2008-04-07
逃げ方、避け方、守り方
いじめられた子に密着し、学校に行くようになるまでを取材していた。
それ自体は感動的な話かも知れないが、僕自身の感想は全く違う。
いじめに耐える必要なんか無い。
学校なんか行かなくていい。
嫌な集団に取り入る必要はない。
そんな集団に属さなくても、その子が生きられる集団はいくらでもある。
それが、今のその子には見えていないだけなんだ。
番組の内容に沿って話そう。
いじめの被害者の女子生徒は、ある男子生徒に顔を殴られていた。
その加害者が反省していることを、担当の教師が女子生徒に訴えていた。
違うだろう。
何で学校だけ、暴力沙汰を起こしても無罪放免なのだ?
本来なら警察権力による逮捕・拘束だろう。
何が反省している、だ。暴力を実際振るえる人間が反省なんかするものか。
暴力を妄想することと現実にそれを振るうことの間には、とてつもない深い亀裂が広がっている。
普通の状態なら、人間はその亀裂をたやすく飛び越えることは出来ない。
しかし、時に子どもは(そして多くの大人も)簡単に残酷になれる。彼らにとってはゲームなのだ。殺してしまってもゲームなのだから、罪悪感など全くない。
そんな人間関係にある子どもたちにいくら道徳を訴えたところでムダだ。
公権力による罰を与え、隔離して当然なのだ。
女子生徒がおびえているのは全く正しい。
その後専任教師が、女子生徒をなんとか学校に行かせようとしていた。
が、それってどうなんだろうか?
こういう時、よく「ここでがんばらないと、他のところでも同じことだよ」と言われる。
違うよ。全然違うよ。それは言葉の暴力だよ。
その場所でがんばれなければ他の場所に行ってがんばればいい。
人間関係は場所によって全く異なる。
どうしてこういう大切なことをまずはじめに教えないのだろう?
必死になって大嫌いな人間に取り入って、そこで根を生やして生きていくなどと言う前時代的な行為を、なぜ今もって我々が行わなければならないのだろう?
ここはどんな全体主義国家なのですか?
この点で僕は、「雇用流動化を推進せよ!」などと寝ぼけたことを言っているセンセイ方に言いたい。
まずその言葉は、子どもたちに伝えるべきだろうと。「学校流動化を推進せよ!」「聖域無き学校改革を!」を掲げるべきだろうと。
無理矢理狭い檻の中でぎゅうぎゅうと押し詰められ、ストレスのやり場もなく陰険ないじめや暴力にしか救いを見いだせなくなったダメ組織から、子どもたちが離脱する権利を確立するべきだろうと。
大人自身も逃げられないからだろう。地域や、職場のしがらみから。だから子どもに「逃げられない自分」を投影するのだろう*1。
子どもが死ぬまで分からないか、うやむやのまま過ぎてしまうのだ。
子どもの頃から嫌な人間関係を必死に我慢し、そのまま成長すると、人は「動けなくなる」。
会社に行っても、耐えることしか身の守り方を知らない。だから、いつの間にかババを押しつけられてしまう。
まじめにやった結果がそれだ。あまりにも報われないだろう。
子どもの頃から
- 社会には多様な人間関係があること。一つの人間関係に代表などされないこと。
- 人はどこにでも意志さえあれば動くことが出来ること、その意志は育てなければ生まれないこと。
- 世の中には原因の分からない宛先不明の理不尽きわまりない暴力がそこら中に落ちており、時々それにぶつかってしまうことがあって、そのときはそこから逃げること、避けること、自分の身を守ることが大切だと言うこと。
- そして具体的な身の守り方。
などを教えてあげなければいけない。
しかし、大人自身も分かっていないことが多い。
職業選択の自由、移動の自由などが保障されているとはいえ、何かことが起きたときにすぐ職を変え、住む場所を変えることはとても難しい*2。
「ムラ」が至る所に形成され、人はそこに束縛されている。これだけ職業や移動が自由になったのはごく最近のことだ。
人はどこかのムラ(職場・地域・労組・宗教団体・親族 etc...)に所属し、そこで生きていくしかなかった。
日本では、諸外国ならあり得ない密着した関係が築かれている。だから「カローシ」は国際語になった。
耐えて耐えて耐えて、嫌な集団の圧力に耐えて、生き抜いて身についた作法が、ただ集団の圧力に屈して耐えるだけ、というのではあまりに救われないのではないか?
