YES & NO―星川淳グリーンピース・ジャパン事務局長余談
5 / 27   2008

二つの疑問

調査捕鯨鯨肉の業務上横領に関する告発は、サポーターを含めてグリーンピース(以下GP)を応援してくださる方々も、天敵のように忌み嫌う方々も、ともに驚かせたことだろう。東京地方検察庁がグリーンピース・ジャパン(以下GPJ)による告発状を正式受理し、証拠品の鯨肉一箱を引き取るまで、激励と非難が入り乱れて、GPJ事務所全体が対応に追われた。

想定内だったが、マスメディアが事態の全体像ではなく、GPの証拠品入手方法ばかりに焦点を当てたがることと、同じ傾向でのネットをはじめとする素人法談の噴出には、改めて日本社会について考えさせられた。そうしたなかでもっとも冷静な対応は、東京地検の検事が見せたものだった。横領されたと思われる鯨肉がどのように市場へ流れているかを含め、徹底的に問題の全体を洗い出したいと語り、GPJにも追加の情報提供を要請された。GPJサイトに掲示した「STOP! 鯨肉横領ホットライン」(ファクスによる)に、ぜひ情報を寄せていただきたい。

捕鯨関係者のなかでも心ある方々は、今回の告発でホッと胸をなでおろしていると思う。なぜなら、これで少なくとも南極海の調査捕鯨から撤退する正当な理由ができたからだ。

もともと調査捕鯨には迷惑顔だった外務省と環境省も、水産庁の暴走を牽制しやすくなったかもしれない。

私自身は、TVコメンテーターにも素人法談にも共通する二つの傾向に疑問を感じた。今回のGPJによる証拠品入手方法については、代理人弁護士連名による「法的見解」[1]でも刑事犯罪に問われるような重大な違法性はないとされている。したがって、以下はその点についての反論や弁護ではなく、あくまでも一般論であることをお断りしておきたい。また、この問題に関心のある方は、告発レポート[2]そのものの一読をお願いしたい。

[1] http://www.greenpeace.or.jp/press/ reports/rd20080520oc_html#legal

[2] http://greenpeace.or.jp/docs/oceans/wm2008/doss.pdf

まず、私たち日本人は法律を語るとき、政府も国民もフラットに見てしまう傾向があるようだ。おそらく、市民革命によって王権を倒したり、国民/市民の力で政府を交代させたりした経験がないせいだろうが、近代法の基本は王権を制限し、政府が王権に代わってからは政府の行為を制限する点にあったことを忘れている。日本国憲法前文の主語が国民であり、政府に戦争をさせないために主権者の国民が憲法を定めると宣言しているとおり、最高法規としての憲法は国民/市民から政府への指示命令文書だ。下位法もすべて国民/市民から政府への指示命令というわけではないが、法律の主旨と運用においては、国家/政府/公権力の行為を取り上げる場合と、国民/市民個人の行為を取り上げる場合とでは、視点を変えるか、逆転しなければならないことも多い。

たとえば、「違法な手段で取得した証拠は無効」という法理は、国家/政府/公権力に対するブレーキ(警察が捜査令状なしで押収した証拠は無効etc.)であって、ジャーナリストを含めて国民/市民の行為に関する運用においては(とりわけ国家/政府/公権力の過誤を明るみに出すための証拠については)適用外である。実際、これまでにたくさんの歴史的逆転ケースがあった。私がすぐに思い出す好例は、ベトナム戦争の終結を導いた通称『ペンタゴン・ペーパーズ』だ。

