2008年6月19日 (木)

少子高齢化で「働き手」は減るのか。 -総理の増税提案に断固反対する-(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第87弾です)

 日本は少子高齢化で、これからは少ない人数で多くの老人を支えなければならない。だから負担増は避けられないというのが、政府の説明だ。何と総理は消費税増税の是非を決断するときだとさえ言った。我々は、このような増税に断固反対すべきだ。デフレの際の増税は言語道断だということ以外にも、反対する沢山の理由がある。今、福田内閣が消費税増税を強行しようものなら、支持率1桁どころか、与党からも猛反発をくらい、今度な衆議院で内閣不信任案が可決されるに違いない。

 少子高齢化で働き手の割合が減ってくるのだという。どのくらい減るかは人口問題研究所が次のような推計を出している。

1564

 つまり1年で0.265%ずつ15~64歳の人口割合が減っていくということだ。しかし、これが直ちに、「働き手」が減るということにはならない事に注意しよう。「働き手」とは時代によって変わることは明らかだ。例えば1947年には平均寿命は52歳だった。「人生僅か50年」と言っていた。この頃15~64歳が「働き手」だとはとても言えないだろう。徐々に寿命は延びてきたし、これからも伸び続けると予想される。現在は1年で約0.22歳のペースで平均寿命は延びている。延びるのは寿命だけではなく、健康寿命も延びる。当然のことながら、働くことができる期間も延びてくる。実際、高齢者雇用安定法改正により60歳定年の義務化されたのに続き、平成16年の改正により65歳までの雇用延長を段階的に進めることが義務化された。定年延長の動きは、働ける期間が延びてきて、「働き手」の範囲が広がったことを意味している。この意味で働き手の範囲は、今後もどんどん広がるに違いない。

 働き手の範囲が平均寿命の延びと同程度の速度で広がると仮定しよう。つまり働ける上限が1年で0.22歳ずつ延びていくとしよう。これは働ける期間が毎年0.44%ずつ増えていくということだ。1年で0.265%ずつ15~64歳の人口割合が減っていくのだが、働ける期間の延びを考えると、0.44%―0.265=0.175%だから、むしろ労働力人口の割合は0.175%ずつ増えていくことになる。寿命は延びるが、健康で労働が可能な期間は増えないという、奇妙な仮定だと当然、労働が可能な人の割合は減る。当たり前だ。こんな馬鹿な前提の元に、国民の恐怖心を煽るのは止めて欲しい。

 それだけではない。もしも経済政策さえ誤らなければ、労働生産性は少なくとも年間2~3%伸ばすことができる。そのように考えるなら、我々は、毎年2~3%ずつ豊かになるはずだ。もちろん、今の政府のように、国民の生活を犠牲にし国の借金を返すことを最優先にした経済政策を続けていけば、悲惨な結果になり、日本人だけが一人負けで、どんどん貧乏になっていく。

 国は通貨発行権を持っていることを、日本人は一刻も早く気付くべきだ。主権国家の持っている最も大切な権利の一つであるこの権利を行使し、お金を刷って、経済活動に必要なお金を国民に渡すのであれば、上記のような速度で国も国民も豊かになっていく。そのためには、今は増税ではなく、減税の時だ。

 環境対策も直ぐにやるべき事が山積しているではないか。日本経済復活の会では1年前、九州大学名誉教授の太田俊昭氏を招いて炭素繊維を使った洋上風力発電の開発に関する講演を行ってもらった。原発の半分以下のコストで電力を供給できるとのことで、原油価格高騰で、代替エネルギーとして注目すべき時だ。このことを、我々は多くの国会議員に訴え続けてきた。それが通じたかどうかは分からないが、社民党のホームページに、この研究に関する紹介がなされるようになった。

http://www5.sdp.or.jp/policy/policy/electoric/electoric_wind01.htm

 公共工事など日本にはもう必要がないと主張する馬鹿な連中がいるが、それが国民を苦しめる。我々の活動も少しずつ成果を出しつつあるのではないか。来週の木曜日(6月26日)には、地熱をビルの冷暖房に利用するための研究をしている産業技術総合研究所の盛田耕二氏に講演を依頼している。財源が無いと言って諦めていることだが、実は国がお金を刷れば、財源は出てくる。デフレ下の増税で国の経済を破壊するのでなく、我々の次世代の若者達に、豊かで健康的な国を引き渡すために、活動を続けていきたい。

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キムタク主演ドラマ『CHANGE』は小泉再登板の洗脳的布石なのか!?

 植草さんはブログ記事で、木村拓哉主演のドラマ『CHANGE』と小泉内閣元秘書官・飯島勲氏が強い相関性を持つことを「週刊ポスト」の記事を取り上げて指摘している。

 植草さんも言うように、この話は小野寺光一氏のメルマガによって、番組が開始する前から配信されていた。えっ?キクタク主演の総理大臣のドラマと飯島元秘書官の関係だって?そりゃないだろう!と、最初は自分も半信半疑であったが、その後も、小野寺メルマガが何度か同じ情報をもたらしているのを読み、ひょっとするとこれはありうる話かもしれないと思っていた。2005年9月の郵政解散総選挙の時、自民党の広報戦略・IT戦略を任せられていた人物は世耕弘成氏であったことは皆さんの記憶に残っていることと思う。彼は党幹事長補佐広報担当者としてメディア戦略に手腕を発揮した。

 以下は私の推測である。世耕氏の広報活動は、2ちゃんねるなどでは「世耕チーム」などと言われ、謀略的宣伝工作担当の専門であるかのように、面白おかしく書かれていた向きもあった。しかし、私はテレビ等で彼の発言を何度か聞いて、人となりを観察した結果、彼はそれほど奸智に長けた恐ろしい人間ではないと感じている。そういうイメージは、一部の人間がからかい半分にデマとして流したものだろう。表向きは世耕氏が広報担当であったが、実際、官邸の広報戦略司令塔として、大きな力を発揮したのは、当時官邸主導勢力の中心にいて、小泉元総理の秘書官を努めた飯島勲氏ではなかったのかと自分は思っている。私は小泉官邸主導という言葉を聞くと、真っ先に思い浮かべる人物が二人いる。飯島勲氏と中川秀直氏である。

 小泉政権を痛烈に批判していた植草さんが理不尽な目に遭わされた裏には、官邸の中心から出た何らかの力が存在したと考えることは、けっして的外れではない。しかし、だからと言って、植草さんをハメた首謀的人物が誰であったかなどということは、わかるはずもない。しかし、一人なのか、複数なのかわからないが確実に首謀者はいたはずである。当然、その人物は官憲に顔の効く人間であっただろう。植草さんが、小泉構造改革に対する理論的抵抗勢力の筆頭として位置づけられたことは間違いない。また、小泉政権が官僚の無駄を省くというポーズを取りながらも、じつは財務省主導の官僚利権構造をそっくり温存し、これが植草さんに指弾されたことなども官邸筋に恨まれた理由であろう。

 あと一つ、決定的なことであるが、植草さんがりそなインサイダー疑惑を指摘したことは、これにかかわったさまざまな当事者達の心胆を寒からしめ、植草さんの言論が世間に拡散しないように、早めに手を打とうと考えた者たちがいてもいっこうに不思議はない。当時の金融庁には竹中平蔵氏がいて、彼は京急事件のすぐ後に政治家を廃業して市井の人になった。郵政民営化にあれだけ情熱を示したのに、郵政のその後の進展を見届けようとせず、植草さんが京急事件に遭遇したことを見たあと、情熱が消滅したように下野している。任期をあと四年も残してだ。これを見ると、郵政民営化担当大臣としての、それまでの獅子奮迅ぶりはいったい何だったのだろうかと、素朴な疑念が浮かぶのだ。だからと言って、私は竹中氏が怪しいとはひとことも言っていない。

 京急電車内で起こった迷惑防止条例違反の案件だが、これが、謀略に基づいた痴漢偽装事件である可能性はきわめて濃厚だと私は思っている。

 話が逸れたが、今回はキムタク主演ドラマ『CHANGE』が、ずばり言って小泉純一郎の再登板のために、飯島氏がシナリオを書いてドラマ化し、国民をテレビで洗脳しようとしているのではないかという噂は本当らしく思えてくる。メディアの中でも、テレビの洗脳効果は群を抜いている。キムタク総理のイメージと、小泉純一郎氏のイメージを重ねあわせ、来るべき衆院選選挙で、小泉氏再登板に劇的に有利なイメージ付けを行なうのが目的だろう。このドラマは小泉政権の再登場を意図した危険な宣撫ドラマの可能性が高い。B層市民というのは、先天的な差異によって出ているというよりも、ほとんどはテレビの愚民化放送によって造られているような気がする。それほど、テレビというのは主体的な思考能力を奪う洗脳効果の高い映像メディアなのである。世論誘導を目論む為政者が、人気テレビドラマを仕立てて、世論操作を有効に行なおうと画策したとしても、一向に不思議ではない。

 小泉政権とは、憲政史上、最凶最悪の政権であった。これほど国民を害し、国益を毀損した政権はない。日本史開闢以来の悪政の見本である。これが再現されることは、悪夢を超えて、今度こそ日本の終焉である。こういう地獄の政権を二度と舞台に登場させてはならない。

 

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2008年6月17日 (火)

今の日本は新自由主義ファシズムだ!!

前:           ななし
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内容:
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 ちなみに米英の人口当たりの公務員数は日本より遥かに多いです。
更に言えば、米国の雇用者数で一番多いのも実は公務員だったりします。
膨大な軍事費を軍産複合体を使ってばら撒いてる米国は小さな政府じゃあないですし。

 サブプラ問題での対応を見ても小さな政府や市場主義、自己責任原則が嘘っぱち
であるとわかりますしね。90年代米国躍進の本当の理由は日本を見習って政官財の
癒着を強めた結果だと言う人もいますしねw

 それから新自由主義に関してですが、今度のサブプラ問題で底が割れちゃいましたね。

 所詮は80年代後期の日本と一緒で信用創造をもてあそんでバブルを膨らませてただけなんだと。
 経済評論家の内橋克人氏は新自由主義とは、バブル形成と崩壊の繰り返しなんだと喝破してらっしゃいます。

 内橋氏と言えば、植草氏や森永氏と並ぶ反新自由主義の評論家です。
マスコミでの新自由主義論者の台頭とケインズ主義者に対するパージの中でもかろうじて生き残ってる
数少ない評論家の一人ですね。

 植草氏やクー氏が姿を消した今は森永氏と内橋氏くらいしか居なくなっちゃいました。
 毛色は違うけど金子氏も反新自由主義かな?あの慶応の教授と言うのが引っ掛かりますが。
 今の日本のメディアはさしずめ新自由主義者によるファシズムでしょうか。
戦前・戦中の共産主義弾圧がケインズ主義弾圧に替わったような印象ですね。
 それから小さな政府礼賛は中学校の教科書にも載ってるそうです。
中学生の内から刷り込むつもりなんでしょう。ゆとり教育導入と言い、文科省も狂ってますね。
中曽根以降、本当におかしな国になって来ました。
改めて旧田中派、旧経世会の政治の良さが思い知らされましたね。
 メディアの刷り込みで完全に潰された感はありますが復活する事を祈ってます。

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2008年6月16日 (月)

植草さんとB・フルフォードさんのロング対談!!

 今日、夜の10時半に帰宅してネットを見たら、「神州の泉」のアクセス数がいつもより1000くらい多くなっている。リンク元を見た。すると、ベンジャミン・フルフォードさんが「神州の泉」の過去記事を二つリンクしていただいていた。直前エントリーのコメント欄では、吉祥天さんが、植草さんとフルフォードさんの対談があることを知らせていただいた。今日の弊ブログ・アクセス数は、これを書いている段階で5100、モノアクセスは2400である。

 植草さんを応援している者の一人として、今「神州の泉」が読者の皆さんに少しだけお願いしたいことがある。おそらくだが、植草さんに政治的なことを語ってほしくない連中が、今週木曜日に行なわれる植草さんとフルフォードさんの対談を、何とか邪魔したいと思っているかもしれない。私がお願いしたいことは、ここをご覧になっている皆さんが、この対談が行なわれることを覚えていただけたらありがたいと思う。2000人くらいの人がこの対談があるということを、ただ記憶していただけるだけで、強い抑止効果があると思うからだ。植草さんをハメた連中はほんとうに危ないですから。

 

 フルフォードさんのその記事をここに転載しておく。

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 06/16/2008

植草一秀先生VSベンジャミンフルフォード対談について

 今週木曜日に植草先生とロング対談をします。優秀な経済学者である植草先生に日本経済の「真の実態」と「今後の行方」、また植草先生をハメた「国策逮捕」について最新の情報を加え、一連の出来事をわかり易く語っていただきます。以下のテーマ以外に議論してほしいことや質問がありましたらコメントに投稿して下さい。宜しくお願いします。

テーマ:国家権力が植草先生をハメた理由、国策逮捕について、竹中・小泉の売国政治、広がる格差問題、日本経済の「真の実態」と
    「今後の行方」など

植草一秀(Wikipedia)

<参考資料>
植草先生を陥れる権力達

テレ朝植草一秀氏国策捜査疑惑報道

「国家」と「資本」の暴走を食い止めろ!佐藤優VSベンジャミン・フルフォード対談

Posted at 19:15 | Permalink

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2008年6月15日 (日)

小さな政府か大きな政府か(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第86弾です)

 小さな政府か大きな政府かという議論がある。マスコミは、ほぼ小さな政府を支持する方向に固まっていて、大きな政府を支持しようものなら、マスコミの常連でもマスコミには出させてもらえなくなるという憂き目にあう。マスコミは小さな政府に世論を誘導しようとしているのは明らかだ。

 その中で、実際の国民の考えはどうなのだろうか。客観的な調査として、例えば2006年に北海道大学と北海道新聞情報研究所が行った「大都市圏と地方における政治意識」に関する世論調査がある。調査は北海道と東京で行われた。小さい政府の実現を目標に掲げた小泉政権の5年間で、「日本は良くなったと思いますか」という問いに対し、北海道では、肯定的な見方は32.4%にとどまり、否定的な意見はその2倍の63.2%に上った。東京でも肯定的な見方は44.3%で、否定的な見方の49.5%のほうが多かった。

 「政府のあり方として小さな政府と大きな政府で、どちらが望ましいか」という問いに対しては、北海道では、大きい政府と答えた人が60.6%だったのに対し、小さい政府と答えた人は35.7%にすぎなかった。東京でも大きな政府と答えた人は52.5%であり、小さな政府と答えた人の40.1%を大きく上回った。詳しくは
http://www.global-g.jp/report200602/2-2.pdf
を見て頂きたい。

 「小さな政府」が少数意見であるにも拘わらず、現在マスコミでは、極めて厳しい報道管制が敷かれている。つまり、大きい政府を支持するような意見を持つ人は絶対にマスコミで発言できない。私が話した国会議員も国民新党やその他ごく小数を除き、本当は財政拡大を支持していてもそのようなことを表向きは言えない状態になっている。実際、一言そのような発言をするとマスコミから「非国民」とでも言われそうだ。まるで戦前のような日本になってきた。

 小さな政府ということは歳出削減ということだ。デフレの際に歳出削減をやれば、膨大な労働資源の無駄が発生し、そのために日本が衰退するのは間違いないのだから、この上ない危険な政策なのだ。それを唯一理論的に正当化しているのが内閣府の経済モデルだ。しかし、何度も言うがこれは大本営発表のインチキモデルなのだ。歳出拡大で国民にお金なんか渡しても経済は良くならず、国の借金が増えるばかりだという結論を出している。しかし、マクロ経済モデルの専門家は誰もがこのモデルがインチキだと知っている。シンクタンクの研究者が、それを指摘しようものなら大変な迫害を受けるから誰も口を閉ざす。私は日本がいつか民主国家になって、言論の自由が認められ、内閣府のモデルの過ちをシンクタンクの研究者が何の迫害を受けずに指摘できるようになる日を待ち望んでいる。

 内閣府の経済モデルがどれだけ欺瞞的か知って頂きたい。景気対策をやって、国民にお金を渡しても、経済は発展しないという経済モデルは内閣府のもの以外には存在しない。日本を代表する8つのシンクタンクの経済モデルを集めて、内閣府のものと比べてみた。どのモデルでも、景気対策をやれば景気は良くなりデフレ脱却ができ、税収も増えるのだ。内閣府のモデルとはまるで違う結論だ。

 我々は、質問主意書という形で滝実衆議院議員を通じ内閣府のモデルに関し様々な角度から追求した。総理からの答弁書はいつも同じだった。「あのモデルは誤差が大きいので使いものにならない」と言う。それなら小さな政府を推奨する理論的根拠は消滅する。

 2011年までにプライマリーバランスを黒字化するという目標も、内閣府の経済モデルが理論的なベースになっている。それが誤差が大きくて使いものにならないのなら、2011年までにプライマリーバランスの黒字化という国民を苦しめる目標は撤回すべきだ。この目標実現のため、厳しく財政削減を行ったために、75歳以上の老人の医療は切り捨てられ、産婦人科医・麻酔科医も減って満足な医療が受けられなくなり、介護福祉士やヘルパーも人手不足、教育も予算不足で学力低下、地方自治体も軒並み赤字財政、公共投資の激減で、全国の橋も崩壊しそうな箇所が続出している。年金に対する国民の不安も増すばかりだ。このように国民に痛みを押しつける政府の論理は、景気対策は景気を良くしないという間違った内閣府のモデルによって裏付けられている。しかし、内閣府のモデルは、大本営発表だということは、次のグラフから一目瞭然だ。

Photo

 このグラフは2002年から2008年まで(合計7回)の内閣府のモデルによる試算の結果である。GDPデフレーターの上昇の予測が示されている。7回すべて、快調にデフレーターは上昇し、このままでいけば1~2年でデフレ脱却(デフレーターがプラス)すると、国民に説明している。しかし、2002年~2007年の間デフレーターはずっとマイナスで2002年が-1.2%、2007年が-0.9%だからほとんど横ばいで、実際のデフレーターはこのグラフでほぼ水平だったわけである。内閣府が7回も国民に嘘を言った、大本営発表を行ったことは一目瞭然だ。

 北大と北海道新聞の調査などからも明らかなように、国民の多くが、国は国民のためにもっと多くのお金を使えと言っている。つまり大きな政府だ。マスコミも政府もそれを無視し続けているばかりでなく、大きな政府という発言を抹殺するために、マスコミに大きな圧力を掛けている。財源はどこにあるのかと、直ぐに言うが、財源は日銀が刷った金でよいのである。それがデフレ脱却の正攻法なのだから。

 国民に負担をさせることが良いことだと錯覚する人がいる。お金を刷ることは悪いことだとでも言いたいのだろう。実は、お金を刷れば、景気がよくなり、デフレが脱却でき、インフレ率も経済成長にとって最良なレベルにまで上昇する。そうすると国民がそれまで持っていた金融資産が目減りすることにより、立派に国民は負担をしているのである。これをインフレ税という。但し、資産インフレ等もあり、金融資産はインフレ率を上回る速度で上昇し、国民は実質的にはより多くの資産を持つようになる。良い政策とは、国民を豊かにすることである。デフレの際の増税など、国民負担の増大は、国民は貧しくするから悪い政策である。逆にお金を刷って国民にお金を渡す政策は、国民を豊かにするのだから、間違いなく良い政策である。

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驚愕!!貞子こと藤井まり子氏と木村剛氏との深い関係!!!

 貞子ちゃんこと藤井まり子氏に関連して、私がもっとも信頼しているブロガーのお一人、『とむ丸の夢』さんから、じつに貴重なコメントが寄せられたのでここに掲載する。「とむ丸の夢」さん、ありがとうございます。
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名前:           とむ丸
メールアドレス:
URL:            

内容:
--------
こんにちわ。
実は私、数年前は結構この「貞子ちゃん……」とよく読んでおりました。共感して読んだとか、そんなことは全然ないのですが、やたらと金融面に詳しいような表現が出てきたかと思えば、ときには日本海側の町の旧家の生まれとかのカミングアウトがあったり、社会事象への独自の見解があったりするのです。
独特のシラーっとした脱力系のようなセレブ系のような、なんとも言い難い手触りというか読み触りで、金融に関する知識と社会に対する姿勢・見解の間の、いいようのない落差がおかしくて、読んでましたが。
この貞子ちゃんについては「非日常的日常inowe椅子人blog」さんが、「貞子さんの何が面白いかって時折元森首相みたいな発言しちゃうのであります」といっておられますから、井上さんも私と同じような感覚で読んでいたのか、といつか一人で大笑いしてしまいました。
http://inowe-blog.seesaa.net/article/11941250.html
です。

その後、その傾向が私にはいよいよ耐え難くなってきましたので、ここ1年はまったく読んでいませんので、アルファーブロガーに選ばれていたことは知りませんでした。

なお、私の記憶では、木村剛氏は貞子ちゃんの配偶者のお仲間でしたよ。

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 ここをご覧になられている皆さんは、植草さんが「りそなインサイダー取引疑惑」を糾明する必要があると訴えていたことはご存知だと思う。りそな銀行が国庫救済され、国有化されたのが2003年5月17日である。この直前の4月28日の日経平均株価は7607円まで暴落している。この前年2002年9月30日、内閣改造が行なわれた際、竹中平蔵氏が“米国の指示”に従って金融相を兼務することになった。就任早々、竹中氏は『金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム(PT)』というものを発足させた。私はこの金融プロジェクトチームの設立自体がすでに非常に怪しいと睨んでいる。竹中氏は10月30日に「金融再生プログラム」を発表したが、その骨子は不良債権処理の見直しに当たって、金融機関の資産査定厳格化、自己資本充実、ガバナンス強化などであった。

 植草さんは「知られざる真実ー勾留地にてー」のP72「15 標的にされたりそな銀」に書いているが、竹中氏はこの時、資産査定厳格化の一環として「繰延税金資産」計上ルールの見直しを提示した。植草さんは言う。この「繰延税金資産」が「りそな銀行疑惑」のキーワードであると。竹中氏は「金融再生プログラム」で自己資本算定ルールの厳格化を試みた。銀行界は猛反発した。こういう一連の経過は少し複雑であるから、詳しいことは植草さんの「知られざる真実ー勾留地にてー」を読んでいただきたい。要は、金融プロジェクトチームなるものが、きわめて摩訶不思議、面妖な会計ルール変更を強行した。このために、標的にされたりそな銀行は破綻寸前まで行きながら、ぎりぎりのところで預金保険法の抜け穴条項によって国庫救済された。

 これら金融プロジェクトチームの行なった一連の金融行政的操作に、恣意的な株価操作の疑いがあるのではないのかというのが「りそなインサイダー疑惑」の全体像である。つまり、国庫救済直前の株価大暴落も誘導の可能性があり、救済後の株価猛反発(じつは復旧的値動き)も誘導の可能性があるのではないのかという疑いである。この動きに乗じて、外資系ファンドやその他が株の底値買いを行い、反発した時期を見計らって売り抜けて大儲けをしたとしたら、彼らが事前に金融操作の情報を得ていた可能性は大きい。植草さんは政府(金融庁)絡みの謀略、すなわち巨大なインサイダー取引疑惑の動きを俯瞰したのだ。だから、関係者から調査をする必要を説いた。これに泡を食った“関係者”たちは植草さんを最大級に敵視し、何とか彼を潰そうと考えたとしても不思議ではない。しかし、すでに品川事件で冤罪や国策捜査の疑惑がネットに広まっていたために、植草さんの謀殺の時期は逸していた。だから次に打つ手として、植草さんの社会的不名誉を作出する手を考えたとしてもけっしておかしくはない。東京都の迷惑防止条例違反で仕掛ければ、自分たちはリスクを最小限にして植草さんの不名誉を創出できるわけである。もちろんこれは私「神州の泉」の個人的な推測であるが。

 今言いたいことは、木村剛氏がこの金融プロジェクトチーム(PT)に名を連ね、竹中氏の政策ブレーンになっていたという話である。つまり木村氏はこの時期の金融行政担当の重鎮だった人物である。その人物と貞子こと藤井まり子氏の配偶者が仲間であるとすれば、『貞子ちゃんの連れ連れ日記』というブログが、植草さんに対して異様な攻撃を仕掛けてきた真の思惑が透けて見えてくるようだ。したがって、「とむ丸の夢」さんの上記コメントにある“木村剛氏は貞子ちゃんの配偶者のお仲間”はすこぶる重大な意味を持っているのだ。

  経済評論家(?)の藤井まり子女史に入れ知恵をした者がいて、ブログによるあのような植草さん攻撃が生じたとしたら、その最大の思惑は一つしか考えられない。それは植草さんが著した「知られざる真実ー勾留地にてー」を無価値化したいという強い意志ではないだろうか。

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2008年6月14日 (土)

藤井まり子氏の動きについて

 『貞子ちゃんの連れ連れ日記』の管理人の貞子ちゃんこと藤井まり子氏の投稿を前回エントリーに掲載したが、この人の植草さんに関する一連の記事を見て気が付いたことがある。一見、品格のない表現で、随所に植草さんの誹謗中傷をちりばめているのが特徴だ。藤井氏は福祉やミルトン・フリードマンに関する見方などを表層的に書いてはいるが、三回におよぶ彼女のブログ記事の内容と、今回の投稿コメントを読んでみると、読者層に訴えたい本当の目的が、すべて植草さんの誹謗中傷に収斂されていることがわかる。

 つまり、「神州の泉」や「植草一秀氏を応援するブログ」のゆうたまさんや、そのお仲間に反応させることで、書き込みのきっかけ(契機)を継続させ、その中で散発的に植草さんの誹謗中傷記事を発信して行くという底意が見受けられる。一見感情的な言い回しで書かれている箇所も多々見受けられるが、これらは偽装であり、実は非常に巧妙に考え抜かれた記事を書いているように思う。真の目的は植草さんの人格攻撃、彼のエコノミストとしての存在価値否定、くわえて植草さんの重要な著書『知られざる真実ー勾留地にてー』(2007年イプシロン出版企画)の内容否定に彼女の本心があるように思える。彼女個人ではなく、背景があって、こういう動きなっているように強く感じる。彼女の記事に散りばめられている植草さんへの誹謗中傷記事は、個人の感想を飛び越えて政治的な意図を感じる。

 従って、よほどの必要を感じない限り、今後不用意には反応しないことにした。これ以上、彼女との対話を継続しても、出てくるのは植草さんのイメージダウンを狙った言辞だけだろう。

ところで藤井氏はコメントでこう書いている。

『私個人は、小泉氏はもとより竹中氏とも一度も会ったことはないし、ですから、私が彼らの出先機関であるはずがないです。』

 ここには、なぜか木村剛氏の名前が不自然に抜けている。竹中金融プロジェクトチーム(金融PT)のキーマンとして重要な役目を果たしていたのが、たしか木村剛氏ではなかったのか?藤井氏は木村剛氏とはコンタクトを取ったことはないのだろうか?ないならば、小泉氏、竹中氏に列して木村氏の名前を挙げなければ不自然だと思う。藤井氏のブログのトップページには木村剛氏からのトラックバックが四つも見られるが・・。

 『一秀くんの同級生のブログ』さんの最新エントリーには、木村剛氏と藤井氏について実に興味深いことが書かれている。

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貞子ちゃんこと藤井まり子氏からの投稿

 『貞子ちゃんの連れ連れ日記』の管理者である藤井まり子氏から、弊ブログ記事「『貞子ちゃんの連れ連れ日記』は小泉・竹中路線の出先ブログか!?」にコメントが寄せられたので、本記事欄にエントリーしておく。いずれ、これに対する見解も含め、藤井氏がご本人のブログで、植草さんについて書かれた三連の記事に対する私の感想も書いてみたいと考えている。

 その前に、今強く言っておくべきことは、藤井氏の下記の文章に、植草さんに対する看過できないレベルの悪意に満ちた表現があったので、それを指摘して強く抗議しておく。


_______________________________
該当箇所抜粋)
彼の有料レポートは、プロにとっては実に使い道がなかったんです。彼の有料レポートは、ありきたりの統計を使っているだけでしたし(精神的に参っていて、いい仕事ができないのかな?とわたしこじんはおもっていました。)、少なくとも、彼の有料レポートの中では、福祉についての代替案はなかった。たいていのプロは、みな、彼の有料のレポートを「支援金」として我慢して支払っていたけど、読まなかったし使えなかったです。使い道がなかった・・・。

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 良識ある皆さんは、この文を見てどう思われるだろうか?あたかも植草さんが支援金目当てに彼の専門的な経済分析のレポートを配布しているかのごとくに書いた中傷文になっている。これはあきらかに植草さん個人に対する人格攻撃であり、営業妨害になるのではないだろうか。それ以前に良識ある人間の表現としてかなり問題があると思う。

 あとで書くつもりだが、藤井氏は例の三連記事で、エコノミストとしての植草さんの存在価値を否定し、彼の近著である『知られざる真実ー勾留地にてー』の内容をまっこうから無価値なものとして否定する意図が読み取れる。これらのことを冷静に眺めれば、藤井氏の植草さんにかんする書き方が、藤井氏個人の意図というよりも、大きな政治的背景にもとづいて行なわれているように私には見えてくる。個人の範囲で書くことを超えているように見受けられるのだ。

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名前:           藤井 まり子
メールアドレス:
URL:            

内容:
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「アメリカにごり押しされた郵政民営化の解散総選挙であろう。おそらく恫喝されていたのだろうが、文字通り“命がけで”やったかもしれない」とのことですが、これも間違っています。
高橋洋一氏の「さざば!財務省」とか「財投改革の経済学」を読めば、こういった「恫喝論」という「陰謀論」もただの憶測であるというのが、理解できるはずです。
郵政は、大蔵省資金運用部を解体した瞬間から、民営化しなければ、生き延びれなかったのです。郵政民営化は、郵便局を残すために、必要でした。
大蔵省資金運用部解体は賛成だけど、郵政民営化は反対ってのは、実行不可能な課題です。郵政を生き延びさせるためには、民営化するしか方法がなかったという認識の上で議論しないと、袋小路に陥ります。
せめて、高橋氏の上の近著だけでも、お読みください。
15年、国債や財投改革や日本型の福祉に命を賭けていれば、この話は理解できるのです。
フリードマンは、確かに誤解されやすいです。現行の社会保障制度は、腐敗や汚職をはびこらせるから、廃止すべきだと彼は予言していますから、一般には、フリードマンは社会保障制度には無関心であると、(特に理系の方には)誤解されやすいのせす。ただ、フリードマンは、弱者保護には熱心でした。今ある程度経済学に詳しい若手は、フリードマンが唱えた弱者保護「ベーシックインカム」とか「負の所得税」の発想を取り入れて、日本型の社会保障を持続可能にしようと、あれこれ知恵を絞っています。
高橋洋一氏は、公的年金制度の維持にも熱心です。
高橋さん、一度、実際に会ってみませんか?
こちらは、国債発行については熱心なブログであるのは、私の読者から聞き及んでいます。
今でも、私は植草氏については痴漢冤罪では応援しています。
ただ、愛知県内で多くの人が彼を応援してみたのですが。。。なんというか、彼の有料レポートは、プロにとっては実に使い道がなかったんです。彼の有料レポートは、ありきたりの統計を使っているだけでしたし(精神的に参っていて、いい仕事ができないのかな?とわたしこじんはおもっていました。)、少なくとも、彼の有料レポートの中では、福祉についての代替案はなかった。たいていのプロは、みな、彼の有料のレポートを「支援金」として我慢して支払っていたけど、読まなかったし使えなかったです。使い道がなかった・・・。
植田和夫先生も優秀ですし、実力の上からは、日銀総裁候補でしたが、キャバクラがお好きということで、今回候補からはずされてしまいました。(金融界でも金融ブログ界では有名な話)。
植草氏は植田先生とキャバクラ繋がりで趣味も共有していたがごとく誤解される記事を、氏は自分のブログで再び暴露してしまっているし、もう、どうしようもない。
それと同列で、●田さんと親交があったとブログで自分から強調するのですから、これまた、本当に彼のガードの甘さというか、世間知らず度には、がっくりさせられてしまいました。●田氏の逆鱗にまで自ら触れるつもりなのでしょうか?また、世話になった方に迷惑かけるつもりなのか????
100日以上拘留されても、彼の長い友人の多いはずの金融界や学会からは、彼への保釈陳情書が無かった理由が、今回私も初めて理解できました。
私個人は、小泉氏はもとより竹中氏とも一度も会ったことはないし、ですから、私が彼らの出先機関であるはずがないです。
私個人は、福祉政策について、ここ15年以上、あらゆる角度から考察している一ブロガーです。(確かに、そういった関係で、総合研究所などから正社員として働いてほしいという打診は幾度かありましたが、健康上の理由でお断りしています。)
そういえば、わが夫が植草氏に紹介したのは、とある金融機関の社長でした。(私の記憶に間違いがありましたが、私個人は政界や財界の人事にはすこぶる弱いんですよ・・・誰にでも弱点はあります。)誤解なきように・・・。

植草氏が植草氏をほとんど犯罪者と決めつけている大御所ブロガーも他に存在しているのに、そういった大御所を見逃して、グッチーさんの過去記事にだけ噛みついたことへの不信感は一部のブロガーの間でも「植草氏の弱い者いじめか?」と気づき始めています。
この最後の一行はどうでもよいことですが、植草氏の自暴自棄状態、なんとかなりませんか?

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2008年6月13日 (金)

たばこ増税案と消費税増税案(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第85弾です)

 与野党でたばこ税の引き上げを求める動きが活発になっている。今秋には、基礎年金の国庫負担分の増加のため2.3兆円の財源が必要となり、それを消費税増税でまかなおうとする動きがあった。しかし、消費税増税の強行実施は、低迷を続ける内閣支持率を更に下げることになるので難しい。そこで比較的賛成が得られやすいたばこ税の引き上げという案が出てきたのだろう。たばこ税を上げると、喫煙者が減り健康には良いかもしれないし、賛成したくなるのだが、しかし、そこには危険な落とし穴もある。やはり増税は増税だ。

 例えば紙巻きたばこの価格は英国982円、アメリカ(NY)736円、フランス621円だが、日本は270円だから安い。税金を諸外国並にして、大幅値上げすれば、税収が増え、喫煙者も減らすことができるから一石二鳥というわけだ。肺ガンが減り医療費も減らすことができるという。一箱二十本入りなら175円の税金が課せられていて、たばこ税収は年間2.2兆円。これを一箱千円にすれば、売り上げが落ちなければ8兆円程度の税収増になる計算だ。これなら基礎年金の国庫負担分は余裕でカバーできるという計算だ。

 しかし、一箱千円にすると、3分の2の人は喫煙を止めるというアンケート調査の結果を考慮し、税収を再計算すると、実は、税収はほとんど伸びないことになる。また仮に「たばこ1箱1,000円」となった場合、たばこ耕作農家、たばこ販売店をはじめとするたばこ業界および地域経済にも壊滅的な影響をもたらすということを考えれば、むしろ税収は減るかもしれないし、景気には確実に悪影響を及ぼす。

 たばこ税を上げて、喫煙者を減らし、健康促進という考え方には賛成できたとしても、増税は増税であり、デフレの際の増税は国民からお金を取り上げ、国を貧乏にするだけの結果に終わってしまう。増税だけで、デフレ対策を何もしないと最悪の結果になる。

 本日(6月13日)の日経の夕刊にも「温暖化対策コスト」「国民も応分の負担を」とある。つまり環境対策のための増税を政府の地球温暖化問題に関する懇談会が提言している。ここでも同じ間違いを犯している。つまり、デフレ下での増税は経済停滞を招き、税収が減り、経済が縮小し、結局技術開発も遅れ、温暖化対策も遅れてしまう。

 消費税の議論も同様である。欧米の消費税は日本よりはるかに高い。ヨーロッパ諸国は20%前後だ。だから、日本も欧米並に消費税を引き上げて税収を確保したほうがよいという議論がある。しかし、これには根本的な間違いがある。欧米諸国はどこも日本のようにデフレではないし、日本の名目経済成長率はどの国の成長率よりはるかに低く、ほとんど成長していない。これだけの経済の大停滞を招いたのは、デフレが原因だ。つまり国民に経済活動を正常に行うだけの十分なお金が渡されていない。そんな環境で、発展できるわけがない。もしこの最悪の状況で、増税を行えば、更に国民からお金を取り上げることになり、デフレが悪化し、貴重な労働資源も、生産設備も更に無駄にしてしまうことになる。

 他の国では、もっと高い税率だから、日本でもそれを受け入れられるに違いないと主張する人がいる。どんな高い税率であっても、税を引いた後の可処分所得が十分多ければ、経済活動は十分行えるわけで、経済は発展する。もっと正確に言えば、可処分所得の前年比が十分高ければ、経済は発展できるが、高くなければ経済は停滞するだけだ。つまり、税率がどんなに高くても、人は前年より多く収入があれば、必ず前年より多く消費する。生産者から見れば、前年より多く注文が来るわけである。そのときは、人は新しい機械を買ったり、様々な工夫をして、より多くの生産をし、なんとか増えた注文に対応しようとする。これが経済の発展であり、こういった方法でどこの国も、徐々に豊かになっていく。しかし、日本だけは9年連続して平均給与は下がっている。こうなると、人は前年よりも消費を減らしてしまう。生産者側から見ると、前年より少ない注文しか来ないから、新しい機械を買うこともなく、生産を増やす工夫をすることもない。こうしてデフレの時は、国民は徐々に貧乏になっていく。これが、日本が世界の中で、どんどん没落して行っている原因である。

 没落を防ぐには、デフレを止めるしかない。そのためには、国民にもっと多くお金を渡すことだ。収入が徐々に増えるようにすればよい。国が単に最低賃金を上げて強制的に賃上げをすれば、経営が悪化し、リストラが進み、結局平均賃金は下がるだけで、デフレは止まらない。唯一のデフレ脱却法は、バーナンキFRB議長が言うように、お金を刷って国民に渡すことだ。日銀が国債を買い、国が財源を得、それをもとに減税を行うなり、様々な施策に使って、国民にお金が渡るようにすればよい。

 減税以外でも、温暖化対策でもよい、老人医療に使っても良い。病院も介護施設も教育現場も農家も、お金が無くてひどいことになっている。刷ったお金を使えば、どれだけ多くの国民を助けることができるか。それが国を繁栄させる。今回の秋葉原の殺傷事件だって、人の心を荒廃させた派遣制度から生じたものではなかったのか。我々の前の世代の人たちが努力して経済が発展したからこそ、我々の豊かな国が築かれ、我々が受け継ぐことができた。それを我々の政府の間違えた経済政策が、国を荒廃させ、それを次の世代に渡してしまうことに罪悪感を感じないのか。もしそのような罪悪感を感じる人がいたら、是非我々と共に活動をしていただきたい。現政府の国を貧乏にする経済政策から、再び国が発展するように経済政策を転換させる。それが我々の活動の目的である。

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2008年6月12日 (木)

『貞子ちゃんの連れ連れ日記』は小泉・竹中路線の出先ブログか!?

「貞子ちゃんの連れ連れ日記」というブログがある。このブログは最近までまったく知らなかったのだが、5月25日の私の記事『ブログにも見られる印象操作(植草事件の底流に)』に、当該ブログからトラックバックが入っていたので覗いてみた。5月27日付けのその記事『痴漢冤罪について女性の立場から一言。』では、植草さんは冤罪ではないかと思っているということと、植草さんから『知られざる真実ー勾留地にてー』を献本されたと書いてあったので、この人はご家族か知人が植草さんと近しい関係で、支援者のお一人なのかなと単純に思った。そこで私はトラックバックのお礼にその記事にコメントを寄せた。少し気になったのは右側のトラックバックの欄に木村剛氏の名前が散見されたことだったが、私はブログ記事だけを読んでみた。その一部抜粋を下記に示す。

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個人的には、「私は植草教授は冤罪なのではないか」とは思っています。私個人は植草教授には実際にお会いしたことは一度もないですが、私の周りには、植草教授を実際にけっこう知っている人は幾人かいます。
我が家も植草教授から知られざる真実―勾留地にて―
という本を去年の秋に献本いただきました。
それをざざっと読んでも、やはり植草教授は、私個人は「冤罪なのではないか?」と思います。(裁判などを傍聴したわけではないので、これは、あくまでも、私個人の推測の域を出ていませんが、やっぱり植草氏は冤罪だと思ってしまうのです。)
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 これだけ見れば、ブログ主催者である「貞子ちゃん」なる人物については、少なくとも植草さん擁護派の一人ではないかと誰でも思ってしまうだろう。ところが今日、植草さんのブログを読んでみて、当該ブログが書いている内容を見て驚いた。詳細はそのブログを読んでいただきたい。なんと、6月11日の「貞子ちゃんの連れ連れ日記」の記事では、植草さんへの中傷記事と、植草さんのエコノミストとしての存在価値を否定する内容になっているのだ。それに、植草事件の謀略論をまるで、植草さん自身があたかも「率先」してやっているかのような印象操作的な書き込みをしている。植草さんは冤罪は主張しているが、謀略論については「可能性としては否定しない」というごく消極的な姿勢で一貫している。

(藤井氏の記事より抜粋)
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植草教授の身の回りでとんでもない不条理な苛めがあったことは確かなのだ。けれども、今度はその植草教授自身が、それを国家の陰謀論・謀殺論にまで結びつけるのは、いくらなんでも唐突過ぎて無理がある。この「陰謀論」も一種の苛めだ。

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 藤井まり子さん、ここを読んでおられるなら、あなたに言いたいが、植草事件について『謀略論』、『国策捜査論』を京急事件の翌日から、本ブログや『植草事件の真実』、『紙の爆弾』等で堂々と展開し、今もそれを続けているのは、植草さんではなく、「神州の泉」管理人の私、高橋博彦です。批判や攻撃文を書きたければ、謀略論を堂々と披瀝している私、高橋博彦に対してやられたらいかがですか。植草さんが率先して謀略論を吹聴しているかのごとくに、いい加減なことを書かないでいただきたい。

 それに“この「陰謀論」も一種の苛めだ。”と書かれているが、誰に対するいじめなのか?京急事件の被害者へか?逮捕した人物や目撃した人物たちへか?それとも、小泉政権を植草さんがいじめているとでも言いたいのか?はっきりされたらどうか。それに、“謀殺論”とも書いているが、植草さんがいつそんなことを言った?謀殺の危機があると書いたのはすべてこの私である。藤井さん、謀略論について植草さんを攻撃するのは的外れなんですよ。やるなら「神州の泉」をやりなさい。受けて立ちます。

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けれども、あくまで、科学を志す人なら、「それを使ってはおしまいよ~」というのが、陰謀論とか謀殺論である。
判りやすいけど、眉唾なのが陰謀論なのだ。
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 また“謀殺論”を出した。植草さんは言っていない。まあ、これも昔からよく用いられる陰謀論否定の単線的かつ典型的な手法だ。真の謀略を否定する時、画一的な電波的妄想論のように決め付けて強弁するという味も素っ気もないやりかたである。要するに常識のある人は陰謀論を言わないという持って行き方だ。“謀略”と言う言葉がいつのまにか“陰謀”という言葉にすり替わっている。この私でさえ、事件について陰謀という言葉は使った記憶がない。それと、植草さんを“アンチ市場原理主義者”と決め付けているが、これも大間違い。植草さんは基本的には市場原理主義者である。健全な競争を是とする考えだ。しかし、小泉・竹中路線のようにセーフティネットを外してしまうような競争原理には断固として異を唱えるという話である。藤井氏が植草さんの著書をほとんど読んでいないことは明白だ。経済に興味がある人ならその部分を読み落とすはずがない。

  また藤井氏は「植草氏の「弱者保護」は、ここ2年ほど、抽象論ばかりで具体案が皆無だからだ。彼の「弱者保護」は表向きだけである可能性もあるのだ」とか書いているが、これも植草さんの著書を読んだものの感想ではない。よくこんな出まかせを言えるものだ。

 植草さんは戦前からあった内務省と大蔵省のうち、GHQが解体したのは内務省であり、大蔵省はそのまま戦後に継承されてしまい、これが大蔵省主導の官僚利権構造の歴史的な流れを作ってしまったと言っている。彼はこうも言う。GHQが戦後改革において、日本の官僚機構の抜本改革を実施し、その特権的な位置づけを除外していたなら、現在の日本の規制に縛られた経済構造をアメリカが深刻な問題として指摘することはなかっただろう。つまり植草さんは真の意味における『構造改革派』なのである。日本の戦後経済構造は護送船団方式という言葉が出たように、日本固有の村落共同体的特殊性や硬直性をもっていて、それは自らが修正しなければならない局面に至っていたが、小泉政権は財務省主導の官僚利権システムを温存したまま、年次改革要望書に沿って経済構造をネオリベ体制に切り替えたのである。植草さんの言う真の意味での構造改革、規制緩和とは、その主要主体が大蔵省主導官僚支配体制を打破することにある。その理由は、植草さんが庶民に目を向けているエコノミストだからだ。

 1999年に出た植草さんの著書『日本の総決算』、「Ⅵ 平成ニューディール」の中では、彼が失業や企業倒産に言及している箇所がある。

「特に問題は労働者の遊休化、すなわち失業の増大である。企業倒産も戦後最悪の状況を迎えている。経済政策はまず国民の生活の安定が第一の課題である。高成長を求める必要はなくても、われわれ日本人が平和で健康で暮らしていくための基礎的条件を整えることは政府の最重要の役割である。この根源的な政府の役割が充分に認識されていない。失業、倒産の苦しみから人々を救うにはある程度の経済成長が必要なのである」(P221より)

 これを弱者救済の考え方、すなわち経世済民の思想と言わずして何と言うのだろうか。少なくとも今から9年前にも植草さんは失業者や倒産企業に心を砕いていた。植草さんはその言論活動において、随所でこの根本的な姿勢を披瀝しているのだ。「貞子ちゃんの連れ連れ日記」の主催者が植草さんの著書をほとんど読んでいないことは一目瞭然である。植草さんが狙われたのは「万民幸福の原理」思想が根底にあり、これが官僚利権温存派やネオリベ急進派に邪魔だと思われていることと、植草さんが大蔵省(財務省)主導の官僚利権構造の打破を訴えていることにある。この延長線上で、りそな国有化の当事者と言うか、その首魁的存在として、小泉官邸主導勢力が植草さんに立ちはだかったのである。その金融行政の中心には竹中平蔵氏や木村剛氏がいた。貞子ちゃんこと藤井まり子氏が木村剛氏と強い親和性があるように見えることから、彼女が植草氏にとってどういう立場の人であるか、およそ推測がつく。またミルトン・フリードマンを何度も出していることなどを見ても、この人がヘビーな新自由主義信奉者であることがよくわかる。典型的な反ケインズ主義者であり、小泉政権が敷いた構造改革路線の先鋭的な信奉者であろう。

 藤井氏はこういうことも言っている。
______________________________________
そもそも、彼のブログには将来の「明るい展望」が無い。
過去を振り返ってばかりで、過去の政権のあら捜しばかりしている。
実にエコノミストらしい。自分がしなかったけど、他人が体を張って命がけで実行したことへの「あら捜し」ばかりでなのだ。
________________________________________

  突っ込みどころ満載である。言っていることがまるっきり逆である。植草さんが身体を張って勇気ある告発をしたのだ。小泉純一郎氏が身体を張った部分があるとすれば、それはアメリカにごり押しされた郵政民営化の解散総選挙であろう。おそらく恫喝されていたのだろうが、文字通り“命がけで”やったかもしれない。しかし、それはけっして植草さんのように国民のためではなかったのだ。無益なあら捜しをしているのは藤井氏である。

 藤井氏という人は、植草氏の冤罪は肯定しているようだが、国家規模の謀略論、すなわち国策捜査論?は異常な強弁で否定している。なぜ、一般のブロガーがそこまで強固に謀略論を否定するのだろうか。動機はなんだろうか?私は藤井氏にも、ぐっちーこと、山口正洋氏と同様な小泉政権が発していた特有のきな臭い香りを嗅ぎ取る。

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2008年6月11日 (水)

バーナンキFRB議長も、日本にお金を刷れと提言(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第84弾です)

 サミュエルソン、スティグリッツ、クライン等、世界を代表する経済学者は異口同音に、デフレ脱却の正攻法として日本にお金を刷れと提言している。その中でも、ベン・バーナンキFRB議長は、デフレ研究の世界第一人者と言われるだけあって、日本に関して詳しく研究しており、日本経済を救う具体的な方法を詳しく述べている。特に、2003年5月31日に日本金融学会で行った講演は、英文は
http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~toyohal/JSME/pdf03s/03s100-bernanke.pdf
にある。日本語で読みたい方は筆者に連絡(sono@tek.jp)していただきたい。この論文は日本経済を復活させるための具体的方法を知る上で最も重要な論文と言える。

 彼が最初に提案したのは、インフレ目標でなく、物価水準目標値であった。デフレ脱却というのは、単に通常の2~3%程度のインフレ率を目標とするのでなく、更に高めのインフレ率を目標とすべきというわけです。これは、一時期デフレ脱却したと思われる水準に達したと思っても、そこで安易に引き締めを行うと再びデフレに逆戻りする可能性が高いという過去の経験から来ているものと思われます。日本の場合は更にひどいでしょう。デフレ脱却をする前に、すでに緊縮政策を行っているのですから。

 バーナンキは、日銀に国債を買え(つまりお金を刷れ)と主張しています。そこでよく言われること、つまり「もし日銀が大量に国債を保有するようになれば、キャピタルロス(日銀が大損をする)が発生し、バランスシートが悪化する」という危惧に対しても丁寧に反論しています。

 その説明の前に日銀が大量の国債を買うと、なぜ日銀が大損をするのかということですが、次のようなロジックです。日銀が国債を買い、お金が国民に渡るとします。そうすると景気が良くなり、給料も上がり、国民は物を買えるようになり、企業は商売繁盛で、銀行から融資を受け積極的に投資してもっと儲けようとします。そうなると、デフレの時のような低金利でなく、もっと高金利でもお金を借りる人が増え、金利が上がってきます。そのときは、株もどんどん上がりますから、国債などのような低金利のものは売りが殺到し、値下がりします。日銀は国債をたくさん買い込んだので、その値下がりで大損をするというわけです。

 別に、日銀が損をしても、破綻する訳ではなく、日本国民が豊かになればそれでよいのですが、日銀に損をさせないほうがなんとなく気分がよい。そのためには、国民にお金を渡すべきでなく、国民が貧乏になっても仕方がないという、間違った考えの人が政府や日銀にいます。そういった馬鹿な考えの人に対し、バーナンキは経団連の提案を引用しています。この提案は日銀の保有する国債を変動金利のものに置きかえればよいというものです。つまり、景気が良くなって、金利が上がってきたら、国債の金利も連動して上がるようにすればよいというもの。こうすれば、金利が上がったとき、国債の金利も連動して上がれば、誰も国債から、別な金融商品に乗り換えたりしませんから、国債が下がりません。だから、日銀が大損することもないわけです。別の提案としては、国債と同時に日銀が株を大量に買えば(あるいは投資信託で間接的に株を買えば)株が上がり、日銀は大もうけをするわけで、少々国債で損をしても、十分取り返せます。このように、デフレの際、お金を刷る政策で損をする人は誰もいません。

 バーナンキは、財政と金融が協調すべきだと主張しています。つまり日銀と財務省が共同でデフレに立ち向かえということです。財務省出身者は日銀総裁になるべきでないという主張と正反対です。バーナンキは、国の借金は景気対策のために生じたのでなく、経済成長が遅すぎるために生じたと指摘しています。もしお金を刷って、減税等に使えば、国の債務のGDP比は減ってくるから財政は健全化すると述べています。これは様々なマクロ計量モデルを使ったシミュレーションの結果と一致しています。財政健全化のための最良の方法は、日銀が国債を買うことにより、政府が景気対策を行い、その結果消費が伸び、GDPが増え、税収が増えるというシナリオである。これにより、経済は回復し、遊休資源の再活用が可能となる。

 インフレのときは、お金を刷ることに対しては、日銀はNOというべきだが、デフレのときは、お金を刷ること(バーナンキは通貨創造という言葉を使っている)は全く問題はない。デフレは日本にとってマイナーな問題ではない(つまり重大な問題だ)。日本経済のみならず、世界経済のためにも、早期のデフレ脱却を望みます。

 この講演をしたときは、彼はまだFRBの理事だった。その後、FRB議長になってからは、彼の発言が世界経済に与える影響は余りに大きいので、発言は極めて慎重になっている。しかし、何ら考えを変えたわけではない。彼の考えは
『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』田中秀臣著、講談社 に詳しく書かれている。

 国債を、日銀はもっと買えというバーナンキの主張に対し、障害になっているのが、「日銀が買い取る長期国債の上限を日銀券の流通残高以下に抑える」という日銀の自主規制である。バーナンキはこれを放棄せよと主張している。よく言われるのは、もし国が国債発行により、つまり借金をして、減税をしたなら、国民は将来の増税に備えて、消費でなく、貯蓄をしてしまう。しかし、刷ったお金で減税してくれれば、将来の増税は無いと考え、お金は消費に向かい、景気はよくなる。

 最近、景気後退の可能性が盛んに言われ始めた。それなのに、景気をよくするための政策は全く出てこない。坂を転げ落ちる車でブレーキを踏もうとしない運転手のようだ。乗っている我々乗客はたまったものではない。隣の韓国では、わずか牛肉問題で100万人のデモが話題になっている。日本人も、今こそ立ち上がるべきだ。国会の周りを埋め尽くすデモで、国民に痛みを与える政策から、国を繁栄させ国民を豊かにする政策に転換せよと主張してもよいときだ。

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『後期高齢者医療制度』に怒る!!

 これは小泉内閣がもたらした鬼畜の棄民制度だ!

 このところ、時間が経ってもいっこうに憤りが鎮まらない。「後期高齢者医療制度」の棄民感覚に四六時中怒りが噴出してやまないのだ。このように、寝ても覚めても沸々と湧きあがるこの気分はまったく心身状況(QOL)によくない。私と同じ思いの方々も数多くいることだろう。ご高齢者を強制的に枠で囲い込み、彼らのあり方を一括して処理しようとする、この法案の成立根拠とはいったい何であろうか。また、そこに内在するこの法案の思想性とは、はたしてどういうものだろうか。今から、これを考えた者たちの意識の深層を探ってみたい。実は「神州の泉」の読者さんたちなら、もうすでに気が付いていると思うが、この法令には憲政史上、最凶最悪の鬼っ子として登場した小泉政権の本質がよく出ているのだ。

 ようするに、これは大多数の国民を隷属化させ、そこから労働力と富を搾取する体制作りがもたらた悪しき政策の一つなのだ。つまり、これはネオリベ制度が生み出してくる当然の社会的帰結であり、イギリスの産業革命以来、資本主義の剥き出しの暴力性が顕在化していることの一つの現象である。一言で言うなら弱肉強食の資本論理だけが、何の歯止めもないままに、平和に暮らそうとする国民に対し、暴虐の牙を向けてきたのだ。ネオリベの本質は弱肉強食であり、社会の価値観が市場の資本論理だけに異常に収斂され、他の文化的精神的価値観が低位に置かれてしまう粗暴な社会である。ここでは伝統も文化も非効率で余計な物として淘汰され、粗暴な力や金銭のみがすべてを決定するかのような風潮が出ている。

 筆者はこういう世界を“福祉国家”とは対極に位置する“夜警国家”と呼ぶ。この夜警国家とは19世紀ドイツの社会学者フェルデナンド・ラッサールが、『労働者綱領』の中で編み出した言葉だ。これは小泉信三全集・第24巻に収録されている。夜警といえば、レンブラントの有名な“夜警”の絵を思い浮かべる方もいると思う。夜警国家とは文字通り、夜警化した国家であり、国家の存在理由が、夜盗や外国の侵略に対して警備する力を持つだけでいいという意味である。ラッサール自身はこれを、近代自由主義国家の成れの果てという皮肉をこめた意味で使っているが、筆者はこの夜警国家に小泉構造改革路線が行なった国造りを見る。小泉政権が激変的に敷いたネオリベ体制は、その遷移の行き着く先として、現代的な意味における夜警国家に向かっている。福祉政策はずたずたに破壊され、逆累進課税的に弱いものへ重税を課す傾向に極端に傾斜している今の日本は、国家という有機的な基本概念が崩れ去る手前にある。

「後期高齢者医療制度」、これは完全なる棄民政策であり、国家が国民を守らないという鮮明な意思表示となっているのだ。それどころか、積極的に国民を投げ捨てるとしか思えない姿勢を堂々と示しているのがこの法律に見えてくる。国家が国民を保護しないということは、国家が無機的に空洞化してきている証左なのだ。つまり後期高齢者医療制度が発案され、法律として具体化された時点で日本は夜警国家に成り下ったと言えるだろう。ここでは、ラッサールの使った夜警と言う意味が敷衍されていて、警護の対象が国民ではなく、日本にネオリベを敷設した特権階級だけを守るための夜警なのである。つまり、弱者も、障害者も、高齢者も、無用の長物として無残に切り捨ててしまう社会が実現しようとしている。この体制作りを加速するために、言論の自由が奪われてきているという現実が進行している。清和会を中心とした自民党買弁勢力は、人間の皮を被った鬼畜集団である。

 植草さんがセーフティネットを確立し、弱者を救済する社会システムを構築することを折に触れて熱弁するのは、単にヒューマニズムの観点だけからではないと思う。弱肉強食を自然状態で放置すれば、民心に希望が失せ、格差が強固に固定し、社会は極限的に不安定になる。暴動が発生し、凶悪犯罪が頻発しても不思議ではない社会が到来する。この状況は国力という大きな枠組みで眺めた場合、最悪である。外国に攻められて国が破綻することとは違い、内部から国力が脆弱化し、やがては崩壊することになる。つまりは国家概念の完全なる溶解である。こうなった場合、日本という国家は存在せず、極東の弓なり列島という土地があるだけである。国家が消滅するわけだから、外国の蹂躙し放題になる。ネオリベ主義者達は自分達に累が及ばなければ、外国が入ってきてもどうでもいいだろう。

 筆者が日本のネオリベ体制化に非常な危惧を抱くのは、それが国家崩壊に繋がるからである。国民はいまだに無自覚だが、小泉・竹中構造改革路線は、市場原理至上主義だけを特化して日本をネオリベ体制に切り替えた。これが向かう先は夜警国家、すなわち国家の崩壊なのである。竹中平蔵氏などの思想的基盤は、市場中心主義である。国家の影響を限りなく除外してすべてを市場の“神の見えざる手”に任せておけば万事上手く行くということである。しかし、市場に神は存在しない。そこにいるのは略奪志向だけの国際金融資本である。為政者と国民に、民族自立の精神と正統な国家観が甦らないと、日本の夜警国家路線は止まらないだろう。このままだと、子孫に美田を残す前に、国際金融資本の“見えざる手”によって、わが国の優良資産はことごとく吸い尽くされ、同時に固有の文明は溶解してしまうだろう。

  さて、後期高齢者医療制度については植草一秀さんが、バランスの取れた非常に整理された視点で問題の所在を浮き彫りにしているので、是非ともご覧になっていただきたい。

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_e256.html

 植草さんが言うように、後期高齢者医療制度は、小泉政権の「弱者切り捨て・弱肉強食礼賛・市場原理主義」政策の一環として制定された制度である。これはまったく本質を言い当てている。筆者はこの非人間的な制度をこう考える。人間の一生を存在論的に眺めると、生まれて成長し、青年期から壮年期にいたり、やがては年老いて死を迎える道程を踏む。ある時間範囲で眺めれば、人間個々には、生老病死という存在様態が不可分に付きまとう。単純に考えて、老いたから人間の自己同一性を失うわけでもなく、障害者になったから自己同一性を失うこともない。人間として存在した場合、生老病死は不可避であり、老いても息を引き取るまでは若者と等しい人間なのである。これを、病気に罹患しやすい生存様態に突入したから、その“老人様態”に自己責任を負えと言うのは、鬼畜の発想に他ならない。現役世代がお年寄りの面倒を見なくなったら、文明社会は秩序を保てずに崩壊するだろう。今の日本はそれが現実になってきているのだ。

 人間の生涯というスパンを眺めれば、後期高齢者だけを別枠の社会制度にくくりこむという発想がいかに馬鹿げたものか、おわかりだろう。保険の成立概念は相互扶助、相互互恵観念が基層にある。加入者すべてが等分にリスクを背負うから“保険”なのである。これを切り分けた場合、それは保険にはならないだろう。あと、日本には敬神崇祖の伝統がある。近しい先祖であるお年寄りを大事にしない社会は、日本人の自己同一性を捨てる行為に等しいのだ。これでいかにこの制度が非情で、人間の尊厳を無視したものかわかると思う。これを制定した鬼畜の自民党に、生き延びる資格はまったくないのだ。

 筆者が後期高齢者医療制度に対し、深奥から怒りがこみ上げているのは、小泉政権が人間存在を冒涜していると感じているからにほかならない。あれは長幼の序もないし、お年寄りへの感謝の気持ちも微塵もない。何度も言うが鬼畜政権と呼ぶ以外にない。

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2008年6月10日 (火)

IMFの管理下にはないけれど・・・、(いかりや爆さんの寄稿)

IMFの管理下にはないけれど・・・、

 IMFの管理下にはないけれど、日本経済はアメリカの思惑通りに動いている。軍事だけでなく、経済も実質的にアメリカの支配下にあるのと違いますか。
 白人たちの根源的思想は、表向きは「民主主義、自由と人権」ですが、「金と暴力」でしょう?

 何らかの圧力がない限り、また戦争などのような非常事態でもない限り、過去11年間も経済成長ゼロってことはあり得ない。

「超低金利と量的緩和」という強力な景気刺激策を採りながら、且つ前代未聞の500兆円という借金を膨らませて財政出動している。本来なら大きなインフレが生じても不思議ではない。ところが現実には、逆に日本経済の萎縮(デフレ)を生じさせた。

 前回述べたごとく、バブルを発生させ、バブルを潰し、景気悪化を誘導し、国の借金を膨らませ、そのあげくもっともらしい屁理屈(不良債権)をでっちあげて超低金利政策を10年以上も続けてきた。さらに景気刺激策と称して量的緩和政策まで打ち出した。日本の「超低金利と量的緩和」によって溢れた金は実体経済には流れず、世界に投機マネーとして流れ、金満家を太らせ、金融機関やヘッジファンド(通貨マフィア)らの餌食に利用された。経済成長なくして、日本人の金融資産だけが280兆円も膨らむはずがない。
 彼らの懐に入った金は、国家のTax(税金)の対象にもならず、坊主丸儲け状態である。このような馬鹿げたことが、何らの意図せずして起こり得るはずがない。アメリカの筋書き通りじゃないですか。

 骨太の方針、「努力した者が報われる社会を創る」と国民に甘い幻想をふりまきながら、その陰でアクセル(噴射)とブレーキ(逆噴射)を同時に踏むという怪しげな政策を採った。
 アメリカ発のグローバリゼーションと市場原理主義という効率一辺倒(儲け主義)の行き着く先は、企業のリストラと低賃金化を招き、1700万人を超す非正規労働者を発生させ、ワーキングプアーという働いても働いても豊かになれない人たちを大量生産した。アメリカの日本経済弱体化政策の賜物?とちがいますか。

 前回最後のほうで、「グローバリゼーションでは幸せはやってこない、いや日本はグローバリゼーションの最大の犠牲者である。日本人の多くはそれさえも認識できていない。欧米諸国の指導者たちはそれを知っているからこそ、日本を冷ややかに見つめている。」と記述した。

 ひょっとして、「日本の超低金利と量的緩和策」による美味しい果実は、『市場原理主義を信奉する世界の指導者?たちにも分け前の恩恵を与えた?来月の洞爺湖サミットは、さぞかし優雅な・・・』というのは悪い冗談だろうか。

 いつまでこのような不条理が放置され続けるのだろうか。アメリカだけを非難してもつまらない、アメリカの要望に唯々諾々として従う愚か、且つ売国的な政治家や政策責任者たちがいることを国民が知る必要がある。

蛇足1:特に地方財政の借金は深刻である。国からの財政支援がない限り、決して立ち直ることはあり得ない。日本全国が夕張市や大阪府のようになる恐れがある。自公政治家は財源がないと繰り返し、消費税アップの必要性を説くが、金満家たちが不当?に手にした280兆円を取り返すつもりは微塵もないらしい。
 
蛇足2:食料自給率40%を切っている。農水省が10年来自給率アップを目指して努力?しているが、その成果はでていない。そして今後さらに10年もこの状態が続けば、日本という国家基盤を支えている中小企業そのものが弱体化が進み、健康保健制度が崩壊、医療破壊が進み、年金制度の崩壊現象も現実のものとなるだろう。

蛇足3:自民党の「外国人材交流推進議員連盟」(会長=中川秀直)がまとめた日本の移民政策に関する提言案が7日、明らかになった。
人口減少社会において国力を伸ばすには、移民を大幅に受け入れる必要があるとし、「日本の総人口の10%(約1000万人)を移民が占める『多民族共生国家』を今後50年間で目指す」という。

 日本人労働者不足を安価な外国人で補うやりかた(無論彼はそういう表現はしていないが)は、アメリカそっくりな社会が実現する。日本人労働者の賃金低下を招き日本経済の活性化にもならない。少子化対策なら、日本人の収入を増やして安心して子育てできる社会の実現をめざすべきである。また労働力不足なら、70歳あるいはそれ以上まで働ける人は働く社会にすればすればいい、それだけで年金や健保問題にプラスするはずである。中川氏のやり方は信用できない。

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2008年6月 9日 (月)

昭和61年度に発行された政府貨幣(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第83弾です)

 昭和61年度末(1986年度末)の公債残高は143兆円に達していて、厳しい財政状態にあるとし、少しでも国債発行額を減らすという目的で政府貨幣が発行された。ちなみに、現在は国債発行残高は550兆円程度であり、国の借金ははるかに多くなった。当時は天皇陛下在位60周年記念という名目で、十万円の政府貨幣を1100万枚発行することにより、7526万円の財源を得た。このときは「天皇陛下ご即位記念のための十万円の貨幣の発行に関する法律」というものが制定された。

 もしも今、同様な法律を制定すれば、税とは別の財源として使えるのだろうか。例えば、洞爺湖サミット記念硬貨を発行したとする。硬貨をつくる経費以上に硬貨の価値を認めてもらって、それが十分売れれば、それだけ国庫にお金が入ってくる。しかし、これは景気対策としては余り意味がなさそうだ。なぜなら、これで何兆円、何十兆円の収益を挙げるのは無理だし、第一、この方法では、硬貨を国民に売る替わりにお金を国民から政府が受け取るわけで、お金が国民から政府に流れる点では、税金と似たところがある。

 国民に渡っているお金が少なすぎると、デフレになり、デフレ脱却を可能にする唯一の方法は、国民に痛みを与えるのでなく、国民にお金を渡すことだ。政府貨幣として記念硬貨を発行するのでは、逆にお金を国民から取り上げることになりそうだ。記念硬貨ではなく、高額紙幣(例えば百万円札とか、一億円札とか)を政府が発行し、それが日銀に渡し、日銀の金庫に入ったときに、国庫にそれと同額のお金が振り込まれるような制度にすれば、もちろん、景気対策が可能となり、政府は歳出拡大や減税などの方法で、そのお金を国民に渡すことができる。残念ながら、現在は、政府貨幣が日銀の金庫に入っただけでは、国庫にその金額が振り込まれるような制度にはなっていない。スティグリッツは制度を変えるとよいと言ったが、誰もそれを検討していない。

 最近は霞ヶ関埋蔵金の話が出てくる。埋蔵金を使えば、新規国債発行額を減らすことができたり、国債の償還に使うことにより国の借金を減らすことができる。一見よさそうに見えるが、これも要注意だ。埋蔵金は国債とか、株とかの金融商品で運用されている。巨額だから、それが一度に売り出されると、株や国債が値下がりしてしまう。埋蔵金は国が所有しているのだから、それを現金化すると、お金は国民から国に渡り、デフレに悪影響を与える。もし、売る相手が日銀であれば、その悪影響はなく、そこで入手した現金を国民のために使うのであれば、確実にデフレ脱却の方向に向かう。是非、その可能性を国に検討してもらいたい。

 ここまで話せばお分かりと思うが、単純に国の借金を減らすと、実質的には、お金を国民から取り上げ、デフレを悪化させてしまう。何も、国の借金は減らさなくてもよいと言っているのではない。減らし方が問題なのだ。国の経済を貧乏にしてしまったら、絶対に国の借金は減らないのだということを、しっかりと認識しておかねばならない。どこの国でも国の借金はどんどん増えている。しかし、GDPも増えているために、借金のGDP比は変わらない。日本だけはGDPが全くと言って増えないほど経済が停滞している。そういうときは、借金だけが増えてしまう結果になる。

 現在の日本は、名目GDPはほとんど増えなくなったし、当然給料も増えない。こんな国は世界中どこにもない。国の中を出回るお金が増えてこない。市中を出回る通貨量を示すのにマネーサプライ(通貨供給量)というものが使われている。これは出回っている現金や預金の総額である。これには郵貯は入っていなかったが、郵政民営化を受け、今度、郵貯も含めた「マネーストック」というものに変わるのだが、それはともかくとして、マネーサプライは過去どのように増加してきたかを下のグラフで示す。

Photo

 景気が良かった70年代、80年代はマネーサプライは10%ずつ前後増加していたが、デフレになってからは、増加率は0~5%である。小渕内閣の景気対策が行われたときは、伸び率が5%近くなったが、それ以外は伸び率は低調であった。景気対策でお金を刷って国民に渡し続けていれば、経済は正常化し、国民が豊かになり、その結果財政も豊かになれたのだが、小泉氏はそれを理解しなかった。

 デフレになる前には、景気対策などせずに、公定歩合の上げ下げで景気の調整はできた。これだけのマネーサプライの増加があったのは、大量のお金をどこかで刷っていたのである。それは、地価や株など資産インフレが誘因となっている。増えた資産価値を担保に企業は前年より多くのお金を借りることができたし、そのお金で企業を大きくし賃金も上げることができた。それが消費を伸ばし、さらに企業が利益を伸ばした。将来の不動産価格の値上がりを見込んで、より多くのお金を借りてマイホームを手に入れることができた。金を借りても、それを金庫にしまっておくのではなく、銀行に預けておくわけで、銀行は預かった金をどんどん貸し出しに回した。つまりぐるぐるお金が回っているわけで、このようにしてお金が膨れあがっている。その意味で、当時お金を刷っていたのは実質的には銀行ということになる。経済が拡大しているときは、このように銀行がお金をどんどん「刷れる」わけである。

 現在、経済拡大はピタリと止まった。止まっているのは日本だけだ。他の国のように、経済を成長軌道に戻すためには、一時的に国がお金を刷って国民に渡す必要がある。一度経済が拡大を始めれば、銀行がお金を刷り始めるので、国は刷るのを止めて良い。名目GDP成長率が6%を超える水準に達したら、銀行がお金を刷りすぎているということだから、要注意である。但し、成長が早まると、賃金が上がり、高所得者が激増し、累進課税だから、税収が飛躍的に伸びる。それは実質的には増税になっていて、自然にブレーキが掛かるし、そのとき大量のお金が国民から国に流れる仕組みになっている。経済成長が財政の急激な改善をもたらすことは、様々な人によってシミュレーションで示されている。

 未経験な政策だから政治家も勇気が要るのだろう。しかし、一時的にお金を刷って(日銀による買いオペ)国民にお金を十分渡せば、自立的な経済の成長が始まる。それは衰退する日本を、再び成長する日本に変えてくれる。

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『植草事件』を惹起した巨大な闇(3)

  京急偽装事件の契機になったと思われる植草氏によるネット言論

 小泉・竹中構造改革、あるいはその継承路線に内在する真の本質構造は『買弁』である。植草氏は小泉政権初期から、その性格を見抜いていた。平成15年(2003年)5月9日には、全国木材産業政治連盟が主催した講演会において、次のような小泉政権批判を行なっていたことでよくわかる。

 「一般的には改革派と抵抗勢力に分けられるが、中身をみると「亡国派と救国派」勢力という表現の方が正しいような気がする。我々が日本の国益を守る。国益とは日本の物は日本人が持つ。これが民族自決であり、日本の資産を全部外国の人が持つ状態を植民地という状態で、それは避けるべきである。」(12、「国益を損なう政策に厳重な警戒が必要」より)
http://www.zenmoku.jp/moku_kankei/keiei/uekusa_lec/11.html#12

 「知られざる真実ー勾留地にてー」を参照すると、この講演から11日前の4月28日には日経平均株価は7607円に下落していた。また、この講演のわずか8日後の5月17日に、植草氏は大阪にいた。桂文珍氏が司会する読売テレビの報道番組「ウェークアップ」に出演するためだった。日経新聞の朝刊は「りそな銀行実質国有化」を伝えていた。「りそな銀行実質国有化」報道は、2001年4月の小泉政権発足当時から植草氏が“警告してきた”「金融恐慌リスク」が現実化したことを意味していた。大銀行が破綻すれば他の企業に余波が及び金融恐慌を引き起こす。植草氏は小泉政権発足時から、この政権が主張する政策を敢行し続ければ日本経済は最悪の状況に陥ると指摘し続けてきた。国全体が当時の小泉政権を熱狂的に支持していた時に、植草氏は政権の反国益性を見抜いていた。当時の有識者の中では彼は明らかに突出した異端児的存在だった。

 「退出させるべき企業は市場から退出させる」と、徹底した自己責任原則をぶち上げていた小泉内閣は、その予想される単線的な処理方策、つまり悪しき企業の市場退散をせずに、何と預金保険法の抜け穴条項を使い、りそな銀行を救済した。(この経緯については彼の著書を読んでもらいたい)この行為は小泉政権の存立基盤を自己否定するものだった。ところが当時は民主党もマスコミもそのことはいっさい追及しなかったし、今もしていない。それどころか当時、マスコミは、小泉政権が金融問題を見事に解決して日本経済の再生に成功したかのような報道を行なった。植草氏はこれを、日本が偽装の魔術に閉じ込められた瞬間だったと言っている。いわば金融モラルをぶち壊す行為を、非常に適正な処理であったかのように糊塗・偽装したという話である。この話にはまだ重大な本質(うら)がある。植草氏はこの一連のりそな銀行救済処置に巨大な胡散臭さを嗅ぎ付け、そこには金融操作によるインサイダー取引があったのではないかという強い疑念を抱いた。

 植草氏が京急事件で逮捕されたのが2006年9月13日である。これを読んでいる方々には是非確認して欲しいことがある。植草氏が宮崎学氏が主催するネット「直言」で、りそなインサイダー疑惑の闇を最後にダイレクトに指摘していたのが、何と、逮捕7日前の9月6日なのである。その6日の記事、「第12回『失われた5年-小泉政権・負の総決算(6)』」ではこう書いてある。

 『小泉政権が2003年に金融処理における「自己責任原則」を放棄して税金による銀行救済に踏み切ったのは、米国の指導によった可能性が高い。米国の政権につながる金融勢力は、日本政府が金融恐慌をあおり、株価暴落を誘導しながら最終局面で銀行救済に踏み切ることを指導し、日本の優良資産を破格の値段で大量取得することに成功したものと思われる』

 当時の政権が、メディアを使ってこのような疑獄的な金融犯罪を行い、国民に対しては洗脳的偽装手法でごまかしていたとすれば、この本質をまともに見抜いた植草氏を、買弁勢力筋ははたして放擲して置くだろうか。よく考えていただきたい。植草氏がネットで上の記述を行なってから、わずか一週間後に京急事件は起きたのだ。これが偶然だと言えるだろうか。買弁勢力筋はかなり以前から植草氏の言動に神経を尖らせてきたが、りそなインサイダー疑惑に植草氏が言及するに及んで、ついに抑制がはずれ、植草氏をかねてから計画していた偽装犯罪に巻き込んだのではないだろうか。筆者は植草氏の京急偽装事件が始動した直接の契機は上の「第12回『失われた5年-小泉政権・負の総決算(6)』」ではないかと考えている。この記述は一般人のブロガーが、その場の思い込みで書きなぐったものとはわけが違うのだ。経済政策に精通するプロのエコノミストが書いたものなのだ。いかにネットといえども、その影響力は圧倒的である。植草氏は明らかに言論表現を封じられている。
                                          
 前回でも書いたが、植草氏は2001年の段階で痛烈に小泉政権批判を繰り返していた。2001年12月26日の夕刊フジに載った「『小沢一郎&植草一秀』ビック対談」で、小沢一郎氏は植草氏に対して、無意識に植草氏の未来を予見したような話を振っている。

小沢 僕らは少数派だけど、賛否を別にして明確に自分たちの主張を打ち出す政治集団があるということが大事だと思う。いまは自民党も他の政党も主張が何だか分からない。誤解されることがあっても、合理的な政治判断を下していくべき。植草さんも政府ににらまれているかもしれないけど(笑)、きちっと意見をおっしゃってるでしょ、それが大事なんだ。誰の前でも自分の考えた結論をきちっと言うことが、健全な社会のために必要なんだよ。

  小沢一郎という、これも傑出した政治家の第六感は、植草氏が時の政府に睨まれていることをこの時点で見抜いていた。小沢一郎と言えば、現在の自民党は、メディアの印象操作を使って、毎日のように小沢氏のイメージダウンを計っている。植草氏がブログで語ったように、自民党は小沢一郎氏をそうとうに恐れている。そのために小沢氏のイメージを落とすことに躍起となっている。

(つづく)

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2008年6月 8日 (日)

城内実さんと植草一秀さんに大いに期待する

  植草一秀さんと城内実さんは、エコノミストと政治家という立場の違いはあるが、彼らが怒りを持って立ち向かった『相手』はまったく同じである。それは憲政史上、最も国民と国益を毀損した政権、小泉官邸主導政権であった。城内さんは小泉純一郎氏と竹中平蔵氏のタッグで強制的に運ばれた売国法案・郵政民営化に真っ向から咬みついた。一方、植草さんは小泉施政のマクロ政策の誤りを痛烈に批判し、りそな銀行にまつわる金融操作の疑惑をストレートに指弾した。植草、城内両者に共通するキーパーソンは竹中平蔵氏であった。

 それはともかく、植草さんは迷惑防止条例違反が利用された偽装事件で、二回も逮捕され、不当な捜査と裁判で徹底的に名誉を剥奪されている。城内さんは、小泉政権の方針に異を唱えたために、自民党を追放され、静岡の選挙区では売国小泉チルドレン軍団の筆頭である片山さつき女史という刺客を差し向けられている。両者は、国民のために信念を貫いて、同じ政権筋から同じ悪意を浴びている。対峙した相手が同じなら、受難の原因も同じである。このご両者は政治や国民生活がどうあるべきかという考え方において、その基本理念や感性的とらえ方が非常によく似ている。たとえば植草さんも、城内さんも、関岡英之さんの『奪われる日本』を重く評価しているところや、買弁政策に熾烈な怒りを示していることなどである。

 城内実さんは2005年6月7日、「郵政民営化に関する特別委員会-9号」において、当時の竹中平蔵大臣に対して、外資による敵対的買収への防衛策について質問している。これに対して竹中大臣はのらりくらりとごまかし答弁をしている。ここで城内さんが買弁自民党清和会に決定的に睨まれてしまった質問をしている。それを紹介しよう。彼は竹中大臣にこのように訊ねたのだ。

 『そこで、質問ですけれども、郵政民営化準備室が発足したのが昨年の四月ですから、この昨年の四月から約一年間、現在に至るまで、郵政民営化準備室に対する、米国の官民関係者との間で郵政民営化問題についての会談、協議ないし申し入れ等、こういったものが何回程度行われたのか、教えていただきたいと思います。』

 これに対して竹中国務大臣は『昨年の四月二十六日から現在まで、郵政民営化準備室がアメリカの政府、民間関係者と十七回面談を行っているということでございます』と答えざるを得なかった。

 城内さんは、売国郵政民営化推進派の筆頭からじつに重要で決定的な言質を引き出しているのだ。これ一つでも、城内実という人物が、国益や国民の万民益を志向している本物の政治家であることは疑いようがないことだ。つまり、アメリカの飼い犬になって、年次改革要望書の実行を先頭に立って推進してきた竹中平蔵氏の最も触れられたくない部分を城内さんは見事にえぐりだしたのだ。じつは城内さんのこの功績は、植草さんが『りそなインサイダー疑惑』の基本構造に気が付き、それを果敢に指弾し、当時の関係者を調べろと言ったことに匹敵するのだ。竹中平蔵氏は郵政民営化準備室をスタートさせた2004年の4月から2005年の同時期までの約一年間、アメリカの官民関係者と郵政民営化に関して協議、ないし会談をしていた事実が城内さんによって"スッパ抜かれた"のだ。竹中氏が会っていた米国の官民関係者の正体は、日本に『年次改革要望書』を陰険にもたらした者達の一味であることは明らかだ。私は彼らが米国通商代表部(USTR)だったと思っている。密談の実態は、協議とか会談ではなく、郵政民営化の進捗状態について細かにテコ入れしたことと、竹中氏に対する強圧的な指令だった可能性がある。

 植草さんのりそなインサイダー疑惑指弾も、城内さんの郵政民営化指弾も、憲政史上、あるいは経済批評史上、まさに最大級の快挙であることは間違いないが、大手マスメディアは権力筋の飼い犬的存在に成り下がっているから、植草さんや城内さんの歴史的指弾を国民に知らせることはなかった。それどころか、植草さんに関して言うならば、メディアはその報道能力を目一杯動員して、彼の国策捜査の片棒を担いだのである。城内さんは最近、静岡新聞の陰険な報道操作にやられているのだ。このご両者はあきらかにいまだに小泉政権官邸主導勢力に睨まれている。もう少し植草さんのことを言っておこう。

 2006年9月13日、メディアが欣喜雀躍して飛びつき、大きく報じた事件があった。それはエコノミストの植草一秀さんが、京急電車内で女子高生に痴漢を働き、逮捕されたというニュースであった。私、神州の泉はメディアが一斉に流したこのニュース群を聞いたとき、大きな違和感を感じていた。それは被害者と称する女子高生も、逮捕したという二人の一般人の情報がまったくないことだった。どのニュースを見ても、植草さんが女子高生に触れたということと、2004年の品川手鏡事件を抱き併せて報道していたのだ。ここにはなぜか植草さん側の弁明が徹底的に不自然に省かれていた。私はセンセーショナルではあるが、内容的には奇妙に画一的で偏頗な報道に対し、強い不信感を抱かざるを得なかった。

 そこで、このニュースの続報を注視していたのだが、事件の真の構造を知りうる新たな追加情報はほとんど出てこなかった。出てくるものは事件の具体的な詳細ではなく、植草さんの性癖を面白おかしくあげつらうようなものばかりだった。高名なエコノミストが痴漢をやったという表面的な話題性のみが目立ち、一向に女子高生の素性も逮捕者の様相も知ることはできなかった。品川手鏡事件との関連性が取り沙汰されることはあっても、それ以前に、京急電車内で発生した事件については、事実としてどのようなことがあったのかを、少なくとも植草さん側の言い分もきちんと並列した上で報道しなければ、著しくバランスを欠いた報道になると思った。あの事件に関する初期報道は、ニュースの客観性に問題があり、メディア各社は、警察の出した一次情報だけを鵜呑みにした報道ばかりであった。

 私の見解だが、植草さんは、小泉政権を鋭く弾劾したために、米系国際金融資本の飼い犬的存在に成り下がった構造改革急進派に睨まれ、買弁勢力に国策捜査の罠を仕掛けられた可能性が決定的に高い。品川事件と京急事件、これらは二つとも官憲の介入した謀略的な偽装事件の疑いがすこぶる濃厚である。事件の詳細は植草さんの近著である『知られざる真実-勾留地にて-』に詳しい。事件そのものが政治的背景を持った国策捜査であった可能性は私のブログで何度も指摘しているので、興味があったら読んでいただきたいと思う。

 さて、私が言いたいのは、植草さんの経世済民感覚と、城内さんの持つ『万民幸福の原理』の基本心情が同じであるという話である。彼らは心情的な部分でよく似ているのである。二人とも自己の名声利得よりも、国民の幸福を希求し、その観点から折れない批判精神を貫いたために、外国資本の走狗となった買弁的構造改革派に睨まれたのである。今の日本は耳ざわりのよいリフォーム(構造改革)という名目の破壊作業によって満身創痍、とことん傷ついてしまったのだ。この疲弊を修復するには、城内さんと植草さんが力を出し合って、この日本を復興させることが必要だと思う。人間には目標が必要なように、国家にもグランドデザインが必要だ。彼らなら見事な国政デザインが必ず描ける。それが私の夢であり、強い願いである。政治には長幼の序という側面も重要であり、日本国の宰相に相応しい政治家は平沼赳夫さんや西村真悟さんなど、舵取りしてもらいたい政治家はあまたいると思うが、ここまで激しく傷つき、青息吐息の日本は思い切って、若い城内実さんを日本国総理大臣にしたらどうだろうか。今という時局は、経験値よりも志(こころざし)の高さこそが必要だ。そして、植草一秀さんを財務大臣兼金融大臣に登用し、財務省(旧大蔵省)主導の官僚利権構造を是正してもらい、彼の経世済民感覚による正しい金融財政政策を実行してもらうというのが私の強い願いでもある。この日本は若くて誠実な彼らの力を借りないと甦らないだろう。


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2008年6月 7日 (土)

『日本がIMFの管理下に』という発言には驚くばかり(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第82弾です)

 前回も書いたが、日本がIMFの管理下に置かれるかもしれないという発言には、本当に驚かされる。しかもそれが、竹中、塩川、柳澤という当時大臣であった方々が予算委員会で発言されたということは、私には余りにも衝撃的な事実であった。これら3氏が本当にそのようなことを考えていたとすれば、この3氏は経済に関しては余りにも経済音痴と言うべきである。しかし、私はこれが『しゃみせん』(相手をまどわすためにとる言動)ではないかと思えてくるのである。それどころか、ネバダ・レポートなるものが、そもそも財務省か竹中氏かの陰謀ではないかとさえ思えてくる。

 予算委員会の発言をみて分かるように、(以下のサイト参照)
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/001815420020214010.htm

 日本がIMFの管理下に置かれるかもしれないということを竹中、塩川、柳澤の3大臣は否定していない。皆さんは本当にそのような可能性があることを、この3氏が考えていたと思いますか。IMFとは世界の金持ちの国が、外国からの借金が出来なくなった国に対し、お金を出し合って基金をつくり、融通してやる替わりに、その基金の管理下に置いて支配しようというもの。いわば倒産をした会社を再生させようとするようなものでしょう。日本はアメリカに次いで多くのお金を拠出している世界第2位の大金持ちの国。その大金持ちの国がIMFから金を借りて事実上の破産をし、IMFの管理下になるのですか。そんな馬鹿なことを、この3大臣が考えていたと思いますか。それとも日本が外貨を多く持っていることを知らなかったのでしょうか!?

 問題のネバダ・レポートだが、これはアメリカのIMFに近い筋の専門家がまとめているものなのだそうだ。しかし、本当にアメリカのIMFに近い専門家がそんなことを言うのだろうか。IMFから日本が金を借りてIMFの管理下に入り、「公務員の総数、給料は三〇%以上カット、及びボーナスは例外なくすべてカット。二、公務員の退職金は一切認めない、一〇〇%カット。年金は一律三〇%カット。国債の利払いは五年から十年間停止。消費税を二〇%に引き上げる。課税最低限を引き下げ、年収百万円以上から徴税を行う。資産税を導入し、不動産に対しては公示価格の五%を課税。債券、社債については五から一五%の課税。それから、預金については一律ペイオフを実施し、第二段階として、預金を三〇%から四〇%カットする。」のだそうだ。

 これだけの超緊縮政策を取れば、もちろん、日本経済は大恐慌に陥り、アメリカからの輸入は激減するでしょうし、アメリカの貿易収支の赤字は一気に拡大するでしょう。アメリカは、日本にもっとアメリカ製品を買ってもらいたくて、再三景気を刺激して内需を拡大せよと要求を突きつけています。このレポートは、それと正反対の要求をし、しかも、貧乏な国のための基金であるIMFの基金から日本が金を借りなさいと言っている。そんな馬鹿なことをアメリカの専門家が要求するわけがない。アメリカがもっとIMFに金を出して、それを日本が借りるなんてことが考えられるだろうか。そんなことするくらいなら、日本がアメリカに貸している金を返してもらったほうがよほどましだ。それだけで、IMFが貸すことができる資金の10倍以上ある。それだけでなく、日本の毎年の所得収支(つまり利子や配当で外国から稼いでいる金)だけで、IMFの貸出可能額よりはるかに多いし、貿易黒字だって巨額である。日本にIMFから金を借りさせろという発想はアメリカの金融専門家から出てくることはあり得ない。

 では、誰があのレポートを書いたのか。ここからは、私の想像だが、これは日本の財務省か、竹中氏自身かによる陰謀ではないかと思う。つまり、彼らは日本国民を騙して、増税や歳出削減をやらせたい。だから再三、財政が厳しいなどと言い続けている。できれば財政破綻するぞと脅して、国民から金を巻き上げたいところだが、それをやれば、国債も危ないということになる。だから、外国からの圧力がかかったことにしたい。このレポートを、「アメリカのIMFに近い筋の専門家」から出たことにしてくれれば、日本がIMFにもっと金を出してやってもよいという交換条件提示した。金の力で何でもできるからこのような提案も十分考えられる。もっと直接的に、レポートを出してくれた関係者に多額の金が渡った可能性もある。実際、彼らは金の力で小野盛司の口封じにも圧力をかけ始めている。

 自分で書いておいて、それを素知らぬ顔で、予算委員会で答弁をする。典型的なしゃみせんだ。日本がIMFから金を借りるなどあり得ないと本当は思っていても、馬鹿な国民ならこの程度のレポートで騙すことができると思っている。実際、あのレポートで騙された人たちが、多くのサイトで国家破産について話し合っている。共通に言えることは、この程度の嘘に騙された哀れな人たちは、外国からの借金と日本国内で消化されている国債発行との区別がついていないことだ。外国からの借金で返済が出来なくなったときは、中央銀行がいくら自国通貨を発行しても、返済はできず、IMFの管理下に置かれるしかない。日本の見かけの借金は、通貨発行で簡単に片付く。それを税金で返そうなどと全く経済音痴の政策を続けているからどんどん国が没落して行っているだけだ。

 皆さんに訴えたい。あのようなレポートや政治家のしゃみせんに騙されてはいけない。意図的に国民を騙そうとしている政治家に怒るべきです。世界を代表する経済学者は、日本の借金の問題は、日銀が国債を買い取ることにより、簡単に片付くことを教えています。BBCのホームページにすら、日本にお金を刷れ(print yen)と書いていた。

The best chance might be to print yen by the trillion, and hand them out to the public until they feel rich and secure enough to actually spend some of their reserves.

 デフレは通貨発行により簡単に片付きます。デフレ時の緊縮財政は最悪で、それにより国は没落し、しかも借金は重くなる一方です。タクシー問題よりはるかに重要な問題が、あることを認識していただきたい。

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本日7日は『紙の爆弾』発売日

7_2   今日、鹿砦社の『紙の爆弾』7月号が発売されます。「神州の泉」管理人の記事が載っています。論考のおおまかな内容は、年次改革要望書に沿って、ネオリベ体制を性急に敷いた小泉政権以降、日本がどのような変化にさらされ、これからどうなっていくのかを考察しました。植草さんの弾圧事件と、鹿砦社・松岡さんの弾圧事件から、この日本が似非保守連中の策動によって、夜警国家へ変貌し始めていることを描いてみました。全9ページです。このまま構造改革派に政権を運営させておくと、著名人だけではなく、今度は一般の個人も狙ってくることは明らかです。明日はわが身になります。この趨勢は早く止めないといけません。人権擁護法案にしろ、共謀罪法案にしろ、電子投票制度にしろ、これらは国民の自由を剥奪する目的で出されているものです。今、喫緊の問題はネット規制の動きでしょう。国民はマスメディアの嘘報道、誘導報道に惑わされてはなりません。ネットや『紙の爆弾』のような権力に迎合しないメディアから真実の情報を汲み取ってください。

 翼賛傾向に向かっている今の日本は、言論表現の自由が本当に危うくなっています。私の論考は植草弾圧事件、松岡弾圧事件に国家の方向性の間違いを読み取り、国民に覚醒してもらいたいという一念で書いています。今の日本は右翼だ、左翼だという前に、言論の自由を早急に確保する必要があるのです。言論表現の自由を奪われたら、国民は小泉純一郎氏や竹中平蔵氏のような国民をまったく省みない破壊的な為政者の意のままに操られます。このままだと、われわれは悲惨な奴隷国民になってしまうでしょう。私は植草さんの勇敢な小泉政権指弾をけっして忘れません。彼こそ真の英雄なのです。そして松岡さんの巨悪弾劾行為も立派としか言いようのないものです。国民は鹿砦社の弾圧に危険な徴候を汲み取らないといけません。今、売国構造改革路線に国民が立ち向かうには、このお二人の真の勇気と、凛とした行為に学ぶことです。皆さんには『紙の爆弾』を手にとって、是非、私の思いを汲み取っていただきたいと思います。以下は記事のほんの一部です。
____________________________________

 「鹿砦社・松岡利康大弾圧事件は夜警国家変貌への証し」
                                 植草事件を検証する会 高橋博彦

 一 仮借なき「長期人質司法」の深奥に見えてくるもの(4ページ)

(一部抜粋します)
Photo_2  グローバリゼーションという国際金融資本が仕掛けたインチキ外来思潮は、買弁勢力を手駒にし、さまざまな悪辣な手口を使って日本をネオリベ社会に改変しつつある。
 この動きが先鋭化したのが小泉政権だった。植草氏や松岡氏への言論弾圧は国家構造の急激な改変作業の中で出てきたものだ。アメリカの対日「年次改革要望書」のプログラムに従った買弁勢力中枢は、郵政民営化という国富朝貢作戦を展開した。国民労働の結晶である350兆円もの郵政資金を米系金融資本に提供し、日本各地の優良資産を二束三文でハゲタカ系の外資に売り渡す政策が目的であった。彼らは徹底的に外資に有利な規制緩和を敢行し、それを聖域なき構造改革と呼んでいた。国富を宗主国に貢ぎ、そのおこぼれに預かろうとした犬畜生にも劣る連中は、メディアを掌握することによって世論形成を徹底的に封じた。これが小泉政権五年半で起こった破壊的な日本改変であった。

 畢竟、小泉・竹中構造改革とは売国のためのシステム造りだった。この危険性を見抜き、これに異を唱える政治家やジャーナリストなど、良心派有識者は抵抗勢力なるレッテルを貼られ、徹底的に表舞台から引き摺り下ろされた。その象徴的有識者がエコノミストの植草一秀氏であった。

 また、鹿砦社の松岡利康氏は郵政解散総選挙が目前に迫る2005年7月にガサ入れと不当拘束に出遭っているが、当時はアメリカ通商代表部の意向を汲んだメディアの報道統制が最も先鋭化していた時期でもあった。したがって、松岡氏への唐突で異常な弾圧も小泉政権による国策パラダイムの転換とけっして無縁ではない。自民党清和会を中心とする買弁勢力は、売国的構造改革路線を批判する者はもちろんのこと、天下りなど官僚利権構造の温存を批判する者たちも許さなかった。松岡氏の逮捕勾留は、氏が警察官僚天下り企業の不正を糾弾したからである。

 構造改革は、所得格差や消費格差の経済格差として出たが、この弊害は教育格差や希望格差などの文化的格差まで助長し、ネオリベラリズム特有の階級社会を固定化し始めた。この動きに呼応して、権力は反ネオリベ的な姿勢を持つ個人や出版社に表現弾圧の志向を強め、ついには鹿砦社が露骨な言論弾圧を受けた。

二 強者が弱者を狙い撃つ暗黒の夜警国家(2ページ)

三 巨悪を指弾した松岡氏と特別取材班(半ページ)

四  現今メディアに浸透する棄民体質(半ページ)

五 危殆に瀕する「言論の自由」(2ページ)

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2008年6月 6日 (金)

第52回 日本経済復活の会 定例会開催のお知らせ

日本経済復活の会 会長 小野盛司


○日時 平成20年6月26日(木)午後6時~午後9時

○場所 東京都千代田区九段北4-2-25 アルカディア市ヶ谷(私学会館)
    TEL:03-3261-9921

○会費 3500円(資料代や食事・飲み物の費用を含みます)

○講師 盛田耕二 先生 産業技術総合研究所 エネルギー技術研究部門、
            熱・流体システムグループ、客員研究員
            『足下に眠っている豊富な地熱資源を生かす』

  限りある地球のエネルギー資源の持続的有効利用を図り、同時に地球温暖化を防止することが求められています。わが国では豊富な地熱資源が眠っています。地球に優しい冷暖房システムや地熱発電などに関して、第一線の研究者に話していただき、これが地球や没落する日本を救う手段になるうるかについて一緒に議論していきたいと考えます。

○講師 小野 盛司 日本経済復活の会会長

  会の活動報告
  ―日本経済復活への道―


当会合に関する一切の問い合わせと、御来会の可否は小野(03-3823-5233)宛にお願いします。メール(下記参照)でも結構です。弁当の注文や配布物の準備等ありますので、申し込みはできるだけ早めに行って下さるよう、ご協力お願いします。

【ご案内図】

Photo

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今、起きつつある日本の変化

  政治ブログのランキングをやり始めて一年半くらい経つが、昨日初めて25位内に入った。今まで26位や27位まで行ったことはあるが、やはり25位以内は嬉しい気持ちである。これも、日本経済復活の会の小野盛司会長の精力的な投稿、いかりや爆さん、ななしさん、JAXVNさん、その他の皆さんの力が大きいと思う。ありがたいことである。私一人の力では25位の壁を突破できなかっただろう。

 「神州の泉」を始めたのが2005年の9月27日である。それから約二年八ヶ月続けたことになる。開始日27日の記事が「溶解を早める日本」というタイトルで、小泉純一郎氏が強行した郵政民営化総選挙の後でもあり、筆者は小泉施政に対してかなり憤っていたようだ。当時、ブログを始めた動機は、その後9月29日の「驟雨にけむる父の姿」のように、日本固有の自然の中に住む日本人と、そこから生まれる精神文化について書きたいという思いがあったようだ。ところが小泉政権の非道なる性格と破壊性を見て、怒り心頭に達していた筆者は、その後の記事が勢い政治的な話にならざるを得なくなっていた。そのうちに、西村真悟議員が微罪で逮捕されたことを見て、国策捜査が実際に起きていることを悟り、植草さんが2004年に品川駅で遭遇した事件についても、筆者は国策捜査の疑念を抱くようになっていた。

 ブログを始めて一年後の9月13日、奇しくもこの日は筆者の誕生日でもあるが、植草さんは京急電車内で偽装事件に嵌められたのである。植草さんのように、セーフティネットを大切にし、国民の一割の不遇の人たちへの思いやりを経済理念の基層に置いているエコノミストが逮捕されてしまうことは尋常なことではないと思っていた。案の定、調べてみたら植草さんは小泉政権批判の先鋒を担いでいたことがわかった。彼は御用学者の対極を行き、歯に衣を着せぬ舌鋒で小泉・竹中路線を批判していた。筆者は即座に思った。郵政造反組をけっして容赦せず、その政治生命まで奪おうと憎悪を爆発させた小泉官邸主導勢力は、植草さんをけっして放置しないだろうということは自明の理であった。そういう観点が元になって、植草事件国策捜査論を弊ブログで展開してきた。

 日本は小泉政権以降、ネオリベ構造の究極相として夜警国家に向かっている。下記は弊ブログの読者さんである「ななしさん」の投稿であるが、昨今日本の変化をよくとらえていると思う。特に彼が、エスタブリッシュメントが日本に新自由主義を敷いた理由を、「米英のような階級分化社会と世襲制社会にするのが本来の目的なんじゃないかと。」述べているのは至言だと思う。私も権力筋の目的が階級分化社会の設立にあると考えていたからだ。まさにこれはネオリベ社会の極相社会であり、一部の特権階級だけの利得社会ができあがりつつあると思う。大手マスメディアはその目的に向かって情報操作に躍起であり、国民が真相をつかめないように、巧妙に世論誘導をしながら洗脳報道を続けている。

 では、ななしさんのコメントを読んでいただこう。
____________________________________
植草氏逮捕は反新自由主義、反小泉改革勢力に対する強烈なメッセージと圧力になりますね。これが最大のメリットでしょうかね。
戦前の共産主義弾圧や反戦主義者の弾圧にも重なりますね。
最近の風潮としては、旧経世会いわゆる旧田中派のようなケインズ主義者を排除しようと言う傾向がありますね。
新自由主義者の傾向としては、景気回復や財政再建を錦の御旗にして構造改悪をやりたいだけなんじゃないかと思われます。
米英のような階級分化社会と世襲制社会にするのが本来の目的なんじゃないかと。
マスコミはしきりといざなぎ以来の好景気だとか、戦後最長の景気拡大期だとか宣伝していますが、名目成長率で見れば景気拡大どころか停滞したまんまです。
ドル換算で見ますとむしろ景気は後退しております。
そこまでして国民の目を欺いてやろうとしてる改革って誰の為なんでしょうね。
多くの国民の為じゃあ無いのは明らかですね。
それから植草氏の言われる構造改革はまさに官→民ですが、小泉改革では官→財、あるいは日系資本→外資、日本人→害人への利益移転と言うのが正しいでしょうね。
なぜかメディアの批判の俎上に上らなくなった財務省、経産省、日銀、与党のバックには米英資本が控えてると思いますね。
じゃないとこんな無茶な事は出来んでしょう。
もちろんマスメディアのバックにも彼らはいます。
一昔前の広告主と比較すれば明らかでしょう。
更に創価学会と統一協会と言うカルト宗教の人脈や組織票も控えています。
ブッシュ大統領が創価の集会にビデオメッセージを寄せたり、国際金融資本の根拠地NYが池田大作氏を名誉市民にしているのも改革とは無関係じゃあないでしょう。
彼らの組織票が多大な貢献をしましたから。
気が付いてみれば日本はトンデモない方向に向かってる気がしますね。
おそらく内閣府のインチキ臭い経済モデルも構造改革とやらを正当化する為に恣意的なものになってるんでしょうね。
まさに手段を選んでません。

投稿 ななし | 2008年6月 5日 (木) 11時15分
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2008年6月 5日 (木)

雑談日記のSOBAさんへ伝言!!

同志SOBAさんへ伝言です!!

 ご存知の通り、植草さんが「blog植草一秀の『知られざる真実』」で精力的に基本信念を披瀝し始めており、ブログランキングでも上位に位置しています。今、日毎に多くの人々の耳目を強く集めつつあります。

 植草さんが個人ブログを発信ツールとして積極的に活用し始めたことは画期的です。今、ネットを介して、そうとう効果的に植草事件の真実や、小泉売国構造改革路線の真相が彼によって語られようとしています。

 この動きに、地獄の小泉構造改革継承派が黙っているとは思えません。彼らは植草さんに対して有形無形の攻撃を仕掛けてくる公算が高いと考えています。ようやく著書やネットを通じて反撃に転じ始めた植草さんを、またしても彼らの毒牙に掛けるわけには行きません。そこでSOBAさんにも、またSOBAさんが造ったバナーを貼って頂いている多くのブロガーの皆さんにも、注意を喚起していただきたいと思う。

 植草さんに売国勢力が手出しをできないように、われわれがしっかりと見守っているんだぞということを、今、新たに呼びかけたいということです。植草さんのブログ発信は、われわれ一般人のそれとは影響力が桁違いに違います。だからこそ、彼を陥れた勢力にとっては、この情況が非常に厄介だと考えていることは間違いないことです。

 私は何度でも言いますが、小泉政権の国益毀損を阻止しようとして、初期から果敢に批判や指弾を繰り返していた植草さんは今こそ高く評価されるべきお人なのです。国民が小泉内閣発足当時から植草さんの真摯な言葉に慎重に耳を傾けていれば、障害者自立支援法や後期高齢者医療制度、逆累進課税傾向など、数々の悪しき格差政策は実現しなかった可能性があります。今、かなり多くの人たちが植草さんの先見性を認めつつあるはずです。だからこそ、われわれは、これ以上、彼を理不尽な目に遭わせるわけには行きません。彼の勇気と弱者への同胞愛に報いることです。

 同志のSOBAさん、植草さんブログを側面から強力にサポートする必要がありますね。権力筋に対して、われわれがしっかりと見張っているんだぞという姿勢を見せましょう。 SOBAさんのバナーに賛同している85人のブロガーさんがいます。それ以外にも植草さんを応援している人は数多くいるはずです。多くの人たちが植草さんの言動を注視し、売国構造改革派が何をやるのかと厳しい目で見ていることを知らせましょう。

 よろしく
                   神州の泉  HIRO

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日本がIMFの管理下に??(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第81弾です)

 日本がIMFの管理下に置かれるかも知れないという話が、様々なサイトで議論されているようだ。どうしようもない経済オンチが世の中にはいるものだと、私はあきれて、とてもこの話題をここで取り上げようとは思わなかった。しかし、これが衆議院予算委員会で取り上げられたというからお笑いである。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

第154回国会 予算委員会 第10号(平成14年2月14日(木曜日)

○五十嵐委員  私のところに一つレポートがございます。ネバダ・レポートというものです。これは、アメリカのIMFに近い筋の専門家がまとめているものなんですけれども、この中にどういうことが書いてあるか。

 ネバダ・レポートの中でも、昨年の九月七日に配信されたものなんですけれども、IMF審査の受け入れの前に、小泉総理の、日本の税収は五十兆円ほどしかない、今の八十五兆円を超える予算は異常なんですという発言があります。これを大変重視して、当然だと言っているんです。

 同時に、九月上旬、ワシントンで、私、柳澤大臣と行き会いましたけれども、そのときに、柳澤大臣が記者会見をワシントンでされていまして、IMFプログラムを受け入れるという発言をされていますね。これは御確認をさせていただきたいんですが、そのとおりですか。

○柳澤国務大臣  IMFのFSAP、これは受け入れます。これはもともとがG7の国で発案をしたものでして、それをいつやるかということを我々も考えておりましたが、我々の方はペイオフという大事業があるので、生まれたばかりの役所でマンパワーがとかく不足であるというようなこともありまして、少しそのタイミングを見計 らったということが背景で、今回、そういうことを正式に表明したということでございます。

○五十嵐委員  極めて狭い意味、いわゆる金融のIMFによる検査という意味で柳澤大臣は使われているんですが、IMFの方では、金融面のプログラム、それは検査だけではないと思いますが、いわゆるIMFのプログラムの中には、金融面とそうでない部分があるんですね。主に我々も金融面をとらえているし、その検査も含めて、 柳澤大臣も金融面のことを頭に置かれているというふうに思うんですが、このネバダ・レポートの中ではこの二つの発言を評価しておりまして、これが当たり前なんだということを言っております。つまり、バランスバジェット、収支均衡というのが極めてIMFでは重視されるんだということを言っておりまして、もし IMF管理下に日本が入ったとすれば、八項目のプログラムが実行されるだろうということを述べているのであります。
 手元にありますが、その八項目というのは大変ショッキングであります。

公務員の総数、給料は三〇%以上カット、及びボーナスは例外なくすべてカット。
二、公務員の退職金は一切認めない、一〇〇%カット。
年金は一律三〇%カット。
国債の利払いは五年から十年間停止。
消費税を二〇%に引き上げる。
課税最低限を引き下げ、年収百万円以上から徴税を行う。
資産税を導入し、不動産に対しては公示価格の五%を課税。
債券、社債については五から一五%の課税。
それか ら、預金については一律ペイオフを実施し、
第二段階として、預金を三〇%から四〇%カットする。

大変厳しい見方がなされている。
 これはどういうことか。そのぐらい収支均衡というのは大事なんだ、経済を立て直すためには極めて大事なんだということを、世界の常識となっているということを示しているわけであります。
 こういう認識をお持ちになっているかどうか、財務大臣、竹中大臣、伺いたいと思います。

○塩川国務大臣 数字の面でいろいろ議論ございますけれども、私は、今おっしゃったような厳しい認識は持っております。

○竹中国務大臣 短期的に常に均衡させることが重要かどうかということについては、当然のことながら議論が御承知のとおりありますけれども、長期的にやはり持続可能であるためには、それはまさにプライマリーバランスを均衡させなければいけないと強く思っております。
_____________________________________

 日本がIMFの管理下に入るという議論がいかに馬鹿げているかを述べたい。確かに、外国から借金している国は、借金返済ができなくなり、IMFの管理下に入るかもしれない。しかし、日本は世界の中で外国に金を最も多く貸している国の一つだ。つまり世界で最も金持ちの国の一つなのである。IFMに拠出している額もアメリカに次いで2位である。IMFからドルを借りる必要は全くない。

 IMFが貸せる額は全部合わせてもせいぜい10兆円だ。日本はアメリカ等に100兆円も貸している。その日本がIMFに金を貸してくれと頼むのですか!?確かに日本政府は800兆円の借金がある。それをIMFが肩代わりですか。そんな金をIMFは持っていない。もしIMFが、世界中から800兆円を強引に集めて日本政府に貸そうとしたとします。それは非難ゴウゴウでしょう。貧乏な国から金を巻き上げて、世界で最も金を貯め込んでいる国に貸そうという話ですから。

 しかも、IMFが世界中から集められるのはドルであって、円ではありません。日本政府はドルは有り余るほど持っているのです。日本政府に足りないのは円なのです。800兆円の円を刷れるのは、世界中で日本銀行だけなのです。もし、IMFが800兆円分のドルを持ってきたとしましょう。それを日本政府が財政に使うには円に替えなければなりません。そんな円はどこにもありませんから、結局日銀が刷るしかありません。しかし、日銀は世界中の貧乏な国から集めてきたドルなどなくても、いつでも、そしていくらでも日銀は円を刷ることはできるのです。それを理由もなく拒否しているために、政府も地方も国民も病院も学校も介護施設もお金が足りなくて困り果てています。自殺者も多数でています。年金も危なくなっています。

 日本がIMFの管理下に置かれるのではないか、つまりIMFから金を借りようという馬鹿な議論は止めましょう。IMFから1兆円や2兆円貸してもらっても何にもなりません。IMFのお金は世界の貧しい国のために使うべきです。日本には円をいくらでも刷っても良いという権利が与えられています。この権利は世界に対する義務でもあり、きちんと行使して、日本経済を復活させようではありませんか。そのお金は、やがて世界にも流れ出し、貧しい国をも助けるのです。

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鹿砦社弾圧三周年、「今、表現の自由を考える集い」

 7月12日の集いにご参加願う!!(神戸)

 自己宣伝のようで恐縮なのだが、7日に発売される月刊『紙の爆弾』に筆者の記事が掲載されている。その内容は鹿砦社言論弾圧事件と、植草さんの弾圧事件に共通する時代背景を「神州の泉」の目線で分析したつもりである。

 今から三年前の7月12日、鹿砦社・社長の松岡利康さんは、いきなり官憲に、事務所や家宅の強制捜査に遭い、身柄を拘束された。そして、そのまま192日間の勾留を受けたのである。名誉毀損の疑いである。一方、植草さんは132日の勾留に遭っている。長期人質司法の苛烈さは、経験したものにしかわからない苦痛だと思うが、このお二人に権力筋が取った対応は異常としか言いようがない。両者に共通することは、言論弾圧にほかならない。もう一つは両者とも「見せしめ」になっている。「紙の爆弾」に載った原稿用紙30枚分の拙稿は、日本の統治体制が、福祉国家とは正反対の夜警国家に変貌し始めているという論調で書かれている。

 植草さんや松岡さんが遭遇した言論弾圧は、筆者の定点観測で言うなら、日本が翼賛傾向に傾きつつ夜警国家へ向かっている中で起きている出来事である。したがって、国民がこの趨勢を感じ取り、目覚めて抵抗しなければ、やがては後戻りできなくなる不自由な時代が到来することを警告したつもりである。鹿砦社の弾圧事件はメディアが冷たく無視したために、国民レベルでは周知の事実として認識されていない。しかし、この弾圧事件が意味することは、これを放置しておけば、国全体に言論統制が行き渡ってしまう危険性がある。今、喫緊に憂慮していることはネットへの言論統制の動きである。ネットが封じられたら日本はもうおしまいである。皆さんには必死で抵抗していただきたい。

 今年の7月12日は、鹿砦社弾圧事件から三周年であり、松岡氏が不当に裁かれた神戸地裁の近くで「今、表現の自由を考える集い」という集会が開かれる。基調講演は上智大学教授の田島康彦氏(憲法、メディア法)が行なうが、題目は「表現の自由をめぐる情況と鹿砦社言論弾圧事件」である。

 小泉政権以降、テレビや新聞という大メディアは権力の走狗と化し、国民には有益な情報は伝わらないようになっている。それどころか、大手メディアは露骨に世論誘導を行なうようになっている。昨年の総裁レースで読売系が世論操作に加担したことは忘れてはならないことだ。また、植草さん報道も間違いなくこうした動きの一環である。こういうトレンドの中で、個人への言論弾圧が増えてきたように思う。こういう趨勢に危機意識を抱いている人たちは是非この集会に参加していただいて、言論の自由と表現の自由の重要さをつよく感得して欲しいと思う。

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2008年6月 4日 (水)

『植草事件』を惹起した巨大な闇(2)

 植草一秀氏が小泉政権糾弾者の筆頭であったというメディアがけっして報じない事実

 筆者がタイトルとして名づけた『植草事件』とは、2004年4月8日に品川駅構内エスカレータで起きた、いわゆる「手鏡事件」と、2006年9月13日に京急電車内で起きた事件の併せて二件を意味している。これら二つの案件は、ともに背景に政治的謀略が介在する国策捜査の疑いがきわめて濃厚だ。つまり、二件とも、事実無根の植草氏に対して強制的に偽装事件が被せられ、彼は否応なく犯罪者としてイメージ付けられてしまったという経緯である。以下、これら二件の植草事件を個別に言う場合は、便宜上『品川事件』、『京急事件』と呼ぶことにする。

 さて、植草氏が時の政権政策とはまったくかかわりのない職種の人間であったとしよう。その場合、たとえば事件そのものがまったく植草氏の身に覚えのない冤罪であっても、そのことが報道されるときは、著名人の醜聞という報道様態で出てきても何ら不思議ではない。つまり「スキャンダリズム」の報道視点が取られることはごく当たり前であろう。しかし、独自の景況分析をわかりやすく説明できて、歯に衣を着せぬ鋭敏な政策批判を果敢にやってきた植草氏の場合は、『政策提言ができる稀有なエコノミスト』として、世論に重大な影響を与えうる存在であったことは論を待たない。植草氏がテレビで経済分析や政策の解説を行うと、論理明晰で視聴者には非常にわかりやすいという特徴があった。つまり、抜群の説得力があるのである。

 ここで読者に一考してもらいたいが、抜群の分析力と説得力を持つ植草氏が、テレビや他のメディアで小泉政権の方針を痛烈に批判した場合、官邸筋は彼に対してどういう姿勢を取るのだろうか。彼が大した論拠も持たずに出まかせ的な言辞を弄するエコノミストであったなら政府筋は黙認するだろう。しかし、あの小泉政権が植草氏に対してそういう風に鷹揚な黙殺で済ませられただろうか。結論から言えば、官邸主導勢力が植草氏の言論表現を封じる工作に取り掛かったとしても何ら不思議ではない。むしろ権謀術数が渦巻く政界では、氏の言論活動に対して、合法非合法な妨害工作に出る蓋然性はつとに高い。だから、痴漢犯罪に冤罪の可能性があり、しかも、被疑者が政権筋に政敵として位置づけられていた場合、冤罪は謀略の様相を帯びてくる可能性がある。植草事件の場合、メディアはその可能性を捨象してはならないのであるが、どういうわけか、メディアは冤罪の可能性も謀略の可能性にもまったく触れないでいる。彼らは頭ごなしに一様に植草事件を既遂事実として報道しているのだ。

 筆者は植草報道について、メディアは著しく偏った報道視点で捉えていると再三再四語ってきた。植草氏と小泉政権との間には、ただならぬ軋轢、政策上の反目があったという重要な事実をマスメディアは故意に語らない。メディアがかたくなに取っているこの偏頗性(メディア・コントロール)は、事件そのものの報道様態に植草氏側の弁明が極端に少ないというアンバランスに集中して見られた。また、それと同時に非常に奇異な点は、彼の経歴報道についても感じられるのだ。それは、氏の学歴や職歴は簡潔に伝えているのだが、肝心のエコノミストとしての彼の職能的特徴を何一つ伝えていないのである。

 これはかえって奇妙としか言いようがない。植草氏のエコノミストとしての専門は三つある。一つはマクロ経済という総体的な観点から分析する日本経済論。二番目は金融論。そして三番目が彼が最も得意とする経済政策論である。植草事件の本質と、この三番目の経済政策論には密接な関係がある。知ってもらいたいことは、植草氏の職能的経済分析は他のエコノミストと異なり、井戸端会議的な衒学性は微塵もなく、それは日本の方向性を決定付ける重要な政策立案に寄与できる実践的なものだ。政府が国策的経済政策を遂行する上で、植草氏が重要な提言者として重い位置を占めていたことをマスコミは伝えていなかった。政策論が得意なエコノミストは時の政権が最も頼りとする力になりうるが、その反面、このエコノミストが政府のマクロ政策に反旗を翻した時、それは政権にとって最も脅威の存在となりうる。ましてや彼がテレビで説得力のある説明ができるとなれば政権筋にとってはなおさら脅威であろう。植草氏と小泉政権の関係はまさにこの対立構図にあったのだ。小泉政権は構造改革を批判する者は一括して“抵抗勢力”というレッテルを貼り、自民党から排斥した。その顕著な事例が郵政造反組みへ行なった党籍剥奪であった。郵政民営化というシングルイシューに反対した党員たちを不倶戴天の敵と断じ、彼らを党外に追放したのみか、非情にも追放者たちの各選挙区に刺客と称する落下傘候補を投入した。この憎悪と敵意は政党政治の常軌を逸したものだ。

 郵政造反者にこういう熾烈な憎悪を差し向け、非情な振る舞いにおよんだ行動から類推して、小泉官邸主導勢力が反小泉派筆頭であった植草氏に対して、鷹揚に構えたまま何もしないと考える方がはるかに無理がある。これが植草事件の報道において、メディアがスルーした重要な点である。植草氏が小泉政権批判の筆頭であったという説明は、植草事件の報道から巧妙に除外されているのである。植草氏が小泉政権のマクロ政策の方向性の間違いを指摘すると同時に、今から10年も前から財務省主導による官僚利権構造の打破を積極的に訴えていたことも重要な観点である。宮沢-クリントン合意によって『年次改革要望書』が実現したのが1994年である。国益毀損政策がここから始動している。植草氏がこの辺りから、アメリカの対日経済占領に協力する官僚に睨まれていた可能性は大きい。年次改革要望書は国民の知らない間に生まれていた。

 日本がただ単に隷属的内政干渉に合意したとは考えにくい。ここには財務省の省益である官僚利権構造の温存と、国益毀損的な年次改革要望書敷設の併存という密約があったかもしれない。いくら宗主国の圧力がこの陰湿な対日要求指令書という形を取ったとしても、買弁勢力が何の利得もなしに外国資本に国富の移転を計るわけがない。アメリカは対日要求を大蔵省に飲ませる対価として、官僚利権という省益を保障したのだろう。年次改革要望書は小泉政権に至って最も先鋭的に具体化している。それが郵政民営化である。畢竟、小泉・竹中構造改革路線とは年次改革要望書を確実に具現化するための規制緩和政策であり、外国資本への国富移転政策だったのだ。植草一秀という非凡なエコノミストの洞察力は小泉政権の買弁性格を初期から見抜いていたのだ。彼は国益と国民益の強い思いから小泉政権を果敢に糾弾した。植草氏が小泉政権と熾烈に反目していたことを、メディアが事件報道からきれいに取り除いた理由はただ一つ。それは二度にわたる植草案件が、国策的な謀略で嵌められた可能性を国民に考えさせないためである。筆者は初期報道の不自然さにこの可能性を強く感じ取っていた。メディアの報道様態の不自然さと、二度の事件そのものの客観的具体性の中に、植草事件が謀略である可能性は強く湧出している。現今メディアが権力の走狗となっている事実を考えれば、メディアが植草事件の謀略に一役買っていることは充分に考えられるのだ。筆者にはその論証を行なう用意がある。

 以上の理由から、御用学者とは対極に位置する良心派エコノミストである植草氏の場合は、その言論活動に強い政治性がまとわりついていることがおわかりだろう。このような背景を有したエコノミストが巻き込まれた事件を、表層的な『スキャンダリズム』の位相だけで見ていいはずはない。今後展開していく予定であるが、植草氏に関わる二度の案件を冷静に検証すれば謀略の可能性が色濃く反映されていることがわかる。そのことを筆者は何度でも力説する。

 ここに植草氏が第一次小泉内閣の時点で、どのような政権批判を行なっていたか、その一端を披瀝する。以下は夕刊フジに載った2001年12月26日の 「『小沢一郎&植草一秀』ビック対談」から、植草氏による小泉政権批判を抜粋したものである。 
          
    http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/2001/02.htm

植草 小泉内閣は「構造改革」という看板を掲げているが、実際は「不良債権の処理」と称する問題企業の破綻推進と、「財政再建」という名の下で緊縮財政を進めている。常識的に考えて、マクロの政策で景気を悪化させながら企業破綻を促進すれば、事態は一段と悪化するだけ。当然、株価も地価も下がり、不良債権問題は拡大していく。

植草 首相の掲げる改革の精神も問題、宗教家や哲学者、教育者ならば「なるほど」と思うが、経済政策は実学であり、専門知識に基づいた木目細かい運営が必要。ところが、経済のメカニズムを無視して理念や哲学だけで突っ走っているため、経済がどんどん悪化している。この段階での改革はある種の手術に近く、点滴や麻酔と輸血が不可欠だが、首相は患者の血を抜き、断食を強いて、力がなくなってからメスを入れている。これは改革ではなく傷害や殺人に近い。

植草 最大の構造改革は、国の政策決定における財務省の影響を排除することだが、いまや永田町は財務省に占拠された状況で、経済財政諮問会議も裏側は財務省一色。日本がいま景気が悪いのは、景気対策が効かなかったためではなく、実際は良くなりかけたときに?、逆噴射?・したことが最大の問題点なのに、財務省による情報操作でそこに人々の目が向かないように腐心している。

 小泉元首相のやり方を「傷害や殺人に近い」と言い切っている。まったくその通りであるのだが、官邸筋は植草氏のように洗脳も懐柔もできない有識者に心底手を焼いたに違いない。植草氏は、エコノミストとして、テレビで経済政策や景況分析をやらせてもぶれずに一貫したわかりやすさで説明が可能であること、また書くことも格調高い文体で抜群の説得力を持つ人物である。こういう人物が小泉政権の間違いをいち早く察知し、政権が主導する誤まった政策判断を逐次批判し、国民レベルで納得できる政策提案を出し始めた場合、批判された政権筋はどう出るのだろうか。「ハイ、ハイ、ごもっともなご意見でございます」と低姿勢で受け流すだろうか。ここで是非思い出してもらいたいのは、小泉純一郎という男が政敵に対してどのような態度を取ったかである。彼は自分の政策に反するすべての者に対して、いっさい容赦がなく、その持てる権力を行使して憤怒を暴発させている。先述したように、その典型的な事例が2005年8月8日の衆院解散にともなう9月11日の総選挙であった。党籍を剥奪した元党員たちに刺客を差し向けている。

 こういう過激な敵意を実行する官邸主導勢力が、誤まった政策を指弾した植草氏に対して、いったいどういう態度を取るだろうか。筆者は植草案件を考える上で、植草氏が小泉政権の執行した国策にとって、どういう位置にあり、どういう影響力を持っていたかを十分に認識することが必須だと考えている。彼は小泉内閣初期段階から政権中枢に進言、進講していたが、小泉元首相はそれを取り合わなかったようだ。それどころか竹中平蔵氏を筆頭とする官邸勢力は、植草氏を構造改革遂行にとって最も阻害要因になる存在と位置づけたに違いない。何しろ、経済政策では緊縮財政下における加速的な不良債権処理が逆噴射であることや、竹中氏主導の金融政策が一貫性を持たない支離滅裂さを有していることを臆することなく言い続けた。官邸が植草氏の折れないこういう姿勢にとことん脅威を感じたであろうことは容易に想像がつく。

小泉政権は構造改革を錦の御旗にした。植草氏も構造改革賛成派のエコノミストである。しかし、ここで気をつけて欲しいことがある。筆者はブログで何度も言ってきたが、『構造改革』という言葉は魔の政治用語であり、それは意味も範囲も不明確で曖昧な言葉の一つだ。言うなれば「構造改革」は使う人間によって千差万別の意味を持ちかねない危険な言葉と言えよう。冷静に考えるなら、権力筋が大衆に向かってこの『構造改革』を濫発し始めたら、それは権力者達の奸佞邪智によって、国民に真の思惑を悟らせないためのカモフラージュになっているのである。

 筆者が理解している範囲で言うなら、小泉政権が唱えた構造改革は極端な新自由主義によって外国資本を益するための無差別な規制緩和政策である。一方、植草氏が提唱する構造改革とは官僚利権構造を根絶するための小さな政府論である。両者は言葉としては「構造改革」とか「小さな政府」を志向していたとしても、その意味するところはまったく異なっているのだ。

(つづく)

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2008年6月 3日 (火)

我々の未来には、どのような社会が待っているのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第80弾です)

 最近十数年間で、世界の中で日本は大きく没落しただけでなく、人を不安にし、経済苦が原因の自殺者の数を数倍に増やしてしまった。その原因は、政治家が「我々の未来の社会はどのようなものか」を正しく理解しておらず、正しい経済政策が取られなかったことである。

 前回も述べたが、人間は進化によってつくられた。進化によってつくられた人間がどのようなものかを理解できれば、我々の未来の世界が見えてくる。進化によって、子孫を残す能力の優れた生物だけが選ばれた。「子孫を残す能力」として、1970年頃までは、種の保存という言葉が使われていたが、進化における選択の基準は種の保存の能力ではなく、遺伝子保存の能力だということになり、それが「遺伝子は利己的だ」という珍説に陥ってしまった。

 かつては種の保存が進化における選択の基準のごとく信じられ、すべての動物は種の保存のために行動していると思われていたが、ある発見をきっかけに、動物は種の保存などのための行動は一切行わないなどという極端な考えを多くの生物学者が持つようになった。しかし、これは極端すぎるのである。このことに関し話し出したら長くなるので、簡単のために、ここでは「遺伝子を保存する能力」も、「子孫を残す能力」も、すべて含んでいるという意味で「種の保存」という言葉を使うことにする。

 進化によって選ばれたのは、種の保存の能力の高い生物である。ということは、人間の行っている行動は、すべて種の保存という言葉で、何らかの意味を持つ。しかしながら、「人間のすべての行動は種の保存のために行われている」と言えるほど単純ではない。そこで次のような仮定をする。

 すべての人間の体の中には、人間の行動を支配しているものがあり、それをディスクリミネータと呼ぶことにする。進化により、ディスクリミネータに改良が加えられたわけで、ディスクリミネータの構造はすべて種の保存によって説明できる。ディスクリミネータは、行動が種の保存にとって良いか悪いかを判別し、人が種の保存に好ましいことをすればディスクリミネータがプラスになり、好ましくないことをすればマイナスとなる。人はできるだけディスクリミネータをプラスにし、極力マイナスを避けようと行動する。ディスクリミネータがプラスとは、美しい、美味しい、幸福、快感等の状態であり、マイナスとは、醜い、まずい、不幸、不快の状態である。

 我々が気付かないうちに、我々はこのディスクリミネータに思想も行動も完全に支配されている。例えば「動物を人間の食料にする」ということは、全く自然に受け入れられ日常普通に行われていることである。それではその逆はどうだろう。つまり「人肉を動物の餌にする」ということになる。もちろんあなたはそのような考えを持ったことがないだろう。またそんな考えを持った人の話は聞いたことがない。数学者は、どの命題であっても、その逆を自由に考えることができる。しかしどんなに自由に思想を展開できると思っている人でも、こんなぶっそうな思想を持つことはできない。「人肉を動物の餌にしよう」という考えはどんな凶悪な殺人犯の心の片隅にすら思いつかないことである。このことから、いかにディスクリミネータによる思想統制が強烈であるかがわかる。

 話は変わるが、では芸術は、種の保存とどのように関係しているのだろう。芸術作品の代表的なものを見てみよう。ミロのヴィーナスはどうであろう。これは裸体の女性であり性欲を引き起こすものだから、生殖のための行動を誘発するもの(これがディスクリミネータ)があってそれが女体を見たときに美しいという信号を脳に送る。しかし、実際はミロのヴィーナスは石だから、種の保存とは関係ない。つまりディスクリミネータが騙されてプラスの信号を出しているにすぎない。芸術にせよ、それ以外の様々な娯楽は、ディスクリミネータを騙してプラスにしている。つまりディスクリミネータを人為的にプラスにすることが目的化している。これをディスクリミネータの空作動(カラサドウ)と呼ぼう。
ディスクリミネータの作動状態は次の四つに分類できる。

1.正常作動・・・種の保存にとって益になるときがプラス、害になるときがマイナスという  
本来のディスクリミネータに従った作動をする状態
2.空作動 ・・・種の保存には益にも害にもならないが、人為的な方法等によりディス
         クリミネータをプラスにする状態
3.作動抑止・・・種の保存にとって害にならないのにマイナスになっている場合、それ                   
         を人為的な方法で消す状態
4.異常作動・・・種の保存にとっては害になるのにディスクリミネータがプラスにな
       るとき、または種の保存に益になっているのにディスクリミネータ
       がマイナスになる状態

 本物の女性を見て美しいと感じるのは正常作動、ミロのヴィーナスを見て美しいと感じるのが空作動である。歯医者で治療を受けているとき痛みを感じる。歯の治療は種の保存に益になる。しかしそれでもディスクリミネータはマイナスになるから異常作動。これに対し、催眠療法とか麻酔で痛みを和らげたり、止めたりするのが作動抑止である。自殺しそうな人やひどく落ち込んだ人を励ますのも作動抑止である。宗教活動にはこういった事がよく行われている。カウンセリングも作動抑止である。

 我々の社会はゆとりがでてくるにつれ、できるだけ多くの人のディスクリミネータがプラスになるように、そしてマイナスを避けるように様々な工夫をしている。このように、種の保存を達成しながらディスクリミネータがプラスになりやすくマイナスになりにくくするよう社会を変えることを「ディスクリミネータの解放」と呼ぶことにする。誰も現代の社会がどちらの方向に向かって変化しているか気が付いていない。人類は数百万年もの間、ぎりぎりで種の保存が達成できる状態だった。こういう時代には、苦痛に耐える(ディスクリミネータが強くマイナスになるような)行動も敢えて取らざるを得なくなるのだ。例えば人口が増えすぎたり、干ばつ等で食糧が不足したときなど、人は生まれた赤ん坊や働けない老人を殺したりした。

 ところが種の保存が容易に達成できるようになり、物があふれゆとりがでてきた現代においては、ディスクリミネータがマイナスになるような行動は徹底して排除し、できるだけディスクリミネータがプラスになるように工夫し始めたのだ。要するに快を求め不快を避けるということだ。これがディスクリミネータの解放であり、それに合わせて法律を制定し、犯罪や善悪を定義し、道徳・倫理を定めた。ディスクリミネータの解放の例としては、奴隷解放、女性解放、性解放、旅行の増加、レジャーの時間の増加などがある。

 過去、現在、そして未来と、社会は大きく変化する。それは科学技術の進歩によって、人間がディスクリミネータを解放できるようになったことによる変化と言える。ここまで論じると、我々の将来どうなるかが見えてくる。種の保存は容易に達成できる。食糧も十分確保でき、子育ても種の保存という意味であれば、完璧に達成できる。その後で人類が行うのは、更なるディスクリミネータの解放、つまり人為的にディスクリミネータをプラスにすることだ。労働は苦痛を伴うものも少なくない。貧困に喘いでいた時代には職業を選ぶ余裕はなく、多くの人が3K(きつい、汚い、危険)の苛酷な職業ですら受け入れるしかなかった。かつては女工哀史に象徴されるような苛酷極まりない職場もあった。それに比べ現代は遙かに改善が見られている。ロボットに労働を任せることができる未来では、すべての人が自分にとっての理想に近い職業、つまり生き甲斐を感じることができる職業を選ぶことができるようになり、QOL(生活の質)は格段に高まる。

 過去においては、貴族の生活ができるのは、ごく限られた人間だけだった。しかし、未来においては、生産性が高まり、労働をロボットにさせて、大部分の人間は貴族の生活ができるようになる。つまり、スポーツでも芸術でも旅行でも、好きなことをやってよい社会だ。それを目指して社会も経済も変えていかねばならぬ。国の借金に縛られているようでは進歩は無いし、快適な社会を築くことはできない。自国の通貨はいくらでも作って良いというのが国際的ルールだ。国の借金に振り回されている国の経済政策ほど馬鹿馬鹿しいものはない。

 未来のある日、普通の人間並の能力を持つロボットができたとしよう。そのロボットは自分と同じようなロボットを次々作るだろう。そこには人手は掛からないから、みんなタダ同然でできてしまうし、そのロボットはタダでいくらでも労働を提供できる。そのときロボットが人間の職を大部分奪ってしまい、大部分の人が失職する。財政が厳しいからと言って、失業手当もほとんど出さなかったとしよう。ロボットが人間のためにいくら働いて、素晴らしい商品があふれるばかりに店頭に並んでも、誰も買えない。お金を持っていないからだ。国民のほとんどが、馬鹿な政府のために、餓死させられてしまう。ところが、政府がお金を刷って国民に渡せば、国民は貴族の生活ができる。財サービスはロボットがいくらでも提供してくれる。自分は好きなことをやっていればよいのだ。

 お金は、必要なときには、必要なだけ刷らなければ、我々の未来はないことがお分かりだろうか。我々は国の借金を返すために生まれてきたのではない。お金は経済を発達させる手段にすぎず、お金の量は、その経済に最適なだけ発行されなくてはならないのである。ここで書いたことに関して更に詳しく知りたい方は『人間の行動と進化論』や『ロボット ウイズ アス』を読んで頂きたい。

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2008年6月 1日 (日)

お金を刷る政策のシミュレーション(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第79弾です)

 インフレとは、国民にお金を渡しすぎて、物の供給が間に合わなくなる現象であり、逆にデフレとは、国民に渡ったお金が少なすぎて、物が売れ残る現象である。デフレの際には、お金を刷って国民に渡さなければならないのだが、日本政府は愚かにも、逆に国民からお金を取り上げる政策を採用しているために、いつまで経ってもデフレから脱却できない。

 例えば、日銀が国債を買う政策、つまり買いオペをすれば、景気は回復し、デフレ脱却でき、日本の没落は防げる。日銀が国債を買えば金利が下がる。どうしてだろうか。そもそも金利というものは、貸す人と借りる人の資金の需給バランスで決まる。国債も債券の一つで、債券を売る人(お金を借りる人)のほうが、債券を買う人(お金を貸す人)よりも少なくなれば、より安い金利で借りてもらおうと競争になるわけだから、金利の値下げ競争になる。だから金利が下がる。つまり、日銀の買いオペは、日銀という巨大な貸し手が動き出せば、金利が下がる。そして国民に向かってお金が流れ出す。

 一部に馬鹿な議論がある。金利が上がれば、利子が増えて、それで国民にお金が渡り、消費が拡大し、景気が回復するという珍説だ。内閣府計量分析室に聞いてみたが、そこでもその珍説は支持していなかった。様々なシミュレーションを見ても、金利が上がると経済は間違いなく減速する。日銀からお金が流れ出したら、様々なルートでそれが国民に渡ることは、理解できるだろう。企業にお金が流れれば、賃金の改善にも繋がる。住宅ローンも借りやすくなる。確かに利子は減るが、それによる消費拡大は微々たるものであることが、証明されている。

 金利が下がれば、間違いなくGDPが拡大し、デフレ脱却の方向に物価は動き、税収の増加や国の借金に対する利払いの減少のために、財政も健全化の方向に動く。デフレの際には、金利は低ければ低いほどよい。
 自見庄三郎参議院議員の要請で参議院調査情報室が計算した結果は下の表のようになる。景気は良い方向に向かうし、失業率は減る方向に向かう。唯一、民間消費は僅かながら減少するが、例えば日経のモデルでは増加するとなっている。結果は微妙であり、どちらとも言えない。企業の所得は大幅に増加し、賃金は上昇するので消費は増加する可能性はある。いずれにせよ、景気は良い方向に向かうのは間違いない。
 
Photo

 しかし、ゼロ金利にしても景気は良くならなかったではないかという人がいるかもしれない。この結果は、金利を下げた場合と、下げなかった場合の比較である。資産デフレなど、景気にとってマイナスの要素が強くはたらいている場合、ゼロ金利が、プラスの要素としてはたらいても、それがマイナスを打ち消すほど大きくなければ景気はよくならない。もっと強いプラスを持ってこなければならなかったということになる。
 例えばアメリカでも、1942年に連銀と財務省が、国債の買い支えを行って金利が一定水準を上回らないような措置をとることで合意した。この結果国債の利回りは2.5%以内の水準で維持された。

 金利を低く保つことは、景気をよくする効果があるだけでなく、税収を増やす。一方で国の借金を増やすわけではないから、確実に国の債務のGDP比が下げ、財政を健全化の方向に向かわせる。
 逆に金利を上げれば、景気も財政も悪化する。このことを悪用して、「構造改革」をしなかったり、公共投資を増やしたりすると財政が悪化すると脅している。こんな馬鹿馬鹿しい嘘に騙されてはいけない。

 2005年の内閣府の試算では、「構造改革」をしなかったら、長期金利は7%になって財政が悪化するという何の意味もない試算を行っている。金利は日銀が操作できるのであり、構造改革と直接関係があるわけでない。しかし、マクロ経済を知らない国民を騙すのには、この程度の嘘で十分だったのだろう。マスコミはこの嘘にのせられて、構造改革をしなければ金利が7%に上がるという「試算結果」を報道した。実際は、7%は試算結果ではなく、単に7%にまで金利を上げたら日本経済はどうなるかという計算にすぎなかったのだ。1%の違いで上記の表のような結果となるので、7%にまで上げれば大変なことなる事は分かりきっている。景気が悪いときに、日銀が狂ったように国民から吸い上げ、7%にまで金利を上げたら、どれだけ経済が悪くなるかという馬鹿な試算をするなと言いたい。

 公共投資を増やしたときの試算でも同様だ。内閣府の試算は同時に金利を上げ、景気を冷やすようにしている。車で言えばアクセルとブレーキを同時に踏む。だからスピードは上がらない。つまり公共投資を増やしても景気はよくならず、財政を悪化させるだけだと言う。しかし、参議院調査情報室を含む、8カ所のシンクタンクの試算結果を宍戸駿太郞氏がまとめ、近く発表しようとしている。これによれば、公共投資を増やしても景気が良くならないと言っているのは、内閣府だけで、他はすべて景気はよくなるとなっている。比較のグラフを見れば、内閣府の嘘が一目瞭然だ。GDPが拡大すれば国の借金のGDP比も下がってくる。特に、日銀が資金を供給しながら、景気対策を行うと効果てきめんだ。

 我々が、予算委員会等で、金利を下げながら景気対策を行えば、景気はよくなるし、しかも財政は健全化すると、内閣府の試算をもとに、追求していたら、突然内閣府は、金利の効果を馬鹿馬鹿しいほど少ないものに変えてきた。これば2007年から発表している試算だ。2006年までは、短期金利を1%下げると、名目GDPは0.91%上がると言っていたのに、2007年からは突然、0.22%しか上がらないと言い出した。GDPへの効果を、何と4分の1以下に下げて、これなら、景気対策を金利引き下げをセットでやっても駄目だと言い出した。しかも短期金利は長期金利にほとんど影響を与えないなどと言い始めたから、あきれて物が言えない。もうこれは国民を騙すためとしか言いようがない。

 しかし、注意していただきたい。2011年度にプライマリーバランスの黒字化という政府目標を決めたのは、この欺瞞的なシミュレーションがすべての理論的なバックグラウンドになっているのだ。この政府目標を目指して、増税、歳出削減を強力に推し進めようとしている。これが、崖を転がり落ちている日本経済を、どこまでも落し続けようとしている。一刻も早く止めなければならない。そのためには、内閣府のシミュレーションの嘘に多くの人に理解してもらわなければならない。残念ながら、すでに内閣府から私の口封じをしようとする手が伸びてきた。私から言論の自由を奪おうとする動きだ。いつまでこのブログを続けられるか分からないが、やれるところまでやるつもりだ。

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2008年5月31日 (土)

誰がために金は成るのか? 国の借金500兆円は誰のために使われた?(いかりや爆さん第6弾)

6)誰がために金は成るのか? 国の借金500兆円は誰のために使われた? 

 内閣府5月16日発表の統計表によれば、1997年と2007年のGDP(名目暦年)はそれぞれ、515.2兆円と515.6兆円である。この11年間の日本の経済成長はゼロだったことを示しています。

 財務省公表の資料によれば、今年3月時点の国の借金の合計は849.2兆円になっている。
 11年前の1997年3月末は355.1兆円です。この11年間で、国は借金を約500兆円増やしたことになります。前代未聞の巨額のマネー500兆円を使っても、まったく経済成長をしなかった。世にも不思議なことがあるものです。

 このシリーズ第3回多重債務者「おちこぼれ」ニッポンでは、GDP上位60カ国中、1995~2006の日本の経済成長はマイナス(ドル表示)だったこと、それもずばぬけて低い。統計的な検定をするまでもなくて明らかに他の59カ国とは、有意差がみられる。これは単なるバラツキの問題ではなく、品質管理という視点からみれば、不良品を発生させたということになります。

 何故不良品が発生したかを検証するのが常識なのだが、政治家やジャーナリストは言うまでもなくエコノミスト、経済学者先生さえも誰も口を閉ざして真実を語っていない。彼らは無能なのか、卑怯なのだろうか。

 今回は敢えてこの世にも不思議な「不良品ニッポン物語」に切り込んでみた。

 この11年間で国が増やした借金約500兆円は日本の経済成長には全く役に立たなかったことになります。

 国の経済成長にはなんらの役にもたたなかったということは、実物経済に還流させることなくどぶに捨てたことと同じ現象が発生しているのです・・・・、少なくとも経済成長ゼロということは、国民生活にに全く寄与しなかったことだけは確かである。

 繰り返しますがこの11年間で名目GDPはゼロ成長ですよ。国家が投じた金は本来なら経済成長を通じて国民の所得が増え、国民の金融資産が増えていくのが正常な姿です。
 参考までに言えば、この11年間の日本の金利は限りなくゼロに近い超低金利を維持してきました。所得も増えず、金利収入も得られない状況下では、庶民の金融資産は食いつぶしによる目減りはあり得ても、増える要素はあり得ません。

ところが実際には、日本人の金融資産は、1996年3月末には約1270兆円だった、それが2007年6月末には1550兆円になっています。従って約280兆円が個人の懐に入ったことになります。

 日銀の福井俊彦総裁は昨年5月25日の衆議院決算行政監視委員会に出席し、『ゼロ金利政策の影響』で 民主党の岩國哲人氏の質問に答えている。1991年から最近までの間に、家計で330兆円程度の利子収入を逃したとの試算、大まかに見て逸失利子額は「だいたい200兆から300兆円くらい」と答弁している。

彼は国民の得べかりし金利収入200兆円~300兆円を逸失したということを自ら認めているのです。一般国民の収入は低下し、資産は目減りしているにもかかわらず、国民全体の金融資産が増えたということは、その殆どは金満家たちの懐に所得移転したものと推測されます。

 個人の金融資産の増加分280兆円は、超金持ちたちや金融機関が通貨マフィアやハゲタカファンドどもと組んで、日本の超低金利政策を食い物に(悪用?)して、荒稼ぎしたものと推察されます。
 庶民の収入が低下する一方で、彼らは気が遠くなるほど稼ぎに稼ぎまくったことになります。にもかかわらず国家の税収増に全く反映されていないのは何故か。まさに国家の課税の怠慢、税の不公正以外のなにものでもない。それでも、消費税アップですかね?

 国の財政破綻は政治家の怠慢によって起きているということを意味します。一方で、ことあるごとに政府は財源不足をもちだして、消費税アップは避けられない雰囲気づくりに懸命です。なかには『耳障りなことを言う。それが私の仕事』などととてもまともな神経の持ち主とは思えないが、そんな方がポスト福田候補と目されています。

消費税アップは、与党の衆議院数が三分の二以上のこのとき以外にありえない、現実のものとなる恐れがあります。政治家の無責任から生じた財政破綻を国民に押し付けるもの、あまりにひどすぎる話である・・・不届き千万もいいところ、いくらなんでも国民は怒らねばならない。

 この11年間に、国の借金を増やしながら、財務省は外貨準備高を90兆円以上増やしています。民間企業の貿易で外貨を稼いで増大化しているのに、それ以上に何の目的のために外債を買っているのか不思議である、しかも国内の借金をふやしながらである。そんな金があるなら、足りない医療費や介護など福祉に何故遣わないのだろうか。

 上述の金融資産の増加分と国の外貨準備高増の合計で約370兆円になります。
その他金融機関の不良債権処理のためと称して公的資金を投入、そしてその後この超低金利を利用して?あっという間に、大手金融機関は最高益を計上するまでに業績を回復している。日本経済が停滞しているというのに、不良債権に苦しんだ金融機関だけが急速に業績をあげる摩訶不思議さ。

金融機関の不良債権問題のどさくさにまぎれて国が金融機関に投入した巨額のマネーは、通貨マフィアらと組んであっという間に莫大な収益をあげたと考えるしかない。

 このように、考えるとこの10年余りの間に国が増やした借金500兆円の大半は、大多数の国民のために使用されたのではなく、一部の超金持ちたちを太らせ、金融機関、大手企業及び外資の手に収益移転をおこなったものと推測される。しかもそれらは、国家の税収増にもつながっていないところをみると課税の対象から漏れている、きわめて悪質不公正である。

 バブルを発生させ、バブルを潰し、景気悪化を誘導し、国の借金を膨らませ、そのあげくもっともらしい屁理屈(不良債権)をでっちあげて超低金利政策を10年以上も続けてきた。さらに景気刺激策と称して量的緩和政策まで打ち出した。日銀は世界的に見て例のない超低金利と金融の量的緩和策という非常事態の策を採ったが、日本の景気は回復しなかった。

 その結果起きたことは、国の500兆円の借金拡大と、富裕層たちや銀行などの金融機関、外資らの焼け太り、そして国民の貧乏化現象です。つまり、大多数の国民の生活を豊かにすることとは、程遠いことが起きていたことになります。

参考:5月25日東京新聞のコラム『時代を読む』に、生田正治元日本郵政公社総裁が次のようなことを書いている。国連ホームページで国民一人当たりGDPを見ると我が国は1995年は世界五位であったが次第に低下して2006年は三十二位である。大田弘子経済財政担当相の1月18日の「国民一人当たりGDPが十八位」との発言が各界に衝撃をあたえたが、これはOECD三十カ国内の比較であり、BRICs等を含めた国連の全世界比較では三十二位である。

 言葉は悪いが、500兆円のマネーの不正流用みたいなもの、個人がやれば当然犯罪行為になりますが、国家ぐるみでやれば誰も責任を取るわけでもない。政治家やジャーナリストは言うまでもなくエコノミスト、経済学者先生さえも誰も口を閉ざして真実を語っていない。彼らは何を恐れているのか、それとも無能なのか、卑怯なのだろうか。このようなシナリオを造ったの誰だろうか。

蛇足:上述した政治経済の状況下で、りそなの国有化問題が起き、植草事件は起きている。植草氏を社会的に抹殺しなければならない何かがあった?

