上記掲載写真は、ずっとやって来た、趣味の作曲とピアノ演奏で、20歳代の頃から出会って、ステディーに私の自作曲も含めてデュオの室内楽曲を合わせている仲間たちの一部との2ショットです。
左上から順に、クラリネットのはるひも、ピアノのコージ、ヴィオラのジャック、トランペットのリン、ピアノのタロウ、です。
私が年上だし、私の作曲作品を一緒に演奏するという絶対的に優位な立場なので、えーーーらそうに、ファーストネームやニックネームで呼び捨ててるんだけど、みんな私のことを慕って
くれてるし、私は彼らを全員尊敬しているのでいいのです。パリ音楽院卒業の奴もいるし、晩学で楽器を始めたアマチュアもいます。そんなことは室内楽を一緒に演奏することの
判断材料にはなりません。お互いの気分の一致が全てなのです。
そういった点では、室内楽を固定で合わせる仲間というのは、特殊な友情を超えた一体感で結ばれていて、その間には誰も立ち入れないものがありますね。
1994年に、母の介護のために、四国高松にUターンするまで、私は、早稲田大学政経学部経済学科に入学した1975年の18歳当時からずっと東京で『ピアノと遊ぶ会』を
アマチュア作曲家仲間と作って、作曲演奏活動をしたり、1979年に同大学卒業後、住友信託銀行に入社した頃から、室内楽に興味が移りましたので、
日本アマチュア演奏家協会(エイパ)理事として、200コくらいの演奏会を、東京、大阪でプロデュースしたり、「ピアノと遊ぶ会」の
関西出先サロンの『コンセールコスモ』というものを作って活動したり、クルド難民救済のためのチャリティコンサートを1991年に、
『ピアノと遊ぶ会』と『日本アマチュア演奏家協会』の共催でプロデュースしたり、1988年に東京御茶ノ水に出来た、カザルスホールの
アマチュア室内楽フェスティバルに出演する等、いろんな作曲、演奏活動をやっていました。
1980年、東京にいた23歳当時から、私は、フォーレの室内楽に本格的にのめりこむことになり、いろんな室内楽方面の活動に
入りました。
ですから、四国高松にUターンした37歳当時、私は、音楽活動の中でも作曲は続けようと思いましたけど、演奏活動はきっぱり
やめていました。理由は非常に簡単で、東京のように自作室内楽等を合奏できる力量のある、アマチュアの弦管楽器奏者が、
高松にはいなかったからです。
高松は東京にいた頃のように、固定の弦楽四重奏団や木管五重奏団をそれぞれ3組ずつ組んで、自分の作曲作品をやったりする
ことが出来るような状況ではありませんでした。
しかし、そうはなりませんでした。
早稲田大学政経学部経済学科の3年生と4年生の間、堀家文吉郎教授研究室で一緒にケインズを勉強した友人の平野憲一郎君が、
日経新聞岡山支局長として赴任してきて、さぬきうどんを食べに、高松の私のところに遊びに来たのでした。
2000年の年初のことでした。
彼は、岡山、高松、といった、いわゆる、備讃瀬戸内海沿岸地区のクラシック音楽文化水準が低いこと、ことに、
オーディエンスの水準、アマチュア演奏家の水準が、東京に比べて雲泥の差があることについて、厳しく指摘し、
大学時代から、あれだけ、東京でいろんな活動をしていた私が今、高松に住んでいるんだから、「演奏会をやろう。
俺が企画する。」と言うのです。
ずっと東京に住んでいたジャーナリストの彼にしてみれば、東京のアマチュアはすごいんだよ、ということを、岡山や香川
から出たことのない人たちに知らしめて、もっと自己啓発をうながさないといけないと感じていました。
もちろん、ただ、これだけのことならば、私も演奏活動を再開することはなかったのです。人それぞれ、音楽への嗜好は
違っていて当然ですし、毎日住んで暮らしている自然環境が東京のように殺伐としていない、気候温暖な、私の出身地の
備讃瀬戸内海沿岸の人達の、クラシック音楽を求める求め方が、東京と全く同じである必要はないと思いましたから。
が、決め手になった彼の一言は、「21世紀を担う若者で、備讃瀬戸内海沿岸に住んでいる若者のためにやれよ。」
でした。
この言葉は、大学時代からずっと東京で音楽活動を趣味として日常的にやって来た私には、決定的なインパクトになりました。
一流のプロのアーティストを東京から呼ぶのは、大変に、ギャランティーが高いので、なかなか、東京と同じ演奏会が日常的な
