この沖縄県民大会の参加人数について、産経新聞は、「11万人でなく、もっと少ないから誤報だ」などという趣旨の文句を、朝日新聞に対して行い、朝日新聞と産経新聞が“場外戦”を演じたのです。この“場外戦”について、東京新聞が記事にしていましたので、引用したいと思います。
1.東京新聞平成19年10月10日付朝刊28面「こちら特報部」
「沖縄県民大会 参加人数で新聞“場外戦” 「11万人」で攻防
沖縄戦での集団自決の日本軍関与をめぐる教科書検定問題で、文部科学省は「軍が強制」という記述を削除する修正を再び見直す見通しだ。それを促したのは、先月29日の沖縄県民大会。その参加人数の表記をめぐり、朝日新聞と産経新聞が“場外戦”を演じた。争いのタネは何?
直接の引き金は、今月3日付朝刊の産経新聞の1面コラム「産経抄」。それ以前に朝日新聞の夕刊コラム「窓」から「事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく」と批判され、それを切り返す形で「教科書検定意見撤回を求める9.29県民大会」の朝日新聞の記事に触れた。
集会の一報の見出しや2日付朝刊の「県民大会に11万人が参加」という記述を取り上げ、「11万人は主催者発表の数字」「関係者によると、参加者は最大で4万3000人」「沖縄の警察は、主催者の反発を恐れてか真実を発表できない」とし、「戦時中に大本営発表を垂れ流し続けた貴紙の過去とだぶってしまいます」とこき下ろした。
これに対し、朝日新聞は4日付「窓」欄で、産経新聞にも社会面の見出しに「撤回求め11万人集会」、「産経抄」にも「11万人(主催者発表)が参加した」という記述があると指摘。「自己矛盾」と反論した。
紙面でのやりとりはこれで止まったが、産経新聞社広報部は「朝日新聞は2日付の記事では主催者発表と書いていない」「産経新聞は、5日付には最大で4万3千人、7日付でも11万人という数字が独り歩きし始めている実態を取り上げた」と説明している。
ちなみに「新しい歴史教科書をつくる会」は検定問題についての文相あての意見書に「実数は4万2千人よりも少ないという指摘もある」と記している。また、検定問題の続報では読売新聞(2日付)も「主催者発表」を省き、本紙は7日付以降、混在している。
◆主催者側「空撮では少女暴行事件の1.5倍」
「11万人」という数字が重い意味を持つのは、その後の政府や文科省に方針転換を促した実態からも明らかだ。実際にはどのくらい集まったのか。
集会を当日取材した「こちら特報部」の片山夏子記者は「正確に数えるのは無理」と話す。「会場からあふれた人々が近隣のビルの階段に集まっていたり、終了後も遅れて会場に向かう人並みが絶えなかった」
沖縄県警の広報担当者は「参加人数は警備の関係上公表していない。4万3千人の数字が県警調べか否か、についても答えられない」と固く口を閉ざす。
一方、主催者の県民大会実行委員会の担当者は「11万人という数字もかなりに少なめに見積もった」と語る。「通常、“水増し”の根拠になる参加団体、協賛団体からの申告の総計だけなら5万数千人だった」
では、今回はどう数字をはじき出したのか。「同じ会場(宜野湾市海浜公園)で催した1995年の少女暴行事件の抗議集会の参加者は、主催者発表で8万5千人。警察発表が5万5千人。このときは空撮で単位面積あたりの人数に広さを掛けた。今回はこの95年の数字を基に空撮での面積を比較して割り出した」
それによると、参加者は前回に比べ、約1.5倍に達したという。「後から参加してくる人々はカウントしなかった。それでも、本来は12万人以上としてよい規模。4万3千人なら前回の警察発表をも下回る。これは絶対にあり得ない」
◆「本土と温度差」 地元では痛感
「主催者発表」と入れるべきか否かについて、上智大学の田島泰彦教授(メディア法)は「取材した記者の体感や主催者の数字の根拠などを総合的に判断して、数字に妥当性があると判断するなら繰り返す必要はないのでは」と語る。
地元紙の記者は、今回の“場外戦”についてこう感想を漏らした。「沖縄では集会参加者を水増しとみる陰口すら聞こえてこない。そうした議論を聞くにつけ、本土と沖縄の温度差を痛感させられる」」
しかし、産経新聞は、他の新聞と異なり、この沖縄県民集会の報道自体ごくわずかしか触れなかったのに、なぜか何度も集会人数が多すぎるという文句を付け、しかも、産経新聞も含めてどの新聞社でも同じく主催者発表の人数を発表したのに、朝日新聞にのみ文句を付けたのです。今回の朝日新聞と産経新聞の“場外戦”は、あまりにも産経新聞側の記事は意味不明で自己矛盾に満ちており、不可解としか言いようがないのです。
(1) 参加人数は、11万人なのか、それとも産経新聞発表のとおり「4万3000人」なのでしょうか?