 経済成長の原動力は、「信用創造」である、信用創造は実物経済に金が回転することである、「金は天下のまわりもの」であることが必須なのだ。この11年間の経済成長がゼロだったということは、国が投じた500兆円分(年当たりにして45兆円)は、実物経済に回らなかったことを意味する。何故か?結論から言えばそれに見合う需要がなかったからである。

もっとはっきり言えば需要を喚起する「まともな政策」を避けて、逆に意図的に需要を搾る(抑制)する政策(市場原理主義、生産効率をあげるためリストラと称して首切りや労働者の賃金を搾取、医療費の削減、福祉関連予算の削減、一方で所得税の各種特別控除の廃止などなど)を採ったからである。

つまり、超低金利と量的緩和策という表向き景気刺激策という強力なアクセルを踏みながら、市場原理主義とそのグローバル化という強力なブレーキを踏んだ。アクセルとブレーキを同時に踏むという極めて欺瞞に満ちた政策こそ、それがこの11年間のゼロ成長と言う結果を生んだのである。

そうでない限り日本だけが、経済成長から取り残されるという異常事態は起きなかったはずである。実体経済への金の使い道をふさいで、大量に流した金の行く先はカジノ経済へ流れた、しかし国際的賭博場には課税する仕組みを構築していなかった。

参考:ATTAC Japannというところが、『国際的な投機マネーに課税(トーピン税)を!』と提唱している。彼らの主張によれば、1977年には1日当り通貨取引額は183億ドルだったが、なんと2004年には1日当り200兆円を超える1兆8800 億ドル(国際決済銀行の発表による)にまで膨れあがりました。現在の通貨取引市場での取引の多くは、実物経済には役立たない投機、つまり「賭け事」によって占められています。全世界の貿易やサービスの必要な通貨は取引総額の僅か5%にすぎないのです。95%は投機マネーなのです。

 新自由主義者(市場原理主義者)たちが掲げる大義名分「グローバリゼーション」が規制緩和をもたらした、そうすることがあたかも善であるかのように。そのなれの果てが、国際金融投機の跳梁跋扈を許し、国の巨額の借金500兆円は彼らの作り出したブラックホールのなかへ吸い込まれていったと考えるのは間違っているだろうか。

 グローバリゼーションでは幸せはやってこない、いや日本はグローバリゼーションの最大の犠牲者である。日本人の多くはそれさえも認識できていない。欧米諸国の指導者たちはそれを知っているからこそ、日本を冷ややかに見つめている。日本一人当たりの名目GDPは32位に転落しながら、国連の予算負担19%(第二位)を負担しており、国連の常任理事国入り求め続けたが、いまだに悲願?を果たしていない。だが、サミットには第一回ランブイエ会議からのメンバー国である。彼らのその下心こそ、日本をグロバリーゼションの奔流に巻き込んだ。

 或る政治家は改革々々『改革なくして成長なし』と言って国民を騙し続け、選挙ポスターには、『この国を想い この国を創る』というキャッチフレーズを掲げた。国民はそれにうなされたのか踊らされたのか、三分の二を越える議席を政権与党に与えてしまった。しかし、マッド・アマノ氏は『あの米国を想い この属国を創る』とパロッたが、真実はマッド・アマノさんにあったことは言うまでもない。いくらなんでも、国民も何かがおかしいことに気づきはじめているのではないだろうか。
一人でも多くの国民が目を覚まして欲しいと願わざるを得ない。

最後にお願いです、本稿に賛成の方、広めてください。異論反論がある方歓迎します。但し、罵詈雑言や脅迫はお断りします。

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2008年5月30日 (金)

政府貨幣発行に対する国会議員の考え方(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第78弾です)

 お金を刷ると言えば、すぐ思い浮かべるのが政府貨幣発行だ。日銀も刷れるのだが、紙幣をいくら刷っても、それだけでは、そのお金が国民に渡るというわけではない。日銀券発行残高は70兆円程度であり、実際大きくお金が動くときは、銀行を通じて行われる。会社間の取引では、ほとんど銀行を通じており、紙幣をカバンにつめて支払いに行くことは少ない。お金をいくら刷っても、使ってもらえないのでは景気を浮揚する効果は無い。もちろん、40万円づつ、現金封筒に入れて、国民全員にボーナスをして送るのであれば(「40万円をボーナスに」というのは丹羽春樹氏のアイディア)効果はある。

 最も重要なことは、国庫にお金が入ることだ。おカネを合法的に刷る(つくる)ことができるのは日本銀行と政府である。日本の現行法で規定している「通貨」は、「政府貨幣」と「日銀券」がある。一般に知られている「1万円札」「5千円札」「1千円札」の日銀券と「500円硬貨」「100円硬貨」「50円硬貨」「10円硬貨」「5円硬貨」「1円硬貨」の他に政府発行の「記念貨幣(記念紙幣)」などの「政府貨幣」があり、「政府貨幣」には金属で鋳造されたコインだけではなく、「政府が発行する紙幣」すなわち「政府紙幣」も含まれる。「政府貨幣」は、通貨に関する基本法である「通貨の単位および貨幣の発行に関する法律」(昭和62年、法律第42号)では、「貨幣」(すなわち「政府貨幣」)の製造および発行の権能が政府に属するという「政府の貨幣発行特権」(seigniorage/セイニアーリッジ権限)が明記(同法第4条)されており、その発行には上限が無い。

 刷った(つくった)お金をどうやって国民に渡すかは、すでに述べたので、今回は政府貨幣発行に対する国会議員の考え方をお話ししたい。筆者は2003年に日本経済復活の会を立ち上げた直前に『政府貨幣発行で日本経済が蘇る』という本を書いた。この考えに大賛成をしていた牧野聖修衆議院議員(民主党)は、この本を大量に買って、国会議員に配った。当時、スティグリッツや榊原英資や丹羽春樹が政府貨幣を発行せよと発言していたこともあり、国会議員の中にも、そんな手があったのかと、政府貨幣について勉強しようという気運が高まっていた。『政府貨幣発行で日本経済が蘇る』という本は、そのお陰もあり、国会議員が本会議中にまでも読んでいたとのことだった。

 注意して頂きたいのだが、政府貨幣発行の意味も、主張している人によって随分異なる。例えば丹羽春樹氏は、政府貨幣発行権を日銀に売り渡して、その代金を国庫に入れるというもので、権利が動くだけで、政府貨幣は発行されない。貨幣回収準備資金に関する法律(平成十四年五月十日法律第四十二号)と貨幣回収準備資金に関する法律施行令(平成十五年一月二十九日政令第十九号)があるために、丹羽氏の方法ではうまくいかない。これらの法律・施行令は丹羽氏の提案を阻止するために作られたのかもしれない。
 最初に予算委員会で我々の主張で政府を問い正したのは西村真悟衆議院議員(当時は民主党)である。2003年2月28日のことだった。詳しくは
http://www.tek.co.jp/p/reply/reply_budgetcommittee_030228.html
をご覧下さい。塩川財務大臣が相手だったが、彼は質問の内容がよく理解できなかったようだ。政府貨幣発行を主張しているグレゴリー・クラーク氏も谷垣氏に政府貨幣の事について話したそうだが、谷垣氏は全く政府貨幣の事を知らなかったそう。

 斉藤斗志二衆議院議員(自民党)は政府貨幣発行大賛成の政治家である。2003年だったと思うが、筆者は議員会館に土曜日に出かけ彼に政府貨幣に関し色々教えた。斉藤氏は平成研究会の会合で政府貨幣を発行するべきだとはっきり主張したという。絶対やると言っておられたのだが、なかなか簡単ではなかったのだろう。

 岩國哲人衆議院議員(民主党)も一貫して政府貨幣発行を言っておられる。彼の考えは実際に日銀券の替わりとして使うものだ。私は彼と直接話し、単純な通貨発行は、紙幣や硬貨の流通量が多くない現実を考えれば、工夫しなければ景気浮揚に役立たないことを教えた。政府貨幣発行を唱えながら、一方では消費税増税を主張しておられるのは、残念である。政府貨幣を発行するなら消費税を増税しなくても財源は十分だ。

 私の提案は、政府貨幣は超高額にする。例えば、1兆円の紙幣を100枚印刷すれば、それで100兆円だ。それを日銀に持って行き、金庫に収めてもらい、その金額だけ国庫に入れてもらうという考え。しかし、これも上記の法律・法律施行令を変えなければうまくいかない。一つ気がかりなのは、もし政府貨幣を財務省が勝手に発行できるようになったら、そうでなくても強すぎる財務省が、更に強くなり、何をし始めるか分からないという怖さがある。誰がブレーキを掛けるのかを、余程うまく決めておかねばならない。
 野呂田芳成衆議院議員(自民党)も政府貨幣発行大賛成である。計量モデルによる説明は難しすぎて、国民を引っ張っていくことはできないのではないかと言う。2003年8月に

  野呂田芳成(衆議院議員)     今村治輔(清水建設会長)
  香西昭夫(住友化学工業会長)  宮原賢次(住友商事会長)
  奥井功(積水ハウス会長)      野村吉三郎(全日空会長)
  荒木浩(東京電力顧問)       林有厚(東京ドーム社長)
  岡村正(東芝社長)            植村伴次郎(東北新社会長)
  飯島英胤(東レ特別顧問)       生田正治(日本郵政公社)
  福原淳嗣(野呂田議員秘書)     田中順一郎(三井不動産会長)
  佐藤和男(三井不動産顧問)
  山口信夫(日本商工会議所会長、旭化成会長)
  武井俊文(石川島播磨重工業株式会社相談役)
  加賀見俊夫(オリエンタルランド社長)
  和田紀夫(日本電信電話株式会社社長)
  内田進(三井住友海上火災常務取締役)

といった方々を集め、筆者を講師に招いてくれた。積極財政が財政を健全化するのだという話をして、好評だった。
 大前繁雄衆議院議員(自民党)は、丹羽氏を先生として政府貨幣の勉強会を開いている。
中馬弘毅衆議院議員(自民党)も政府貨幣発行論者である。ホームページで政府貨幣発行を訴えている。
http://www.chuma-koki.jp/special/2003/200307.html

 このように政府貨幣発行を訴える国会議員は少なからず存在する。しかし法律を改定するほどの勢力になりうるのかは疑問である。かつて、丹羽春樹氏は積極財政を唱えていた志帥会で政府貨幣発行に関する講演を行ったが、そこでは強い反対意見が出たという。
 私は、政府貨幣発行は分かりやすいが、多くの国会議員の支持を得るのは難しいと判断し、日銀が国債を買うことによってお金を刷り、日本経済を復活させる方法を提案している。2001年にノーベル賞をもらったスティグリッツがもっと強く政府貨幣発行を主張してくれたら、実現可能かもしれない。2004年4月24日、日本経済復活の会はスティグリッツを招いて、国会議員を相手に講演をしてもらうことにしていた。段取りはできていたのだが、スティグリッツがドタキャンした。どうも、彼は日本人は保守的だから、いくら教えてもここまでの改革はやらないだろうと思ったのではないか。

 『円の支配者』で有名なヴェルナー氏にも政府貨幣のことについて聞いてみた。彼は大賛成だが、それを主張してもどうせ日本政府は、そこまではやらないだろうから、自分は主張しないと言っていた。
 政府貨幣でなくても、日銀が国の借金である国債を買い取れば、同じ効果があり、日本経済は復活する。これなら法律改正は不要であり、買いオペはどこの国でもやっていることである。この効果は、はっきり経済モデルで示されている。後日そのことはもっと詳しく話したいと思う。国債発行なら国の借金となり、利払いが大変だが、政府貨幣発行なら借金でないからそれがないという意見がある。しかし、国債を日銀が買い取れば利払いは日銀を通じ国庫に返ってくるから同じ事だ。

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『植草事件』を惹起した巨大な闇(1)

 (※植草さんが遭遇した事件を何回かのシリーズに分けて神州の泉が考察してみます。)

 
必然を暗示する政略的背景を見つめる

 2006年9月13日、京急電車内で起こった「植草事件」。その逮捕劇を、高名な電波芸者たちが、植草は痴漢性癖で捕まったと面白おかしく騒いでいた。彼らの人間としての良心を疑わざるを得ない。電波を使ったこの空騒ぎは、植草一秀氏が京急電車内で、身に覚えのない偽装事件に巻き込まれた直後のことである。

 2006年9月21日に大阪朝日放送(ABC)が放映した情報番組「ムーブ!」では、評論家の大谷昭宏氏、宮崎哲弥氏、弁護士の橋下徹氏(現大阪府知事)などが、週刊誌「女性セブン」の捏造記事を下敷きにして植草氏の病的常習性を強調していた。彼らは植草氏の病的常習性を指摘したに止まらず、薬による治療にまで言及していたからかなり悪質だ。一般の視聴者にとって「有名人」といえば、彼らテレビ・コメンテーターたちを思い浮かべる人も多いだろう。彼らが発信したテレビジョン言説の影響はすこぶる甚大だ。

 植草氏は経済学者ではあるが、その経済学的視点は徹底して政治に反映されてこそ意味があると考える、いわば実戦派エコノミストである。つまり植草氏はちまたで甘言を弄する衒学的な経済"エッセイスト"ではない。国家の政策中枢レベルに影響を与えうる提言と予見ができる非常に稀有なタイプのエコノミストなのである。「どんな犯罪を行ったか」ばかりが興味本位に報道されるこの事件だが、マクロ政策に影響を与えうる実践派エコノミストの逮捕の意味は重大であった。植草氏の逮捕騒動をメディアの初期報道で知らされた国民は即座にこう思ったことだろう。痴漢性癖のある著名人が電車内でついに迷惑防止条例違反でつかまったと・・。

 そう思うように、メディアの初期報道は一様に彼の病的性癖説に傾注した報道内容に固執した。それは冤罪の可能性を微塵も受け入れる余地のない報道姿勢であった。それを示すキーワードの一つが「ミラーマン」という侮辱的なあだ名であった。このミラーマンなる言葉が京急事件にも使われた背景は、2004年4月に品川駅構内で起きた事件との連続性が、何の根拠もなく前提として疑われたからだ。じつは品川手鏡事件も身に覚えのない濡れ衣事件なのであるが、その説明は後に譲る。電車内の痴漢では冤罪が多発している現実があることをメディアは植草事件に限っては故意に無視している。植草氏が遭遇した事件を、まるで疑う余地のない既遂事実として取り扱ったのだ。あとで説明するが、この連続性が巧妙に用いられていることに、この事件の重大な作為性が存在する。結論的に言えば、植草氏は政治的謀略に嵌められたのだ。

 彼の逮捕劇の裏には、政権中枢による国策パラダイム変更という、大掛かりな時代転換と決して無縁ではないという一つの見方が存在する。つまり、小泉政権以降、特に顕著になった新自由主義に基づくマクロ的な国策変更推進には、ケインズ的積極財政路線を志向する植草氏のようなレベルの経済学者が最も邪魔な存在なのである。小泉構造改革路線を積極的に推進した官邸主導勢力は、構造改革路線発足当初から、植草氏の提言が政策推進上、最も有害この上ないものと見ていた節がある。その見方を最も強く持っていたのは、第三次小泉内閣当時、総務大臣兼郵政民営化担当大臣であった竹中平蔵氏であった。郵政民営化を事実上の統括者として推進してきた竹中氏が、2007年10月の郵政民営化始動を待たずして、前年2006年9月15日に四年近くの任期を残したまま政治家を廃業し、在野に下った。この日付に留意してみてほしい。なんと、植草氏が事件に遭遇した翌々日なのである。しかも長期政権を率いた小泉純一郎首相(当時)の任期が切れたのが9月20日、第三次小泉内閣が終焉したのが9月26日であった。はたして植草氏の京急事件は偶然なのであろうか。

 作為的な金融操作の疑いが濃厚なりそな銀行国有化、それに郵政民営化を何とか無難に決定した小泉内閣は、最後の仕事として植草一秀氏をつぶせと指令されていたのではないだろうか。

 小泉政権の不倶戴天の仇敵は、郵政民営化に反対した真に良識ある議員さんたちであったが、経済・金融政策で最も重大な影響力を持つ提言が可能だったのがエコノミストの植草一秀氏であった。米国の傀儡となっていた小泉官邸主導(自民党清和政策研究会主導)勢力は、米国主導による「年次改革要望書」の対日プログラム実践にとって、植草氏を最も邪魔になる存在と考えたのではないだろうか。植草氏の言動を放置しておけば、米国の対日経済占領計画が深刻な阻害を蒙ると考えたのであろう。場合によっては売国的国家プロジェクトである郵政民営化さえも実現を阻まれるかもしれないと考えていたかもしれない。今、国民はそこを冷静に考えてみて欲しい。第一次小泉内閣発足当初から、この政権の危険性を察知し、積極的に小泉内閣にアプローチしていた人物が植草氏であった。植草氏が京急事件に巻き込まれる以前、竹中氏はテレビ番組でも植草氏と同席することを拒み、植草氏の言説に異常な警戒感を持っていたことは植草氏の著書『知られざる真実-勾留地にて-』に詳しく書かれてある。

 植草氏を特に敵対視していた重要人物には、竹中平蔵氏、本間正明氏、奥山章雄氏、木村剛氏などがいた。植草氏に対して、どの人物がどのような策謀を持ち、具体的にどのような実行策を弄したのか、もちろん直接には見えないことなのだが、少なくとも、国益よりも外国資本の優位性を先に考える売国勢力が植草氏を陥穽に落としたことはよく見えてくる。

 植草氏が権力筋に狙われる動機は充分すぎるほどあったのである。メディアはそのことをいっさい報道しないが、国民は植草事件の真相について、深慮する必要がある。メディアコントロールによって、国民は小泉政権が敷設した構造改革路線の真の破壊性をまだ認識していないが、障害者自立支援法や後期高齢者医療制度の非人道性を見れば、小泉政権がもたらした政策傾向の真意がわかるはずである。小泉構造改革の本質とは、破壊、売国(優良資産の投売り)、弱者切捨てなのである。

 今になってみれば、植草氏がエコノミストとして、最も初期から小泉政権の誤導性を見抜き、警鐘を鳴らしていたことがわかると思う。植草氏の予見性、洞察力、エコノミストとしての良心を鑑みれば、彼が身をもって国民に警醒の声を上げていたことがよくわかると思う。特に、京急事件に遭遇する前、宮崎学氏の主催するWeb「直言」に、植草氏が書いた「失われた5年-小泉政権・負の総決算(4)、(5)、(6)」では、他のエコノミストが臆して言えない内容を堂々と展開しているのだ。今こそ、国民は彼の勇気と本物の正義感を認めるべきであろう。植草氏が身体を賭して叫び続けた声を聞き逃したために、彼は二度も官憲のむごい偽装事件に嵌められてしまった。今こそ、国民は植草氏の良心の真実を知るべき時である。

 (つづく)

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2008年5月29日 (木)

6月7日『紙の爆弾』7月号発売

 6月7日に発売される雑誌『紙の爆弾』に、神州の泉・管理人(高橋博彦)の記事が9ページ掲載されます。内容は鹿砦社・社長の松岡利康さんへの弾圧事件について書いていますが、植草さんのことにも言及しています。植草さんや松岡さんへの弾圧を深く考えると、新自由主義社会への変貌が著しい日本は、言論の自由が侵され、福祉国家とは対極に位置する夜警国家へ向かっているのではないのかという考察が基調です。

 私の記事はともかく、「紙の爆弾」は権力や大企業に媚びない記事ばかりですので読み応え抜群です。是非、読者さんもご覧になってください。定価500円です。私の記事は下記目次にある 『①鹿砦社・松岡利康大弾圧事件は夜警国家変貌への証し』です。小泉政権以降の趨勢に怒りをこめて書きました。

尚、下記出版ニュース中に、松岡利康さんが天木直人さんのブログ記事に触れていますが、それは『雑誌ジャーナリズムから学ぶ』という2008年5月7日付けの記事です。

 鹿砦社・出版ニュース
(クリックするとよく見えます)

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2008年5月28日 (水)

政府の経済モデルのトリック(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第77弾です)

 それが、単なる学説であり、研究論文であるなら我々はそれほど気にも掛けないだろう。現実離れした経済モデルであっても、単にそれが世間を知らない学者の思いこみであれば見逃しただろう。しかし、内閣府のモデルは違う。その結果に従って国の経済政策が決められていて、間違えた経済政策のために日本経済が没落している。だから、政府はそのモデルに全責任を持たねばならぬ。このモデルのトリックは専門家には一目瞭然なのだが、素人にはなかなか分かりにくいようだ。

 内閣府以外にも、経済シミュレーションをやっているのが参議院調査情報室である。これは自見庄三郎参議院議員の要請に基づき計算されたものだ。こちらは、国民を騙そうとしておらず、ずっとまともだ。図1で、両方の結果を比べた。公共投資をGDPの1%分継続的に減らした場合の名目GDPの変化を示した。参議院調査室の試算ではどんどんGDPが下がっているが内閣府は横ばいだ。どちらが正しいかお分かりか。

図1
Photo

 皆さんはデフレスパイラルという言葉をお聞きになったことがあると思う。政府が公共投資を減らす。そうすると、最初に建設会社等が打撃を受ける。今まで政府から民間に流れていたお金がストップし注文が来なくなるからだ。建設会社に資材を納入していた会社も打撃を受ける。もちろん、それらの会社の従業員の給料もへるし、リストラされる者も多い。そうすると、消費が落ち込む。それが更に会社の売り上げを減らす。つまり際限なく経済縮小に向かうのであり、参議院調査室のデータはそれを示している。

 それが全く起こらない内閣府のデータはインチキであることはすぐ分かる。彼らのモデルでは、日本の経済は絶好調であり、失業者は一人もおらず、遊んでいる設備などなく、すべてフル稼働している。だから、政府の公共投資のお陰で仕事ができなかった民間企業が、政府の公共投資削減を待ってましたとばかり、操業を始めるから民間投資も住宅建設なども一気に伸びてくるということになっている。内閣府が実体経済を見ていないことは明らかだ。小泉さんが公共投資を削り始めてから、住宅建設は伸びるどころか減少している。参議院調査室のモデルでは、もちろん民間投資は減る。国から入っていたお金が入らなくなるのだから、当然民間投資は減る。

 内閣府のモデルでは、いくら増税しても、いくら歳出を削減しても、「超好景気」の日本経済にとっては、心地の良いそよ風のようなものだと言いたいのだろう。GDPの減少は小幅でしかも一時的だが、税収の増加は毎年持続し、歳出の削減はずっと確保されるという現実離れしたものとなっている。だから最初に1,2年を我慢すればあとは財政が改善するという珍説だ。その珍説を盲信した小泉氏が緊縮財政を行った。しかし、その説はもちろん正しくなかった。3年以降も借金は増え続けた。小泉氏が2001年に緊縮財政を初めてから今年で8年目になるが、国の借金は減っていない。

 自らを浅学非才と言った彼は、どうして借金が減らないのだろうと頭を抱えた。答えは簡単だ。内閣府のモデルは国民を騙すために作られたでのあり、小泉氏もそれに騙されてしまったのである。日本経済は「超好景気」などではない。デフレ下の緊縮財政のお陰で、世界経済の中で急激に没落をしている状態だ。デフレ下での緊縮財政で財政が健全化することはあり得ないことは、経済学の常識だ。なぜ、昭和恐慌や世界大恐慌の経験を生かさないのか不思議でならない。現在の日本経済が「超好景気」であるという前提の経済モデルで考えているから、増税だの歳出削減だのという政策しか頭に浮かばない。そんな経済政策は止めて頂きたい。

 図2では、公共投資をGDPの1%だけ削減したという仮定で計算した国の債務のGDP比を、2つのモデルで比べた。内閣府のモデルでは、歳出を減らしても名目GDPが減らないという無茶苦茶な仮定をしているのだから、もちろん債務のGDP比は一気に減ってくる。実際は小泉内閣の緊縮財政政策で債務のGDP比は減らなかった。参議院調査情報室の計算では、逆に債務のGDP比は増えるとなっている。GDPも税収も減ってしまうので当然のことだし、実際に起こっていることを見事に説明している。デフレ下で、緊縮財政をやればやるほど財政は悪化する。結論は簡単だ。お金を刷って積極財政を行いなさい。そうすれば財政は健全化しますということ。

図2
Photo_2

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ぐっちー氏のブログとメディアが取っている奇怪な偏頗性

 植草一秀さんが、ブログにて果敢に反撃行為に出られたことをとても心強く感じる。身に覚えのない事件に巻き込まれ、巨大なメディアに叩かれるだけ叩かれた植草さんは、人間の尊厳とその存在を賭けて、今、反撃にその姿勢を向けた。私は2006年9月13日に植草さんが遭遇した京急事件の翌日から、彼は謀略に嵌められたとブログで主張してきた。その観点は今も一向に揺らぐことはなく、その確信はますます強まっている。植草さんは『知られざる真実-勾留地にて-』で、非常に冷静に客観的に自己の遭遇した事件やその背景を語られているが、今度はブログでも堂々と自己の見解を提起、主張し始めた。

 このとこで、またもや彼を陥れた勢力の悪意を浴びることになるかもしれないが、今度はそう簡単にはいかないことは確かだ。なぜなら、私を含めて、この問題に関心を寄せる多くのブロガーや読者層の強い注目を引き付けている現状にあっては、むごい仕打ちはできにくくなっているからだ。それでも敢えて植草さんを攻撃するということであるなら、その者たちは覚悟した方がいい。日本全国に大勢いる確信的な植草さん擁護派がけっして黙っていないからだ。私はさまざまな人にメールを頂戴しているが、植草さんの無実を信じている方々は想像以上に多いことをここに付して置く。それも、ただの冤罪ではないと感じている人は多い。

 さて、5月27日(火)付けの植草さんブログを見て欲しい。5月25日付けの記事では、植草さんは「債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら」について、ぐっちーなる人物が行なった捏造記事の悪質さに言及して、『私に対する負のイメージを強烈に作り出そうとしたことの政治的背景を考察せざるを得ない』と断言している。要するにぐっちー氏が、京急電車内で植草氏の遭遇した事件が、あたかも既遂事実であるかのような書き方をしたのが、タイミング的には翌日の9月14日であったということは注目すべきことである。
______________________________________
(「植草一秀君-2」(社会 / 2006-09-14 16:25:34)という記事から引用)

・・・略・・・
これから本人に会いに行ってきます。
蒲田だそうで、餃子を食べに行ったくらいしか記憶にありませんが(笑)。
また、こちらでご報告いたしますが、3回目はさすがにまずいだろうね。私は偽証罪を問われたりするかもしれんの(笑)。
________________________________________

 正直、このタイミングで植草さんを既遂事実であったかのような記述をするということ自体が不自然極まりないことだ。印象操作を目的とした記述としか考えられない。5月27日(火)の植草さんの記事では、ぐっちー氏のブログからコラム記事が盗用されている問題について、ぐっちー氏自身と、それに対する三大コアー新聞の取り扱い姿勢の偏頗性について憤りをもって語っている。それはわが国のコアーなマスメディアに位置する毎日、産経、朝日の三社が、ぐっちー氏のブログ盗用問題だけは大々的に取り上げながら、植草さんに関する捏造記事についてはだんまりを決め込んでいるという事実である。

 おかしいとは思わないだろうか。メディアによるこの偏頗性、非対称性を。ぐっちー氏は明らかに植草さんの事柄について『嘘』のブログ記事を書いている。三大メディアは、この問題には徹底的に無視を決め込んで置きながら、盗用問題に対しては『正義の視点』から報道しているのだ。報道に関して、このようなダブルスタンダードが許されるのか。朝日、毎日、産経はぐっちー氏の植草さん関連記事について速やかにきちんと言及する責務がある。

捕捉: 植草さんはぐっちー氏に対し、内容証明郵便を送り、弁護士が電話で通知しているにも関わらず、ぐっちー氏は、一年も経過しているが公的には何のリアクションも取っていないらしい。明らかに虚偽の記載を行なって植草さんの人格権や名誉を毀損しているにもかかわらず、ぐっちー氏本人も、三大メディアもこれに触れないことは不当そのものだ。この無視には巨大な悪意を感じる。

 あと・・、ぐっちーなる人物のブログを見ていて気が付いたが、そのURLには気になる人物の名前が見えている。

 http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55

 kitanotakeshi=北野たけし氏である。タレントのビートたけし氏が何度か植草さんを誹謗している事実がある。このこととぐっちー氏とは何か関係があるのだろうか。

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2008年5月25日 (日)

政府が国民を騙そうとしている証拠(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第76弾です)

 先日、宍戸駿太郞先生より電話があった。今年発表された政府の試算によると、原油価格が上がると、消費者物価が下がるということになっているというのだ。私は、当初、コア指数のことかと思った。つまり、原油価格が上がると、国民は高いガソリンを買うために、それ以外の物を買うお金が少なくなり、それらの商品が売れなくなり値段が下がる。コア指数は原油値上がりの分を除いた物価だ。それなら分かる。しかしそうではないというのだ。日本の物価全体が下がるというのだ。これは笑い話としか言いようがない。

 原油価格が上がると、インフレが家計を直撃することは、誰でも知っている。オイルショックで過去にも経験しているし、最近の消費者物価上昇率が今年の3月には1.2%に達しているのも、原油価格の高騰が影響しているのは誰もが認めることだし、内閣府の試算は間違っているのは明らかだ。

 なぜこんな馬鹿な説を唱えるのだろう。日本の恥だと言って良い。理由は明らかだ。政府は、景気対策をやらせず、消費税を上げたいのだ。それを正当化するには、色んな方程式をいじくり回し、不自然な形にするしかなくて、そのしわ寄せが、このような形で現れてくる。

 景気対策とは、事実上、国がお金を刷って国民に渡すことであり、これは将来返す必要がないお金だ。景気対策をやれば、税金も安くなり、崩壊寸前の医療・教育・福祉なども救われる。日本の没落も食い止めることができる。国の借金は増えるが、GDPはもっと増えるので、借金のGDP比は減って財政は健全化する。本日(5月25日)の報道2001で桝添大臣は「お金が降ってくるわけではない」と何度も言っていた。確かに降っては来ないが刷ることはできる。

 景気対策をすればどうなるか。内閣府の試算では、景気対策により、GDPは増え、デフレは脱却でき、失業者も減る。国の借金のGDP比という意味で財政も、少なくとも最初の1,2年は改善する。内閣府は無茶苦茶な論理で、方程式をいじくって、3年以降借金のGDP比が増えるようなトリックを考え出した。そうでもしなければ、景気対策をしない理由が全く無くなってしまうからだ。

 参議院調査情報室というところでも、経済シミュレーションをやっている。これは参議院議員の要請に基づき、シミュレーションを行う。今回、自見庄三郎参議院議員の要請に基づいて計算した結果を見せてもらった。景気対策により、GDPは増え、デフレは脱却でき、失業者も減るというところまで内閣府のものと同じだ。違うのは借金のGDP比で、こちらは1年目から5年目まで減り続ける。常識的な経済モデルでは必ずそうなる。内閣府のものは、財務省に指示通りに、常識外れの方程式を入れて無理な結果を出しているだけだ。下の図で公共投資をGDPの1%増やしたときの実質GDPの変化を比べてみた。

1

  この図で分かるように、初年度は両者の結果はほぼ等しい。2年目以降、内閣府の試算では、GDPの伸びはどんどん小さくなるが、参議院調査情報室のほうは、拡大する一方だ。実際は公共投資の拡大を毎年行うと、どんどんGDPは増えるから参議院調査情報室のほうが常識的な結果だ。これで、景気対策で国民にお金を渡すと、経済は成長し、デフレは脱却でき、財政も健全化することが、より明確になった。

 内閣府のトリックを内閣府はどのように弁護するのか。内閣府によれば、日本経済は現在過熱状態にあり(そんな馬鹿な!)、公共投資を国が始めると、民間の仕事を取ってしまうだけで、GDPは増えない。日本には失業者はいないし、工場はどこもフル稼働の状態で、公共投資を増やしても、それは民間の仕事を取るだけで、全体では経済活動はほとんど変わらないと言いたいのだ。実際は中小企業で、そんな景気の良い話を聞いたことがない。国から国民にお金が流れれば経済は活性化するに違いないということは、ほとんどの人は同意すると思う。

 内閣府のモデルでは、GDPが増えず国の借金だけが増えるから、3年目から国の借金のGDP比が増えるという、おかしな結論を出しているのだが、参議院調査情報室はこれをはっきり否定した。もっとも、参議院調査情報室にも財務省からの圧力がかかっている。どうやら、財務省に遠慮して、公共投資を行ったときの税収の伸びは、随分小さく設定しているようだ。ここで引用したデータ(上図など)にしても、参議院調査情報室は、非常に神経質になっており、発表しないように我々に頼んだ。悲愴な訴えだ。しかし参議院調査情報室は国の税金で仕事をしており、シミュレーションは国民のものであり、発表しないのはおかしい。私は、直接交渉し、「自見議員の要請に基づいて、参議院調査情報室で計算した結果」だと述べる形で許可させた。

 彼らが財務省を恐れていることは明らかだ。財務省は金を自由に動かせるのだから、参議院調査情報室を潰すことなど簡単にできるのだ。積極財政で財政が健全化するという事実をなぜ暴露したのかと、財務省からお叱りを受けるのだろう。

 5年前に日経新聞社の経済モデルを使って、積極財政で財政が健全化するという結論に到達したときも、日経は私に圧力を掛けてきた。今回と全く同様だ。もしこのような結果を発表されると、財務省に潰されると青くなったのだろう。私は「この結論を発表させないなら、日本経済復活の会の顧問の議員を通じて国会で追及する」と言って対抗し、最終的には発表の許可を得たが、その後、日経は二度と同様な計算ができないようなトリックをコンピュータに仕組んだ。

 財務省からの圧力は確実に掛かっている。そのうち小野盛司は抹殺されるのか。抹殺されそうになったとき、逆襲すれば、言論弾圧を執拗に仕掛けてくる連中の実体を暴くことができる。それがきっかけで、日本の夜明けが来る可能性が来るかもしれない。私は楽観主義者だからそんなことを考えている。私は何が起ころうと、日本経済を復活させる活動を止めるつもりはない。

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ブログにも見られる印象操作(植草事件の底流に)

植草一秀さんが「植草一秀の『知られざる真実』」というブログを開設しておられるので、植草事件に関心をお持ちの方々には読んでいただきたいと思う。
    http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/

 今日付け(5月25日)のブログにはネットによる報道被害に触れている。2006年の京急事件が起きた翌日の9月14日、「ぐっちー」なる人物が、「債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら」なるブログで、植草さんに関するありもしないことを書いていることに言及している。当時は私もその記事を見ているが、その人物も植草さんとの関係もまったく知らないし、コメントのしようもなかったので特に弊ブログでは書かなかったのだが、『筋のよくない』ものだという強い印象だけは持っていた。

 以下、ぐっちー氏(Y・M氏)の書いたことを植草さんのブログから引用する。
______________________________________
(引用開始)
 私が事件に巻き込まれたのは2006年9月13日の夜だった。9月14日午後4時25分の記事にこのような記述がある。

http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/d/20060914

「どうしたもんでしょう??やはり病気だったんでしょうか。こちらで植草擁護論をぶちあげ、東京地方裁判所にて証人に立ったぐっちーとしてはもうマカロニ状態ですな。(みんなにやめとけ、とかいわれたけど・・・)

これから本人に会いに行ってきます。

 また、こちらでご報告いたしますが、3回目はさすがにまずいだろうね。私は偽証罪を問われたりするかもしれんの(笑)。」(一部抜粋)

 そして、9月15日の午前9時14分の記事に「いかにもな話」と題してこう書いている。
  http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/d/20060915

「植草君に会ってきました。
今はあまり詳しくいえないんですが、やはり彼は相当世の中を甘く見ているかもしれない。
何がいいたいかをいうとそういう一連の非合理性の証明が前回の裁判でかなり有効だった・・・・という事実に味を占めてしまった、という感じがしないでもない。つまり片手にかばん、片手にかさ、触れる訳無いじゃん、と供述したというのですよ。これは結構痛い。前回と違い証人が3人(被害者を含めて)。それも全て民間人で・・・ってなことになると嵌められた説はなかなかとれませんよね。で、警察も相当不信感を持って、問い詰めた所「酔って覚えてない」、となったという訳ですから、おい、確信犯かよ、という受け止め方になっていて簡単には離してくれそうにない・・・・というのが現状です。

 彼の復帰にほんとに粉骨砕身した人々がたくさんいるんですよ。それをどう受け止めるか、今後の人生に全てをかけて欲しいですね。私はもう長いつきあいなので、まあ、仕方ないですけどね(笑)。最後までお付き合いしましょう、ってな感じでどっぷり疲れて帰って来た、という話。人を信じるってのもパワーがいるんですよ、時に。私の修行だと思ってがんばりますわ・・・」(一部抜粋)

 この2つの記事以前、2005年3月23日にも記事を掲載している。
http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/e/c18d2801ccc64ba38a07c274ba774911

 「私は彼とは数年間酒を飲んだり、カラオケにいったり、キャバクラにもいったし、ずいぶん仲良くしていました。結構楽しい時間を過ごしたもんです。」(一部抜粋)

 (以下は植草氏)

 このブログの筆者は、現在の所属は知らないが、かつてはABNアムロ証券に勤務していたY・M氏だ。今回の記事ではとりあえず実名を伏せておく。拙著『知られざる真実-勾留地にて-』にも記述したが、恩師として、多方面にわたって指導賜っていた方が、飲食店を経営されていた時期があり、よくその店を訪ねていた。Y・M氏もその店に来ていた結果、何度か話をしたことがあった。恩師の誘いで1度か2度、お酒を飲みに行ったことがあったが、それだけの関係だった。
  (引用終了)
________________________________________

 植草さんご本人が、ぐっちーなる人物が書いたブログ記事は事実無根だと断言しているし、この人物とは一度、二度飲んだだけで、植草さんとは友人でも何でもないということがわかった。当時、メディアの初期報道は大々的に植草さんの事件を「既遂事実」として取り扱ったうえ、ミラーマンなどという侮辱的な形容で面白おかしく報道していた。わずかばかりの被害者証言だけしか出ていない中で、警察による第一次情報をそのまま鵜呑みにした報道ばかりが先行され、事実の検証に関する意見も考察もいっさいなかった。それはメディアが京急事件に対し、いきなり品川事件とからめて報道したからである。私(神州の泉)は、すでにこの時点で、植草さんがとてつもなく大きな力にからめ取られていることを強く感じていた。

 この時期の報道を振り返ってみると、いまさらながら不思議なことに気が付く。京急電車では被害者と称する女性、それに『一般人』と称する二人の逮捕者(もしくは逮捕協力者)がいたが、この三人に対してメディアはいっさい取材活動を行なった形跡がない。有名なエコノミストとして、植草さんの知名度を考えれば、テレビのワイドショーや週刊誌の記者は格好のネタとして、この三人の関係者に飛びつくはずである。ところが、なぜかそういう取材的な動きはいっさい表面に出てこなかった。しかもである。京急蒲田駅にはこの事件に関して緘口令が敷かれているのである。妙だとは思わないだろうか。京急側にとって、一時的に取材活動を受けることには何らの不利益も生じないはずだ。植草さん逮捕のきっかけとなった関係者に対しては、何ら取材活動が行なわれた形跡がなく、京急蒲田駅には不自然な緘口令が敷かれた。冷静に顧みれば、この事実は不可解である。

 私は、マスメディアが行なった植草事件の報道には、最初から決定的な方向性が存在していると見ている。それは『植草有罪論』という確定的な決め付けである。そのために、他の検証を要する事実や傍証にかんしては、警察や初期報道からは故意に省かれている気がしてならない。被害者の徹底的な匿名性もそうだが、逮捕者にかんする初期情報の皆無性もそれを裏付ける。加えて肝心の植草さん側の弁明が極端に少なかったという非対称性も歴然と認められた。ここには明らかに権力筋による誘導的な操作がマスコミに働いたことが伺えるのだ。週刊誌やテレビの世俗的、常識的な対応を考えてみれば、まず第一に被害者、それに一般人である逮捕者に話を聞くというのが普通だ。著名人の事件なのである。ところがメディアにそういう取材の形跡はいっさい出ていなかった。しかも、奇妙なことに、関係者への取材殺到の代行現象として、ネットには二つの奇怪な情報がいち早く掲載されていた。

 その一つが、以前、私が弊ブログでも指摘したmixiの日記の件だ。植草さんを逮捕した『一般人』と同じ職場の同僚が書いた9月15日付けのmixiの日記である。

(※クリックするとより鮮明に見えます)

Mixi_2 

 ぐっちー氏のブログ記事は事件の翌日であり、このmixiの日記に逮捕者同僚が書いたのは翌々日である。この二つの記事のタイミングといい、その怪しさといい、これがばらばらに現出したものとは到底思えない。事件に対し、その念の入った補足的な内容と言い、記述の妙な具体性といい、両者とも、明らかに何者かの計画的意図が働いていると考えなければおかしい。その目的は植草さんに負のイメージ付与を行なうことにある。

 私は事件初期から、植草さんが遭遇した身に覚えのない事件は『国策捜査』であると言い続けているが、これに対して擁護派の中からも、確証性の乏しいことを言ってどうするのかという言辞がよく聞かれる。しかし、私から言わせれば、通常冤罪論を主張する彼らが、わずか三年以内に二度の迷惑防止条例違反に植草さんがかかわったということに、合理的な説明がまったくできない事実を重く受け止めた方がいい。品川事件に警察官の関与があったという決定的な事実をスルーしたまま、品川事件も冤罪、京急事件も不幸な冤罪に巻き込まれたでは、かえって筋が通らないだろう。その個別的な冤罪論に説得力が乏しいのは自明だろう。二度の事件という事象に「偶然か必然」が関与する場合、これが『必然』であることを指し示す傍証的事象は、すでに複数出ているのだ。メディア報道の偏頗性、被害者の徹底的な匿名性、逮捕者の行動様式、犯行目撃者の矛盾証言、mixiの記事とぐっちー氏によるブログの捏造記事等、事件にはこれだけ多くの偽装性が存在するのだ。

 そして、最も決定的なことは、弁護側目撃者が植草さんの犯行そのものがまったくなかったことを見ていたという事実なのだ。当日の植草さんが犯行に及んでいないという目撃証言にスポットを当てると、事件が紛らわしい冤罪か、あるいは決定的な謀略に嵌められてしまったのかということが見えてくる。しかし、私が述べたように、付随して出てきた数々の不自然な事柄を鑑みた場合、この事件の全体像が限りなく『必然』に近い様相を帯びていることは誰でも気が付くことなのだ。それは『謀略的な必然』のことである。

 お分かりだろうか、京急事件で植草さんを中心に見ると、犯行があったのか、なかったのかの二者択一になる。やったのを見たという目撃者、そして『やっていないことを見た』という二人の目撃者が出ている。ここにおいて通常冤罪論にはほとんど説得力がない。あまりにも多くの作為的傍証が出てきているからだ。ぐっちー氏のブログも、mixiの日記も謀略説の重大な傍証だ。重要なことは、品川事件において、植草氏は警察官によって事件を作出されているという厳然たる事実だ。これを自明と見るならば、『なぜ警察官がここまでやるのか?』という当然の疑問を感じなければおかしい。これをうやむやにしたまま、二年四ヶ月後に起きた京急事件も、通常の冤罪であったと強弁する方がはるかに異常であろう。

 植草さんは明らかに官憲が介入した国策的謀略によって嵌められている。繰り返すが、京急事件が通常の冤罪でないことは、上述したようにマスメディアが関係者をいっさい取材しなかったということと、京浜蒲田駅に厳重な緘口令が敷かれたことだ。加えて、初期報道と機を一にして、mixiの日記とぐっちーなる人物のブログ記事によって、偽装事件があたかも本物であったかのように補強されているという事実だ。

 植草事件の本質とは、植草さんが、小泉政権の国益毀損性とマクロ政策的なミスリーディングを早くから舌鋒鋭く指摘していたことと、りそなインサイダー取引疑惑を指弾していたということに尽きるのだ。これによって彼は権力筋に狙い撃ちされたのである。また、そのことによって、植草さんは他の良心的な有識者たちへの『見せしめ』にされたのだ。植草さんの存在の重さを認識して欲しい。小泉政権がもたらした非道な結果は、今、国民全体を徹底的に苦しめている。小泉政権の初期からこの非道性を見抜き、良心にもとづいて果敢に批判していた植草さんを今こそ見直して欲しい。この素晴らしい先見性、そして並外れた洞察力、同胞への無償の思いは日本再建に絶対に必要なのだ。彼はけっして犯罪者ではない。他の有識者よりも弱者に対する同胞愛が強かったために、悪魔に魂を売った権力筋に狙い撃ちされた無辜の人物なのだ。

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2008年5月23日 (金)

デフレは悪化している ・・・ 内閣府発表(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第75弾です)

 5月16日の新聞には、1-3月期のGDPが年率で3.3%成長であったと大きく報じられた。一見、大幅な成長に見えるのだが、実体は決して褒められたものではない。これで2007年度の成長率が確定し、実質が1.5%、名目が0.6%となり、デフレーターは0.6-1.5=―0.9だから、―0.9%となり、デフレは悪化した。経済政策の大失敗のお陰であることを忘れてはならない。

 賃金の伸びとか、実際の生活実感に近いのは名目であり、これは僅か0.6%の伸びでしかない。元々、2.2%の見通しを政府が発表していたから、なんと1.6%もの下方修正だ。率にすれば73%も下方修正してしまった。これで、日本経済がいかに停滞しているか、ますます明らかになった。

2007 

 実際は、成長率はもっと低い。というのは。2007年度は、今年の3月までだから、うるう年で、2006年度より1日長い。だから全く成長しなくても1日分だけGDPは増える。これが約0.3%だから、本当の意味の成長は、0.3%を引かなければならない。だから、実際は0.6%というより、0.6-0.3=0.3で、0.3%が、本当の意味の成長率だ。上のグラフで日本の成長率を、更に半分にしなければならないわけで、虫眼鏡で見なければ見えないほど小さくなってしまう。

 0.3%成長では、2倍になるまでに、230年かかる。中国のように12%成長なら5年で倍増するし、日本以外で最低レベルは4%程度で、これでも17,18年で2倍になる。日本は何と哀れな国だろう。お金を刷って、デフレを止めれば諸外国並、あるいはそれ以上の成長ができるというのに。

 名目成長率ではなく、実質成長率だけ気にしておけばよいと主張する人がいる。それは違う。デフレは国を貧しくする。貧しい国ほど物価が安いし、豊かな国ほど物価が高い。デフレで物価を下げると、豊かな国が貧しい国へと変わる。デフレ時に、実質成長率が本当に意味があるか。パソコンの値段が変わらなくても、性能が上がれば、例えその機能が使われないものであっても、実質値下がりしたとみなされ、所得は上がっていなくても、実質金持ちになったとみなし、実質GDPは上がったことにしている。携帯電話のシェア争いが激化し、値段が下がっても、その分実質GDPは上がったことにしている。これって、本当に「経済成長」と言えるのだろうか。

 状況は最悪だ。NY原油は135ドル台に達している。もし、原油価格が130ドル台で為替が1ドル102円の状態が続いたら、実質成長率は0.7%も下がるという第一生命経済研究所の試算がある。すずめの涙ほどの成長率が更に下がるということ。当然だろう。給料が上がらない。しかし、原油価格が上がるとなれば、国民は限られたお金で、以前より少ない財・サービスしか購入できない。そうすると、国内の企業も売り上げが落ち、利益も落ちる。そこで、更に賃金も下がり気味になる。というわけでデフレスパイラルが進んでいき、日本は果てしなく貧乏になっていく。

 これに対抗するにはお金を刷るしかない。お金を刷って国民のために使えば、収入が上がるから、もっと多くお金が使える。そこで企業は売り上げも、利益も伸ばすことができ、賃金も上げることができる。見事デフレ脱却だ。その結果貿易黒字が転じて貿易赤字になって、そのうち外貨不足で輸入ができなくなるのではないかと心配する人がいる。

 しかし、心配しなくてよい。日本には外貨は有り余るほどある。しかも海外で稼いだお金は、海外で運用しており、外貨が底をつくなど考えられない。円はすでに国際通貨として通用している。円が価値無しと外国人が思う日が来るわけがない。円を使えばトヨタの車もキャノンのカメラも買える。日本製品が価値を失わない限り、円はいつまでも価値を失わない。しかもお金を刷って日本経済がどんどん盛り返してくればますます円はその価値・信用を増す。もちろん、円安になる可能性がある。日本人に十分なお金を政府が渡すと、日本人はよみがえり、経済活動(内需)が正常に戻り、輸入が拡大し、今まで世界に迷惑をかけ続けていた過度の経常黒字が解消され、世界の経済の健全な発展に貢献できる。日本への輸出を増やしたいと思っている国々の喜びはどれだけ大きいか。異常な低金利も終わるし、危険な円キャリートレードも終わる。

 経済を立て直すためには、政府は大本営発表を直ちに止めなければならない。デフレーターの政府通しを見れば、政府が大本営発表で国民を騙し続けているのが良く分かる。デフレ脱却とはデフレーターがプラスになることだが、先週政府が発表したのは2007年度のデフレーターはー0.9%で、まだまだデフレが続いているということだ。2002年からの発表を見ても、毎年、政府はデフレは1~2年の間にデフレは脱却できると言っている。そして下方修正を毎年繰り返している。

 2005年度の発表では、2007年度にはデフレはとっくに脱却していて、デフレーターはなんと1.8%にも達するという見通しを発表していた。それが2006年度には1.1%、2007年には0.7%に下方修正され、最終的にはー0.9%まで下方修正された。政府の行っている緊縮財政では、デフレ脱却は不可能であり、国は貧乏になる一方なのに、政府は嘘を言い続けている。同じ嘘を2002年からずっと言い続けている。わざわざデフレを脱却させない政策を続けている一方で、国民にはデフレは直ぐ脱却できると騙している。かつて勝てる見込みがない戦争で大本営発表と称し国民を騙し続けていたのと全く同じパターンだ。国民が気が付いたとき日本は焼け野原になっていた。国民よ、目を覚ませ。日本が大変なことになっている!!今こそ、日本経済復活のために立ち上がろう!

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2008年5月20日 (火)

後期高齢者医療制度が自民党に致命傷(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第74弾です。)

 自民党も福田内閣も支持率の低下が止まらない。福岡政行氏が週刊朝日5月23日号に書いた記事によると、福田首相で衆議院選を行った場合、自民党は現有議席305から189議席にまで議席を落とし、麻生首相で闘っても212議席にまで議席を減らすそうだ。先日、衆議院山口2区補選で民主党の平岡氏が大勝したが、与党支持層から民主党へ投票したその理由を調べたら、圧倒的に後期高齢者医療制度が多かった。つまり、この制度が自民党に致命傷になったようだ。

 この制度は2年前小泉氏が首相の時に決めたものである。小泉構造改革の実体が、だんだん明らかになってきた。要するに、国が国民に渡すお金を少なくすればするほどよいという、小泉氏の単純思考だ。高齢者は金がかかるから早く死んでくれと言っているような印象を受ける制度だ。死に際に、どこで治療を打ち切るかを、老人にアンケート調査をさせるという。医療費削減にここまでやるのかとあきれてしまう。

 この問題を議論するには、経済だけでなく、人間は何のために生きるのか、幸せとは何かという根本問題を避けて通れない。哲学的な議論をするつもりはない。あくまで科学的に人間を見つめたときの議論である。その答えは進化論から得られる。人間は進化が生み出した一生物である。どのような行動をする生物が進化的に有利なのか、シミュレーションで探ることができる。結論から言えば、人間が生きる目的は、すべての他の生物を同じで、「子孫を残すこと」であり、その目的に貢献できたときに、人は幸せを感じ、そうでなかったときに不幸と感じる。このことに関し、説明し始めたら長くなるので、もっと詳しくは『人間の行動と進化論』小野盛司著
http://www.tek.co.jp/president/intro.html
http://www.tek.co.jp/book.html
を見て頂きたい。

 若干、混乱を招く議論がドーキンスによる「利己的な遺伝子」だ。ノーベル賞に最有力と噂されるドーキンスだが、利己的という言葉の意味を誤用しており、そのことも詳しく『人間の行動と進化論』で説明し、国際会議(IUSSI(2002))でも発表した(Group selection vs. mutation balance can explain the occurrence pattern of selfish phenotypes:a computer simulation model for the parthenogenetic ant.)。

 人は、長く生きれば、それだけで幸せになるということでもない。植物人間になり、人工呼吸器をつけて、何の意味もなく苦しみに耐えながらひたすら延命治療を望むわけでもない。しかし、国の財政が厳しいから、お前の治療はここまでにして、早く死んでくれと国に言われれば国民は猛反発する。日本経済をここまで発展させてきた人たちに、そういう扱いをすべきではない。「子孫を残す」という意味で、一定程度の貢献をした後は、次の世代にバトンを渡す。すべての生物は、次世代にバトンを渡しながら、生き残っているのであり、個体が永遠に生き続けようとしている訳ではない。人生の中で、やらなければならないことはたくさんあるが、死ぬことは、その中の一つである。しかし、最終医療の段階で、一律の医療費抑制の話が登場したら、大変な反発が出ることを覚悟すべきだろう。

 では、どうすれば人間は幸せになれるのか。お金を刷って、75歳以上の老人はすべて医療費をタダにすればよいのだろうか。それは何の解決にはならない。そうしたら、病院はどこも老人であふれ、患者は長時間待たされ、重い患者も十分な治療を受けられなくなるだけだ。お金だけの問題ではないのだ。医者の数も、病院の施設も限られており、それを有効に利用する仕組みを作ることが重要になってくる。

 どうやれば有効利用ができるか。その鍵を握るのが医療のIT化だ。医者や看護師が行っている医療行為のうち、コンピュータができるものをコンピュータにやらせる工夫をしていかなければならない。そのためには患者のカルテの電子化が重要な第一歩だ。厚生労働省は01年、「06年度に診療所と400床以上の大規模病院での普及率6割」という数値目標を掲げたが、導入のピッチはそれよりずっと遅い。その理由はコストがかかりすぎるということ。システムを各病院ごとに作らせるのでなく、国が標準仕様で作りサーバーを一括管理し、端末を病院に安く使用させればよい。

 個人の病歴、家族の病歴、アレルギーの有無、各種検査結果、DNAのタイプ等の情報をそのサーバーで一括管理したほうがよい。個人情報保護ができるのかということが議論されるだろう。確かに超えなければならないハードルは高い。しかし、我々がより良い医療サービスを受け続けるための絶対条件であり、何としてもこのハードルを越える努力をすべきである。それによるディメリットより、メリットのほうがはるかに大きいことは、必ず理解されるときが来る。

 電子カルテが普及し、個人のデータが十分蓄積されたら、次は診断システムである。インターネットにつなぎ、病状を入力すれば、その人のデータを基にコンピュータが適切な指示をしてくれるシステムだ。十分なデータと、最新の医薬に関する情報が入れば、診断は通常の医者の診断よりも正確だというレベルにするのは容易なことだろう。そうであれば、医者に行かなくても、インターネットに接続されたコンピュータさえあれば、自宅から診断してもらえる。コンピュータは入力された情報に基づいて、救急車を呼べとか、暫く寝ているだけでよいとか、市販のどの薬を飲めとか、あるいはどの病院のどの医者と相談せよとかの指示を出す。コンピュータの入力が苦手な人もいるかもしれないが、合成音声と音声認識の技術を使えば、普通に人と会話するように、コンピュータと会話するだけで、キーボードに頼らなくても良くなる。もちろん完璧なレベルに達するには時間が掛かるが、これは確実に進歩していく。

 もちろん、病院で医者に診察を受けることが無くなるわけではない。コンピュータによる予備検診の後、コンピュータが詳細な分析を行い、その結果を持って医者の診察を受ければ、医者もより高度な診断が可能となる。この診断システムは、医者の負担を軽減し、収入増にもつながり、本当に必要な医療サービスに医者が専念できるようになる。

 このように、一つ一つ人間が行っている仕事をコンピュータに覚えさえ、コンピュータに替わりにやってもらうようにすることが、医療サービスの質も向上に繋がってくるし、医療費削減も可能となる。そのようなシステムの開発に金が掛かりすぎるということであれば、その部分は刷ったお金を使えばよいということだ。

 政府は75歳以上の老人を一般の人と切り離して医療保険制度を作り、75歳以上の老人向けの健康保険料をこれからどんどん上げていくつもりのようだが、老人いじめをやっているようでは、自民党の未来は無い。コンピュータの活用により、より高度な医療が、より多くの国民に受けられるように努力すべきだ。

 コンピュータの進歩は早い。今世紀中にロボットはほとんどの能力で人間を上回ることは間違いない。ロボットが提供する医療サービスも例外ではなく、それを前提で医療を改革していくべきだ。

“おしらせ”

明日(5月21日水曜日)は日本経済復活の会・第51回定例会があります。憂国のエコノミスト・紺谷典子先生です。小野盛司会長のお話もあります。読者さんもこぞってご参加ください。(神州の泉)

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2008年5月14日 (水)

減税をしても、長期的には税収は増える(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第73弾です。)

 お金を刷って、減税をせよと言うと、心配性の人は、ずっとお金を刷り続けなければ、また元のデフレに逆戻りするのではないかという。しかしそれは違う。日経のモデルで説明しよう。これは財政出動として法人税減税と公共投資を同額づつ行った場合の、税収の変化を示したものである。

Photo

 確かに最初の頃は、減税のために税収は減ってくる。しかし、3年目あたりから、景気拡大のために税収は逆に増えてくる。そして減税を行っているのに、税収は増えるという現象が、それ以後は顕著になる。景気が良くなると、給料も上がり、高所得者が増える。所得税は累進課税になっているので、急激に所得税が増え出す。もちろん、企業の利益が拡大すると法人税が増えてくるし、取引の拡大で消費税も増える。資産インフレも進み、土地も値上がりし、固定資産税も増えてくる。

 最初は減税だったが、税収が増えるということは増税だ。お金を刷るのは最初だけで、その後は、刷るどころか、逆にお金が戻ってくる。減税というのは、税率を下げるという意味での減税であり、それでも景気が良くなれば税収は増えてくる。デフレという病的な経済状態を脱するためにお金を一時的に刷るのであり、デフレが解消されれば、自立的な発展が始まり、政府が特別な景気対策を行わなくても、経済拡大が続いていく。
 日本においても、例えば高度成長期においては、減税しても税収はどんどん増えていった。ある程度の名目成長率があれば、税収はどんどん増えていく。デフレで経済が成長しない唯一の国である日本は税収は増えませんが、現在でも日本以外の国はどこでもそれを当然の事のように経験しているのです。

 例えば、昭和30年代、名目成長率は毎年10~20%を記録しており、税収の伸びはなんと毎年30%を超えていました。そのまま放置していると、納税者の所得税負担が過重になるということで、毎年減税が実施されました。昭和40年度まで毎年大規模な減税が次々と行われました。この頃の新聞記事を読んでいると、減税の記事が繰り返し載っており、そんなに減税を繰り返すのであれば、税金はそのうちタダになるのではないかと思うほどでした。しかし実際はそれでも税収は増えていたのです。

 例えば、昭和30年には国税は9360億円でしたが、昭和40年には3兆2780億円になっています。実に3.5倍です。年平均に直すと13%程度です。経済成長がどれだけ素晴らしいかということです。現在は日本は成熟した経済だから成長しない、人口が減るから成長しないと言う人がいるでしょう。それは実質成長率の話です。お金を刷れば、名目成長率はいくらでも高くできるのです。そして名目成長率が高くなると、それに伴って実質成長率も上がってきます。だから、財政危機は不況の時にしか起きません。適度の名目成長率さえ確保されれば、日本の財政問題は解決します。

 それだけではありません。当然ですが、税率が低い国には、金持ち(個人も企業も)が集まってきて、国は金持ちになり、税率が高い国は、金持ちが逃げて、国は貧乏になります。例えば、日本の最高所得税率は地方税まで含めると50%になり、世界最高水準です。税率の低い国、例えばスイスや香港は11.5%ですが、世界中から金持ちが押しかけてきています。法人税も日本は40.7%でOECD諸国の中では最も高く、日本企業の海外流出が続いています。諸外国では、海外から優良企業を呼び込むために、そして企業の海外流出を防ぐために、法人税の引き下げ合戦が行われています。1997年には世界平均は33.2%であったのに、2007年には26.8%にまで下がりました。
 世界の中で、日本が没落を続けている時に、政治家やマスコミは増税のことしか話題にしません。増税がデフレを加速させ、金持ちも投資マネーも逃がし、日本をますます貧乏にしてしまうというのに。

 なお、4月21日の『お金がなければ刷りなさい』の出版記念パーティーでの、綿貫民輔氏や中川秀直氏等の講演が動画で見ることができるようになりました。
http://tek.jp/p/ 
をご覧下さい。

“おしらせ”

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2008年5月12日 (月)

財政が破綻したらどうなるのか?(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第72弾です。)

 2000年11月に幸田真音の『日本国債』という本が出版され、国債の暴落の危機が書いてあると評判となった。しかし、8年後の今、暴落ところか、金利は2%を超えないという国際的にも異常なほどの低金利、つまり国債の異常な高値が続いている。国債の暴落と言えば、一般の人は感心を持つから、本が売れるのだ。「死の商人」と同じような儲け方をしたにすぎないことは明白だ。ハルマゲドンという危機をちらつかせ金を巻き上げたオウム真理教と、手口は全く同じ。財務省だって財政危機を煽って、増税で国民から不当に金を巻き上げる。単細胞な国民はすぐ騙される。

 国債が暴落し、財政が破綻したら、どうなるというのだろう。私は3600円をいう「大金」を投じて、幸田真音の『日本国債』を買って読んだ。当然、国債が暴落した後の事が書かれていると信じたからだ。驚くことに、そのことには一切触れていなかった。まさに危機を煽るだけの本だった。

 実際に、国債を誰も買わなくなり、財政が破綻したら、何が起きるのだろう。国が公務員に払う金も無くなるから、自衛隊も警察も国会議員ですらすべて解雇されるのか。国債が売れなかったから、自分たちの給料をゼロにしますと国会議員は言うのだろうか。そんなわけないということは誰にも分かる。いや、誰もが知っていることだ。国債を誰も買わなくなったら、日銀が買うだけだ。つまりお金を刷るのだ。

 そのときは、国は十分なお金を手にし、それを国民に渡すことができるから、デフレは終わり、日本の没落が止まり、日本経済の復活が始まる。その輝かしい復活の世界を書けば、なぁ~んだ、危機じゃあないじゃないと言われ、本は売れなかっただろう。儲けるためには、口が裂けても財政が破綻した後の事は言えないのだ。ここまで言えばお分かりだろうか。国民のことを真に考えるならば、むしろ財政は一刻も早く財政は破綻したほうがよいのではないか。

 今年の3月26日の日経新聞には、慶応大学の櫻川氏と学習院大学の細野氏のシミュレーションが載っている。財政破綻の確率が6割になったとデカデカ書いてある。正確には62.5%なのだそうだ。私は、櫻川氏にメールを送って、財政が破綻したら、国債が紙切れになるのですか、日銀に国債を買ってもらえばいいだけではないのですかと質問した。その回答は次のようなものだった。

 『国債の破たんによって確実に生じるのは、元本割れです。紙切れになるかどうかはわかりません。日銀券は、政府の負債で、国債と日銀券の交換は、政府の負債同士の交換なので、実質的には政府の負債は減りません。したがって、際限なく日銀が成功裏に国債を買い続けることは不可能です。』
 要するに、日銀は際限なく、国債を買うことはできても、成功裏には変えないのだそうだ。えぇ~。成功裏ってどういう意味?? 成功裏とは、「国の借金を増やすことなく」と彼は言いたいようだ。そんなこと当たり前だ。国債を多く発行すれば、国債発行残高は増える。国債発行残高を減らしたいならデノミをやればいい。100分の1のデノミをやれば800兆円の発行残高も一気に8兆円に減らせる。一方で、国債発行残高のGDP比が問題だと言うなら、それはすでに減りつつあるし、日銀が国債を買えば、お金が国民に渡り経済が活性化するから、間違いなく、GDP比は減ってくる。歴史的にも、国の借金のGDP比が増えすぎたとき、国の借金を減らしたのは、GDPを大きくすることによるものであり、借金そのものを減らした例は無い。このことを説明したら、2回目の櫻川氏の説明は次のようなものだった。

 『財政政策が景気刺激策の効果をもてば、可能かもしれません。しかしながら、政府部門の生産性の低さを考えると、政府部門の肥大化は長期的に経済成長の減速をもたらすという定説を覆すのは容易ではないと思います。また現在の政治家に「最適な」経済政策の実行を期待するのは容易ではないと思います。』

 そういうことであれば、政府部門の生産性の低さを、数値で表さない限り、彼のいうような、財政破綻確率62.5%という数値が何の意味もないということになる。ひどい論文だ。なぜこんな論文が日経の経済教室に載るのか。財政破綻で国民を脅せば、新聞の読者を増やすのに有利だから、日経はこういう無茶苦茶なシミュレーションを載せる。我々が、日本経済復活のシミュレーションを日経のモデルできちんと計算して送っても絶対に載せない。日経の経済モデルを使ったのだから、この計算結果は信用できないといは言えないはずだし、そのモデルを使って日本経済の復活の方法を明確に示しているのであれば、絶対に掲載しなければおかしい。しかし、積極財政で経済が蘇り、財政も健全化するという事実を明らかにしてしまっては、二度と財務省からは、シミュレーションの依頼は受けられなくなるという思惑があったのだろう。

 櫻川氏のように、日本の経済学者は、政府が駄目だから、経済は発展しないと言う。しかし、日本は驚異的な経済発展を成し遂げた国だ。あの当時に比べ政治家がそんなに悪くなったのか。違う。デフレでお金が消え、経済活動に必要なお金が国民に渡らなくなっただけだ。世界の中で見ても、日本の財政規模は小さすぎる。デフレで巨額のお金が消え、しかも政府の緊縮財政政策のために、国民のために使うお金が少なすぎるのだ。

 政府が無駄遣いをしているのだろうか。談合とか天下りの問題とか、不正はある。不正に流れたお金の国際比較をしてみるとよい。日本は中国の10分の1以下だろう。アメリカ人経営者は言う。日本はいい。物を売ったら、代金をきちんと払ってもらえる。アメリカではそうはいかないそうだ。不正は世界中どこでもあるが、日本は諸外国よりはるかに少ない。アメリカで自転車を借りたことがある。彼らは、夕方には必ず返せという。もし路上に自転車を放置したら、夜のうちに盗まれるのだそう。私は東京で約30年間自転車を路上放置しているが、盗まれたことは一度もない。不正も犯罪も日本は諸外国よりはるかに少ない。不正のために、お金が国民に渡らなくなっているのではなく、歳出の絶対額が小さすぎるのだ。無駄遣いと言えば、アメリカは軍事費だけで、50兆円を使っている。日本の10倍だ。道路特定財源で100万円のカラオケセットを買ったのが、日本政府の無駄遣いなのか。外国では日本よりはるかに巨額の無駄遣いをしているが、経済成長率は日本の5~10倍だ。無駄を無くすという大義名分で、財政支出を圧縮するのがいけない。それで国民に渡すお金を削っているから、デフレがいつまで経っても終わらず、日本がどんどん貧乏になっていく。お金を刷って、国民に渡せというのが我々の主張だ。歳出拡大が国民的合意を得られないなら、減税でいい。無駄・不正は、防ぐ努力は必要だが、それはマクロ経済とは別次元の問題だ。インフレの時でも、デフレの時でも、無駄・不正は同じように防がなければならない。

“おしらせ”

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2008年5月10日 (土)

経済成長vs財政再建の議論について(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第71弾です。)

 1994年にデフレーターがマイナスになって以来、日本ではデフレが長く続いている。お金を刷って、国民に渡せば、デフレは簡単に脱却できる。積極財政が国を救う。それをやる勇気が無いなら、せめて積極財政をすべきか、緊縮財政をすべきかで激論を闘わせていなければならない時なのだが、残念ながら、現在積極財政を主張しているのは我々、日本経済復活の会以外にほとんどいない。国会議員の中には、積極財政を主張したい人が多数いるが、ほとんど本音を言えない状態にある。見えない圧力により押しつぶされている。その中で、国民新党だけは、明確に財政出動を言っている。少し前、20兆円の財政出動の提案を発表したが、マスコミはほとんど取り上げなかった。民主党と公民新党で、政策協定を結び、その中で6兆円の財政出動を提案しているが、それもマスコミは封印した。

 そういった中で、経済成長か財政再建かという論争が、マスコミに取り上げられている。経済成長派は、霞ヶ関埋蔵金等の資金を使って景気対策をし、経済を成長させるというもので、中川秀直氏がその代表格だ。財政再建派はデフレは続いて良いから増税をやろうというもので、与謝野馨氏が、中心的に唱えている。ポスト福田も視野に入れ、この論争が注目を浴びる。

 4月21日の出版記念パーティーの事を話してみよう。『お金がなければ刷りなさい』という本の出版記念パーティーに10名の国会議員が参加した。その中に、綿貫民輔前衆議院議長と中川秀直氏がいた。実は、我々としては、非常に神経を使っていた。綿貫氏は日本経済復活の会を強く支持して下さっている大物議員であり、会にとって極めて重要人物なのだが、郵政問題で中川氏と鋭く対立した経緯があり、同席させて大丈夫なのか心配していた。最初に綿貫氏のスピーチがあった。その中の少しだけ引用する。

綿貫民輔氏:
「今日は、お二人の御本の中身がこれからの日本を変える大きな起爆剤になってもらいたいなと思っております。今、全く政党政治はありません。自民党も馬鹿、民主党もアホ、馬鹿とアホのなれあいで、全く私ども困っておりますが、何とかしなければならないと思っているのが国民新党でございます。」

 自民党や民主党の議員が多数いる中で、こういった発言ができるのは綿貫氏しかいないだろう。さすが当選13回、選挙での得票数で日本最高記録を作った彼は、国会議員の中でも別格と思わせるスピーチだった。

 その後で、中川氏のスピーチがあった。結構、私の書いた本や、朝日新聞に出した意見広告等をきちんと読んでいただいているようで、何度も引用して頂いた。以下に、その一部を書く。録音が不明瞭な箇所があり、若干間違えている箇所があるかもしれない。

中川秀直氏:
皆さんがご一緒に勉強されていることは、私自身が常日頃主張していることと変わらない。今日はお祝い申し上げる次第です。今マクロ経済の話がございましたが、世の中というものは変化著しいものがあります。世界は音を立てて動いてる。そういう意味から申しますとマクロ計量モデルというものも常に新しく構築していかないと役に立ちません。現実問題として我が国の直近の毎年の経済見通しが当たった年が一度でもあったでしょうか。一度たりとも無いのであります。まさに90年代の古いデフレ時代の景気が大幅に後退している時代の内閣府のモデルをそのまま使っている。私はそこにも根本の誤りがすでに存在していると、そういつも申し上げるのでございますが、なかなかそこを公開もしないし、変えようともしない。

 小野さんの新聞広告にございましたノーベル経済学者のローレンス・クラインさんに党としてシミュレーションの調査をお願いいたしました。我が国の潜在成長率は、つまり政策よろしきを得れば成長可能な成長率は、3%から3.5%だと、実は1年半前にレポートしていただいたのでございます。ところが実際は1%半ばだと政府の見通しでは仮定しています。1%台半ばなら実質成長は2%を超えていたことがあるわけです。そうすれば物価は当然上昇するはずなんです。ところが生鮮食料品を除く一般物価はずっとマイナスできたのであります。理屈に合わないではありませんか。やっぱりローレンス・クラインさんの言う潜在成長率は3%以上あるからこそですね、実質3%成長しないから物価が伸びずデフレが続いている。これはもう真相なんだろうと私は硬く信じます。デフレが終わらないのに消費税増税をしようなどという政府がこの世の中にあるでしょうか。考えてみれば、我が国の経済が名目で0.7%の成長しかないとするならば、僅か一年間に富は3.5兆円しか富は創造されないということですね。これはまた5%消費されれば13兆円、なぜ10兆円いわゆる民間の経済活動をしないという、行わないということですね。

そのような政策を当たり前のように見ているということが僕には全く信じられない。まあ私の色々主張するところは今月号のVoiceに、対談はお断りしましたが、インタビューに応じましたら結果的に与謝野先生にも、取材されたそうで論争という形になりました。そこに大きく書いてありますので繰り返しませんけれど、官僚国家、ここを根本からも変えないと日本経済はいつまで経ってもよくならないと信じて疑わないのであります。どう考えましても我が国の財政再建というものは、債務残高GDPだけを言うのではなくて一般会計と特別会計で980兆円国家財政はそれだけ借金を抱えてる、それだけ強調するということは、絶望感にさいなまれるだけではないか。私はそう思います。もちろん、財政再建をしていく、財政規律を持たしていく、この重要性は、消費税増税のときには断固主張して選挙をした人間ですから、すべて分かっているつもりです。しかし、一方で資産もあるということを忘れてはいけない。債務と資産の差額こそ第一義的に考えていかなければいけない。

およそ我が国ほど政府資産が多い国はございません。アメリカも連邦制であるから州政府まで入れた数字はまた変わってくるかもしれませんが、それでも連邦政府の資産はGDP比1~2%しか持っていません。あの英国ですら32%です。ヨーロッパの中で比較的高いと言われるあのイタリアでも77%です。GDP比で140%、先進国でこれほど資産を保有している国は無いのであります。もちろん、道路、河川など売れないものもあります。売れる実物資産もございます。取り敢えず12兆円売るという計画を私が政調会長のときに制度がスタートしたのでありますが、それ以外に金融資産がいっぱいあるのです。日銀に政府預金というのが4兆円ありますが、これも世界唯一のものであります。アメリカは5000
億円、雲泥の差であります。それとまた、現先の運用で合わせて20兆円、それ以外に金融資産、政府系金融機関を一つにすることにしまして、これは圧縮することにしましたが、それでも300兆円近くある。

 加えて特別会計の様々な実質金融運用事業をやっております。そのような金融資産をすべて合わせれば、だいたい700兆円。道路など売れない物を除いてみましても、私の見るところ500ないし700兆円ではないかと思います。そうすると980兆円の債務と申しましても差し引きするところは700兆円を引けば280兆円、売れないものを含めましてもせいぜい400兆円くらいではないかなあ。それをGDP対比で5割以下に持って行く、それが正しい考え方だと思うのであります。そして消費税増税の議論は、この経済の実態を考えれば、やはり財政再建というのは90年代前半の我が国の例に思い起こすまでもなく、まず経済を伸ばすこと、足下で0.9%年金の運用利回りが上がり、高齢者報酬が0.4%上がったって、40年後の年金予測は8万2千円も違うんです。まず経済を伸ばすこと。これがですねインフレ政策だという人の神経がわからない。いま日銀が議会も含めてヘッドも含めて福井さんの時に0%から2%だと、これが物価安定の目安だと言いました。しかし実質は0%台なのです。

 物価統計というのは上ぶれで出ますので、0.7%というのは恐らくマイナス物価です。デフレは悪くないと言うのです。まあ、小野さんの資料の中にもございましたように、おおむね欧米の物価安定というのは1から3%、場合によっては4.(テン)いくつから5%という所もある。平均すればだいたい2%台というのが物価安定の目安です。イングランド銀行アーサー・キングさんとお会いして、色々伺いましたが、これも1から3%ということで、2%台を目安に物価安定の調整をしているということでございます。日本もその程度として、そしてなおかつクラインさんの言うような3%を越えるような潜在成長率が実質成長率になるようにすれば、あっという間に4か5%の成長率になる。欧米先進国のほとんどがその水準の成長率を期待している。まあ、中国の12%成長、5年で所得倍増は論外としても、4%の成長ならば十七、八年で所得倍増する。0.7%の伸びでは100年掛かるのです。そんなの、政策と言えますか。そんな経済を実現しないで、消費税増税などと言っている、そんなことを考えて、それが日本の正しい政策などかというのは、世界の常識から言って、アホかと、馬鹿かと言われているのであります(大拍手)。

 インフレ率を例えば1から2~3%ぐらいをやっていくことが悪魔的手法だという。じゃあ、世界の主要国の経済の実態は悪魔的手法による懸念すべき状態にあるのか、そんなことを言っている国はどこにもありません。やはりインフレあって物価スタイルです。そしてまた、雇用者報酬もそれに連れて引き上げていくことが可能で、非正規を正規にしていくことも、そのことによって始めて経営者が分かることですが、可能性が出てくる。法人税も減税して海外への所得移転している、生産拠点を海外に置くと言うことも、日本は法人税40%、向こうは法人税2割。当然こっちへ持ってきたら2割課税される。それなら皆、海外へ置きます。そのお金だけでも16兆円ぐらいあるのではないかと思います。製造業ですね。それが国内に帰ってきて始めて非正規を正規にもできるわけでありまして、法人税の減税もしなければ、この国は沈んでいくということでしょう。どう考えたって、小野さんや私たちの言うことの方が正しい。声を大にしてこれからも、私も、お互い、皆さんも我々の考えを主張してゆきましょう。よろしくお願いします。終わります。ありがとうございました。」

 どうやら、綿貫氏と中川氏を同じパーティーでスピーチをして頂いたことでは、問題は起こらなかったようだ。綿貫氏や中川氏を始め多くの国会議員等の方々から一緒に主張をしていこうと言って頂き、我々は元気百倍と言ったところである。もちろん、日本経済復活の会は超党派であり、郵政選挙等、過去のことを言い出せば対立の火種はたくさんあるし、党派間の意見の違いもある。しかし、デフレを脱却し、日本経済を復活させたいという思いでは一致している。このような活動をしている団体は、日本中捜しても、どこにもない。与謝野さんのような大増税をもくろむ人が次期首相になってしまっては、日本の将来は真っ暗だ。是非、一緒に「お金がなければ刷りなさい」と、声を大にして、主張していきたいと思います。

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借金帳消し作戦:タブーは破るしかない(いかりや爆さん第6弾)

(6)借金帳消し作戦:タブーは破るしかない

 『名目GDPの上昇は財政問題を解決するか』について

 小野会長、第62弾 『経済を良く理解している国会議員に期待しよう』に関連して、「ななし」さんのコメント(4月23日)で原田泰氏の論文を引用しておられる。
 まず、それ関連して意見をのべさせていただきます。
 その原田氏の論文の一部を下記、孫引きします。

◆名目GDPが増大することが、財政にどのような影響を及ぼすかについては2つの考え方がある。第1は、名目GDPの上昇が税収の増大を通じて財政赤字を縮小するという考えである。第2は、名目GDPの上昇が金利を上昇させることを通じて国債の利払いを増大させ、かえって財政赤字を拡大してしまうという考えである。

◆本稿の試算によれば、国債残高が膨大なものとなっている状況でも、名目GDPの増大が税収を増大させる力は、金利上昇が利払い負担を増大させる力よりも長期的には大きい。税収を増大させる力は等比級数的に上昇するが、利払い負担を増大させる力は等差級数的にしか増大せず、やがてゼロになってしまうからだ。しかし、短期的には、名目GDP成長率の上昇が金利上昇を通じて引き起こす利払いの増加額は、名目GDP成長率の上昇がもたらす税収の増加額を上回る。

 上述の「名目GDPの増大は、税収を増大させる力は等比級数的上昇で」という部分は一応理解できる。だが、「利払い負担を増大させる力は、等差級数的にしか増大せず、やがてゼロになる」はどのような前提を置いているのかによって、いかようにも変化するので、「やがてゼロになってしまう」というのには論理の飛躍がありすぎて理解に苦しむ。

 大雑把だが、仮に、国と地方の借金を1000兆円、名目GDP500兆円、年5%成長で、金利が3%、均衡財政(税収の黒字部分は次年度予算増にあてる)を前提として計算(複利)すると名目GDP対借金は以下のようになります。

名目GDP:借金 10年後814兆円:1344兆円、 20年後1327:1806、 30年後2161:2427、40年後3520:3262

36年でやっと名目GDP=借金:約2900兆円となります。
 
 無論、金利の利率が成長率5%よりも上回る話は最早論外です。仮に税収が幾何級数的に増加して、一部を借金の返済に充てたとしても、対GDP比が下がるだけで、借金ゼロには程遠い。

 それ故、「国の借金をチャラにする方法」で述べたような大胆な施策を採るしかない。無論、一挙に「帳消しにする」必要はなく、計画性をもって段階的に減らしていくなどの方がむしろ妥当だと思う。
 日本は超デフレ経済下にあり、そういう政策がとれる唯一の国です。円高に物価高、今の状態をこのまま放置すれば庶民は悲鳴をあげる。いよいよ日本は世界から信用を失い、貧しい国に転落します。

 「借金帳消し作戦」は、経済学者とって身に危険が及ぶタブーという人もいる。しかしここまできたら、断固としてタブーは破るしかない。

 バブル後、20年近くにもなるのに、日本経済がこんなに疲弊していること自体が異常事態です。まともなら、名目GDPは1500兆円になってもおかしくない。『(3)多重債務者「おちこぼれ」ニッポン』で述べたように、1996~2006年の11年間に全く経済成長なく名目GDPが変わらず、むしろ落ち込んで「おちこぼれ」になっていることもアブノーマルなら、その間に国の借金をさらに500兆円も膨らませて、「蟻地獄」に落としこんだことも超異常現象、恣意的なものを感じざるをえない。
 
 日本を並の国に転落させたのは、誰か?さらに並み以下に貶めようとしているのではないかと危惧する。

蛇足: 今の金余り状況のなかで、「借金帳消し作戦」だけでは、金余り現象に拍車をかけ、実体経済を活性化させる大きな力となりうるかどうかは疑問があります。
一方で低所得者向けの施策が必要、例えば、時間あたりの賃金を200円以上アップさせるなど、そのための政府の予算やバックアップ体制を整える必要があります。

 具体的にいえば、仮に1700万人の非正規雇用者の人たちに、時給を200円アップし、1日8.5時間労働、年間300日働いたとすれば、年間8.7兆円が彼らの手にわたります。
8.7兆円は殆どすべて実体経済に循環し、その金が回転すれば名目GDPに大きく貢献するはずである。
 これだけでも、どれだけ多くの人が救われることか。そしてそれが名目GDPをふくらませ、税収増へとつながっていくに違いない。

“おしらせ”

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2008年5月 8日 (木)

鹿砦社・松岡利康さん弾圧に何を見るか

6_3  まもなくやってくる7月12日は、鹿砦社という出版社にとって特別な日である。今から三年前の2005年7月12日、関西の一角の出版社に突然理不尽な言論弾圧事件が起きた。鹿砦社の社長である松岡利康氏は、神戸地検特別刑事部に、彼の自宅、本社事務所、東京支社に強制的な家宅捜査を行なわれ、逮捕された。アミューズメント業界の大手「アルゼ」の役員たちや、阪神タイガースの元球団職員を出版物やWebサイトで中傷したという名誉毀損の容疑だ。その結果、鹿砦社の運営機能は壊滅的な状態まで落とされたうえに、社長の松岡氏はじつに192日も勾留されている。

 出版社の社長がこれほどの長期勾留を受ける理由はぜったいに法理的なものではない。仮に、松岡氏の表現活動に名誉毀損を疑える記載があったからと言って、192日間も勾留する必要はまったくない。ここには、名誉毀損罪という表層に出た「こじ付け」とはまったく別次元の官憲側の内在的論理が強く作動したものと自分は考えている。官憲側が、この無茶苦茶な長期人質司法に踏み切った背景には、アルゼも阪神タイガース球団も、ともに警察官僚の天下り企業であるということがあり、期せずして松岡氏の追及行為は彼らの逆鱗に触れたということである。

 しかし私が強く言いたいのは、鹿砦社弾圧事件の深層には、国民にとって恐ろしい背景が潜んでいることを見抜いて欲しいということだ。この弾圧事件は、社会の公器である出版社に対して、露骨な見せしめのメッセージが込められている。ここで絶対に看過して欲しくないことであり強調して置きたいのは、官憲が個人を狙い撃ちしたということだ。この意味は警察官僚と癒着した企業を批判したり糾弾したりしたら絶対に許さないぞということである。敷衍するなら、いかなる権力批判もご法度だぞということだ。松岡氏の逮捕・長期勾留、そして、明らかに公益性のある批判活動に対して、裁判所が有罪の判定を下したことは、日本にある全メディア、または全国民に対する恫喝にほかならない。

 植草さんが嵌められた事件を見てもわかるとおり、昨今の政権は薄気味悪い統制色を強め、政権の方向性を批判する者をけっして許さない。この具体的な締め付けとして、政権に批判的な著名人には見せしめ的な国策捜査を行なう。植草一秀さんはその典型である。彼は無実であり無辜のエコノミストである。小泉政権が帯びていた万民毀損性を誰よりも早く見抜き、その危険性を経済と金融の両面から告発していた。今、国民は小泉政権の政策上の過ちを否応なく認めざるを得ない段階に来ている。後期高齢者医療制度も、買弁与党が議席数をたのんで強引に成立させた数々の悪しき政策の一つだ。郵政民営化で万民が益した話は何もない。むしろ広域的にマイナス面が目立ち、事業側と住民側から怨嗟の声が出始めている。外資に有利な三角合併法案も然りである。小泉政権が敷いた構造改革路線とは、外資と一部の買弁的な特権階級に利益供与を行なうシステム造りだった。その体制を完成させるため、最近特に顕著になった統制的国策は、言論の自由に強い縛りを掛けようとしてしていることだ。その証左はいまさら言うまでもないが、人権擁護法案、共謀罪法案、電子投票法案など、これら危険な法案成立への執拗な動きである。これがネオリベ的翼賛傾向でなくてなんだろうか。私はこれを「夜警国家」化と言っている。

 鹿砦社の松岡氏への弾圧は、国家の統制的変貌の過程で起きたできごとだ。表層的には警察官僚の中枢を怒らせたための弾圧だったが、より俯瞰的にこの弾圧を捉えると、これはわが国がネオリベ体制に変貌しつつある過程で必然的に起きていることなのだ。日本は確実に翼賛的な統制国家に変貌しつつある。つまり、マスメディアの位相から眺めるならば、この動きはわが国が明らかに言論統制社会に向かっていることを示す。保守の立場から、私は現行日本国憲法の素性には根本的な疑問を持つが、第21条や第25条、すなわち言論の自由や生存権の保証はあらゆる時代を超えて保持すべきものだという思いがある。特にものを言う自由の確保は最も重要だ。これが担保されなくなったら、世は暗黒社会である。「言論の自由」よりも、名誉毀損の濫用が優先される社会は不健全だ。司法が公益性の概念を無視し始めたら危険である。鹿砦社弾圧には露骨に公益性概念が除外されており、裁判官の裁定感覚は極端に偏頗である。ここには弁護側言い分を完全に無視した植草裁判と同じ裁定上の極端な不均衡が顕われている。

  鹿砦社の言論弾圧事件は国民にとって、けっして他人(ひと)事ではない。今、国民がこの事件を明日のわが身と受け取って、必死に警戒しないと、日本は完全な言論統制社会になり、人々はものを言えなくなる。そうなると何が起こるか。権力を恣意的に操れる者たちによって、何でも好き勝手にことを運ばれてしまう。国民は物を言えない労働奴隷となり、徹底的に搾取されるばかりか、相互監視・密告社会が実現してしまう。ジョージ・オーウェルの「1984」に描かれる超監視社会はけっして夢物語ではない。

 今年の7月はあの言論弾圧事件から三周年記念に当たる。現在発売中の鹿砦社発行の基幹的月刊誌「紙の爆弾」6月号には、オーマイニュース社長・元木昌彦氏が「雑誌ジャーナリズムの原点」と題して非常に重要な記事を寄稿されている。元木氏は、昨今は雑誌ジャーナリズムを萎縮させるできごとが続いており、その際たるものが個人情報保護法であり、その中に雑誌規制を盛り込んだと指摘している。神州の泉の読者さんは是非手にとって読んでいただきたいと思う。今、権力側は記者クラブに縛られない雑誌とネットに網をかけようと必死である。権力批判を行なうライターを一網打尽にしたいのである。国民は気付かなければならない。植草さんと松岡利康氏への弾圧が、権力批判を徹底的に封じ込めるために行なわれた「みせしめ」であることを・・・。

“おしらせ”

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暮らしに対する不安感が高まっている―内閣府調査―(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第70弾です。) 

 4月12日、内閣府の「社会意識に関する世論調査」の結果が発表されたので、グラフにしてみた。悪い方向に向かっている分野は何かと聞かれて最も多かったのが景気の43.4%で、昨年は21.1%だったので2倍以上に増えた。その次が物価で42.3%でこれは昨年の14.6%に比べ3倍近くにもなった。その次は食糧で40.9%。これは昨年の13%に比べ3倍以上になった。

平成20年4月
Photo

平成19年4月
2

 それでは、良い方向に向かっている分野はどうかという質問の答えを次に示す。

平成20年4月
Photo_2

 トップが科学技術で21.2%、次が通信・運輸で17.9%である。こちらは、昨年とほとんど変わっていない。これらは政府の政策とはほとんど関係ない。結論から言えば、悪い方向に向かっている分野の景気・物価・食糧といった分野が2ないし3倍に激増、良い方向に向かっている分野の2倍以上になった。

 国を悪い方向に向かわせている原因は間違えた経済政策であることは明らかだ。お金を刷れば簡単にデフレ脱却が可能なのに、いつまでもデフレ=大不況を放置する。世界の景気が絶好調な間は、まだなんとか国民もがまんできた。しかし、それが終わり、世界の景気が下降線に向かうと、日本はひどいことになる。消費者物価は1%程度の値上がりと言うけれど、平均賃金が9年連続で下がっているときに、食料品やガソリンの値上がりは痛い。1%と言うけれど、パソコンや家電製品は実際には値下がりしていなくても、性能が上がっていたら、値下がりしたことにしている。価格が大きい分、値下がり効果も大きく計算される。家計を大きく直撃する食料品は大きく値上がりしているが、平均すると1%の物価値上がりということになり、生活実感とかけ離れたものになる。それでも賃金が上がるとか、年金が充実していて、将来が補償されているなら、少々の値上がりも気にならないかもしれない。今の政治は、年金や医療で国民の不安をかき立てることばかり。その不安が消費に悪影響を及ぼすことは間違いなく、それがGDPを下げ、景気を更に悪化させ、財政を更に悪化させる。

 本日の朝日新聞に長期金利が上がっている、これは国債の「暴落」に近いというコメントすら出ている。外国人がサブプライムローンの損失の穴埋めで、少し国債を売っただけで、国債はあっという間に、値を下げる。これから、そんな僅かな額ではなく、桁違いに大量の国債を売っていかねば、財政は成り立たないことを、政府は知っている。財務省はパニックになっているのだろう。パニックになる必要はない。もう、逃げ場はないことを国民に説明し、日銀に国債を買わせれば(つまりお金を刷れば)よいのだ。それですべては解決し、国民に安らぎが戻り、国民は国が良い方向に向かっていると感じるようになる。国民に経済活動を行うに十分なお金が渡るからだ。

 なお、日本経済復活の会を支持する国会議員は着々と増え続けている。最近1ヶ月だけで大江康弘参議院議員、亀岡偉民衆議院議員、篠原孝衆議院議員の3名の方が顧問として加わって下さり顧問の国会議員の数は70名に達した。

“おしらせ”

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2008年5月 6日 (火)

消費を伸ばすには1500兆円の個人金融資産を「活用」すればよいのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第69弾です。)

 日本のGDPの56%は個人消費である。GDPを伸ばすには、つまり経済成長には消費を伸ばせばよいから、1500兆円の個人金融資産を「活用」すればよいという説がある。では個人金融資産の中身は何か。政府統計ポータルサイトから引用してみる。

http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000000640079&cycode=0

 データを下に図で示した。二人以上の世帯の場合で平均で3.26人の家族である。平均で金融資産が1529万円で、負債(住宅ローンなど)が569万円ある。差し引き実質960万円持っていることになる。しかし、生命保険は気軽に消費には使うわけにはいかないからこれも引くと、562万円だ。平均3.26人の家族だから一人当たり172万円になる。注意しなければならないのは、億万長者は何十億円とか何百億円とかを平気で持っている。そういう人が平均を押し上げていて、平均的な人はこんなに持っていないということだ。

 一人当たり172万円にしても、びっくりするほど多い額ではない。将来のため、例えば結婚資金、子供の教育資金、住宅を買う資金など様々な目的があるだろう。マスコミは75歳以上を政府は切り捨てる後期高齢者医療制度を始めたと騒いでいる。自分が75歳になったとき、自分は切り捨てられるのかと心配になり、貯金をしておかねばならないと思うだろうし、172万円ではとても足りないと感じてもおかしくない。更に年金さえもあてにならないと騒いでいる。景気対策のために、国民は貯金をはたいて、がらくたを買いまくってくれと政府から言われてもとてもそんな気にはならないだろう。しかも国は多額の借金があって、それを将来税金で徴収するという。現在、長期の借金だけで834兆円もあるのだそうだ。国民一人当たり667万円だ。172万円しか持っていないのに、667万円も増税されたら破産するしかない。国は国民全員を破産させるつもりか。こんな馬鹿なことを考えている政府は、日本以外にはどこにもない。増税の手始めとしてまず消費税10%にするという増税案が出ているが絶対に阻止しなければならない。

 そもそも政府というものは、国民の税金を使って活動させてもらっている。その目的は全国民から全財産を取り上げ破産に追い込むことではない。国民に経済活動を行うに十分なお金を渡し、経済を成長させ、国民を幸福にすることが目的であるはずだ。もしも、現在の財政・金融システムが、その目的に適切でないのであれば、それを改善していくのが公僕たる政治家の役割だろう。

 結論は一つしかない。お金を刷りなさいということだ。もっと国民にお金を渡しなさいということだ。医療も教育も、そして日本が誇る製造業も、空港も港湾も、農業もお金がないからガタガタだ。お金を刷ったとき問題が起きればそれに対応して制度を調整していけばよい。後期高齢者医療制度にしても、マスコミの批判は極めて厳しい。これを放置しては、与党の未来はない。次の衆議院選挙で大敗し、二度と政権に復帰できなくなるだろう。多くの与党の衆議院議員は二度と国会に帰って来れなくなるに違いない。今こそ決断の時だ。国民に背を向け続けている政治を大転換し、国民のための政治、国民を幸福にするための政治を直ちに始めて頂きたい。

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2008年5月 4日 (日)

報道2001での与謝野馨氏の発言について(小野盛司)

 (※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第68弾です。)

 本日(5月4日)の報道2001に与謝野氏が登場した。ポスト福田として、彼が急浮上したのだそうだ。与謝野氏の考えは、名目成長率は低くても、実質成長率がそこそこあれば、それでいい。だから消費税は10%にしてもよいのだということのようだ。世界で唯一のデフレの国の日本だが、インフレ率は上げるべきでないと主張する。しかし、これは経済を全く理解していない男の極めて危険な発言である。彼がマクロ経済をほんの少しでも理解していたら、絶対にこのような発言はあり得ない。日経の経済モデルで計算した結果を次に示す。消費税率と5年後の実質GDPの関係である。この図で例えば10%というのは、今消費税を10%にしたら、5年後には実質GDPはどうなっているのかということを示している。0%と10%との実質GDPの差は10%であること、つまり消費税を10%にしたほうが、約1割貧しくなっているということだ。すでに日本は十分貧しくなった。これ以上貧しくする必要はないではないか。

Photo
 

 消費税を10%にすると5年後には失業率は7%にまで上昇するという結果が出た。

Photo_2

 失業者が増えれば、生活苦で自殺に追い込まれる人の数は激増する。図で分かるように、現在の大不況のお陰で、自殺者は好景気だったころの数倍になっている。間違えた経済政策のお陰で数千人もの人を死に追いやっているということを政治家は重く受け止めるべきだ。消費税を10%にすれば、これが更に倍増する。

 政治家は経済を知らない。消費税を10%にしても、それは消費者が払うんだから企業の負担にはならないと言う。消費税が5%高くなった分を上乗せすれば、もちろん売り上げは落ちる。可処分所得が下がっている今日、値上げは即売り上げ減に繋がる。もし、値上げしても売り上げは減らないのなら、皆さんすぐ値上げして利益を増やすでしょう。それがやれないのは、少しでも値上げしたら、直ちに売り上げが減るという事実があるからだ。最近もタクシー代が1割くらい値上げになった。ガソリン代が上がったのだからしょうがない。それで経営が改善すると思ったら、かなり売り上げが減っているようで、経営改善とはならなかったようだ。消費税値上げはすべての分野でこの現象が起きて、現在の大不況が、更に悲惨な結果に陥ることを覚悟しなければならない。

 デフレとは経済活動を行うに十分なお金が国民に渡っていない状態なのだから、対策は簡単だ。お金を刷って、国民に渡しなさい。そうすれば、年間数千もの貴重な命を救うことができる。

“おしらせ”

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2008年5月 3日 (土)

一流でなくなった経済を一流に戻すには何をすべきか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第67弾です。)

 昨日(5月2日)発表の世論調査では
Photo_2 

 となっている。政権は「後期」どころか「末期」に突入している。しかし、福田首相は山口補選の夜、「何があっても絶対に衆議院解散と内閣総辞職はしませんから、安心して下さい。」と言ったそう。果たしてこれで国民は安心するだろうか。国民が政権に不満を爆発させているとき、その怒りを逆なでするような発言だ。

 福田さんは、精一杯やっているのに、どんどん支持率が下がり、今どうしてよいのか分からない状態なのだろう。彼は3月14日の予算'委員会で自見庄三郎参議院議員が宍戸駿太郞氏と大田大臣の公開討論会をすると約束した。彼は専門家に助け船を求めたのではないか。この討論会は連休明けにも、予定が確定しそうだ。参議院予算委員会でテレビを入れて討論会が行われる見込みだと聞いている。国際レオンチェフ賞受賞者で、ノーベル経済学賞の有力候補である宍戸駿太郞氏のアドバイスに対し真摯に耳を傾けて、日本経済の立て直しに、全力で取り組んでいただければ、きっと国民が政権を見る目は変わって来るはずである。

 福田首相にとって、最も警戒すべきなのは与謝野氏の発言だ。彼はマクロ経済を全く理解していないから、彼のアドバイスに従っていたら、日本経済は壊滅的な打撃を受けてしまうし、自民党は「ぶっ壊れて」しまうだろう。与謝野氏によれば、日本経済はもう成熟しきっているので、これ以上成長しない。あとは消費税を10%にして、財政を健全化すればよいだけだとのこと。これは全くの間違いだ。

 日本経済は成熟した状態ではなく、急激に没落している状態であることは明らかだ。成熟した状態であるのなら、世界トップレベルの状態が保持されたはずだろう。しかし、実際は経済政策の失敗のために崖を転がり落ちるごとくである。一人当たりの名目GDPは2位から18位へ、国際競争力は1位から24位へ、企業の時価ランキングでは10位までに6社も入っていたのに、今では1社だけ、長者番付では10位までに6名入っていたのに、今は100位までに一人も入っていない。経済が成熟した状態であるのなら、成長し続けなければならない。なぜなら他の先進国もすべて成長を続けているのだから。実際は日本だけが成長しなくなったために、他の先進国にすべて追い抜かれてしまい、もはや経済は一流でなくなった。

 その理由は簡単で、デフレのため、国民に経済活動を正常に行うためのお金が十分渡されていないということだ。どうやればお金が国民に渡せるか。それは与謝野さんの提案の逆だ。つまり増税でなく、減税。財源はどこにあるかと言えば、霞ヶ関埋蔵金でも、外貨準備でもよいが、正攻法は世界を代表する経済学者が異口同音に言うように日銀が資金を供給することだ。日本経済が一流でなくなったということは、円の信用が落ちたということである。円の信用を取り戻すには、経済を発展させ日本経済を一流に戻すしかない。

!!日銀が国債を買えば、間違いなく円の信用が上がる!!

 日銀が郵便局や銀行などから国債を買うとどうなるかを書いてみる。

民間が保有している国債が日銀に移ると、国債費(年間20兆円、そのうち10兆円は利払い)は、民間企業への支払いでなく、日銀への支払いとなり、国庫に返ることになる。税金の多くを特定の民間企業への利払いに使うのでなく、国民のために使うことができるようになる。

現在、銀行とか郵便局は巨額の国債を抱えている。これは事実上売ることができないから、それだけの資金は塩漬けになっており、これが経済を停滞させている。日銀にそれを売れば、手元に巨額の現金が入る。そうすれば必ず運用を考えるのであり、例えば株などに投資すれば日本の株式市場に資金が入り、経済活性化に繋がる。現在の日本の株式市場は「壊滅状態」にあることを認識しなければならない。株式時価総額のシェアは1990年に32.9%だったのに、2007年には僅か7.3%にまで縮小してしまっている。2008年には更に縮小した。これが日本経済を一流でなくしてしまった一因であるのは間違いない。株式市場が蘇れば日本企業も蘇る。

政府の国債が発行しやすくなり、減税や歳出拡大を躊躇なくできるようになる。つまり国民のためにお金を使えるようになる。しかし、これが将来世代へのつけを増やすことにはならない。内閣府の試算でもちゃんと示されている。景気が良くなると税収も増えGDPも増えるので、国の借金のGDP比は減少するのだ。つまり次世代へのつけは実質減っていくのだ。


“おしらせ”

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2008年5月 2日 (金)

4月26日、長野聖火リレーに行った人の日記から

 (※神州の泉 : 「アリ@freetibetさんの日記」が阿修羅にあったので転載しました。日本は何というお粗末で情けない国になったのだろうか。中国毒餃子を糾弾できないばかりか、チベットやウィグルに侵略・虐殺を行なっている中共に気を使って、人類的な正義による正当な抗議を一方的に警察が封じるとは・・。これじゃアメリカの属国のみか、中国政府の傀儡と言われても仕方ないではないか。二つの宗主国による属国シェアリングか。北京オリンピックなど、参加すること自体が人類史的な恥というものだろう。ここに書かれていることが真実なら、国家の威信も丸つぶれ、これを伝えなかったマスコミは中国マスコミのひどさと変わらないということか。・・しかしこの話は本当なのだろうか。にわかには信じがたい気もするが。本当なら主権も何もあったものじゃない。日本は事実上解体していることになる。ショックな記事である。)

世界最低の国、日本【アリ@freetibetさんの日記】・・帰り道、僕らは泣いた。
http://www.asyura2.com/08/asia11/msg/200.html
投稿者 tk 日時 2008 年 4 月 27 日 21:20:09: fNs.vR2niMp1.

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=787996903&owner_id=2071143&comment_count=115

世界最低の国、日本
2008年04月27日00:39

聖火リレー、行ってきました。
まず皆さんにお願い。
この日記を転載、リンクして頂いてかまいません。
動画3つまでしか載せれないため、
動画ありと書かれたものは僕のメインページの動画にあります。

4/26日を振り返ります。

早朝、善光寺へ向かった。
Mちん、Tさん、F君、Yちゃんと5人で。

町には何台もの大型バスが乗り入れ、中国人が降りてくる。
僕らがそれぞれ旗を作り、プラカードを作り、前日からカラオケボックスで寝ていたのに対し、
彼らは中国大使館から支給された巨大な旗と、チャーターバスで堂々登場した。

善光寺参拝が終わり、街中へ。
とりあえず聖火リレー出発地点へ向かった。
ここで日本とは思えない景色を目にした。

出発地点に、中国の旗を持った人は入場できるが、チベットの旗を持った人は入れない。
警察の言い分。
「危険だから」
じゃあ、何で中国人はいいんだ?
「......ご協力お願いします。」

は?
それやらせじゃん。
中国国旗しかない沿道って、警察が作ってるんじゃん。

その時の抗議の様子

この後TBSの取材が来た。
チベットサポーターの1人が、
「日中記者交換協定があるから映せないのか?」とアナウンサーに聞いた。
アナウンサーは「は?勝手に叫んでれば?」
と吐き捨てて消えた。

街中に行くとどこに行ってもFREETIBETと叫んでいる。
そこに中国人が押し寄せ、罵声を浴びせてくる。

交差点で中国人と僕らが入り乱れた。
突然Mちゃんが顔面を殴られた。
僕は殴った中国人のババアを捕まえて、目の前の警察に言った。
「こいつ殴ったぞ!!」
警察は何もしなかった。

ババアが俺の手を噛んだ。手から血が出た。
警察と目が合った。
警察は何もしなかった。

ババアが僕の顔面を殴ってきた。
周りのチベットーサポーターが、
「おい、警察、現行犯だろ、捕まえろよ!!!!」
と言ったのに、
警察は何もしなかった。

これが抗議活動中じゃなかったら、普通にブチ切れて乱闘になってる。
でも非暴力を貫く為、ひたすら耐えた。

Mちゃんが1日かけて一生懸命書いたプラカードを、
中国人が叩き落とした。
拾おうとするMちゃん。踏みつける中国人。
「おい、てめー何やってんだよ!」と制止に入った。
2mくらいの距離に警察がいたが、何もしなかった。

街中いたるところで抗議合戦。
救急車が来たり大騒ぎ。
僕らはひたすら抗議活動をした。
(動画あり)

雨が降ってきた。
それでも誰も抗議を辞めなかった。
中国人がかたまってる交差点を、
Tさんと旗を振りながら渡った。
沿道の中国人は蹴りを入れてくる。
とても沿道に入れず、車道を歩いていた。
警察が来て言った。
「早く沿道に入りなさい!!」
は?今入ったらボコられるじゃん。
なんで日本人の安全を守ってくれないの?
「じゃあ、あいつらに蹴りいれるの辞めさせろよ!!」と僕は叫んだ。
警察は「ご協力お願いします」と言った。

雨の中、聖火リレーのゴール地点へ向かった。
何故か中国人とチベットサポーターに分けられた。
警察は、「後で聖火の方に誘導するから。」と言った。
嘘だった。
ゴールの公園の外の何も無いスペースにチベットサポーターは閉じ込められた。
聖火なんか、どこにもなかった。
目の前には警察が何十人も取り囲んでいた。
こんな場所じゃ、声すら届かない。
数百人のチベットサポーターは、泣きながら警察に向かって叫ぶだけだった。
国境無き記者団もこちら側に来させられていた。
代表がマスコミのインタビューに答えていた。
(裏から撮影した動画あり)

聖火リレーがいつ終わったのかも分からないまま、
土砂降りの中僕らは叫び続けた。
この声を、伝えることすら出来ないのかと思ったら涙が溢れてきた。
MちゃんもF君も泣いていた。
こんなのってあんまりだ。
せめて伝えて欲しいだけなのに。
この叫びを聞いていたのは目の前に並んだ警察だけだった。

チベット人の代表が弾圧の現状を訴えた。
涙が止まらなかった。
内モンゴルの代表が弾圧の現状を訴えた。
涙がとまらなかった。

伝えたい。ただ伝えたいだけなのに、国家権力によって封殺された。
悔しい。悔しい。

日本は最低な国だ。
平和だ、人権だと騒ぐ割には、
中国の圧力に負けて平気でこういう事をする。
警察を使って。

帰りに携帯でニュースを見た。
「聖火リレーは無事終了。沿道は大歓迎ムード。」
「聖火リレーで日本人5人逮捕。中国人留学生に怪我。」

僕は愕然とした。
この国のマスコミは終わったと感じた。

あの怒号は、
僕らが受けた痛みは、
彼らの悲痛な叫びは、
どこに反映されたのだろう。

警察によって意図的に中国人のみの沿道を作り、
そこをマスコミは撮影し、
中国人の暴力を黙認して、日本人を逮捕する。
これが日本のやることか?
ここは本当に日本なのか?
中国の旗を持たないと歩けない沿道って何なんだ?

この国は最低な国です。
チベット人は泣きながらありがとうと言っていたけれど、
僕は彼らに謝りたかった。
初めて日本人であることを恥じた。

帰り道、僕らは泣いた。

これが真実です。
僕は日本政府は中国以下だと思った。
弾圧にNOを言えずに、言いなりになって彼らの叫びを封殺したこの国は、もう民主主義国家ではない。

4/26日長野。
そこには言論の自由はなかった。
歩行の自由すらなかった。
中国人を除いて。

追記:どなた様も、転載の許可必要ありません。
報告だけしていただけると、反応が見れて嬉しいのでお願いします。
動画が消えたりするみたいですが、また報告していただけたら何度でも載せなおします。
マスコミの嘘つき。大嫌い。
FREE TIBET!!


(注: mixiのアリさんのページにある抗議の模様を撮ったと思われる動画は三つとも「ファイルがありません」と見ることができなくなっているが・・。)


“おしらせ”

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2008年5月 1日 (木)

連休明けに「公開討論会」開催が決定!!

 日本経済復活の会  小野盛司会長の本ブログにおける「積極財政論」シリーズをご覧の方々に朗報です。

 3月14日の予算委員会で、日本経済復活の会の顧問である参議院議員自見庄三郎先生が国会質疑で、「宍戸駿太郞vs大田弘子大臣」の公開討論会を求めたが、これを福田首相が受け入れた。しかし、その後、討論会開催の動きがなかったので、はたしてやるのかやらないのかとやきもきしていたが、ついに鶏鳴があったようだ。さきほど小野盛司会長より知らせがあった。

 例の公開討論会はゴールデンウィーク明けに、予算委員会でテレビ中継を入れて行われるとのことです。日程については、追ってわかり次第すぐに公開します。

 内閣府は今まで、積極財政論を徹底的に忌避し、タブー視していたきらいがあるが、討論会といえども、積極財政論の大御所である宍戸駿太郎先生と、内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)の大田弘子氏が、積極財政政策の可能性をめぐって討論することは画期的であろう。現在の日本は、小野会長が指摘するように、原油価格は高騰し、ガソリン価格は再値上、庶民増税は行なわれるわで、生活者レベルで言うとほんとうに四苦八苦の状況にある。これに加えて所得は減る傾向にあるのに、物価は上がる徴候を示し始めた。スタグフレーションの危うささえ感じさせる今日このごろである。庶民の財布はますますお寒い状態になり、この閉塞感は止まるところを知らない。

 この生活不況がこのまま進行すれば、いくらお人よしの日本人でも現政権打倒の狼煙(のろし)を上げることになりかねない。何らかの形で庶民一揆が勃発する可能性は大である。この鬱積した憤懣に、小手先のガス抜きはもう通用しないだろう。(もう一つの見方としては、すっかり怒りを忘れた国民が完全に軟弱な受身になってしまい、政府の意のままに従ってしまうという悪夢もあるが・・。ガソリン暫定税率の再設定について、テレビのインタビューを見たが、物分りのいい顔で諦念を表明する者が多かった。しかし、これもメディアの作為的な選別かもしれない)こういう中で、何らかの強い意志が働いて積極的に忌避され続けてきた「積極財政論」が脚光を浴びる具体的な動きが目の前に迫ってきた。今まで政府が頑なに避けてきた積極財政論が浮上するかもしれない背景には、米国のサブプライム・ローン金融危機が、かの国の金融支配者(奥の院)の目を国内に止め、対日工作が少し緩んだせいかもしれない。その辺の裏事情はわからないのだが、今度の討論会は千載一遇のチャンスである。これの結果次第では日本経済は再び浮上し、躍進する可能性がある。

 したがって、小野会長のシリーズをご覧になっている方々は、できれば当日の予算委員会に注目していただきたいと思う。大田大臣は政府見解を代表するだろうから、突っ込みどころが満載かもしれない。とにかく真剣にやっていただきたいものだ。

“おしらせ”

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ガソリン暫定税率と高齢者医療で明らかになった民意(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第66弾です。)


 昨日(4月30日)にガソリン税が復活することが決まりガソリン店頭価格が160円前後になるようだ。家計は税率値上げ(つまり増税)だけでなく、元々のガソリン価格の値上げ、更に食料品の値上げでトリプルパンチとなり、家計を直撃している。更に国民を不安に陥れているのが後期高齢者医療制度で、もはや働けなくなった75歳以上のお年寄りからも厳しく保険料を取り立てようという政府の方針への反発がある。政府はもっと国民のためにお金を使うべきだというのが、現在の民意というものだろう。民意を無視しては福田政権の未来は無い。

 一方、山口の補選の勝利で勢いを増す民主党は、国民のために様々な政策を前回の参議院選挙のマニュフェストに盛り込んでおり、暫定税率廃止なども加わり、必要な政策経費は20兆円に達している。当然のことながら、国民のための政策を実行してくれる政党に政権を取ってほしいというのが国民の願いだ。唯一、気がかりなのは民主党が財源をどのように確保しようというのかということだ。「特別会計の内部留保を有効活用する」と言っているが、これはいわゆる「霞ヶ関埋蔵金」だ。それもよいのだが、肝心なことを忘れていませんかと言いたい。国は通貨発行特権を持っているのだ。経済をきちんと理解している人なら誰でも知っている常識だ。デフレに対しては、お金を刷って国民のために使わなければならない。それと反対にデフレの際、緊縮財政を行えば、世界大恐慌や昭和恐慌のように悲惨な結果を招く。

 この常識を日本人に教えようと、海外から著名な経済学者が次々と訪れ「お金を刷りなさい」と提案しているのだが、日本の政治家はなかなか理解しないようだ。1999年にはプリンストン大学教授のクルーグマン(ノーベル賞に最も近い経済学者の一人と言われている)が『世界大不況への警告』(早川書房)の中で日本経済の現状が1970年代のベビーシッター協力組合で起こったことと、そっくりだという。

 詳しくはこの本を読んで頂きたいが、この協力組合では、約150組みの夫婦からなり、ベビーシッターをお互いにしあうために、クーポン券を発行した。ベビーシッターをしてもらったときに、クーポン券を渡した。しばらくすると余り使わずに、将来に備えてどんどんクーポン券を貯め込む人がでてきた一方、逆にクーポン券が不足する人が出てくるようになり、それはだんだん使われなくなり、うまく機能しなくなった。会員の多くが将来に備えできるだけ貯えておこうとしたからだ。いわば、景気後退、つまりデフレ状態なのである。役員達は、「構造改革」が必要だと言い、一ヶ月に二回外出することを義務づけた。しかしこの構造改革は失敗に終わった。経済学者は、もっと発行量を増やせばちゃんと機能するようになると予言し、実際発行量を増やしたら、正常に機能するようになったという。なぜ発行量を増やしたら皆が使うようになったのだろう。それは、もうこれ以上貯めてもしょうがないほど、充分にクーポンを皆さんが入手したからである。つまり、デフレは構造改革では、解決できなかったが、単に発行量を増やすだけでちゃんとクーポンが流通するようになったということである。クーポン増発は「禁じ手」だろうか。そんなことはない。益あって害無しだ。この制度を円滑に運営するためには、不可欠の方法である。クーポンは少なすぎても、多すぎても機能しないのだ。

 35頁『換言するならば、景気後退は、ただ紙幣を印刷することによって解決することができるのだ。景気後退は時として(ないしは常に)いとも簡単に解決可能な問題なのである。』クルーグマンによれば、日本の不況は、構造改革によっては、克服することはできないが、紙幣を印刷すれば簡単に解決する。

 日本の政治家が、彼のアドバイスをすなおに受け入れてお金を刷っていたら、現在の日本経済の没落は無かった。繁栄しているときと没落しているときでは、それに対応した構造改革は全く正反対のものになる。繁栄しているときは、税収がどんどん増えるから財政を拡大できる。税収が増えすぎるから、どうやって、増えすぎるのを抑えるか、つまりどう減税していくかを考えるのが構造改革だ。没落しているときは、税収が減るから、増税し、歳出削減をし、どうやって財源を確保するかばかり考えるから、国民生活は悲惨なものになる。経済を繁栄させる政治家か、没落させる政治家か、あなたはどちらを選びますか。

“おしらせ”

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2008年4月29日 (火)

国は、「次は消費税アップ」を狙っています(いかりや爆さん第5弾)

(5)国は、「次は消費税アップ」を狙っています。 

山口二区の衆院補選は、大差で民主が圧勝した。
山口二区は安倍前首相のお膝元の選挙区、強固な自民党王国が崩れたのである。後期高齢者医療制度への批判が響いたと福田首相以下、自民幹部は言っている。私はそうは思わない。

 彼らは見誤まっているか、さもなくば後期高齢者(長寿?)医療制度に問題をすりかえているのだ。後期高齢者医療制度への批判がなかったとは言わないが、この制度の真の問題は2年毎に見直しされる点にある(2年毎に少しずつ負担増間違いなし)。

 今回の山口補選は、「暫定税率(ガソリン税)復活」への反発が大きい。
 地方は車がないと暮らせない仕組みになっている(過疎の村も、地方の町も)。私は昨日(4月28日月曜)は大型連休のはざまであるが、午後のすいている時間帯を狙って大型量販店のガソリンスタンドで給油した。月曜日の午後、普段ならガラガラの時間帯が、昨日は長蛇の列だった、庶民の生活防衛のための駆け込み給油である。ガソリン代の値上がりは、個人の生活に響くだけではない、産業界全体に及ぼす影響は計り知れない。

 福田首相は免税による経済効果を無視している。彼もまた小泉元首相同様、国民から「むしりとる」ことしか考えていない。表向きは消費者重視を言いながら、緊縮財政、財政均衡にしか関心がない。
 こんな福田首相に「日本経済復活」への希望を託しても無駄のようです。 

 それどころか、支持率ダウンしようが、次期総選挙で敗れようが、消費税アップへの道へまっしぐらに進むかもしれない・・・私はそれを恐れる。

 参院は野党多数なのだから、「消費税アップ」は否決されるに決まっている。自分の政権で獲得した議員数でもないのに与党衆議院員数、三分の二以上のこの時機を狙って『消費税アップする』それが自分の使命(仕事)であると誤認識して・・・・衆議院員数三分の二以上の再可決を目論んでいる。この時機を除いたら、消費税アップできる可能性はないのだから・・・。

 それこそ、与謝野氏ではないが、『耳障りなことを言う、それが私の仕事である。』と言うように、『国民の嫌がることでも、正しいことをやる、それが私の使命(仕事)である』といかにも正論であるかのごとく主張するに違いない。それに多くのマスコミや似非(えせ)エコノミストが同調する。そして国民も「消費税アップもやむを得ないのか」という雰囲気作りに騙される・・・小泉郵政選挙のときのように。小泉の郵政選挙はまことに罪深い、・・・困ったものです。

 『デフレ下で消費税を増税をさせてはいけない』と小野会長第54弾(4月5日号)で指摘の通りです。これ以上の経済の悪化を招いてはならない。

 『(3)多重債務者「おちこぼれ」ニッポン』で述べたように、ニッポンの経済政策は世界から「おちこぼれ」ている。にもかかわらず、その自覚症状を持てない無能な政治家ばかり、国民こそ哀れ。

 ここ10年来、自殺者は毎年3万人を越えている、なかでも経済的理由が多いことは小野会長の指摘通り(第四十八弾、景気悪化を放置する政府 3月27日号 )。実際には、統計に表れる以上に経済的理由が多いと思われる。また経済的理由で自殺した人は一家の大黒柱が多く、悲劇を増幅させている。

 福田首相の年頭挨拶で、『私は、本年を生活者・消費者が主役へと転換するスタートの年にしたいと思っております』と述べています。今となってみれば、ほとんど嘘っぱちですね。
 先日の小沢民主党々主との国会での討論で福田首相は「苦労しているんです。かわいそうなくらい苦労しているんです」とぬかしおった。
その翌々日には、政界、経済、文化、芸能界、スポーツ界、および各国の駐日外交官、新聞記者ら多くの著名人1万人余りをを招いて「観桜会」、福田首相は満面の笑みを浮かべ出席者と握手を交わしたり、写真を撮ったりのパフォーマンス。

 ほんとうに『かわいそうなくらい苦労しているのは庶民』じゃないですか。普通に働けば、何とか並みの生活ができる世の中でありたい。

 昼間もパート、夜も別のパートタイムで働いて家族を支えざるを得ない多くの人がいる。消費税アップはそれらの人々にさらに重くのしかかります、この人たちへ配慮は微塵もなし。
 この不況下で電気、ガス料金の大幅アップ、関連して諸物価高騰の折に消費税アップは、ますます経済を萎縮させ、国民生活を苦しめること明々白々です。庶民もそこまで馬鹿ではないと思いたい。

 『財政再建成って、経済を破壊し、民のかまどを壊(こわ)す』。なんでこんな自虐的、自滅的の政策を採ろうとするのかわからない、大いなる「謎」だが(アメリカがプラザ合意以来陰で糸をひいている?)。

 自民政治家には、もうまともな政治家はいないのかよ・・・まともな政治家は亀井静香氏らの国民新党や、平沼氏らのグループだったが、いずれも自民党からはじきだされて小さくなった・・・繰り返すが、小泉の郵政選挙はまことに、まことに罪深い。

 社会保険庁の底知れないめちゃくちゃな業務、国交省のあきれた無駄遣い。国民の血税の無駄遣いを棚にあげて、政府は何かにつけて「財源がない、財源がない」を繰り返しています。
 財源がないと言いながら、国民になんの説明することなく外債(そのほとんどは米国債?)を買いまくっています。小泉政権成立H13年3月末から今日まで7年間で、約65兆円の外債を購入している、返金されるあてのないマネーが年間平均9.3兆円も外部へ流れていることになる。ガソリン税の税収どころではない。このような事実を福田総理は知ってか知らずか、それともタブーなのか。

 民主党のガソリン税撤廃について福田首相は人ごとのように、「財源不足はどうするのですかね」と言う、年金問題、医療問題いずれも、根っこの問題は財源不足です。国民からこれ以上搾り取ることは不可能な状況になっています。いずれは「消費税アップしかない」と国民を洗脳しているのです。

 消費税アップは、『為政者(政治家と官僚)が作った借金の付け』を国民に回そうというものです。

 「国民のレベル以上の政治はあり得ない」、政治こそ国民の自己責任であることを知るときである。

蛇足:
 小泉元首相は「私の政権の間は、消費税アップはやりません」と何度も広言していた。
 「私の政権は消費税アップのような酷税はやりませんよ」と、いかにも「やさしい政権」であるかのようにみせかけた。その裏では、国民年金保険料引上、発泡酒など酒税たばこ税の引上、配偶者控除の廃止、個人住民税非課税措置廃止などなどありとらゆるところ、庶民から搾り取った。今回の後期高齢者医療制度は、小泉政権の遺産である。
私の政権では「消費税アップをやりません」と言いながら、民から搾り取ったところが小泉政権の悪辣なところです。
「どうせ国民はすぐ忘れるんだから」と国民を愚弄しているんですよ。

 いずれ、国民皆保健制は崩れ、高額医療はアメリカのようにすべて自己負担化、金のあるものは自分で保険をかけるざるを得なくなる。最近は、外国の保険会社のTVコマーシャルの多いこと、着々とアメリカ化が進んでいる。アメリカは自己破産者は約150万人、人口当たりの破産者数は日本より数倍高い。その自己破産者の約半数が高額医療を払えなかった人だという。このままアメリカ化が進めば、やがて日本も貧乏人は病院から追い出される時代が来る(もう来ている?)。

 “おしらせ”

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2008年4月28日 (月)

山口補選で国民の審判は下った。政府は国民の声を真摯に受け止めよ(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第65弾です。)


 福田総理にご進言!!

 福田政権で初の国政選挙となった衆議院山口2区補欠選挙は27日に投開票され、自民党候補が大敗した。後期高齢者医療制度への批判、暫定税率復活への反発が、この大敗に繋がったと思われる。国民の不満がまだ政府に伝わらず、何の反省もせず、現在の政策の延長をただ続けるだけであれば、政権崩壊への道を進むのは目に見えている。

 福田政権は国民と対話し、広く意見を聞く意志は無いのだろうか。小泉内閣でもタウンミーティングで国民の声を聞いていた(少なくとも聞くふりはしていた)。福田政権は同様のミーティングを開いていない。3月14日の予算'委員会で自見庄三郎参議院議員が宍戸駿太郞氏と大田大臣の公開討論会をすべきだという提案に対し、福田総理が、やるべきだと言っておられた。大田大臣も、「討論会、総理の御指示ということであればやらせていただきます」とはっきり言っておられる。しかし、1月半が経った現在、具体化していない。国民を騙したのか。

 国民は苦しんでいる。定率減税廃止で所得税が上がった。社会保険料も毎年値上げ。食料品、ガソリン代など上がり続けている。その反面平均賃金は9年連続減少、可処分所得はどんどん下がっている。折角、暫定税率廃止でガソリン価格が少し安くなったと思ったら、もう値上げだそうだ。75歳以上の貧しい老人の年金から、健康保険料が引かれるということを知って、自殺した老人もいる。

 政府は、財政が苦しいからと繰り返すだけだ。お金がなければ刷りなさいというのが、我々のアドバイスだ。国は通貨発行権を持っている。すべての独立国に与えられた最も重要な権利である。このような国家の危機に際しては、当然、この権利を行使しなければならない。

 徳川吉宗の成功例をここで示してみよう。吉宗が将軍になったときは、インフレの時代であり、しかも幕府は巨額の借金があった。新井白石から「通貨の量が多すぎるからインフレになる」との説明を受け、通貨の量を3分の2に減らし、その結果インフレは止まった。徹底した倹約を進める一方、新田開発をすすめ米の増産をした。ところが、米の生産量が増えたのに、通貨の量はそのままだったので、今度は米の値段が下がり、その結果、米を支給してもらって収入を受けていた武士の生活を圧迫するようになり不景気(デフレ)となった。しかも1732年に害虫のため飢饉となったおかげで、財政が悪化していた。吉宗は米の相場を維持するため、あらゆる手を打つが失敗。1736年5月、吉宗は究極のデフレ対策として、通貨を増発した。倹約家の吉宗にとって、通貨の増発は、大変な決断であったに違いない。新しく鋳造された「天文金銀」は、それまでの貨幣の2倍に相当する量。これで景気は回復し、米価は期待通りの水準に戻り、それ以外の物価は恐れていたほど上がらず、武士の暮らしもよくなり、町民も仕事に励むことができるようになったという。

 生産力(供給力)が向上したのに、通貨の量を増やしていないからデフレが進行し、国が借金を増やしているのは、今の日本と非常に似ている。このような時期に通貨の量を増やすと、デフレが止まり、景気が良くなり、思ったほどのインフレにはならないということは歴史が証明している。何よりも重要なのは、生産規模に合わせ通貨の量を増減させないと、経済はうまくいかないということである。現代と違うのは、通貨の量を増やすときに国債という形を取らなかったために国の借金にはならなかったことだ。政府が直接お金を発行した。当時は小判に金を混ぜていた。金の量が限られていたので、小判に混ぜる金の量を少なくして、通貨の増発をした。生産力(供給力)が増大したとき、お金を増やす必要がでてきたら、お金を増やせばよい。

 福田さんにご進言させて頂きたい。通貨増発が必要な時が来ました。それ以外に福田政権の浮揚の可能性は無いでしょう。このまま何もしないと与党の求心力低下は避けられません。失うものは何もありません。日銀に国債を買わせ、政府が資金を調達し、生活苦に追い込まれている国民のために使うべきです。吉宗と同様、苦渋の決断かもしれませんが、しかし、思い切った決断が下れば、日本経済の没落が止まり、国民が豊かになり、日本経済の飛躍が始まり財政危機は去ります。このことは、マクロ計量経済学が示すところです。その大改革により福田さんは日本経済を救った宰相として歴史に名を残すことになるでしょう。


 “おしらせ”

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植草事件において、私が繊維鑑定にこだわらない理由(わけ)

  以下は「植草事件の真相掲示板」に私が投稿したことを少し書きなおしたものである。ある人が、植草事件の国策捜査疑惑に下記のような疑念を呈したので、それについて私が思うところを答えておいた。

「この事件(2006年9月の京急電車内事件のこと)が植草さんを嵌めるために故意に偽装されたのなら、どうして目撃者にあやふやな証言をさせたり、最初から植草さんの手におとりの女性の下着の繊維をくっつけておいて決定的な証拠にしないのでしょうか、べつに発見されなくても同じ物がついていたと発表すればそれで確実に有罪にできると思うのですが。どうお考えですか」

 それについて私個人の見解を申し上げます。まず検察側目撃証人の数々のおかしな証言について、なぜ確定的ではないのかということですが、それは細部にまでわたって精度と確定性を帯びた証言をしてしまった場合、「植草さんがさわっていない」という真実の状況と甚だしい状況の乖離が起こるからではないでしょうか。つまり、一つの作業仮説として言うなら、たとえば空いている状況を無視した場合、電車内に植草さんと偽装作出グループのみしかいなかった場合、目撃者役は、事件が確実に起きたのだと、思ったこと、案出したことを克明に主張できます。(がらがらに空いているこの状況では犯人が正気を逸していないかぎり起こりませんが)

 しかし、実際の現場では多数の乗り合い乗客がいる中、誰かが目撃している可能性が非常に強い状況で無垢の人間を嵌める場合、確定性の高い緻密な証言をやってしまえば現実、すなわち実際状況との乖離が生じて、仕掛けた側のリスクが高くなるからです。周囲の誰かがそんなことは起こっていなかったと証言すれば根底から崩れますから。

 もう一つの繊維鑑定の話ですが、これも基本的には同じ構図を有していると思います。逮捕劇の進行中に女性下着の繊維をくっつけて置けば事件生起の証明は容易ですし、発見されなくても関係者(たとえば科捜研の証言者)が見つけたと故意に言い張れば、立証には充分すぎる明確性を持つでしょう。では嵌めた側がなぜそういう確定的な物証捏造や証言を回避したのか。私は被害者と称する女性がまったく実際の法廷に出てこないところにその要因があるのではないかと睨んでいます。つまり画策した側には、被害者女性を徹底して隠蔽する意志が感じられます。植草さんに堂々と抗議できる気丈な女性が、なぜ公開の法廷証言に出てこないのでしょうか。この事件の核心的存在者である被害者が、遮蔽措置という証言者保護があるにもかかわらず、なぜ第三者に姿を見せずに非公開の尋問を受けたのか。私はこれについて、裁判所が期日外尋問や遮蔽措置の濫用をしたというよりは、国家機関が被害者を世間と接触させることを異常に恐れているように見受けられるのです。著名なエコノミストである植草さんの命運を握る肝心な被害者が、マスコミにも、公開法廷にも姿を現さない理由は何でしょうか。

『証人威迫罪(しょうにんいはくざい)』という法律があるようです。それは、むりやり被害者や証人に会おうとしたり、強弁をもって相手を言いくるめたりすると犯罪になるという法律です。

    証人威迫罪

 刑事事件の捜査・審理に必要な知識をもつ者などに対し、正当な理由なく面会を求め、または要求に応ずるようおどす犯罪。

刑法では

(証人等威迫)
第百五条の二 自己若しくは他人の刑事事件の捜査若しくは審判に必要な知識を有すると認められる者又はその親族に対し、当該事件に関して、正当な理由がないのに面会を強請し、又は強談威迫の行為をした者は、一年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する

 検察や裁判所が被害者の身柄を徹底的に世間から遮蔽しようとする理由を強いて考えて見ますと、彼らはこの「証人威迫」の発生を恐れているのでしょうか。常識的に考えてみれば、これはかなり非現実的ですね。著名な植草さんがそのような行動を起こすことはまったく考えられない話です。私は裁判所や検察が被害者の徹底した隠蔽に終始しているのは、国策捜査がこの事件の核心だからではないかと考えています。

 さて、国策逮捕を仕掛ける側は、画策が世間に露見した場合の危険度を最大限に考慮しているはずです。つまり、国策捜査が白日の下に晒されてしまう事態に及んだ場合、非難轟々の世論爆発が起こり、現政権の責任が問われるでしょう。このリスクを回避するために偽装作出グループは極力少数でやったと思われます。私も科捜研女性の証言は間近に傍聴していましたが、彼女はおどおどしていました。彼らはこういう人まで仲間に入れる危険はおかさないでしょう。しかし、肝心の被害者女性については異常なほどのガードをしている感じがありませんか?

 国策逮捕とは権力筋が仕掛ける偽装で構成されるわけでして、確定的な物証の出現はかえって嵌めた側のリスクを増大させるのではないでしょうか。つまり、起こっていないことを、無理やり起こったという「でっち上げ」を行なうための方法論としては、メインが「証言による偽装作出」が最も安全で効果的なのです。ここに下手に捏造した物的証拠、例えば繊維片などを出してしまえば、逆にその存在の合法性が問われ、被害者の協力をさらに仰ぐということになりかねません。しかし、被害者がそれに応じられないとしたらどうでしょうか。また応じたとしても、一審のように内密理に行なった場合、誰がその真実性を信じるでしょうか。擁護派にも繊維片に異様に拘っている者がいるようですが、逮捕状況そのものの不当性と詐術性、つまり偽装演出を問いかけているときに、繊維片の同定性を問題にすることは意味がないでしょう。なぜなら、やる気になれば簡単に繊維片を植草さんに擦り付けられる状況があったからです。それをやらないところにこの事件の不合理性があるという私のような視点も必要ではないでしょうか。あくまでもこれは偽装犯罪を疑う私個人の作業仮説ですが。

 だからこそ、そのことを敷衍しますと、この偽装事件は強制わいせつ罪ではなく、東京都の迷惑防止条例違反の範疇で行われたのではないでしょうか。繊維を植草さんに仕込んで確定してしまうことは、被害女性をも確定してしまい、彼らにとっては都合が悪いのではないでしょうか。この事件に付帯するこれらの曖昧性とは、彼らにとって必要条件だと考えます。

「なぜ最初から植草さんの手におとりの女性の下着の繊維をくっつけておいて決定的な証拠にしないのでしょうか、べつに発見されなくても同じ物がついていたと発表すればそれで確実に有罪にできると思うのですが。」

 国策捜査は決定的な物的証拠を捏造して、その作為性が露見した場合、政権の致命的な崩壊に直結します。したがってあまりにもあからさまで直接的な証拠捏造は、リスク回避から、やらないと思います。植草さんを嵌める第一の目的は徹底した社会的名誉の剥奪、信用性の下落にあるのではないでしょうか。メディア初期報道の極端なバイアスにその本質がよく出ています。嵌める側のリスクが低くて、嵌められた側のダメージが効果的な犯罪として迷惑防止条例違反がトリックとして選択されたのではないでしょうか。品川事件も、京急事件も迷惑防止条例違反のレベルであることと、被害者が徹底的に隠蔽されていることを私は強く意識します。

 以上が国策捜査の可能性を考えた私の推論の一部です。

 “おしらせ”

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2008年4月27日 (日)

ななしさんの投稿(1)

(1)ななしさんの投稿(※管理人の裁量でエントリーします)

 そう言えば日経も同様な調査をやっていましたね。
それによると麻生氏が僅かの差でトップでしたね。
麻生氏は以前から小泉・竹中路線には否定的でしたし、郵政事業の四分社化にも最後まで反対していましたね。また、総裁選でも改革に否定的な事を仰ってました。その辺が国民的人気はあるのに読売を始めとするマスコミに引き摺り下ろされた要因じゃ無いでしょうかね。
マスコミの背後には米国の影が見え隠れしますが。
次期総裁選でもメディアによって引き摺り降ろされるでしょうね。
どうやら米国やマスメディアは忠実な下僕小池百合子氏がご所望のようですから。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

また麻生氏が総理になったとしても日銀総裁の米英の傀儡白川氏が居る限り景気回復は無理でしょうね。
日銀法を改正でもして再び政府・財務省の支配下に置いてクビをすげ替えるしか無いでしょう。
プラザ合意以降の日本の迷走は政府・日銀の政策ミスのオンパレードによるものですからね。
政府のミスは対日年次改革要望書に従ったものが多いですが、日銀のミスも怪しいですね。
マスメディアもその片棒を担いでいますし。
プラザ合意以降を振り返って見ますと、バブルを無用に膨らませてしまった窓口指導や日米金利差維持の為に金利を上げられなかった事、その逆に総量規制や金融引き締めでバブルを強制崩壊させた事がまず挙げられます。
マスメディアもバブルを煽るだけ煽っておいて今度は潰せ、潰せの大合唱でしたね。
今借りない奴は人間じゃねえとか言ってましたw
今回のサブプラ問題でのバブル崩壊を食い止めた欧米当局の対応とはまさに雲泥の差があると言えましょう。
と言うより、日本の場合は食い止めようとしなかったばかりか自ら潰しちゃいましたからね。
方向がまるで違いますから比較のしようがありません。
欧米当局は日本の失敗を見ていますから迅速で大規模な対応を取れたんだと思いますが。
その後も資産デフレ期に金融ビッグバンや時価会計制度の導入、BIS規制の導入等自分の首を絞める事ばかりやって来ましたね。
日銀も小渕氏が積極財政をやって回復軌道に乗ったかと言う時期に速水氏が利上げをして全てを無駄にしてしまいました。
アクセルとブレーキを同時に踏むような事をやってしまったんですね。
あの頃ならまだ金利高騰を気にせずに名目成長率を上げられたんですが・・・
もう今となっては遅いですね。
またメディアも公的資金投入による金融機関の救済はまかりならんとかグローバリズムの時代だから国際基準を導入すべきだとか土地担保制の復活はまかりならんだとか財政支出は効果ないからやっちゃ逝かんだとか散々日本の足を引っ張ってくれましたw
彼らは米国のなりふり構わぬ対応をどう見てるんでしょうかね?
FRBや米国政府による救済策を。
なんでも時価会計制度や自己資本比率の見直しも検討してるとか。
考えれば考えるほど腹が立ってしょうが無いですね。
今更言ってもしょうがありませんが少なくとも米国の対日要望書に代表される対日圧力やメディアや御用学者の論調は日本を弱体化に導くものであると言う事だけはわかります。
この認識を全国民が共有するようになればこの国は言い方向に変わるような気がします。
そこに希望を見出すしかありませんね。
企業利益の総計や外貨準備高、あるいは米国や世界における特許取得数を見る限り我が国の実力はこんなもんでは無いはずですからね。
巨額の財政赤字と言う足かせさえなければと常々思います。
政府も財政健全化と言いながら、昨年末の公務員のボーナスや総理大臣の給与を引き上げてるんですから・・・
米軍の再編費用3兆円余りも向うから要求したんじゃ無しにこちらから出させて下さいとお願いしたらしいですしw
こうなって来ると本当に財政健全化をやろうとしてるのかさえ怪しくなって来ますがw

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最後に質問があるんですが、もし日本がデフォルトを
宣言した場合どんな悪影響が考えられるんでしょうか?
また国債買い切りオペをした場合はどうなんでしょう?
政府貨幣を発行した場合はどうなんでしょうか?

別のサイトでは政府貨幣発行は米英を中心とした国際金融資本による支配力の源泉を奪う事になるのでどんな手段を使っても彼らは認めないであろうと書いてありましたが・・・
米国がデフォルトに陥りそうになれば認めるかも知れませんがw
結局は巨額の財政赤字を金利高騰に怯えなくて済む水準まで減らすしか無いでしょうからね。
どうでしょう、名目GDPの半分250兆円くらいまで減らせば大丈夫でしょうか?
国債の買い切りも政府紙幣の発行も禁じ手だとすると
政府が保有する金融資本約600兆円を売るしか手は無いと思うんですが?
この政府が保有している金融資本の内訳はどうなってるんでしょうかね?
仮に売れるとしてそれのもたらす悪影響はどうなんでしょうかね?
どっちにしろ今のままではジリ貧でしょうね。
名目成長率(長期金利)を上げずに財政の完全黒字を達成してそれをあと50年だか100年だか赤字国債の額が安全な水準になるまで綱渡りをしようって言うんですから。
更にまずい事に少子高齢化も進行中であります。
法人税も所得税の最高税率も上げられない状況(政府は相続税と併せて下げまくってますがw)では消費税を始めとする庶民増税に頼るしかありませんからね。
無茶苦茶厳しいですね・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(怒りや爆さんのコメント)

>> 最後に質問があるんですが、もし日本がデフォルトを宣言した場合どんな悪影響が考えられるんでしょうか?

 本シリーズの第二回目で述べたように『繰り返しますが、国家破産というのは、対外支払いが不能(デフォルト)に陥った時に起きるのです。今のところ、先進国中日本は国家破産するには最も遠い国です。』日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日などというのは、フルフォードさんのとんでもない誤認識です。

 対外的には、債権大国である日本がどうして対外支払い不能(デフォルト)に陥るのですか、いまのところそれを考える必要もありません。

 現在問題になっている国の借金は、その殆どすべてが国(政府)が国民からの借金です。いわば身内からの借金ですから、同じ資産を共有する身内に向かって「デフォルト宣言」はあり得ません。

 小野会長が「足りなければ刷りなさい」と主張されるように、政府は「金」の発行元です。「お金」の発行元が国民に向かって「デフォルト宣言」するなんてことはあり得ません。足りなければ、足りない分もしくは必要(例えば景気対策用として)とする分を刷ればいいだけのことです。

 私が言うところの「国は多重債務者であり、事実上破産状態にある」という意味は、形の上でそのような姿になっているので、「正常な姿に正しなさい」と言っているのです。政府は正常な姿にする「権能を有する」のだから、その権能をフルに発揮するべきです。それを実行しないで、国民から搾り取ることしかやらない。そのためにデフレを深刻化させているので、無能(無脳)だと揶揄しているわけです。

 ただし、私が本シリーズの冒頭で述べた「借金をチャラにする方法」はわかりやすくするために、ラディカルに描きましたが、最初から一挙にチャラにする必要もありません。ななしさんがおっしゃるように「名目GDPの半分250兆円くらいまで減らせば大丈夫でしょうか?」が、むしろ正常だと思う。計画的に例えば、年間50兆円ずつ消却していくとか・・・。

 “おしらせ”

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与謝野馨氏の「消費税10%論」の愚か(いかりや爆さん第4弾)

(4)与謝野馨氏の「消費税10%論」の愚か
      金は天下のまわりもの

4月16日の東京新聞に、 「ポスト福田」へ布石? 与謝野氏が著書 「消費税10%」など
持論盛る という記事が載っていました。

その記事の一部をそのまま紹介します。

””” 自身を財政再建と経済成長の「元祖両輪派」と位置付け、社会保障制度を維持するための消費税引き上げの必要性を強調。同時に成長力強化にも触れている。これまで取り組んできた政策と将来の展望をまとめた内容だ。
 ・・・2006年の咽頭がんにも触れてあれ以降妙に腹が据わった」と心境も明かしている。
 最後に祖母の与謝野晶子の『劫初(ごうしょ)より 作り営む殿堂に われも黄金の釘一つ打つ』との和歌を引用。
 与謝野氏が、どこに「黄金の釘」を打つのか、関係者の注目を集めそうだ。”””

尚、本の題名は、『堂々たる政治』、副題は、「耳障りなことを言う、それが私の仕事である。』だそうである。

与謝野氏の消費税10%論について、

 消費税アップして「同時に成長力強化」にも触れているとのことですが・・・消費税をアップして、同時に経済成長が可能ということはあり得ません。

 鶏の体力を弱らせて、卵の増産(経済成長)を図るようなもの。そんなこと無理です、素人だってわかること。

 『劫初(ごうしょ)より 作り営む殿堂に われも黄金の釘一つ打つ』との祖母晶子の和歌を引用しているそうだけど、まさか『黄金の釘』とは消費税10%のことではないでしょうね?

 「山の動く日きたる かく云へど、人これを信ぜじ。山はしばらく眠りしのみ、・・・晶子」っていうところではないでしょうか。
 はげ山からは、何も生まれまへんで、木を育て収穫できる畑を育てなあきまへん。

 問題は、政府の無為無策のために、国の借金を余りにも巨大化させてしまった。そのために成長のための有効な手段をなくしてしまったことです。いわば、自ら「蟻地獄」に落ちて這い上がるにも、上がれない状態にあることです。

 日本の最大の悲劇は、為政者(与謝野を含む)たちが今、その「蟻地獄」のなかにはまっているという現実感さえも持つことができてないことです。消費税アップで糊塗しよとしていることです。
 マニュアル通りにしか脳が動かない二世三世政治家や官僚どもでは、この「蟻地獄」のなかから脱出することは不可能でしょう。

 彼の本を読んだわけではないけれど、この記事からだけから見る限り、与謝野晶子の孫もこの程度のレベルかといささかガッカリ。消費税を上げる前に、やるべきことが山ほどあるだろうが、アホかいな。

 『税(消費税を含めて)』を語るなら、彼の「哲学」を語るべき、、「哲学」と言えば格好よく聞こえますが、はっきり言えば「人生観」であり、「道徳」です。モラルなくして、政治も経済もあったもんじゃない。

 『税』をどのようにかけるかは、実体経済の認識の問題であり、哲学の問題でもあるのです。「馨」さん、私の言う意味がわかりますか?『税』をどのようにかけるか、「上に厚く、下に厳しくするかどうか」それは貴方の人生観がかかわります。

 経済政策(無論税制を含めて)は,一部の金持ちたちのものであってはなりません。政治はより多くの人をより豊かな暮らしをめざすものでなければなりません。

 どのように「税」をかけべきかは、「より経済発展に寄与するか」ということが尊重されなければなりません。そのためには、『金』が実体経済に、スムーズに循環していくことが重要なんです。
「金は天下のまわりもの」とは、江戸時代から言われている言葉でしょ?

 現代の日本の発展の基礎は江戸時代に築かれたたと言っても過言ではありません。江戸時代が250年以上もの長きにわたって栄えたのも、「金は天下のまわりもの」という仕組みがあったからです。その日本人の知恵を働かせてほしい。

 例えば、三人家族で年収5000万円の人は、日常生活や趣味などの出費があったとしても、せいぜい1500万程度の出費でしょう。残りの3500万円は、実体経済にまわらずに、預貯金や金融投資にまわるだけ。一方、三人家族で年収500万の人なら、預貯金や金融投資にまわす余裕はないはず、500万全部実体経済にまわっていきます。

 いまの格差社会は、経済発展「金は天下のまわりもの」を阻害しています。

蛇足:
『よさの馨ちゃん、貴方の本「堂々たる政治」を読んでもいないのに、「耳障りなこと」を言っちゃってゴメンネ、「これが私の仕事」だから許してちょうだい。
内容が面白そうだったら買うからね。でも消費税10%はやっぱいやですよ。
病気が再発しないよう心より祈っています。』


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2008年4月26日 (土)

国益を考えてみよう(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第64弾です。)

 長野の聖火リレーは騒然とした雰囲気の下で行われた。最も印象的だったのは、3000人もの中国人留学生が集まって、赤い国旗を振っていた光景だ。日本人はおとなしい。海外の日本人留学生が異国の地で、日の丸を振りながら何か政治的な主張をしている光景を見たことが無い。中国人留学生は何を訴えていたか。それは中国政府に味方してくれと赤い国旗を振りながらアピールしていたのだ。チベット問題に類似した問題が日本にあったと仮定してみよう。日本のどこかの地方で、自由を求めて誰かがデモをやった。それに向けて警察隊が発砲し、死者が出た。その取材をしたいと海外のメディアが申し出たが政府は全部断り、その地方で、何が起きたのか誰にも分からない。

 こういった事件が日本国内で起きたとき、海外の日本人留学生は異国の地で日の丸を振りながら、何千人も集まり、日本政府に味方してくれと訴えるだろうか。それはあり得ない。第一、政府がどのように弁解しようとも、そのような政府の行動が正しいと思う日本人はほとんどいない。また日本人は日本政府の悪口は言うが、国益を考えた集団行動に出たのを見たことがない。学校での教育も、国益尊重の教育は行われていない。愛国心という言葉を教育基本法に盛り込むことすらできない。日の丸・君が代を教育現場でどう扱うかすら、もめているありさまだから。中国人は国を愛しており、国旗・国家をもっと遙かに大切にしているに違いない。それが国を勢いづかせているのかもしれない。

 日本で最近話題になったことは、集団自決が軍主導だったのかどうかということ。私を含め、大部分の日本人にとって生まれる前に行った国の行動の是非が、そんなに重要課題なのだろうか。中国人は政府の悪行は無視し、強引に正当化し、国益を最優先しているように思われる。それは日本が戦争に負けたからだと言う人がいるかもしれない。義は力なりということか。勝った方が正しく、負けたほうが間違えていたことになるということか。しかし、過去の「戦績」は日本は3勝1敗だから勝率7割5分。中国より勝率は高く、なかなかのものである。もうそろそろ、敗戦のことは忘れ、中国に倣って、日本の国益のことを真剣に考えるべきではないか。

 今の日本にとっての最大の国益はお金を刷ることだ。インフレ経済の国にとっては、お金を刷る政策は益になるか害になるか分からない。しかし、長期のデフレが続いている日本にとっては、刷ったお金は、間違いなくそのまま国の富となる。丹羽春樹氏は毎年50兆円刷って、ボーナスとして国民に配れと主張している。そうすれば、その50兆円はそのまま国にとって富となる。それだけでなく、デフレから脱却し、日本経済の急激な没落を食い止め、日本企業を活気づかせる。経済が拡大基調に転じたら、我々の老後も安泰である。

 丹羽氏は財務省や、積極財政で知られる志帥会(かつて亀井静香氏等が所属していた)で「お金を刷る」案について講演したのだが、全く受け入れられなかった。理由としては、「お金をばらまくのはよくない、お金はそのように粗末にするものではない」といった理由のようだった。財務省や政治家がそのような考えであるのなら、お金を配るのでなく、減税や歳出拡大でよい。国民のためにお金を使えば、病める日本経済を救うことができるのだ。

 私の考えは丹羽氏の考えと非常に近い。違いは、私は徹底的にマクロ計量経済学を駆使し、学問的に間違いないことだけを主張しようとしていること、それから、お金の使い方は政治家の意見を十分に取り入れ、最も受け入れやすい提案を模索していること、更に、コツコツ政治家と会って直接政治家と話し、説得し、私に味方してくれる政治家の大集団を作り上げようとしていることである。

 私も2003年に日本経済復活の会を立ち上げる前は、丹羽氏の勉強会に出席していた。日経新聞社と組んで、積極財政のシミュレーションを行い、その結果を広く知らしめるために、丹羽氏の勉強会で知り合った仲間と共に、日本経済復活の会を立ち上げたのであった。

 中国は、お世辞にも理想郷などではない。言論の自由も無いし、まだまだ貧しいし、公害も大変だ。しかし、発展する力、彼らのエネルギー、国益を最優先する一致団結した愛国的な行動は注目に値する。未来は我々のものだと言いたそうである。それに比べ、日本人は日本を良くしようという意気込みがあるのだろうか。未来に希望を失っている。国会は何も決められず、国益のために最も重要なデフレ脱却さえ、メドがつかない。脱却のための努力すら何ら行っていない。最近、中国人は言っている。日本のような社会主義の国にしてはいけないと。


 “おしらせ”

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多重債務者「おちこぼれ」ニッポン(いかりや爆さん第3弾)

(3)多重債務者「おちこぼれ」ニッポン

 4月19日の東京新聞の夕刊の一面のトップはデカデカと、国の財政は「夕張より悪い」となっています。国の財政が「夕張より悪い」ということは、事実上破産状態にあることを意味します。

 まず国家財政について、
 平成20年度予算案の一般会計歳入(歳出)総額は82兆9088億円です。このうち公債金収入(借入金)が25兆4320億円です、つまりサラ金からの借金ということになります。
 一方、借入金返済のための費用(国債費)は20兆9988億円(9兆5143億円が金利部分)。これは支出総額の約25.3%(金利部分は11.5%)が、サラ金への返済ということを意味します。
これはサラ金で借りた金を別のサラ金会社から借金して、それを返済に充当しているようなもの。まさに国は多重債務者そのものですね、個人ならとっくに自己破産です。それでも国家破産に至っていないのが摩訶不思議ですが、既に述べたように外国からの借金ではないからです。

 財務省のHP『国の財政を考える』の結論部分は、「2011年度までに国・地方を合わせた基礎的財政収支の黒字化を目標」となっています。
 どのようにして目標達成するのですかね?政府は明確な黒字化の達成手段も政策も示していません。

 経済成長によって収入(税収)を増やす方法が常識且つ最も健全なやり方です。だが、借金が巨大化し過ぎたために、ことここに至っては、経済活性化の手段も採れない手詰まり状態にあることは、「蟻地獄」のところで既に述べた通りです。

 名目GDPについて、
経済成長を示す名目GDP(家庭に例えるとすれば、家庭の年間総収入に当たるとお考えください)は、ここ10年来殆ど増えていません。

 財団法人 国際貿易投資研究所(ITI)発表の統計資料によれば、世界各国のGDP(上位60カ国をドル表示)は、1995~2006年の11年間で、60カ国平均で1.59倍、中国5.47倍、ロシア3.14倍、米国1.65、英国2.09、フランス1.43、韓国1.72倍、~~です。

 日本はなんと60カ国中最下位、しかも飛びぬけて低い0.83倍です、これが世界の「非常識」、「おちこぼれ」と言わずしてなんと言うのですか。ドル表示で見る限り日本だけがマイナス成長です。一クラス60人の教室で、一人だけ跳びぬけて成績が悪い「ニッポン国という名の子供」がいた場合、貴方ならどうしますか。

 日本の0.83倍という数値は母集団(世界各国)と著しくかけ離れて低い、有意差があることは明白です。この10年間の間に、国の借金は約330兆円から838兆円に膨れあがった、身動きのとれない「蟻地獄」に落としいれた。

  国が経済政策を誤ったからです。でなければ、経済成長を意図的に抑制した疑いがあります(日銀福井前総裁の罪は重い)。日本人の一人当たりの名目GDPはドル表示では、20位に転落、もう経済大国なんて言えない。

 繰り返しますが、「蟻地獄」から脱するためには、このシリーズの最初で述べた「非常手段」借金をチャラにして、「ご破算でネガイマシテハ」策を採る以外ない・・・だってそうでしょう?個人なら立ち直るために、自己破産して出直しするではないですか?この際、リセットが必要なんです、要は事態をこれ以上日本経済を疲弊させてはならない(一部の大手企業だけが栄えるのでなく、日本経済を真に下支えしている中小企業を殺してはならない)。

 一時(1年前)「いざなぎ景気超」と言われていましたが、嘘っぱちです。小泉政権になって、「やらせ」のごとく、いったん「ガクン」と経済を低下(GDPの低下)させた。それを4年の歳月をかけてほんの僅かづつ元の水準に戻したにすぎない、それを恥ずかしげもなく「いざなぎ景気超え」と言っているのです。

 アルツハイマー型症候群に罹っている自民有力政治家たち。そのアルツハイマー症候群の発生源の一つが、「経済財政諮問会議」、歴代首相が議長です。アメリカが日本に毎年突きつけている「年次改革要望書」に沿って、米国要望のニッポン改造にいそしむエージェントみたいなものです。はっきり言えば売国者集団、無知にして無能、無脳?者のグループです。竹中氏も同メンバーだった。もう、これ以上の病原菌(売国菌?)を撒き散らすなと言いたい。
 民主党の桜井充氏が、参院予算委員会で「経済財政諮問会議は廃止したらどうか」という発言をしていたことがあります、むべなるかなです。

 政府与党はここ10年来、国民の収入を増やす(わかりやすく言えば名目GDPを大きくすること,つまり国民一人々々の収入を増やす)努力をせずに国民から搾り取ることばかりしかやってこなかった。
その流れは今も続いています、ガソリン税しかり、医療制度改革しかりです、高齢者医療制度はいうまでもない。上に手厚く下に厳しい税制、企業は株主配当は戦後最高だという、役員報酬は急上昇、その一方で大量のアルバイトや非正規社員で人件費を徹底的に抑える。これでは経済もよくなるわけがない、社会も不安定化、最近の犯罪傾向をみても自暴自棄の犯罪が多発している。

 国民に対しては高いガソリン税を維持しようとし、一方で無料ガソリンを外国艦船に提供、米軍駐留経費の思いやり予算、自国の国債発行抑制を唱えながら外国債の大量購入など理解しがたい支離滅裂な政策が多すぎる。

 こんなことだから、3月14日参院予算委員会で福田首相が明言した「宍戸vs大田大臣の公開討論会」も立ち消えになった?・・・討論会をやれば、太田大臣ら(経済財政諮問会議グループ)の無能(無脳?)ぶりが暴露されるのを恐れたのだろうか?それとも、天敵対策のため時間稼ぎしているのだろうか。

 小泉政権の「やらせ」改革の5年間に、中流層にいた多くの人がはじきだされた。非正規労働者数は、1700万人を超え、ワーキングプアーの基準とされる年収200万円未満の人が全体の77%に上っているという(3月9日NHKTVニュース)。

 グローバリゼーションと言いながら、日本経済は世界の常識の枠組みから、「おいてけぼり」(おちこぼれ)になっているのです。エリートたちも、与党政治家どもも日本経済が「おちこぼれ」状態にあることさえ気づいていない、愚かなるエリート?と害虫政治家たちやマスコミ、堕落した経済学者たち。
彼らはグローバリゼーションを叫びながらグローバルな認識が欠けているのだら、滑稽というしかありません。

 国民は一体何を考えているのだろうか。
 時事通信社が4月11~14日に実施した4月の世論調査結果によると、首相にふさわしい政治家は、自民党の小泉純一郎元首相が21.2%でトップだった。2位は16.0%の麻生太郎前幹事長。民主党の小沢一郎代表は7.2%で3位、福田康夫首相は7.1%で4位と、ともに振るわなかった(時事通信)。
なんで狂気の政治家が首相に一番ふさわしいのかわからない。小泉政権は何か国民のためになるようなことをしただろうか、ハンセン病患者への謝罪したことくらいしか思い出せない。
こんなことは言いたくないが、日本人は馬鹿が多くなったのか?それとも、痛みに喜びを感ずるマゾヒストが多くなったのだろうか。

次回は「国は消費税アップを狙っています」を予定。


 “おしらせ”

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2008年4月25日 (金)

「蟻地獄」、さ迷えるニッポン経済(いかりや爆さん第2弾)

(2)「蟻地獄」、さ迷えるニッポン経済

 『復活の会』の小野会長の『無益な経済論争をいつまで・・・』に関連して、本題に入る前に一言。

榊原英資氏について、

>その時の思いつきで発言し、主張が一貫性を欠く人間でも、マスコミはいつまでも登場させる。

会長のおっしゃる通り、榊原英資氏は昔から時流にのった場当たり的発言が目立つ人だった。彼は、小野会長の本『政府貨幣発行で日本経済が蘇る』(2002・11発行)の「帯」に推薦状を書いている。「政府貨幣発行」について、彼は今はどう思っているのだろうか。

 一貫性のないエコノミストや評論家も多いけれど、政治家もそうです。

 中川秀直氏について、
 今回(4月21日)行われた小野会長の出版記念パーティー『お金がないなら刷りなさ・・・』は 中川秀直前幹事長が出席されたそうですね。
 ちょっと違和感を覚えたのは私だけだろうか。

 「ええー?なんで中川秀直なの?」

 彼は、小泉政権時の幹事長、「郵政民営化」選挙では、小泉首相の懐刀となって「刺客」送り込みに辣腕をふるった人物とちがいますか。

先日の参院予算委員会で「宍戸vs大田大臣の公開討論会」のお膳立て発言をした自見庄三郎氏も、「郵政民営化」に反対して自民党を追われ、「刺客」を送られて「郵政民営化」選挙で破れた(前回の参院選で復活)。

 中川氏は自民党内では、反増税派中川・竹中連合を組んで景気回復派らしい・・・彼は積極財政派に転向したのだろうか。転向の弁はなかったのだろうか。それとも、今回は自ら「刺客」となって「日本経済復活の会」の動きを探っているのだろうか。
 まあ、政治の世界は魑魅魍魎の世界というから、めくじらたてることもないか。

 本題に入ります。

  国は無為無策、無脳?景気対策は、にっちもさっちもいかない 「蟻地獄」に追い込まれているのです。
 「蟻地獄」に、追い込んだ奴がいるのですが、今回はそれには触れない。

  景気がよくなれば、金利を上げざるを得ない(これ経済の原理原則)。金利を上げれば、国の借金は雪だるま式に膨張します。仮に景気対策により国家の歳入(税収)が増えて、基礎的財政収支を黒字化したとしても、国の債務残高はそれ以上に増えて借金は膨張し続けます。

 具体的に例示しましょう。
 話をわかりやすくするために、、おおまかですが国と地方の借金の合計を1000兆円とします。仮に、5%の経済成長で、歳入は10兆円黒字化(現状では10兆円もの黒字化はあり得ませんが)、金利は3%とします。その10兆円分を丸々国の借金の返済に充てたとします。しかし、10兆円分では1000兆円の金利3%分30兆円にも満たないのです。

 莫大な借金を放置したまま、景気対策をするんですか。巨大な借金を抱えたままでは、景気対策も採るにとれない、「借金蟻地獄、手詰まり状態」汚い言い方ですが、雪隠詰(せっちんづめ)状態にあるのです。だから世界に類のない0~0.5%の異様な超低金利政策を続けているのです:超低金利は、銀行を救済し、米国への資金の流出を促した(米国への献金のため?)。

 繰り返しますが、「蟻地獄」から脱出するには、いったん「ご破算でネガイマシテハ・・・」が必要、多重債務者が出直すためには、いったん「自己破産」手続きが必要であるように・・・。

 結局は、愚かな政治家や官僚が考えることは「経済は現状の低空飛行」のまま、庶民いじめの消費税をアップするために国民を誘導している、後は野となれ山となれという無責任国家です。

 国は何をとち狂ったのか高齢者いじめまで始めようとしている。もの言わぬ後期高齢者だと思っていたら、そうでもなかった。やむなく後期高齢者医療制度を長寿医療制度と名称を変えた・・・2年毎に見直すという、2年毎に負担増間違いなし、そのうち「姥捨て山医療制度」に化けるのは目に見えている。
 郵政民営化だって、サービスは絶対低下させないと言っていたはず、民営化が始まって半年、サービスの低下は明らかです(それについては今回は触れない)。消費税は当初3%でスタートした、これ以上アップくしない筈だったが、5%にした。そして今は10%論が浮上している。

 余談ですが、
 郵政民営化男、小泉元首相がうごめいているらしい。
 小泉ー竹中の「改革」路線に踊った小泉チルドレンたち、君たちは議員になって何をしたのかよ?国民の税金でただ飯食って優雅な生活かよ?それじゃ、「食堂で飯の食い逃げ野郎」と変わりない、さもなければ、国会に巣食う寄生虫と同じじゃないか。「改革の流れを止めるな!」ってか?そんなに「改革」ごっこがしたいなら、「隗より始めよ」というではないか。自らが所属する国会議員のリストラでもやってくれ。いまの議員数は半分か三分の一で充分だろ?

 話を元に戻します。

 巨大な借金のために、金利さえも支払えなくなったら、個人なら自己破産、企業なら倒産です。だったら、日本は国家破産じゃないの?
 そーなんです、でも国家破産は起きていませんし、又その心配もありません。何故か?

