箕面教会でのひとこま

箕面教会 中曽 満
2008.03.20

箕面教会の中曽です。
去る3月15日(土)の昼下がり、信徒会館の一室でのひとこまを皆さんにお伝えしたいと思います。

   この日はちょうど、翌日の「枝の主日」の準備で典礼委員全員が集まっていました。(後から思えば、これぞ神の計らいか!) 作業後のお茶のひとときに、次のように切り出してみたのです。

「カトリック信者として生きてきた五十年の最近になってようやく、正しい典礼のあり方について、どうあるべきなのかと考えるようになりまして、個人的にそういう勉強をしてみたいなと思い始めている今日この頃なのですが、みなさんは今の典礼についてどのようにお感じになっていらっしゃいますか。」

   このようなことを切り出すことになったのは、以下のような思いがあったからです。
   松浦補佐司教をはじめとする司教団の愚挙に対して(十把一絡げにしては失礼か)、これ以上彼らの思い通りにさせず、日本カトリックの正常化のために、自分自身に無理せずにできることって、どんなことがあるだろうと考えたとき、やはり、自分の所属する小教区教会の中で、何らかの声を上げていくべきではないかと思うのです。
   正平協の憂慮すべき政治的活動も、長年にわたる典礼の乱れも根は同じ思想、同じ目標からきている。ならば、典礼委員長という役をいただいているこの好機に、典礼の見直しという面から攻めていくのが一番自然かと思い、とりあえず、典礼委員の皆さんに問題提起してみようという考えに至ったのです。

   ただ、委員の方々がそれぞれにどのような考えをお持ちなのか分かりませんでしたし、話の切り出し方が過激な物言いになっては聞き入れていただけないかもしれないという不安もありました。また、日頃なかなか委員全員が集まれない中で、いつこのような話ができるだろうかという焦りもありました。さらに言えば、立場を利用してこのようなことをするのは越権行為なのだろうかという戸惑いもありました。
   そうこう思い巡らせている内に、今回のような絶好の機会を得たわけです。(神に感謝!)

   そして、典礼について日頃感じていたことを委員の皆さんに吐露していったのです。
   子どもの頃「カトリック聖歌集」から「典礼聖歌集」に変わっていく時に覚えた何ともいえない違和感やフォークミサを経験したときの「うげげげぇ〜?!」というショック、手で授かる聖体拝領に変わったときの「そんなのありですか?!」という罪悪感のような感覚。祈祷文の国語化からさらに口語化に。聖変化のときの跪きの廃止。これら全てがローマの意向に従ってのことと、つい最近まで思い込み、「どうなってんの〜!」と戸惑いながらも、いつの間にかそういうことに慣れてしまっている自分に気がついたときの自己嫌悪。さらに、現在進行しつつある信徒による集会祭儀や聖体奉仕者のこと、両形態拝領時のセルフ・インティンクションの慣例化などなど。

   「ローマの意向を逸脱したあるいは反したことを日本のカトリックは連綿と続けてきているということを皆さんはご存じでしたか」
   という私の問いかけに、委員全員が「もちろん」という反応でした。

   その時、委員のお一人が「それはね、……」と、今までの沈黙を破って、堰を切ったように、正平協をはじめとする松浦司教の所業を話し始められたのです。
   私としては思いがけない展開でしたが、他の方々が諸事実に対する憤りをあらわにされている様子だったので、私も勢いを得て、二人して知っていることを洗いざらい話する結果になりました。
   インターネットの世界でも松浦・谷両司教と正平協のことはたいへんな話題になってしまっていることには、皆一様に驚いていらっしゃいました。赤旗(HPも含む)にはカラー写真で、松浦司教がピース9のデモの先頭に立っている姿(カトリックの司教であることが一般にも分かるあの赤い帽子を頭にのせて)が大きく紹介され、もてはやされていることには、カトリックの司牧にあるまじき恥ずべき罪だと憤懣やるかたない様子でした。
   赤旗にもてはやされている人のついでに、聖母被昇天修道会のシスター・マリア・コラレスの活動についても、いろんな人権運動団体にうまく利用されているだけだ。修道女としての本分の仕事に戻りなさいということを、本人にどれだけ忠言しても聞く耳を持たないのだ、と他のお一人が嘆いていらっしゃいました。
   話を戻しまして、「松浦司教たちのこのような無思慮な言動のせいで、今や日本のカトリックは、一般から見れば、もはや『オウム』や『日本赤軍』などと何ら変わりのない組織のように見られてしまっているのでは」という私に、皆うなずきながら、「そう思われても仕方がないな」という反応でした。
   そして、心ある方々の必死の抗議にもかかわらず、反省する様子も全くないこと、もはや教皇様への直訴以外に方法はないのではという話にもなりました。

「ただ、私個人としては、神聖なお御堂の中で、松浦司教らの言動を声高に糾弾するようなこともしたくない。信徒の間に不和と分裂をもたらすだけで、それこそ彼らの思う壺でしょう。そのような大きな行動とは別に、まず信徒の皆さんと、ローマの意向に沿った正しい典礼とはどのようなものか、という勉強会が箕面教会の中で出来ればいいなと思っているんです。典礼委員会として、このような提案をしてもいいものでしょうか。そういう地道なことが彼らの暴走の歯止めに繋がっていくのではないかと思うのですが。」

というふうに問いかけたのです。

   皆さんの反応は一様に大賛成であるといって良いと思いますが、具体的にいつからどのようになどという話にまではなっていません。

   事を進める前にまず、主任司祭の和田幹夫神父様と腹を割ってお話ししたいという思いもあります。
   和田神父様はたいへん慎み深い方で、われわれ信徒の意見をいつも尊重されて、ご自分の意見を強引に押し通そうとはなさらないので、典礼について等の本音の所が、私には今ひとつ分からないのです。
「ラテン語も含めて、典礼をあるべき姿に戻したい」ということは常日頃おっしゃいますが。ですから、なおさら、どのようなやり方にすれば箕面教会の信徒の皆さんに受け入れられていくか、和田神父様はどこまでのことをしたいとお思いなのか、焦らずに、でも着実に話を煮詰めながら、事を進めていきたいと、ひとり思っているところです。
   というようなことも申し上げて、この日は散会となりました。

   実際には、日々の仕事や生活に追われて、いつ、どのタイミングで話を進めることが出来るかは分かりません。いろいろと思うことは多くても、いざとなるとアバウトな性格なものですから、まだこれからの話です。
   でも、思い切って舟(「船」ではありません)を漕ぎ出してみたら、思いの外に追い風が強かったという感じです。ついつい嬉しくなって、この日の晩ご飯は家族で寿司を食べに行きました。(回る寿司ですが…)

(終)

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(編集者より)
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