「集会を当日取材した「こちら特報部」の片山夏子記者は「正確に数えるのは無理」と話す。「会場からあふれた人々が近隣のビルの階段に集まっていたり、終了後も送れて会場に向かう人並みが絶えなかった」
沖縄県警の広報担当者は「参加人数は警備の関係上公表していない。4万3千人の数字が県警調べか否か、についても答えられない」と固く口を閉ざす。
一方、主催者の県民大会実行委員会の担当者は「11万人という数字もかなりに少なめに見積もった」と語る。「通常、“水増し”の根拠になる参加団体、協賛団体からの申告の統計だけなら5万数千人だった」
では、今回はどう数字をはじき出したのか。「同じ会場(宜野湾市海浜公園)で催した1995年の少女暴行事件の抗議集会の参加者は、主催者発表で8万5千人。警察発表が5万5千人。このときは空撮で単位面積あたりの人数に広さを掛けた。今回はこの95年の数字を基に空撮での面積を比較して割り出した」
それによると、参加者は前回に比べ、約1.5倍に達したという。「後から参加してくる人々はカウントしなかった。それでも、本来は12万人以上としてよい規模。4万3千人なら前回の警察発表をも下回る。これは絶対にあり得ない」 」
同じ会場(宜野湾市海浜公園)で催した1995年の少女暴行事件の抗議集会の場合、空撮で単位面積あたりの人数に広さを掛けてはじき出し、「今回はこの95年の数字を基に空撮での面積を比較して割り出した」そうです。正確に数えることは誰にとっても無理だとしても、空撮に基づいて割り出したのであれば、客観性は担保されているように思います。
それも、「参加者は前回に比べ、約1.5倍に達した」のだとすると、95年の数字を基にすれば、今回の参加人数は、主催者発表人数は12万7500人、警察発表は8万2500人となります。しかも、「後から参加してくる人々はカウントしなかった」のですから、いずれももっと多い参加人数となったはずです。
集会を当日取材した「こちら特報部」片山夏子記者は、「会場からあふれた人々が近隣のビルの階段に集まっていたり、終了後も送れて会場に向かう人並みが絶えなかった」という実情を現地で実際に見ており、会場外の人数がいることが明白だったのですから、参加人数は11万人でさえ少なかったのは確実といえそうです。
「産経抄」10月3日付では「抄子は宜野湾市内にある会場を何度か訪ねていますが、会場の面積は約2万5000平方メートル、つまり160メートル四方に過ぎません。当日の航空写真を見ると空きスペースもあり、どう数えれば11万人にもなるのでしょう」としています。しかし、「会場からあふれた人々が近隣のビルの階段に集まっていたり、終了後も送れて会場に向かう人並みが絶えなかった」という実情は触れることなく、「会場の面積」だけしか触れていないのですから、「産経抄」は現地の事情を知らなかったと言わざるをえません。(産経新聞は、沖縄には産経新聞那覇支局長がいるのに、現地の事情を伝えていないのに等しい「産経抄」なのですから、当日現地取材をしたのだろうかと疑問に感じます。)
産経新聞10月7日付での記事からすると、産経新聞は、10月以降は直接取材したようです。7日付記事では、会場面積からすると「1平方メートル当たり4人」になるがそれは多すぎておかしいと非難していますが、集会や祭りなどでは珍しくない数字なので妙な批判です。
「産経抄」10月3日付では「関係者によると、参加者は最大で4万3000人だそうです」としています。しかし、その数字は会場外の人数・終了後も会場に向かう人数を欠いており、また、前回大会よりも明らかに人数が多かったのに、前回よりも少ない4万人という数字は客観性に欠けているのですから、産経新聞の方が誤報と判断するのが素直と解されます。
疑問に思うのは、「産経抄」の「関係者」とは、誰のことでしょうか? 4万3千人の出所は、世界日報(統一協会機関紙)であると推測されており、それが事実であれば、カルト団体である統一協会は信用性がゼロですから、全く信用できない数値です。
このようなことからすると、産経新聞は誤報に基づいて、朝日新聞に対して文句を付けていたと理解できそうです。
(2) 産経新聞社広報部は「朝日新聞は2日付の記事では主催者発表と書いていない」と批判していますが、その批判は妥当でしょうか?
