【ここからヘッダーメニュー・グローバルメニュー】
ヘッダーメニュー・グローバルメニューをとばしてメインコンテンツへ
【ここからメインコンテンツ】
伊藤博章先生の講義風景
淀屋研究会は4年前に活動を始め、昨年(平成18年)に組織化して会員制にしました。昨年は「淀屋展」を4回開催し、延べ1600人が来場されました。大阪市の關淳一市長もお見えになりました。今年は5月に「淀屋サミット」を予定しているほか、テレビでの紹介や、3年後は映画化も企画中です。大阪市立大学の故・横山三郎先生、郷土史研究家の後藤捷一さん、そして、新山通江先生の調査と見解を中心に、淀屋の初代と2代目が大坂にどのような貢献をしたかということについて、私の考えも交えてお話ししたいと思います。
淀屋は日本国内より、むしろ海外で有名です。淀屋はオランダと交易をしていたので、当時オランダ領だった、現在はベルギーのアントワープ歴史博物館に紹介されています。イギリスのロイド社とも関係がありましたし、先物取引で世界一のシカゴは、淀屋の米相場を手本にしたことはよく知られています 。
淀屋の初代・常安(岡本三郎右衛門)が生まれたのは1560年前後で、1590年代に世の中に躍り出ました。そして、5代目で大きくなりすぎたため、幕府により闕所になりました。淀屋は、岡本家以外に常安町家・大川町家・斎藤町家・大豆葉町家など分家がありましたが、ほとんどが絶家して、現在は東京に大豆葉家が残っていて13代目だそうです。
淀屋は闕所で終わったと考えられていましたが、20年前、鳥取県倉吉市でお墓が発見されました。闕所を予感した4代目・重当が、倉吉で秘密裏に暖簾を掲げて米屋を開き、牧田仁右衛門を当主として派遣していたのです。倉吉は大坂から比較的近く、美しい城下町で、鉄なども採れたので、店を開くのに都合がよかったようです。
岡本家5代までが前期淀屋、牧田家がつくったのが後期淀屋です。前期の5代目・広当は14歳で当主となり、20歳過ぎで店を潰され、35歳で自分の墓をつくって旅に出ました。
牧田家の2代目当主は大坂に来て、息子に岡本家の娘をめとらせ、4代目から淀屋清兵衛という名前で本家を継ぎ、現在の淀屋橋の、住友本社ビルやミズノの西側あたりにいました。大坂の町年寄にもなりましたが、幕末、8代目で店を閉じて討幕運動に参加し、自分の生活費として財産の1割を残し、残りの9割は朝廷に献金しました。
淀屋の事業を一言で言うと、米市を主体とする多角経営、日本と大坂に対するハード・ソフト両面での貢献、そして、未曽有の財産と百万石大名なみの威力と言えるでしょう。淀屋が絶えた後、住友・鴻池・三井など財閥が日本をリードしましたが、淀屋はそれをはるかに超える財産を持っていました。融資していたお金だけで、1両を6万円として現在のお金に換算すると、100兆円だったと言われています。それだけに力もあったので、幕府も放っておけないと考えて闕所になったのだと思います。
初代常安(1560〜1622)は、豊臣秀吉が毛利や橘川に命じて、淀川の堤防を整備させた時、木津川・宇治川が合流するところにあった小倉池をせき止めて、5kmに亘って土手を整備しました。童門先生のお話にあったように、堤防に生えていた松の木の枝を取り払って、1本だけを残し、その上から工事の采配を振るいました。6400人が働いて期限通りに堤防を完成させるという見事な工程管理でした。その時、波消しに「じゃかご」を使っていました。これはオランダの技術だと思います。明治になって、オランダからやってきた治水技師のヨハネス・デ・レーケが、淀川の堤防を見てその技術の高さに驚きました。そして、300年前からあると聞き、大阪では何もすることはないと、岐阜に向かったそうです。
1596年には大きな地震が2回あり、洪水で堤防が決壊しました。責任を感じた常安は、身代を投げ打って、住民に、土を1俵持ってきたら米1俵と交換するとお触れを出しました。それを聞いた石田三成が、商人にそういうことをさせてはいけないと、大坂城の米蔵を開けたといわれています。常安はそういう潔さを持っていました。