環境は、高松では実現できないために、若いアマチュアの人達の水準が上がらないことは明白でしたから。
実際、私自身、大学入学の際に上京して、いろいろ出会った、東京のアマチュア作曲家の水準の高さには舌を巻いて、
それが一番、自分の作曲活動や演奏活動をきちんとやろうと決意した動機になったことを思い出していました。
「そうだよなぁ。アマチュアなら、音楽はやりたくない人がやる必要は全くないけど、もし、やりたいと思った時、
アマチュアがどこまでやれるのか、18歳当時の私が持っていた不安を払拭してくれたのは、絶対、高松にはいないくらい
すごい、東京で出会った、素晴らしいアマチュアの先輩達だったよなぁ。」
時あたかも、ちょうど、21世紀になる時でした(笑)。
こうして、彼のプロデュースによる、「岡山デビッドホール・カムバックサロンコンサート・・・・・自作自演、ショパン、
シューマン、ドビュッシーと、フォーレの室内楽」が、2000年4月9日に開催され、その情報を聞いた、山陽テレビが私を
取材に来て、その流れから、いろいろなコンサートを、岡山と倉敷でやり、岡山県庁主催の「後楽園築庭300年祭」で、
江守徹さんと平野啓子さんの朗読との自作自演での共演をしました。
ことに、岡山県庁主催の「後楽園築庭300年祭」に出演した時には、年老いた母も、まだ、骨粗しょう症がひどくなる前でしたので、
高松市錦町在住の叔母が岡山まで連れてきてくれ、聴きに来ていた、平野君の友人の岡山ロータリークラブの皆様が案内してくれ
ましたので、2500人の聴衆のいるステージで、自作を母に聞かせられたことは、私にとっては、最後の親孝行になったと
思います。
特に、平野啓子さんの朗読した母親と息子の話を題材にしたメルヘン「ラブ・ユー・フォーエバー」に私がアレンジした
クラシックの諸作品をつけて演奏したものを、客席にいた母に聞かせられたことは、とてもよかったと思っています。
下記エッセイにて、このあたりのことなどはご覧いただけ、試聴も出来ますので、是非お試し下さい。
が、この自作自演演奏会の開催も、2002年頃から、母の具合が悪くなったため、中断せざるを得なくなりました。
私が、高松にUターンした目的は、母の介護でしたから、当然のことです。
演奏会のご依頼をお断りしても、また、ご依頼が来る時には来るものです。
ご依頼が来ないのは、自分の努力不足が原因であることなどは、太古の昔から決まっていることで、誰でもわかることですよね。
しかし、家に母を放置していて、もし、亡くなったりしたら、交換はききません。
演奏会をやっていたために親の死に目に会えなかったけれども、見事に演奏しきった、なんて、絶賛をする人が、時々、
いらっしゃるみたいですけど、こんな言い分は、親を無くした演奏者本人にとって、大変に失礼なことです。
突発事故による急死ならば仕方ないですけど、母の場合は、事前に、肝硬変の末期症状だということがわかっていましたから、
命が危ないことがわかっていて、そばを離れるなどということは、人間のやることじゃありませんね。
まあ、昨今は、人を平気で殺してもどうもない人達もいらっしゃるみたいですから、そういう人達には理解不能でしょうけど。
もちろん、人殺しをやらない人達においても、やっと解決してほっとした、私の住む香川県高松市の隣の坂出市の祖母と孫娘
2人の計3人が行方不明になっていた事件について、当初、被害者の父親を犯人として疑う風潮があって、ウェブ上のいろんな
ブログで面白半分な書込みが横行するような昨今の風潮に同調している人達は全員、理解できないことだと思いますよ。
私が一番呆れたのは、女優の星野奈津子さんが自分のブログに、「あれは絶対父親の仕業だよ!」「父親がいい!あんだけ
テレビで証言してるけど、実は犯人でしたって捕まるのが見たい!」という家族との会話を書き込んでいたことですね。
『あんだけテレビで証言してるけど、実は犯人でしたって捕まるのが見たい!』というようなことを、友達感覚で書かれたの
だそうですけど、では、この女等の世代の連中はみんな友達感覚では、
『あんだけテレビで証言してるけど、実は犯人でしたって捕まるのが見たい!』という感じ方が残酷だと思わないくらい、
人間愛の感覚が麻痺しているのだろうと思いました。
で、所属している芸能事務所の処分が、一年間の芸能活動停止なのですから、さらに呆れました。