「「主催者発表」と入れるべきか否かについて、上智大学の田島泰彦教授(メディア法)は「取材した記者の体感や主催者の数字の根拠などを総合的に判断して、数字に妥当性があると判断するなら繰り返す必要はないのでは」と語る。 」
田島泰彦教授の説明によれば、東京新聞の記事にあるように数字に妥当性があると判断できますから、「繰り返す必要はない」ことになります。また、9月29日に行われた沖縄県民大会は、9月30日付の紙面で一度紹介した情報ですし、「主催者発表」という点は常時指摘しておくべき重要な事実とはいえません。検定問題の続報では読売新聞(2日付)も「主催者発表」を省き、東京新聞は7日付以降、混在しているように、産経新聞以外の新聞社は、主催者発表を省くことはおかしなことないと理解しているようです。
このようなことからすれば、産経新聞社広報部は「朝日新聞は2日付の記事では主催者発表と書いていない」と批判していますが、その批判は妥当ではないといえそうです。
3.朝日新聞と産経新聞の“場外戦”はいつものことです。
「地元紙の記者は、今回の“場外戦”についてこう感想を漏らした。「沖縄では集会参加者を水増しとみる陰口すら聞こえてこない。そうした議論を聞くにつけ、本土と沖縄の温度差を痛感させられる」」
いつものこととはいえ、「沖縄では集会参加者を水増しとみる陰口すら聞こえてこない」のに、産経新聞や「新しい歴史教科書をつくる会」は、沖縄県民が実際に戦争に巻き込まれた事実そっちのけで、参加者を水増ししていると誹謗するのです。米軍基地問題にしても、本土は沖縄に負担を押し付けたままです。本土の人間は、沖縄県民が「本土と沖縄の温度差」を感じていることをしっかり認識し、解消に努める必要があるのです。
今回、産経新聞は誤報によって朝日新聞を非難したのですが、産経新聞の誤報はかなり多いことは誰もが知っていることと思います(最近でも誤報があった。宇治山田商業の学ラン問題は明らかな捏造記事。)。もちろん、朝日新聞の比ではなくどこの新聞社よりも明らかに多いのです。しかも、朝日新聞は10月4日付「窓」欄が指摘したように、産経新聞には参加人数に関して「自己矛盾」があったことは否定しようがないのです。
産経新聞が、「日本軍が集団自決を強制していない」と主張したいのであれば、それを主張すればよいのです。参加人数を水増ししているなどと誹謗することは、あまりに姑息です。産経新聞の誤報がかなり多いことをふまえると、今回の朝日新聞と産経新聞が“場外戦”は、産経新聞がますます信用性に欠ける報道をする新聞社であり、しかも姑息であったという評価をもたらしたといえるのです。産経新聞は、沖縄県民がどう感じているかを考えて報道すべきではないでしょうか?