耐えることと、楽しく生きていくことは全くベクトルが異なる。耐えないことが楽しく生きられないことではない。
そこに固執すれば、それは生きていく指針になってしまう。
他人は残酷で、自分には生きていく場所が無く、自分はお情けで生かしてもらっていて、この世界はくそったれで、こころを通い合わせる人間などはいない、と思いこんでしまう。
そしてやもすると、その暴力を別の人間に向けてしまったり、自分自身に向けてしまうのだ。暴力の連鎖。
そんな場所とは関係なく、楽しく人生を謳歌している人たちはいるのだ。その輪の中に、その子だって入っていいのだ。
むしろ、今現在自分の身に降りかかっていることは、全く原因のない邪悪な暴力であり、「それ」は交通事故のようなもので、一刻も早くそこから逃げ出して、そんな暴力に自分自身の人生を弄ばれないことを知ることが大切ではないか?
頭のおかしい人は少数だが世の中にはまんべんなくいる。
この人たちは少数だがとても力を持っていて、周囲の人間に絶大な力を及ぼす。
そういうクレイジーな人間たちに、まともな大人たちが隠れてしまっている。
いじめられている子どもたちのもとに、そのまともな大人たちがいてくれることを祈る。
僕も、大人として、出来ることをしたいと思う。
無理矢理学校に行く必要なんて無いよ。
それよりも、自分が何に困っていて、誰に助けを求めればいいか、それを学ぶべきだ。
そして、それすら分からなければ、今はネットがあるのだから、ネットで多くの人に助けを求めよう。
ブログで一言、「助けて」とつぶやくことで、誰かが手を伸ばしてくれるかも知れない。
twitterなどの手軽に出来るサービスだってある。それを活用しよう。
学校や地域や家族という閉じた空間から抜け出して、多くの人の声を聞こう。
生きる場所は絶対にある。きっとある。間違いなくある。
そして、生きる力を与えてくれるのは、耐えることではない。
多くの人たちの助けを得て、楽しく生きるためにはどうすればいいかを考えることだ。
全力疾走する方向を間違えてはいけない。
全力で崖に突進してはいけない。
エレファントカシマシ「悲しみの果て」
涙のあとには 笑いがあるはずさ 誰かが言っていた 本当なんだろう いつもの俺を 笑っちまうんだろう
部屋を飾ろう コーヒーを飲もう
悲しみの果ては すばらしい日々を 送っていこうぜ
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- パリの聖火リレー、途中で打ち切り 激しい抗議に3度消される (1/2ページ) - MSN産経ニュース
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- 聖火リレー妨害は「民主主義の勝利」、英各紙は好意的 写真5枚 国際ニュース : AFPBB News
- 表示できません - Yahoo!ニュース
これほどまでに妨害を受けた聖火リレーって歴史上数少ないのでは?