収入を奪い取るだけだなんて、なんと、資本主義拝金主義のアメリカ的な処分の仕方でしょう。
かつて地域コミュニティーがしっかりとあった時代の考え方で行くならば、みんなで、こんな女は、その生存を無視しないと
いけないのですよね。こんな人間らしからぬ感想を持ったのですから。
でも、一年間の芸能活動停止のような、金銭授受で全てが解決しているから、一番最初に言ったような、
「演奏会をやっていたために親の死に目に会えなかったけれども、見事に演奏しきった。」なんて言い分が、絶賛で
まかり通っているのですね。
本当に、困った時代になったものですね。
さて、2006年9月19日の母の逝去の少し前に招待いただいて入会した、会員制SNSにて、たくさんの社会人になったばかりの、若いアマチュア室内楽愛好家
との出会いがあり、私のピアノの入る自作室内楽での共演が、高松にて開始されました。
オーディエンスの皆様は、既に、四国内だけでなく、東京、広島、岡山あたりから、高松で私が毎週週末の土曜日の夜7時
から自作自演コンサートをやっている、高松市林町「逸(すぐる)珈琲店」にいらっしゃって下さっていましたし、
2008年の頭から高松市内在住の、弦管楽器の皆様との共演は既にスタートしていました。
が、2008年4月末のゴールデンウィーク前後から、関西方面や、北海道からも、ご自身の演奏される、弦管楽器を持って、
私の住む四国高松まで、SNSで出会った若い人達が、いらして下さることになりましたので、私の一番やりたい、
ピアノの入る室内楽曲での、自作を含む共演が、日常的に出来る状況になりました。
はるか昔、私が22歳で東京にいた頃、大学を卒業して就職して仕事を続けながら、大好きな音楽をやってゆけるのだろうか、
という大いなる不安を抱えていましたが、社会人になったばかりの、弦管楽器を演奏している若いアマチュア室内楽愛好家
の皆様も、同じ状況にあることは間違いないことだと思っています。これに伴い、私のアマチュアとしての
作曲や演奏活動は、新たな段階に入りましたので、ホームページも、室内楽を演奏している、弦管楽器のアマチュアの人達
との出会いのきっかけの場を中心に、「Katsuhiko Okada Official Web Site」などという堅苦しい表現は回避し、
「Katsuhiko Okada Private Web Site」にしました。
また、この度、私のホームページ副題に添えた下記の言葉は、社会人になったばかりの、弦管楽器を演奏している若いアマチュア
室内楽愛好家の皆様に贈りたいと共に、室内楽を合わせるにあたり、私自身にも言い聞かせたい言葉です。
恍惚、不安、熱き心を忘れずに
クラリネットの杉藤君と(東京・田無) ソプラノの広田さんと(東京・目黒)
ドビュッシー「プレミエラプソディー」 岡田克彦「枕草子OP.46」
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
和声学と対位法を習得して、室内楽を作曲できる、絶対音感のある、アマチュア作曲家がいないと、絶対に開催できないスタイルのサロンコンサートです。
ピアノソロ(岡山後楽園) クラリネットの品田君と(東京・田無)
岡田克彦「全世代メドレーOP.83」 プーランク「クラリネットソナタ」
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
なぜなら、こういうサロンは即興演奏を入れないと出来ないからです。
藤原四重奏団と(埼玉・浦和) フルートの星名さんと(埼玉・浦和)
フォーレ「ピアノ四重奏No.1」 フォーレ「ファンタジー」
(写真クリックで演奏が聴けます。)
東京にいた30年以上前に、アマチュアで作曲をやっていた仲間の一部は、プロに転向してやられているようです。
ピアノソロ自作自演(倉敷) ピアノパロディー自作自演(岡山)
岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」 岡田克彦「指の戯れOP25」
より、『家路』 より、『華麗なる小犬のワルツ』
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
また、早稲田大学政経学部時代のジャーナリストになっている同窓生達からは、
