はなかにし礼が満州から引き揚げる以前に沈没している。見ているはずがないんだが、移民船から蟹工船と、底辺の日本人とともに生きていた笠戸丸の姿というのが、その原風景には相応しいと思ったのだろう。まぁ、この曲がヒットした頃には、誰もそんな事に注意は払わなかったんだろうが、ブラジル移民100周年の今になって、なかにし礼の「仕掛け」が生きてくるという、まぁ、才能というのはそういうモノだろう。

コメント

「捨てるものがあるうちはいい」とは良い歌詞なるも メタボの脂肪をすてられる事もその中に入るとも云い得る。飢饉でも無いから=恵まれた時代である。現実の悲壮感ではなく、将来の悲観で暴走・自滅願望の若者もいる。尚 「兄弟」。石原「兄弟」より深刻で迫力アリそう。

石狩挽歌、名曲ですね。昔Gメン75でこの曲使った回を思い出しました。
右肩上がりな世の中に北海道の貧しい漁村をテーマにしたあの回は名作でした。
今見たら、まさに現代の蟹工船の世界なんだろうけど・・・

タイからです。
おいら、実を言うと道産子なんだ。
実家は、あと5キロも歩けば石狩川と言う泥炭地の地盤沈下の激しい、ちっぽけな団地にあって、天気の悪い日なんか荒涼とした雰囲気は残っていたな。
ゲリラさんのシャンソンの説明で分かったんだが、石狩挽歌もちゃんとしたストーリーが組み立てられていてイメージがくっきり残る歌になっていると思う。
同じ兄弟でも、日本郵船支店長の息子で小樽で優雅に暮らしていた石原兄弟とは、生き方が天国と地獄の差なんだろう。
タイのマイペンライな生活にいると、生まれ故郷の荒々しさを改めて認識しているわけです。でも、四季のある場所が一番ですよ。ここは、年がら年中夏だらけなんだもんね。

なかにし礼 1938年 中国黒龍江省牡丹江市生まれ。

ひょっとして朝鮮族だったりして
思想が左翼だし、お兄さんも朝鮮人みたいな素行だしね

ここのブログも大したものでした。
ここは誰も反論できないですね
神がいますからね。ハハハ。
http://myhome.cururu.jp/ell/blog

その世代の人間はみんなサヨクだよ。
ちなみに、お兄さんは特攻隊崩れだ。

今まで笠戸丸も古代文字も気にせず「石狩挽歌」歌ってますたが凄い歴史があったんすねぇ。明治33年イギリスにてロシアの貨客船KAZAN号として進水、五年後の日露戦争中に旅順港で撃沈され、帝国海軍が浮揚捕獲、笠戸丸に改名、ハワイ移民、ブラジル移民を運び、明治45年大阪商船払下げ以降、流転の運命、最後は漁業工船、終戦間際の操業中にソ連空軍機の空爆によりカムチャッカ(ウトカ)にて沈没と数奇な運命を辿る。また一つ勉強になりますた。

佐藤立志氏逝去 ○| ̄|_

「兄弟」は豊川悦司(なかにし)とビートたけし(兄)で5、6年前にテレビドラマ化されてましたね。当時は自分の周辺事情と重ねてなんともいえない気持ちで見た記憶があります。
そのなかにし礼氏は普請道楽の人だったようで、何度も家を替え、一時は北鎌倉の駅の裏辺りに一戸建てを建てて住んでいましたがあんまり長くは居なかったようです。
注文建築で随分凝った作りだったですが、当人の意向か設計者の所為かとにかく業者泣かせで、いまだに当時同じ現場に入った職人同士で「あの現場は酷かったよな」と語り草になってます。
ええ、酷い目にあいましたとも。だからあれ以来わたしの氏に対するイメージは極悪なんです。

「敵艦見ゆ203」で最初に接触したバルチック艦隊の病院船「アリヨール」が後の笠戸丸じゃなかったかな?

特攻隊崩れは、仁義なきの北大路さんの役が思い出される
ホントは死ぬはずだったのに、生きている後ろめたさがそうさせるのか
その後は破滅的だ。

永さんも九ちゃん死んでから作詞しなくなったね。

ちなみにミレイさんはカラオケで唄ってますw

私も道産子です・・・あまり開拓者精神は有りません・・・(笑)

なかにし氏の後輩の私が来ましたよ。

氏の仕事でいつまでも残るのはやはり小説よりは訳詩・作詞の方ではないかと個人的には思う。

ドイツを旅行中にテレビを見ていたら、歌謡バラエティーみたいな番組で司会者が「わかれのあさーふたりはー」と日本語で歌い始めて何かと思っていたら、ドイツ語の原曲の紹介だった。たぶん日本でも有名、とか言っていたんだろう。

