宮崎県諸塚村は1000メートル級の山塊に集落がへばりつく、人口2000人足らずの過疎地。村長の仕事は「医者探し」と言われるくらい、医師不足に悩まされてきた村だった。
ここに「(重じゅう)先生」こと、黒木重三郎医師(78)がやって来たのは11年前のことだ。村の生まれ。福岡で開業医として成功し、息子2人も医者になったが、病院を手放し家族も残して、一人で村の国民健康保険病院に赴任した。
なぜ? と皆が問うた。重先生は答えた。「自分は死んだはずの男。余分の人生を生きているんです」
昭和19年、大分の陸軍少年飛行兵学校に入校し、死地に赴く多くの仲間を見送った。特攻兵として死を覚悟した時に敗戦を迎えた。
九州大医学部に進み37歳で「粕屋中央外科病院」を開業した。後に、当時の村長が訪ねてきた。「医者の来てがおらんで、帰ってきてくれんか」。後ろ姿が頭を離れなかった。
いま、32歳の院長と2人で村の医療を守り、日に50~60人を診る。1月に過労で倒れ、入院した。全治3カ月の診断にも「村人が待っとる」と1カ月で復職した。回診で足元がふらつき、車椅子を勧められたが、断った。「自分が車椅子では、患者さんが自分の苦痛を話せなくなる」
入院患者の松田マツノさん(86)は「重先生がいなくなったら、おんどもは死なにゃてなわんね(死ぬしかない)。先生は村出身だから、おどもの気持ちが分かるとよ」と手を合わせる。
重先生の家の前には、土の付いた野菜がそっと置かれている日がある。【甲斐喜雄】
2008年6月23日