「岡田君もプロの作曲家としてやったらどう。」と勧められます。
朗読家の平野啓子さんと(岡山後楽園) 朗読家の平野啓子さんと(岡山後楽園)
岡田克彦「『ラブ・ユー・フォーエバー』 岡田克彦「竹久夢二『お月様』
朗読のためにOP.87」 朗読のためにOP.84」
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
しかし、今だに私は、青臭い青春時代の気分を大切にしていて、自分の作曲作品がお金に換算されることに大変な抵抗があります。
チェロの三船さんと(岡山) ラヴィーヌ木管五重奏団と(埼玉・浦和)
フォーレ「夢のあとに」等 プーランク「木管ピアノ六重奏曲」
(写真クリックで演奏が聴けます。)
従って、私は私のやり方で、ずっと続けてゆきたいと思っています。
ピアノソロ自作自演(岡山) ピアノソロ自作自演(倉敷)
岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」 岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」
より、『吹上の朝』 より、『梅林橋の梅』
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
つまり、私の作曲の恩師、故.小倉朗先生から教わった最大の教訓の、
『作曲にプロもアマもありません。偽者と本物がいるのです。あなたは、ひたすら、本物を目指しなさい。』
という言葉を胸に確実にキープして続けてゆきたいと思っています。
ヴァイオリンの竹内さんと(東京・田無) クラリネットの品田君と(東京・目黒)
岡田克彦「ヴァイオリンとピアノのための 岡田克彦「クラリネットとピアノのための
ファンタジーOP.58」 ドメスティックなラプソディーOP.61」
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
一方で、旧知の日本アマチュア演奏家協会関西支部との交流を今年中に固めて、近場からぼちぼちやってゆきたいと思っております。
演奏曲目には必ず、私の生まれ育った香川県の民謡をアレンジしたものを入れて開催します。
時代は21世紀です。
ヨーロッパや東京の物真似だけに終始する時代は終わってもいいと、アマチュア作曲家の私は感じていますので(笑)。
さて、皆様ご高承のとおり、私の生まれ育った香川県は、空海(弘法大師)の生誕地であり、その空海が遣唐使で中国に留学した
折に出会った、うどんを郷里の香川県に持ち帰った約1200年前に始まった、さぬきうどんと共に香川県の人々は生きて来た
長い歴史に育まれた偉大な文化を培ってきた場所です。また、空海の死去後、空海を慕う弟子達によって確立された、
四国八十八ヶ寺巡礼も長い歴史があり、巡礼にいらっしゃるお遍路さんを接待するというしきたりは、昨日今日に始まった
ことではなく、様々な為政者の支配した歴史を乗り越えて、ごく日常的に続いています。
ピアノソロ自作自演(倉敷) ピアノパロディー自作自演(岡山)
岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」 岡田克彦「『口笛吹きと小犬』のテーマ
より、『講武射(こうぶしゃ)の芝生』 によるパラフレーズOP.59」
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
このような香川県で生まれ育ったことを私は誇りに思っております。
と申しますのも、私の一番好きな音楽作品である、J.S.バッハ作曲の『マタイ受難曲』よりも、さぬきうどんや四国霊場八十八
ヶ寺巡礼の方が、長い歴史に支えられているからで、このような歴史観に立って世の中を眺めると、建国してから歴史の浅い
アメリカの影響、特に、拝金主義やM&Aを広めた功績が、果たして、1200年後に残るのだろうか、という極めてアーティス
ティックな感覚でとらえることが出来るからです。
ピアノソロ自作自演(倉敷) ショパンのピアノソロ(岡山後楽園)
岡田克彦「組曲・武蔵野OP.28」より、『たき火』 ショパン「ノクターンOP.48-1」
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