今回の誤報の遠因は、産経新聞には各地に記者をおくだけの資力がなく、記者の能力も低下し、取材能力が不足している点であるように思います。本来、取材能力を高めるのが筋でしょうが、朝日・読売・日経だけでネット事業や販売部門で提携し、産経が除外されているようでは、販売拡大は極めて困難であり、さらに資力不足に陥り、取材能力が低下することは必至です。そうすると、さらに誤報が続くことになり、さらに販売力が低下することに……。近い将来、関東地域で廃止した夕刊同様、日刊発行でさえも難しくなるのではないでしょうか。
朝日新聞と産経新聞の“場外戦”は、産経新聞にとっては販売促進のための重要なウリの1つなのでしょうが、新聞社の役割としては本筋ではないように思います。今回は特に、朝日新聞に対する産経新聞の批判は、間違っていて意味不明の批判であって、自己矛盾に満ちており、不可解でした。産経新聞は“場外戦”をやるだけの論理能力さえも失っているようです。産経新聞は、事実を明確に報道するという新聞社としての役割を失いつつあるようです。
URL | ビルエバンス #-[ 編集 ]
>ブログの内容には概ね賛成です
ありがとうございます。
>一点、納得できないところがあります。いわゆる、捏造をよく書いてきたのは朝日新聞だと認識しています。沖縄の珊瑚の事件などで。。。
珊瑚事件は有名ですね。どの新聞も誤報はあることとはいえ、「珊瑚事件」は非常に問題のあった事柄でした。
とはいえ、産経新聞の記事は相当にひどいものです。「産経新聞 捏造」で検索すると色々見つかります。例えば、最近の記事に関しては、↓を参照して下さい。http://news.livedoor.com/article/detail/3288315/
「罪無き高校生へのペンの暴力か! 「ねつ造報道」の懲りない産経新聞のメンメン」
少し前まで産経新聞さんの記事も引用することがあったので、正直な話、あまり批判したくない気持ちはあります。しかし、今回の“場外戦”の産経新聞の記事は、意味不明で自己矛盾に満ちていて相当にひどいものです。
しかも、産経新聞が主張する4万3千人説の出所は、世界日報(統一協会機関紙)であると強く推測されており、見過ごすことができないものです。カルト団体の主張を日本社会で吹聴することは断じて許されないことだからです。
よって、私は新聞は取っていませんし、地上波のニュース番組も見ません。(自称右翼のくせに、CSの朝日ニュースターは楽しみに観てます)
個人でビジネスをやっていますが、Googleニュースだけで十分、仕事上もぜーーんぜん不都合無いです。
一歩踏み込んだ知識を得たい時は、(貴サイトも含め)“時事問題に自身の視点、視座、感性で斬り込む”的サイトを複数チェックして、そこで紹介、言及されていたりする、各々の分野のプロとされる機関、人々のサイト、資料、著書から得るようにしています。
ところで、既存マスメディアOBには、非常に果敢で有能なジャーナリストが決して少なくないです。 つまり、残っているのはヘタレパラサイトばかりということ。
販売部数という、一般企業においては売り上げに相当する、最も基本的な数字で“嘘をこく”ことで存続している、新聞社。(毎日新聞が、聖教新聞の印刷委託が無いと経営が成り立たないほど依存しきっている、とは業界では有名な話)
皇室より、同和より、在日より、電通タブーの支配下、呪縛下にある、テレビ局。
全部消滅しても、ぜーーんぜん困らない。
URL | rice_shower #UXr/yv2Y[ 編集 ]
いちばんひどかった時は、歴史関係の連載で年号を間違えていたり、産経抄でジェンダーフリーと少年少女の殺人事件と結び付けていたくらいですから。
産経記者のブログと今までの産経の報道をみる限りでは記者のレベルが低いといわざるを得ません。
URL | あああ #-[ 編集 ]
コメント欄に関して縛り(規則)が増えれば増えるほど、そのブログの未来は2つに限定されます。
ブログを閉鎖するか、コメント欄を閉鎖するか。
何でそうなるのかわかります?