 誤解しないで欲しい。国家破産というのは『対外支払いが不能(デフォルト)』に陥った時に起きるのです。

 日本国の借金は、例えば日本の国債は96パーセントまでは、日本国内で保有されている。つまり国家の借金は日本国民から借金をしているのです。いわば資産を共有する家庭内で、とうちゃん(政府)がかあちゃん(国民)にカネを借りている状態、もしこれが住宅ローンで金利部分さえも返済不能に陥ったら自己破産になります。

 財務省公表資料によれば、平成18年末 対外資産残高:558兆1,060億円、対外負債残高:343兆240億円、差し引き約215兆円の資産超過です。
 日本は対外的には借金どころか多額の債権大国です。繰り返しますが、国家破産というのは、対外支払いが不能(デフォルト)に陥った時に起きるのです。今のところ、先進国中日本は国家破産するには最も遠い国です。

  蛇足ですが、
 数年まえまで、本屋の店頭には、国家破産、国家倒産関連の本がたくさん並んでいました。なかには、「2003年日本国破産」とか「国家破産以後の世界」と言う本まで売られていた。
 今年は2008年です、2003年はとっくに過ぎています、彼らの言葉に従えば、もう既に「国家破産以後の世界」に入っているはずです。彼らは「国家破産」をネタにして飯を食っているのかも・・・。私は数年前から、自分のHPや「掲示板・阿修羅」で日本の場合国家破産なんてありえないことを述べてきました。そのことが、浸透したのか最近は「国家破産」に関する本はみかけなくなりました。

 最後にもう一言、
 私の考えは百パーセントではありませんが、基本的には小野会長の考え方と同じだと言っても差し支えない。「経済コラムマガジン」や丹羽春喜先生らの主張を取り入れたものです。

次回は、世界のなかで日本がどういう経済状況におかれているかについて言及します。
日本経済は世界各国からの「おちこぼれ」です。


 “おしらせ”

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2008年4月24日 (木)

第51回 日本経済復活の会 開催のお知らせ

    第51回 日本経済復活の会 開催のお知らせ   
   
エコノミスト・紺谷典子先生登場!!
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○ 日時 平成20年5月21日(水)午後6:00時~午後9:00時

○ 場所 東京都千代田区九段北4-2-25 アルカディア市ヶ谷(私学会館) 
TEL 03-3261-9921

○ 会費 3500円(資料代や食事・飲み物の費用を含みます)
当会合に関する一切の問い合わせと、御来会の可否は小野(03-3823-5233)宛にお願いします。メール(sono@tek.jp)でも結構です。弁当の注文や配布物の準備等ありますので、申し込みはできるだけ早めに行って下さるよう、ご協力お願いします。

○ 講師 

①紺谷典子 先生 エコノミスト

早稲田大学第一文学部卒業、元日本証券経済研究所主任研究員
大蔵省・労働省・通産省・建設省などの審議会委員、テレビ・ラジオのコメンテーター
『財政健全化、金利正常化という"正論"の嘘』

 神州の泉・管理人のひとこと:

 紺谷典子先生は2005年当時、小泉劇場のクライマックスである9月の衆院解散総選挙について、それが憲法違反であることと、議会制民主主義の危機であることを明確に指摘している。この時、メディアが郵政民営化という一法案(シングル・イシュー)に反対した議員を造反議員と決め付け、徹底してネガティブなイメージに貶めたことについても、紺谷先生はメディアが国民ではなく政権側に立っていると、きびしく断罪していた。
 私は小林よしのり氏の「わしズム」誌上で紺谷先生の論考を読んだときから、憂国のエコノミストとして熱烈なファンになったが、今回定例会でお話がうかがえることをほんとうに楽しみにしている。「神州の泉」の読者さんも、紺谷先生の透徹した眼差しと、国を心配するお気持ちはよく察していることと思うので、是非参加していただきたいと思う。

②小野 盛司 日本経済復活の会会長 
                  会の活動報告、-日本経済復活への道- 

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無益な経済論争をいつまで続けるのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第63弾です。)

 Voice5月号に『大論争! どうなる日本経済』という特集が載っている。日本経済の大停滞は、無益な論争がいつまでも続いていることにある。これは水掛け論争の繰り返しである。

 武者陵司は、これから株が上がると言い、榊原英資は下がると言う。三國陽夫は円高で景気が拡大すると主張、藤巻健史は円安で消費が増大するのだと言う。中川秀直は法人税は全国民の利益だと主張(これだけは賛成できる)、与謝野馨は消費税10%が救国の策だと主張、その他様々な見解、提案が掲載されている。ここで若干コメントを書いてみる。

 榊原英資は日経平均は1万円を切ると主張する。彼の主張が正しいか正しくないかはコメントを避けたいが、2002年7月の中央公論に載った彼の主張を思い出していただきたい。彼は「日本が構造的デフレを乗り切るために政府貨幣の発行で過剰債務を一掃せよ」と主張した。つまり、お金を刷りなさいと言ったのだ。どうしてそのような主張になったかと言えば、来日したスティグリッツ(2001年にノーベル経済学賞を受賞)と話をしたとき、その話題が出たからだそうだ。その後も一貫して同様な主張をするならともかく、それ以後はそういった話は出てこなくなった。その時の思いつきで発言し、主張が一貫性を欠く人間でも、マスコミはいつまでも登場させる。

 ちなみに、私が「お金を刷りなさい」という論文を最初に書いたのは1995年であり、それ以来、一度も主張を変えたことはない。日本にとって最善の政策はお金を刷ることだからである。榊原さん、当たるか当たらないか分かりませんが、株が下がるという「予言」をしてもしょうがないのではないでしょうか。どうやれば、経済を良くし、日本株を上げるかという話をしなくてよいのでしょうか。

 三國陽夫は円高で経済成長率が上昇すると主張するが、マクロ経済モデルでシミュレーションをすると逆だ。円を高くすると、日本製品を一斉に値上げしたことに相当する。そうなれば、日本製品が売れなくなり、経済成長率は下がる。過去に何度もこのことは経験している。円をうんと高くして、恐慌を招いたのが昭和恐慌だった。1985年のプラザ合意の後、急激な円高となり、円高不況に陥った。円高は輸出企業にとって不利益をもたらす。円高のメリットもあるかもしれないが、メリットとデメリットを総合的に評価し、正確なシミュレーションをすると、円高は経済成長率を落とすことが分かる。

 「消費増大には円安しかない」という藤巻健史の主張だが、円安にすると果たして消費は拡大するのか。円安は輸出産業に有利であるという面で消費増大にはプラスだが、輸入物価は上がるので、その面ではマイナスだ。日経のNEEDS日本経済モデルで計算してみた。例えば強烈な円売りドル買いの介入をやって50円だけ円安に(つまり1ドル100円が150円となる)して、これを5年間保ったとする。そうすると実質民間消費支出は1%増えるという結果となった。僅か1%である。この間、大量の国債(毎年100兆円でも足りない)を発行し莫大な介入資金が使われなければならない。この資金を財政出動(減税と歳出拡大)に使っていたら、消費拡大幅はずっと大きくなる。例えば50兆円の財政出動を5年間続けた場合、実質民間消費支出は11%増加するという結果が出た。円安介入よりはるかに効果が大きいことがわかる。円安介入は苦境のアメリカ経済を更に痛めつけるが、財政出動はアメリカ経済だけでなく、世界経済を浮揚させる、つまり世界中から感謝されるのだ。

 森永卓郎はデフレが深刻化していると主張しているが、これには同意する。輸入物価が上がっているのに、全体のGDPデフレーターはマイナスということは、実は国内の景気は、輸入物価の下落を打ち消して更にマイナスということであり、景気が更に悪化しているということだ。しかしながら、彼の提案はいまいちだ。金持ちから税金をたっぷり取って、貧乏人に金を与えよという。しかし、今の日本は世界の中で見れば、金持ちも没落しているのだ。1989年には世界の長者番付で10位以内に日本人は6名もいたが、2007年には100位以内に誰もいなくなった。日本人の金持ちの没落は、貧乏人の没落以上なのだ。金持ちいじめをしたかつての共産圏はどうだったか。いくら働いてもどうせ金持ちにはなれぬと思って誰もまじめに働かなかった。だからみんな貧乏になってしまった。頑張れば、金持ちになれる、アメリカンドリームのごとくジャパニーズドリームがあれば、頑張る人間が次々登場し、経済が活性化し、国全体が栄えるのだ。デフレのときは、金持ちからお金を巻き上げて貧乏人に渡すのでなく、お金を刷って、国民全体にお金を渡すほうが良いのだ。

 フェルドマンは、賃金を上げたければ、労働者の生産性を高めるしかないと主張する。それは違う。例えば、日本全体の労働者の生産性が2倍になったとしよう。需要が伸びない状況で生産性が2倍になったら、経営者は、労働者の数を半分にしてしまうだろう。そうすれば賃金は半分で済み、利益が増える。労働者は半分になり、消費者は激減するわけだから、需要も激減する。つまりデフレスパイラルになる。賃金が上がるどころか、どんどん下がる。結局、お金を刷って、通貨の量を経済活動に十分なレベルにしなければならないということだ。マクロ経済というものはそういうものだ。

 何も、財務省造幣局の印刷機を増やして、お金を印刷するという意味ではない。地価の値上がりを容認するのであれば、それが担保価値を増大させ、銀行貸出が増える形でお金が増えるのでも良い。あるいは、会社で社債が活発に発行されるようになって、それで実質お金が増えていくのでもよい。株が上がり、時価総額が増えれば、事実上お金が増えたことになる。一度火が付くと、様々な形で、お金は増えていく。そのきっかけを作るのはやはり政府・日銀の役目だ。

 結論を言えば、やはりマクロ計量経済学できちんとシミュレーションをやれば、何が正しいか正しくないかが、すぐ分かる。馬鹿な評論家の馬鹿な論評ばかり掲載するのを止め、しっかりした理論に基づく議論をマスコミはもっと掲載すべきである。


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国の借金をチャラにする方法(いかりや爆さん第1弾)

(1)国の借金をチャラにする方法 

 財務省公表の統計情報によれば、平成19年12月末時点の国の借金は合計838兆円です。
 
『借金をチャラにする方法』、結論から先に書きます。

 国の借金838兆円を日銀がすべて肩代わりすればいいのです。政府は838兆円札(無論小切手でもOK)を1枚刷って日銀に渡せば終わりです、借金はチャラ、帳消しになります。

 現在は殆どすべて電子マネーの時代です。日銀が838兆円の万札を発行するなどそんな大袈裟な作業は必要もありません。政府から日銀へ渡す金も、電子マネーつまり帳簿上のやりとりだけでも、充分です。あっけないくらい簡単ですね。

そんなことできるの?

 できるかできないかは、『少しばかりの叡智』と『大いなる勇気』と『断固たる愛国心』があればできます。

 偏差値教育で育った今のひ弱でマニュアル思考しかできないエリートたち、二世、三世の政治家どもや愚かな官僚たちでは無理かもしれない。彼らは「財政法や日銀法に抵触する、日銀の買いオペは禁じ手だ」などと、やるまえから「やれない理由」を次々と並べ立てるにちがいない。

 また、そんなことをやれば、「ハイパーインフレが起こる」と尤もらしく言う人が出るでしょう。私は南米の小国で、偶々合弁会社の役員の端くれをしているときにハイパーインフレを実体験しています。ハイパーインフレは、現状の日本では起こり得ません。

 いくら彼らが立派な御託を並べたてようと、上記以外の方法で巨額の国の借金を消却する方法はありません(尤も、ハイパーインフレを起こせば、帳消しできます。例えば中南米で起きたように、インフレ率1000%、2000%~なら・・・現在の5%の消費税による税収、約10兆円が1000~兆円に膨れ上がる)。

 財務省の『国の財政を考える』というHP(ホームページ)があります。それによれば国の債務残高は(2007年度)GDP比178%、主要先進国の中でも最悪の水準であると主張しております。

 国の借金は、誤解しないで欲しい、われわれ国民がつくった借金ではありません。ダメ政治家とダメ官僚(ダメ日銀も含む)が作りだしたものです。この点をよくわきまえておいてください。
政治家たちは『国の巨額の借金は将来世代へ先送りしてはならない』と、あたかも『国民に責任がある』かのごとく言っている。冒頭に述べた方法以外に、800兆円を越える借金を帳消しにする方法があるんですかね。

 財務省のHP『国の財政を考える』によると、国債(わかりやすく言えば国の借金の証文)残高は、19年度末で547兆円、一般会計税収53兆円の約10年分に相当すると書いてあります。

 同HPの結論部分、『財政健全化のためには?』では、『2011年度までに国・地方を合わせた基礎的財政収支の黒字化を目標としています』と言っています。現状の政府の経済政策で国・地方を合わせた1000兆円を超える借金を抱えながら、基礎的財政収支を黒字化できるわけがない。その前に本体が沈没してしまう。

 それでも、この欺瞞の目標に向かって、国は小泉政権以降経費削減のために、あらゆる手段を使って国民から搾り上げています、これこそ国民への責任転嫁です、国民こそいい迷惑です。愚かな政治家や官僚のおかげで庶民は塗炭の苦しみを味わうことになります。

 この巨額の借金を放置したままでは、政府は景気浮揚策を採ろうにも採れない状況、袋小路のなか、蟻地獄にはまって動けないのです。

 だから、いったんリセット「ご破算でネガイマシテハ・・・」をやらなければならないのです。多重債務者が出直すためには、自己破産して出直す、つまり「「ご破算でネガイマシテハ・・・」をやるように。

 「神州の泉」管理人高橋さまへお願い。
しばらく私の投稿を続けてよろしいでしょうか。よろしければ、次回は日本経済が「蟻地獄」にはまっている状況について、引き続き明日投稿します。
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 (神州の泉・管理人、高橋)
 
いかりや爆様
 
 投稿記事に期待します。どうぞ続けてください。他の方々も、今の日本がおかしいぞとか、何とかしなければいけないなど、憂慮をお持ちの方々は、経済に限らずどうぞ記事を寄せてください。エントリーいたします。


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2008年4月23日 (水)

ななしさんの投稿

インフレで奪われるのは預貯金を大量に持ってる金持ちの現金資産だけだと思いますがね~。
それから前々から気になっていたんですが、英国は対GDP比で現在の日本以上の財政赤字を抱えてましたよね?
米国にしても累積債務が53兆ドルを超えてると言う人もいますし。
米英が財政黒字だった年なんてごく僅かでしょ?
どうやって返したんでしょうか?
そして金利高騰を気にせずに金融政策・財政政策取れるのは何故でしょうか?
どうも合点がいかんのですよね~。

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財務省や与謝野が恐れてるのは名目成長率の上昇による金利高騰でしょうね。
その割には景気対策と言って法人税や所得税の最高税率、相続税の大幅減税等をやりまくってますがw
更に不可解なのは米軍をはじめとして外国には大盤振る舞いを続けてる事ですね。
国内に使えば景気が上向いて金利高騰が始まると見てるんでしょうかね。
それにしても解せないのは米英の財政赤字ですね。
あの膨大な累積債務はどこへ消えたんでしょうかね?
日本に転嫁したって訳じゃ無いでしょうし。
英国の赤字ならともかく米国の巨大な赤字は幾ら日本でも背負い切れませんしね。
どうも我々には知りえないからくりがあるような気がします。
いずれにしろ名目成長率が上がらない限り財政問題も
解決しないでしょう。
税収の自然増は望めませんから。
財務省は金利高騰に怯えてるようですが、今の状態が続く限りいずれは破綻しますね。
遅いか早いかだけの違いでしょう。
100年デフレと言われる由縁でもあります。

http://youkoclub.blog87.fc2.com/blog-entry-683.html

 民間銀行の運用はどうなっているのか?超異常の低金利政策下でも、銀行の貸し出し基
準をクリアーできる民間企業や国民の資金需要は少ない。その結果、民間への融資は、1999年以降で約70兆円も減少し、その投資先は国債になっている。つまり、内需の停滞の証であり、日本経済の成長力の弱さを示している。他方、多重債務者や禁治産者は増加している。資金は、民から官に流れている、民の消費を刺激する政策、内需促進政策が効果を発揮しない限り、この資金ルートを断つ事は出来ない。しかし、デフレ不況でないと財政がもたない、という財務官僚の本音が2004年の朝日新聞に掲載された。最早、行くも、引くも、地獄である。

ここが非常に重要
『しかし、デフレ不況じゃないと財政がもたない、と言う財務官僚の本音が・・・』

名目GDPの上昇は財政問題を解決するか
http://www.dir.co.jp/research/report/harada/06032401harada.html
◆名目GDPが増大することが、財政にどのような影響を及ぼすかについては2つの考え方がある。第1は、名目GDPの上昇が税収の増大を通じて財政赤字を縮小するという考えである。第2は、名目GDPの上昇が金利を上昇させることを通じて国債の利払いを増大させ、かえって財政赤字を拡大してしまうという考えである。

◆本稿の試算によれば、国債残高が膨大なものとなっている状況でも、名目GDPの増大が税収を増大させる力は、金利上昇が利払い負担を増大させる力よりも長期的には大きい。税収を増大させる力は等比級数的に上昇するが、利払い負担を増大させる力は等差級数的にしか増大せず、やがてゼロになってしまうからだ。しかし、短期的には、名目GDP成長率の上昇が金利上昇を通じて引き起こす利払いの増加額は、名目GDP成長率の上昇がもたらす税収の増加額を上回る。

◆ただし、名目GDPを上昇させることの効果は極めて大きいという訳ではなく、上昇させないことの大きなリスクがあるということである。名目成長率が低い場合には、ドイツと日本の経験にかんがみれば、デフレ的な状況の中で、金利が名目成長率をかなり上回る可能性が高い。この時、財政再建はきわめて困難になる。

◆また、財政状況の好転には、歳出の対名目GDP比で3%ポイントの削減が必要である。これを増税によって行うとすれば、消費税6%分の引き上げが必要となる。この時でも、国債残高の対名目GDP比は2035年度に99%になり、わずかずつ減少していくだけである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(管理人)

>資金は、民から官に流れている、民の消費を刺激する政策、内需促進政
>策が効果を発揮しない限り、この資金ルートを断つ事は出来ない。しか
>し、デフレ不況でないと財政がもたない、という財務官僚の本音が2004年
>の朝日新聞に掲載された。最早、行くも、引くも、地獄である。

行くも地獄、止まるも退くも地獄、まるで開戦決断時の日本の懊悩だ。

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2008年4月22日 (火)

経済を良く理解している国会議員に期待しよう(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第62弾です。)

 昨日(4月21日)、『お金がなければ刷りなさい』(小野盛司、中村慶一郎著)の出版記念会が開かれ、多くの方が参加されたこと、心から感謝しております。数多くの国会議員の方も来られました。私が記憶している限りで、来場された順番で国会議員の方の名前を書かせていただくと(敬称略)、綿貫民輔、滝実、中川秀直、亀井郁夫、篠原孝、姫井由美子、自見庄三郎、亀岡偉民、秋元司、野田聖子という錚々たる顔ぶれであった。島村宜伸氏も参加を予定されていましたが、直前テレビ出演の依頼があり出席できなくなったとのことだった。

 何よりも嬉しかったのは、参加して下さった先生方が、よく経済を理解しておられ、日本経済の問題点とその処方箋に関して正しい認識を持っておられたことだった。この日の講演で中川氏は、日本経済復活の会が昨年朝日新聞に出した意見広告や、『日本はここまで貧乏になった』小野盛司著、ナビ出版(2007)の内容を何度も引用されていた。単なる引用でなく、その中に書かれていた数字まで使って論理を組み立てておられたのには、驚かされたし、感激した。彼の考えは我々と全く同じだとも言っておられた。

 今は日本経済の暗黒時代だが、このように経済をよく理解している政治家達が中心となって、必ず日本経済を復活させる日がやってくると私は信じている。この日の中川氏の講演にもあったのだが、Voice 5月号に中川秀直氏と与謝野馨氏との「論争」が掲載されている。中川氏が減税派、与謝野氏が増税派として対比させた形で掲載してある。もちろん、私は中川氏を応援したい。

 与謝野氏は「消費税10%こそ救国の策」と主張する。彼の主張は支離滅裂だ。どこが間違えているかを指摘する。

①「現在は、子供や孫のクレジットカードを使って生活している」のだそうだ。これは国が通貨発行権を持っているということを無視した発言だ。国債発行という形でお金を刷る。確かに国の借金は増えるが、GDPも増えるから、借金のGDP比は減る。借金のGDP比が減れば、実質借金は返したことになる。子供や孫のクレジットカードの残高は実質減るのだ。与謝野流に増税をすれば、GDPも減り、借金のGDP比が増え、子供や孫のクレジットカードの残高は実質増えてしまう。この原理は与謝野氏には難しすぎて理解できないのだろう。

②「このまま国債を発行しつづければ、いずれ安い金利で国債を発行できる時代は終わる」のだそうだ。何を馬鹿なことを言っているのだろう。日銀は、無制限に国債を買う権利を持っている。例えば、日銀が2%以上の金利なら無制限に国債を買うと宣言すれば、「安い金利で国債を発行できる時代は」終わらない。これは、かつてアメリカや英国が行った政策だ。国の経済をデフレから救うには、行わなければならない政策なのだ。

③「インフレ政策は庶民の富を奪う」のだろうか。
それは逆であることは、経済シミュレーションで明確に示されている。デフレによって、土地の資産価値だけで1200兆円も失われた。デフレ政策によって世界のGDPに占める日本のシェアは半減したし、株式の時価総額は5分の1以下になってしまった。つまり莫大な富を庶民から奪ってしまった。もしもデフレ政策を採用せず、日本以外のすべての国が採用しているインフレ政策(穏やかなインフレ政策を目標としている)が採用されていたら、日本はそのように庶民の富を奪わなかっただろうということが、経済シミュレーションにより示されている。

④「名目成長率4%は実現不可能」だそうだ。このことで与謝野氏が経済を全く知らない事が分かる。確かに実質成長率を自由に上げられるかと言われると、100%どこまで上げられるとは言えない。これは生産性の上昇率であり、様々な要素があり、制約があり、その時の国際情勢にも左右される。しかし、名目成長率は全く違う。上げようと思えば4%でも10%でも100万%でも可能だ。どのくらいの速度で通貨を発行かで決まるだけだから、名目成長率は自由に高められる。これは経済の基礎の基礎であり、そのことすら理解していない人間が経済を論じること自体、無理である。これは九九を知らない小学生に微積分を教えるようなものだ。一度経済学を勉強されては如何ですかと与謝野氏にご提案させていただきたい。

 重要なことは、デフレ下においては労働資源も無駄が多く、また生産設備も遊んでいる者が多いために、名目成長率と実質成長率はあるところまでは比例するのだ。下の図は、日経のNEEDS日本経済モデルを使ったシミュレーションである。初年度に限れば、財政出動が50兆円になるまで、実質成長率と名目成長率はほとんど比例している。つまり、財政出動をした分、そのまま国が豊かになるということだ。国民にお金が渡り、そのお金を国民が使い、需要が増えるのだが、それが元で生産が追いつかなくなり、物不足になって物価が上がるということは起こらないということを示している。

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2008年4月20日 (日)

マスコミは誤った世論誘導をやめよ(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第61弾です。)

 本日(4月20日)の日経新聞の13面に生活モニター緊急調査の結果が大きく扱われている。その見出しは「利下げやめてほしい」「物価上昇、歯止めを」となっている。要するに、日本国民は利上げと物価を下げることを望んでいると言いたいようだ。ご存じのように、日本は世界で唯一、デフレのために経済が急激に悪化している国だ。それなのに、マスコミは、更に金利を上げて景気を悪化させ、デフレを加速させようと世論誘導をしている。

 長期のデフレのために、日本は貧乏になってしまった。それを表すデータの一部を並べてみる。

○一人当たりGDP         2位(1993年) → 18位(2006年)
○国際競争力            1位(1989―1993年) → 24位(2007年)
○企業の時価総額ランキング 20位以内に14社(1989年) → 1社(2007年)
○世界の長者番付       10位以内に6名(1989年)→ 100位以内に0名(2007年)
○港湾のコンテナ取扱量    神戸   4位(1980年) → 39位(2006年)
                  東京 12位(1980年) → 23位(2006年)
○空港発着回数ランキング   成田 13位(1992年) → 18位(2005年)

 どれを見ても、背筋が凍る思いがするものばかり。デフレなのに、緊縮財政を行い、金利を上げろ、物価を下げデフレを加速せよと馬鹿なことをいう。皆さん、もうこんなことを止めるべきだと思いませんか。国を貧乏にして良いことは何もありません。不況は税収を減らし、国の財政を圧迫し、それが年金を減らし、消費税増税議論に拍車を掛ける。貧乏になれば、食料を輸入に頼っている日本にとっては、おいしい物も買えなくなるということ。老人医療も切り捨てです。

 マスコミは、マクロ計量経済学を勉強し、どうやれば日本が豊かになり、世界経済の中で日本がシェアを拡大できるのかを考えるべきでしょう。金利を上げれば、景気が悪くなるということは、どの経済の教科書にも書いてある。デフレの時に、更に物価を下げるということは、デフレスパイラルを引き起こし、経済が際限なく縮小し、貧乏になっていくことはよく知られている。それに向けて世論を誘導するのをマスコミは慎むべきだ。

 年金生活者には、金利が上がれば、貯金の利子が増え、物価が下がれば、実質収入が増えたと同じ事になるというのだろうか。とんでもない。物価スライド制だから、物価が下がれば、年金も下がる。金利を上げるのは、設備投資をしたいという資金需要が増えすぎて、それを抑えようと日銀が行う金融政策だ。そういう好景気のときは、もちろん物価は上がる。様々なデータを総合的に判断しなければ、自分にとって何が利益なのか、不利益なのか分からない。それがマクロ経済モデルによるシミュレーションであり、現在の日本では、積極財政で(お金を刷って)国民のために政府がもっとお金を使う政策が最良であるという結論が出ている。

 我々は、政府に対し、積極財政を求めていかねばならない。「どうやって」ということになるが、例えば明日(4月21日)、日本経済復活の会ではパーティーを開きます。中川秀直前自民党幹事長、綿貫民輔国民新党代表(元自民党幹事長、衆議院議長)など、与野党の国会議員が多数参加されます。参加登録人数は4月20日現在で55名です。政治家の方達と直接話ができる数少ない機会です。今からでも申し込めますので、是非ご参加下さい。


お知らせです” 

 4月21日の出版記念パーティ

 4月21日(月曜日)、東京にて日本経済復活の会・小野盛司会長と評論家の中村慶一郎氏の共著『お金がないなら刷りなさい ―米国が16兆円を刷って国民に配っているときに日本は増税かーの出版記念パーティがあります。弊ブログで小野会長の積極財政論シリーズをご愛読して頂いている読者さんも参加してくださればうれしい限りです。出版記念会詳細は上記リンクにてどうぞ。(神州の泉・管理人)

出席される政治家の方々(敬称略)
綿貫民輔(国民新党衆議院議員)
滝 実 (衆議院議員)
中川秀直(自民党衆議院議員)
篠原孝(民主党衆議員)

 今からでも間に合います!!ご参加ください。

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2008年4月19日 (土)

未来の医療はどうあるべきか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第60弾です。)

 後期高齢者医療制度というものがスタートした。コメンテーターはこれが導入された理由は、高齢者の医療費を削減するのが目的だと言う。高齢者は今後増え続けていく。単に国の「採算」だけ考えていたら、我々の受けられる医療はどんどん悪くなっていく。しかし、国はお金を刷っても良いのだということを認識し、そのお金を使って大規模な医療改革を断行する覚悟があるなら、医療の質も、医者の待遇も大幅に向上させることができる。

 医療の大改革の第一歩は、個人情報保護に対する考えを変えることだ。我々が、我々のすべての医学データを医者が一括保存・管理することを許せば、我々は現在よりはるかによい治療を受けられるということだ。個人情報漏洩の危険があるが、それは別途漏洩防止の手段を考えればよい。

 個人の医学データとは、年齢、性別、本人の病歴と親兄弟の病歴、アレルギーの有無、喫煙の有無、過去の検査結果、DNA、などである。医者に掛かる度に、データを蓄えていき、USBメモリーなどの携帯型の記憶装置で各人が持ち歩く。医者もそのデータを診断に活かすことができる。多くの国民が規格化されたデータを持ち歩くようになったら、次のステップは、そのデータを使って、自動診断システムを作り上げることだ。病気に罹ったら、我々は病院に行く。大病院だと1~2時間は平気で待たされ、診察は僅か2~3分、医者は自分の病歴など、ろくに見ていない。それに待合室で病気をうつされるかもしれない。

 自動診断システムの場合、病気になれば自分の医学データが入ったメモリーをパソコンに差し込み、コンピュータと対話すればよい。相手が医者でなく、コンピュータだから待合室で待たされることはない。コンピュータはじっくり話を聞いてくれる。しかも、ネットを通じ最新の医学情報を毎日でも更新できるし、すべての分野に精通することができる。忙しい医者にはとてもそんなことはできない。こういった診断システムの性能にもよるし、運用の仕方にもよるだろうが、全国のそれぞれの分野の専門医が現代医学の粋を集めて作れば、通常の医者より正確な診断ができるようになる。もしもそのようなシステムが完成すれば、パソコンをネットでつなげばよいだけで、全国、どんな田舎でも超一流の名医を配置したことに相当する。しかも、その蓄積されたデータは、医療技術の改良に大きく貢献する。薬の有効性や副作用のデータが大量に集められるからだ。医者にとっても強力な助っ人の登場で、仕事が楽になるし、より専門的な仕事に集中でき、収入もアップする。患者の側でも、医療費の軽減、待ち時間の短縮だけでなく、更に高度な医療サービスを受けることができる。

 もちろん、その診断システムを実際に運用する前に、解決しなければならない問題はたくさんある。しかし、マイナス面ばかりに気を取られて、悪くなる一方の医療サービスを放置してもよいのだろうか。指摘されるだろう問題点について書いてみよう。

個人情報保護:もちろん、個人情報の漏洩阻止には、法律で厳しく対応する必要がある。悪用する者に対しては厳罰を科す。それでも心配かどうか、これは価値観の問題だろう。個人情報が漏れることを恐れこのシステムを使わない人がいれば、強制するものではない。少ない費用で、しかも高度な医療を受けられるメリットは、個人情報が漏れて生じるディメリットよりはるかに大きいと思うが、それは価値観の問題だ。このシステムに理解を示す人だけに使ってもらえばよい。

診断システムが間違えたらどうなる:もちろん、間違いはある。医者だって誤診をする。診断システムが医者よりも間違いが少なくなったら、使えばよい。例えば薬局に、診断システムを置いておいて、血圧、体温、脈拍等の測定もできるようにしておき、患者に自覚症状など、様々な質問をし、病状が薬の処方だけで十分と判断すれば、処方箋を出す。それを薬剤師が確認し、問題なしと判断したら、薬を与える。更に精密検査が必要となれば、その精密検査が可能な病院の検査室に対する検査表を発行し、直接その検査室に行けば検査が受けられるようにする。特殊な病気に対しては、専門医を紹介する。

 以上、医療改革の一案を書いてみた。強調したいのは、我々の未来は改革をしようと思わなければ、暗くなるだけだ。刷ったお金を使えば、思い切った改革が可能だ。方向性としては、「労働はロボットに、人間は貴族に」である。この診断システムは医者に変わるロボットの初期の形態だと思っていただきたい。

 医療現場で、ロボットは様々な所で使用されるようになるだろう。レントゲン検査でも、本当に一人の人間が常に面倒を見ていなければならないかは疑問だ。「大きく息を吸って、止めて、はい、終わりました」など、録音で十分だ。ロボットが検査技師に置き換わることができる分野も多いと思われる。高齢者のケアであれば、介護ロボットの開発も進めると良い。日本はロボット技術では世界一進んでいる。この分野を国が支援し、伸ばしていくことも、日本の未来を明るくする。

 ここで主張したいことは、医療制度改革をやりたいなら、国の財政に関して収支のバランスだけを考慮した制度作りでは、我々の未来は真っ暗ということになるということである。サミュエルソンも言っているように、国の経済をデフレから救う方法は、財政赤字の拡大である。インフレ経済にとっては、財政赤字の拡大はインフレの悪化で有害なのだが、デフレ経済にとっては、財政赤字の拡大は救いの神なのだ。国はもっとお金を使って良いということだから、それならば、医療に関しても、もっと高度で本格的なコンピュータの使用を考えるべきである。一度、診断システムを作り上げると、それは日本人が誰でもいつでも相談できる、最高レベルの専門医を各家庭に配置したことに相当する。安心・安全を国が国民にプレゼントできるのだ。大変な財産を国民にプレゼントすることになる。国は増税や歳出削減のことばかり考え国民を苦しめる改革をするのでなく、国民が喜ぶようなことを考えていただきたい。

お知らせです” 

 4月21日の出版記念パーティ

 4月21日(月曜日)、東京にて日本経済復活の会・小野盛司会長と評論家の中村慶一郎氏の共著『お金がないなら刷りなさい ―米国が16兆円を刷って国民に配っているときに日本は増税かーの出版記念パーティがあります。弊ブログで小野会長の積極財政論シリーズをご愛読して頂いている読者さんも参加してくださればうれしい限りです。出版記念会詳細は上記リンクにてどうぞ。(神州の泉・管理人)

出席される政治家の方々(敬称略)
綿貫民輔(国民新党衆議院議員)
滝 実 (衆議院議員)
中川秀直(自民党衆議院議員)
篠原孝(民主党衆議員)

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2008年4月17日 (木)

植草事件の視点を国策捜査にシフトする段階だ

  植草一秀さんには昨日の控訴審でも有罪判決が出た。控訴審判決は、植草氏が犯人であるという極めて強い予断に基づいた裁定を下した。検察側目撃者の証言には重大な誤りが含まれていることが明らかになり、根本的な疑いが多数あるにもかかわらず、裁判官はそれをまったく考慮せず、弁護側論拠を完全否定する結果となった。今までの一審公判を振り返ると、誰が考えてみても、検察側証人の矛盾や不確実性が際立っていることがわかるが、裁判官は検察側証言のみを有用として採択した。この裁判の重大な問題点は、この著しく偏頗な裁定感覚にある。まるで裁判所が検察の代行機関であるかのような印象がぬぐえないのだ。2004年の品川駅構内事件も、2006年の京急電車内事件も、通常裁判の様相を逸脱していることは間違いない。品川事件の裁判を担当した大熊一之裁判官は重大な争点を故意にスルーして有罪判決を下した。これによって植草さんは控訴を断念したのではなく控訴を拒絶したと語っている。つまり司法制度が機能していないことを彼は悟ったのである。今回の裁判にもまったくこれと同じ裁判様態が展開されている。ことがここまで明確になった以上、植草事件は国策捜査によって発生したできごとであり、その裁判は国策裁判となっていることはもはや疑いようのない事実である。

 私は、ここに至って、ある一部の擁護派の姿勢に熾烈な怒りを持っている。それは彼らが法廷至上主義に拘泥して、法廷内証言のみで擁護論理を構築し、司法側がそれをまったく受け付けないという現実を突きつけられているにもかかわらず、延々と同じことばかり繰り返している不毛さに対してである。彼らが植草さんと関わりなく自主的に擁護する分には、勝手なのであるが、公判が進捗する重要な局面でいろいろと見当違いの助言や愚かな讒言を植草さんに与えており、それが国策捜査を世間に流布すべき重大な時点を逸した感がある。そのために全体として擁護派が向かうベクトルは不毛の通常冤罪論に傾いてしまった。これら不毛の擁護論者たちは、最初から事件の基底に横たわる「国家の罠」という本質を見逃しており、初期から重箱の隅を突っつくような同じことばかりを延々と繰り返している。まるでハツカネズミの車回しだ。

 彼らが最初に考慮すべきだったのは、植草さんが身を捨てて小泉政権の間違いを弾劾に近い形で訴えた事実である。品川事件も、京急事件も、因果論的な本質は「そこにこそ」あることを彼らは当初から気付いていない。裁判所までが国策捜査の片棒を担いでいるなら、通常冤罪論でどう戦ってみても勝ち目はない。やるべきことは世論喚起だけである。第一、通常冤罪論で植草氏の三度にわたる摘発の連続性をどうやって合理的に説明できるのだ。冤罪が8年の間に偶然3回発生したという論理よりも、マスコミが大々的に流布した病的性癖説の方がはるかに説得力を持つではないか。つまり、罠に嵌められたという仮説を最初から構築しない限り、植草さん救出の突破口は存在しないのだ。植草さんはそんな破廉恥なことはしませんと感情的にわめいたところで、通常冤罪論は病的性癖説を凌駕できないことになる。つまり法廷内証言至上主義の立場を貫く擁護派の狭隘な論理は、裁判官の不均衡裁定の理由をまったく説明できないのだ。それは植草事件の背景が、通常冤罪をはるかに超えた、国策的な政治レベルの問題に起因しているからだ。つまり小泉政権が国策トレンドを転換しようとしたきわめて重要な時点で、植草さんはマクロレベルでこの政権の誤導性を暴き、的確に批判した。これによって彼は買弁勢力に嵌められたのである。この観点からしか三度の連続性の十字架を払拭することはできないのだ。だからこそ、この部分にまったく触れない擁護派は無力なのである。

 検察側証言の矛盾はすでに検証されつくした感がある。検察側証人はあらかじめ仕立てられた証言者だから、検証すればまだいろいろと矛盾点は出てくるだろう。そのこと自体は重要であり、続けるべきだろう。しかし、すでに問題の位相はそこにはなく、巨大な真相に目を投じるべき時点なのだ。通常冤罪を敷衍して国策捜査に目を移す時点が到来している。検察側証言者は逮捕者の一人を「私服の男性」と表現した。このキーワードは国策捜査による偽装事件を演出したスタッフ(複数)が電車内に潜んでいたことを強く示唆する。つまり、被害者も、目撃者も、逮捕者も、ある共同の謀議を企て、互いに連携してそれを実行した可能性を疑うべきである。事件検証の作業仮説をこのように組み立てれば、検察側証人のつじつまの合わない多くの不合理な証言が精彩を放ってくるのだ。

 一方、裁判所レベルに立ち戻れば、問題とすべきは裁判官と検察の明らかな癒着にある。裁判官が弁護側の合理的な検証や証拠をまったく採用しないという一方通行の「裁定感覚」を問題とすべきだ。長期にわたる「人質司法」(=代用監獄)と言い、裁判官のあからさまな完全検察寄りと言い、日本は法治国家の体を為していない。したがって、我々は植草裁判に対して法治国家のあり方そのものを問うべき段階に来ている。ネオリベラリズムの行き着く先として、日本の統治体制は夜警国家へと変貌しようとしている。この絶対的な徴候が、年金制度崩壊の兆しであり、棄民的な後期高齢者医療制度の施行である。弱者の切り捨て社会である。夜警国家とは新自由主義の極相的国家である。これは言い換えれば、権力中枢の言うがままに動く警察・検察の横暴が野放しにされる恐怖社会を示す。こにおいて、警察、検察、裁判所が一体化した場合、法の正義は雲散霧消し、個人や弱い立場にある企業は助からない。冤罪や濡れ衣が横行する野蛮な暗黒世界に向かう。

 テレビ、大新聞などは、クロスオーナーシップにがんじがらめにされ、権力中枢の走狗に成り下がっている今日、本物の公益的情報が出てくると思うほうが間違っている。巨大メディアは権力中枢の意向に沿って世論誘導を行なう。この点で、零細出版社である鹿砦社の弾圧事件を思い起こして欲しい。パチンコ機器製造メーカー「アルゼ」の巨悪を糾弾した鹿砦社社長・松岡利康さんは、ほとんど植草さんと同じ位相で国家権力の狙い撃ちに遭っている。裁判経過も弁護側が主張する憲法第21条要件を完全に無視するという横暴ぶりだ。横暴という意味は、弁護側の主張を完全に破棄するという、裁判官の徹底的な不均衡裁定感覚のことだ。すでに、一審、控訴審ともに植草裁判はこの不均衡裁定を行なわれている。この現象を法廷至上主義で解読できるわけがない。これを突破する方図は国策捜査の視点にシフトすることだ。

 つまり、植草事件の本質とは権力中枢による弾圧なのである。今の日本はネオリベ的発想による翼賛体制に移行しつつある。これが戦前の翼賛体制よりも悪質なのは、この趨勢が米系国際金融資本の圧力で行われているという厳然たる事実だ。同じ翼賛でも自生的と他生的な差異があり、他生的な統制社会の方がはるかにたちがよくない。植草さんが、たとえば自民党清和研究会のような買弁勢力に狙われたのではないかという視点も重要である。小泉政権下の官邸主導勢力にはあまりにもきな臭い匂いが漂っていた。証拠がないことを言う事は益がないと馬鹿の一つ覚えで言っている傲慢な自称擁護派もいるが、植草さんを魂レベルで救出する方法は、彼が国策のターゲットになったという道理を、法廷外から強く言い続けることしかないと思う。しかも、植草さんの国策捜査を考えることは、日本にとって正しい政策とは何かを国民が真剣に考えることでもある。

 今の趨勢は一部の特権階級が大多数の国民を奴隷化して使役し、それを搾取するネオリベ一辺倒に切り替えられている。そういう動きの究極相には超格差社会が待ち受けているのだ。そうなったら、暴動が起きない限り国家体制は後戻りできなくなる。一部の権力者と、国際金融資本のために恣意的に国家権力が発動され、弱い立場の者が狙い打ちされる社会が常態化する。それが限りなく警察国家に近い夜警国家なのである。植草さんと鹿砦社の松岡さんの事例は日本が夜警国家に向かっていることを強く暗示する。

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2008年4月16日 (水)

生産性向上が国を豊かにする。国がお金を使わないと生産性は向上しない(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第59弾です。)

 現在の日本は不安の時代にある。下図の内閣府「国民生活に関する世論調査」でも、はっきりそれが示されている。しかし、それは政府やマスコミが少子高齢化を過度に恐れ、間違えたメッセージを繰り返し流しているために、国民が誤解しているにすぎない。今後考えられている労働力人口の減少は30年で20.2%で、年率では僅か0.67%にすぎず、実際は生産性の向上を考えれば、これは全く心配しなくてよい減少率である。むしろ過密で、食糧自給率の低い日本にとって、更に世界の環境悪化を食い止めるためには人口減少は朗報と言うべきである。

 CPUの動作周波数(コンピュータの動作速度)は約20ヶ月で2倍になっている。年率約50%の進歩であり、人口減少率の100倍近い。様々な産業を見ていくと、やろうと思えば、いくらでも生産性は伸ばせるが、政治家が選挙に勝つことばかり考えているから、改革ができなくなっていることがわかる。

 例えば農業はどうか。日本の農家あたりの耕地面積はオーストラリアの100分の1だそうだ。減反政策を止め、区画整理して、米国並みの大規模農業にし、機械化を進めれば、現在より農業人口を大幅に減らすことができる。農地の耕作や、刈り入れなど、機械による完全自動化も可能だろう。そこで生じる大量の失業者を、財政支出による充分な支援を、大部分の人が満足する形で行えば、ほとんどの人は反対しないはずだ。つまり刷った金を使えば、生産性の大幅アップは可能だ。

 例えば、このような大規模農業に切り替えることにより、現在の50%の人で生産ができるようになったとしよう。そして残り50%で、30%が別な職を見つけ、残り20%が失職したまま、国の生活援助を受け続けたとしよう。それでも供給面では農産物の生産量は変わらないが、30%の人が別な職場で働き始めた分だけ供給力は増加したことになる。需要面で考えると、もし改革の前後で全員の収入が変わらないとすれば、需要(消費)は変わらない。結果とすれば、供給力が30%増加した分だけ供給過剰でデフレ圧力になる。ということは、全員の収入の合計を30%程度アップすれば需給のバランスが取れる。つまり失職した人まで含め全員の可処分所得を30%程度アップすればよい。あるいは、生産性向上の恩恵を農業関係者だけでなく、国民全体で享受するのであれば、減税などで、需要拡大をすればよい。生産性を上げたら、必ずその分国民に多くのお金を渡すという政策が必要だ。最終的には農業に人手は要らなくなる。コンピュータで制御された機械が農作業のすべてを行うようになる。日本の農業の生産性はアメリカの10分の1だと言われている。アメリカ並にするだけで、生産性は1000%も上昇する。人口減少分は30年間で僅か20%。3割減反政策をやめるだけで、30%生産性がアップするから、これだけで10年分以上だ。

 もちろん、緊縮財政を続けている限り、生産性向上は望めず、国は貧乏のままだ。デフレ下では失業者が多く、就職している人でもパートはアルバイトが多い。こんな中で改革をやろうものなら、新たな失業者を作り出してしまうし、緊縮財政の下では、農家への補償も僅かしか出せないから、農家から猛反発を受ける。新たな失業者も、再就職は難しい。結局生産性向上はできないということだ。つまり改革にはお金が必要なのだ。

 改革は農業に限らない。私がこれから提案する数々の大改革は、不況下での緊縮財政を行っている状況では行うことが不可能な改革であり、行ってはならぬ改革である。しかし思い切って財政を拡大する決意があれば可能となるし、人の暮らしを豊かにするのは間違いない。政府が金を使わなければ、ろくな改革はできないし、国は豊かになり得ないのだ。大改革をどんどん実行していけば、みるみる豊かになり、国民も明るい未来を期待するようになることは間違いない。実際の実行にあたっては、計量経済学による綿密なシミュレーションを行い周到な準備が必要となる。
 
 内閣府「国民生活に関する世論調査」
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医者にかかるな!薬を使うな!長生きするな!姥捨て法案発動

  とにかく腹が立って仕方がない。

 二千数百年の伝統を誇るこの日本はなんという恥ずかしい国に成り下がったのだろうか。現役世代がお年寄りを邪魔者扱いし、その挙句、姥捨て山に捨てる法案まで策定して実行した。鉄面皮の顔で75歳以上の人たちの人並みに生きる権利を剥奪していく日本人とはいったいどういう日本人だろうか。彼らは富士山を誇りに思い、正月を寿(ことほ)ぎ、オリンピックで日本選手の健闘を称える我々日本人と同じ種族なのか。どの時代にあっても、日本人は先祖を崇敬する気持ちを保持し続けることは当たり前だった。ところが、近ごろ、この普遍の民族性に明らかに翳りが生じている。考えてみてもわかるが、自分の両親や祖父母の世代は、我々と同じ空気を吸って生きてはいるが、彼らは最も近しい『先祖』なのである。この先祖たちを75歳を区切りにして現役世代と別枠の保健医療制度にぶち込んでしまおうという発想は、先祖毀損以外の何ものでもないだろう。まるで柵で囲んだ動物農場に彼らを投げ入れ、餌を与えないで効率よく餓死させるシステムを開発したようなものだ。

 今、施行された後期高齢者医療制度は、郵政民営化と立ち並んで稀代の悪法である。この医療制度の犠牲になるご年配の方々は、あの未曾有の大東亜戦争を体験し、敗戦による焦土から、国土を復興し、戦後インフラを築き上げた功労者たちである。人間は年齢を重ねると、さまざまな病気にかかりやすくなり、体調不良の頻度が高くなる。これは自然の摂理である。だからと言って、加齢 → 医療費増加 → 財政圧迫 → 応分負担という単線的な図式でとらえていいものだろうか。問題は応分負担という考え方である。大多数のお年寄りには働いて収入を得る道が閉ざされている。彼らに応分負担を義務付けるというのは、か細い年金から強制天引きするということだ。これ自体が典型的な棄民的発想だ。年金は通常の意味における働いて報酬を得る収入ではない。それは積年の弛まぬ積み立てを行なったことによる政府の保証的還元金である。収入ではなく当然の生存資金である。したがって年金を保険制度の原資徴取対象とするべきではない。後期高齢者医療制度の立案自体が国民生存権の侵害である。つまり憲法第25条の侵害行為である。両親や祖父母にねぎらいの心を忘れたら国はおしまいであろう。この鬼畜法案のどこに人間らしい心がある?これは唾棄すべき心性で発案されている。

 お上が直接国民の年金支給金を切り崩すこと、すなわちこの「強制天引き」なる所業は人非人の仕業である。日本は人非人国家になったのだ。人でなし国家である。この非道な法案は早急に撤回させるべきだ。そしてこれを策定して実行した政治家たちをけっして許してはならない。これを発想する者たちは決まっている。最近ネットで言われてきた外資族なる政治家たちである。小泉・竹中路線をラディカルに推し進めた買弁的構造改革論者たちである。日本の伝統精神や互助的慣習をすべて破壊し、国の魂と財産を外の海賊に売り渡して恥じないやからである。彼らの念頭にあるのは、金融収奪を目論む外資に国富を貢ぐことによって、そのおこぼれを預かるという野良犬以下の発想である。

 はっきり言おう。小泉・竹中路線が敷いた新自由主義による日本構造改変の帰結とは、日本人の金融奴隷化にほかならない。グローバリゼーションという国際金融資本の怒涛の侵略によって、日本は国際的な市場原理のみが機能する平板な構造に切り替えられたのである。この動きの当然の帰結として、現役から退いたお年寄りを無用なものとして捨て去る法案が作られたのだ。これほどはっきりした棄民政策はないだろう。小泉・竹中構造改革路線とは、福祉のセーフティネットを破壊しただけではなく、我々の生存基盤を築いてくれた直近の先祖たちを無残に切り捨てようとしているのだ。ゴミを廃棄処分する感覚だ。もう一つは現役世代の負担を軽くするという発想の独善性である。なぜ、お年寄りの医療費や年金を我々が負担しなければならないのか、我々には我々の世話だけで精一杯だという感覚だ。しかし、これは自分自身の存在理由を考えれば間違いだとわかるだろう。親は無償の愛で子供を育ててきた。その愛情の結果でこの世に存在している我々が、その愛情の源流をゴミ山に捨ててもいいのか。それをしたら鬼畜以下だろう。故に後期高齢者医療制度とは鬼畜以下の発想なのだ。

 後期高齢者医療制度の財源的な考え方に問題がある。この基本の考えがゼロサム理論なのだ。つまり誰かが得をすればその分だけ誰かが損をする。限られた財源の中で、老人医療費負担増が他の予算に悪影響を与える。したがって老人にも自己責任原則を課そうという発想だ。高齢者の生存権をゼロサムで処理してもいいのか?その発想こそが棄民的発想なのではないのか?社保庁の年金問題が未解決なのに、年金から強制天引きすること自体狂気の沙汰である。特別会計の問題や、独立行政法人の垂れ流し的税金投入を放置しておきながら、最も弱いところから金を吸い取る発想。日本の統治システムは崩壊の瀬戸際にある。こんなむごい統治国家で、日本人がいつまで大人しくしているだろうか。

 ひとつだけけっして忘れてもらいたくないことがある。小泉政権の発足当初からその棄民的政策を誰よりも早く察知し、警鐘を鳴らしていた有識者がたったひとりいた。その人こそ植草一秀さんだ。彼の非凡な洞察力はあのペテン的官邸主導政治の危険性を見抜き、憂国の思いからテレビを筆頭として、随所で警告を発していたのだ。その結果、植草さんは急進的構造改革派に睨まれ、二度にわたって国策捜査の罠に嵌められた。ただ一人、身を捨てて警醒の動きをとった植草さんの言葉に、当時の国民が真摯に耳を傾けていたなら、事態はここまで棄民的趨勢を帯びなかったはずだ。植草さんは潔白である。もう一度はっきりと言うが、2001年当時、有識者で小泉政権のマクロ政策の誤りを真っ向から糾弾した人間は植草さんただ一人であるということを我々は知る必要がある。今の日本は国民の立場になって良心的に提言する者を残酷に排撃する。この位相から植草事件を再検討して欲しいと思う。彼は嵌められたのだ。彼が遭遇した二度の痴漢偽装事件とは、国家の罠によるでっち上げである。

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滝 実 (衆議院議員)
中川秀直(自民党衆議院議員)
篠原孝(民主党衆議員
梶山 拓(前岐阜県知事)

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2008年4月14日 (月)

IMF委 共同声明 景気刺激へ財政政策を(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第58弾です。)

 4月13日ワシントンで開かれていた国際通貨基金(IMF)の国際通貨金融委員会(IMFC)が、世界経済減速への対応について、「財政政策も景気刺激策となりうる」とする共同声明を採択し、閉会した。世界経済の減速がささやかれており、世界大恐慌に発展する恐れさえ指摘されている。世界各国が財政政策、つまり景気対策を行って、世界大恐慌へと発展するのを阻止しようとしているのである。

 14日の日経新聞には「IMF委 共同声明 景気刺激へ財政政策を」のタイトルに加え「日本には構造改革要求」というサブタイトルが書かれている。本当に日本にそんなことを要求したのかを確かめるために、本文を読んでみると「巨額の借金に苦しむ日本は財政出動要請の対象から事実上除外されているとみられている。」と書いてある。つまり、声明ではそんなことは書いていないが、日経の記者が勝手にそのように解釈して、サブタイトルを書いたということだろう。ありもしないことを勝手にでっち上げて書くのが日経のやり方だ。

 筆者は、政府発表と称する記事に関して、時々政府(内閣府)に問い合わせてみることにしている。そうすると、内閣府では、それは事実ではないとはっきり言う。では日経に抗議すべきだと、内閣府に言うと、内閣府は日経と連絡を取ってみると言う。しかしそれから話は進まない。政府に対して日経は情報源は話す必要がないと主張する。それが報道の自由なのだそうだ。ありもしない嘘の記事を書かれても、政府はそれを放置するしかない。私が日経に電話しても記事が間違えていると主張しても同じだ。でっち上げたのだろうと問い詰めても、「そんなことはない。情報源は明かす必要はない。」と主張してそれ以上追求する手段はない。滝実衆議院議員による質問主意書の中で、時々新聞記事の内容について聞くと、政府からの回答は「そのような事実はない」という返事が返ってくる。つまり記事は嘘だと言うのだ。だからといって訂正記事を書けとは言えないようだ。それが報道の自由というものの実体か。日本は何という国だろう。つまり報道の自由とは、でっち上げの自由ということのようだ。これが日本経済を没落させる一因となっている。嘘の報道に対して、反論する場を与えるべきだ。

 経済の話にもどろう。現在、日本以外は物価の値上がりに悩んでいる。日本は食料品やガソリンなどの値上がりはあっても、全体としてはまだデフレであり、物価の下落は続いている。景気対策の余地がある国とは、物価の値上がりは激しくない国であり、日本が最も安心して景気対策が行える国であり、景気対策の成果が最も上がる国である。計量経済学は、日本の巨額の債務の問題は、景気対策によって解決することを証明している。

 一昨日、民主党の岩國哲人衆議院議員と食事をした。4年位前に、私が衆議院会館で議員を集めて講演をしたとき、岩國氏が政府貨幣発行についての彼が書いた論文を私に渡してくれた。今回もその話が出た。国がお金を刷って、国民のために使えばいいではないかという主張。当時彼は民主党の副代表だった。是非、民主党の中でこの考えを広めて欲しいものだ。民主党は、ともすれば財政再建のため、消費税増税や歳出削減の話を持ち出す。

 岩國氏の考えは、実際に政府貨幣を印刷して、日銀券と共存させようというもの。しかし、それをやりだすと大変ですよと私は言った。現在、日銀券の発行残高は70兆円しかなく、政府貨幣を発行しても、それ以上は流通しない。それに、自動販売機など、すべて作り直さねばならなくなる。それから政府貨幣が流通すると、その代わりに日銀に日銀券が返って来て、日銀の自主ルールに従えば、日銀券の発行残高を日銀の国債保有の上限とするようになっているので、日銀券の発行残高が減れば、国債保有も減らさなければならなくなる。つまり売りオペをやらねばならず、それで景気を冷やす。つまり、政府貨幣発行は現在の制度のままでは、景気対策にはならない。スティグリッツの言うように、政府を変えればよいだけだ。政府貨幣を政府が発行し、それを日銀が受け取り、日銀が保管すれば、その額がそのまま国庫に入るようにすれば、景気対策に有効である。まさにお金を刷ったことになる。これには法改正が必要だ。これこそ真の構造改革である。

 巨額の政府債務で身動きが取れなくなっている日本だが、実際は柔軟に考えれば、お金はなんとでもなる。霞ヶ関埋蔵金もあるし、外貨準備だけでも100兆円あるし、日銀にあるお金も使おうと思えば使える。何か悪いことがあるのはないかと恐れていると、世界から取り残されるだけ。一刻も早い決断が求められる。

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2008年4月10日 (木)

内閣府の試算と日本経済復活の条件(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第56弾です。)

 やっと日銀総裁が決まった。日銀総裁選挙が政争の具にされてしまうような現在の制度自体、大きな問題だが、白川総裁で本当によかったのか。就任したばかりで、断言はできないにせよ、これは日本経済にとって最悪の選択だったのかもしれない。日銀の金融政策決定会合では、景気判断を下方修正し、「景気は当面減速が続く」との認識を示した。白川総裁も「当面減速が続く」という認識を示した。これは恐るべき事態である。現在日本経済は14年前から続くデフレの真っ最中にある。一人当たりの名目GDPは世界2位から18位に転落、世界の株式の時価総額に占める日本のシェアは5分の1以下に低下、経済苦が原因で自殺に追い込まれる人の数は数倍に増え、不況のために年間数千人もの人を死に追いやっているのが実情だ。

 経済が大停滞している日本で、これから、更に景気が悪くなるということだ。しかも政府・日銀は景気をよくするための努力を行わないと宣言しているのは、日本にとっては悲劇だ。白川総裁は金利を上げたくて仕方ない人のようだ。金利引き上げは、間違いなく景気を悪化させる。確かに、利子収入を増やすために資産効果で可処分所得が増え消費を増やすという効果がある。しかし、それよりも設備投資や住宅投資を減らすというマイナスのほうがはるかに大きく、結果として景気を悪くしてしまう。

 例として今年の内閣府の試算結果を引用してみよう。短期金利を1%引き上げた場合どうなるかというシミュレーションである。引き上げた1年目はそれほど大きな影響はなく、本格的に影響がでるのは2年目なので、2年目の影響を引用すると

実質GDP    0.25%減少
名目GDP    0.38%減少
消費       0.17%増加
設備投資(実質) 2.42%減少
住宅投資(自室) 0.82%減少
消費者物価    0.16%下落
国の借金のGDP比  0.93%増加

 というわけで、日本経済への悪影響は歴然としている。特に設備投資の落ち込みが厳しい。それはそうだろう。デフレで利益が上がらなくなっている昨今、融資を受けようとして銀行に行って相談しても、支払わなければならない利子がかさむと返済が大変で、そんなに儲かるわけないから、止めようということになる。当然、金利引き上げは景気を悪化させデフレを加速する。つまり、デフレ下での金利引き上げは、絶対にやってはならぬことだ。金利を上げれば消費が伸びるから景気が良くなるという馬鹿なエコノミストがいたら、その人間は経済を知らないということだ。

 しかし、日銀は失敗を繰り返す。1999年末小渕内閣の積極財政が成功し、景気がずっとよくなってきた。しかし、それでもまだデフレは脱却できていなかった。愚かにも、2000年8月11日、日銀は政府の反対を押し切って金利引き上げを強行した。その結果、景気は再び悪化し、2001年3月には再びゼロ金利に戻し日銀の愚かさを露呈した。その後現在に至るまでデフレ脱却はできていない。その失敗に懲りもせず、政府の反対を押し切って、2006年3月には再び金利が引き上げられ、現在に至っている。今回、どん底のデフレ経済が更に悪化しようとしていることは、日銀の政策が再び失敗したことを証明するものだ。金利を上げてデフレを悪化させた責任は重い。景気が過熱したらいけないから、あらかじめ引き締めを行っておくなどと馬鹿なことを言っていた。食事をろくに与えないで、栄養失調になった子どもに、肥満になるのをあらかじめ予防するために、更にダイエットを強化するようなもの。

 2005年の経済シミュレーションには、「構造改革を行わなかったら、こんなに経済が悪化する」という試算が添えてあった。構造改革の意義をPRしようとしたのだが、明らかに国民を騙す試算だ。確かに急激に経済の悪化する試算になっていたのだが、よく見ると実質長期金利が7%にまで上がるという前提になっているのだ。7%まで金利を上げれば、景気が悪くなるのは当たり前で、これは構造改革をやるかやらないかを試した試算ではなく実質、金利を上げればどれだけ景気が悪くなるかを示したにすぎなかった。
 積極財政を行えば景気は良くなるが、すぐに金利が上がって、国の利払いが増え、財政が悪化するから、景気は絶対によくしてはいけないというのが、政府(内閣府)の論理だ。しかし、日銀が金利を抑えれば、金利は上がらず、財政も改善し続けるはずだと我々は政府を追及した。内閣府の試算に従うと確実にそうなる。これには、政府(内閣府)は反論できなかった。

そこで内閣府は驚くべき行動に出た。内閣府の経済モデルを自分たちに都合の良いように変えることだった。国民を更に騙し続けるため、内部の関数を変えてきたのだ。こんなことをすれば、どんな結果でも出せる。設備投資の関数と物価・金利の関係を示す関数をメチャクチャに変えてきた。結果はどうなったか。金利引き上げの影響に関するデータで言えば、2006年の試算では1年目の潜在GDPの減少幅が0.14%であったのに、2007年では0.01に減った。なんと14分の1にまで減らしたのだ。よくやるよと、呆れて物が言えない。ここまでやって国民を騙し続けるのかと怒りがこみ上げてくる。

 つまり、2006年の内閣府のモデルでは、景気対策と金利に低め誘導で、景気は回復し、財政も健全化してしまうので、景気対策が悪いと言えなくなってしまう。そうするとそれまで行ってきた政府の政策が間違えていたことになるので、モデルを作り替えてしまったのだ。2007年からのモデルでは金利低め誘導の効果を激減させた結果、景気対策と金利低め誘導を行っても、財政健全化は最初の2,3年だけで、それ以後は財政が悪化すると主張し始めた。我々の追求が無かったらこのようなモデルの作り替えを行うことはなかっただろう。積極財政で財政が健全化することに、国民が気付かなければ、今までの政策が間違いだったことを隠し続けることができるのだから。

 新しくした2007年のモデルは、全くひどい。例えば公共投資を5兆円増やしたとき、景気は良くなるのだが、民間設備投資が大きく落ち込んで景気の足を引っ張るような仕組みになっている。特に3年目から大きく落ち込むようになっているが、そんなことはあり得ない。景気がよくなり、政府からの注文がどんどんでてきたとき、企業は一斉に設備投資を減らすだろうか。そんな支離滅裂なことを企業経営者がやるわけない。日本経済新聞社のモデル(NEEDS)でも、公共投資が増えれば、民間設備投資は増える。当然のことだ。特に建築関連の業種では、注文に応じるために設備投資を増やすし、それと同時にそれに関連した業種までもが、投資を増やし始める。

 日本経済のこと、国民のことを真に思っているのであれば、この際、過去の政策の過ちを認め、政策の大転換をすべきだ。

 これらのことを含め、宍戸駿太郞vs大田弘子大臣の公開討論会には大いに期待している。それは先月14日の予算委員会の中で総理が約束をしたことだ。総理と大臣の発言を以下に抜粋する。

○内閣総理大臣(福田康夫君) 《前半略》
 ですから、それは、そういうような今難しい時点にあるんだということ、そしてその日本を間違いなく運営していくというためには、やはりそういうような英知を集めてそして結論を出していくという、こういう作業は必要なんだろうと思いますよ。
 ですから、先生の、公開討論会というのを提案されましたけれども、そういうふうなこともやってもいいと私は思いますけどね。いろんな角度からこの日本がどうあるべきかということを検討していくいい機会というか、本当にそういうことは必要なときだと、こういうふうに私は思っております。

○自見庄三郎君 今総理が公開討論会やってもいいという話ですからね。大臣、あなた、総理大臣の麾下にあるんですからね、公開討論会やってくださいよ、いいですね。

○国務大臣(大田弘子君) 宍戸駿太郎先生のお名前はよく存じ上げておりますし、お書きになったものも拝読しております。勉強させていただきたいと思います。
 討論会、総理の御指示ということであればやらせていただきます。

 何を躊躇しているのだろうか。一刻も早く行って頂きたい。

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2008年4月 7日 (月)

労働はロボットに、人間は貴族に(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第55弾です。)

 現在の日本経済の大停滞の原因の一つは、少子高齢化の流れの中、もうこれ以上大きく経済成長することはないという間違えた考えが広まったことにある。経済成長しないのが、政府の経済政策の大失敗にあるのにも拘わらず、それに対して野党すら追及しようとしない。一人当たりのGDPが、世界第2位から一気に18位まで落ちた。一人当たりのGDPなのだから人口減少とは全く無関係なのだ。世界の株式の時価総額に占める日本の割合が5分の1に下がってしまったのも、人口減少などでは全く説明がつかない。人口が5分の1になったのではないのだから。

 人口減少社会ということで、経済成長しなくてもしょうがないという思いこみ、それに伴う悲観論、それらが急激な日本経済の没落に繋がっている。残念ながら、日本人はこれから起ころうとしている、大きな社会の変化を理解していないようなので、そのことに関して、話してみたい。

 コンピュータの進歩は目覚ましい。ムーアの法則は、チップに搭載するトランジスタの数が約二年ごとに倍増するというものである。二○○四年の四月号の日経パソコンには、森本の法則が載っていた。それはCPUの動作周波数(コンピュータの動作速度)は約二○ヶ月で二倍になり、HDD容量(コンピュータの記憶容量)は約一三ヶ月で二倍になるというもの。猿が人間に進化するのに数百万年かかった。つまり大脳の大きさが二倍になるのに、数百万年かかったことを考えればコンピュータの進歩はすさまじい。ロボットと言えば、コンピュータそのものと言っても過言ではない。従ってロボット技術の発達もすさまじい。すでにロボットは歩いたり、走ったり、片足で立ったり、ダンスをしたり、転んだとき自分で立ち上がることさえでき、簡単な会話までできる。楽器を演奏し、オーケストラの指揮までやってのける。ロボット展では、人間そっくりの案内ロボットが活躍している(下図参照)。ロボット技術は、今後驚くべき速さで進歩を続け、人間の職場を一変させるに違いない。

 今はロボットは高価だが、遅かれ早かれ、ロボットはロボット自身が自分のコピーを大量に作り始め安くできるようになる。広い工場に管理人が一人いて、他はすべてロボットという時代が来る。

 ロボット(あるいはコンピュータ)が、人間に替わって働き始めることが、遠い未来のことのように思っている人がいるかも知れない。しかし、産業用ロボットはすでに多くの分野で使われている。また実際は多くの分野で技術的にはすでに取って代わるのに充分なレベルにあるのに、充分な利用ができないでいるというのが実情である。近い将来、ロボットは人間よりも安くて質の高い労働力を提供し始める。ロボットは無給で何時間でも働く。間違わない。全く同じ仕事を何時間でも続けられるし、調子が悪くなったら取り替えればよいだけだ。

 多くの人が不安に思うのは、近いうちにロボットが人間の職場を奪ってしまうのではないかということである。自分より優秀で、丈夫で長持ちし、しかも経費的にも有利なロボットが出てきたら、経営者はきっと自分を首にしてロボットを入れるだろう。ロボット投資が伸びた後、企業に人がいらない時代がくる。大企業には大量のロボットが入れられた後、リストラの嵐が吹き荒れる。だんだんロボットが汎用的に使えるようになれば、本来中小企業で行っていたような小ロットの生産さえも大企業がカバーすることができるようになり、中小企業はバタバタと潰れていく。町には失業者が溢れ、失意の末ある者は自殺し、ある者は犯罪に走る。小さな政府を目標とする政府は、弱者を助けるための金がない。セイフティーネットと称し、職業訓練の費用は出すが、しかし、訓練してもロボットには勝てない。富は大企業を経営する一握りの人達に集中し、大部分の国民は失業し貧困に苦しむ。これは地獄の世界へのシナリオだ。

 ところが、ちょっと頭を切り換えてみよう。
労働はみんなロボットにやってもらい、人間は好きなことを、生き甲斐を感じられることをやればよいではないか。財・サービスは、ロボットが幾らでも供給してくれる。適切にお金が人間に分配される仕組みさえできればよく、人間を永遠に労働から解放し、すべての国民が豊かに人間らしく生きることができる社会を建設していけばよいだけだ。

 現在、日本の雇用者報酬の合計は年間約二六○兆円である。もし、人間の仕事の半分を行ってくれるロボットが開発できたなら、そのロボットは日本だけで毎年一三○兆円分の働きをこれから永遠にしてくれるわけである。これは人類にとって、これまでのどんな発明品よりも桁違いに価値がある物だし、これ以上の発明品は今後生まれることは無いだろう。

 次のような社会が実現したらどうだろう。つまり、「たとえ働かない人間であっても、生活できるだけのお金を与えればよい」とする社会である。もちろん、ロボットができないような、それであって生き甲斐を感じるような仕事があれば、その仕事に専念すればよい。きつい、汚い、危険という、いわゆる3Kの職場から人間は永遠に解放され、自分でやり甲斐を感じる快適、綺麗、安全な仕事(あるいは趣味)を楽しんでいればよい。働く人と働かない人が共存して生きていける社会であり、優秀なロボットが次々出現する今日、そういった社会は、失業も、老後の不安もなく、欲しいものはほぼ無制限に誰でも手に入れることができ、経済的には将来不安は一切なく、各自、自分がやりたいことを自由にやっていればよいという、まさに理想郷が実現するのである。これを『労働はロボットに、人間は貴族に』と表現しよう。

 今の政府は国の借金を返すことばかり考えている。国民などどうなってもよいのだ。このような社会の中で、ロボットがどんどん入ってきたら悲劇だ。ロボットとの競争に負けた人間は失業する。働かざる者食うべからずという考えの政府、働けなくなった75歳以上の高齢者にも健康保険料を払わそうという非情な政府。このような政府の下では、我々の未来は真っ暗だ。しかし、もし政治家達が心を改めて、十分お金を刷って国民に渡せば、素晴らしい未来が保証される。つまり、物はロボットがたっぷり作ってくれる。政府はお金を刷って、スムーズにそれを分配する方法を考えればよいのだ。インフレで苦しむのは物不足の時だ。物余りの時代は、たっぷり国民にお金を渡しても、インフレは起こらない。(小野盛司)

案内ロボット
Photo

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 4月21日の出版記念パーティ

 4月21日(月曜日)、東京にて日本経済復活の会・小野盛司会長さんと評論家の中村慶一郎氏の共著『お金がないなら刷りなさい ―米国が16兆円を刷って国民に配っているときに日本は増税かーの出版記念パーティがあります。弊ブログで小野会長の積極財政論シリーズをご愛読して頂いている読者さんも参加してくださればうれしい限りです。出版記念会詳細は上記リンクにてどうぞ。(神州の泉・管理人)

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2008年4月 5日 (土)

デフレ下で消費税増税をさせてはいけない(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第54弾です。)

 福田内閣の支持率が下がり続け、福田内閣では次の選挙は戦えないという声が上がっている。次の首相として有力視されているのは麻生太郎前幹事長であるが、彼は「中央公論」で、基礎年金部分を全額税方式に変更し、財源は消費税率を現行の5%から10%に段階的に引き上げて充てよと提案している。どのような理由であれ、現在の日本で消費税増税は経済に極めて悪い影響を及ぼすことを、日本経済新聞社の経済モデルを使って説明しよう。

 消費税を5年間、ある一定の税率に固定する場合を考えよう。図1で示したのが、消費税率を0%~11%の間で変化させた場合の実質GDPである。例えば0%と書いた線は、消費税5%であったものを0%にまでに下げて5年間(2000~2004年)続けた場合、11%と書いた線は、一番下の線であるが、これは消費税率を11%に固定したと仮定したときの実質GDPである。

図1
Gdp45 

 11%以上で計算しなかったのは、NEEDS日本経済モデルが止まってしまい計算が不能だからである。この図から、例えば16%まで消費税を引き上げると激しいデフレスパイラルに陥り、2004年度には実質GDPは480~490兆円程度にまで落ちてしまうことが予想される。一方、消費税が現状維持の5%の場合は、実質GDPはほぼ横ばいである。逆に減税して消費税率を0%にすると、実質GDPは緩やかな上昇となる。しかしその場合でも、GDPはやっと560兆円程度である。公共投資と法人税減税で50兆円規模の財政拡大がされれば、実質GDPは700兆円近くにまで上昇することを考えれば、まだまだ本格的な景気回復はほど遠い。

 図2では、各消費税率に対し物価指数がどのように変化するかを示した。消費税率を0%にしても、まだデフレは止まらない。このグラフより消費税率11%だと物価の下落率は年率約1.7%である。

図2
20001

 景気悪化は失業率の増大をもたらす。消費税10%を5年間続けると失業者は2.3%増加する。今の日本の中小企業で、売り上げの10%もの税を払える企業がどれだけあるだろう。デフレ下で、どこも儲かっていない。だから倒産は激増、恐らく経済的な理由で自殺する人は年間3000人~5000人は増えるだろう。こんなに多くの罪もない人を殺してもいいのかと麻生氏に聞きたい。

 消費税を上げると、税収が増えて国の借金が「返せる」のではないかと勘違いしている人はいないだろうか。残念ながら、経済モデルで計算すると、消費税を上げることにより、GDPが下がり、更に景気悪化で消費税以外の税収が減るために、国の借金のGDP比はほとんど変わらないことが分かる。消費税を上げると、デフレは加速し、国は急速に貧乏になっていく。貧乏になった国民に800兆円もの借金返済をさせようとしても無理なのだ。どんなに消費税を上げても決して返せないことが、マクロモデルの計算で分かる。

 日本が国の借金を返済し、国の経済を活性化する方法は一つしかない。それはお金を刷ることだ。少子高齢化で年金財政が大変だと思っているかもしれない。日本の年金制度は異常だ。国が社会保険料を取るだけで、それを貯め込んで、国民に年金として十分払おうとしない。そのため、国はなんと数年分の年金を貯めてしまった。こんな馬鹿なことをやっている国はどこにもない。まず国民に返させるとよい。

 デフレとは、経済発展のために必要に十分なお金が国民に与えられていない状態だから何らかの形でお金を国民に渡す必要がある。社会保険料の引き下げ、減税、歳出拡大など様々な形が考えられる。財政赤字を拡大させれば、国民の側では、黒字が拡大することになり、経済が諸外国並に発展が可能となる。通貨管理制度の下では、日銀は国債を買い取る形で通貨を発行でき(つまり国の借金を日銀が買い取ることができ)その買い取り額は無制限である。国の経済が発展すれば、円の信用も増してくる。緊縮財政を続けて、経済を没落させれば、円の信用も落ちてしまうのだ。(小野盛司)

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2008年4月 4日 (金)

清和会の手綱は誰が握っているのか

 先ほど、弊ブログのある読者さんからメールがあって、今発売中の男性向けファッション雑誌「BRUTUS」4/15を読んでみた。ここに「日本経済入門」が特集されていて、冒頭記事にビートたけし氏の経済学者に対する論評が載っている。この内容は特に紹介するようなものではないと思うが、一ヶ所、植草さんについて看過できない表現があった。植草と言う名指しこそしていないが、明らかに彼を嘲笑、侮辱した表現がされている。ビートたけし氏によれば、今の経済学者は未来予測として景気動向がまったく読めておらず、予測で儲けた経済学者など聞いたこともない、彼らは地味で貧乏の部類に属する。問題はそういう論評に以下のことが付け加えられていることである。

 『こういう経済学者が何をするかというと、せいぜいが手鏡で女子高生のスカートを覗くとか。経済学者のチカン行為には要注意である。』(P023原文のまま)

 明らかに高名なタレントが「植草さん有罪論」を唐突に補強している。しかもビートたけし氏は、昨年の「週刊ポスト」3月2日号「ビートたけしの21世紀毒談 第875回」というコラムでも、“本物の電車で痴漢ができるんなら、幾ら払ったっていいっていう人もいっぱいいるよ。あの植草センセイも絶対に喜ぶぜっての”という悪意の記事を書いているのだ。植草氏を国策捜査に嵌めた首魁たちは、マスメディア報道のみならず、時間を置いて高名なタレントたちに、植草氏有罪論をさりげなく語らせて国民に刷り込みを行なっているのではないだろうか。この役目を担っているタレントには、ほかにテリー伊藤氏、宮崎哲弥氏、爆笑問題の太田光氏等がいると思われる。つまり、植草氏は小泉政権官邸筋、警察、検察、裁判所、週刊誌などの大衆メディア、そして故意に動員された有名なテレビタレントたちにまで包囲されているのだ。この規模、この徹底性、これが謀略でなくて何だろうか。

 植草氏を国策捜査に嵌めた首魁たちとは何を指しているのだろうか。最初に考えられることは当然ながら、植草さんによって、その政策が根底から間違っていることを指摘された小泉政権官邸筋が考えられる。しかし、そうは言っても、まだ漠然としている。植草さんの緊縮財政批判論や竹中平蔵氏の牽引した金融再生プロジェクト批判などを勘案すれば、彼は明らかに歴代政権のマクロ政策トレンドに真っ向から対立した立場にある有識者であり、知名度が高い人である。国策トレンドの転換に伴って、植草さんが最も邪魔者だという認識を持つパワーエリートとは何であろうか。それは清和会である。

 現総理である福田康夫氏の出自は町村派(清和政策研究会)である。振り返ってみると、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、そして福田康夫と四代続けて町村派から首相が出ている。ところで、森喜朗氏はあの有名な「神の国」発言をしたが、彼は神道政治連盟(神政連)であり、神道への回帰を訴えている。一方、安倍晋三氏は「美しい国へ」という著書を出し、日本回帰という基調精神を訴えた。小泉純一郎氏は特攻隊員の遺書に涙し、靖国神社を公式参拝した。では福田康夫氏の日本に対するメッセージはと言うと、特に言うようなものはないが、清和会は彼の父の福田赳夫氏が創設した政治研究会である。

 そこで、この四代にわたる清和会歴代政権に顕著に共通するものは何か。それは徹底した対米隷属であるということだ。特に小泉政権以後はメディアは完全に与党に掌握された形となっている。植草さんの捉え方を参照すると、ネオリベ政策まっしぐらで格差拡大を増強し、旧田中派の牙城である郵政、道路、住宅金融公庫等の民営化を進めた。植草さんは民営化することで利権構造が社会の見えない部分に潜在化したと言っている。このために国民には利権の動きが見えにくくなった。この動きの背景にはアメリカがいる。福田総理の父である福田赳夫氏のボスは極東国際軍事裁判で免責された岸信介元首相であり、この時期から対米隷属構造は出来上がっていた。東京裁判史観とは対米隷属史観のことである。

 植草さんによれば、過去20年間、米国が熱い情熱を傾けていたのは1500兆円に及ぶ日本の個人資産の獲取であり、郵政民営化はその最大の結実であったと言う。彼の読みによると、2010年までは米国にとって、日本は大きな果実の収穫期に入り、これが終わるまでは超親米的な政権が継続するという。私もこの読みに賛同する。もし、民主党に政権交代が起きても、米国の対日姿勢に大きな変化が起こるとはとても思えない。左翼と保守が徒党を組み、凌雲会が恒常的に反動勢力となっている民主党は屋台骨が常にぐらついている。この思想なき党に米国の対日工作がまともにかかったらひとたまりもないだろう。唯一の希望は平沼さんを中心とする郵政造反組の躍進である。

 冒頭に説明したように、植草さんは国家組織や大衆メディアに包囲されている。それらを裏からコントロールしている首謀が清和会と無関係ではないと言えるだろうか。少なくとも郵政民営化選挙を見る限り、メディアは彼らに掌握されているように見える。彼らのそのような買弁姿勢を見れば、植草さんを目の上のたんこぶとして考えたとしても何ら不自然なことはない。彼らは日本を対日「年次改革要望書」に従って改変し、富の極端な傾斜配分(超格差社会)を行い、国富を米国「奥の院」に貢ぐシステムを構築した売国勢力たちである。風の噂では、シティバンク・グループは巨大な郵貯銀行のM&Aを狙っていたと言うが、これがサブプライム・ローン問題の波及で一時的に頓挫している状況にある。しかし、後を追う巨大国際金融資本はあるだろう。今の米国の金融危機を一つの神風として、政府が保有する持ち株会社日本郵政の株式や、日本郵政が持つゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の株式の売却を当面凍結することが焦眉の急であろう。

(参考:週刊金曜日 2007年No.673  私たちの個人資産を米国に売る「町村派」植草一秀)

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2008年4月 3日 (木)

名無しさんのコメント

彼ら=新自由主義者が良く使うのは、可処分所得が減っても消費は減らないって言う理論なんですね。
テレ東のWBSでフェルドマンなんかが良くそう言ってますね。
だけどそれはおかしい。
例えば、耐久消費財で代表的な新車市場を見てみますと90年代半ばに700万台のピークに
達した後は減少の一途を辿っています。
特に小泉後の落ち込みは激しいですね。
車種でも軽やコンパクトカーしか売れませんし。
昨年あたりからその軽でさえ売れなくなりましたからね。
可処分所得が減って、しかもデフレ期待がある時に人間は消費を増やしたりは決してしませんよw
支配層や役人やマスコミは貧乏生活の経験がないんでしょうw
心理学的に言っても相当無理のある理論だと思いますね。
たぶんお気楽な米国人のモデルをそのまんま日本に持ち込んだんでしょう。
だけどその米国でもサブプラ問題で個人消費が落ち込みそうですしねw
慎重で不安症が多い日本人に米国人の経済モデルを持ち込む事自体無理があり過ぎますね。
役人や政治家やマスコミも分かっててやってる節がありますね。
彼らの目的は日本経済の弱体化なんでしょうかね~。
第一デフレではどうあがいても増税以外に税収の自然増は見込めませんし、貨幣価値も上がる一方ですから実質的な借金は増える一方なのにね。
彼らの本当の目的が何なのかは私も知りたいですねw
とにかく解散総選挙でこの流れを変えるしかないですね。
国会議員と言っても落選しちまえばただのプー太郎ですからねw
自民清和会や民主凌雲会には票を入れない事、造反組や新党に票を入れる事、それが出来ない選挙区では共産や社民にでも投票すればいいんじゃないでしょうかね~。
そうすればいい加減米英資本もあきらめるでしょうw
本社自体が大変ですからねw
とにかく我々はあきらめないでしつこく抵抗しなきゃなりませんね。
害人が日本株を売るんなら買い戻せばイイ事ですしね。
途上国とは違って自国に資金が無いわけじゃ無いんですから。
自国の資金が故意なのか、馬鹿なのかは知りませんが誤った経済政策で海外流出してるのが問題なんですからね。
今回のサブプラ問題は、新自由主義の流れを改めて内需拡大路線に転換するいい切っ掛けだと思っております。

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2008年4月 2日 (水)

内閣府の経済モデルは過去の日本経済を説明できるのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第53弾です。尚、この記事は前掲記事コメントの渡久地明氏の質問に答えたものです。)

 内閣府のモデルは過去にさかのぼって現実経済を説明できるかどうかという検証はやっているのかという質問が読者から寄せられたので、それについて書いてみます。

 内閣府では1985年~2000年までのトレンドに合わせる形で均衡値を求め、それに合うようなモデルを作ったとのこと。つまり7割までがデフレ期間のトレンドを使っていて、これから永遠にデフレが続くのならどうなるかという予測ならできるのかもしれません。景気刺激をしても経済は伸びないように、細工がしてあります。彼らははっきりと新古典派だと言っています。これはフル操業、完全雇用の経済学です。

 彼らの考えている日本経済の現状は「超好景気」で、どこの会社も応じきれないほどの注文が来ている。だから、皆さんが家を建てようと思っても、それを受けてくれる会社はどこもない。もしも、政府が公共投資を減らせば、建築会社は人をマイホーム建設に回せるだけの余裕がでてくる。だから、住宅投資が伸びてくる。結局公共投資が減った分、他が増えるからGDPは減らない。つまり予算をいくら削減しても「超好景気」の状態は続いていくというもの。

 こんな馬鹿な経済モデルを使って国の経済政策を決定している国は日本だけであり、日本は世界の笑いものです。例えば日経新聞社のNEEDS日本経済モデルだと、過去の経済データをどれだけ正確に再現できるかをテストして公表しています。きれいに再現できていますし、そうでなければ、誰も日経にシミュレーションを頼まないでしょう。内閣府は過去の経済データを再現できるかどうかを公表していません。それをやればどれだけひどいかを暴露してしまいますから、絶対にやりません。

 マクロ計量モデルの専門家は皆さんよく知っておられます。内閣府のモデルがインチキだということを。でも、多くの方々は、財務省から委託を受けてシミュレーションをやっていますから、内閣府のモデルをあからさまに批判できない立場にあります。しかし、彼らのインチキモデルでも公共投資を増やせば、GDPは増えるし、デフレは脱却できるし、失業者は減るし、少なくとも最初の2~3年間は国の借金のGDP比が減って財政が健全化するのです。これだけでも、十分積極財政を支持する理由になります。3~4年以降、国の借金のGDP比が増えるかもしれないということが、唯一の懸念材料ですが、彼らのシミュレーションの説明書きの最初に次のような事がはっきり書いてあります。

 試算は誤差を伴っており、相当な幅をもってみるべきである。また、先の期間になるほど、不確実な要素が多くなることに留意が必要である。

 つまり、最初に2~3年は信頼できるが、それ以降は信頼に値しないということです。それはそうでしょう。2~3日までの天気予報は当たることが多いが、それ以降は当たらない確率がずっと増えるでしょう。それと同じです。彼らは新古典派の「完全操業・完全雇用」という考えを日本にあてはめて、無茶苦茶な論理で3~4年後に財政が厳しくなるという間違った結論を強引に引き出しています。しかし、内閣府のホームページにもそれが間違いだという論文が少なくとも2つ掲載されています。

 内閣府のモデルがおかしいと何回も質問主意書で質問しました。首相の答弁は毎回、「試算には相当の誤差を伴っているから」と言うだけで議論は一切拒否します。

 経済モデルの質を評価するのに、決定係数(R2C)を比べるという方法があります。これはどれだけ関数が過去のデータを忠実に再現できるかを示しています。例えば、内閣府(2005)で発表されたシミュレーションを例に説明してみましょう。これはその後の内閣府のものと構造は余り変わっていません。例えば住宅投資の方程式を見るとR2Cの値は僅か0.068014である。R2Cの値は1に近ければ近いほど信頼度が増すのであり、このようなシミュレーションで使うには0.8以上であるべきであるとされている。0.06という途方もなく信頼度の低い方程式を使ったシミュレーションを発表することは、内閣府の信用を著しく落とす。ちなみに経済企画庁(1995)では住宅投資の方程式のR2Cは0.926となっている。住宅投資以外の方程式も実にお粗末だ。各方程式のR2Cの値の分布図を図1で示した。0.1以下という無茶苦茶な方程式が3つもあり、それがしかも住宅投資や消費関数など極めて重要な方程式であるというのだから、このシミュレーションは重大な欠陥を持っている。

図1
21

 比較のために図2で経済企画庁(1995)のシミュレーションで使われた方程式のR2Cの分布を図2で示す。大部分の方程式のR2Cは0.9以上であり、最低でも0.5以上だから、その差は歴然である。内閣府(2005b)のシミュレーションがこれだけお粗末な結果であったということは、その職員の怠慢さを示しているというわけではなく、根本の仮説が間違えていたということである。つまり、内閣府(2005)のシミュレーションが失敗した原因は『1%需要が伸びると、生産部門の多くで供給が追いつかなくなる。』という仮説が間違えていたということにある。これは潜在GDPを低く見積もりすぎたということである。1%注文が多く入るようになったとき、生産が追いつかないという会社がどれだけ現在の日本にあるだろうか。極めて少ないだろう。このシミュレーションで使われた方程式のR2Cの値が極めて低かったことは、内閣府の経済モデルで使われた低い潜在GDPの仮説が正しくないということを意味している。日本の経済状況を説明できるモデルではないということが確認されたわけである。(小野盛司)

図2
1995

( 内閣府(2005) 日本経済中長期展望モデル(日本21世紀ビジョン版)資料集 平成17年4月内閣府計量分析室 経済企画庁(1995) 第5次版EPA世界経済モデル-基本構造と乗数分析-)

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2008年4月 1日 (火)

国民はいつまで騙され続けているのか-内閣府が乗数表を公表-(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第52弾です)

 先週の金曜日(3月28日)、内閣府は彼らの経済モデルの乗数表を発表した。これは彼らの経済モデルの中身を知る上で極めて重要なものだ。デフレの時に、緊縮財政をやって成功した例は無い。それどころか、世界大恐慌や昭和恐慌など、経済政策の大失敗はデフレのときの緊縮財政によって引き起こされている。長期にわたる平成不況での日本経済の没落の程度は世界大恐慌や昭和恐慌以上のものがあり、極めて深刻であることを多くの国民は気付いていない。

 デフレ下での緊縮財政の理論的な根拠を与えているのが内閣府の経済モデルであり、今回、内閣府の以下のホームページで発表となった。
http://www5.cao.go.jp/keizai3/econome.html


 しかしながら、これは、国民を騙すために作られていることが一目瞭然だ。例えば公共投資を5兆円削減したらどうなるかという試算がある。道路や橋の建設どころか、修理さえできなくなるといった不便以上の害をもたらす。内閣府の試算では、5兆円の削減により名目GDPは約7兆円も減少するし、可処分所得は約1.4%減る。消費者物価も約1%下がりデフレは悪化する。そういった悲惨な結果だけを示したのでは、国民に公共工事の削減を納得させることができないから、公共投資を削っても景気は悪くならないような経済モデルを作れと言われているのだろう。上からの命令なら、そんな馬鹿なことはできないなどと言っていられない。苦肉の策として、彼らが選んだ方法は、収入が減って、不況になっても、国民は消費を増やし、住宅をどんどん買い出し、企業は設備投資を増やすだろうといった現実離れした「仮定」を、彼らの経済モデルに組入れることだ。

 信じられますか。景気が悪くなり、収入が減って、デフレが進行すれば、国民は消費を増やし、マイホームを建てる人が増えるのだそうですが。それはあり得ないと思い私は内閣府に電話して聞いてみました。答えは、金利が下がるので買いやすくなるのだそうだ。でも長期金利は物価の値下がりの半分以下。実際デフレになったら、実際の新着住宅着工戸数は下図のように激減している。彼らの嘘は明らかだ。

 内閣府の人は、デフレが進行すれば年金生活者がどんどん消費してくれるのだとも言った。年金が減らないから相対的に物を買いやすくなるとのこと。年金は物価にスライドするはずだと言うと、1.75%の下落幅まではスライドさせないとのこと。しかし、物価の下落以上に可処分所得が下がっているので、すべての年齢層では消費は減るはず。

 国の借金が減れば、将来の増税が遠のいたと国民が信じるから、そのために消費を拡大し始めるのだという珍説まで教えてくれた。新古典派とよばれる学派の怪しげな説を彼らの経済モデルに取り入れたのだそうだ。そんな馬鹿な話はない。だって、国の借金は減るどころかどんどん増えている。借金のGDP比でも最初に1,2年は増えている。彼らの欺瞞的な裏工作によって強引に3年以降減るようにしている。国の借金のGDP比が減れば、新設住宅着工件数が増えるのですか。住宅を新築しようと決心した理由は何ですかとアンケート調査をしてみるとよい。国の借金は増えたが、GDP比では減り始めたから、新築することにしたと答える人は皆無だろう。

 例えば、昨年度は国の借金のGDP比は下がった。しかし、ほとんどの国民はこの事実さえ知らないだろう。ましてや、このことが将来の増税の有無と、どう関係するのかどうかなど、考えたこともないだろう。新古典派の学説は机上の空論だ。実際、国の借金のGDP比が下がったことは、マスコミにはほとんど取り上げられなかった。

 金利もおかしい。公共投資5兆円削減で、短期金利が初年度0.55%、次年度0.74%下がるというのだ。現在が0.5%だから、それは金利がマイナスになることだからあり得ない。それに対する内閣府の答えは次のようだ。

「今は好景気だから(え!ほんとうに!?)現在の政策が続けば金利がどんどん上がっていく。その上がった金利に対して初年度0.55%、次年度0.74%下がるということだから、マイナスにはならない。」

 内閣府が如何に現実離れしてしまったか分かるだろう。今日の日経新聞には次のように書いてある。この1年で日経平均は27.5%下落、時価総額は163兆円下落、時価1兆円を超える企業は3割減少、長期金利は1.650%から1.275%に下落。世界の中で日本経済が急激に没落を続けていることが分かる。どこが好景気なのだろう。

 私は、声を大にして言いたい。どうして、こんな無茶苦茶な経済モデルに騙されなければならないのか。公共投資を減らすことは、日本に、また日本国民に、なんの利益をもたらさない。それによって国も国民も貧乏になるし、貧乏になった国民から金を巻き上げても膨大な国の借金は返せるわけがない。国の借金を返す唯一の方法は、国民に経済活動を行うための十分なお金を渡し、国を豊かにすることだ。(小野盛司)

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 4月21日の出版記念パーティ

 4月21日(月曜日)、東京にて日本経済復活の会・小野盛司会長さんと評論家の中村慶一郎氏の共著『お金がないなら刷りなさい ―米国が16兆円を刷って国民に配っているときに日本は増税かーの出版記念パーティがあります。弊ブログで小野会長の積極財政論シリーズをご愛読して頂いている読者さんも参加してくださればうれしい限りです。出版記念会詳細は上記リンクにてどうぞ。(神州の泉・管理人)

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植草事件、浮かぶ疑念

 ○謀略の可能性を検証する必要がある

  植草一秀さんが遭遇した2006年9月13日の京急電車における事件は、政治的謀略によるでっち上げ、すなわち時の政権筋が絡み、官憲ぐるみで行なわれた偽装事件であったと私は確信する。しかも、第一審の判決も、控訴審における控訴趣意の即時却下も、最初から植草さんを有罪にするための偽装裁判の様相がすこぶる濃い。そしてこの話は2004年4月8日の品川駅構内の事件にも共通して言えることである。官邸筋、警察、検察、裁判所が心を一にして、一人の良心あるエコノミストを犯罪者に仕立てている。今の日本は良心的な有識者がむごい目に遭う閉塞した時代となっているようだ。政治中枢に新古典主義というなかばイデオロギー化した経済思想が浸透したために、国家機関に正義が働かなくなってきている。

 私も植草さんの書いた「知られざる真実_勾留地にて_」を読むまでは、彼を典型的なケインジアンだと考えていた。しかし、彼の経済学の来歴を見て驚いたが、植草さんのベーシックはマネタリズムなのである。なんとそれは、関岡英之さんや自見庄三郎先生が忌み嫌う新古典派の代表格・ミルトン・フリードマンが創設した貨幣数量説による通貨政策重視の捉え方なのである。植草さんは当時、鈴木淑夫氏のマネーサプライ論等を読み、影響を受けたと書いている。また、レーガノミクスを再検証してその有効性を見出したとも書いている。植草さんをあえて分類すると「小さな政府」論、規制改革、自己責任論を重用する一派である。そうであるならば、基本的には小泉・竹中構造改革路線と整合する考え方であると思うが、彼は小泉構造改革を徹底して弾劾した。なぜだろうか。それは小泉政権が一貫した政策を取らず、口先では官僚悪玉論を唱えながら官僚利権構造を温存したからだ。そしてりそなにまつわるインサイダー取引疑惑を見抜いたからにほかならない。私は、植草さんが最初に取り掛かったベーシックな経済理論がマネタリズムであったとしても、その後、然るべく思想的変遷を経てフリードマンを脱し、J・M・ケインズの流れに属する積極財政論者になったと思われる。そう捉えないと私のレベルでは理解不能である。

 さて、話を京急事件の公判に移す。一審の第二回公判に、痴漢を目撃したと証言するT証人が出てきた。T証人は、約二分間の犯行を逐次見続けていたという。私にはT証人のその『行為』『様態』の方がはるかに不自然なものを感じる。考えていただきたいのは、映画『それでもボクはやってない』のシチュエーションとはまったく違っていて、当時の車内はすし詰めではなく、乗客各自は肩が触れ合う程度の混み具合であり、随意に移動できる状況にあったわけである。

 そもそも、ここには二名の行動様態の不自然さが見られる。一人は被害者と称する人物であり、もう一人は犯行を逐次目撃したと証言したT氏だ。この両者に対し、常識的に考えて、一つの強い疑念が浮かばないだろうか?それはこの両者が結果的に、約二分間の犯行に対して、何ら積極的な回避行動、及び制止行動を行なっていないということだ。みずから積極的に動かないことを不作為と言うが、私にはこの二人の不作為が最も異常に感じるし、そこにはある種の共通性があるようにも見える。

 具体的に言うと、2分間、被害者は被害が進行しているにも拘らず、回避行為を行なっていない。T証人は、たとえ本人の感覚的な経時記憶だったとしても、その約2分間は痴漢の進行を結果的には漫然と見ていたのである。なぜ彼は制止行動を取らなかったのか。証言によれば、被告が暴れたりしたら嫌だなということと、たとえ加害者に注意しても、被害者がさわられたことが恥ずかしくて自分に賛同してくれない場合をおそれたと言っている。加害者が凶器を持っていることを想定すれば、万が一の凶行を恐れることはあるかもしれない。しかし、T氏はその可能性を考えると同時に、女性が恥ずかしくて自分の助力に賛同してくれない場合も心配している。私には、この二つの心配を同時に抱くことについては心理的な整合性を感じられないのだが、いかがだろうか。(参照:第二回公判速記録の412~437)

 暴れられることを恐れるのは、自分や周囲に対する肉体の危険である。一方、女性が賛同しない場合の恐れは自分が困った立場になるという不安である。この二種類の不安心理が同時に湧き起こっていたことが、彼の義心による制止行動を抑止したいうことだが・・。私には後者の女性が賛同しなかった場合の心配は、加害者が暴れることの想定とは、あまりにもギャップがありすぎるように感じる。男は女性を助けたいと思う時は、自己の恥や面目を超えて可能な限り早く助けたいと思うのではないだろうか。ましてや痴漢している者に対する怒りが出ている場合は、女性の賛同云々などに気持ちはいかないと思うのだがいかがであろうか。痴漢加害者が暴力をふるうという想定はありうることだが、女性が賛同しなかったらどうしようかという消極的な想定は普通しないのではないだろうか。これらが併存する心理状態は考えにくい。公判録を読み返してみて、私はこれらの証言について非常に違和感を覚えるのだ。

 さて、T証人と被害者女性の不作為性について一考する。充分に移動可能な車内状況にあって、被害者は避難行動を取っておらず、目撃者は周囲の協力も得られたはずなのに約2分間、その犯罪を黙ってみていた。私は両者のこの不作為に共通した偽装性を感じ取る。つまり、ひとつの作業仮説として考えられることは、犯行そのものが存在せず、あらかじめ仕組まれていた偽装犯罪だったという仮説である。これを裏付けるものとして弁護側目撃証人の存在はきわめて大きい。謀略の可能性を念頭に置いて事件を検証するべきだ。

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2008年3月30日 (日)

どうやれば「お金を刷る」ことができるのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第51弾です)

 4月中旬に、次の書籍が出版される。

 『お金がないなら刷りなさい ―米国が16兆円を刷って国民に配っているときに日本は増税かー』 小野盛司、中村慶一郎著、ナビ出版

 時々質問を受けるのは、お金を刷るということは、どういうことかということである。ここでは比喩的に言っているだけで、実際に輪転機を回して刷るということではない。現在、紙幣はお店で物を買うような少額の取引に使われるだけで、大部分の取引は銀行振り込み等で行われており、紙幣は使われていない。いくら紙幣を刷っても、国民に使ってもらえないのでは、何にもならない。

 最も直接的には、政府が紙幣(政府紙幣)を印刷して使うことだが、それでは景気対策に役立たないような法律ができている。今、衆参ねじれ現象の時、このような制度変更の法律を通すのは至難の業だ。

 単純に、新規国債発行額を増やし、お金を手に入れ、それを減税や歳出拡大で国民のために使った場合どうなるのか。この効果に関する政府の予測は、多くの民間シンクタンクの予測と一致する。つまり、景気は良くなり、GDPが拡大し、税収が増え、デフレ脱却が可能となり、国の借金のGDP比は減っていくというもの。つまり財政は持続可能なのだ。一見、国の借金は増えたように見えるのだが、GDP比で見たときに減っていれば、実質借金は減ったのだ。実質減ったということは、実質借金を返したことになる。

 つまり、国はお金を国民のために使った。それによって実質借金が減った。どこからお金が出てきたのかと言えば、事実上国がお金を刷って国民に渡したということに相当するということだ。GDPが増えること自体が実質「借金を返す」ことに相当している。もちろん、国民は将来税金で借金を返す必要はない。

 将来、デフレ脱却ができて、金利が上がってきたら(つまり国債が値下がりしたら)どうするかということだが、日銀が買い支えればよいだけだ。日銀が国債を買えば、お金が日銀から出ていく。これは日銀によって新たにつくられたお金(刷ったお金)であり、経済の拡大を可能にする貴重な成長通貨である。昨日(3月29日)の日経新聞に英国エコノミストのスティーブン・キング氏がアメリカに対し消費刺激のために特別国債の発行を提案している。つまりFRBが全額引き受ける国債をアメリカ政府が発行し、個人向け減税をせよということ。

 日本はアメリカよりはるかに経済状態が悪いのだから、日銀の国債引き受けをやってもよいくらいだが、それをする必要はないのだ。現在、政府が国債を売り出したとき、国債の予定発行額を応募額が大きく上回っており、市中への消化に不安は無い。本当に不安であれば、国債の買い入れの「お得意様」であった郵便局を民営化することはあり得なかっただろう。市中消化に不安がでてきたら、日銀が市中から国債を買い入れればよいだけであり、国会の承認が必要な国債の日銀引き受けをする必要は無いのだ。

 結論から言えば、景気対策をして国民のために政府がお金を使った瞬間が事実上お金を刷った瞬間であり、返す必要が無いお金を受け取るのに、なぜ国民が反発する必要があるのだろうと考えるのである。減税が大嫌いで、自分はどうしても増税でなければ困るという人にまで減税を強要するつもりはない。増税がそんなに好きなら、どうぞ、2倍でも3倍でも自主的に税金を多く払って下さいと言いたい。しかし、日本の将来を真剣に考え、我々の次世代、次々世代に貧乏生活を強いることはできないと考える人であれば、是非国の借金を実質的に減らすために、減税を含む積極財政を受け入れていただきたい。(小野盛司)

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2008年3月28日 (金)

積極財政に関する質問に対する福田首相の答弁書(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第五十弾です)

 先週の水曜日に提出した質問主意書に対する福田首相の答弁書が本日届いた。質問は、

 政府発表の試算「進路と戦略」によれば、積極財政によって成長が加速され、失業率が下がり、デフレ脱却が可能となり、しかも財政が健全化するとなっている。それでも積極財政を否定するのか。それはこの試算が誤差が大きすぎて使い物にならないということか。そうであれば、そのような試算を基に歳出削減や増税を国民に強要するのはおかしい。

という内容であった。

 それに対する福田首相からの答弁では、なんと「積極財政を否定」の意味が必ずしもよく理解できないと言って逃げた。こんな易しい言葉の意味が分からないとは何と言うことか。その次の行以降に書いてあることは、この質問とは全く関係ないことだ。国民を馬鹿にするなと言いたい。

 このやり取りで分かるように、積極財政によって成長が加速され、失業率が下がり、デフレ脱却が可能となり、しかも財政が健全化するという試算結果を政府は発表していることは確認された。それに対し、積極財政のどこが悪いのかという議論を政府は全くできないことがこの答弁書で明らかになった。

平成二十年三月十九日提出
     積極財政に関する質問主意書
                         提出者  滝  実

 1月17日に経済性諮問会議から提出された「日本経済の進路と戦略」(以下「進路と戦略」が内閣府の名で発表されている。ここで成長シナリオケースAと成長シナリオケースBの比較が示されている。歳出削減幅がケースAでは14.3兆円、ケースBでは11.4兆円ということであるから、相対的に言えば、ケースAが緊縮財政、ケースBが積極財政と見なすことができる。両者を比べると別表のようになり、この3年間では積極財政のほうが、緊縮財政よりも、成長率が高まり、デフレ脱却へ大きく前進し、失業率も減り、しかも国の債務のGDP比は減少し、財政は健全化し持続可能となっている。つまり、積極財政のほうが、緊縮財政よりもあらゆる面で良い結果を導くということは、明らかであり、政府の行っている緊縮財政は全く正当化されない。

 2012年度からこのモデルでは債務のGDP比が逆転する可能性があったとしても、それが積極財政を否定する理由にはなり得ない。なぜなら2012年以降となるとモデルの精度が著しく悪くなるからである。例えば、2007年1月に発表された「短期日本経済マクロ計量モデル(2006年度版)の構造と乗数分析(ESRI Discussion Paper Series No.173)」と平成19年3月に内閣府計量分析室で出された経済財政モデル(第二次改訂版)で乗数を比べてみる。公共投資をGDPの1%相当継続的に拡大したとき、名目GDPの増加は1年目は両モデルの差は2.5%だが、3年目となると38.5%と飛躍的に拡大するのであり、2012年度の精度は極めて悪いと考えるべきである。つまり積極財政を否定することは無理だと言うべきである。そこで質問する。

一、積極財政を否定するのは「進路と戦略」はすべてが誤差が大きすぎて使い物にならないという理由からか。そのような信頼性に欠くモデルで歳出削減や増税を国民に強要すべきではないのではないか。

328

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

内閣衆質一六九第一九八号
    平成二十年三月二十八日
                    内閣総理大臣 福 田 康 夫

衆議院議長 河 野 洋 平 殿

衆議院議員滝実君提出積極財政に関する質問に対する答弁書
一について

 御指摘の「積極財政を否定する」との趣旨が必ずしも明らかではないが、政府としては、我が国の極めて厳しい財政状況を放置すれば、財政の持続可能性に対する疑念の高まりが経済成長自体を阻害するおそれがあり、財政再建がなければ持続的な経済成長も実現しないとの考え方に基づき、「経済財政運営と構造改革に関する基本方針二〇〇六」(平成十八年七月七日閣議決定。以下「基本方針二OO六」という。)及び「経済財政改革の基本方針二OO七」(平成十九年六月十九日閣議決定)において、歳出・歳入一体改革を実行するとしたところであり、その実現に向け、正面から取り組むこととしている。

 なお、御指摘の「日本経済の進路と戦略―開かれた国、全員参加の成長、環境との共生―」(平成二十年一月十八日閣議決定)の参考試算においては、基本方針二〇〇六の別表に示された十四・三兆円の歳出削減の考え方に対応するケースと、十一・四兆円の歳出削減の考え方に対応するケースを想定しているところである。

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出版記念パーティーの開催(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十九弾、特別篇です)

出版記念パーティー開催のお知らせ
            ―経済成長を加速するシナリオを語ろう-
                   ご案内

 謹啓 時下 益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
最近は、マスコミで日本経済の没落が話題になっております。一人当たりの名目GDPが世界第2位から18位へ、世界のGDPに占める日本のシェアが半減、世界の株式の時価総額に占める日本の割合は実に5分の1にまで縮小し、名目経済成長率では、日本は世界最低で、しかも他から大きく引き離されています。この状況に我々は大変な危機感を持っております。アメリカやフランスは、お金を刷って景気対策として国民に配っているときに、なぜ日本は増税しか話題にならないのでしょう。
日本経済の復活のための具体案を示すために、この度

『お金がないなら刷りなさい 
― 米国が16兆円を刷って国民に配っているとき、日本は増税か!-』

を出版します。
 つきましては、八方塞がりの日本経済を救い、経済成長を加速するシナリオを語るために、パーティーを下記日程にて執り行います。どうぞ万障お繰り合わせの上、ご出席下さいますようお願い申し上げます。

                                        謹白

平成20年3月27日     
                             日本経済復活の会
                             会長  小野盛司
                              

日時 平成20年4月21日(月) 

祝辞・講演 18:00~18:45

中川秀直前自民党幹事長
小野盛司(日本経済復活の会会長)
Photo_2 

中村慶一郎(政治評論家)、その他
Photo_3


○懇親会 18:45~20:45

場所 星陵会館
   〒100-0014 東京都千代田区永田町2丁目16-2 星陵会館4F
   TEL 03-3581-5673
421

会費 六千円(本進呈/飲食すべてを含みます)
   会費は当日会場でもお受けしますが、事前にお振り込みいただければ幸甚です。

お振り込み先 :みずほ銀行 動坂支店 普通預金 8027416 日本経済復活の会

事務局所在地 東京都文京区本駒込3-17-2 (〒113-0021)
電話 03-3823-5233 (担当 小野)  FAX 03-3823-5231

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2008年3月27日 (木)

景気悪化を放置する政府(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十八弾です)

 3月24日に内閣府と財務省が発表した1-3月期の法人企業景気予測調査によると、大企業全産業の景況判断指数は-9.8ポイント下がり、04年の調査開始以来で最悪の水準となった。円高、株安、原材料高、住宅不況、米国不況など、様々な逆風の中、衆参のねじれ現象で政治はマヒ状態であり何も決まらない状態が続いている。

 正常な経済政策の知識を政府が持ち合わせていれば、もちろん緊急経済対策として大規模な財政出動を打ち出すところだ。しかし、何も出てきそうもないということは、日本はこれから、恐ろしい経済低迷期に入ってしまうことを意味している。昨日(3月26日)は、第50回の日本経済復活の会の定例会があった。60名もの参加があり、会場は熱気であふれていた。日本経済をなんとかしなくてはという多くの方々の思いの表れだろう。近く、宍戸駿太郞vs大田弘子大臣の公開討論会が開かれることが決定しており、宍戸駿太郞氏の講演に多くの人が注目したのは当然と言える。この日の宍戸氏の講演の一部を紹介する。

 1989年、ブッシュ大統領の父親が来日し、海部内閣に圧力をかけ、10年間で430兆円の公共投資を約束させた。これはアメリカが日本にかけた圧力である。アメリカは日本との貿易不均衡を是正させるために、日本が輸出産業ばかりを伸ばすのでなく、内需を拡大し、産業構造を外需依存から内需中心の産業への移行させようと考えたのである。日本政府は一旦約束したものの、内需拡大の効果もなく、財政赤字が拡大するだけだという理由から3年後には約束を破棄した。その後日本経済の急激な没落が始まるのである。もしも、この約束を日本政府が忠実に守って内需拡大を行っていたらどうなっただろうというのが、宍戸氏のシミュレーションである。計算はかなり大がかりなものであり、産業を81部門に分類し、1973年~2003年の間の30年間の経済データが再現できるように経済モデルをつくり、それを基に部門ごとの詳細な予測を行っている。

 現実には、430兆円の公共投資は行われず、平成大不況に陥ったのだが、もし公約通り公共投資が行われていたら、このような大不況は生じず、正常な景気回復パターンとなったはずだとこのモデルは予測する。約束が守られた場合は、現実の場合に比べ、2003年には実質GDPが11%増加し、名目GDPも14%増加する。失業率も1%ポイント改善する。景気がよくなるため、税収が増え、現実の場合より国の借金も20%少なくなる。

 こういった結果を基に、政府の過去の判断が正しかったのかを考えてみよう。430兆円の公共投資の約束は日米構造協議で行ったもの。アメリカからの圧力で、約束させられたものだ。こういった圧力への日本人の抵抗は強く、「NOと言える日本人」でありたいと願う日本人は、ここでNOと言った政府に拍手喝采を送ったのかもしれない。しかし、本当にそれでよかったのだろうか。公共投資を止めたために、道路整備が遅れ交通渋滞のために経済発展は大きく阻害された。港湾の整備が遅れたためにコンテナ取り扱い量で上位にいた日本の港も、順位を大きく下げ、空港のハブ化も大きく遠のいた。環境対策も遅れている。

 お金を使わなければ、財政が健全化するだろうというのが、余りにも甘い見通しであったということだ。逆に430兆円を使っていれば、不況にならず、これほど国の借金を増やすことはなかった。GDPももっと増えていたから、国の借金のGDP比を比べるとその差は更に顕著になる。結局、世界大恐慌を引き起こしたフーバー大統領や、昭和恐慌を引き起こした井上蔵相と同じ間違いを犯し、不況なのに財政健全化を優先して緊縮財政を行い、不況を更に悪化させ税収を減らしたために逆に財政を悪化させてしまった。

 つまり、平成の大不況は政策の間違いで引き起こされたことが証明された。政策の失敗は、日本経済を大きく没落させ、国の借金を増大させただけではない。国民を生活苦に追い込んだ。下図にあるように経済生活問題が原因の自殺者の数は、景気がよかったころの数倍にも増えてしまった。政策の間違いが毎年数千人もの人を自殺に追い込んでいる。国の借金ばかり気にして、このような政策の大失敗をしてしまったのだが、国はお金を刷ってもよいことを忘れてはならない。刷ったお金で道路をつくり、港湾や空港を整備し、環境対策もすればよかった。税金ではなく、刷ったお金であれば返さなくてもよいのだから反対する理由は何もないはずだ。

 この例で分かるように、アメリカの圧力に常に反発していればよいというのでなく、逆に、アメリカの圧力で日本の間違えた政策を正してもらうことが日本の国益になることもあるのだ。

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2008年3月25日 (火)

植草一秀氏被告事件控訴審第1回公判傍聴記

 (管理人 :  NPJに載っていた作者不詳の公判傍聴記を転載する。この傍聴記には特筆すべき二つの特徴がある。一つは弁護団の控訴趣意の文章がきわめて正確に写し取られていること。この傍聴者さんの聴き取り能力及び文書化能力は驚異的である。もう一つの重要な特徴はこの傍聴者さんは、巻頭で植草さんの事件を「国策捜査」、あるいは「国策逮捕」とは言わず、裁判所の事件処理を取り上げて『国策裁判』と断言していることである。

 検察、警察がぐるになってでっち上げた逮捕を、昨今は便宜的に国策捜査、あるいは国策逮捕と呼び、比較的知られた言葉になっている。しかし、この傍聴者さんは「国策裁判」と銘打って、裁判自体が国策的な底意にもとづいて不当な審理を行なったと結論付けているようである。だとすれば、この傍聴記は、2006年9月13日に植草さんが遭遇した京急電車内における事件の翌日、私が弊ブログで発信した「植草一秀氏の二度目の逮捕はまたもや国策捜査の疑いがある」の捉え方と基本的には一致する。ただし、私自身は、電車内では性的な接触行為そのものが発生していなかった、つまり事件そのものが偽装されていたという説を採っている。

 巻頭で腑に落ちない表現がひとつある。それは「植草氏を政治犯として闇に葬ってはならない。」という箇所だ。それはおそらく「植草氏が政治的謀略によって闇に葬られることを許してはならない」という書き違えであろうと思う。)   

植草一秀氏被告事件控訴審第1回公判傍聴記

  植草一秀氏の条例違反被告事件の控訴審第1回公判が2008年3月17日、東京高等裁判所第429号法廷で開かれた。本書はその傍聴メモである。

  弁護団は控訴趣意についてプロジェクター・スクリーンを用いて説明した。被告の無罪は説得力をもって完璧に証明された。目撃証人の信用性も高い。

  しかし、裁判所は弁護側が申請した証拠調べ請求をことごとく却下して結審した。この審理で有罪判決を下すなら、それは日本の司法の自殺行為である。

植草氏の事件処理は『国策裁判』に他ならない。中東の笛によるハンドボール試合など比較にもならない。植草氏を政治犯として闇に葬ってはならない。

  政治権力に支配されたマスメディアは植草一秀氏の無実を示す情報を、報道しないどころか意図的に隠蔽している。『知られざる真実』を一人でも多くの日本国民に知らせねばならない。

  弁護団による控訴趣意の説明は以下の順序でなされた。

    はじめに

1.被害者供述の信用性

2.証人T供述の信用性

3.証人K供述と被害者供述、証人T供述との矛盾・不一致

4.青木警官供述の信用性

5.弁護側目撃証人供述の信用性

6.繊維鑑定結果からの合理的疑問

7.被告人供述の信用性

8.結論

はじめに

  本件は、大学院教授の被告人が痴漢の嫌疑を受けた事件であり、いわゆる手鏡事件として報道された過去の事件に基づく偏見の下、逮捕の翌日からマスコミ各社において興味本位の報道が繰り返された事案である。

  過去の事件では、被告人は、手鏡を手にしていなかったにも拘わらず手鏡を差し出したとして逮捕された。現場を撮影していたはずの監視カメラの映像を保全するように再三に亘り強く要求したにも拘わらず、この要求は無視されて映像は消去されてしまい、また、被害者が被告人を起訴しないで欲しいと要望していたのにも拘わらず起訴された。

  裁判所は、このような過去の事件により間違って形成された予断や偏見を一切排除し、慎重に事実を認定することが強く要求されるところである。ところが、原判決は、虚心坦懐に被告人の弁解を聞くことなく、被告人の無罪を証明する重要な証人の証言を軽視して、事実認定を誤ったもので、予断や偏見に大きく左右されたものと断ぜざるを得ない。

  このような問題を含む原判決について控訴の理由を述べる。

1.被害者供述の信用性

  被害者は、痴漢犯人が背中に密着している状態で、犯人を注意するために、耳に掛けていたヘッドホンを外して、「やめてください」などと言いながら右回りに振り返ったと供述しています。

  この時被害者のお尻の右側を撫で回していた犯人は、被害者がヘッドホンを外す動作に気付いて、咄嗟に右後方に2、3歩、後ずさりして、人と人との間に紛れたと考えられます。

  写真は弁護人らが行った再現実験の映像の画面です。この画面では被害者が右回りに振り返り始めていますが、この時点で犯人はすでに移動を終えています。

  被害者が犯人の手を掴んだまま振り返って、対面したというのであれば犯人を取り違えることはないし、振り返る時に犯人の手を見ていたというのであれば、取り違える危険性は減少します。しかし被害者は犯人の手に触れていないのはもちろん、振り返る時に犯人の手も見ていないのですから、このような形で犯人を特定した供述は、とても取り違えの危険性が高いと言えます。

  この画面は被害者が振り返り終わった様子を写したものです。

  被害者が右回りに振り返り終わった時点で、既に真犯人は人と人との間に紛れていたので、被害者は真犯人が誰かは分かりません。

  一方その時点で、被害者のすぐ近くに立っていたのが被告人であり、被告人が被害者の抗議する言葉や、急に振り返る動作に反応して、一旦被害者の方に注目した後、右の方に顔を背けるような動作をしたことから、不自然に感じて、被害者は被告人が犯人であると取り違えました。

  以上の犯人、被害者、被告人の動きを図で示すとこのようになります。

  ここでは被害者が振り返るという回転動作をしている点が重要です。

  被害者は、ほぼ真後ろ近くまで振り返って被告人と対面したという趣旨の供述をしています。

  しかし実際に被告人が立っていた位置は、被害者の真後ろではなく、右横少し後方です。この位置は被告人の供述と逮捕者Kの供述がほぼ一致していることから間違いないものと言えます。

  したがって被害者は、実際には被告人が立っていた位置の方向位までしか回転していないにもかかわらず、真後ろまで回転したと勘違いしました。

  これを動画で見てみましょう。

  被害者は、犯人が真後ろに密着して痴漢をしていて、被害者が真後ろまで回転して被告人と対面したので、被告人が犯人に間違いないと言っています。しかし被害者は、実際には、真後ろまで回転していません。この勘違いが犯人を取り違えることにつながったと考えられるのです。

  被害者供述の信用性を認めた原判決には、誤りがあります。

2.証人T供述の信用性

  次に目撃者である証人Tの供述の信用性について述べます。

  証人Tは、この図に示した位置のつり革に捉まっていたと公判廷で証言しています。

  そして証人Tのネクタイの結び目から約77㎝前方の位置に被害者の左肩があったと証言しています。この図の被害者と書かれている位置になります。

1審判決もこの証人Tの供述を前提にして被害者が証人Tから約77センチ離れていたと認定しています。

 しかしこの供述のとおりだとすると、被害者は車両の真ん中ではなく、進行方向に対してずっと右側に立っていたことになってしまいます。

 1審判決は、図の点線で囲んだ位置に被害者が立っていたと認定しているので、1審判決の認定は完全に矛盾しています。

 証人Tが捉まっていた吊革ははっきりしていますが、立っていた位置ははっきり供述していないので、もし証人Tの立っていた位置がこの図よりも下だとするとどうなるでしょうか。

  証人Tの位置が、もっと下だった場合を想定しても、被害者の位置が進行方向右側に大きくずれることは変わりません。

  そして証人Tの立っていた位置がこれ以上下だったら、この吊革に捉まることはもうできなくなるでしょう。

 

 これは証人Tが立ち会って、平成18年9月15日に作成された再現報告書の写真です。

  この写真によると、証人Tと被害者役のマネキンは大きく離れています。証人Tの身長が183センチメートルあることからすると、証人Tから被害者の左肩まで約77センチメートル離れていてもおかしくはありません。

  証人T、被害者、証人Tと被害者の間に立っている女性客、この3人の位置関係を見ると、車内はがらがらであり、このような混み具合で犯人が痴漢をしていれば、他の乗客から丸見えです。こんな混み具合で痴漢をする人はいないでしょう。とてもおかしな話です。

  事件が起きたのは9月13日の夜で、この再現は9月15日ですから、証人Tの記憶はしっかりしていたでしょうし、本当なら、自分の体験に基づいて正確に再現が行えたはずです。

 こんながらがらの車内で痴漢が起きたというのは、被害者や証人Kの供述にも反していて、証人Tが実際にこのような状況を見たというのは信じられないことです。

 証人Tの公判供述は、この再現にほぼ合致しているので、証人Tは自分の実際の体験した記憶に基づいて供述しているのではなく、この再現のときの記憶に基づいて供述したのではないでしょうか。

 この写真も先ほどの再現のときの写真です。

  証人Tは、公判廷において、犯人の男が被害者の後ろに密着して、「被害者を覆うような感じで」、「前屈み」で立っていたと供述しています。

 しかし被害者の頭と、後ろの男の頭は、「頭は離れているというイメージを持った。」と供述しています。

 しかしこの写真のように犯人の男が被害者の後ろに密着して、覆うような感じで前屈みに立てば、犯人の頭は被害者の頭の後ろに接近した状態になるのが当然です。

 証人Tは「体だけ密着して、頭は離れているということなのですか。」という質問に対し、「身長差があったので、そういうイメージを持ったのだと思います。」と答えています。

 

 しかしこの再現でも、犯人役の警察官は写真のとおり被害者役のマネキンと十分な身長差があります。

  証人Tだけが183㎝と頭一つ抜け出ています。

したがって証人Tが犯人であれば、身長差があるため被害者と頭が接近しないと思われますが、被告人のように普通の身長の男性であれば、前屈みになったときに頭が接近するのです。

 証人Tがこのような供述をしたのは、頭の中でだけ犯人が被害者の後ろに密着して前屈みになっている場面を思い描き、自分が犯人になったつもりでその場面を想定したためと考えられます。

 これも証人Tの供述の信用性に疑問を投げかけます。

 先ほどの証人Tの再現は9月15日に行われたことになっています。

ここでもう一つの重要な問題は証人Tが再現の行われた9月15日(金曜日)ではなく、9月16日(土曜日)に、初めて蒲田警察署に行って、目撃状況について警察官に説明したと、1審の公判で供述していることです。

 証人Tの証人尋問が行われた段階で、この9月15日の再現報告書は、検察官から弁護人に開示されていませんでした。

 これは、この9月15日に再現を行ったことを隠していたと疑われても仕方がないでしょう。

 これは証人Tが、事件目撃後、9月13日の午後10時37分に友人に見たこと感じたことを書いて送ったメールです。

  証人Tの初期供述はこのメールです。このように他の人の供述や様々な情報に証人Tの記憶が汚染されていない段階の初期供述は、一般的に最も信用性が高いと言われています。

  ここで証人Tは次のように供述しています。

「今電車の中で痴漢が起こった。俺はほぼ確信できるような状況を目にしながら、女の子が自ら泣きながら訴えるまでその男を注意できなかった。

情けないよ自分が。何回か、女の子が前にいる俺の方を見たんだ。助けを求めるサインだったのに、そうじゃないかと思っていたのに、俺は結局単なる思い過ごしとして処理した。」

  ここで証人Tは、被害者の女性の前に自分がいたということと、被害者の女性が何回か自分の方を見たということを供述しています。

  しかしこれは、被害者女性の左横に証人Tが立っていて、被害者が何回か左横を振り向いたという証人Tの公判供述や先ほどの再現報告書とは全く異なっています。

  この初期供述が正しいとすれば、証人Tの公判廷での説明は完全に間違っていることになります。

  次に証人Tは犯人の男について、「眼鏡についてかけていたかどうか覚えていません」と供述しています。

  一方被告人は、事件当時眼鏡を掛けていて、その眼鏡はセルロイドのフレームで青と紫が混ざったような特殊な色の眼鏡ですので、印象に残る眼鏡です。

  証人Tは、犯人の顔について、「少しうつろな目をして、ボーッとしていたような感じです。」と述べ、犯人の目を注視していました。

 証人Tが被告人の横顔を見ていればメガネが記憶に残るはずです。

しかし証人Tはメガネについて記憶していません。

  したがって証人Tが見た犯人はメガネをかけていない別の男だったと考えられるのです。

  この問題について1審判決は、被害者が振り返って注意した後も、証人Tは、被告人の顔を見ていて眼鏡に気付いていないのであるから、証人Tが犯行時に眼鏡に気付いていないことは、問題にならない、と指摘しました。

 しかし証人Tは、被害者に密着していた犯人が2、3歩後退して、右側の方を向いたと供述しています。

 このように真犯人が右側の方を向いた後は証人Tから犯人の顔は見えなくなります。

  では証人Tから被告人の顔は見えたでしょうか。

このように被害者が振り返った後,被告人も右の方を向いたので,証人Tから眼鏡をかけている被告人の顔は見えなくなります。

 つまり証人Tが犯人又は被告人の顔がよく見えた場面というのは,犯人が被害者の後ろに密着して痴漢をしていた場面しかないのです。

 そして被告人が犯人であれば,証人Tは被告人の眼鏡に気付いていたはずなのです。

 次に証人Tは、犯人の左手が、被害者の左のお尻の側面を触っているのを見たと供述していますが、具体的に「指先も手の甲も、後、袖口も見えました。」、「手の甲と袖は一体として肩の上から見えました。」と供述しています。

  しかし一方で、男性が傘を左手首に掛けていたことには、気付いていませんと供述しています。

  被告人は左手に傘を持っていたので、被告人が犯人であれば証人Tが被告人の左手に掛かっている傘に気付かないはずはありません。

 そして被害者が振り返った後、証人Tから、被告人の傘が見えるかですが、

先ほどと同じように傘も見えなくなります。

 また傘の位置は低いので、犯行時以外では被害者などの乗客に遮られて証人Tの目線から傘は見えなくなるはずです。

 犯行時、証人Tから傘はよく見える位置にありますから、被告人が犯人であれば、左手首に掛っている傘に証人Tが気付かないはずがありません。犯人は左手首に傘を掛けていなかった被告人とは別の人物としか考えられません。

 被告人は、事件当時、肩に大きな重いカバンを掛けていました。これは鞄を掛けている被告人の後ろ姿のイメージを図にしたものです。

  しかしながら証人Tは、痴漢行為をしている際の犯人の姿勢について「重心が右に傾いていて変な格好をしているというふうに思いました。」と繰り返し供述しています。

  そして犯人の右肩は見えていたけれども、右肩にカバンを掛けていたという記憶もないと供述しています。

  しかし第1に、証人Tは右肩が見えていたと述べているのですから、被告人が犯人であれば右肩から掛けているカバンが見えなければおかしいのです。

  そして第2に、右肩に重いカバンを掛けていたとすると、カバンがずり落ちないようにしながら、重心を取ろうとするから、体を右に傾けた姿勢を維持するのではなく、むしろ逆に少し左側に傾くか真っ直ぐの姿勢を維持しているはずです。

  それでは右に傾いた姿勢でカバンをかけているとどうなるでしょうか。

 このようにカバンがずり落ちるか,重心が取れなくて,右に倒れてしまうでしょう。

 証人Tが目撃したのは,右肩からカバンを掛けていない被告人とは別の人物だったと考えるべきです。

 証人Tの供述には被害者との距離、電車の混み具合、犯人の姿勢、証人Tが立っていた位置など、幾つかの根本的な疑問があります。

  証人Tが犯人を目撃していたとすると、眼鏡の点、傘の点、カバンの点などから、被告人とは別の人物だったと認められるべきです。

  証人Tの犯人識別供述の信用性はきわめて低いと言えます。

(補注1) 3月17日の公判廷では触れられなかったが、弁護団によると、平成18年9月16日付の証人Tの警察官に対する供述調書には、被害者の女性と目が合ったが声をかけることができなかった理由について、「逆に自分が被害者の高校生の女の子に逆に、怪しく見られているのではないかと思い、判断がつきませんでした」と記述されているとのことである。

3.証人K供述と、被害者供述、証人T供述との矛盾・不一致

  証人Kは、被害者が「やめてください」と言って振り返ったとき、

  被告人は被害者のすぐ右後ろに立っていた、

  被告人は被害者のすぐ後ろにおり、その間に、もう1人、だれか入ることは押しのけない限りは、あり得ない

  被告人の足の移動はあって半歩か一歩くらいしか動く余地はなかったと思うし、動いた印象もない

  という供述をしています。

  これに対して、被害者は、

  痴漢犯人は、被害者の背後に密着し、被害者の左右の腰の下あたりの太ももとお尻に左右の手でそれぞれ触るという痴漢行為をしていた、

  被害者が右回りに振り返ったときに、犯人が後退した、

  という供述をしています。

  しかし、これは密着していたはずだと思い込んでいた被告人が離れて立っていたのを見て、被告人が後退したと錯覚しただけであると考えられます。

  また、証人Tは

  被害者の背後で犯人が同方向を向いて密着し痴漢行為をしていた、

  被害者が振り向いたとき、一、二歩後退し、進行方向右側のドアの方向を向いた、

  という供述をしています。

  証人Tは、被害者が振り向いた直後に真犯人が後退したのを確認したのに、後に真犯人と被告人を混同してしまったものと考えられます。

  証人Kの目撃状況をスライドで示すとこのようになります。

  原判決は、証人Tは犯人が後退した位置について具体的に図で示しているものではないから、右後方も含みうる趣旨であって証人K供述と矛盾しないと述べています。

  しかし、この写真は、証人Tが警察での再現見分をしたときの写真ですが、犯人が被害者から二歩くらい離れていて、間に人が入れる程度の間隔があり、真後ろに下がって斜め右を向いた位置関係が指示されているのです。証人K供述とは明らかに矛盾しています。

  証人Kの供述を合理的に解釈すれば、

  被告人は、もともと「やめてください。」という言葉の前から、被害者のすぐ右後ろに立っていたことになります。

  被告人は「やめてください。」という言葉に反応して、被害者の方を向いて身を引くような動作をしたが移動はほとんどしていないのです。

  これは、基本的に被告人供述と符合しているばかりではなく、被告人が、被害者の背後に密着し、被害者の左右の腰の下あたりの太ももとお尻に左右の手でそれぞれ触るという痴漢行為をしていたということはあり得ないことをも示しているわけです。

4. 青木警官供述の信用性

  次に青木供述の信用性について述べます。

  そもそも公判廷で否認している被告人の捜査段階における警察官に対する自白供述をその内容とする取調警察官の公判廷供述は、定型的にその信用性が低いというべきです。

  被告人は、事件直後に作成された弁解録取書では明確に否認しているのに、青木に対しては、「電車の中で、女性に不快感を与えるようなことをしました。」と答えたというのは余りに不自然不合理です。

  しかも、どの言葉をも記載した青木のメモが存在しないことや、

  弁解録取の際に青木はすぐ側にいたのに、その際、被告人に対して、駅での事情聴取の際には痴漢行為を認めていたではないかと述べていないことを考えても、

  青木供述には全く信用性はありません。

5.弁護側目撃証人供述の信用性

 原判決は、弁護側の目撃証人の供述には信用性がなく、本件車両に乗車していたことも、本件を目撃したことも、その両面において相当の疑問を差し挟まざるを得ない、などと述べています。

  しかし、原審がそのような疑問を抱いたのは、十分に審理を尽くさず、弁護側の目撃証人の供述内容を取り違え、その結果、事実誤認をしたことが原因なのです。

 まず、原判決は、弁護側の目撃証人が、「大森海岸駅を過ぎたあたりで、騒ぎが起きた、自分の右前に立っていた証人Kが動く気配がして、反対側座席の方向へ向かっていき、見ると、被告人を押さえつけていた。」と供述したと認定しました。つまり、同証人が、証人Kの移動する気配に気付いたのが大森海岸駅を過ぎたあたりだと供述したと決めつけたのです。

  しかし、弁護側の目撃証人はそのような供述をしていません。青物横丁駅を過ぎた辺りから、座席に座ったまま、軽く目をつぶり、うとうとしていたら、「ふわっと向かっていったような雰囲気だった」とか、「何となく……人が動いた気配というのがありました」と供述しているのです。決して、証人Kが移動する姿を目撃したわけではないのです。

  また、大森海岸駅を通過したときの状況について、弁護側の目撃証人は、向かい側の車窓に大森海岸駅の看板がはっきり見えたと供述しています。この供述は、窓外の光景という客観的状況に基づく具体的且つ臨場的なものであり、どこから何分くらいだと思う、などという主観的感覚に基づく他の供述者の説明に比較すれば、はるかに信ぴょう性が高く信用できるものです。そして、もしも目をつぶりうとうとしていたら、大森海岸駅を通過したことを確認できないことは明らかなことです。

  したがって、おのずと時間的な前後関係は明らかになります。

  青物横丁駅を通過した頃からうとうとしていた弁護側の目撃証人は、証人Kが移動する気配を感じて、少し目が覚め、その後更に意識がはっきりしてきた時に大森海岸駅の通過を確認したということになります。

  そのうえで、大森海岸駅を過ぎたあたりで、「騒ぎ」が起きたと述べているのです。

   

  弁護側の目撃証人が平成19年4月20日に作成したファックスには、大森海岸駅の通過を対面の窓で眺めながら目をつぶろうと思った時、騒ぎが起こり、何だ!!何だ!!と見渡したら、被告人が押さえられていて、その後、もう1人野次馬が加わった、と述べられています。この「もう1人野次馬が加わった。」というのが逮捕者の証人Nであることは明らかです。

  つまり、弁護側の目撃証人が、大森海岸駅を過ぎたあたりで起きたと述べている「騒ぎ」というのは、逮捕者である証人Kが、左手で被告人の腕又は肩をたたいて、突き出すからねと一言述べ、周囲の乗客もこの行為に注目し、証人Nも動き出して被告人を押さえようとした、この時の車内の緊張、人の動き、ざわつきを、弁護側の目撃証人は「騒ぎ」と表現したのです。このときの状況については、証人Nが、事件当日に警察官に対して供述した内容とぴたりと整合しており、その供述調書は当審において提出予定です。

  原判決には、大森海岸駅を過ぎたあたりで証人Kが動き出す気配があったなどと弁護側の目撃証人が供述したかのように書かれていますが、証人の供述内容を明らかに取り違えたものであり、重大な過ちを犯しています。

  次に、弁護側の目撃証人が被害者の「子供がいるのに」などとする言葉を聞いていない点については合理的な理由があります

  まず、被害者が抗議を始めた頃、弁護側の目撃証人は座席にすわったまま目をつぶりうとうととしていて、その間は何が起きたか分からなかったのです。

  また、被害者の抗議はそれほど大きな声ではありませんでした。

  このとき被害者の抗議に気付いたという証人Kは、被害者の抗議の声が、「それほど大きな声で、びっくりするようなことではなかった」、と証言しています。

  また、被害者自身は、動転し困惑している心理状況の下でようやく抗議をしたというのですから、自分では大きな声を出したつもりでいても、第三者に聞こえた声は客観的にはさほどの大きさではなかったのです。

  原判決は、被害者の抗議が「それなりに大きな声」であったなどと極めて曖昧な表現をしています。しかし、うとうとしていた弁護側の目撃証人の目を覚まさせるほどの大きさの声だったという証拠は何ら存在していないのです。

  また、被害者の抗議は、わずか2、3秒間と思われる極めて短いものでした。被害者の抗議は、「やめてください」、「はずかしくないんですか、子供たちの前で」というものです。その次に「次で降りてもらいますから」と言ったときには泣いていて声が涙声になっており、その後は泣き続けていたというのです。

  そんな僅かな時間の抗議なのですから、うとうとしていた弁護側の目撃証人がそれを聞き取ることは困難です。むしろ、それを契機として徐々に覚醒し始め、その後、証人Kが移動する気配を感じとるに至ったと思われるのです。

  さらに、弁護側の目撃証人が座っていた位置からは被害者の姿さえ視界に入りませんでした。しかも、被害者は弁護側の目撃証人に背を向けるような方向を向いて抗議したと思われます。このような客観的な状況から判断すれば、弁護側の目撃証人が被害者の声に気付かなったことに何ら不合理なところはありません。

  弁護側の目撃証人は、証人Kが被告人に対して、覆い被さるような形に見えたと証言しています。しかし、証人Kは被告人に接近して被告人が逃げることの無いように立ち、被告人は動かなかったのですから、座席に座ったままの弁護側の目撃証人の低い視線からは、証人Kが被告人に対して覆い被さっているように見えても不自然ではありません。

  また、もうひとりの逮捕者である証人Nの動きについても、弁護側の目撃証人の位置から見れば、両者の供述内容は一致するのです。

  このような証人Kや証人Nと被告人との位置関係や、被告人が動かなかったことを考慮すれば、被告人がずっと押さえられているように見えたという弁護側の目撃証人の供述内容は、証人Kと証人Nの供述内容と何ら矛盾するものではありません。

  次に、弁護側の目撃証人は、目撃したときは、被告人のそばに女性はいなかったと証言しています。

  まず、この証人から、被告人の姿をよく見える状態だった理由は、発車直前に、たまたま目の前の座席が空いて座ることができたので、それまで立っていた前方のスペースが空いたままになっていたので、そのスペースから被告人が見えていたからなのです。

  また、被害者が立っていたドア側のエリアは、多少人と人とが触れ合うかもしれない程度の混み具合でした。車内の誰からも被害者の姿が見えたわけでもないのですから、他の乗客の影になって弁護側の目撃証人から被害者が見えなかったとしても何も不自然なことではありません。目撃しているあいだ、被告人が女性と密着していなかったというのは極めて重要な証言なのです。

  このように、弁護側の目撃証人が供述している内容は、他の供述者の供述内容や客観的な事実と合致することのほうが多いのです。もしも、実際に現場に臨んで目撃していないとしたら、予備知識がないのですから、他の供述者の供述内容や客観的な事実と合致する供述をすることはあり得ません。

  ドアが開いて電車に乗り込んでから発車するまで1分くらいだったと供述していることや、当時被告人が着用していた眼鏡の特徴、証人Kに押さえられた被告人が静かにしていた状況、京急蒲田駅に到着してから被告人が証人Kや証人Nに連れられてホームへ降りる後方から被害者が降りていく情景、被害者の服装がセーターと普通のスカートだったことなど、その場に居合わせない限り供述できないような内容について、弁護側の目撃証人は、極めて具体的且つ臨場的に供述しているのです。

  弁護側の目撃証人が自発的に公判廷において証言するに至った経緯は、ただ自分が目撃した事実をありのまま正確に伝え、公正な裁判を実現してもらいたいとの一心に基づくものであり、誰に対して有利だとか不利だとかいう利害や偏見は全く持ち合せていないのですから、その供述の信用性は極めて高いものがあります。弁護側の目撃証人の供述は、被告人が無罪であることを裏付ける極めて重要な決定的な証拠にほかなりません。その供述内容を取り違えるような間違いをしないよう、予断を排して慎重に取り扱うべきです。

6.繊維鑑定結果からの合理的疑問

 繊維鑑定の結果、被告人の手指には被害者のスカートやパンツの構成繊維は   1本も付着していなかったので、被告人の無罪は証明されている。

  痴漢事件では、被害者の着衣の構成繊維が、手指に付着していないかの「手指鑑定」しか行わないのが通常である。

  ところが、本件では、この「手指鑑定」の他に、ネクタイから採取した付着物に被害者のスカートの構成繊維が付着していないかの「ネクタイ鑑定」と「背広鑑定」2件の合計4件もの繊維鑑定を行っている。

  通常と異なり、本件で、4件もの繊維鑑定を行ったところに、被害者のスカートの構成繊維が被告人の手指に、全く付着しなかったことが読み取れる。

  被害者が穿いていたスカートの構成繊維が被告人の手指に付着していないかの「手指鑑定」の結果、被告人の手指からは、多数の繊維が検出され、スカートの構成繊維の「つよい青色」の「色調が類似した獣毛繊維」3本が検出されたとの鑑定結果になった。

  この「手指鑑定」の結果が判った頃に、ネクタイから付着物が採取されて、スカートの構成繊維がネクタイに付着していないかの「ネクタイ鑑定」が行われ、「あかるい青色」「さえた青色」「つよい青色」の「色調が類似した獣毛繊維」4本が検出されたとの鑑定結果になった。

  「手指鑑定」の結果、被告人の手指から、スカートの構成繊維と「類似」の繊維が検出されたなら、それで繊維鑑定での証明は十分であり、それ以上、「ネクタイ鑑定」をする必要は全くない。

  それなのに、被告人の手指に付着したスカートの構成繊維がネクタイに転移したはずだと、捜査官は考えて、急遽、ネクタイを領置して、引き続き「ネクタイ鑑定」をしたのは、「手指鑑定」の結果における、スカートの構成繊維と「色調が類似した獣毛繊維」という「つよい青色」との色調の判断基準が、主観的で曖昧すぎて「類似性」の判断基準にならなかったからである。

  そして、「ネクタイ鑑定」の結果における、ネクタイの付着物から検出された、スカートの構成繊維と「色調が類似した獣毛繊維」という「あかるい青色」「さえた青色」「つよい青色」との色調の判断基準も、やはり、主観的で曖昧すぎて「類似性」の判断基準にならなかったので、捜査官は、急遽、背広を領置して、2件の「背広鑑定」を実施させざるを得なかった。

  2件の「背広鑑定」の結果、被告人の手指とネクタイから採取した、スカートの構成繊維と「色調が類似した獣毛繊維」合計7本と、被告人が着ていた背広の構成繊維とは、いずれも異なるとの鑑定結果が出たが、だからといって、この7本の繊維が、スカートの構成繊維であると認められたわけではない。

  そもそも、背広鑑定は背広にスカート構成繊維が付着したとの見込みによって行なわれたもので、見込み通りの付着物を発見できなかったために、見かけ上の鑑定目的を変更したものと考えられる。

  科学警察研究所の繊維鑑定の教科書によれば、繊維鑑定では、顕微分光光度計を使えば、繊維の色調を「つよい青色」等、主観的にではなく、プロファイル(波形)で客観的に評価・比較することができ、繊維の異同を客観的に評価・比較することができる。

  警視庁科学捜査研究所でも、この顕微分光光度計による鑑定ができないはずはなく、顕微分光顕微鏡による観察の結果、上記スカートの構成繊維と「色調が類似した獣毛繊維」7本は、客観的・科学的には、波長が異なり「色調が異なる」との結論が出ているはずである。

  なお、「手指鑑定」「ネクタイ鑑定」には、「被告人の手指やネクタイの付着物 から、被害者が着用していたパンツの『無色綿繊維に類似した無色綿繊維』が認められた。」とあるが、鑑定書の『参考事項』に、「無色綿繊維は、生活環境中至る所に多数認められるものであるため、パンツに由来するものか否かは不明である。」と記載してあるとおり、パンツの構成繊維である無色綿繊維が被告人の手指やネクタイに付着したと認めることはできない。

  この様に、被告人の手指やネクタイに、被害者が着用していたスカートやパンツの構成繊維が全く、1本たりとも付着したと認めることができないことから、

(1)被害者供述や証人T供述のように被告人が手指で被害者のスカートやパンツに触ったことが客観的証拠で裏付けられず、被告人が本件痴漢行為をしたとするのには、客観的で、具体的な合理的疑問が残ることになる。

(2)捜査官は、手指から出なかったら、ネクタイに転移したはずだと考えて次から次へと4件も繊維鑑定をしたのであり、捜査官の経験上、被害者や、証人Tの言うとおりに被告人が触ったならスカートやパンツの構成繊維が出ることを確信していた。

  また、痴漢事件での繊維鑑定は、痴漢で触ったら、被害者の着衣の構成繊維が触った手指に付着する蓋然性が高いからこそなされるものであり、だからこそ、警察庁も、全国の警察に、痴漢事件で、繊維鑑定等の科学的捜査をするように文書で、指示を出している。

  したがって、被告人の手指やネクタイから被害者のスカートやパンツの構成繊維が1本も検出されなかったということは、高度の蓋然性を持って、被告人が被害者のスカートやパンツに触っていないということを推認させ、被告人の無罪の証拠となっている。

  このように、本件は、被告人の無罪の客観的・科学的証拠がある冤罪事件である。

7.被告人供述の信用性

  被告人は、本件電車に乗る直前に多量の飲酒をし、その結果、「子供がいるのに」という女性の声があがった直前をピークに酔いがまわっていました。

  被告人からは、午後10時52分頃に実施された飲酒検知において、呼気1リットルあたり0.47mgのアルコールが検知されていますから、犯行があったとされる時刻における被告人の血中アルコール濃度は、最小値で1.0366mg/ml、最大値で1.11336mg/mlと合理的に推認されます。

  そして、血中アルコール濃度が1mg/mlを越えると、歩行失調、協調運動障害が起こるとされています。

  したがって、被告人は本件犯行があったとされる時刻に歩行失調、協調運動障害が起こった状態であったと合理的に推認できます。

  また、危険運転致死傷罪の適用された裁判例では、呼気検知結果が呼気1リットルあたり0.4mg程度あるいは0.45mg程度で「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」であったと認定されている例が複数あります。

  また、別の裁判では、検察官から、「血中濃度が1ミリリットルあたり0.9~1.0ミリグラム程度になれば前頭葉などが抑制され前方注視及び運転操作が困難になる」などとした鑑定意見も提出されています。

  これらに鑑みても、本件犯行があったとされる時刻に、被告人は「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」と同程度の状態であったと合理的に推認できます。

  さらに、被告人がその当時約4キログラムのカバンを右肩のみにかけ、左右のバランスが極めて悪い状態であったこと、真犯人は傘を手首に掛けていたとされていることなどの事情もあります。

  したがって、被告人が、吊革につかまることなく、上記犯行を行うことは不可能です。

  次に、原判決は、被告人の供述は、被害者供述及び証人T供述などの信用できる各供述に反し、信用できないとしますが、これまでに述べてきたとおり、それらの供述こそ信用性がないのであり、それらの供述をもって、被告人の供述の信用性を否定するのは誤っています。

  原判決は、被告人の供述において、4つのポイントをあげ、不自然・信用できないとしていますので、それらの各点について検討します。

  原判決は、まず、被告人が上り電車と下り電車を間違えたこと、被告人が逆方向の電車にそのまま乗っていたことが不合理であるなどと認定しています。

  しかし、被告人の酔いの程度の推移はこれまで述べたとおりであり、被告人は、頭が働かず「まあいいか」とそのまま電車に乗ってしまったのです。また、被告人は「一度降りようと試みたものの、何人かの人に押し戻された」のです。

  原判決は、それらの事情を適切に評価しておらず、不当です。

  原判決は、被告人が犯人扱いされた際に否定しようとせず、目撃者等も捜すことなく、そのまま連行されたことは理解し難く、駅事務室に来た警察官から、人定以外聞かれなかったことも不自然であるなどと認定しています。

 しかし、被告人は、有名人であり、騒ぎになることを避けるために、小さい声で否定し、目撃者等を捜すことなくそのまま連行されたのであり、自然・合理的と言えます。

  また、一般に、駅事務室に来た警察官が、駅事務室において人定以外しなかったとしても不自然と評価すべきではありません。

  なお、原判決は、被告人が被害者に対して、失礼というような感じで手を顔の前に上げて被害者に対して頭を下げるなど謝罪するような態度をとったなどと認定しています。

  しかし、その被告人の動作に関する、目撃者証人T、逮捕者証人K、被害者の供述は明確に、しかも大きく異なっています。

  原判決は、これらの供述を都合良くきりはりして、あたかも相互に信用性を高めているという前提で誤った認定をしているのです。

  被告人の動作は、被害者の突然の動きに驚き、身をひきながらたじろいだ、反射的な動作と考えられ、元々その場(被害者の右後ろ)に被告人が立っていた時に被害者が突然振り返った状況です。

動画でみてみるとこのような動きになります。

  原判決は、被告人の記憶は、ある部分は曖昧、自己に都合がいい部分は明確であり、自己の都合に従って供述しているとうかがえる面があるなどと認定しています。

  しかし、被告人は上記の酔いの程度に応じて、あいまいなことと覚えていることを慎重に区別して、自然・相応に、そして誠実に供述しているのです。

したがって、「自己の都合に従って供述しているとうかがえる面がある」などという評価は全くあたりません。

  原判決は、証人Kの供述によっては、本件当時の被告人の位置についての被告人の供述を裏付けられないと認定していますが、証人Kの供述が本件当時の被告人の位置についての被告人の供述を裏付けていることは既に述べたとおりです。

8.結論

  最後に結論を述べます。

  前節で述べたように、一貫性と詳細さを備え、十分に信用性のある被告人の供述は、同様に十分に信用性のある弁護側目撃証人の供述によって、裏付けられています。

  弁護側目撃証人は、事件当日、被告人と同じ電車に乗り合わせ、品川駅から青物横丁駅くらいまで被告人を見ていたところ、被告人は酒に酔い、疲れた様子で、右手でつり革につかまり、下を向いて揺れており、痴漢行為はしていなかったというのです。

  また、証人Kの供述も、基本的に被告人供述と符合しているばかりでなく、被告人が、被害者の背後に密着し、被害者の左右の腰の下あたりの太ももとお尻に左右の手でそれぞれ触るという痴漢行為をしていたということはあり得ないことをも示しています。

  それに加えて、スカート・パンツの構成繊維が被告人の手指やネクタイから1本も検出されていないことも、被告人が本件痴漢行為の犯人でないことを証明しているということができます。

  他方で、被害者の犯人識別は、犯人が真後ろに密着していて、被害者が真後ろまで回転して犯人と対面したことが重要な根拠になっているところ、被害者は、自分がどの程度回転したのかについて誤認しているだけであって、真犯人は真後ろにいたのに、右後ろにいた被告人を犯人と誤認しただけにすぎないのです。

  そして、証人Tの供述にも、幾多の根本的な疑問があり、証人Tの供述を根拠にして被告人を犯人と特定することもできないことが明らかになりました。

  以上述べたところから、被告人は本件痴漢行為の犯人ではなく、無罪であることは明らかであり、原判決の認定には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があります。

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2008年3月24日 (月)

日本経済の4重苦:円高、株安、原材料高、米国不況(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十七弾です)

 日本経済の停滞に対して、海外の厳しい目が注がれている。英エコノミスト誌は 「JAPAiN」と題した日本に関する特集記事を掲載した。JAPANとpain(苦痛)をかけた造語である。円高、株安、原材料高、サブプライムローン問題によって引き起こされた米国不況など、日本経済を取り巻く環境は厳しい。それぞれが、どの程度日本経済にダメージを与えるのかを、詳しく説明するつもりはないが、それぞれ悪影響を及ぼすのは間違いない。

 円高に関しては、様々な意見がある。円高でも企業は頑張るべきだという意見も多い。しかし、頑張れば経済が発展するといった簡単な話ではない。円高でも利益を出している企業があるではないかと言う人もいる。円高だと輸入物価が下がり、消費が伸びるから、景気が回復するといった珍説まである。しかし、日本経済は外需の伸びで今まで支えられてきた。輸出企業にとっては、円高は厳しい。

 円高とは、日本製品を一斉値上げするようなものである。1割円高になれば、外国にとって、日本のすべての商品が1割高くなる。値上げしたら売れないということなら、値上げせずに企業が差額を負担する。そうすると企業の利益が減る、あるいは赤字になって商売にならなくなる可能性もある。もちろん、原材料が輸入品であれば、円高で原材料が安くなる可能性もあり、企業によりまちまちである。果たして、円高が日本経済にプラスなのか、マイナスなのかを考えるには、マクロ計量経済学に基づいたシミュレーションを行い、様々な要因をすべて組み込んで計算すればよい。

 日経新聞社の経済モデルを使い求めた結果を下の図で表した。一番下が何もしなかった場合の実質GDP、そのすぐ上が、円売りドル買いの介入をして、10円の円安にしたとき(例えば1$=100円から1$=110円にしたとき)であり、その上が20円の円安、その上が30円の円安のときである。参考のために、10兆円~50兆円の財政出動をしたときの、実質GDPも示した。

 このグラフで良く分かる。円高は間違いなく、日本経済の成長にとって害になり、その意味でドル買い介入のメリットはある。円高で景気が良くなるという珍説は完全に否定される。では、為替介入をしたらどうだろう。現在は巨額の資金が国を超えて動き回っているから50兆円程度のドル買い円売りの介入でも、10円の円安は難しいのではないか。第一50兆円の介入をしようとすれば、まず政府が国債を発行して円を手に入れ、その円でドルを買うわけだから、国の借金は確実に増える。それによるGDPの増加はほんの僅かしかなく、間違いなく国の債務のGDP比は増える。しかもドルを持っていても、人為的に値上がりさせたドルが、将来値下がりすることも考えられ、その場合は巨額の差損が発生する。

 同じ50兆円を使うなら、財政出動で減税や歳出拡大で国民のために使ったらどうだろう。この図で分かるようにGDPを押し上げる効果は数十倍はある。そのため国の債務のGDP比は下がってくるし、税収も回復してきて財政が健全化する。財政出動のほうが、為替介入よりはるかに良い。株安、原材料高、米国不況による悪影響がどれだけか、一つ一つ議論するつもりはないが、それなりの悪影響は確実だ。重要なことは、それらの悪影響を一気に挽回できるほど財政出動の効果は絶大なのだ。政治家の決断次第で日本経済のV字回復は可能なのだ。最悪なのは、何もしないこと。本日(2月24日)の日経新聞にも内閣支持率が31%に急落しており、安倍内閣末期の支持率程度まで下がったとのこと。日銀総裁の件では民主党も支持率を下げたとある。

 台湾総統選挙も終わり、これで、台湾も韓国も経済のてこ入れを重視することが鮮明になった。日本は台湾・韓国などとは比べものにならないほど経済が悪化している。しかし、幸いなことに、デフレ経済であるのだから、財政政策が極めて有効であり、しかも当分はインフレ率が高すぎるような事態は起こりそうもない。今こそ政治家は目先のプライマリーバランスの改善ではなく、国民に目を向け、経済を復活させ、経済成長による財政再建を目指すべきである。(小野盛司)

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“お知らせです” 

 3月26日の日本経済復活の会の定例会

3月26日(水曜日)、東京にて宍戸駿太郞先生の講演があります。日本経済復活のために今何をすべきかという大変貴重なお話を聴くことができます。皆さんも是非、積極財政論の真髄を味わってください。小野会長のお話とともに、日本経済復活の希望を得て帰っていただきたく思います。弁当やお茶の用意がありますので、決まったら上記案内をご覧の上、小野会長宛にご連絡ください。電話でもメールでもけっこうです。(神州の泉・管理人)

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「さかなのうた」に想う

「さかなのうた」に想う(神州雑感)

一、神州という言葉に惹かれて

 私がこのブログをはじめたのは、単純に言って、「神州」という言葉に強く感化されたからである。はじめて意識した神州という言葉が、眠っていた私の深部を奇妙に揺さぶった。それまでは私の意識の奥底に茫漠と沈潜していた日本の風景が、神州というキーワードによって一瞬鮮明な姿として脳裏に映し出されたのである。神州という言葉には不思議な光輝が宿っている。その古風な言葉は、今は忘れかけた淡くてすがすがしい日本のたたずまいを亡羊としたもやの中に浮かび上がらせる。それは現実的な風景というよりも、日本人すべてが、生まれながらの日本的霊性を凝集し、現実の風景を絵画的な風景に再構成したという感じである。他人に言ってもそのニュアンスは伝えられないかもしれないが、神州の絵画的イメージを惹起する鍵となるものが靖国神社の境内にある。それは参道の途中にある神門に飾られた直径一メートルはあろうかと思える大きな菊の御紋章である。この御紋章には神武天皇以来、日本人の心に燦然と輝き続けている霊的な日本の光輝がある。神州とは日本人すべての心に宿る原初的な精神原像のことなのだ。

 今から40年以上前の幼少年期、ふるさとの山野に遊んだ自分の原体験をもとに、日本の風景論や文化論を多角的に考えてみたいという単純な動機からこのブログを始めた。ところが、いざ始めてみると当初の思惑とは違って、政治や時事ニュースの感想ブログになっていた。その上、人間関係の綾なす織りは不思議なもので、いつの間にか、エコノミストの植草一秀さんを応援していたり、現在は日本経済復活の会の会長さんの積極財政論シリーズをこのブログで連載していただいたりしている。植草一秀さんが遭遇した身に覚えのない濡れ衣事件については、調べれば調べるほど、彼の良心が理不尽な迫害を受けているという結論しか出てこない。この日本が本来的な日本人の精神土壌から乖離して、アメリカ的な唯物主義、金銭至上主義的な方向へねじれて来たことが見えてくる。昨今の日本を囲繞する真の問題は新自由主義である。この新自由主義が根付いた土壌にはGHQが刷り込んだWGIPという東京裁判史観とマルクス主義の連結があった。戦後教育とこの連結史観によって、日本人の心から伝統的霊性が徐々に失われ、1970年代からは、その空白の精神土壌に新自由主義が静かに根を下ろしてきた。

二、新自由主義の台頭

 日本人は新自由主義を経済の一形態としてしか理解していないが、実はこれこそが伝統や固有の文化を根こそぎ無化する破壊的なイデオロギーだったのだ。小泉純一郎氏や竹中平蔵氏の欺瞞の構造改革によって、日本の基礎構造(国体)が揺らいでしまった。それほど彼らの採用した国策は国家の屋台骨を危ういものにした。私は経済にはすこぶる疎いのであるが、どういうわけか最近は経済のことがらに縁が深くなっている。小野会長にしても、植草さんにしても、城内実さんにしても、彼らは斯界にあっては、ずば抜けて優れた頭脳の持ち主であり、知的フィールドにおいては私のような凡庸な人間との共通性はない。しかし、一つだけ思いを同じにしている部分があるとするなら、それは壊れかけたこの日本を修復したいという切なる気持ちであろうか。このような優れた方々と私を結ぶ線があるとするなら、それは日本回復への情念だと思う。

 小野会長や植草一秀さん、城内実さんに共通することは、この青息吐息の弱った日本に万民幸福の原理を実現したいという願いであろう。わかりやすく言うなら、小野会長は日本人を貧乏にしてはいかんと言い、植草さんは弱者を掃き捨てるような社会ではなく、経世済民の実現を願っている。城内さんも弱者に優しく地方に暖かい万民幸福の政治理念を持つ。三者とも、同じ願いと展望をこの日本に抱いている。私がささやかながら関わったこのお三方が、然るべき地位に付き、病みつかれた日本を再生する大きな力になってくれることを願っている。今の日本は本気で日本を考える有能な人が叩かれてしまうことが多い。気をつけなければならないのは、マスメディアが好んで取り上げ、持ち上げる人物は国民を崖っぷちに導くハーメルンの笛吹き男の場合が多い。メディアは小泉純一郎を異常に礼賛し、御用学者たちはそれを援用した。その結果、日本にもたらされた惨禍は記憶に新しい。日本の崩壊は今に始まったことではないのだが、小泉政権によって急速に自壊速度が早まった。55年も生きていると日本社会の空気の変化がよくわかる。新自由主義という猛毒の潮流が日本を深部から痛めつけているのだ。

三、英霊の言乃葉(えいれいのことのは)

 ブログをやっていて、植草さんを嵌めた国を売る勢力が放っている瘴気紛々たるおぞましい気配を感じたり、日本人が人間としてだんだん劣化してゆく姿を日々のニュースで見ていると、気持ちが汚れた曇りガラスのようになる。今の日本の生活風景は醜悪である。都市に行っても、地方に行っても、私が少年のころの風景とはまったく異なった異様なたたずまいが目に入る。山も、川も、谷も、田んぼも、畑も依然としてあるが、それは以前のような清新な輝きを持たず、まるで日本列島全体が毒物を散布されて醜悪なただれを帯びたように、その光景はくすんでしまった。安倍晋三元首相は「美しい国へ」を政策基調のモットーに掲げた。しかし、小泉政権が敷いたネオリベ政策を踏襲したために、彼の理想とした国家構想は絵に描いた餅の域から出ることはなかった。それどころか、新自由主義の暴虐性は、戦後にかろうじて残存していた日本の良さや美しさを徹底的に破壊しつくしてしまった。日本を蚕食する真の問題は左翼や右翼思想というイデオロギーではなく、37年前に三島由紀夫が洞察していた無国籍化という現代思潮にある。

 それは左でも右でもなく、ネオリベラリズムである。経済政策として理解される新自由主義は、左右思想の枠を超えてイデオロギー化し、それは文明破壊の猛毒を秘めた代物だった。日本の再生を願う人たちは、今の日本の状況を左右思想の桎梏ではなく、社会ダーウィニズムを基調とした市場原理至上主義の問題として捉え、そこからの脱却を計らねばならない。ここで重要なことは、新自由主義を経済の一方法論として捉えることの間違いである。新自由主義はすでにイデオロギー化して日本人の心を野獣的な野蛮性に変えつつある。これを阻止して、もとの日本的霊性に日本人を軌道修正するためには、日本人が忘却つつある神州の風景を心に甦らせることである。神州という言葉は、戦後生まれにとっては大東亜戦争という言葉と同様に馴染みの薄い感じであり、その言葉を見てかすかに記憶にひっかかるものを感じたとしても、あえて意識の表層に乗せることを拒む言葉の一つなのであろう。私は四十路に達して、神州という言葉を目にし、大東亜戦争史観とは別に、景観論的な方向性からこの言葉に強く感応した。とは言ってみても、神州という言葉を初めて強く意識したのは、大東亜戦争史観とは不即不離である靖国神社が出版する「英霊の言之葉(1)」を読んだときであった。