私のホームページK.OKADAワールドは、国境も何もない音楽をベースにしていますので、宗教観も地域性も全くありません。
が、こうした歴史観に基づいて、空海(弘法大師)が1200年前に創設したさぬきうどんのことや四国八十八ヶ寺巡礼
に関する記述も、下記URLの、会員制SNSのGREEに執筆しておりますので、ご覧下さい。
作曲作品にどうしても出てしまう感性というものは、生まれ育った土地と不可分です。その点、私が生まれ育った高松市が、下記掲載写真
のように美しく穏やかな土地であったこと、そして、いつの日か私自身もこの土地に戻ることを本当に嬉しく思っています。
さて、私のホームページ入口は、BGMを、大好きな「浜辺の歌」(リンク先のWindy Midi ClassicsさんのアレンジしたMP3)にして、瀬戸内海のほとりの砂浜の穏やかな波の打ち寄せる
浜辺にしています。私の住む四国霊場八十八ヶ寺巡礼のお遍路さんの写真をクリックしてご入室ください。
ページを開くたびに、私の自作室内楽曲、歌曲、ピアノ曲や、自作、ショパンなどのピアノソロ、ピアノで私が加わった自作、
フォーレ、プーランク等の室内楽作品を、音楽エッセイ、曲目解説、活動コンセプト、
自作自演コンサート予定などのページのBGMとして聴けるようにしました。
ピアノソロ自作自演(倉敷) ピアノソロライブから(岡山後楽園)
岡田克彦「組曲・武蔵野OP.28」 サティー「ジムノぺディー1番」〜
より、『朝の情景』 J.S.バッハ「平均律vol.1-24」等
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
まずご入室になると、亡き母の大好きな曲だった、皆様よくご存知の、ラフマニノフ作曲の『パガニーニラプソディー・第18変奏』が、
リンク先、クラシック音楽のヴァーチァルMIDI制作のMP3にて流れる、総合入口にてお迎えするようにして
おります。
ピアノソロ自作自演(岡山) ピアノソロ自作自演(倉敷)
岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」 岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」
より、『晩鐘』 より、『小普陀(しょうふだ)』
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
もちろん、エッセイその他に、皆様よくご存知の、ショパン作曲『幻想即興曲 OP.66』の、2000年4月9日に岡山市デビッドホール・
サロンコンサートで演奏した時の、即興性溢れる(笑)ライブ収録演奏や、おかしな自作パロディーの『華麗なる小犬のワルツ OP.25-3』等や、
朗読家の江守徹さんや平野啓子さんと、岡山県庁のイベントで、自作自演などで共演した、2000年のコンサート共々、BGMに
添付して聴けるようにしています。
ピアノソロ自作自演(倉敷) ピアノソロ自作自演(倉敷)
岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」 岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」
より、『楓岸のギャロップ』 より、『日暮亭』
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
作曲家のピアノ演奏の端的な例として、気分でアドリブを入れて楽譜どおりには演奏していなかったり、指ではなく拳骨で
鍵盤を叩いています(笑)。
ピアノソロ自作自演(倉敷) ピアノソロ自作自演(岡山)
岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」 岡田克彦「チャルメラの響く夜OP.18-12」
より、『雨の掬月亭(きくげつてい)』 〔プレリュード第1集より〕
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
ピアノを演奏している方は、絶対に真似してはいけません、っていうか、出来ないだろうし、指を壊しちゃいますよ
(笑)。
周囲のピアニストの友人の注意などは一切無視(笑)!