何もない平和なブログなら、特にコメント欄に対して縛りを増やさなくてもいいからですよ。
縛りを増やすということは、それだけ殺伐としているってことです。
殺伐としてるなら、やっぱロクな末路にはならんわけで。
見たところしばらく見ない内に、いい感じにピリピリしてるみたいですね、定期的に。これはかなり『楽しそう』ですねぇ。
私はニヤニヤ笑いながら、このブログの行く末を見守ることにしましたよ。
まあ、経緯は違えど私と同じ末路は辿らないようお気をつけくださいな。
URL | 鞍縞 #-[ 編集 ]
>私は新聞は取っていませんし、地上波のニュース番組も見ません。
>個人でビジネスをやっていますが、Googleニュースだけで十分、仕事上もぜーーんぜん不都合無いです
仰るとおり、事実の報道だけなら、新聞を購読する必要はないかもしれませんね。
ただ、ネット上に出ていない解説記事も結構あってそれがなかなか良いできだったります(このブログでもネット未掲載の解説記事を引用したりしています)。ネットと異なり、紙面ですと重要度(1面か否か、記事の位置)が分かりますし。
新聞記事を基にすることが多い、このブログとしては、やはり「新聞を購読しよう!」とお勧めしておきます。
>これでも産経はライブドア事件の後まともになったほうです。
……(^^ゞ
そ、そうだったんですか。情報ありがとうございます……。もうなんか、なんとも言いようがない気持ちになりますね。
>コメント欄に関して縛り(規則)が増えれば増えるほど、そのブログの未来は2つに限定されます。
>ブログを閉鎖するか、コメント欄を閉鎖するか。
>何でそうなるのかわかります?
>何もない平和なブログなら、特にコメント欄に対して縛りを増やさなくてもいいからですよ。
>縛りを増やすということは、それだけ殺伐としているってことです。
なるほど〜。「ブログを閉鎖するか、コメント欄を閉鎖するか」のどちらかというのは十分にあり得ることですね。
でも、このブログは、ブログを閉鎖することも、コメント欄を閉鎖することもしませんよ。コメント承認制にしてますので、「荒らし対策」としてはそれで十分です。
それに、法律論は元々争いがあることは必然ですから、法律論を明快に主張することに努めている以上、殺伐とすることは回避できません。
だいたい、ネット以外の法律の世界は、もっと殺伐としてますよ〜。軽率な法的アドバイスは損害賠償責任が生じますし、下手をしたら生命身体の危険さえ生じますから。
>私はニヤニヤ笑いながら、このブログの行く末を見守ることにしましたよ。
>まあ、経緯は違えど私と同じ末路は辿らないようお気をつけくださいな。
アドバイスありがとう。ブログを閉鎖することも、コメント欄を閉鎖することもしませんので、ご安心下さい。
でも、鞍縞さんが「ニヤニヤ笑いながら」というのは、鞍縞さんの素直な性格からするとちょっと想像し難いですけど。これからもコメントお願いしますね。
沖縄県知事も先頭にたって、県民の声を伝えようとする営みへの批判方法としては、私は姑息にすぎるように感じます。
>産経新聞や「つくる会」のメンバーがネットを使って集会参加者数に関心をそらそうとすいるのは、戦争の史実を伝えようとする大きな波への危機感ではないでしょうか?
仰るとおりだと思います。「日本軍が集団自決を強制していない」としたいという意図で、集会参加数を捏造したという誹謗をしているのだと思います。
戦時中の教育、しかも米軍が上陸し戦場となっている中で、手榴弾を渡されれば、住民側が「集団自決を強制された」と感じるのはごく自然なことなのですけどね。なお、文藝春秋12月号の「沖縄集団自決 母は見た 軍による強制はあったのか?」(佐藤 優/佐藤安枝)には、そのような趣旨のことが書かれています。
「集会参加者数」も「史実」のひとつだと思います。
その点でいえば、参加人数について議論が起こるのも当然だと思います。
大会終了後も人の波が絶えなかったということですが、大会当日、大会会場の隣でジャニーズタレントのコンサートが行なわれており、4000人のジャニタレファンが集まりました。
のべ人数で考えると、「集会参加者数」は8000人分差し引く必要がありますね。
URL | 通りすがり #EBUSheBA[ 編集 ]
>はじめまして。
丁寧にありがとうございます……とはいえますが。「通りすがり」がHNですからね〜。はじめてか否かは、読者にはさっぱり分からないと思います。
>「集会参加者数」も「史実」のひとつだと思います。
>その点でいえば、参加人数について議論が起こるのも当然だと思います。
参加人数は、警察発表か主催者発表を引用するのがごく一般的な方法です。この2つを信じないのであれば、独自の調査をすべての集会で常に行わないと、一貫した報道が不可能になりますし、もしこの2つを疑うのであれば、将来のみならず過去の集会もすべて見直す必要が出てきます。ここまで行うだけの労力は無駄ですので、「参加人数について議論が起こるのも当然」だとは思いません。
