2008-06-16 [展示]「Invisible moments」ギャラリートーク

6/15 16時〜
参加費 ¥500
◇ outside the frame 三島 靖 - photographers' gallery
http://www.pg-web.net/off_the_gallery/mishima/main.html
トークがはじまって一時間も過ぎようという時点で、個別の作品についてのコメントはなかった。仮構された「広告的写真」とここに在る「非広告的写真」は何が違い、どういう意味があるのかという抽象論がしばらく続き、案の定「そこに違いはない」という当たり前の話になるまでに一時間半を要したことは正直おもしろくはなかった。
ただ、美術において自明な、広告的なものと芸術的なものの差が今更のようにトークの席で問題とされるのは「写真」というメディアの持つ、イメージを表象する「絵画」的性質と、形式的にいまそこにあるイメージの読解を求める「テキスト」的な性質が未分化のまま在ることに起因するようにも思えなくもない。とはいえ、そこから今回のテーマである「みえない瞬間」というテキストの誤読とその可能性に踏み込む議論も期待されたがついにその瞬間は訪れなかった。
司会者の三島さんが終始展覧会のテーマに触れようとせず、また各作品について作家に聞こうともしなかったことは謎である。途中苛立って席を立ちそうになったが、質問の席で福居氏から今回の作品の成り立ちについて聞けたのでようやくほっとした。司会者がどういう意図に基づいてそうしたかは図りかねた。
別の質問者から「「朝日カメラ」のメディアとしての責任」を問う質問が出たのも、こうしたトークの経緯からは当然である。三島氏は朝日カメラの編集者でもあるし、トークの席では売れる写真、売れない写真という言葉も飛び出し、ここに在るのは「売れない写真」であるというある種の断言はあったものの、なぜ売れないのかについても、朝日カメラがどのような姿勢で売れる、あるいは売れない写真を掲載しているかの説明がなく、一方に売れる「広告」写真があり、他方に、売れない「芸術?」写真があるという二分法を中心に話題は横滑りした感があったからである。
この質問に対し三島氏は「どのように答えて欲しいのか?」と質問者を逆質問するような形から答えていたが、実際の答えは歯切れのいいものではなかった。立場的に難しいのかもしれないし、時間もなかったのだろう。
展示ではおもしろい試みが感じられた。
トークの席上でも話題にはなってたが、奇妙な親和性が会場にはあり、各々の作家・作品がその独立性を保持しながらも、コンセプトにおいて融和する雰囲気は意外と珍しく、闘争心を欠きながら観るものに新鮮な印象を与えることに成功していた。
入ってすぐの山方伸さんの写真を初めて観たが、トークを挟んだ慌ただしいパーティでそれを観たというのはおこがましいかもしれない。ただ、確かにそこには地名が表象に刻まれているにも関わらず、作家が積極的に場所を欠いた光景に向っている自覚的な地理性の喪失があり、地理を喪失しながらも「日本」であるという唯一の自明な空気が、果たしてそこに映された看板に由来するものなのか、場の磁場のようなものなのか判断に迷うのだが、そうした迷いを積極的に喚起する仕組みを作家は楽しんでいるようにも感じた。
坂本政十賜さんの今回のカラー写真はいつになく統制が働いていた。それは実際本人の言う「コマ不足」に起因するのだろうが、いわゆるコンセプチュアルな写真の持つ息苦しさはなく不思議な風通しの良さが感じられた。具体的には杉並と中野区の昼間の住宅街を撮ったものだというが、いずれの写真も中央に大きく道路が映り、しかも一点通しのように画面の中央付近に消失点が在ると言う大胆なものだった。またラボで焼いたせいか、黒の潰れ具合もいつもよりきつく、不穏な午後の住宅街と言う通俗的なイメージの表象をあっけらかんとやっていたことは面白かった。
湊雅博さんの写真について言及するにはあまりに今回のものだけではよくわからない。ケルテス、プロヴォーグなどという数少ない写真家の記憶に照らしながらそことの差異について考えると、やはり銀塩写真がデジタル化していく今の時代の中で変貌を余儀なくされていく写真家という風景をそこに見てしまうのだ。実際、彼は映ったものではなくイメージを見て欲しいとのことだったが、そこにはある自画像のようなものが感じられた。
福居伸宏さんの今回の展示は、グループ展という枠組みにおける親和性と対立、また個人的問題としての画像と写真という諸問題に対するダイレクトなアプローチが際立っており、今回非常に面白い作品だった。
手法としては最近出回りだした「デジタルフォトフレーム」を四連で並べたもので、説明によると相当数の(数をメモってませんでした)写真が3秒ごとに変化していくものだった。これはyoutubeを用いた谷口さんの手法と対極的に、伝統的な写真のフレームの中に連続するデジタル画像を見せるものだが、それだけでは単にハードウエアの問題で処理されてしまう。
ここでは3秒というタイミングの選択と、トリミングされた画像のサイズの選択等がこの手法を積極的に選んだ作家の意図を明快にしていた。
辛うじて一枚の写真の認識をした瞬間、次の写真へと画像がオーバーラップし、しかも福居さんのいつものテーマである夜の街の光が変遷していくさまは不思議な感覚だ。小山登美男ギャラリーで見た引き伸ばした紙の作品と異なり、細部を強調しトリミングされたクローズアップは、流れていく時間と失われる記憶の狭間を絶妙に顕在化する。
ただこの作品にはダグラス・ゴードンなどの一連の映像作家に見られる、見慣れた風景からの突出した部分による精神的喚起力が試されるところもあり、「映像」と「写真」の境界設定という問題が今立ち上がっているのだなと痛感した。