『ぼくのピアノ演奏に不可能はない。即興性あるのみ(笑)!』
『ショパンも絶対ぼくの演奏スタイルを喜んだと思いますよ!』等と言ってうそぶいているのです(笑)。
ピアノソロ自作自演(倉敷) ピアノソロ自作自演(倉敷)
岡田克彦・組曲「南予の想い出」OP.48 岡田克彦・組曲「南予の想い出」OP.48
より、『遠くの風音』 より、『赤い海』
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
でもね、私の親しいオーディエンスの友人に圧倒的に多い、若い格闘技家や長距離ランナーの人達は、
『ぼくのピアノ演奏に不可能はない。即興性あるのみ(笑)!』なんて言うと、
「かっけぇーーー。」なんて声をかけてくれます。
ピアノは、ソロが基本にあって、一人で取り組む孤独な楽器です。作曲も孤独な作業だけど、ピアノソロもそうです。
だからこそ、「かっけぇーーー。」という感想は、孤独にストイックに格闘技に取り組んでいる格闘技家やマラソンランナーと、
孤独にストイックにピアノに取り組んでいるピアニストや作曲をやっている人間が共通に持っている、ある種のナルシシズムを絶賛する言葉として、
的を得たものです。
ショパンはそれを百も承知で作曲しています。
つまり、自分がアドリブや即興演奏をするように、自分が作曲した楽譜を見たピアニスト達もアドリブや即興演奏能力があると
いう前提で作曲して楽譜を残しています。
だからこそ、ショパンの作品に関しては、楽譜通りに演奏しても絶対に完成されない部分があるのです。
ピアノソロ自作自演(倉敷) ピアノソロ自作自演(倉敷)
岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」 岡田克彦「病床にてOP.55」
より、『鳳尾塢(ほうびう)』 より、『点滴の詩(うた)』
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
まあでも、そのようなピアノソロやパロディーに没頭していたのは、私自身が25歳になる前のずいぶん若い時期で、その後は、癒し系の室内楽曲やピアノ曲の作曲、
あるいは、J.S.バッハの作品の演奏に移行しました。
ピアノソロ自作自演(倉敷) ピアノソロ自作自演(倉敷)
サティー「ジムノペディ 第1番」 ふざけたアドリブ小品から、
〜岡田克彦『ガトーグラス』 岡田克彦『おまけ付き』
(組曲「8つのお菓子OP.45」より) (組曲「8つのお菓子OP.45」より)
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
従って、50歳を超えた今日では、若い覇気のあふれる共演者と出会った時に、「私にもかつてこういう時期があったんだよ。」
ということを提示する時以外には、あまり演奏しないようにしていますので、ホームページにおいても、隅っこに置くようにしています。
ピアノソロ自作自演(倉敷) ピアノソロ自作自演(倉敷)
岡田克彦「記憶の底の栗林公園OP.111」 岡田克彦「暗い情熱をこめてOP.31-7」
より、『三島一連の池の仙磯(せんぎ)』 (プレリュード第2集より)
(写真クリックで演奏が聴けます。) (写真クリックで演奏が聴けます。)
どうぞ、穏やかなひと時をお楽しみください。
K.OKADAワールド・総合入口へ
↓