「産経抄」が引用した4万3千人の出所は、世界日報(統一協会機関紙)であると推測されています。しかし、カルト宗教の言うことなぞ、全く信用できません。日本人とカルト宗教の調査とを比較した場合、日本人の調査を信用することは当然のことです。
>大会終了後も人の波が絶えなかったということですが、大会当日、大会会場の隣でジャニーズタレントのコンサートが行なわれており、4000人のジャニタレファンが集まりました。
>のべ人数で考えると、「集会参加者数」は8000人分差し引く必要がありますね。
隣でジャニーズタレントのコンサートを開催していたのか否かもう忘れてしまいましたが、もし隣でコンサートをしていても、差し引く理由にはなりません。隣でコンサートしていた人たちを間違えて大会に参加したと算定したのか不明ですし、また、両方参加した人がいたとしても大会に参加したという事実は変わらないからです。
隣でコンサートがあったから、そのコンサートの人数をすべて大会参加人数から差し引くだなんて、そのストイックさには、とても付き合う気にはなれません。
>そのコンサートの人数をすべて大会参加人数から差し引くだなんて、
>そのストイックさには、とても付き合う気にはなれません。
「5万人でも10万人でもどっちでもいいじゃないか」と言っている人に対して批判が起こるのは当然だと思いますよ。
URL | 通りすがり #-[ 編集 ]
2008/03/18 Tue 15:01:15の通りすがりさんとは別の方ですね。
>「5万人でも10万人でもどっちでもいいじゃないか」と言っている人に対して批判が起こるのは当然
本当に「当然」ですか? いかなる根拠で、当然といえるのですか?
もう一度触れておきます。
参加人数は、警察発表か主催者発表を引用するのがごく一般的な方法です。この2つを信じないのであれば、独自の調査をすべての集会で常に行わないと、一貫した報道が不可能になりますし、もしこの2つを疑うのであれば、将来のみならず過去の集会もすべて見直す必要が出てきます。
警察発表か主催者発表の調査方法を使うという前提を採るのであれば、仮にその結果が疑わしいと思ったとしても信用せざるを得ないのですから、「5万人でも10万人でもどっちでもいい」という考えも十分に可能です。
もし、警察発表か主催者発表の調査方法を使うという前提での「5万人でも10万人でもどっちでもいい」という考えを批判するのであれば、警察発表か主催者発表以外の調査方法を一貫して行い、過去の参加人数の見直しを行うという覚悟を示すべきです。しかし、そんな覚悟を示した新聞社はどこにもありません。産経新聞の記事でさえ。
ですから、「『5万人でも10万人でもどっちでもいいじゃないか』と言っている人に対して批判が起こるのは当然」だとは思いません。
なぜ、こうして参加人数へこだわる人が出てくるのか、正直戸惑います。太平洋戦争末期の沖縄戦で住民に集団自決を命じたと虚偽の事実を著書に書かれたとして、元日本軍隊長らがノーベル賞作家で「沖縄ノート」の著者大江健三郎さん(73)と出版元の岩波書店を相手に出版差し止めや2000万円の慰謝料などを求めた訴訟の判決で、大阪地裁(深見敏正裁判長)は3月28日、「集団自決に旧日本軍が深くかかわったと認められる」とした上で、名誉毀損は成立しないとして請求を棄却しました。↓
「沖縄戦集団自決訴訟:大阪地裁平成20年3月28日判決は、日本軍が深く関与したとして、元守備隊長らの請求を棄却」
http://sokonisonnzaisuru.blog23.fc2.com/blog-entry-985.html
本判決が「集団自決に旧日本軍が深くかかわったと認められる」と判断した以上、元隊長らの一方的な主張をよりどころにして教科書検定を行った文科省は、反省と検証を迫られることになりました。このように、もはや明らかに次の段階に進んでいるのです。参加人数へのこだわりは虚しい議論です。
>参加人数へのこだわりは虚しい議論です。
裁判がどの段階に進もうとも、どんな結末を迎えようとも、「参加人数」の問題からすれば「場外戦」に過ぎません。
(「虚しい議論」という感想が出てくることは当然だと思いますが)
集会等の参加人数については、一貫した調査方法を確立することは困難ですし、集会を開くたびにいちいち参加人数を詳細にカウントすることは現実的ではありません。
つまり、よほどのことがない限り、「参加人数」は「妥協の産物」でしかないわけです。
それなのに、その数字が「歴史の事実」として一人歩きを始める。
そのことに対して批判が起こるのは当然だと言っているだけです。
「5万人でも10万人でもどっちでもいい」と言いながら、同時に「県民の10人に一人が集結した事実は重い」と語る人間をどう思いますか?