 そこには、特攻兵器「回天」の訓練中、海底で事故死した若き海軍大尉の遺書があり、その中に「神州ノ尊  神州ノ美  我今疑ハズ 莞爾トシテユク万歳」という記述があった。海底に座礁した回天の中で死を待つばかりのとき、彼の末期の目に映った日本の尊厳や美しい風景は奇しくも「神州」という言葉で表現されていた。海底に座礁し、酸素の乏しくなってきた回天の絶望の中で、死が訪れるわずかの間、この若い海軍大尉は日本に神州の尊厳と美を確信した。そして最後の言葉を残して従容と旅立って行った。彼の死に様は特攻の潔い戦死ではない。無念の事故死であり、しかも狭い艇内、酸素欠乏で死ぬまで時間が残されているという地獄の状況にあった。しかし、それでも後輩に必要なことを書き残し、神州の美しさを讃仰しながら泰然として死に赴いた。私は彼の記述を目にした時、一晩中涙が止まらなかった。と同時に、私はある種の霊感に打たれ、この言葉をキーワードとして、日本の霊的な風景を垣間見る思いがした。神州という言葉には日本人特有の内面を構成する心象風景の原像がある。

 日本人は日常的な生活においては日本の風景を絵画的に意識することはない。それは田舎で野外作業に従事し、慣習的に自然の風景を見慣れている人にあってもそうである。しかし、死に臨んだときの日本人は、末期の目に映る風景として、一瞬のうちに、凝集的に日本の美を内面のスクリーンに垣間見るようである。吉田満の書いた「戦艦大和ノ最後」にも末期の目に映じた日本がある。日本人は内面が日本的な風景と一体化していたのだ。だからこそ、日本には欧米の観念が流入する明治まで独自の風景論がなかったのだ。ところで、特攻に関して気になることがある。最近は右派論陣の中にも、特攻という事象を美化せずにプラグマティックに捉えろという、ほとんど左翼的な思潮が主流になってきたようだが、私はまっこうからそれを否定する。なぜならその論調には日本人としての心象風景が存在しないからである。

 臆せずに私の解釈を言わせてもらうなら、特攻心情とは、祖国愛の静かなる表出として「もののあはれ」が究極的に凝縮したものである。その精神風景にはいっぺんの野蛮性も濁りも存在しない。この民族性のアーキタイプ(原型)が理解できないと、特攻と自爆テロを同位同列に捉えてしまうという間違いを犯してしまう。戦後の日本人は東京裁判史観の刷り込みによって、戦前思想や戦前の内面風景をことごとく喜捨する方向に進んでしまったが、民族には時代によって変わらない心の形があるはずである。戦前の日本人の心のあり方にはけっして捨ててはならないものがあったはずだ。現代日本人はこの心のアーキタイプを無価値化したために日常性が無国籍化してしまった。こう述べてもわからない人は大勢いるだろうが、我が国の長い歴史の中で、美しい風土とそこに住む人間の内面性の関係を黙考すると、特攻の基本心情が深く祖国を慈しむ詩情に満ち溢れたものであることがよくわかる。

 四、童謡、文部省唱歌にこそ、神州風景の原点がある

 風土とそこに住む者の内面との濃密な相関性。これこそ日本人の心象風景の基本形である。私はけっして難解なことを述べてはいない。たとえば、風土と内面の関係をよく表すものが最近までわかりやすい形としてごく身近なところにあった。それが戦後でも比較的最近まで学校で取り入れられていた文部省唱歌なのである。私の年代も子供のころ、よくなじんだ唱歌がたくさんあったが、戦前は私の知らないよい唱歌がたくさんあったと思う。文部省唱歌には、万葉の詩詠み人であった我々の祖先が目にしていた美しい自然への讃歌やもののあはれが、単純でわかりやすいメロディーや歌詞にさりげなく込められている。これが親しみやすい旋律や単純明快な言葉を通して、詩情豊かに子供たちの心にストレートに入っていたのである。

 文部省唱歌は子供たちの情操教育にもっとも直截に、効果的に訴える力を持っている。外で遊ぶ子供たちは、身近な里山や川辺の自然を親や仲間たちと一緒に過ごし、文部省唱歌に込められた自然のエッセンスを素直に内面に取り入れる心的行動様態を身に着けるのである。この在り方こそ徳育の基本である。ところで、私が城内実さんを応援する理由は、彼の筋を曲げない一貫性にもあるが、やはり彼の基本的な世界観を認めているからでもある。その一つには彼が童謡や文部省唱歌を評価していることも大きい。藤原正彦氏との対談で城内さんは童謡、あるいは文部省唱歌の復活を説いている。これだけでも彼が真の日本復活の展望を持つ政治家であることがよくわかる。ちなみに私が特に好きな歌は「紅葉(もみじ)」である。

紅葉(もみじ)
         高野辰之
一、
  秋の夕日に照る山紅葉、(もみじ )
  濃いも薄いも數(かず)ある中に、
  松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は、
  山のふもとの裾模樣(すそもよう)。
二、
  溪(たに)の流に散り浮く紅葉、(もみじ )
  波にゆられて離(はな)れて寄つて、
  赤や黄色(きいろ)の色さまざまに、
  水の上にも織る錦(にしき)。

 五、神州模様とは白砂青松、山紫水明

 話が逸れたので神州論にもどす。さて、「神州ノ尊  神州ノ美」であるが、 私はその記述を読んだとき、自分の幼年期に味わった自然体験の瑞々しい感動と結びついて、日本本来の風土や自然の美を強く意識し、日本人の精神性が豊饒な自然と不可分であることを悟った。ただ、日本人は明治になるまで自然(natural)という言葉を持たなかったということを考えると、それまでの日本人はあまりにも自然と深くなじみすぎていて、自然に対して我(われ)があるという対置的な客観性を持たなかったようだ。つまり日本人の精神性は自然と融合していたのである。我と自然が同化して日本人の精神を形作っていた部分は否定できない。あまりにも自然が内面的に入り込んでいて、欧米人のように対置的な視点で自然を捉える慣習はなかったのである。そのために、戦後における日本人の環境保全概念は最悪の様相を帯びた。

 つまり、日本人の気持ちには自然を保全するという感覚がないのである。それはあまりにも自然が内面化していて客観性を持たず、当然、それを保全するという思考が出てこないのである。もう少しわかりやすく言うと、日本人の自然観は徹底的に内面化されているために、心象風景の崩れはそのまま、外の周辺環境を醜くするのである。ドイツ人やフランス人など欧州人は自然を客観物として対象化するので環境保全概念は発達している。日本人は自然を内面の延長として意識するために、内面の荒廃がそのまま周辺環境の荒廃をもたらしてしまう。これは建築や街並みなどの人工物に対しても同様である。戦後日本の街路や街並みは気持ちが萎縮するほど醜悪である。戦後日本は秀麗な自然の山々の天然林を破壊して単調で無機的な人工林に置き換えてしまった。そのために杉花粉症に苦しめられていると言うが、もっと破壊的だったことは日本人の情操のゆがみが起こったことである。もののあはれを伝統的に解する日本人は、その根幹的な情操を基にした審美的な眼を、アメリカ的な文明摂取とともに、人工林を増殖したことによって喪失してしまった。なぜなら、日本人の情緒性、審美性は自然の美しさと不即不離の関係を持ち、自然は文字通り日本人の身体の一部だったからである。

 白砂青松、山紫水明を自己的な生活風景として当然のように享受していた日本人は、戦後民主主義の到来とともにその感覚を喪失した。山野を開墾し、片っ端から日本全土の自然林をつぶし、産業に役立てるために美しく豊饒なる天然林を人工林に置き換えた。河川を堰き止め、川辺や海辺をコンクリートの人工護岸に置き換えた。そのために民族の原初的な情操、情感は破壊されてしまった。同時に子供たちから、美しい自然を讃美した童謡や文部省唱歌が失われていった。これが戦後教育荒廃の根幹的原因である。戦後教育に取り込まれた東京裁判史観によって精神の深部を蚕食され、同時に美しい天然林をつぶして人工林に置き換えたために、山や老木、岩などに対する畏れや信仰を失った。

六、徳育の基層には豊葦原瑞穂国の秀麗な情景がある

 我々は、教育と言えば、ともすれば学校の教室で教わる人文科学的な世界をイメージするが、人間に必要な教育は知育と徳育のバランスにあることを気付かねばならない。特に情操教育は徳育の基本である。日本人の徳育は、核家族化の前、三世代が同居する大家族時代には祖父母が孫に人として必要なことを教えていた。人倫の基本である。しかし、当時の日本人の徳育にはもう一つの重要な要素があったと思う。それこそが水田や河川の美しさ、そして里山や奥山の美しさであったと思う。欧米型の産業文明にあまり侵食されていなかった時代は、原初的な自然として、日本固有の秀麗な風景がいたるところに見受けられた。この美しい山村の風景が、子供のみならず大人たちの精神性にも大きな影響を与え、情緒的な意味で徳育の要素になっていた。つまり、自然の美しさが日本人の深い情緒性を涵養していたのだ。

 ここで話の流れを神州論に合流させる。特攻兵器「回天」の訓練中、機関の故障により海底に座礁し、救助の見込みのない中で、ただ死を待つばかりの最後に書かれた遺書には「神州ノ尊 神州ノ美」が書かれていた。若き海軍大尉の末期の眼には、「神州」の美しい情景が映っていた。この情景こそ、日本の故郷や日本人に対する尽きせぬ深い愛情である。この風景は特攻訓練をしていた当時の日本人の心だけにあったものではない。現代日本人の心にもきっとその心の窓は残っているに違いない。戦後の日本人はひどく劣化してしまった。もちろん、本物の教育原理が失われたあとでこの世に生を受けた若い世代も、当然のようにひどい劣化を起こしている。しかも、日本には本物の教育環境が損なわれた代わりに、新自由主義という殺伐とした非人間的な思潮が覆い尽くすことになった。最悪である。しかし、若者のDNAには神州が生き残っている。悠久の時間をかけて磨かれた民族の情緒的感性をしっかりと保っている者が次々と出ていることも事実である。これは絶望の中の希望である。

七、終章、「さかなのうた」・・・それは希望の轍(わだち)

  ここまで荒廃、劣化した日本列島にも、まだ希望の光が輝くこともある。それは若い人の感性が美しく花開いているのを見つめる時である。ネットで偶然に見つけたが、公開されている動画にとても美しいアートがあった。それは東京工芸大学の犬尾さんという人の自主制作音楽アニメ「さかなのうた」である。最初何気なくこの作品を見ていたら、妙に気持ちが惹きつけられ、何度も見て音楽を聴いているうちに深く癒されてきた。なんというか、みょうに心の深部に入ってくるアートである。

 アニメも非常に洗練されていて美しい。空を飛ぶシーラカンスを思わせる幻想的でメカニックな魚がゆっくりと動くさまは、あたかも太古に流れていた時間が視覚化したような不思議な光景になっている。そしてこれも幻想的で暗い静かな森が出てくるが、そこにたたずむ少年の姿は、一幅の静かな絵画を眺めているようで、美しい。また音楽は作者自身が演奏し、歌っていると思うが、このフラクタルな波のような音楽は静謐さがあり、心地よい。そして内省的な気分に満ちている。視覚でも、聴覚でも、この作品は相当な完成度を持つというか、一つの高度な芸術作品である。作者がどのような思想で作ったのか知らないが、少なくとも現代の慌しい殺伐とした世界に流れる時間とはまったく異なる、人類が忘却した遠い太古のやさしい時間に誘(いざな)われるような気分になる。この作品のモチーフとなっている少年と空は永遠の時間を象徴している。

 繰り返して聴いていると、深い慰めを感じる不思議なアートである。昔、幼いころ、暗いブナの木々の中を一人で歩いている時に感じた清涼な孤独感と奇妙に共振するものがある。街に流れる時間とはまったく別種の太古の時間が見えるようだ。心の琴線に触れるという表現はよく聞くが、この作品はまさにそれである。私の神州論は大したものではないが、この「さかなのうた」は是非鑑賞して欲しいと思う。気持ちが何ともいえない深い静けさに満ちてくること請け合いである。日本人も捨てたものではないと思う。欧米の近代主義とは違う日本特有のスピリチュアルな美しい世界を少し覗いたような気がした。

   http://zoome.jp/inuo/diary/2/


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2008年3月22日 (土)

外国人の日本株離れ鮮明(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十六弾です)


 東証の発表によれば、三月第二週に外人投資家の日本株の売り越しは、ブラックマンデーに次ぐ過去二番目の規模になったそう。日本売りが止まらない。世界の株式時価総額で日本の昨年のシェアは1990年の5分の1に縮小しており、今年も派手に株価は下落している。衆参で意見が合わず、日銀総裁も決まらない。現在の日本の政治は何も決まらない機能停止状態に近い。それが日本経済の停滞に拍車をかけている。

 お隣の国の中国は、独裁国家だ。何でも簡単に決まる。反対意見があっても問答無用で決めてしまう。チベットでも、何が起こっているのか我々には見えてこないが、多分流血を伴うチベット人弾圧で大変な事態となっているのだろう。政府は力で押さえ込んでしまう。日本と中国の政治体制、どっちがよいのか。学校では独裁より民主主義がよいと教わってきた。しかし、民主主義もここまで非効率になり、機能不全、国民不在の政治となると問題である。一方、独裁国家の中国が飛躍的な経済発展をしている。民主主義の日本が14年間もデフレが続き、経済崩壊とも言えるほどの落ち込みが続いているのに、政治はそれを食い止める手だてを何も打ち出せないとなれば、本当にこれでよいのかと考えてしまう。このような政治の無能から引き起こされた経済停滞を放置していると、独裁者の出現を待望する気運が生まれないとも限らない。

 経済は複雑で、停滞の原因が何かが、誰でも簡単に理解できるというものではなく、どうすれば現状を克服できるのか様々な意見が飛び交う。私も多くの国会議員と個人的に接触し、それぞれの考えを聞いた。深刻な意見の不一致で立ち往生している現状をいやというほど知らされてきた。一つ一つ話せばきりがないのだが、例えば、民主党の枝野幸男氏に2003年頃、「50兆円規模の財政出動をすれば、日本経済は見事に立ち直る」というシミュレーションの説明した。当時、彼は「自分も5兆円、10兆円の景気対策をやる位なら50兆円位の財政出動を思い切ってやったのがよいと考えている」と言った。私は「好感触」と感じた。2年後、再度、もっと具体的にその話を彼にするために会ったのだが、驚いたことに、そのときの彼の反応は全く逆だった。「景気対策など、全く効果はない。減税しても、現代は物が余っていて、買う物など無いから消費は全く伸びず、景気はよくならない。」ともの凄い剣幕でまくし立てられた。

 それほど多くはないのだが、こういった政治家には、時々出くわす。冷静に話し合おうとせず、相手の話を封じ、持論を押し通す。経済の議論をしようと思えば、過去の経済データを元に、科学的に分析し、将来の予測をしなければならない。天気予報だって、下駄を投げて明日の天気を予想するより、膨大な気象データを大型コンピュータでシミュレーションをすれば、当たる確率が高くなるではないか。可処分所得が増えれば、それに比例して消費が伸びることは、過去の膨大なデータに裏付けられた動かしがたい事実だ。10万円程度の減税をやってもらっても、枝野さん個人としては消費を増やさないかもしれない。しかし、国全体では確実に違うのだ。

 金利が上がれば利子収入が増えて景気が良くなるという「珍説」がある。一見してもっともらしく思えるのだが、経済は利子収入だけで終結するのではない。だからこそマクロ経済モデルを駆使したシミュレーションが必要となるのだ。例えば、内閣府の試算を引用しよう。短期金利を1%上げたらどうなるか。まず設備投資が大きく下がる。お金を借りて設備投資をしようとしている人にとって、利払いの増加は大きな痛手となるからだ。初年度1.33%、2年目2.97%、3年目3.63%も減少する。住宅投資も同様に金利が上がれば買いにくくなるのだが、こちらは2年目から効いてくる。1年目は変化なしで、2年目は0.81%の減少。では利払いの増加で消費はどうかと言えば、初年度は-0.02%、2年目0.06%、3年目0.17%というわけで、増加はするが、増加幅は小さい。総合的には、名目GDPも、実質GDPも大きく下がり、デフレは加速し、失業率も増える。更に金利の値上がりは、借金を多く抱える国・地方の財政を大幅に悪化させる。悪いことばかりだ。

 それでもなお、日銀は金利を上げたがるし、マスコミはいつ上げるのかと催促している。全く間違えた判断だ。デフレのときに金利を上げてはいけない。14年間もデフレが続き、経済はどん底に落ち、更に日本は貧乏への道をばく進している。私の提案は、もうここで思い切って、経済政策だけは、マクロ計量経済学の結果を全面的に信頼することとし、シミュレーションで最良と出た手法に忠実に従って、経済政策を進めたらどうかということだ。経済が成長し、国民の暮らしが改善し、更に環境問題に十分対処できるような政策を、コンピュータではじき出し、その結果には誰も口出しをしない。つまり完全な独立性を確保すればよい。

 経済理論も色々あるかもしれない。しかし、過去の経済データをどの理論が忠実に再現できるかを見れば、どの理論が最も優れているかは判断が可能であり、最も優れた理論を使えばよいだけである。その理論に基づいたシミュレーションにより定まった最良の経済政策には誰も口を挟むべきではない。この考え方に基づくなら、財政と金融の独立性は不要である。いわば、大型ジェット機の自動操縦のごとく、人間は関与しなくても、最良の政策決定が可能だ。これは極めて効率的であり、合理的であり、日本経済を最も成長させることができる方法が導けることは間違いない。日本経済が発展すれば、日本売りがとまり、日本買いが始まる。(小野盛司)

“お知らせです” 

 3月26日の日本経済復活の会の定例会

3月26日(水曜日)、東京にて宍戸駿太郞先生の講演があります。日本経済復活のために今何をすべきかという大変貴重なお話を聴くことができます。皆さんも是非、積極財政論の真髄を味わってください。小野会長のお話とともに、日本経済復活の希望を得て帰っていただきたく思います。弁当やお茶の用意がありますので、決まったら上記案内をご覧の上、小野会長宛にご連絡ください。電話でもメールでもけっこうです。(神州の泉・管理人)

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2008年3月20日 (木)

景気が「踊り場」入り?? デフレとは大不況を意味するのに!(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十五弾です)

 昨日(3月19日)の関係閣僚会議で、大田弘子経済財政担当相は、「景気は踊り場状態にある」と表明した。しかしながら、下の図を見ていただければ分かるように、日本経済1994年からデフレーターがマイナスになって以来、ずっとデフレが続いている。デフレとは、どの国も絶対に避けようとする大不況の状態だ。だから、デフレを続けようとする馬鹿な国はどこもない。日本も1997年に僅かにデフレーターがプラスに転じたように見えるが、それは消費税増税による見かけの物価値上がりによるものだ。実際に需要が増えてデフレーターがプラスになったわけでなく、実質このときもデフレは続いていたし、実際はデフレは悪化していた。そういうわけで、景気は踊り場というわけではなく、実際は景気は1994年からずっと大不況が続いていると言うべきだ。戦後最長の景気回復など、全く「大本営発表」の虚報もいいとこだ。  「踊り場」とは長い階段の途中で一呼吸するために設けてある平坦な場所。製油所などにある塔の周囲を巻くらせん状階段の途中にも平坦部がある。「景気の踊り場」とは、変化する景気の中で一時的な中休み状態にあることを言う。)

 これだけの経済危機であるのに、政治家には危機感がない。国会は何も決まらないだけでなく、決めようと悪戦苦闘していることの内容が、経済危機打開につながる重要課題ではない。日銀総裁人事も重要だと言うが、もともと日銀が機能停止しているからこそ、十数年間もデフレから脱却できず、日本が一気に貧乏になってしまったのだ。機能停止状態で、新しい総裁が決まったところで、機能停止の状態は変わらない。

 日銀の決断次第でデフレなど一気に脱却できる。日銀は金利引き下げの余地がほとんどないから、いずれにせよ何もできないとの発言に対して、バーナンキFRB議長は言った。それなら、日銀が国債を全部買い取ったらどうかと。そうすれば、巨額の資金が国民へ供給されインフレになる。それではインフレ率が高くなりすぎるではないかと言うのであれば、適正なインフレ率になるところまで、日銀が国債を買えばよいだけ。それにより、日本経済の没落を食い止めることができ、円の信用失墜も食い止めることができる。日本経済はかつてのような力強い成長を始める。経済の成長があれば、税収も増えるし、国の借金も気にならない程度にまでに減ってくる。すべてはマクロ計量経済学により正確にシナリオが描けるのだ。

 昨日(19日)、滝実(たきまこと)衆議院議員を通じ政府に質問主意書を提出した。これで22回目だ。内閣府の試算「進路と戦略」には、積極財政の方が、緊縮財政より景気を回復させ、成長を高め、デフレを脱却し、財政も健全化するという結果が出ていますね。それなのにどうして積極財政にしないのですかという内容。答弁書は10日後あたりに受け取れるので、そのときは、ご報告したい。

 先日もお知らせしたように、近く、宍戸駿太郞vs大田弘子大臣の公開討論会が開かれる。これに関連し早くも、あるところから「圧力」がかかって来ている。我々は、この討論会が「時代が動く」きっかけになって欲しいと願っている。マクロ計量経済学に従えば、デフレ下で、緊縮財政を行う利点は全くない。本日の朝日新聞の2面には「財政出動も『「巨額の債務を抱える現状ではマイナスの影響が出る』という内閣府幹部の発言が掲載してある。こういう間違えた発言だけをマスコミは掲載し正しい発言を抹殺し続ける。これが真実なら、内閣府の発表する試算は全部嘘ということになり、内閣府の経済統計・試算は、単に税金の無駄遣いをしているだけということになる。

 福田総理にご提案させていただきたい。株価も落ちたし、景気も悪いし、内閣支持率も低下するばかり。もはや失う物は何も無いでしょう。起死回生、日本経済の復活のための財政出動を思い切ってやりましょう!経済発展に必要な成長通貨を国民に供給し、日本経済を一流の状態に戻そうではありませんか。(小野盛司)

出所 OECD Economic Outlook
Gdp_3 

※“お知らせ” 

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2008年3月18日 (火)

日銀総裁人事の議論で欠けるもの(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十四弾です)

 日銀の総裁人事は混迷を極めている。しかし、この人事が重要であるとして、なぜ重要なのかを正しく指摘した論評を見たことがない。金融資本市場が荒れる中で「通貨の番人」と呼ばれる日銀総裁ポストに空白が生じれば困るというだけなのか。空白を作らねばそれでよいのか。

 最も重要なことを忘れている。それはどうやってデフレを脱却させ日本経済を復活させるかということだ。どの候補がデフレ脱却のための具体策を持っているかという議論は一切無い。候補者にそのような質問をする勇気のある人物さえ、存在しない。質問しているのはただ一つ、誰が「買いオペ」をしない(お金を刷らない)人物かということだけ。

 私は、気は確かなのかと言いたい。デフレの時に買いオペを禁止したら、デフレは絶対に脱却できない。日本はますます貧乏になるだけだ。これはまさに世界大恐慌を引き起こしたフーバー大統領や昭和恐慌を引き起こした井上準之助蔵相の取った最悪なる政策だ。どうしてそのように歴史的な危険人物を日銀総裁に就任させたいのか。デフレ問題の世界第一人者であるバーナンキFRB議長が来日して買いオペを勧めた事を、重く受け止めて頂きたい。

 金融政策とは買いオペもあれば、売りオペもある。財政政策には拡大路線も緊縮路線もある。両方を臨機応変に使い分けて、この厳しい経済情勢を乗り切らなければならないのに、買いオペも財政拡大も禁止してしまったら、アクセルの壊れた車を運転しているようなものだ。図1を見て頂きたい。日本の成長率は群を抜いて遅い。これではまるで高速道路を自転車のスピードで走っているようなもの。周りの国にどれだけ迷惑をかけているか分からないのだろうか。更にスピードを落とそうと考えている人たちの気が知れない。

 成長率が遅すぎれば買いオペ(お金を刷ること)で景気を加速し、速すぎれば売りオペ(お金を回収)で景気を冷やす。これはどの経済学の教科書に書いてある。日銀は何をやっているのか。図2を見て頂きたい。なんとデフレが続く日本経済で、更に景気を冷やすために売りオペをやっているのだ。世界の中でノロノロ運転をしている日本経済の成長を更に遅らそうとしている。可処分所得が下がり、消費が盛り上がらなくて困り果てている日本経済だが、国民から更にお金を奪い取ってしまおうとしている日銀。本当にこんな日銀は必要なのだろうか。

 デフレなのに、買いオペが嫌いな人が多いようだが、買いオペしたらどうなるのか。国債(国の借金)を日銀が買い取り、莫大な国の利払いが日銀に戻って国庫に返る。それだけではない。国債が日銀に買われた替わりにお金が銀行や郵便局等に流れていく。そのまま遊ばしているわけにいかないから、何かに運用する。例えば一部は株に流れるから株は上がる。株式の時価総額は、株式市場に流れたお金の10倍も増える。それだけではなく、お金不足で極端に収縮した日本経済を活性化し、税収も増え、デフレ脱却も可能とする。それが、当然国の借金を減らしていく。また名目GDPも増えるから国の借金のGDP比は大きく減少する。運用先は国内だけに留まらず海外にも流れるだろうから、ドル安、円高の流れをストップさせ、輸出企業には、恵みの雨になる。

 経済が強くなれば、当然、円の信用も増してくる。最近十数年の間で、日本経済の没落は目を覆うものがある。それは取りも直さず、円の信用の低下を意味している。かつてドルが高い信用を得たのは、アメリカの経済力だったし、今、ドルの信用が揺らいでいるのは、アメリカ経済が世界の中で埋没しつつあることに起因している。それと同じだ。円の信用を高めようと思えば、お金不足で息絶え絶えの日本経済にお金を供給することで、息を吹き返えらせることしかない。(小野盛司)

図1
2007

図2
Photo


※おしらせ 

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3月17日、植草一秀氏の控訴審を傍聴して

(※ これは植草事件を検証する会F氏の傍聴記、及び感想です)

◆昨日3月17日、植草氏の控訴審公判を傍聴した。場所は今までと同じく429号法廷。高裁ということで、場所は変わるものと考えていたので意外に思った。法廷前のプレートは、「地裁」と書かれてある箇所に2本線が引かれ「高裁」と書きかえられていた。よくみるとチョークのようなもので斜めに殴り書きしてあるだけだった。これから起きることを予告しているような印象を受けた。

 報道関係者による2分間の撮影後、向かって左側から弁護団、植草一秀氏が右側のドアから入廷した。傍聴席を仕切っている柵のそばに黒いソファーが3つ並べられ、植草氏は裁判長席に向かって座った。

 裁判長は植草氏にいくつかの質問をし、植草氏はそれに多少とまどいながら答えた。弁護側と裁判長席の間にスクリーンが置かれ、弁護団はパワーポイントを用いて被告の無罪を主張した。弁護団の要求に対し裁判長は「いずれも必要性が無いものとして却下する」といい放ち、弁護側が求めた証拠調べの請求さえもことごとく退けた。そのとき、傍聴席では、ザワツキこそなかったものの、顔を見合わせ唖然とした表情をみせる人たちが多くいた。

 次回の判決の日をいいわたされ公判はあっさりと終了した。傍聴人は急きたてられるように退室した。中央の席に座ったままの植草氏の様子は、はっきりとはわからなかったが、おそらく呆然とされていたように見受けられた。この裁判は、まったくの茶番劇である。マスコミが報道したことよりも、マスコミが報道しなかったことにこそ、事件の核心が潜んでいる。言い換えるなら、マスコミが世間に向けて報道した植草事件の内容は真実を覆い隠し、植草氏の誤まったイメージを流布しようとする意図が明白である。権力と結託したマスコミが故意に植草氏の名誉を地に堕とす目的で行われたものである。そもそも被害当事者である「女子高生」は本当に「女子高生」だったのか?

 我々「植草事件を検証する会」は、一審の公判やその他を通じて、さまざまな検証や考察を重ねた結果、2004年の品川駅構内の事件も、2006年の京急事件も、明らかに官憲が係わった意図的な偽装事件であったという結論を得ている。つまり、植草氏は濡れ衣の罪に落とされているということである。この濡れ衣に大きく関与しているのがマスコミの報道である。植草氏を嵌めた主体とは、マスコミ報道を恣意的に操作できる位置にある勢力である。これは公権力の中枢と無関係ではあり得ない。植草事件の真相とはかくも巨大な背景を有しているのだ。

 メディア・リテラシーをきちんと働かせている人は、我が国において最近頻発する報道の偏向性、恣意性に気が付いているはずである。その一例として、昨年の12月、香川で起きた祖母・孫遺棄事件がある。この報道様態には松本サリン事件と似たような状況が生まれつつあった。

http://www.shikoku-np.co.jp/national/social/article.aspx?id=20071217000183

 この事件報道において、あるテレビ局の某番組は、被害者の幼子の父親をほぼ犯人と断定するような無謀な短絡を露呈した。その報道の中で、マスコミは被害者の幼児の友達にまで執拗にマイクを向けていたではないか?あそこまでやるマスコミが、なぜ植草氏の被害にあったとされる「女子高生」のところに取材に押しかけないのか、私にはそれが初期から不思議でしょうがない。

 さらにもう一つの疑念がある。事件当日、植草氏がなぜ大量飲酒にいたったか、報道機関はその場にいあわせた団体になぜ取材に行かないのか?その団体を取材してはならない背景が存在するのだろうか。報道はいきなり事件の蓋然性を疑いないものとして、女子高生の素性も、直前まで一緒に飲んでいた団体も調べようとしない。マスコミに限らず、司法もこの事件の不自然な要素にはいっさい関知しない姿勢自体が、この事件がただの冤罪事件ではない異様な深い背景を持つことを物語っている。

 植草氏が告発したりそなインサイダー疑惑の本質とは、国際金融資本が金融収奪に際して取りうる常套手段である。経済番組では、日本の株式市場の6~7割が外資によるものであるとことを既定事実として語るが、なぜそうなったかについては決して言及しない。2003年4月、日経平均株価は歴史的な安値7603円をつけた。このとき、「外資さまの御買い占め」を演出したのが小泉・竹中「改革」だった。その結果何がおきたのか?今さらながらに植草氏の言論を読み返してみた。

http://web.chokugen.jp/uekusa/cat70107/index.html

 不遜ではあるが、これに付け加えさせてほしい。りそな処理は人工的に相場の転換点を強引に、作為的に作り上げた。その結果、日本はマーケットの主役を外国勢力に奪われただけではない。この時、配当金を通して莫大な国富が外国資本やファンドに渡るようになったのだ。正確な額はわからないが、小泉内閣発足時の2000年に比して、配当金は数兆円は増えたはずである。小泉内閣はそのほとんどが外資にわたるように「構造改革」を実行した。「働けど働けど、わが暮らし楽にならざりき、じっと手を見る」ように、日本と日本人を超格差社会とワーキング・プアーに変えた小泉内閣陣。歴史的に稀代な詐欺師をあたかも錬金術師のごとく偽装し、もてはやしたマスコミ。その小泉氏をいまだに持ち上げる自称保守派の言論人に言いたい。あなたたちは本当に日本人なのか?

 今回の公判はおよそ裁判の名に値しないデキレースだった。これほどのひどい裁判を見せ付けられれば、「裁判に一般人の眼を導入せよ」という声が出てくるのは当然である。しかし、それこそが日本総督府からの指令に違いない。私は今、郵政解散選挙を思い出す。売国連中はこういう常套手段を使う。既存のシステムを破壊するときは、前段階として、世論がそれを望ましく思う状況を作りだすのである。この視点にたてば、富山の冤罪や鹿児島の志布志事件も、裁判員制度導入のためにデッチアゲられた可能性があると私は思っている。

 判決が言い渡される4月16日の結果はほぼ決まっているはずだ。いま株式市場は下落の一途をたどっている。円高が急激に進むという異常な為替の動きもある。来月、植草氏へ有罪判決が言い渡されるとき、それは外資への「買い指令」のきっかけになるのではないかと私は想像している。そのための下げが今まさに仕掛けられているのではないだろうか?日経平均の作為性を知らないデイトレーダーたちは、あの「りそな処理」のときと同じように、過ちを何度もくりかえすことになる可能性を、ここで指摘しておきたい。

 最後に、政治的背景(小泉政権糾弾の急先鋒)によって、第一級の邪魔者として扱われた植草氏は、その執拗な悪意を時間が経っても受け続けていることをここに知らせておく。昨日、田中裁判長は植草氏の本籍地を、報道陣のいる前で氏に確かめさせた。被告本人から現住所を述べるようにする意味があるのだろうか。公判の内実とは何の関係もないことだ。どう考えてもこれは植草氏の現住所をメディアにさらす意図ではないのか。第一審公判において、検察は植草氏の性的嗜好について無用な質問を故意に行なった。これは司法の品位の問題と捉える前に、司法がマスコミに下衆な報道材料を与えているとしか思えない。同様に昨日の植草氏の現住所のさらしは司法の域を超えているのではないのか。このような事象にも、植草氏がマスコミを随意に操作できる公権力に捕捉されていることを感じずにはいられないのだ。


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2008年3月17日 (月)

ドル急落、円95円台、株急落、政府は日本経済を見殺しにする気か(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十三弾です)

 米国のサブプライムローンを発端とする金融不安が深刻化し、本日3月17日、円高と株安が進んだ。莫大なお金が消えて行っていることが分かるだろうか。東証の株の時価総額は昨年7月から、約200兆円減少した。つまり、国民一人当たり約170万円も損をした勘定だ。日本は1兆ドルの外貨準備を持っている。これは政府が国債を発行して(つまり借金をして)円を手に入れそれをドルに替えたもの。昨年6月に比べ、30%近く円高になった。ということは、日本政府が借金をして買ったドルの価値が、30%近く下がったのだから、30兆円近くもの損失が発生したということになる。ガソリンの暫定税率で2.6兆円の税源が失われるかどうかという議論で、国会が右顧左眄している間に、その10倍、いや100倍近い損失が発生している。与党も野党もこのことには、全く無関心だ。瀕死の状態の日本経済を、救おうと考える政治家はいないのだろうか。

 2年位前だったと思う。アメリカの経済学者(ノーベル賞受賞者)、サミュエルソンは日本政府に忠告している。アメリカ国債ばかりを持つのでなく、もっと有利な投資先を見つけなさいと。もちろん、日本政府が米国債を売ることは、アメリカ経済にとっては、不利になることだ。しかし、サミュエルソンは日本の苦境をよく知っている。日本経済を何としても救いたいと思っている。だからこそ祖国の利益を度外視してでも、日本経済を救うためにアドバイスをした。彼には将来のドル安が見えていたのだ。更に、彼は日本政府に、お金を刷りなさい。そして減税などに使いなさいと日本政府に提案している。

 残念ながら、日本政府は彼の忠告を無視した。米国債以外に移ったとき、損害が出たら誰が責任を取るかなどと馬鹿な議論をしているうちに、莫大な損害が出てしまった。誰が責任を取るのかお聞きしたいものだ。米国債を売ることに反対した人に責任を取ってもらうしかない。

 もちろん、日本の損害は、上記のものだけではない。下の図にあるように、地価の下落だけで、1200兆円もの資産が失われた。デフレとは、際限なくお金が消えていく。もしも政府がこれを放置したら、国は際限なく貧乏になる。国の借金は決して減らない。貧乏になった国民から税金を取り立て、膨大な国の借金を返そうなど、できるわけがない。デフレでお金は消えても、生産設備は消えるものではない。今、生産を増やそうと思えばいつでも増やせる。しかし、お金が消えた状態では、物が売れないから膨大な生産設備を遊ばせてしまうことになる。これが途方もない無駄だということが分かるだろうか。

 サミュエルソンの提案に従って、お金を刷って国民のために使ったらどうなるか。消えたお金が戻ってくる。そうすれば、また物が売れるようになり、生産設備が生きてくる。日本経済のダイナミックな発展が再開する。経済活動をするに十分なお金が戻ってくるわけだ。環境対策にも、教育にも、医療にも、年金にもお金が使えるようになる。日本経済を復活させたいと思っている方々に訴えたい。増税・歳出削減に反対し、減税・歳出拡大を求めよう!それが、デフレ脱却し、我々の子孫に豊かな生活を保障する唯一の手段だ。国を豊かにすれば、円の信用も復活する。(小野盛司)

出所:国民経済計算
Photo


※おしらせ 

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2008年3月15日 (土)

宍戸駿太郞vs大田弘子大臣 公開討論会で時代が動く(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十二弾です)

 3月14日の予算委員会で、日本経済復活の会の顧問である参議院議員自見庄三郎氏が「宍戸駿太郞vs大田弘子大臣」の公開討論会を求め、これを福田首相が受け入れた。1971年のピンポン外交を思い出す。それはアメリカの卓球チームが単に中国を訪問しただけではなく、米中対立の時代が終わったことを意味していた。

 私は、この公開討論会が、単なる討論会ではなく、政府が積極財政への転換のきっかけになって欲しいと願っている。福田首相も自見氏の提案を拒否することは簡単だっただろう。「検討します」と言っておいて、後で時間調整がつかなかったなどと言えばよいだけである。しかし、福田首相も国民のために、経済復活のために何かしなくてはいけないという思いが、即座に受け入れる決断に至らせたのだと思う。我々は、日本経済のため福田首相に全面的に協力する覚悟である。

 日本経済にとって、現在は四面楚歌だろう。外需頼りで景気回復を目指していたのに、アメリカのサブプライムローン問題で、外需に陰りが見えてきた。円高が日本経済の牽引役である輸出産業に重くのしかかる。デフレ脱却は見えてこない。様々な経済指標で日本経済の没落が目立ってきた。特に、福田政権になってからの株価下落はひどい。下図を見て頂きたい。年率換算の株価騰落率は最近の7内閣の中で群を抜いて悪い。

Photo_2

 こういう状況で、福田首相も心の中で助けを求めているのではないか。今の経済ブレーンで本当に大丈夫なのかと、彼が思うようになったとしても不思議ではない。宍戸駿太郞氏は、かつて大蔵省で日本経済の高度成長を経済理論で支えてきた最高のブレーンである。彼のアドバイスを聞いてみたいと首相も考えたのだろう。我々は、「日本はここまで貧乏になった」という意見広告を朝日新聞に載せたことがあるが、そのメッセージが福田首相にも届き、首相は「一人当たりの名目GDPが世界18位にまで下がったんですか」と、話されたそうである。

 これから、我々は公開討論会に向け準備に入る。我々の目的は日本経済を復活させることであり、政府を倒すことでは決してない。我々は超党派で組織する会であり与党でも野党でもない。日本経済復活は、国民すべての願いだろう。ここは党派を超えてじっくり議論をしたいものだ。

 本日(3月15日)の日経朝刊の第2面に書いてある。2003年1月の「次の内閣」では「国債買い切りオペの増額を積極的に検討すべきだ(つまりお金を刷るべきだ)」、との談話を決定していたとのこと。民主党も没落する日本を救う決定打を知っていたというわけだ。ここは、与野党とも冷静に客観的に、デフレ時に政府は何をすればよいのかを考えて頂きたい。

 3月26日の日本経済復活の会の定例会では、宍戸駿太郞氏の講演がありますので、日本経済復活のために今何をすべきかという議論に、皆さんも是非加わって頂きたいと思っております。

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2008年3月14日 (金)

『宍戸駿太郎氏vs大田弘子大臣』の公開討論会が決定!!

 前々回の記事、『自見庄三郎氏吼える』で、大田弘子大臣と宍戸駿太郎先生の討論会を行なう指示を、福田総理が出していなかったと思い込んでいましたが、日本経済復活の会の小野盛司会長は福田総理が「公開討論会をやれ」とはっきり指示を出していたことを確認していました。したがって、訂正します。

 大田大臣と宍戸駿太郎先生の公開討論会は実現の運びになりました。討論の様態や日時については追って決定されることと思います。大田弘子大臣も経済学者ですから、きちんと臨んでくれると思います。国会の場で明言していますから。

 私は経済の素人ながらも、積極財政論がなぜ政府やマスコミ等、公の場で取り上げられないのか訝しく思っている一人です。今までの流れを考えるなら、福田総理の決断は予想を裏切るものです。討論会開催の意義は、国家の命運をよい方向に戻す、非常に希望の持てる話なのです。神武肇国以来、長い歴史を持つ我が国は、国家が土壇場になると論理を超えた不思議な力学がはたらくのでしょうか。大東亜戦争敗北のわだちを踏んでも我が国は滅亡しませんでした。二度の元寇の役でも滅びませんでした。明治維新は国体の危機でしたが乗り切りました。今の日本は貧乏どん底ジリ貧国家に突入して、青息吐息です。

 大袈裟かもしれませんが、今回の公開討論会実現は日本が倒れる寸前の神風に等しいことかもしれません。

 追記:   3月26日の日本経済復活の会・第50回定例会は当日参加もOKです。しかしながら、当日に食事の準備等がありますので、決まった時点で連絡をしていただきたいと思います。宍戸駿太郎先生のお話です。みなさん、こぞって参加してください。

      

 定例会詳細と連絡先


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☆お知らせ☆ 時局講演会(3月14日(金)、15日(土))

(※喜八ログさんの記事をお借りしました)

(★引用開始★)

☆お知らせ☆ 時局講演会(3月14日(金)、15日(土))

2008-02-3 02:08 by 城内 実

 3月に以下の日程で時局講演会「信念を語る」を開催します。皆様ふるってご参加願います。

 弁士:元経済産業大臣 平沼赳夫、政治評論家 福岡政行、野球解説者 中畑清

○浜北会場:3月14日(金)19:00~20:30、浜北総合体育館(グリーンアリーナ)、入場無料

 JR浜松駅(徒歩5分)→遠州鉄道新浜松駅(22分)→遠州鉄道浜北駅→浜松バス西廻り「グリーンアリーナ」下車(20分)
 JR浜松駅(徒歩3分)→遠鉄バス61番(40分)→「サンストリート浜北グリーンアリーナ入口」下車(徒歩5分)

○湖西会場:3月15日(土)11:00~12:30、湖西市民会館大ホール、入場無料

 JR浜松駅(20分)→JR鷲津駅→遠鉄バス10番(3分)「市役所前」下車 

(★引用終了★)



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自見庄三郎氏吼える!!

 さきほどNHKを見たら、衆院予算委員会の質疑が生中継されていて、国民新党・自見庄三郎氏(新緑風会所属)が質問していた。最近、日本経済復活の会・定例会で彼のパワフルな話を聴いてきたばかりなので、その人が国会の壇上で総理に質問している姿は特別な感慨があった。自見庄三郎氏は、国民の多数が小泉構造改革を否定的に見ていることや、郵政民営化がまったく国民の利益にもならないし、日本のインフラの破壊であるというようなことを言って、郵政民営化の即時凍結を訴えた。まったくその通りである。
             
 また大田弘子経済財政政策担当大臣との質疑では、何度も宍戸駿太郎先生の名前を出し、今の日本は宍戸先生の智慧を借りて積極財政に打って出るべきだと言った。最後の方では大田大臣に宍戸駿太郎先生と討論会を開けと詰め寄った。大田氏は最初、取り合っていなかったが、自見先生が何度も討論会の必要性を訴えたら、福田総理の指示があれば、宍戸先生と討論会を開いてもいいとたしかに言った。元政府税制調査会会長である本間正明氏の薫陶を受け、竹中平蔵氏の経済感覚をそのまま踏襲する大田弘子氏が宍戸駿太郎先生と討論を行なうとどのような展開になるか想像できるような気もする。しかし、やることは記録が残るから決して無駄ではないだろう。是非実現してもらいたいものだ。

 本間氏も竹中氏もサプライサイドの経済思想であり、それを踏襲する経済学者の大田氏がどのような展開をするのかすこぶる興味深い。しかし、今の福田政権そのものが、小泉構造改革路線を継承するアメリカのいいなりの傀儡政権である理由から、福田総理が自見庄三郎氏の言うことに従って、「大田経済大臣vs宍戸駿太郎先生」の討論会をやってもいいなどという指令はおそらく出さないだろう。竹中平蔵氏が植草一秀氏との言論対峙を避けたのと同様に、サプライサイドの呪縛思想に絡め取られている大田氏も討論には応じないだろう。しかし、国会で福田総理の指示があればやると言っているので、多くの支持があれば総理は指示を出すかもしれない。何が起きるかわからない世の中だ。

 積極財政論をタブー視する現政権が、大田弘子氏のような御用学者と積極財政論の大御所である宍戸駿太郎先生との討論会を是非実現して欲しいものだ。その場合は日本経済復活の会の会長さんである小野盛司氏も討論メンバーとして加えて欲しいものだ。

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2008年3月12日 (水)

背後にアメリカが?日銀の独立性について:日銀総裁人事の奇々怪々

読者のいかりや爆さんのコメント投稿をエントリーします。(太字強調箇所は管理人の独断です)

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背後にアメリカが?日銀の独立性について:日銀総裁人事の奇々怪々

日銀の総裁人事をめぐって、与野党間でもめにもめている。

 今月19日に福井総裁の任期が切れる。与党は下手すれば、株価低迷やサブプライムローン問題の影響などこの重大な時期に総裁不在という空白が生じ、大変なことになると言っている。安倍首相が政権を放り出して政治空白が生じたことなどもうすっかり忘れたのだろうか。一国の首相首相の重みよりも日銀総裁問題の方が重いとでも言うのだろうか。

 法案なら、参院で野党が否決しても、衆議院に差し戻して三分の二以上の多数決で再可決が可能(テロ新法のように)。だが、総裁人事は参院で野党が否決すれば、衆議院で再可決という手段はとれない。

 民主党は武藤副総裁の昇格については、早くから否定していた。そういう事情は百も承知いたはずであるにもかかわらず、与党は武藤氏をもちだしている。つまり自爆覚悟で武藤氏を推薦している。さらに額賀福志郎財務相は11日の閣議後記者会見で、政府が次期日銀総裁に武藤敏郎副総裁を昇格させる案を国会に提示したことに関連し、「最善の案を出しているので、再提出も含めて国会の同意を得る努力をする」と述べ、野党の反対で同意を得られなかった場合、同案を再度提示すべきだとの考えを表明した。(時事通信)

 そこまで武藤氏にこだわる理由は何だろうか。問題の多いテロ特措法の場合も、安倍前首相、福田首相も一貫して、テロ特措法にこだわり続け無理やり成立に漕ぎ付けた、アメリカの要望に従ったと言わざるを得ない。郵政民営化も背後でアメリカが糸を引いていた。日銀総裁の背後でもアメリカが糸を引いているのではないだろうか、それほど米国にとって日銀総裁は重要な役割を担っている。

 「日本経済復活の会」の小野会長は、第三十二弾、『アメリカが圧力をかけて日本に景気対策をさせないようにしているのか?』の冒頭で次のように述べています。

”” アメリカが圧力をかけて日本に景気対策をさせないようにしているのではないかという疑問が、読者からメールで筆者に寄せられたので、そうではないということを書くことにします。””

 私は、小野会長ほど単純には考えない。

 リチャード・ヴェルナー氏の 『円の支配者』「誰が日本経済を崩壊させたのか」によれば、日銀がバブル発生から崩壊まで、またその後の日本経済の顛末に深く関わっていたことを実証しています。特に、大蔵省(当時)の経済浮揚策にもかかわらず、その陰でひそかに窓口規制という手段を用いて、景気浮揚策に対し陰で足をひっぱっている実体を暴いています。

 日銀の独立性を担保することが、それほど重要なことだろうか。現在の日銀は、一企業として株式市場にも登録されている。独立性は形式上担保されています。 

 我々国民は、むしろ日銀の「目にみえない独走」に目を向ける時ではないだろうか。国民の目にみえる『透明性』こそ重要である。経済の重要なカギを握る日銀は、まさしく伏魔殿のようである、その奥の院で何が行われているのかを明らかにしなければならない。
 福井総裁の任期中彼は何をしたか、共産主義にしかあり得ないような超低金利政策(ゼロ金利~0.5%)で国民の資産を毀損した。

 この10年間で日本は一人当たりGDPが18位になったことは小野会長は指摘しています。財団法人 国際貿易投資研究所(ITI)発表の統計資料によれば、2006年の一人当たり名目GDP(ドル表示)は20位になっています。

 また、同所の資料:世界各国のGDP(上位60)によれば、2006年の日本の名目GDPは、4,365,418(単位100万ドル)です、1995年は5,247,609(単位100万ドル)です。なんと日本の名目GDPは11年間で、17%も低下(0.83倍)したのです。

 これら60カ国のうちマイナス成長だった国は無論日本一国だけ、日本の経済政策がいかに間違っていたことを如実に示すものです。多くの政治家の『いざなぎ超え』などというとぼけた虚言妄言の実体がこれだったのです。これら日本経済に日銀は深くかかわっています。

 今年2月末の外貨準備高は1兆ドルを超えました。その85%以上は外債(外貨証券)です(そのほとんどは、米国債と思われる)。小泉政権成立直前の2003年3月末の外債額は2820億ドルしかありませんでした。それが現在その3倍、8568億ドル(約95兆円)なっています。均衡財政を叫んで自国の国債発行を抑える一方で、一体何のために米国債を購入し続けるのでしょうか。あたかも、アメリカのイラク戦費を陰で日本が支えているようにみえる。 

 ブッシュ大統領がイラク戦を開始した2003年1月からその翼年3月まで狂ったように為替介入(円売りドル買い)している。総額は約35兆円以上にのぼる。しかもそのほとんどは米国債に化けたものと思われる(財務省はその詳細の実体は明らかにしていないが、それを裏付けるように、外貨準備高のなかの外貨証券が激増している)。米国債の購入は事実上、アメリカへの献金に等しい。

 日銀の独立性は日本国民に対しては独立しているように見えても、皮肉なことにアメリカに対しては完全に従属しています、違いますか。独立性を問うなら、アメリカからの独立性を問うべきです。

 アメリカの政治も経済も常にダブルスタンダードであり、表向きだけを見ては誤りを犯す。日本の日銀にあたるのは、米国ではFRB(連邦準備制度理事会)ですが、その成立の経緯について、掲示板『阿修羅』の玄関口に『詐欺師集団=国際金融資本を告発するビデオ』として紹介されています。

 「日本経済復活の会」の顧問には、自民、民主、国民新党及び無所属議員含め計90名以上の議員が登録されています。彼らは言葉は悪いが、単なる愚者の集団ですかね?このメンバーのなかには、小泉チルドレンのような役立たずのチンピラ議員は一人もいない。これだけの錚々たる超党派議員が一丸となれば、大きな起爆剤になり得るはず。にも拘わらず、「日本経済復活の会」の主張は全く無力です。何故だろうか。

 日本経済は、アメリカの手のなかで踊らされています。「日本経済復活の会」のグループが主張するような経済政策をを採用するなら、日本経済は間違いなく復活するはずです、株価も現在の3倍にはなるでしょう。日本経済が復活すれば、日銀の現在の低金利政策は採れなくなる。その場合、仮に日本の金利が3~5%となった場合(日米に金利差がなくなるかもしくは逆転)、米国債の購入の大義名分が立たなくなる。日本経済が復活して困るのは、アメリカと違いますか。
 仮にアメリカが困らないとしても、日本経済の自立はやがて日米安保体制を揺るがすはずです。

 「人の心は、お金で買えない」というのはきれいごと、実際のところはお金で買えるのです。貧乏人、貧乏国民にして生かさず殺さず、そしてIQの低い愚民のほうが、御しやすいのです。

蛇足:

 日本は今、岐路に立っている?いやもう手遅れかもしれない。
(1)戦後から60数年、日米安保体制、そして今日米同盟とまで言っています。しかし、実情は日本の米軍基地は、アメリカ本土を守るための極東の前線基地じゃないですか。

(2)日本の医療制度は崩壊の危機にある・・・アメリカ型に移行しつつある。アメリカの自己破産者の半分は高額医療費を払えなくなった人たちという。

(3)裁判員制度はまさしくアメリカの陪審員制度そのままである。

(4)郵政民営化は小泉政権がアメリカの要望に応えたもの。

その他、例をあげればきりがないほど、アメリカの属国化がはびこっています。

投稿 いかりや爆 | 2008年3月12日 (水) 15時19分

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積極財政の経済シミュレーションと、その驚くべき結果(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十一弾です)

○「日本経済復活の会」発足の経緯
 

 私が、このようなシミュレーションを行おうと決心したのは、2002年のことだった。自分一人ではとてもやろうとは思いつかなかっただろう。何と言っても、私を支えて下さったのは、宍戸駿太郞氏だった。この分野の第一人者であり、世界的に有名な経済学者で、ノーベル経済学賞の有力候補である。かつて、大蔵省の審議委員として日本の高度経済成長をシミュレーションで引っ張っていた人であり、筑波大学副学長、国際大学学長、環太平洋産業連関学会会長など、まばゆいほどの経歴の持ち主であることを考えれば、通常とっつきにくいだろうと思うのだが、全くそんなところはなく、どんな質問でも分かりやすく答えて下さる。

 私は、彼とあるフォーラムで名刺交換し、その後私のほうから電話して、色々経済の話をしているうちに、積極財政のシミュレーションをやってみようということになったのだ。すべてを知り尽くした人がバックにいれば、何だってできる。私は、日本のシンクタンクに片っ端から電話し、積極財政のシミュレーションがやれないか聞いた。これは「反政府活動」になるかも知れないという警戒感から、非常に難しい交渉になったが、日経新聞社が応じてくれた。シミュレーションは2段階で行われた。第一段階は簡単なものだったが、それだけで90万円、第二段階はもっと徹底的な分析でそれが280万円、合計370万円で、貧乏人の私には天文学的な額ではあったが、日本経済復活のためにと考えたら、私財を投げ打ってでもやるだけの価値はあると思った。

 日本人は国の借金という言葉を勘違いしている。通貨を自由に発行できる国なのだから、国の借金など何の意味もない。お金を刷って返せば一夜にして返せるではないか。むしろ重要なのは、お金を使って経済を立て直すことだ。こういった私の考えが背景にあった。積極財政をやれば、景気は良くなるし、デフレは脱却できるし、経済は成長するし、給料は上がるということは、計算しなくても分かることだ。私は、財政拡大の結果財政は悪化するかもしれないが、そのとき政府貨幣を発行して財政破綻を阻止するというシナリオを考えていたが、実際は財政は悪化どころか、改善するという結果になって、驚いた。シミュレーションに真実を教えられたと思った。

 もう少し、順を追って話そう。第一段階の試算は日経新聞社にどの位減税をすれば、どの位景気が良くなるのか、そして、デフレ脱却には、どの位の減税が必要なのかということを計算してくれということだった。最初は、10兆円と20兆円の減税で計算してくれとお願いした。驚いたことに、この程度の減税ではデフレは全然脱却は不可能という結果が出た。デフレ脱却とは、そんなに大変なことなのかと、正直、我々が退治しようとしている魔物の大きさに身震いした。仕方なく50兆円の減税で計算してみてくれとお願いした。日経新聞社の方は、その大きさに驚いた。国税をほとんどゼロにしてもまだ足りないので、仕方なく消費税をマイナスにしてみるという巨大な減税だ。しかし、50兆円の減税を5年間続けても5年間で平均0.6%のインフレ率にしかならなかった。しかし、ものすごい経済成長率がはじき出された。なんと初年度実質成長率は9.8%というものだった。

 この段階で、私はこの結果を世界の経済の第一人者に見せてコメントをもらおうと考えた。世界で最も有名な経済学者は、ノーベル賞受賞者のサミュエルソンだろう。英文の説明をつけてまずサミュエルソン氏にこの結果を送った。何と、すぐに返事が来た。「インフレ率は気にしなくても良い。需要を回復し、デフレから脱却できればよいのだから。」という内容だった。私は、ノーベル経済学賞受賞者であり、計量経済学の世界的な権威のローレンス・クライン氏にも、同様な結果をまとめたレポートを送った。彼からも直ぐに返事が来た。「2%位のインフレ率が適当なのではないか。経済状態が改善されることは本当によいことだ。減税だけでなく、教育にもお金を使ったらどうだろう。」という内容だった。私は大変勇気づけられた。何と、50兆円減税を5年間続けるという提案に、二人のノーベル経済学賞受賞者が賛成して下さったのだ!

 しかし、この計算だけでは、不十分だった。自分が計算したいことの10分の1も終わっていない。たった、これだけで90万円では、金が掛かりすぎて後が続かないと思われたのだが、日経新聞社はプラス280万円で、私が自分で自由に計算させてくれるという提案をしてくれた。ここまで来れば後に引けなかった。

 日経新聞社に助けてもらいながら、自分で計算を始め、計算結果は日経まかせのものより数十倍も出せた。当初の私の考えは、景気対策で国の借金が増えても、日銀が買い取ればよいし、必要なら政府貨幣発行を行えばよいわけだから、問題にならないだろうということだった。しかし、計算を進めているうちに、景気が良くなるにつれ、ものすごい勢いで、税収とGDPが伸びてくることが分かってきた。

 そして国の借金のGDP比が財政出動で減少してくることに気付いた。これは私は全く予想しなかったことで、非常に驚いた。財政健全化とは、国の借金を減らすことでなく、借金のGDP比を減らすことなのだ。借金は減らなくても、借金のGDP比が減れば、実質借金を減らしたことになる。これは積極財政で財政が健全化するということだ。例えば50兆円の財政拡大の場合、どの程度経済拡大となるかを書いておく。現状維持の場合に比べ5年後、実質GDPは26%増加、名目GDPは38%増加、民間設備投資は2.3倍、法人企業利益は2.8倍に激増、失業率は2.2%まで下がり、インフレ率は2.1%、日経平均は3万2000円にもなる。

 この事実を一人でも多くの人に知らせたかった。私は、仲間を集め「日本経済復活の会」をスタートさせた。頻繁に議員会館に出向き、国会議員に日本経済復活の会の顧問になってくれるようお願いした。国会議員の多くは理解してくれた。その中の一部は顧問になってくれた。現在では70名近くの国会議員が顧問として参加してくれている。

 この話の続きは、またいつか話すことにして、最近マスコミで話題になっていることについて、コメントする。

【新銀行東京への追加出資】

 新銀行東京に東京都が400億円の追加出資する話だが、私はこの銀行に当初から批判的だった。中小企業を助けるという目的で危険な融資を税金で行うというやりかたに賛成できない。お金を刷って国民に配れという私の主張であるが、こういう形で配れと言うつもりはない。非効率で採算が取れずつぶれそうな会社に無担保で新銀行東京が金を貸そうということが良いことなのか。金融は民間に任せて良い業務だ。郵便局ですら融資に乗り出してくる時代、なぜこのような業務を東京都が税金でやらなければならないか。

 デフレ下の日本においては、国民に十分にお金が渡されていなくて、企業も商売ができない状態で、まともな企業はなかなか金を借りて投資をしようとはしない。今の状況で新東京銀行に無担保融資をお願いする企業の中には、どうせ会社はつぶれるのだが、その前にいっぱい金を借りて、遊びに使って、その後倒産させればよいと思って借りるところもあるだろう。
 
 こんな所にお金をばらまくくらいなら、減税や福祉・医療・社会資本整備・教育等にお金を使うことで、国民にお金を十分渡し、そうすることによって需要を伸ばせば、優良企業を強力に支援することになる。物が売れれば、利益が出るからである。それでも不採算な企業は市場から退出してもらい、優良企業をどんどん伸ばすことで、全体の生産性が上がり、国は豊かになるのだ。(小野盛司)

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第50回 日本経済復活の会 開催のお知らせ

★★  第50回 日本経済復活の会 開催のお知らせ   ★★

-第50回記念定例会では、国際レオンチェフ賞受賞者の宍戸駿太郞先生が講演します-

◎ 講師 

①宍戸駿太郎 先生 

元国際大学学長・名誉教授、元筑波大学副学長・名誉教授 環太平洋産業連関分析学会元会長、日米・世界モデル研究所所長
『日本経済のグランドデザイン:いかにして集団催眠から目覚ますか?』

②小野 盛司 先生

日本経済復活の会会長 会の活動報告、-日本経済復活への道-  

 宍戸駿太郎先生の「日本経済復活のシナリオ」から一部参照すると、昨今の日本に固定化されているデフレの特徴を見ると、経済成長を押し上げる内需が弱く、失業率もきわめて高く、ニートや非正規雇用者も急速に増大しています。この形は社会学者の言うところの「ソーシャル・ディスインテグレーション」であり、この根本原因はケインズの言う有効需要の不足にほかならないということだそうです。神州の泉・管理人の私から言えば、ソーシャル・ディスインテグレーションという聞きなれない言葉は社会崩壊、国家秩序の崩壊とでも解釈したらいいと思います。

 「年次改革要望書」、つまり、アメリカが押し進めるグローバル・スタンダードによる国際的同調圧力と言うのは、国家秩序の緩みを意味すると私は考えます。これは単に経済問題のみならず、国家特有の自立性、文明の特有性の崩壊に繋がります。宍戸先生は真の構造改革は単線的指向ではなく複線的指向で長期的視点でやらねばならないと言っています。小泉構造改革の不自然な性急性、拙速性は有効需要を無視してサプライサイドに収斂しました。構造改革はデフレ下でやってはいけない、やるなら完全雇用が達成され、インフレ加熱の傾向が出てくる、いわゆる「ハイプレッシャー・エコノミー」の状況でやるのがいいと宍戸先生は言っています。小泉構造改革はこの真逆に行ったわけです。その結果がどうなったか、今更説明は要しないと思います。

 これは別の位相で眺めると、グローバル・インテグレーションとソーシャル・ディスインテグレーションが同時進行しているということです。現今の強固なデフレ固定現象はこのグローバリゼーションの潮流と無関係ではないと思います。私は宍戸先生の講義をまだ聴いたことはありませんが、機会があったら是非にも拝聴したいと思っています。宍戸先生は、小野盛司先生とともに日本経済復活の鍵を手にする重要な人物の一人だと考えています。神州の泉の読者さんは是非、26日の定例会に出席して宍戸先生と小野先生の日本経済復活論を聴いてみてください。
 

○ 日時 平成20年3月26日(水)午後6:00時~午後9:00時

○ 場所 東京都千代田区九段北4-2-25 アルカディア市ヶ谷(私学会館) 
TEL 03-3261-9921

○ 会費 3500円(資料代や食事・飲み物の費用を含みます)
当会合に関する一切の問い合わせと、御来会の可否は小野(03-3823-5233)宛にお願いします。メール(sono@tek.jp)でも結構です。弁当の注文や配布物の準備等ありますので、申し込みはできるだけ早めに行って下さるよう、ご協力お願いします。

 日本経済復活の会 

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2008年3月11日 (火)

植草一秀氏が日銀総裁人事で緊急提言!!

 植草一秀さんがご自身のサイトのコラムにて日銀総裁後継問題の緊急提言を行なっている。私は日銀人事のことはまったく不明だが、財政問題や金融事情を知悉する植草さんがここまで日銀総裁後継者の人選を重大視しているからには、背景によほどのっぴきならない理由があると考えた方がいい。

 植草さんは三つの論旨を以って、武藤氏の昇格に熾烈な反対論を唱えている。その主張の骨子は、

(1)政策決定メカニズムにおいて日銀の独立性が担保されること
(2)構造改革の最大の課題が「財務省を中核とする官僚主権構造」の根絶
(3)現代の時代性はグローバルに複雑な様相を呈しており、日銀総裁には高度な専門能力が求められること

 この(1)主張にある日銀の独立性について植草さんは下記のように言っている。

『中長期の視点で通貨価値の維持を図る視点から、財務省出身者を日銀総裁候補者から排除することが、日本の通貨価値維持を担保するセーフティーネットと考えるべきである。』

 やっぱり、日本という統治システムの原理から言って日銀の独立性を担保することは最大の要件だろう。これは財務省(旧大蔵省)官僚たちのボス的存在である武藤敏郎氏が、財務省主導で日銀の裁量権を全的に行使する立場になったら、我が国の統治構造が独裁性を帯びてしまうということに他ならない。具体的に言うなら、武藤氏が日銀を掌握した場合、アメリカと半島勢力に魂を売っている自民党清和会主導の独裁体制が固定化するということだろう。したがって、日本の自主独立保持の面でも武藤氏の日銀総裁昇格は回避すべきことなのである。

 植草さんによれば、(3)の日銀総裁に求められる高度な能力とは、国際的にクロスオーバーで協調しなければならない性格を持つ金融面で、諸外国との緊密な連携をする必要があり、これには経済学、金融論、経済政策論の濃密な蓄積が必要だということで、武藤氏では十分ではないということである。日本における財務省の巨大な権限は伝統的に突出しており、国家財政の管理や運用、金融当局に対する支配権、為替市場への介入権、証券取引の監視権、経済政策の実質的な決定権など、国家権力の枢要な部分を占めている。つまり日銀が財務省と事実上結託してしまえば、経済にしても、国政にしても、自由に権勢を行使する伏魔殿が出来上がってしまうということなのだろう。

 しかも始末の悪いことに、財務省はテレビや新聞など大手メディアの支配権も掌握していると植草さんは言っている。つまり、財務省主導で露骨なプロパガンダによる世論誘導が行なわれているということだ。武藤氏選出を表面の反対意見とは別に、民主党が是認する格好になれば、事実上、清和会思想に牛耳られた自民・民主の巨大連立翼賛政権が誕生することになる。日銀総裁後継問題の本質は、総裁候補の資質云々というレベルではなく、財務省主導の翼賛政治体制が構造化する危険があるということらしい。植草さんは1985年から87年まで大蔵省(現財務省)で勤務していたので、財務省の体質や組織の思想には詳しい。その植草さんが武藤氏の総裁昇格に強い憂慮の念を抱いていることはただ事ではない。

 福井俊彦日銀総裁は、2006年6月、証取法違反容疑で逮捕された村上世彰氏率いる村上ファンドに1000万円の出資をしていたことを明らかにした。福井氏が日銀総裁就任後に解約手続きをしたことで、野党はこれを利殖行為だとして道義的責任を追求、辞任要求をした。読売の国民アンケートでも72パーセントが辞任賛成だったが福井氏は職責を全うすると言って今日に至っている。植草さんは、その著書「知られざる真実-勾留地にて-」第一章の「偽装」の中で、わざわざ『福井日銀総裁追求の深層』という項目を挙げている。彼は言う。当時、村上ファンドの出資者としてアドバイザリー・ボードに名を連ねていた人物の中で、オリックスの宮内義彦氏と福井俊彦氏の名前は表面に出たが、ここで福井氏の名前のみが突出的に世間にさらされたことを訝しいと語っている。

 植草さんによれば、司法当局はこの時、すべての出資者の全貌をつかんでいたはずだが、なぜか恣意的に福井氏のみが世間に注目を浴びる形でさらされたようだと書いている。(同書p37)植草さんはここで鋭い指摘を行なっている。2006年、村上ファンド絡みで、福井氏がマスコミや国会で槍玉にあげられた時、その裏側では、マクロ経済政策と、2008年3月の日銀総裁任期満了をめぐる暗闘があったと思われると。つまり、日銀執行権の独占的掌握を狙う売国清和会は、この頃から、旧大蔵官僚の総帥のような存在である武藤敏郎氏にポスト福井総裁のレールを敷いていたのである。

 福井氏が村上ファンド絡みのスキャンダルで悪いイメージを与えられていたころ、反構造改革路線色の強い有識者を狩りつくす計画が実行に移されたのではないだろうか。その三ヵ月後の9月に、小泉政権糾弾派の急先鋒である植草一秀さんは、あらぬ痴漢の嫌疑を無理にかけられ、132日も不当な拘束を受けている。売国清和会にとって、マクロ経済政策でも福井氏の路線が“国民を益する”方向性を持つまずいものであるなら、小泉政権を弾劾した植草さんが標的にされていたことは当然うなづけることだ。小泉政権の反国益性(=清和会の反国益性)に、もっとも正確に肉薄した植草さんが強く懸念する日銀総裁人事とはいったい何であろうか。もしかして、野党が結果的に武藤敏郎氏の日銀総裁への昇格を黙認することにでもなったら、それは日本の分水嶺であるのかもしれない。私のような一般人にとっては日銀人事など世俗と関係ないことのように感じているが、植草さんレベルの人たちから見るなら、これは国家危急存亡の一大事なのかもしれない。

 ものごとを国民利益と国益的方向で見る有識者と売国清和会との関係においては、城内実さんと植草一秀さんは同じ位相に置かれた有識者である。今なぜ城内さんの名前を出したのかと言えば、城内さんが今度の衆院選で立候補する静岡七区には、民主党が唐突に元NHK職員の立候補者を立てるという不自然な状況が起きた。同時に静岡新聞は城内さんの立候補に関する記事で、彼を“共産/無所属”という記述入りで掲載した。城内さんは郵政民営化反対の急先鋒である。植草さんは小泉政権のマクロ政策の間違いを指摘し、りそな銀行救済にまつわるインサイダー疑惑をただ一人指摘した。このお二人には清和会思想に真っ向から異を唱えるという明らかな共通性がある。城内さんはいろいろな意味で今も、彼らの妨害行動に遭っている。よく聞いてほしい。民主党には自民党清和会に通じる売国奴たちが大勢いる(凌雲会か?)。彼らが城内さんの選挙を撹乱する作戦を取っている。同時に彼らは小沢党首を睥睨し、日銀人事で武藤敏郎氏後継を黙認する可能性が高い。植草さんはこれが国家統治を財務省主導の独裁体制に導くと憂慮しておられるようだ。だとすれば、武藤氏が日銀総裁に就任した場合、より強い清和会政策が固定化し、日本は獰猛な外国資本に荒らされ、国民は恒久的に塗炭の苦しみをなめ続ける超格差社会が出現するだろう。

 植草さんと城内さん、我々一般の国民はこのお二人の言葉には真摯に耳を傾けるべきである。彼らは非凡な洞察力と頭脳で小泉構造改革継承路線の危険性を見抜いているからだ。これ以上、日本を駄目にしない意味でも植草さんの言葉には耳を傾けた方がいい。

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2008年3月 9日 (日)

財政と金融の分離、日銀の独立性について(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十弾です)
  http://tek.jp/p/

 今回は、なにやら難しそうなタイトルとなった。日銀総裁の選出で財務省出身の福井日銀副総裁をするかどうかで、与野党の一騎打ちの様相となった。ここで財政と金融の分離が争点となっている。何が問題なのかは、次のような例と比べればよく理解できる。

 あるところに、母子家庭があった。母は非情であり異常であり、娘にろくに食事を与えず、娘は栄養失調になっていて、元気が無い。何をやってもうまくいかない。専門の医師が、この娘を診て、もっと食事を与えなければいけないと忠告した。しかし、この母親は言った。どこの家でも(グローバリゼーション)娘にダイエットをやらしている。娘には食事制限をしていると主張し、ダイエット食品を買ってきたり、エアロビックスをやらせたり、ジョギングをやらせたり、医者の反対を押し切って、娘を他の家の女の子と同じよう扱っていたので、娘はいつもフラフラでやせ細っていた。確かにどの家庭でも、可愛さからつい娘に食べ物を多く与え過ぎるので、油断するとすぐ肥満になり健康に悪いことは誰もがよく知っているから、ダイエットをさせている。しかし、食事を満足に与えず、娘を栄養失調にしてしまったのは、この母子家庭しかいなかったのだ。非情な母親は、娘に勝手に食べさせないように、いつも冷蔵庫に鍵を掛けていて、この鍵を誰にも渡さなかった(この場合の母親の独立性=娘の食事量の裁量権)。

 この例と日本経済がそっくりなのだ。政府は非情であり、異常であり、国民にろくにお金を渡さなかったので、国民は経済活動が思うようにできずデフレ(栄養失調に相当)になり、経済に元気が無くなった。何をやってもうまくいかない。経済の専門家がアメリカからやってきて(バーナンキ、クライン、スティグリッツなど)、もっと国民にお金を与えなければいけないと忠告した。しかし、日本政府は言った。どこの国でも財政規律や、財政と金融の独立性(ダイエットに相当)は守っていると主張し、世界を代表する経済学者の反対を押し切って国民からお金を奪い取る(増税、社会保険料値上げ、歳出削減など)ことばかり続けた。しかもデフレ下では不適当な構造改革(エアロビックス、ジョギングなどに相当)まで強行した。その結果、日本経済はみるみるやせ細って行った。

 確かに、どの国でも、つい国民のためにお金を使いすぎるので、油断するとすぐインフレが度を超してしまい、それが経済に悪いことは誰もがよく知っているから、財政規律や財政と金融の独立性を守ろうとしている。しかし、国民にお金を満足に与えず、経済をデフレ(栄養失調)にしてしまったのは、非情な日本政府だけだったのだ。

 日銀は金庫に鍵を掛けていて、鍵を誰にも預けない(日銀の独立性)。日銀には巨大な金庫があり、いっぱいお金が入っている。鍵を開けて、手前にある小さな札束を持ち出すだけで、国の借金である800兆円など余裕で返せてしまうほどの、大変な金庫だ。霞ヶ関埋蔵金などとは比べものにならないほどのお金が入っている。このお金を適量に持ち出して、国民のために使えば、日本経済は現在のどん底状態から転じて、絶好調になり、ダイナミックな経済の躍進が再開する。

 これでお分かりだろうか、どこの国でも、政府は国民の幸せを考える。だから、国民のためについお金を使いすぎてインフレになる傾向がある。それにストップを掛けるために、様々な工夫をしている。中央銀行をつくって、政府がお金を使いすぎるようなら、ストップをかけるようにしている。だから日本の中央銀行である日銀は政府・財務省が何と言おうと、お金の使いすぎでインフレになったときは、それを止めさせることができるような権限を持っていなければ存在価値が無いのだ。

 日本政府は非情であり異常だ。できるだけ国民にお金を与えないようにすることばかり考えている。だから、デフレになる。こんな非情な政府は世界中に日本しかない。なぜ日銀は金庫にあるお金を出して(お金を刷って長期国債買い入れる)国の経済を立て直そうとしないのだろうか。日銀は言う。一度、金庫のお金を使い始めたら際限なく使い始めるから、インフレになって悪影響がでる。こんな馬鹿な話はないだろう。

 娘が栄養失調で14年間も苦しんでいて、医者ももっと食べさせろと言っている。しかし、非情な母親は、一度冷蔵庫の鍵を開けて食べ始めたら、際限なく食べて、肥満になるから食べさせないと言っている。こんな母親がいたら、鬼のような残虐な母親だと誰もが思うだろう。金庫を開けたら最後、際限なくお金を使い続けてしまうような人間が政府・日銀に混じっているのであれば、彼らを追放すればよいだけだ。デフレという怖い病気に罹っているときは、金庫の鍵を開け、適切な額のお金を国民に与えるということが、日銀に求められる絶対的な使命である。日銀がお金を直接国民に与えることはできない。そこで、一旦政府に与え、それを財政支出という形で国民に届ける。その意味で財政と金融は協調しなければならない。14年間もデフレが続いているとき、日銀の独立性を掲げ、いつまでも金庫の鍵を閉ざしていたのでは、日本経済は破滅に向かうだけである。

 それでは、次期日銀総裁に誰を推薦するかだが、それには候補者全員を、「あなたはデフレ脱却のために何をしますか」という質問に答えさせることだ。彼らがこの質問に対して、『日銀の金庫を開ける(長期国債を買う)』と言ったら、合格である。しかし、残念ながら日本では、そういう質問をすること自体がタブーになっているし、答えることもタブーになっている。日本人は日銀の金庫を開けると神のたたりがあると99.9%までの人が信じているのだろう。私は、この迷信から人を解放し、マクロ経済モデル使用のシミュレーションで得られた結果に基づいた政策決定へと転換させるために長年活動を続けている。日本人が一刻も早く目を覚まさないと、日本は際限なく貧乏な国になってしまうからだ。

 新聞を読むと、伊藤隆敏氏はインフレターゲット論が持論となっている。インフレ率を適正レベルにするということはデフレ脱却ということだから、素晴らしいことだ。しかし問題はどうやってそれを実現するのかということだ。小泉前首相も首相在任中にデフレ脱却を実現すると約束しながら、増税や歳出削減というデフレ脱却とは逆行する政策を行い、結局デフレ脱却ができなかった。栄養失調の娘に、栄養失調をなおすと言いながら、食事制限を厳格に行い、結局栄養失調はなおらなかったという例と同じだ。なぜ医者の指示に従わないか。

 世界を代表する経済の専門家は「日銀の金庫を開けろ(お金を刷って長期国債を買え)」と主張している。例えばバーナンキ現FRB議長は2002年、日本にやって来た。田中秀臣著の『バーナンキ 世界経済の新皇帝』の10頁から引用しよう。彼は日本銀行の政策を決める幹部たち(日銀総裁を含めた政策審議委員たち)をこう評した。「一人を除いてみんなジャンク(くず)だ!」。さらに日本銀行の常道を逸した稚拙な経済政策を評して「日銀はデフレを退治するために(紙幣をどんどん刷って、それで)ケチャップでも買え)」と辛辣な批判をおこなったのである。

 デフレ問題の世界的権威であるバーナンキ氏が激怒したのがお分かりだろうか。日本がデフレから脱却するには、日銀がお金を刷って使うしかない。それを拒否する日銀に怒りが爆発したのだ。もちろん、国債でなくてもケチャップでも何でもよいから買えば、お金が出ていく。実際にケチャップを買えという意味では無いが、皮肉ってそういう表現になったのだろう。
 
 栄養失調の娘を回復させるには、食事制限でもなく、ダイエットでもなく、エアロビックスでもなく、ジョギングでもない。もっと食事を食べさせればよいのだ。デフレから脱却するには、歳出削減でもなく、消費税増税でもなく、社会保険料の値上げでもない。日銀がお金を刷って、それで国債を買い、そのお金で政府が国民のために使えばよいのだ。

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2008年3月 7日 (金)

政府よ、企業に賃上げの圧力を掛けるのをやめよ(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第三十九弾です)
  http://tek.jp/p/

 福田首相は、3月6日のメールマガジンで、賃上げを促したそうだ。賃上げがなされれば、消費が拡大し、経済成長が加速すると考えているのだろう。全くお粗末な考えと言わざるを得ない。春闘に政府が介入するなど、愚の骨頂だ。

 よく考えて欲しい。政府の経済政策の失敗によって、本来優秀な日本企業がどれだけ不利な立場に立たされているか。世界の株式の時価総額は1990年には日本のシェアは32.9%だったのに、2007年は7.3%までに低下、最近10年間の株式の騰落率は世界52カ国中で下から2番目の51位。株式時価総額で世界トップ20に入っていた日本企業は1989年には14社あったが、2007年には18位のトヨタだけになった。港湾や空港の取引量、利用頻度等、みるみる国際的に没落しているのには目を覆うばかりだ。

 法人税は国際的に見て高い。法人税が高い国からは、優秀な企業は、より法人税が低い国へと逃げていく。一人当たりのGDPが世界一のルクセンブルグは法人税が低い。税率を低くしても優秀な企業がたくさん入ってくるなら税収は潤う。筆者もかつてルクセンブルグの近くに住んでいたことがある。ルクセンブルグには、周りの国からどっと買い物にやってくる。

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 なによりも忘れてならないことは、日本がデフレ経済ということだ。つまり、政府は国民に経済活動を行うに十分なお金を渡していない(これがデフレの定義と言って良い)。国民がお金を持っていなければ商品を売りようがないから、企業は発展しようがない。設備投資ができないから、古い効率の悪い機械をいつまでも使い続けるしかない。国際競争力ランキングも世界一から2007年には24位にまで落ちた。

 日本企業をこのような逆境に置いたままにした政府の責任は極めて重大だ。デフレーターがマイナスに転落したのは1994年だから、日本は何と14年間もデフレ経済から抜け出せないままでいる。

 経済政策の大失敗で、これだけ企業の足を引っ張っている政府だが、更に賃上げというハンディーを企業に加えようとしている。どこまで企業を痛めつければ気が済むのか。原油や素材価格の高騰、そして円高が加わって企業を苦しめる。これでは国際競争力落ちるばかりだ。

 今、政府がやらなければならないことは、減税や歳出拡大をして、国民に十分なお金を渡し、国民を豊かにし、国際的に対等に競争できる状態に戻すことだ。国の借金に関しては、内閣府のマクロ経済モデルを使った試算「進路と戦略」で、はっきりと示されている。積極財政でGDPが増えて、国の債務のGDP比は減少していき財政健全化ができるのだ。国の借金は日銀に買わせると良い。

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2008年3月 6日 (木)

構造改革、不良債権処理が終わって、景気は回復したか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第三十八弾です)
  http://tek.jp/p/

 小泉首相のキャッチは「構造改革なくして景気回復なし」だった。不良債権処理さえすれば、お金が流れるようになって、景気が回復するとのことだった。不良債権処理を国際公約にまでした。しかし、小泉氏は自らを浅学非才と言っていたが、実際その通りだった。それを証明するように、不良債権処理は終わっても、銀行貸出は大きく落ち込んだままであり、お金が流れるようにはならなかった。景気回復どころか、大不況に陥ったと言って良い。一人当たりの名目GDPは2位から18位に落ち、世界に占める日本の割合は、GDPで2分の1に、株式の時価総額で5分の1にまで落ち込んだ。

 不良債権のお陰でお金が流れなくなり、景気が悪くなっているという前提が間違えていたのは明らかだ。もちろん、不良債権が問題であったのなら、その処理が進むにつれ銀行貸出は増えていったはずだが、下図のように実際はどんどん減っていき、2008年現在でも、回復とはとても言えない水準である。

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 もしも、不良債権が原因で、お金が流れなくなっていたのであれば、外国資本の銀行(外銀)は、邦銀がもたもたしている間に大幅に貸出を伸ばし、一気に勢力を拡大したに違いない。しかし、実際は下の図のように、外銀も貸出を減らした。

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 それだけでなく、債券市場の低調もあったことから、不良債権が不況の原因ではなかったことは明らかだ。量的緩和も行って、銀行にはじゃぶじゃぶとお金があふれていた。なぜ、それが市中に流れなかったかは明らかだ。優良な貸出先が無かったということだ。なぜ無かったかと言えば、政府が国民に十分なお金を渡さなかったから、国民は物を買えないし、企業は物が売れない。だから、設備投資をしてもっと生産しようとは、誰も考えないということだ。

 私の知人で、建築会社の経営者がいた。建設大臣から表彰を受けたほどの優秀な建築士で、所有ビルは10もあり、超優良企業だった。しかし、バブルの時代、銀行が彼に過剰な融資を押しつけた。バブル崩壊の後には、厳しい取り立てが始まり、本業は利益が出ているのに、銀行にとっては返済が滞ったということで不良債権となった。不良債権処理ということで銀行はこの会社を倒産させ、悲観した彼は自殺してしまった。

 不良債権処理は、日本経済をここまで成長させる原動力となったような優秀な経営者まで、葬り去ってしまった。明らかな経済政策の誤りである。最近のサブプライムローン問題では、全世界の銀行で20兆円の損失が出たと報道されている。これに対してアメリカはすぐさま大幅な利下げや大規模な景気対策で対抗している。それに比べて日本政府は対応が余りにも遅い。日本のバブル崩壊で、株だけで350兆円の損失が出たと言われていた。サブプライムローンより、桁違いに大きな損失が出たのに、景気対策は遅すぎたし、規模が小さすぎた。しかも政府の経済政策の失敗によって生じた被害者を、残酷と言えるほどの手法で切って捨てた。それが不良債権処理だ。

 アメリカ側からの要請もあり1991年に日本政府は9年間で430兆円の公共投資をする約束をした。かつてマスコミは建設国債は発行しても、後に資産が残るので赤字国債より良いと言っていた。しかし、今は一転して公共投資のための建設国債を悪者扱いする。何という心変わりの早さか。主張の一貫性はどうなんだと聞きたい。いずれにせよ、430兆円の公共投資は、実際には実現しなかったのだが、もし実行していたら日本経済はどうなっていたのだろうという分析が今、宍戸駿太郞氏らのグループで行われている。3月26日の日本経済復活の会の定例会で、宍戸駿太郎氏から、その分析結果を一般向けに分かりやすく紹介して頂けることになった。

 宍戸氏は国際レオンチェフ賞受賞者であり、産業連関分析で世界的に有名な経済学者である。国際レオンチェフ賞受賞者はノーベル賞も受賞している人が多く、宍戸氏のノーベル賞受賞も間近だと期待されている。「不良債権が日本の不況の原因だ」などと馬鹿なことを言っていた馬鹿なエコノミストの空理空論を信用するのを止めて、宍戸グループのような、しっかりとした計量経済学に基づいた分析で、日本経済復活の方法を考えるべきである。

 宍戸グループの結論は430兆円の公共投資で経済の大幅な成長、デフレ脱却、失業率の低下、国の借金の減少など、ダイナミックに成長する素晴らしい日本になっていたということ。この結果を見ても、やはり恐ろしいほどの日本経済の急激な没落、自殺者の激増、生活保護世帯の激増などすべてが、経済政策の失敗によって引き起こされたことが分かる。

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2008年3月 4日 (火)

環境問題に対する正しい考え方(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第三十七弾です)
  http://tek.jp/p/

 これまで、日本経済をどのようにして復活させるかについて書いてきた。GDPを増やせばCO2が多く排出されるようになるから環境には悪い影響を与えると思われがちだ。しかしそれは逆で実際は、経済が発展すれば、環境対策に資金を回せるようになる。貧乏な国ほど、環境対策は遅れている。

 大気中のCO2の濃度の平均値は、産業革命前に280ppmで概ね安定していたものが、2000年には368ppmとなり、現在も毎年1.5ppmの割合で上昇し続けている。人類が化石燃料使用などによって大気中に放出してきたCO2は、大気中増加分の2倍近くあると見られている。つまり、放出した割には意外と大気中濃度は増えていないのだ。これは、自然プロセスで海洋に吸収されたためと推定される。大気中のCO2の濃度が増えたために温暖化が進んだと言われている。

 しかしこの考えに反対する学者もいる。原因と結果が逆だという。単なる気候変動で温暖化が進み、その結果として、陸海からCO2が放出されたと主張する。どちらが正しいのか、専門家の間で論争中である。しかし気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が、温暖化の原因は温室ガスの増加が原因とほぼ断定したので、それを受け入れることにしよう。

 CO2を減らすには様々な方法がある。単純な方法としては、電気や車を使わないように努力すること。しかし、これでは劇的に減らすのは無理だ。太陽光とか風力などの自然エネルギーを積極的に利用する方法もある。京都議定書に従って、日本は排出権購入で巨額の支払いを求められているのだが、二酸化炭素を減らす設備の導入で、逆に排出権を売って巨額の収入が得られることになり、一石二鳥だ。

 二酸化炭素削減で最も期待ができるのが、風力発電だろう。その理由は発電コストが低いことと、風力はほぼ無尽蔵にあり、日本の全エネルギー需要をまかなえる規模だからである。財団法人エネルギー総合工学研究所のホームページから引用すると1キロワットアワー当たりの発電コストは次の表のようになる。

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 風力発電は、資源が無尽蔵にあるという点とコストが低いというメリットがある。残念ながら、風力発電はヨーロッパでは盛んだが、日本は遅れている。陸上と洋上があるのだが、陸上のものはかなり制約を受ける。大型にしないと電力コストを低くできない。大型のものは市街地にはできないので、比較的不便なところに造るしか無く、まず機材を運ぶ道路や、送電線の設備などを造っていたら、コストがかさんでくる。その意味で採算が取れるという場所だとかなり限られてくるということである。

 その点、洋上発電はどこかの工場で造ったものを船で運べば良く、効率的である。電力を電線で運ぶのは効率が悪く、大規模発電にするなら、電力を使って電気分解をし、水素にして運ぶ方法が考えられている。しかし、水素は扱いにくいので、発電所などから集めたCO2と反応させメタンにして運ぶ案も考えられている。そのときの電力コストは10.7円/kWhと矢後清和(2007)は見積もっている。もちろん、風力発電の施設の建設の際にCO2を発生させる。一旦建設が終わり、発電が始まるとCO2削減効果がでてくる。建設時に発生したCO2の量の削減効果がでてくる期間は0.95~1.18年というのが矢後清和(2007)の見積りである。

 ここまでに述べたのは、鋼鉄製の風力発電だが、大田俊昭(2007)はカーボンファイバーを使った風力発電を提案していて、鋼鉄の10倍の強度があり、100年の使用に耐え、発電コストは風力の2分の1以下としている。

① 蜂の巣形コンクリート浮体のクラスター群に搭載された10MW級『超大型風レンズ風車』により洋上風力発電を行う。得られた電力により、水素を生成する。

② 水素は、船で陸上の水素ステーションに運搬される。

③ 最終的に50~100万KW級水素タービン発電所や自動車、車両の燃料用電池に使用される

 全く別な観点から大気中のCO2を減らす方法がある。それはCO2を回収し、地中や深海に隔離する方法である。油田もだんだん深いところから、ガスを吹き込んで原油を押し出さなければならなくなっており、その際発電所から回収したCO2を使えば、そのままCO2を地中に閉じこめることができ、一石二鳥である。最終的にCO2は地層内の水に溶けると思われる。地中に埋める場合は、その量は限られてしまうのだが、深海に沈める場合はほぼ無尽蔵とも言えるほどのキャパシティーがある。

 海洋隔離の方法は色々研究されているが、その中の船行船舶方式を紹介しよう。まず火力発電所などからCO2を回収し、これを圧縮して液体にする。これを船で沖合い数百kmに運び、そこからパイプを水深2500mくらいの中深層までおろして、ノズルを通じて海中に放出する。液体CO2はノズルから放出されると、多数の小さな液的となる。海洋の中深層などの低温・高圧下の条件で水と混じると、水の結晶の中にCO2が閉じこめられ、「CO2ハイドレード」と呼ばれるシャーベット状の膜がつくられる。液体CO2は、この膜を通じて、徐々に海水中に溶解する。放出CO2が海洋に留まる期間は、放出深度や海域にもよるが、100~300年程度と考えられている。これに対して、深海底の窪地にCO2を溜めるのが貯留法である。深度3500m以深にすると、CO2は比重が重くなり沈んでいく。この場合は2000年以上隔離することができる。

 それでは、このような方法でCO2を海に沈める場合、生態系への影響は無いのかという問題がある。その研究はされていて、もちろん皆無ではあり得ない。しかしながら、海洋隔離をしない場合より、生態系への影響は軽減できるのは間違いない。漁業への影響という点では、深海での漁業は行われていないので、悪影響は考えられない。もし海洋隔離をしなければ、放出されるCO2の約半分が空気中に残り、残り半分が海洋の浅い所に溶ける。空気中に残ったCO2は温暖化の害をもたらすし、海洋表層に溶けたCO2も貴重な水産資源に害をもたらす。その意味で、もし有害なCO2を、水産資源に影響の少ない深海に閉じこめれば、全体で見れば環境被害は激減するのは間違いないと思われる。

 残るはコストの問題である。海洋隔離を行うためのコストの大部分は、火力発電所からCO2を回収する際に発生するコストであり、発電コストの20%程度と言われている。詳細は未確認だが、それを10%程度に抑える技術が開発されたとの記事を目にした。つまり、電力コストが少し上がるが、それでも地球環境の危機を救うために、その程度コストで済むのであれば、是非実行すべきだと考える。

 増税が大好きな日本人は、すぐに環境税を提案する。しかしながら、それではデフレを悪化させ、財政健全化には逆行する。このような先進的な技術開発に、国も思い切ってお金を出すべきだ。他国に真似ができない高い技術を確保すれば、日本の将来は安泰になる。年金積立金を貯め込むより、はるかに価値が高い。(小野盛司)

  参照 : 矢後清和 「浮体式洋上風力発電の大規模展開の可能性について」第4回洋上風力発電フォーラム (2007)

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2008年3月 2日 (日)

貿易赤字になると輸入ができなくなるのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第三十六弾です)
  http://tek.jp/p/

 貿易赤字になると輸入ができなくなるのかという質問が読者から寄せられましたので、お答えします。そんなことはありません。財務省によると2007年の貿易収支は12兆3,781億円の黒字に対し、所得収支が16兆2,730億円の黒字となっています。所得収支とは日本が持つ海外の株や債券、つまり証券資産などが生む配当や利息を示しています。所得収支の黒字のほうが、貿易収支を上回る規模になっています。つまり黒字は貿易だけではないということです。

 それだけではありません。赤字でも貿易はできます。アメリカなど、長年貿易赤字です。本当はアラスカにも油田があるのに、それは温存しておいて、その代わりにドルを刷って外国から石油を買いまくります。国益をどん欲にまでに守ります。日本の円は基軸通貨ではないので、アメリカほど派手にはやれないにせよ、円は国際通貨ですから、刷って使おうとすれば使えます。

 将来、日本の企業が国際競争力を失い、貿易赤字になったとし、更に所得収支も赤字になったとしましょう。そうすると円の価値が低くなるわけですが、価値がゼロになるわけではありませんから、貿易はできます。輸入物価は高くなりますから、買いにくくなるかもしれませんが、お金を多く出せば買えます。かつての共産圏は貧乏でした。国産品はろくなものはなく、物不足で日用品ですら手に入りにくくなっていた時代がありました。自国の通貨をドルなどの外貨に替えてもらえず、闇で観光客から替えてもらって、ドルショップに行って欲しいものを買っていましたね。あれは国境が封鎖されていたので、そうでもするしかなかったのでしょう。まさか、日本が将来そんなことにはならないと思います。

 今の日本は、政府が国民に十分なお金を渡していないので、国民は十分物を買えません。つまり、国産品も輸入品も十分買えないわけです。しかし、外国の人は十分なお金を渡してもらっているので、自国のものも、日本からの輸入品も十分買えます。ということで、外国人は日本の物を多く買い、日本人は外国の物を十分買えないので貿易黒字になります。こうして日本人はどんどん貧乏になっているわけで、十分輸入品が買えないから貿易黒字になっているのであり、黒字だから輸入ができるというわけではありません。所得収支でも同じでしょう。日本は発展しない国だから、投資の魅力はない。だからお金は外国に逃げていき、外国で収益を挙げるので黒字になる。

 このような黒字は、結局ドルのまま海外の銀行に預けられ、海外で運用されますから、外国を豊かにするだけで、いつまで経っても日本は豊かになりません。お分かりでしょうか。黒字ということは、日本人が汗水流して働き、生産した代償がドルという紙切れに替わり、その紙切れがどんどん溜まるだけ、しかもその紙切れはアメリカの銀行に預けていてアメリカで運用されるだけ。日本を豊かにしません。決して良くないのです。黒字は善、赤字は悪と考えるのは全く間違いです。アメリカは長い間貿易収支も経常収支も赤字が続いています。膨大な借金が貯まっていると言えますが、逆にドルを刷って、そのドルが世界に流通して、世界経済を育ててきたともいえます。経済を知らない人は借金をいつか返さねばならないと考えるでしょうか。世界中からドルを引き上げたら、世界経済がマヒするのは明らかであり、これは返すべきではない借金です。アメリカが赤字なら、アメリカ以外の国を合わせれば、黒字で、プラスマイナスがゼロです。

 日本の財政問題も同様でしょう。国が赤字なら、国民の側は黒字で、プラスマイナスゼロです。デフレということは、国民の側にお金が不足して経済が成長しなくなっているのですから、こういうときは赤字を拡大せよと、世界を代表するエコノミストは異口同音に主張しているのです。それが日本経済を拡大し、財政健全化にも役立つということです。何度も繰り返しますが、日本を豊かにするには、アメリカでもフランスでもやっているように、お金を刷って景気対策として国民に渡すことです。そうすれば、デフレ脱却ができ、国民が金持ちになり、国民はもっと物を買えるようになります。日本企業は、その需要増に十分対応できますから、経済は活性化し、企業も国際競争力を増し、しかも、国民は国産品だけでなく、輸入品ももっと買うようになります。輸入が増えると貿易黒字が減ってきます。

 これは私も日経の経済モデルでも確かめました。外貨が溜まりすぎた現在、輸入が増えて貿易赤字になっても構わないのです。日本経済がかつてのように成長を始めると、日本が魅力的な市場になりますから、外国資本も入ってきます。もちろん、日本人にもお金が渡されるようになれば、海外への積極的な投資も活発になるでしょう。貿易収支や所得収支だけでなく資本収支も重要です。お金も日本国内で多く運用されるようになれば、企業も育ってきます。大規模な投資がされるようになり、地方経済も地方政府も潤ってきます。積極財政は、日本経済も、そして世界経済の均衡ある発展も助けます。(小野盛司)

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2008年2月29日 (金)

杉並区は75年後は無税?無税国家とは?(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第三十五弾です)
  http://tek.jp/p/

 東京都杉並区の予算は1500億円で、その1割の150億円を積み立てて2%の利率で運用すると、78年後には無税でやっていけることになっている。山田区長のアイディアだ。しかし78年後は自分は生きていない。そのために1割も増税されてはたまらない。78年後のことより現在の住民の事を大切にしてもらいたいものだ。

 松下政経塾の創設者の松下幸之助氏は、無税国家を唱えた。国家が蓄えた貯蓄から利子収入を得て、それを財源として国家財政をまかなえというわけだ。松下幸之助は長者番付で常に一位だったから、所得税も大変な額だっただろう。だから税金を安くしてほしい、小さな政府にしてほしいと願うのは当然だったかもしれない。その結果松下政経塾出身の政治家はことごとく緊縮論者になってしまい、そういった政治家が日本経済を没落させている。松下氏は次のように言う。

『 仮に今の貨幣価値で1000兆円の積立金ができ、それを年利5%で運用すれば、50兆円の国家収入が得られます。昭和54年度予算は40兆円弱と予想されますから、これをすべてまかなってなお10兆円余りのある額です。 そうすれば、国民から1円の税金を取る必要のない「無税国家」となり、さらに進んで、余りの10兆円を国民に分配しうる「収益分配国家」になるともいえましょう。』 (週刊ポスト1979年1月5日号掲載)

 1000兆円を何で運用するのだろう。東証の株式の時価総額は2008年1月31日現在438兆円だから、全企業の株式を全部買い取って国営企業にしても1000兆円の半分も使えない。国債を買う?1000兆円も貯めたのに国債を出す必要はなくなっているだろう。第一、1000兆円を貯めるには、どれだけ増税しなければならないか。増税によって経済はデフレスパイラルに陥り、経済がどんどん縮小することを理解していないのか。どうも松下幸之助は、商売は上手だったが、マクロ経済はまるで駄目だったようだ。松下政経塾で、滅茶苦茶な経済学を学んだ政治家によって、日本経済が無茶苦茶にされてしまっているのかもしれない。

 国は通貨発行権を持っているのだから、やろうと思えば、お金を刷れば一夜にして1000兆円は作れる。汗水流して貯めたお金も、一夜で刷ったお金も、実体経済にとっては全く同じだ。それなら5%で運用するのでなく、いっそのこと利子50兆円分のお金を毎年刷っても同じではないか。これなら簡単に無税国家が実現する。しかしながら、お金を刷った分、確実に需要は拡大する。その需要増加に生産が追いつかなければ(普通は追いつかない)インフレとなる。このときは普通かなりの大幅なインフレになるため、経済には悪影響を及ぼす。インフレにより、国民の財産が目減りし、結局税金を払ったのと同じ事になるから、「インフレ税」と言う。

 中南米では、かつて財政赤字をファイナンスする財源が無かったため、政府債務を中央銀行が引き受けることによりお金が刷られ、インフレが加速した。もちろん、どの程度お金を刷るかによって、インフレ率は調整できる。日本以外は、どの国もゆるやかなインフレになっているために、実質自分の財産(例えば現金)はゆるやかに目減りしており、その部分の税金を実質的に払っていると言うことができる。しかし日本はデフレだ。インフレ税を払っていない。ということは、その分、他の国より多くの税金を払わなければならなくなる。しかし、そうしたらデフレは悪化してしまうから、増税できない。だから税収不足になるから、借金(国債発行)で補っている。そこで、デフレのときは、どんどん国の借金が増えてしまう。

 景気対策をしてデフレからの脱却ができ、普通の国のようにゆるやかなインフレになれば、すでにインフレ税で税金の一部を納めたことになり、増税の必要がなくなるし、財政も改善してくる。ゆるやかなインフレにするということは、このようなメリットもある。松下幸之助も、まずお金のことが頭に浮かび、それを貯め利子で運用する、これは企業の感覚であり、国家に対するマクロ経済には当てはまらない。現在の政府もお金のことが第一で、財政を改善することで頭がいっぱいだ。国家の経済を考えるときは、お金は経済を成り立たせ発展させるための手段だということを忘れてはならない。

 国は家計や企業とは全く違う。お金は自由に刷っても良い。ただし、経済が最も活性化するように刷らなければならない。全国民が清貧に耐え、お金を貯めれば、後でそのお金が使えて豊かな生活が送れるような保証は全くない。なぜなら、清貧に耐えている間に生産は停滞し、企業は生産性の向上のための努力を怠り、折角貯めたお金を将来使おうとしても、生産力が無いときは、インフレになるだけで豊かな生活は無理なのだ。

 将来豊かな生活を望むなら、適度なお金を実体経済に供給し、最適な経済環境で企業を育て、生産性を伸ばす必要がある。もちろん、最適な経済環境とは規制緩和とか市場開放とかも含まれる。しかし、金不足、需要不足のインフレ経済では、生産性は上がらないし、企業は育たない。まさに現在の日本経済の没落は、お金不足から来るものである。それでは、高度経済成長をしていた60年代、70年代は、経済発展に必要な成長通貨はどうやって生まれていたのだろうか。それは、土地などの値上がりが関係している。地価が上がると、それを担保に多くのお金が銀行から借りられる。銀行から借りた人も、そのお金を一旦銀行に預ける。そうすると、銀行にはまたお金が入るわけだから、そのお金をまた別な人に貸す。このように次々にお金が銀行から出て行って、市中に出回るお金がどんどん増えていった。

 デフレになると、丁度その逆のことが起きる。地価が下がると、それを担保に借りることができるお金が少なくなる。すでに土地を担保に借りている人は担保割れが起きて、お金を返さなければならなくなる。それにより銀行の貸出残高が減ってくる。実際の銀行貸出残高は下の図に示した。貸出残高は大きく減っているが、現在下落はすでに止まっている。しかし、元の水準にまで回復するのは遠い先のことだ。貸出残高の減少は市中から巨額のお金が消えたということを意味している。消えたお金を補充するために、国はお金を刷る必要があるのに、それを怠ったために、日本経済が没落を続けている。

 この図から、不良債権処理が終わればお金は回るようになるという説は嘘だったことが証明された。不良債権処理が終わった現在でもお金は十分回っていない。(小野盛司)

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2008年2月27日 (水)

日銀は、なぜ国の借金を買い取らないのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第三十四弾です)
  http://tek.jp/p/

 日本人の「国の借金」に対する考えは異常そのものだ。いつでも、そしていくらでも日銀が国の借金を買い取ることができるのに、その事実をマスコミは隠し続ける。昨日(2月26日)も朝日新聞に載った。「国の借金最高更新」なのだそうで昨年末で838.05兆円になったという。おまけに国民一人当たりに換算すると655万円余りになるという馬鹿なことも書いてある。

 838兆円が多すぎるというなら、100円を1円(1新円)とするデノミをするとよい。そうすれば、838兆円は一夜にして8.38兆円に減り、655万円は、たった6.55万円になる。GDPも同時に減るから借金のGDP比は変わらないと言うかもしれない。だったら、借金が多いというのでなく、始めから借金のGDP比が多いのだと言うべきだろうし、借金のGDP比が増えたかどうかを、まず見出しに書くべきだろう。昨年末の借金は832.26兆円だったから、増加率は0.72%で、GDPの増加率は0.8%だから、GDPのほうが増加率は大きい。ということは、借金のGDP比は0.08%だけ減っている。当然、借金のGDP比が減ったということを、見出しに書くべきだ。

 借金のGDP比が減らないのは、経済政策の大失敗のためGDPが増えないためだ。OECD30カ国の中で日本が最低だが、その次に低いのがスイスの3.5%だ。もしも経済政策が大失敗ではなく、普通程度の失敗にまで改善し、日本がビリから2番目になるまで成長が加速したら、約2.7%だけ借金のGDP比を減らす事ができたはずである。あるいは、内閣府の試算(進路と戦略)に従えば、もし公共投資を5兆円増やしていたら、GDPが増加するために借金のGDP比は1.6%減っていたことになる。

 経済モデルを使った計算が理解できないため、「国の借金」を、まるで魔物のように恐れている。私は朝日新聞に、記事が明らかに間違えていると何度も抗議しているが、昨年11月23日付朝刊の「国の借金」に関する間違えた記事に抗議したときは、朝日新聞部長代理の金光という人から手紙が来て、「ご指摘の内容については、編集局の担当部署に伝えました。貴重なご意見として、今後の取材や紙面づくりの参考にさせていただきます。」と書いてあったのに、間違いを繰り返している。

 日銀が国債の一部を買い取れば、日本経済の没落を食い止めることができる。買い取ったお金は、国民に流れ、それが経済を活性化するからだ。しかしそれを阻んでいるのが日銀の自主規制だ。日銀には「長期国債の保有は日銀券発行残高まで」という自主規制がある。一般の人で知っている人はほとんどいないし、マスコミの報道でも聞いたことがない。日銀に電話してこの自主規制について聞いたら、一般窓口の人は知らないと言い、もっと「詳しい人」に電話を回してくれたが、その人も知らなかった。その詳しい人が、議事録等を調べて数日かけて調べてくれたが、見つからなかったと電話をくれた。日本経済を衰退させている根本原因は日本人全員が知っておくべきだ。日銀の中の「詳しい人」までが知らないようでは、日本経済の将来が思いやられる。
 なぜ日銀はそのような自主規制を行っているのか、昨年、質問主意書で滝議員が質問したときの安倍総理の答弁を引用しよう。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
安倍総理:日本銀行の長期国債保有の在り方は、日本銀行がその資産及び負債の状況等を踏まえて決定すべき事柄である。なお、日本銀行による長期国債の保有は、日本銀行の負債である日本銀行券の発行残高の範囲内で、安全確実な資産の保有として実施されているものであると承知している。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 残念ながら、逃げの答弁でこれでは何のことか分からない。最重要課題から逃げようとする姿勢はいただけない。政府がこのような態度であれば、日本は貧乏になる一方だ。本音は、過去の「苦い経験」だ。つまり戦前戦費調達で国債を大量発行し日銀に引き受けさせ、それが悪性インフレを招いたという経験だ。それを繰り返さないという意味で財政法第5条は、日銀による直接の国債の引き受けを禁止している。確かに度を超せば悪性インフレになるが、適度であれば、デフレ脱却の救世主になる。「適度」とは何かと言えば、計量経済学を駆使したシミュレーションが教えてくれる。直接の国債引き受けの必要はない。市場から適量の買い入れをすればよいだけである。

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  図で日銀券発行残高を示した。デフレ下では、お金はタンスにしまっておくだけで価値を増す。お金は流通しなくなってタンス預金がどんどん増える。そのため、日銀はお金を必要以上に発行しなければならなくなっている。日銀は保有する長期国債は、日銀券発行残高以下に抑えるという自主規制は全く意味がない。その自主規制のために日銀は、長期国債の保有が厳しく制限されていて、結果としてこれが財政を悪化させている。この自主規制が無くて、もっと多くの国債を日銀が保有すれば、国の借金の利払いは日銀を通して国庫に返るから、財政は大きく改善する。

 2008年2月20日現在、日銀の保有長期国債は48.8兆円であるのに対し、日銀券発行残高は75.1兆円である。自主規制に従うと、あと26.3兆円しか長期国債を買うことができないし、これでは全く足りない。90年代に入ってから日銀券発行残高が増えたのは、デフレだったからである。景気が良くなれば、再び減ってくる。しかも最近は電子マネーが普及し始めているから、日銀券の必要性がどんどん薄れてくる。そうなるとこの自主規制の縛りはきつくなる一方であり、それを継続すると日銀は国債を売らなければならなくなり、国の利払いの回収率も下がり、国はどんどん貧乏になっていく。この問題を避けていたら、日本経済の復活はあり得ない。(小野盛司)

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2008年2月25日 (月)

国の借金が大変なら日銀が買い取れば良いと世界を代表するエコノミストが提言(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第三十三弾です)
  http://tek.jp/p/

 国債は「国の借金」だからいつか税金で返さねばならないという、馬鹿なことを言う人がいる。そういう方法では絶対に返せないし、返そうとすれば、日本経済は大恐慌に陥る。しかし、日銀が買い取れば、逆に日本経済の大躍進が始まる。海外の識者の声を紹介しよう。

●バーナンキFRB議長(ノーベル賞確実と言われている経済学者でデフレ問題の第一人者)
 「日銀は国債の買い取りを増やして、減税あるいはその他の財政政策を行うべきだ。日銀の長期国債の保有額は発行済みの日銀券残高を限度とするという日銀の自主規制は撤廃するべきだ。」

●ローレンス・R・クライン (ノーベル賞を受賞した経済学者)
 「私の提案は、通貨の膨張です。日銀は政府の借金(国債)を買い取るべきです。減税をやるとよい。しかし、このような財政政策と共に教育への投資も増やすべきだ。」

●ポール・サミュエルソン (ノーベル賞を受賞した経済学者)
「3年間の新たな全面的な減税政策を実施するように提案する。今後も継続して行われる公共投資は、日銀が新たに増刷する円によって行われるべきだ。」
(日銀が新たに増刷する円とは、日銀が長期国債を買い、それと引き替えに出て行くお金のこと)

 2007年12月1日の静岡新聞に「消費税引き上げに反対」というタイトルでサミュエルソン氏が提案を寄せている。提案の前半は日本のデフレが危険なキャリー・トレードを出現させていると指摘し、後半は「日本の与野党、政府機関、そして有権者は、1990年以降の長い眠りから覚める必要がある。もし日本の企業と家庭がカネを使わなければ、景気を刺激し、同時に日本の美しい国土の生態環境を改善し、優秀な大学をさらに充実させる雇用創設の方法を他に求めなければならない。

 これは単なる経済学の理論ではない。1930年代、不況に陥っていた米国とドイツの人々に最終的に繁栄をもたらしたのは、意図的な赤字財政支出であった。1933-1939年、米国労働者の二人に一人が失業していたが、1940年には文字通り完全雇用を達成した。この失業率を下げたのは、ルーズベルト大統領の計画的な赤字支出であった。確かに日本の公的債務はすでに巨額である。だが、その債務に対する利子支払いの費用がゼロ金利でいかに低く抑えられてきたか、このことも忘れてはならない。

 現代においては、過度の正当派的財政は悪しき財政政策と言わざるを得ない。フランスはそれを八十年前に学んでいる。」としている。

 日本人は借金が嫌いで、早く返したくてたまらないのだろうが、海外のホームページを見ると日銀に国債を買わせるべきだという論調が目立つ。日銀が国債を買えば、それで国の借金を返したことになるからだ。それではインフレになると人は言う。日銀が国債を買うと、その入れ替えにお金が出ていく。事実上お金を刷ったことになるからだ。そのお金が様々な経路で国民の手に渡り、国民が金持ちになり、年率3%のインフレになったとしよう。つまり3%名目GDPの成長を押し上げる。それは国の債務のGDP比を3%押し下げるのだ。さらによいのは、金持ちの国民は、より多くの税金を払ってくれて、国の借金が減り、債務のGDP比は3%以上、下がるのだ。これをシナリオAとしよう。

 もし増税で3%だけ債務のGDP比を下げようとしたら、800兆円の3%の増税、つまり24兆円、一人当たりにして、なんと約20万円もの増税が必要となる。ただしこのような大増税により、日本経済は深刻なデフレ経済に陥り、GDPは大幅に縮小し結局債務のGDP比は縮小しないことになる。これをシナリオBとしよう。みなさん、シナリオAとシナリオBの、どちらを選びますか。

 もうお分かりだと思いますが、世界を代表するエコノミストは日本経済復活のための素晴らしい提案をしているのである。国の借金が日本経済にとってどれだけ大きな重しになっているか想像して頂きたい。財政を拡大しなければ、経済は拡大しないのに、財政を拡大できなくした。それに金融機関の機能を大きく損なわせている。金融機関とは本来、国民からお金を集め、それを工場建設とか、住宅建設とかの融資に回す。つまりお金を融通し合って経済を拡大していくのが金融機関の役目となっていたはずです。しかし日本の金融機関は何をしているのかということです。なんと国民から集めたお金で国債を買って、それを金庫に置いておくだけで、金利が入り利益が出せるように国が保証しているのです。その利益はもちろん国民から集めた税金です。2007年度で国が払っている利払い費は約10兆円で、税収が約50兆円ですから、我々の納めている税収の約2割は利払いとして郵便局とか銀行へ流れているわけです。

 更に悪いことは、現在極めて景気が悪いために、長期金利は1~2%程度ですが、少し景気が回復してくると、諸外国並になり、現在の約3倍の金利になってきます。そうすると単純計算をすると我々の納める税金の半分以上は、こういった金融機関に利払いとして流れるわけです。折角、我々が多額の税金を納めても、その半分以上が金融機関等に利払い費として流すようでは、税金の無駄遣いとしか言いようがありません。現在で年間の利払い費は10兆円を超しており、金利が3倍になれば毎年30兆円の税金の無駄遣いをすることになるわけです。金融機関にとっては、国民から預かったお金で国債を買えばそれを金庫に置いておくだけで、巨額の税金を流してもらえるので、こんな楽な商売はありません。グリーンピアで使われたお金が総額で1900億円ですから、10兆円はこの50倍以上、30兆円は150倍以上です。グリーンピアなら保養施設ですから、国民は利用できますが、利払い費は単に払うだけです。

 代替案はもちろん、国債を日銀に買わせることです。それにより国債という形で凍結されていたお金が国民に渡り、国民は豊かになりますし、政府が日銀に払った利払い費は、国庫に返される仕組みになっていますから、政府は再び国民のために使うことができるわけです。税金の無駄遣いがマスコミで色々指摘されていますが、額が小さいものばかりで、そのような無駄を防いだとしても、我々の暮らしを大きく改善するほどでもありません。10兆円とか30兆円とかという巨額の税金の無駄遣いを追求した人は誰もいません。しかもこれは毎年発生しているのです。

 内閣府になぜ景気対策をしないのかを聞いたときの返事は、確かに景気対策をすると景気も良くなり、最初の2年間はGDPが増えて、債務のGDP比が減り財政が健全化する。しかし3年目以降は金利が上がり、利払いが増え、債務のGDP比が増えるから景気対策は駄目だという説明でした。要するに、金利を抑えるために景気を悪くしておこうというのが政府の考えだというのです。本末転倒だと思いませんか。
 日銀に国債を買わせれば利払いの増加を抑えることができます。金利上昇を抑えるために、わざわざ景気を悪くして国民を苦しめなくてもよいのではないでしょうか。(小野盛司)

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2008年2月24日 (日)

小野盛司氏の積極財政論シリーズ

 弊ブログに精力的に投稿していただいている小野盛司氏(日本経済復活の会・会長さん)の積極財政論シリーズも、今回で32回目になっています。近年、我が国のマクロ的な経済政策の方向性は、どういうわけか積極財政論という選択肢が取られて来なかったという事実があります。平成大不況から小泉政権の構造改革を経ても、庶民としてはいっこうに景況感が上向いたという感覚はありません。むしろ悪くなっているという切実な不況感が国民を囲繞している始末です。可処分所得が減少しているどころか、預貯金を切り崩して生活費に当てている世帯が圧倒的に多くなっています。政府も御用学者も、小野会長さんたちが提唱するマクロ計量経済学による積極財政論を国民や政財界に向けて啓蒙しません。

 またマスコミもどういうわけか積極財政論を報道しようとしません。弊ブログ管理人が感じるところによれば、日本国内のパワーエリート(彼らは何者なのでしょうか。半島系では?)に、日本をかつてのような経済大国にはけっしてしないぞという、一種のルサンティマン(怨恨)のようなものが働いているような気がします。これを表立って体現したのが小泉純一郎氏でした。彼が半島系かどうか知りませんが、彼の行なった新古典派的な政策に通底するのは、日本に対する底知れぬ破壊的なイド(無意識衝動)でした。これの頂点が自見庄三郎氏の語った「小泉氏の天皇改革論(女系肯定論)」です。

 積極財政論を忌避する衝動が何処に由来しているのかいまだに不可解な面はありますが、万民の幸福原理と背反する現今の超格差経済への潮流を止め、日本経済復活の突破口となる可能性を持つ積極財政論のアプローチが、小野盛司氏が展開しているシリーズですので、是非通読して欲しいと思います。

 また、沖縄観光速報社編集長の渡久地明(とぐち あきら)さんの『渡久地明の時事解説』というブログでも、小野会長論文を高く取り上げていますし、渡久地明さんの時事解説も非常に参考になることが書かれていますので是非ご覧になってください。
                         (神州の泉・管理人 高橋博彦)



◎日本経済復活の会・会長 小野盛司氏の積極財政シリーズ

 1.「政府による経済予測の偽装」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2007/12/post_cc2c.html

 2.「財政は破綻するのか」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_1503.html

 3.「デフレ化で行う増税や歳出削減が、いかに馬鹿げているか」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_7a8c.html

 4.「日本を貧乏にする政策にNOと言おう」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_b4ba.html

 5.「お金がなければ刷りなさい」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_e112.html

 6.「景気対策をすればどうなるのか」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_d774.html

 7.「アメリカは16兆円を刷って減税という景気対策を実施」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_11ff.html

 8.「内閣府の試算による積極財政で財政が健全化することが明らかに」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_1fe1.html

 9.「株価急落に対する政府の無策を追求しよう」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_b753.html

10.「ガソリンのザン低税率の存廃を争っているときか」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_52ae.html

11.「景気対策をやった方がよいのではないかと内閣府に電話して聞いてみました」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_2f09.html

12.「バブル潰しは、あれでよかったのか」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_00ff.html

13.「ダボス会議でIMF専務理事が景気対策を呼びかける」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/imf_bdc8.html

14.「円の信用とは何か」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_f6d6.html

15.「道路はもういらないのか」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/01/post_5c35.html

16.「国の財政と家計とは比較できない」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_66f4.html

17.「経済成長に必要な成長通貨」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_5531.html

18.「イタリアに学ぶ真の財政健全化策」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_db5d.html

19.「日本における言論統制の実情」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_7858.html

20.「人口減少でGDPが伸びなくなるという嘘」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_916b.html

21.「可処分所得と消費」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_77c9.html

22.「昭和恐慌に学ぶデフレ脱却法」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_29b9.html

23.「デフレが人を不安にした」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_4ddc.html

24.「年金問題の正しい考え方」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_f915.html

25.「実質成長率さえよければ、名目成長率が低くても良いという嘘」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_2c08.html

26.「国の借金を返した5つの例」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_f975.html

27.「政府貨幣発行について」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_c2e9.html

28.「過去の景気対策がなぜ効かなかったか」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_6b57.html

29.「ここまで来た 日本の地盤沈下」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_9c0e.html

30.「なぜ財政赤字なのにインフレにならないか、国債は暴落しないのか」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_7d58.html

31.「(続)政府による経済予測計算の偽装」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_25ea.html

32.「アメリカが圧力をかけて日本に景気対策をさせないようにしているのか?」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/02/post_2c7a.html

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アメリカが圧力をかけて日本に景気対策をさせないようにしているのか?(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第三十二弾です)
  http://tek.jp/p/

 アメリカが圧力をかけて日本に景気対策をさせないようにしているのではないかという疑問が、読者からメールで筆者に寄せられたので、そうではないということを書くことにします。

 計量経済学を知っている人ならよく知っていることなのですが、もし景気対策をした、つまりお金を刷って(返さなくて良いお金です)国が国民のために使えば、国民は金持ちになるわけで、国民はお金を使うようになります。そうすれば、国産のものだけでなく、アメリカからの輸入品も多く買うようになるので、対米貿易不均衡の是正に役立ちます。これがよく知られているアメリカの対日要求である「内需拡大」の意味です。アメリカにとって、日本国民が貧乏になることに何のメリットもなく、逆に刷ったお金で日本国民を金持ちにして欲しいわけです。この要求に応えて1986年に前川レポートが出されました。内需拡大の約束です。

 アメリカからだけではないですね。IMF専務理事などからも日本は景気を刺激せよとの要求は再三出ています。刷った金で財政出動をして、日本国民にお金をプレゼントするなら、確実に内需拡大で対日要求に応えられたのは間違いありません。実際、経済モデルで計算しても、そういった予測になります。しかし、実際に政府が行ったのは刷ったお金を貸してやろうという話でした。銀行を通じ「金を貸すから、投資に使いなさい」と、国民に刷ったお金を融資しようとした。企業としては、国民がそれほどお金を持っていないから、工場をどんどんつくっても、そんなに売れるわけないからということで、そのお金は株とか土地とかに投資するしかなかった。借りた金でアメリカ製品を買うなんてできないですよね。

 結果はバブル発生で、貿易黒字の解消はできなかった。なぜ、お金を国民にプレゼントするのでなく、貸し付けだったのかと言えば、刷った金(国債)は、いつかは返さなければいけないものだという政府の勘違いでしょう。これはそういった種類のものではない。どこの国もそんなことはしていない。経済成長を続ければ、国の借金はどんなに増えても、GDPも増えるから、借金のGDP比は変わらないということで、国の借金は際限なく増やすのであり、返すのではない。日本人は借金とはいつかは返すものだと思っていて、国の借金は全く別の種類のものだということをどうしても理解しない。この考えを変えないと世界経済の中で日本は孤立してしまいどんどん貧乏になってしまう。

 アメリカの財務長官も再三にわたり、日本に景気刺激をせよと要求しています。私は、その意味を確認するために2003年に当時のアメリカ財務長官のスノー氏で手紙を書き、積極財政で日本経済を刺激すると、日本が大躍進をし、財政も健全化するという日経新聞の試算結果も添えて送りました。すぐに「あなたの考えに賛成する」という内容の返事が代理の人から来ました。私は、アメリカ財務省に電話し直接話しをしたいと申し入れ、アポイントを取ってワシントンに行き財務省の方に詳しく説明し、アメリカ財務省も全く私の考えと同じだと確認しました。詳しくは日本経済復活の会のホームページ(http://tek.jp/p/)の中の「活動」を見て頂きたい。

 私の考えでは、積極財政をさせないようにしたのは小泉さんだと思います。彼は自らを「浅学非才」と言い、自分は経済は全く分からないと言いながら、緊縮財政を強行しました。ブッシュ大統領に対し、「自分の経済政策を支持してくれたら、イラクに自衛隊を派遣する」という交換条件を提示したに違いありませんし、そのような要求であれば、ブッシュ氏も受け入れざるを得なかったのでしょう。

 2003年当時、国会議員の大半は景気対策に前向きだった。2003年の総裁選には小泉純一郎、藤井孝男、亀井静香、高村正彦の4氏が争ったが、小泉氏以外は積極財政を唱えていた。高村氏は総裁選立候補の直前に経済政策に関して教えて欲しいと連絡してきて、筆者は「積極財政が財政を健全化する」ということを説明し、高村氏はそのことを総裁選の討論会で説明しておられた。小泉氏は、国会議員の中での支持は少なかったのだが、マスコミをあやつる術は抜群にうまかったから当選できた。彼はマスコミを使って、世論を自由に動かしたし、積極財政を唱える人(植草一秀、森田実、リチャード・クー、紺谷典子、亀井静香、平沼赳夫、小林興起等)を徹底して弾圧した。

 森田実氏のホームページにも、「小泉批判をしないならテレビに出してやる」と言われたから出演を断ったと書いてある。植草一秀氏も逮捕前のテレビ出演でも小泉経済政策を批判できないようにテレビ局が仕組んでいると言っていた。2度の事件で逮捕されたが、2回とも、でっち上げだ。筆者はあの事件に関する取材を何度も受けたが、記者達は事件がでっち上げだと明らかに知っている。それなのにでっち上げだとは絶対に書けないようになっている。言論統制は完璧だ。竹村健一氏とも会って話したが、積極財政で日本経済が大躍進するという日経新聞社の試算結果をテレビで言ったら大変なことになると言っていた。しかし、「日本はここまで貧乏になった」という本を送ったら、報道2001で何度も引用してくれた。

 この種の話をし始めると際限なく続くし、筆者も身の危険を感じる。先日も税務調査と称して、身辺調査が来た。脱税などあるわけなく、一円も払わされることはなかったのだが、個人情報を徹底調査された。個人の通帳とか、日本経済復活の会のこととか、貸金庫の中身を見せろとか、過去に弁護士に相談した内容とか、税務調査にしては異例の質問が多かった。いつか私が自殺したとか、行方不明になったとしたら、これは口封じのためで、言論統制だと思って頂きたい。私は身の危険が及ぶとしても、いつまでも日本経済を復活させるために戦い続ける覚悟である。

 日本経済復活の会を立ち上げた2003年、世界を代表するノーベル経済学賞受賞者のサミュエルソン氏やクライン氏から激励の手紙が来た。2004年にはノーベル賞受賞者のスティグリッツ氏が我々のシンポジウムに来てくれることになっていたが、時間の都合がつかず、最終的にはクライン氏がシンポジウムに来てくれた。また現在のFRB議長のバーナンキ氏も日本にやって来て講演をしている。これらは全員アメリカ人だが、口をそろえて「刷ったお金を日本国民のために使いなさい」というアドバイスをしている。詳しくは日本経済復活の会のホームページを参照して頂きたい。

 これは日本のためだけではなく、アメリカ経済のためにも、世界経済のためにも大変メリットの大きい重要な政策なのである。(小野盛司)

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2008年2月23日 (土)

(続)政府による経済予測計算の偽装(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第三十一弾です)
  http://tek.jp/p/

 昨年の12月26日に『政府による経済予測計算の偽装』というタイトルで書いたのだが、この「偽装事件」に関し我々はまだ政府を追求中であり、本日(2月22日)政府より回答をいただいたので紹介する。その前に偽装事件の概要から始める。政府は、デフレは間もなく脱却できると言い続けている。デフレ脱却は、総合的な物価指数であるGDPデフレーターがプラスになったときに宣言できる。政府が昨日(2月22日)に滝実衆議院議員の質問主意書への答弁という形で「デフレから脱却したとまでは判断していない」との見解を示した。

Gdp31

 上図を見ていただきたい。各曲線に書かれた数字が発表年度だ。この曲線がプラスに来たらデフレ脱却ということになる。2002年から、毎年政府が言っているのは、デフレは直ぐに(1~2年で)脱却できるということ。今年でもう7回目だが、実際は未だデフレ脱却の目途は立っていない。はっきり言って毎年政府が言っていることは大本営発表だ。経済はすぐに良くなると国民を騙し続けている。このことを滝実議員が問いただしたところ「我が国の経済は問管轄道がその主体をなすものであること、国際環境の変化には予見しがたい要素が多いこと」が、予測が外れた理由だという。冗談ではない。国際環境と言えば、世界経済は最近30年間で最も良い状態にあったと言われているのに、その影響だと言うなら、予想以上の経済の伸びにならなければならないはずだ。そのことを再度質問したら、昨日(2月22日)政府より以下の返事が来たので紹介する。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
内閣衆質一六九第九一号
内閣総理大臣 福田康夫
衆議院議員滝実君提出

 衆議院議員滝実君提出内閣府の計量経済モデルが政治的に歪められている可能性に関する質問に対する答弁書

 衆議院議員滝実君提出内閣府の計量経済モデルが政治的に歪められている可能性に関する質問に対する答弁書(平成十九年十二月二十五日内閣衆質一六八第三三二号)においては、我が国の経済は民間活動がその主体をなすものであること、国際環境の変化には予見し難い要素が多いこと等にかんがみ、各年度の構造改革と経済財政の中期展望や日本経済の進路と戦略(以下「中期方針」という。) の参考試算において示される経済の展望は、相当の幅を持って解釈すべきものである旨を答弁したところであり、御指摘のように「世界の経済状態が予想より悪すぎたために下方修正を六年も連続して繰り返した」との旨を答弁したものではない。なお、各年度の参考試算の作成に当たっては、従来より、中期方針における政策運営等の考え方を前提に、それぞれの時点で入手可能な情報を基に、慎重に分析、検討を行い、的確な経済の展望を示すよう努めているところである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 お分かりだと思うが、偽装を隠そうとして支離滅裂になっている。「世界の経済状態が予想より悪すぎたために下方修正を六年も連続して繰り返した」のではないと言いながら、直ぐにデフレから脱却できると言ったのは「国際環境の変化には予見し難い要素が多い」からだと言っている。そんな馬鹿な!!では、どのように国際環境の変化を読み違えたと言いたいのだろうか。もしも世界の経済状態が予想より良すぎたというなら、当然、逆に上方修正だったはずで、なぜ下方修正になったのかの説明にはならない。外需頼みで、デフレスパイラルをかろうじて免れてきた日本経済だが、これからは外需の伸びがどれだけ期待できるか分からない。政府は大本営発表は止め、正直に「現状の緊縮財政を続けていたら、今後経済は良くなる見通しはありません」と宣言すべきときに来ている。

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2008年2月22日 (金)

イージス艦と漁船衝突に垣間見える日本溶解

 19日午前4時7分ごろ、千葉県房総半島野島崎南42キロ沖の太平洋上で、海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご」とマグロはえ縄漁船「清徳丸」の衝突事故があった。連日このニュースが続いているが、真っ二つに破断した「清徳丸」に乗っていた父子の消息がまだわからないのは、この知らせに暗澹たる追い討ちをかけている。親族や漁協仲間の思いはいかばかりだろうか。

 さて、衝突の悲劇から一転目を逸らして、この事件が持つ深刻な背景を考察すると、日本という国家が崩壊寸前まで来てしまったことを悟る。今の日本は防衛省に限らず、社会保険庁、外務省、財務省等、国家の枠組みを構成する重要な組織が軒並み制度疲労を起こし、官吏たちの綱紀の緩みが進んだ感じがある。今回のイージス艦の衝突事件は起こってはならない類のことである。最新鋭の索敵システムと迎撃装備を持つ巨大護衛艦が一般民間漁船に気が付かずにいたことを重大視する人は多い。基本的にイージス艦というのは、洋上や対空監視で接近する物体を捕捉して、瞬時に不明物体の進路や国籍、敵性かどうかを判断する装備に最も優れた船であるというのが、おおよその思いではないだろうか。わずか七トンの小型船であっても、強力な爆薬を積んでテロ目的で接近していた場合、イージス艦「あたご」は深刻なダメージを受けていただろう。

 この事態を軍用艦と民間船の不幸な衝突事故という位相で見過ごしていいのだろうか。イージス艦本体と装備一式で1800億円(?)もかかっている最新鋭の護衛艦が、たとえ民間の漁船であろうとも不用意に接近を許していいわけはない。これが大東亜戦争時の海軍船であったなら艦長は間違いなく切腹ものだろう。軍事技術的に国防の最先端を任じる護衛船が民間船と接近、衝突を起こしたという事実は致命的だ。もし、海上自衛隊員に武人の魂があるなら、これほど恥ずかしい事件はないだろうと思う。一般の民間人が素直に感じているように、国土と国民を守る責務がある護衛艦が、武装も何も持たない七トンの小型漁船を破壊し、漁船員二名を真冬の漆黒の海に投擲したという事実は衝撃的である。

 今までのニュースを観ていると、「あたご」の方に回避義務があったということが確定的になってきているし、防衛省側の情報が二転三転していることも事態を悪い方向に進めているようだ。石破大臣が就任してから防衛省関係の失態が続いている。昨年12月、停泊中の護衛艦「しらね」の火災、 イージス艦中枢情報の漏洩事件があり、その前は守屋氏の証人喚問とか、省の不祥事が続出している。

 目前のできごとを性急な結論に導く前に、自衛隊員のみならず、国民全体の国家意識がそうとうに危うくなってきていることを指摘することは重要だと思う。戦後63年経っても、自衛隊の身分はいまだに確立されていない。これは日本人全体に国家観の溶解が進んだという現象として見る以外にない。GHQは日本民族の精神改変に臨み、江藤淳氏の言った「閉ざされた言語空間」の中で、マスコミを使って執拗に日本人に東京裁判史観を植えつけた。WGIP(War Guilt Infomation Program)である。先の大戦贖罪史観によって、日本人は徐々に正統な国家観と国防意識を忘れていった。その結果、国民は自衛隊に国防を期待する意識がほとんどなく、わずかにあるのは、何か突発的に有事が起きたら庶民に迷惑を掛けないように防衛してくれという程度である。自衛隊に万全な防衛力を求めない国民意識の基底には、おそらく安保によって駐留米軍が日本を守ってくれるだろうというはかない期待がかけられている。日本人は60年という歳月の中で、共同体的バンドリングを喪失し、同時に国家意識を消失させてしまったのだ。

 戦後民主主義教育の中で、人権と個人的自由のみが唯一の価値のように叫ばれ、GHQが基礎を作った東京裁判史観が国民を囲繞した。日本人は軍国主義という錯誤的言葉によって正統な国防観念をすっかり失ってしまった。そういう国家溶解的潮流の中で、中曽根政権が新自由主義経済を日本に持ち込み、そのネオリベ経済はイデオロギー的にも、戦後民主主義の反国家思潮と共振作用を起こした。そして、小泉政権に至っては完全に新自由主義を導入し、政権自らが国民の代弁者ではなく、アメリカ隷従への道を選択してしまった。こういう流れの中で、自衛隊や官吏の綱紀の緩みは国民全体の国家意識の溶解と呼応しているのだ。日本人は植えつけられた戦争への贖罪感から、共同体や国家という観念を、まるで忌避すべき悪魔のキーワードのように意識から除外してしまったのだ。戦後日本人の意識を強く拘束したのは軍部が戦争を主導し、一般国民がそれに扇動されてしまったという悪質な階級闘争史観であった。この階級闘争史観によって日本人は真の敵を見失い、同じ自国民の軍部に戦争責任をなすりつけ、アメリカの侵略主義を思考の枠外に押しやった。その結果、いろいろな意味で祖国を守り抜くという重要な感性が完全に鈍磨してしまったと見るべきである。

 国家意識の決如は軍事だけではない。食糧安保の考え方が出てこないところもそうである。中国の毒入り餃子の件が起きる前から、有害な高濃度農薬入りの野菜が問題になっていたが、与党政権は食糧自給についてまったく思考停止的であったし、今もそうだ。BSE疑惑の解けないアメリカ産牛肉も言われるがままに輸入している。食料の過剰な海外依存も国防観念溶解の証左だ。木材の外材輸入もそのひとつだ。世界の環境問題も視野において可能な限り国内需要に切り替え、計画的に林野行政を行なうべきだった。食料に関して言うなら、もし、中国やアメリカが戦略物資としての食料輸出を止めた場合、日本はいきなり飢餓国家となる。こうなった時、日本人が生きていくには卑屈な隷従以外に道はない。

 防衛省や社会保険庁の堕落を咎めることは必要だろう。しかし、大きく眺めれば日本人全体に国防観念を醸成することが重要ではないだろうか。低落した今の日本人でも、家族は大事である。家族を守ろうとする意識が時代を超えて普遍だとしたら、我々一人ひとりが帰属する国家が重要であることは当然の論理的帰結になる。日本人が国家を悪いものとしたら、帰属する空間が確保できなくなる。国家防衛を捨てて他国の蹂躙に任せたら、家族も守れなくなるのだ。この単純な事実を認めることが先決だと思う。

 最後に有名な「ハインリッヒの法則」というものがあって、ここには「1:29:300」という対比的数字が存在する。数字の意味は、重大な災害を1とすると、軽度の事故が29、そして事故寸前の軽微な危うさが300あるというもので、これは1件の重大災害が発生する背景には、29件の軽度な事故と300件のはっとしたできごとがあるという。これが事実だとすれば今回のイージス艦の事故は果たして最重要な「一件」の事故だろうか。もしかしたらこれは「29件」に該当しているのかもしれない。300件にかんして言えば、表には出ないところですでに発生していたと考える方がいいだろう。もしかしたら自衛艦の今回の件は、これからハインリッヒの法則で言う最大級の事故、事件が起きる予兆として捉えた方がいいかもしれない。

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2008年2月21日 (木)

なぜ財政赤字なのにインフレにならないか、国債は暴落しないのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第三十弾です)
  http://tek.jp/p/

 通常、財政赤字が膨らむということは、かなりのお金が実態経済に流れ込むというだからインフレになる。しかし、日本はデフレが続いている。その理由は簡単だ。財政赤字で出て行ったお金を、国が国債発行という形で回収しているから、インフレにならないだけだ。NTT、郵政など次々民営化するが、そのとき政府保有の株式を売り出せば、株と入れ替わりにお金が国民から吸い上げられ、デフレを悪化させるという事が見過ごされている。これは民営化の是非とは別次元の問題だ。

 もちろん、国債を買った個人や金融機関等が一斉に売り出せば話は別だ。しかし、そうならないように、財務省は目を光らせている。例えば、郵政を民営化したわけだが、もし郵政公社が持っている国債266兆円を売り出したら、国債は暴落し財政は破綻する。このことは菊池英博著『実感なき景気回復に潜む金融恐慌の罠』(ダイヤモンド社)に詳しく書いてある。財務省に、このことについて質問をしたら、次のような返事が来た。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 郵政民営化関連法では、(1)旧勘定については、国債等の安全資産により運用すること、(2)移行期における保有国債等の安全資産額の見通しを公表すること、といった見通しが盛り込まれています。

 これにより、現在大量の国債を保有している郵政公社の民営化に伴い、国債市場に不足の事態が起こることのないよう、市場関係者の予測可能性等に十分配慮した制度設計を行っています。
 また、国債保有者層の多様化を図る観点から、平成15年3月より個人向け国債の発行も開始し、家計の国債保有の促進にも努めております。
 更には、国債に係る海外説明会(海外IR)を実施し、海外部門による国債の保有を促進しています。
 財務省では、郵政公社民営化後も国債が確実かつ円滑に発行されるよう、努めているところです。

今後とも財務行政にご理解とご協力をお願いいたします。
財務省大臣官房文書課行政相談官 曽根 陽一郎
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 要するに国債を売らせないということだろう。何年か前、みずほFGの前田社長と竹中大臣とのやり取りが新聞にあったのを思い出す。竹中大臣が不良債権処理が目標に達していないことを問いただすと、前田社長はデフレ脱却ができていることが、その目標の前提になっていましたと反論した。そのとき大臣は激怒し、お前の会社などいつでも潰せるのだという意味の発言をし、みずほの社長は真っ青になったと書いてあった。財務省に逆らって国債を売るなど、今の金融機関にとっては絶対にできないことなのだろう。

 財務省は国債市場の安定化のために国債市場特別参加者制度というものを導入している。この制度に参加すれば、一定の規模の入札をしなければならなくなる代わりに、一定の優遇措置が受けられることになる。つまり確実に設けさせてやるから、絶対に国債を買い続けろと金融機関に命令している。マスコミは怖くて追求できないのだが、実はこういった制度により道路財源の無駄遣いの1万倍以上の膨大な無駄遣いが日常的に行われていることに注目していただきたい。この制度はイギリスの制度を真似たと言われている。しかし、本当に真似るならイギリスやアメリカが多額の国債を抱えていて日本の現状に似ていた頃の制度を取り入れるべきである。国が大量に国債を発行した際には、国債の暴落を防ぐために中央銀行が国債価格支持政策(Pegging Operation)を採用した例がある。

 例えば、アメリカにおいては、政府が低利の資金調達を継続して行うため、FRBに低金利誘導を要請、これを受けてFRBは1942年より国債価格支持政策を採用している。これにより短期国債は0.375%、長期国債は2.5%で買い支えるようにしており、1951年までこの政策は実施された。1940年代の後半から1960年代のイギリスでも中央銀行による国債を買い支える超低金利政策が取られている。

 要するに、他国の例にならって、日銀が国債を買い支えればよいだけだ。そうすれば、それと引き替えにお金が出ていき、デフレ脱却が可能となるし、財政政策にも余裕がでてくる。そのお金は個人にも企業にも行くし、株価も上げ、年金積立金を運用で増やし、国債の暴落も防ぐことができる。もしインフレが行き過ぎたときは、増税をすれば一気に国の借金を返すことができる。増税をしなくても、インフレで給料が上がれば、国民の多くが「高所得者」になり、累進課税になっているから、税収の大幅アップは間違いない。地価の値上がりで固定資産税も上がる。国民は給料の上昇で可処分所得が上がり、購買力が増すし、国全体にお金が回るから、経済は活性化し成長は加速される。経済成長が加速するなら当然、円の信用は増す。

 もし日銀が国債を買わないということであれば、民間の金融機関が買うことになり、膨大なお金を利払い(国債の配当)として受け取ることになる。その額は、今年1月に政府が発表した「進路と戦略」では、現在20兆円の国債費?(そのうち利払いが10兆円程度)が2011年には24.1兆円にもなるとの見通しだ。今後景気が良くなってくれば、金利がどんどん上がってくる。例えば800兆円の借金で、金利が5%になれば利払いは40兆円となり、我々の納める税金の大半は、一部の金融機関に利払いとして流れることになる。これを税金の無駄遣いと言わずに何と言えばよいのか。

 今、国債市場特別参加者制度に参加しているのはアール・ビー・エス証券会社、エービーエヌ・アムロ証券会社、岡三証券(株)、カリヨン証券会社、クレディ・スイス証券(株)、ゴールドマン・サックス証券(株)、JPモルガン証券(株)、新光証券(株)、大和証券エスエムビーシー(株)、ドイツ証券(株)、東海東京証券(株)、日興シティグループ証券(株)、野村證券(株)、バークレイズ・キャピタル証券(株)、ビー・エヌ・ピー・パリバ証券会社、みずほインベスターズ証券(株)、(株)みずほ銀行、(株)みずほコ-ポレート銀行、みずほ証券(株)、(株)三井住友銀行、(株)三菱東京UFJ銀行、三菱UFJ証券(株)、メリルリンチ日本証券(株)、モルガン・スタンレー証券(株)、UBS証券会社、リーマン・ブラザーズ証券(株)の26社だ。外資系も多い。

 こういった金融機関に莫大な利払いを、我々の税金から払い続けなければならないのか。確実に儲けさせると国が約束するから国債を買い続けろと、国が言うことに憤りを感じないか。このような制度が、日本経済をデフレに追い込み、急激に没落させている。なぜ改革をして、日本経済を復活させようと考えないのか。道路財源の使い道を追求するのもよいが、この問題はそれより少なくとも1万倍も大きな税金の無駄遣いなのだ。マスコミよ、恐れずこの問題を扱ったらどうだ。(小野盛司)

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2008年2月19日 (火)

ここまで来た 日本の地盤沈下(小野盛司)

 (※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第二十九弾です)
  http://tek.jp/p/

 「週刊エコノミスト」2月26日号に『ここまで来た 日本の地盤沈下』という記事が大々的に載っている。昨年の10月26日に日本経済復活の会が『日本はここまで貧乏になった』という意見広告を朝日新聞の朝刊1頁を使って出したのが引き金となり、これに類した記事が次々出されるようになり、「週刊エコノミスト」のこの記事も、その一つだと思う。

 「週刊エコノミスト」の記事には、地盤沈下を示すたくさんのデータが書いてある。

①一人当たりの名目GDPは1993年には2位だった日本だが、2006年には18位に下がった。

②購買力平価でも日本は順位を落としていて、2005年には16位まで下がった。

③株価の騰落率で言えば1996年~2007年の平均でも2007年の年間でも世界52カ国中下から2番目の51位だった。

④1989年末に株式時価総額で実に14もの日本企業が世界20位までに入っていたが2007年末にはたった1社が入っているだけだ。

⑤世界主要市場の時価総額の株式時価のシェアは90年の32.9%から7.3%に落ちた。

⑥港湾のコンテナ取り扱いランキングも1980年には神戸が世界4位だったが、2006年には39位に低下し、日本で最高は東京の23位。

⑦国際競争力ランキングは1996年には日本は4位だったが、2007年には24位に下がったとある。エコノミストには書いてないが、1989年から1993年の間は日本は世界一だったのだ。下のグラフを見て頂きたい。

Photo_2

 日本人は、日本の名目GDPは非常に長い間、ほとんど変わっていないと思っている。しかし下のグラフを見て頂きたい。EUのユーロに換算して日本の名目GDPを見ると実は大きく減少しているのだ。BRICsだけでなくEUの台頭も、日本経済の没落と関係しているのは明らかだ。

Photo_3

 実質GDPの伸びが大きければ名目GDPなどどうでもよいなどと言っているときではないことは明らかだろう。実質GDPの伸びとは何だろう。デフレーターが下がれば下がるほど、実質GDPは伸びるようになっている。例えば、パソコンの性能が昨年より向上したが、同じ値段で売られているとしよう。一年前にはその性能だと20%値段が高かったとすると、実質20%値段が下がったことになる。デフレーターの下落だ。しかし、買った本人は同じ値段なので、同じパソコンを買っただけと思っているかも知れない。

 計算上では、それを買った人は実質20%高い物を買ったことになる。実質、それだけ金持ちになったとし、GDPは拡大したとみなす。計算上では確かにそうなるかもしれないが、その人は性能が上がったことに何のメリットも感じないかもしれない。ハードディスクの容量が100GBから120GBになっても全く関係ないかもしれないし、機能が増えた分、逆にどこに自分が使いたい機能があるのか探すのに大変で、機能が増えることはありがた迷惑かもしれない。そんな理由で実質GDPを上げるのはおかしいかもしれない。デフレーターを下げれば下げるほど、実質GDPが上がるから、政府はどんどんデフレーターを下げて、その反動で、実質GDPを上げ、『経済成長』を誇示しているだけかもしれない。

 実際、平成15年の実質GDPの伸びは3.2%と政府は発表して平成16年の参議院選を戦い、選挙が終わったとたん、デフレーターの値を修正し、平成15年の実質GDPの伸びは、実は2.0%でしたと、大幅下方修正した。選挙の前後で、これだけ大幅な実質GDPの値の修正をするということは、なんだか怪しいと思いませんか。(小野盛司)

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2008年2月17日 (日)

過去の景気対策がなぜ効かなかったか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第二十八弾です)
  http://tek.jp/p/

 過去に何回も景気対策を行ったが、借金が増えただけで景気は良くならなかったという人がいる。これは全くの嘘である。過去の景気対策の一覧が下の表である。

  過去に行われた景気対策   参議院予算委員会調査室(2004)
平成16年度 財政関係資料集 国立印刷局

Photo_5  

 資産デフレで資産価値が千数百兆円も失われたのに、政府は僅か140兆円足らずしか景気対策を行わなかった。このような小規模の経済対策でも、GDP押し上げ効果を単純に加えてみると19.5%になる。何もやらないよりはるかに良かった。適切な規模で、適切な時間だけ景気対策をやらなければ、また逆戻りをしてしまうわけであり、あたかも効果が無かったように思えてしまうのである。しかし、一人当たりの名目GDPに関連して説明した通り、積極財政を行った小渕内閣のときは、世界の中で順位を上げたし、緊縮財政を行った橋本内閣や小泉内閣では、順位を大きく下げている。景気対策はしっかり効いているのである。

 下図の日経新聞社のNEEDS日本経済モデルでも、小規模な景気対策では国の債務のGDP比は下がらないが、ある程度以上の規模なら下がると予想している。

Photo_4

 ほとんどの人がデフレの怖さを知らない。デフレは世界で最も豊かな国の一つだった日本を、少しずつ貧乏な国へと引きずり下ろしていく。それには終わりはなく、果てしなく貧乏になっていく。ある国会議員(総裁選に立候補した人)に「1年間だけ50兆円景気対策したら、その後の経済はどうなるのか計算してくれ」と頼まれた。

 50兆円という途方もない額だから、それでしっかりデフレ脱却して順風満帆だろうと皆さん思う。しかし、景気対策はしっかり効果があるのだが、景気対策を打ち切った後、経済は再びデフレに陥る。計量経済学ははっきりとその危険を予測する。

 実際そのようなことが世界大恐慌の後、アメリカにあった。1929年に世界大恐慌になったのだが、それに対抗して短期金利をセロ%近辺にまで誘導し、超過準備を大幅に積み上げ、日銀の量的緩和政策と同じような金利緩和策を実施した。その後1934年から1937年にかけての平均の消費者物価指数は2.7%にまで上昇したから、デフレ脱却に思えたのだろう。しかしこれが甘かった。

 金融政策を「平常」に戻すとして、1936年と1937年に預金準備率を引き上げ国債の売りオペを行った。これが半年から1年遅れで株価や生産に悪影響を及ぼし始めアメリカ経済は再びデフレスパイラルの危機に陥った。1938年、1939年には消費者物価は再びマイナス1.7%の下落となった。

 4年間の平均の消費者物価指数が2.7%でも、デフレ脱却とみなし金融政策を「平常」に移すのは速すぎたということだ。日本はGDPデフレーターがマイナスが続いていて明らかにデフレが続いているのにもかかわらず金融政策を「平常」に戻そうとしている。デフレの怖さを知らない愚かな連中としか言いようがない。2000年8月にゼロ金利が解除されたが、失敗と分かり2001年3月逆戻りとなった。懲りもせず2006年7月には再び、金利引き上げの暴挙を行っている。

 2月14日に内閣府で発表された10~12月期の実質GDPの伸びは年率換算で3.7%だという数字で、結構日本経済は良い状態だと思った人がいるかも知れない。一方で名目GDPの伸びは年率1.2%と発表された。名目から実質を引いたものがGDPデフレーターだから、この数字をそのまま使えば1.2-3.7=―2.5%となり、大変な物価下落、つまりデフレであることになる。つまり、3.7%という数字に騙されて、日本経済が良好な状態にあると信じてしまうべきでないといいたいのだ。

 適切な規模の景気対策により、経済は見違えるように活性化し、失業者も自殺者も激減し、未来に希望が持てる豊かな国に生まれ変わる。借金ではなく、新しく作り出されたお金を使って景気対策をすればよいのだ。デフレとはお金が消えていく病気だから、それを治療するには、お金を作り出して補給するしかない。栄養が不足して栄養失調になったら、栄養を補給して治すのと同じだ。(小野盛司)

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2008年2月16日 (土)

第49回 日本経済復活の会 開催のお知らせ (2月26日、火曜日)

 日本経済復活の会 小野盛司会長から「定例会開催」のお知らせです。

● 日時 平成20年2月26日(火)午後6:00時~午後9:00時

● 場所 東京都千代田区九段北4-2-25 アルカディア市ヶ谷(私学会館) 
                   TEL 03-3261-9921
● 会費 3500円(資料代や食事・飲み物の費用を含みます)

 当会合に関する一切の問い合わせと、御来会の可否は小野(03-3823-5233)宛にお願いします。メール(sono@tek.jp)でも結構です。弁当の注文や配布物の準備等ありますので、申し込みはできるだけ早めに行って下さるよう、ご協力お願いします。

◎講師 

①中村慶一郎 先生 政治評論家 国民新党顧問

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 1974年 読売新聞社を退社し、三木武夫首相(当時)の報道担当秘書及び政務秘書官を務める。その類希な経験に裏打ちされた政治評論は、他の追随を全く許さず、新聞・テレビ・ラジオでの歯に衣を着せない語り口は視聴者・読者を圧倒する。日本を代表するジャーナリストとして、政治・国際情勢についての評論・講演に多忙。歯切れのよい語り口は毎回各地で好評を博す。

②小野 盛司 日本経済復活の会会長
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  会の活動報告、
-日本経済復活への道-

 

(神州の泉・管理人より   どなたでもお気軽にご参加ください)

 

案内図
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2008年2月15日 (金)

政府貨幣発行について(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第二十七弾です)
  http://tek.jp/p/


 ここまでは通常の景気刺激策について述べた。日本のように国の借金がGDPを大きく超えるような場合、景気対策により国の借金は一定程度増えるが、GDPはもっと大きな率で増えるために借金のGDP比は減って財政は健全化するということを説明した。その説明が難しすぎて理解できない人のために、もっと分かりやすい方法として、政府が直接お金を刷る、つまり政府貨幣を発行するという案がある。これは丹羽春樹(1995)、榊原英資(2002)、スティグリッツ(2003)などが提案している。政府がお金を刷るのだから、借金を増やすこともなく、必要なだけ景気対策が可能となり、デフレ脱却は簡単にできる。ただし、政府が勝手に好きなだけお金を刷って使うと、度を超してインフレになる恐れがあるために、その歯止めを掛けるため次の法律がある。

●貨幣回収準備資金に関する法律施行令(平成十五年一月二十九日政令第十九号)
第二条  貨幣回収準備資金に関する法律第六条に規定する政令で定める額は、毎会計年度末における貨幣の流通額の百分の五に相当する金額、日本銀行の保管に係る貨幣の額面額に相当する金額及び資金に属する地金(政府において引き換え、又は回収した貨幣を含む。)の価額に相当する金額の合計額とする。

●貨幣回収準備資金に関する法律(平成十四年五月十日法律第四十二号)
第十二条  毎会計年度末における資金の額が第六条に規定する政令で定める額を超えるときは、その超える額に相当する金額を資金から当該年度の一般会計の歳入に繰り入れるものとする。

 つまり、国の歳入となるのは、貨幣流通残高の95%相当額のみということである。日銀券発行残高が70兆円しかなく、日銀券をすべて政府紙幣で置き換えたとしても、歳入の増加は限定的である。スティグリッツ(2003)は、この制度を変えるように提案している。例えば、政府が発行した1兆円貨幣が100枚、日銀に収めたらそれがそのまま国庫に入るというように制度を変えたとしよう。政府はそれを財源として国の借金を増やすことなく景気対策をすることができる。霞ヶ関埋蔵金を財源とする場合も、政府貨幣を財源とする場合も景気浮揚効果は全く同じだ。

 政府貨幣発行により日銀が破綻するという説を深尾光洋(2005)は唱える。この説によれば、景気が回復し、逆に景気過熱を防ぐために売りオペが必要になったとき、政府貨幣は売りオペに使えないために、金利を付した日銀売出手形を大量に発行する必要が生じ、その結果利払い負担のために日銀が「破綻」するとのこと。このように日銀を破綻させるシナリオを作ることは簡単にできるのだが、逆に破綻を防ぐシナリオも簡単にできる。その例を挙げてみよう。

①政府は政府貨幣発行により無尽蔵の財源を手に入れたのだから、その財源の一部で日銀を救済したらよいだけである。

②日銀が「独立採算制」でやりたいなら、深尾光洋(2005)の提案に従って、ETFを日銀が買っていけば、株は確実に上がり、いくらでも利益を出すことができ、簡単に穴埋めが可能である。日銀のバランスシートが改善することで、円の信用が上がって行くであろう。(※ ETF; Exchange Traded Fund 。証券取引所(Exchenge)で取引可能(Traded)な投資信託(Fund)。2001年登場)

 改革とは、国の国際的な地位を高め、国民生活を豊かにすることである。その意味で小泉内閣以降の構造改革は改革ではなく改悪であった。デフレとは、お金が足りなくて経済活動に重大な悪影響を及ぼしているということであり、その時に政府が行うべき事は、何らかの方法で国民にお金を渡すことである。国にお金がなければ刷った金でよい。政府貨幣発行でなくても、日銀が国債やETFや土地や、その他何でも良いから買えば、その引き替えにお金が出ていく。このお金は新しく作られたお金であり、日本経済を成長させるために必要な貴重なお金である。

 一人当たりの名目GDPが世界2位から18位に下がり、世界のGDPにおける日本の割合が半減し、世界競争力ランキングでも1位から24位に下がり、経済的理由の自殺者が数倍に跳ね上がった。大田大臣は日本経済をもはや一流でないとさえ言った。このままデフレを放置したら、悲惨である。韓国、台湾はもちろん、インドや中国さえも日本を抜き去り、世界の中で日本は貧乏な国に成り下がってしまう。我々の次の世代に貧乏を押しつけても良いのだろうか。

 日本経済を救う処方箋ははっきりしている。日本国民に経済活動を行うに十分なお金を渡し、デフレを脱却させることだ。それを行うのが改革だ。お金はどこにもない。国が何らかの形で作り出すしかない。管理通貨制度の下では、お金は国が自由につくることができる。国がお金をつくった例としては1931年から高橋是清蔵相が始めた日銀の国債引き受けであり、戦後にもその例がある。

 よく知られているように、戦争で日本の産業は壊滅的な被害を受けた。物は不足し餓死者が出る状況で、ハーパーインフレが起きた。この状況から脱するために、1946年国は復興金融金庫を設立させた。その目的は民需生産を行う企業への貸し付けであり、生産を増やしインフレを抑制することであった。1946年に28億円、1947年に424億円、1948年に703億円の日銀による国債の引き受けが行われ(お金を刷ったわけだ)、お金が民需生産の拡大に集中的に使われた。もし国がお金を刷ってばらまかなかったら、企業もお金が無かったので生産設備に投資できず、物不足のままの状態が続いただろうし、インフレは慢性的に続いていたに違いない。