1601年に伏見銀座をつくりました。大坂の通貨は銀、東京は金でした。その後、銀座は伏見から京都、敦賀、江戸に移りましたが、常安の名前が出てきます。
最も大きな業績は中之島開拓です。今の中之島はビジネス街ですが、当時はヨシの生えた湿地帯でした。伏見城の工事、淀川の工事、中之島の工事を考えると、非常に高度な土木建設技術を持っていたと考えられます。
当初は、今のミズノと御堂筋の間にある米市の碑のあたりから、中之島の蔵屋敷まで船で渡っていましたが、不便なので橋を架けました。それが淀屋橋です。当時の御堂筋は、現在より少し西側の、玉江橋あたりを走っていました。肥後橋のところにある常安橋は、淀屋橋より後でできました。最近まで、その近辺に常安町という地名が残っていましたが、常安はそこで隠居し、娘と暮らしていました。淀屋の邸宅は、淀屋橋を南に下ってすぐのところにあり、100間四方、つまり180m四方の広さがあったと言われています。
中之島にはたくさんの蔵屋敷ができ、現在の大阪市役所と日本銀行大阪支店の前も、大名の蔵屋敷でした。蔵屋敷は多いときで125ありました。藩の蔵はつくってはいけないことになっていたので、名目上は商人がつくって、大名はそれを借りていることになっていました。広島藩の蔵屋敷は後まで残っていたので、歴史博物館にも記録が残っています。最も大きかった鳥取藩は、最後の将軍15代将軍のお兄さんが藩主で、32万石、江戸城では一番高いところにいることができました。
常安は、惣年寄の地位をもらいました。当時、江戸の人口100万人のうち、半分の50万人が武士で、残りの50万人が商人その他でした。一方、大坂には武士がほとんどおらず、大坂市中元締め役の惣年寄が行政の世話をしました。ところがこれは世襲なので、常安の後妻の息子が継ぐことになり、3代目以降は選挙で選ばれる町年寄になりました。
常安は、大坂冬の陣・夏の陣での尽力に対する褒美として、中之島を開発する許可をもらいました。江戸時代の古地図では、武家屋敷には全部名前が書かれていますが、町人の家には名前がなく、町名だけしか書かれていないので、はっきりしたことはわかりませんが、一説には淀屋の屋敷は2万坪だったと言われています。心斎橋筋の広島銀行から御堂筋、今の住友ビルあたりも家でした。いずれにしてもすごい財産です。
3代目・4代目以降は、生まれたときから大変な大金持ちでしたが、常安は莫大な財を築いても、信心深く質実剛健で、1619年に夫婦で剃髪しています。今で言えば技術系の社長で、儲けを考えるより、才能を発揮してユニークな発想をし、先を見る目がありました。お庭番、つまり隠密をつくったのは、将軍吉宗といわれていますが、淀屋はそれ以前から隠密を使い、全国から情報を集めていました。だから、先を読む力は、情報に裏づけされたものだったのです。現在でも、なにか新しいことに挑戦しようとすれば、できないことを恐れた反対と、リスクに対する反対など、いろいろな反対があります。当時もそのようなことがあったと思いますが、常安は信念でやろうと思ったことは、必ずやりました。
伏見城を建てた時の、大きな石を穴に埋めるという発想は、費用と人件費の大幅な節約で、みんなが驚きました。そして、大坂の陣で本陣を提供するのも、非常に短時間で行いました。家康と秀忠に、それぞれ本陣を贈りましたが、短期間でありあわせのものでつくったのです。これに対する家康の褒美が、大坂夏の陣の後の、死体の後始末です。これは、常安が儲けるためにしたと批判する人もありますが、きちんと弔いをしてから行っています。松平忠明が大坂を構築した時、大坂城が焼けて大変など時にも工事を買って出ました。
私見ですが、常安はオランダと行き来していましたので、ヨーロッパ人のJoanとかJoannaという名前から、常安という号をつけたのではないかと考えています。
常安の長男・言当(1576〜1643)は、大坂のために尽くしたことで表彰されています。言当は、青物市を自宅に作りました。現在、天満にある青物市跡はそのうち3回目のものです。ご承知の通り、大坂城は1580年に焼かれ、秀吉が再建したものですが、淀屋は最初、大坂城の中に自分の土地を持っていました。ところが1614〜15年の大坂冬の陣・夏の陣で全て焼けてしまいました。