日本も聖火リレーが回ってくるのだけれど、パリ市のように、自治体レベルで民主主義擁護の決議とか上げればいいと思う。
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逆に教師が逃げないのは、悪意からでしょうか。
「相手の立場に立つ」メソッドに意味はないのですが、時々そう思います。
そうですね。教師も逃げられるといいですよね。
現状、教師は異動届を出すか退職するくらいしか道はないんですよね。そういう意味では、かなりつらい職業だと思います。年収だってあれだけ働かされて平均700万円程度で、残業代も定額しか出ませんし。
それと、教師自らが「学校へ来なくてもいい。逃げろ!」と言えるのはよっぽど肝が据わっているか頭の整理が出来ているかでしょうね。いつの間にか学校の代表にされているのですから、なかなか難しいです。
もう学校に暴力装置としての役割が与えられないなら、警察の介入もやむなしと考えるべきですね。
また、日本って以上に「負け」にこだわる雰囲気があって、「負け」を認めることはすなわち、何をされても良いという意味に捉えられているかもしれません。加害者はいわんやですが、それゆえに被害者も教師も間違って「負け」たく無いと思ってしまっているんじゃないでしょうか。これが警察の介入を妨げている最大の障壁と感じています。
鳩や鶏は流血した者を、死ぬまでつついて殺しますがそれに似た気持ち悪さを感じます。
下手すると子供より視野が狭い。
「懐」云々を言うのなら校長などの管理職や教育委員会の「ケツのあな」を問題にすべきです。
下品ですいません。
学校だけでなく、内向きの集団はたいがい全体主義的になり、陰険ないじめが横行する気がします。
それが「例外的な事態である」と認識できれば救いがあるのですが、子どもの頃からそのような集団しか知らないと、じぶんはこういうくそったれ集団に適応して生きていかなければならないのかと絶望的な気分になるのだと思うのです。
学校には、法の適用があって当然だと思います。まだうまく理論的にまとめられないのですが、「権力の介入だ!」と色めき立つような事態ではないと思います。ただ、子どもも市民として扱われると言うだけのことだと思うのです。暴力は悪。市民社会では当然の原則を、学校でも地域社会でも貫くことが重要だと思います。
「負け」は僕も嫌いな言葉です。
なにが「負け」なのでしょうね?
意味が分からないですよね。いつから勝負を始めたのでしょうね。そしてそれを誰が裁くのでしょうね。
訳の分からない勝負で「負け」にさせられて市民社会ではとうてい許されない暴力を振るわれるのはたまったものではないと思います。
子どもが視野の狭いまま大人になってしまったのかも知れませんね。
けれど、「教師だから」「親だから」懐の深さが求められて、それを達成できないと子どもが不幸になると言う「教師聖職論」や「美しい親子像」の幻想をもう求めるのは止めた方がいいと思います。
この現実に、市民社会として大人がそれぞれ向き合わないといけないと思います。
教師も親も、力の足りないところは、他の市民が補い合って、子どもを支え自分たちを支えればいいと思います。
そういう成熟した大人に、誰もが近づいていくことを目指していきたいですね。
個人的には学校に対する警察の介入はあまり好ましくないと思っています。
それは決して「権力の介入だ!」と言うことで嫌悪しているのではなく。信賞必罰の即応性を削ぐからだということです。
警察の介入は厳密なる法の適応を意味しますので、罰の適応はその適応性を厳密に判断してからなされます。
「教育」と言う意味においてはそれでは遅いと考えています。
個人的にはある程度の信賞必罰の権限を学校に与え、その運用の監督とバックアップを教育委員会で行うのがベストと考えています。
これは「ケツのあな」が小さいと出来ない話で、学校にとてつもない負担を与えますが・・・
警察の介入については、「殴ることは許されない」ということに繋がればいいと思います。
いじめで暴力を振るう人間は、その暴力で自分が罰せられないと確信している場合のみ暴力を振るいます。
「暴力を振るえば監獄行き」がはっきりしていれば、暴力は振るわれません。
その抑制効果を期待します。
そしていじめが精神的な、地下に潜るようなものに変化していった場合の対応ですが、本文で挙げさせていただいた内藤朝雄さんの著作によれば、「クラス制度」を廃止し、出来るだけ幅広い人間関係を構築することで、小さな輪の中でとけ込めない子も、その他の輪の中で受け入れられる、との施策が示されています。僕もそれに賛同します。
社会に出れば競争だというのに子供には比べることは良くないとして競争の機会を与えない。
何時まで教育に親の自己満足を押し付ける気ですか?
別にあなたの子供は特別じゃありませんよ?
子供たちを競争させてあげてください。
失敗する機会を与えてください。
もっと外に関心を持ってください。
早く一億総中流という勘違いが消え失せることを願います。
>失敗する機会を与えてください。
>もっと外に関心を持ってください。
この部分、同感です。
そして、子どもたちが危険なところに行きそうになったときに、手を伸ばしてあげるのが大人たちの役割だと思います。