 生産力がでてきた1949年にはドッジラインで、財政健全化政策に転換、インフレはピタリと止まり、その後の高度経済成長へと移って行ったわけである。現代は、生産力が落ちているわけではないから、過度のインフレはあり得ないし、適量のお金を何らかの形で国民に渡すことに成功すれば、日本経済は活性化し、再び日本は世界で最も豊かな国に戻ることができる。例えば1947年に424億円の日銀引き受けが行われたが、これはGNPの44%に相当する。今はこれほどの大規模な景気対策は全く必要がないし、これよりはるかに小さな規模の景気対策で日本経済は見違えるほど活性化する。それに計量経済学の進歩で、景気対策がどのような効果があるか手に取るように分かることが過去の景気対策と違うところである。

 インフレは国の借金の重みからも解放した。戦時中軍事費の拡大を国債の日銀引き受けに頼っていたために、巨額の借金が積み上がっていた。これをお金を持っていない国民から税金を取り立てて返していたら、産業は育たず、日本は貧乏なまま現在に至っていただろう。国債の所有者に与えた損害、また国債の信用の失墜というマイナス面を差し引いても、日本の奇跡的な経済復興は全国民にとってメリットは大きかったのではないか。現代も同様だ。このまま放置すれば、日本は確実に貧乏になる。しかしお金を刷って、そのお金が国民に渡れば、経済は見違えるほど活性化する。今、その決断の時期に来ている。周到な計量経済学を駆使した分析の上で行う政策転換であれば、その政策で犠牲になる人などいなくなるはずだ。地方経済も大赤字で大変だ。所有している施設なども売って、借金を返そうとしている。売れば、その引き替えにお金が国民から地方政府に吸い上げられ、デフレが悪化するのだということも理解しなければならない。このような形の地方財政の健全化は、デフレを悪化させ国を貧乏にするだけだ。

 政府貨幣にせよ、国債発行にせよ、大規模に財政出動を行うとハイパーインフレになり、それが止められなくなるという説を唱える人がいる。先進国でそのような問題を抱えている国はいないし、そのような問題は起こりえないのである。つまりマクロ計量モデルを使い、どの規模でどの程度のインフレ率になるかは事前に知ることができるのだから、それに従ってインフレが度を超さないような規模で財政出動をすればよいだけである。

 過去のハイパーインフレは戦争の後に起きている。戦費を国債でまかなっていて国の借金が累積し、しかも敗戦で生産力が落ち、物不足になったときに起きている。第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレはGNPの20倍と言われる賠償金を正貨(金貨)で払えと連合国側から言われたけど、賠償金はどうやっても払えない。絶望感の中、いわば自暴自棄になったのだろうか。連合国に抗議の意味だったのだろうか。中央銀行が政府の意向を無視して、お金を刷りまくり、ハイパーインフレになった。これは通常では考えられないことである。

 このインフレを鎮めたのは、1923年11月15日に発行されたレンテンマルクの出現だった。レンテンマルクは、土地など不動産を担保にした紙幣であり、「レンテン」とは、レンテの複数形で地代とか利子、あるいは年金という意味である。

 こうして、新しい発券銀行としてレンテン銀行が設けられ、レンテンマルクとライヒスマルクの交換レートは1レンテンマルク=1兆ライヒスマルクと決定された。レンテン銀行の通貨発行量は32億レンテンマルクに制限され、国債引受高も12億レンテンマルクに制限された。レンテンマルクは法定通貨ではなく不換紙幣であり、金との交換は出来なかった。しかしながらレンテンマルクの発行によりドイツのインフレは沈静化した。このインフレの収束は「レンテンマルクの奇跡」Wunder der Rentenmarkと呼ばれた。

  戦後の日本もハイパーインフレに見舞われた。第二次世界大戦で戦費をまかなうためお金を刷りまくっていた。しかも空襲で生産設備を破壊され、生産力が激減、物不足なのに復興のために政府は通貨を大量発行しハイパーインフレになった。

 現在の日本は、このようなハイパーインフレになる状況とはまるで違う。物があふれているから、少々需要が増大しても、簡単には物不足にならない。特定の商品が不足しても、外貨はたっぷりあるから、直ぐに外国から輸入できる。多くの人が気にしているのは、発行された大量の国債だ。景気が良くなってきたら、国債が売り出され、現金化され、そのお金が動き出すということ。しかし、国債の下落を防ぐには日銀が買えば良いだけだし、国債から何に乗り換えるかと言えば、国の内外の株や外国国債などが多いのではないか。土地投機にも向かうかもしれない。バブル崩壊に伴う土地の下落で、資産価値が1200兆円失われたのだから、失われた資産価値がある程度戻るかもしれないが、ハイパーインフレと考えるのは現実離れしている。(小野盛司)

丹羽春樹 「カネがなければ刷りなさい」、『諸君』1998年MAY 5

榊原英資 「政府紙幣の発行で過剰債務を一掃せよ」『中央公論』第117年代7号(2002年7月号)

スティグリッツ Joseph E. Stiglitz "Deflation, Globalization and The New Paradigm of Monetary Economics" 関税・外国為替等審議会外国為替等分科会 第4回最近の国際金融の動向に関する専門部会、2003年4月16日。
http://www.mof.go.jp/singikai/kanzegaita/giziroku/gaic150416.htm

深尾光洋 「財政破綻の克服へ向けて」 調査報告 2004-6 ISSN 1342-4173 2005年1月 社団法人 日本経済調査協議会
http://www.nikkeicho.or.jp/report/hamada.pdf

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2008年2月14日 (木)

国の借金を返した5つの例(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第二十六弾です)
  http://tek.jp/p/


 財務省の発表によれば、2007年度末で、日本の国と地方を合わせた長期債務残高は773兆円で、GDP比では148%となっている。このように一時期債務残高のGDP比が上昇したが、それを低めることができた5つの例について、具体的に何がGDP比を低めたのかを調べてみよう。データは米山秀隆(2003)とOECD(2007)から引用する。

①ナポレオン戦争後のイギリス

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 イギリスの対フランス戦争であったナポレオン戦争(1793~1815年)後、イギリスの政府債務は大きく累積し、政府債務比率(国債残高/国民所得)は210%(1818年)に達した。これを減らしたのは、産業革命による工業力の飛躍的向上がもたらした経済の発展であった。1891年までに債務比率が8割も減ったのだが、その要因が2つある。一つは国債残高が少し減ったこと。それよりもずっと大きい要因は国民所得が4倍にもなったことだ。

②第一次大戦後のドイツ

 ドイツは第一次大戦の敗戦によって、1921年のロンドン会議によって1320億マルクにものぼる多額の賠償金の支払いを課せられた。これは当時のドイツのGNPの20倍であったということで、債務/GNPは2000%ということになる。しかも債務も国債発行残高ではなく、外国からの借金というわけである。このような巨額の借金の返済に、増税ではとても無理で、通貨を乱発するしかなかった。結果としては価値ある物は外国に持ち去られ、物不足と金余りで、ハイパーインフレになった。1924年にはドイツが毎年支払う賠償金は現実的な額まで削減され、政府も強力な引き締めを行った結果、インフレはピタリと止まった。
 この例では、インフレにより名目の国民所得が増加し、政府債務は事実上消えてしまった。もちろん、インフレが収まった後、通貨の信用は回復したわけで、ハイパーインフレの続いていた短い期間のみが通貨の信用が失われただけである。

③第二次世界大戦後のアメリカ

 第二次世界大戦後の1945年、アメリカの政府債務比率(政府債務/GNP)は110%に増加していた。国債市場に混乱が起こらないようにするため、第二次世界大戦中の1942年に連銀と財務省が、国債の買い支えを行って金利が一定水準を上回らないような措置をとることで合意した。この結果国債の利回りは2.5%以内の水準で維持された。1965年には政府債務比率は36%にまで下がった。
 政府債務は3%増加したものの、名目GNPが3.2倍になったために、政府債務比率はここまで下げることができた。つまり名目GNPの増加率のほうが、債務の増加率よりはるかに大きかったために債務比率は大きく下がったというわけだ。

④第二次世界大戦後の日本

 戦後、1944年には政府債務比率(政府債務/GNP)は189%に達した。これは軍事費の調達を国債発行に頼ったからである。国債の日銀引き受けにより日銀券が大量に発行されただけでなく、戦争で生産設備を破壊され物不足になったためにハイパーインフレとなり、国の債務はほぼ帳消しになった。ただし、1949年にドッジラインを実施し、緊縮財政に移ってからインフレは一挙に収まり円の信用は回復した。

⑤イタリア

 1998年にはイタリアの債務のGDP比は132.6%であった。これは社会保障費の増大によるものであった。EU通貨統合という外圧により、財政再建の取組がなされた。その結果2007年には債務のGDP比は116.9%にまで減少している。この間、債務は24%増加しているが、名目GDPは41%増加し、債務以上に増加したため、結果として債務のGDP比は減少した。

 以上、5つすべての場合で共通して言えることは、債務のGDP比が100%を超えるような場合、債務を減らすには、GDP(GNP)を増やすしかないということだ。債務を減らしたことが主たる要因で債務のGDP(GNP)比が減った例はない。①のみが債務を僅かに減らしたことが債務比率の減少に貢献しているが、債務比率の減少への貢献度から言えば、GNPの増加のほうが約4倍大きい。それ以外の4つの場合はすべて政府債務は増えているが、それ以上に名目GDPが増えたために、結果として債務のGDP比が減っている。このことから結論されることは、日本は今は債務を減らすことを一旦棚上げし、景気対策をしてひたすら経済成長率を高めることに専念すべきだということだ。行き過ぎたインフレにする必要はなく、インフレ率の上限を若干高めに設定し、名目成長率を高める努力をすれば、実質成長率も高まり、暮らしも豊かになる。その際、国債市場に混乱が起こらないようにするため、1942年にアメリカで行われたように、国債の買い支えを行い、国債の下落を防ぐようにするとよい。円の信用は落ちることは考えられない。(小野盛司)

米山秀隆(2003) Economic Review 2003,7
OECD(2007) OECD Economic Outlook No.82 (2007)

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2008年2月13日 (水)

実質成長率さえよければ、名目成長率が低くても良いという嘘(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第二十五弾です)
  http://tek.jp/p/

 政府がいつも言うのは、名目成長率が低くても実質成長率は高いので、これでよいのだということ。実質成長率のほうが、実際の成長率を示しているのだからそうなのかと素人は騙されてしまう。すでに示したように、日本の名目成長率は他国に比べ圧倒的に低い。2007年の名目GDPの伸びは日本は僅か0.8%にすぎない。これはOECD30カ国の中で最低である。日本以外で低い方から5カ国を列挙するとスイス3.5%、デンマーク4%、フランス4.1%、オランダ4.5%、イタリア4.5%である。ワースト6の中でも圧倒的に日本だけが低いのが分かる。それでは、名目GDPでここまで世界から離されているままでよいのかというと、決してそうではない。次の図はもし、日本が景気対策を行って成長を加速したら実質成長率と名目成長率はどうなるかを日本経済新聞社のNEEDS日本経済モデルを使って予測したものである。

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            財政出動の規模

   
 ここに示したものは、1年目に財政出動の規模に応じてどの位経済が伸びるかを示した。実質成長率と名目成長率のそれぞれの伸びは、ほぼ等しいことが分かる。財政出動すれば、名目成長率を押し上げるのは、どの国でも共通なのだが、日本の場合それがそのまま実質成長率の増加になるということを意味している。どの国でもそうなるというわけではないのだが、日本には失業者が多いし、どうせ職を探しても見つからないと諦めている人(失望者という)も多く、また働いていてもパートなど不満足な形で取り敢えず働いている人も多い。つまり多くの労働資源が無駄になっている。またフル稼働していない生産設備も多い。財政出動によりこれらが有効活用されるために、実質成長率を押し上げるとことができるということである。

 これはどの国でもそうなるわけではない。すでに景気が良い国は、労働資源や生産設備の無駄がほとんどないから、財政出動をして、お金を市中に流すと、企業は人をもっと採用して生産を増やそうとする。ところが、余剰な労働資源も生産設備も無いときは、企業間の奪い合いになり、他より良い給料で引き抜こうとし、賃金が上がりそれが物価全体を押し上げる。つまり物価が上がった分だけ売り上げは伸びるから名目GDPは増加しているのだが、物価の値上がりを引くと実質生産量は増えていないということになるから実質GDPは増えない。つまり、日本のようにお金が足りなくて労働資源も生産設備も余剰が大きい国では、財政出動の効果は絶大で、実質GDPを大きく伸ばし、一気に経済が拡大するが、すでにインフレ気味の国で景気刺激をしても、もともと労働資源などに余剰が無い場合はインフレを加速するだけで、実質GDPは増えず、何のメリットもないのである。むしろ物価の行き過ぎた値上がりは、商売や暮らしにとって害になる。だからこそ財政規律を守れということが叫ばれるのだ。

 それでは、名目GDPが伸びない日本が、なぜ実質GDPが伸びているのだろう。それは、日本輸出企業の優秀さにある。トヨタやキャノンのように圧倒的なブランド力のある日本企業が輸出で大きく伸びている。しかし、政府が日本人にお金を渡さない政策を取っているから、内需を相手とする企業は苦戦を強いられている。例えば日本自動車販売協会連合会が2007年3月2日に発表した2006年度の国内新車販売台数(軽自動車を除く)は、前年度比8.3%減の358万7,930台と29年ぶりの低水準だったとのこと。トヨタはGMを抜いて自動車販売台数で世界一位になりそうな勢いであり海外では絶好調だが、国内販売では全く奮わない。これを見ても、日本以外の国では、十分お金が渡されていて、購買力が増しつつあるが、日本人にお金が渡されていないから買えない実態が良く分かる。

 つまり、日本では政府が国民に経済活動を支障なく行うに十分なお金を渡していないから、デフレになっているし、相当部分の労働資源も生産設備も無駄になっていて、それは日本経済にとって大変なハンディーになっているのである。このような経済政策の失敗によるハンディーがありながら、一部の輸出企業だけで、ここまで日本経済が持ちこたえているというのは、日本企業の優秀さの表れである。もしも、政策の大転換が実現し、十分なお金が国民に渡り、無駄になっている労働資源や生産設備が有効活用され、内需を対象とした企業までが活況を呈すようになれば、実質成長率は現在のものより遙かに高くなる、つまり日本は遙かに豊かになるということを日本経済新聞社のシミュレーションが明確に示している。実際、日経のモデル以外でも、内閣府のモデルやその他のモデルでも同様な結果となっている。デフレという、途方もないハンディーを抱えたまま、放置すべきではない。(小野盛司)

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2008年2月11日 (月)

年金問題の正しい考え方(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第二十四弾です)
  http://tek.jp/p/

 年金とは本来人々に老後の安心を与えるものだったし、過去において確かに安心を与えていた。少子高齢化が進んだとしても、生産性の向上の速度はそれよりもはるかに速い。つまり過去より現在、現在より未来のほうが、より安心できる社会になりつつあるのが現実だ。それなのに、政治家やマスコミが誤ったメッセージを国民に送っているために、社会に不安を与えていることは嘆かわしい現実である。

 現在たくさん年金を集めてそれを蓄えておけば将来安心だろうという考え方は、全く間違えている。確かに、個々の家計では、今蓄えていれば、将来それを使えばよいので安心である。しかし、国全体となるとそれは違う。デフレの時代、どんどん集めると、それは増税と同じく市中からお金を吸い上げることとなり、デフレを悪化させ経済を縮小させてしまう。実際、世界のGDPに占める日本の割合はデフレのお陰で半減した。半減させてしまったら、年金の取り分も半分になってしまうのだ。もしも、逆に年金を集めないことによって景気を刺激し、デフレを解消したお陰で、世界のGDPに占める日本の割合が半減せず、現状維持ができたとしよう。そうすれば、年金の取り分も半減しなかったのだから、半減した場合の2倍もらえるのである。年金の積立金が無いのにどうやって年金を払うのかと思うかも知れない。2倍のGDPなら2倍の給料をもらっているし、その中から同じ割合で負担しても2倍の年金を払うことができる。お金は必要なら経済がしっかりしている限り、国がいくらでも刷って使うこともできる。

 景気対策とは、実質的にはお金を刷って使うということだ。生産力に余裕があれば、お金を刷ってもインフレにはならない。経済が弱体化していて生産力に余裕が無ければ、お金を刷ればインフレになる。これは年金積立金を使う場合でも同じだ。年金を取りすぎて、経済が弱体化した場合は、積立金を使えばインフレになる。つまり、年金財政を国の経済と切り離しては考えられないのである。

 ただし、国際競争の中、生産力とは単に物をつくる能力ではないことは明らかだ。国際競争力のない物を作っても、売れないのだから、そのような物の生産力は生産力のうちに入らない。売れない商品を作る生産力は、事実上遊休設備である。農業製品の場合は大規模化で価格競争力をつけるか、品質を向上させて高くても売れる物をつくるかである。工業製品であれば、どれだけ国際競争力のある製品を開発できるかがすべてであり、開発のためにはお金を出し惜しむべきでない。実際、確実に競争力のある製品が開発できれば、工場を必要なだけつくるだけだから、その製品の生産力増強は極めて簡単である。例えば、癌の特効薬が開発されれば、売れることは間違いなく、銀行もいくらでも融資するだろうし、工場建設で生産力はいくらでも増やせる。逆に、効き目が弱く、副作用の多い薬の生産力を増強しても何にもならない。その意味で、経済の発展とは国際的競争力のある製品を多く生み出すことと大いに関係がある。そのために国が行うべきことは、企業に、国際競争力のある製品を生み出しやすい環境を提供することであり、そのためにも国民に十分なお金を渡し、企業がよい製品を出したら、それを買うことができるようにし、会社に利益がでる環境を作り出す必要がある。結論はデフレ脱却を最優先とすべきだということである。

 ところで、現在の年金制度の基礎となっているシミュレーションはマクロ経済スライドという考えだ。これは今後100年間の財政均衡期間にわたり均衡が取れるようにするという考えに基づいている。100年後の2100年に、年金給付額が1年分程度になるようにしてある。なんと、現在のデフレ経済を脱却することより、100年先の財政の方が重要だというわけだ。つまり、現在の経済政策の大失敗から国民の目をそらして、100年後に注目させようというわけだ。100年後よりも今の生活を何とかしてくれという国民の声が届いていないようだ。彼らのシミュレーションに従うと年金は100年先に備えて、次のように上げなければならないそうだ。

出所 厚生労働省
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 そしてこのように値上げした結果、年金積立金は次のようになるとのこと。つまり2035年頃まで積立金を増やし続けるということだ。平成18年度で年金積立金は149兆円ある。厚生年金責任準備金、共済年金積立金も加えると220兆円を超える。年金の6年分も積み立ててしまったということだ。他の諸国が数ヶ月かせいぜい1年強の積み立て金しか持たないのに比べ、突出しており異常な事態だ。これから更に社会保険料を値上げしてどんどん積立金を増やしていこうという計画だ。社会保険料をどんどん取るだけで、年金支払いを渋る。つまりデフレで実態経済にお金が足りなくなっている中、お金を吸い上げようということだ。これでは日本経済の成長を止め、国を貧乏にしてしまう。社会保険料の取りすぎが、実態経済にお金不足を引き起こし、それがデフレの一因になったとも言える。デフレが世界のGDPにおける日本の割合を半分に下げてしまったことを考えるなら、これは極めて重大な事態である。

出所 厚生労働省
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 グローバリゼーションを主張するなら、まず最初に積立金を普通の国レベルまで下げるべきだ。お金を国民に戻すべきだ。それだけで200兆円近いお金が国民に渡ることになる。何と国民一人当たり百数十万円ものお金だ。お金が国民に戻れば、デフレ脱却ができ日本経済はかつてのように力強く成長を始める。グローバリゼーションを言うなら、真っ先にデフレ脱却をしなければならなかったはずである。デフレは経済において最悪の事態であり、アメリカも絶対に日本のようにならないように、日本経済の現状を詳しく研究しているほどだ。日本経済は重い病気にかかったようなものだ。その病人から巨額のお金を出させて将来に備えるという考えは全く正しくない。日本経済を健康体に戻し、その後に年金制度を考えればよい。年金の給付金が増えるから消費税を上げようなどという主張は全く正当化されない。デフレ悪化を招き、没落する日本経済を更に没落させるだけだ。積立金を取り崩すだけで十分であり、異常に増えた年金積立金を国民に戻すよい機会になる。

 余り知られていないが、年金積立金の149兆円だが、毎年株式などに投資され運用益がでていて、その額は平成16年度が3.96兆円、17年度が9.83兆円、18年度が4.56兆円にもなっている。今話題のガソリン税が2.6兆円と比較しても大きな額だ。もしも景気対策を行い、景気がよくなれば、これよりずっと大きな運用益が得られる。逆に福田内閣のようにデフレを放置すると株価は急落し、運用益がマイナスになってしまう。天国と地獄の差があるのだ。

 どこの国も公的年金は相互扶助を基本としている。つまり現在の高齢者を現在の働き手が支えるという「賦課方式」をとっている。これなら、年金積立金は必要ない。集めたお金をそのまま高齢者に渡せばよいのだから。働き手が少なくなるという問題を深刻に考えるべきでない。生産性が向上し、極めて少ない人数で全国民を養えるようになったのだから何の心配もいらない。労働生産性の伸びは1981年~1990年の間は年平均3.7%であったが、1991年~2000年にはデフレ経済のため平均2.0%にまで落ちている。その一方で今後30年間で減少する労働力人口は年率で0.67%しかない。つまり、労働力が少なくなった分の数倍の速度で生産性が向上し、結果としては生活は豊かになる一方なのだ。適切な年金制度(賦課方式)で、負担者も受益者も今後豊かになる一方であるということをしっかり認識しておくべきである。しかもデフレ脱却ができ、経済が活性化すれば、更に豊かになる速度が増すである。

 むしろ、働けなくなった高齢者や重度の障害者などを「働かざる者食うべからず」ということで切り捨てたら、その中の一部が強盗殺人や放火など反社会的行動をとるだろう。そうすれば、社会不安が増し居心地の悪い社会になってしまう。貧者を蹴落とすより、お互いに助け合うほうが、快適な社会になるのは間違いない。     (小野盛司)

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2008年2月 9日 (土)

デフレが人を不安にした(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第二十三弾です)
  http://tek.jp/p/

 デフレは人を不安に陥れる。経済の縮小、賃金の低下、中小企業の業績の悪化、リストラの不安などデフレ経済には不安がいっぱいだ。若者まで含め、日本の明るい未来を語る人にはほとんど出会うことがない。

 内閣府は毎年「国民生活に関する世論調査」という調査を行っている。ここで「お宅の生活は、これから先どうなっていくと思いますか」という質問を毎回して、その結果を公表している。日本経済が高度成長を続けていた1960年代には「よくなっていく」と答えた人が「悪くなっていく」と答えた人の数倍はいた。第一次石油ショックの時代はそれが逆転した。その後、「よくなっていく」が「悪くなっていく」より20~50%程度上回る状態が続いていたが、デフレに陥ってから、完全に逆転した。2001年以降は「悪くなっていく」が「よくなっていく」の3倍程度になってきた。このような将来への不安が、消費を減退させ、景気を冷やしているのは間違いない。デフレ脱却・景気回復には、国民に希望を与え夢を与えるビジョンが必要だ。少子高齢化・人口減少・厳しい財政事情などを嘆いているばかりでは、消費を抑えお金のあるうちに貯めておきなさいと言っているようなものだ。

 経済学で「リカードの中立命題」というのがある。
「財政拡大政策の結果、財政赤字が拡大すると、人々は将来の増税を予想して、それに備えて貯蓄を増やすために、消費需要が減ってしまう。それによって、総需要拡大の足がひっぱられてしまう。」というものだ。景気対策に反対する人の中には、この命題を持ち出す事もある。今は誰も信じない命題だが、もしこれが本当なら、国民全員に1億円ずつ配るとよい。それで誰もがそれを貯金に回し、消費需要が減るならインフレにもならない。大部分の人は将来への蓄えを可能にし、それは人々に安心を与えるから、こんな素晴らしい政策は無い。しかし、実際はこの中立命題は嘘で、皆さん待ってましたと使ってしまう。国の財政を考えながら、今日の夕食の献立を考える人などいない。景気対策をやっても需要は伸びないと言っておきながら、同時に景気対策をするとハイパーインフレになると主張する人がいる。経済を知らない人だ。ハイパーインフレは需要が供給をはるかに超えるときに起きるのであり、需要が伸びなければ起こりえない。

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 将来の暮らしと言えば年金だ。本来、年金とは誰もが、老後を安心して暮らせるようにするためにある。話を生物学に移すと、野生動物にとっては、老後の安心など無い。老衰で死ぬことはほとんどなく、食料が取れなくなると群れから離れ、ひっそり死んでいく。人間も貧しい時代は同様だった。しかし、現代はゆとりの時代である。

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 上図にあるように130年前には、全国民を養うには8割の人が農業をやっていなければならなかったのだが、技術の進歩のお陰で1960年代には25%程度で、そして今は4%の人で全国民を養うことができるようになった。つまり1人で25人養えるようになった。将来は、農業の大規模化・近代化が進み、農業人口は更に減少するのは間違いない。もちろん、輸入にも頼っているが、近隣諸国でも農業人口の減少は著しい。100年前に比べ同じ作付面積で米は2.5倍収穫できる。農業機械によって生産性は飛躍的に高まった。そんなに余裕ができたのなら、この豊かな社会を生み出して下さった老人の方々にも食料を分けてあげて、安心して暮らしていただきたいと、かつての日本人なら考えただろう。1960年代安心の時代だった。技術進歩のお陰で、その安心の時代よりも、更に数分の一の人数で全国民を養えるようになった現代は、更に数倍安心できる時代になったはずである。それが逆に、これほど将来に不安を抱く人が増えているということは、政策の失敗が原因の一つであり、政治家やマスコミが間違えたメッセージを送り続けていることがもう一つの原因である。

 日本には、全国民に生活するに十分な食料や生活物資を生産する能力は現在十分あるし、将来ももちろん大丈夫だ。財政のことばかり気にしていて、国民と国の経済のことが忘れられているから、国民が不安になるのである。もっと経済制度を柔軟に考えるべきだ。物は十分にあって、それを国民に分配する仕組みがうまくいっていないのであれば、思い切って改革をしなければならない。経済制度を余りにも硬直的に考えてしまっているから、デフレという経済政策の大失敗をしてしまったのだ。デフレは世界中どの国もやっていない大失敗なのだから、どの国もやっていないような政策を行う勇気が必要だ。もっと経済精度を柔軟に捉えて、デフレ脱却のための改革を断行しなければならない。

① 国は通貨を発行できるのだから、財源が無くても歳出は増やせる。
② そのためには日銀が国債を市場から買えばよいだけであり、それには上限はない。つまり歳出拡大も安心して行える。
③ 過度のインフレを心配する人がいるが、どんなインフレでも財政と金融で引き締めれば簡単に止められる。ドイツのハイパーインフレも簡単に止められたではないか。
④ 国債の暴落を心配する人がいる。バーナンキFRB議長の日本へのアドバイスは、それぞれの国債がどこまで下がったら、直ちに日銀が買うように決めておけば、それ以上下がることはないということだ。つまり国債の暴落は止められる。
⑤ 日銀のバランスシートを心配する人がいる。日経平均に連動するETFを日銀が買っていけば、株は確実に上がり、日銀のバランスシートは確実に、そしていくらでも改善する。
⑥ 円の信用とは、日本経済への信用に他ならない。現在、デフレで日本経済は没落し、円の信用は急落しつつあるが、適切な景気刺激策で日本経済が力強く成長を再開すれば、円の信用を取り戻すことができる。   (小野盛司)

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2008年2月 8日 (金)

昭和恐慌に学ぶデフレ脱却法(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第二十二弾です)
  http://tek.jp/p/

 昭和恐慌の前には、やはりバブルがあった。下の物価指数のグラフを見ていただきたい。1914~1918年の間、戦争参加国の輸出の縮小や軍備品需要のため、日本の商品への需要が急増し、輸出が大幅に伸び、経常収支は大幅な黒字となった。これに対応し、生産力は飛躍的に増大、わが国経済の画期的発展の好機が到来した。日銀券の発行も激増、年率30%を超す経済成長が続いた。ただし、物価の値上がりも激しく、実質成長率は年率2%程度だった。商品投機・土地投機・株式投機が発生した。日本の商品は、欧米に比べ競争力は劣ったが、戦時中は欧米は出てこなかったので、中国などに進出できた。そこで設備投資計画も十数倍に増加し銀行も積極的に融資に応じた。

 1920年株式市場が大暴落し、反動恐慌が勃発した。戦後欧米企業が進出してきて、売れなくなった。そこで輸出が減少し、生産設備が過剰となり遊休化した。大量の不良債権も発生。1927年には金融恐慌も発生した。

出所:長期経済統計 国民所得 東洋経済新報社
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 「失われた10年」の最後に、昭和恐慌を引き起こした浜口内閣は、小泉内閣と非常によく似ていると言われている。両者とも国民に対し「緊縮財政の痛みに耐えよ」と訴え、デフレ下の緊縮財政を強行した。浜口首相は1929年8月28日に「全国民に訴う」という署名入りの宣伝ビラを全国1300万戸に配布した。同日午後七時すぎには、全国中継放送で首相は国民によびかけた。「・・・今日までの不景気は底知れない不景気であります。前途暗澹たる不景気であります。これに対して、緊縮、節約、金解禁によるところの不景気は底をついた不景気であります。前途に皓々たる光明をのぞんでの一時の不景気であります。・・・我々は国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで、後日の大なる発展をとげなければなりません。」

 デフレ下での緊縮財政が成功するわけがなく、それに対する多くの批判があった。例えば三土忠造は『経済非常時の正視』の中で次のように批判している。

 「一般国民は、経済上の知識が乏しく、唯古来の道徳上の教訓によって、節約と言えば無条件に誠に結構なもののように考えるのは無理もないことである。即ち自分だけ節約した場合と国民挙って節約した場合とを混同したのである。世間一般の人は従来の通りの生活をしていて自分一人節約した場合には、その節約しただけ懐に余裕ができることは言うまでもないが、世間一般が挙って節約した場合には、これとは全然相反する結果を来すのである。・・・国民挙って節約すれば、他人の生産した物を買うことが減少すると同時に、自分の生産した物の売行も減少する。従って売買の中間に立つ取引運搬等も減少して結局生産消費取引の減退、言い換えれば経済生活全体の縮小に終わって、国民の多数は消費節約による支出の減少よりも、生産品の売行不振・価格の下落・商取引の減退による収入の減少の方が大きくなって、国民全体の懐具合が悪くなるという結果になるのである。有益無益を問わず、ただ消費の節約と言うことは、道徳場から言っても意味を為さず、又今日の経済生活から言っても決して産業の振興、貿易の発展を促す所以ではない。」

 デフレの下で、定率減税の廃止による3.3兆円の増税、歳出削減、社会保険料の値上げ、平均賃金の下落など次々と国民に痛みを押しつけ、地方政府にも節約を強要してくる今の政府は、この批判をよく読んで教訓にすべきだ。すでに述べたように1920年代の「失われた10年」に終止符を打ったのは、高橋是清蔵相の大規模な景気対策であった。

出所:長期経済統計 財政支出 東洋経済新報社
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 高橋蔵相による積極財政は1936年度まで続き、デフレは終わり、世界大恐慌から世界最速で景気回復したと高く評価されている。しかし、1936年、2・26事件で高橋是清は暗殺され、その後は軍部の独走で、行き過ぎた国債発行により過度のインフレ経済へと移っていく。

 下図は、国の債務のGNP比である。高橋蔵相による積極財政で巨額の赤字国債の発行により、国の債務は激増した。しかし、GNPも同時に激増したわけで、債務のGNP比を見ると、むしろ増加が止まり減少が始まっていた。それ以前、緊縮財政で借金を減らそうとして昭和恐慌を引き起こした時代には、GNPが減ってしまい、債務のGNP比は増えてしまったことが分かる。参考までにであるが、第一次世界大戦では、日本は輸出が急増し、成金が続出、銀行も設備投資に積極的な貸し出しを行い、経済は拡大しバブルが発生しインフレになった。財政拡大によるインフレではなかったために、国の債務のGNP比は逆に減少している。その後、バブル崩壊後の「失われた10年」では、デフレの中、国の債務のGNP比は増加を続けているのも、平成のデフレと共通している。(小野盛司)

出所: 明治以降本邦主要経済統計 日本銀行統計局編
Gnp

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2008年2月 7日 (木)

静岡新聞よ!城内みのるさんを嵌めたのか?

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う~む!!これはひどい。ひどすぎる。
 2月5日付けの静岡新聞で、城内実さんを“共産/無所属”という説明で写真を掲載した。上の写真をご覧いただきたい。この記載だと城内さんが共産党の公認を得て無所属で立候補するということになる。つまり、静岡新聞は『共産党公認の城内実』を大々的に報道したことになる。これは虚報である。城内さんは、人権擁護法案反対や政党助成金廃止など、一部思想信条的には共産党と重なる部分はあるが、立候補では完全に無所属一筋である。従来から一貫してそのように主張している。この新聞記事を見た人は城内さんがいかにも共産党と深く関わっている人のように思われてしまう。完全に事実無根の報道である。

 当事者である城内さんご本人は遠慮していて多くを語らないが、神州の泉・管理者の私が素直に思うことを言えば、これは城内さんのイメージダウンを企図した悪質な印象操作報道に思われても仕方がない。どう考えても、この誤植報道は不可解である。候補者にとって公認政党の表記あるいは無所属の表記は至って大事なことがらであり、この部分を間違えることがあるだろうか。この表記違いは立候補者の自己同一性を違えることになり、有権者には大きな誤解を与えてしまう。したがって、この場合は表記ミスでは済まされない問題だろう。公器としての新聞報道の影響は大きい。この表記を見て、城内さんを共産党公認と捉えた人が大勢いて、その刷り込みは容易に払拭されることはない。もし静岡新聞がこれに関して払拭報道(訂正記事)を充分に行なわない場合、確実に偽計報道の疑いがある。

 例え数日後に静岡新聞が謝罪広告を載せたとしても、その取り扱いが微々たる報道ならば、最初に誤報を見た人が頭に刷り込まれた情報を修正するのは困難である。つまり、謝罪広告を目にしなかった人は城内さんの誤まったイメージをそのまま保持し続けることになる。これが実際の投票行動に与える影響は甚大であろう。新聞社は誤植を主張するかもしれないが、これは結果において非常に深刻な誤まったイメージ付与をもたらしてしまった。この効果は絶大である。それだからこそ、私は静岡新聞が確信犯的に誤植した可能性を疑っているのだ。静岡新聞はいったいどういう責任の取り方をするのだろうか。国民、特に静岡県民はこの立候補予定者の報道において、民主主義国家にあるまじき失態的な誤報を行なった静岡新聞がどのような反省と謝罪表明を行なうか目を光らせて欲しい。

 もしも、城内さんの蒙った報道被害に見合わない反省表明なら、この報道が作為性を帯びたものと判断して不買運動を起こしたほうがいい。と同時に、なぜ城内さんが狙われたのかその理由を考える必要がある。思い当たる理由は一つしかない。それは彼が郵政民営化に敢然と反対して初志を覆さなかったからである。小泉政権に反駁した有識者は軒並み冷や飯を食わされている。この政権の初期から反国益性を糾弾していたエコノミストの植草一秀さんは不名誉な陥穽に嵌められている。城内さんの蒙った報道被害を別の角度で言えば、これは参政権の侵害行為に当たるのではないだろうか。国民には立候補する権利があるが、この立候補表明において、公器である新聞が、候補者の属性について重大な誤報を行なったことは参政権侵害に該当しないだろうか。なぜなら本人が従来から主張する無所属一本やりという立候補姿勢とは無関係に、勝手に共産党公認のイメージ賦与をされてしまったのである。結果において有権者の投票判断に重大な影響を与えており、民主主義国家の代表民主制に大きな瑕疵をつけたことになる。明らかに参政権侵害である。同時にこれは立候補者への悪質な人権蹂躙であろう。

 私は静岡県に住んでいるが、選挙区は残念ながら7区ではない。しかし、次の衆院選では城内実さんに何としても国政の壇上に復帰していただきたいと願う一人だ。この人物くらいすがすがしい一貫性を持った人はいない。現在の日本で立派な国会議員を判断する基準は単純明快である。単純ではあるがその基準は非常に重要だ。ではその唯一の基準とは何か。それは2005年の郵政民営化法案に敢然と反対の意志を示した事実があるということ、そして、その後もその姿勢を一貫させている政治家を評価することだ。例えば、平沼赳夫さん、荒井広幸さん、小林興起さん、小泉龍司さんなどである。郵政民営化はアメリカのいいなりになって年次改革要望書に基づき、小泉・竹中傀儡政権が強引に実現化したものだ。これが日本のインフラを破壊し、膨大な郵政資金を外資の手に委ねようとしている売国法案であることは間違いない。小林興起氏の言う郵政米営化である。

 はっきり言おう。郵政米営化に反対した議員さんたちこそ、国民の幸福原理を基底にする真の政治家なのだ。昨夏の参院選では自民党清和研究会の基本方針である構造改革が完全否定された結果となった。なぜならこの構造改革は利益配分が異常に偏ってしまい、一部の大企業や金持ち、外資にしか利益配分が回らなくなったからだ。 新自由主義政策特有の利益の異常傾斜配分である。そのために地方は疲弊し、中小零細企業は軒並み辛酸をなめるという極端な不平等社会に移行した。経済苦が原因の自殺者は膨大な数になっている。この反国益的性格を持つ構造改革の中心的作業こそが郵政民営化であった。この真相に多くの国民が気が付き始めた結果が、昨夏の参院選に如実にあらわれたのである。しかし、城内さんは当時、郵政民営化を推し進めた自民党にあって敢然と反対の意志を表明し、いまだにその一貫性を保っている。これが構造改革急進派に執拗に恨まれる原因である。

 いずれにしても、静岡新聞は城内さんの効果的なイメージ回復を可及的速やかに行なうべきだ。それがなされない場合、今回のできごとを、城内さんの当選を阻止するために仕組んだ新聞社の作為だと判断されても仕方がないだろう。何度も言うが、この誤植報道は代表民主制の根幹に関わる大問題なのだ。単なる報道ミスとして看過してはならない。

  ちなみに私は静岡新聞の愛読者である。公平で誠意のある記事が多く、もっとも好んで読む新聞だった。しかし、この問題への対応いかんによっては二度と読まないことにする。良い記事を書く誠意ある社員さんが多くいることは察しがついているので、こういう問題で新聞の信頼性を損ねないように対処してもらいたい。

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2008年2月 6日 (水)

可処分所得と消費(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第二十一弾です)
  http://tek.jp/p/

 経済学の本には、消費は可処分所得に比例すると書いてあるし、実際1998年頃まで日本でもそうだった。しかし、下図を見ていただきたい。1999年に可処分所得が減り始めてから、様相は一変している。国民は可処分所得が減っても、消費は減らさなかった。結局、貯蓄を取り崩して、逆境に耐えているというのが現状だろう。

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 しかし、下図に示したように、ずっと昔のデータを見ると、よく似た現象が見つかる。1919以降はデフレに入り、可処分所得が減っているのに消費支出が下がらないという現代とそっくりの状態が数年間続いている。しかし、1926年以降はデフレがきつくなり、消費支出は減少をしている。しかし、1931年を堺に再び可処分所得は上昇を始め、再び元の直線に戻っていることが分かる。この時代の国の状況を説明するために「森永卓朗の戦争と平和講座」から一部引用する。

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 『1920年代は、第一次世界大戦によるバブルの崩壊で、ゆるやかなデフレが続いていました。そこに1923年の関東大震災が追い討ちをかけ、1927年には金融恐慌が発生しました。デフレは経済を疲弊させ、国民生活は荒廃します。そこでは、経済不振を脱却しようとする模索が始まります。1920年代には、経済不振の原因は大正バブルで経済界についた贅肉が原因だということになりました。そこで、財界には、生産性の低い企業を整理して、より強い企業に生産を集約しようとする機運が生まれました。当時、それは「財界整理」と呼ばれたそうです。

 ところが、デフレは思うようには解消しませんでした。街には失業者があふれ、生活はどんどん苦しくなっていったのです。そうしたなか、1929年に政友会の田中義一首相に代わって就任したのが、野党の民政党総裁だった浜口雄幸でした。浜口首相は就任と同時に改革に取り組みます。一つは、財政再建のための歳出カットです。軍事費の大幅な削減を含む歳出の徹底的な見直しを行うことで、就任の翌年度の予算を無借金で組んでしまうほどでした。もう一つの改革は、金本位制への復帰でした。第一次世界大戦後の不況で、先進各国は金兌換を停止しましたが、20年代末までに、ほとんどの先進国が再び金本位制に復帰していました。グローバルスタンダードへの追従を目指す浜口は、金本位制への復帰、しかも強烈な金融引き締めとなる旧平価での金本位制への復帰を断行しました。

 デフレのなかで、財政と金融を同時に引き締めたのですから、日本経済は激烈なデフレに陥りました。純粋に経済学的にみたら、浜口の採った政策は今世紀最悪の暴挙だったのですが、旧勢力との対決姿勢を貫いた浜口首相は、国民の間ではヒーローになりました。』

 結局、日本経済を救ったのは、1931年12月に蔵相に就任した高橋是清であり、翌1932年からは、日本経済は、強力な財政出動によりデフレを脱却し、経済の拡大が始まっている。このように財政出動が成功すると、それまで、財政出動で国は破綻すると言っていた連中が、財政出動を10倍でも100倍でも拡大せよと言い始めた。経済を知らない悲しさである。1936年高橋是清は226事件で暗殺され、これ以後は果てしない国債の増発によりインフレが度を超していくのが、このグラフでも確認できる。

 では、現代に話しを戻し、このまま可処分所得が変化しなかったら、どうなるだろう。回帰分析をすると、消費はそのまま変化しないことがわかる。こうであって欲しくない。可処分所得は増えてほしい。では、可処分所得が2006年度から2.5%ずつ増加すると仮定して、回帰分析で計算してみよう。結果は、2~3年は消費は余り変わらないが、その後は再び直線的に増え始め元の直線に戻ることがわかる。

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 歴史から学ぶ教訓は、デフレは「改革」では脱却できず庶民の暮らしは苦しくなる一方であり、唯一のデフレ脱却法は、適切な規模の財政出動であるということである。政府による一刻も早い決断が望まれる。(小野盛司)

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排斥される稀有な正統派たち

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(読者さんコメント)

将来、勝ち組の座に一番近い東大生がケインズ支持が多いとは意外ですね。
自分の事より国家全体、マクロ経済全体の事を考えてる学生が多いんでしょうかね。
新自由主義者の巣窟一橋や慶応とは一味違います。
親のコネで私大文系卒のボンクラ小泉や安倍が東大閥を排除しようと躍起になってたのはこの辺が原因でしょうね。
東大はコネ入学は難しいでしょうからw
もっとも小泉にしても慶応の2浪3流ですけどw
その辺が彼らのトラウマになっているからゆとり教育や階級固定化社会、世襲制社会を目指してるのかもね。
子孫には楽に勝ち組になってほしいですからw
だけど同じ国立でも一橋と東大は相当毛色が違いますね。
新自由主義者の代表格である石原慎太郎や竹中平蔵も一橋ですしね。
官僚養成機関でもある東大生は常に国家全体、マクロ経済全体を考えるような教育がなされてるのかも知れませんね。
だけど今の清和会支配が続けばそれにもメスが入る可能性が大きいですね。
次の衆院選は是非とも政界から新自由主義者を駆逐しなければなりません。
もう森政権から10年近く続いてますからね。
それはそうと欧米の株価が大きく下落しましたね。
たぶん改革が足りないんでしょうw
もしかすると米英の新自由主義の終りの始まりかも知れませんね。

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(管理人のコメント)

こんにちは。

>将来、勝ち組の座に一番近い東大生が
>ケインズ支持が多いとは意外ですね。
>自分の事より国家全体、マクロ経済全
>体の事を考えてる学生が多いんでしょ
>うかね。新自由主義者の巣窟一橋や
>慶応とは一味違います。

 何かの本で読んだ記憶があるんですが、約20年くらい前から表舞台に出るエコノミストや経済学者は東大系から慶応系に取り替えられてきたというのがあるそうです。昔の日本が比較的安定した経済成長を行なっていたのは政治家が東大派のケインズ学派に耳を傾けたからであって、それがいつの間にか新自由主義派の慶応学派に取って代わり、国体崩壊の危機を迎えることになりました。この傾向が最も過激に表れたのが小泉政権です。

 東大ケインズ学派の最後の砦が植草一秀さんなのです。だから彼は象徴的な意味を込められて新自由主義的構造改革急進派に狙われてしまいました。植草氏自身は官僚利権構造を解体するという意味での真の“構造改革”を唱えていますが、これは小泉・竹中氏流の構造改革とは対蹠的な概念にあると考えます。おもしろいことに、東大学派から慶応学派への入れ替わりを佐藤優氏風に言い換えれば、小泉政権は国家パラダイムがケインズ型からハイエク型に切り替えられ、それとセットで日本の国際政治は協調型から排外主義的ナショナリズムへ移行したと言っています。一方、植草さんはこの変化を『「ケインズ的経済政策と市民的自由」の組み合わせから、「ハイエク的経済政策と治安管理」を重視する政治体制』へ大きく旋回したと言っています。

 私は佐藤氏の言う『排外主義的ナショナリズム』というのは違うんじゃないかと考えています。なぜなら小泉氏の靖国参拝は偽装であり、村山談話を踏襲する彼の思想的柱は階級闘争史観(小泉氏本人は無自覚ですが)を基底にした反日史観だからです。小泉氏を愛国保守と捉えること自体大間違いではないでしょうか。小泉氏の靖国参拝や、知覧で彼が特攻兵の遺書に涙したなどということを見て、彼を愛国保守と思い込んだ人が大勢いたようですが、それこそマスコミに踊らされるB層市民の典型的なメンタリティです。彼の思想的本性は、アメリカにくびきを掛けられていた他律的左翼革命家であり、怨嗟的反日メンタリティを持つことは間違いないことです。米英では、ネオリベラリズムを標榜して軍事大国を志向する一派をニューライトと言って、小泉氏は何となくこれに似たタイプですが、日本ではこの男を保守のカテゴリーに入れることは無理があるでしょう。佐藤優氏は自己防衛の意味で小泉批判は忌避していますからね。新自由主義を国策に取り入れるということ自体が日本の伝統的価値観や特有文化の破壊です。国民が先祖から継承した精神性の核を破壊しようとした小泉政権には愛国保守の要素は微塵もありません。新自由主義路線の行き着く先、すなわちその極相的社会とは国家権力の監視が強化される警察国家です。したがって、植草さんが捉えたケインズ的政策からハイエク的政策への変換とセットになった治安重視、すなわち警察国家(夜警国家)への変貌という認識は正確に昨今の日本を言い表しています。

 新自由主義によって国家意識は溶解し、急速に治安悪化や風紀紊乱が起きています。この無秩序化を統制するために監視と警察権力が強くなってくる傾向にあります。その証左として人権擁護法案や共謀罪法案、電子投票法案などがつぎつぎと提出されています。富の傾斜配分が極限化してくると、こういう夜警国家に変貌してきます。この意味では植草さんの認識が当を得ていると考えます。

 東大は官僚養成機関で有名ですが、それなりに国家の基幹を支えるという意識は残存しているのでしょう。しかし、原田武夫氏の著書によれば、昨今の東大生のエリート意識は巨大外資に就職できることだそうです。昔は優秀な成績で卒業して国家の役に立つという意識があったようですが、今はいかにアメリカのポチとして有能になれるかという感じでしょうか。日本経済復活の会の会長さんである小野盛司氏も稀有な残存ケインズ学派であり、積極財政論者です。だからこそ彼は反ケインズ論者から無視されたり、冷たい攻撃を受けていると思います。そういう立場では丹羽春喜氏も同じです。

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2008年2月 5日 (火)

人口減少でGDPが伸びなくなるという嘘(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第二十弾です)
  http://tek.jp/p/

 多くの日本人は、これから日本の人口が減っていくのだからGDPは、もう伸びないと思っているし、政治家は経済政策の失敗で名目GDPが伸びなくなっているのに、それを人口減少のせいにしてしまう。しかし、GDPとは、そういったものではない。一人当たりのGDPの国際順位が日本はかつて2位だったのに、18位まで落ちたことが話題になっている。一人当たりのGDPなので、これは人口減少とは全く関係ない。経済問題で自殺する人が不況で6~7倍に増加していることはどうだろう。人口減少というなら、自殺者も減らなければならないはずだ。平均賃金が9年連続減少していることも、人口減少とは全く関係ない。唯一関係あるとすれば、名目GDPだろうが、OECD30カ国最下で、しかも日本以外で最低はスイスの3.5%に対して日本は僅か0.8%、その差2.7%。これに対して2000年から2007年までの生産年齢人口の平均減少率は0.4%しかないから、とても人口減少では説明はつかない。

出所 経済要覧 平成16年版 30人以上の事業所の常用労働者対象
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 上の図に示されているように、1960年から2000年までの40年間で労働時間は23.6%減っている。延べ労働時間で考えると、これは人口が毎年0.6%減って行ったと同じ効果がある。この間雇用者報酬は名目で41倍、実質で7.5倍になった。GDPは実質で6.86倍になった。これは年率に直すと実質約5%の成長を意味している。実質、0.6%ずつ労働資源が減少していったのに、5%ずつ経済は大きくなって行った。

 今後考えられている労働力人口の減少は30年で20.2%だ。年率で0.67%だから、過去40年間の労働時間減少割合にほぼ等しい。そういう意味で過去40年とこれからの30年はそれほど大きな差はない。

Photo_2

 0.67%の人口減少は、容易に生産性向上によりカバーできる。例えば農家1戸当たり農地面積は(農水省ホームページから)日本が1.8haであるのに対しアメリカ 178.0 ha、フランス 45.3 ha、イギリス55.4 haであり、極端に小規模な耕地では、生産性は極めて低い。大規模農業にすれば、生産性が大幅に上昇することは間違いない。年率0.67%より桁違いに大きな生産性向上が可能である。どの政党も農業の大規模化に消極的であり、しかも農家の猛反対がある。もちろん、農家に犠牲を強いる形で農業の大規模化を強行すれば、悲惨な結果となるが、景気対策により十分な雇用を確保し、農家が納得する保障を行うという前提であれば問題ないはずであり、国を豊かにする重要な第一歩となる。

 大規模農業で生産性が上がれば、諸外国と経済連携協定(EPA)や自由貿易協定(FTA)を進め、経済協力が実現でき、国際分業でGDPを大きく押し上げることが可能となる。中国は近隣諸国と積極的にFTA締結に動き、日本との交渉が頓挫している韓国はアメリカとの交渉に入った。オーストラリアやASEAN諸国も中国などと交渉を行っている。この中で、日本だけが農業の近代化の遅れのために、孤立してしまうのと、日本はますます貧乏になってしまうのである。

 日米で労働生産性を比較すると、輸送機械や一次金属など輸出型産業(業種)の生産性は日本の方が高い半面、運輸、商業、電気ガス水道など大半の非製造業では米国の約半分であり、このため経済全体の生産性も米国の約6割にとどまっている。多くの分野で、生産性を高めようと思えば、改革によって高められるのに、反対運動のお陰で、政治家達は極めて後ろ向きである。これも改革によって犠牲になる人たちに十分な保障をしないで、強行しようとするから、改革はいつまでも進まない。要するに金の問題が背後にある。逆に景気対策として十分な資金を準備すれば、改革はどんどん進むから人口減少など、全く気にしなくてもよくなるのである。

 生産性を上げるときは、同時に国民に十分なお金を渡さないと意味がない。物をいくら生産しても、国民がお金を十分持っていないと、売れないから物余りでデフレが進むだけだ。つまりデフレ下では改革は進まない。国民の収入が増えて、どんどん物が売れ出したら、もっと物が作れるように工夫をするから生産性が向上する。デフレ下では、物が売れないから、生産性を上げてもっと多くつくる必要がないから、生産性は上がらない。だからGDPは伸びない。これが日本の現状だ。

 GDPの拡大とは、例えば労働者がシャベルやツルハシを持って工事をしていた所にブルドーザーが登場するようなもの。生産性が上がるからどんどん仕事がはかどる。しかし、デフレだとお金が足りないから注文が来ない。折角ブルドーザーがあるのに、遊ばしておくしかない。国が減税などで十分なお金を市中に流すと、注文がどんどん入るようになる。ブルドーザーをフルに使えるから、ずっと多くの工事ができる。だから経済活動が拡大し、GDPが増えることになる。お金は環境対策にも使えるから、環境にもやさしいということになる。(小野盛司)

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2008年2月 4日 (月)

日本における言論統制の実情(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第十九弾です)
  http://tek.jp/p/

 朝日新聞社は、東大の研究室と共に衆議院選挙の候補者の意識調査を行い、8月27日、28日の両日に新聞紙面でその結果を発表した。更に、10月30日、31日にも一部調査が加えられた。その中で特に興味があるのは次の質問である。

 「デフレからの脱出が急務であり、財政再建のために歳出を抑えるのでなく、景気対策のために財政出動を行うべきだ。」という意見に対し、

1.賛成
2.どちらかといえば賛成
3.どちらともいえない
4.どちらかといえば反対
5.反対

のどれかを選ぶというものだ。結果は以下のようになった。

景気対策に対する意見
Photo_2

 つまり、景気対策に好意的な人のほうが、否定的な人の1.4倍もいる。次に「公共事業による地方の雇用確保は必要だ」という意見の賛否を問う質問に対しては次のような結果となった。

公共事業に対する意見
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 つまり、公共投資に好意的な人は、否定的な人の約2.8倍もいるということである。また平成19年の末の自由民主党都道府県連に対する日刊紙の調査によれば、財政出動を求める意見は32団体,財政出動を否定する意見は僅か8団体であり、少なくとも自由民主党都道府県連は圧倒的に財政出動を求めている。

 それに対し、マスコミは財政出動反対、公共投資削減の論調一色である。ということは、マスコミが世論を反映せず、極めて偏った意見を国民に押しつけているということだ。経済のコメンテーターは緊縮財政を唱える者でないとテレビに出さないし、新聞にも書かせない。日本には言論の自由などなく、マスコミは一握りの影の指導者により完全に支配されていることが良く分かる。このような言論統制が日本経済をここまで没落させてしまった。

 マスコミが「国の借金がここまで増えてしまったので、もうこれ以上財政出動はできない。過去の財政出動は効かなかった。」という説を唱えるとき、我々は単に言葉で反論しているのではない。我々が選んだのは、科学的な方法である。それは天気予報でも、天体の運動の予測等でも常に行われている手法である。つまり過去のデータを忠実に再現できるようなモデルを作り、そのモデルを使って未来を予測するという手法である。そのほうが、出任せの説よりはるかに正確であり、まさにその手法こそが、現代の豊かな社会を築く基礎になっているからである。そのような経済モデルを使い到達した我々の結論は「積極財政が財政を健全化する」ということであった。我々が科学的な手法で日本経済を分析しようとする試みに対し、様々な圧力が掛かってきた。2001年にそのようなシミュレーションをしようと、ある大手シンクタンク(シンクタンクAとよぶ)と接触しようとした。どうも我々が積極財政のシミュレーションをしようとしていることが、シンクタンクAに知れたようで、小野盛司という人物と一切接触してはならぬという指令が出たようで、35年前から親しくしている友まで含め、一切私との面会を拒否してきた。私はまるで、危険人物並にブラックリストに載せられてしまった。

 シンクタンクBは、「そんな景気対策をやれば景気はよくなるのは当たり前じゃあないですか。そんなシミュレーションは、やる必要はありません。」と言って断られた。景気対策で景気がよくなるということは、シミュレーションを専門にやっているシンクタンクにとっては、火を見るよりも明らかだからやらないという。しかし、日本には言論の自由が無いから、このことは国民に対しては厳重に封印されていて誰も知らないからこそ、私がお金を払って実施し国民に真実を知らせたいと言っているのだ。

 シンクタンクCは簡単な計算なら1回500万円を出せばやってもよいと言った。もっと安くできないのかと聞くと、もちろん安くやろうと思えばできるが、国はいくらでもシミュレーションに金を出す。値下げしないほうが儲かるとのこと。要するに、国の方針である「デフレ下の緊縮財政」を支持するシミュレーションをやっている限り、巨額の調査費が国から入ってくるから、それに反対する我々のシミュレーションにはどこのシンクタンクも冷たかった。その他、多数のシンクタンクとの接触を試みたが、全部面会すら断られた。

 唯一協力してくれたのは、日経新聞社であった。日本最大の経済のデータベースを持ち、最も信頼されているシンクタンクであった。お金を払って、一部は完全に日経新聞社に試算を行っていただき、それを補充する形で私が、試算を追加した。しかし、「積極財政が財政を健全化する」という結論に達し、それを発表する段階になって、発表してはならぬという連絡が日経から私の所に入った。これを発表されると、日経への国の調査費がカットされると思ったのだろうか。私は、「もしこの結果の発表を日経が止めるのであれば、我々の会に属する国会議員が、このことを国会で問題にすることになる。」と日経に通達した。日経は、それに反論できず、結果の発表を許可した。

 日本経済復活の会には、たくさんの国会議員が顧問として所属している。もしも我々の口封じをしようとすれば、それに対抗する手段が多数存在する。これが、我々の活動を可能にしたベースとなっている。日本のような言論統制の厳しい国家では、我々のような活動を通常の団体でするのは、極めて困難であろう。          (小野盛司)

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アメリカ型超格差社会に日本が切り替えられる背景に・・

 読者さんの興味深いコメントと管理人の感想

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改革派がデフレ政策にこだわる理由。

日本のマスコミが絶対に触れない米国の真の姿。
チャンスの国米国なんてのは真っ赤な嘘。
実は階級固定化&世襲制社会。
社会的流動性は英国に次いで低い。
そんな社会を目指す今の日本の支配層の狙いは明か。
子々孫々まで楽して勝ち組みになろうと言う世襲制社会の確立ですね。
財政健全化や国際競争力ってのは体の良い言い訳、錦の御旗として利用してるに過ぎない。
むしろ逆に改革後は悪くなってる。
要するに日本の事、国民の事なんぞどうでも良くて階級分化社会・世襲制社会を作るのが本当の目的かと。
そうだと仮定するなら理解に苦しむ政策の数々も納得でしょw?
財政が苦しいと言いながら米国をはじめ外国には大盤振る舞いをし、所得税の最高税率や相続税下げたり、ゆとり教育導入したり、デフレ維持策取ってるのはみんなその為だと考えると非常に辻褄が合うでしょ?
そもそも移民社会、人種のるつぼである米国と違って単一民族の日本でこう言った社会にする合理性なんぞ一つも無いと思うがな。
米国でWASPや湯駄屋の優位制を保つ為にはしょうがない面もある罠。
だけど日本でそれをやる理由は?
現在の支配層は日本人じゃなかったりしてねw
彼らもそんなに能力に自信があるんなら米国に移民すれば良いのにね。
ね、竹中さんに小泉さんw
トヨタもキャノンも米国に移った方が良いんじゃ無いの?

http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2006/12/post_c618.html
ニューヨーク市民、食事も買えない貧困層は15%

AP通信11月21日付報道によれば、ニューヨーク市民の内15.4%は食費にも困る貧困層で、2006年末までにその数はさらに11%増加すると予測されている。ニューヨーク市住民810万人のうち、フードスタンプ(低所得者向け食糧供給制度)受給者はおよそ110万人にのぼるという。(市民団体『ニューヨーク市飢餓対策連合(New York City Coalition Against Hunger)』が発表した調査による)

超格差社会と経済隔離政策
そんなアメリカの超格差時代はいつからはじまったのか?1976年、企業CEOと一般労働者の収入格差は36倍だった。それが1993年度には131倍になり、軍事産業がイラク戦争特需に沸いた2004年度では、企業CEOと一般労働者の収入格差は431倍にもなっている。
資産ベースでみると、アメリカでは上位10%の富裕層が国内資産の70%を保有している。フランスでは61%、イギリスでは56%、ドイツでは44%、日本では39%というから、米国の富の集中度は凄まじい。

莫大な資産は努力の結果だろうか?まあ、そうでもない。フォーブス400にランクインする資産家の42%は、ジョージ・ブッシュと同じく、ただ単に親の資産を相続しただけで、相続税の撤廃を主張する以外に努力などしていない。米シンクタンクの研究によれば、アメリカでは、富裕な家庭に育った子供がトップ5%の超金持ちになる確率は、貧困家庭に育った子供よりも22倍高く、下位25%の家庭で生まれた子供が黒人の場合、そのまま貧困層に留まる確率は白人より2倍多い。

貧困層から富裕層になれる確率(社会的流動性)でいえば、デンマーク、ノルウェイ、フィンランド、カナダ、スウェーデン、ドイツ、フランスのほうがアメリカ合衆国よりも機会に恵まれる(「アメリカンドリーム」を実現しやすい)ことが調査で判明している。先進諸国でアメリカよりもチャンスの少ない国はイギリスだけだという。(大英帝国から新大陸を目指した人達の願いはかろうじて適ったわけだ。)

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 (管理人の感想)

 今、ガソリンの暫定税率存廃問題が与野党の論戦議題となっているが、小泉・竹中新自由主義政策に痛めつけられている庶民感情としては、生活必需品であるガソリンや灯油の急激な値上は直接生活費を圧迫する大問題である。給与税増税と並んで今、ガソリン(揮発油)の暫定税率の問題が取り沙汰されているが、この動きは奇しくもレーガノミックスで行なわれた税制改変と酷似している。米国では1970年に比してガソリン税が、レーガン時代には2.25倍、ブッシュ・シニアの90年には3.5倍、クリントン時代には4.5倍になっている。最も身近な生活消費財への税負担が10年間で4.5倍になっている。わずか10年の間米国で実行されたこの税制改変は露骨な新自由主義政策の特徴を現すものだ。これが庶民をどれほど苦しい状況に陥れたかをみると、貧乏人ほど相対的に税負担加重が高くなっていることがわかる。完全な逆累進課税だ。実は小泉・竹中政権も税制志向がこの逆累進課税をモデルにした節がある。(もっとも現状日本の石油系燃料代の高騰は他律的要因であるが、そのために急速に困窮感が拡大した場合は、臨機応変に暫定税率は解除するべきではないのか)

 私はネオリベラリストの志向する逆累進課税方式や累進課税フラット化を廃止することが、大企業や大金持ちの労働意欲を減殺し、結果として社会全体の景気底上げ気運(ボトムアップ)を阻害してしまうという考え方には合理性がないと考えている。利益の再分配を実行するには累進課税方式強化以外の手はないのだ。ハイエクなどの考え方として、強い者や資本の強大な者を税制優遇してより強くすれば、彼らが底辺層(社会的弱者層)を機関車のように力強く牽引し、結果として社会全体を賦活していくというのがあるが、長期スパンでこれが事実である証拠はないような気がする。つまり、これは思考上のレトリックであり、富裕層のためのプロパガンダなのではないかと思うのである。全体の利益を底上げして社会を賦活する方策はケインズ主義の総需要喚起型しかないだろう。ケインズ理論は時代遅れで有効性がなくなったという考え方自体が、世界の金融富裕層の放った自己利益拡大のための悪質なプロパガンダなのだ。

 ところで、車社会の今日、ガソリンは非常に身近な消費財であり、これは自動車依存度の高い地方ほど深刻である。同時に今年のような厳冬の北国では暖房灯油の値上がりが生存権を脅かすほど深刻度を増していて、この対策は焦眉の急である。30年間無関心にされていた揮発油の暫定税率問題が急激に浮上した。そしてこれが道路特定財源問題とセットで論議されている。デフレで長年閉塞的な生活を強いられている日本で、原油価格の高騰で瞬く間にガソリンや灯油価格が高騰した今、国民は生活困窮感にさいなまされ、心理的弊害がかなり大きい。これに加えて異常な寒波がますます国民の財布の紐を締めている。したがって、ガソリン税の暫定税率存廃問題と道路特定財源問題は、現段階では切り離して考える方がいいと思う。少なくとも当面する喫緊の課題は、実態問題として暫定税率が逆累進課税になっているということである。つまり、この形はデフレ下で消費税を増税していることと同じなのではないだろうか。車の燃料にかかる税金は道路にかかる財源とは不可分なので恒久的にセパレートするかどうかは議論の分かれるところであろうが、現今の局面ではガソリンの暫定税率を“暫定的”に廃止する方がいいような気がする。少なくともこれを行なうことで国民心理の閉塞感はかなり軽くなる。理屈以前に生々しい生活感覚の弊害の解消も重要なことであろう。

 小泉・竹中両氏が築いた属米自公政権による構造改革路線は、安倍、福田政権に継承されており、サッチャー政権やレーガン政権の政策モデルを内包している。その基本は法人税を軽減し、庶民への税負担を増やす構造である。竹中平蔵氏は、2001年当時、階層間の所得水準に関わらず、皆同じ固定税(人頭税)をかけることが望ましく、かつ消費税を14パーセントにするという主張をしていたが、累進課税の撤廃を目論んでいたことは明らかであり、逆進性を指向していた。この方針は現政権にも引き継がれている。なぜなら年次改革要望書に基づいた新自由主義路線だからである。

 なぜこういう反国益路線が固定され、デフレ脱却を故意に押し留め、国家が貧乏になる政策が続行されているのかを考えると、一つの理由として冒頭に掲げた読者さんのコメントにあるように、階級分化社会と世襲制固定化の恒常性を狙っていると考えることはけっして的外れではないように思う。日本の支配層が日本民族のメンタリティ(大和心)をかなぐり捨て、グローバリズムを推し進める国際金融資本の犬に成り下がって、日本での利益を国際金融資本に貢ぐことで、自分たちが絶対的な支配を恒久的に維持しようとしているのだろう。もしかしたら、今の日本の支配層は半島系に占められているのかもしれない。そう考えると、創価学会にバックアップされた小泉純一郎氏があれだけ絶大な権力を揮えた背景が見えてくる気がする。

 ※参考図書 『超格差社会 アメリカの真実』(小林由美著 日経BP)

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2008年2月 3日 (日)

イタリアに学ぶ真の財政健全化策(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第十八弾です)
  http://tek.jp/p/

 日本は高くなりすぎた国の債務のGDP比を減らす必要があるのは間違いない。景気対策を行えば、GDPと税収が増えて、債務のGDP比は下がることをすでに計量モデルで示した。ここでは、財政赤字が巨額であればあるほど、むしろ債務のGDP比は低くなる例として、ギリシャとイタリアの財政を紹介しよう。イタリアの財政健全化策がお手本として示されることが多い。イタリアはEUに加盟しており、財政赤字をGDP比で3%以内にするという、ユーロ圏の財政基準に従うことが求められている。

 イタリア105%。2006年の106.8%からは改善しているが、EU諸国では最悪の数字。2008年度も100%を越える見込み。ギリシア100.9%。イタリアとともに、2007年度において財政の累積赤字が国内総生産比100%を越える2カ国の1つ。来年は、97%に減るみこみ。ドイツ65.4%。昨年の67.7%から改善した。EU 平均の66.9%をかろうじて下回った。フランス 62.9%。マーストリヒト条約で定められた60%に近づいている。

 マスコミには日本もイタリアなどと同様の方法で財政健全化策を行うべきだとういう論調が多い。しかし、それは全くの誤解である。イタリアは高い名目成長率を続けることができたからこそ、財政再建策が成功したのであり、それがそのまま日本にあてはまるわけがない。そもそも日本政府がお金を使い過ぎたから、債務のGDP比が増えたという説自体が間違いである。次の図を見て頂きたい。イタリアとギリシャと日本の財政赤字を比べた。イタリアやギリシャは日本よりずっと大きな財政赤字を続けていた。

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 しかしながら、次の図でみられるように、国の債務のGDP比は日本のほうがはるかに高くなっている。要するに債務のGDP比は、国がお金を使いすぎても180%を超えるというレベルにはならないのである。この点をほとんどの日本人は勘違いしている。

 通常は財政赤字が拡大すればインフレが進行し、名目GDPはどんどん高くなる。1990年のギリシャの財政赤字はGDP比で14%に上っている。日本に焼き直せば、70兆円の巨大な財政出動に相当する。しかもインフレが進行している中で、この追加財政出動をしたということで、1990年の消費者物価は19.9%上昇した。そして名目成長率は20%を超えている。しかし、それでも国の債務のGDP比は限りなく大きくなるわけではない。このような巨大な財政赤字の後でも債務のGDP比は1995年で100%にすぎない。財政赤字が大きい方が、むしろ債務のGDP比は小さくなっていることに注目しよう。

 イタリアはギリシャほど、財政赤字は大きくはなかった。それでも1990年と1991年はGDP比で11.4%という大幅な財政赤字であり、日本の財政赤字よりずっと大きかった。1990年の名目成長率は10.3%、消費者物価は6.4%上昇している。しかし、債務のGDP比は130%に留まっており、日本よりはるかに低いレベルだ。このように、債務のGDP比が120%を超すような高いレベルにあるときは、財政赤字が大きい方が、むしろ債務のGDP比は低く収まる事が分かる。

 イタリアやギリシャのように、財政赤字が拡大し、インフレが進行したときには、政府に対し財政規律を守れと要求することは正しい。例えば1990年のギリシャのようにインフレ率が19.9%で名目成長率が20.7%というような状態は経済にとってよくないのは分かるだろう。意味もなくこのようにどんどん物価が上がるようでは、企業も個人も国も将来計画が立てにくいからビジネスもやりにくい。国が過度にお金を刷って、勝手に使うと、富が必要以上に国に集中するし、民業を圧迫するのは明らかだ。このような加熱した経済で増税や財政削減をすれば、どんどん債務のGDP比は減ってくるし、高すぎるインフレも収まってくるから一石二鳥だ。

 しかしながら、日本はイタリアやギリシャの状況とは全く異なる。イタリアやギリシャにとって良い政策でも、日本には毒になる。日本の債務のGDP比が増えたのは全く別の理由だ。この2つの国と違って成長率は極めて低いデフレの状態にある。誰もが成長率を高めなければならないと思っている。不況で税収が落ち込んだため、それを補うために国債を発行しているため、国の債務はどんどん増える。しかし、名目GDPはほとんど増えないから債務のGDP比は異常に増えてしまった。名目成長率が高すぎる国であれば、それを低めるはたらきのある緊縮財政も適切であるが、日本のように名目成長率が低すぎる国に対して同じ政策を行なうと、名目成長率は更に低くなり、しかも債務のGDP比は逆に高くなる。このように名目成長率が高い国の政策を真似るときは、まず財政拡大により高い成長率に達した後で、景気が過熱気味に成った後でないと真似るべきでない。

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2008年2月 2日 (土)

経済成長に必要な成長通貨(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第十七弾です)
  http://tek.jp/p/

 ほとんどすべての日本人は、国がお金を使おうとすると、財源を考えなければならないと誤解している。歳出拡大をするには増税しかないと思っている。しかし、今回のブッシュ大統領の16兆円の景気対策でも、財源など考えていない。考える必要はないのだ。なぜなら、国は通貨発行権を持っているのだから。こういった発想を日本人ができるようになれば、日本の没落は止められる。経済が大きくなろうとすれば、それだけ多くの通貨が必要になる。国が新たな通貨を造って市中に流すことで、成長通貨が供給できる。筆者は日経新聞社の日本経済モデル(MACROQ60)を使い、もしも小泉内閣の緊縮財政でなく、積極財政が行われていたら日本経済はどうなっていたかを試算した。これは日本最大の経済データベースを持つ日経新聞社の経済予測プログラムを使って試算を行ったものである。2000年から5年間、毎年10兆円~50兆円の財政出動を行った場合の試算を行った。実質成長率と名目成長率を以下に示す。例えば50兆円の景気刺激策を行った場合、初年度GDPは名目で9.9%、実質で7.4%という大幅な伸びとなる。実際、昭和恐慌の際にも、巨大な景気刺激策を行った直後は10%程度のGNPの伸びがみられた。

Gdp_2 

 景気対策を続けていくと、名目GDPはどこまでも伸びるのだが、実質GDPはだんだん頭打ちになる。それは物価の値上がりが効いてくるからだ。通貨を発行し、経済を活性化していくと、ある程度のところで物価が上がるだけで、実質経済は成長していないという状態になってくる。だからこそ、実質GDPと名目GDPの2つを区別して論じているわけだ。消費者物価指数の変化を以下に示す。50兆円の財政出動を続けていると4年目から、消費者物価の上昇率は3%を超え、警戒域に入る。そして、景気対策の割には、実質GDPは伸び悩むようになる。それを考慮しても、5年間で約30%実質GDPは伸びるわけで、年率5%の伸びだ。実際の実質GDPの伸びは2000年から5年間で9.2%だから3倍以上になる。名目GDPだと差はもっと大きい。50兆円の財政出動を5年間行った場合、名目GDPは32.9%伸びる。ところが実際は緊縮財政を行っていたから、この間名目GDPは1999年度に499.5兆円、2004年度に498.3兆円で、伸びるどころか下がっている。実際は緊縮財政により悲惨な結果になったわけだ。

 名目GDPと実質GDPの差はGDPデフレーターである。消費者物価は消費者に関係した物価指数であるのに対し、GDPデフレーターは企業間取引や輸入物価などまで含めた総合的な物価指数である。刷ったお金で財政出動をやれば、デフレーターは上がってくる。政府は緊縮財政をやっていてもデフレーターは年率0.5~0.8%増加すると7年間も言い続けている。これは大本営発表だ。実際は年率0.1%程度しか増加しなかった。政府がむなしく言い続ける年率0.5~0.8%のデフレーター上昇率を達成するには、20~30兆円の財政出動を行う必要があることが、このグラフから分かる。
Photo_5 

政府の経済見通しが、全くの大本営発表であることを忘れてはならない。現状維持では、日本は急激な没落を続けるのだ。(小野盛司)

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コメントから

                             

読者さんから非常に興味深いコメントが寄せられたので掲載します。

 どうもマスコミや御用学者はミクロとマクロを一緒くたに議論して国民を煙に巻こうとしていますね。そう言えば数年前、竹中平蔵と財務省が大きな政府にした場合の成長率と小さな政府にした場合の成長率の資産を公表してましたね。当然大きな政府にした場合の方が税負担は大きいが成長率は高かったですが。確か大きな政府だと消費税が15%ほどで成長率が4~5%、小さな政府だと消費税は7~8%ほどで成長率は3~4%だったと思います。細かな数字は記憶が違ってるかも知れませんが、大体のニュアンスはわかると思います。当然国民生活に取っては大きな政府の方がいいに決まってます。もっとも試算では当然のごとく消費税を税源に当ててましたが、私は法人税や富裕層の所得税を上げるべきだと今でも思ってますがw

 株取引や金融資産等の不労所得に課税するのもいいかと思います。製造業が中心の日本ではそれがベストだと思いますね。米英型の金融資本主義は軍事力や国際政治力、諜報能力が無いと無理です。80年代の後半に日本が世界を金融支配しかかりましたが、所詮はバブルと言う徒花でしたね。案の定、謀略だか陰謀だか知りませんが、無残にも潰されましたが。これも政治力、軍事力が無いからでしょうね。国益に著しく反する事でも米国の言う事を聞かざるを得ない悲哀でしょう。冷戦構造がもう10年続いてれば良かったんでしょうけど・・・

 たぶん、構造改革=売国が済むまでは政府・日銀は本格的な景気対策はしないでしょうね。むしろ景気を冷やす事しかしないと思いますよ。まだ、三角合併も進展してませんし、JAやURも外資の手に落ちてませんしね。米国経済が凋落するか、日本を外資に売ってしまうまでは景気回復はないでしょうね。何かの間違いで小渕さんのような国益優先派が出て来ても潰されるでしょうねw 麻生さんは総理になる前に潰されましたからね。中川昭一氏も政権中枢に戻る事はないでしょう。いずれ2人とも自民党から追われるでしょう。民主党よりケインズ主義者が改革の一番の邪魔者ですからね。それもこれも来るべき衆議院選挙の結果次第ですけどね。

 最近急に改革真理教に逆戻りしたマスコミの論調を見てると難しいでしょう。共産党や国民新党や造反組、あるいは旧経世会の議員が勝つかたちが一番望ましいんでしょうけど・・・。もちろん改革派=清和会や民主凌雲会、チルドレンが議席を減らすのがベストですが。大阪府知事選挙の結果を見る限り希望は持てませんねw 相変わらずメディアの刷り込みに極めて弱い事を思い知らされましたからw メディアの洗脳に弱いいわゆるB層=主婦やゆとり世代から選挙権をはく奪する訳にはいかんのでしょうかね~?彼らだけが苦しめばいいんだが国政となるとこっちまで巻き添えを食らいますからね。と言うより、日本が確実に植民地化、弱体化されますから・・・

 そんなにみんな外資の奴隷になりたいんでしょうかねw 右翼を自称してる若者がなぜ小泉改革信者なのか良く分かりませんw 愛国者のはずなんですが・・・表面的な言動に弱い単なる馬鹿なのか、それとも工作員なのか・・・ 政治は結果だけ見ればいいと思うんですがね~。ミクロとマクロの違い、一企業が良くなる事と一国の経済が良くなる事の違い、国民の購買力=国内市場の大きさこそ国際的な影響力の大きさにつながる事なんてわかってないんでしょうな

 市場原理主義と共産主義は根っこは一緒でしょう。カルト的、原理主義的、一神教的性格は一緒です。中庸や和を尊しとする日本国民には極めて相性が悪いです。国内の特にシナ系や朝鮮系・韓国系と相性がいいのはそう言った訳でしょう。清和会も朝鮮系・韓国系が多いと聞きますしね。市場を支配してるのは市場原理じゃあありませんしねw 支配層の思惑が支配してる。支配層=金融資本や軍需産業が危うくなれば中央銀行が際限なく資金を供給しますし、軍需産業が危うくなれば口実を設けて戦争を仕掛けますしね。規制改革や民営化と言っても、いわゆる利権の移し替えをしているだけですしね。とくをするのは支配層=インサイダーとそれに近い御用商人だけです。その辺の構造を国民は認識する必要がありますね。国民に利益を薄く広くばらまいてた構造から利益の寡占、独占が始まるのだと言う事を。官から民へと言ってもあなた達に利益が還元される事はないんですよと。むしろ広く利益分配して来た仕組みを変えられるんですよと。その重要な点をマスコミは決して触れませんからね。規制業種の筆頭の癖にw

  政治は古来から役人がやるものと決まってます。政治家に取って最悪の行為は利権漁りや賄賂、汚職では無く売国です。現代社会では国力・国際的影響力・軍事力は経済力にほぼ一致します。政治家・官僚の仕事の第一義は国や国民を富ましめる事でしょう。米国の例を持ち出すまでもなく他国への影響力=国内消費市場の大きさでもあります。嫌でも米国に従うのはその点が一番大きいからですね。世界を動かしてるのはイデオロギーじゃなくて経済的な利益なんですね。いざ日中が対立した時には、米国は中国に付くと考える大きな理由の一つでもあります。この点では小泉政権こそ最悪だと言えますね。その後に続く清和会と創価公明による政治も一緒です。

 メディアはクリーンさを言いますが、売国に関しては見て見ぬふりを貫いてるw 戦後これほど国益を損なった政権はありませんよ。田中角栄は米国の言いなりにならなかった為にダーティなイメージのレッテルを貼られましたが彼ほど日本の国益第一で働いた政治家も少ないでしょうね。戦後唯一人米CIAの許可なしに総理に就任した人物らしいですしw とにかく今求められるのは平成の高橋是清であり、田中角栄でしょうね。クリーンさやイメージ先行の売国奴はもう要りませんよ。今度の選挙では清和会や凌雲会、チルドレンにとどめを刺したいものです。

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国の財政と家計とは比較できない(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第十六弾です)
  http://tek.jp/p/

 財務省のホームぺージを見ていただきたい。
http://www.mof.go.jp/zaisei/index.htm


 「日本の財政を考える」という見出しがあり、その中に入っていくと次のような比較がある。無知な国民はこれを見て、財政が大変だから、増税・歳出削減が必要だと、簡単にだまされてしまう。

Kakeihikaku

 実際は、国の財政と家計とは似ても似つかぬ性格のものなのである。最も大きな違いは、国は通貨発行権という極めて重要な権利を持っているし、これは単なる権利ではなく、デフレなどのように、お金が足りなくなったらそれを補うために行使しなくてはならぬ義務でもある。家計は通貨を発行したら、重大な犯罪行為である。いくらでも通貨を発行できる国の借金と、全く通貨を発行できない家計の借金とは全く意味が違うのは明白である。更に、国の場合、歳出削減をすれば、間違いなく経済活動は鈍化し、税収が減るのだが、家計の場合はそれが全くない。単純に家計費を減らせば減らすほど家計の赤字は減る。更に、国家財政を考えるときは国全体のGDPを考えなければならず、国の経済の一部が国家財政だ。むしろ、そもそも政府というものは国民が金を出し合って、国を繁栄させるために活動させているのであり、国の経済を没落させることに奔走している政府なら必要ない。GDPを増やせば税収も増えてくる。GDPの増加率は歳出規模によって大きく変わる。家計の場合、GDPに相当するものは何もない。家計の黒字化は収入と支出だけ考えればそれですべてなのだ。

 そのような家計と国家財政を財務省が比較しているということは、財務省にとっては、自らの財政さえよければ、国の経済などどうなってもよい、国民はどうなってもよいという身勝手な気持ちの表れである。そういう利己的な財務省・政府の態度が、日本を急激に貧乏にしてしまった。国を貧乏にして財政が健全化するわけがない。国の借金のことばかり、気にしていて、国民生活は犠牲になってもよいと考えている政府。そもそも金に対する考えが全く間違えている。国は国民から金を奪い取ることが目的であってはならないのだ。お金は経済を繁栄させるための手段であり、だからこそ無制限に通貨を発行する権利すら政府に与えられている。臨機応変に通貨を発行し、経済を活性化させることが国の役割である。

 財務省がたとえ話に出した家計だが、収入が40万円、支出が58万円、ローン残高4600万円であれば、借金の返済は不可能だから、誰も金を貸さない。完全に破綻している。ということは、その家庭に貸している人は、金を返してもらえる訳がない。今、日本の財政状態がこの家庭とそっくりと言うのであれば、財務省は、「国債は間もなく紙くずになります」とアナウンスすべきだ。ところが、実際やっていることは逆だ。実は、多額の資産も持っているので、国債は絶対大丈夫だと、海外の格付け会社に説明しているのだ。そうであれば、この表の家計の欄に、金融資産も書かねば詐欺だ。どのくらい、金融資産を持っているか以下に示す。

出所 国民経済計算
Photo_3

 国の借金はいつか税金で返さねばならぬという考えが、日本経済を破滅に導く。現在、国の借金は834兆円で、地方政府のものまで加えると1000兆円を超す。それに対して2007年12月現在、すべての個人、会社、地方公共団体の持っている現金、預金などすべてを合わせても(マネーサプライ、通貨供給量)732兆円しかない。現金だけならたった80兆円だ。国民の持っている金を全部奪っても(強盗だってこんな残酷なことはしない)国の借金を返すのは無理だ。国民の金を全部奪ったら、すべての企業は倒産し、GDPはゼロになり、国の借金のGDP比は無限大になる。国は、適度の量のお金を市中に流し、経済を活性化する必要があるのではないか。全部お金を巻き上げて何が嬉しいのか。国民に経済活動を可能にする適切な量のお金を流すために、国が国から借金をしてお金を手に入れるのがどうして悪いのか。我々はもっと国の借金に理解を示すべきではないだろうか。(小野盛司)

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2008年1月30日 (水)

道路はもういらないのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第十五弾です)
  http://tek.jp/p/

 マスコミでは、道路はもういらないという論調ばかりだ。海外で車を運転していた人にとっては、日本の道路の劣悪さをよく理解しているから違和感を感じるのではないか。日本人は投資をしなければ、赤字が減るから、財政健全化すると考えているようだが実際は逆だ。投資をしなければ、経済は停滞し、税収は伸びず、国際的にも貧乏な国になってしまうだけだ。独立行政法人高速道路機構のホームページから引用すると

Photo_3

 この表から分かることは、人口の多い中国よりは、人口あたりの道路の長さは長いが、それ以外はすべて日本が最低ということが分かる。特にGDPあたりの道路の長さだと、日本は圧倒的に短い。経済規模からして、道路が整備されていないことが分かる。日本経済を停滞させているのは、日本が道路に投資しないことが原因の一つだとも言える。道路をつくってほしいという地方からの強い要望もある。また東京の環状道路をつくれば、混雑を解消し、更にCO2排出量を減らすのに劇的な効果があり、環境対策にもなるという。また、高速道路の使用量が欧米よりはるかに高いために、延べ走行距離(走行台キロ)ベースで見ると、車が高速道路を利用している割合(高速道路走行分担率)は、日本が10%以下であるのに対して、欧米では2割、3割という状況だ。高速道路を値下げすると、高速道路の有効利用が進み、経済が活性化することからGDP押し上げ効果が期待できる。

 2008年1月27日の日経に、政府試算の記事が載った。道路財源の暫定税率に関する政府試算で、暫定税率を廃止すれば年間2.6兆円の税収減となる。その分ガソリンが安くなるので、個人消費が0.9兆円増える。しかし、道路投資の減少でGDPは実質3兆円減るとのこと。この試算は次のように読み替えることができる。もし、政府が2.6兆円のお金を国民のために使おうとしたとする。ガソリンを安くするために使えばGDPは0.9兆円増えるだけだが、道路建設に使えばGDPは3兆円も増えるのだから、道路建設はガソリンを安くするために使うより3.3倍も効率よくGDPを伸ばすことができるということ。それだけではない。道路建設により経済が活性化すれば、税収が増えるのだ。
 このことに関連して国土交通省の試算がある。

http://www.mlit.go.jp/road/singi/bunkakai/8pdf/82-2-4.pdf

 これによると、道路投資を平成20年度に1兆円行った場合、平成20~29年度の合計の効果は、次の通り。

① フロー効果(道路投資による需要創出効果)              約1.0兆円
② ストック効果(交通利便性の向上がもたらす経済波及効果)     約1.6兆円
③ 税収の増加                                 約0.45兆円

 これ以外に、用地買収費として0.22兆円が使われ、これが国民に流れ、それが消費に回ることでも、GDPを押し上げる。下落の続く地方の土地の価格に歯止めを掛け、固定資産税の税収増にもつながる。

 僅か1兆円の投資で、これだけGDPを押し上げるということで、国の債務のGDP比を下げるには、最も有効な投資の一つと思われる。お金を使わなければ国の借金の問題は解決するという迷信はそろそろ卒業しよう。増え続ける国の借金の問題と闘うには、積極的に投資をし、GDPを増やすのが最良であるということがお分かりだろう。道路が良くなって便利になるのもよいではないか。CO2の問題はどうかということになるが、それは風力発電とかCO2を海底に沈めること等、強力な解決手段はある。

 これは暫定税率を延長するかどうかの議論ではない。それとは無関係に日本の劣悪な道路事情を改善するために、必要な道路の建設への投資を増やせば、国は豊かになり、それにより国の借金の問題の解決に一歩近づくということだ。今のままでは2012年に一人当たりのGDPで韓国に抜かれてしまう。貧乏国家一直線である。(小野盛司)

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2008年1月28日 (月)

円の信用とは何か(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第十四弾です)
  http://tek.jp/p/

 かつて昭和恐慌の際、デフレ脱却のために高橋是清蔵相は国債を日本銀行に直接買わせる替わりに資金を手に入れ、それで景気対策を行い大成功を収めた。なぜ再びその方法でデフレ脱却を行わないのかというと、一度それを行うと、歯止めが掛からないようになり、悪性のインフレに陥るだろうと考えているからである。そのために、国会の承認が無い限り国債の日銀引き受けは財政法で禁止されている。しかし、日銀が国債を市中から買い、それと同額の国債を国が売り、それによって手に入れた資金で景気対策をやれば、日銀の国債引き受けと同じ事になる。しかし、その方法も日銀の定めた自主ルールによって不可能となっている。自主ルールとは日銀の保有する長期国債は日銀券発行残高を上限とするというもの。何の意味もない自主規制であり、この自主規制によって日本経済の大停滞が引き起こされていると言っても過言ではない。

 日銀のホームページから引用する2008年1月5日現在の日銀券発行残高は79.8兆円だから、これだけしか通貨発行は許しませんという自主規制だ。現在日銀が保有している長期国債は51.5兆円だから、この自主規制を尊重すると通貨発行の余裕は28.3兆円しかない。資産デフレで土地だけで1200兆円以上が失われた日本で、その穴埋めをするには余りにも少ない額だ。政治家に景気対策を提案すると、もうこれ以上受け入れるところがないから、国債は発行できないと必ず言う。この自主規制を撤廃させることができれば、いくらでも発行できるのだから何とかできないものかと探りを入れてみる。滝実衆議院議員と相談し、質問主意書でこれに関して質問してみた。

 その質問に対する平成十九年十二月十四日の福田総理の答弁書(内閣衆質一六八第二九四号)には、以下のように書かれていた。

「日本銀行の長期国債保有の在り方は、日本銀行がその資産及び負債の状況等を踏まえて決定すべき事柄である。なお、日本銀行による長期国債の保有は、日本銀行の負債である日本銀行券の発行残高の範囲内で、安全確実な資産の保有として実施されているものであると承知している。」

 福田首相には、窮地の日本経済を救おうという意気込みは全く見られない。デフレを脱却させ経済を発展するためには、どの程度の成長通貨が必要かを議論する気持ちは全くないということである。このことを全く他人事のように「安全確実な資産の保有として実施されているものであると承知している。」などと述べている。自分には関係ないよと言いたいのだろう。しかし、日本経済を一流でなくしてしまい、デフレ脱却を不可能にしたこの自主規制を正当化するに十分な説明が、これでなされていると感じる人がいるだろうか。そもそも「日本銀行の長期国債保有の在り方」というものは、成長通貨をどの程度市中に流せばよいかを判断して決めるべきであり、「日本銀行がその資産及び負債の状況等を踏まえて決定すべき事柄」ではないはずだ。福田首相の答弁では、日本銀行が十分儲かれば、それでよいのであり、国の経済などどうなってもよいと述べているのだから、無責任極まりない。この問題に関する徹底追求は今後も続けるので、今後の国との質疑応答に関しては、日本経済復活の会のホームページを参照いただきたい。

 ところで政府がこの問題に責任逃れをするのであれば、日本経済の復活の責任を持つのは誰なのか。日銀を追求すればよいのか。日銀はこの問題をどのように捉えているのかを知るために日銀に電話して聞いてみた。しかし、最初からつまずいた。なんと電話で聞いても、受付ではこの自主規制について日銀は知らないという。詳しい人に電話を回してくれた。しかしその「詳しい人」も、そんな自主規制を聞いたことがないという。そういうわけで、時間をかけて私がこの自主規制に関して説明する羽目になった。「そういうことでしたら、調べてみます」というのが「詳しい人」からの」回答であった。3日後、その人から電話が掛かってきた。理事会等の議事録も片っ端から調べたが、その自主規制に関しては何も書いてありませんでしたとのこと。20年近くの間、日本経済の大停滞を引き起こしている諸悪の根源であるこの自主規制が、いかに知られていないかを表す象徴的な出来事だった。経済成長に不可欠な成長通貨のつくりかたを、日銀が理解していないとは、日本とは何という国なのだろう。アメリカの経済学者は日本のこの仕組みを詳しく研究しているというのに。

 しかし、この自主規制をつくった張本人に話すことができれば、言うことは分かっている。その本人に話すことができたら、「通貨発行に歯止めが掛からなくなったら、円の信用が落ちるから経済が成り立たなくなる。」ときっと言うだろう。ハイパーインフレになると言うかもしれない。しかし、先進国でハイパーインフレになっている国などどこにも無い。ハイパーインフレを防ぐには均衡財政と金利引き上げという強力なブレーキがあり簡単だ。円の信用というものは、日本経済の信用に等しい。適切な景気対策を行わないから、日本経済が一流でなくなり、そのお陰で、日本に投資する魅力が無くなり、お金が海外に流れて行ってしまっている。いわゆる円キャリートレードだ。これこそ円の信用低下である。円の信用を取り戻すには、十分な景気対策を行い、経済に活力を取り戻し、成長を加速し、投資家にとって日本が魅力的な市場にすることである。(小野盛司)

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2008年1月27日 (日)

ダボス会議で、IMF専務理事が景気対策を呼びかける(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第十三弾です)
  http://tek.jp/p/

 昨日(08年1月26日)のテレビをご覧になった方は、すでにご存じだと思うが、ダボス会議(世界経済フォーラムの年次総会)で、IMF専務理事のストロスカーン氏が米国以外にも余裕のある国は財政出動による内需刺激策を求めた。テレビでは、世界経済フォーラムのシュワブ会長が福田首相に、このことに関連して質問をしている様子が放映された。

 彼は福田首相に対し、「IMF専務理事が提案した景気対策をどう考えるか」と聞き、
福田首相は「財政出動が日本の場合はベストという状態には今はない」と答えた。

 世界が協調して不況に立ち向かおうというときに、日本は協力しないというわけだ。財政出動以外にもやることはあるのだとでも言いたそうだったけれども、そんなものがあるわけがない。あるとしたら、とっくに実行しており、デフレなどとっくに終わっていただろう。デフレはお金が足りなくなる経済状態で、お金を注ぎ込む以外、脱却はできない。

 IMF専務理事の発言で「余裕のある国は財政出動を」とある。余裕のある国、余裕のない国とは何で区別するのかと言えば、インフレ率だ。アメリカも景気対策をやってよいのかどうか、それが唯一の問題だった。インフレ率がすでに高すぎる国は、それ以上景気刺激をするのは危険だ。しかし、その点で、日本はデフレ経済なのだから世界で最も余裕がある国であり、何の問題もない。国の借金が多すぎるから、もうこれ以上借金はできないと言うが、本当にこれ以上借金できないのなら、事実上破綻しているのであり、国債は事実上紙くずになっているのである。国債は絶対に紙くずにしないと国は言っているのだから、これ以上いくらでも借金はできるということだ。内閣府の試算にもある通り、新たな借金をして景気を拡大させれば、GDPが増え、借金のGDP比は逆に減少し、財政は健全化する。残念ながら、このことを一般の人はなかなか理解してくれない。

 2005年6月6日、財務省は「財政問題に関するシンポジウム」を開いた。内容は国の借金が増えているので、増税・歳出削減が必要だということをPRしようとするものであった。最後に質問の時間があったので、私はその場で反論させて頂いた。財務省がその会場で配布した多数の資料で引用していた内閣府の試算の中にでてくる数字をそのまま引用し、増税(または歳出削減)をすると景気が悪くなるだけでなく、債務のGDP比が増大し財政も悪化するので、害あって益なしではないのか、逆に景気対策をすると、財政が健全化するではないかと質問した。それに対する財務省側からの反論は一切なく、その場におられた経済財政諮問会議のメンバーである吉川洋東大教授は事実を調べて回答しますと言っておられた。何と経済財政諮問会議の吉川先生ですら、その事実を知っておられなかった。私は彼にその場で恥をかかすわけにはいかなかったので、厳しい追及を避けたら、シンポジウムが終わってすぐ、吉川先生は私の所にやってこられ、名刺を渡して調べますと言って下さった。

 その後、吉川先生は私の主張が事実であることを知り、私に「国の借金がこれだけ多くなると、むしろ景気対策をしたほうが、借金のGEPは下がるのですね」と言っておられた。我々は無知であってはいけない。日本経済にかつての活気を取り戻すには、実態経済にお金を流し込むしかない。このことを一人でも多くの人に知って欲しいと願っている。

 本日(08年1月27日)の日経にはこう書いてある。道路財源の暫定税率、廃止ならGDPが0.4%下がると。この主張はガソリン税の暫定税率を廃止するとガソリン価格が下がり、個人消費を9000億円増やすが、それだけ道路財源が減り、実質GDPは約3兆円減り、差し引き2.1兆円のGDP押し下げになるというものだ。詳しい試算内容は明日電話して聞くつもりだが、逆に考えれば、刷ったお金を使い、景気対策としてわずかに公共投資を増やしただけで、GDP押し上げ効果は絶大だということを政府は知っているわけである。何も道路だけに限らない。環境対策や公共施設の耐震強化や水害対策等に使ってもよいだろう。政府は、もはや日本は経済は一流ではなくなったと、自慢げに話すのでなく、そのように強力な景気浮揚策を知っているのであれば、直ちに実行し、再び日本経済を一流に戻す努力をすべきだろう。そのことが世界経済の発展に大きく貢献することになるのだ。洞爺湖サミットの主催国であるならば、その責任をしっかりと果たすべきである。           (小野盛司)

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2008年1月26日 (土)

バブル潰しは、あれでよかったのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第十二弾です)
  http://tek.jp/p/

 アメリカは住宅バブルが潰れそうで、政府もFRBが必死になって潰さないよう努力している。16兆円の景気対策や金利の大幅引き下げなど、緊急経済対策が次々と出てくる。彼らはバブルを潰すと経済に深刻な悪影響を与えることを知っており、絶対にそれを阻止しようとしている。特に最も悪い見本として日本のバブル潰しと、その後必然的に発生したデフレをよく研究していて、日本のようにならないようにあらゆる手段を駆使している。日本が世界の悪い見本として研究材料になっているのだ。
 それに対してバブルを潰せば暮らしがよくなると馬鹿な日本人は思ったようで(今でもそう思っている人がいる)国を挙げてバブルを潰した。政府は「年収の5倍でマイホームが持てるようにすること」をスローガンにして地価を下げることを政策目標に掲げた。バブルをつぶす前と後で、どちらがよかったのか次の表で比べてみるとよい。

Photo_2 

 一目瞭然だろう。バブル期のほうが、はるかに良かった。良いデフレ論などという馬鹿なことを言う人がいた。パソコンが安くなったとか、100円ショップなどで安い物が売られるようになったとか、個別商品で物が安くなるのと経済全体で物価が下がるデフレとは全然話が違うのである。生産性向上などで物が安くなるのは歓迎すべきであっても、デフレはいかなる場合でも良くない。国全体が貧乏になるのがデフレだからである。デフレを放置すれば、上の表で明らかなように国は悲惨な状況になる。バブルを潰すということは、実は、国を貧乏にするということであった。今でもバブル=悪と考えている人が多い。少しでも景気が良くなりかけると日銀は慌てて金利を引き上げ、徹底的に景気の芽を摘み取ってしまう。

 バブルは単なる一夜の夢であって、バブル後が現実なのだと考える人がいる。これは決して正しくない。バブルが発生した後、それを沈静化し、緩やかな資産インフレの状態を継続させるような金融政策は可能であったが、そういう政策を選択しなかっただけだ。日銀は無理な金利引き上げを行い、それに加え1990年3月に当時の大蔵省は金融機関に対し総量規制を行い土地関連の融資を厳しく規制した。これらが急激な景気後退を引き起こし、大規模な不良債権を発生させた。無理な投資によって生まれたバブルだけを正常化させるだけならよかったのだが、正常な経済活動から生じた資産価値まで、徹底的に消滅させてしまった。

 今、日本人に最も求められていることは、土地・株の値上がりはすなわちバブルで、バブルは悪という固定観念を捨てることである。今日、日本以外の国は、そういう意味でどこもバブルの恩恵で経済が大躍進している。バブルを潰して貧乏になろうとしている国は日本だけだ。経済の発展には、必ず資産価値の増加が伴う。それをすべて悪いことだと言ってしまったら、経済発展はない。土地の価格が半分になって、どれだけのメリットがあったというのだろう。土地の価値が高ければ、最悪の場合でも土地を売れば、生活が成り立つが、下がってしまってはそれもできない。収入が減る一方、土地も下がる一方では、多額のローンを組んで土地を買いマイホームを建設するのも躊躇するから、結局住宅は建たなくなってしまったではないか。国が貧乏になれば、やがて、海外から原油や食料を買うことすらできなくなる。バブルを潰して国を貧乏にする政策を直ちに止めさせよう。

 日本人はバブル恐怖症だから、少しでも土地や株が上昇するとすぐにバブルだと騒ぎ出す。1~2年前の水準から判断すると上がったように見えても、かつてのバブル期から見れば、とんでもなく低い水準であるのだから、とてもバブルどころの騒ぎではないのである。本来、経済というものは、毎年少しずつ拡大していけば、すべてがうまくいくようにできている。そのシナリオ通りに進んでいたら、日本経済は今の2倍くらいになっていて、我々の収入も2倍程度であったに違いないのだ。それが、バブルを潰せという声に押されて、日本がどんどん貧乏になっていった。

 バブルを潰さずに、緩やかな資産インフレの続くような金融・財政政策を採用していたらどうなっていたか。表を見ていただければ明らかだ。日本は今頃、世界で最も豊かな国として世界経済を引っ張っていたに違いない。今からでも遅くはない。政策を大転換し、強力な景気対策をし、普通の国のようなインフレ率、成長率に持って行けば、財政問題も年金問題も一挙に解決する。(小野盛司)

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2008年1月25日 (金)

景気対策をやったほうがよいのではないかと内閣府に電話して聞いてみました(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第十一弾です)
  http://tek.jp/p/

 2008年1月17日に内閣府は『日本経済の進路と戦略』という試算を発表した。そこには、景気対策が日本経済に良い効果をもたらすという試算結果が示されている。このことに関して、実際にこの計算を行った人はどのように考えているのかを確かめるために、内閣府の計量分析室に電話してみた。三谷という人が対応してくれた。私と三谷氏の会話の内容を紹介しよう。

小野: ケースAに比べて、ケースBは公共投資を増やすなど積極財政を行った内容になっていますね。

三谷: その通りです。

小野: 積極財政を2009年度から2011年度までの3年間行った試算ですか。

三谷: その通りです。

小野: この試算の結果を見ますと、積極財政を行うとGDPは伸びるし、物価は上昇し、デフレから脱却できるし、失業率も減るし、国の債務のGDP比も減って財政が健全化するようになっていますね。

三谷: その通りです。

小野: それだったら、景気対策を行ったほうがよいのではないですか。確かに国の借金は増えますが、債務のGDP比が減るということなら財政の持続可能性は全く問題ないわけです。

三谷: そういう考えをする方もおられると思います。私は立場上それ以上のことは言えませんが。

小野: プライマリーバランス(基礎的財政収支)の2011年度黒字化を政府は目指していますが、意味がないのではないですか。プライマリーバランスが赤字でも国の債務のGDP比は下がり続けるのですから問題ないじゃあないですか。

三谷: そういう考えもあると思います。

 このように、内閣府計量分析室の三谷さんと私の考えは完全に一致した。愚かなのは2011年度基礎的財政収支(プライマリーバランス)黒字化という政府目標だ。こんな馬鹿なことを政府の目標にしている国はない。実は、この目標こそが、日本を貧乏にしてしまう目標なのだ。何のために基礎的財政収支を黒字化するのかと聞くと政府は債務のGDP比を減らすためと答える。しかし、今回の試算でもはっきり示されている。基礎的財政収支を黒字化しようと努力すればするほど、なんと債務のGDP比は増えてしまうのだ。例えば2011年度で言えば緊縮財政のケースAでは基礎的財政収支はGDP比で-0.1%まで赤字幅は縮小するのだが、積極財政のケースBでは-0.5%だからまだまだ歳出削減の努力が足りないとマスコミは主張する。しかし、債務のGDP比で言えば積極財政の方が、137.0だから、緊縮財政の137.1より低くなっている。つまり積極財政で経済がよくなれば、財政赤字幅は拡大しても債務のGDP比は減少し、財政は健全化するのだ。

 マスコミはいつも、増え続ける国の借金という表現を使うがGDP比で考えなければ意味がないということを考えれば、債務のGDP比は下の図のように減り続けているし、今後も更に減るし、景気対策をやればもっと減るというのが、内閣府の試算の結論だ。このような重大な事実を報道しないマスコミに我々は抗議すべきだし、このことを知らない経済評論家は失脚させるべきだ。NHKの時論公論で言っていたことは、増税をはっきり打ち出さないから、債務のGDP比は2010年代の中頃まで増え続けるだろうという全く事実に反するコメントを行っていた。こういった間違えた情報を流すことは、日本経済に重大な悪影響を与えるのであり、そのようなNHKなど要らないと私は思う。

 財政が厳しいから景気対策はできないのだというのは、全く嘘だということがお分かりだと思う。アメリカ政府関係筋の情報としては、大統領は年収8万5000ドル以下の個人向け(単身)には一人当たり800ドル(約8万6000円)、また、年収11万ドル以下の世帯向け(夫婦)には一世帯当たり1600ドル(約17万円)の税還付を考えているとのこと。日本経済はアメリカ経済よりはるかに悪い状態にあるから、これよりずっと強力な景気対策をしなければならないときだ。(小野盛司)

 出所 内閣府 「日本経済の進路と戦略」平成20年1月17日 経済財政諮問会議
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2008年1月24日 (木)

ガソリンの暫定税率の存廃を争っているときか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第十弾です)
  http://tek.jp/p/

 最近、マスコミを賑わしているのは、ガソリンの暫定税率を存続させるか否かという話題である。現在、日本は経済政策の失敗で急激に貧乏になりつつあるときであり、デフレ脱却が最重要課題であるはずだが、そちらはお構いなしで、暫定税率のことばかり議論をしているようだ。これが廃止になると2.8兆円の税収が消え、道路をつくるのに支障が出るのだそうだ。世界の常識的な指導者、あるいは世界を代表する経済学者であれば、この2.8兆円を景気対策としての減税にしなさいというだろう。道路は刷ったお金でつくればよいではないか。それがあらたな国の借金だと躊躇するかもしれないが、GDPはそれ以上の割合で増えるから借金のGDP比は逆に減る。このようなつまらない議論より、今は本格的な景気回復のための議論が求められているときだ。参考のために2007年のOECD加盟30カ国の名目成長率の比較のグラフをお見せする。これはOECDの最新の発表と日本政府の発表をもとに作成した。直接データを見たい方は以下のサイトを参照して頂きたい。

http://www.oecd.org/document/61/0,3343,en_2649_201185_2483901_1_1_1_1,00.html

 世界の中で日本経済だけが発展していないことがわかるであろう。このように一つの国だけが成長しない状態であると、世界経済のグローバリゼーションの中、円キャリートレードのような危険なお金が金利の低い日本から世界に流れ始め、世界経済に多大な害をもたらしているということを、日本人は自覚し、直ちに改善の努力をすべきなのだ。つまり大規模景気対策をして、最低でも経済を普通の国程度には発展させるべきなのだ。

 市中にお金が流れ込まない限り、GDPは大きくならない。暫定税率を廃止して減税したら、それだけ税収が少なくなるから道路財源を削減するというのは均衡予算の考え方の一例だ。日本のGDPは絶対に増やさせないぞと言っているようなものだ。デフレ下でのこのような均衡予算の考えが、昭和恐慌や世界大恐慌を引き起こした。実は危険きわまりない思想なのだ。昨年の6月には東証第一部だけで株式時価総額が567兆円に達していたのに、株価下落で400兆円を割ったとのこと。多額のお金が消えていった。年金積立金も株で運用しているから、随分目減りしているに違いない。そういうときに、与野党激突のネタは2.8兆円の暫定税率の存廃というのだからお笑いだ。日本人は車やカメラやコンピューターなどをつくるのは上手だが、お金をつくり出すのは何と下手なことか。お金をつくり出すと、神のたたりがあるとでも思っているのだろうか。

 このような中でも、本当に今やらなければならない事に気付いている政治家はいる。マスコミ報道によると、中川昭一自民党政調会長と平沼赳夫氏が大規模景気対策の発言をしておられるようだ。アメリカが16兆円の景気対策と大幅金利引き下げを行っているとき、日本は無策でよいのかという意見が出なかったらおかしい。中川昭一氏とは、彼が経済産業大臣に就任される直前に、大規模景気対策の意味についてご説明し、資料も渡した。黙って聞いておられた。平沼氏にもご説明し、完璧に理解頂いた。日本経済復活の会のカタログを見せたら、「どうして俺の名前がここにないんだ」と言っておられ、我々は喜んで加えさせていただいた。景気対策の必要性を理解しておられる国会議員の方が多数おられる。彼らが待っているのは世論の後押しなのだ。(小野盛司)

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2008年1月23日 (水)

政府は無為無策で立ち往生

今、世界同時株価下落で経済界のみならず、一般庶民まで生活不安が現実になってきた感がある。福田政権はこの事態に対してまったく無反応である。植草一秀さんの言葉をお借りするなら生体反応がまったくない状態である。「事態を冷静に見究める」とか「アメリカのサブプライムローン問題の金融不安が拡大してこうなっているが、基本的にはこれはアメリカの問題であり日本は関係ない」という言い方をする。要するにこの姿勢は、政府はまったく何もしないということだ。前々エントリーで、日本経済復活の会・会長さんである小野盛司氏は「昨年の株価騰落率は52カ国中、下から2番目ということで、日本が一人負けの状態にある」と憤っておられた。目の前に危機が迫っているのに、痴呆的に無為無策になっている政府の姿勢は国家運営の基本を無くしている。植草さんは今日のコラムで次のように言っている。

「資産価格下落-景気悪化-金融不安の連鎖は日本が1990年から2003年にかけて経験した。日本の場合、1996年と2000年に景気回復、株価上昇の改善局面を迎えたが、財政収支改善を優先する近視眼的な緊縮財政政策が採用されて、事態を再悪化させ、深刻な金融不安を招いてしまった。
 迅速かつ大胆な対応が求められている。「兵力の逐次投入」は失敗を招く代表事例である。」

 米国は小規模なその場しのぎの対応を逐次やっていくよりも大胆な財政対策を行なう必要があり、そのことは日本の過去における二度の失敗から学ぶべきだということだろう。ちょこまかしたせこい財政投入は効果がないということだ。しかし、福田政権の姿勢を見ていると、日本そのものが三度目の馬鹿正直を繰り返してしまうような予感がして仕方がない。つまり、またしても重大な局面で超緊縮財政政策という逆噴射をして景気をドン冷えさせてしまうような感じがする。なぜなら、小野盛司氏が大田弘子経済財政政策担当大臣から直接「景気対策は必要ない」と聞いているからだ。それに植草さんによれば、2008年度予算は景気抑制型の緊縮予算を組んでいる。つまり政府は何も有効な手を打つ気がないと言明したようなものである。これは暴言と言うか、まるで日本が滅びるのを期待しているような感じであろう。福田総理が「よりいっそうの歳出改革に邁進します」と言うとき、私には「よりいっそうの福祉財源切捨てに邁進します」というようにしか聞こえない。

 最近の数年間は、政府がデフレを解消するという心にもないポーズを取ってきたこともさることながら、主要国中、日本の株価下落幅が最も大きいのに、喫緊な対応策を何も講じないという無為無策ぶりだ。ブッシュがGDPのたった一パーセント程度の財政出動をして、焼け石に水のような反応になっているのに、我が国は静観を決め込んでいていいものだろうか。このままでは日本は凄惨なスタグフレーションに突入する恐れがある。そうなると、どんどん拡大している底辺層は生活格差などというレベルではなく文字通り生活困窮者となる。今の状況は深刻さにおいて、1927年当時の昭和金融恐慌前夜に匹敵するかもしれない。これだけ国内資産が外資に喰われていても、日本はまだ膨大な純資産を持ち、強力な債権国である。かつて日銀と大蔵省がタイアップしてあの昭和恐慌を脱したように、今、日本が金融と財政の両側面から大胆に景気を刺激する方策は取れないものだろうか。小泉構造改革を強力に推進することこそ唯一の脱出方策だなどと御用学者に言わせるような政権ではまったく駄目だろう。現実には政権交代しなければどうにもならないだろうと思う。それにしても、テレビでは今こそアメリカとのデカップリングを実現して日本は自主性を持つべきだなどと言っているが、「カップリング」などという無難を装った横文字には腹が立つ。日米がただ組んでいるという意味にしか見えないからだ。しかし、カップリングの真の意味は米国隷従だということを認識する必要がある。

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第48回日本経済復活の会・開催のお知らせ

 1月31日(木)、第48回日本経済復活の会のお知らせです。弊ブログ読者の皆様方も興味がありましたら是非講演を聴きに足を運んでもらいたいと思います。(講演日時、来場予約、場所、アクセスは下の方に)

○  講師 自見庄三郎先生(医者、国民新党副代表、元郵政大臣)
○ 講師 小野盛司先生(日本経済復活の会・会長)

 定例会とは言っても講演会形式で、誰でも聴くことができるそうです。月に一回、政財界やその他から講師の方に来ていただいて講演を行うという形です。ゲストの講演とともに、日本経済復活の会の会長さんである小野盛司先生の経済の話(日本経済復活への道)も聞くことができます。とてもわかりやすい語り口です。神州の泉をご覧になっている方々で、日本の経済や国家の現状、行く末を案じている人、または積極財政論に興味を持つ人は、是非一度ご来場してみてください。必ずや得られるものがあると思います。弊ブログ管理人の私でさえ聴きに行くくらいですから、けっして敷居が高い雰囲気ではありません。正直面白いと思っています。

 今回のゲスト講師は、医者・医学者で国民新党副代表、元郵政大臣の自見庄三郎先生です。自見先生は医学博士の称号を持つ医師であり、米国ハーバード大学主任研究員という経歴。弊ブログをご覧になっている方々は、小泉構造改革がネオリベ(新自由主義、あるいは新古典主義)の思想に基づいて強力に推進されたことをよく知っています。自見先生によれば、このネオリベ経済路線とはアメリカの経済学者ミルトン・フリードマンが唱導したもので、「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「官から民へ」などが基調となっています。このネオリベをアメリカで学んできた竹中平蔵元大臣は、時の小泉総理大臣の庇護の下で強力に構造改革を推し進めました。その結果がどういう事態を招いているか、弊ブログをご覧になっている方々ならよくご存知です。

 また自見先生は医師の立場から、昨年11月27日に発売された「ダカーポ」という雑誌で、『国民皆保険制度は守らなくてはいけない!』という重要な小論を発表しています。このままアメリカに右ならえの医療改革制度を押し進めれば、世界一の水準を誇る我が国の医療システムが崩壊してしまうことを憂慮し、富が偏在する新古典派経済学では社会が駄目になってしまうことを語っています。

 また政府はことあるごとに財政危機を煽りますが、総債務で見れば日本は財政危機ではないと言っています。政府は約830兆円の借金を持つと言いますが、実はGDPに匹敵する金融資産があり、純債務をGDP比で見るとEU諸国とあまり差がないとも言っています。つまり政府の財政危機論は国民に重税負担を強いて、福祉を切り捨てるためのまやかしということでしょう。

借入金(粗債務)836兆円 - 金融資産580兆円 = 総債務256兆円

 自見先生はこの論稿の最後でこうも言っています。『日本は社会保障費を削りながら、アメリカの国債を100兆円も買う必要があるでしょうか』

 じみ庄三郎メッセージ
http://www.jimisun.com/messege.htm

日時 平成20年1月31日(木)午後6時~午後9時

○場所 東京都千代田区神田駿河台4-3 新お茶の水ビル 17階 JPA総研

○会費 3500円(資料代や食事・飲み物の費用を含みます)

  講演を聴きたい方は、これに関する一切の問い合わせと、御来場の可否を小野盛司(03-3823-5233 又は 03-3823-5232)宛にお願いします。下記メールでも結構です。
E:Mail sono@tek.co.jp

※弁当の注文や配布物の準備等ありますので、申し込みはできるだけ早めに行って下さるよう、ご協力お願いします。

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2008年1月22日 (火)

株価急落に対する政府の無策を追求しよう(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第九弾です)
  http://tek.jp/p/

 本日(2008年1月22日)、日経平均株価(225種)の終値は前日比752円89銭安の1万2573円5銭と2005年9月以来、約2年4か月ぶりに1万3000円の大台を割り込んだ。一連の株価下落が投資家に巨額の損失を発生させ、日本経済に大きな悪影響を与えているのにも拘わらず、政府はサブプライム問題はアメリカの問題だと言うだけで、何の対策も打たない。経済を理解しない人たちに経済運営を任せておく程、怖いことはない。昨年の株価騰落率は52カ国中、下から2番目ということで、日本が一人負けの状態にある。1989年には日本の株価は38915円にも達していたことを忘れてはならない。

 諸悪の根源は政府がデフレを長期間放置していたことにある。デフレ克服が最重要課題と認識しながら放置した責任は極めて重い。デフレは景気対策をやれば簡単に脱却できるということは、計量経済学の結論だ。例えば2008円1月に発表された内閣府のモデル(進路と戦略)による試算でも、3年間で2.9兆円を使うとデフレーターは0.2%上昇するとある。もしこれを10倍にして、3年間で29兆円、つまり年間10兆円景気対策に使えば、デフレーターは2%上昇し、完璧なデフレ脱却が可能だ。更に大規模に行えば、期間短縮も可能だ。

 政府はデフレ克服には何ら有効な政策を行わなかったのにも拘わらず、あたかも直ぐにでもデフレ克服できるというような印象を与える発言(大本営発表)を繰り返している。過去の大本営発表を、嘘の連続を是非読んで頂きたい。これらは内閣府のホームページで簡単に確認できる。

●2002年1月18日 経済財政諮問会議『構造改革と経済財政の中期展望』
  【デフレ克服】 今後2年程度の集中調整期間は、中期的に民間需要主導の成長を実現するための重要な準備期間である。この期間において最も重要なことはデフレを克服することである。・・・・これらの政策に取り組むことにより、集中調製期間において、景気は厳しいながらも回復に向けて動き出す。こうした動きを受け、デフレも克服され、物価上昇率はプラスに転じると見込まれる。

●2003年1月24日『改革と展望』
  【集中調整期間とデフレ克服に向けた取組】 集中調製期間は、中期的に民間需要主導の成長を持続するための重要な準備期間である。また、この期間において最も重要な課題は資産デフレを含めデフレの克服に向けた取組を行うことである。・・・政府・日本銀行が一体となって、デフレ克服を目指し、できる限り早期のプラスの物価上昇率実現に向けて取り組む。

●2004年1月16日 経済財政諮問会議『構造改革と経済財政の中期展望』
  【集中調整期間とデフレ克服に向けた取り組み】 こうした考え方の下、政府は民間需要、雇用の拡大に力点を置きつつ、構造改革をさらに加速・拡大する。また、2004年度における不良債権問題の終結を目指し、これまでの成果の上に立って不良債権処理を推進する。こうした構造改革は、主に次の5つの効果を通じて、デフレ克服に寄与すると見込まれる。

●2005年1月21日 『構造改革と経済財政の中期展望』
  【経済の展望】 デフレについては、政府・日本銀行一体となった取組を通じ、デフレ圧力は徐々に低下してきている。国内企業物価が上昇を続ける中、消費者物価指数(全国、除く生鮮食品)は集中調整期間の後にはプラスになり、また、GDPデフレーター(物価変動指数)も徐々にプラスになると見込まれることから、デフレ克服に向けた着実な進展が見込まれる。

●2006年1月18日 経済財政諮問会議『構造改革と経済財政の中期展望』
  【経済財政運営とデフレ脱却に向けた取組】 上述のような物価状況の下で、デフレ脱却に向けた取組は依然として重要な政策課題である。このため、重要強化期間内におけるデフレ脱却を確実なものとするために、政府・日本銀行は一体となった取組を行う。

●2007年1月18日 経済財政諮問会議『日本経済の進路と戦略』
  【経済の将来展望】 物価については、「進路と戦略」で示された適切なマクロ経済運営の下で、デフレ脱却後、安定的なプラスの物価上昇率が徐々に実現していくと見込まれ、消費者物価指数の上昇率は5年間のうちに2%程度に近づいていくものと見込まれる。

●2008年1月17日 経済財政諮問会議『日本経済の進路と戦略』
  【直面する課題】 第一は、デフレ脱却が視野に入り、ようやく経済が正常化しつつあるにもかかわらず、将来の日本経済や生活に対して不安感や不透明感が漂い、積極的な前向きの動きが広がってこないことである。

 国民はいつまでも黙っていてはいけない。経済政策を積極財政に転換せよと今こそ要求すべきである。

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内閣府の試算による積極財政で財政が健全化することが明らかに(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第八弾です)
  http://tek.jp/p/

  緊縮財政ではお先真っ暗

 2008年1月17日に内閣府(経済財政諮問会議)は「日本経済の進路と戦略」という試算を発表した。詳しくは
http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2008/0117/item3.pdf

 ですべて見ることができる。何と、そこには今、政府が減税や歳出拡大を行えば、GDPが増加し国が豊かになるし、デフレから脱却できるし、失業率も減る。国の借金は増えるのだが、それ以上にGDPが増えるため、借金のGDP比は減少し、財政は持続可能となり、財政は健全化するという試算が示されているのだ。嘘だろうと思う人は、是非上記のサイトから、その論文を参照して頂きたい。論文は前半と後半に分かれていて、ここで引用するのは、後半の10頁と14頁の表である。もっとも、ここで述べる説明で間違いないということは、2007年2月23日の安倍総理の答弁書(内閣衆166第62号)や大田大臣との直接の質疑や、内閣府の責任者への問い合わせ等ですでに確認が済んでいるのだ。

 10頁の成長シナリオ ケースA とあるのが、緊縮財政の場合で、14頁の成長シナリオ ケースB とあるのが、積極財政の場合である。と言っても、ケースAとケースBの違いは5年間で僅か2.9兆円なので、実際の差は小さいが、例えば、この10倍の経済対策を行えばどうなるかは、単なる比例計算で簡単にできる。

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 この表で緊縮財政と書いたのは、ケースAのことで、積極財政と書いたのはケースBのことだ。この表を見れば、積極財政と緊縮財政のどちらが現在の日本にとって良い政策なのかが一目瞭然だ。減税とか歳出拡大とかの積極財政に転換した場合、まず、GDPが増え国が豊かになる。デフレーターが改善しているから、デフレ脱却が可能になる。失業率も改善している。確かに国の借金は増えるが、GDPはもっと増えるので、借金のGDP比は逆に減るのだ。ということは、財政が持続可能であるということを意味している。緊縮財政を行い、プライマリーバランスを改善し、国の借金を減らしたら、GDPはもっと大きく減ってしまい、借金のGDP比が増え(借金の重みが増すということ)、思惑とは逆に財政が持続可能にはならないということだ。もちろん、次世代へのつけも増えてしまうと言うこと。先週の16日(水曜日)に筆者は大田弘子経済財政担当大臣にこのことを再度確認を求めた。もちろん、反論は一切なかった。

 是非、ゆっくり考えて頂きたい。我々はなぜデフレ下で積極財政を求めないのだろうか。積極財政のどこが悪いのだろうか。国の借金が増えることが本当に悪いのか。実際は借金の増加率よりGDPの増加率のほうが大きく、借金のGDP比が減少し、財政が健全化することが、政府発表の試算ですら確認されているのだ。世界経済の中で日本が急速に没落を続けていることは、皆さんよく知っておられる。緊縮財政をやればやるほど、没落は加速するし、国の借金の重みがどんどん増してしまう。次世代へのつけが増える一方なのだ。奇跡的な経済発展をした豊かな日本を、貧乏にするだけでなく、借金という重いつけを、次世代に押しつけてもよいのだろうか。

 なお、先日から「試算の偽装」ではないかと指摘しているGDPデフレーターだが、今年の発表が出てきた。政府はデフレ脱却の日は近いという「大本営発表」を続けていることには変わりはなく、今年の発表は図の点線の部分だ。若干上昇が控えめになっているようにも思える。我々が、質問主意書で厳しく政府を追及した成果が少しはあったのか。それにしても2011年のデフレーターがどうなるのかという政府の予測はひどいものだ。

 2005年発表では、2011年にはデフレーターは何と2.4%まで達すると予測していた。それが、2006年には1.5%、2007年には1.3%と次々と下方修正し、今年の発表では遂に0.7%にまで下がった。ふざけるなと言いたい。「情勢は確実に好転しつつある」と大本営発表を聞かされていた国民は、今こそ政府発表がデタラメであることを知るべきだ。後になって「実は情勢は悪化していました」と国民に断ればよいと思っているのか。緊縮財政では、経済が悪化し、国の借金が重くなる一方であり、お先真っ暗であることに、一刻も早く、国民は気付いて欲しい。(小野盛司)

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2008年1月20日 (日)

アメリカは16兆円を刷って減税という景気対策を実施(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第七弾です)
http://tek.jp/p/

 ブッシュ大統領は1月18日緊急景気対策を発表した。16兆円の減税である。財源はどこになるのだ、などという馬鹿なことを聞く人はアメリカにはいない。フランスのサルコジ大統領が景気対策として2兆円の減税を行ったときも同様だ。日本はびた一文、刷った金は使わない。次の世代への負担で今使うことは出来ないなどという均衡予算主義、これは馬鹿な考えだ。日本以外のすべての国では、どんどんお金を刷って使ってる。日本は刷らない。これでは日本だけが貧乏になるのは当たり前だ。日本は国の債務のGDP比が諸外国より高いという意見がある。だからこそ、お金を刷る必要があるのだ。刷れば刷るほど、国の借金は増えるがGDPの増加速度のほうが早いから、債務のGDP比は下がってくる。

 大田弘子経済財政担当大臣は「日本は経済で、もはや一流国ではない」と言ったが、日本を一流国から引きずり下ろした責任者の一人が彼女自身だ。現在の政策を続ければ、二流国、三流国へと成り下がるが、アメリカのように、きちんと適切な規模の景気刺激策を取れば、十分一流国へと復帰できる。お金を刷れと言うと一部の人は、間違えて量的緩和を連想するようなので、これに関して少し説明する。景気の調整を行う手段としては、一般的に日銀の行う金融政策と政府の行う財政政策がある。金融政策では、金利を上げればお金が借りにくくなるので、景気にブレーキがかかり、金利を下げればお金を借りやすくなり、景気を良くすることが出来る。しかし、日本のように一旦デフレに陥ってしまうと、金利をゼロにしても借りてくれなくなる。つまり景気が悪すぎると、何をやっても儲からないから金利ゼロでも借りて商売をやる気にならないのだ。金利をマイナスにすれば、誰もがお金を借りて金庫に入れておいて、暫くしてから返し、労せずにして金を稼ぐようになるので、マイナス金利にはできない。つまり、一旦デフレにしてしまうと、蟻地獄のように、そこから抜け出すことは大変難しくなるのだ。

 量的緩和などという政策はどうかというと、デフレの際には効果がない。お金を刷って、国民に流すのでなく、銀行に流す政策が量的緩和だ。景気が悪すぎて商売が成り立たないようなデフレ状態で、いくら銀行にお金を流しても、国民はそのお金を借りて商売をしたり、ローンを組んで家を建てたりしない。インフレでは、家を買っても将来その値上がりが見込めるし、インフレでローンも目減りするから、少々無理なローンを組んでも大丈夫だが、デフレでは将来家の価値は下がり、ローンは毎年重くなる。つまりデフレのときに量的緩和などをやって銀行にあふれるほどの金を積んだところで、それは実態経済に流れるわけでなく意味がない。それに銀行側にしても、余程経営に信頼できる企業にだけに融資を限定しないと、不良債権を増やしてしまう。逆にそのような経営に信頼できる企業は融資を求めていないというわけで、結局下の図のように銀行貸し出しは伸びない。2001年から2006年まで量的緩和が行われた。この間、一貫して銀行貸し出しは下がり続けたのだから、日銀の量的緩和策は大失敗であった。銀行貸し出しが下がり続けているのに、なんと日銀は、もう景気は十分よくなったとして2006年3月9日量的緩和を打ち切った。どうせ意味のない量的緩和だからいつ打ち切っても同じなのだが、これで十分景気は良くなったと日銀が理解したとは、何というお粗末な考えか。

 それでは、デフレ脱却は不可能かというとそうではない。お金を刷って、それを借りてくれというのでなく、政府が自分で使うか、国民に差し上げて自由に使ってもらえばよいだけだ。過去にも成功例はいくつもある。昭和恐慌を引き起こした井上蔵相は昭和4年に次のように書いている。「借金をして歳出を計っているような不健全なことを止めてしまって、借金もせずにバランスを合わせて、この財政上の状態を立て直すつもりであります。収支のつぐなわないような不合理の財政状態を改善して、財政の基礎を確立しようとするのであります。この趣旨から、政府はすでに財政緊縮に着手しまして、昭和五年度予算編成にあたっては非常な緊縮方針をもって臨み、既定経費の整理節約、新規事項の抑制をはかり、一般会計においては公債を発行せず、特別会計において公債を半減する計画であります。」

 一見すると、井上蔵相の発言はもっともらしいのだが、これが昭和恐慌という大混乱を日本経済に引き起こし、井上蔵相の自宅の物置は爆破されたり、抜き身の短刀が送りつけられたりし、昭和7年に暗殺されてしまう。借金を減らす目的が、結局経済を縮小させてしまい、税収も減って、借金を減らすことはできなかった。この事情はアメリカのフーバー大統領の緊縮財政が世界大恐慌を引き起こしたのとよく似ている。実は現在の日本政府の均衡財政主義も、井上財政やフーバー大統領の経済政策とそっくりなのだ。経済の混乱から回復させたのは高橋是清蔵相の積極財政だった。一般会計予算は激増した。

1931年 14億9000万円  井上蔵相
1932年 19億5000万円  高橋蔵相
1933年 22億5000万円  高橋蔵相 

 平成20年度予算は83兆円だから、高橋蔵相と同じペースで積極財政を行うとすれば、平成21年は109兆円、平成22年は125兆円という超積極財政となる。財源はもちろん刷った金だ。この時代は国債市場が発展していなかったから、直接日銀に国債を引き受けさせる方法を取った。現在なら、いったん一般市場に売り出して、その後同額の国債を日銀が市中から買う方法で十分だ。法律を変える必要もない。このような大規模の財政拡大で、景気がよくなり、デフレから脱却でき、しかも財政も健全化することは計量経済学でしっかり確かめられている。多くの国会議員もそのことをよく理解している。今は世論の後押しを待っている状態だ。我々の次の世代に貧乏生活を強いるような政策を止め、国を豊かにするような政策へと転換させようではないか。(日本経済復活の会 小野盛司)

(出所 日銀)
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2008年1月19日 (土)

ある読者さんのコメント

 最近何人かの読者さんから日本経済について多角的なコメントが寄せられている。
それぞれに非常に興味深く読ませていただいており、とても参考になる。ありがたいことだ。
今日はその中の「名前のない読者さん」のコメント。

************************************************************************
(名前のない読者さんより)

  売る事も出来ない米国債を大量に抱えて日本は死んで行くんですなw
一説によると300兆円はあるとか。
そんな使い物にならない米国債を1年で33兆円も買った小泉内閣は
真正の売国奴か阿呆なんですな。
米国債を売ろうとしても米軍にやられるんなら政府貨幣を発行しようと
しても日本はやられるんでしょうね・・・
そんな事をすれば国際金融資本の存亡に関わりますからね。
世界最大の債権国がこのまんま衰退して行くなんてのも皮肉な事ですねw
産業の空洞化が原因だとおっしゃいますが企業利益だけは最高益を更新
し続けてますよ。
以前として産業機械の稼働数はぶっちぎりの世界一ですしね。
空洞化や工場の移転は80年代からすでに活発でしたしね。
日本の不況はバブル崩壊後の信用創造機能のマヒとプラザ合意以降の
新自由主義化にあると思います。
法人税を下げたり、労働分配率を下げたり、株式の持ち合いを解消したり
して国民に対する利益還元や再分配率が下がってるのが問題なんじゃない
でしょうか。
日本の労働分配率は確か98年をピークに下がり続けて昨年ついに60%
を割り込みましたからね。
欧米先進国は全て70%を超えてます。
大企業限定だと日本はもっと低いでしょうね。
改革とやらで儲けても還元されない仕組みに変えられてしまいましたからね。
下請けに対する還元率も同様でしょうね。
これでは個人消費が盛り上がってデフレ解消とならないのは当然でしょうね。
以前、朝日新聞にデフレ不況を維持しないと国債の金利高騰に耐えられない
と言う財務官僚の本音とやらが載ってましたから政府・日銀・官僚はわざと
デフレ不況になるようにコントロールしてるんでしょう。
だけど名目成長率が上がって行かない限り税収の自然増も無い訳ですし・・・
それに財政危機を叫ぶ割には相変わらず米軍はじめ外国には大盤振る舞い
してますし公務員のボーナスを増やしたりしてますし・・・
やってる事がちぐはぐだな~。
いざとなったら埋蔵金じゃないけど特別会計の一部を一般会計に回す訳には
行かんのかな?
為替介入の枠なんて減らせばいいんじゃないの?
どうせ米国やトヨタ、キャノンへの貢物にしかならないんだからな。
50兆円ほど回せばただちに黒字化出来るじゃないのw

投稿 | 2008年1月19日 (土) 02時39分

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2008年1月18日 (金)

首相公選制は日本喪失

 読者・とおりすがりさんの熱いメッセージを紹介しておきます。ほとんど私も同感です。
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● 喜八さんの言うとおり自称愛国者たちは小泉純一郎の暴言(朝敵発言)を見事なまでに黙殺しております。特に政治ブログランキング上位の自称愛国者連中は普段の勇ましさとは違って完全黙殺。何が愛国だ、と思わず嘲笑してしまいました。しかもこの自称愛国者連中は最近になって首相公選制を訴え始めています。首相公選制とはイコール共和制、つまり大統領制に他なりません。即ち権威と権力を一極に集中させる事実上の独裁体制ですね。今のブッシュを見ればわかるようにその弊害は計り知れないです。そして中東やアジア諸国、南米諸国など政情不安な国家は全て共和制であり大統領制であります。しかし日本はそれらの国家と違い、少なくとも1500年以上もの歴史があり、その歴史的な知恵として権威と権力を分散させる皇室制度を定着させているわけですね。

 実際、天皇による親政の期間は極めて短いです。殆どが摂政や関白、そして征夷大将軍など今の内閣総理大臣に近い存在が権力を握り政治を行ってきました。その時の天皇の役割は彼ら権力者に権力のお墨付きを与える権威として機能してきたわけですね。確かに歴史上、弓削道鏡や足利義満、織田信長のように皇室を私物化して権威と権力を自分たちに集中させようとした朝的が出現しました。しかし不思議な事に彼らの野望は全て失敗に終わりました。そして小泉による皇室解体の女系天皇制です。しかし小泉の野望も秋篠宮殿下によって打ち砕かれました。絶対権力のGHQですら解体出来なかった日本の皇室。

 これは右派左派関係なく日本人の財産です。日本人の知恵なのです。それを侮辱した小泉純一郎。この男を許すどころか大絶賛しまくった政治ブログランキング上位の自称愛国者たち。彼らが靖国神社を礼賛する姿をみた英霊たちはどう思うのでしょうか?自称愛国者連中の存在意義とは今の体制、つまり従米隷属迎合体制の護持にあると私は思うのです。
だからこそ小泉純一郎のやる事なす事言う事全てを礼賛し、都合の悪いことは完全黙殺する。これを卑怯と言わずして何を卑怯と言うのでしょうか?日本における愛国者とは国家国民を愛し、皇室を尊ぶ者を愛国者と言うのです。決してアメリカを始めとする外国に媚を売る者を愛国者とは言いません。

 この際だからハッキリ言います。
件の小泉暴言を黙殺する自称愛国者は売国奴に他ならない。そして首相公選制をほざく自称愛国者は朝敵に他ならない。管理人さんは私の考えをどうおもいますか?

●中東を始めとする一部国家は王政を布いています。これは事実上権威と権力を合体させた国王親政とも言えますね。その弊害として独裁体制が生まれたのです。
例えばアメリカが作った人工国家クウェートなどは実に酷い。その一端が例のハンドボール事件ですね。サウジなどもクウェートと同じく酷いですね。日本の国家体制である権威と権力を分離させた皇室制度は他国には決してマネのできない素晴らしい制度であります。日本人ならば先祖が長い時間をかけて作りあげた皇室制度を誇りに思うべきではないでしょうか。

●共産党は皇室容認に路線変更しましたね。皇室をあれだけ批判し続けた共産党ですら皇室の権威を無視出来なかった訳です。それくらい皇室の権威は偉大なのですね。私は別に盲目的に皇室を信奉しているわけではありません。歴史的に鑑み、歴史に学び、自分の目と耳などあらゆる感覚で考えた結果、権威と権力の分離、つまり皇室の権威は日本民族の歴史遺産でもあり現在進行形の財産である、と結論付けたのであります。

共産党ですら認めざるを得ない皇室の権威。

 それを蔑ろにする小泉純一郎が如何に不埒な輩であるか。それが件の小泉暴言であり愚行であるわけです。小泉の野望に完全と立ち向かった平沼赳夫氏。小泉の野望を打ち砕いた秋篠宮殿下。この二人の偉業は後世まで語り継ぐべきではないでしょうか。小泉純一郎の政治生命はまだ潰えていません。だからこそ小泉純一郎の政治生命を絶つべく私たち日本人は民族を挙げて右派左派無党派関係なく結束して小泉一派とその支援組織(特に新聞テレビや経団連などの売国組織)と戦わねばならないのです。

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(管理人の感想)

 とおりすがりさんが憤怒を持って私に問いかけたこと。それは、小泉氏の「皇室は抵抗勢力だ!」発言についてスルーし、首相公選制を唱えている上位のブログランカーについてどう思うかなのだが、言われたとおりであるとするならば私も憤懣やるかたない思いである。そういうブログ上位者に、せと弘幸さんが入っているかどうかわからないが、彼は以前、憂国掲示板で少し係わり合いを持ったお人なので、若干私なりの親近感はある。しかし思想性となると私とはかなり異なっているようである。ただ、瀬戸さんの場合は、あの松井石根陸軍大将の元秘書官である田中正明氏の薫陶を受けていると聞いたことがあるので、彼なりの深い思想性に基づいていると考える。だから彼の親米対支那感覚に対しては相当の疑念を持つが、深謀遠慮のすえに打ち出しているような気がする。これについてはいつかお目にかかる機会があったらいろいろと伺いたいと思っている。私はネットで実名を用いている方は、その人がどのような考え方を持っていても敬意を持つ。

 首相公選制については、保守や右派がけっして賛同してはならない考え方である。理由は我が国の国体が基本的には立憲君主制であり、天皇の存在を無視した首相公選制は原理的にありようがないからだ。天皇による国事行為には、国会指名にもとづく内閣総理大臣の任命行為がある。これはアメリカ大統領就任時のように聖書に片手を置いて誓う形式的な行為とはまったく違っていて、日本の国体の根幹に関わる重要な儀式となっている。この行為そのものが象徴的に意味することは単純明快である。すなわち、国政の最高権限を有する者を任命する権威を天皇だけが持っているということにほかならない。重要なことはこれが王としての政治権力ではなく、朝廷を権威の別格として連綿と押し頂いてきた我が国固有のあり方に基づいているからだ。GHQの英文草案にもとづいて出来上がった日本国憲法で天皇の地位は定められているが、敵性国家による憲法置換という歴史的出来事が生起したとしても、我が国国体の礎は不変であり、天皇が国体の中心になっている。政治という政(まつりごと)の次元を上回る権能が先天的に付与されている御存在を戴く国家とは、政治的な最高主導権を持つ者が、天皇の存在から外れた場所で勝手に選ばれてはならない。これを行なってしまうと、つまり首相公選制を実行してしまえば我が国の国体が完全に崩壊することになる。この選挙行為自体が、日本のあり方そのものをフランス革命以降の新興国家群の一部に変容させてしまうだろう。戦争に負けても、勝っても、民族の文化と伝統精神は普遍性を持たねばならないと思う。

 西村眞悟さんが言うように、公選で決まる大統領制は君主のいない国家で生まれたものだ。アメリカのような君主の存在しない新興国家の統治形態が大統領制である。従って、日本が公選制を行うという意思決定があるとすれば、日本人が左翼革命を起こしたことと同じ意味を持ってしまい、いわゆる日本という国家アイデンティティが喪失する事態となる。新自由主義を無作為に導入し、女系天皇論を吹聴して国体破壊を目論んだ小泉純一郎氏の最終目標が日本国家の解体にあることは明白である。彼は日本を不況に陥れ、外国資本に国の優良資産を叩き売った張本人としても許されざる国賊である。しかし、桁違いに許されざることは国体の解体を目論んだ国家反逆者として振舞った彼の政治行為にある。。

 西村眞悟さんは平成13年に下記のように言っている。このことからも彼が小泉官邸主導筋に国策パラダイムに反する者として強く認知されたであろうことがよくわかる。

『私は、「歴史的共同体」としての我が国のあり方、つまり「国体」または「国柄」つまり我が国の「国民主権」を深思すれば、立憲君主国と議院内閣制は歴史的にも論理的にも不可分と確信する。我が国から、共同体としての国民の「歴史性」を消去すれば「大統領制」つまり「首相公選制」しかないのは解る。臣小泉は、そこまで見切って言っているのか。総理として我が共同体の歴史的に神聖な中枢に触れた以上、明らかにせよ。』

 http://www.n-shingo.com/getuyou/1306.html

 (※西村さんのご子息のご不幸については深い哀悼の想いを捧げます)

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2008年1月17日 (木)

景気対策をすればどうなるのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第六弾です)
http://tek.jp/p/

 小泉内閣の前は、日本でも何回も景気対策を行っていた。そのお陰で、世界経済における日本の地盤沈下はそれほどでもなかった。小泉内閣が行ったデフレ下での緊縮財政で、日本はあらゆる面で地盤沈下を始めた。世界で最も豊かな国だったのに、一人当たりの名目GDPは今や18位までに落ちた。G7では最下だ。株の下落もひどい。2007年の騰落率は世界52カ国中下から2番目だ。

 どうやれば、日本経済は立ち直るのかは計量経済学が教えてくれる。これは確立した学問の分野であり、きちんと分析すれば、信頼できる予測が可能だ。残念ながら、政府(内閣府)の発表は大本営発表としか言えないのだが、日経新聞社の経済モデルのほうがはるかに信頼できる。両者を比べればすぐ分かるのでこれを図で示す。

内閣府と日経の発表したデフレーターの予測
Gdp_2

 GDPデフレーターとは総合的な物価指数であり、これが正になるとデフレ脱却とみなされる。2002~2007と書いてあるのは、政府発表のデフレーターで、これによると、デフレは1~2年で簡単に解消できるとなっている。例えば、2002年に発表したデータでは、翌年の2003年にはすでにデフレーターが0になって、ほぼデフレ脱却できるということになっているが、実際は2008年になってもデフレ脱却はできていない。このような欺瞞的な発表を6回も続けているのだからあきれる。一方、図で分かるように、日経新聞社の日経NEESDでは、政府の政策では、デフレは続くと予想しており、見事に予想通りに推移している。

 政府発表は大本営発表で、日経のモデルのほうが、はるかに信頼できることが分かるだろう。この日経NEEDSを使って、もしも2000年から5年間景気対策をやっていたらどうなっていたのかを計算してみた。政府の政策を継続すると、どうなるかは、日経新聞がいつもこのモデルを使って予測を発表しているが、景気対策を行ったらどうなるかは、発表しない。例えば毎年減税と歳出拡大で合計50兆円規模の景気対策を5年続けていたらどうなったかという日経新聞社の予測を書く。予測は5年間しかしていない。

名目GDP
        景気対策を行ったとき  現実
 2000年  549兆円       502兆円
 2001年  573兆円       492兆円
 2002年  609兆円       488兆円
 2003年  646兆円       493兆円
 2004年  679兆円       496兆円
 2005年              503兆円
 2006年              510兆円
 2007年              515兆円

 景気対策をすれば、諸外国同様のテンポで経済の拡大が可能になるのだ。しかし現実は緊縮財政のお陰で、日本経済の拡大は完全に止まっている。2004年ですでに183兆円の差が出ている。日本人一人当たり、150万円の損失と言える。この規模の景気対策を行っても、消費者物価指数は5年間で11%上がるだけで、年平均だと2.2%だから、これも諸外国並だ。平均賃金は下がりっぱなしだが、景気対策をやっていたら、除々に上昇してくる。

雇用者報酬の上昇率
2000年  0.6%
2001年  2.3%
2002年  3.8%
2003年  6.4%
2004年  7.5%

 更によいことに、これだけGDPが増大してくると、国の借金のGDPに対する割合がどんどん減ってきて、国の財政も健全化してくることだ。なぜ、このような優れた政策を政府は実行しないのだろうか。
 本日(2008年1月16日)、筆者は秋元司参議院議員の勉強会で、大田弘子経済財政政策担当大臣に直接質問をすることができた。筆者の質問のキーポイントは、ここまで景気が悪くなっているのになぜ景気対策を、検討しないのかということであった。なんと、大田大臣の回答は、現在、景気対策の必要はないということだった。
 しかし下の図を見て頂きたい。OECD30カ国の2007年の名目成長率の比較でOECD30カ国の中の下位8カ国だけを示してある。ワースト8の中でも、日本が際だって低成長であることが分かる。世界で唯一通貨発行による景気刺激策を拒否した結果、大変な勢いで貧乏になっているということだ。株の下落もひどい。2007年で株の下落率で言うと52カ国の下から2番目だったそう。大田大臣は、なぜ賃金が上がっていかないか不思議に思うと言っていたが、デフレでどんどんお金が消えて行っているのだから、賃金が上がるわけがない。
Photo

 丁度1年前の同じ勉強会で、筆者は大田大臣に質問した。内閣府の試算では、もしも景気対策を行ったら、景気は良くなり、デフレから脱却できることが分かっている。国の借金も増えるが、GDPの増加速度のようが早いので、少なくとも最初に1,2年は国の借金のGDP比は下がる。景気対策をやったほうがよいのではないかという質問だった。そのときの大田大臣の回答は、3年目以降債務のGDP比が増えるからという理由で景気対策を否定した。しかし、政府のモデルはまさに欺瞞的で、金利をわざと高くし、3年目以降、金利負担が増えて借金のGDP比を増やすようなトリックをしている。滝実衆議院議員が質問主意書でこのトリックを追求したから、大田大臣は、もうこの方法では逃げられないと観念し、今年は「景気対策は今は必要ない」などという暴言になった。しかし、景気対策によって、どれだけ日本経済がよくなるかを考えるとき、必要ないなど考えられないだろう。質問主意書に対する政府答弁では、「誤差が大きいので試算はあてにならない」などという暴言だったが、その使い物にならない試算を1月17日に発表して、それで増税・歳出削減を迫ろうというのだ。それによって景気は更に悪化し、経済が縮小し、生活が更に圧迫されるというのに。
  (小野盛司)

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2008年1月16日 (水)

保守とはなんぞや!

本物の左翼と本物の右翼は一致する。
この言葉は山崎行太郎氏のお言葉です。
この言葉を共産党に捧げたいのですが・・・
でも今のような体たらくではとてもじゃないが、捧げられません。
本物の左翼が躍進して活躍すればするほど、本物の右翼も光り輝き、
伝統保守に光が差すのです。

 上は読者のとおりすがりさんの言葉であるが、現今思想界の実態を端的に言い表していると思う。右翼と左翼には拮抗関係があって、互いの衝突や価値観の突合せによって保守が深化するということはあると思う。しかし、左翼が席巻した戦後の長い期間を見ても、昨今の右系の粗暴な愛国論を見ても、世の中がどちらか一方に傾斜しすぎると言論界は閉塞してしまうようだ。だからと言って、左右の真ん中に中道という思想があると考えるのもむなしい幻想というものだ。左や右の概念は一見して相対的である。この概念を有効に思想世界に生かそうとするなら、思索に存在論的な問い詰めを文脈として据えなければならないだろう。文明の中においては、いきなり左か右かという単相的な価値次元しか想定しない思考実験は不毛である。イデオロギーという言葉の表層的な意味は、自己の立場や生き方を明確に規定する思想信条の確立された観念体系である。しかし、この観念に到達するには、然るべき存在論的思索を重ね、要不要の取捨選択の道程をたどった結果として見えてくる世界が必要だ。この思索過程で何を取り入れ、何を捨象するかという作業仮説を打ちたて、これを検証するということを延々と繰り返す。そしてようやく明瞭な思想世界が開示されてくる。最低限度、このように試行錯誤や作業仮説を繰り返して自己の世界観と整合させていく観念体系がイデオロギーだと私は思っている。

 これをありていに言うなら、他者に押し付けられた思想は、そのままでは自己の内面に同化しないということである。外側から来る観念体系は映像を観るように頭では理解できるが、そのままでは自己の深部で肉化されない。思想とは、すべからくこの自己の存在論的情熱によって内面の錬金術を施さなければ、決して肉化した観念体系にはならない。

 少し青臭いことを言ったが、たとえば我々は共産主義VS資本主義、アジア式クローニー資本主義VSグローバル・スタンダード、新自由主義VSケインズ主義など、さまざまな対局的な価値体系を比較検討して考察するが、おのれと対峙する価値観と衝突する時、相手の然るべき理論と文脈をある程度押さえていないと、言論戦の様相を呈しない場合が多い。だから左右の論争を行なう時に、相手陣営の内在的論理を把握していないと、思想戦そのものが成り立たず、手当たり次第に粗暴な括りこみに陥ってしまうのである。今のネット右翼はそういう意味で知的な練成も行なっていないし、論戦技術も持たない。今思えば、昔の左翼論陣は、知的誠実さにおいても優れた論客がたくさんいたように思う。彼らが言論界を台頭していた時、彼らの知的誠実さとキャパシタンスが言論空間の自由度を高めていたことは否定しがたい。

 しかし、“本物の左翼勢力”が駆逐されて大人しくなった今、言論界を席巻しているのは無知蒙昧のにわか成金ならぬ、にわか右翼である。彼らの知的不誠実さ、許容性の狭隘さが現代論壇を不毛の荒野にしているように思える。そういう意味で、私もネット右翼型思想の頽廃と粗暴性に憂慮の念を持つ。なぜこういうことを言うかと言えば、保守系と称する似非保守論陣が今の言論界を駆逐して、正当で真摯な言論が出にくくなっているからだ。似非保守の使う単線的な左右次元での言論展開は、思想本来の内面性も、熾烈な言論戦場における闘争性も持たない。そこにあるのは平板で生命力の枯渇した教条主義である。現代日本における似非保守とは親米保守と言われる者たちである。彼らの根底にある保守価値とは、アメリカの価値観や文明観を無思慮に全肯定し、日米の相関性の中だけで日本のスタンスや在り方を考えることである。少なくとも先人たちは明治維新前後、親欧米派にも、親シナ派にも、“和魂洋才”、“和魂漢才”を弁えた思想態度があった。しかし、戦後民主主義に取り込まれ、アメリカ型文明観しか念頭にないやからは、“米魂米才”という、肇国以来、大和民族としての最低レベルの精神性を持つに至った。ありていに言うならばアングロサクソンへの隷従である。

 この代表格をわかりやすく言うなら、小泉純一郎氏、竹中平蔵氏、本間正明氏、木村剛氏、宮内義彦氏、武部勤氏、片山さつき氏など武部氏の傘下にいる諸々の小泉チルドレンと言われる人々であろう。彼らに代表されるイデオロギーとは、右でも左でもなく、米国隷従の無国籍思想である。強いて言えば、これはフリードマンらが敷いた米国型新自由主義というイデオロギーである。彼らは日本思想の範疇とはおよそかけ離れ、すでに日本的自己同一性を欠いた無国籍存在である。日本人は、これらの無国籍人たちに日本の舵取りを任せてしまい、国の根幹を滅茶苦茶に改変してしまった。これは日本という連続性から見れば、国体を危うくする不条理なできごとである。日本は一刻も早く現在の無国籍イデオロギーから脱却する必要がある。そのためには保守が本来の保守思想を回復し、似非保守の無国籍思想を放逐する必要がある。つまり、親米保守の台頭を許しておいてはならないということだ。

  冒頭に掲げたように、真の保守とは真の左翼と拮抗作用を持つから、反意的に言って、左翼論陣が元気を出さないと保守本来の生命力が賦活しないことは確かである。現今論壇の閉塞性を考えると、まだ左翼の元気だった一昔前のほうが自由闊達な論戦が花開いていたように思う。文藝評論家の山崎行太郎氏は『極左と極右は畢竟同じ世界に帰趨する』というようなことを以前書かれていたように思う。私もこれについてはかなり以前から感じており、世界観として捉えた場合、窮極の左翼と窮極の右翼が行き着く場所は案外一致しているのかもしれないと考えていた。ただし、それは文明論的帰趨を除いた展望の中でと言う意味である。最近とみに感じることは、一昔も二昔も前の時代の左翼全盛時代の言論界は、イデオロギー論争も知的な活気があり、それなりに言論の自由は担保されていた感がある。ところが、平成の今日、言論界は何と言うか、どんづまりの閉塞状況に置かれているように見える。

 特にネット右翼と言われるものが左翼系の言論掲示板などをこれ見よがしに潰し歩いた辺りからその傾向は顕著になったようだ。自分たちは思想的な優位性を持つと思い込み、どこからか借りてきたようなその定型的、硬直的、痴呆的、粗暴な言論がのさばり始めてから、ネットに限らず、出版メディアの言論空間も著しく狭隘な雰囲気を持ってきたように思う。山崎氏が嘲笑するところの、知性を感じられないネット右翼の問題は、充分な論理的構築力を持たず、皮相的なドグマで左翼に天誅を下す粗暴性に収斂していることにある。こういう類の粗暴性は何物をも産まず、言論状況を閉塞させるだけである。つまり、右系と称していても、その未成熟さは伝統的価値観とは異質な外部価値観として表れていて、およそ保守の信条とは相容れない形態を持つ。保守の日本式思想が様式や形の厳格性を求めるのであれば、ネット右翼の取っている行動様式は非日本的であり、その攻撃様態もアメリカ的であり、他者に対して全肯定か全否定かという盲目的な二分法に拘泥する。ここには日本人本来の和の統合様態は存在しない。言葉を換えて言えば、思想性がないのである。

 山崎氏がネット右翼言説を毛嫌いしているのはもっともなことだと思う。ネット右翼と位置付けられる彼らは、実態をはっきりと把握できない、共同幻想としての左翼を観念論的に弾劾し、その言論弾劾には哲学も、彼ら個人が内的に練り上げて深化した思想性も絶無であり、短兵急に左か右かという二分的なカテゴライズを行なう。まるでそうしなければ自分自身が保てないかのような焦りが見える。ここには品格も言論人の佇まいもない。そういう偏頗な言論空間には真摯な問題提起も解決の方向性も最初から見えない。まるで大道芸人が唱える紋切り型の大言壮語ばかりが目立つ。いま、保守や右系を自認する者には論理の生命力が欠けている。私が感じていることは、昨今の言論界に閉塞感を見ている人々の共通した思いかもしれない。昔のような生き生きした言論が死滅した状況が何に由来しているのかと考えると、それは一筋縄では行かないと思う。しかし、一つだけははっきりしていることは、現今の日本に親米の似非保守論陣が台頭してしまったからである。

 じつは“保守”という言葉には“構造改革”という言葉と同様な不明確性がある。保守という字義は、保つこと、守ることだが、ここには何を守り、何を保つのかという命題が重要になる。構造改革も何が構造の本質であるのかという話である。例えば千年の歴史を持つ国家があったとして、ある時、外国の干渉で革命が起きたとする。そうすると革命前の時代と革命後の時代では保守の意味がまったく違ってくる。革命以前は千年の伝統と文化の連続性を維持することを保守と認識し、革命後はそれ以降の国策や新機軸の考え方を保守と認識する。つまり同じ保守でも内実がまったく異なっているのである。今の親米保守はアメリカを全肯定する前提から出発し、アメリカが持つダブルスタンダードや覇権野望を敢えて無視する卑怯さがある。日本を一つの文明圏として自覚するなら、アメリカやシナの内包する野蛮性を反文明として位置づける視野を持つことこそが真性の保守というものではないのか。

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2008年1月13日 (日)

お金がなければ刷りなさい(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第五弾です)
http://tek.jp/p/

 日本中からお金が足りないという悲鳴が聞こえてくる。日本の一人当たりの名目GDPは急落し、18位まで落ちたことが繰り返し報道されている。このことは日本経済復活の会が昨年10月26日の朝日新聞の朝刊に1頁を使った意見広告を出した後、瞬く間に日本中に知れ渡るようになった。国は財政難で青息吐息だし、地方財政だって同じ。国民も平均給与は9年連続で減少。貯蓄を取り崩してやっと生活しているのが実情だ。企業も、お金を持っていない日本人を相手にしていたら商売できないから、海外に出て行く。

「お金がなければ刷りなさい。」

 これが、現代の管理通貨制度での、単純明快な解決法である。確かに金本位制の下では、通貨発行は政府の所有する金の量により制限され、生産力が増大してもお金を発行できず、需給のバランスが崩れ、デフレとなった。そこで世界各国が金本位制から離脱し、自由に通貨を発行できるようにした。だから日本以外の国はどんどん通貨を発行し、デフレにならず、国を豊かにしている。どうして日本だけが、経済成長に絶対必要不可欠な通貨発行を拒否して貧乏にならなければならないのか。

 昨日の新聞にも、アメリカのクリントン氏が7兆6000億円の景気対策を提案している。フランスのサルコジ大統領も2兆円の景気対策を実施している。2007年の名目成長率の見通しだが、フランスは4.1%、アメリカは4.7%で、日本の0.8%の5倍以上なのに、もっと成長率を上げて、国を豊かにしようとしている。一方で、日本は景気が極めて悪化しているのに、増税、歳出削減で、逆に日本を貧乏にしようとしている。

 図1に、世界のGDPに占める日本の割合を示した。デフレなのに緊縮財政をやっているお陰で、1994年に17.9%を占めていたのに、2006年は9.1%に下がり、2007年は7.9%にまで低下する見込みだ。すでに1980年のレベルを下回っている。このように急激に日本を貧乏にして、我々の次の世代に貧乏生活を強いてよいのだろうか。このグラフでもはっきり分かるのは、1998年から2000年にかけて、小渕内閣の景気対策で多少とも挽回できているということだ。彼は実質成長率がー1%だったものを3%にまで引き上げ、株価も4300円も上げて2万円台を回復していた。景気対策を続けていたら、今も日本は世界で最も豊かな国の一つであり続けていたに違いない。昭和恐慌のときの高橋是清蔵相の景気対策も大成功したのと同様だ。

 管理通貨制度で認められている通貨発行の仕組みは、まず日銀が市場から国債を買う。それと同額の国債を国が発行し、それを資金に景気対策をすること、つまり減税をし、医療、福祉、教育、公共投資等に国がお金を使う。これは新しく発行されたお金で行えば良く、返す必要はなく、国を豊かにするためのお金だ。確かに国債が国の借金というなら国の借金は増える。しかし、GDPはそれ以上増えるし、その借金の貸し主も国(日銀)である。国が国に金を貸し、そのお金で庶民の懐を暖めて国を豊かにする。世界中が認めているこの仕組みを、日本も認めてもよいのではないか。この管理通貨制度の仕組みを国民が理解することが、日本経済復活への唯一の道である。つまり借金というが、家計での借金とはまるで意味が違う借金であり、それに対する国民の理解こそが、日本経済を救うのである。

 お金が無くて、この厳しい国際競争を勝ち抜くのは無理だ。日本だけがお金がない状態に置かれている状況を直視していただきたい。これからは、原油などの資源の奪い合いが国際間で激化する。もし、このまま日本が貧乏になり続けたら、資源の取り合いにも負け、食料品の輸入さえもできなくなる。我々の次の世代のためにも、国を豊かにすることを国に求めていこうではないか。(小野盛司)

図1
Gdp


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911テロ自作自演疑惑、真相は?