言当はまた、現在の靱公園のあたりに雑魚場市という干物の市をつくりました。商業地帯である河岸の造成からすべてを行いました。言当は常安のもとで学んできたので、土木技術も確かなものを持っており、堀の開削事業も手がけました。そして、最大の功績は淀屋橋の米市でした。闕所する前の1697年4月30日、重当が亡くなり、その秋に米市は堂島に移りました。全日空ホテルの南側の川岸に、米市跡の碑が残っていますが、米市は堂島に移ってからも、明治までは正月4日の仕事始めはここで行ったそうです。米の取引は加賀藩から始まりましたが、徳川家康から許可を得たのをいいことに、悪い操作をして値段を吊り上げることもありました。しかし、中之島に市をつくったことで、全国に蔵屋敷ができ、中之島で全国の米を扱うようになりました。
北前船の先鞭をつけたのも言当です。大坂と加賀藩を船で往復するうち、海運業を行うようになりました。福井県に残っている記録には、地元でつくった船で米を運びたかったが、大坂の船には敵わなかった、と書かれています。こうした地方との交易は、地方を活性化した業績であるともいえます。
当時、日本は世界の3分の1の金を輸出し、それと引換えに生糸や硝石を輸入していました。日本の金はスペインの王族の維持費に役立ったといわれています。その際、大坂は糸割符を扱えませんでしたが、言当が長崎奉行に掛け合って絹の糸割符に加入しました。
言当の終わり頃から、参勤交代や鎖国でお金に困窮する大名が次々出てきました。淀屋はそういう大名への貸付を始め、最終的な貸付額は100兆円にものぼりました。
言当は、岩清水八幡宮や妙心寺などの神社仏閣への寄進や、「寛永の三筆」と言われた、松花堂昭乗・近衛信尹・本阿弥光悦など、寛永の文化人のスポンサーにもなりました。天皇家の子供を養子にしている近衛家とも親しくお付合いしていました。4代目・重当はさらに神社仏閣への寄進をしました。
茶人や造園家として知られた武将の小堀遠州とも親しく、茶会を2200回催しました。また、沢庵和尚、大徳寺の江月和尚、京都詩仙堂をつくった文人の石川丈山、歌人の佐川田昌俊とも仲良くしていました。芸術・文化への造詣も深く、書画のコレクションも有名で、自身でも鳥獣戯画で自画像を描くほどでした。そして、茶・書・戯画・連歌などの会を催し、公家が泊まる場所もつくっていました。
権力に迎合せず、男気があり、行政へのお世話をして大坂のために尽くしました。惣年寄の代表として徳川家光に会ったとき、「家光様は生まれつき将軍だが、家康様や秀忠様は途中でなった」と集まった大名の集で言いました。その後、家光が大坂に来て、商人の税金をただにしました。ただし、実際には莫大な御用金を取られたのですが。また、惣年寄を集めて、何か希望を聞いてやるといわれたとき、他の惣年寄が名字帯刀を許して欲しいと願い出たのに、言当だけは「淀屋で結構。何もいただきたいものはありません」と答えたそうです。それほど、偉い人にも堂々とものを言い切ったのが、後の闕所の遠因になったという人もいます。
4代目・重当は、幼い頃から大変優れていました。14歳のとき、守口の佐太天神宮に正面の拝殿や、石井筒を寄進しています。永平寺には表装を寄進しています。また、東大寺にも若いときには石垣をつくり、37〜8歳のときに二月堂の梵鐘を寄進しています。妙心寺は、祖父の代から、11人の僧に対して多額の経費を寄進しました。
37歳の時、京都の堀川塾で勉強してい大石内蔵助に付合って、1年間一緒に学びました。そして、21歳で選挙によって町年寄に当選しています。重当は幕府と対等という姿勢は崩しませんでした。新山通江先生によると、重当の先妻と後妻、子供5人が全部同じ年に亡くなったのは、殺されたのではないかということです。淀屋がつぶれた後、鴻池などの両替商が大きくなっていきましたが、それは幕府の目を気にして、うまく変わったからです。