もしくは、「主催者が10万人だと言うんだから10万人で間違いない」とか。
「主催者発表をもとにしているのだから問題ない」という人も当然いるでしょうが、「丼勘定すぎやしないか?」などといった批判も当然起きてくるとは思いませんか?
「将来のみならず過去の集会もすべて見直す必要」が出てくることを心配しておられるようですが、そんな心配は必要ないと思います。
すべての犯罪を取り締まるのが不可能だからといって、警察や司法関係者の存在が無意味になったりはしませんし。
余談ですが、「テレビの視聴率」あたりが、「参加人数」の件と似た例として適当でしょうか。
どっかの調査会社の調査結果を「信用せざるを得ない」にも関わらず、その調査に対して批判が起こることも当然ありますよね。
URL | 通りすがり #sDjeNLCU[ 編集 ]
このエントリーは、色んな通りすがりさんばかりコメントされるので、なんだかな〜と感じがします。別に嫌がらせしているわけでもないのですから――嫌がらせを認めるわけではないですけど――、普通のHNでもいいと思うのですけどね。
>よほどのことがない限り、「参加人数」は「妥協の産物」でしかないわけです
そうですね。主催者の発表は誇張が入っているのではないかという疑問は常に付きまとうことは確かですが、そういう疑問も暗黙のうちに了解しつつ、主催者の発表という( )を示してその参加人数を使うわけですね。
>それなのに、その数字が「歴史の事実」として一人歩きを始める。
>そのことに対して批判が起こるのは当然だと言っているだけです。
主催者発表による「参加人数」は「妥協の産物」なんですよね? それを認めてしまっている以上、主催者が発表した「数字が『歴史の事実」として一人歩きを始め」ても、それもまた認めるしかないと思いますけど。それもまた、「妥協の産物」ではないかと。
>「5万人でも10万人でもどっちでもいい」と言いながら、同時に「県民の10人に一人が集結した事実は重い」と語る人間をどう思いますか?
う〜ん。ともかく、私の立場としては、このエントリーで引用した東京新聞平成19年10月10日付朝刊28面「こちら特報部」からすると、主催者発表の人数には合理性があるという立場です。ですから、「5万人でも10万人でもどっちでもいい」と思っているわけではありません。
また、相当な人数が集まって抗議の意思を示した点が重要であって、「県民の10人に一人が集結した事実」があるから「重い」という意識でもないのです。
だから、「『5万人でも10万人でもどっちでもいい』と言いながら、同時に『県民の10人に一人が集結した事実は重い』と語る人間をどう思いますか?」と言われてもね……という感じです。それに、これに答えると、きっと、どこかのブログを批判することになるのでしょうから、ちょっとお答えするのは避けたいですね。
>「将来のみならず過去の集会もすべて見直す必要」が出てくることを心配しておられるようですが、そんな心配は必要ないと思います
なぜ気にするのかというと、恣意性を排除した公平性のある資料であって、統一的な資料であるべきだと思うからです。
参加人数は主催者発表(又は警察発表)を一貫して使ってきたわけです。どの集会であっても。それをある集会だけ怪しみ、どこかの調査機関が事後調査するとなったら、なぜその集会だけ怪しむのか、恣意的ではないかと、疑義が生じてしまいます。これでは、公平性が担保できません。
主催者発表は水増しもあるのではとの疑問も込みで、それを統一的な資料としているのに、ある場合だけ使わないとなると、統一的な資料にならなくなります。。また、ある場合の集会だけ怪しみ、その調査機関を変えるのであれば、なぜある場合だけ怪しむのか、調査機関の妥当性は誰が担保するのか、となってしまいます。本当に別の調査機関の結果の方が正しいのか分からないのです。