読者の“とおりすがり”さんから、911テロ自作自演説の国会質疑に関して、興味深いコメントが寄せられたので掲載するとともに、私の感想も少し。

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「投稿 とおりすがり | 2008年1月13日 (日) 13時58分」

しかし共産党の姿勢が解せません。
「通称911テロ」はブッシュ共和党のレゾンデートルであると同時に小泉純一郎の存在意義でもあります。
つまり「通称911テロ」が自作自演である事が証明されればこの「二人」が今まで主張してきた事はは何もかも全て吹っ飛んでしまい、政治生命は勿論、社会生命も終わってしまうほどの最終兵器。
それなのに何故に共産党は沈黙するのであろうか?
確かに非常に危険なネタでもあり、斬り方を間違えれば陰謀論者扱いされかねません。
されど、それなりの斬り方があるはずです。
共産党の調査能力を持ってすれば、何らかの結果が出せるはず。
それなのに何故・・・
共産党よ、お前もか!?
の心境です。
本物の左翼と本物の右翼は一致する。
この言葉は山崎行太郎氏のお言葉です。
この言葉を共産党に捧げたいのですが・・・
でも今のような体たらくではとてもじゃないが、捧げられません。
本物の左翼が躍進して活躍すればするほど、本物の右翼も光り輝き、伝統保守に光が差すのです。
今の現状では偽右翼、偽保守、偽愛国者の「自民党清和会(小泉一派)」「民主党凌雲会(前原・長島一派)」のような売国奴が跋扈してしまうだけなのです。
本当に困ったものです。

〔追伸〕
共産党が偽左翼だから清和会や凌雲会のような偽右翼が魍魎跋扈するのでしょうか?

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 (管理人より)

 管理人の立場としては、ブッシュ・ネオコンの自作自演と称されるこの911同時多発テロについては、正直真相がわからないというのが事件当時からの感想だった。事件当時は日本でも自作自演説を唱えている人たちがいたことは確かである。ただ私も当初から、このできごとがアメリカの国際戦略と深く関わる謀略的な工作だったとすれば、アメリカが軍事的なイスラエル保護と同時に、石油や天然ガス等の地下エネルギー資源の権益確保を目的として、中東に軍事橋頭堡を築くための契機として利用することは充分にありうる事だと考えていた。英米が資源覇権主義を中東で展開するのはこれが初めてではない。こういう英米の権益進出の中、アルカィーダのようなイスラム過激派勢力が、世界貿易センタービルを西側資本主義社会の暴虐の象徴として破壊したという物語は非常に説得性があるので、それが現実に起きたということは世界趨勢から言って、いかにも納得しやすいできごとである。

 しかし、今、世界中でこの自作自演説が無視できないほど取り沙汰されるようになってきた中で、これを一概に電波妄想的陰謀説として片付けてもよいのだろうかという思いは強い。謀略説の主張の中には、気をつけて考察しなければならないものもあるような気がするが、少なくとも藤田幸久議員が主張する骨子は、一般的な常識から考えてけっして看過できるものではない。今、アメリカ国内でも、アメリカ型軍産コングロマリットを無条件に支えたブッシュ・ネオコン政権への戦争体質を厳しく批判するムードが高まっているようだ。加えて、ハリケーン・カトリーナで被災したニューオリンズが、アメリカの深刻な格差社会の現実を世界に露見したこともあって、アメリカ国内でも戦争経済志向に対する自己批判が出ている。実はこのアメリカの超格差社会の現実はイラク戦争へ出兵した低所得層の若い兵士の問題とも大いに関係がある。つまり、貧民街に暮らす若者が、兵役に付くしか選択肢のない中で外地に戦闘に出てアメリカの大義のために命を落とし、一生消えない負傷を身体に残す。しかし、アメリカ人は自国兵士の死傷もさることながら、今日のような情報網の発達した中で、無辜のイラク市民が米国兵の何十倍何百倍も死傷している現実を知り始めた。 そういう中で、アフガン侵攻やイラク侵攻の大義とははたして何かという話になってきているような気がする。

 大義などはアメリカにはない。目的があるならば、それはアメリカ国益と言うよりも、軍産複合体を牛耳る一部の金融国際資本家の飽くなき利益のためであろう。彼らはそのためなら自国民をも平然と犠牲にする冷酷非情の存在である。実はこういう反戦ムードの中で911の自作自演疑惑は拡大していったようである。ブッシュ・ネオコンを支援する背景を考えると食料メジャーや石油メジャーの巨大勢力が浮かんでくる。この延長上で米国産牛肉輸入問題も出ている。日本の小泉政権が歴代与党政権の中では国賊政権と言っていいように、ブッシュ政権も歴代アメリカ政権の中では一段と悪党色の濃いものである。この政権の非道性を考えると、WTCツインタワービルで、自国民や外国人を犠牲にしてまでも、イスラム諸国を敵視する破壊工作を行なう謀略を起こすことはまったく不思議ではないのである。従って世界の良識ある先進諸国はブッシュ・ネオコン政権の911テロに関する謀略疑惑を徹底的に追求するべきだと思う。もちろん、我が国は小泉純一郎氏がブッシュに真っ先に阿諛追従したという負い目はあるが、だからこそ、この疑惑を率先して追及して欲しいと願う。

 我が国は大東亜戦争の後遺症が東京裁判によって強く国民の精神を蝕んでいる。この中心的トラウマは、日本が真珠湾攻撃を行なった加害者であったという後悔と、南京大虐殺を行なった民族であるという二つの贖罪史観によって成り立っている。しかし真珠湾はルーズベルトの姦計で日本を開戦に誘導したことがわかっている。また南京大虐殺は敗戦直後、占領軍が日本民族は先天的に悪玉だという洗脳を施すためにアメリカが捏造した偽装の史実である。アメリカという国の国際行動を過去に遡って冷静に眺める時、歴史の節目で悪質な謀略を行なうことは目に見えているのである。歴史をきちんと眺める目を持った時、911テロ疑惑と、ルーズベルトの誘い込みが絡んだ真珠湾攻撃はよく似た位相を持つと考えるのは私だけであろうか。

 しかし、上のとおりすがりさんのコメントにあるように、日本共産党はこれについてなぜ沈黙しているのだろうか。あの玉石混交不統一バラバラ政党の民主党が、911自作自演説を国会に持ち込んだ事実は、日本共産党にとっては『くそ~!してやられたり!!』なのではないのか。とおりすがりさんが言うように、この問題は小泉氏とブッシュのレゾンデートルが崩壊する一大事を秘めているのである。おそらく、これは謀略の仕掛けがあまりにも巨大すぎて現実感が稀薄なのかもしれない。しかし、アメリカという国はそういうことができるパワーを秘めている国だ。


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911疑惑に関する国会質疑(3/3)

【9.11疑惑部分 その3】

○藤田議員:
 あの、高村大臣すみません。これは金融の専門家であります浅尾さんにちょっとお聞きしたいと思うのですが・・・。プットオプション、これは相当の規模で情報を持って、そして色々な意味での経験がある人々が、かなり事前情報を持って動かなければこういった事は成立し得ない、そしてこの事がアフガニスタン、パキスタンの国境にいる様なアルカイダのテロ組織の様な(私はどの程度の組織か分かりませんが)、これだけの規模の事をやるという事が、それだけの組織ネットワーク等で出来るものか?いずれにしてもたいへんな規模のオペレーションではないかと、事の意味について金融出身の浅尾委員にお伺いをしたいと思います。

○浅尾慶一郎議員(民主):
 ご質問でございますので・・・。プットオプションというものは、株をある一定の価格で売る権利を買う商品だという風に認識をいたしております。今のご質問の趣旨は、9.11の前に9.11以降に、そのユナイテッドないしアメリカンという航空会社の株価を、当然その事故が起きる事を誰も知らないわけですから、その前提で売る権利を買っていた者が何者かいて、そして9.11の事件があった後、ユナイテッドおよびアメリカンの株価が暴落をしたので、たいへんな利益をその段階であげる可能性があった、まあそういう取引があった、という事のご質問だと思いますので、そうしたオプションを、もし情報を持って買っている人がいたとすれば、これは当然の事ですけどインサイダー取引になると思いますし、たいへんな事だろうなあという風な認識を持ってます。

○藤田議員:
 総理、当時官房長官でいらっしゃいました。さきほどどなたか答弁されていました通り、多分今まで人類が経験した事がないような出来事だったんだろうと思います。そして色々な情報がその直後の数ヶ月とかという事ではなくて、むしろ最近のほうが情報が出てきている面がある。それが今ネット社会、映像社会において、こうした情報が開示をされてきている。
 しかし今となってみますと、そもそも二つの法案の原点でありますこのテロとの戦いの当時の情報そのものが、今日色々お話伺っておりましても、きちっと精査されて分析をされて調査をされて、それに基づいてアメリカを中心としたこのオペレーションに加わっている、あるいは犯罪であるというならば、犠牲者に対する捜査であり、あるいはその遺族に対する対応、そしてそういった事も含めた政府としての対応が私は取れているという風に思っておりません。
 今ある意味では幸い、復旧活動が止まっているわけですけれども、この原点を見直して、そもそもテロとの戦いというものを安易にアメリカ政府の、いわば間接情報だけで、あるいはそれを主にして参加をしているということについては、あまりにも犠牲が大き過ぎた。したがいまして、検証をしっかりやり直すと同時に、本当にこのテロとの戦いというものが本当の犠牲者が誰であって(私は世界の市民だろうと思っていますが)そして今日本においては、消えた年金とか、消えた薬害肝炎の記録という話になっておりますが、今日ここで私が申し上げた事実は、全部具体的な裏づけのある情報でございます。
 今日私がいくつか申し上げたのは【消えたブラックボックス】【消えた機体】そして【消えた残骸】そして、【消えた飛行機部隊】等でございますけれども、色々なニューヨークの破壊をされた建物の色々な器材も残骸もどんどん運ばれてなくなっているんですね。【消えた残骸】でもあるんです。ですから調査が出来なかったとFEMAまでも言っているわけです。
 したがいまして、その検証をしていただいて、本当のテロとの戦いというものが何であるかということをしっかり見直して再構築をしていく事が、今石破長官頷いて(言い直して)すみません、大臣が今頷いておられますけれども(笑)、私は非常に重要な点ではないかと思っておりますけれども・・・。
 そういう意味での総理であり、当時の官房長官でもあられた福田総理。ちょっとこちらをご覧いただきたいと思いますが、当時やっぱり色々おかしい事があるね、という風に実は当時の官房長官として福田さんがお感じになっていたという話を聞いたことがあるんですが、そう思われませんか?すみません、委員長。時間がないので総理お願いします。

○福田総理:
 あの、私はそういった事は言ったことはありません(笑)。

○藤田議員:
 委員長。あと2分しかないので・・・。総理大臣、したがいまして、この原点の確認とそれに基づいたテロとの戦いにそもそも参加をすることの是非、方法、その基本的な問題について私は今日色々と質問をしてまいりましたけれども、その全体についての今後の本当にテロとの戦いというものに参加をする根拠があるのか?そして必要があるのか?そして本当にテロを根絶するためにはどんな形の対応をしていったら良いのか?についてお伺いをしたいと思います。

○福田総理:
 我が国として、米国が明らかにした情報を含む各種情報を総合的に判断して「9.11同時多発テロはアルカイダにより実行されたもの」と、こういう判断をいたしております。現時点でなすべきは、そのようなアルカイダ等によるテロを根絶する事でございまして、国際社会はそのために結束してテロとの戦いに努力を傾注している、そういう事ですね。
 そこで昨年末に民主党が提出した法案も-これは安保理決議16595をふまえているという事になっておりますけれども-、16595はアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃に関連して採択された決議なんですね。ですから御党においても、そういう認識を持ってこの法案を提出されたという風に理解をしておりますが、そういう事でございますよね?

○藤田議員:
 国連決議以上に、アメリカの情報においてさきほどの遺体確認、それからテロとの戦い等の展開をしてこられたわけですから、したがってその参加自体の意味について聞いているわけで、そしてその根絶のためには、今仰っていただいた様な本当にアフガニスタンの国民のためになるようなテロ根絶の法案が必要だろうという観点かと思っておりますので。
 最後にそのテロとの戦いと、そしてこのテロとの根絶のためのこの法案であるという中身について、犬塚さんの方から今日の流れを含めまして答弁をいただきたいと思います。
(文章化ここまで)

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2008年1月12日 (土)

911疑惑に関する国会質疑(2/3)

【9.11疑惑部分 その2】

○藤田議員:
 時間の関係でもう一つ紹介したいのはニューヨークの事例でございますけれども、このパネルをやはりご覧いただきたいと思います。
 一枚目が良く出てくる写真(注:ビル崩壊時の遠景)でございますけれども、この二つのタワーがこのハイジャックされた飛行機に突っ込まれたと。それで突っ込まれた直後なら分かるんですけれど、時間が経ってから相当の距離に建物の物体が飛来しています。150メートルとか。爆発下のように色々なものが材質が飛んでいる映像でございます。
 その次の写真(注:ツインタワー付近空撮)はたまたま本から持ってきたのですが、つまりこの二つのタワーからこれだけ遠い所まで飛んでいるんです。すごい距離を飛んでいるんです、この色々な残骸が。
 それから三つ目の写真(注:ビデオ静止画)ですけれども、実はこれ、実際に救助活動に当たった消防士がビデオ上で実際に生に発言をしている部分(今日は映像が使えないので写真)でございますけれども、これは翻訳したものですけれども「まるで誰かがこのビルを解体するために計画的に爆発させたようだ」と消防士が言ってます。
 それからその次の同じ消防士の方々(注:他の静止画)ですけれど、ボン!ボン!ボン!と次々と爆発していったという証言をしております。
 それから、実は日本政府も関係して国土交通省と消防庁の方々が参加をして調査団が行っております。調査団に参加をしたある女性の方々が、日本人の女性にインタビューをいたしまして、その女性の方が「自分が逃げて行く段階において爆発があった」いう事を仰っておられるんですね。これが消防庁および国土交通省が参加をした報告書に出ているんです。

 もう一つ次の写真(注:崩壊前の第七ビル遠景)を見ていただきたいと思います。これは良くツインタワーと言われてますように、南のタワーと北のタワーのみが飛行機が突っ込んで崩壊したと言われておりますが、その第一、第二のタワーからワンブロック離れた所に、この第七ビルというのがございます。これは先ほどお見せした地図に出ていますけれど、この第七ビルが飛行機が突っ込んでから(現地時間で朝です)七時間経った夕方、崩壊しているんですね。崩壊したというのは映像を見ていただければ非常にはっきりしているのですが、この写真のビルが四十数階ですけれど、ご覧ください、こういう形で落ちているんです。5テン何秒かで落ちているんです。5、6秒で。つまり真空において自然落下した位のスピードでこの写真の建物がストーン!と。歌舞伎の迫り舞台を迫りが落ちるように、ストーン!と落ちているんです。しかもこの原型のまま崩れずに、対称性を持ったままストーンと落ちているんです。飛行機は突っ込んでないんですよ?“火災”によって7時間後にこんなビルがストーン!と落ちているという事があり得るかと。
 これは「9.11コミッションレポート」(注:資料1)というアメリカ政府議会が作ったレポートですけれども(これは2004年7月に出来たレポートです)、このレポートになんと今私が申しましたその第七ビルの崩壊の事が触れられていないのです。この中に一切!
 それからFEMAという危機管理の専門の団体がありますが、FEMAも調査をしましたが、そのFEMAの調査のレポートにおいても、この第七ビルについて説明がされてないのです。これは色々な方々が、政府の、あるいはこの議会のレポートも含めまして、この第七ビルというのは一番典型でございますが、これはおかしいだろうと。やはり、多くの犠牲も出た事でございますから調査をすべきだという風に言われているわけでございます。

 それからもう一つ、時間の関係でプットオプションについて申し上げたいと思います。
 実はこの9.11の直前に、つまり9月の6、7、8、9のウィークデーでございますけれども、このハイジャックされたUAという航空機の会社とアメリカン航空、それからこのツインタワーの大きなテナントでありますメリルリンチ、それからもう一つの会社に対してプットオプションがかけられている。それでプットオプションというのは後で浅尾さんにお聞きしたいと思いますけれど、要するにインサイダー情報を得て、このUAの株、それからAAの株が下がる事によってぼろ儲けをしているんです。しかも、そのぼろ儲けをして、そういう事があったということについて当時のドイツの連銀総裁-日銀総裁にあたる方ですが-エルンスト・ヴェルテケという方が、「ニューヨークとワシントンの攻撃に関わった人々が、欧州の証券市場のテロ・インサイダー取引に関わって利益を得ようとした多くの事実が明らかになっている。直前に航空会社、保険会社、商社や金や石油市場の不可解な売買が行われている。」という、連邦銀行の総裁がここまで仰っているんです。
 そこで財務大臣すみません、お待たせしました。こういうプットオプションが、こういう事が行われたという事は、たいへん重大な事実でございまして、こういった事が行われたという事について、まあ当時担当でなかったかもしれませんけれども、政府として情報をお持ちであったのか、あるいはこういう事が起こったという事に対してどういう風にお考えか、という事を額賀財務大臣にお聞きしたいと思います。

○額賀財務大臣:

 私は当時役職には就いておりませんでしたけれども、IPUの集まりがあってアフリカのブルキナファソにいてこの事件を知りまして、急遽アメリカに向かおうと思っていたけれども、パリまで来たら飛行機が飛ばないという事で、事実については後で報道で知ったのみでございます。
 今の先生がご指摘の点につきましては、報道があったことは承知をいたしております。その上で政府といたしましては、金融機関に対しまして本人確認の義務化、それから疑わしい取引きの届け出の義務化、それからテロ集団に対する資金供与は犯罪である、というような事をきちっと決めまして、国際金融システムが悪用されるような事があってはならないという対応を取らせていただいたわけでございます。
 いずれにいたしましても、テロは卑劣な行為でありまして、断固として非難されなければならないわけでございます。こうしたテロを防止していくためには、一国だけでは出来ませんので、国際社会がお互いに連携をして対応していかなければならない、という風に思っております。
(つづく)

資料
1.The 9-11 Commission Report
参考サイト
911 In Plane Site 公式サイト


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2008年1月11日 (金)

911疑惑に関する国会質疑(1/3)

1月10日(木)参議院・外交防衛委員会(第十八回)、
民主党新緑風会、藤田幸久議員による、ニューヨーク911同時テロ事件に関する質疑応答部分。(参院インターネット審議中継ビデオライブラリを文章化)

【9.11疑惑部分 その1】

○藤田議員:    
 限られた時間の中で、私は今日あえて9.11について・・・あまりにも世界中で色々な疑問の情報が実は出されておられる。世界の有力な指導者のほうからも出されている。そんな中で、私は当然犠牲者に対してやっぱり日本政府が責任を取るのであるならば、そうした日本政府が断定したアルカイダであるということについて、もしそれに対して疑念が出ているのであるならば、しっかり否定をし、そしてこのテロとの戦いの原点についての確認を取るということが私は重要ではないかとそういう観点から、いくつか質問させていただきます。

 まず、ペンタゴンでございますけれども、ちょっとパネルをご覧いただき、そして閣僚の皆さんにはこの写真をお配りしておりますので、ご覧いただきたいと思います。
 一枚目は全部色々な映像その他が、具体的なエビデンスとして残っておりますので、それを集めたものでございます。これ(注:ボーイング757型機がペンタゴンに突入する前を合成)だけはたまたま合成したものでありますけれど、要するにペンタゴンにこれだけの幅の飛行機が突っ込んでいます。それで757というのはかなり大型の飛行機です。幅が38メートル。ところが実際ご覧になって判るように、この飛行機が突入したにもかかわらず、これだけの穴しか実は開いていない。これだけの幅の穴が開いていないと。

 それと二枚目(注:757突入後の建物正面)ですね。これは火災が起きたということで、ワシントンの消防士が消火活動にあたっておりますけれども、これを見てもとてもとてもこれだけの幅、それから尾翼の高さに当たるような建物が破壊をされていない。と同時にこの手前の芝生をご覧いただきたいと思いますが、芝生にも全然残骸がないんです。

 それから三枚目(注:消火中の正面)です。これもやはり同じペンタゴンですけども、これは上に書いてありますけれど、屋根がそのまま残っているという風に、このアメリカのテレビ局で字幕が入っています。つまり、飛行機が突入したにもかかわらず、ほとんどそれだけの大きさの傷が落ちていないわけですね。

 それから次の写真(注:突入後の穴のアップ)をご覧いただきたいと思います。これは穴が開いておりますけれども、これは石破大臣が良くご存知の通り、ペンタゴンというのは非常に強固な幾重にも五角形になっている建物ですけれども、それがこれを貫通しているんです。ご承知の通り、飛行機というのは出来るだけ機体を軽くするために、軽い材質で出来ているようなものが、こんなに穴を開けられるはずがない、というのが具体的にこのペンタゴンの物証として判る事です。

 それからこれは次の写真(注:ペンタゴン上空に757が飛行してきた様子を図解)をご覧いただきたいと思いますが、飛行機がどうやって突っ込んだかという事についての写真でございますけれども、つまり上の方から飛行してきた飛行機が曲芸飛行の様にUターンをして、しかも国防長官なんかが居ない反対側にわざわざ回り込んで、一番強化をしておりましたこの建物に突っ込んだ、というような事があるんですね。
 これはいくつかお配りした資料の中で、この9.11に疑問を呈する発言という中の5頁の真ん中辺に、このアメリカ軍の空軍対応した方の発言が載っておりますけれども、この人が言っておりますけれど、「私自身、この9.11に関わった二つの飛行機を操縦した事がある。このテロリストと呼ばれている人が、いきなり初めてこの757の操縦席に座って、機体を垂直に操縦する事は可能とは思えない。そしてこういうような曲芸的な飛行が出来るはずがない」という風に言っています。

 それからご承知の通り、この4機の飛行機のフライトレコーダーもほとんど出てきていない。それからペンタゴンには監視カメラが八十何台ありますけれども、5台の監視カメラの映像が出てきただけで、ほとんど出てきていない。それでとにかく今もご覧になっていただいた様に、一枚目は合成したものですけども、今までペンタゴンに突っ込んだ飛行機の映像・機体・残骸等々は、一切我々の眼に留まったことがないというおかしな状況なんですね。

 それで大臣、市谷に新しい防衛省がございますけれど、首都において、しかもニューヨークにおいて飛行機が最初に突入してから一時間半ぐらい経ってからペンタゴンに飛行機が飛んでいるわけですね。その間、その首都の防衛省に飛行機が突っ込むという事があり得るんだろうか。そして、実際に今申し上げたような状況が起こっているということについて、たいへん航空機にお詳しい大臣でございますので、こういった事実についてどうお考えになるのか。それからこういった事が日本においてもあり得るとすれば、あるいは日本が同盟としておりますアメリカの防空体制がこういう事であるという事も含めまして、今申し上げたような事例について防衛大臣から見解をお聞きしたいと思います。

○石破防衛大臣:
 ご通告をいただいておりませんのでその場の答弁で恐縮ですが、やはり合衆国としても相当に意表を突かれたという事だと承知をいたしております。その後どうするようになったかと言えば、こういう事態が生起した時に空軍が上がる、そしてまたそれを打ち落とすことあり得べしというような対応が、この後に定められたという風に承知をいたしております。

 これがドイツにおきましては憲法裁判所において、そのような事は違憲であるという旨の判じがなされたという風に承知をいたしております。じゃあ日本ではどうなのだという事でございますが、それはそのような飛行機がどの国籍なのか、それを乗っ取って操縦しているものが何なのか、その意図が何であるのかという事によって、対応する法制が異なるのだと思っております。これが日本国籍の飛行機でなければ、領空侵犯阻止というのは外国の航空機という事に定められておりますから、これは該当しないのだろう。しかしながら単に高度をどんどん下げておるという事だけで、我が国に対する急迫性の武力行為というような法的な評価が出来るかと言えば、それは困難な場合があるかもしれない。だとすればぎりぎり考えると、航空自衛隊に対して治安出動を命令するという事しか今の法体系では難しかろう。さすれば閣議決定等等の時間的な余裕をどう見るかという議論、そして航空機の多くの、それこそ無辜の民が乗っておられるわけですから、その場合にどうするのかという議論は、やはり私はしておかねばならんのではないかと思います。

 昔昔のことですが、児玉誉士夫という人の家にセスナ機が突っ込んだという事がありました。あるいは全日空の函館行きの飛行機が乗っ取られて、パイロットが殺害されたという事件もありました。私どもは色々な事に対して、そういう事がないのが一番良いのですが、色々な法整備というものは、そして運用というものは考えておかねばならないし、もちろん国会の議論を十分たまわればならないという風に考えております。
(つづく)

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ネオコン・ブッシュ、その偽装疑惑の頂点としての911

 1月10日、参院外交防衛委員会で給油新法が審議され、民主党など反対多数で否決された。お昼に近い午後だったと思うが、私はNHKで放送していたこの審議をたまたま途中から見はじめたが、何の気なく聞いていてびっくりした。何と、民主党新緑風会の藤田幸久議員がニューヨークの9.11テロ事件の謀略性に関する質問を行なっていた。

 詳しくは聞き取れなかったが、WTCツインタワービルの近くのビル(崩壊した)の建設に関してインサイダー取引の事実があったことを、ドイツの連銀筋が把握していたとか。プットオプションが働いていたと。つまり、テロ直前にそういう動きがあったことをドイツ政府筋が掴んでいたことを言っていた。藤田議員は大きな二枚のパネルを用意していて、ビル崩壊という事象の不自然さも指摘していた。たとえば、ビル崩壊の様子は、建物が傾かずに対称的な形状のままストンと垂直に落下していることや、ペンタゴンに飛行機が突っ込んだあとの破壊の穴が、不自然に小さすぎることをどう思うかなども質問していた。これに対し、政府側答弁は“西側自由陣営対テロとの対峙”という当たり障りのない受け答えに終始しており、テロそのものの謀略性を問いかける質問は完全に無視していた。

 これを偶然に見ていた私は、この話はリチャード・コシミズさん、ベンジャミン・フルフォードさん、マッド・アマノさん、きくちゆみさんなどが語っていた、ブッシュJr・ネオコン政権による謀略による偽装テロ事件のことではないかとわが耳を疑った。まさか、日本の国会審議でこれが出てくるものとは思っていなかったからである。そこで私はリチャード・コシミズさんにメールでその国会審議の様子を知らせた。すると、コシミズさんから、すぐに私に返事があり、下記のような見解をいただいた。
http://richardkoshimizu.at.webry.info/200801/article_12.html

藤田議員のバックグラウンドはよくわかりませんが、衆院選の東京選挙区で、公明党の太田にも勝った事のある正統派?の民主党議員であるかと思います。「反ロシア」的な部分がちょっと気になりますが。

民主党の中にも、こういったユダヤ権力の意にそわない議員がまだまだいるわけで、その意味で、小沢は大連立を仕掛けたのであると思います。つまり、大連立に従わない民主党議員を追い出して、党内を「浄化」し、ロックフェラー様のための大政翼賛政権を作ろうとしたのではないでしょうか?

911疑惑追及が、今後も国会でなされることを希望しますが、恐らく、小沢執行部がブレーキを掛けるでしょう。ユダヤ権力に直結した福田統一教会内閣が、総論否定に徹して、細部への言及を避けたのは当然であると思います。

 あれから一日が経過しているが、メディアでこの質疑応答を紹介しているのは自分では見つけられなかった。これをきちんと取り上げて伝えているメディアをご存知の方がいたら教えていただきたい。コシミズさんはブログにメディアはこれを黙殺するだろうと書かれていたが、まさにその通りのことが起きているようだ。理由は明白であろう。911テロがネオコン政権による偽装事件だったとすれば、アメリカは世界を欺いたことになり、ブッシュ・ネオコンのイラク開戦にいち早く賛同の意を表した小泉政権の責任が問われるからである。小泉構造改革を継承する福田政権が、国会でこの質疑に応答した場合、藤田議員のこの質問は、政権の存立基盤を根底からぐらつかせる性格を秘めているからだ。従って、政府側はいっさい反応せずに黙殺を決め込んでいるのだろう。

 私はブッシュ・ネオコンがあの911の直後に、異常な憎悪と怒りを喚起するために、アフガン侵攻の作戦名を“無限の正義作戦 (OIJ: Operation Infinite Justice)”と名づけて怒り狂っていたブッシュJrの顔を思い出す。その時、アメリカの独善性に対して心底腹を立てた記憶がある。大体、アメリカが何の権威を以って“無限の正義”などと言うのか、アメリカのどこがそんなにパーフェクトなんだというのが率直な思いであった。これはWASP、つまりアメリカ・キリスト教白人層の思い上がり以外の何物でもないと思った。地球人類で自分たちだけが正しいのだという傲慢性には辟易する以外にない。インディアンを虐殺し、他国へ原爆を投下したお国柄である。無限の正義を唱えるあつかましさは、まさに神への冒涜であろう。この作戦名は他の連合諸国に評判が悪く、わずか一日ぐらいで“不朽の自由作戦”と変えられた。

 世界史的に観た場合、911テロが中東覇権を念頭に置いたアメリカのやらせだとすれば、このテロ事件は世界を欺く非常に悪質な大偽装事件だろう。だからこそ、日本は同盟国として、この事件の真実を問いかける義務があると思う。ところが小泉氏はブッシュ夫妻の前でプレスリーの馬鹿踊りを行い、従米ポチの儀式的な誓いを最も恥ずかしい形で行なった。国家の品格以前の恥さらしである。ネオコンの覇権主義に追従した小泉政権は国会で国民の弾劾を受けるべきである。

 ※尚、昨日の該当箇所に関し、藤田幸久議員の質疑応答部分は、今友人が動画を書き起こしているので出来上がったら公開する予定です。

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2008年1月10日 (木)

日本を貧乏にする政策にNOと言おう(小野盛司)

(※日本経済復活の会  小野盛司会長の記事、第四弾です)

(2008年1月10日のJapan Timesの15頁に日本経済復活の会が紹介されています)

 内閣府は、世界GDPに占める日本の割合が、平成6年には17.9%であったが、平成18年には9.1%まで下がったと発表した。平成19年には更に7.9%に下がるとの予測である。一人当たりのGDPもかつて世界一だったものが平成18年には18位にまで下がった(その後、ルクセンブルグがGDPを上方修正したので、内閣府は、「かつて世界二位だった」と修正して発表)。恐ろしい速度で日本が貧乏になっている。理由は簡単だ。政府の答弁書で認めているように、デフレを放置しているために、市中からどんどんお金が消えていって、日本国民全体が急速に貧乏になっているのだ。

 デフレは怖い。昭和恐慌のときもそうだったし、世界恐慌のときのアメリカもそうだった。デフレのとき、国の借金を返そうとして増税や財政削減をする。それにより政府は借金が返せると勘違いしているのだが、実はそうすることによって、市中からお金を吸い上げてしまい、経済を縮小させてしまう。縮小した経済から、税収は増えず、ますます財政は悪化した。昭和恐慌や世界恐慌が幸運だったのは、経済の悪化が余りに急激に起きたので、国民の猛反発を買い、蔵相は暗殺され、政府は大規模な景気対策をやらざるを得なくなり、その結果経済は正常に戻ることが出来たことだ。これに対し、現在の日本の不幸は、ゆるやかなデフレのために、国民が長期間じっと耐えているために、その間にどんどん日本が貧乏になっている。デフレ脱却の唯一の方法は、減税や歳出拡大により、適切な量のお金を市中に流すことだが、このような政策の大転換は政治家にとって極めて大きな決断が必要となり、国民的合意が必要となる。

 国民的合意を得る最良の手段は、計量経済学による徹底した分析を行い、デフレ下で行う景気対策が日本を豊かにし、財政も改善することを疑いの余地もないほどに完璧に示すことだ。すでにその分析は多く行われており、いずれもデフレの時の適切な規模の景気対策が素晴らしい効果を発揮し、日本が一気に豊かになり財政も健全化することが示されている。

(下記リンクは参照ページです)

小野盛司 大西昭 「2005年度は減税すべきか、増税すべきか」

宍戸駿太郎 「日本経済復活の政策シナリオ」

小野盛司 「財政拡大で財政が健全化する!」

 皆さんは、減税や歳出拡大という景気対策が悪いことだと教えられていないだろうか。これは財務省にだまされているのである。『景気対策をやっても、景気はよくならない。国の借金が増えるだけ。』というのが、増税をし、歳出削減をしたくてたまらない財務省のだましのテクニックだ。財務省主導で行われた内閣府の試算では、景気対策で景気は良く成らず、借金も増えるだけの結果が出てるに違いないと思っていないだろうか。以前に書いたように、確かに、内閣府の経済モデルを使った試算は偽装なのは明らかだ。デフレ脱却のスピードが現実の数倍に設定してあるという、全く、人を馬鹿にしたデタラメなものだ。しかし、さすがに、無茶苦茶の経済モデルは作れない。

 内閣府の経済モデルに関して滝実衆議院議員の質問と、安倍総理の平成十九年二月二十三日の答弁を紹介しよう。

●質問
今回の新中期方針の前身である「構造改革と経済財政の中期展望―二〇〇五年度改定」(以下「改革と展望」という。)は経済モデルによるシミュレーションを公表している。それによると新規国債発行額を五兆円増やし、それを所得税減税または公共投資を増額するような景気刺激策をとれば、成長は加速され、デフレ脱却を助け、少なくとも最初の一~二年度には債務のGDP比を減らして財政再建に寄与させることができると結論付けている。問題は三年目以降で債務のGDP比が増える可能性があるということか。

●答弁
個人所得税を継続的に減税し、又は公共投資を継続的に増額するような景気刺激策を行った場合について、一定の仮定の下、これらの乗数表を用いて計算すると、御指摘のように、公債等残高の国内総生産比率は、当初の一年目及び二年目は低下するが、三年目以降上昇すると考えられ、中期的にみて財政健全化に寄与しない可能性があることが示されている。

 つまり、政府は滝議員の指摘を、ほぼ認めている。
『減税や財政拡大をすれば、経済成長は加速され、デフレから脱却できるし、少なくとも最初に1,2年は国の借金のGDP比は減って、国の借金は軽くなる。』ということには、政府も財務省も内閣府も全く異論が無いのである!!この事実を国民は気付いていない。要するに景気対策をやれば、デフレは脱却できるし、経済成長は加速され国は豊かになることには、政府を含め、誰も異論はないということである。

 国民は国の借金が大変だから、景気対策はできないと教えられている(だまされているというべきだろう)。しかし、安倍首相の答弁にあるように、景気対策をやれば、GDPが増えるために、少なくとも最初の1,2年は国の借金のGDP比でみれば、減るのだ。つまりGDPの増加率のほうが、借金の増加率より大きい。企業を考えても、その企業が借金を増やしたとしても、企業の売り上げや利益の伸びのほうが大きければ、何の心配もないのは明らかだろう。景気対策をやっても借金は増えるだけというのは、財務省の「国民をだますための論理」なのだ。彼らは、景気対策をやれば、国は豊かになり、少なくとも最初の1,2年は借金の増大以上の速度でGDPが伸びることを知っている。

 しかし、積極財政で財政が健全化することを認めれば、増税ができなくなるから、必死で考え出した、財務省のだましのテクニックは、これからだ。3年目以降、財務のGDP比が逆に増えてくるという馬鹿な論理を持ち出した。こんな馬鹿な嘘にだまされてはいけない。嘘であることは具体的な数値を上げれば直ぐにばれてしまう。そこで、滝実議員は再質問をした。窮地に陥った政府は、平成十九年三月九日の安倍総理の答弁書で、何と内閣府の試算は誤差が大きくて使い物にならないのだという「論理」を持ち出した。まさに破れかぶれの論理で、この段階ですでに敗北を認めたわけだ。

●再質問
答弁書の上記モデルにおいて、増減税、公共投資の増減、短期金利の変動が経済財政に与える影響について、個別に試算結果が公表されている。そこで、例えばGDPの〇.五%だけ所得減税を行い、同時に〇.五%短期金利を引き下げる場合、景気が拡大し、デフレ脱却を助け、しかも債務のGDP比は三年以降も下がり続ける。これは、積極財政等が景気回復、デフレ脱却、債務のGDP比の削減の全てを同時に達成できることを示しており、このような景気刺激のための長期にわたる継続的な財政出動、金融政策こそが、高成長を最優先させる安倍内閣の経済政策に合致すると考えられるのではないか。

●答弁書
 御指摘の「経済財政モデル(第二次版)」(平成十八年二月内閣府公表) における乗数表は、あくまで計量経済モデルの特性を検討するために作成したものであり、また、計量経済モデルによる計算結果は、誤差を伴うため、相当の幅をもって解釈すべきものである。このため、現実の経済政策を行うに当たっては、計量経済モデルによる計算結果を参考としつつも、その時々の経済状況等を十分に踏まえて総合的に判断することが必要である。

 内閣府の試算は、民間のシンクタンクの試算と違い、誤差が大きすぎて使いものにならないのだという、政府の驚くべき発言だ。こんなボロボロの試算を政府が行っていては、国の経済はいつまでのよくならないのは明らかだ。それなら、内閣府のスタッフを総入れ替えして、優秀な人材を揃え、きちんと日本経済の立て直すための計量経済モデルを作るべきだろう。

 減税や歳出拡大をすれば、経済は活性化し、デフレ脱却ができ、国民は豊かになり、財政は健全化するという計量経済学の結論に対して、政府は全く反論できなかった。真実だから反論できるわけがない。今こそ国民は声を上げるべきだ。増税や歳出削減などの、日本を貧乏にする政策を止め、減税や歳出拡大で日本経済を復活せよと。豊かな日本を取り戻せよと。

 なお、上記のような政府の驚くべき答弁が信じられないと思う人は、衆議院のホームページを参照下さい。

http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_shitsumon.htm
第166回国会で「経済モデルによるシミュレーションに関する質問主意書」という質問主意書(全3回)で掲載されています。
 
   (小野盛司)

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2008年1月 7日 (月)

デフレ下で行う増税や歳出削減が、いかに馬鹿げているか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第三弾です)
 


 長引くデフレのお陰で、日本が急速に貧乏になりつつあることに気付いているだろうか。内閣府の発表によると、世界のGDPに占める日本の比率は1999年度の17%から2006年度9.1%に、つまり半分近くにまで下落した。かつて、世界一だった一人当たりの名目GDPが18位まで落ち込んだ。IMDの発表によれば、世界競争力は1989年から1993年まで5年連続で日本は世界一だったが、いまや24位まで落ちている。

 滝実衆議院議員は質問主意書で、日本経済のこのような没落の原因を質問した。政府の答弁は次の通りであった。

 『平成十年から平成十七年にかけて、世界の名目GDPに占める日本の比率が低下している主な要因としては、世界経済が順調に成長する中で、日本経済がデフレ状況にあったため、名目成長率が相対的に低かつたことなどが挙げられる。政府としては、これまで、各年度の「経済財政運営と構造改革に関する基本方針」や「構造改革と経済財政の中期展望」等に基づき、適切な経済財政運営に努めてきた。』

 要するに、デフレのために日本経済が没落したが、政府は「適切な」経済財政運営を行ったのだそうだ!?世界中でデフレに苦しんでいる国は日本だけだ。デフレでは、お金がブラックホールに吸い込まれるがごとく、どんどん消えていき、国がどんどん貧乏になる。なぜ、日本だけが貧乏にならなければならないのだろうか。

 金本位制の時代にはデフレになることがよくあった。世界大恐慌や昭和恐慌などが有名だ。兌換紙幣を発行し、貨幣をいつでも金と交換できる金本位制の下では、発行できる通貨の量が限られてしまう。通貨を発行し過ぎると、その通貨を交換しようとする人が増えて、政府の金を全部買い取られてしまうからだ。お金の量が増やせないときに、経済が拡大して生産力が増大すると、お金が足りなくなってデフレになる。折角、売る物が沢山あるのに、国民はお金を十分渡されていないから、物が余り、投げ売りが発生しデフレとなり、経済の発展が止まり国は貧乏になる。

 世界恐慌の際、早期に金本位制を採用した国の経済はデフレに陥り、金本位制を採用しなかった国、あるいは早期に金本位制から離脱した国の経済は比較的堅調な成長を維持したのである。日本は高橋是清蔵相の改革のお陰で、金本位制から離脱し、大規模な景気対策を行ったお陰で、いち早く景気回復をなしとげた。通貨管理制度は通貨を国が自由に発行できる制度で、これにより経済の限りない発展の道を開く改革であったと言える。経済発展のためには、通貨を徐々に増やしていかねばならないわけだから、この改革は極めて重要な改革だったし、毎年通貨を適量だけ発行し続けていけば、経済は発展し、国民は豊かになり、デフレ経済には絶対にならないのである。

 なぜ、日本だけがデフレになったのかと言えば、理由もなく通貨発行を拒否し、わざわざ国を貧乏にする道を選んだ唯一の愚かな国だからである。日本だけが、通貨管理制度を放棄し、旧態依然の金本位制まがいの制度に逆戻りしている。デフレになったら、通貨発行をしてデフレから脱却は簡単にできるのに、それを拒否してどんどん貧乏になっている。それを海外の識者は、あきれて見ているのが現状だ。

 ノーベル経済学賞をもらったスティグリッツ、クライン、サミュエルソンやバーナンキFRB議長など、経済学における世界トップのアドバイスは、日本に対し、通貨発行し、それを財源に減税や、医療・福祉・教育・公共投資など、国民に必要な政策に使いなさい。そうすれば、国も豊かになり、財政も健全化し、デフレも止まる。本当の意味の通貨管理制度に戻りなさいということだ。

 何がいけなかったのかと言えば、国債は国の借金であり、将来税金で返さなければならないものと説明したのが、実は通貨管理制度を放棄せよという説明になっているのだ。通貨を発行する仕組みは、国が国債を発行し、それが市中に流れ、それを日銀が買えば、その引き替えにお金が出ていく。つまり通貨を発行するには、国債を多く発行しなければならない。それが悪いことだとしてしまったら、通貨管理制度を拒否し、昔の金本位制のような通貨発行に制限が掛かる制度に逆戻りすることを意味する。経済拡大のためには、それに見合った通貨の量が必要であることは、世界中の人が理解しており、そのためには、発行する国債を増やしていく必要があることも理解しているのだが、日本だけは、国債は国の借金だからよくないものと勘違いしている。これでは日本だけが貧乏になっていくしかない。

 1930年、日本は金本位制に復帰した。それをきっかけに昭和恐慌と呼ばれるデフレを引き起こしたのは、浜口内閣であったが、当時の蔵相井上準之助は1929年9月に『国民経済の立直しと金解禁決行に就いて国民に訴う』において次のように書いている。「借金として歳出を図っているというような不健全なことを止めてしまって、借金もせずに、バランスを合わせて、この財政上の状態を立て直すつもりであります。」彼の均衡予算の考えは、景気を悪化させ、税収を落ち込ませ、それが財政を悪化させた。現在のデフレとそっくりの状態に陥った。

 それを救ったのが、1931年、犬養内閣で、高橋是清による大規模な景気対策であった。1933年には実質GDPの伸びは10.1%にも達し、世界における日本の輸出のシェアも1930年の2.7%から1935年には3.6%にまで上昇した。現在の日本でも日経新聞社の日本経済モデルによる試算では、大規模な景気対策を行えば同様な結果になることが分かっている。

 日本が果てしなく貧乏になる前に、計量経済学の分析を基に、しっかりとした経済対策を行うべきではないだろうか。(小野盛司)

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2008年1月 4日 (金)

国策パラダイムの転換と国策捜査

 2007年は“偽装”に明け暮れた年であった。耐震強度偽装は2005年の後半に発覚し、それ以来、食品や粉飾決算、年金のこと、さまざまなところで偽装事件が矢継ぎ早に起こっている。偽装の濫発は、社会のタガが緩んだと一言で言い切ってしまえばその通りなのであるが、深く考えると、日本の戦後体制そのものが一つの大きな偽装であったと言えなくもない。日本は大東亜戦争敗戦で東京裁判を甘受し、GHQの洗脳放送によって精神に偽装を施されたまま六十数年間を過ごした。そういう大きな枠で戦後日本の歩みを考察することは重要だと思う。昨今、さまざまなジャンルで頻発する“偽装”とは、きわめて悪質な社会的作為性のことである。偽装は戦後からそれなりにあったとは思うが、昨今のそれは桁違いに激化しており、より深刻な悪影響を社会に及ばしている。

 その根本的な理由を見出そうとすれば、それは倫理規範の崩壊(モラル・ハザード)にほかならない。これがなぜ起きたのかという説明は実は簡単なことだ。一言で言えば公的感覚の極限的鈍磨である。それはここ数年、国家を挙げて急激な伝統意識の破壊に向かったからだ。このために、尊属殺人やその他の異常な犯罪がうなぎ上りに頻発する事態に陥った。このモラルハザードの原因を歴史や経済から把握しようとすれば、ブログの一ページでは到底説明できない要因が輻輳しているが、実はこれをかなり明確に解き明かしている有識者がいる。その前に、小林よしのり氏やその他の多くの人たちが、戦後民主主義の価値相対主義、伝統意識の断裂性、共同体意識の溶解などを見事に説明している。私も基本的にはそういう見方に賛同する者だが、戦後日本の位相を左右思想の対置構造として見る見方とともに、もう一つは経済思想的に見る見方があることを最近知った。そしてそれは左翼右翼の両思想間の拮抗対立とは異なった思想的地平を持っている。そのことは、経済学博士の丹羽春喜先生の著書である『謀略の思想「反ケインズ」主義』(展転社)という著書に鮮明に描かれている。

 この本の内容については、あらためてブログで公開するつもりであるが、丹羽先生は戦後の日本経済を席巻した思潮は、マルクス主義陣営と新古典派の共闘関係であったと喝破している。今これらを詳しく説明する暇はないが、マルクス主義と新古典派(新自由主義)のタイアップという概念は、戦後的価値を分析する上で非常に重要だと思い至っている。つまり、冒頭で申し上げたように、昨今、ジャンルを横断して頻出する偽装事件の真因は、戦後民主主義と言われるものの枢要な部分を占めていると思うからである。新自由主義(ネオリベ)と言えば、その最も先鋭的な政策を強行した小泉政権を指弾せずにはいられない。今更説明するまでもなく、小泉・竹中構造改革のせいで、無辜の企業や国民がどれほど痛めつけられているか、自殺者は後を絶たない状況だ。その影響はいまだに苛烈に残存し続けている。わかりやすいところで言うなら、マルクス主義と新自由主義における同根の共通点は底知れぬニヒリズムである。新自由主義の思想的地平を極左急進的虚無主義と言ってしまえば、左翼思想の最も過激な形となってしまうが、新自由主義を包括的な意味で左翼と定義してしまえば、従来の単線的な左右思想の対置構造から抜け出ることは難しい。従って、新自由主義を独立した思想体系、すなわち「反ケインズ主義」思想と捉えた方が問題の本質が明確になると思われる。

 私個人はマルクスについては不勉強ではあるが、通俗的な説明にあるように、この思想体系が人類にとって全否定するべきもの、すべてが有害であるとは思っていない。これを一種の社会哲学としてみるなら、人類社会の構造を明晰に捉えていて、社会学的な思考方法にとっては有益な面がかなりあると思う。佐藤優氏もそうだが、明晰な思考体系を有する方々にはマルクスを深く勉強した人が多いことがそれを物語っている。佐藤氏の場合はキリスト教神学も学んだようだ。私のような浅学菲才が言うべきではないかもしれないが、聖書体系と、マルクス・ドグマは、神があるなしの違いで、世界観としては似通っているように思う。たとえば「共産党宣言」綱領で言う階級闘争史観や、革命は人類全体の解放を目指すという考え方は、新約聖書の贖罪の事跡を思わせるし、旧約聖書で繰り返し教訓的なモチーフとなって出てくるイスラエルとエジプトの霊的な対置は、共産主義で言うところのプロレタリアとブルジョアジーの関係を想起させる。従って、マルクス主義に浸透する底知れぬニヒリズムは神の不在、すなわち究極の唯物史観である。

 同様に新自由主義にも底知れぬニヒリズムが存在し、そこには虚無的な無政府主義の実現に直結する衝動が起こる。いわゆる『小さな政府』論は効率の面や透明性の面で肯定的に使われる場合が多いが、新自由主義の動力学では大多数の国民を有する国家の否定につながり、国家もどきの枠を武力で維持する勢力は巨大資本を有する特権階級である。こういう国家形態を『夜警国家』と言うのだろう。新自由主義がもたらす国家形態の帰結であり、最悪である。佐藤優氏は『国家と神とマルクス』で、アメリカ型の新自由主義の内在的論理を把握するためには、国際経済の解説書よりもマルクス経済学の理論書が役に立ったと言っている。その中で、マルクス経済学に課税論理がないことはマルクスが国家を捨象しているからだと。つまり、マル経もアメリカ型の新自由主義も徹底的に国家を敵視していることが特徴である。人間は国家を否定すると歴史感覚から浮遊して現在性に揺曳し、自己同一性の危機に陥る。西村真悟氏風の言い方を借りれば、それは歴史の背骨(せぼね)の喪失である。 

  私は丹羽春喜博士の言う、国民をマインドコントロールしている反ケインズ主義の謀略も、佐藤優氏の言う小泉政権下における国策パラダイムの転換も、本質的に同じものを捉えていると思う。反ケインズ主義の思潮は、丹羽博士によれば1970年代から我が国を席巻しており、それは小泉政権下でより先鋭化したということである。これはただ単に日本の経済成長を押さえ続ける謀略が進展しているという意味に止まるだけではない。新自由主義とマルクス主義(世界観という意味で)の共闘が日本人の精神性に深刻な破壊をもたらしていることを意味する。ただ、奇異なことに、小泉政権以降では日本共産党が新自由主義の反国益性を糾弾している。その舌鋒は民主党よりも的確さを持つように思える。最近、労働者共産党の機関紙『プロレタリア』という理論誌を読んでみた。新自由主義阻止と憲法九条改正反対について言及していたからだ。基本原理ではマルクス主義を旨とする共産党は新自由主義とは理念的に強い親和性を持つはずであるが、どういうわけか、日本共産党が新自由主義を的確に攻撃していることは興味深い現象だと思う。新自由主義は富の再配分を滅茶苦茶にして福祉のセーティネットを壊した。

 話をメディアの問題に移そう。神保哲生氏によれば、我が国のメディアは例外なく軒並み根こそぎ“やられて”いて、公器としての報道バランスを喪失している。このような陰惨なメディア背景の中で、小泉政権のように、アメリカの陰湿な圧力によって国家の政策の方向性(国策パラダイム)が変わった場合、それに反する考え方を持った有識者が国策捜査によってその名誉や社会的信用性が剥奪されることになる。私は一昨年以来、エコノミストの植草一秀さんの擁護に関わって、その現実をまざまざと見せ付けられた。明らかに大衆的メディアは検察の意向に沿って、植草さんのありもしない犯罪をこれ見よがしに世間に垂れ流し続けた。これも典型的な大衆へのマインドコントロールであり、イメージ操作さえ成功すれば事実の検証などはどうでもいいという暴虐であった。これも反ケインズ主義の謀略の一環である。

 また2005年の11月28日には衆議院議員の西村眞悟氏が弁護士法違反で逮捕されたが、私はこれも明らかに国策逮捕であると確信している。氏が逮捕勾留された翌月の12月、北京の日本大使館では、日朝間の事務レベル協議が行われたが、そこの議題は、拉致問題と核問題、そして過去の清算を含む日朝国交正常化を三者併行して協議して行く事が合意されたのである。つまりはこういうことである。三種類の協議議題を併行させて進むということの真意は、拉致問題と国交正常化の緊密なリンクを解除するということにあった。

 すなわち、問題を個別に恣意的に協議していくということであり、この時点の政府の意向は国交正常化だけを先に行うという方向性があったのである。すると日本の膨大な税金が賠償金として北朝鮮に払われかねなかった。西村氏がそのような売国的行動を看過するはすがない。外務省が半島系に支配されているという噂が事実なら尚更である。それが西村氏を国策捜査にかけて活動を封じたことの第一の狙いであろう。それに彼の普段からの愛国的言辞は、アメリカに彼を要注意人物として注目させていたに違いない。また、当時自由党に在籍していた西村真悟議員が、平成15年2月28日の予算委員会で、塩川財務大臣に、日本経済復活の会の小野盛司会長が著した『政府貨幣発行で日本経済が蘇る』から、小野氏シュミレーションを引用し、政府が持っている政府貨幣発行特権(セイニアーリッジ)を使えば、デフレから脱却でき、失業率も低下、結果的に不況から脱出できるはずだと質問している。案外、これが反ケインズ主義者の逆鱗に触れていた可能性は高いのだ。

  この時もメディアは西村氏の拉致問題の功績やその他の功績は無視して、センセーショナルに弁護士法違反だけを報じて彼のイメージ低落を狙った。ここ二十年間は特にケインジアンの有識者は一線から排斥される傾向にあり、小泉政権以降に至っては、排斥されるどころか、犯罪者として国策捜査の毒牙にかけられてしまうようである。これは売国の小泉政権によって国策のパラダイムが新自由主義に転換したからである。そういう背景で、マスコミを動員した国策捜査が頻発することになる。

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2008年1月 1日 (火)

財政は破綻するのか(小野盛司)

-政府はその可能性を否定も肯定もせず-

  (※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第二弾です)
    http://www.tek.co.jp/p/index.html

 国の借金が800兆円もあり、財政は破綻するのだろうかという疑問を多くの国民が持っている。滝実(たき まこと)衆議院議員は質問主意書の形で、これに関して次のように質問した。

 我が国の極めて厳しい財政状態を放置すれば財政は破綻すると、政府は考えているのか。

 それに対する福田総理の2007年12月14日の答弁は

 我が国の財政については、「日本経済の進路と戦略」(平成十九年一月二十五日閣議決定)において、「政府債務残高GDP比は2007年度(平成十九年度)百四十一・一パーセント程度と見込まれ、主要先進国の中でひときわ厳しい状況となっている」とされており、また、金利は経済情勢や市場における期待にも大きく左右され、正確にその動向を見通すことは困難であるものの、金利上昇により国債費が増加するなど財政負担拡大するおそれがあることから、金利変動に対し脆(ぜい)弱な状況にあると考える。

 というものであった。はっきりと財政破綻の可能性を否定をすることはなかった。それでは、政府は、財政破綻が将来あると考えているのだろうか。実は、これからどんどん借金が増えていっても絶対に財政は破綻しないことを政府はよく知っているのだ。財政が破綻したら、国債が紙くずになってしまうし、第一、国会議員の給料さえ払えなくなるから、絶対にそうさせない。「財政が厳しい」というのは、増税をして国民からできるだけ多く金を出させようという策略であることを忘れてはならない。増税のときは「財政が厳しい、このままだと危ない」と脅し、国債を売りつけるときはガラリと主張を変え「財政は絶対に破綻しないから国債は安全」と、身勝手な論理を持ち出す。こういった二枚舌の実態を、近く提出されるであろう質問主意書で暴露する計画であるが、ここでは裏の事情を説明する。

 借金が多いというが、実は資産もたくさんある。借金時計は有名だが、その作者の多くは資産(つまり現金とか、株とか)について触れていない。資産があれば、借金返済をしようと思えばいつでもできる。例えば最近話題になっている霞ヶ関埋蔵金も資産の一部だ。国の金融資産は500兆円以上あり、どんどん増えている。これはhttp://www.tek.co.jp/p/index.htmlを参照頂きたい。

 国の借金というが、それは外国から借りたものではない。国は通貨発行権という権利を持っており、借金は返そうと思えばいつでもお金を発行すれば返せるから財政破綻はあり得ない。日本の経済情勢に詳しい海外のエコノミストは、国の借金は日銀が買い取るべきだという。

●バーナンキFRB議長(ノーベル賞確実と言われている経済学者でデフレ問題の第一人者)
「日銀は国債の買い取りを増やして、減税あるいはその他の財政政策を行うべきだ。日銀の長期国債の保有額は発行済みの日銀券残高を限度とするという日銀の自主規制は撤廃するべきだ。」

●ポール・サミュエルソン (ノーベル賞を受賞した経済学者)
「3年間の新たな全面的な減税政策を実施するように提案する。今後も継続して行われる公共投資は、日銀が新たに増刷する円によって行われるべきだ。」
(日銀が新たに増刷する円とは、日銀が長期国債を買い、それと引き替えに出て行くお金のこと)

●ローレンス・R・クライン (ノーベル賞を受賞した経済学者)
「私の提案は、通貨の膨張です。日銀は政府の借金(国債)を買い取るべきです。減税をやるとよい。しかし、このような財政政策と共に教育への投資も増やすべきだ。」

 つまり、日銀が長期国債を買い取ればよい。日銀は「国」の一部だから、日銀が買い取れば「借金返済」をしたことになるから、それで一件落着すると海外の識者は考えている。自主規制さえ止めれば、日銀はいくらでも国債を買うことができるので、財政破綻はあり得ない。国の借金の利払いが増えて大変だと思っている人がいるかもしれないが、日銀に払った利払いは国庫に返ってくる仕組みになっており、我々の税金で利払いをするよりはるかに健全である。

 ここまで話すと、皆さんが心配するのはインフレだ。短絡的にハイパーインフレになるのではないかとさえ言う人まででてくる。しかし、計量経済学を知っている人であれば、どの程度お金が市中に流れれば、どの程度のインフレになるかを知っている。図1にマネーサプライの増加率のグラフを示した。これは、市中に流通するお金がどれだけ増えたかが分かる。1960年代の高度成長期はマネーサプライは十数%の増加率で、このときのインフレ率は数%だった。オイルショックの時期を除けば、1970年代と1980年代はマネーサプライ増加率は10%程度で、このときのインフレ率は2-3%前後であって、このあたりを今後の日本は目指すべきだろう。デフレに陥った最近十数年間はマネーサプライ増加率は5%以下となっている。

 小渕内閣では1998年と1999年に約17兆円ずつ景気対策を行って、お金を市中に流している。図で、このあたりに小さな山があるのが、この景気対策で流れ込んだお金である。つまりこの程度の景気対策では、まだまだデフレ脱却にはほど遠い規模であることがわかる。もっと大規模に、もっと長期に景気対策をやり、その財源調達のために発行した国債と同額の国債を日銀が買えば、市場に何の混乱を引き起こすことなく、デフレを脱却させ、景気回復を成し遂げることが分かる。

 実際マクロ計量モデルを使って計算すると、景気対策によって、国の借金は増えるもののGDPも税収も同時に増えるために、借金のGDP比は減っていき財政は健全化に向かうことが知られている。詳しくは以下の文献を参照下さい。(小野盛司)

 小野盛司 『これでいける日本経済復活論』
    http://www.tek.co.jp/p/book2.html


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2007年12月26日 (水)

政府による経済予測計算の偽装(小野盛司)

 ※「日本経済復活の会」会長・小野盛司氏による記事です。

 姉歯建築設計事務所による構造計算書の偽装事件が記憶に新しい。これにより多くの人が大損害を被ったことは、皆さんよくご存じだろう。しかし、これよりはるかに悪質で、しかも損害は姉歯事件より桁違いに大きな偽装事件が、政府によって引き起こされていることを知っている人はほとんどいない。12月15日に衆議院議員滝実氏による質問主意書という形で、この偽装事件は暴露され、それに対する福田総理による答弁書が12月25日に明らかにされた。その全文を以下に示す。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

①滝実議員による質問主意書

 内閣府の計量経済モデルが政治的に歪められている可能性に関する質問主意書
                            
 政府は、内閣府の計量経済モデルについて、誤差が大きくて政策決定には使えないといった意味の発言を繰り返して行っている。しかし、詳細に調べてみると、単に誤差が大きいだけではなく、政治的に大きく歪められているという実態が浮かんでくる。このことについて質問する。

一 毎年一月に発表される『改革と展望』や『進路と戦略』では、景気は回復に向かっていると言い、デフレ脱却は近いと書いてある。GDPデフレーターについてまとめてグラフにしたのが、図1である。各グラフの近くに書かれた数字は発表年である。2002年から2007年まで6年分のデータをここに示した。どのグラフも急激なGDPデフレーターの改善を予測し、景気の回復を印象づけたものと思われる。しかし、実際のデフレーターは2001年度がマイナス1.2%で2006年度がマイナス0.7%だから5年間で0.5%しか改善していない。平均を取れば年率の改善率は僅か0.1%である。もしも内閣府の発表が、政治的に一切歪められていなければ、年率の改善率は実際の値である0.1%の前後でばらつくはずである。実際に発表された、年率の改善率(三年間に限る、例えば2002年に発表されたものだと、2004年の予測値から2001年の値を引き3で割っている。)は、2002年のものが0.7%、2003年が0.57%、2004年が0.67%、2005年が0.80%、2006年が0.73%、2007年が0.5%となっている。つまり実際の改善率の、実に5~8倍もの速度でデフレ脱却が進んでいるという現実とは遠くかけはなれた発表している。これではまるで「計量経済モデル予測に偽装が行われている、大本営発表だ。」と言われてもおかしくないのではないか。「予測しがたい要素が多いから」と釈明するのだろうが、しかしそのような要素はプラスにもマイナスにも働くわけで、6年連続で5~8倍にもなるということはあり得ないがどう考えているのか。

右質問する。

Zu_1 図1

②福田総理の答弁書

 各年度の構造改革と経済財政の中期展望や日本経済の進路と戦略(以下「中期方針」という。) の参考試算の作成に当たっては、従来より、中期方針における政策運営等の考え方を前提に、それぞれの時点で入手可能な情報を基に、慎重に分析、検討を行い、的確な経済の展望を示すよう努めているところである。我が国の経済は民間活動がその主体をなすものであること、国際環境の変化には予見し難い要素が多いこと等にかんがみ、こうした展望は、相当の幅を持って解釈すべきものである。

 この質疑応答を説明する。図に示されたGDPデフレーターとは、総合的な物価指数を表しており、日本はこれがマイナスになっているから、デフレにあると言っている。デフレとは、極度に経済が悪化した状態であり、世界でデフレ経済に陥っている国は日本しかない。政府はデフレから一刻も早く脱却したいということで、毎年発表する計量モデルによる計算結果では、間もなくデフレから脱却できるということが示されている。しかし、この計算が国民を騙すために偽装であったと滝議員によって指摘された。この図で政府が予測したデフレーターは、どんどん上がっていき、景気は急回復しデフレは、あっという間に脱却できると主張している。例えば2002年の発表では、なんと2003年にはデフレ脱却ができるのだそうな。実際は、今でもデフレは続いている。懲りもせず毎年同様なモデル計算の結果を発表している。実際のデフレーターは一番下の線で、政府発表は、実際の5~8倍もサバを読んでいたことになり、正に大本営発表であり、モデル計算の偽装である。『国際環境の変化には予見し難い要素が多い』などと、よくもまあ言えたものだ。むしろこの間は、外需が予想以上に伸びて景気はそれに助けられたのだから、当然デフレーターの改善は予想以上に大きくなければならなかったはずだから、モデル計算を正直に行っていれば、実際のデフレーターの値より低いデフレーターを予測しなければならなかったはずだ。
 オオカミ少年は3回目の嘘で誰にも信用されなくなった。政府はすでに6回も同じ嘘を言い続けていて、来年はデフレ脱却するという7回目の嘘を最近また繰り返した。我々はいつまで騙され続けなければならないのか。増税や歳出削減などの緊縮財政が続く限り、日本経済はデフレが続き、財政は改善できないのだということがまだ分からないのか。(小野盛司)

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2007年12月19日 (水)

まだ続いている植草さんの偏向報道

「新潮45」という月刊誌に“植草キョージュの痴漢法廷闘争録”という題名で、植草一秀さんに関するバイアスした記事が書かれていた。友人が記事を教えてくれたので読んでみたが、内容は徹底して植草さんの性癖説を強調するものだった。この記事を書いた人は横田由美子というルポライターであるが、全体の記事は概して植草さんの主張を全否定するトーンである。著者は2004年の品川手鏡事件において、その裁判の判決が出る五日前に植草さんにインタビューしており、これは冤罪の可能性が高いということで、「月刊現代」2005年5月号に、「かくも長き沈黙を破る 煉獄の一年 『不当逮捕と家族を語る』」という寄稿をしている。

 私はその記事を読んでいないが、著者はこの時点では植草さんの冤罪を信じていたようである。品川手鏡事件では冤罪論を確信していた横田由美子氏は、その確信が揺らぎ始めたのは、この判決以降、植草さんが控訴を断念したことにあると書かれている。横田氏は『植草事件の真実』で、私の寄稿した記事「救国のエコノミストが落ちた陥穽」を引き合いに出して、陰謀説の筆頭のように書いているくらいであるから、植草さんの渾身の名著『知られざる真実-勾留地にて』も当然読んでいるはずである。それならば品川事件公判における控訴断念の経緯もわかっているはずである。

 ところが、横田氏はその二冊の本に書かれている肝心な要点やその経緯については何の言及もなく、唐突に2006年の植草事件について、信頼を裏切られたかのように書いてるのだ。品川事件公判の控訴断念について釈然としなかった中で、それから一年半後の2006年に再び痴漢をしたことに対して、「植草の主張の片棒を担いでしまったあの記事は何だったのだろう。彼の語ったすべては嘘だったのか。今回の裁判を傍聴しながら力の抜けるのを感じていた」と101ページに書いている。妙だと思う。横田氏は品川事件判決後に本人に会って、1998年の東海道線車両内のことも、品川駅構内エスカレータのこともきちんと取材して、2004年の当該事件について冤罪の感触をはっきりと得ている。ところが、2006年の京急事件に関しては、事件の詳細や傍聴記、速記録の開示があり、その上、『植草事件の真実』及び『知られざる真実-勾留地にて』が出ているわけだから、この二冊に書かれている事件の不自然さについてはまったく言及していないことは奇異な感じを受ける。

 横田氏の記事のトーンは主に5月7日に開かれた第7回公判の内容に終始している。この日の公判は我々検証する会の面々は誰一人傍聴できなかった悔しさがある。私は本ブログにも書いたが、この日の傍聴抽選には、東京地裁の恣意的選別が行われたのではないかという強い疑念がいまだに消えていない。それはともかく、ネットニュースや夕刊紙などでこの日の公判記を見ると、徹底して植草さんの性的プライバシーに踏み込んだ人権蹂躙的な内容であった。ブログにも書いたが、夫婦やカップル間の性的秘め事は私事であり、その行為を“何とかプレー”という言葉で表現したとしても、性犯罪とは何の関係もない。私個人の感想を言わせてもらえれば、カップル間の性行為は互いの了解ができている限り、暴力、不潔、嗜虐などがない限り、問題はないし、それは暴露されるべきではない。ところが第7回公判では検察がこれ見よがしに植草さんの性的プライバシーを暴露して法廷で本人に畳み掛けている。このような検察の行為は言語道断であるし、これを許容した裁判官は司法の品位を思いっきり下げているのだ。これは裁判の堕落以外の何物でもない。

 著書はその部分を「暴露された秘密」というタイトルで強調的に描いているが、この第7回公判録を植草さんの性癖説に結び付けて、京急事件の総括のように書くこと自体が偏向記事の典型である。2006年の事件に関して、12回に及ぶ公判内容を網羅しているのであれば、第7回の公判審議はその内容からして、突出して異常な公判であることがわかるはずだ。つまり、暴くべきではない個人のノーマルな性的嗜好を執拗に暴露したことは、逆に考えれば、そのことによって、検察や裁判官が植草さんを病的性癖の持ち主だと印象付けようと画策した可能性が濃いことを裏付けているからだ。横田氏が新潮45の記事に、この第7回公判録を恣意的に取り上げていることは、それだけで植草さんの初期報道と同様な意志が底意に有ると感じざるを得ない。すなわち検察側の意図に基づいた印象報道の一環である。

 公判内容を公平に審査して植草さんの記事を書くのであれば、絶対に抜いてはならない事実がある。それが7月4日、第10回公判に出た善意の目撃者である。この事件はこの目撃者の出廷によって、植草さんの犯意や犯行が完全に否定されているのだ。第一審判決はこの事実を恣意的に無効化している。同様に横田由美子氏の記事もそれに倣って、肝心な第10回の公判事実を故意に無視しているとしか思えない。明らかに印象操作報道の一環である。植草さんの事件は小泉政権批判とりそなインサイダー疑惑をただ一人果敢に指摘した有力なエコノミストに対する官憲によるでっち上げ逮捕(国策捜査)にほかならない。りそな銀行が公的資金注入で救済されるまでは日経平均株価が七千円台まで低落した。この時、外資が底値買いを行なった。この時、インサイダー情報を外資、特にバルジ・ブラケット(The bulge bracket)に流した者が当時の官邸サイドにいた可能性はすこぶる高い。植草さんはそういうことを調べろと言っていた。これに危機感を抱いた媚米構造改革急進派が植草さんの社会的信用を剥奪するために姦策を用いたのである。

 小泉純一郎元総理の経済指南役であった竹中平蔵氏のブレーンを木村剛氏が勤めた。経済小説家の高杉良氏は、木村剛氏は30社問題を提起したが、これが結果的にバルジ・ブラケットにメッセージを送り、空売りを仕掛けさせたことにならないだろうかと当時に言明している。しかし、大きく捉えれば、植草さんの指摘したとおり、当時は自己資本比率の厳格化と自己責任原則の透徹で金融機関を追い込んでおいて株価を下げ、預金保険法の抜け穴でりそなを国庫救済した経緯は、金融庁が絡んだ大掛かりな株価操作の仕掛けがあったと考えた方がわかりやすい。すなわち植草さんは巨大な政府犯罪を糾弾したために国策捜査の陥穽に嵌められたのである。

 ※バルジ・ブラケットとは、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、メリルリンチなどの米系強大投資銀行を総称したもの

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2007年12月14日 (金)

韓国版エクソン・フロリオ条項を見習うべし!

 友人からの情報だが、韓国では来年の一月に韓国版エクソン・フロリオ条項が制定されるようだ。あまり詳しくは知らないが、今から10年ほど前に、韓国はアジア金融危機でIMFの支配下に置かれた。当時の金泳三政権はIMF危機が日本のせいだという論調を張ったが、不思議なことに議会はそれを否定して、この金融危機は欧米系の金融機関の急速な資金引き上げによってもたらされたものだと事実を言った。特亜三国の一つである韓国は常套的に何でも反日で国論をまとめあげる悪しき体質を持つが、さすがにこの時ばかりは最後まで協調融資に応じた日本を悪者にはできなかったようで、外資の無慈悲さドライさに深刻な危機感を感じていたと思う。

 そのような経緯があったせいか、韓国は外資攻勢に対して深刻な危機感を持ち、米国のエクソン・フロリオ条項にみならって、“韓国版エクソン・フロリオ条項”を制定する運びとなった。IMF傘下に入ったことによる深刻な状況を経験した韓国が、経済的国家防衛であるエクソン・フロリオ条項の制定に踏み切ったことは、まだかの国には健全な国家意識が醸成されていることを物語るが、視点を日本に移して考えればあまりにも情けない現状に日本が陥っていることがよく見えてくる。日本人は日本を愛しているかという問いかけには押しなべてその通りだと言うが、国を愛しているというなら最低限二つの目に見える形を整える必要がある。それは愛国心の基本が国家防衛と経済防衛という二つの“守り”にあるからだ。今の日本にこの二つのしっかりした形は存在しない。

 国を防衛する気持ちがなくて“愛国心はある”というのは矛盾である。国家防衛には軍事防衛と経済防衛がある。日本人は冷静にこの二つの防衛を眺めてみるべきだ。憲法の制約で軍事防衛は正常な状況にない。また、経済防衛に関してはなし崩し的にアメリカの要求に隷属させられている。郵貯・簡保資金という莫大な国富を米系外資に貢ぐために売国政権が発動した郵政民営化や三角合併の施行、その他外資の意向に沿った商法改正など、我が国は自立した国家の体を成していない。この状況で国家を愛するとか、国家を大事に思うなどという言い方は到底できないのだ。戦後民主主義のいびつな進展によって日本人の意識からまともな国家観と共同体意識が溶解した。その結果、特亜三国からは何かにつけて脅しを受けるし、米系の国際金融資本からは内政干渉をされて、我が国の企業が軒並み金融浸潤に遭遇して国富が吸い取られている。

 韓国は何かにつけて、理不尽な反日感情を惹起するが、それでも彼らの国家意識は日本に比べてまともである。だからこそ韓国版エクソン・フロリオ条項の制定に踏み切った。この条項は国家を防衛する意味で非常に重要である。日本も食われるだけの無防備状態から国家防衛を喫緊に志向する必要がある。早急に“日本版エクソン・フロリオ条項”を制定する必要がある。経済的には日本最大の敵は国際金融資本だが、国際的に見た場合、経済的敵性国家の筆頭がアメリカであることを銘肝すべきである。

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2007年12月 7日 (金)

宣撫化する読売系メディア

 らんきーブログの管理人さんが、読売新聞はつのだじろうの恐怖新聞よりも怖いと書いてあったので思わず笑ってしまった。「恐怖新聞」と言えば、かなり以前にヒットした有名な心霊オカルト・ホラー漫画であり、作者はつのだじろう氏である。私はよく覚えていないが、この作品は新聞に書かれたことが予言的に実現するストーリーだったように思う。しかし、考えてみれば、一千万部という我が国最大の発行部数を誇る読売新聞が、ある国の意向を代行して露骨に誘導的な記事を書くようになったら、これはこれで絶対的な恐怖であることは間違いない。 

 ところで、今日、読売新聞グループ主筆である渡辺恒雄氏が中川昭一氏のパーティの席上、例の自民・民主大連立構想の件に関し、『新聞記者の分際でそんな話に介入して中傷を浴びている。いずれは全部書いてやろうと思っている』と語ったそうだ。また『今書いたら次の展開の邪魔になる』とも言った。
   http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20071206AT3S0502905122007.html

 政治には中立性、公平性を保つべき立場で報道するのがメディアの本来の基本だと思うが、実際は何らかの思想性が各メディアに投影されてしまうのが実情だろう。今までは政治的偏向性を持つメディアも、建前上は中立性を装って公器の顔をしていた。しかし、今回の渡辺主筆の発言は、この建前さえも露骨に無視したものだった。読売と言う大新聞の主幹が、政治を直接動かしているのはオレ様なんだぞという意味のことを平然と言うこと自体が大問題なのだが、この大問題が大問題として国民に認識されていないということのほうがより大問題である。テレビや大手新聞が報道することはもはや信用できないと感じている人々は、読売新聞で起きていることの本質がよくわかっていると思う。日本のテレビや新聞はまともな報道を行なわないという認識が必要な時代になった。特に小泉政権時代に至ってから、我が国のメディアが有した性格は、国民の洗脳工作を行なう媒体に成り下がってしまったということだ。

 このメディアの構造問題を端的に説明している人物はメディアニュース・ドットコムの神保哲生さんである。神保氏によれば、日本メディアの硬直性を招いているのは「クロスオーナーシップ」、「記者クラブ体制」、「新聞の再販価格制度」の三つの問題であると喝破している。クロスオーナーシップというのは、同一資本が新聞とテレビを同時に保有する(系列化すること)ことである。チャンネルで言うと、4、6、8、10、12の5局が、それぞれ新聞と組んでいて、テレビはこれにNHKが加わっている。これに時事通信社と共同の二社がある。そして地方紙の主力として、北海道新聞、中日新聞(東京新聞)、西日本新聞の三つがある。日本のメディアはこれら16社に牛耳られていると考えていい。記者クラブ体制はご存知の通り、行政機関や経済団体にこれら16社が専属で常駐しているという体制である。新聞の再販価格制度とは、新聞同士が自由競争をしないようにカルテルを結び、価格を決めていることである。神保氏によればこれら三つの制度が日本のマスメディアをがっちりと押さえ込んでいて、あらたなメディアが参入する余地はまったくない状況である。

 つまり、こういう深刻な構造的問題が屹立するために我が国のメディアは完全に閉ざされた言語空間になっているのだ。この構造を見る限り、メディアが思想的中立性を保って国民に優良な情報を提供すると言うのは完全な幻想であることがわかる。はっきりわかることは、今の報道媒体のあり方は、国民の世論誘導を行なうのに非常に適した構造になっているということだ。官邸主導を極端に強めた小泉政権が、マスコミまで掌握して構造改革をゴリ押ししたように見えるが、実際のマスコミの司令塔はアメリカと直結した何者かであったはずだ。官邸主導という強権力を発動した小泉政権も、これをヨイショしたマスコミもアメリカ政府筋の傀儡になっていたという見方のほうが正確だろう。

 こういう現実をきちんと見据えた上で、9月の総裁選と最近の民主・自民の大連立問題を振り返ってみれば気が付くことがある。それは読売新聞や日本テレビがこの二つの政治的出来事の鍵を握っていたという事実である。9月の総裁選では読売新聞と日本テレビが麻生太郎氏の追い落としの急先鋒となっていた。つまり世論が福田氏に向かうように読売系メディアが画策したのである。私は弊ブログで、その理由を郵政民営化凍結気運を起こさないようにアメリカがてこ入れを行ったと書いたが、その見方はいまだに変わっていない。同様に小沢民主党を巻き込んで、読売のナベツネ主筆が民主・自民の大連立構想を働きかけたことは、明らかに背景にアメリカの意図が働いていたと見て間違いない。夏期の参院選で日本国民が構造改革のペテン性を見抜きはじめたことに警戒心を持ったアメリカは、民主党と自民党を合体させて構造改革路線の継続を計ったと思われる。連立構想の名目である“法案成立のために”はあくまでも建前であり、その本音は自民党を牛耳る構造改革推進派の延命路線である。

 今の国会は給油新法論議に特化されているが、アメリカが一番恐れていることは郵政民営化を国民が考え直すことにほかならない。金融占領計画の総仕上げとして郵政民営化が行なわれ、その収奪が本格的に始まろうとする今、アメリカは国民新党と民主党の動きに最も警戒感を強めているものと思われるのだ。こういう中にあって、読売メディアの世論操作は構造改革路線継承と、国民が郵政民営化に疑問をはさまないように目を逸らす意図で動いているように見えてならない。最近の読売系メディアの報道姿勢やナベツネの動きを見ると、読売がアメリカの宣撫工作を行なっていることは確実である。読売新聞は国売新聞と改名したほうがいいかもしれない。

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2007年11月26日 (月)

年次改革要望書が生まれた経緯

 今、日本の国民は現状の壮絶な格差社会や、一向に上向きにならない景況感の理由が、小泉政権の行なった“構造改革”にあるのではないのかと思い始めている。今夏の参院選での自民党大敗北は端的にそのことを裏付けた結果となっている。しかし、この参院選の結果を単純に小泉-竹中構造改革路線の破綻と受け止めていいのだろうか。私は短兵急なその見方には懐疑的である。確かに国民の総意は小泉路線、及びその継承路線である自民党清和研究会(町村派)の方針に“ノー”を示した。しかし、この結果は国民、特に地方在住の人間が小泉構造改革路線の非を認めたことは確かであるが、その本質を分析し、理路整然とした判断の下に行なったと考えるのは時期尚早であると思う。

 参院選の結果を出した人々を馬鹿にするわけではないが、彼らは格差を肌身で感じ取り、そのあまりのひどさに対して本能的に反応したという方が正確だろう。彼らは小泉政権の本質を見抜いた上で自民党に“ノー”を突きつけたというよりも、誤った政策がこのような惨憺たる結果をもたらしたというレベルで捉えているような気がする。しかし、ここで真剣に考えてもらいたいことがある。それは、小泉政権が行なったマクロ政策とは、従来政策路線の延長上で行なった政策上のミスリードではなく、アメリカの意志に忠実に沿って行なわれた結果だったという事実である。このことを真に認識しなければ、今後、新たな政権が成立しても、日本は同じ政策上の愚行を延々と繰り返すことになるからだ。

 日本人の社会に対する考え方は、いい意味でも、悪い意味でも、現状維持的というか保守的である。この感性が多大に影響しているために、国民は小泉改革に対してもこれは保守政治の一環として受け止めてしまい、アメリカによる日本国家の構造改変だという本質にはまったく気付いていないように思われる。その意味でも、村山談話を忠実に踏襲するような小泉元総理大臣が、靖国神社を参拝したという見せ掛けの行動が国民に誤まったメッセージを与えた影響は非常に大きい。小泉氏は靖国神社参拝を公約、実行したことで国民に保守本流のイメージを与え続けた。そのおかげで国民は小泉氏が行なった米国傀儡政権の売国本質を見逃してしまったのである。無論、これにはマスコミの小泉政権持ち上げ姿勢が最大の功を奏したことは見逃せない事実である。それでも日本の宰相が8月15日に靖国を参拝するなら、それなりの国際的メッセージとして意味があったが、その肝心な公約は破棄して中途半端な参拝だけは実行していた。これが国民を欺くパフォーマンスだったことは言うまでもない。

 国民が真に理解しなければならないのは、小泉政権の本質が『年次改革要望書』を最大限に実行したアメリカの傀儡政権であったという事実だ。ここで私が言いたいのは、年次改革要望書が、ただ単に最近アメリカからもたらされた内政干渉だというように受け止められているきらいがある。関岡英之氏によれば、この要望書の発端が、1989年(宇野宗佑)のアルシュ・サミットの際に行われた日米首脳会談の席上で決められた『日米構造協議』にあったと言う。小泉構造改革の内実が“聖域なき規制緩和”にあったことは周知の事実である。しかし、国民はこの規制緩和・規制撤廃について、あまりにも無神経、無防備ではなかっただろうか。問題はこうである。日本の事業や商習慣を縛るさまざまな“規制”がどうして存在しているかについて、政府はいっさい説明しなかったし、国民もそれについて考えることをしなかったという事実だ。

 規制というものはそれが存在する蓋然的な理由があって存在している。けっして一部の官僚が自己利益のために編み出した法体系ではない。我が国特有の商習慣や然るべきルールの必要性があって生じている。この規制が時代の変遷や社会構造の変化に応じて硬直化し、無実化するということは当然起こるだろう。それは逐次修正的に改善していけばいいことだ。ところが、小泉政権が行なった規制撤廃は、何の理由もなく規制そのものが世の中の進歩や効率性を阻む前近代的な悪習と決め付けて、無秩序に壊すことを急いだのだ。そして、相当数の規制を無意味に破壊した結果が、現状の超格差社会への変貌だった。国民が真実を知って反省すべきことは、アメリカの年次改革要望書に従って我が国固有の規制を破壊した結果が、現今の望まない社会の出現だったということだ。小泉政権の最も顕著なペテン性は、粗暴な官僚悪玉論と規制悪玉論である。この政権はこの無謀な定立によって日本の体制を破壊してしまったのである。この無謀な定立の根拠となったテキストが年次改革要望書であった。

 年次改革要望書は関岡英之氏が「拒否できない日本」で世間に問いかけてから、最近では急速に国民に知られてきている。しかし、この要望書の存在を知っている人でも、この内政干渉的指導書の歴史的経緯を知っている人は案外少ないように思われる。実は年次改革要望書の歴史的発端は前述したように日米構造協議に遡ることができる。東西冷戦構造下の80年代後半まで日米間の最大の懸案は貿易摩擦であり、アメリカの怒号は熾烈なものだった。繊維、テレビなどの家電、自動車、牛肉、オレンジなど個別の物について、アメリカは日本の輸出入の姿勢に難癖をつけてきた。競争力の原則から言えば、日本の製品が高品質で低コストだから売れるのは当たり前のことだったが、アメリカはそれを認めず、徹底して日本の社会構造や商習慣が悪いと決め付けた。実は日本が自らの主体性を失い、アメリカの勝手な論理に蹂躙され、呑み込まれたのはこの時点である。ブッシュ・シニア大統領時代の「日米構造協議」は、1993年のクリントン政権に至って「日米包括経済協議」になった。

 原田武夫氏の『仕掛け、壊し、奪い去るアメリカの論理』を参照すると、ここでアメリカは経済目標を具体的に数値化することを日本に求めたが、さすがに日本はこれに強い反発を示した。米国製の製品をある時期までこの台数で買えなどということは自由貿易の精神に反するということだ。米国は日本の熾烈な反発を見て戦略を変更した。日本市場が構造問題を抱えているのは  “日本政府”がマーケットに介入し、いたるところで規制していることが元凶になっているからだという論法を駆使した。要するに日本は政府が市場に必要以上に介入する“大きな政府”になっているから極力政府介入を解除しろという話である。ここにおいてアメリカは日本にはっきりと新自由主義への政策転換を奨励という形で押し付けている。これを阻害しているのはひとえに日本固有の伝統的商習慣や構造であるという不当な指摘であった。問題はこの段階で日本人がアメリカの論理を受け入れてしまったということにある。日本には日米同盟による核の傘下で守られているという負い目があり、アメリカによる強気の内政干渉に逆らえない空気になっているというのが最も大きな理由であろう。もう一つの理由は同盟国のアメリカが日本国益を損なう政策を押し付けるはずがないという、言わば思考停止的な思い込みや希望的観測が日本側にあるのかもしれない。

 それにしても年次改革要望書は二重の意味で陰湿である。一つはアメリカが日本の構造について大声を上げなくなったと言うか、上げる必要がなくなったことにも関連するが、日本の規制緩和に関する伝書的イニシャティブを布設したために、アメリカの要望が国民に見えなくなってしまい、ごく一部の日米政府関係者同士(外交官)でしかこの協議が進行しなくなったことだ。特に悪質なのは日本政府が故意にこの「要望書」の存在を国民に隠蔽していることだ。年次改革要望書については、政府がマスコミに対して故意に報道管制を敷いているとしか思えない。政府の中枢がこれを隠蔽する直接の証拠は国会における竹中平蔵氏の答弁に端的に現われている。竹中平蔵氏は2004年10月19日の衆議院予算委員会で「要望書の存在を存じ上げております」と答弁したが、翌年2005年8月2日の参議院郵政特別委員会では「見たこともありません」と断言している。竹中氏が一旦は衆院予算委員会で年次改革要望書の存在を認めながら、参院郵政特別委員会ではそれを見たこともないと言ったことは、裏を返せば郵政民営化がアメリカの意向で行なわれていることを国民に知られたくないということだ。この事実からして、政府中枢が年次改革要望書の存在を国民に明らかにすることを一貫してタブー視していることが見えてくる。

 理由は何だろうか。それは内容を国民がつぶさに吟味して、後に政府主導の政策と照らし合わせると、日本で次々と策定され、実現されて行く重要な法案が、この要望書に従って生まれていることがわかってしまうからだ。これは日本がアメリカの植民地であることを国民に如実に悟らせてしまうことになり、それによって巻き起こる反米的世論形成を政府が恐れているからにほかならない。いくらお人よしの日本人でも、日本の実態がアメリカを宗主国とする植民地だったという現実には到底耐えられないだろう。

 日本に対し、系列会社の存在や談合を厳しく非難する米国が、年次改革要望書という一部の政府関係者同士で交わされるこの重大な外交文書は、まさしく国際的な談合そのものだ。しかも談合の主導権は完全に米国側にある。もう一つはアメリカ大使館がこの要望書の存在を公開しているにも関わらず、日本の政府やマスコミはいっさいこれを国民に知らせないことだ。GHQのプレス・コードがいまだに継承され続けている証左である。基本的には小泉構造改革は戦後のプレスコード環境下と同一の条件で行われたものだ。つまり、郵政民営化についても国民は知るべきことを知らないままに、賛成か反対かの選択を強いられ、マスコミが反対の材料を極力報道しない中にあって、国民は賛成傾向で投票を行なった。こういうことはまともな主権国家で起こるはずがない。日本が戦後62年間、自覚することを拒み続けていたことを、小泉政権の鮮明な傀儡政策によってまともに向き合わざるを得なくなっている。つまり、日本はある日気が付いたら主権は存在していなかったということである。歴代政権や国民が強いて考えなかったことの付けが今現われてきたとも言える。

 この年次改革要望書に従って行なわれた数多くの規制緩和は、日本の構造改革という美名の下に日本の国内問題に特化され、その内実がアメリカによる国富収奪であることを覆い隠してしまった。つまりアメリカに従うエージェントたちは、国内問題の解決だという論理のすり替えによって、国家存亡事態である国富の流失を加速するシステムを構築してしまったのだ。莫大な郵政資金の国外流出を中心に、我が国のありとあらゆる優良資産が米系外資の懐に入っていく現状はまさに国家の危急存亡そのものだ。小泉・竹中路線が推進した構造改革とは、国民に利益をもたらすどころか、逆に国民の財産を海賊に捧げるようなものであった。この悪魔の構造改革路線が、安倍政権から福田政権へといまだに継承されていることが大問題なのだ。

 国民は年次改革要望書が成立した過程をきちんと自覚した上で今後の対処を考えた方がいいだろう。つまりこの要望書の生まれる起源は、日米貿易摩擦であり、アメリカの戦略の凄さは、露骨な外圧で日本の反感を誘うことよりも、日米間の平和的な協議という範疇に収め、日本人が自ら主体的に考えてやったような形を取り始めたということだ。無用な反米感情を生まずに米国の願望を実践するという方法は多大な効果をもたらした。つまり、年次改革要望書の成立経緯は、日米貿易摩擦が起きて日米構造協議が生まれ、スーパー301条なる無茶苦茶な制裁法案が提出されて日本の反感を招いた。その後ブッシュ・シニア大統領からクリントン大統領に移った時、日米包括経済協議を立ち上げて数値目標を設定するなどというごり押しをして、アメリカは日本の大反発を食らった。そういう経過を踏まえたアメリカは最も狡猾な対日戦略を考えた。その結果、全体としては日本の構造そのものが間違っている、特に日本政府がマーケットに介入しすぎだという論法を日本側に納得させたのである。納得した日本も情けなかったと思う。もっとも、納得したのは一部の政府関係者だけだったが。国民はこの時点でアメリカの内政干渉的な構造批判について無頓着だった。関岡氏の言うように、この時点で国民は、日米構造摩擦の喧騒が収まって事態はいい方向に進んでいると受け止めていたと思う。かくして規制改革を日本人の自主判断で行うという名目の下、米国は『規制緩和及び競争政策に関する日米間の強化されたイニシアティブ』という対話路線を立ち上げた。これが年次改革要望書である。

 以上が年次改革要望書が生まれることになった歴史的経緯であるが、大きな捉え方をすれば、東京裁判史観に拘泥した戦後日本人の重大な欠点がアメリカに効果的に利用されたという言い方もできる。戦勝国のアメリカには逆らえないのだという負け犬史観がこの経済問題の重要な意識的背景を有している。アメリカの強要に逆らうことができないのだ。軍事と経済は別物だという日本人の非常識な考え方が、冷徹な国際社会には通らないという実例は戦後日本はいやと言うほど見せ付けられてきたはずだが、その現実から逃避し続けてきた付けが小泉政権に顕著に出てしまったということになる。日米間の実態は、宗主国アメリカが植民地日本から効率的に富(アガリ)を分捕っているという現実に他ならない。

 今のまま、日本人がアメリカの隷属状態に甘んじていたら、国民レベルでは絶対に幸福な生活はできない。このまま行けば、経済奴隷国家だけで済む筈もなく、アメリカの傭兵として無用な戦争に借り出されることは間違いない。日本の自主権を取り戻すには、日本人が自国文明の尊さに覚醒することだと思う。経済が軍事力の裏づけと表裏一体を成すものなら、日本がアメリカの軍事力を当てにすること自体が大間違いである。もちろん中国の軍事力も当てにするべきではない。言葉を換えて言えば自主独立を実現したければ日本がどこの文明圏にも属さずに自国文明を維持するために充分な強さを持つことだ。強さ(国力)の根幹は軍事力と経済力である。アメリカに睨まれただけで経済が頭打ちになるような国はまともな国家ではない。社会ダーウィニズムで動く国際社会は軍事力を放棄した国家を国家として認めない。この現実を無視して、日本が世界で始めての武力放棄を実践するモデル国家となるなどと言ったところで、悪鬼の跳梁する荒野に丸腰で立つようなものだ。本気でそう考えているなら、アメリカの核の傘下から離脱することだ。アメリカの核の傘下を是認しておきながら、永久平和国家として歩むなどという考えは悪質な自家撞着以外の何物でもない。

 日本を真に愛しているが、日本が軍隊を持つことには断固として反対すると言うやからが大勢いる。彼らに聞きたいのは“アメリカの核の傘下で守られている現状はいいのか”ということだ。つまり日本でパシフィズムを標榜する人間の欺瞞はそこにある。国家を自国民が防衛するのは自立国家の基本だ。この単純な原則が認識できないうちは日本はアメリカに限らず他国の餌食にされてしまうだけである。

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2007年11月20日 (火)

“金融ブルーギル”大繁殖

  今月の11日、天皇皇后両陛下が大津市に行幸された折り、琵琶湖で行われた「第27回全国豊かな海づくり大会」の式典にご臨席された時の天皇陛下のお言葉があった。それは陛下ご自身が皇太子時代に米国から持ち帰った外来魚のブルーギルによって、琵琶湖の生態系が脅やかされていることに言及され、「心を痛めています」とおっしゃったことである。(ここを参照)

 これについては、原田武夫氏が彼の公式ブログで重要な視点を言及していた。それは天皇という存在は、日本国の危機に際しては、重要なメッセージを国民に送ることがあるという捉え方であった。私もまったくその見方と同じだった。天皇陛下が、外来魚のブルーギルの異常繁殖に関してご心痛されたニュースについては、私も当日、車のラジオで聞いていたが、非常に重く心に残っていた。外来生物の侵入・繁殖については、かなり以前から在来生物を脅かし、本来の生態環境を破壊するものとして懸念されていた。今回の陛下のお言葉は表層的には、文字通り生物学的な意味におけるご懸念を語られたと思う。しかし、原田武夫氏が指摘するように、“外来魚”という言葉には、現代日本の深刻な危機を心痛される陛下のやむにやまれぬ重いメッセージがあるような気がする。

 日本国憲法の制約上、天皇は政治的な発言をする権能を持たれない。したがって琵琶湖における今回のお言葉には政治的意味合いはまったくないものだが、ブルーギルの繁殖を懸念されたご発言のタイミングを考えると、陛下は国民に対して重要なメッセージを送ったように感じている人は案外多いのではないだろうか。47年前にシカゴから持ち帰った外来魚の繁殖を心痛されるお言葉に託して、陛下は現代日本が外国のものの考え方や文化にあまりにも強く浸潤され、本来の日本的な伝統や実質が根本から脅かされていることに強い憂慮の念を重ねておられるのではないだろうか。日本は日米構造摩擦が頻繁に起きていた時代から米国の執拗な内政干渉を受けていたが、その怒号のような外圧はいつの間にか鳴りを潜め、宮澤政権あたりからは『年次改革要望書』という形を取り、静かで陰湿な内政干渉として人々の目に見えない深部に潜り込んでいた。

 一見、日米の協調的対話路線という姿をとった『年次改革要望書』は、アメリカ政府も日本政府もまったく騒がず、毎年淡々と提示されてきた。一見双務的な形を取るこの悪質な内政干渉は、国会で質疑されることもなく、マスメディアに載ることもなく、開かれた首脳会談で一切話題にされることもなかった。そのため、国民は日米間でやり取りされた実質上の片務的内政要望書が孕む深刻な内容を一切吟味する機会を失われ、わずか十数年の間に我が国固有の経済システムは壊滅状態になった。日本は新自由主義経済システムに変わってしまった。特にこの構造変換は小泉政権の五年半で完全に仕上げられたと言ってもいい。問題は国民を苦しめ愚弄したこのペテン的構造の組み替えが、“構造改革”というスローガンで行なわれたことにある。“構造”とは何かという説明をいっさい省いて、ただ執拗に“構造改革”なる言葉を呪文のように繰り返した。つまり、小泉純一郎氏が音頭を取り、竹中平蔵氏が中心となって推し進めた構造改革は、日本特有の経済構造を破壊したのみならず、“国体”の破壊にまで及んだのである。

 小泉政権や安倍政権がもたらしたものは、ネオリベ構造による福祉切捨てや格差社会の現出だけであろうか。実はこの構造改革は日本人の精神文化まで破壊してしまった。ネオリベの思想的究極相は極左急進的無政府主義である。長い伝統文化を持つ日本人が、小泉政権によって強引に社会の形をネオリベ構造に変換したために、日本人は相互互恵や受容の精神を失ない、効率至上主義、金銭至上主義のマティリアリズム(物質主義)に陥っている。米国の傀儡となった政治家や財界人が小泉政権の下で行なったことは、国際金融資本が大手を振って日本の隅々に浸透できる体制作りをしたことである。これに加えて外資参入のための商法改正がなされ、日本の企業は軒並み外資の企業ガバナンスで統一されつつある。今まで日本的な慣習が通じていた企業内環境は激変し、無機的で冷たい効率至上主義、成果主義が幅をもたげ、終身雇用制が崩壊して職場にはゆとりが絶無になった。今までのように会社にロイヤルティを持つことが原動力にならなくなった。搾取しか考えていない外資のために汗水流して働くことの虚しさを持っていい仕事はできない。首にならないためにはどんな手段を使ってでも業績を上げようとする考え方が出てくる。倫理や社会道徳が無視され、あらゆる商空間に偽装がはびこる温床ができあがった。今の日本の危機的な変容は、このように弱肉強食を是とする外国の考え方が侵入したために、日本人本来の良さがほとんど失われかけているという状況にある。まさに“外来種侵入”のために起きた国難である。

 時代がどう移り変わっても、国家の危機、すなわち国難に際して発せられる天皇のお言葉は、国民にとっては特別重要な意味を持つのではないだろうか。天皇陛下が発せられた“外来種”という言葉に、我々国民は特別な意味を汲み取る必要がある。元来日本民族は和合の国民である。外国の文物を取り入れて自国の文化に吸収していく形が古来から日本文化の固有性となっていた。しかし、日本という国は文明的にみて、ヨーロッパにも近隣のアジア圏にも属さない固有の文明形態を持つ国であるから、いかに外来文化の和合を旨としても、適度な度合いというものがある。漢字を見ても一目瞭然だが、中国の文化は積極的に取り入れた過去があるが、むやみに全的に中国文化を移入したわけではない。日本にとって異質なものはけっして取り入れなかった。例えば中国の纏足(てんそく)などの風習は入れなかった。理由は大陸的な残酷なものは民族性に合わないからだ。日本人は日本人の気質や天性的なものに和合しないものは努めて忌避する感性も強く保っていた。ところが戦後、GHQの洗脳(War Guilt Information Program)によって精神の深部まで眠らされた日本は、本来は受け入れてはならない外国の考え方まで取り入れてしまうという愚を犯しはじめた。戦後民主主義と戦後教育は自文化喪失の歩みであった。コーラやポップコーン、ハンバーガーなどが入るのはある程度仕方がないとしても、入ってはならないものがあった。それがグローバリズムとネオリベ構造改革なのである。小泉氏や竹中氏がペテンを働いて国民をだましたとしても、構造改革の実態を見抜けなかった国民にも責任はある。小泉氏は物を考えるのが嫌で何でも他者に丸投げしたと言うが、彼にだまされた国民も、ペテン的構造改革を小泉氏や竹中氏に丸投げしてしまった愚は反省すべきだろう。

  話を外来種侵攻にもどすが、天皇陛下が今、ご心痛されているのは、ネオリベ政策によって国民の気持ちが荒廃し、日本本来の国体・国柄が非日本的なものに変わろうとしていることだと思われる。国体の危機と言えば、当然、皇室の撤廃という事態が考えられる。日本にネオリベを敷いたアメリカ(国際金融資本)の目的は、日本に外資を参入させ、我が国のあらゆる優良資産の奪取を目論んでいるが、もう一つの目的は日本国体の破壊にあることは間違いない。つまり最終目標は皇室の撤廃、皇統の断絶である。今夏の参院選で民意は小泉構造改革を否定した。しかし、小泉政権は否定するだけでは駄目である。あの政権によって何がどのように破壊されたのか、遡行して綿密に検証し、総括する必要がある。そうしないと、日本の建て直しは不可能だろう。さまざまなジャンルの識者が集ってその総括を行なう必要がある。経済の総括に関して言うなら植草一秀氏が最適任だろう。植草さんは最も初期に小泉政権を弾劾した救国のエコノミストである。国民は今こそ植草一秀という稀有の人物の慧眼を評価するべき時だと思う。はっきり言って、小泉政権発足当時からこの政権の反国益性ばかりか、その犯罪性を果敢に指弾した有識者は植草さんただ一人だけだったという事実はきわめて重い。だからこそ彼は国策逮捕に遭遇したのだ。

 さて今、私がなぜ天皇の話を持ち出したのかと言うと、小野寺光一さんのメルマガに看過できないことが書かれていたからだ。

(引用)
つまりユダヤ外国資本は、
現在、不動産が欲しいため
天皇制廃止して皇居を売り飛ばすことを望んでいる。

一方、天皇制というのは、日本の場合、神道と密接に関係する。
つまり天皇制を廃止するとは、全国の神社仏閣も不動産として
ユダヤ外国資本が売り飛ばすことにつながる。

つまり宗教廃止して不動産売買を容易にするということを
目的としている。

最近、ある都市で五重の塔を売りに出していたのは、完全に
そういったキャンペーンが広がっているからです。
(引用終わり)

 外資が皇居や日本各地の御用邸の敷地を狙うことは十分に考えられる。同時に天皇は全国に散在する神社の祭司でもある。外資が皇室を廃止して全国の神社の敷地を狙う算段を持つことも充分にありうることである。神社仏閣の不動産も紛れもなく優良資産である。小泉元首相が女系皇孫肯定論を掲げたことも、外資による神社仏閣不動産の収奪を念頭において行なった可能性は強いかもしれない。外からの攻撃は武力攻撃だけではない。年次改革要望書があり、それを実行した買弁勢力が内部から日本の砦を破壊して収奪者を参入させている。この形は、池波正太郎の“鬼平犯科帳”に出てくる「引き込み女」である。日本にはアメリカに唯々諾々と従って外資に内部から門戸を開ける日本人がいる。アメリカの手ごまたちである。同胞を裏切って外資にお膳立てを整える勢力がいる。これが国難でなくて何だろうか。琵琶湖にご臨席された天皇陛下のお言葉は“金融ブルーギル”の大繁殖を見据えてのことだと思うのは私だけであろうか。

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2007年11月16日 (金)

額賀氏の名前が出されたことへの疑念!

   昨日の守屋氏の証人喚問で二人の政治家の名前が出されたことに関し、山崎行太郎氏が11月16日の“毒蛇山荘日記”で重要な疑念を呈しているので紹介しておこう。

 (毒蛇山荘日記からの引用)しかし、不思議なのは、またしても、名指しされた政治家が、特に額賀のことだが、旧田中派、旧経世会であることである。それに対して、何故、小泉や飯島の名前が出てこないのか。守屋が次官を勤めていた5年間は、ほぼ小泉政権の5年間と重なっているではないか。守屋の政界人脈の中心は久間、額賀ではないだろう。僕は、守屋が、政治家の名前として苦し紛れに、久間、額賀の名前を出した背景には、「司法取引」のようなものが隠されていると考える。本当の黒幕は、久間、額賀ではない。彼らは当て馬にすぎない。つまりスケープ・ゴートにすぎない。久間、額賀をスケープゴートにして、生き延びようと画策している本当のワルは誰か? 民主党よ、そこまで切り込んでいけ。「久間、額賀逮捕」での幕引きを許してはならない。

 なるほど、指摘されて私も納得したが、額賀氏は旧田中派・旧経世会の流れにある政治家である。私自身は額賀福志郎氏が財務大臣に起用された時点で非常に違和感が強かった。はっきり言って、福田総理大臣は米国傀儡政権を踏襲するために選ばれた人物である。つまり小泉構造改革(新自由主義路線)継承のための総理大臣だ。したがって福田氏が小泉政権では絶対に選ばない財務大臣に額賀氏を起用したことは、あきらかに国民に対するブラフの意図が存在する。夏期の参院選で自民党が大敗したのは、福祉切捨てや格差社会を到来させた小泉自民党路線に国民がはっきりと拒否の意志を示した。これを受けて従来のネオリベ構造改革路線をそのまま継続することに難を感じた自民党は、深刻なディレンマに囚われてしまった。それは、アメリカは宗主国として自民党の買弁勢力にネオリベ路線の一層の継続を要求しているが、国民の大多数がその路線の反国益性に気が付き始めていて、表面的には小泉路線や安倍路線と同様のスタイルを取ることができなくなっているという現実がある。

 そこで買弁自民党が何を考えたのかと言えば、国民の疑念を逸らすために、第一次組閣から小泉構造改革路線色を薄めることにあった。そのために財務省に額賀福志郎氏を、選挙対策委員長に古賀誠氏などを起用して見掛け上、小泉路線色を薄めたのである。これは来るべき衆院選への布石であろう。しかし、福田自民党の従米路線はほとんど小泉政権の性格と変わらないはずであるから、本来は財務官僚の中枢も、自民党全体も額賀氏の現ポストを歓迎していないのは明白だ。つまり、額賀氏の財務大臣というポストは国民を欺く見掛け上の措置と考えた方がいい。彼ら買弁勢力は、遠からず額賀氏を失脚させる予定でいたのではないだろうか。山崎行太郎氏が指摘したように、額賀氏が旧田中派、旧経世会派であるという事実は重い。なぜなら、彼は大きな政治路線から言えば、鈴木宗男氏などと同様にケインズ派であり、本音は積極財政推進論者だと思うからだ。考えてもわかるが、反ケインズ路線を日本に強要する米国の傀儡政権が、ケインズ路線を志向する人物を財務大臣に起用するわけがない。ところが敢えてそれを行なった背景には、国民のガス抜きの意味があったということだ。

 そこで、山崎氏の推測どおり、守屋氏の証言で額賀氏の名前が出たことは、買弁勢力と守屋氏の間で何らかの取引があった可能性を思わせる。私としては額賀氏は嵌められた公算が強いと感じているが、今の日本に重要なことは、傾斜配分を是正し、積極財政を打って出る政策を遂行する人物が活躍することが望ましいのだ。したがって額賀氏はこの事態につぶれないで果敢に立ち向かって危地を切り抜け、頑張って欲しいと思う。

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2007年11月12日 (月)

小野盛司著『日本はここまで貧乏になった』書評!

Photo_2   今年の9月、『日本経済復活の会』の会長さんでもある小野盛司氏が、現状日本におけるのっぴきならない経済の実情を訴えるきわめて重要な本を出版した。その書名は『日本はここまで貧乏になった』(ナビ出版)である。2001年に小泉政権による急進的な構造改革が推進され、紆余曲折はあったが、日本の景気は一応は回復したことにされている。しかし、庶民側の生活感覚から言えば、景気が上向いたという実感はまったくない。我が国は異様なデフレ固定の状況が長く続いて、2007年の今年になってもいまだに“デフレ脱却宣言”が出ていない。

 小野氏によれば、我が国において、(※)GDPデフレーターがマイナスという意味のデフレは1994年から始まっている。その後、わずかに1997年を除外してデフレーターは継続してマイナスを維持している。先進国中、これほど長期間デフレが続いている国は日本だけである。このデフレ固定(?)のおかげで日本はどんどん貧乏になってきている。

 ( ※GDPとは、国内総生産の略で、国内で生産された商品やサービスの総額を表し、国内の経済状態を測る指標となる。GDPには、単純に市場価格だけで考えた名目GDPと、物価変動を考慮した実質GDPがある。またGDPデフレーターとは、商品やサービスの価格変動を示す指標。物価が上昇するとプラスになり、下落するとマイナスになる。消費者物価指数が個人消費者が購入するものに視点を置くのに対し、GDPデフレーターとは、設備投資など、経済全体のダイナミックな動きを示すため、物価の変動をより正確に把握することができる指標。財貨やサービスの値段は、需給バランスによって決定付けられる。たとえば給料が2倍に上がっても(名目GDPが増えても)、物価が2倍になってしまえば、実際は経済が活発になったとはいえない(実質GDPが上がったとは言えない)。
      
    GDPデフレーター=名目GDP/実質GDP

 物価の変動による影響分を取り除いた実質GDPを使って経済の活況を知ることが重で、その名目GDPと実質GDPの差額を調整する指標がデフレーター。 )

 一人当たりの名目GDPは1993年と1994年は世界第一であったが、昨年2006年は世界第18番目まで低落した。小野氏によればこれは1971年の水準だそうだ。22年もかけて日本は豊かな国へ邁進してきたのが、特に小泉政権に至って、我が国は先進国中、最も貧乏な国へと加速的に転落しつつある。植草さんも、小泉政権が2001年から2003年にかけて急速に景気悪化させた原因を超緊縮財政政策というマクロ政策の過ちのせいだと指摘し続け、また政府がりそな銀行への公的資金を注入した後の株価猛反発を、小泉元総理が“構造改革の成果”だとうそぶいたことの非も指摘した。小泉政権はさまざまな点でいかがわしさが目立ち、それまでは存在しなかったタイプの深刻な格差社会を現出し、老人福祉の切捨てや実質増税路線を無慈悲に遂行して国民生活を逼迫させた元凶となっている。

 著者の小野氏は、小泉内閣が国の借金も借金のGDP比も大幅に増加したことを指摘し、もしも小泉内閣が緊縮財政路線ではなく積極財政路線をとっていたなら、どういう結果になっていたかを、日経新聞社の日本経済モデルを使ってシュミレーションを行なったことを書いている。それによると5年後には、緊縮財政よりも積極財政のほうがGDPが約四割増しで、国の債務は二割以上小さくなるという結果が出た。内閣府で行なわれた試算でも同じ結果が出ている。当時、この結果を衆議院議員の小泉俊明氏が竹中平蔵財務大臣に示したら、答えは「勉強しておきます」だったそうだ。

 本書ではこのシュミレーション結果を、衆議院議員の滝実氏が“質問主意書”で国会で質問した答弁の様子が書かれている。政府は積極財政のほうが財政が健全化することを認めておきながら、滝氏の質問に対しての答弁は“誤差が大きいから従わなくてもよい”ということだった。誤差を問題にするなら試算そのものを出すなよということである。

 第一章  貧乏になった日本、今後どうすべきか

 世界のGDPに占める日本の比率は1999年の17%から2005年には10.3%まで落ちた。ここに世界のGDPに日本が占める割合を示したグラフがあるが、ほとんど急激な右肩下がりである。不思議なことは、世界経済がここ30年間で最も良くなっている時に、日本だけがこういう凋落のカーブを描いていることについて政府もマスコミも何も言わないということだ。もうひとつのグラフは2007年2008年の名目GDP予測が、OECD加盟30ヶ国中、日本が最低の水準になっていることを図示している。下記のグラフは一人当たりの名目GDPの国際順位である。右側の急峻な崖のような斜面が小泉政権時代である。まさに奈落へ向かって一直線に滑り落ちている。

Photo_3

 1994年は世界一豊かな国であったが、継続的な経済政策の失敗で、2006年には18位まで順位を下げた。国民がどんどん貧乏になっていることがはっきりとわかるグラフである。ただし、小渕内閣の時だけは一時的に積極財政を行なった成果が現われて世界第二位まで行ったが、すぐに積極財政への逆噴射をかけて経済は墜落した。森政権と小泉政権の失敗で日本経済は1971年の水準まで凋落した。大手マスコミの報道姿勢が世論を誘導していると思われる節(ふし)があるから、小渕さんが評価されなかったのは、何らかの恣意的な画策が働いていた可能性がある。逆にマスコミは小泉構造改革を、まるで救世的な政策であるかのように大々的にかつ肯定的に報道しまくった。まるで日本だけが“積極財政策”を取るのを嫌っている大きな力が働いているのではないかという疑念が生じてくる。

 安倍氏の積極財政に対する考え方は、まるで小泉構造改革が逆戻りしてはならない素晴らしい景気回復であるかのような言い方をした。改革を止めたら時代が逆行してしまうかのような言い方である。これは新自由主義特有の単線的な進歩史観モデルに沿っているのである。こういう言い方は小泉元首相が最も顕著で、竹中平蔵氏なども、この欺瞞の進歩史観を構造改革推進の常套句として使った。すなわち“改革か後戻りか”の二者択一であり、改革に批判的な者はすべて“抵抗勢力”と決め付けた。積極財政こそ取るべき第三の道だった。経済をよくわかっている人たちや、外国、例えばニュージーランドや南米諸国の事例をよく見ていた人たちには、新自由主義経済の適用が結果において、ことごとく無残な失敗に帰していることをよく承知していたはずだ。ところがマスコミはそういう本物の知識人たちの言葉をテレビや新聞で紹介しなかった。それどころか、小泉構造改革の本質が新自由主義(ネオリベ)であるということさえ伏せて、頭ごなしに賞賛していた節があるのだ。

 歴史に学ぶデフレ脱却法

  デフレ脱却法は良く知られていて、政府が日銀と協力しながら適切な規模の財政出動をすること。その事例として、小野氏は大恐慌時の大蔵大臣・高橋是清と日銀総裁・深井英五の協力体制を築き、国債の日銀引き受けという形で財政と金融両面から景気を刺激した話を掲げている。

 特に小泉政権が顕著だったが、最初からデフレ脱却は不可能という姿勢があったようだ。新聞(特に日本経済新聞)は、積極財政論的な予測を行なったとしても、けっしてそれを発表することはない。このように積極財政を頭ごなし否定する根拠として、“いったい財源はどこから出てくるのか?”という設問が必ず出される。財源は国債の増発と仮定して金利を低めに誘導する必要があると持っていく。そのように多くの国債を発行してもいいのかという問題提起だが、結果としてGDPが増え、景気が良くなって税収は増える。国の借金のGDP比は減る。これを示す図も必見である。小野氏が積極財政による再生というこれらの試算を発表しようとしたら、日経新聞が公表するなと言ってきたらしい。このあたりのことは本書を読んでもらいたい。要はこの日本には“積極財政”を忌避しようとする何らかの勢力が目を光らせているということなんだろうか。こういう経過はあまりにも異常である。

 日本は過去に“資産デフレ”で千数百兆円という膨大な資産価値が失われている。しかし、政府は40兆円足らずしか景気対策を行なわなかった。積極財政はある程度持続的に行なう必要があるが、これまではそれをやったとしてもすぐにブレーキをかけたために効果が出る前に景気が活性化しなかった。適切な規模で適当な時間を持続させる必要がある。しかし、小渕政権の例を見れば、積極財政はやれば必ずそれなりの効果が出ることが証明されている。1999年以降、国民の可処分所得は減り続け、貯蓄を切り崩して生活しているという悲惨な状況に立ち至ってきた。小泉政権ではメディアの画策がかなり大きいが、結果として国民は自分たちを痛めつける政権と政策を受容してしまった。小野氏はこのまま可処分所得が減少し続けたらどうなるかについては、あまりにも恐ろしい想像が襲ってきて計算を放棄したらしい。しかし、可処分所得が今後変化しなかった場合と、毎年2.5%ずづ増加した場合は数年後には直線的に増え始めることを確認している。

 デフレ下では賃金はさがり、リストラは促進される。こういう状況で消費が伸びるわけはない。一刻も早くデフレを解消しないと日本は貧乏になる一方である。

 国債の大量発行で国債の格付けが下がり、国債が暴落するという嘘

 この箇所には著者の面白い記述が書かれている。国債の増発で国債の信用低下が起こり、財政が破綻すると主張して国民の恐怖感を煽っているエコノミストに対して、著者が怒りとともに痛烈な批判をしている。それは本書で読んで欲しい。こういうエコノミストも国民の貧乏に積極加担しているということだ。もしも、十年以上も前に「国債を増発すれば国債が暴落する」ということが大間違いであることに気が付いていたなら、適切な規模の国債を適切な時期に発行し、日本経済の没落を未然に防げたと著者は語っている。

 景気が良くなって金利が上がることを、あらゆる手段を講じて阻止しようとしているのが財務省である。金利が上がれば膨大な国債の利払いが増え、財政が破綻する。だから景気が良くなっては困るという論理である。小泉元首相も安倍前首相も財務省の言いなりだった。(ただ、管理人が思うに、安倍前首相の場合は辞任寸前に財務省に反旗を翻したためか、大臣の金銭スキャンダルが軒並みに続いていたのかもしれない)

 日銀にもっと国債を保有させれば日本の貧乏は食い止められる。これを阻んでいるのが日銀の“自主規制”である。日銀の不文律として、“長期国債の保有は日銀券発行残高まで”という自主規制がある。神州の泉・管理人も知らないし、これをマスコミが言った事はないのだろう。これについては滝議員が安倍首相に質問し、答えを得ているので本書を読んでもらいたい。政府はこの質問に逃げ腰である。日銀がこういう自主規制を持つことで長期国債の保有が厳しく制限され、その結果として日本は財政悪化に陥り貧乏国家になっている。

 その他、日本の公共投資は悪者扱いされて久しいが、我が国は国土の特異性や自然環境の風災害が多いことなどから、防災的治山治水や道路整備などは不可欠な投資環境にある。ここで、一つの有効な試みとして九州大学名誉教授の“洋上風力発電構想”が提言されている。この装置を日本の各海岸沿いに設置すれば、原子力発電の半分のコストで、二酸化炭素を排出しないクリーンな電気が発電できることがあげられている。効率のいい風力発電であるから、政府が決断すれば実行可能である。

  第二章および第三章は質問主意書を使った安倍前総理との質疑応答の解説である。これを読むと、積極財政に対する政府の異常な忌避姿勢が浮かび上がってくる。

 以上、小野盛司氏の『日本はここまで貧乏になった』の概要を紹介したが、日本がなぜここまで貧乏になったかをこの本は、見やすいグラフとわかりやすい説明できわめて端的に説明している画期的な本である。なぜ、実力のある日本経済がここまで閉塞的な状況に置かれているかを考察する非常に有力な一助になることは間違いない。今は、有象無象のエコノミストモドキが書いた本が数多く出ているが、本書はエコノミストの植草一秀さんや、内橋克人氏の本と同様に、真摯に国民の立場に立った数少ない良書の一つである。皆さんも是非ご覧になって欲しいと思う。

                     神州の泉・管理人

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2007年11月 9日 (金)

小沢党首に働く米国の報復意志

 植草一秀さんのスリーネーションリサーチ(株)、11月7日付けコラムで、植草さんが小沢一郎氏の今回の動きの背景について、米国の圧力が介在していることを指摘しておられた。植草さんは言う。小沢氏の動きは、表面的には「連立政権樹立構想」及び「テロ特措法」に前向きの姿勢を示したことが、今回騒動の引き金になったととらえられてるが、実際の米国の思惑は、インド洋上における自衛隊の給油活動の継続であり、小沢氏がこれに反旗を翻したことに対する徹底的な報復が始まったという見解である。

 植草さんも基本的には前記事で書いた私の見方と共通している。結果的には慰留を受け入れた小沢氏は、今回の件でぶれた行動を取ったことに恥を感じているという言い方をした。私は小沢氏には詳しくないが、少なくとも、今回の慰留受け入れは、故田中角栄の申し子として育てられた時代から見て、彼の行動様態にはあり得ない“ブレ”であった。らんきーブログさんはここに人間小沢一郎を見たと評価していたが、私もこの終息形態に小沢氏の度量と胆力の大きさを見る。小沢氏がデヴィッド・ロックフェラー氏の甥であるジェイ・ロックフェラー氏と懇意であるという情報を加味しても、テロ特措法延長の件に関して、小沢氏は米駐日大使のJ・トーマス・シーファー氏に、公然と延長反対の意見を示したのは記憶に新しい。参院選で従米型の自民党政策が否定され、民意が小沢民主党に注がれてきた矢先、小沢党首が米国の対日意志に真っ向から反対意見を唱えたという事実を、米国権力筋は許せないのである。つまり、自衛隊による給油が一時的にできなくなっても、他国が代行できるから、テロ特措法延長や給油新法不成立が直接米国の悪影響になることはないが、米国が問題としていることは、属国日本が小沢氏の口を通じて宗主国の米国に楯突いたということを問題視しているということだ。

 そういう意味では植草さんが、米国の傀儡政策をとった小泉売国構造改革推進急進派に狙われて国策捜査のターゲットにされたことと、同様の“憎悪”が小沢氏に向けられたということはほぼ間違いのないことだろう。これに読売のナベツネ会長や経団連の御手洗富士夫会長、前清和会の森喜朗氏らが動いた。彼らはネオリベ構造改革固定派の急先鋒たち、すなわち米国の忠実な奴隷たちだ。しかし、考えてみると今の民主党党首が小沢氏以外の人物であったなら、こういう終息に持っていけずに、米国の望むとおりに民主党の大崩壊に直結した可能性は高い。それを考えると小沢氏の胆力・度量の大きさにかろうじて我が国は救われたという形になっているのかもしれない。

 しかし、私は何度も言うが、米国(米系国際金融資本)の意志は、郵政民営化見直し法案成立の気運をつぶす目的があったと見ている。この騒動がなかったら、今は国民新党の綿貫党首と民主党の小沢党首が当該法案の件で党首会談をしている時期だった。

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2007年11月 8日 (木)

大連立構想よりも自公政権の打倒が先

(以下は産経ニュースより抜粋)

○小沢氏は記者会見で「2カ月前後前にさる人に呼ばれ、食事をともにしながら話を聞いた。
○小沢氏は「さる人」の実名を伏せたが、「小沢氏に最初に連立を持ちかけたのは渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長」(自民党幹部)とされている
○複数の政府・与党関係者によれば、首相の代理人は森喜朗元首相とみられている。

 やっぱり、今回の大連立政権騒動の着火元は読売新聞のナベツネ会長と、小泉構造改革を陰で牽引した旧清和会(現清和政策研究会)の森喜朗氏であった。国民から見て、今回の二大政党党首による会談の意味することがよくわからないなどと言ってみても、ナベツネ会長と森氏という二人の妖怪が起爆装置になっていたと見れば、詳細は見えなくとも、ことの本質はきわめてはっきりしていると思う。それはぜったいに国民のためにはならないということだ。私個人は政党の党首同志が密室で膝を突き合わせ、腹蔵なく肝要な政策を話し合うこと自体は特段問題はないと考える。古来から敵将同志が一時的な談判を行い、それが和睦に結びついたり、決定的な対立に向かったりすることはよくあったと思う。党首の権限とはそれだけ絶大であり、その行動が独断専行として非難される筋合いはない。

 しかし、今回の膝詰め談判で、大連立構想を出したのは読売の渡辺恒雄会長であり、彼が“お国のために”ということでもちかけたらしい。9月の総裁選の時、読売新聞が麻生氏不利の露骨な偏向報道を行なって、福田氏を誘導的に当選に導いたことは記憶に新しい。私が弊ブログで指摘したが、読売が麻生氏当選に熾烈な危惧を持ち、誘導操作的な報道によって福田氏を当選させたことにははっきりとした理由があった。それは麻生氏が郵政民営化において、郵政公社の分社化にはっきりと反対の意志を持っていたからだ。麻生氏の考えは、郵政は単一会社のままに保持し、段階的(慎重に)に分社化して行くという方針であったが、年次改革要望書の強力な実践者であった竹中平蔵氏は初期からこれに猛反対していた。二年目のその構図は、竹中氏が去った後も、そのまま今回の総裁選に持ち越されてしまった。もしも麻生氏が総理総裁になったら、米国金融筋は、彼らの本懐である郵政資金の掠奪が遅れることになる。それを嫌った米国政府(金融)筋が圧力をかけて読売を動かし、反麻生氏のキャンペーンを張ったということである。

 つまり読売は日経と同じように、現段階では朝日新聞以上に売国奴の高いメディアということになる。これを統括するナベツネ会長が今回の二大党首会談のきっかけをつくり、その仲立ちを、「旧清和会」を引率し、小泉売国構造改革を陰でバックアップした森喜朗氏が行なった。大連立構想などというものの本音は明らかに、米国主導型の小泉構造改革の継承を目的とする動きに決まっているのだ。しかも、その本丸であった郵政資金の完全獲得はこれからである。彼らにとって、その大事な時期に“郵政民営化見直し法案”の動きが出ることはぜったいにまずいのだ。国民新党から出されたこの見直し案については、下記のニュースにあるごとく、綿貫民輔氏と小沢一郎氏は近いうち(つまり今のこと)に党首会談を開く予定があった。

 私は今回の連立大騒動劇も、郵政民営化見直し法案を潰す目的だと考えている。国際金融資本は国民の目から、郵政民営化について考え直すことをいっさい忌避しているのだ。なぜなら、民意は参院選で小泉構造改革を完全に否定したからだ。構造改革そのものが、国民を痛めつけるいかがわしいものだということになれば、当然ながら、その構造改革の本丸である郵政民営化が、実は非常に反国益的な性格を持つ法案だったことが国民に知れ渡る可能性は強くなる。彼らにとっては、今がその危険ゾーンに入っているのだ。メディアの論調を見ても、テロ特措法や「給油新法」だけに傾斜していることがよくわかるだろう。これは郵政見直し法案から人々の関心を遠ざけるためである。

 民主党は、大山鳴動してネズミ一匹というよりも、雨降って地固まるということで結束し、卑屈さを丸出しにして米国に尻尾を振りながら郵政民営化に走った自民党の打倒に専念すべきである。国会を「給油新法」の論戦に使うために会期延長するということであれば、そんなものはあとにして、郵政民営化見直し法案を国会論戦の主題にして欲しい。櫻井充議員などに大いに期待する。

 ちょうど今、筑紫哲也氏のニュース番組で、大連立構想が頓挫したことについて、小泉前首相からの“たいへん残念だった”という談話が語られた。この一事をもってしても、今回の騒動の背景に米系国際金融資本の力が働いたことは確実である。

  (NIKKEI NETから)
(10/17)郵政民営化、「株式売却を当面凍結」・民主党が見直し法案を了承
 民主党は17日、国民新党が共同提出を求めていた郵政民営化見直し法案を了承した。今国会に提出する。政府が保有する持ち株会社日本郵政の株式や、日本郵政が持つゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の株式の売却を当面凍結することが柱。郵政3事業の一体的な経営を維持する狙いだ。民営化見直しを検討する規定も盛り込んだ。

 国民新党は同日の両院議員総会で、参院で民主党と統一会派を結成することを決めた。両党は近く党首会談を開き、正式合意する。

 

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2007年11月 7日 (水)

今はポチ自民党を叩きつぶすこと!!

 前記事の補足になるが、二党首会談後の小沢一郎氏の不自然な動きは、結果的には民主党の結束力の脆弱性を露呈した形となって党のイメージをそうとう傷つけていることは否めない。小沢氏の人となりを古くから知る石井一議員が小沢氏に、“この間の参院選で民意は安倍さんではなく、あなたを選んだんですよ、その重みを自覚しているんですか?”と問いかけたら、小沢氏は強く反応したと言っていた。一般レベルで考えれば確かにこの通りである。小沢氏個人の人格や政治手法はともかく、今の政局バランスにおいては、民意が民主党に注がれていることは間違いないし、その機運を大事にして、民主党はこの機会に売国自民党を壊滅させる重大な責任がある。

 戦後、良くも悪くも(悪いことのほうが多かったが)自民党一党独裁体制で対米隷従的な政権を踏襲していた我が国も、小泉政権という稀代のペテン的政権の破壊行為によって国家が徹底的に毀損されてしまった。羊の群れのように従順な日本国民もようやく、自民党政権がこのまま続くと、国民利益を毀損する方向性しか持たないことに気が付き始めた。日本全土が格差の弊害に怯え、デフレ構造の固定化はますます一般庶民の生活を苦しめている。特に地方の疲弊は凄まじく、小泉構造改革路路線に対する怨嗟の声は熾烈さを極めている。国民に我慢を強いて、やがては良くなるとうそぶいた結果が凄まじい格差社会(傾斜配分社会)を現出し、国民生活を徹底的に苦しめている。

 歴代の自民党政権は、基本は対米隷属構造を踏襲していたが、それなりに面従腹背の気概もあり、国民利益をかろうじて守っていた面もあった。しかし、中曽根政権がレーガノミクス(あるいはサッチャリズム)を無批判に招き入れてから、我が国は新自由主義的な路線を受け入れるベクトルを有して行った。宮澤・クリントン時代には『年次改革要望書』を受け入れてしまい、その陰湿な従米路線の帰結として、小泉政権が完全に米国の傀儡政権と化した。この間には小渕政権が唯一積極財政の試みを行なって日本経済を復活させたかに見えたが、反積極財政派のブレーキによって、我が国は再びデフレの地獄に突入した。これらを冷静に眺めると、我が国の経済状態は単に国の指導者がブレーンを使って計画推進する政策以外の大きな外力が働いていることが見えてくる。この外圧を単純にアメリカと言い切っていいのかどうかは疑問が残るが、少なくともその主体が“国際金融資本”にあることは間違いない。

 経済力と軍事力は“国力”の両輪である。この両輪が、外圧によってまともに稼動できない国家をはたして国家と呼べるものだろうか。経済と軍事力は関係ないと考えている国民が大勢いるようだが、クラウゼビッツの『戦争論』などを読んでも、それが根本から間違いであることがわかる。我が国経済の現状は、江戸末期の日米修好通商条約の構造とまったく同じ不均衡状態にある。それはいくら経済力をあげて頑張ろうとはかっても、アメリカの外交圧力に睥睨され、国益に沿う経済政策を断行できないような状況に置かれてしまっているからだ。日本は戦争に負けて充分に敗戦国の惨めさを味わってきた。しかし、歴史は縷々進展している。いつまでも米国を宗主国対象に見るべきではない。自衛隊は充分な装備を持っているから、国土防衛はその気になれば可能だ。問題は米軍の進駐を当然のように許容している日本の惨めな負け犬根性にある。日本の国土は日本人が守るという当たり前の形にすることが大事なのだ。ところが我々は戦争贖罪史観があるので、日本が軍隊を持つことには忌避感情を抱いている。これだからアメリカが宗主国面をするのだ。このいびつな自虐を克服しないといつまでたっても日本はアメリカの財布になり、シナ(中国)の防波堤に使役されることになる。つまり、私はナショナリズムでこいういう見解を言うのではなく、一国の体裁を保てるごく当たり前の国になればいいという普通の視点で考えている。他国に国家防衛を任せる国など、未来永劫にわたって自立は無理である。しかも、軍事力を肩代わりさせている国が侵略や収奪を国是としている国だった場合、最悪ではないか。日本は古代国家“カルタゴ”が、いつかたどった道をたどっているような気がしてならない。

 日本は国際的に普通の国になることを志向しないと、経済力も国力も充実するなどという事は絶対にあり得ない。日本の真の問題は国家意識が崩壊に瀕していることと、共同体的結束がすべて悪として否定されていることにある。日本人が小泉政権や新自由主義の跋扈を許容してしまったことの真の理由には、日本人の自己同一性の崩壊がある。したがって、ただ単に今の深刻な問題を構造問題だけで捉えるべきでもない。

 さて、自民党と小沢民主党の話に戻るが、参院選で自民党が大敗北したことは、民意が民主党を選んだわけではなく、小泉的な自民党を国民総意が否定したのである。民主党はこの空気を読んで、自らが信任されたわけではないという謙虚さを持ち、小沢党首を中心に一気に自民党を叩きつぶす局面に入っている。今、売国自民党をつぶしておかないとこの国の再生はおそらく無理ではないだろうか。民主党が今やるべきことは徹底して自民党の息の根を止めることである。この作業を終えた暁に、志の高い政治家が集い、好きなように合従連衡を行い、国政の建て直しをはかればいいと思う。しかし、国内問題とは別に、米国や国際金融資本とどう対峙していけばいいかという最も重要な問題は厳然と存在するわけであるから、国家の舵取りを任せる大人物の登場に期待せざるを得ない。歴史が日本の消滅を望んでいないなら、かならずそういう人物が現われると思う。ある意味、今は明治維新の動乱期よりも大変な時代である。

 さて、テロ特措法を如何にするか、国際貢献を如何にするかなどということは重大な局面にある今の日本では瑣末なことだ。そんなことはあとでいいのだ。喫緊に優先すべき大問題は、郵政株式会社、郵貯、簡保の膨大な株式の売買を即時凍結することにある。この動きを牽制するために小沢民主党に今大きな力が働いている。こんな頼りない寄り合い所帯の民主党でも、今の動き如何に国家の命運がかかっている。この事実を冷静に見て、民主党も国民も“郵政民営化見直し法案”を早急に成立させ、国民の共有財産の防衛を行なうべきだ。

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2007年11月 6日 (火)

小沢氏の動きの裏に外資による“郵政民営化見直し法案”つぶしの意図が!!

 ここのところ、民主党党首である小沢一郎氏の動きが不可解で悶々としていた。いや悶々としていたわけではないが、ある種の危機感に襲われていたと言った方がいいかもしれない。福田氏と小沢氏の両二大党首が膝を突き合わせて何を語り合ったのか、実際のところはわからない。見えてきたところは、二党の大連立構想があったという話がどちらからともなく起き、結果的にそれは民主党にとって寝耳に水の話であり、党首辞任の話になった。 しかし、民主党の総意は小沢氏に党首辞任を思い留まらせたいということである。

 この二大党首談話の結末はまだついていないが、小泉構造改革を旗印とした自民党の横暴に嫌気がさしている人々にとっては、小沢氏の今回の行動や辞任表明はまさに仰天なことだった。夏の参院選でせっかく小泉構造改革に“ノー”を突きつけた国民的総意が、民主党支持に傾いてきていた矢先、小沢氏のこのような行動形態はこの趨勢に水を差すことになると誰でも思ったことだろう。民主党という党は、政治信条や思想構造から見れば、保守と左翼の寄り集まり所帯であり、求心力を有するはずの思想上の屋台骨は大きく二層構造になっていて繋ぎとめられていない。したがって民主党とはごく小さな地震でも、党全体は大きく揺らいで崩れそうになる構造を持っている。こういう頼りない党にあって、重厚な田中型政治を踏襲する小沢氏の求心力は相当に大きい。それだけに小沢氏の一挙手一投足は党の命運を左右するわけであるが、逆に言えば、自民党が恐れているのは烏合の衆の民主党というよりも、それを束ねる小沢一郎氏なのである。その小沢氏が外側から見ていて奇妙奇天烈な行動を取った。

 大連立構想というのが、小沢氏から出たのか、あるいは福田氏から出たのかはともかく、国民の素直な思いはそういうものではない。政策の確実な実現こそが国益に適うと言っても、小泉路線を継承する自民党と数合わせの論理で妥協した政策など、国益・国民益に沿うはずもない。今重要なことは小泉構造改革路線の否定とともに、傷ついた日本の修復ではないのか。このような時に国益を売り渡すやからが大勢集まっている自民党と大連立構想を持ったり、合従連衡を行なったりする動きはけっして国民が望むものとは一致しない。したがって今回の小沢党首の動きは客観的に観てそうとうに不可解なものだ。

ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報』さんを見ると、あの金融界の超大物デヴィッド・ロックフェラー氏が来日中だそうである。彼が自著のサイン会だけのために来日するはずがない。当該ブログの管理人さんが推測しているように、小沢氏の不可解な動きと、このロックフェラー氏の来日は無関係ではないはずだ。おそらく小沢氏でも抗しきれない大きな力が働いたのだろう。私は以前、ある人から小沢一郎氏はデヴィッド・ロックフェラー氏の孫であるジェイ・ロックフェラー氏と親しいと聞いたことがある。爺さんと孫が同じ考え方を持っているとは限らないが、同じ国際金融資本の元締めであることは変わりがない。こういう大物が日本を訪れる理由は、政界財界に対して何らかのテコ入れをしに来たと考えて間違いないだろう。国際金融資本・総本山の大王が来日した目的とは、もしかしたら郵政民営化にあるのではないだろうか。

 もちろん私の憶測だが、デヴィッド・ロックフェラー氏は、国民新党が提案して、民主党に持ち込み、統一会派を結成して“郵政民営化見直し法案”を参院に共同提出したことを怒り狂っている可能性がある。この法案が可決して運用されれば、郵便、郵便貯金、簡易保険の郵政3事業の結束的一体経営が行なわれ、持ち株会社の日本郵政などの株式売買を凍結されてしまうからである。これが彼ら国際金融資本には許しがたいできごとなのである。民主・国民新党の統一会派は、参院選後に小沢一郎氏が国民新党の綿貫代表に打診したものである。したがってこの統一会派の行動の鍵を握る人物が、勢力分布から言って小沢氏になることはほぼ間違いない。だからこそ今、デヴィッド・ロックフェラー氏は来日し、読売を使って小沢氏を叩き、民主党の屋台骨を壊そうとしているのではないのか。つまり、小沢氏の辞任騒動の裏には、国際金融資本による郵政民営化見直し法案つぶしの意図を感じるのである。

(※訂正 : デヴィッド・ロックフェラー氏はジェイ・ロックフェラー氏の叔父。爺さんと孫と言うのは管理人の思い違い!!)

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2007年11月 4日 (日)

『夕焼けの詩』&『ALWAYS三丁目の夕日』

 先週の金曜日、テレビで映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を途中から観て、いつの間にか自分の昭和30年代に遡行し、思わず涙が出ていた。当時のセピア色の思い出に浸った私は、さっそく翌日公開された『続・ALWAYS 三丁目の夕日』を観に行ってきた。まだ観ていない人のために続編のストーリーを語ることはあえてしないが、やっぱり涙腺が緩んでしまい、私の想いはあのなつかしい幸福な時代へ飛んでいた。観終わってからすぐに席を立つことができなかった。恥ずかしくて他人に顔を見られるのが嫌だったからだ。

 一作目、続編とも、この映画はかけねなくいい作品だと思う。この作品はビックコミックオリジナルという雑誌に、西岸良平(さいがんりょうへい)という人が描いていた『三丁目の夕日 夕焼けの詩(うた)』というのが原作になっている。1974年から連載されたらしい。いつ頃まで続いているのか私はわからないが、いつかゆっくり読んでみたいという思いも特にはなかったので、このコミックについては、つまみ食い的に読んだ以外はほとんど知らない。しかし妙に気持ちに触れてくる漫画であったことは確かだ。私の年代ではどこかのラーメン屋さんや喫茶店で一度は目にしているのではないだろうか。今でこそ、この漫画はほのぼのとしているとか、失われたあのなつかしい頃とかいうフレーズで知られてきているが、昔、私がラーメン屋さんなどでこれを見たときは、正直言って読むたびに複雑な思いにとらわれていた。一つはまったく今の時代にそぐわない懐古趣味で、あの失われた時代をこのように再現していったい何になるのかという気持ちがあった。今はスピードと効率を旨とする“イケイケどんどん”の時代、あのようにのんびり構えていたら時代に取り残されてしまうではないかという感覚が強かった。

 時代の空気というものに、ある種の傾向がまとわり付いているとしたら、その効率至上主義の傾向は現在も変わっていない。いや、むしろそれは年々先鋭化している。現代は情緒を味わう時間を持つこと自体が“悪”なのだ。当時、仕事に追われ、毎日あくせく働いていた時は、いくら頑張ってもまだ遅い、このままでは会社も個人も生存競争に打ち勝てない、もっと効率よくパワフルにやらなきゃならんと、私だけではなく社会全体の趨勢としてそういう空気があったのだ。週末のわずかな時間を、見飽きている同僚と忙しく飲み歩き、仕事と飲み歩きで疲れたまま、ねぐらに帰る。貴重な休みは心身の休養を兼ねて自分の好きなように無為に過ごしたくても、既婚者は家族サービスで出かける羽目になり、独身者は付き合いや会社以外の情報を得るために友人や異性と必死でどこかへ出かけていく。あるいはローンでやっと購入した車を目的もなく乗り回したりする。高度経済成長とバブルの残渣は、日本人を“静けさとゆとり”からすっかり遠ざけ、内面をハツカネズミの回し車のような状態に追いやった。人間の通常様態が“ハツカネズミの回し車”状態なら、本物の休息と慰撫を得るためなら、人間は“回し車”から降りて、周囲の景色をゆっくりと見る必要がある。私が“回し車”と形容したものの正体が何であるか、いまさら言うまでもないが、これが産業革命以来、英米が主体となって回し続けていた産業資本主義を基軸とする文明形態である。この究極的な姿形が新自由主義である。

 話を戻そう。日本人の貧乏性という性癖なのだろうか。余暇にゴルフや温泉地へミニ旅行をする者は多いが、人々は押しなべてゆったりした自己の時間を取り戻せないのである。他者の様子を見ているとわかるが、彼らはせっかくの休養の時間も“ハツカネズミの回し車”みたいな息せき切った心理状況にある。そんな時、私のように根っから右倣(なら)えを嫌う一部の日本人(笑)は、ラーメン屋などで西岸良平氏の“夕焼けの詩”を見て、その世界に垣間見えるテンポのずれた静けさにイライラしながらも、ほっとため息をついていたのではないだろうか。私に関して言うなら、この漫画はいつ読んでも奇妙に心に引っかかるものがあった。それはあたかも、時々見ているが目覚めたら、かすかにしか覚えていない夢のようなものである。その時代にそぐわない妙ちきりんな漫画が、いつの間にか『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画になって人気を博していた。ただし、この映画が、西岸良平氏の“三丁目の夕日 夕焼けの詩”に流れる独特の静けさを踏襲しているのかと言えば、答えは明らかに“ノー”である。だからと言って、映画作品の出来が悪いのかと言えば決してそうではない。これはこれで充分に成功している作品だと思う。特撮を使った昭和30年代街並みの再現シーンは圧巻であり、それをセピア色のフィルターで統一したことは、ノスタルジックな時代再現にはきわめてよくマッチしていると思う。観客の既視感覚(デジャブ)に訴えるなら、初回作品は見事に成功している。第二作はこのセピア色を少し押さえたことが気になった。観客の心象風景を触発するなら、むしろセピア色をもっと強調してもいいくらいだ。

 しかし、映画ならではの動きや色彩感覚が、あの時代色を良くつかんでいると私は思った。映画は動きが中心なので、西岸漫画におけるあの何とも言いがたい独特で静かな雰囲気はないが、漫画と同様に、この映画も、やわらかく切ない哀しみが混じった私の記憶を奇妙にくすぐるのである。マルセル・プルースト作『失われた時を求めて』の有名な場面にある、紅茶に菓子を浸した時、忘れていた幼年期の記憶が鮮やかに甦ってくるような感じであろうか。この映画には明らかに“プルースト効果”がある。何と言えばいいのか、昔の街路灯の淡い光みたいな映画である。漫画の話に戻るが、若いころの私は西岸氏の「夕焼けの詩」に惹かれはしたが、必ずしも好んで読みたいと思うものでもなかった。理由は漫画全体のトーンがあまりにも切な過ぎて、若い私の生き急ぐ時間感覚に合わなかったからだ。それはちょっと耐えられないという感じだった。だから、ラーメンのできあがりを待つ間の無聊(ぶりょう)を埋めるために漫然と読んでいたに過ぎない。しかし、妙に切ない心持ちになりながらも、結局は一話完結のその物語を読みきってため息を漏らす気分になっていた。五十路に至った今は、一丁前の日本人らしく“もののあはれ”を正面きって感じてみたくなっているせいか、却って西岸氏のこの作品に興味が強くなってきている。今の私は、その漫画の全体の雰囲気を素直に鑑賞できる年齢になっているようだ。

 そんなこんなで、どんどん馬齢を重ねていくうちに、この漫画が土台になった『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画ができていた。私は昭和27年生まれだから、この映画の時代設定で行けば、当時の私は6歳、7歳だったことになる。東京タワーができたころだが、秋田県の田舎で育っていた私は、その後に到来する高度成長期をシンボライズしたその東京名物の電波塔については名前だけしか知らなかった。当時は東京そのものが憧れの都(みやこ)だったから、東京タワーと東京は幼い私にとっては同義語だった。この映画の舞台としてイメージされている場所は、港区西久保巴町(現虎ノ門三丁目)辺りをモデルにしているようだと他のブログに書かれていたが、当時の街並みは、東京でも、地方都市でも、田舎町でもさほど大差なかったように思う。特に商店街の風景はどこでも似たような感じだった。

昭和33年当時は、六歳という年齢からして、そのころの細部の記憶が残っているわけではないが、時代の雰囲気は当時の遊びを通じて今でも鮮明に覚えている。特にその後の五年くらいの期間である昭和38、9年ごろまでは、私にとって人生の黄金時代とも言える時期であった。よく光り輝く黄金時代という形容がある。たしかに幼年時代の記憶はまぶしい光に溢れていたこともあったが、私の場合は、どちらかと言えば、この『ALWAYS 三丁目の夕日』のように夕焼け色の記憶に彩られている。私の育った郷里が特に夕焼けが美しい場所だったこともある。そんなことを言うなら日本中あらゆる場所がそうなのだろうと思うが。(笑)

 野球、魚とり、飛行機飛ばし、近くの山ですべるスキー、気の合う友達と時間を忘れて遊んでいて、いつしか日が蔭り、遊び足りない気持ちで家路に急ぐ時、目に映えていたのは里山に強く照り映え、やがては淡く暮れ行く残照の風景だった。結局、幼年時代の記憶で自分の中に強く結びついている光景はどういうわけか夕暮れが多い。以上に述べた昭和30年代に関する取り止めのない私の感想はまったく大したことではないし、ブログに書くようなことでもないかもしれない。ただ、今面白いことに私は気付いている。それは非常に単純なメッセージなのだが、昭和30年代にあって、平成の今にないものは何かという問いである。答えは簡単である。それは人間本来に与えられている内面の豊饒性を味わう時間と希望である。これが見出せない日本人は不幸である。今の日本人は昭和30年代の日本人に比べて圧倒的に不幸なのだ。昭和30年代は日本人が戦争のショック状態からようやく立ち上がり、前を向いた時期であった。物資は貧しかったが、未来への希望に満ち溢れていた。しかも、みんなには助け合い精神が強く残存していた。だからこそ、時代が健康に光輝いていた。ニヒリズムが蔓延する前の時代は子供たちが活き活きとしていた。アメリカ型の欲望資本主義、つまり大量生産・大量消費は民族の優しさを摩滅し、その豊かな情緒性をすっかり奪い去った。

 時代が健康か否かの判断基準は、子供たちが未来に希望をどれだけ強く持っているかどうかでわかると思う。そういう観点から言えば、今の時代は敗戦直後の日本よりもひどい時代なのだ。子供たちに生きる希望がない。これ以上、民族の衰退を象徴することはない。為政者の最も重要な仕事とは、国民の付託に応えて、夢多き国家のグランドデザインを描いてやることだ。人間が希望を持てる状態とは、未来を強く想像し、そこへ向かって歩めるんだという確信を持てることだと思う。これが可能な政治家は国民と国家に強い愛情を持っていることだ。未来へ希望をつなぐことができない時代は歴史の存続が途絶える可能性がある。今の日本がそういう位相に突入している。小泉政権ほど国民への愛情が欠落した政権はなかった。愛情どころかこの政権は、外の強欲者どものために、国民に多大な犠牲を強いただけだった。

 私が『ALWAYS 三丁目の夕日』を観るようにお勧めするのは、けっして復古主義でも懐古主義でもない。昭和30年代にあって、平成の今にないものは何かということを画面から感じ取ってもらいたいからだ。『ALWAYS 三丁目の夕日』に関して、昭和30年当時にブレークした落語家の故林家三平の奥さんである海老香葉子さんが印象深いことを語っていた。

 “あの当時はとにかく楽しかった。朝目覚める度に楽しくて仕方がなかった。電気製品とか品物が一つずつ増えて行った。それも楽しかった”

 海老名香葉子さんのこの話は、この時代の大人たちの共通した感覚だった。大人たちが希望を持てる時代は子供たちが幸福なのだ。貧乏を苦にせず先に進む原動力を持てたのは国民全体に希望があったからだ。私はこの国民的希望が経済力に直結していると信じている。小泉純一郎という稀代のペテン師が国民の希望を根こそぎ奪い去って国家経済を危機的状況に陥れた。こういう状況で、サプライサイド重視のデフレから総需要喚起の政策に切り替えろと言っても、国民には響かない。国民が希望を持てる社会インフラを同時に進めるべきだ。そこに政治家のビジョンがある。外国の強欲者の犬に成り下がって、国家をここまで疲弊させた政治体制とはきっぱりと訣別し、昭和30年代の気配を学び取った方がいい。それは時代を逆行しろということではない。国民が決して捨ててはならない民族の心がどの時代にもあると思うからだ。この映画には懐古趣味を超えたメッセージが確かにある。 

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2007年11月 1日 (木)

読者さん情報!!(郵貯・簡保委託先リスト)

 (読者の「本が好き」さんより)


 神州の泉殿

 先日書き込みさせて頂きましたが、郵貯民営化の委託先の件の詳細が国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」メールマガジンに出ていますので、転載させて頂きます。 この情報は、ネットで広がっているようで僕も自分のブログにリンクさせて頂きました。 ご参考まで、

<郵政軍需化>
まずいと思ったらしく、ジャパンポストから
あるリストが突然削除された。

<あわてて削除された後の画面>
http://www.japanpost.jp/pressrelease/japanese/kani/040331j401.html
           削除された内容は

1 郵便貯金資金の委託運用
 (1) 投資顧問会社
  【国内株式】
   シュローダー投信投資顧問株式会社
   大和住銀投信投資顧問株式会社
   日興アセットマネジメント株式会社
   三井住友アセットマネジメント株式会社
   メリルリンチ・インベストメント・マネージャーズ株式会社
   UFJアセットマネジメント株式会社
  【外国株式】
   興銀第一ライフ・アセットマネジメント株式会社
   ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社
                          以上8社(50音順)

2 簡易生命保険資金の委託運用
 (1) 投資顧問会社
  【国内株式】
   ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社
   シュローダー投信投資顧問株式会社
   大和住銀投信投資顧問株式会社
   富士投信投資顧問株式会社
   メリルリンチ・インベストメント・マネージャーズ株式会社
  【外国株式】
   興銀第一ライフ・アセットマネジメント株式会社
   ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社
   大和住銀投信投資顧問株式会社
   東京海上アセットマネジメント投信株式会社
   メリルリンチ・インベストメント・マネージャーズ株式会社
  【外国債券】
   興銀第一ライフ・アセットマネジメント株式会社
   ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社
   富士投信投資顧問株式会社
   三井住友アセットマネジメント株式会社
以上8社(50音順)
   
  【国内株式】
   シュローダー投信投資顧問株式会社
   大和住銀投信投資顧問株式会社
   日興アセットマネジメント株式会社
   三井住友アセットマネジメント株式会社
   メリルリンチ・インベストメント・マネージャーズ株式会社
   UFJアセットマネジメント株式会社

  【外国株式】
   興銀第一ライフ・アセットマネジメント株式会社
   ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社
                            以上8社(50音順)

2 簡易生命保険資金の委託運用

 (1) 投資顧問会社

  【国内株式】
   ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社
   シュローダー投信投資顧問株式会社
   大和住銀投信投資顧問株式会社
   富士投信投資顧問株式会社
   メリルリンチ・インベストメント・マネージャーズ株式会社

  【外国株式】
   興銀第一ライフ・アセットマネジメント株式会社
   ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社
   大和住銀投信投資顧問株式会社
   東京海上アセットマネジメント投信株式会社
   メリルリンチ・インベストメント・マネージャーズ株式会社

  【外国債券】
   興銀第一ライフ・アセットマネジメント株式会社
   ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社
   富士投信投資顧問株式会社
   三井住友アセットマネジメント株式会社
以上8社(50音順)

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超緊縮財政路線の背後に潜む魑魅魍魎

 下記は読者のJAXVNさんからのコメントから抜いて引用した。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
すみません。追記です。
今は「積極財政」を支持しているように見える竹中氏ですが、かつて2001年の自民党総裁選では亀井静香氏が次期政権が「積極財政政策」を行う事を条件として立候補を取り下げたが、その後誕生した小泉政権は緊縮財政路線一辺倒となり、亀井氏との「約束」は完全に反故にされた、という事がありました。今回のこの竹中氏の発言も、単なるポーズだけという可能性は十分あると思います。
「2003.7.22 毎日新聞記事

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 この話は私もネットで見たことはあるが、考えてみれば、小泉純一郎氏が亀井静香氏との約束を破って『超緊縮財政政策一点張り』に突っ走ったのは、小泉氏の気まぐれな思い込みなどというレベルではなく、明らかにアメリカ政府筋の意向があったと私は考えている。小泉純一郎氏は靖国神社参拝に何度か行っている。だから、これは一見保守愛国の形は取っているが、神道形式で参拝しないこと、終戦記念日の参拝公約を反故にしたことなどを鑑みると、真に英霊に敬意を捧げたのか私自身は思いっきり疑念に思っている。しかも、靖国神社には参詣に行く小泉氏が、歴史問題で村山談話をそのまま踏襲している。村山談話で語られた歴史観とは、一言で言うなら“階級闘争史観”である。これで靖国参拝する行為は、思想上の二律背反である。ありえないのだ。こういう一連の仕草を見るにつけ、この人物の国家観・歴史観が遊就館の歴史観とまったく相容れないものであることがよく見えてくる。彼の靖国参拝は偽装である。

 長くデフレが継続していた時期に、あえて超緊縮財政を取る姿勢は、すでに政策のレベルにはなく、日本破壊を画策する意思に基づいているとしか思えない。つまり、小泉氏の姿勢はある意味、まったくぶれずに一貫性を持っていた。その一貫性とは“日本破壊衝動”である。おそらくこれには二種類の位相が存在していたと思う。一つは小泉氏個人の日本に対する憎しみ、あるいは経世会を徹底的に潰したように、過去の郵政大臣の頃からのルサンチマン(怨念)があった。もう一つは日本の国力を弱めようとするアメリカ側の意志である。実質、アメリカは日本を属国様態にしているが、それでは世界に対して同盟国の示しがつかない。だから、エージェント(傀儡)と化した多くの日本人を使って、構造改革という名目の新自由主義的構造替えに奔走した。同時に日本の財産収奪を目立たないように目論み、規制緩和を標榜して、いかにも日本人が自主的に考えたように、障害になる日本的な構造を変更した。この実体は日本から見れば、国家破壊、国体破壊である。小泉純一郎氏や竹中平蔵氏が構造改革という名の下に何を行ったのか。それはネオリベ構造敷設による日本の大破壊であった。その結果、経世会や亀井さんたちが踏襲していた公平配分路線が完全に断ち切られたのである。ここにはケインズ的な積極財政路線を憎む大きな意志が介在しているとしか思えないのだ。

 したがって、小泉氏が亀井氏との約束を履行して“積極財政政策”をやっていたら、今の日本は先進国中でもかなり豊かな位置にいたはずである。しかも植草一秀さんが国策捜査に嵌められることはありえなかった。なぜなら、超緊縮財政的構造改革路線の中心的旗振りであった竹中氏が登用されることはないから、当然、植草さんの政府批判もなかったわけである。要は、小泉・竹中路線とは国賊路線にほかならない。反ケインズのこの路線が相変わらず継続されていることは、国家的大問題である。

 そういうわけで、JAXVNさんが言うように、竹中氏の積極財政肯定発言も、小泉氏と同様に、単なるポーズ、リップサービス的な芯のないものであることがよくわかる。竹中氏が議員の使命感から見ても異常な人物であったことは、今年の10月1日の郵政民営化発車を見届けないで議員辞職をしたことでもわかる。これだけの国家構造の変革を行なった中心人物が、自らが心血を注いで手がけた法案の行く末を見届けずに辞職するのは、一種の職場放棄であり、無責任のきわみである。これを穿って考えると、竹中氏は10年後の完全民営化にはほとんど興味を持っていないことがわかる。彼が喫緊に実行することに精力をつぎ込んだのは、郵政公社の完全分社化なのだ。それは宗主国に貢物を運ぶためにゲートを開いたということに他ならない。日本の金融システムを安定させ、日本全体をくまなく公共インフラの役命を担っていた郵政事業の土台を壊し、米系外資に国民の莫大な共有財産を明け渡した人物、これが竹中平蔵氏である。

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2007年10月31日 (水)

日本経済復活の会に出て

  ◎積極財政論に見える日本再生への真摯な思い

 昨日は、毎月一度開催されている“日本経済復活の会”の講演会に行ってきた。私は地方にいるので毎回は出席していないのだが、ここに講師として招かれる先生の顔ぶれで、どうしても聴いてみたいと思う方の場合は、万難を排して行くことがある。毎回裏切られることはない密度の濃い講演が行なわれている。今回は新党大地の衆議院議員、鈴木宗男氏の話を拝聴した。鈴木氏はパワーのあるお人であった。彼はただパワーだけではなく、一昔前にはごく当たり前だった日本人の類型的な“情”を感じさせる人だった。強烈ではあるが、日本人らしい日本人である。この人が今ではごく稀少なまともな政治家である所以は、“政治の要諦は富の偏りをなるべく均一にして国民に享受させることだ。そのためには国にしかできないことがある”という意味のことを断言したからだ。政治にはこの姿勢が不可欠だと管理人は思っている。この感覚はけっして変わったものではなく、古くは大塩平八郎、近代では高橋是清のような経世済民思想に基づいているからだ。

 鈴木氏は2002年に“やまりん疑惑”で受託収賄罪で逮捕されたが、これは植草一秀さんと同様に間違いなく国策捜査である。鈴木氏の場合は事件そのものを徹底否定したために、437日間勾留されたのだ。今はそのことは書かないが、彼を支えたのは奥さんと娘さんの励ましであったそうだ。彼の強靭な意志力でさえ、家族の支えなしでは耐えられなかったかもしれないということを語られていた。それを思うと、植草さんもよく耐えてこられたと感じる。鈴木氏の話が非常に迫真力に満ちていて惹きつけられた。会場に来ていた人は感動していた。主に語られたことは、日本が政治にしても、社会のあり方にしても、アメリカ型にはなじまないということだった。特に政治は小泉内閣になってからがらりと変わり、それはアメリカ型の新自由主義になった。その新自由主義は、あえて鈴木氏に言わせれば“ハイエク”型であり、強いものがより強くなって弱者を牽引し、やがては社会全体の活力を底上げするという構造を持ったと言う。

 しかし、こういう形は日本にはまったく合わないと鈴木氏は言った。管理人自身はハイエクなる人の考え方は、図書館で借りた“隷従への道”しか読んでいないが、小泉政治はどちらかと言えばミルトン・フリードマンに近い感じがする。要はどちらにしても、新自由主義(新古典主義)は、日本の文化や伝統にはまったくそぐわないと鈴木氏が語ったことは大いに賛同できるのである。今の政治家は自公・民主に限らず、この新自由主義的な色合いに染まった連中が大勢いると思う。彼らが新自由主義を意識していなくても、その理想とする政治モデルが、無意識裡にアメリカ型新自由主義にあるのは明白だ。東京裁判史観の無意識なる受容のせいで、アメリカを客観的に批判する視点を持てないということである。戦前の日本人なら絶対に新自由主義の浸潤を許すことはなかったはずだ。日本人は敗戦ショックと東京裁判によって、アメリカのものの考え方をデフォルトで受け入れてしまう意識の型をもってしまった。戦後民主主義がその端的な証左である。結果的に見れば、国民が小泉政治なる非人間的な悪政を許容してしまった深層には、東京裁判史観の暗くて深い病理的な桎梏を日本人が有しているからだ。

 私(管理人)からすればフリードマンやハイエクは、わかる範囲で言うなら非常に生き生きした経済の感覚からバイアス(乖離)した、言わば狂信的カルト教義のような面持ちを持つ異常な考え方である。ここにはアナーキズムの無機的な世界しかなく、人間の生活を感じさせるリアルな息吹や、社会の多様性、伝統構造はすべて無視されているように思う。思想的に言うなら関岡英之氏の言うごとく、この世界観は明らかに極左急進的無政府主義である。ここには鈴木宗男氏の言うように“情や家族の絆”が欠落しているのだ。また、鈴木氏は今、国会で証人喚問に呼ばれた守屋元防衛事務官について、彼の味方をするわけではないが、今は一民間人となっている者を国会の証人喚問に呼ぶことには大いに疑問だと言った。国会は裁判所ではない。まさに質問者が検察官になっているようで異様であると言った。管理人もそう思う。裁判所があるわけだから、政策論議を行なう場である国会が公判法廷になってはいけないと思う。証人喚問制度は考え直した方がいい。鈴木氏はこうも言った。普通、私のような目に遭った人間はその社会的復活はおぼつかないが、私が政治家に復帰できたことは北海道の人たちの暖かい心と、全国の多くの支援者さんの力が働いたからだと言った。私はこれは政治家特有のリップサービスではなく、本当にその通りだと思った。なぜなら鈴木氏の逮捕勾留は国策捜査だからだ。国民が彼を信じている場合、いかに国策捜査であろうとも充分に名誉回復は可能だという一例だと思う。

 鈴木氏は日本人らしい政治家だと思う。彼のことを抵抗勢力だと言って、バラマキの温床的政治家だというレッテル貼りが横行しているがとんでもない話である。正統的ケインズ型政治家である鈴木氏をバラマキだと捉える感覚そのものが、明白な新自由主義の観点なのだ。小泉政治によってガタガタに傷つけられた日本の社会は、鈴木宗男氏のような政治感覚を取り戻さないと崩壊の道をたどることは必至である。小泉政治を否定するなら、新自由主義そのものを否定し、日本は家族の絆と共同体的結束の重要さを見直す時期に来ていると思う。 

 また定例会には日本経済復活の会・会長さんである小野盛司氏の積極財政論の話があり、今回は彼の新刊書“日本はここまで貧乏になった”にちなんで、小泉政治の深刻な間違いをグラフを用いて説明した。また10月26日の朝日新聞(首都圏だけ?)一面を使って、緊縮財政がいかに駄目であるか、小渕政権が行なった積極財政がいかに日本経済を盛り上げたかを的確に説明していた。管理人はもう少ししたら、小野盛司氏の“日本はここまで貧乏になった”の書評を本記事で書こうと思っている。

 日本経済復活の会の講演は、堅苦しい雰囲気はいっさいなく、端的に言って非常に面白い内容である。正直私は一度も裏切られたことがない。そのつど新しい鶏鳴的な触発を得ている。来場できる方は会場に来てもらって、積極財政論に強く内在する日本再生の心を感得していただきたい。

 日本経済復活の会
   http://www.tek.co.jp/p/index.html

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2007年10月29日 (月)

竹中氏に関する読者さん情報

 前記エントリーで、竹中平蔵氏に関してJAXVNさんからコメントをいただいたので、それを載せます。どうやら竹中氏はその時によって言を左右する人のようです。一介の民間学者である彼が、小渕政権辺りから政府の重要な政策提言に関わる位置に着き、特に小泉政権下では、総務大臣や郵政民営化担当大臣という権力中枢に君臨できたことは、考えてみると我が国の通常政治のダイナミズム(力学)を超えた力が背後に働いているんじゃないかと。小泉政治の傀儡性を最も顕著に体現していたのが竹中氏だったと思います。

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高橋様、こんにちは。
> 私は竹中氏の言葉に驚いた。彼は、今の日本は消費税増税に行くよりも”積極財政をする必要がある”と強く断言したことだ。

私は28日のこの番組は見ていなかったのですが、本当に竹中氏はこのような事を言ったのでしょうか?だとすれば、竹中氏は「あなたは記憶喪失になったのか?」と言われても文句は言えないはずです。しかしながら、竹中氏はこのようにとつぜん意見を翻し、しかもその事に対して何の説明もしない、という事は以前にもありました。米国の「年次改革『命令』書」について、一度「存じております」と発言しながら、その後「読んだ事はありません」と発言を一変させたこともありました。また、この様な事もありました。
「経済コラムマガジン02/10/28(第271号)
竹中平蔵大臣の研究
(中略)
平成11年度の当初予算は、たしかに10年度の当初予算を2兆6千億円上回っていたが、10年度の予算が緊縮予算だったことを考えると、決して積極財政とは言えない。特に10年度の補正予算の規模を考えると、11年度の予算の規模では、11年度によほど大きな補正予算を組まない限り、マイナスの乗数効果も発生することもあり得たのである。本誌がずっと、「小淵政権は、たしかに前半は積極財政であったが、後半おかしくなった」と言っているのは、このような事情である。

経済戦略会議のメンバーに選ばれた頃、竹中氏はテレビ朝日系のサンデープロジェクトに出演し、小淵政権には80点の点数を付けていた。ところが翌年同じ番組に登場し、驚くことに今度は小淵政権に10点と言う点数を付けていた。たった一年しか経っていないのにどうしてこのような評価になるのか、筆者は、本当に不思議に思った。竹中氏は「積極財政はもう良いから、そろそろ緊縮財政への転換が必要」と言って小淵政権を批難していた。しかし12年度予算規模は、11年度とほとんど変わらず、とても積極財政と呼べないものであった。

たしかにこの時分は、公明党の連立参加や自由党の連立離脱を想定した動きがあり、小淵内閣の支持率が低下していた頃である。しかし経済も少し上向き、とても80点が10点になる状況ではなかった。筆者は、この時この竹中平蔵と言う人物が実に怪しい存在に思われた。信じられないくらい言動が突飛なのである。これ以来、筆者には、この人物のバックには何かがあるとずっと感じていたのである。
(中略)
当初、この竹中氏の言う無名な学者を誰が引張って来たのか不明であるが、以前は日経新聞やテレビ東京によく登場していた。しかし政治的に注目されるようになったのは、テレビ朝日系のサンデープロジェクトに頻繁に出るようになってからと言う印象である。

不思議なことに、この番組では、竹中氏は特別の待遇を受けていると感じる。司会の田原総一郎氏は、これまで竹中氏の発言が「コロコロ」変わって来ていることに全く言及しない。それどころか毎回、まるで「先生」に教えを請う弟子のような態度である。他のパネラーも同じである。これは財部氏などが亀井前政調会長に食って掛かるのとは大違いである。(後略)」
http://adpweb.com/eco/eco271.html
経済コラムマガジンの筆者荒井氏は、竹中氏の事を「もはや学者とは呼べない」と評しておられます。私も同感です。ただ、真の問題は「このような人物がなぜ経済のスペシャリストとして大臣にまでなり、いまもなお強い影響力を保っているのか?」という事だと思います(これについては、コラムマガジンの荒井氏は「この人物の背景には、田原総一郎氏などのマスコミ人以外の人々の陰を感じるのである。」とおっしゃっておられますが)。

投稿 JAXVN | 2007年10月29日 (月) 12時48分

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2007年10月28日 (日)

竹中平蔵氏の厚顔無恥!!