重当は農業革新にも熱心で、鉄製の稲扱千刃(いなこきせんば)という道具を、鳥取県倉吉で初めてつくりました。パリの博覧会にも出品するほど優れたものでした。それまでも竹製のものはありましたが、重当は、倉吉で採れる軟らかい鉄を利用してつくり、後に福井や静岡でもつくるようになりました。ただ、倉吉から持ちこんで売るのではなく、修理にも行きました。
倉吉には、十字架のあるいわゆる隠れキリシタンのお寺もありましたが、そういうお寺の庇護もありました。『貞観政要(じょうかんせいよう)』という、100年を超えて家を守ることを書いた中国の本があり、家康や天皇家が子供に読ませていますが、重当はそれを実践しました。重当が17歳だった1651年、由井正雪が幕府の転覆を図った「由井正雪事件」が起きました。その時、淀屋に駆け込んできた賊を追って、奉行所の追っ手が来ました。しかし重当は、賊が来るはずがないといって、追っ手を家に入れませんでした。淀屋は、奉行所から罰として蔵を1つ潰せと言われ、48のうちの1つを潰しましたが、それだけでも家が2〜3軒建つほどのものでした。
27歳の時、大名の側室の娘と結婚しました。側室といえども、商人が大名の娘を嫁にもらうのは大変なことで、町に行列ができたといいます。重当は人の信頼が非常に厚く、若くして亡くなりましたが、三十三回忌の時に学者が詩を献じるほどの人物でした。
5代目・広当が22歳の時、淀屋は闕所になりました。財産を全て没収され大坂から追放です。おそらく、京都か奈良に行ったのでしょうが、4年経ったら江戸に行って知人宅に身を寄せ、10年で恩赦になりました。その時、土地の一部は返してもらいましたが、他の財産は一切返してもらえませんでした。広当は二条綱平の烏帽子親でした。当時の淀屋は、千石船を150隻持ち、淀川を押さえ、船を押さえていました。財産は桁違いです。しかし、遊郭に連れて行く者もいて、それを理由に店を潰されました。銘のつくもの刀は700腰、それ以外に徳島県にたくさん持っていた刀もすべて没収されました。
因みに、淀屋は代々みんな180cmの大男だったそうです。
伊藤博章先生の講義風景
淀屋は、江戸前期1600年から1700年までの日本経済全体の牽引役になりました。大坂を日本一の商都にした未曾有の豪商でした。どこの家系にも、何代も続くうちにはいろいろな人がいます。1705年、5代目で闕所となり、倉吉で暖簾をつないで59年後、大坂の淀屋橋を買い戻して再興しました。倉吉でも、淀屋は「位は3番、お金は1番」といわれていました。倉吉の近くにあった天野屋という家と一緒に決起して討幕運動に参加したといわれています。淀屋は、闕所以前は日本一の豪商でしたが、天保時代の番付では、二十何番目にやっと淀屋清兵衛が出ています。しかし、清兵衛も大坂城修理の際は鴻池よりも多額の寄付をするなど、いろいろ社会のために尽くしました。そして、幕末に自ら店を閉じて、財産の9割を朝廷に献上しました。
1697年以降、米の値段は堂島まで決まりました。淀屋が幕府から最も文句を言われていた先物取引も、1730年、徳川吉宗がとうとう公認しました。しかし、結果的に幕府は大坂人を一切信用せず、江戸の商人3軒だけに先物取引を認めたときは、604人が署名をして半年でつぶしたと言います。こうして大坂は、100年間繁栄し、後は下降線を辿りました。
淀屋のすごさは、その財力と力、社会への貢献度、そして様々な新規事業への挑戦とその成功にあります。そして、栄華と悲哀の大きな落差と、謎の多さも注目すべき点です。
米の標準価格は、大坂で決まったものが地方に伝えられました。幕府は旗で伝えることを許可しなかったので、のろしなどの方法も使い、大坂の情報が山形県に届くのは2日半だったと言われています。米の値段が決まると、それにあわせて、麦や槙などいろいろなものの物価が決まります。特に重当がこのシステム構築に力を入れました。
そして、米経済は貨幣経済の発展を促しました。銀から金への交換のため、為替が発展しました。以降、鴻池・三井・住友の豪商は、いずれも両替商となってから大きくなりました。淀屋は、そのような近代的相場に先鞭をつけるとともに、農作業の効率化にも寄与しました。