数年前、アークヒルズのチャイニーズレストランから彼が「おいしかったー!」と言いながら出てきたのを見たツレがついふらふらと同じ店に入ってしまったが、たいして美味しくなかったです。

有名人と一般人では出されるものが違うんだろうか・・・。

>石狩挽歌、名曲ですね。昔Gメン75でこの曲使った回を思い出しました。

Gメン75かキーハンターかで石狩晩歌使ってたやつ俺も見ました。
半分寝ながら見てたからストーリーは全然覚えてないけど、冬の暗い海の風景に女の人がコート着て立ってて、この曲が流れてたのを覚えてます。
この曲の印象は強く、今でもこの曲は俺のお気に入りです。
人間はみな家族ですね。

 「石狩挽歌」と言えば北海道の桃岩荘YH。唯一残存(?)するニシン御殿、朝一番の大音量で流れる北原ミレイはお約束でした。1860年築・合掌造りの鰊番屋は囲炉裏があり、流石に時代を感じさせる宿でしたねェ~。

http://jp.youtube.com/watch?v=NcOVIthxO9c

【 桃岩荘 】~礼文島にある唄と踊りの馬鹿YH~

 

野次馬さんのこの手のエントリ大好き

なんでもかんでも朝鮮人扱いにするアホがいるが、てめえの素性をよく調べてみな。引揚者が皆朝鮮人やら中国人か。こいつらにかかると日本列島に日本人がほとんどいなくなる。

引揚者は朝鮮やシナの人々のおぞましさを肌で感じているので、
同類にされるのは心外だという意識は想像以上のものです。
うちの両親は二人とも満州生まれなんで、奴らへの憎悪は凄い物が有ります。
大東亜戦争が侵略行為なんて言おうもんなら家庭崩壊ですw

戦後日本の教育制度に問題があった事を肌で感じております。

10年位前だったかな?うちの近くのファミリーサウナにどさ回りで北原ミレイきてたなw宴会場で歌ってたw

最近、中森明菜が「石狩挽歌」をカバーしてる

うちの近くのファミリーサウナに中森明菜もこないかな〜

>「石狩挽歌」と言えば北海道の桃岩荘YH。
@なつかしい!! 30年前おもいだしたよ
  ペアレといっしょにおどってうたって、、
 きOがいユース、で有名だったモン名、、、、、

おいらも「銀巴里」で、北原ミレイの"石狩挽歌”を聴いた・・懐かしいな。
東京の本家「銀巴里」は無くなったが、札幌ススキのの「銀巴里」は、何とか健在だ・・・流行ってはいないが、皆懸命に店を守っている。
シャンソン系が多いので、若い客層が付き難く、馴染みの客はどんどん年齢を重ねるばかり(出演者もだけど・・)。
ライブハウスで食っていくのはいまさらながら 大変。潰れずにいて欲しい。

本格シャンソンから入ってるものとしては和訳シャンソンなんて何ソレという感じなんだけど。越路も丸山も。原語で歌えよ。なかにしも和訳してるけど、詩の訳なんてするもんじゃないよ。プレスリーやビートルズを日本語で歌ってるヤツがいるかよ。

たぶん言い訳はフランス語そのままでは日本人には判らないから、というんだろうけど、ンなら英語なら判るのか。要は歌手がフランス語できないだけだろう。ならシャンソン歌うな。

なかにしはAZNAVOURの Et pourtant を「思い出の瞳」という題名にしております。そしてそのルフラン部分は「だーけど、だーけど好きーなのよ、だーけどだーけど、好きーなのよ、好きーなのよ~」だってさ。

これが作詞家・訳詩家の作品か。まず日本語の作詞として水準以下だろうが。

AZNAVOUR、直筆サイン入りレコを持ってるオレは勝ち組。

>本格シャンソンから入ってるものとしては和訳シャンソンなんて何ソレという感じなんだけど

おお、息抜きエントリーかと思いきや、硬派なご意見が!(笑) 

私も以前はそう思ってましたが、今はそれぞれ「別物」として楽しんでおります。

そもそも歌手がフランス語ができるかどうか以前に、聴衆がフランス語わかりませんから・・・。

別ジャンルですが月田秀子っていうファド歌手さんがおりまして、ポルトガルでファドを歌って、それなりに認められていたらしい。アマリア・ロドリゲスは彼女に「日本人に対しては日本語で歌ってファドを広めて欲しい」みたいなことを言ったとかいう話です。
http://www.fado.jp/
本人がそう言ってるだけだろ、といわれれば、はいそれまでよ。

アメリカン・ポップスの日本語版など一時期結構あったような気がしますし、ロシア民謡も日本語で親しまれていることですし、まあ硬いことをおっしゃらずに。

終戦後に進駐してきたのがフランス軍だったら、シャンソンもフランス語で歌うのが主流になっていたかもしれませんね。

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