 今朝、テレ朝のサンデープロジェクトを見ていたら、竹中平蔵氏が田原総一郎氏と話をしていた。田原氏から竹中氏への最初の質問で“この間の参院選の結果についてはどう思うのか。地方が困窮し疲弊したのは規制緩和と競争至上主義による小泉・竹中の構造改革が原因だという声が上がっているようだが?”と訊ねた。すると竹中氏は“地方の疲弊は世界のグローバル化に対応できていないせいであり、たとえば農協などは地方を苦しめているからです。日本は世界の中でも規制緩和がかなり遅れていて非建設的な意見にいまだに拘泥している”というようなことを言った。また、小泉・竹中構造改革のせいで地方の疲弊が起きたということに対しては、あの当時は不良債権の徹底処理は最も適切なやり方だったということを強調した。

 また、田原氏が地方の公共事業を徹底的に減らしたので、地方から怨嗟の声が上がっているという言い方をしたら、竹中氏は怒った顔で、公共事業を減らさなかったら消費税はとっくに8パーセントになっていたはずですと答えた。そして農協が地方疲弊に拍車をかけているというような言い方をした。おそらく本音は、郵政の次に農協の財産を外資に提供したいという腹積もりなんだろう。私は専門家じゃないからよくわからないのだが、政府・与党内で趨勢となってきた社会保障財源目的の消費税増税論を竹中氏は徹底的な歳出削減論で牽制している。しかし、竹中氏は現在日本がまだデフレ下にあることを認識している。これも妙な感じがする。私のような素人でも、デフレ下で下手に歳出削減をやれば、経済成長を阻害し、デフレを益々増大させると思うのだ。これは積極財政否定論ではないのか。深刻なデフレ下では消費税増税も、歳出削減もネガティブな結果しか出ないのでは。詳しい方に説明を乞いたい。

 途中で御用評論家の財部氏が“私も不良債権処理大賛成なんです”とか、合いの手を入れていた。竹中氏は世界の平均名目成長率は約5パーセントであるが、日本はわずかに2パーセントくらいだから、日本の政策は明らかに失敗である。財政当局がバイアスしているからこうなったと言った。やるべきことは、デフレ状態であるからマネーをもっと出してデフレを解消する必要があると断言した。専門家はどう捉えるかわからないが、私は竹中氏の説明に頭が痛くなってきた。小泉政権下で、物価下落と景気悪化の徹底的なデフレ・スパイラルに日本を巻き込んだ張本人は、確かお前さんではなかったのかと。日本はその後遺症があまりにもひどく、これだけのタイムラグを経てもなお、今、社会のあちこちに悲鳴と軋みを生じさせている。特に植草さんが警鐘を発していたように、緊縮財政下の加速的な不良政権処理、企業に対する過剰(異常)な自己責任原則論の適用で景気は冷えに冷えまくった。小泉前首相は青木建設が倒産を発表した時、政策路線がうまく行っているかのようにこれを歓迎する旨を発言をして市場にダメージを与えている。くわえて、竹中氏の金融再生プロジェクトチームの稼動によって日本は金融恐慌寸前まで陥った。

 私は竹中氏の言葉に驚いた。彼は、今の日本は消費税増税に行くよりも“積極財政をする必要がある”と強く断言したことだ。おそらくそれは、与謝野氏、谷垣氏など竹中構造改革路線に反旗を向けた現自民党政権へのあてつけに言ったのだと思うが、すでに2006年ごろから竹中氏は、自分が確固たる信念として強力に実行していた緊縮財政政策論を、経済成長重視の“積極財政論”に方向転換していたようである。しかし、私は、植草さんを応援する一人として、竹中氏のこの言い方を肯定するわけには行かないのだ。なぜなら竹中氏の言うように、現今日本が何をさておいても“積極財政論”を最優先にするべきなのは正論なのだが、竹中氏が政権中枢にいた時、彼がこの日本に何をしたのかを考えると、彼には今更“積極財政路線”を語る資格などまったくないことがわかる。それを語る前に贖罪意識をもって植草さんの名誉回復を計るのが人間としての筋だ。

 2002年、竹中平蔵氏が金融担当大臣に就任した直後、彼はニュヨーク・タイムズのインタビューで“日本の大銀行が大きすぎるから潰せない(トウビッグ・トウフェール)との考え方をとらない”と発言した。これが日本株式市場に強烈なショックと不安を与え、翌年2003年には日経平均株価は7000円台までに暴落した。

 竹中氏は緊縮財政下で不良債権を内包した企業処理を強行(自己責任原則の貫徹)した後、ITベンチャーなどで経済の活性化を行なうという姿勢であり、需要サイドを無視した供給サイド一点張りの硬直した方法だった。その結果、日本経済は落ちぶれる必要のなかった徒労の低落水準に陥った。竹中氏が目論んだ「金融再生」は、不良債権処理を効率的に行なうために、銀行の自己資本査定ルールの厳正化を徹底し、繰延税金資産5年の計上を恣意的に変更した。この辺は植草さんの『知られざる真実-勾留地にて-』を読んでもらうとわかるが、景気低迷、株価や地価の暴落で銀行が自己資本不足に一様に遭遇している大変な時に、金融庁による自己資本査定ルールの変更は、病気で衰弱している身体に毒を盛り込むような一撃だった。(この文脈とは別に、ここには通常の金融政策から逸脱した犯罪的意図を伏していた可能性を植草さんは果敢にも指摘していた。)これが日本を金融恐慌寸前までの崖っぷちに導いた。竹中氏にはその責任がいまだに厳然としてある。小泉純一郎氏には買弁政権を発動させたこと、そして竹中平蔵氏には日本の金融市場を恐慌寸前まで導いた原動力になった重大な責任が問われなければならない。私はこれを破防法適用事例だと思っている。国家壊滅のレベルだったと認識しているのは私だけだろうか。

 政府は大銀行の倒産を平然と容認するのかという噂がたちまち金融界に流れ、2003年の4月28日には日経平均株価が7,607円に暴落した。ターゲットにされたりそなは一兆九千六百億円の公的資金を注入されて救済された。小泉氏と竹中氏の強力な牽引によって深刻な大不況が招来された。この責任は絶対にスルーできないものだ。こういうことは今では多くのひとたちがブログなどで表明している。しかし、テレビや大新聞では決して言わないのだ。サンデープロジェクトが買弁番組であることは承知しているが、日本をここまで痛めつけた張本人がしゃあしゃあと「積極財政論」をぶち上げている姿を見たら、むらむらと強い憤怒がこみ上げてきた。しかも、国民に積極財政の有効性を語りかけるにふさわしいのは竹中氏ではなく植草さんなのだ。用法が間違っているかもしれないが“盗人猛々しい”という感じがした。あとになって積極財政論を展開するなら、デフレ下で不良債権の加速処理をした間違いを認めろと言いたい。

 小泉政権はなるべく早急に総括する必要がある。この悪政の本質を分析しない限り、日本は先へは進めないのだ。しかし、今はそれよりも早急に郵政民営化の凍結が先決事項である。特に国民新党が提出している“民営化した郵政各社の株売却の凍結を中心とする郵政民営化見直し法案を”優先するべき時局である。

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2007年10月26日 (金)

ブッシュが発表した“対テロ軍事予算22兆円”は日本の郵政資金が当て込まれている!!

 ◎対テロ戦費で22兆円要求  米大統領、過去最高額

 【ワシントン22日共同】ブッシュ米大統領は22日、イラクやアフガニスタンでの軍事作戦など「テロとの戦い」の経費として、2008会計年度(07年10月-08年9月)予算で約1960億ドル(約22兆円)を議会に要求した。単年度でのテロ戦費としては前会計年度を上回り、最高額となる。

 大統領は同日声明を発表、前線で戦う米兵を「ワシントンの党派争いに巻き込んではならない」と述べ、議会多数派の民主党に早期の予算承認を要求した。

 しかしブッシュ政権にイラク政策の抜本的な転換を求める民主党指導部は徹底抗戦の構え。リード上院院内総務は「大統領は議会のゴム印を期待すべきではない」として安易に予算を承認しない決意を強調した。

 要求額は当初から約460億ドル上積みされており、道路脇の爆弾に耐えられる装甲車両7200台の配備、イラクに増派された米軍の駐留経費に加え、来年7月までに削減する5個旅団のイラクからの撤退経費などが含まれている。

2007/10/23 08:43  【共同通信】
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 10月23日のテレビニュースで、ブッシュが来年度の対テロ軍事予算を22兆円と発表した。イラク滞在や治安維持費等の見積もりらしい。9・11以降、対テロと銘打って、米国がアフガンやイラクに侵攻したという進展を眺めると、米国は石油利権を拡大するため中東に橋頭堡を築いたとしか私には見えない。したがって、小泉政権が人道支援の嘘の標榜の下に、自衛隊をイラクに派遣したのは米国の横暴な侵略戦争に日本を加担させたことになる。この流れで米国の底意を冷静に見ると、あの9・11が本当に米国を狙ったテロなのかという疑念が湧いてくるのだ。友人から見るように進めてくれた動画がある。エディ・マーフィーの『大逆転』を監督した有名なアーロン・ルッソ氏へのインタビューである。彼はCFR(外交問題評議会会員)のニック・ロックフェラーと親交を持った時の、ロックフェラーとの会話を生々しく語っている。信じる信じないは別として、世界の動きに微妙に重なってくる内容なので非常に不気味である。この動画は日本語字幕付きで15分くらいの短いものだからご覧になるとよい。

 実はこの動画の内容(真実だと仮定した場合の話だが)と、日本の郵政民営化は強くリンクしているように思えてならない。ルッソ氏は、対テロ戦とは言うが肝心の敵は米国が虚構として作ったものであるから実際は存在していないと語っている。存在しない敵に向かって自国民や世界を詐術にかけているというようなことを、ロックフェラーから聞いた話として語っているのだ。この話を念頭に置いて、ブッシュ大統領の発表を思い出してもらいたい。22兆円に及ぶ膨大な対テロ軍事予算、9・11が米国の自作自演であり、テロリストが存在していないとすれば、この膨大な軍事予算はどうなるだろうか。もっとはっきり言うなら、このとんでもない額の金額は、“どこから入ってきて誰の手に渡る”のだろうか。

 22兆円(総額1960億ドル)、敵がいないのにそんなにかかるわけがない。アーロン・ルッソ氏の言ったことを考えると、この予算の出所が日本であることに思い至る。そう、郵政資金である。資金的余裕のない米国経済下で、こういう余裕の予算を計上するということは、あきらかに日本の郵政資金が調達できるめどがついたからだと私は睨んでいる。来年のことである。あとわずかな期間だ。つまり、すでに今、郵貯・簡保資金は我々の眼の触れないところで流動し始めているのではないのかという暗澹たる疑念が生じて仕方がない。我が国は金融工学がアメリカに比べて20年は遅れている。郵政資金の動きが関係者や国民には掴みきれないのではないだろうか。

 その具体的なからくりが見えないからと言って、それがないとは言えないのである。
なぜ9月の臨時国会がつぶされたんだろうか?郵政公社の分社化大反対の麻生太郎氏が総裁戦から恣意的に外された。私の直感であるが、買弁勢力による郵政民営化の直接の目的は、民営化というよりも、分社化そのものにあるのではないだろうか。9月の国会がおじゃんになったのは民営化凍結気運を完全に潰して分社化を最優先にしたからでは?

 この動きを冷静に見れば、国債分は除き、簡保を皮切りに郵貯の資金などを急激に流動させるなんらかの仕掛けがあると考えているが、皆さんはいかが思われるだろうか。同様に農協も、金融、共済、経済の三事業のセパレートを迫ってくるだろう。郵政にしても、農協にしても、キーポイントは相互にバンドリングしている事業体の喫緊なバラし(解体)にあると思う。つまり、外資は日本的な相互互恵の結束形態が最も強い障壁となっている。だからこそ、今年の年次改革要望書でも、日本的な横のつながりや相互扶助的慣習を徹底的に除外しようとしている。

 逆に言うと、日本がエクソンフロリオ的な経済防衛策を講じる喫緊性を感じるならば、当面は護送船団方式にもどしてまずは防衛に徹する方がいいかもしれない。同族経営による馴れ合いもたれあいは弊害を生むのは当然だが、それでも海外に資金が流出するよりはよっぽど健全である。談合も大規模に復活した方がいいかもしれない。ハガタカが獲物を丸ごとかっさらうよりは談合という協調システムを復活し、富の再分配のために広範囲のバラマキをやったほうがいい。これによる弊害は日本人自らの手で解決していけばよい。問題は資金還流が日本列島内では停滞して、それが海外に向かうことだ。体内の血液循環が停滞し、体外に一方的に血液が出たら生体の維持は無理、死ぬだけである。買弁の悪辣さはすべてここに帰するのである。

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読者さんの投稿より!!

   読者さんの投稿を紹介します

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(城内実さんから)

 いつも貴ブログを拝見させていただいております。これからも読者に真相を是非とも暴いてください。某売国新聞は「強きを助け弱きをくじく」ようなやからです。貴ブログに期待しております!城内実

投稿 城内実 | 2007年10月25日 (木) 22時11分

管理人;

 城内実様、ありがとうございます。一庶民として、まったく腹立たしい思いが尽きません。小泉・竹中ネオリベ構造改革路線が実行されてから、経済苦による自殺者は増大するばかりですし、先生がおっしゃるように「強きを助けて弱きを犠牲」にする非情な傾斜配分社会が進行中です。マスコミは強き者どもの言いなりです。国民が安易な諦念に陥らないように、微力ながら言うべきことを言い続けたいと思います。

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  (nさんから)

 私の書き込みも本記事になったりと、少しでもお役に立てて本当に嬉しい。
けど、もっと嬉しいのは、私たちの必死で本気の思いが沢山詰まった情報を踏み台にして、【諸悪の根源・年次改革要望書の実態】を拡散してもらい、真相を解ってもらえること。その上で植草先生を応援すること。だって、植草先生を応援する上で、年次改革要望書の真相理解は必要不可欠なんですから。つまり、年次改革要望書の本当の意味が解れば、植草先生を支持せざるを得ない、いえ、支持しなければいけない、ということが明らかなんですから。そんな風に考えると、植草先生が意図的に犯罪者に仕立て上げられた、という背景も見えてくると、私nは思ったのでした。私nは3年前から年次改革要望書の真相を知りながら黙っていた卑怯者でした。だから、絶対に卑怯者をなくしましょう。
【注】もし、解釈が間違っていたら御指摘願います。

投稿 | 2007年10月25日 (木) 23時43分

管理人;

nさん、いつもありがとうございます。おっしゃるように、「年次改革要望書」と、無実の植草さんが遭遇した二度の偽装事件は無関係ではありません。年次改革要望書は買弁勢力が、売国政策の指針としてバイブルとしている重要な手引書です。植草さんが批判した小泉政権の誤導政策は、竹中平蔵氏が中心となって牽引した、日本史上最悪の国政だったわけです。この中心に郵政民営化法がありました。植草さんは2003年にこのさきがけとして起きたりそな銀行の公的救済に、国家の重大な危機を読み取り、彼だけが警鐘を発していたんです。したがって、年次改革要望書という「売国バイブル」と、植草さんの偽装事件は切っても切れない強い係わり合いがあります

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( JAXVN さんから)

   高橋様、こんにちは。
森田実氏のHPに、10/22に国民新党の亀井静香氏と対談した事が掲載されていました。この中にある亀井氏のコメントをご紹介します。
「亀井静香国民新党代表代行は、10月22日、私(森田氏)に次のように語った。
「民営化した郵政各社の株売却の凍結を中心とする郵政民営化見直し法案を共同提出することで、国民新党と民主党は合意した。これに社民党と無所属議員にも働きかけ、一緒に共同提案者になってもらう。
 10月1日から郵政が民営化したが、各地で混乱が起きている。郵政関係者だけでなく全国各地で『大変なことをしでかした。これは見直さなければならない』という声が上がっている。
 われわれは、まず、郵政見直し法案を参議院で可決して、衆議院へ送る。われわれは自民党議員に郵政民営化見直し法案に賛成するよう働きかける。それでも自民党がわれわれの説得を受け入れない場合は、われわれは衆院解散を強く要求し、この問題を衆議院議員選挙の中心テーマとして国民に訴えていく。日本の郵政事業は、民営化したため大混乱に陥っている。サービスは低下しているだけではない。混乱状態が拡大している。 総選挙で勝負すれば、国民は、こんなひどい郵政民営化を行った自公連立政権を許さないと思う。われわれは総選挙でこの問題に決着をつける。」」
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C03789.HTML
このような事を、NHKを含めた大手メディアは全く報道しません。民放メディアにいたっては、今朝も相変わらずどうでもいい「亀田家問題」ばかりやっています(腹が立つので最近は朝はテレビを見ていません)。喜八様のBlogにはこうありました。
「日本の新聞テレビは『日本国民』全ての『敵』である!」
改めてこの事を痛感しています。

投稿 JAXVN | 2007年10月26日 (金)09時00分

管理人 ;

JAXVNさん、いつもありがとうございます。

>われわれは、まず、郵政見直し法案を参議院で可決して、衆議院へ送る。
>われわれは自民党議員に郵政民営化見直し法案に賛成するよう働きかける。
>それでも自民党がわれわれの説得を受け入れない場合は、われわれは衆院
>解散を強く要求し、この問題を衆議院議員選挙の中心テーマとして国民に
>訴えていく。

亀井静香さんがそこまで腹を決めて断言されたんですね。小泉前総理が行なった国政選挙の異常な“ねじり”を、逆方向にねじりなおして正道にもどすわけですね。小泉ネオリベ政権は、国民を欺いて行なった一種の革命政権と言えると思います。ただしこの革命を裏で操ったのは米国政府です。革命なんですから亀井さんが考えるように、革命の逆ベクトルの力を加えて健全な道筋にもどすという方法はうなづけるものです。

 日本の国政の基本のあり方は地方を破綻させないこと、そして弱者を破滅させないことにあります。自公連立政権がやってしまったあまりにもむごい地方切捨て政策は、必ずその反動を浴びると思います。買弁自公連立政権をこのまま存続させたら、日本という国家は自壊的消滅にいたるでしょう。植草さんが言うように、受けなくてもいい苦吟を強いられている地方は小泉ネオリベ政策に鉄槌を下さなければなりません。日本が早急に構造改革をしなければならないものがあるとすれば、それはメディアそのものにほかなりません。新政権が樹立したら、強権を発動して現大手メディアを解体し、日本の国益、国民の幸福に寄与する本来のメディアを敷設することを実行するべきです。私が嫌っている押し付け憲法でも、良い条文があります。それは思想表現の自由です。この権利を国民がまっとうに受理、行使できる社会が前提に必要です。同時にメディアはいつでも時の政権に批判的な姿勢を崩さずに、国民の幸福と国民受益に寄与する報道姿勢を保つことが肝心です。
.
 まさに、現今の新聞テレビは国民の敵です。

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2007年10月25日 (木)

郵政民営化と小泉構造改革を完全凍結に!!

 ◎左右のイデオロギーを超えて郵政民営化と小泉構造改革を完全凍結しよう!!

 “郵政民営化に関する今年の『年次改革要望書』”に、ふたたび城内実さんからコメントが寄せられていた。尊敬する人にコメントをいただくと、拙記事の未熟さに忸怩たる思いがする。城内さんは、大手メディアがコントロールされている現状では、ネットで真の情報を発信することは有効だとおっしゃっている。私が応援している植草さんも、自身のコラム国民が正しい判断力を備えるうえで、以下に示すブログなどを参照することは有益である。有益な情報は他にも多く存在すると思うので、以下のブログはほんの一例だが、マスメディアが伝えない真実の情報を市民が獲得し、共有することは極めて重要であると思う。』と、「とむ丸の夢」さん、「喜八ログ」さん、「晴天とら日和」さん、他、二十数個のブログを例としてあげている。

 城内実さんのコメントに、“今こそ右や左のつまらないイデオロギー論争を越えて日本国民の幸せのために、世界人類の平和のために団結しましょう。 城内実”とあったのを見て、まったくおっしゃるとおりだと思った。改憲問題、皇孫女系問題、従軍慰安婦問題、沖縄集団自決の軍関与問題など、左右が戦い出したら、それこそ無際限にテーマも討論も尽きないが、そんなことをしているうちに、米系国際金融資本の浸潤によって、我が国の優良資産が、急激に外国人の手に渡っているという切羽詰った状況が進行している。左右のイデオロギー対立は、思想上の生き方において重要なことであり、それはやるべき時には徹底的にやることも必要だが、国家が危殆に瀕している今、日本人として左右を超えて国家の秩序維持をはかるとともに、国民の共有財産の収奪を防衛することに専心するべきなのである。国土の共有財産が外資の手に奪われ、大事な国政的自決権をアメリカにコントロールされるような現状で、今の日本をまともな国家と言うことはできない。

 国民は誰しも幸福な生活をしたいと望んでいる。育ててくれた親を愛し、妻を愛し、子供たちを愛し、育った郷土を愛し、同じ時代を生きている同胞を愛している。これからもそのような幸せが、自分が関わるすべての人々にも同じように続くことを願うならば、我々は今陥ってる深刻な国難をしっかりと把握し、そこから這い上がって行かなければならない。たかがネットだと思っている人々も多いとは思うが、日本の巨大メディアはすでに報道媒体としては死滅しているのだ。テレビはもはや文化や倫理を破壊する有効な凶器と成り下がっている。しかも、個人や一企業を恣意的に叩きつぶす凶悪さを持ってしまった。一方、紙媒体の代表である新聞も、国民に有益な情報や確度の高い情報は一切流さず、買弁勢力を利するための虚構的な情報を臆面もなく垂れ流す。

 国民に言いたいことがある。今、有識者と言われる人たちが“しっかりとメディア・リテラシーを持って真実を読み解け!”などと言っているが、私の粗暴な言い方をすれば、テレビや新聞が大きく取り上げ、何度も執拗に流すニュースは、それ自体が嘘か、何らかの意図を持って誘導操作をしていると考えて間違いない。特に各局、各新聞が右倣(なら)えで画一的に垂れ流すものは疑ってかかって正解なのだ。最近では植草さん報道がそれを如実に示している。日本の言語空間は、戦後にGHQが施した洗脳空間がいまだに続いていると見るべきだ。我々自身のうちに潜む、アメリカの真意に対する思考停止を解かねばならない。

 我々が生活の煩雑さに目を奪われている隙に、この国の買弁的為政者や財閥たちは、メディアを恣意的に操作して、真相から国民の目を覆い隠している。要するに今の日本の権力機構は、外国に魂を売った売国勢力に牛耳られている状況なのだ。日本国民は昔から、田んぼや畑でこつこつと真面目に働き、互いにあい争わないような民族的な智慧を身につけ、それを社会規範に反映させてきた。これが日本人特有の集団無意識的“村落共同体的な「和」の無意識”だった。島国特有の生きる知恵とでも言おうか。しかし今、この民族性向が、逆にマスコミを疑わないというネガティブな方向に出ている。要するにお人よし過ぎるのだ。情報戦略を駆使する現代社会では、弱肉強食の社会ダーウィニズムが優先的な位置を占め、狡猾な奴が情報を恣意的に操作して大衆の考え方や判断を扇動、あるい誘導している。これを露骨にやり始めたのが小泉政権である。彼らはアメリカの保険会社の協力を得て日本のマスコミを掌握し、半数以上の国民が郵政民営化関連法案に疑念を持っていたにも拘らず、この売国法案を成立させてしまった。宣伝費で良心を失ったマスコミの歴史的責任は余りにも大きい。

 つまり日本のマスメディアはもはや信用できないのだ。この国は、知らずに国民が損ばかりする社会構造に改変されているし、それは今も続いている。子や孫の顔を見て、永久に健やかであれと祈る気持ちがあるなら、小泉純一郎的な方向性を完全否定して、国家の舵取りを思いっきり変える必要がある。腐った自民党はもはや再生の糸口はない。半分腐っている民主党も政権交代とは言うが、米国に対する小沢一郎氏の本当の腹を見定めたほうがいい。民主党から買弁勢力を駆逐しない限り、政権交代しても日本の隷属構造は何ら変化することはない。そろそろ気付いてほしい。国政の重要な舵取りを任せられるのは、平沼赳夫さん、亀井静香さん、綿貫民輔さん、城内実さん、等、郵政民営化の売国本質を見抜いて反対していた議員さんたちだけである。それが日本再生の鍵であることを知ってほしい。我々は個人では無力だが参政権(選挙権)という国民権利がある。選挙で議員さんを選べるのだ。個人では弱い国民のたった一つの抵抗権、たった一つの有効な武器である。今度の衆院選挙は、党やマニフェストで判断するというよりも、郵政民営化と小泉構造改革に対して、この人はどういう識見を持った候補者であるかということをしっかりと捉えた上で一票を投じて欲しい。日本の再生は小泉・竹中路線と正反対の政策を講じることになる。

 郵政民営化や小泉構造改革路線が、日本運営の基本路線だなどと、今だに吹聴する奴には絶対に入れるべきではない。郵政民営化は構造改革の本丸などではなく、国家滅亡への道標なのだ。構造改革とは日本人が日本人の経験則と自決権で考えるべきものだ。年次改革要望書などという外国からの押し付け的内政干渉は一切必要ない。そういうことを理解している候補者さんをなるべく一人でも多く国政の壇上に挙げるべきだろう。

 気が付いた国民が心を合わせて、この現状を打開する行動を起こさないと、破滅へ向かっているこの日本は二度と浮上することはないだろう。今度の選挙ではマスコミの誘導操作に神経を尖らせて、それに影響されないように心を強く保つべきである。今の日本は「月刊日本」などのミニコミ誌やネットなどでしか、有効な情報は入手できないと私は思う。

  左右のイデオロギーを超えて、共通の敵に立ち向かおうという主旨は、喜八ログの喜八さんも持っておられる。おそらく、郵政民営化に熾烈な危惧の念を抱いておられる他のブロガーさんたちも同様の思いだろう。

 最後に日本の経済政策を国益優先にもどすために絶対に不可欠な頭脳はエコノミストの植草一秀さんである。私はこのブログで何度も語っているが、植草さんは日本の受益を守ろうとした救国のエコノミストなのだ。だからこそ、国益毀損と国民を欺瞞する政権を堂々と批判した。そのために彼は国策捜査に陥れられたのである。上述の私の見解を汲んでいただければおわかりとは思うが、小泉政権に徹底的に敵視された植草さんはもっとも信用の置ける国民の味方なのだ。このお人こそ、国家回復の重要な人物なのだ。若い人が目覚めて国を引っ張っていく時が来ている。城内実さんのような国士が国政の重要な舵取りを行い、その頭脳として植草さんがその天賦の才能を祖国のために発揮する。もちろん西村眞悟さんも、邪悪な小泉政権に間違ったイメージ付与されたお人である。彼も見直されるべき重要なお人である。真の日本人の心を持った方々が立ち上がる。これが私の強い願いである。

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2007年10月24日 (水)

日本最大の売国メディア『日本経済新聞』

  ◎我が国最優先の国政的課題は『郵政民営化見直し法案』

 本日のNIKKEI NETで、日本経済新聞の売国性を如実にあらわす記事が書かれている。

国民新党、民主党、社民党の三野党が共同提出した「郵政民営化見直し法案」を、日本経済新聞の社説は真っ向から否定する論評を行なった。つまり、日経は財務省と手を結んだ日本最大の売国新聞ということである。この新聞は「日本」という名前を冠していることに相反して、日本を毀損する国賊新聞であることがこれではっきりした。植草さんの『知られざる真実-勾留地にて-』を読むと、2001年3月の「自由党定例研究会」の約一年半前に、植草さんは小泉純一郎氏に対して進講(レクチャー行なうこと)している。これを依頼したのが、日本経済新聞現社長の杉田亮毅氏だったそうである。小泉純一郎氏と杉田亮毅氏は永く親密な交友関係があるそうである。この新聞が典型的な売国性を有した背景とこの話はけっして無縁ではないはずである。

 しかし、郵政民営化法案の実行が、郵政ネットワークやユニバーサルサービスの低下という、表面的なマイナスの問題以前に、ゆうちょ銀行とかんぽ株式会社が保有する膨大な資金の健全な運用及び防御的対策が喫緊の大問題である。したがって、綿貫さんら、国民新党の方々が憂慮の念を抱き、必死にその対策を考えているように、我が国は米国の国家経済的防衛法案である『エクソンフロリオ条項』に匹敵する国家防衛策を講じる必要があるのだ。つまり、郵政資金の国外流出を喫緊に凍結することが急務なのだ。そのためには2005年に、国政選挙的に不審な過程を経て可決されたこの法案の緊急的見直しが急務なのだ。ことの本質は郵政資金の国内還流の問題ではなく、ワンウエイの国外流出防止が喫緊の課題となっている。

 郵政民営化は見直しのためになるべく早急に法案遂行を凍結する必要がある。問題は時間なのだ。今の我が国の最も優先すべき国政的課題(アジェンダ)が郵政民営化の即時凍結なのである。新聞やメディアはアメリカの意を受けて必死に隠蔽しているが、郵政民営化こそ、国家危急存亡の重大事なのだ。さらに言うなら、最大級の緊急性をもって凍結すべきものは完全分社化なのだ。すぐに郵政三事業のバンドリング(結束)を復活させなければならない。この国家的緊急性に異を唱えるメディアは売国メディアにほかならない。

 日経新聞の正体が見えた思いだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20071023AS1K2300223102007.html

社説2 郵政見直し法案を危惧する(10/24)

 民主党の小沢一郎代表と国民新党の綿貫民輔代表が参院での統一会派結成で正式に合意した。これに先立ち社民党を含めた野党3党は、郵政民営化見直し法案を参院に共同提出した。この法案は今月、株式会社として民営化のスタートを切った日本郵政の将来の経営を混乱させかねず、危惧を抱かざるを得ない。

 参院の民主会派(江田五月議長を除く)は国民新党の4議席を加えた119議席となり、過半数の122議席まであと3議席に迫った。

 3党が共同提出した見直し法案は、政府が保有する日本郵政の株式や、日本郵政が持つゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の株式の売却を当面凍結することが柱になっている。民営化の見直しを検討する規定も盛り込まれている。

 共同提出は国民新党が強く求めたものだ。民主党の対応が不明確だとして、今月上旬には国民新党側が次の衆院選での共闘などを当面、凍結する方針を発表した経緯がある。国民新党との統一会派結成を重視する民主党が歩み寄った。政局対応を優先した姿勢には疑問が残る。

 国民新党は民営化反対を旗印に掲げている。民主党は国民新党と同じ立場なのだろうか。郵政民営化の是非は、この問題が最大の争点になった2005年の衆院選で決着がついている。民営化への対案を示せず、郵政改革への対応が後手に回ったことが、民主党の敗因だった。

 しかも当時の岡田克也代表は選挙中に「将来の郵貯、簡保の民営化」に言及していた。党内で十分な議論もないまま、見直し法案の共同提出に応じたのは納得がいかない。

 与党が反対するので、現段階では法案が成立する見込みはない。だが次の衆院選の結果次第で民主党政権ができる可能性もあり、その時には株式売却凍結が現実味を帯びる。ゆうちょ銀はすでに民間銀行として競争を始めており、改革が逆戻りすれば金融市場にも悪影響が及ぶ。

 ゆうちょ銀やかんぽ生命は2010年度にも株式を上場し、持ち株会社は10年以内に両社株をすべて手放すことになっている。私たちは民営化の本来の趣旨にそって、早期に国の関与をなくすよう主張してきた。民主党に再考を求めたい。

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勝つことよりも真実を!!

 植草さんが遭遇した事件をシンプルに考えてみる。事件の真実は最初から一つしかないと思う。1998年1月30日の東海道線車内、女性の勘違いから植草さんは警察の取り調べを受けるはめになり、警察官の恫喝と誘導で、女性に触ったという上申書を無理やり書かされた。このできごとがあってから、2006年の9月13日の京急電車内における偽装事件発生まで、わずか8年8ヶ月の間に三度の痴漢事件に関わった人間という既成事実を作られてしまっている。もちろん、この三度とも植草さんには身に覚えのないことであった。

 私は1998年の事件は警察の人質司法で起きた冤罪の可能性が色濃いと思っている。しかし、もしかしたら、この事件でさえも国策捜査の一環として偽装されたのではないかという疑いは少し持っている。

 2004年の品川駅構内エスカレーターにおける手鏡事件は明らかに偽装事件であり、2006年の京急電車内における事件も偽装事件であることは間違いない。それは数々の公判資料、状況を考えれば素直に納得がいく。品川事件を冤罪だと考えた人は結構いたが、京急事件が発生した直後、そういう人にも不審の念がよぎったようである。しかし、公判が重ねられていくうちに、検察側証人の多数に及ぶ矛盾や不整合が目立ち、明らかにこの事件も偽装性が濃厚になっていた。つまり、状況は犯人誤認説なのか、事件そのものが存在しない偽装事件であったのか二つに一つの状況だった。植草さんと弁護団の相互信頼関係、あるいは公判に費やした弁護団と植草さん本人の膨大なエネルギーを鑑みて、あえて意見を言わせていただくが、犯人誤認説は最悪の公判戦略だった。これは事件が本当に起きていたという前提で公判戦略を組み立てているので、現場に真犯人がいて、結果的に実行犯が植草さんだということにすり代わっていたことを論証するものであった。それが最終弁論に語られたことである。

 私は弁護側の公判戦略が致命的な瑕疵を帯びたのは、当日乗り合わせた善意の第三者による目撃報告が入った後だと思う。致命的なことは、この事件の真相が「偽装工作」であり、それ以外のなにものでもないということだ。善意の目撃者は真犯人を目撃できる位置にいたという決定的事実がある。論理的に考えてもわかるが、被害者によって犯行時間とされていた時間帯に、植草さんが吊り革につかまっていただけだったという目撃報告は決定的なアリバイ証言になりうるものだった。しかし、この目撃報告が、逆に致命的な瑕疵を持つことになったのである。その理由は植草さん側の弁護方針にあった。すなわち事件が実際に起こっていて、真犯人が存在していたという前提を取ったことだ。これをやったために、善意の目撃者の語った真実の目撃談が無効化してしまったのである。植草さんが女性を触っていないことを明瞭に確認していた目撃者は、同時に目撃しているはずの真犯人の犯行も、被害を受けていたという女性の被害状況も目撃していなければつじつまが合わないのだ。目撃できるわけがない。真犯人など存在しないからだ。

 善意の目撃報告は、痴漢も生起していなかったし、真犯人も存在していなかったことを見ていただけであり、それをありのままに証言しただけである。つまり、弁護団の取った最大の誤謬は、事件性を認めたことであり、人間違い説を採用したことにある。彼らがこの説を立ち上げた瞬間に、善意の目撃者のありのままの目撃報告は無効化されたわけである。したがって、弁護団は当初からこれが偽装工作事件であることを一貫して主張し、事件そのものが発生していなかったという論点で争うべきだった。真実が一番強いということを何よりも良く知っているのは植草さんご本人であるはずだ。真実でなければ必ず不整合なことが起こるのだ。誤認逮捕説などというものは、その立案を考えた時点で、決定的な矛盾を内包しているのである。わざわざ負ける戦略を立てたという言い方はできるが、それよりも言いたいのは、痴漢事件など起きていなかったという真実を吐露していくだけでよかったと思う。きつい言い方をすれば、今回の弁護側戦略は自己欺瞞である。最大の問題点は、実際には起きていなかった事件を起きていたという前提にしてしまったら、その上にどのような綿密な論理を組み立てようとも、真犯人の不在証明ひとつで立論は崩れるからである。実際にそうなった。まったく残念なことである。

 しかし、私は植草さんの応援者である。残念で済ますわけには行かない。植草さんはエコノミストとしてその天賦の才能を発揮してきた。しかし、こういう事件に遭遇して、より人間的に深化し、「知られざる真実-勾留地にて-」という偉大な書物を著した。この本を虚心坦懐に読めば、植草さんが経済だけではなく、さまざまな分野でその才能を役立てる稀有な人間であることが見えてくるだろう。この腐った日本は回復され、再建されなければ子孫に未来を残せないのだ。だから植草さんには歴史的な使命があると思う。日本を復興して国家の刷新に役立ってもらわなければならない大切な人間である。今の日本には真のエリートがほとんど存在しない。自分をエリートだと思っている人々は例外なくアメリカを信奉しているのだ。例えば山本一太氏や片山さつき氏など、アメリカに魂を売った人間たちが擬似エリートになってこの日本を破壊しているだけである。植草さんは本物のエリートだと確信している。こういうお人の感覚や智慧を生かさずして新生日本の建国はありえないのだ。

 だからこそ植草さんには、この逆境に真正面から挑んで欲しい。私は自ら勝手に応援している一介の市井の者に過ぎない。だからこそ思ったことをストレートに言うが、今後の戦い方に弁護士の選択は最も重要な要素になる。植草さんは今までのような人権的冤罪という範囲の弁護方針では勝訴は不可能だと考える。なぜなら神坂尚裁判長の判決理由に、過去の二つの事件が習慣的連続性として使われているからだ。これを覆す方途はただ一つ、国策捜査という真相を語ることだけである。今までの文脈では名誉回復もおぼつかないと思う。これからは心機一転、国策捜査論を堂々と打ち出し、自らが偽装事件に巻き込まれたという論法を貫徹して欲しい。はっきり言って、これ以外に彼が助かる方法は存在しない。そういう理由であるから、弁護士さんの選択は国策捜査に堂々と対峙できる弁護士さんを選んで欲しい。国権の不当な濫用を心の底から憎む弁護士さんは案外いると思う。たとえば梓沢和幸氏などはそのような気骨のある弁護士さんではないかと思っている。

この際、もし国策逮捕説をとる弁護士さんを使わないのであれば、誠に残念ながら、これ以上サポートすることは我々には無理である。我々「検証する会」は事件の真相を明らかにするために擁護してきた。そのためには、どうやったら裁判に勝てるかではなく、ただシンプルに全ての真実を白日の下にさらせば良いという信念で応援を続けてきた。植草さん自身が過去の事件で学んだことは、他からいかなる誘導があっても真実を曲げてはいけないということではなかっただろうか?

 もし、植草さんが、人違いの可能性はないと本心では思っていたのであれば、相手がたとえ弁護士であろうが、誰であろうが、いかなる誘導にも乗るべきではなかった。相手が警察であろうが、弁護士であろうが、我々擁護グループであろうが、最後に信じるのは真実を知っている氏自身しかいないのである。

 前回の弁護団解任もギリギリのところで間に合った適切な判断であった。今回こそは、裁判の勝ち負けにこだわって信念を曲げるのではなく、真実を明らかにすることにのみ突き進んで欲しい。それが魂をかけた男の勝負である。せっかく公判にまで出向いていただいた勇気ある弁護側目撃者に与えていただいた恩を仇で返してはいけないと思う。ひょっとしたら、今回の判決内容は、この善意の目撃者さんにとっては、植草さん以上に落胆したのではないだろうか。この方の尊い気持ちを無にしないためにも、植草さんは国策捜査一本で突き進んで欲しい。

 目撃者の最も重要な証言の一つに、捕まえた二人の男の一方と女性は連れのようだったという発言がある。捕まえた二人と被害者とされる女性の関係を徹底的に調べなければ、社会的にも、「痴漢デッチアゲ脅迫ビジネス」が蔓延することを防ぐことはできないだろう。植草さんの場合は裁判史上でもかなり特殊な事例なのではないだろうか。つまり、国家権力が関与した国策捜査であるから、過去に類例のない裁判かもしれない。もしかしたら、我々擁護派にも、植草さんにも、論理前提に大きな錯誤があったような気がする。つまり、司法も代表的な国家権力機構であるから、国策捜査論で戦うことは最初から自爆的な作戦であり、それをやるのは何よりも自殺行為であると。

 私も当初はそういう見解を持っていた。だから、植草さんと弁護士さんたちには人権擁護的冤罪の線で頑張ってもらい、私は法廷の外側から「国策捜査論」を唱えてバックアップしていこうと考えていた。しかし、今は状況が変わり、冤罪では勝ち目がないことが露呈されている。それならば、この事件の真相を堂々と訴え続けていく以外に道はないではないか。小泉政権という買弁政権を堂々と批判したエコノミストという矜持を強く抱いて、真っ向から国策捜査論を提示していくことだと考える。たとえ、裁判官がまた有罪判決を出してもその姿勢を貫けば、歴史は植草さんを正当に評価する。やがて歴史はネオリベを否定する時が来る。その時、植草さんはすべてが回復され、小泉氏や竹中氏の国家毀損が白日の下に晒されるだろう。だからこそ、たった一つの真実を訴えていけばいいと思う。

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2007年10月23日 (火)

郵政民営化に関する今年の『年次改革要望書』

◎そのように定め、そのように行なえ!!

 最近、他ブログの転載ばかりで誠に恐縮だが、ひとりでも多くの方々に、日本が置かれている対米従属構造の真実を知ってもらいたいと思い、本年度『年次改革要望書』の和訳をここに開示する。今まで「或る浪人の手記」さんの訳文、そして読者のcameramanさんの要約和訳文を掲載した。今度はブログの『とむ丸の夢』さんの訳文、特に「郵政民営化」に関わる箇所をここに転載する。いろいろな人の訳出を読みくらべ、少しでもこの『年次改革強制指令書』の実体をつかんでいただきたい。

 とむ丸の夢さんは、原文の「要求」「要望」の箇所に、外務省訳では“urge”が使われるていることを指摘して、実際は「強制」ではないか、と遅まきながら絶句したと言っている。要望ならdemand、願いをこめた要求ならrequestが使われるのではないだろうか。私は苦手なのでわからないが、日米という同盟国同志の平和な協定、あるいは親密な協議という文脈であれば、“urge=急きたてて催促する”などという強制性の強い言葉は使わないのではないだろうか。

 まったく話は違うのだが、昔、若いころ、ハリウッド映画の『十戒』という映画を観たときの友人との思い出がある。この映画はエジプトの奴隷と化していたイスラエル民族を、指導者モーゼが立ち上がって「約束の地」に引き連れていく(エクソダス)という余りにも有名な聖書文学作品だ。物語の中では、ユル・ブリンナー扮するエジプト王ラムゼスが、即決的に法律を作って部下に命令する場面が何度か出てくる。この時の彼の言い回しがあまりにもかっこよくて強く印象に残っている。その言葉は、

そのように定め、そのように行なえ(So it was written So it will be done)

 であった。要するに『余の言葉は法律そのものである』ということだが、私も友だちも、この『そのように定め、そのように行なえ』がすっかり気に入って、何かにつけてこれをつけて遊んだことがある。たとえば、「お前悪党やれ、おれブルース・リーやる!そのように定め、そのように行なえ!」というたぐいのたわいもない戯言である。

 つまり、私が言いたいことは、この年次改革要望書の取り決めから受ける印象が、この王様の語る『So it was written So it will be done』にそっくりだということだ。これはまるで命令書ではないか。この「要望書」を読んで対等な二国間の協調的意見交換だとは到底思えないのだ。それに米国のようなプラグマティズムに徹する国が、経済問題で仲良く意見交換をしましょうなどという親和的な時間を設けるはずがない。

 とむ丸の夢さんが10/23の新記事「リフォーム詐欺」で、非常に気になることを指摘していた。

(以下引用)
    この項目「C」では、6.が今年の年次改革要望書で新たにつけ加えられた部分です。  郵便事業等に対して公開レビューを実施して、時代にあった規制をしろ、といってます。「公開レビュー」などというと、「やらせタウン・ミーティング」を連想してしまいますね 
(引用終わり)

 私はこの「公開レビューの実施」が、間違いなくタウンミーティングという偽装懇談会そのものであることを確信した。2005年6月7日の国会(衆院郵政民営化特別委員会)で、城内実さんが竹中平蔵氏に「過去一年間で日本政府が米国と何度協議したのか?」という問いを発して、17回あったという答弁を引き出している。つまり、竹中氏は米国政府筋から綿密にレクチャーを受けていたのだ。この中には明らかに、やらせのタウンミーティングという入れ知恵もあったに違いない。このレクチャーが現在途絶えているとは考えにくい。安倍政権も福田政権も一貫してこのレクチャーが続けられていると考えてまず間違いないだろう。タウンミーティングという公開レビューは偽装がばれてしまったが、今はマスコミを使ってそれに代わる新たな偽装プロパガンダが行なわれているに違いない。

 さて、国民に真相を知らせまいとする権力側が、国民を刺激しないように無難な言葉を駆使して訳出されるものよりも、まずとむ丸の夢さんの翻訳文に目を通して欲しい。

 「とむ丸の夢」さん、使わせていただきます。翻訳、本当にご苦労様でした。

 以下はとむ丸の夢さんが翻訳した郵政民営化に関する部分の年次改革要望書です。

民営化


Ⅰ.   公社・公団の民営化

  日本が公社・公団の民営化を実行するにあたり、米国は日本に対してすべての市場参加者に公平な競争環境を構築することを強く求める。さらに、市場に影響を与える事項について日本国内および外資などの民間企業体が意見を提供・表明できる有意義な機会を与えられるといった、透明性のある形でそのような措置を講じることを提言する。

Ⅱ.   日本郵政改革

 もし精力的に実施されれば、日本郵政の市場志向改革が競争を刺激し、資源のより有効的な活用につながるなど、日本経済に利益をもたらす可能性があると米国は認識している。米国系企業、日本企業およびその他の民間企業に比べて郵政制度に長期にわたり付与されてきた優遇措置を撤廃するために、また、新たな優位性を持つことがないようにするためにも、完全な市場志向型改革の実施が必要である。これらの改革を実施するにあたり、新たなJapan Postと民間企業の間に均等な競争条件を確立するという法律の原則を確実なものとするために、必要な措置がすべて講じられることが重要である。

A. 郵便貯金と郵便保険における競争条件の同一化と金融制度の安定性

 ゆうちょ銀行およびかんぽ生命保険会社は2007年10月の民営化当初から、政府保証付きの商品の提供を止め、民間企業と同じ納税義務および法律上・税制上義務を満たすことが義務づけられ、郵政持ち株会社とともに民間企業と同様の監督の適用を受けることになるとの日本による確認を米国は歓迎する。さらに米国は、民営化された郵政金融制度は、実際に民間企業の金融組織と同一の認可・公開・監督の適用を公平に受けることを確実なものにするための措置が講じられることになろうという日本の約束に勇気づけられる。新しい郵政各企業間の関係が、資本関係でアームスレングスに基づいていること、そして関連法下で創設された新たな事業団体間で相互補助(ゆえに、リスクの転化)を考慮する制度が存在しないことを確認したことを米国は歓迎する。銀行法と保険業法下での日本ゆうちょ銀行と日本かんぽ生命保険会社の唯一の検査・監督官庁として金融庁は、金融制度の安定が脅かされることのないよう、有効なリスク管理を整備、実行することを担保するため、重大な役割を担っていくだろう。上記措置の完全な実施を確保することに加えて、米国は日本に対して、次の追加的手段を講じ、新たな日本郵政グループと民間企業との間の競争条件の同一化を図るという郵政民営化法案の目的を達成するよう求める。

1.  商品の流通と販売網

  郵便局株式会社を通じて金融商品を販売する競争において、民間企業に平等で透明なアクセスを提供することを確保し、業界の最良慣行に一致し、アームスレングスの規則にのっとり、 日本郵政持ち株会社のゆうちょ銀行およびかんぽ生命保険会社との関係が真に市場ベースのものになることを確保する。

2.   預金と再保険の関係

 独立行政法人郵便貯金・簡易生命保険管理機構(公社継承法人)が、ゆうちょ銀行およびかんぽ生命保険会社のもとに委託する預金と再保険契約に関して、以下のとおり、必要な措置を含む。   

a.  2007年10月以前の旧勘定および契約と、2007年10月以降に結ばれた新勘定および契約とを完全に分離することで、リスクを完全に分断すること、預金保険機構と生命保険契約者保護機構が旧勘定および契約の負債を負わないようにする。

b.   預金と再保険契約が完全にアームスレングスに基づくものとし、このような取り決めにより新しい郵政金融機関同士が相互扶助することのないようにする。透明性に関しては、再保険料決定方法を公開する。

c.   黒字、赤字を含め公社継承法人の財務状況と再保険取引が一般に公開され、日本の一般会計基準にのっとり報告されるようにする。

3.   暗黙の政府保証

 日本政府が郵政金融機関の政府保有株式を完全売却するまでを含め、2007年10月以降に提供する商品に政府保証が付されないことを消費者や市場に周知させるため有効な方策を講じる。加えて、ゆうちょ銀行・かんぽ生命保険の業務範囲を拡大する際はそれに先立ち、またその後は定期的に、実際の販売方法を注意深く監視し、関連法を執行して、2007年10月以降の新勘定および契約にも政府保証が付いているかのように偽って伝えることがないようにするとともに、郵政金融機関が政府との関係をてこに市場の競争相手より優位な地位を獲得するようなことがないようにする。

4.   独禁法の執行

 公正取引委員会の適切な調査とその他の措置を通じて、日本郵政株式会社の民営化と改革が自由な競争、透明性およびアームスレングス業務慣行、競争政策および規制改革の有効な実施を促進するような形で行われることを確保する。

5.   社会・地域貢献基金

 基金の透明な運用(費用配分方法やその計算に用いられる費用と収入のデータ、基金の配分の十分で定期的な開示を含む)を確保し、さらに、他に国内企業や外国企業にではなく、民営化された郵政金融サービスの提供会社に対して、不当な利益が生じることの内容に、内部統制や透明で正確な支出基準などの措置を講じる。

6.   資産評価

 独立の監査人が独立行政法人郵便貯金・簡易生命保険管理機構(公社継承法人)のすべての資産、負債、準備金を評価し、この評価結果がすべて一般に公開されることを確保する。

7.   相互扶助

 日本郵政株式会社の子会社の自主経営における透明性を確保するために、日本郵政株式会社子会社の独立した監査人は、相互扶助を排除するために導入される措置について評価を報告する。それらの対策の有効性について報告するのはもちろんである。

*提案のあった訳

  日本郵政株式会社の子会社の自主経営における透明性を確保するために、各子会社の独立した監査人が、会社間のもたれ合いを排除するための措置ならびに、その有効性について報告することを求める。<!--[if !supportLineBreakNewLine]--> <!--[endif]-->

8.   金融庁職員の確保

 新たな日本郵政企業体について、関連する金融法規に対するコンプライアンスを検査する職員を金融庁FSA が確保したというニュースを歓迎し、他の市場参加者に対する内国民待遇に基づいて民間企業に適用されるすべての規制の下で金融庁が日本郵政の金融子会社を適切に規制できるよう、十分な人員その他が金融庁の正規監督職員から確実に任命されるよう、米国は日本に強く求める。

B.   競争条件と新商品導入

 郵便金融機関が新しい貸し付け業務やかんぽ生命保険による新規または変更された保険商品の引き受け、ならびにゆうちょ銀行による元金無保証型投資商品の元売りを許可される前に、郵便金融機関と民間金融機関の間に同一の競争条件を真に確立することを、米国は日本に強く求める。金融庁が、金融サービスや保険商品の販売・流通を展開する際、銀行法と保険業法に基づいて民間金融機関と同一の基準をゆうちょ銀行およびかんぽ生命保険に適用するという確認を歓迎する。米国はまた、新規または変更された製品が市場のひずみを生まないことを確実にするために、郵政民営化委員会PSPCが新製品の申請を検査することを歓迎する。同一の競争条件を確立するということは、郵便機関にも内国民待遇に基づいて公平に他の企業と同様の義務を課すことを含むが、新たな製品や特約を導入する際も含まれる。上記のように、法規によって民間金融機関と同一の方法による郵便金融機関の効果的な監視およびコンプライアンスを確実なものにすることを、また改革プロセスとその実行が日本のWTO義務、特にGATSの内国民待遇の原則と矛盾しないことを、米国は日本に強く求める。

C.   エクスプレス貨物サービスの公正な競争

  郵政民営化法第2条のもとに求められているような、新たな日本郵政株式会社と民間運送会社間の「競争に相当する状態」の確立が完全に確実となるように必要な措置をすべて講ずることを米国は引き続き日本に求める。この点で米国は、完全に公平な競争環境の構築を促進する以下の措置を取るよう、日本に強く求める。

1.   民間のエクスプレス貨物運送会社に適用されているものと同等の通関手続を、日本郵政株式会社が取り扱う郵便と小包みに適用する。特にEMS便について、米国は日本に対し、現在日本の規則により適用されている「賦課課税」方式ではなく、「申告納税」方式が確実に適用されるように強く求める。

2.   通関情報処理システム(NACCS)に係る費用や通関申告書類にかかる費用など、日本郵便会社に対しても同等の通関費用の支払い義務を課す。

3.   日本郵便株式会社が取り扱う品目についても、民間のエクスプレス貨物運送業者が運ぶ品目の場合と同じ方法で、同じ安全・保安基準が適用されること。

4.   日本郵便株式会社の事業について、日本郵政株式会社とその子会社が参加する取引を含め、民間企業に課されるものと同じ基準で事業分野ごとの開示を義務づけることを含めて、その内容を十分開示するために必要な措置をすべて取り、 同社の事業と他の日本郵政の企業体間で内部相互補助が起こらないようにする

5.   国土交通省(MLIT)による新たな日本郵政企業体とその関連事業の監督が、民間企業に適用されるものと同じ基準で行われることを確保する。

6.   日本郵便株式会社の郵便事業と物流事業に対して民間企業に適用されるものと同じ租税を適用し、航空安全や保安規定も同じく適用させる最終規則を適時発効し、規則草案については公開レビューができるようにする。また、EMSサービスは、貨物自動車運送に関する法令および政省令の下での国土交通省(MLIT)による管理を確保し、郵便事業に関するオペレーションは貨物運送に関する法令および政省令による監督をする。

D.   透明性

 これらの改革が完全に透明性をもって実施されることを確実にするため、考慮されるべき利害関係者の意見を聴く機会が十二分に提供されてからはじめて最終決定ができることを含め、米国は日本が必要な措置をすべて講じることを強く求める。最終決定が競争環境に影響を与える可能性がある、したがって日本郵政株式会社の事業が金融サービスおよびエクスプレス貨物分野の双方において民間競争相手に影響を与える可能性があるような政策決定の過程では、これはとりわけ重要である。具体的に、米国は、日本が以下の措置を取るよう強く求める。

1.   郵政民営化委員会など日本政府が開催する委員会または構成要素が、民間部門に影響を及ぼす可能性のある問題について議論する場合には、米国系企業および他の外国企業を含む民間の利害関係者が積極的に貢献する有意義な機会が提供されるよう確保する。

2.   市場への影響について、また新たな日本郵政企業体と民間企業の間の競争条件への対応度についてすべての利害関係者が意見を述べる機会を提供することを含めて、日本郵政改革の実施に関しては定期的(すなわち年1回)な公開レビューを行い、また日本郵政企業体のコンプライアンスについて透明性のある検証をするために、現在民間企業に適用されているのと同じ法規を提供する。

3.   民間企業に影響を及ぼす日本郵政株式会社の改革について、民間の利害関係者に関係職員と意見交換をする有意義で時宜を得た機会を提供する。

4.   日本郵政株式会社の改革にかかわる事項について整備される施行規則、ガイドライン、政令、実施計画およびその他の措置について、パブリックコメント手続、並びにそのほかの手段によって一般の意見を求める。また、それらが最終決定される前に、それらの意見が十分考慮され、適切であれば措置案に確かに盛り込まれるようにする。

5.   政府が開催する検討会に関連する資料や議事録など、日本郵政改革の計画と実施に関する情報を、引き続きウェブサイト、記者会見その他の手段で適時一般に公開する。

 以上

*郵政民営化第2条とは基本理念を謳った部分です。次に記しておきます。

 第二条  郵政民営化は、内外の社会経済情勢の変化に即応し、公社に代わる新たな体制の確立等により、経営の自主性、創造性及び効率性を高めるとともに公正かつ自 由な競争を促進し、多様で良質なサービスの提供を通じた国民の利便の向上及び資金のより自由な運用を通じた経済の活性化を図るため、地域社会の健全な発展 及び市場に与える影響に配慮しつつ、公社が有する機能を分割し、それぞれの機能を引き継ぐ組織を株式会社とするとともに、当該株式会社の業務と同種の業務 を営む事業者との対等な競争条件を確保するための措置を講じ、もって国民生活の向上及び国民経済の健全な発展に寄与することを基本として行われるものとす る。

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2007年10月22日 (月)

2007年10月18日、年次改革要望書要約

 読者のcameramanさんより要望書要約のコメントをいただいたのでここに記す。cameramanさん、ありがとうございます。

年次改革要望書(要約)

通信技術
ワイヤレス通信分野のメーカへの減税(?)によって競争の促進。
ビデオ配信事業のルール作りを、透明、且つ最小限の規制にする。
NTT東と西に競争的値下げをさせる。助成金を出さない。他のキャリアの参入を促すようなコンサルタント、助成を行う。

情報技術
民間の参入を促し、ルール作りを透明化する。
政府のIT事業への入札を透明化する。
健康へのITの応用をプロモートする。
知的所有権をオンラインで盗まれる事を防止する。
知的所有権の防御ルールを世界レベルで作る、特にアジアで。
特にビジネスの場でのプライバシー確保に努力する。

医療器具及び薬品
先進的な器具、及び薬品に対する医療報酬の引き上げ。
器具、薬品の試験承認期間を短縮。
血漿製剤の値段を上げる。
栄養サプリメントに食品の一つとして権利を与える。
化粧品、半医薬品の承認過程を透明化。

金融サービス
規制の透明化。
貸し過ぎの防止にクレジットビューロー制度を導入する。
情報の共有化と共にファイアーウォールも整備する。

競争に関する方針
カルテルの許認可を厳しくする。
JFTC(Japan Fair Trade Commission)の手続きを公平、透明にする。
不正入札に対してペナルティーを強化する。

商法の改正、及びシステムの刷新
三角合併の成功例を再調査する。
会社乗っ取りの防衛策における、株主の保護策を図る。
コーポレートガバナンスを強化。
代理投票権を認める。
個人株主の保護。
外国企業の日本参入の障壁を下げる。
Article 821が外国企業の日本での活動に不利益を生まないようにする。
外国の弁護士を日本で活動させる。

透明性
政府御用達の弁護士による顧問グループを作る。
Public Coment Procedure(PCP)を行う機関の強化。
政府、及び省庁のコメントをより透明化して、より「普通の言葉」で表現する。
透明性の考え方をより一般化して、APECにおけるスタンダードにする。

その他の政府業務
銀行による保険販売を許す。
民間企業と共済の協業。
日本におけるビザ再発行の負担業務を軽減する。
農作物への薬物混入の許容値を、科学的に規定し、且つ検査を徹底する。
それを世界規模でスタンダード化する。
特区の推進。

民営化
郵政銀行に民間と同様の税金、規則を課す。
郵政銀行の貸し出し業務、保険業務、および元本非保証の投資業務を認可する前に、銀行と保険業界に同等の活動の場を与える。
宅急便業者に郵便局と同等の営業条件を与える。
ジャパンポストの刷新内容の透明化を強く求める。

流通
課税を下げる。
空港業務に民間企業の導入、及び透明性を高める。
配達用車両の一時的な駐車場所を確保する。
全ての流通物品への課税をすべての流通業者で同一とする。

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政権やメディアは『年次改革要望書』をなぜ覆い隠すのか?

 私が年次改革要望書という言葉を知ったのは、正確には思い出せないのだが、2005年の郵政解散総選挙の前だったと思う。知るきっかけになったものは関岡英之(せきおかひでゆき)さんの「拒否できない日本」という本だった。普段はほとんどノンポリの生き方をしていた私は、小泉政権発足から一年くらい経った頃、どうもこの政権は今までの政権が持つ政策ベクトルとはかなり異質だということに気が付いていた。

 それはエコノミストとしての植草さんが初期から指摘していたように、デフレの真っ只中、超緊縮財政政策の基本を取り、その中で加速的な不良債権処理を強行したとか、その他、この政権には初期から根本的な失政があったが、私は専門家じゃないから、当時そういうことはまったく知らなかった。しかし、小泉氏が志向する構想自体に何となく危険なものを感知していたことは確かである。旧態依然の姿勢を持った古い自民党をぶっ壊すという名目は、庶民としては一見わかりやすいものだったが、私はその底意になぜか強い胡散臭さを感じていた。その胡散臭さが数年後に決定的な形となってあらわれたのが、あの歴史的な郵政解散総選挙だった。参議院で否決された事実を無視して、国民に真意を問いかけるなどと言って、異常な総選挙に打って出た。国民に政治的意思を付託された国会議員の存在意義は消し飛んだ。国民は民営化の意味を深く考えもせず、マスコミの報道演出にすっかり幻惑され、小泉自民党を是認した。かくして郵政民営化関連法案は可決に至った。

 私は国政選挙の秩序を破壊したあの凶悪な解散総選挙前に、関岡英之さんの「拒否できない日本」を読んでいて、郵政民営化と年次改革要望書は切っても切れない関係にあることを知っていた。年次改革要望書を知って驚いたのは、それが何と1993年の宮澤-クリントン会談で合意され、翌年の1994年から日米両国における双務的な意見書の形をとって、毎年10月に提出されていたことだった。今回で14回目になる。しかし、国民はこの事実をまったくと言っていいほど知らなかったのだ。まず、建前は両国の親和的協調的な意見書の体裁をとっているから、政権中枢に近い為政者だけが了解していれば国民に知らせる必要はなかったということなのか。しかし、調べていくと、関岡さんたちが指摘するように、この要望書は双務的どころか一方的な押し付け命令書であったことがわかった。

 日本に酷薄な格差社会の到来をもたらした小泉構造改革とは、聖域なき規制改革が中心であった。その結果、日本は自由競争の名の下に弱肉強食的な経済原理が稼動し、強者が弱者を犠牲にして富の極端な偏在(傾斜配分)が現われる非情な社会に変貌した。実はこの根本原因は『年次改革要望書』という静かなる対日強硬内政干渉に起因している。政府やマスコミがこの要望書の存在を必死になって隠蔽してきたせいで、国民は今味わっている悲惨な社会の元凶がこれであることを知らないのだ。

 そしてこの年次改革要望書は、今年も日本に出された。年に一回出されるから「年次=annual」と名づけられているのだろう。初回が1994年であるから、すでに13回(13年間)出されてきたということだ。ところが私もこういうものが日米間に存在していたという伝聞さえ聞いたことがなかった。おそらく大多数の国民はみんな同じだろう。政府もマスコミも何も伝えないからだ。なぜ、伝えなかったのだろうか。なぜ今年も伝えないのだろうか。ここにこの要望書の存在目的が良く現れていると思う。つまりこの要望書は、宗主国が植民地に出す政策指令そのものだからだ。植民地である日本は、表面上は米国と対等な同盟国であると、自国民と国際社会に見せかけている。つまりは擬制国家である。日本の本質は米国の植民地にほかならない。その動かしがたい証拠は、沖縄を中心として日本中に米軍基地が散在し、肝心の日本には正式な軍隊が存在しない。

 この事実を鑑みれば『年次改革要望書』がどんな性格のものであるかよくわかる。しかし、国民は真の日米関係から目を逸らしてはならないのだ。たとえマスコミが真相を伝えなくても、政府が一言もそれに言及しなくても、日本国民は真実をきちんと見定め、そこから未来を築いていく以外にないのだ。

 nさんという読者さんが、新聞社に抗議するべきだと言っている。なぜ年次改革要望書を伝えないのかと。日米関係が重要な国際関係だということを熱心に喧伝するなら、マスコミはなおさらこの要望書の内容をなるべく早く国民に報道する義務がある。日本国民が全体的に考えるべき重要な内容が込められている。これを一部の為政者だけが、こそこそと見聞きして重要な法案を策定したりすれば、結果は明らかに国益毀損となる。だからマスコミはこれを堂々と報道しなければならない。

  nさんのコメントをここに貼り付ける。

内容:
--------
<心ある新聞読者へ>
【日本経済新聞・苦情先】
 ≪購買部にかけるのが最も効果的!≫
*年次改革要望書を全国の紙面で報道しなかったから、購読を止めると言うため。
*勿論、この新聞を購読していない人も、ジャンジャンと電話をかけましょう。
 例:『これからは、日本経済新聞は購読選択肢に入れない。』
【電話:0120-21-4946 (*フリーダイヤル)】
*20日朝刊で詳細報道していれば、余計な電話代を払わなくてすむのに…。
*だから、報道させる意味でも、ジャンジャンと電話をかけまくりましょう。
*公衆電話の場合は、10円玉を入れて、話し終われば戻ってきます。
*フリーダイヤルの前に、番号通知拒否の「184」を付けても通じます。

【営業所電話】
東京本社:03-3270-0251
大阪本社:06-6943-7111
名古屋支社:025-243-3311
西部支社:092-473-3300
札幌支社:011-281-3211

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2007年10月21日 (日)

2007年度版「年次改革要望書」(或る浪人の手記さんによる)

 ◎2007年度版「年次改革要望書」(或る浪人の手記さんによる翻訳)

『或る浪人の手記』さんが、一秒でも早く10月18日(最新)の年次改革要望書を読んでいただこうと翻訳に力を注いでくださった。この労力をなるべく多くの人に役立ってもらうために翻訳文をここに転載する。アメリカは日本の構造改変を急いでいる。その目的は日本の国富を一刻でも早く効率的に収奪することにあり、大方の日本人はこの危機的な真相に気が付いていない。郵政民営化も敢行され、郵貯、簡保の国債分を除く200兆円にあまる膨大な国民共有財産が米系国際金融資本に奪われる寸前だ。従って喫緊に郵政民営化は阻止しなければならない。年次改革要望書は日本の優良資産や国有財産をただ取りする目的で巧妙に仕掛けられた米国による究極的な内政干渉指令書なのだ。なぜ日本全体が表面的な経済成長とは別に貧乏に向かっているのか、この年次改革要望書を見れば見えてくる。

 「或る浪人の手記」さんのご努力に深い敬意を表する。



(転載開始)

******************************************************************************
文句を言われる前に言っておきますが、ウリの英語力は中学生レベルニダ。

 ま、どうせ、その内に日本語訳される訳だから、大枠の意味と感じさえ掴めれば良いくらいのノリで、多少の間違いがあっても目を瞑るようにw

日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書
2007年10月18日

The U.S.-Japan Regulatory Reform and Competition Policy Initiative (Regulatory Reform Initiative) continues to contribute to growth and opportunity for the citizens of both countries by promoting reforms that open new markets, reduce burdensome regulations, increase transparency, and stimulate competition.The Regulatory Reform Initiative, now in its seventh year, also remains a key forum for deepening and broadening our bilateral economic relationship.

 「日米規制改革および競争政策イニシアティブ」(規制改革イニシアティブ)は、新しい市況を開く改革、重荷となっている規制を減らす事を促進することにより、双方の国の国民のために成長と好機に寄与し続け、透明度を上げ競争を促進させる。また、規制改革イニシアティブは7年目となり、双方の経済関係を深め、広くするための主要な役割となっている。

The Regulatory Reform Initiative was created in 2001 under the U.S.-Japan Economic Partnership for Growth to promote a pro-growth agenda of reform through sectoral and cross-sectoral reforms.As a result, this year’s recommendations by the United States focus on making continuing progress in industry sector areas such as medical devices and pharmaceuticals, communications, financial services, information technologies, and agriculture, as well as advancing progress in several cross-sectoral issue areas such as intellectual property, commercial law, competition policy, and transparency.The United States continues to look to Japan to undertake important economic reforms in these and other areas in order to achieve the aims of this Initiative.

 規制改革イニシアティブは、分野別および分野横断的改革を通して、経済成長や市場開放を促進するため、2001年、日米経済協力の下において立ち上げられた。その結果、本年は知的財産、商法、競争政策と透明度のような多区分にまたがるエリアでの前進をした。更に医療用具や、製薬品、コミュニケーション、金融サービス、情報技術、農業などの産業セクター領域での継続した進歩について、アメリカ合衆国による提案する。合衆国は、このイニシアティブの目的を達成するため、日本がこれらと他の領域で重要な経済改革を継続する事を期待する。

This year’s U.S. recommendations also place an emphasis on the United States’ desire to continue to work closely with Japan both bilaterally and in regional and other fora to promote higher standards of intellectual property protection as well as transparency across the Asia-Pacific region and beyond.

 本年の米国からの提案は、アジア太平洋地域中の透明と同様に知的所有権保護のより高い水準を促進する為、双方、地域、そして他の議場においても共にしっかり働く続ける事を、アメリカ合衆国として強く願望する。

These comprehensive U.S. recommendations serve as the basis for discussions over the coming months in the Initiative’s High-Level Officials Group as well as in four different working groups covering telecommunications, information technologies, medical devices and pharmaceuticals, and cross-sectoral issues.Progress achieved by each Government in response to the other Government’s recommendations is then documented and presented to the President and Prime Minister in the Regulatory Reform Initiative’s annual Report to the Leaders.

 テレコミュニケーション、情報技術、医療用具、製薬品分野横断的な4つの異なった作業部会について、これから数ヶ月に渡って審議する為と素地となる米国からの提案をする。それぞれの政府の提案に対し、それぞれの政府によって達成された進行状況を文書化し、年次報告書に盛り込まれ、大統領と総理大臣に報告される。

The Government of the United States continues to look forward to constructive discussions on these recommendations and welcomes receiving the Government of Japan’s recommendations under this Initiative.

合衆国政府は、本要望書の提言について建設的な協議を期待するとともに、同イニシアティブの下、日本国政府からの提言を受理することを歓迎する。

提言の要点

電気通信

The United States continues to monitor Japan’s regulatory reform efforts affecting its communications sector with a view to promoting competitive opportunities for innovative services and technologies.Key regulatory principles that enhance such opportunities include maximizing operators’ choice of technology, ensuring efficient and minimally burdensome equipment approvals, transparency and impartiality of rulemaking (particularly in the wireless area).

 合衆国は、革新的なサービスと技術の競争力がある機会を促進する為、コミュニケーションセクターに影響する日本の規制改革の努力を注視し続ける。そのような機会を高める主要な規定の原則は、オペレータの技術の選択を最大にするのを含んでおり、設備を最小限で効率的なものとし、規則策定(特に無線の領域)の透明性および中立性を確保する事である。

提言の要点

Promoting Competition and Efficiency in the Wireless Sector: Eliminate threat of fees for device manufacturers or users of license-exempt services (e.g. WiFi) to ensure robust usage of such services; expeditiously license new spectrum, or “re-farm” existing spectrum for wireless broadband systems on a technology-neutral basis; ensure new mobile entrants enjoy reasonable interconnection arrangements with other wireless operators to offer customers reasonable roaming arrangements as network build-out progresses.

ワイヤレスセクターでの競争と有効性を促進すること:ライセンス免除されているサービス(例えば、WiFi)のデバイスメーカーかユーザのための料金がそのようなサービスの強健な用法を確実にする脅威を排除する;迅速に、ワイヤレスのブロードバンド方式のために技術中立のベースで新しいスペクトル、または「再農場」既存のスペクトルを認可する; 新しいモバイル参加者が外にネットワーク建てるのが進歩するとき合理的なローミングアレンジメントを顧客に提供するために他の無線通信士による合理的なインタコネクトアレンジメントを楽しむのを確実にする。

Promoting Streamlined Regulation of Convergent Services: Ensure that efforts to
develop new rules for video offered over telecom networks are implemented in a transparent manner with a view to minimizing unnecessary regulation.

収束性のサービスの現代的な規制を促進する: 電子通信ネットワークの上に提供されたビデオのために新しい規則を開発する努力をし、不要な規則を最小にするため、透明な方法で実行されるのを確実にする。

Strengthening Competitive Safeguards on Dominant Carriers: Ensure that NTT East and West offer cost-oriented interconnection rates once current regime expires; eliminate East-West subsidies and ensure interconnection offerings for their Next Generation Network are subject to sufficient transparency and consultation with affected companies; review financial conditions imposed on competing carriers.

優性キャリヤーの上で競争保護を強化する:流動形態が期限が切れるならば、NTT東と西がコストを指向する相互接続率を提供することを確認する;東西補助金を排除し、そして、それらの次世代通信規格のためのインタコネクト提供の影響を受ける会社と共に十分に相談し、透明であることを保証する;競合するキャリヤーに課された財政状態を概説する。

情報技術

The United States’ recommendations seek to promote competition and confidence in government procurement of information technologies (IT), improve mutual understanding of e-Accessibility policy, advance the adoption of information technology to improve the quality and efficiency of Japan’s healthcare system, strengthen protections for intellectual property rights (IPR) focusing on infringement in the digital age, enhance IPR enforcement in the region and globally, and ensure any revisions in the implementation of the Privacy Act also enhance the business environment.

 合衆国の提言は、インフォメーションテクノロジー(IT)の政府調達の競争と信頼性を促進し、計数形の侵害に焦点を合わせている知的財産権利(IPR)のための強化かぶりが熟成させる e-アクセシビリティ政策、日本の品位と有効性の医療制度の改善と値上げ、情報技術の採用と相互理解、グローバルな領域でのIPRの実施、プライバシー法の実装と改訂、経営環境を上げることの保証である。

提言の要点

IT and e-Commerce Policymaking: Facilitate private-sector input and transparency in policymaking; foster technology neutrality; promote compatibility with international practice.

ITと電子商取引政策決定: 政策決定で民間部門入力と透明性を容易にする; 技術の中立性を伸ばす; 国際的な習慣との互換性を促進する。

Health IT and e-Accessibility: Promote adoption of Health IT through effective implementation of the Grand Design and increased incentives for use of Health IT; exchange information on e-accessibility policies and activities.

 健全なITと電子アクセシビリティ:健全なIT使用のためにグランドデザインと増加する誘因の有効な実現による健全なITの採用を促進する; 電子アクセシビリティの方針策定と活動時の情報交換を促進する。

IPR and Copyright Protection: Strengthen protection, including through adoption of measures to defend against online piracy and increased term of protection for sound recordings and other works.

IPRと著作権保護: IPRとオンライン著作権侵害に対して防御する測定の採用、録音と他の作品のための保護の増加する諸条件までの包含を強化する。

IPR Cooperation: Promote strong standards for IPR protection and enforcement worldwide,especially in the Asia-Pacific, through enhanced cooperation in various fora; promote information exchange on trademarks and streamline patent procedures.

IPR協力: 世界中で特にアジアパシフィックで様々なフォーラムへの高められた協力でIPR保護と実施の強い規格を促進する; 商標と流線型特許手順で情報交換を促進する。

Privacy: Ensure that any revisions of Privacy Act implementation enhance the business environment and do not restrict trans-border data flows.

プライバシー:プライバシー保護法を改正して経営環境を高め、移-境界データフローを制限しないのを確実にする。

医療機器と医薬品

The United States encourages Japan to implement rapidly many proposals in its August 2007 “Vision” report on its drug industry, including those on improved clinical trials, accelerated approval reviews, and fair value of innovation.Several of these proposals would also benefit the medical device market if applied in that sector.As Japan strives to provide excellent healthcare despite the challenges of an aging society, the United States also recommends that reimbursement pricing policies provide appropriate incentives for development of innovative medical devices and drugs and that regulatory policies help end the device and drug lag.

 合衆国は、改善された臨床の試み、革新の促進的認可観兵式と公正価値に対するそれらを含めて、日本に製薬業に対する急速な2007年8月の報告書の多くの応札を実行するよう奨励する。また、そのセクターで応用であるなら、これらの応札のいくつかが同様に医学装置販路に役立つだろう。日本が高齢化社会の挑戦にもかかわらず良好保健医療を提供しようと努力するとき、アメリカ合衆国は同様に弁償価格決定政策が革新的医療機器の開発に適切刺激を提供し、規制改革政策が薬物と装置の提供の延滞を終わらせることを勧める。

提言の要点

Pricing Reform: Ensure reimbursement pricing of medical devices and pharmaceuticals appropriately values the benefits of innovative products; increase opportunities for producers of innovative devices and pharmaceuticals to explain to reimbursement pricing authorities the benefits of their products.

価格改革:医療用具と製薬品の還付価格設定が適切に、革新的な製品の利益を評価する事を保証する;革新的な装置と製薬品のプロデューサーが、それらの製品の利益について還付価格設定当局に説明する機会を増加させる。

Regulatory Reform: End the lag in the introduction of innovative medical devices and drugs by streamlining reviews and approvals; improve the clinical-trial environment and encourage simultaneous global development of drugs; facilitate approvals of and reform regulatory requirements for minor changes in medical devices.

規制改革: レビューと承認を能率化することにより、革新的な医療用具と薬品の導入における延滞を終わらる; 臨床試験環境を改良し、薬品のグローバルな開発を奨励する;医療用具のマイナーチェンジの承認を容易にし、法的な要求事項を改革する。

Blood Products: Ensure the pricing system for plasma protein therapies is based on the unique characteristics of those products; provide industry with meaningful opportunities to discuss labeling requirements and other regulatory issues.

血液製剤: 血しょう蛋白質療法の価格決定方式がそれらの製品のユニークな特性に基づいているのを確実にする; 表示要求事項と他の調節性係争点を論じるために有意義な機会を産業に提供する。

Nutritional Supplements: Create a new category for foods that allow ingredient-specific claims; provide meaningful opportunities for industry input during the development of health food safety regulations; shorten approval times for new food additives.

栄養剤: 成分特有のクレームを許容する食物のための新しいカテゴリを作成する; 健康食品安全規則の開発の間に入力された産業に重要な機会を与える; 新しい食品添加剤のために承認の時間を短くする。

Cosmetics / Quasi-Drugs: Increase transparency and efficiency in the quasi-drug approval system; allow claims based on significant and verifiable data.

化粧品/医薬部外品: 医薬部外品認可制の透明と効率を増強する; 重要で証明可能なデータに基づくクレームを許容する。

金融サービス

The United States commends the Government of Japan for committing to develop a “Plan for Enhancing the Competitiveness of Financial and Capital Markets.”The United States believes that competitive financial and capital markets are a key element contributing to sustained economic growth, efficient capital allocation, job creation, and innovation.The United States encourages Japan to adopt measures necessary to assure global financial center status.

 合衆国は日本の政府が「金融そして金融市場のマーケットの競争力を強化する計画」を策定することを約束したことを称賛する。合衆国は金融そして市況が貢献して主軸である競合が経済成長、能率的資金配分、創造的な仕事と革新を維持したと信じる。合衆国は、日本がグローバルな金融の中心地状態を保証するのに必要な測定を採用するのを奨励する。日本人の貯蓄家と労働者に能率を増進し、より多くのオプションを提供する具体策に加え、日本が金融サービスセクターで以下の領域で行動を取ることによって規制改革での最近の進歩を著しく続けるように呼びかける。

提言の要点

Financial Regulatory Transparency: Expand the body of published written interpretations of financial laws, including by active use of no-action and interpretive letters; ensure all stakeholders to provide input on draft laws and regulations.

金融規定の透明度: 金融の法則によって発行された書かれた解釈の本論、動作がなくて公開の書面の能動的使用による包含を広げてください; すべての利害関係者を確実にして、草稿法と規則に関する入力を提供する。

Credit Bureaus: In order to promote sound credit underwriting: deter excessive lending and improve consumer welfare and competitive credit markets; create a legal and regulatory framework for a credit bureau system that facilitates more accurate risk pricing for consumers and small businesses by collecting and providing fair; open access to comprehensive full-file credit information.

信用調査所: 健全な貸し付けの引き受けを促進する: 過剰融資を思いとどまらせ、消費者福祉と競争の激しい金融市場を改良する; 公正な状態で消費者と中小企業のため、より正確なリスク価格設定を容易にする信用調査所システムのための法的で規定の枠組みを作成する; 包括的で完全な信用情報ファイルへのアクセスを開く。

Information Sharing and Firewalls: Identify and define the scope of required firewalls through written guidance and continue an active dialogue with foreign financial institutions regarding appropriate revisions to the current firewalls regime, including the Financial Instruments and Exchange Law and the Personal Information Protection Law.

 情報共有とファイアウォール:識別、そして書面の誘導を通して必要とされるファイヤ・ウォールの適用範囲を定義し、外国の金融の協会が金融の楽器と取引所法と個人情報防護法を含め、流動ファイヤ・ウォール形態に適切改訂を尊重するという状態で、アクティブな対話を続ける。

競争政策

Strong and effective Antimonopoly Act (AMA) enforcement against anticompetitive practices will provide great benefits not only to Japanese consumers, but also to the Japanese economy as a whole.At the same time, care must be given to ensure that AMA enforcement policy does not interfere with procompetitive conduct and that Japan Fair Trade Commission (JFTC) procedures are perceived to be fair and transparent.The United States welcomes the report of the Advisory Panel on Basic Issues Regarding the AMA and looks forward to the implementation of many of its recommendations.he United States urges Japan to take measures to improve further Japan’s competition environment.

 非競争的な習慣に対する強くて有効な独禁法実施は日本人の消費者だけではなく、日本経済にすばらしい利益を提供するだろう。同時に、独禁法の実施方針が競争促進的行為を妨げず、公正であって、日本公正取引委員会の手順が透明であると知覚されるのを保証するために注意しなければならない。合衆国は、基礎的問題に関する独禁法の上の諮問機関のレポートを歓迎し、推薦の多くの実現を期待している。合衆国は、さらに日本の競争環境を改良する対策を実施するように日本に促す。

提言の要点

Improving Antimonopoly Compliance and Deterrence: Strengthen administrative sanctions against cartels; promote use of JFTC’s leniency program; increase effectiveness of criminal enforcement; avoid surcharges on unilateral conduct; review AMA exemptions on international aviation and shipping; revise Distribution Guidelines; adopt pre-notification system for stock acquisitions; ensure competition during postal privatization; hire more outside legal professionals and economists.

独占禁止コンプライアンスの改良と抑止: カルテルに対して管理制裁を強化する; JFTCの寛大さプログラムの使用を促進する; 犯罪の実施の有効性を増加させる; 一方的な行為のときに課徴金を避ける; 国際航空と出荷のときにAMA控除を見直す;配分のガイドラインを改訂する; 株式取得のプレ通知システムを採用する; 郵便の民営化の間、競争を確実にする; より多く、外部から法的な専門家とエコノミストの雇う。

Improving Fairness and Transparency of JFTC Procedures: Enhance credibility of hearing procedures; clarify conditions necessary to move to a pre-order hearing procedure; improve regulations on JFTC warnings.

JFTC手順の公正を改良して透明に: 公聴会手順の真実性を高める; 事前注文公聴会手順に動くのに必要な状態をはっきりさせる; JFTC警告で規則を改良する。

Addressing Bid Rigging: Strengthen penalties against bid rigging; prevent government-assisted bid rigging and address conflicts of interest in procurement; expand administrative leniency programs; improve procurement practices.

談合入札への取り組み: 談合入札に対して刑罰を強化する; 調達で政府によって補助された談合入札と利害対立を防ぐ; 行政のプログラムを寛大に広げる; 調達に関する慣行を改良する。

商法と司法制度改革

A commercial law and legal systems regime in Japan that recognizes the realities of the global market and reflects best international practices will encourage efficient business practices and structures that will strengthen the Japanese economy. Essential aspects of a modern commercial law system include laws that will facilitate rather than impede cross-border investment and corporate governance mechanisms that promote management accountability to, and full participation by, shareholders. Japan should also ensure that international legal services can be provided in an efficient and cost-effective manner. The United States urges Japan to take measures to further improve Japan’s commercial and legal environments.

 世界市場の現実を認識し、最も良い国際的な習慣を反映する日本の商法と法的なシステム政権は日本経済を強化する効率的な商習慣と構造を奨励するだろう。現代の商法システムの不可欠の局面はそれが国境を越えた投資、それが管理責任を促進するコーポレートガバナンスメカニズム、および株主の全面参加を妨害するよりむしろ容易にする法を含んでいる。また、日本は、効率的で費用対効果に優れた方法で国際的な司法サービスを提供することができるのを確実にするべきである。合衆国は、さらに日本の商業的、そして、法的な環境を改良する対策を実施するように日本に促す。

提言の要点

Promoting Efficient Restructuring and Shareholder Value: Review the success of introducing triangular merger techniques for cross-border acquisitions; protect shareholder interests in anti-takeover measures.

効率的な企業再構築を促進して、株主の利益を確保する: 越境獲得のための三角形の合併のテクニックを導入する成功を見直す; 反の接収測定における株主の利益を保護する。

Strengthening Good Corporate Governance: Encourage active and appropriate proxy voting; protect shareholder interests through independent directors; ensure sufficient protection of minority shareholders.

コーポレートガバナンスの強化: アクティブで適切な委任投票を奨励する; 独立しているディレクターを通る株主の利益を保護する; 少数株主の十分な保護を確実にする。

Protecting Foreign Firms Legitimately Doing Business in Japan: Adopt redomestication procedures that allow a foreign company to merge or convert into a Japanese corporation; ensure that Article 821 does not have adverse effects on the legitimate operations of foreign companies.

合法的に日本のビジネスをする外資系企業を保護する: 外国会社が合併するか、または日本の会社に変えられる再家畜化手順を取り入れる;会社法821条が外国会社の正統の操作に悪影響を及ぼさないのを確実にする。

Achieving Legal System Reform: Permit professional corporations and branching by foreign lawyers (gaiben); allow Japanese lawyers to associate freely with international legal partnerships; revise minimum qualification criteria for gaiben; promote arbitration and other alternative dispute resolution.

司法制度改革: 専門家法人と外国人弁護士(ガイベン)を許容する; 国際的な法的なパートナーシップと日本人の弁護士を自由に交際させる; ガイベンの最小の資格評価基準を改訂する; 仲裁と他の裁判外論争処理を促進する。

透明度

Transparent regulatory and policy-making practices are a cornerstone of any good business environment. While a number of improvements have been made in Japan in recent years, such as the introduction of a more meaningful public comment procedure, actual experience clearly indicates that such improvements are not being uniformly implemented across the Japanese Government. The United States continues to urge Japan to further improve its business environment by taking new steps that ensure consistent application of high transparency standards, including by creating new rules as well as promoting best practices. The United States looks forward to cooperating with Japan to promote higher transparency standards in the Asia-Pacific region.

 透明な規定、方針を作る習慣は良い経営環境の礎石だ。多くの改善が成し遂げられたのに対して、いっそう有意義な公共の批評手続きの導入のような実際経験が日本で為されていないのは、日本政府がこのような改善を一様に実行していないことを明確に示している。合衆国は、新しい規則を作成し、最も良い習慣を促進することによって高い透明な規格、包含の一貫した適用業務を確実にする新しい方法を取ることにより、経営環境をさらに改良するように日本に促し続ける。

提言の要点

Advisory Groups: Implement new rules to ensure transparency and access for stakeholders to provide input into government-appointed advisory groups; develop and promote transparency best practices for such groups on a government-wide basis.

諮問団: 新しい規則を与え、透明とアクセスを確実にし、利害関係者は入力を政府が指定している諮問団に提供する; そのようなグループのため、政府全体ベースで透明最も良い習慣を開発し、促進する。

Public Comment Procedures(PCP): Ensure agencies give public comments ample consideration; take steps to lengthen the public comment period; evaluate the current effectiveness of the PCP to identify other areas to improve its implementation.

パブリックコメントの手順(PCP): 政府機関が十分な考慮をパブリックコメントに十分な考察を払うことを保証する; パブリックコメントの期間を伸ばす;その実装を改善するため、他のエリアを識別するためのPCPの流動有効性を評価する。

Regulatory Transparency: Require Ministries and Agencies to make public in writing their regulations and any statements of policy or generally applicable interpretations regarding those regulations; promote use of ‘plain language’ regulations.

規定の透明性: 内閣と政府機関が、彼らの規則と方針か一般に適切な解釈のそれらの規則に関するどんな声明も、書く際の公表するのを必要とする; 「普通語」規則の使用を促進する。

Strengthen International Cooperation: Intensify bilateral work to promote higher transparency standards in the Asia-Pacific, such as through ensuring active implementation of APEC Transparency Standards.

国際協力の強化: アジアパシフィックにおける、より高い透明規格を促進する共同作業を激化させるAPEC透明性基準の実施のための首脳声明の活発な実現を確実にする。

その他の通商に関する政府慣行

The United States urges Japan to undertake regulatory reform in a number of other areas to help create new opportunities as well as ensure efficient competition by creating a level playing field. Full liberalization of sales of insurance products through banks, for example, will help enhance competition and consumer choice. Holding insurance cooperatives to the same regulatory supervision that private insurers must meet will also help provide for a sound, competitive insurance market for Japanese consumers. In addition, the U.S. urges Japan take a number of steps to facilitate trade in agricultural products in ways that expand consumer choice while rooted in science-based international standards to ensure a safe food supply for Japanese consumers. The business environment for foreign nationals can be improved via streamlined consular requirements.

 合衆国は、平等な競争条件を作成することによって新しい機会を作成し、効率的な競争を確実にするのを助けるため、他の多くの領域で規制改革を引き受けるように日本に促す。例えば、銀行における、保険商品の販売の完全な自由化は、競争と消費者による選択を機能アップするのを助けるだろう。また、個人的な保険会社が満たさなければならないのと同じ規定の指揮に保険協同組合を保つのは、健全な日本人の消費者の競争の激しい保険市場に備えるのを助けるだろう。さらに、米国は、農産物の中で日本人の消費者のために安全な食物供給を確実にするために科学ベースの世界規格に根づく間に消費者による選択を広くする方法で、商売の便宜を図るために多くの方法を採る。領事の要件で外国人のための経営環境を改善し、合理化することができる。

提言の要点

Liberalize Bank Sales of Insurance: Ensure the bank sales channel for insurance products is fully liberalized no later than the end of 2007.

保険の銀行販売を自由化する: 保険商品のための銀行の販売チャンネルが2007年の終わりまでに完全に自由化されるのを確実にする。

Insurance Cooperatives: Build on recent progress to secure a level playing field between private companies and cooperatives (kyosai) that offer insurance by taking new steps to hold them to the same obligations as applied to private insurers.

保険協同組合: 個人的な保険会社に適用されるのと同じ義務にそれらを保つため、新しい方法を取ることによって保険を提供する民間企業と協同組合(共済)の間の平等な競争条件を保証する。

Consular Issues: Revise the re-entry permit requirements to minimize burdens on visa holders in Japan.

領事の問題: 日本のビザ所有者で重荷を最小にするという再入国許可要件を改訂する。

Practices Related to Agriculture: Facilitate trade by applying science-based standards to assess substances used on organic crops; complete the review of food additives recognized as safe by relevant international organizations and used widely throughout the world; ensure measures that enforce maximum residue levels are the least trade restrictive possible; implement international standards in animal health and related measures.

農業と関連した習慣:有機農産物で使用される物質を評価するために科学ベースの規格を適用することにより、商売の便宜を図る; 関連国際機関で安全で中古であるとして世界中で広く認識された食品添加剤のレビューを終了する; 許容残留量を実施する測定が可能な最少の貿易限定語であることを確実にする; 動物健康と関連する程度の世界規格を実行する。

Special Zones for Regulatory Reform: Strongly promote new approaches in Japan’s Special Zones program; apply more zone measures nation-wide.

規制改革のための特別なゾーン: 強く日本のスペシャルゾーンプログラムにおける新しいアプローチを促進する; より多くのゾーン測定を全国的に適用する。

民営化

The United States continues to take great interest in Japan’s effort to privatize and reform Japan Post. The United States recognizes the potential benefits for Japan’s economy if these steps are taken in a fully market-oriented manner. The United States also views it essential that these reforms are undertaken transparently and bring about a level playing field between Japan Post and private sector competitors in Japan’s banking, insurance, and express delivery markets. The United States continues to urge Japan to take necessary steps to ensure equivalent conditions of competition are achieved in these markets.

 合衆国は、日本の郵政公社を民営化し、改革するための努力に関心を持ち続ける。市場指向の完全な方法を取るなら、合衆国は日本の経済として潜在的利益を認識する。また、これらの改革が日本の銀行業、保険、および速達市場で日本郵政公社と民間部門の競争相手の間で透明に引き受けられ、平等な競争条件を引き起こすのが不可欠な状態と見る。合衆国は、競争の同等な状態がこれらの市場で獲得されるのを保証するため、必要な手段を取るように日本に促し続ける。

提言の要点

Level Playing Field - Savings and Insurance: Ensure the new postal financial institutions meet tax, legal, and regulatory obligations and are subject to the same supervisory standards as private firms; ensure these institutions do not actively leverage their Government ties to secure new advantages.

平等な競争条件--貯蓄と保険: 新しい郵便の金融機関は税金、法的で、規定の義務を満たし、民間企業と同じ管理の規格を受けることを確実にするい; これらの団体が新しい利点を保証するため、活発にそれらの政府と結びついた投機しないことを確実にする。

Competitive Conditions and New Products: Create a level playing field in Japan’s banking and insurance sectors before postal financial institutions are permitted to introduce new lending services, underwrite new or altered insurance products, and originate non-principal-guaranteed investment products.

競合条件と新製品: 郵便の金融機関が新しい貸すサービスを導入するのが許可される前に、日本の銀行業と保険部門で平等な競争条件を作成し、新しいか変えられた保険商品を署名し、非保証の投資金融商品を創作する。

Level Playing Field - Express Delivery: Apply equivalent customs clearance procedures for items handled by Japan Post Service as applied to private express carriers for similar actions, including application of the “duty declaration” system to EMS items; adequately disclose relationships and ensure cross-subsidization does not occur between competitive and non-competitive services.

平等な競争条件--速達: EMSアイテムに「任務宣言」システムのアプリケーションを含む類似した行動のために民間の明らかな航空会社に適用されるので、日本郵政公社サービスによって取り扱われるアイテムの等しい通関手続き手続きを適用する; 適切に関係を明らかにし、交差している助成金の支給が競争力があって非競争的なサービスの間に起こらないのを確実にする。

Transparency: Ensure strong transparency in the implementation of Japan Post reforms, including providing interested parties meaningful opportunities for input and exchanges of views as the process proceeds; conduct regular reviews of the impact of the reforms on markets and invite input from all parties.

透明性: プロセスが進行するので、利害関係のある党に入力の意味がある機会を提供することを含む日本郵政公社改革の実行と見解の交換の強い透明性を確実にする; 市場で改革の影響の定期的なチェックを行い、すべての党からの入力を求める。

流通

Boosting productivity, increasing efficiency, and opening new opportunities in Japan's distribution system is critically important for sustaining Japan's economic growth. The United States therefore applauds Japan’s efforts to lower fees for airport use and the results of the recent U.S.-Japan Civil Aviation agreement that provide for increased access for cargo and commercial airlines. The United States requests that Japan take further steps to lower distribution costs, increase transparency, and ensure a level playing field for all industries, including retailers, airlines, and express delivery companies.

 日本の経済成長を支えるには、日本の流通制度における生産性、増加する効率、および初めの新しい機会を上げるのは批判的に重要だ。したがって、合衆国は貨物と民間航空のために空港使用のために料金を下げるための日本の努力、増加するアクセスに備える最近の日米民間航空協定の結果を称賛する。合衆国は、日本が配布経費を下げるために更なる処置をとり、透明度を増し、小売業者、航空会社と明らかな配達会社を含むすべての産業のため、公平な競争の場を確実にするよう要求する。

提言の要点

De minimis: Streamline customs procedures by increasing the Customs Law’s de minimis level.

最小の: 税関法を最小化することにより、通関手続きを合理化する。

Airport Expansion and Operations: Ensure all airport operational changes develop with appropriate public input and transparency.

空港拡張と操作: すべての空港の操作上の変化が適切な公共の入力と透明で展開するのを確実にする。

Parking Spaces: Expand the availability of temporary parking slots in urban areas for distribution vehicles.

駐車場: 配布車両のため、市街化区域の一時的な駐車スロットの有効性を拡大する。

Customs Procedures: Standardize customs procedures for all packages to ensure a level playing field for all delivery agencies.

通関手続き:すべての配達エージェンシーのための公平な競争の場を確実にするため、すべてのパッケージのために通関手続きを標準化する。

 以上、2007年度版、アメポチどもへの指令書の要点部分。

 気が向けば、残りの部分もやるかも知れませんが、何をどう考えても、私が全て訳し終えるまでに大使館サイトに訳文がアップされそうなので、多分やりませんw

 て言うか、ここまでやれば、クソッタレのアメ公が何を望んで何を要求してきているのか、大体は分かるでしょう。

 後は、気になった部分を各自勝手に調べれば良いのではと思います。

 英文のPDF版はここです。

日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書

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2007年10月20日 (土)

年次改革要望書にぬかづく卑屈な買弁勢力!!

                           
 友人から今日メールが届いた。内容は10月18日の年次改革要望書(最新)についてであった。
**************************************************************************
 今、10月18日付 年次改革要望書を読んでいるところですが、7ページにいろいろな話がありますね。このページには食料の安全基準も国際基準に統一しろとあったり、2007年末までに銀行での保険販売の完全自由化を認めろと、よくもまあ、あと2ヶ月で決めろと言ってくるモンですねえ。共済も民間と同条件にしろって、郵政だけでは物足りないんでしょうか、国際泥棒機関、、、じゃなかった国際金融資本は。
 詳しいことは、最初のほうの7ページのところと、Annex-32からAnnex-33に書いてあります。

http://www.ustr.gov/assets/Document_Library/Reports_Publications/2007/asset_upload_file751_13383.pdf
******************************************************************************

  う~む・・、私は英語が苦手なのでうまく和訳できないが、堪能な方は英語版の該当箇所を読んでいただきたい。たとえば7ページにあるRECOMMENDATION  HIGHLIGHTS  に下記のような記述があるが、共済は民間保険業者と同様な条件に義務付けるように提案(実際は命令であるが)している。しかし、少し考えればアメリカの暴力的な押し付けが良く現れていることに気付く。共済システムというものを野蛮な国際市場原理に無理やり引きずり出し、それをパワーロジックだけの競争原理にさらすことが正義だと言っているのである。市場原理と共済システムは絶対に整合(親和)しない。なぜなら共済の概念が共生思想にもとづく相互扶助だからだ。日本人はアメリカの論理構造に飲み込まれてはならない。きちんと日本を打ち出せばいいのだ。

Insurance Cooperatives:
Build on recent progress to secure a level playing field between private companies and cooperatives (
kyosai) that offer insurance by taking new steps to hold them to the same obligations as applied to private insurers.

 ここには「共済:kyosai」とわざわざ日本読みで記載されているが、よっぽど日本型の共済システムを破壊したいらしい。共済と言えば、私も入っているのですぐに農協の共済を思い浮かべるが、彼ら(米国系国際金融資本)は日本の農業協同組合の権益を狙っているのかもしれない。ご存知のように、共済とはある地域の共同体的特異性によって築かれた相互扶助的金融機関である。おそらくこの起源は村落共同体の「助け合い講」ではないだろうか。こういう性格の組織が国際金融市場に整合するはずがないし、させる理由もない。注意した方がいい。農協が果たして農家のお役に立っているかどうかは別にして、農協が抱えている膨大な金融資産は国民の汗の結晶である。郵政資金と同様に彼らがこれに目をつけることは充分に考えられるのだ。話は少し違うが、今、連日ニュース沙汰にされている老舗の菓子「赤福」の信用失墜も裏に外資の暗躍があると私は思っている。国際金融資本(外資)が日本全域の神社仏閣の敷地や境内利権を狙っていると言ったら驚くだろうか。いわゆる神仏施設の利権も確実な有産空間であることを鑑みれば、それもあり得ない話ではない。銘菓「赤福餅」は、江戸時代のお伊勢参りの頃から知られていて、創業300年の伝統を誇る老舗中の老舗菓子だ。もしかしたら、この会社の乗っ取りをたくらんでいるおおもと(外資)がいるのではないかと私は疑っている。

 赤福餅は、大きく考えれば日本全国の神社の総本山である伊勢神宮の境内利権として考えられなくもない。外資はゴルフ場、ホテル、温泉地を含めた観光地利権のみならず、日本人の魂の故郷である神社仏閣にまで毒手を延ばそうとしているのではないのか?ところで、今、外資が急激に破壊しつくそうとしているものは、旧来の日本型システムや伝統構造なのである。その意志はすでに1980年代から熾烈になっていて、日米構造摩擦を生んだ。彼らが憎み、壊そうとしているのは、その国独自の多様な固有性や伝統文化なのだ。グローバリズムとは国家や民族の多様性をすべて悪と規定して、無国籍で単純な市場社会に世界を平滑化することである。そしてそこで行なわれることは金融資本強者による徹底した収奪と搾取なのである。ネオリベ経済体制とは、この悪魔の経済体制を敷いて、狙った国を内部から破壊する方策である。小泉政権は完全にこれに加担した買弁政権だった。つまりは国賊政権だったのである。これを経済理論的、実践的に主導した張本人が竹中平蔵氏であった。

 メールを送ってくれた友人が次のようにぼやいていた。

 「要望書で命令されるや否やこのすばやい対応!情けないですねえ。」

 金融庁、及び自民党の財務金融部会と金融調査会は、この年次改革要望書に対して、パブロフの犬のように間髪入れずに反応している。これじゃ植民地の自治部会(傀儡政権)が、宗主国の命令に慌てふためいて恭順の意を捧げていることと同じじゃないか。我が国は何と言う情けない国に成り下がっているのだろうか。

      http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071018-00000015-fsi-bus_all

    保険窓販、全面解禁へ 12月から 自民、22日にも了承
10月18日8時32分配信 フジサンケイ ビジネスアイ

 自民党の財務金融部会と金融調査会は17日、合同会議を開き、契約者保護の明確化を図ることなどを条件に保険商品の銀行窓口販売の全面解禁を容認する方針を固めた。22日にも最終的に了承、保険窓販は予定通り12月に全面解禁される見通しとなった。

 金融庁が、新たに契約者保護を盛り込んだ銀行、保険会社への監督指針改正案などを提示。保険商品販売後の銀行と保険会社の業務分担の明確化や必要な態勢整備、顧客情報利用の事前同意などについて適切な措置を講じることを求めるとともに、全面解禁後もモニタリングを行い、検査、監督を通じて厳正に対応するとした。1~3年程度で弊害防止措置の見直しも行う方針。

 自民党側はおおむね賛同を示したものの、日本では銀行の立場が強いことを指摘し、透明性確保のため、役割分担の内容を公表するなど具体的な規定を監督指針に盛り込むよう求めており、22日に改めて部会を開いて結論を出す。

 保険窓販は、2001年以降、段階的に解禁されており、05年12月の第3次解禁の際、移行期間中に問題がなければ今年12月22日に定期保険や自動車保険、医療保険など保障性商品を含め全保険商品に拡大する方針が決まった。

 金融庁は9月18日の金融審議会で問題は少ないとの調査結果を説明し、予定通り解禁する方針を示したが、自民党内から銀行による押しつけ販売などに懸念を示す意見が出て、契約者保護策の拡充を求めていた。

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植草事件に思う(いかりや爆さんから)

 いかりや爆さんという方から真摯なコメントが寄せられたのでここに掲載
する。いかりや爆さん、ありがとうございます。

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  ◎植草事件に思う

10月16日東京地裁における判決公判で、植草氏懲役4ヶ月が言い渡され
た。植草氏には真にお気の毒である。あらためて、検察、警察、裁判官へ
の憤りを禁じえない。

 私は昨年この事件直後の9月19日、「阿修羅」政治板で今回の有罪結果
となるだろうことを予想した投稿をした、結果はその通りとなった。以下にさ
わりの部分を紹介します。

”” 今回の事件で起訴されれば、彼は間違いなく有罪だろう。
「冤罪かどうか、公正な裁判を待つしかない」という人がいる。
前回の事件を前提に考えると、公正な裁判など期待できるわけが無い。
残念ながら彼の無罪はありえない。
最高裁まで行けばどうかわからないが、最高裁まで無罪を主張して争うなら、
前回事件で争うべきだった。前回よりも単純だが手口が巧妙化?している。
前回事件に対する疑念が晴れない限り、今回事件も操られた事件とみる
ほうが妥当だろう。””

 手鏡事件のときは、植草氏は当日横浜市での講演を終えて横浜駅構内に入った時点から
二人の警官が彼を尾行していた。
殺人事件などの、犯罪容疑で被疑者を尾行することはあり得るだろう。痴漢を微罪とまで
は言わないが、税金を使って警察が痴漢するかしないかで一般人を尾行するなんてあり
得ない。

 縄張り意識の強い警察官がわざわざ、管轄外の品川駅構内まで尾行している。何らかの
意図をもって、または使命を受けて植草氏を尾行していたと言う意外にない。

 しかも事件当日の現場の防犯カメラの提示を求めたにも拘らず、警察側は隠蔽工作する
など警察にあるまじき不正行為である。

 さらに言えば、手鏡を出して覗いた現場で身柄を確保したわけではなく、たまたま交番に
連行したら、ポケットから手鏡が出てきたので、「お前、手鏡で覗いただろう」という極めて
悪質な推定によるでっちあげ事件と言わなければならない。

 「一体、こんな判決ってありかよ!」と思わせる有罪判決なのだから、この事件は、どう
みても、「検察、警察、裁判官がぐる」でなければあり得ない事件だった。

 京浜急行電車内での件での私の第一の直感は、「畜生!またやりおった」というもので
す。普通女子高校生が午後10時過ぎの電車には、特別の理由が無い限り乗らないだろ
う。

 午後10時過ぎの電車であれば、朝のラッシュアワーのような、すし詰め状態は考えられ
ない。もしいかがわしいおじさんがいれば、普通の女性ならば、まず退避行動を起こすは
ず、それをしないで2分間も尻を触られ続けること自体あり得ない。

 これらのことを考慮すれば、当然「仕組まれた」事件であることを前提に弁護活動をすべき
だった。
 最初からすべてを疑ってから、弁護活動の方針をたてるべきだった。つまり、被害者とされ
る「高校生」、「捕まえた二人」、「植草氏に大量の酒を飲ませた人」、またその「酒宴を開
催した人」、ひょっとして弁護にあたった「弁護士」さえも・・・何故なら、今回の弁護の方針
には致命的な欠陥がある。

 弁護側が痴漢事件のあったことを否定していないことや、真犯人がいるとしながら、だけど
「植草はやっていない」という方策を立てて弁護活動をしたことです。何故敢えて検察側へ
の利敵行為をしたのか理解に苦しむ。

 痴漢行為があったことを、前提とするのであれば、控訴しても残念ながら無罪を勝ち取る
のは、難しい。さりとて今更、電車内で痴漢行為そのものがなかったことにするわけにも
いかないだろう。

 それでは防御的弁護を繰り返すしかない。何故、検察側の弱点をつく攻撃的弁護がとれ
なかったのだろうか。

 実は私は手鏡事件のとき、なんとかして世論を喚起するために、某週刊誌にこの事件へ
の疑問を投げかけ、この事件を徹底的に調査してくれるようメールを送ったが、結局「梨の
つぶて」だった。

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2007年10月19日 (金)

植草さん応援も国家回復への重要な道程!!

  今回の裁判は『国策裁判』だ!!

 今回の裁判は我が国の司法が根幹から腐蝕していることをはっきりと示した。今、弁護団と検察のやり取りを逐次例示して、裁く側の横暴性を訴えても効果はないような気がする。それはネットでも散々やってきて要点を示したからだ。それよりも今考えねばならないことがある。この事件、そしてこの裁判の本質がいったい何だったのかということを冷静に見究めることである。

 それは、植草さんが国策捜査による偽装事件に巻き込まれたということに尽きる。私が国策捜査と言う言葉を知るきっかけになったのは、外交官の佐藤優(まさる)さんが著した「国家の罠」という本だった。国家の論理に合わないものに国家が刃(やいば)を向ける。この事実は衝撃的だった。たしか植草さんが拘置所に異常に長く勾留されていた時、愛読した本がこの本だったらしい。

 国策捜査による逮捕とは、簡単に言えば、表面的には庶民的な意味における善悪の論理で逮捕されたように見えるが、その内実は時の権力者が権力遂行に邪魔な者を駆逐(排除)するために行なう政治的な姦計である。国策捜査とは、国家(時の権力中枢)が大きな国家政策(グランドデザイン)を描き、それに沿って国家の在り方を変えようとする時、その動きに邪魔な言論活動をする有識者を社会から抹殺するという目的で行なわれる逮捕である。つまり佐藤優さんの表現をお借りすれば、国家の内在的論理が変化する時、それに合わない考えを持つ影響力の大きい有識者の口を封じるために行なうのが国策逮捕だと私は受け止めている。国家の計、つまりは国家のグランドデザインを大きく変えるという国政転換は、いつの時代も起きたし、これからも起こるだろう。

 そのこと自体は歴史の必然性によっているし、結果的には為政者の方針に国民も従うから問題はない。問題は国家の姿勢が、反国益を指向し、伝統や文化の完全破壊を起こすような転換を目指した時である。つまり、国民の幸福からかけ離れたような国政デザインがひそかに描かれ、それが国民を欺く形で実行された時である。小泉政権はこれに該当する欺瞞の政権であった。国民をあざむいて密かに立案された国政デザインこそが、アメリカの年次改革要望書に盛り込まれた国益毀損のネオリベ政策であった。アメリカの飼い犬となってこれを無謀にも遂行した連中が、小泉純一郎氏や竹中平蔵氏、彼らに与した買弁連中だった。彼らは建国以来の国家破壊者として歴史に名を残すだろう。植草さんのように人間としての良心を曲げず、並外れた洞察力と観察眼を持つ者は、いち早く小泉官邸主導の国家的危険性を見抜き、随所で警告を発していた。これが売国買弁勢力の逆鱗に触れ、植草さんは国策捜査の歯牙にかけられたのである。

 国策捜査、これが通常の意味における冤罪とはまったく異なる論理構造を持っていることは、私やその他の人々が散々説明してきた。植草さんは1998年の東海道線車内の件、これは冤罪なのであるが、この一件が、その後に続く二度の『痴漢偽装事件』に徹底的に利用されたということだ。植草さんに関する国策捜査とは、そこまでの入念な計画性を持って行なわれている。そしてこの最終目標はまだ終わっていない。国策的意図における「植草さん破滅計画」は現在も続行中なのだ。マスコミも、裁判所も、無実の植草さんを病的性癖の持ち主だとして、まったくいわれのないイメージを植えつけることに奔走した。事件後に洪水のように垂れ流された初期報道は異常に偏っていた。誤まった画一的な報道が嵐のように全国を吹きまわり、植草さんのイメージを徹底的に毀損した。この報道様態の異様さにこそ、この事件に込められた大掛かりな作為性が露骨にあらわれている。

 世間では痴漢事件は推定有罪率99パーセント以上という観点でこの事件を捉えてしまいやすいが、それは一面の話であって、完全無実の植草さんが、実際に有罪判決を受けたことは、99パーセント以上の推定有罪を下す司法の悪習、慣習の埒外で起きたことだ。どういうことかと言えば、裁判所が他の権力の指図に従ったからである。つまり植草さんの有罪決定の場合は、国策捜査という小泉前政権官邸主導の内在的論理の働きによって決められていたと考えて間違いない。こう言うと、植草さんを嵌めた犯人が抽象的で漠然とした政権を指し示しているように思われるかもしれないが、計画を立案し、実行したグループとして、明らかに特定の人間集団が存在している。彼らは権力中枢に近い人間だ。彼らを明るみに引きずり出す必要がある。

 裁判を不当裁判と言うのは容易いが、私は敢えてこの裁判を「国策裁判」と言いたい。事件の偽装性を証明するこれだけ明らかな事例が挙がっているにも関わらず、裁判所はそれを採用する気は毛頭なく完全黙殺だった。言えることは、国家の腐蝕した内在的論理に裁判所も与(くみ)したということだ。

 この状況で植草さんは戦わねばならない宿命を背負った。しかし、やる気ならば私もA氏も、他の人々も一緒に戦う腹を決めている。植草さんは一人ではない。我々の対峙する相手も同じなのだ。なぜなら植草さんとともに戦うことは、ここまで疲弊した国家を再建することに直結するからだ。郵政民営化という稀代の悪法が完全実行されると、国家が危殆に瀕することを見抜いている人たちが大勢いる。彼らも、そのことと植草さんの国策逮捕は同じ原因から出ていることを感得しているはずである。そうであるならば、是非にも植草さんを応援して欲しいと思う。個人的には、このお人が女性の苦痛を考えずに痴漢行為に及ぶなどということは天地がさかさまになってもあり得ないという確信を得ている。しかし、彼がいい人です、優しい人ですというファン心理だけで応援しても効果はまったくない。植草さんが行なった痛烈な小泉政権批判に、彼が国策捜査に嵌められた主因があるのだ。もう少し大きな言い方をすれば、ここ二十年くらいでどんどん駆逐されてきた残り少ないケインズ派エコノミストの最後の良心が狙われたのである。

 つまり、日本がたどってきた戦後政治の在り方が、小泉政権樹立によって、ある大きなターニングポイントを迎えたように国民は思っているが、実はこの変換が、自生的、自立的なダイナミズムで行なわれたのではなく、百パーセント、アメリカによる日本改造指令に基づいて行なわれたのだ。従って、植草さんが指摘したように、小泉構造改革は国民総意のもとで行なわれたように見せかけられたが、その実体はアメリカによる日本改造計画の実行だったわけである。その結果として、日本は格差社会が固定化しつつあり、傾斜配分がますます顕著になってきた。国民は暮らしに不安が募るばかりであり、若者は将来への希望を喪失した。経済苦の自殺者は増大するばかりである。貧乏人はどんどん貧乏になってきた。昔、中流階級と言われていたごく普通の家庭が今や、預金を切り崩しながら生活している現状である。このどこがまともな国家だ。

 これを読まれている読者さんに声を大にして言いたいが、植草さんこそ、現状日本における救世のエコノミストであることを知ってほしい。彼が庶民の幸福を保持し、国益毀損を防ごうとしたから売国連中に嵌められたんだということをどうか冷静な眼で捉えて欲しい。今までの国政の推移を眺めれば、植草さんが巻き込まれた偽装事件の本質が見えてくる。

 我々が植草さんを救うということは、我々が植草さんに救ってもらうことになるのだ。植草さんの経世済民思想が日本に生かされれば、この国は健康を回復する。植草さんが蒙った偽装事件を、戦後史の重大な事件として捉える必要がある。植草さんを有罪として放っておいたら、我々自身が住むこの大切な日本が米国や国際金融資本の狩場と化して有益なものは根こそぎ奪い取られてしまうのだ。植草さんを助ける行為は、一般庶民が米国の収奪現状から脱出し、健康な社会を回復する糸口をつかむことにもなるのだ。そのことをわかってほしい。

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2007年10月18日 (木)

堂々と国策捜査で打って出て欲しい!!

  ある支援者の方から、私が送ったメールに対して一通の返事が届いた。この方とは何度か支援のことで話し合っているが、返事のメールに出ていた気持ちは、ほとんど今の私の気持ちと同じものなので、ご本人の了解を得てここに掲載する。

(筆者が送った16日のメール)
*******************************************************************************
○○○○ 様

 おはようございます。昨日結審公判に行ってきました。Aさんに代表して傍聴していただきました。今までのマスコミ報道や裁判官の質問の仕方などから、ある程度は今回の帰結を予想していましたが、実際にそうなってみるとやっぱり強いショックと虚無感に襲われます。私は裁判官の常識や人間性に一縷の希望を持っていたので本当に残念です。彼らはゆがんだ権力機構の走狗としかいいようがない。怒りがこみ上げて仕方ありません。

 Aさんが傍聴したのでブログに簡単に書きました。無力感があります。日本の司法はここまで堕落を極めているんですよ。無実であっても、実際に相当数の無実の証拠を突きつけても、さも当然のように支離滅裂な検察側証言を百パーセント汲み取る裁判官に熾烈な怒りを覚えます。このどこが法治国家、民主国家でしょうか。

 今の権力機構は一部の金持ち連中と国際金融資本を利して国益を毀損することにしか機能していませんよね。事実上の警察国家です。権力の恣意性によって無辜の民がどんどん毒牙に噛み砕かれます。このままじゃ北朝鮮並みになるのは時間の問題でしょう。植草さんは最初から国策捜査で突き進むべきでしたね。

 http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2007/10/1016_9c5e.html

                      高橋博彦

*********************************************************************
(17日に来た返事)

高橋さん、メールありがとうございました。

 判決についてはTVの報道で知りましたが、「やはり」と思いました。
無罪判決を勝ち取るにはあなたの指摘のように作戦を正面から国策逮捕の線で
戦わなければ勝ち目はないでしょうね。
前の2回の件についてもきっちり冤罪を主張すべきだったと思います。

 植草さんが控訴後、どのように戦うかそれ次第でしょうね。
とても酷な言い方ですが、
私は死ぬ覚悟で家族と自分のために、そして彼を信じている人たちのために
戦い抜くように願っています。
 限りある命、彼が現世で救われる道はそれしかありません。
今は彼にとって自分自身の生まれてきた使命をまっとうする試練の時です。
そのような前世の縁をしょってきているひとなのだと私は思っています。

 彼が真に覚醒し、果敢に挑戦していくことが道を開く事になると信じています。
まわりは所詮、まわりです。すべて本人次第です。
現行の社会システムがそうである限り、司法の内幕がいくらひどかろうと
その中で勝利を勝ち取ることしかありません。
ただ、ただ、攻撃があるのみです。
罠に落ちた自分をいくら振返り、悔やんでみても始まりません。

 もし植草さんにお会いすることが可能なら、私はこう言いたいのです。

しばし心を休ませた後、
怒りをもって立ち上がってください。それがあなたの使命です。
あなたがそうするならば、応援します。

  ○○○○より

*******************************************************************

  この支援者さんの思いはほとんど私やA氏の思いに等しい。我々に限らず、ゆうたまさん、mojoさん、その他の方々、実に多くの支援者さんが、この10ヶ月、検察側証人の数多くの矛盾点や瑕疵を発見し、そのつど、詳しく指摘しており、それはいちいち納得できることだった。しかし、結審において裁判官の判決は、決定的な目撃証人の言い分を頭ごなしに無視、徹底して検察側証言を是として採用するという結果になった。この裁判は明らかに暗黒裁判の様相を呈していると言わざるを得ない。植草さんご本人も語っているが、この裁判は法を適正に運用すれば有罪の余地はまるでないものだ。ところが裁判官の裁定は著しく法の適正さを欠いており、弁護側の言論をほとんど採用しないという異常な結果に終わった。この異常に偏った裁定基準と、事件初期からマスメディアが報道した一方的な印象操作はけっして無関係ではない。なぜならこの偽装事件の本質は、品川偽装事件及び京急偽装事件ともに、1998年の東海道線で起きた冤罪事件を徹底的に利用した国策捜査だからである。あとで展開するが、この国策捜査を実行した連中は、三度の事件の連続性を利用し、植草さんに対して虚構の性癖イメージを植えつけた。その理由は、メディアをフルに使って国民をごまかし続けた小泉政権の反国益性、そして経済犯罪の事実(りそなインサイダー疑惑)を、植草さんに暴かれて欲しくないからだ。

 私のような無名の一般人が言うのはおこがましいのだが、植草さんはしばしば「歴史に学ぶ」ということを語っている。私も上記のメールと同様にはっきりと申し上げるが、植草さんはこの第一審に用いた公判戦略、その経過、そしてその結果を深く見つめ、ご自分の命運を左右することになったこの裁判の歴史的な現実を乗り越えて欲しい。

 個人も、社会も、それぞれが実存的存在であるとともに歴史的な存在でもある。より良い未来を形成するには、この歴史の失敗から何か教訓を得ることだと私も思う。本当に私も酷な言い方をするが、植草さんには第一審で用いた公判戦略の完全な失敗をとことん突き詰めて欲しい。二度にわたる弁護団の皆さんがどのような思想で弁護方針を定めたのか知る由もないが、裁判の素人の私が見ても明らかに効果の少ない闘い方だったという印象はぬぐいきれない。私は第二回公判を傍聴しているが、検察側の目撃証人は「私服の男性が」と確かに言い放っている。ところが弁護団はその肝心な言葉をいっさい追及しなかった。また刷新された新弁護団が展開した「犯人誤認説」は初期から最悪の戦略だった。私はこのような曖昧で妥協的な戦略は必ず逆手を取られると予想していたが、果たしてその通りの結果になってしまった。

 そもそもこれは国策捜査なのだから、これには痴漢犯罪そのものが生起していなかった。従って偽装犯罪論を前提として、これに一貫性を持たせるべきだったのだ。私もA氏も同じ考えだが、今後、植草さんは第一審で展開した弁護方針はいっさい捨てて、国策捜査論一点張りで立ち向かって欲しいと思う。なぜなら裁判官と検察の蜜月関係が揺るがないなら、どのような公判戦略をもってしても結果は同じだからだ。それなら歪んだ司法と検察を相手に、堂々と国策捜査論を戦略の礎(いしずえ)として打って出るべきだと思う。植草さんの臨む法廷が、適正な法が適用されない魔窟だとしても、戦いの中心はその場所になるから、巨大な相手を睨んで再び真実の開示に挑んで欲しい。そうすれば植草さんは、裁判史上、初めて国策捜査に挑んだ人間として歴史に名を残すことになる。また、その方向にしか真の名誉回復はないと思っている。

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2007年10月16日 (火)

10月16日公判傍聴記(結審)

裁判傍聴記(A氏)

 07年10月16日208名の傍聴希望者のところ20名の傍聴が許され、そのうちの一人として傍聴してきました。

 結果は懲役4ヶ月ですが、すでに勾留された分の60日分を差し引いて懲役2ヶ月とのことでした。裁判官は、弁護人側が、痴漢事件があったことは争わないことをまず指摘し、それで勝敗が決した感があります。被害者や検察側の証人の証言が正しいと仮定して議論が進められました。被害者女性の言うことは正しくて痴漢事件は確かに存在した。悔しいのですが、このことを被告は認めるべきでなかったと思います。

 弁護側は、真犯人説を主張していましたが、裁判官はこれを認めなかったということです。少々位置関係がおかしいとの主張をしても、それ程度の間違いはあることだからということです。目撃者が被告のメガネやカバンを見ていないとか、やせたことに気付かないことは、決定的ではない。混雑程度から考えると、真犯人を見逃すのはあり得ないとのこと。

 被告が「女性に不快感を与えるようなことをした」という発言も、植草氏は否定していましたが、裁判官は証拠としたようです。逮捕者は、利害関係は無いから、証言に信用性があるとかも言ってました。それから、頭を下げ、顔の前に手を挙げて謝るような仕草を植草氏が行ったことも、罪を認めたのだと受け取られました。これも植草氏は否定していましたが、完全に無視です。

 自殺を試みたとしても、そうだからと言って被告が犯人であると仮定してもおかしいわけではない。繊維鑑定にしても、被告人が犯人としても矛盾はない。 弁護人側の証人による証言にしても、真犯人を見たという証言はしていない。この証人は、女性の声を聞いていないし、本当にその車両に乗っていたかわからない。

 被告人が間違えた電車に乗ったのも不自然。乗車してから1分もあったのに降りなかったのも不自然、などと、一方的に検察側の主張を認め、弁護側の主張をことごとく否定しました。残念なことは、この事件が明らかにでっち上げであることを、弁護側が主張しなかったことです。でっち上げであるという数々の決定的な証拠があるのに、その証拠の真偽が全く検討されることもなく、結審してしまったことを非常に残念に思います。

 事件当時、電車に乗り合わせていて、事件を目撃した人が、この不当判決を聞いて、勇気を出して証言台に立つことを期待したいです。それから、控訴審では被告は真犯人説でなく、この事件はでっち上げ(国策捜査)だという主張を正面切ってやるべきだと思います。そうすれば今度は間違いなく勝訴できます。弁護団や植草さんには言いにくいのですが、最初から堂々と国策捜査論で筋を通すべきでした。なぜなら、この事件は、小泉・竹中構造改革路線の反国益性とりそな銀行インサイダー疑惑を徹底的に主張した植草さんが、買弁勢力(注)に睨まれ、その言動を封じるために仕組まれたことなのです。植草さんが巻き込まれた事件は品川手鏡事件、そして京急電車内の事件とも、政治的背景を有した明らかなる国策捜査なのです。

 (注:買弁(かいべん)勢力とは、もともとは貿易商のこと。今では海外と結託して国益を毀損する勢力を言う。ありていに言うなら「売国勢力」である)

             神州の泉・管理人および検証する会A氏

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2007年10月15日 (月)

明日16日は裁判官の公正性を厳格に注視する!!!

 明日16日火曜日は、東京都の迷惑防止条例違反で公判中の植草一秀さんの判決が下される日である。

 この公判は昨年の12月6日、第一回を皮切りに、今年の8月21日まで全部で11回開かれている。この裁判の内容を厳格に注視してきた我々「植草一秀事件を検証する会」は、検察側証言者の致命的な証言上の瑕疵を多数発見するとともに、植草さんが巻き込まれた事件そのものが限りなく「偽装工作事件」であるという結論に到達している。

 特に本年7月4日の第9回公判は、植草さんの完全無辜性を証明する最も重要な目撃証言が出現した結果となった。勇を鼓舞して出廷し、電車が品川駅を出発したあとの犯行時間とされた二分間を、この目撃証人は植草さんの様子をはっきりと注視していたのだ。明らかに植草さんは犯行とは無関係の状況だった。むしろ彼の目撃報告に従えば、二人の男が植草さんを逮捕した状況が、植草さんを被害者とする暴力事件だと認識していた。

 明日、16日の第一審終結公判では、裁判官が判決に当たって、この第9回公判の目撃証言を採用するかどうかにすべてがかかっている。もし裁判官が第2回公判の滅茶苦茶な検察側目撃証人と、第6回の第一逮捕者K氏の矛盾した証言のみを取り上げ、第9回の善意の第三者の目撃証言を採用せずに植草さんに有罪を下した場合、裁判所自体も偽装工作(国策捜査)に加担しているのではないかという重大な疑惑を招来することになる。歪んだ権力に迎合したマスメディアは一方的に植草さんの有罪説を世間に流布したが、我々は少数ではあっても、植草さんの無実を証明する数々の証拠をあげ、主にインターネットで発信してきた。その結果、植草さん冤罪説、あるいは国策捜査説を確信する人々が急増している現状だ。

 この状況で裁判官が有罪判決を下した場合、この事件は単に植草さんが冤罪か有罪かという次元に止まらず、我が国の裁判所の根底的なあり方が問われる歴史的な出来事になることは間違いない。司法の独立性は三権分立の精神が問われる最も重大な国家の尊厳性である。下記の三名の裁判官が公正な判断を下すかどうかは、同時に現状日本の国家の尊厳性が問われていることに等しいのだ。もしも、彼らが他の権力機関の恣意性で裁定感覚が左右されるのであれば、国民は怒りを持ってこの裁判を弾劾しなければならない。

 その意味で明日の判決は戦後裁判史、および戦後政治史の重要なエポックとなるだろう。政治史のエポックという意味は、この事件が国策捜査の性格を有している可能性が大きいからである。

 16日は裁判官の絶対公正性を期待して注目する。
 
裁判長 神坂 尚
裁判官 宮本 聡
裁判官 大村るい


(※明日の判決を前にした今日、ネット上では気になることが起きている。それは『植草事件の真相HP』がダウンしていて見ることができなくなっていることだ。少なくとも私は午前中は見ることができない状況だ。このHPには今までの裁判記録が格納されている。判決を前にしてこの状況は訝しい。)
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2007年10月14日 (日)

Mixiの記事について(A氏の視点)

(※クリックすると鮮明に見ることができます!)
Mixi_2 

 事件発生直後に出されたこの「Mixiの日記」は、2つの特徴を持っている。

(1)明らかに事件に関係した人からの情報を含んでいる。つまり未発表の情報で、3月28日の公判で逮捕者が話した内容「ホームにおりてから、しばらくしてから、駅員を呼んで下さいということを言った。抵抗が激しかったので、呼んでいただいて、それで押さえた方が楽だと思いました。」にぴったりのことが書かれている。

(2)しかし、この内容は嘘だということは明らかである。なぜなら、ホームに降りてから、駅事務室に連れて行き、そこから警察に連絡が行き、更にそこから蒲田駅近くにいたパトカーに連絡がいくまで2分10秒しか掛かっていないという事実と完全に矛盾する。ホームにおりてからしばらくして、駅員を呼んできてもらうには2分10秒ということは絶対にあり得ない。

 この2つのことは次のように考えれば説明できる。

 実際に、逮捕したのは私服警察官であり、3月28日に公判で証言をしたのは替え玉である。Mixiの記述は、逮捕した警察官による偽装工作である。つまりこの警察官は、自分が逮捕したことが発覚するのを恐れ、逮捕したのが、一般人であり、乗客が協力して犯人を逮捕したと思わせるために、自分を一般人の女性に扮して書き込みを行った可能性が高い。そして公判での証言は、知人のK氏に頼んだ。(あるいは某氏に依頼した)

 もし、偽装工作が無かったとして、本当に逮捕した当人がK氏であるのなら、当然、検察側は、K氏を真っ先に、つまり第一回か第二回の公判証言台に立たせただろう。それだけで、裁判は完勝だったはずである。ところが、検察は、K氏を証言台に立たせることなく裁判を終わらせようとした。証言に立たせたのは、デタラメの証言で全く信用性を欠く検察側の証人、証拠にもならない繊維鑑定を行った人、事件にはほとんど関係のないA警官などであり、彼らより遙かに事件に深く関与していると思われる肝心の逮捕者を証言台に立たせないように計らった。しかし、植草氏が弁護士を全員解雇という異例の強硬手段に訴えて対抗手段を取ったため、以後はしぶしぶ逮捕者を出廷させることに検察側が同意せざるをえなくなったという事実を忘れてはならない。

 検察側が恐れていたように、替え玉の証言者は決定的なミスを犯している。その証言上の瑕疵は、彼が事件現場にいなかったのだから無理もない。たとえば車内での逮捕者が自分一人だったと証言したこともその一つだ。実際の逮捕者は2人だったのだが、本当に自分で逮捕したのなら、絶対にそれを間違うはずがない。「ホームにおりてから、しばらくしてから、駅員を呼んで下さいということを言った。抵抗が激しかったので、呼んでいただいて、それで押さえた方が楽だと思いました。」という証言も、事件当時の様子を全く理解していない証左である。

 Mixiの書き込みに関し、小野寺光一氏が詳しい分析を行っているので是非一読することをお勧めします。

http://groups.yahoo.co.jp/group/onoderakouichi/message/221

 以下、実際の記述

この文章において、不思議なことがあります。
1 これはわざわざ、「全体に公開」し、「ミクシ(インターネット上の会員制
コミュニテイサイトのこと)
見れない人用にキャプチャーしました。」
とあります。書かれている内容に比べて、意図的に、この情報を広めようという
意思を感じます。
しかも書かれている内容は、通常の女の子が意図的に多くの人に見てもらおうと
するような内容ではありません。

ここに

「逮捕!

植草教授痴漢で捕まりましたね。
何を隠そう私 逮捕した勇ましい一般人の方知ってます。
だって今同じ職場にいる人なんだもの! 」


逮捕されて、この「何を隠そう」 「勇ましい」という風に女の子が自慢のように
思うでしょうか?
女の子が、「同じ会社の人が痴漢を捕まえたこと」を、「何を隠そう」といって
うれしげにいうでしょうか?
こういった言葉を女の子が使う時は、何か相手が喜ぶようなものを知らせるときです。
なんだか、植草一秀が捕まったことを、とても「自分もうれしいし相手もうれしい
プレゼント」と勘違いしているような
ある亡国の人物が書いているのではないかと浮かびます。

また、そういった痴漢を捕まえた同僚の人を「勇ましい」と思うでしょうか?
やせている植草一秀を捕まえた同僚を、「勇ましい人、ヒーローのような人」
と感じるでしょうか?

なんだか、植草一秀を捕まえて、言論の自由を奪って、「勇ましい 
仲間内で自分がヒーローだ」と勘違いしている
ような、ある亡国の人物が思い浮かびます。

何か通常の女の子に比べて、この書き方はかなり感覚がずれているように
思います。

そして「一般人」という珍しい言い方をしています。
一般人という言い方は、逆に言えば自分が特殊な業界にいる人が半ば
無意識に使うような言葉です。

自分は政治の世界にいる。→普通の人を「一般人」という言い方をする。
本当に普通のOLだったら→「一般人の方知ってます」とは言わず、
「~の人を知っています」というでしょう。

「それにしてもかっこいい!!警察に代わって現行犯の逮捕者ですよ。
(常人逮捕って言うんだってー) 」

→これも不自然です。
「それにしてもかっこいい!!」と、植草一秀を捕まえた同僚に対して、
そんなことを「思う」でしょうか?女の子が。「かっこいい?」

なんだか、まるで、「植草一秀の口封じに成功して、俺はかっこいい」なんて
自画自賛しているようなある亡国の人物が浮かびます。

→しかも(常人逮捕って言うんだってー)なんて、言うでしょうか?
これは警察用語で、普通の人が、警察官の代わりに
現行犯逮捕するときに使う用語です。

女の子やOLが、(常人逮捕って言うんだってー)なんて自慢げにいう場面を
想像してみてください。ありえません。

なんだか、まるで、いつも警察と密接にいる、政治家に関係する職業の人が、
「おい、ああいうのは常人逮捕って
言うんだよ、」と中年以上の親父が知ったかぶりして自慢しているような、
亡国の人物が 
思い浮かぶのは私だけでしょうか?

「やっぱりね、イザ電車内で痴漢騒ぎ
(触られたコが「やめてください」って)起こっても、
咄嗟のことではなかなか周囲の人は動かない。 」

→ここで 「さわられたコが」、という時に難しい漢字の「触られた」という文字
を使っています。
そして 「とっさのことで」 というところをまた 難しい漢字の「咄嗟」という
文字を使っています。

ここで、この文章を書いている人物は、おそらく、女性を装った男であると推測が
できます。
「咄嗟」と書くような、ある亡国の人物が思い浮かびます。決して女の子ではあり
ません。

そして、

「とりあえず教授捕まえて次の駅で駅員に突き出そうとして、
ネクタイぐいっと掴んで引っ張って行ったらしいですが、
「駅員さん呼んで下さい」と言ってもなかなか周りは協力しなかったって。 」

→ここでも、ネクタイぐいっとつかんで というところを、「掴んで」という
難しい漢字を使っています。
この書いている男性は、かなり若い20代くらいの女の子とは、本当に一緒に
いたことはなく
さっぱりわかっていない中年以上の亡国の男性ではないか?と想像がつきます。

そして報道によれば、当日植草氏はノーネクタイだったと報道されていたと
思います。
つまりクールビズだったということです。

つまりこの書き込みはでっちあげです。

「駅員さん 呼んでください」などとありますが、実際には、当日、
この植草氏を捕まえたという男性は、自らの携帯電話で
真っ先に、蒲田署に電話していることはご存知のとおりです。

この書き込みは、高い確率で、原稿を書いたのは、亡国の○○○○なのかも
しれません。
そしてそれを誰かに「書き込みしてくれ」と依頼しているのかもしれません。

もし植草一秀氏を調べるのなら、氏が告発しようとしていたりそな銀行の
インサイダー取引を
政府が犯罪行為としてやっていたということを、抜きにしては語れません。

このMIXIに書き込みを依頼されたであろう(おそらく原稿を渡されている)
この人に
一度、検察としても話を聞いてみてはいかがでしょうか?

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2007年10月13日 (土)

今、絶対に言わねばならないことを言う!!

 ◎植草さん京急事件が国策捜査による偽装事件である有力な証拠


  10月11日の記事、『植草事件はでっち上げだ(2)』(A氏の記事)の中にこういう記述がある。

 この事件が発生した直後、小野寺光一という人が、事件が発生した蒲田駅で駅員5名に事件の様子を聞いて、それをメルマガで配信している。それによると、植草氏を逮捕したK氏は、真っ先に蒲田警察に電話していたのだという。駅員5人は全員が、なんだか不思議だと言っていた 。

 これについて数名の読者から、当時の小野寺光一メルマガにほんとうにそのようなことが書かれてあるのか、あったらその典拠を示して欲しいという連絡があった。私は早速当時の小野寺メルマガを見てみた。それは私がはじめて配信してもらった9月20日のメルマガに記載されていた。植草さんの逮捕に関するその部分の箇所を下記に示す。

*************************************************************************

  (以下、2006年9月20日、6:09 配信の小野寺メルマガより引用する)

 そして、ここがキーポイントなのだが、なんと、この若い男が、駅員に引き渡すより先に、蒲田署に自分で電話しているのだ。普通は駅員に引き渡して、駅員から警察に連絡が行く。しかしこの若い男はダイレクトに蒲田署に電話しているのである。不気味である。

 これはより確実に「事件に」仕立て上げるためではないのか?

(引用終わり)

  ***********************************************************************

 小野寺氏は二人の逮捕者のうち、最初の逮捕者が駅員に引き渡すよりも先に警察に自分で電話していると断言している。私自身は当時、その論拠が示されていなかったこの記述をあまり重く見ていなかった。しかし、今これを決定的に裏付ける情報をあらたに得ている。しかし、私と同様に、このメルマガを調べた人は、それでもある一つの重要な記述が気になっていると思う。それはA氏による例の 『植草事件はでっち上げだ(2)』の記事中に、『駅員5人は全員が、なんだか不思議だと言っていた』という該当メルマガには出てこない説明があることだ。これを見れば、小野寺さんか、それ以外の誰かが、事件直後に京急蒲田駅の「駅員五人」に対し、例の事件について明らかにインタビューを行なっているとしか思えない。

 そこで私はA氏に聞いてみた。逮捕者K氏が植草さんの身柄を駅員に渡すよりも先に蒲田警察に電話したことと、駅員五人がそのことを不思議だと述べていたことを、小野寺メルマガ以外の情報ソースから確認したのかと。その答えは「イエス」であった。しかし、それについては諸般の事情から今は一切公開できない。ただし、私の信用をかけて断言するが、その情報がA氏にあったことは間違いない。この私もその情報を持っている。

 つまり、第六回公判(平成19年3月28日午前の部)で証言した最初の逮捕者K氏が、当日の第一逮捕者と同一人物であると仮定するならば(K氏は替え玉である可能性が高い)、K氏は植草さんを逮捕したあと、なんと自分から直接警察署に連絡を入れているのだ。しかし、K氏は公判証言では「電車内では電話をしていない」と語っている。公判証言録を見るとK氏は電車外、つまりホーム上から駅員室の途中で警察に電話を入れたのかとは聞かれていない。しかし、この質疑応答に関する状況説明の蓋然性を考えれば、K氏が電車を降りた後も警察に電話をしていないと表面上は語っていると捉える方が整合性が高い。もし彼が携帯で警察に電話をしていたなら、下記の質疑応答中にその件を言うと考えた方が間尺に合っている。たとえば405の質問に対してはこう答えるだろう。「電車内ではなかったのですが、降りてから電話しました」と。しかし、そのように言わなかったことは、表面上、彼はホーム上や駅員室でも電話をしなかったと暗黙裡に語っているに等しいと思う。

(第六回公判、午前の部速記録より引用)

405   弁護人2 電車内にいるときに、例えばあなたが携帯電話で警察に電話したりとか、そういうことはしましたか。
406   K証人 いえ、しませんでした。
407  弁護人2 あるいは乗客のだれかがそういうふうなことをしている様子だったということはありますか。
408   K証人 いえ、それもありません。

 はっきり言おう。京急の事件では、通常の痴漢事件では、事件後にとうていあり得ない進行が起こったのだ。最初の逮捕者は駅員に植草さんを引き渡すよりも先に自ら蒲田署に電話をかけている。通常は駅員に被疑者を引き渡し、駅員が駅員室で然るべき質問を行なったあと、納得したら警察署に連絡するという手続きを経るはずだ。ところが逮捕者K氏は植草氏を逮捕したあと、駅員による調査の過程を省いて直接警察署に電話している。そのことは電車が蒲田駅に到着してからわずか3分もしないうちに警邏中のパトカーに警察指令室から指令が届いていることでも頷ける。この意味がお分かりだろうか。この手際のよさは尋常ではない。しかも、一般人であるはずのK氏が、独断で駅員室の取調べ過程を省略して警察を呼び出しているのだ。それも通常の110番ではなく蒲田警察署にダイレクトに通報している。一般人逮捕者がこのような確信的な行動を行い、しかも蒲田警察署の電話番号を控えていたなどというようなことが通常ありうるのだろうか。また、駅員たちに彼が事情説明をしたとしても、駅員たちが、植草さんや被害者と称する女性から、わずか2分ちょっとで事情を聴取し、それを納得して通報、警邏中の警察に駅に向かうように連絡が入ったなどということは、時間的にはけっして起こらない経過である。ところが現実にはこれが起こったことになっているのだ。なぜなら一般人のK氏が駅員室に行く前に自己判断で警察を呼びつけているからである。駅員による取調べよりも先行して警察署に連絡したK氏のこの判断は、自己判断というよりも一種の権力行使に近いものに思える。では逮捕現場に乗り合わせていたこのK氏とはいったいいかなる人物なのだろうか。

 この一連の流れから、ある論理的帰結がはっきりと導き出されてくる。つまり、最初の逮捕者K氏は一般人ではなく、警察権限を有している人物であるということだ。その上、これを補足する有力な言動が第二回の目撃証言者T氏から出されている。それは最初の逮捕者のことを「私服の男性」だと思わず語ったことだ。ここまでことが明らかになると、K氏が警察官であるという推論が充分に成り立つのだ。だからこそ、一般人逮捕者の同僚と言われる女性が書いた「Mixiの日記」は検察が即座に取り下げるように言ったのだ。K氏が私服の警察官であったのなら、植草さんのそばに都合よくK氏が居合わせたということになるのだろうか。私にはけっしてそうは思えない。K氏はある意図を持って、少なくとも電車に乗った時点から(あるいはその前から)植草さんに張り付いていたと考える方が合理的なのだ。これら一見バラバラの要素を論理的に整合付けるただひとつの見解が厳然として浮上してくる。それはこの事件が最初から計画されていた偽装事件であったということである。

 結論を言おう。京急植草事件は、警察がらみで無実の植草さんを陥れた明確な偽装事件である。もっとはっきり言うならこれは典型的な国策捜査なのである。


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2007年10月12日 (金)

文藝評論家・山崎行太郎氏の面白さ!!

