この六月号をもって九十一年の歴史をもつ婦人雑誌が姿を消しました。「主婦の友」の休刊。ひとつの時代の終わりと始まりを告げる事件に思えます。
「主婦の友」の創刊は一九一七(大正六)年二月でした。
都市部に給与生活をする新興中産階級が誕生した時代で、復刻された創刊号のページをめくると、「モダニズムと教養主義の大正」の雰囲気が立ちのぼってきます。
新渡戸稲造の随筆や安部磯雄夫人・こまを子の主婦としての苦心談、編集部記者によって「三人の子供を博士にした未亡人」や「表彰された節婦」などお手本にすべき主婦たちの奮闘ぶりがリポートされ、主婦らしい化粧法や経済的な料理法、家計などの生活関連記事が満載です。
時代先取りの創刊の志
「家庭の幸福と女性の地位向上」の創刊の志は、確かに時代を先取りしたものでした。新聞記事をヒントにしたタイトルの「主婦」の新語と雑誌は人口に膾炙(かいしゃ)して、主婦は農家や商家のあこがれともなっていきました。三四(昭和九)年新年号の発行部数は百八万部を記録します。
戦争で出版統制を受け、戦後の復刊は四六(昭和二十一)年。講談社の「婦人倶楽部」(一九二〇年創刊)、新たに創刊された「主婦と生活」「婦人生活」とともに四大婦人雑誌と呼ばれました。
古い商店街には今なお「結婚したら主婦の友」の看板を残している老舗書店があります。これは若い女性の心をとらえた六四年のキャッチフレーズ。主婦は幸福の代名詞でした。戦後の最多発行部数は六九年二月号の七十二万八千部でした。
しかし、戦後の高度経済成長と工業社会の進展が国の風景を一変させたように女性たちを変えていきました。家庭内の電化によって家事から解放された女性たちの内部に生まれてきたのが個人の目覚めでした。
自己犠牲は時代遅れ?
変化の顕在化は戦後生まれの女性たちがいわゆる結婚適齢期を迎えた七〇年代だったといいます。新しい生き方が模索され、社会参加への志向が生まれました。八六年の男女雇用機会均等法施行は決定的でした。女性たちが望んだのか、資本の要請だったのか、女性の社会進出は加速されました。
女性たちの変化について村田耕一主婦の友社取締役はこんな例をあげました。
かつては髪を振り乱して子育てに専念していた女性たちがメークするようになった。育児のさなかにもメークを忘れない女性が二人から三人、やがて六人から八人になっていった−。
そこには自分を大切にする女性がいます。家族のために尽くす自己犠牲を最大の美徳とする雑誌が消えていくのは宿命でした。
四大婦人雑誌も八六年から九三年にかけて次々と休刊になり、「主婦の友」は村田取締役(当時編集長)の誌面大刷新で九五年には六十万部までの回復を果たしますが、主婦の時代の終焉(しゅうえん)は現実でした。部数も七万部台に低迷、休刊のやむなきに至ります。
二〇〇〇年の日本は、社会学者の上野千鶴子さん風の「おひとりさまの時代」を迎えたようです。
同年の二十代後半女性の未婚率は54%で三十年前の三倍、半数が未婚です。三十代前半だと女性の三人に一人、男性だと二人に一人が未婚です。
仕事に生きがいを求めたり、気ままな暮らしが手放せなかったりの多様な生き方が可能になりました。背中合わせの孤独については孤独と正面から向き合うことが人生を豊かにするとの教えも少なくありません。
作家の曽野綾子さんは著書の「人生の後半をひとりで生きる言葉」のなかで一人で生きる姿勢の大切さを語り、多くの励ましの言葉を贈っています。
上野さんは「おひとりさまの老後」で楽しく生きるためのノウハウを伝授してくれています。孤独への深い自覚が他者への共感となるようです。
おひとりさまの時代の自由な選択とは別に、深刻なのは若者たちの周辺に、非正規雇用や低賃金、長時間労働の増大で、結婚したくてもできない、子供を産みたくても産めない、憂うべき状況が生まれていることです。
生きるに値する国に
親元で暮らす二十−三十四歳の独身者は千百四十万人。その90%が結婚を望みながらしていないのが現況なのです。若者たちに雇用と賃金、育児への支援がなければ国が滅びかねません。
この国が生きるに値するかどうか。そして、時代がめぐって再び主婦の時代が来ないとも限りません。二人以上の子供が欲しいという若者たちの願望は全く変わっていないのですから。
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