常安と言当は、大坂の市街地づくりをし、全国の流通の拠点としました。天下の台所といわれた時の大坂には、全国の米の7割、貨幣の8割が集まりました。淀屋が闕所になり、後に大阪に戻ってきたときは、木綿屋など小粒の取引で全国には行きませんでした。それによって、大坂が扱う物資の量は3分の1ぐらいに減りました。
淀屋は、決して同業者をおさえて自分だけが儲けようとはしませんでした。同業者も自分たちについて来て儲けてほしいと考えて、軌道に乗った分野は他の業者に譲り渡し、自分は新しい分野を開拓していきました。それによって、国内外から大坂に富をもたらしました。行政に参画し、地域の発展に尽くし、信心深く、陰徳善事を施しました。そして、文化の向上にも貢献しました。
淀屋を研究していて私が思うのは、淀屋という地方の1商人だけでも、幕府に対抗して、国全体の物価を決めることができたのだから、現在の我々も、やり方次第で国のシステムを変えたり、創り出したりできるのではないかということです。今、夕張市と同じように困っている地方自治体はたくさんあると思います。勝手な言い方ですが、私は市を株式会社にすればいいと思います。そして、1つ1つの事業に株券を発行し、みんなが買えばいいのです。
また、淀屋は、シェア争いをするのではなく、パイを大きくする、つまり商圏を広げることを心がけました。東京は国全体のことを考えるから、関東地区をすべてお世話します。しかし、大阪は、近畿の他府県ともあまり仲が良くありません。別にお金を出す必要なないので、中国・四国・北陸・東海を含めた周囲の府県のお世話をすればいいと思います。例えば、ある家の長男が、元気のない弟たちの世話をしていけば、家全体が段々と裕福になっていく、そういう発想です。そして、情報収集力が大事です。
利益は一過性のものではいけません。儲かるシステムをつくらなければなりません。今の金融を見ていても、システムで自動的に儲かるようになっています。そして、利益は常に、社会に還元することを念頭に置くべきだと思っています。ロータリークラブの方々は、中小企業の役員の皆さんが個人でお金を出して、心からボランティアや出資をしておられます。何百億円、何千億円という会社の持ち主が、もっと日本全体のためにお金を出してもらえるようにする方法はないものかと考えています。
重当は特に、人から学ぶことを常にしました。企業間でも同じで、どんな小さな会社からも、小さな人からも必ず得るところはあります。
淀屋は闕所になって長い不況の時代に入りました。初代と2代は事業家だったというお話をしました。両替商は自然と儲かるものですが、そうではなく、ものをつくって世の中の役に立つことが、いつの時代でも非常に重要だと感じています。
淀屋の家で米の取引をしていたときは、毎日2000人が集まり、そのうち1350人が仲買、50人が両替商とそのほかの人々でした。そういう時代に、淀屋は保証書を書かせたり、前金を取ったりすることなど一切なく、信用だけで取引をしていました。そして、ミスもありませんでした。1705年に淀屋が潰れ、その後、木村蒹葭堂(きむらけんかどう)という豪商も出ました。そして、大坂の町人は、適塾や懐徳堂で江戸とは違う、独自の町人道を学びました。当時の大坂商人は、非常にモラルが高かったのです。
明治維新の時、大阪人のモラルが悪く、暴動が起きたといわれ、現在も大阪について、良くない話題ばかりが全国や外国に発信されています。これを、大阪府知事を始めとして、みんなで10年ぐらいかけて何とかできないかと思っています。
大阪の人口は1600年代に26万人、元禄時代には27万から33万人、一番多いときは、1750年で42万人になりました。その後、下り坂が続き、33万人まで減り、明治になってまた上昇しました。この人口の増減と比例するというつもりはありませんが、いずれにせよ、大阪人のモラルは、淀屋の栄枯盛衰がポイントであったのではないかと思っています。
ご清聴、ありがとうございました。
淀屋研究会 代表 伊藤 博章 氏