1971年、国防総省の極秘文書を、執筆者の一人がコピーをニューヨーク・タイムズ紙にリークし、ベトナム政策に関する米国民の疑問を極限にまで高めた。“犯人”のダニエル・エルスバーグは、窃盗および機密情報漏洩の罪で起訴されたが、のちにウォーターゲート事件と絡んで政府の不正が白日のもとにさらされ、裁判そのものが却下となった。この勇気ある“違法”行為に踏み切ったエルスバーグも、“違法”な証拠文書にもとづいて緊急連載を敢行したニューヨーク・タイムズ紙も、実刑を受けたり犯罪者扱いされたりするどころか、誤った進路から国を引き戻した功労者と評価されている。エルスバーグの審理にかかわったダグラス裁判官はいう。「政府内の秘密は、基本的に反民主主義であって、官僚主義的誤りを永続させることになる。公の争点を公開で議論し、討論することは、われわれの国の健康にとって肝要である。公の問題に関しては、『公開で健全な議論』がなければならない」。これはまさに、長年のあいだ闇に閉ざされてきた日本政府の調査捕鯨にあてはまる。

関連する同種の傾向は、国民による国家/政府/公権力のチェックを自分たちの責任として自覚していないことだ。三権の分立が危うい現在の日本において、メディアとNGO市民セクターは、三権のさらに外側から政府を厳しくチェックする第四権力の重責を分担するが、捕鯨問題のようにマスメディアも権力と同調してしまうと、NGO の孤軍奮闘となる。それを袋叩きにしたがるのは、村八分の心理に通じる。

日本国憲法98条2項に政府による遵守義務が明記されているとおり、政府が結ぶ国際条約は憲法に準ずる扱いを受ける。憲法が国民から政府への指示命令である以上、国際条約の遵守を求めるのは国民/市民の権利であるだけでなく、むしろ義務といえる。調査捕鯨の根拠となる国際捕鯨取締条約第8条は、商業捕鯨モラトリアム(一時中止)と鯨類サンクチュアリ(商業捕鯨禁止区域)で守られた南極海からの捕獲標本について、捕鯨船団乗組員の私益のための横流しなど、絶対に認めるものではない。今回のGPJによる告発は、国際NGOだから行ったのではなく、日本の納税者・有権者として当然の義務を果たしたにすぎない。

私がもう一つ疑問を抱くのは、「NGOや市民運動は絶対にいかなる場合でも違法行為をしない(してはならない)」という思い込みについてだ。これは近現代民主社会の進展におけるNGO市民セクターの役割を理解していない妄説で、時と場合によっては法を犯してしまう例は枚挙にいとまがない(くり返すが、今回のGPJの証拠品確保はこれにあたらない)。たとえば、軍事基地や核施設などへの反対運動において、著名人を含む数百人もの人びとが故意に建造物不法侵入を実行し、大量逮捕という形で問題をアピールすることはよくある。もっとも極端な例は、軍事施設に侵入して大量破壊兵器関連の装置類を破壊し、積極的に逮捕・拘留を受け入れたうえで、無罪判決を勝ち取るプラウシェア運動だろう[3]。

[3] http://www.geocities.jp/chikushijiro2002/peace/
sekai9911.html

   http://www.geocities.jp/chikushijiro2002/peace/sekai2k09.html

この種の活動に対しては、たちまち「目的さえ正しければ手段は選ばずか!」という非難が返ってくるのが日本社会だ。答えは白か黒かの二分法ではない。人類史の長い苦闘は、いかに「手段を選ばず」から脱するかの道のりに刻まれ、その途中経過として非戦や非暴力の思想と実践がある。もう一度くり返すと、GPは自他の生命身体を傷つけることはもとより、プラウシェアのような器物損壊も許容しない、きわめて抑制的な非暴力主義に立つ。大いに「手段を選ぶ」からこそ、プラウシェア運動では数年におよぶ緻密な準備や訓練を行うし、GPでも他の市民運動でも、非暴力直接行動に厳しくタガをはめる。

国民/市民みずからNGO市民セクターを無法者扱いし、白と黒のあいだの多様な選択肢を否定することは、国家/政府/公権力に対するチェック責任を放棄することにほかならない。その結果、国家/政府/公権力/軍による最悪の暴走を許してしまったのが、つい60数年前の日本だったのではないか。


Posted by jun at 17:16