このように恣意性の排除、公平性、資料の統一性といった理由から、ある場合だけ参加人数を疑問視して変更しようとしたり、主催者発表や警察発表以外の調査機関で参加人数を調査することには反対なのです。
>余談ですが、「テレビの視聴率」あたりが、「参加人数」の件と似た例として適当でしょうか。
例が適切かどうかを議論すると、どうしても議論がずれてしまうので、お答えするのは控えさせて頂きます。
>このように恣意性の排除、公平性、資料の統一性といった理由から、
>ある場合だけ参加人数を疑問視して変更しようとしたり、
>主催者発表や警察発表以外の調査機関で
>参加人数を調査することには反対なのです。
それでは、あまりにも及び腰すぎやしませんでしょうか。
そもそもの「主催者発表」自体に公平性がないのですから。
それに私は、「主催者発表」という「統一的な資料」自体を変更する必要があると言っているわけではないです。
「何について統一されているか」という部分を意識して使う分には、「主催者発表」も有効な資料だと思いますよ。
「主催者発表は○人だった。では実際は何人だったのか?」
学生やヒマ人がそういうことを調べて見解を述べることは、そんなに不思議な行為でしょうか?
(イベント会場内の人の流れや、混雑の発生原因などといった、人間の集団行動を研究する学問分野もありますよね)
主催者発表が一人歩きした結果、「会場まで来れなかった人も合わせると11万人どころではなかった」とか、さらには「20万人いたかもしれない」などと公然と発言する政治家も出てきているのです。
そういったことに対して疑問の声が出てくることさえも不思議なことでしょうか?
(わざわざ疑問の声を出す必要は無いと考えることも一般的な態度だと思いますが)
URL | 通りすがり #KnHW2vQ.[ 編集 ]
>>主催者発表や警察発表以外の調査機関で
>>参加人数を調査することには反対なのです。
>それでは、あまりにも及び腰すぎやしませんでしょうか。
>そもそもの「主催者発表」自体に公平性がないのですから。
主催者は利害関係者ですから、最も参加人数を知りうる立場にいるわけですから、一定の信用性があるわけです。その信用性がある側の発表を覆そうとするから、覆す側には相当の信用性が必要となり、公平性や恣意性に問題がないか問題になるわけです。
ですから、「主催者発表」自体に公平性がないか否かは、主催者には一定の信用性があるため、あまり問題にならないと思います。
>「主催者発表は○人だった。では実際は何人だったのか?」
>学生やヒマ人がそういうことを調べて見解を述べることは、そんなに不思議な行為でしょうか?
別に調べることは自由です。ですが、「学生やヒマ人がそういうことを調べ」ても信用性がないため、公式な人数として引用されることはないということになりますが。それでもよければですが。
>主催者発表が一人歩きした結果、「会場まで来れなかった人も合わせると11万人どころではなかった」とか、さらには「20万人いたかもしれない」などと公然と発言する政治家も出てきているのです
色々いろんなことを言う人はいるでしょうね。政治家なら余計に色々言うのでは。「参加者はもっと多かった、いや少なかった」とか。
ただし、公式な発表は主催者及び警察発表だけですから、他は単なる主観的な見方というだけのことです。その政治家の意図は分かりませんが、特にその政治家の言う参加人数は気にしなければよいというだけでいいのでは?
元々、参加人数を疑問視したのは産経新聞であり、当初、「正しい参加人数はもっと少ない」と述べたその出所は「世界日報」でした。産経新聞だけならまだしも、「世界日報」では怪しすぎて、それだけで信用性ゼロです。この沖縄県大会での参加人数問題は、信用性ゼロの「世界日報」が出だしであるだけに、冷ややかな感じになってしまうのです。
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