 いやぁ、文藝評論家の山崎行太郎氏は本当に面白いことを書くお人だ。私のように文藝の素養も、分析力も、鑑賞眼も持たない半端な人間が語るべきではないかもしれないが、影響力のないローカルブログで好き勝手なことを書いているノリで、彼について感じたことを書きたくなった。山崎氏とは二、三度お会いしたことがあるが、一見野武士然とした面持ちで、寡黙、必要なことをボソッとしか語らない印象がある。しかし話題がこれだというところになると、滔々と堰を切ったように語りはじめ、こちらがついつい引き込まれてしまうといった風情だった。もとより私のようにあまり本を読まないレベルで、山崎氏と文藝について語り合うものは何も持たないが、私は山崎氏の文藝評論が時々出ている彼のブログ『毒蛇山荘日記』を読むのが本当に楽しみだ。彼は文芸評論を行なう時、ブログだからと決して手を抜かずに表現している。原稿料は一銭も入らないが、紙媒体と同様に真剣に書いているその行動様式が面白い。

 私がこの人に惹きつけられたきっかけは、ブログに書かれていた痛烈な小泉・竹中路線の批判だった。否、批判というよりも完全に弾劾の領域で書いていたので私は瞠目して読んだ。大学の先生でもこういう目で小泉政権を捉えているお人がいたのかと正直驚きもした。小泉政権の根本的な姿勢を間違っていると評する識者はさまざまなレベルで語るだろう。しかし、山崎行太郎氏の小泉批判が最も私を惹きつけたわけは、存在論的把握を核にしている彼の視線にあるのかもしれない。山崎氏の面白さの源泉は、その表現様態にあるのではなく、合戦中の武士のように退路を断った白刃の空間に自分を置きながら書いているその基本姿勢にあるのかもしれない。小泉政権を罵倒することは一見簡単そうに見えるが、植草さん、西村眞悟さん、鈴木宗男さん、佐藤優さんなどの事例を見てわかるとおり、多少でも名の知られた人々にとっては、その批判行為は文字通り運命を左右しかねない事柄に属する。山崎氏の小泉・竹中批判は痛快そのものであった。私は彼の罵倒口調が大好きである。チンピラ、ボンクラ、○○マンセーなど、これらの言葉を駆使して縦横無尽に批判対象をぶった切る文章は痛快無比である。罵倒口調をだけをピックアップすると、このお人は皮相的なレベルでやっているのかと勘違いする人もいるが、彼は別の記事で真摯に経済理論の背景を説明し、小泉・竹中インチキ構造改革路線が、ルーカスやフリードマンらのネオリベ思想に従っていることをわかりやすく喝破している。

つまり、山崎氏の罵倒には正当な理論的根拠が厳然と存在しているのだ。そこまで深い裏打ちを背景にして罵倒表現まで持っていくこのお人は、その批評眼の核に存在論的思考がある。それは今まで彼の書いていることに随所に出ている。彼は政治運動や共同体的活動を頑なに拒否する心的態度を持つ。そのことは私もお会いしている時にうすうす感じていた。群れることを恥じ、他者にすり寄る事を堕落と捉えるこの在り様は、まさに白刃行き交う戦いの合間に、血潮にまみれた刀を握り締め、己や仲間の死生を見据える野戦武士のありように似ていなくもない。退路を断って修羅場に赴く心がけで書く数少ない物書きさんだ。私には表現できないが、こういう内面風景こそ存在論的在り方のひとつの様式ではないだろうか。だからこそ彼の書くことは面白い。御用学者が典型的だが、自己保全、名利など自分の逃げ道を敷いておいて言論表現する奴の書くものは読むに値しない。場合によっては醜悪でさえある。人の気持ちを捉える表現様態とは自己存在の危うさ、心細さから逃げない覚悟があるかどうかに尽きる。これを持たない奴が剽窃をしたり、人真似をさも自分のものであるかのように書き換えるという悪臭紛々たる文章を書く。よく、作家の人間性とその作品には連続性や相似性がないと言われることがあるが、知る範囲では完全に瓜二つである。ただ、人間は見かけをつくろう動物であるから、乖離しているように見えるだけである。思うのだが、文藝領域に限らず、存在論的思考を持つ人間は何をやっていても面白い表現を行なうのかもしれない。

 そして今日、『毒蛇山荘日記』10月12日の文藝評論に、山崎氏は『新人批評家よ、大志を抱け!!!』という題目で、私にとっては特別面白い記事が書かれていた。山崎氏は大澤信亮(おおさわのぶあき)という若い物書きを強く評価している。彼に対する山崎氏の評論がすこぶる面白いのだ。

 「新潮」11月号には、小説と評論の受賞作が掲載されているが、なかなか興味深い作品が並んでいる。私がまず面白いと思ったのは、二人の「受賞の言葉」(厳密には受賞記念原稿「十年の批評」「六年の財産」)だった。特に、「宮沢賢治の暴力」で、評論部門の新人賞を受賞した大澤信亮の、短時間に書き上げたものらしいが、しかしそれ故に全精力を傾けたと言っていいパワフルな「受賞の言葉」(「十年の批評」)に感動し、その勢いで受賞作「宮沢賢治の暴力」を読んだが、こちらにも同じように感動した。私も、評論を読んで感動するのは久しぶりなので、これはいったいどういうことだろうと、ふと立ち止まって真剣に考えてみたくなった。(山崎氏のブログから引用)

 山崎氏は新人賞を受賞した彼の論評、「宮沢賢治の暴力」に感動したそうである。詳しいことは山崎氏の『毒蛇山荘日記』を読んでいただきたいが、山崎氏の話によると大澤氏の評論は「批評とは存在の問題であり、生き方の問題だ」に書かれてあるように、注文請負物書きとは違って、不可能とも思えるような、原理的、本質的な物書きに挑戦している心的態度、評論者の在り方を感動を持って評価しているのだ。ここに山崎氏は、彼のテーマ的課題として繰り返し掲げている「存在論的透徹性」を重んじる大澤氏の姿勢に、自己と共鳴する何かを見ているに違いないのだ。大澤氏と山崎氏が見ている題材や世界観の違いではなく、より本質的な部分における共通性を感じたのだろうと思う。とにかく山崎氏の評論を読んで欲しいと思う。私の言いたいことがよくわかるだろう。部外者の私が言うのも気が引けるが、無責任に言えば、毒蛇山荘日記における山崎エッセイで、今回の評論は特別に力作だと私は感じている。多分、私と似たような捉え方で『毒蛇山荘日記』を愛読している人も多いのではないだろうか。私も大澤信亮氏の論評『宮沢賢治の暴力』を無性に読みたくなった。新潮11月号が待ち遠しい。(山崎先生、生意気でごめんなさい!! ^^;)

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2007年10月11日 (木)

植草事件はでっち上げだ(2)

  植草事件はでっち上げだ(2)
   (A氏の視点)

 富山の冤罪事件(少女暴行事件)の無罪が確定した。裁判官は「アリバイがあるので、彼が犯人ではないのは明らかだ」と言う。アリバイがあって、犯人でないことは明らかであっても有罪にしてしまうのが日本の裁判だ。無実の人を2年間も服役させ人生を破滅させたことに反省は無いのか。彼らには一欠片の良心も無いのだろうか。起訴されれば99.9%が有罪ということは裁判官が有罪か無罪か、ろくに考えもせず有罪にしてしまっているという恐ろしい現実がある。

 植草事件も明らかなでっち上げだ。この事件が発生した直後、小野寺光一という人が、事件が発生した蒲田駅で駅員5名に事件の様子を聞いて、それをメルマガで配信している。それによると、植草氏を逮捕したK氏は、真っ先に蒲田警察に電話していたのだという。駅員5人は全員が、なんだか不思議だと言っていた。通常は、痴漢事件の報告は、まず駅員に報告がいき、駅員から警察に連絡するはずだからだ。このことを大量のメルマガで配信したら、翌日からは、京急蒲田駅には、京急本社のほうから、一切一般人からの事件に関係する質問に答えないようにというお触れが出たそうだ。筆者の知人もこの駅に聞き込みに行ったが、すべて断られた。このことからも、この事件がでっち上げだと分かるのだ。

順を追って話そう。逮捕したK氏は、千駄ヶ谷に事務所があるデザイナーだと言う。このデザイナーさんは、あの夜、驚くべき行動を行った。事の始めは女性の「子どもが見ている前で」という意味不明の大きめの声だ。この20~30秒後に、このデザイナーは植草氏に襲いかかっている。理由は痴漢容疑だそうだ。このデザイナーは痴漢をしているところを自分では見ていないと言った。一方で植草氏をしっかり見ていた男性乗客は、植草氏は痴漢をしていなかったと、はっきりと裁判官の前で証言した。その男性の右隣の女性も、「酔っぱらいに絡まれたんでしょうかねぇ」と言っていた。これだけでも、でっち上げの可能性を充分に示している。

 通常、デザイナーが電車の中で赤の他人に突然襲いかかるなどということは考えられないことだ。しかも、もう一人別の乗客も協力したというからこの不自然さは際立つ。理由も聞かず2人が襲いかかれば、まさにこれは暴力事件であり、植草氏は被害者だ。逮捕の理由を必死で聞こうとしていた植草氏を無視し、電車が蒲田駅に着くやいなや、この2人は驚くほどの手際よさで、駅事務室に連れて行った。事前に駅事務室の場所を知っていなければ無理なほどの素早さである。それだけではない。痴漢を目撃しなかったと自分で言っているのにも拘わらず、駅事務室に着くやいなや、駅員に説明する前に、蒲田警察署に電話しているのである。デザイナーがなぜ蒲田警察署の電話番号を覚えていたのだろう。なぜ110番ではなかったのか。またその後、駅員に出された緘口令の意味は何か。

 これら、すべてを説明するのが、昨年12月20日の公判で検察側の証人(T氏)として出廷した際に述べたこと、それは「逮捕者は私服の男性だった」という言動がある。彼は4回も検察に行き、蒲田警察補にも6~7時間もいたというから、この事件の裏側を知っている。そういう文脈で見れば、彼の言う私服発言は私服の警察官だったということが最も整合性が高い。おそらく間違いないだろう。彼が私服警察官であったら、すべてが氷解するのだ。要するに、私服警官が植草氏を逮捕するために彼を尾行していたという仮説が成り立つ。そういえば2004年の事件のときも2人の私服警官が尾行していて植草氏を逮捕したという経緯がある。それと同様の相を持っている。偽装事件計画として、事前に準備ができていたのであれば、計画が完遂した時点で直接蒲田警察に電話するのも当然かもしれない。

 もしもこれがでっち上げ事件でなければ、蒲田駅員全員に対し、この事件に関して知っていることを一切一般人に話してはならぬというお触れが出るわけがない。真実なら、恐れるものは何もないはずだ。でっち上げ事件だからこそ必死で隠しているのだ。そして逮捕が驚くほど手際がよかったことも納得できる。警察発表では、電車が蒲田駅に到着して、植草氏を駅事務室に連れて行き、警察へ電話が行き、その後警察から、蒲田駅近くにいたパトカーに連絡が行くまで、僅か2分10秒しかかからなかったそうだ。こういうことの運びは、普通のデザイナーではほとんど不可能であることは、すべての人が納得するだろう。しかも、更におまけがつく。さすがに私服警察官が尾行していたということを認めるわけにもいかなかったから、逮捕したのはデザイナーということにした。つまり替え玉である。替え玉であるデザイナーは事件のことを知らないから、3月28日の公判では、重大な失言をいくつもしている。公判が長期化すればするほど、彼が替え玉であることが、ますますはっきりすることは間違いない。目撃した5人の駅員に真実を話させればよい。替え玉を出してきた警察のでっちあげが完璧に証明される。

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2007年10月 9日 (火)

植草事件はでっち上げだ

 ◎植草事件はでっち上げだ(A氏の視点)

 事件発生当初から、この事件はでっち上げではないかという事が指摘されていた。その根拠は数多くあった。

①車内は自由に歩き回れたのに女性は2分間も動かずじっと音楽を聞きながら触らせ続けたというのは不自然。
②その後急に泣き出して、駅事務室に行ってまで泣き続けたのも不自然。
③・・・・
④乗り合わせた別々の2人の乗客が、犯行を見てもいないのに理由も聞かず突然植草氏を押しつぶすような形で逮捕したのも不自然。
⑤検察側の証人が逮捕者のことを私服と呼んだことから、実は事件の起きる前から私服警官が逮捕の準備をしていた可能性は非常に高い。
⑥第一逮捕者として証言した人物(K証人)が、逮捕者当人であることによって知っていなければならないはずの事実を間違えて証言しており、彼は現場にいた私服警官の替え玉の可能性が非常に高い。
⑦電車が蒲田駅に到着してから、逮捕者が駅事務室に植草氏を連れて行き、そこから警察に連絡が行き、更に蒲田駅近くのパトカーにまで連絡が行くまで僅か2分10秒しか掛かっていない。これは事前の周到な準備なしには絶対に不可能。

 今年の7月4日の公判で、事件現場を車内で目撃していた人(弁護側証人)が証言をして、この事件が間違いなくでっち上げであることが確認された。マスコミが植草氏に対する根拠もない誹謗中傷を繰り返す中、あの事件がでっち上げであるという真実を公開の場で述べることは大変な勇気が要っただろう。一人が口火を切れば、現場にいた人は今後次々と証言台に立つ可能性はある。
 この証人は事件翌日にニュースで植草氏が痴漢事件で逮捕されたことを知り「えっ、うそだろう。車内暴力というイメージが強かった」と思ったと語っている。間近で見ていた彼は植草氏が痴漢をしていなかったと証言し、突然自分の右前にいた男(K証人)が植草氏を押しつぶすように捕まえたと証言している。このときの様子を図1で表した。被害者の位置は、様々な証言でその位置が正確に定まらないのでひとまず仮の位置を描いておいた。目と書いたのが弁護人目撃者の位置である。図1でこの逮捕者はもともとfの位置にいたと弁護人側証人は言っている。一方K証人はkの位置にいたと言っている。仮にK証人が言っている通りだとしよう。事件が始まったのは、被害者女性が「子どもがいる前で」と少し大きめの声が植草氏に言った瞬間である。このとき、K証人は図1では下方を向いていたから痴漢を目撃していなかったということで、弁護人側の目撃者は上方を向いていたがウトウトしていたから、女性の声に気付いていない。もちろん、本当に大声であったら、彼も目が覚めただろう。目撃者の証言は以下の通りである。

弁護人:女性の声は聞きましたか?
証人:聞いたかもしれませんが覚えていません。一瞬、車内暴力なのかと考えたので、女性のことは覚えていません
弁護人:車内暴力とはどういうことでしょうか?
証人:植草さんが、フラフラと揺れていたので、誰かとぶつかったのか、足を踏んづけたのか。
弁護人:ユラユラしたということですか?
証人:はい、それでぶつかった人から暴力を受けたのかと。
弁護人:被告人が被害者だと思ったということですか?
証人:そうです
弁護人:押さえた人の声は聞き取れましたか?
証人:いいえ
弁護人:押さえられていた人の声は?
証人:うめき声が聞こえました

 つまり間近で見ていた人には、これが痴漢事件ではなく、植草氏が一方的に暴力をふるわれたことが分かっていた。彼以外の乗客もこのことを理解していた。

弁護人:ほかの乗客とは話したんですか?
証人:席に戻ったとき、隣にいた年輩の女性が「酔っぱらいに絡まれたんでしょうか」と言ったので、わたしは「どうしたんでしょうかね」と言いました。

 隣に座っていた女性も、これが痴漢事件ではない、植草氏が絡まれたのだということが分かっていた。彼女も今後の公判で「でっち上げ」を証言する可能性もあるだろう。彼女は途中でウトウトしてなどいなかったのだから。
 もしもこれが痴漢事件なら、K証人は被害者女性に十分な説明を聞くことから始めるだろう。それで痴漢をしたのが間違いないと確信が持てれば、次の駅で降りて駅事務室に行くように説得するだろう。それに植草氏が同意しなかったら実力行使もあり得たかもしれない。しかし、犯罪者の逮捕というのは非常に勇気がいることで、悪くすると相手がナイフを持っていて刺し殺される可能性もあり、逮捕はあくまで最後の手段であり、まず説得するのは間違いない。植草氏はそのような説得も全くなく、いきなり押しつぶすように逮捕されているのである。だからこそ、この目撃者も、隣の女性も植草氏が一方的に暴行を受けたとの認識を持っている。つまりは、でっち上げである。
 植草氏がこのような事件発生時に逃亡するような性格の持ち主ではないことは、2004年の品川のエスカレーターでの事件でも対応を見れば明らかだ。エスカレーターを降りたとき、身に覚えのない嫌疑をかけられたときも、逃亡などしようとせず、真実を話せば必ず理解してもらえるはずだという信念の基に行動をしている。今回もその信念は一貫している。

図1
A

 
 図1は逮捕者Kの証言に影響を受けた図であるが、弁護側目撃者証人は記憶が非常に正確で信頼性が高いので、今度は、この弁護側証人と植草氏の証言を基にして図を描いてみる。図2である。彼は乗客の位置のみならず、男女の区別まで覚えていた。彼が証言台で示した図は、図2で被害者女性の存在を除外したものである。被害者女性は彼の位置からは見えなかった。この被害者女性の位置は植草氏の証言を基に付け加えた。
 この図だと目撃者から植草氏がよく見えて、彼が犯行時間帯に痴漢を行っていたかどうかをしっかり確認できることがわかる。一方、右隣の年配の女性の位置から植草氏を目撃できたかどうかは不明だが、2分間という時間を考えれば、人は時々位置を変えるということを勘案すれば、あるいは見えたかもしれない。いずれにせよ、被害者女性と逮捕者は事件発生時、極めて近くにいたことは明らかである。植草氏が逮捕され連れて行かれたとき、被害者女性は逮捕者の連れのように見えたと目撃者は証言している。もしかしたら、周りの乗客には逮捕者と被害者女性の不自然な行為が見えていたのかもしれない。

図2
2

 被害者女性の声を聞いて、逮捕者kは図3で示した位置に移動したと述べている。もしこれが田舎芝居ではなく本当の痴漢事件なのであれば、逮捕者Kはまず被害者女性に事情を聞き、その説明に納得した段階で植草氏にそれを確かめ、植草氏はそれについて然るべき反論をするといった、話し合いがあっただろう。しかし、実際にはそのような会話の形跡は全くなく、いきなり逮捕者Kは植草氏に襲いかかっている。このことを、右隣に座っていた年配の女性はしっかり見ていたから、「酔っぱらいに絡まれたんでしょうか」と発言していたのである。

 このときの様子を植草氏は意見陳述書で

 私は「痴漢騒ぎかもしれない」と感じて、「絶対に関わり合いになりたくない」と思い、少し右を向いて、元の姿勢のまま目をつぶって立っておりました。
 それから20~30秒ほどした時に突然私は左側とうしろ側を誰かに強く掴まれました。自分が犯人に間違われたと思い、がく然としましたが、自分が人によく知られている身でしたので、ここで騒ぎにしたくないと思い、大きな声も出さずに駅に到着するのを待ちました。駅に着いたら、女性に事情を聞き、私が無関係であることを理解してもらわなければならないと思っていました。

 と述べている。女性が「子どもがいる前で」と発言した僅か20~30秒後には、すでに逮捕者Kは、一切の説明もなく、女性に事情を聞くこともせず、植草氏に襲いかかっている。これなら誰だって暴力事件だと判断する。当然、この事件の生起を痴漢事件だとは思うはずがない。すべてが、余りにも速やかに、そして不気味なほど静かに行われたために、うとうとしていた目撃者は気付いていない。もし本当の痴漢事件ならば、捕まえる前に車内はそれなりに騒然となるだろうから、周囲の乗客は少なくとも「痴漢が起きたのかな」と気付くはずである。

図3
3

 被害者女性が最初に声を上げたときの様子を植草氏は3月28日の公判で次のように述べている。

 私の前にいたと思われる女性が、左回りに後ろを振り返るように、私の右前方に移動しているのを見ました。70~80センチのところに移動してきました。その女性が動く前にいたと思われる地点の地上1メートルから1.2メートルぐらいのところを、戸惑ったように見ていました。

 これ以降はあくまでも可能性として私が考えた推理であることを強調しておく。

 被害者女性は「子どもが見ている前で」までは、事前の打ち合わせ通りの台詞を言えたのだが、次の台詞に言葉がつまり、およそ20~30秒の間立ち往生してしまった。本当の痴漢事件なら、彼女が痴漢犯人を警察に突き出してやろうとするくらいの気の強い女性であれば、当然ながら猛然と植草氏に抗議しただろう。しかし、この女性はそこまで役者を演じきる胆力が無かったのだ。この逮捕劇を田舎芝居(偽装痴漢事件)と仮定した場合、この女性は動顛(どうてん)のために中間的な演出過程を省略してしまった。逮捕者Kは、不自然な状況になってしまったにもかかわらず、すでに踏み込んでしまった偽装事件を遂行せざるを得なかった。そこで彼はやむなく植草氏の直接逮捕に及んだのである。これが傍(かたわら=目撃者その他、近くにいた人々)から見ると無言で不気味な行為に見えたわけである。車内にいなかった人には、これが痴漢逮捕であると騙せても、車内の現場で見ていた人には、それが通じるわけがない。

 裁判が長期化すれば、マスコミからのプレッシャーが弱まり、今まで控えていた人たちが、どんどん現れ出て、このでっち上げ事件の真相が次々と明らかになるのではないだろうか。検察官は、「否認を続ければ、裁判で私生活を攻撃して家族を徹底的に苦しめてやる」と植草氏を脅し続けている。そして傍から見れば、もしかしたらこれはまだ続いているのかもしれない。ましてや国策捜査や「でっち上げ」などと、植草氏自身がそれを意味する言葉の片鱗でも出せば、彼の命まで危ういかもしれない。もし、そうであるならば、彼の替わりに我々が国策捜査によるでっち上げの実態を暴露する以外に道はないのだ。


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2007年10月 8日 (月)

9月総裁選、麻生氏のネガティブ・キャンペーンの真相を分析する

 私は9月17日のエントリー、「 クーデターの主犯はメディア (水間政憲)」で、読売新聞や読売テレビの恣意的報道、つまり世論誘導報道を取り上げた政治ジャーナリスト・水間政憲氏の記事を全文掲載した。この論文の重要性はいくら言っても言い尽くせないくらいである。なぜならこの記事は戦後メディアに重石のように置かれた真相を語っているからである。我が国の言論機関はGHQ統治時代と何ら変わることのない言論閉鎖状況に置かれている。ただし、統制主体が終戦直後当時に比べて見えないという厄介な状況になっているだけにたちが悪い。江藤淳氏風に言うなら、この状況は「閉ざされた言語空間」ではあるが、統治主体がアメリカのエスタブリッシュメントと強いかかわりを持つ日本の売国勢力であり、彼らは巧妙に姿を隠している。一般の人は考えもしないだろうが、第三次産業革命と言われるIT情報革命の今日に至っても、我々国民は、「閉ざされた言語空間」に囲繞されているのだ。読売系メディアによる麻生氏のネガティブ・キャンペーンはGHQが行なった洗脳放送「真相箱」と基本構図は同じである。では、先月(9月)に起きた総裁選レースの事例を手にとって、この現実の恐ろしさを述べてみようと思う。

 実は先月9月の「麻生氏vs福田氏」の総裁選に関する報道で、日テレと読売新聞が先鋭的な反麻生氏キャンペーンを行なった。つまり、自民党本部や秋葉原の街頭演説における麻生人気は圧倒的に高かったのだが、日テレと読売新聞は、事実に反して逆に福田氏が圧倒的に有利だという恣意的な誘導報道を行なったのだ。NHKも「年配者は福田、若者は麻生」という実態とは違う状況説明を故意に行なった。またテレビニュースでは、麻生氏の秋葉原の演説で、彼のコミック好きを引き合いに出して、あたかも「お宅」の若者だけに人気があったかのような報道が繰り返されていた。実際は違うのである。麻生氏は老若男女すべての層から圧倒的な支持があり、拍手も掛け声も約8割がた麻生氏支持が上まわっていたそうである。ところが読売系の報道媒体は圧倒的に福田優勢を報じた。

 興味深いことに、今まで反日の代表格だと思われていた朝日系列は比較的抑制された報道だったが、国民認識では保守と思われていた読売系が、福田氏優勢の圧倒的な虚偽誘導キャンペーンを大々的に行なった。このキャンペーンの初期から、麻生氏の評判を故意に貶めるできごとで決定的なことは、水間氏が指摘した次のことに尽きる。

 それは、鳩山邦夫氏の発言からすべてが明らかになった。そもそも、雪崩を打って自民党の派閥が福田氏支持に回るきっかけとなったのは、10日夜都内のホテルで開催された「太郎会」終了後の映像が各テレビ局が、繰り返し報道したことによ る。

 それは、テレビカメラに向かって鳩山氏が「太郎会は、みんなで麻生さんに総理大臣になってもらうため集まっている会」です。それが、鳩山氏は安倍首相が退陣する意向を麻生氏から聞いた上での発言として、ネガティブキャンペーンに利用されたのです。

 映像メディアが繰り返し、この様な放送を行なえば、事実上メディア・リテラシーを持たない受動的な国民が、否定的な麻生氏のイメージを刷り込まれるのは当然である。鳩山邦夫氏のこの異常な発言には明らかに言論統制主体の強い意図が感じ取れる。

 さて、ここからが「神州の泉」の本論である。読者の皆さんはマスコミ、特に読売系のメディアが行なったこの顕著な偏向報道の真意が「郵政民営化」遂行にあると私が指摘したら奇異に思われるだろうか。私には確信がある。総裁選報道における麻生氏のネガティブ・キャンペーンは明らかに郵政民営化のためだと断言できる。その理由を語ろう。大きく言うなら、九月の安倍総理退任騒動と総裁選はパックになっており、これらは9月の国会審議を潰すためであった。その最大の目的は、10月1日スタートの郵政民営化に阻害要因を出さないためなのだ。

 水間正憲氏が論文で指摘されているように、読売・日テレ系は麻生氏が総理大臣になると絶対に都合が悪いことがあり、彼らの焦燥は熾烈なものだったと考えられる。水間氏は読売系が突出して麻生氏のネガティブ・キャンペーンをやった背景には、日本の戦後史の闇があると書いている。米国が麻生総理大臣を望んでいないのだ。私には日本を牛耳る米国エージェントが麻生首相の登場を忌避した真の理由が透けて見えている。

 小泉・竹中・安倍構造改革路線は国家構造を脆弱化する「悪魔の国策」であった。その理由は、植草さん、内橋克人さん、紺谷典子さんなど、この路線の重篤な疾患に気付いた気骨ある立派なエコノミストたちが随所でくわしく説明しているので読んでいただきたい。さて国家を脆弱化するこの構造改革の最大のかなめが郵政民営化なのである。米国エスタブリッシュメントは冷戦構造が終焉してすぐに、世界戦略を経済ヘゲモニーに勝つことに転換した。その最大のターゲットがこの日本だった。ところが日本は冷戦時代の米国による核の傘下で自主防衛の精神をすっかり忘却し、寄らば大樹の陰の温室感覚にすっかり染まって惰弱になっていた。米国の国際戦略が軍事覇権から経済覇権に転換し、その最大のターゲットが日本に定められたことに気付かないというていたらくであった。その感覚が今でも継続しているのだ。

 米国が対日政策として行なった戦略は実に奸智に長けた方法だった。東西冷戦終結の少し前に予備段階としてプラザ合意を行い、変動為替相場制を厳然と課し、貿易立国として世界の頂点に君臨した我が国に円高(ドル安)の苦吟を強いて国力の低下をはかった。これで米国は国内産業の低落を防止したのみか、日本の完全破壊を求めず、これを生かさず殺さず状態にして日本の国富収奪に目を向けたのである。日米構造協議の米国の論調は一貫して、日本の伝統的因習的市場構造が、外国製品の流入を阻害しているから徹底的に改めろということであった。実は当時のこの戦略方針が結実して、1994年の年次改革要望書となったわけである。日本人は構造という言葉にだまされやすい。日本人にわかるように構造協議とか構造調整という言葉を、別の言葉で言い表せば、それは明瞭に国柄の破壊と断言できる。国柄破壊としての構造改革を最も先鋭的に行なったのが小泉政権なのである。何度も言うが、小泉氏はリフォーマー(改革者)ではなくデストロイヤー(破壊神)であった。

 小泉構造改革のダイナミズムを決定付けたのは年次改革要望書である。この片務的合意形成の最大の眼目こそ「郵政民営化」であった。350兆円という莫大な資金を抱える世界一巨大な国営事業体としての郵政事業、これを拙速に民営化する理由はまったく不明瞭である。それどころか、この売国法案は、国民の共有財産である巨大資産の防衛的対策についての国会審議を、政権筋が念入りにかつ周到に拒否したという経緯で成立しているのだ。これに巨大マスメディアが徹底して協力した。2005年の9月11日の郵政解散総選挙、その一ヶ月くらい前は、テレビや新聞に外資系保険会社のコマーシャルが執拗に繰り返されていたことを記憶されている方も多いだろう。マスコミに米国系外資が莫大な宣伝費を投入し、郵政民営化関連法案が成立するように言論統制をかけたのだ。かくしてこの国家毀損の法案は成立し、今月の1日から郵政公社の分社化が実現した。

 本題に戻ろう。郵政民営化を強行させた黒幕は、8月に突然提出された国民新党の「郵政民営化凍結法案」に心底慌てたのである。そのままにしておいては、国民新党が火付け役となり、郵政法案そのものが見直される懸念があった。だから、何としてもこの気運を頭打ちにするために、9月の国会審議を中止する必要があった。そこで起きたのが安倍総理の時機を逸した退任表明と総裁選だった。これで九月中の国会開催は絶望的になった。これに加えて、彼らは麻生氏の出馬に心底警戒感を抱いたのだった。なぜ麻生氏は米国エスタブリッシュメントに嫌われたのだろうか?

 それが本論で私が最も言いたいことである。2005年、郵政民営化関連法案が正式に可決となる第163回特別国会の半年前の4月、当時総務大臣であった麻生氏は、郵政民営化担当大臣の竹中平蔵氏と、郵政公社の「分社化」について激しい意見対立を行なっている。麻生氏は郵政四分社の一体性維持を強硬に主張した。しかし、竹中氏は郵貯銀行、簡保会社株の完全売却に徹底的に固執した。喧々諤々の白熱した議論があったようである。麻生氏は言った。「株の一部を持ち合って一体化を維持することが大切だ。」これに対し、竹中氏は反論した。「金融は違う。それでは金融が持たない

 結局、議論が続いた末に、当時の細田氏が竹中案と麻生案を小泉首相に持って行き、彼の裁定を仰いだ。小泉氏は竹中案を採用して決着が着いたという経緯があった。この時、麻生氏が無念を抱いていたことは確実だったろうと私は思う。総裁選において米国が麻生氏を忌避した理由は完全にこれである。私はすでに「マスコミが麻生氏劣勢の誘導報道を行なった理由(わけ)」でも説明しているが、もし麻生氏が新総理の座に着けば、麻生氏はあの持ち前の行動力で、一旦は郵政公社の分社化を停止した可能性が強い。2004年当時、麻生太郎総務相、生田正治郵政公社総裁は、民営化当初の経営形態を、最初単一会社にしておいて、徐々に(段階的に)分社化していくということを主張していたのである。

 麻生氏は、竹中氏との論争に終止符を打った小泉純一郎氏がいない今、自身が総理大臣になった場合、当初の考えどおり、郵政四分社の一体性を維持するという方針を採ったことはほぼ確実だろう。そうなった場合、困るのは年次改革要望書をもたらした米国エスタブリッシュメントなのである。麻生氏の目論見どおり四分社相互が株の一部を持ち合えば外資が手をつけにくい状況になる。小泉氏や竹中氏の売国計画は郵政公社の分社化なのである。彼ら売国奴たちの最終目論見は、実は2017年の完全民営化にはない。彼らの真の目的は「分社化」そのものにある。


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2007年10月 6日 (土)

8月21日、植草氏の第11回公判(速記録)

 (※この速記録は「植草事件の真相HP」に格納されています)

平成18年特(わ)第4205号
公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等
の防止に関する条例違反
(弁論)

平成19年8月21日(火)  (第11回公判速記録)
於・東京地方裁判所429号法廷


裁判官: 神坂尚、宮本聡、大村るい    
検察官: 岩山伸二 
書記官 石川百合子

午前10時 開廷
     〔冒頭、報道による撮影あり〕

○神坂裁判長 それでは、開廷いたします。
 この段階で、弁護人のほうから証拠調べを請求されるわけですね。証拠調べ請求書のとおりということですけれども、64番ということになるんで、そういうことでお願いいたします。
 これについて、検察官のご意見は。
○I検察官 これは同意いたしますが、この証拠は、かつてうちのほうで甲54で請求していた書証ですので、これを改めて請求させていただきます。
○神坂裁判長 検察官のほうでも同一の書証を請求するということですね。59ぐらいかな。
 検察官の請求については。
○弁護人 同意いたします。
○神坂裁判長 それでは、双方から申請ということで採用することにいたします。
 それでは、採用することといたしますので、提出をお願いいたします。
○I検察官 立証趣旨がちょっと異なります。うちの立証趣旨は、かつて54で請求した立証趣旨です。要旨を。
○神坂裁判長 じゃ、概要だけ述べてもらって。
○I検察官 Tさんが本件の状況について目撃した際のことを再現した内容です。
     〔書証を裁判所に提出〕
○神坂裁判長 それでは、今の書証の取り調べは終了いたしました。
 検察官のほうで、本日の取り調べの請求を前提として、論告は従前のとおりということでよろしいですか。
○I検察官 はい、従前どおりです。
○神坂裁判長 特につけ加えることはないですね。
○I検察官 はい。
○神坂裁判長 じゃ、論告については従前のとおりということで。
 それでは、弁護人のほうから、予定しておりました弁論を承ることにいたします。
 では、弁護人のほうからお願いいたします。
 (照明について)上2つをあれして、そっちをつけておけばよろしいですね。(パワーポイントを)見やすいと思うので。
○弁護人 そうですね。このあたりだけ消して、後ろのほうはつけていても構わないです。
     〔傍聴席照明を除いて消灯〕
○神坂裁判長 じゃ、このくらいでいいですね。
○弁護人 はい。
○神坂裁判長 じゃ、どうぞ。
○N弁護人 それでは、わたくし弁護人のほうから弁論させていただきます。
 パワーポイントの機材を動かす関係上、失礼ですが、座ってやらせていただきます。
○神坂裁判長 どうぞ。
     〔以下、適宜パワーポイントを示しながら弁論)
○N弁護人 痴漢被害を訴えている女性は、品川駅を発車した直後から2~3分の間、被害者の後ろに密着して立っていた犯人から、被害者の臀部左側面付近や右側面付近を犯人の手のひらと指でなで回すようにさわられたと供述しています。目撃者のTさんも、男が被害者の後ろに密着して立っていて、男の左手が被害者の臀部付近をさわっていたと供述しています。したがって、被害者が後ろに立っていた人物から、臀部付近をさわられるなどの痴漢被害に遭ったこと自体は肯定できるものと考えられます。
 被害者が痴漢被害に遭っていたと考えられる間、被告人が立っていた位置は、この図のとおり、被害者の右側少し後方です。被害者の後ろに密着するように立っていたのは、被告人とは別の真犯人であり、被告人は痴漢の犯人ではありません。
 被害者は、痴漢犯人を注意するために、耳にかけていたヘッドホンを外して、「やめてください」などと言いながら右回りに振り返ったと供述しています。そのとき被害者の臀部付近をなで回していた犯人は、被害者のヘッドホンを外す動作に気づき、とっさに危険を察知して右後方に2~3歩後ずさりして、人と人との間に紛れたと考えられます。
 左のDVDの画面は、被害者がヘッドホンに(手を)かけたその瞬間あたりで、犯人役の後ろの男性が動き始める様子が描かれています。
 これはその続きですけれども、被害者が右回りに振り返り、ヘッドホンを外し終わって振り向き始めた時点、一番下の画像ですが、この時点では、既に犯人は後方に移動していることがわかると思います。
 この画面は、被害者が振り返り終わった様子を映したものです。被害者が右回りに振り返り終わった時点で、既に真犯人は人と人との間に紛れていたので、被害者は真犯人がだれだかはわかりません。一方、その時点で被害者のすぐ近くに立っていたのが被告人であり、被告人が被害者の抗議する言葉や急に振り返る動作に反応して、一たん被害者のほうに注目した後、右のほうに顔をそむけるような動作をしたことから不自然に感じて、被害者は被告人が犯人であると取り違えました。
 今説明した犯人、被害者、被告人の動きを図で示すと、このようになります。犯人が移動し、被害者が振り向き、同時に被告人が動いた、この一連の連続した動作の中で、被害者は被告人を犯人と誤認したのです。
 それでは、一応念のため、今のを動画で再現してみます。(動画)
 もう一度。(動画)
 今ストップさせましたけれども、これが被害者がヘッドホンに(手を)かけた瞬間です。このとき、ようやく犯人が手を離したということになります。で、振り返ります。このような状態です。
 もう一度。(動画)これが弁護人が想定する真犯人の動きです。
 このように、被害者が取り違えたことに影響を受けて、目撃者のTさんも犯人を取り違えた可能性があります。被害者が犯人を取り違えるはずがないという思い込みがあり、被害者が抗議している男性こそが、自分が先ほど見た犯人に違いないと考えて、被害者が被告人を犯人と取り違えたことに影響を受けて、Tさんも被告人を犯人と取り違えてしまった可能性があります。この経過については、後で詳しく説明したいと思います。
 それから、ほかの乗客、そして逮捕者のKさんも、同じように、被害者が被告人を犯人と取り違えたことに影響を受けて、被告人を犯人と取り違えたと思います。
 以上が本件の真相であります。すべての誤りは、被害者が被告人を犯人と取り違えたことに端を発していると考えます。
 これから弁護人が論じることですが、まず、被害者の供述と目撃者のTさんの供述は、犯人の識別供述としての信用性が低いことを論じます。それから、逮捕者のKさんの供述が被告人の供述を支えていること、また弁護側目撃者の供述が被告人の供述を支えていることを明らかにします。そして、これらを通じて、被告人は犯人ではないということをはっきりさせていきたいと思います。
○T弁護人 次に、被害者の供述の信用性について述べます。
 検察官は、被害者の犯人識別の根拠として、幾つかの根拠を挙げています。しかしながら、その犯人識別供述は、被告人を犯人と断定する根拠にならない、あるいはその信用性に疑問があり、結局のところ、被害者の犯人識別供述は信用しがたいと言わざるを得ません。
 以下、検察官が挙げる諸点について、逐次検討していきます。
 被害者が犯人を確認するために、みずからの左臀部をさわっている犯人の左手を確認したところ、その手が来る方向、角度から、真後ろの人間であることが確認できたという供述があります。しかし、被害者から犯人の左手が見えたという事実があったとしても、それによって被告人が犯人であると識別できたわけではありません。単に、被害者の横や斜め後ろではなく、真後ろにいた人物が痴漢犯人と識別できたというにすぎないのです。
 傘の実験についても、実験当日は雨が降っていたというのでありますから、乗客はほとんど全員傘を持っていたでしょうし、茶色っぽい木材の取っ手というのは、傘の取っ手として珍しいものではなく、むしろ一般的なものであります。
 したがって、被害者のこの供述部分に信用性があっても、そこから明らかになることは、被害者の真後ろに密着して立って、かつ茶色っぽい木材の取っ手がついた傘を持った人物が、痴漢犯人であるということだけです。そして、後に詳述するように、被告人は被害者の真後ろに立ってはいなかったのですから、被告人は痴漢犯人ではありません。
 しかし、この被害者供述には、これとは別に看過しがたい問題点があります。すなわち、被害者が体自体を折り曲げずに、単に顔をほぼ横に向けて、視線をやや下に向けるという姿勢から、自己の左臀部をさわっている犯人の左手、さらには手首にかかった傘の取っ手を見ることは不可能なのです。
 左側は甲37の写真で、右は甲38の写真です。左腕に遮られないように視線を延ばすと、犯人の手や傘の取っ手を見ることはできません。逆に、この姿勢をとって下方を見たとき被害者の視界に入るのは、右側の写真のような状況なのであります。右側の甲38の写真は、カメラを被害者の目の位置ではなく、この位置に置いているからこそ撮れる写真なのであります。
 他方で、自己の左臀部をさわっている犯人の人さし指、中指、薬指、小指、手の甲、そで口、さらには手首にかかった傘の取っ手を見るためには、体をこの図のように極端に折り曲げなければなりません。しかし、この姿勢をとれば、犯人は警戒して、その時点で痴漢行為をやめるでしょう。
 結局、被害者が甲37の写真のような姿勢で、犯人の左手の人さし指、中指、薬指、小指、手の甲からそで口までが見えたという供述は、客観的にはあり得ないので、虚偽供述と言うほかありません。そして、この虚偽供述は、被告人を犯人であると誤認した上で、被告人の言い逃れは許せないという気持ちから、視認状況を誇張して述べたものと考えられます。
 次に、被害者は、犯人が被害者のスカートをたくし上げて、下着の上から臀部をさわるという行為を始めたことから、痴漢犯為をやめさせるために、右回りに振り返って「やめてください」と言ったときに、犯人の顔、姿を見た、これが被告人であったという供述をしています。しかし、振り返って見たのが犯人であるというのは、被害者の誤解であり、真犯人は別のところに立っており、被害者は犯人と間違えて、被告人の顔、姿を見たのですが、その誤解のまま被告人を犯人と思い込んでいるのです。
 被害者、犯人、被告人の位置は、この図のような位置関係にありました。そして、被害者がヘッドホンを外そうとすることに気づいて、犯人はこの図の黄色い線の方向に移動します。次に被害者が右回りに振り返ると、振り返った目の前に被告人がいます。
 もう一度その動きを再現してみます。まず犯人が後ろに逃げます。次に被害者が右回りに振り返ります。最後に、被告人は絶対にかかわり合いになりたくないと思って、向きを少し右側に変えて、目をつぶって下を向きます。
 このような可能性が十分にあることは、弁護人が再現実験をした様子を撮影したDVDビデオからも明らかです。
 今度はそれをスライドで見てみましょう。被害者は急にヘッドホンを外そうと手を上げますが、その行為によって、犯人は当然、被害者が犯人逮捕に向けた何らかの行為をとることを予測することができます。そこで、犯人は痴漢行為をやめて後方に移動を始めます。被害者が振り返り始めるころには、犯人はもう後方に移動し終わっています。そして、振り返った被害者の目の前には被告人がいたのであります。
 検察官は、DVDビデオの真犯人は弁護人が設定した架空の産物であると言いますが、この位置関係は被告人の供述に基づくものであるほか、K証人(※逮捕者)の供述によっても基本的に裏づけられています。
 K証人の証言によれば、最初にK証人が被害者の声を聞いて振り返ったときに、K証人、被害者、被告人は、この図のように、一直線上に並んでいたということであります。この位置関係は、被告人は被害者の真後ろではなく、被害者の右後ろにいるというものであって、基本的に被告人供述と一致し、弁護側作成のDVDビデオの被告人の位置とも一致しています。
 次に、被害者は、被告人が2~3歩ないし1~2歩下がって右を向いたという供述をしていますが、これは基本的には被害者の勘違いであると考えます。現実には、被害者が振り返って被告人のほうを見る前に真犯人が後退していたので、被害者は被告人を犯人と思い込みます。犯人は被害者に密着していたわけですから、被害者にとっては、密着していた人間が離れていくことになります。そこから犯人が後退したという印象を持ったでしょう。そのような印象と、被告人が向きを少し右側に変えたことが結びついて、被害者は、被告人が後退して右に向いたものと誤って知覚、記憶したものと考えられるのです。
 被害者が振り返った後の被告人の行動をスライドで見てみましょう。
 被告人は、被害者がやや大きな声を出していたことから、痴漢騒ぎが起きたのではないかと思い、絶対にかかわり合いになりたくないと思って、このように向きを少し右側に変えて、目をつぶって下を向いたのです。その被告人の様子を見て、被害者は、犯人は目の前にいる被告人に違いないと思い込みます。そして、密着していたはずの痴漢犯人が離れていることから、被告人が2~3歩ないし1~2歩後退したに違いないと思い込みます。
 しかし、被害者が振り返った後、被告人が2~3歩ないし1~2歩後退したという事実がないことは、K証人の供述によっても裏づけられています。前述のように、最初にK証人が被害者の声を聞いて振り返ったときのK証人、被害者、被告人の位置関係は、この図のような位置関係であります。被害者の右後ろの非常に近い位置に被告人がいます。そして、K証人が振り返ってから被害者の近くに行くまで被告人は移動していません。被告人が2~3歩ないし1~2歩後退したら、K証人の供述よりもずっと大きく離れることになってしまいます。
 また、被害者は、被告人が左手ないし右手を自己の顔の前に置いて、失敬、失敬というように軽くおじぎしたという供述をしていますが、これは被告人が犯人であると思い込んでいるために、被告人のしぐさに過剰な意味を読み取っただけにすぎません。
 最初、K証人が振り向いたときや被告人の近くに行ったときに、被告人がつり革につかまっていなかったというのは、K証人の記憶違いである可能性もある一方で、被告人も明確には供述していませんが、ずっとつり革につかまっていたというわけではなく、一時的につり革を離れていたことも何度かあったのではないかと考えられます。特に被害者のやや大き目の声を聞いてびっくりしたときや、被告人が向きを少し右側に変えたときなどは、無意識的につり革を放している可能性が高いと考えられます。
 そうすると、被告人がつり革を放した状況から、右手でつり革をつかんだという動作もあったのではないかと考えられます。しかも、前述のように、被告人は絶対にかかわり合いになりたくないと思って、向きを少し右側に変えて、目をつぶって下を向いていたので、その様子を見て、被害者は、右手を自己の顔の前に置いて、失敬、失敬というように軽くおじぎしたというように過剰に解釈し、過剰な解釈の影響下に誤って知覚ないし記憶したのではないかと考えられるのであります。
 また、被害者は、K証人が被告人の体をポンポンたたいて「連れていくよ」と言ったところ、被告人はコクリとうなずいたという供述をしていますが、これも被告人を犯人と思い込んでいるために、被告人のしぐさに過剰な意味を読み取ったにすぎないものであります。
 被告人は著名人であり、また以前にも事件に巻き込まれたことがあったので、この場では絶対に騒ぎにしたくないと思って、K証人に体をつかまれても大声を出すこともなく、目をつぶって顔を下に向けた状態でいました。イメージ図であらわすと、この図のような状態です。この様子を見て、被害者は、K証人が「連れていく」と言ったときに、被告人がコクリとうなずいたというように過剰に解釈し、過剰な解釈の影響下に誤って知覚ないし記憶したものと考えられるのであります。
 さらに、被害者は、被告人がK証人にネクタイをつかまれたときに、被告人が被害者のほうに向かって歩いてきて、何だかはっきり覚えてはいないが、「ごめん」か何かそのような言葉を被害者に言ったという供述をしていますが、これはK証人の供述から誤りであることは明らかであります。これは被害者が、被告人が犯人であることを強調するために誇張しているか、あるいは被告人が犯人であると思い込んでいるために、被告人の様子から過剰な意味を読み取っただけにすぎません。
 K証人が被告人のネクタイをつかんだときのK証人、被告人、被害者の位置関係は、この図のようなものでした。K証人が被害者を助けるために被害者、被告人の近くに移動した後、被害者と被告人の中間の位置に立ち、その状態が京急蒲田駅近くまで続いたというのです。そして、K証人が被告人のネクタイをつかんだのは、電車が京急蒲田駅に着く直前、アナウンスが流れたり、電車にブレーキがかかったりして、普通に電車をおりる準備をするタイミングでの出来事です。それからドアがあくまでの間隔はそれほど長くありません。そして、そのままドアが開いて、2人が先頭で出ていったというのであります。
 K証人はネクタイをつかんだ本人であり、かつ被害者より冷静であったと考えられますから、ネクタイをつかんだ時期や、そのときの被害者、被告人との位置関係について、被害者より冷静に知覚、記憶していることは明らかであります。しかし、K証人が被告人のネクタイをつかんだときに、被告人が被害者のほうに向かって歩いていって、「ごめん」というような言葉を言ったという供述は全くしていないのであります。
 それどころか、K証人は被告人の様子について、一瞬ちょっと、ああ、失礼みたいな感じの手の動きで身を引いた後は、知らんぷりというか、大半目をつぶっていた印象が強いと供述しています。さらに、K証人がネクタイをつかんでから下車するまでの時間的間隔や、K証人、被害者、被告人の位置関係からすれば、被告人が被害者のほうに向かって歩いていって、何か言葉を言うというような状況は、時間的にも場所的にも起こり得ないと言うほかありません。
 最後に、被害者は、被告人は被害者に対して、「痴漢をやっていない」とか「人違いだ」とかいうようなことは全く言っていなかったという供述をしていますが、これは被告人を犯人と断定する根拠にはなりません。被告人は著名人であり、また以前にも事件に巻き込まれたことがあったので、この場で絶対に騒ぎにしたくないと思って、K証人から犯人として体をつかまれても、大声を出すこともなく、つり革をつかんで、目をつぶって顔を下に向けた状態でいました。それは被告人の立場・身上・経歴等からすれば、十分に了解可能な事柄であり、被告人を犯人であると断定する根拠にはなりません。しかし、周囲からは犯行を認めているように見えたのです。
 以上述べたことから明らかなように、被害者の供述から明らかになったことは、被害者が痴漢行為に遭ったこと、そしてその犯人は被害者の真後ろに密着して立っていた男性であるということであります。しかし、被告人がいたのは、真後ろではなく右後ろです。ですから、被告人ではありません。被告人は無罪なのです。
 検察官は、その真犯人は弁護人が設定した架空の産物であると主張しますが、真犯人の存在の合理的な可能性は、すなわち被告人の無罪を意味するものであるはずです。この主張が被害者の供述と矛盾するものではないことは以上に述べたとおりであり、かつK証言によって基本的に裏づけられているのであります。しかも、次項において詳述するように、T証言と積極的に矛盾するものでもありません。
○N弁護人 次に、Tさん(※検察側目撃証人)の供述の信用性について説明したいと思います。
 Tさんは、「被害者の女性に男が後ろから密着していて、その男が左手で被害者の左おしり側面付近をさわっているのを見た」と言っています。そして、「その男が被告人だった」と言っているわけです。これはすなわち犯人が被告人であったという犯人識別供述であると言えます。
 しかし、Tさんは、犯人の男について、「眼鏡については、かけていたか、いなかったか覚えていません。眼鏡については余り記憶がないので、わからないのです」と供述しています。これは事件当時、被告人がかけていた眼鏡です。この眼鏡は、ごらんのように、セルロイドのフレームで、青と紫がまざったような特殊な色の眼鏡です。特に事件当時、被告人が来ていた紺の上下のスーツとはかなり違和感があって、印象に残る眼鏡です。被告人が眼鏡をかけている様子は、このようになります。
 Tさんは、犯人の顔について、「少しうつろな目をして、ボーッとしていたような感じです」と具体的に供述していて、犯人の目を注視していたことがうかがわれます。したがって、眼鏡についてのTさんの供述からわかることは、このようになります。Tさんは犯人の目を注視していました。そして、被告人の横顔を見ていれば、眼鏡が記憶に残るはずです。しかし、Tさんは眼鏡について記憶していません。そうすると、Tさんが見た犯人は、眼鏡をかけていない、被告人とは別の男だったのではないかという可能性があります。
 先ほど私、スーツの色について、紺と言いましたが、これはグレーの間違いですので、そのように訂正させていただきます。
 次に、被告人は事件当時、肩に大きな重いかばんをかけていました。これは、かばんをかけている被告人の後ろ姿のイメージを図で示したものと見てください。しかしながら、Tさんは、痴漢行為をしている際の犯人の姿勢について、「重心が右に傾いていて、変な格好をしているというふうに思いました」と繰り返し供述しています。そして、犯人の右肩については、「右肩は見えていたけれども、かばんをかけていたという記憶もない」と供述しています。つまり、Tさんの記憶によると、犯人は右に傾いた姿勢で痴漢行為をずっとしていたことになります。
 しかし、このように右肩に重いかばんをかけていたとすると、かばんがずり落ちないようにしながら重心をとろうとするわけですから、体を右に傾けた姿勢を維持するのではなく、むしろ真っすぐの姿勢を維持するか、逆に左側に向くような姿勢をとるはずです。それでは、右に傾いた姿勢でかばんをかけているとどうなるでしょうか。こうなります。このままの状態でいたらどうなるかは、皆さんおわかりと思います。このように右に傾け続けていると、かばんがずり落ちてしまうと思います。もしかばんがずり落ちないとすれば、重心がとれなくて、右に倒れてしまうことが考えられます。
 犯人の姿勢についてのTさんの供述からわかるとおり、犯人は重心が右に傾いている不自然な格好をしていました。被告人が犯人であれば、右肩からかけていた重いかばんがずり落ちてしまう。したがって、Tさんが目撃したのは、右肩から重いかばんなどはかけていない、被告人とは別の人物だったのではないか、こういう可能性があることが言えると思います。
 その次の問題です。Tさんは、「犯人の左手が被害者の左おしり側面をさわっているのを見た」と供述しています。具体的には「指先も手の甲もそで口も見えました」、そして「手の甲とそでが一体として、肩も上から見えました」と供述しています。つまり、Tさんは犯人の手に注目していたことになるわけです。
 このように指先も手の甲もそで口も見えた。しかし、Tさんは、「男性が傘を左手首にかけていたことには気づいていません」と供述しています。被告人は左手に傘を持っていました。もし被告人が犯人で、左手で被害者のおしりをさわっていたとしたら、このように手首に傘をかけるしかありません。そうだとすれば、このように痴漢犯人の左手を見ていたTさんが、手首にかかっている傘に気づかないはずはないのではないでしょうか。したがって、傘についてのTさんの供述からわかるとおり、被告人が犯人であれば、左手首にかかっている傘にTさんが気がつかないはずはない。そうすると、犯人は、手首に傘をかけていない、被告人とは別の人物だったのではないか、こういう可能性があることになります。
 その次の問題です。Tさんは、被告人が事件当時と比べてやせていることに気づいていません。被告人は逮捕されたとき66キロから67キロでしたけれども、身柄拘束の間にどんどん体重が落ちていって、Tさんが証言したときは58キロくらいまで落ちていました。つまり、8キロから9キロやせていたということになります。しかしながら、Tさんは、「当時よりも顔つきがやせているとか、やつれているというような印象は持ちませんでしたか」という質問に対しても、「そういう印象は持ちませんでした」とはっきり言っています。
 そうすると、Tさんが目撃した犯人が被告人だとすると、被告人の顔が事件当時と法廷ではやせこけていることに気づいたはずであります。これに気がつかなかったということは、結局、Tさんが目撃したのは、被告人とは別の、実は被告人よりももっとやせていた男ではないか。逮捕時の被告人よりはもっとやせていた男ではないかという可能性があることになります。
 今、私は、Tさんが目撃した人物について4つの疑問があることを示しました。これを復習してみましょう。
 まず1つ目。Tさんは、痴漢行為をしている犯人の目を注視していたのに、被告人が犯人だとすると記憶しているべき印象的な眼鏡について、眼鏡をかけていたかどうかも記憶していません。
 2つ目。Tさんは、犯人の姿勢が不自然に右に傾いた状態で痴漢行為が行われたというふうに言っているわけですけれども、これは右肩に重いかばんをかけていた事実と合っていません。
 3つ目。Tさんは、犯人の左手に注目していたのに、被告人が犯人だとすると記憶しているべき、左手首にかけていた傘について記憶していません。
 4つ目。被告人が事件当時と比べて8キロから9キロもやせているのに、顔つきがやつれていることに気づいていません。
 結局、これらは、Tさんが目撃した人物が、被告人とは別の人物だったという重大な疑問を提起しているのです。
 次に、Tさんの公判供述をもう一度よく検討してみましょう。
 Tさんは、女子高生が振り返ったときの犯人の動きについて、「女子高生が振り向いた直後、1~2歩後ろのほうに下がって、乗車したドアと反対のドアのほうを向きました」、このように説明しているわけです。しかし、この供述のうち、被害者が振り向いた直後に犯人が動き出したという部分は、明白な誤りであると考えます。以下、それについて説明します。
 これは、犯人が離れる前に被害者が振り返るとどうなるかということを図示したものです。Tさんは、犯人が被害者に密着した状態だったと述べていますが、この状態で、犯人が離れる前に先に被害者が振り返るとどうなるでしょうか。このように、犯人が被害者とぶつかってしまいます。これはだれが考えてみてもわかることです。
 実は被害者も、「犯人は、私が振り向いているということに気づいたときに放したものだと思います」とか、「振り向く寸前におしりから手が放れました」というふうに供述しているのです。したがって、犯人は、被害者が振り向くよりも先に離れていたことが客観的事実として明らかだと思います。したがいまして、弁護人の主張として、被害者がヘッドホンを外す動作をしたときに、犯人が素早くこれを察知して、被害者から離れる動作を開始したと考えるのが最も合理的だと思います。
 次に、もう一度Tさんの供述を分析してみましょう。
 Tさんは、被害者から離れた犯人の動きについて、先ほど言いましたように、「1~2歩後ろのほうに下がって、乗車したドアと反対のドアのほうを向きました」と述べています。したがって、このような動きになります。これが公判供述の場合です。ただ、Tさんが後につくった供述書によると、この動きはちょっと変わります。このように右後方に下がったことになります。いずれにしても、Tさんの供述によれば、犯人と、被害者が抗議していた相手の男は同一人物だったということになりますが、実は被害者が抗議をしていた際の相手の男の位置について、Tさんの具体的な供述は存在していません。
 それでは、今度はKさんの証言を見てみましょう。
 Kさんの証言では、被害者が抗議していたときの男の位置は、この図のようにはっきりとしています。逮捕者のKさんは次のように説明しています。まず、Kの場所で被害者の声を聞いて振り返った。被害者はアの地点で右肩から振り返り、被告人はイの地点にいて、被告人と被害者の間には人が入れるようなスペースはなかった。両者の位置は近づいていたというふうに言っています。
 Tさんが供述する、1~2歩後方に下がった犯人の位置と、今この図で見ていただく、Kさんが供述する被告人の位置は、明らかに異なっています。Kさんは逮捕者であり、被告人が犯人であることを裏づけるような供述をする動機はあっても、被告人に有利な供述をする傾向はありませんから、被害者が振り向いたときの被告人の位置について、Kさんの供述の信用性は高いと考えられます。
 犯人が後方または右後方に1~2歩下がったというTさんの供述と、Kさんの供述する被告人の位置をもし整合的に考えるとすれば、このような結論しかないのではないでしょうか。被告人は犯人ではなく、Tさんは、犯人が1~2歩右後方に移動してドアのほうを向くのを目撃したものの、その後、人の間に紛れてしまった犯人の動きを見ておらず、その間、犯人を見失っていたと考えるしかないのではないでしょうか。つまり、Tさんが供述する1~2歩後方に下がった犯人の位置と、Kさんの供述する抗議したときの被告人の位置は明らかに異なります。したがって、Tさんは、犯人が後方に移動する様子を目撃したものの、その後、人の間に紛れてしまった犯人を見失っていたと考えるしかないのです。
 それでは、なぜTさんは犯人を見失ってしまったのでしょうか。これについては推論するしかありませんが、次のようなことが考えられます。犯人が後ろに下がり、ドアのほうを向く様子を見た。しかし、その直後、被害者が声を出しながら振り返った。電車内ですぐ近くに立っていた女子高生が急に声を出して振り返れば、人間、その動きに注目して、ほかの乗客の動きに注意がいかなくなってしまうのは、知覚心理学的に見ても裏づけのある事実です。つまり、Tさんは、被害者の動静に注目していたので、そのときの犯人の動きを見ていない。この間に犯人の位置を見失ってしまった。そして、被害者が注意している被告人こそが犯人だと取り違えたのではないでしょうか。つまり、被害者の女子高生が犯人を間違えるはずはないという一般的な思い込みがあって、このような取り違えが生じたと考えられます。
 次に、被害者が被告人に抗議をしているときに、果たしてTさんから真犯人の顔や被告人の顔がよく見える位置関係にあったのかという観点で、今の問題をもう一度検討してみましょう。
 これは先ほど言いました公判供述の場合の男の位置です。これが供述書の場合の男の位置です。これに被告人の供述する被告人が立っていた位置を書き加えると、こうなります。被告人はこのように立って、こちらを向いたことになります。
 さて、このような状況で見てみると、Tさんの顔の向きと、犯人である男の顔の向きは、向いている方向が同じなので、Tさんからは犯人の顔が見えない状態になっていたことがわかります。一方、被告人の顔のほうも、このようにTさんの顔の位置とかなり方向が近いので、見えにくくなっています。また、被告人の姿は、被害者の女性がかなり妨げになっていて、隠れていた部分もあることがわかります。つまり、Tさんからは、真犯人の顔も、被害者が注意していた男、つまり被告人の顔もほとんど見えなかったということが考えられるのです。
 Tさんが被告人を犯人と取り違えた経過について、もう一度整理してみると、被害者が振り返った後、Tさんからは、真犯人の顔も、被告人の顔もよく見えなかった。被害者の女子高生が犯人を取り違えるはずがないという思い込みや、被害者が被告人を犯人と取り違えたことに影響を受けて、Tさんも被告人を犯人と取り違えたのではないでしょうか。心理学の記憶の研究においても、被験者に誤った情報がわざと提示されると、被験者の記憶が影響を受けて、誤った記憶が再生されるということが、多くの実験によって確認されているところであります。
 次に、Kさんが電車内で被告人を逮捕してからの状況について、Tさんがどのように言っているか。
 Kさんが電車内で被告人を逮捕してから、蒲田駅でおりるまでの間のTさんの供述を見ても、その間、被告人の顔をよく見たというような供述は実はありません。むしろ、公判供述を幾ら見ても、この間、被告人の顔をよく見たかどうか、Tさんの供述はないと言えます。
 Tさんは、被告人の顔をテレビなどで見て、事件の前から知っていたと言っています。しかし、一方で、電車内では、被告人や犯人が植草一秀だと気づいていなかったとも言っています。そして、事件後の9月14日に、友人からのメールで、昨日の事件の犯人は植草元教授じゃないか。9月14日にインターネットのヤフーのニュースを見て、このメールとニュースによって強い影響を受け、犯人が植草一秀であることを確信するようになったというふうに言っているわけです。
 つまり、Tさんは、事件当時は被告人や犯人の顔を正確に観察、記憶していなかったにもかかわらず、ニュースや友人からのメールで、植草一秀が捕まったという情報を得て、犯人イコール植草一秀である、自分がよく顔を知っている植草一秀であるということで、顔の特定の記憶がつくられていったと考えられるのです。
 以上、Tさんの供述の信用性についてまとめると、次のようになります。
 Tさんの目撃した人物には、4つの重大な疑問がある。これは先ほど述べました。
 Tさんは、犯人が被害者から離れた後、犯人を見失っています。
 Tさんは、被害者が被告人を犯人と取り違えたことに影響を受けて、被告人を犯人と取り違えました。
 Tさんは、被告人や犯人の顔を正確に観察、記憶していませんでした。事件後の友人からのメールやニュースに影響を受けて、被告人植草一秀が犯人であると確信するようになりました。
 すなわち、Tさんの犯人識別供述の信用性は極めて低いと言えると思います。
 次に、逮捕者であるKさんの供述について述べます。
 まず、Kさんの供述の位置づけです。
 これが先ほども説明しましたKさんの供述です。もう一度復習してみましょう。Kの場所で被害者の声を聞いて振り返り、被害者はアの地点で右肩から振り返り、被告人はイの地点にいて、被告人と被害者の間に人が入れるすき間はない。そして、振り返った瞬間は、抗議の声に反応して、被告人は①のほうを向いていた。それ以降はやや外す感じで②のほうを向いていた、このようにKさんは言っています。
 一方、Tさんの場合は、先ほども言いましたように、このような動きを犯人がしたと言っているわけです。先ほどから言いますように、このような供述をしているわけです。Tさんの供述書と公判供述は、後方か右後方かでは異なっていますが、いずれも被告人から相当離れた位置、後方に男が移動しているという点では一致していて、この点でTさんの供述とは大きく異なっています。
 次に、被害者の事実説明による振り返ったときの男の位置です。被害者の事実説明によると、犯人は一、二、三歩後退して、右側を向いたことになります。これはTさんの公判供述と比較的近い内容ですが、やはり犯人が被害者からずっと離れたところに立っているのがわかると思います。したがって、Kさんの供述とは明らかに異なっています。
 つまり、犯人は被告人から離れたところに移動している。一方、被告人は被害者の右後方に立っていたことになりますから、Kさんの供述は、被告人が犯人でないことを示す極めて重要な証拠であるということになります。
 これは、被告人が供述する被告人が立っていた位置を、Kさんの証言調書に加えた図面です。Kさんの供述する被告人の位置と、被告人の供述する被告人の位置は、完全には一致していませんが、重なり合う部分がかなりあるのはわかると思います。被害者の右後方の近くという点では、ほぼ合致しています。
 また、Kさんは、先ほども言いましたように、被告人が①の方向から②のほうに向きを変えたと述べていますが、これも被告人が向きを変えたと言う方向とほぼ合致しています。
 また、Kさんは、このときに被告人がつり革につかまっていなかったと述べていますが、実は被告人は、捜査段階の供述調書から公判供述まで一貫して、被害者が振り返ったときにつり革につかまっていたかどうか、記憶がはっきりしないと述べているのでありまして、この点についても、被告人供述とKさんの供述は反していません。
 Kさんの供述する被告人の位置と、Tさんと被害者の言っている被害者から離れた犯人の位置は、異なっています。一方、Kさんの供述と被告人の供述は、被害者の右後方の近くに立ったという点で基本的に合致しているわけです。このことから、被告人が犯人ではないことが明らかになっています。
 さて、その次に、Kさんは被害者が振り返った瞬間の被告人を見ている。そのとき被告人は移動していない。この点について説明したいと思います。
 まず、Kさんが振り返ったときの被害者、Kさん、被告人の動きを、イメージ図で再現してみましょう。まず、被害者がアの地点で右肩から振り返ります。動きが速かったので、もう一度やってみます。こういう動きです。このようにKさんは、被害者がアの地点で右肩から振り返っていて、被害者の振り返った方向を目撃しています。また、振り返った瞬間は、抗議の声に反応して、被告人は①のほうを向いていたと言っています。やはり振り返った瞬間の動きを見ていることになります。つまり、Kさんは、被害者が振り返った瞬間の被告人を見ているということが言えるのです。
 次に、Kさんは、被害者が振り返った瞬間の被告人の動きについて、次のように述べています。「やや身を引く感じはありました。右手を上げてちょっと引く動作はありましたけれども、先ほども言ったように、足を歩んだりするようなスペースはありませんので、特に移動はありません。のけぞらせるような動きがまずあったと思います。あと、足の移動は、あっても、半歩か1歩ぐらいしか動く余地はなかったと思います。動いた印象もあります」。
 被告人がちょっと身を引くような感じで右手を軽く上げたという動作は、被害者の突然の動きに驚き、身を引きながらたじろいだ被告人の反射的な動作と考えることができます。つまり、もともとその場に被告人が立っていたときに、被害者が突然振り返ったという状況をKさんは述べていると想定するのが整合的だと言えます。
 次に、Kさんが真犯人の動きを見ていないのはおかしくない。真犯人が右後方に移動できるだけのスペースがあったと考えられる。この点について説明したいと思います。
 Kさんは、被害者の声がした後で被害者のほうを向いたと述べていますから、被害者が振り返る動作の終わりのほうを目撃したと考えられます。そうすると、先に移動している真犯人は、Kさんが振り向いたときには、何食わぬ顔をして被告人のほうを見ていたことになります。つまり、この図で言えば、上の状態や2番目の状態です。この状態をKさんは見たということになります。そうすると、真犯人、この男ですけれども、既に移動を終わって、被告人を何食わぬ顔で見ていますから、Kさんが真犯人の怪しい動きを目撃することができないのは当然であるということになります。
 次に、込みぐあいについてのKさんの供述を考慮しても、なお真犯人が先に移動するスペースがあったと考えられることについて説明しましょう。
 Kさんは、電車内は人が素早く移動することができるような状態ではなかったと供述しています。しかし、Kさんが立っていた場所と、被害者やTさんが立っていた場所は異なっています。そして、Tさんは、実際に犯人が後ろに1~2歩後退したと述べていて、真犯人が素早く1~2歩後退できるだけのスペースが、現実に被害者の後方にあったことを認めています。したがって、Kさんのこの供述を考慮しても、なお真犯人が移動するだけのスペースがあったということになります。
 以上をまとめますと、まずKさんは逮捕者であり、一般論として、被告人の犯人性を裏づける供述をする動機があります。そのKさんが、被害者が振り返ったときの被告人が立っていた位置について、被告人の供述とほぼ合致する証言をしているということは、このKさんの供述、証言の信用性は高いと言うべきであります。
 被害者の供述とTさんの供述によれば、犯人は被害者の真後ろに密着して立っていて、1~2歩後退したことになります。一方、Kさんと被告人の供述によれば、被告人は被害者の右後ろのすぐ近くに立っていたことになります。つまり、犯人のいる位置と被告人のいる位置は違うのです。したがって、被告人は犯人ではないことが明らかになるのです。
○M弁護人 では、次に、弁護側の目撃証人の証言について述べます。
 まず、弁護側目撃証人の重要性についてです。
 検察官は、平成18年9月13日午後10時8分ころから同日午後10時10分ころまでの間、被告人が痴漢行為をしたと主張しています。午後10時8分というのは、被告人が乗車した電車が品川駅を発車した時刻です。つまり、発車と同時に痴漢行為を開始し、その後2~3分間にわたり痴漢行為を継続していたというものです。この実行行為の開始時刻の特定は、被害者が発車と同時に痴漢行為の被害に遭ったという供述に依拠するものです。
 これに対して、弁護側の目撃証人は、品川駅で乗車すると同時に被告人を発見し、それ以降、乗車した電車が青物横丁駅を通過するあたりまでずっと被告人を目撃していた。しかし、被告人は痴漢行為をしていなかったと証言しているものです。
 被告人が乗車した電車は、品川駅を午後10時8分に発車しました。次の停車駅である京急蒲田駅に午後10時18分に到着しています。時刻表のデータによれば、快速特急電車が品川駅を発車して青物横丁駅を通過するまでに2~3分間を要するのですから、青物横丁駅を通過するのは午後10時10分ごろだということになります。つまり、検察官が、被告人が痴漢行為をしていたと主張するのと同じ時間帯に、弁護側の目撃証人は、被告人が痴漢行為をしていなかったと証言しているのであります。この証人の証言は、被告人の無罪を裏づける決定的証拠にほかなりません。
 では、弁護側の目撃証人が具体的にどのような証言をしているのかについて述べたいと思います。
 まず、証人が電車に乗り込んだところで、車両中央付近に被告人が立っていることに気がついたということです。証人が品川駅のホームに着いたとき、ちょうど快速特急電車が進入してきたところでした。その電車を見ながら、ホーム上を電車の進行方向へしばらく移動した後、ほかの乗客の後について車両に乗り込みました。すると、その車両の中央付近に立っている被告人に気がつきました。
 証人は、被告人の前から左横をすり抜けて、後ろに回り込むようにして移動しましたが、その際に被告人の顔を間近で見て、どこかで見たことがある人だなと感じました。このときの被告人は、車両中央左側、つまり進行方向寄りのあたりの位置に立って、進行方向とは逆の方向に体を向けており、つり革につかまらないで、うつむくような姿勢で立っていました。このときの被告人の印象について、ちょっと青白い、身なりはきちんとしていたが、ちょっとだらしない人なのかなというものでした。
 そのような被告人を見ながら、証人は、被告人の左横側をすり抜けるようにして回り込み、進行方向左側の座席の前に立ちました。電車が発車する直前に、目の前の座席に座っていた乗客が立ち上がり、急いでおりていったので、証人は運よく座席に座ることができました。座ったときにドアが閉まり、電車が動き出したということです。
 証人が座席に座ってから被告人を見ると、被告人は、反対側の座席に近い位置に立っていて、反対側の窓の方向に体を向け、つり革に右手でつかまり立っていました。このときの被告人の様子について、証人は、ちょっとくたびれたサラリーマンがつり革につかまり、頭を下げているような姿だったという印象を受けました。証人はそのときも、だれだろう、どこかで見かけた人だなと思っていました。
 電車は午後10時8分に発車しましたが、このときの被告人は、右手でつり革につかまり頭をうなだれて、だらしのない様子でしたが、後ろを振り返るような動作があり、横顔が見えました。証人はその横顔を見て、ああ、やっぱり植草さんだと確かめることができました。
 その後、青物横丁駅あたりまでの間、証人は被告人の様子をずっと目撃していましたが、被告人は位置を移動することなく、左や右を見たり、電車が揺れると体を動かしたり、つり革につかまっていても体勢を保てずに、ほかの乗客にぶつかりそうな様子が続いたということです。しかし、青物横丁駅を過ぎて、大森海岸を過ぎたあたりまで、証人は被告人の様子を全く目撃していません。その間、証人は座席に座ったままウトウトしていたからです。つまり、品川駅を発車してから青物横丁駅あたりまで、証人は、被告人が女性に密着していた様子はなかったとはっきり証言しています。
 次に、この弁護側目撃証人の信用性について、具体的に7項目に分けて述べていきたいと思います。
 まず最初に述べることは、証人が証言するに至ったいきさつは極めて自然なものだということです。
 証人は、事件の翌日のニュースで被告人が痴漢容疑で逮捕されたことを知って驚きました。しかし、すぐに警察に名乗り出ませんでした。証人がすぐに名乗り出なかった理由は、面倒なことにはかかわりたくないと思い、自分でなくてもだれかが証言するだろうという気持ちを持ったことに加えて、マスコミが興味本位で報道していた状況をあわせ考えれば、被告人に有利な目撃状況を証言しようとするには、相当な勇気と決断が要求されることは想像にかたくありません。証人が事件後、直ちに名乗り出なかったとしても、何ら不自然なことではないのです。
 次に、証人は、被告人が車内暴力事件の被害者となって、ホームへ引きずり出されたと思い込んでいました。その理由は、被告人が酔ってだらしない状態でつり革につかまっており、つり革につかまっていても体勢を保てず、周囲の乗客にぶつかりそうな様子だった上、被告人を押さえた男性は静かで不気味な印象があり、そこに後から加わった男性が何かをわめき散らしており、一緒にホームへおりていった女性の姿は、いずれかの男性の連れのように見えたからです。
 そのような思いでいた証人が思い直したきっかけは、本年1月22日に、被告人が保釈されて拘置所から出てくる場面をテレビの報道で見たときでした。テレビで見たときに証人は、これほど長期に及んでも事件が解決していないことを初めて知り、かつ、自分が関与しなくても容易に解決されると思い込んでいたことが間違っていたことに気づきました。そこで、すぐにでも警察で目撃状況を説明しなかったことを悔やむとともに、何か協力しなければいけないという気持ちがわいてきたというのであります。
 しかし、証人が具体的に何をどうしたらよいのかわからず悩んでいたところ、本年2月13日、東京簡易裁判所の待合場所でたまたま隣り合った弁護士に「こういうことを見たのだが、どうですかね」と話をしました。すると、その弁護士は、とても大事なことだから、被告人の刑事弁護人に連絡するように助言をしました。弁護士としては当然のことでしょう。
 この弁護士は、証人を隣の弁護士会館に連れていき、調べましたが、だれが刑事弁護人を引き受けているのか、確認することができませんでした。しかし、「お互いに連絡先を調べよう。何かわかったら連絡する」と弁護士から言われて別れたものの、なかなか連絡がないので、みずから出版物やインターネットにより被告人の会社のファクス番号を調べることができ、手書きの文書を送信して、事情説明をすると申し出たのです。
 検察官は、事件後5カ月を経過するまで、警察に名乗り出るなどの具体的な行動に出ていないことは不自然であるかのように述べますが、以上述べたように、証人の性格や相談相手の有無、マスコミや社会、就業先等への影響と、そこから受けるであろうプレッシャーなど、さまざまな要因によるものであって、そのような目撃証人の心情を一般化して非難することは的外れであるし、不適切なことであります。
 次に、証人には事件に関する予備知識がなく、記憶のままに証言しているので、信用性が高いということについて述べます。
 まず、証人は、被告人とは一面識もなく、テレビ以外に見たことはありませんでした。また、被告人にコンタクトをとったものの、直ちに弁護人から返答があり、その後、被告人から隔離された状態に置かれたままでした。
 次に、証人は、事件内容に関する予備知識もないし、予断や偏見もないということです。証人は、被告人の供述内容も知らず、被害者の供述内容も知らず、その他の者の供述内容も知らず、そして公訴事実の内容さえも知らずに、この法廷の証言台に立ちました。自分の証言が被告人の無罪を裏づける決定的な証拠となり得るという認識さえ持つことなく、自分の記憶だけに基づいて証言したのです。
 次に、弁護側証人の証言内容が詳細かつ具体的である理由と、それゆえに信用性が高いということについて述べます。
 まず、証人にとっては、テレビでしか見たことのない著名人を間近に初めて見たという貴重な体験だったのです。最初に気がついたとき、「顔が合った」と表現しているとおり、極めて近接した距離で被告人を目撃しました。そのとき、どこかで見たことがあるなと思い、思い出そうと試みました。
 ヘアスタイルが特徴的だったという印象から、とても気になっていました。また、被告人がかけていた眼鏡の特徴について、「スーパーマンのクラーク・ケントがかけていたような眼鏡だ」と表現するほどに鮮烈な印象が残っていたことや、酒のにおいがした、まただらしない姿を目撃したということで、それまで抱いていたイメージに反するという意外性を感じたのであります。それゆえに被告人に対して強い関心を抱いて目撃していたのです。そのため、被告人に関する記憶は詳細で具体的であり、よく記憶に残っていたのであって、信用性が高いものであります。
 なお、検察官は、弁護側の目撃証人が乗車した際に、被告人が既に車両中央付近に立っていたという証言内容は、被告人の供述内容と矛盾するので信用できないと述べています。そこで、この点について若干述べておきたいと思います。
 まず、被告人は、品川駅の改札を通るときに、目の前に電車がとまっていて、「ああ、電車がいる」という光景だけを断片的に覚えていると供述していますが、その電車に乗ったとは一言も供述していません。改札を入ったときの光景を説明したにすぎないのです。被告人が実際に乗車した車両は改札口から離れていることを考え合わせれば、被告人が目撃した電車には乗車せず、一たんホームで電車の到着を待った上で、到着車両に乗り込んだものと推測されるのであって、改札口で目撃した電車に乗車した可能性はありません。その後に到着した電車に余裕を持って乗車したのであるからこそ、証人よりも先に車両内にいたのです。むしろ、パスネットの記録によって改札通過時刻が特定できるのにもかかわらず、検察官がその証拠調べを請求していないことにかんがみれば、改札口で目撃した電車には乗り込んでいないと強く推定されるのです。
 次に、弁護側目撃証人が被害者の声を聞いていないということには、合理的な理由があることについて述べます。
 検察官の主張によれば、被害者が声を出して抗議をしたのは、品川駅を発車してから2~3分経過した後であって、前述のとおり、電車が青物横丁駅を通過したあたりだということになります。しかし、被害者の抗議の声がそれほど大きな声ではなく、しかも抗議の途中から涙声になったということは、その様子を目撃していたKが具体的かつ明確に証言しています。
 検察官は、被害者が大声で抗議したとか、叫び声だったなどと勝手に述べていますが、被害者の抗議が大声だったという証拠は全くなく、まして叫び声などという表現は、検察官の論告以外に見つけることができません。たとえ論告といえども、このように証拠にない事実をつくり上げて論じようとする検察官の行いは、厳に戒められるべきです。
 これに対して、弁護側目撃証人は、青物横丁駅を過ぎてから大森海岸駅あたりまでの間は、座席に座ったまま目をつぶりウトウトしていたと言うのですから、その間は、何か起きたかどうか全くわかるわけがないのであって、それはこの証人自身が正直に述べているとおりです。
 しかも、証人が座っていた位置からは、被害者の姿さえ視界に入っていなかったと言うのであり、また、被害者は証人に背を向けるような方向を向いて抗議したと思われることなど、そういう客観的な状況から判断すれば、ウトウトしていた証人が被害者の声に気づかなかったことには合理的な理由があります。
 次に、証人からは被告人の姿がよく見え、逆に被害者の姿が見えなかったことを合理的に説明する理由があることについて述べます。その理由について、証人の前のスペースがあいたままだったということと、座席側エリアはドア側よりもすいていた、この2点について述べます。
 まず、さきに述べたように、品川駅を発車する直前に証人は目の前の座席に座ることができたため、それまで自分が立っていたスペースがあいたままになったと証言しています。このときの状況を、証人がこの法廷で作成した図面に基づいて説明します。証人の位置を赤色で、被告人の位置をグリーンであらわすと、このようになります。証人の目の前があいたままなので、証人から被告人をはっきりと目撃することができます。
 この点について検察官は、この図面が、Kが立っていた位置をわざとずらして作成されたものであり、信用できないと非難します。検察官はK供述が客観的に正しいと言うのでありますから、そのK供述に基づくKの位置を追加してみます。青い色がKが立っていた位置です。すると、Kは証人の真ん前に立っていたことになるものの、被告人は証人から見ると斜め前方の方向に位置します。そのためKが被告人の姿を遮ることなく、証人の位置から被告人の姿をしっかりと目撃できるのです。
 次に、同じ電車の車両内でも、座席側エリアとドア側のエリアでは込みぐあいが違っていたことを説明します。ドア側のエリアは、駅で次々と乗り込んでくる乗客や次の駅でおりようとする乗客で込み合うことは、電車に乗ればよく見かける光景です。エリアによる込みぐあいの違いについて、弁護側の目撃証人は具体的かつ明瞭に区別して証言しています。つまり、ドア側のエリアでは多少人と人が触れ合うかもしれない状況であったが、座席側のエリアでは、つり革につかまって立っている人がまばらであった、このようにはっきり証言しています。
 次に、この目撃証人による時間の経過に関する証言内容は、信用性が高い点について述べます。
 弁護側の目撃証人によると、「青物横丁駅のあたりだった」とか、「大森海岸駅のあたりだった」という表現は、窓外の光景という客観的状況に基づく具体的かつ臨場的なものです。したがって、どのあたりでどうだったという時間の経過に関する証人の証言は、極めて信用性の高いものです。
 これに対して、ほかの供述者の「どこから何分くらいだと思う」という供述は、その者の主観的感覚に基づく説明にすぎないのであって、体験した事象等に関する驚愕や嫌悪あるいは好感等の心理的要因によって時間的感覚が左右されることは、社会的現象上、多々ある、とりたてて珍しいことではありません。「何分くらい」とか「何分間くらい」という供述者の説明は、客観的な証拠に何ら裏づけられたものではありません。したがって、電車に乗車してからの時間の経過に関する証人の証言は、客観的状況に基づく正確なものであって、信用できるものです。
 また、車両内の被告人の位置や乗客の位置、その方向に関する弁護側目撃証人の証言内容は、信用性が高いことについて述べます。
 この証人は、進行方向左側の座席の、ドアから2人目の場所に座っていたというものでありますから、その位置は客観的に動かしようがありません。しかも、座席に座れば、体の向きは当然、反対側、すなわち進行方向右側の座席の方向を向くのであって、その体の向きも客観的に動かしようがありません。したがって、被告人等の位置関係に関するこの証人の証言内容は、極めて信用性が高い。これに対して、「大体どのあたりだと思う」とか「どこから何歩目あたりだ」などと説明するほかの供述者の説明は、あいまいな記憶に基づくものであって、弁護側目撃証人の供述に比較すれば、信用性は低いと言わざるを得ません。
 以上のとおり、弁護側の目撃証人の証言は詳細かつ具体的であって、その証言態度は真摯で、虚偽供述を疑わせる余地が全くないなど、十分信用できるものであり、同証人が証言した目撃状況により、公訴事実が存在しなかったことは十分立証されていると考えます。
     〔パワーポイント調整〕
     〔以下、適宜パワーポイントを示しながら弁論〕
○S弁護人 それでは、被告人の供述等の信用性について弁論させていただきます。
 被告人供述等の信用性について適切に理解するには、被告人が直前に多量に飲酒をしているので、その影響を適切に理解することが不可欠です。
 被告人は、大崎駅にある中華料理店で多量のビールと紹興酒を飲み、午後10時52分ころから午後11時までの間に実施された飲酒検知の結果、呼気1リットル当たり0.47ミリグラムのアルコールが検知されました。それほどまでに飲酒した被告人は、飲酒直後に記憶、思考力を著しく低下させ、ぐったりし、さらにその後1人になってその程度を増大させましたが、その後、痴漢騒ぎに巻き込まれ、犯人として疑われ、取り押さえられ、駅事務所に、さらには蒲田警察署に連行されるうちに、その状態から脱していたということなのです。
 次に、被告人がタクシーを利用しなかった理由について説明いたします。
 被告人は、それまでに顧問先の人間と、大崎駅周辺で何度も飲食をともにしていましたが、帰宅の際、皆が電車で帰っていたので、いつも電車を利用していました。大崎駅のタクシー乗り場は、飲食していた大崎ニューシティの反対側でありました。また、被告人は、大崎駅近辺の構造が、JR、山手通り、目黒川が立体的に複雑に入り組んでいて、タクシーの利用は難しいと当時考えていました。また、何より、その日飲食していた顧問先の人間と一緒に大崎ニューシティ内の中華料理店からJR大崎駅改札付近まで流れたのであり、そのままJRの電車に乗ることが自然の流れであったと言うのであり、決して不自然ではないと思われます。
 次に、被告人が下り方面本件電車に乗ったことは、前述のとおり、多量の飲酒によって思考力を著しく低下させていたことによるものでしたから、不合理ではありません。
 電車内における被告人の位置、体勢は、図のとおりです。被告人は、公判廷において、被告人に有利に証言することなく、記憶に従って慎重に供述しております。電車内における被告人の位置、体勢に関する供述も信用性が高いと言えます。また、それは弁護側目撃証人の証言ともおおむね一致しています。
 被告人は、公判廷で「『子供がいるのに』というやや大きな声がして目をあけると、進行方向を向いて立っていた女性が振り返りつつ、右斜め前方、0.8~1メートル離れた場所に移動する感覚が残っています」と供述しています。被告人は、それ以前とは異なり、「子供がいるのに」というやや大きな声が聞こえ、目の前の女性が突然振り返ったためにびっくりした結果、意識も急に覚めた状態になったのですから、かかる感覚が残っていても不自然、不合理ではありません。
 電車内における被告人の態度について、まず検察官は、「被告人は、被害者が『子供がいるのに』と言ったのを聞いただけで痴漢事件だと思った旨供述していることが、被告人が痴漢の犯人であったことを強く推認させる」などと主張しています。しかし、被告人は、言葉の内容だけでなく、その語調、言葉のトーン、女性の動作を含めて直観的に感じたと供述していますから、前提条件が異なると思われます。被告人の供述は、直観的に感じたという自然なものであるのに対し、検察官の主張は殊さらに前提条件をたがえたものでありますから、前者が合理的であることは明らかです。
 電車内における被告人の態度について、検察官は、「被告人は、被害者の言葉が自分に発せられたとは思わなかった旨供述する一方、かかわり合いになりたくないと思って、体全体の向きを右側に変えたのは不合理だ」とも主張しています。しかし、被告人が、被害者によるこの言葉が自分に発せられたとは思わなかったことと、その場で起きたことにかかわり合いになりたくないと思って体全体の向きを右側に変えたことは、何ら矛盾しません。また、かかわり合いになりたくないと思い、体全体の向きを右側に変えることは、何ら不合理ではありません。よって、不合理と評価すること自体、根拠がない表現と言わざるを得ません。
 電車内における被告人の態度について、検察官は、「被告人は、自分の右前に移動した女性からこの言葉が発せられたことを認識しつつ、女性と反対側の左側に体の向きを背けるのではなく、右側に、被害者をいわば通り過ぎる形で90度ぐらい体の向きを変えたのは不合理である」とも主張しています。しかし、被告人はもともと被害者に対し、ほぼ正面を向いていたのであり、「右側に、被害者をいわば通り過ぎる形で体の向きを変えた」との評価は当たりません。また、被告人がつり革を右手でつかんでいたことからすれば、右回りのほうがむしろ自然とも言えます。また、被告人にとっては、体の向きを変えること自体に意味があったと言えます。よって、不合理などと評価することは、根拠がない表現と言わざるを得ません。
 検察官は、「被告人が痴漢と間違われているのに大声で抗議しなかったことは了解不能」などと主張します。しかし、幾多の痴漢冤罪事件が存在することからも明らかなように、大声で抗議をしても、その場で真実が明らかになるとは限らず、騒ぎ立てられ、犯人に仕立て上げられる可能性もあります。加えて、被告人は、多くの人に名前と顔を知られている植草一秀であり、騒ぎになり、痴漢扱いされていることがわかれば、そのこと自体によって相当なダメージ、さらには前裁判と相まって、ネガティブな情報が土石流のようにはんらんする可能性が高いと考え、電車の中でとにかく騒ぎにしたくないという一念だったのです。そのような被告人の供述は、迫真性に富み、合理的であると言えます。検察官の主張は、状況を理解していない、あるいは想像していないということにすぎず、失当と言わざるを得ません。
 検察官は、被告人が「本件電車内で、痴漢については、自分は人違いであると考えていた」と供述する一方で、「だれか目撃した人はいませんか」などと声を上げていないことから、被告人の犯人性が明らかであるなどとも主張しています。しかし、被告人は、自分が痴漢を行っていないから、自分ではないという意味で、「自分は人違いであると考えていた」と述べているにすぎません。電車内で具体的にどのようなことが起こったのか、それが本当に起こったのか、被害者の狂言なのか全くわからなかったわけです。そして、被告人は、騒ぎにしたくないということで頭がいっぱいであり、極限状態でもありました。そのような状況で、車内に別に真犯人がいるということは考えていなかった。真犯人を探さないと、次の蒲田駅でおりて逃げてしまうとか、電車に乗って逃げてしまうなどということも考えなかったということは、不自然、不合理では決してないと思われます。
 次に、被告人は、蒲田駅内で自殺を図っております。その理由については、被告人は駅事務所まで連れていかれた時点で、前事件をはるかに超える悲惨な状況に思いをめぐらせ、瞬間的に極度のパニックに陥ったということであり、そのことが理由だったと考えられます。
 被告人が犯行を否認するそれぞれの言葉は、若干異なっております。まず、本件電車内では、Kに対し「何もしていませんよ」と抗議しています。また、駅事務所内で、Yに対して「女性と話をさせてくれ」と述べています。また、青木さんに対しては、認否については何も話しておりません。また、弁解録取時においては、警察官に対し「やった覚えがない」などと述べています。9月14日の取り調べにおいては、警察官に対し「やった覚えはない」などと述べています。そして、9月15日からは、検察官に対し「やっていない」と述べています。勾留質問時においては、裁判官に対し「そういうことはしていない」と述べております。
 このように、言葉のニュアンスが異なっておりますが、これは平成18年9月15日の検察官の取り調べまで、具体的に何を疑われているのかがわからず、その取り調べにおいて、疑われている内容が判明し、それなら絶対にないという確信を持つようになったという経緯によるものですから、不合理ではないと考えます。
 次に、青木ヒデオ供述の信用性についてです。青木ヒデオの供述と被告人の供述が相反しており、どちらが信用性が高いかということにつきましては、詳細は提出書面に譲りたいと思います。
 次に、繊維関係について述べます。
 まず、弁護人としましては、繊維鑑定の結果を前提とした事実認定は許されないものと思料いたします。弁護人は、市川の証人尋問、あるいは同人による繊維鑑定の結果を否定するに十分な証拠調べを請求したにもかかわらず、それは却下されております。裁判所が市川の証人尋問、あるいは同人による繊維鑑定の結果に基づいて事実認定するのであれば、著しく公平、公正に反するばかりでなく、正確な事実認定を誤ると言わざるを得ないと思料いたします。
 被告人に付着していたとされる繊維については、弁護人は、Yの衣服の構成繊維と類似していることは実証十分だと考えます。繊維関係につきましては信用性がないということを以下の3点で述べたいと思います。
 まず第1点目。鑑定結果は、色調が類似しているというにすぎないのであり、同一と断定するものではございません。すなわち、獣毛繊維とは「動物の毛」というだけの意味であり、羊、キツネ等、挙げれば切りがございません。ウールに限定したところで、なお一般的に着用する衣服の構成繊維にすぎません。要するに、被告人の手指から採取された繊維は、ごくありふれたウール繊維にすぎません。
 また、かかる繊維が鑑定以前のどの時点、例えば1分前なのか、1時間前なのか、1日前なのか、3日前なのか、またどこで、さらにはどのようにして被告人の手指及びネクタイに付着したか、特定することは不可能です。このように、繊維鑑定は、被告人を犯人と識別する証拠としての価値が極めて薄弱であったと思料いたします。
 また、仮にある者が両手で被害者の臀部を2~3分間もなで回していたというのであれば、その両手指全体にスカート生地から脱離した構成繊維が過剰に付着するはずであり、しかも、被害者のスカートの構成繊維は合計4種類であったとされていますから、その4種類の構成繊維がすべて両手指全体に多量に付着し、付着している繊維の構成比率も、スカートの布地と同様の構成比率であるはずです。
 ところが、鑑定結果は、たった3本の繊維がスカートの構成繊維と色調が類似し、しかも類似していたのは1種類についてのみというものです。また、どのような仕組みで1種類のみが付着し、残る3種類の繊維が付着しなかったのかという説明もありません。さらに、被告人の両手の手指に付着していた多量の繊維片については、どのような繊維片がどのように分布して付着していたのか。また、その中で上記3本の繊維が手指のどの部分にどのように付着していたのかも明らかにされていません。したがって、被告人の手指に繊維が付着していたとされる状態は、不自然、不合理と言わざるを得ません。
 次に、被害者のスカートの繊維は、スカートの生地を構成している糸を切り取った上、この糸をほぐして採取されたとされていますが、具体的にスカートのどの部分の生地から採取されたのかは明らかにされていません。しかし、繊維は、磨耗、損傷、汗等による汚染・汚損、あるいは日光にさらされて変色・退色しますから、被害者がさわられ続けたと言うのが臀部である以上、端的にその場所の生地部分から繊維を採取すべきであり、しかも、被告人のネクタイ同様、粘着テープにより離脱した繊維が採取されるべきです。したがって、被害者のスカートの繊維の採取方法は不合理と言わざるを得ません。
 次に、市川さんは光学顕微鏡を用いて鑑定していますが、光学顕微鏡では、繊維の特定や鱗片の形状が不明瞭であり、精密な鑑定を行うことはできません。
 次に、市川さんは、繊維の色調について、強い青色、明るい青色、さえた青色等の表現を用いて、青色獣毛繊維を区別していますが、その具体的な色調の違いについて、合理的な説明があるとは言えません。
 次に、光学顕微鏡は、色調の鑑定に適しません。市川さんは「薄い色の木綿繊維は、糸をほぐしてしまうと、無色で観察される」などと証言しているのであり、光学顕微鏡観察が繊維の色調の判断に適していないことを自認していると言えるのではないでしょうか。
 繊維の形状に関する市川さんの証言は、獣毛繊維の性質に関する一般的な説明にすぎないにもかかわらず、殊さらに鑑定繊維の類似を強調しようとする意図的な表現に終始していると言えます。このような繊維の形状の類似性に関する市川さんの証言には、信用性がないと言わざるを得ません。
 弁論の結論です。
 まず、被害者やTさんの犯人識別供述の信用性は低いと言えます。そのことから、被告人は犯人ではないことが1つ裏づけられることになります。
 K供述は、被害者が振り返ったときに被告人が立っていた位置から、被告人が犯人ではないことを明らかにしております。また、弁護側目撃者供述は、被害者が振り返る少し前まで、被告人が痴漢行為をしていなかったことを明らかにしています。
 このように、弁護側目撃者供述は、被害者が振り返る少し前まで、被告人が痴漢行為をしていないことを明らかにするものであり、一方、K供述は、被害者が振り返ったときに被害者が立っていた位置から、被告人が犯人ではないことを明らかにするものであり、両者が相まって、被告人が痴漢犯人ではないことが明らかになったと思料いたします。
 よって、被告人につきましては、無罪判決が下されるべきであると考えます。
 以上でございます。
○神坂裁判長 それでは、被告人、前に立ってもらえますか。
     〔植草被告人、証言台の前に立つ〕
○神坂裁判長 この事件については以上で審理を終了して、次回公判で判決を言い渡すことになります。
 審理を終了するに当たって、被告人のほうから何か言っておきたいことがあれば、どういうことでもいいですから言ってください。
○植草被告人 はい。
 それでは、書面を用意しておりますので、読み上げる形で申し上げたいと思います。
     〔以下、意見陳述書朗読〕
平成18年(特わ)第4205号
公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為の防止に関する条例違反被告事件
意見陳述書
東京地方裁判所刑事第2部 御中
平成19年8月21日
被告人 植 草 一 秀

 私は嫌疑をかけられている罪を絶対に犯しておりません。

 私は平成18年9月13日午後10時8分に品川駅を発車した京浜急行京急久里浜行き電車に乗り合わせ、今回の事件に巻き込まれました。取り調べにおいて、品川駅京急改札口を通過する際に目の前に電車が止まっている状況を記憶していることを述べました。この電車に乗ったのかどうかについては、改札通過後、電車に乗る瞬間までの記憶が途切れているために分かりませんが、東京地方検察庁での取り調べの際に、取り調べ担当の名取検事から、私が当日使用したパスネット記載の改札通過時刻からすると、私が改札を通過したときには私が乗った電車はまだ品川駅ホームには入線していなかったはずだと指摘されました。
 私は証拠として採用されている平成18年10月3日付検面調書において、「あなたが改札口を通ったときには、下り方向のホームにはまだ電車が入ってきていなかったようだが、その記憶は間違いないのか。」との問いに対して、「私としては目の前のホームにいたような気がしますが、私が改札口を通ったときにまだ下り電車が到着していなかったとすれば、何か勘違いをしているかも知れません。」と述べました。
 第9回公判で証言した弁護側目撃証人は電車に乗る人の列の最後尾から電車に乗り込んだ際に、私がすでに電車の車内にいたと証言しました。つまり、私は事件の発生した電車が品川駅に到着する前に品川駅ホームに入り、当該電車到着後、第9回公判の弁護側目撃証人より先に電車に乗り込んだと考えられます。私が目撃した電車は品川駅を先発した電車か反対ホームに停車していた電車であった可能性が高いと思われます。第9回公判の弁護側目撃証人が電車に乗り込んだ際に、すでに私が電車の車内にいたことに矛盾はないと思います。

 電車が品川駅を発車してから、私は半眠りの状態で立っていましたが、女性のやや大きな声を聞いて目を開けたところ、後ろを振り返る女性の姿を目撃しました。この瞬間には女性は私の方向を見ていませんでした。私は、女性の甲高い声と動作から「痴漢騒ぎではないか」と直感的に感じ、絶対にかかわり合いになりたくないとの思いから、体の向きを右向きに変えて、また目をつぶって下を向いて立っていました。
 公判で、被害者や検察側目撃者が、犯人は被害者の真後ろに被害者に密着して電車の進行方向に向いて立っていたと述べていることを知りました。仮にこのような犯人が存在していたのだとすると、この犯人は間違いなく私とは別の人物ということになります。私は被害者の真後ろではなく、被害者の右横ないし右斜め後ろに、被害者と密着することなく立っていました。私が女性の声に気付いて目を開けた時に見た光景と電車が出発した時に見た光景は同じで、私は同じ場所に立っていました。その間に移動したこともなく、被害者の女性と密着もしておりませんでした。
 ただ、女性が声をあげて後ろを振り返ったあとで、私が少し右に向きを変えて目をつぶり、下を向いて立っていたので、その様子が犯人と間違えられる原因になったのだと思います。弁護団は私とは別の真犯人が被害者の真後ろに立っていたとの仮説を設けて再現実験をし、DVDを作成して公判で上映しました。この再現実験DVDを見ますと、被害者が振り返る前に、被害者が手でヘッドフォンをはずす動作に真犯人が反応して右後方に移動してしまい、被害者が振り返ったあとで私が右に向きを変えて下を向いたために、被害者が私を犯人と取り違えてしまう様子が鮮明に再現されていました。被害者は振り向いたときに犯人を見ておらず、また、犯人を手で触っていない、手首も触っていない、服もつかんでいないと公判で供述しました。ヘッドフォンをはずして振り返ったあとで、私を真犯人と取り違えてしまったのだと思います。

 被害者の発した声はやや大きめな声でしたが、それほど大きなものではありませんでした。その後、泣いていたとのことですが、声をあげていたわけではありません。第9回公判で証言した弁護側目撃証人は、うとうとしていて女性が声をあげたことに気付かなかったと証言しましたが、電車の進行方向左側の座席に着席していた弁護側目撃証人が電車外部の騒音などの影響もあり、この証人に背を向けていた女性が発したそれほど大きくはなかった声に気付かなかったとしても、まったく不自然ではないと思います。

 私が下を向いて目をつぶっていたところ、しばらくして私は私の左とうしろを誰かにつかまれ、私が犯人に取り違えられたことに気付きました。しかし、電車のなかで騒ぎには絶対したくないと考えて、電車が蒲田に到着するまで静かにしていました。被告人質問では、なぜ大きな声で抗議しなかったのか、なぜ真犯人を探そうとしなかったのかと聞かれましたが、私はその時点では、とにかくこの場で騒ぎにはしたくないとの気持ちでいっぱいでした。また、力の強い見知らぬ男に押さえられて身の危険も感じていました。私は顔を人によく知られている身であり、また、過去に事件に巻き込まれたこともあることから、電車内で騒ぎになれば間違いなく大騒ぎになると考えて、そのような行動をとりました。

 蒲田駅で警官と言葉を交わしたことは覚えていますが、「女性に不快感を与えるようなことをした」などの言葉を絶対に発していません。蒲田駅で私がそのような言葉を発したと証言した青木警官は、その後蒲田警察署内で取扱状況報告書を作成したと証言しましたが、同時間帯に蒲田警察署内で取り調べを受けていた私は、警官から「蒲田駅で女性に不快感を与えたと言ったのではないか」などの指摘をまったく受けておりません。このことは青木警官の証言が虚偽であることの明確な証左であると思います。
 
 蒲田警察署で粘着テープによる私の両手指10本分の付着物採取が行われました。検察官は科学捜査研究所に付着物の鑑定を委嘱し、証人として出廷した科学捜査研究所の市川研究員は、付着物として採取された獣毛繊維3本が被害者が着用していた紺色スカートの構成繊維に類似していると証言しました。これに対して、弁護団は私が蒲田駅駅務室内で2度にわたってもみ合った京浜急行蒲田駅職員が着用していた紺色制服と同一の制服生地を入手し、静岡大学の澤渡千枝教授にその生地の構成繊維と手の付着物から採取された獣毛繊維との同一性に関する鑑定を委嘱しました。その結果、駅員が着用していた制服の構成繊維が私の手の付着物から採取された獣毛繊維と「極めて類似している」との鑑定結果が提示されました。
 弁護団はこの鑑定結果を裁判所に証拠として採用するように要請しましたが、却下され、澤渡千枝教授の証人尋問を申請しましたが、これも却下されました。市川証人は付着物の獣毛繊維が被害者女性のスカートに由来するか判別できなかったと証言しており、私の手の付着物から採取された獣毛繊維は、私がもみ合った京急蒲田駅職員の制服生地に由来する可能性が非常に高いと考えます。

 検察側目撃証人は被害者の真後ろに立っていた真犯人を目撃したと証言しました。この目撃者は犯人の顔をじっと見たと証言しました。しかしながら、目撃者はその犯人が私、植草一秀だとは分からなかったと証言しました。またこの目撃者は、当時私がかけていた非常に特徴のあるセルロイド眼鏡を記憶しておらず、事件当時よりも8、9キロも体重を減らし、激しくやせてやつれた私の姿を見て、事件当時よりもやせている、やつれているという印象はないと証言しました。
 弁護団は日本大学文理学部の厳島教授に、眼鏡をかけた私の印象に関する心理学実験を委嘱しました。実験では法科大学院の学生に私の写真9枚を1枚当たり8秒ずつ、合計72秒間見てもらいました。写真は被害者の後ろに私が密着していたとの目的者証言に基づいて現場を再現して、目撃者から見える私の姿を撮影したものです。
 大学院の学生に3日後に写真について質問した結果、20人中の19人が私が眼鏡をかけていたことをはっきりと記憶していました。目撃証人は、私が持っていた傘や右肩に下げていたバッグについての記憶がなく、特徴のある眼鏡を記憶しておらず、目撃証人の証言時に私が激しくやせてやつれたことにも気付きませんでした。目撃者は私でない別の真犯人を目撃していて、被害者が振り返ったあとに被害者が指し示した私を自分が目撃した犯人と誤認してしまったのだと考えられます。

 被害者および検察側目撃証人は犯人が被害者の真後ろに被害者に密着して立っていたと証言しました。被害者はグレーのセーターを着用していたので、もし私が犯人であれば、私のスーツに被害者着用のグレーセーターの構成繊維が多数付着しているはずです。弁護団は裁判所に対して被害者着用のグレーセーター構成繊維が私の着用していたスーツに付着しているかどうかについて、裁判所による鑑定を求めましたが、これも却下されました。

 平成19年4月20日に、事件当日の当該電車に乗り合わせ、私の様子を目撃していた目撃者が名乗り出てくれました。この目撃者は、当該電車に乗車した直後に私の存在に気付き、電車が発車する時点で、私が植草一秀であることをはっきり認識したと証言しました。電車が発車してから青物横丁駅を通過するころまで、私が酒に酔った様子でぐったりとして、右手で吊革につかまっていた姿をはっきり目撃していたことを法廷で証言しました。この間、私が女性と密着していなかったことも証言しました。証人は電車が品川駅から青物横丁あたりまでを通過した時間帯に犯行があったことを法廷での証言時点でも認識していませんでした。目撃者の証言は犯行時間帯に私が犯罪行為を行っていなかったことを示したものでした。

 証人は事件翌日にニュースで事件を知り、「えっ、うそだろう。車内暴力というイメージが強かった」と思いながら、「通りがかりの通行人をして」そのままにしてしまっていたところ、平成19年1月22日に私が東京拘置所から保釈される際に、寝具などの荷物を台車に乗せて押しながら歩いている私の姿がテレビニュースで放映されている場面を見て、「何かで協力してあげればよかったと思った」と証言しました。その後、過去に私が出版した著書を入手し、出版社に連絡先を問い合わせたが分からず、その後、たまたま簡易裁判所で出会った弁護士に事情を話したところ、隣の弁護士会館に一緒に行ってくれ、弁護士会館で私の担当弁護士を教えて欲しいと申し入れたとのことでした。
 ところが、担当弁護士の連絡先がすぐには分からずに連絡先をさがしていたところ、たまたま私の会社のホームページの存在を知り、連絡を取ろうとしたとのことです。しかし、私の会社のホームページに記載されていた電話、FAX番号は平成19年4月13日ころまで利用可能な状況にはありませんでした。平成19年4月13日ころに私が会社のホームページに通信可能なFAX番号を掲示したところ、その直後である4月20日に証人からFAXで連絡が入りました。
 私が直ちに弁護士に連絡を入れたところ、弁護士は私が目撃者と直接連絡を取らないように指示しました。その後、弁護士が目撃者に連絡を取った結果、目撃者が公判に証人として出廷してくれることになりました。弁護団は証人に事件の説明をまったくしておりません。また、証人はテレビのニュースで伝えられた程度にしか、事件についての知識を有していませんでした。私は証人とはこれまでまったく面識がなく、証人からFAXで連絡を受けたのち、直ちに弁護士に連絡し、その後の連絡は弁護士から行なってもらい、また、弁護士から証人と直接接触しないように指示され、証人とはあいさつもろくにさせてもらえない状況にありました。したがって、証人が証言した内容は、紛れもなく証人が自分の目で見たことに他ならないと思います。証人として法廷に出廷することには大きな負担を伴うと思いますが、証人が純粋な正義感から多大な手数をかけて名乗りをあげてくれ、公判で証人として証言してくれたことに対して私は強い感謝の念を感じ、公判で証人が心情を吐露した際には強く胸打たれました。

 蒲田駅で電車を降りたあと、私はとにかく女性と話をさせてくれと主張し続けました。私は酔って半眠りの状態にありましたので、電車が揺れた際にバッグか何かが女性にぶつかった可能性も否定し切れませんでした。そこで、とにかく女性から話を聞いて誤解を解かなければならない、そのことだけを考えていました。警察に引き渡されてしまえば、なす術なく犯人に仕立て上げられて、悲惨な報道被害、冤罪被害に直面することは間違いないと思い、とにかく警察が来る前に女性と話をして誤解を解かなければならないと考えました。
 ところが、女性と話をすることは、私をつかまえた二人の男性と蒲田駅職員に力づくで阻止されてしまいました。そうなれば、悲惨な事態に突入してゆくことは間違いなく、家族を含めて惨事に巻き込まれるのを遮断するには自分が命を絶つ以外ないととっさに判断して蒲田駅駅務室内において自殺を試みました。蒲田駅職員が私の自殺行為に気付き、力づくで阻止しましたので、自殺は未遂に終わりましたが、この影響で私の両目は完全に充血し、充血が治るのには約1カ月の時間を要しました。
 警察に行けば一方的に犯罪者に仕立て上げられてしまい、悲惨な現実に直面するとの私の瞬間的な推理が正しかったことは、のちの現実によって証明されました。被告人質問で検察官は、「誤解を受けた可能性があったのなら、警察が来たときにそのように伝えればそれで済むのではないか」と質問しましたが、痴漢事件における警察での被疑者取り扱いの実態をまったく踏まえない現実離れした質問だったと言わざるを得ません。
 私は事件発生時から今日まで、一点の嘘、偽りを述べることなく対応してい参りました。事件当初、被疑事実をまったく知らされず、「痴漢をやった覚えはない」と述べました。9月15、16日に検察庁、裁判所で被疑事実を知らされ、はっきり「そのようなことはしていない」と述べて今日に至っています。

 私は被疑事実にあるような罪を絶対に犯しておりません。また、弁護側の目撃証人は私どもへ連絡してくれた時点が非常に遅れましたが、何らの作為もなく、純粋な正義感から名乗り出て、真実に基づいて証言された方だと思います。裁判所におかれましては、先入観、偏見を持つことなくこの弁護側目撃証人の証言を取り扱われ、無実の者が誤って処罰されないよう、法の正義に従って正しい判断を下されますよう強く要望いたします。
以上
以上です。
○神坂裁判長 もとの席に戻ってください。
     〔植草被告人、被告人席に着く〕
○神坂裁判長 それでは、以上で審理を終了いたします。
 判決言い渡しですけれども、10月16日午前10時からということでよろしいですね。
○宮崎弁護人 本日、時間内におさめようということと、わかりやすい弁論の手法をとりましたが、提出した弁論要旨に証拠を引用して詳細に記載しておりますので、ぜひとも目を通していただきたいと思います。
○神坂裁判長 はい。
 期日はよろしいでしょうか。
○宮崎弁護人 はい。
○I検察官 はい。
○神坂裁判長 それでは、次回期日は、10月16日午前10時からと指定いたします。
 本日の法廷は、以上で終了いたします。

午前11時54分 閉廷

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2007年10月 5日 (金)

植草さんの講演を聴く(「連帯運動」第6回講演・討論会)

 昨日10月4日、木曜日、午後六時半から「植草一秀・梓沢弁護士の話を聞く会」という題目の講演会を聴いてきた。植草さんが保釈されてから初めての公的活動である。当日は、現在、植草さんの弁護を担当されている野嶋弁護士さんも参加。後半は、ネットでWeb「直言」を主催される作家の宮崎学氏も参加され、意見を述べられるという予想外の展開だった。また宮崎学氏は、植草さん、野嶋弁護士さん、梓沢弁護士さん三名の司会も引き受けておられた。聴衆は全員でおよそ50名くらいはいただろうか。検証する会の見慣れた顔も何名か揃っていた。こじんまりとした講演会ではあったが中身は非常に濃いものだった。

 はじめは、植草さんご自身が巻き込まれた理不尽な事件の発生経緯や事後の逮捕状況、勾留・拘置の状況などを説明し、人質司法の異常さやメディアの奇態きわまる報道姿勢などを訴えた。その仔細はすでに「知られざる真実 -勾留地にて-」等で出ていることが大半であったが、随所に植草さんご自身の感想などが述べられていた。次は事件について、野嶋弁護士さんが、公判録のコンパクトな再現というか、植草さんや被害者、真犯人の位置、移動経路などをスライドを使って詳細に説明していた。公判を傍聴した者しか見ることのできなかった配置図などが、説明入りで見ることができて非常に参考になった。

 次は報道被害の研究では斯界の第一人者である人権派弁護士の梓沢和幸(あずさわかずゆき)弁護士さんが、権力や他の恣意が介入しない市民のためのメディアを作ることを熱弁した。煎じ詰めて言えば、梓沢氏はメディアは戦争を扇動する方向に向かうから、市民が自ら情報を共有して権力の恣意に対抗し、戦争を抑止するべきだという論調だった。私(神州の泉)の勘であるがこの見方は植草さんも等しいような気がした。宮崎学氏も現代メディア論を語ったが、彼は梓沢氏とは視点が異なっていた。宮崎氏はメディアとはもともと国民の煽情性をたきつけるというか、けっして戦争を止めるなどという方向には行かず、その存在目的は、劇場型政治(あるいはニュース)を見せつけ、冷笑主義(シニシズム)をともなうスキャンダリズムを国民に提示することにあるというようなことを語った。これは彼の友人である作家の辺見庸氏が詳しく力説しているそうである。

 ご両者のメディア論はそれぞれに深く思うところがあり、私は大いに触発された。なるほど、言われてみると、最近の我が国のマスメディア、特に小泉政権下の新聞、テレビの論調にご両者の語られた面が顕著に現われていると思った。私は自衛隊のイラク派遣の名目である人道支援は嘘であり、実体はアメリカへの傭兵的参戦だと考えている。また、植草さんが「知られざる・・」で書いているように、マスコミはいじめの構図で個人を狙ったが、その性格はニュースの伝達ではなく、植草さんという個人の名誉を徹底的に毀損し、冷笑し、嘲笑する目的で報道したとしか思えないところがあった。宮崎氏の言うように植草さん報道には究極のシニシズムが見られる。

 最後の質疑応答の場面で、宮崎氏の司会で会場からの質問を振った時、私は本記事でも書いたMixiの例の記事が、なぜ公判で却下されたのか、野嶋弁護士さんに訊ねてみたが、彼の答えは、残念だが私の期待とは異なっていた。曰く「準備が整っていなかったから」であった。もう一つ、野嶋氏の言われたことで気になったことは、第二回公判に出廷した検察側の目撃者が、逮捕者について吐いた「私服の男性」発言について、傍聴者の中には、この「私服」があたかも私服警官のように語っている人々がいるが、それは間違いであり、彼(k氏)はデザイナーであり、あくまでも一般人であることを強調した。

 私は植草さん事件の背景を国策捜査で位置づけている。植草さんが逮捕された翌日から国策捜査論をブログで展開している人間である。私は応援者の手前、面と向かって弁護団の弁護方針に異を唱える気持ちは毛頭ないのだが、「私服の男性」についての私の見解は初期から一切揺らぐことはない。確定的に断言できるわけではないが、「私服」発言は国策捜査論の重要な含みを持つキーワードであることは間違いない。私の思いはこうである。もし今の公判戦略である「誤認逮捕説」を裁判官が認めなかった場合、加えて弁護側証人の信憑性を否定する裁定を下した場合、植草さんは公判事実として有罪になる。そうなると権力に迎合したマスメディアが鬼の首を取ったように植草さんを嘲笑いながら叩き潰すことは目に見えている。しかし、目のある人は覚醒しており、植草さんの真実を見抜いているはずだ。こういう方々を一人でも多くするために私は国策捜査論を継続しなければならないのだ。誤認逮捕説を否定するわけではないが、公判でその選択肢が無効になった場合、植草さんを凄惨な報道被害にさらすわけにはいかないのだ。もし、私(神州の泉)が小さなこと(可罰的違法性)で逮捕された場合、その事実そのものが植草さんの国策逮捕を証明することになることを断言しておく。私には私の役割がある。これを否定する相手がどなたであろうとも国策捜査論を私自身が翻すことはあり得ない。

 最後に、昨日の講演会はいろいろな意味で意義深いものがあった。聴衆の少なさは問題ではない、講演者がしっかりと種まきをすることが重要だと思った。本当に濃い内容の講演会だった。帰りは検証する会、その他の人も交えて一杯呑みながら講演内容を話し合ってから別れた。私のブログはアクセス数が少なく、数からすれば大した影響力はないと思うが、それでも国策捜査を計った連中にとっては目障りなものだろう。そこで判決前の今の時期、神州の泉の人間性を貶めてコケにすれば、このサイトの信憑性はがた落ちとなる。だから私は被害妄想と言われてもいいのだが、本気で植草さんと同じ偽装痴漢事件に嵌められることを危惧した。帰りの電車では真剣に警戒を怠らなかった。もし、私が迷惑防止条例違反で捕まったら、「植草被告の熱心な応援ブログの管理者は痴漢だった!!」などという刺激的なタイトルで、ここぞとばかり報道するに決まっている。それは結果的に植草さんの判決に不利になることであり、国策捜査論の可能性を否定する印象報道へと直結する。

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2007年10月 3日 (水)

「月刊日本」に載った植草さんの記事を紹介する

10_3   植草さんが「月刊日本」10月号で、「小泉・安倍」改革路線と決別せよ!」という題名で投稿している。この中で植草さんは、安倍首相が所信表明演説を行なった2日後、代表質問の直前に前代未聞の退陣表明を行ったことに触れ、参院選で自民党が大敗北を喫した意味を正しく検証すべきだと言っている。彼は言う。表面的にしか物事を見ようとしない人々は、参院選での自民党大惨敗の原因を、

1)消えた年金問題
2)相次ぐ閣僚の問題発言
3)「政治と金」問題の噴出

 としか捉えていない。しかし、この見方はあまりにも皮相的であり、国民は安倍政権後期に噴出した種々の問題に対する安倍首相の問題解決能力を冷静に眺め、その結果が参院選の結果に出たと言っている。より本質的な問題は、有権者が過去七年余りの政治運営について審判を下したのだと。私(管理人)もそう思う。植草さんはさらに言う。小泉政権の本質的な間違いは、財務省主導の超緊縮財政がマクロ政策的に失敗していること。また、竹中平蔵氏は頑張った人が報われる社会を作ると標榜したが、竹中氏がその頑張った人のモデルの筆頭に上げたのが、堀江貴文ライブドア社長だった。竹中氏の言う「頑張った人」とは、地道に勤勉に働く人ではなく、M&Aなどの金融技術を駆使して、手段を問わずに金融市場の間隙をついて巨万の富の獲得をする人物のことだった。(神州の泉流に言うなら、「頑張った人」とは仮想的なマネーを器用に移し変えて虚業に邁進した人のことなのか)

 小泉・竹中構造改革路線が、その中心にすえた郵政民営化関連法案は、米国政府の意向に隷属して決められたものである。彼らの推進した構造改革はその目的が国民利益ではなく、米国の国益のためだった。参院選の自民党惨敗は安倍首相の統治能力に対するノーではあったが、本質は過去七年間の清和研究会(=自民党町村派)の政治姿勢に対する有権者の審判であった。小泉・竹中路線の罪は、高齢者、低所得者、母子世帯、障害者、中小企業に冷酷無比な政策を展開したばかりか、保険料や税金で国民負担を増大したことにある。その一方では自己責任原則をいとも簡単に放棄して大銀行を救済したことにある。弱者に強圧的で強者には保護的な政策を遂行するという、まさに典型的な弱肉強食の形を取った。

 植草さんはこの小論の中で、小泉・安倍改革路線と訣別せよと言っている。今の日本は中国製品の世界進出に対抗するために労働のIT化を急激に進めた。その結果、産業革命時に急激に勃興した機械化が、伝統的な職人を駆逐したことと同様な現象が起きており、多数の中間層ホワイトカラーを没落させてしまった。そのために主力多数だった中間層が没落し若年の非正規雇用者が格差に苦しんでいる。緊急的な政策としては労働法制を急いで整えて非正規雇用を拡大する利得を企業に与えないこと。もともと小泉・竹中路線には分配の公正性が欠落しており、あきらかに国民利益ではない非情な国民毀損の形を持っていた。ここまで、国民生活や中小企業を徹底的に毀損した改革の正体を、国民は感づき始めたが、まだマスコミはそのことをきちんと報道しないし、国民にこのまやかしの構造改革の総括を行なう気運が生じていないのだ。まだ四割近い人々が小泉純一郎氏を英雄的な改革者だと間違った思い込みをしているのだ。(このお人は稀代のペテン師宰相だっつーのに!やれやれ!)

 植草さんはまた、日本のメディアが偏向していることを書いている。NHKさえもその例外ではないことなど。最後には日本の司法制度が腐っていることを書いている。起訴有罪率99.パーセントの刑事裁判はどう考えてもおかしいこと。嫌疑を認めろ、否認したら勾留は続くぞという脅しを入れた人質司法がいかに異常であるかを訴えている。月刊日本に書かれた植草さんの記事は多くの人が読むべきである。小泉手法が国民に対して、いかに凄惨で無慈悲なものだったかよくわかる。

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2007年10月 2日 (火)

「民にできることは民に」というコピーの危険性!!

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 読者のJAXVNさんからも貴重なコメントを寄せていただきました。

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(JAXVNさんコメント)

こんにちは。
あの「郵政解散」の時小泉首相(当時)がなんと言っていたか確認したいと思い調べてみました。

「小泉内閣メールマガジン「「らいおんはーと~小泉総理のメッセージ」
[2005/08/11-08/18]第200号
(中略)
 郵便局の仕事は本当に公務員でなければできないのか?役人でなければできないのか?私はそうは思いません。「大事な仕事だから公務員でなければだめだ。」と言う人がいますが、それこそまさに官尊民卑の思想です。それは民間人に失礼だと思います。

 郵便局の仕事は民間の経営者に任せても十分できる、むしろ、民間人によってこの郵便局のサービスを提供していただければ、今よりももっと多様なサービスが展開できる、国民の利便性を向上させる。民間の経営者は、国がこういう商品を出しなさい、こういうサービスをやりなさいと義務づけなくても、国民に必要な商品やサービスを展開してくれると思います。

 私は、「この郵政民営化よりももっと大事なことがある。」と言う人がたくさんいることも知っています。しかし、この郵政事業を民営化できないでどんな大改革ができるというんでしょうか。私は、前々からこう言っているんです。「行財政改革をせよといいながら郵政民営化に反対することは、『手足をしばって泳げ』と言うようなものだ。」と。

 本当に行政改革、財政改革をやるんだったら、郵政民営化の実現なしには進められません。郵政三事業には約38万人の公務員が携わっている。私は、これを民間人に開放するべきだと言っているんです。私は、郵便局は国民の資産だと思っています。過疎地の郵便局もなくなりません。今の郵政三事業のサービスは、民間人に任せても、地方においても、過疎地においても維持される、十分にできます、ということを言っているんです。
(後略)」
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/yuseimineika/mm/050811mm-lion.html
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 今はどうでしょう。過疎地の郵便局はどんどん減らされています。ATMも撤去されています。各種手数料は大幅に上がりました。どこか民営化で便利になった所なんてあるのでしょうか?
 でも小泉氏は、また「この程度の公約違反は大した事ではない!」というのでしょうね。 しかしこの発言は、本当は政治家としては絶対に言ってはいけない発言のはずなのですが、あの当時のマスコミはほとんど問題視しませんでした、いまだに不可解でなりません(まあスポンサー(=米国)の意向だったとは思いますが)。

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(管理人)

 JAXVNさん、有益なコメントをありがとうございました。しかし、小泉氏のワンフレーズポリティクスは無茶苦茶なものが多いですね。こんな知性のかけらも感じられないキャッチコピーも、繰り返すと効果絶大なことはナチのゲッペルズが証明しています。小泉氏は下記のように言いました。

>「大事な仕事だから公務員でなければだめだ。」と言う人がいますが、
>それこそまさに官尊民卑の思想です。それは民間人に失礼だと思います。

「官尊民卑」とは無茶苦茶な論理です。重要な仕事だからこそ「官」に任せることが我が国の伝統です。何でもかんでも民営化論は、大きな政府から小さな政府への究極的な移行を目指すものです。日本人はこの意味がほとんどわかっていないと言うべきでしょう。あらゆるものから国家の管理、国家の統率を外せと言う考え方です。これがネオリベと言われる新自由主義なのです。行き着く先には国家が存在しなくなる。無政府主義が蔓延する無秩序な領域になるわけです。フリードマンの「政府からの自由」という思想は、煎じ詰めれば国家の解体です。ですからこの六年間に行なった制限なき規制緩和・撤廃は国家の存在形態を弱める方向に変えているのです。数々の規制というものは然るべき理由と必然性があって出来上がっています。実はセーフティネットもこの考え方によって守られてきました。従って、規制を緩和したり撤廃する時は、正当な思想性と最大多数の幸福を維持するためにという総合的な観点が欠落してはなりません。一部の特権階級のための規制緩和であってはならないのです。小泉構造改革の欺瞞性はここにあり、推進派には公的理念が欠落しているということです。ただし、本当のことを言ってしまえば、公益感覚とは正反対、特定の権益者のためだけに行なわれた日本改造計画だったのです。

 耐震偽装問題や福祉、大規模な災害救助、防衛などには、民間ではできない、民間でやってはならない性質のものがあるのです。やるとしても補佐的な範囲であり、中核は国家の監督が行き届いていなければならないものがあります。郵政事業は日本の隅々まで行き届いた非常に細やかな国家体制だったのです。言うならば国家の神経ネットワークでした。これを官尊民卑の妄言で破壊するとは正気の沙汰とは思えません。何のための国家でしょうか。

 小泉氏が「官尊民卑」などと、単純化した劇場パフォーマンス的な言葉で目指すものの向こうには、明らかに国家解体の意志があります。だからこそ私は彼をリフォーマーと呼ばずにデストロイヤーと呼ぶのです。日本国民は知らずして日本を憎悪する人間を六年間も宰相の座に着けていたことを知るべきです。

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2007年10月 1日 (月)

読者テツさんの悔しさ

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 郵政民営化初日をむかえ、今日の私は一日中不愉快な思いをしていた。同様に、私のブログの読者であるテツさんも、悔しさがいっぱいにじみ出ているコメントを寄せてくれました。

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たびたびすみません。

昨日読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」で、パネラーのほとんどが郵政民営化を肯定する発言をし、そこまでならまだしも辛坊氏が特定郵便局長という職業に対して次のような侮辱発言をしていました。そして関岡さんの年次要望書に対する見解をも陰謀論として片付けていたニュアンスに満ちていました。

「庭先に局舎を建てて郵便局をはじめるといえば、家賃がもらえて自分が国家公務員になれる。息子のできが悪くて就職先がなければ、局長にさせればいい・・。」
まさに、戦後の財閥解体や農地解放に対する肯定論につながる既得権益者批判であり、侮辱であったと思います。
 さすがにやばいと感じたたかじんが、即座にフォローしてはいましたが・・・。

 特定郵便局が地方にとって果たしてきた役割・自己犠牲についてはまったく理解がされておらず、単なる既得権益者としての見方しかできない見識に失望しました。局舎料をもらっていると辛坊氏は言っていましたが、そこにいたるまでに投じた私財(土地・局舎)、そしてお金には変えられない地域の老人の世話や村の会計、本来ならば役所がやるべき皆がやりたがらない役職まで、無償でこなしている局長さんの方が多いこともぜひ知っていただきたく思いました。地域のために尽くす使命感なくしてこんな仕事はできません。ジャーナリストが取り上げる経済的観点以外の部分で国家を縁の下から支えてきたことを辛坊氏はじめ、出演者たちに知っていただきたいと思いました。しかし、いつも日本の自立を叫んでいる金美麗さんまでもが民営化を肯定しているのですから救いようがありません。郵政民営化論議は保守の実相をみごとにえぐりだしました。この2年半のあいだになんと多くの保守といわれている者のめっきが剥がれたか。
三島由紀夫が言った言葉「・・・日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東の一角に残るであろう。」この通りに日本はなっていくのですね。今日の番組を見て、日本人なら当然持っていた情緒の喪失を実感いたしました。

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  (管理人)

   テツさん、こんばんは。

 まったく悔しい話ですね。140年の整備と伝統を誇る郵政事業を
市場原理一辺倒の価値観でくくり、郵政事業が果たしてきた重要
な国家的インフラを完全に無視した今回の暴挙、そしてこれを歓迎
する自称保守連中の醜悪さ、日本もここまで落ちたのかという思い
でいっぱいです。

>地域のために尽くす使命感なくしてこんな仕事はできません。

 まったくです。私は特定郵便局が地域の重要なインフラになり、
ご老人が社会との接点を求め、安心して「公」の空間との連続性を
確かめる場所でもあったと考えます。郵便局の職員さんが風雪を
越え、どんな山奥でも一生懸命配達してくれた努力は、過疎地に
住むご老人に暖かい人間の息吹も運んでいました。能率主義、効
率主義とは違うものも国民には必要です。

 特定郵便局という地域空間は、そういう触れ合いが日本人の郷土
愛涵養に役立った功績は非常に大きいと考えます。このような日本
風土を根こそぎ否定する思潮こそが、この日本を滅ぼすのです。


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アニマルファームで悲しい目をしたニワトリ

  ついに郵政の民営化がスタートされた。何とも言うべき言葉もない。テレビでは民営化の記念切手を求めてきた人たちの列が映し出されていた。あなた方は亡国を記念する切手が欲しいのか?悪夢が正夢となった気分である。今日を待っていたように、空転していた国会が午後に開かれる。そこで自分の悲哀観をこめて寓話風に書いてみた。

 世界が帝国主義覇権の時代、東洋のちっぽけな国・日本は急速に軍事力・国力を上げてきて、高性能の軍艦まで保有するようになりました。くわえて満州帝国に築き上げた大鉄道の権益分与を申し出たアメリカを蹴りました。怒ったアメリカは四方からこの小さな国を経済的に閉め出す作戦を行い、ハル・ノートを出して日本を怒らせ、日本から開戦を引き起こさせました。

 しめた!と思ったアメリカは日本を叩き潰す口実を得て、予定通り三ヶ月で属国化しようとしました。ところが先人たちの戦闘根性は生易しいものではありませんでした。乏しい物量で三年八ヶ月も戦い続け、しまいには特攻と玉砕をやってアメリカの心胆を冷やしました。占領後、アメリカは二度とこのような国とは戦いたくないと思い、日本から徹底的に周到に「牙」を抜く算段を施しました。それが極東国際軍事裁判(東京裁判)という日本極悪論を根幹に据えた私設裁判でした。財閥、軍閥を解体され、憲法的にも牙を抜かれた日本は、東西冷戦の中で米国の庇護の中で経済に専念しました。米国の核の傘下でぬくぬくと経済成長に邁進し、宗主国の米国さえ脅威に感じさせる工業製品の創出や輸出に飛びぬけた実力を示しました。

 東西冷戦が終焉し、軍事ヘゲモニーが米国一極に集中した時、米国は覇権主義を軍事から経済にシフトし、本来の狩猟民族の本性をあらわにして世界各国から富の収奪を始めました。グローバルスタンダードというチンピラ標準を掲げて。その際、自国の経済に対し最も脅威を抱かせた国が、なんと自分の植民地である日本でした。過去に二回も原爆を落としてとことん弱らせ、負け犬根性を持たせた国です。軍事的に潰すのはわけがありません。いつものようにチンピラらしい難癖をつければいいだけなのです。工業用輸出品を取り上げ、これは軍事転用できるじゃないかなどと言いながら、日本はテロ支援国家だと決め付けるだけでいいでしょう。フセインさんのイラクと同じことをやればいいだけの話です。日本を悪の枢軸国ときめつけ、やっぱり日本は国連憲章敵国条項に謳われている通り、悪い国だったんだぁ~と言って核攻撃すればいいのです。しかし、彼らは脅威の高度成長を成し遂げた植民地を見て、日本民族とは何という素晴らしい家畜だったのだろうかと感心しているのです。日本国家を壊滅させるよりも、親切な同盟国の振りをして金の卵を産む鶏である日本から、金の卵を手際よく騙し取る計画を思いつきました。それがプラザ合意の主旨であり、昨今では年次改革要望書なのです。

 この寓話の中で一番の問題は、生態圏の頂点に位置するイヌワシが、自分をひ弱なニワトリだと思い込んでいることです。しかも過去に他国のニワトリを襲ったいわくつきのチンピラ・ニワトリであると思い込んでいることです。誇り高いイヌワシを東京裁判で洗脳してチンピラ・ニワトリだと思い込ませたのはアメリカというアホウドリです。大東亜戦争以後の日本とは、イヌワシの日本が米国によって家畜化され、こつこつと金の卵を産んでも、それが全部米国というアホウドリに収奪されているという現実があります。日本人は二つの実相に気が付かなければいけません。一つは自分たちが誇り高いイヌワシであること、もう一つは日本の戦後史は、日本という国家がアメリカのアニマル・ファームにされていることです。金の卵が一個や二個アホウドリに持っていかれるなら我慢もできるのです。しかし郵政民営化で膨大な金塊となった金の卵を一気に持ち去られる事態が今起きています。これが完全に持ち去られた場合、ニワトリは再びイヌワシに戻ることはできないのです。民族の自己同一性を回復し、アメリカの家畜・奴隷状態から抜け出るには精神に再び、民族の尊厳性という矜持を取り戻すことです。



(日本国憲法前文より)
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 日本人がどう思おうとも、国際社会は冷徹な社会ダーウィニズムで動いています。憲法の前文は虚構であり、お人よしの日本人はこの幻想にしがみついています。誰が他国の防衛を面倒見てくれるでしょうか。莫大な用心棒代をせしめても、いざ戦闘になった時、アメリカが日本のために命をかけてくれるはずがありません。ましてや自国権益の足場を築くために、イラクに大量破壊兵器があると嘘をついて滅茶苦茶な軍事侵攻をやるような国が、日本を守ってくれると本気で思っているのでしょうか。同盟国のよしみで日本を守るどころか、日本人がこつこつと額に汗して貯めた数百兆円の国民財産を奪う国に、日本人はなぜこうも親愛の顔を向けているのでしょうか。完全に喰われる前に真相を見究めて真に生き残るグランドデザインを描くべきではないでしょうか。キリスト教国家と言えば、何も知らない日本人は、新約聖書にあるあの美しい「山上の垂訓」を思い浮かべ、米国も基本は敬虔なキリスト教国家なのだから、最終的には悪いことはしないだろうと考えます。しかしこの国の実体は麻薬と暴力に汚染されたカルト国家です。聖書的に言うなら、ソドムとゴモラを合併させて百倍した背徳の国なのです。

 冷静に実体を見てください。青息吐息になって降伏をさぐっていた日本を嘲笑いながら二度の原爆投下を行い、密約でソ連に参戦を認めた。彼らに友情や信頼関係を置くのはどうみても間違いなんです。岡崎久彦さんのような感覚では自殺行為となるだけです。それよりも実相を冷静に見究めてアメリカと対峙し、喰われないように国家のサバイバルをはかっていくべきでしょう。

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2007年9月30日 (日)

郵政民営化開始は国家の危急存亡局面である

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  今日は9月30日、ついに明日、10月1日から郵政民営化が予定通りスタートすることになった。眼前に迫る危機に気が付かず、相変わらず眠りこけている大多数の国民の中で、売国自民党がアメリカの犬に成り下がり、参院選後の国会開催を潰し、郵政民営化凍結法案の芽を潰すことに躍起になり、それは現段階で成功している。9月25日の植草さんのコラムでもこのことに言及しているので以下にその部分を引用する。

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自民党総裁選は9月14日の段階で、麻生派を除く自民党の全派閥が福田康夫氏を支持することを表明したために、福田氏の総理総裁就任の流れが決定的になった。そうであれば、自民党は迅速に後継総裁を決定すべきであった。ところが、自民党は総裁選の日程を9月23日に設定し、新政権の発足は9月26日にずれ込んだ。参院選直後に安倍首相が辞任していれば、8月末には国会を召集できたはずである。ほぼ1ヵ月の政治空白を生んだ責任はひとえに自民党にある。

 ところが、メディアは自民党総裁交代、新内閣発足を一大国民的行事として批判的視点を完全に欠如したまま報道した。参院選で有権者は安倍政権に対して明確にNOを突きつけた。NOの意味は、小泉・安倍政権の基本政策に対する評価であったと判断できる。小泉・安倍政権の政策路線に対する明確な総括を示すことが政府、与党に求められている。
 今回の突然の安倍政権総辞職、福田新政権発足の大混乱を政府、与党が狡猾に利用していることを明確にしておかなければならない。三つの大きな問題にしっかりと光を当てなければならない。第一は、9月に1ヵ月の政治空白が生じたために、郵政民営化を凍結する法案の審議が極めて困難になったことだ。
米国は力づくで、郵政民営化の10月1日実施を確保しようと注力したと考える。郵政民営化凍結法案の民主党と国民新党とによる共同提出が民主党の反対で見送られたが、民主党にその真意を糺す必要がある。
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 植草さんが指摘されているように、8月の参院選惨敗時に安倍前総理が辞任していれば、9月の国会審議は通常通りに開催されたのだ。ここで憂国心情派の国民新党が「郵政民営化凍結法案」の重大さをぶち上げてくれたら、国家存亡の重大事であるこの民営化は見直される気運が生じたかもしれないのだ。返す返すも慙愧の思いが走って仕方がない。安倍氏が突然辞任を発表した時、私やジャパンハンドラーズさんが、この辞任劇の真の底意に気が付いた。それは郵政民営化に対して国民に疑念の念を抱かせずに10月1日を迎えるためであった。私は財団日本相撲協会の横綱朝青龍の問題をマスコミが執拗に取り上げ続けたのも、郵政民営化凍結の気運から遠ざけることに一役買っていたような気がする。時津風部屋のリンチ死騒動もそうかもしれない。とにかくこの時期のマスコミの論調は恣意的に何か重大なものを押し隠すように働いていたことは確かである。その中心が安倍氏の辞任劇であり、最もタイミングが不自然な総裁選なのだ。このように9月のメディアの動きは異常なものだった。郵政民営化は本当に危ないのだ。

 喜八ログさんの最新記事から引用しよう。

「郵政民営化」はノンフィクション作家関岡英之さんの言葉を借りて言えば、「対米迎合派」対「国益擁護派」の戦いの場です(小泉・竹中がしきりに喧伝した「改革派」対「守旧派」の戦いなどではなくて)。そして私は「郵政民営化」は「対米買弁派」と「国民生活防衛派」による決戦場だと考えています。ブログ「神州の泉」さんは「関が原の戦場」にも喩《たと》えられています。

 私が今の局面が関が原の戦いだと思っているのは、郵政民営化が国家の危急存亡時に該当すると考えるからだ。表層的には郵便事業のユニバーサルサービスの低下が懸念されているが、真の恐怖は国民の共有財産である簡保と郵貯資金、併せて350兆円が国債分を除いて海外に流出する危険が迫っているからだ。日本の国富を狙う大もと的存在と、それに手を貸す買弁政治家たちの真の狙いは民営化ではない。ずばり言ってそれは郵政公社の分社化なのだ。これについてはまた記事を書くつもりである。

尚、植草さんは2005年の12月に出版した「ウエクサ・レポート」のvol・25の「サムライVS代理人の政策論」で次のように言っている。関岡英之氏の「年次改革要望書」を主題とした「奪われる日本ー年次改革要望書米国の日本改造計画」と同様の視点で、1991年の「中央公論」に「バブル崩壊後日本経済の行方」という論考を寄稿した。私神州の泉の考えなのだが、植草さんはすでにこの時点辺りで、要注意人物として米国に目をつけられていた可能性がある。この時期クリントン大統領は日本を素通り(パッシング)して中国を訪問し、日本との外交関係を軽視したが、一つだけ彼らは日本に重大な関心を持っていた。それが日本の金融分野である。フリー、フェアー、グローバルのキャッチコピーは米国からもたらされたものであり、日本の金融市場の規制を取っ払うものであった。その結果、ご存知のように金融ビッグバンが実現され、日本金融市場は無理やりこじ開けられる形になった。郵政民営化はすでにこの時点で明確に計画化されていたに違いない。

 1993年の宮澤ークリントン会談で年次改革要望書は合意され、翌年の1994年に最初の年次改革報告書が出されている。少し不思議なことがある。2005年の8月、民主党の櫻井議員の「民営化は米国からの要望に配慮したのか」という質問に対して、小泉純一郎氏は「私はアメリカが言い出す前から民営化を説いてきた」と答えている。最初の1994年の年次改革報告書が出されたのがその後続いた通例的な10月だとすれば、その前の9月には小泉氏が「郵政省解体論 「マルチメディア利権」の読み方」という本を出しているのである。ほぼ同時期だ。これは小泉氏が単独で郵政省解体論を考えていた時期と奇しくも一致しただけなのか?それとも米国からの何らかの接触が小泉氏にあったのだろうか。

 もっとも郵政の簡易保険に関して、年次改革要望書に初めて出てきた年月日は1995年の11月だった。関岡氏によれば、そこには「郵政省のような政府機関が、民間保険会社と直接競合する保険業務に携わることを禁止する」とあったらしい。米国は日本が国営として営んでいる郵政事業、特に簡保に関して、前提としていきなり官営を廃止して、民間会社に開放しろと要求を突きつけたのだ。小泉氏が口角泡を飛ばして繰り返した言葉、「民に出来ることは民に」のロジックの淵源がすでにこの時期の要望書に見受けられたのだ。そして前掲の小泉氏の「郵政省解体論」の出版、これらは何の関連性もなく出てきたことなのだろうか。小泉氏は1992年にすでに郵政民営化を唱えていたが、この年は宮澤喜一内閣の郵政大臣の時である。宮澤内閣と言えば、クリントン大統領との会談で年次改革要望書を合意した内閣であることは示唆に富む。確かに米国の要望よりも小泉氏の民営化論が先行しているのだが、鳥瞰的なタイムテーブルで眺めると、小泉氏と米国の要求はほぼ同期しているように見えるのは私だけなのだろうか。

 私は米国と、かの国に魂を売り渡した買弁政治家連中が10年後の完全郵政民営化を悠長に待っているとはとても信じられないのだ。彼らの切迫した目的は、民営化そのものではなく、郵政公社の分社化にあるのではないだろうか。今、そのことを調べている最中である。私には今の時期がさしあたっての国家危急存亡の局面であるという直感がある。何と言うか、切迫した危機感がどうしてもぬぐい切れないのだ。

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メディアの暴走、司法の歪みを許容する国民性の深層を考えてみる

 弊記事「鈴木淑夫氏(前衆議院議員)が植草氏の国策捜査疑惑に触れる!」に関して、ある読者の方から下記の貴重なコメントを頂いた。日本人の国民性について少し感じるところがあったので、これに管理人の愚考を加えてみたい。

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  はじめてコメントさせていただきます。

>政権交替の不在こそが、日本の社会をここまで腐敗させるような司法とメディアを作り出した根本の原因だと思う。

私は、むしろ生活優先の日本人の行動様式に問題があると思います。

職業生活において、権力者に圧力をかけられた場合、生活の糧である今の地位を捨てる覚悟で、その職業上の使命、職業倫理を貫こうとする人が、先進国といわれる国と比較して、日本には少ないからではないでしょうか。「長いものには巻かれろ」、「泣く子と地頭には勝てない」等の格言にそのことは表れています。

また、万年与党とは無関係の某巨大宗教団体に対する批判的な記事が、その団体からの広告収入に支えられているマスコミが報じない事を見ても明らかです。

使命、倫理を貫き通そうとすると自らの生活を犠牲にしなければならない事態が起り得る、そういうことに多くの日本人は耐えられないのでしょう。

その点、一神教の精神世界に住んでいる人は、神の意思を実現する事こそが正しい事だと思うことができるので、管理人様が書かれているような評価になるのだと思います。

今回の参議院選挙の最大に問題が「年金」であった事が日本人の精神性を象徴しています。

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  この方は日本人の民族性を非常に興味深く指摘している。現在、我が国メディアの暴走的な権力志向と、司法に深刻なる「いびつ性」が生じた原因は、日本人の生活優先の行動様式にあると喝破されている。確かに現象的にはその通りなのである。生活の糧が何よりも優先され、職業倫理観や社会規範がおろそかにされるきらいが国民の大多数にはある。ただし、問題はこれが戦後顕著に表層に現われた国民性なのか、あるいは戦前、かなり時代を遡る以前から培われていた日本人特有の庶民キャラなのかということにある。

 素人的に解釈すると、私はまず豊臣秀吉の百姓に対する兵農分離策、いわゆる「刀狩り」を思い起こす。思考の方向性を明確にするため、作業仮説として敢えて国民の階級を、わかりやすいように、おおざっぱに働く者と護衛する者に無理に二分すると、お百姓さんと武士階級に分けられる。もちろん実際は多くの職能階級があったのだが、思考実験なので、これを職能的に二分して、農業階級と支配者階級というふうに単純に分けて考えてみようと思う。このような粗暴きわまる階級観を使うことには抵抗があるが、この二分法は煎じ詰めて言えば、支配者と被支配者という人類に普遍的な原型素描となる。被支配階級の農家は武士や支配者に楯突かないように教育されるが、秀吉の時代は飢饉や悪徳地頭などの影響で百姓一揆が勃発することがしばしばあった。権力者としては、そのリスクを少しでも軽減させるために、お百姓さんが銃刀を所持することを禁じたのである。さらに明治維新では廃刀令が出され、大東亜戦争直後にはマッカーサー連合国総司令官が、日本の軍部解体を行い、それにともなって武器、及び伝統的な武道すべてを廃止した。これも刀狩りである。日本人には歴史的に為政者(支配側)に刀狩りされることによって、性格が従順というかお上に楯突かない精神構造が出来上がっているように思っている人は多い。伝統的に庶民はデフォルトで精神の武装解除を施されているのだ。

 と、このように単純化して言ってしまえば、私の頭はマルクスの階級闘争史観そのものになってしまう。(笑)本当のところ、私はその外来の階級闘争史観なるものは日本民族の伝統的構造には思いっきり不整合だと考えている。日本という国はフランス革命のように民衆が支配者の抑圧に対して決起するという構図は原理的に生まれようがない国である。もちろん百姓一揆やその他の反乱は多々見られるが、海外に比べればその血なまぐささはいたって少ない。つまり他国のように社会ダーウィニズムを基調とするバーバリスムとしての反乱・決起はほとんど見られないといってよい。その証明は明治維新を成し遂げた事実によく出ている。たとえば江戸城の無血開城などもその事例だ。支配者の飽くなき抑圧、一見そのように見える民衆の抑圧形態は、日本の場合、実は抑圧ではなく一種の共同体志向から由来していると私は思っている。つまり農耕民族のアーキタイプと、天皇を戴くシステム(体制)が長く続いてきたために、日本人の統治感覚、被統治感覚は「和の共同体志向」がその中核を成しているのだ。

 最近は特に思うのだが、もともと国民とお上の関係は西欧で言うところ抑圧を基盤とした統治形態とは本質が違うと。つまり、日本人の統治原理は力の論理ではなく、和の論理である。これは聖徳太子の十七条の憲法が多大に影響を及ぼしてきたということだろう。文化的にそのことを端的に証明するものはあの「萬葉集」であろう。一つの詩文の世界に、天皇から世俗の人間まで身分の貴賤上下が分け隔てなく編集されている。つまり、日本民族とは、観念や情緒、人間の存在論的なレベルにおいては平等なのである。なぜこういう民族性になったかを分析することは有益なのだが、それは本論を外れる。本論のテーマは現代マスコミの独断性や暴走、そして司法の偏頗性をなぜ国民が受容しているかにある。

 日本という国はマックス・ウェーバーの言うように、プロティスタンティズムの世俗内禁欲が資本主義の原理を健全に稼動させたという作業仮説は絶対に適用できないところがある。ところが知識人たちはなぜかこの「プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を好んで取り上げ、日本論にも適用しようとする人が多い。私もかつてそんな気分になったこともあるが、最近は根本思想においてこの見方は疑問に思っている。なぜなら日本民族は欧米諸国とは存在原理が異なるからである。ルターに始まるキリスト教プロティスタンティズムを基盤とする西欧は、資本主義を支えたエートス(倫理規範)が神との契約概念で成立しているという蓋然的な了解があるが、我が国にはそのような契約概念は存在しないし、出てくる土壌もまったくない。天職と心得る職業に就いた場合でも、それが神の御意志の顕現として労働するという感覚は存在しないのだ。

 しかし、大東亜戦争後、焦土と化した国家を驚異的な短時間で復興し、奇跡と言われた規模の資本主義的社会を形成してしまったことは近現代史の紛れもない事実である。この驚異的なダイナミズムがキリスト教倫理に似たようなもので衝き動かされたとは到底信じがたい。日本的なるエートス概念、それが仏教か、儒教か、神道的エートスなのかと問いかけることはまるっきり無駄な作業だと思う。むしろ、大東亜戦争にしろ、戦艦大和の建造にしろ、戦後の高度経済成長しろ、日本人が引き起こす巨大なダイナミズムは宗教的内発性とはまったく違うものであることを認識するべきだろう。私はそれこそが「和を以って貴しとなす」の共同体原理だと考えている。

 それを展開することは本論の主旨ではないので、マスメディアの横暴を許容する国民性を指摘したい。「長いものには巻かれろ」、「泣く子と地頭には勝てない」、「親方日の丸感覚」等の言葉は、この共同体思考から来ていると考えて間違いない。日本人の規範感覚の要諦は相手と喧嘩しない、恨まれない、相互謙譲である。これが田んぼの水利権争いの平和的な解決から、やむなく生み出された社会規範だとしても、長い時間にDNAに刻み込まれ、民族の原型的性向となった。さてこれからが本論である。圧倒的多数の日本国民がマスメディアや司法の横暴に鈍感なのは、この原型的共同体思考が権力者たちに対しても適用されるからである。つまり、日本人はすべての国民が高貴な精神性を宿しているために、けっして力の強圧による隷従隷属を受容しないところがある。形式的にはその形態を固守したとしても、精神のアーキタイプが萬葉集に出ているように他者と自分は存在論的に身分差別を認めないのである。そのために、主従関係が成り立っても、互いに相手を敵視しない精神土壌が出来上がっているのだ。そうでなければ赤穂藩浪人の敵討ち騒動は起きないわけである。

 つまり日本人は権力者に対しては従順に見えても、その抑制は基底精神で権力者と自分には平等性が担保されていると確信しているのである。原始的な捉え方をすれば、日本人にとって権力機構とは、共同体原理を束ね、それを存続させる求心力なのである。この感覚で現代人もマスコミを眺めているので、マスコミの恣意性や誘導性に対して無感覚なのである。だからこそ、マスコミを牛耳る権力者は日本人の民族性向を正確に捉えて好きなように洗脳しているのだ。彼らは日本人の平和志向を逆利用して世論コントロールを行なっているのだ。非常に奸智に長けていると言える。繰り返すが、和の共同体志向とは、おそらく、狭い土地内で耕作地の水利権を争ううちに、喧嘩して奪い取るよりも、あい和して微妙な棲み分けを考えた方が都合がいいということになったのだろう。こういう有徳の国民性を利用して、映像や音声、あるいは文字で好き勝手に日本人の社会感覚を左右している存在には心底怒りが湧いてくるのだ。

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植草氏が遭遇した偽装事件の真実


植草事件の真実―植草氏は無罪だ(Z氏の考察)

(検察側証言者の証言は作為と誤謬に満ちている)

 「事件」発生時の車内の様子はどうだったのか。いろいろな情報が錯綜し混乱しているがこれも当然のことである。有罪だと主張するのは検察側陣営の2人、すなわち検察側目撃証人(第二回公判で証言)と、第一逮捕者(第六回公判で証言)である。それに対して無罪を主張するのは弁護側目撃証人(今年7月4日、第九回公判で証言)と被告。両陣営の主張は真っ向から対立しているから、当然車内の様子も違ったものとなっている。事件当時の車内の様子が様々な人によって図で示されているのだが、かなり検察側陣営の証言に振り回されているの実情だ。しかし検察側陣営の2人は実際は事件を見ていないし、作為的な証言をしているだけという動かぬ証拠(下記参照)があるので、彼らの一切を信用すべきではないと私は考えている。従って、弁護側の2人、つまり目撃証人と被告の証言のみを信用して事件当時の車内の様子の図を描いてみた。これが図1だ。「目」と書いたのが目撃証人の位置である。この大部分は目撃証人の証言が元になっているが、彼は被害者女性を見ていない。ところが、植草氏は自分が乗ってきたドアの方向に向かってつり革につかまって立っていたと述べている。そして被害者女性は自分の前1~0.8mくらいの所にいたと言っているから、その位置証言を加えると図1のようになる。

図1

Z

  この図でまず気付くことは、被害者女性と第一逮捕者の位置が異常に近いことだ。第一逮捕者の位置は目撃者によってしっかり目撃されているし、被害者女性の位置は植草氏の証言が元になっている。2人の証言を併せてみると、何とこの2人が非常に近くにいたことが分かる!被害者女性は逮捕者の連れのようだったと目撃者が証言していることにぴったりと符合する。表向きは被害者女性と見ず知らずの乗客が逮捕してくれたことになっているが、実は連れだって行動していたのではないだろうか。

 この電車に植草氏は最初、間違えて乗った。そこで降りようとしたら、後から乗ってきた乗客に押し戻されたと言っている。酩酊していた植草氏を押し戻したのはこの2人ではなかったか。図の下のドアから入ってきたのだから、場所的にはこの2人が押し戻したと考えるのが非常に合理的だ。

 何のために押し戻したのか。それは、植草氏が下車して、反対向きの電車に乗ってしまうと、上りの次の駅までの所要時間が2分しかなく、しかも車内はガラガラなので、とても痴漢偽装事件の工作は無理だからである。満員ではなくても、乗客の多い電車であれば、「痴漢です」と女性が声を出しさえすれば、指一本触れて無くても起訴され、99.9%の確率で有罪となるのだから、勇気を出して声を上げるだけで、偽装事件は成功する。しかし、その田舎芝居を見ていた人が、彼は痴漢をやっていなかったと証言すれば、いくら何でも有罪にはできないのだ。今回はそのケースとなる典型的な事例だ。しかし、もし裁判官が当日乗り合わせていたこの目撃証人の証言を不採用とするなら、今回のケースでは明らかに司法の独立性は存在しないことが明らかとなる。考えたくもないことだが、裁判所の三権分立の精神は幻想だということになり、国民は裁判所の公平性という思い込みの中で生きていることになる。さらに言うならば、裁判所まで「国策捜査」の片棒を担いでいる可能性が濃厚となると言ってよい。一国民としては、けっしてそのようなことがないことを祈りたい。国民はこの裁判の帰結を細心の注意を以って見守るべきだろう。国家が健全か、どこまで腐っているのかが判断される裁判だからである。もし、第九回公判に勇気を出して出廷してくれた目撃証人の言が裁判官に否定されるようなら、日本の司法は立ち腐れと言えるだろう。国際社会において、これほど恥さらしな国家があるだろうかということになる。

 この事件が偽装、すなわちでっち上げであるという証拠は数え切れないほどある。もちろん、最も確かなものは、弁護側目撃証人が「植草氏は痴漢をやっていなかった」という直截な証言である。これが嘘だと言うなら話は別だが、検察側もこの証人が嘘を言っているとは主張していない。被害者女性が2分間触られたと主張しても、この目撃証人の証言により、それが真っ赤な嘘だということが証明されている。

 第一逮捕者の証言(3月28日)は間違いだらけで、証言を行った男が実は事件と無関係な替え玉だということをはっきり証明するものとなった。例えば彼は、車内では自分一人で植草氏を逮捕し、京急蒲田駅のホームに降りてから、別な乗客が逮捕に協力してくれたと言っている。しかし、実際は車内での逮捕者は2人であり、このことは植草氏も弁護側目撃者もはっきりと述べている。特に弁護側目撃者は2人が逮捕した様子を鮮明に覚えており、その様子を詳細に証言台にて説明しており、間違いない。もちろん、被告人にも弁護側目撃者にも、1人でなく2人だと嘘を言わなければならない理由は全くなく、それは真実に違いない。もし3月28日に証言した逮捕者が本物なら、一人で逮捕したか、二人で逮捕したかという決定的なできごとを取り違えるわけがない。なぜなら彼は逮捕当事者なのだから。逮捕に協力したもう一人の逮捕者を証人に呼べば、このことが更にはっきりする。

 この逮捕者は植草氏が傘と4kgの重いかばんを肩に下げていたことも気付かなかったと言った。逮捕者ならそれはあり得ない。また、被害者も身動きの取れないほど混んでいたと彼は述べているが、図1と弁護側目撃証言から、それは嘘だとわかる。対面ドアツードアーの四角のゾーンは、人が触れ合う程度だった。また対面ロングシート(座席)のゾーンは「まばら」だったので、目撃者が植草氏の位置周辺を見通すことは充分に可能だった。乗客は充分に身動きできる状況だったのである。また蒲田駅のホームに降りて、しばらくしてから、駅員を呼んで下さいと周りの人に言い、呼んできてもらって駅事務室に連れて行ったと彼は言っているが、実際はホームに降りてから一心不乱に駅事務室に直行したのであり、その証拠に、電車がホームに着いてから、駅事務室に連れて行き、そこから警察に連絡が行き、その連絡が駅近くにいたパトカーに行くまで僅か2分10秒しか掛かっていないことを警察は時限的に発表した。この事件は、事件が起きる前から周到に準備されていたのでなければ、このようにスムーズには絶対にいかない。是非一度、この逮捕者の証言が書かれた速記録を読んでみるとよい。証言が自作の作り話を並べたものということが手に取るように分かる。

 もちろん、これは仮説なのであるが、なぜ、警察が替え玉に証言させたかといえば、次のような事情だろう。それは検察側の証人が思わず口を滑らせたように、現場における本物の逮捕者は私服警官の可能性があるからだ。もしそうであるならば、警官が「事件発生」に備えて逮捕の準備をしていたことが発覚することになりかねない。乗り合わせた善意の一般人逮捕者(常人逮捕者)が、実は私服警察官だったならば、この事件が警察という国家機関が関与して計画遂行された「国策捜査」である構図が法廷の場で浮かび上がってしまうからだ。

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2007年9月29日 (土)

鈴木淑夫氏(前衆議院議員)が植草氏の国策捜査疑惑に触れる!

 植草さんのコラムを見てはじめて知ったのだが、前衆議院議員の鈴木淑夫という方が、HPで植草一秀さんの国策逮捕に言及していた。元衆議院議員という経歴を持つ方の見解なので、この記事の重さはひとしおであり、是非内容を吟味していただきたい。また、鈴木氏は、作家の辻井喬氏著『新祖国論』と、ヤメ検弁護士・田中森一氏著『反転』という書物が、植草さんの書かれた「知られざる真実 -勾留地にて-」と、それぞれ立場もテーマも異なるが、三者ともまったく同じ問題提起を扱い、同じものを告発していることに注意を喚起している。私もさっそく『新祖国論』と『反転』を注文した。

 鈴木氏が、植草さんを潰そうとした社会的勢力がいるのではないのかと語っているのは非常に重い。実は植草さんが巻き込まれた偽装事件の真相を知る政治家は案外多いのではないかと私は思っている。彼らはその世界に身をおくプロだからこそ、この事件の恐ろしさを肌で痛感し、努めてこの事件に触れないようにしているようだ。これを保身じゃないのかと言うことは容易(たやす)いのだが、彼らは生活がかかっているし、米国に睨まれたら二度と政治家として生きていけないことを知っているのだろう。また家族の安全のことも考えるだろう。それほど巨大な背景が絡んでいる。それはよくわかる。わかるが、何と言おうとも、実際のところ、その意識は隷属根性に変わりはない。つまり奴隷なのだ。しかし、植草さんにしろ、城内さんにしろ、自らその枠を超えて戦い抜き、不遇な状況に置かれた人たちもいる。自己の安全を優先した人は、彼らに後ろめたさを持って生きるくらいなら自分の怯惰を突破して声を上げるべきだと思う。恐怖心は誰にもあるが克己しなければ良くない方向にしか行かないのだ。中には竹中平蔵氏のように、自ら率先して米国に利益供与している者がいるが日本人として許せない思いだ。また、小泉チルドレンと称する売国愚連隊もこれと同様である。

 しかし、私は思うが、気が付いた人間たちが触らぬ神に祟りなしで決め込んでしまえば、事態は日本を食い物にする外国勢力と、それに魂を売った一部の国賊的日本人たちにぼろぼろにされ、しまいにはカルタゴのようにこの日本は滅亡するだけだ。政治家であるが、ひとり、ふたりが声を上げるならなら、命も狙われるかもしれない。しかし、10人100人の政治家が声をあげれば事態は容易に変わると思う。我々一般人も政治家だけに任せず声を上げるべき時が来ている。重要なことは気運を盛り上げることだ。米国隷属、国際金融資本が好き勝手に跳梁跋扈して食い荒らし放題の現状。こういう状況がひ弱な個人である自分には関係ないと思っている人が大勢だと思うが、考え直して欲しい。だんまりを決め込んでも日本人に明日はない。それなら、他国から富を掠奪する外国の為すがままに任せる現状は止めて、自分たちの日本を切り拓くべきだろう。それには国民が一人ひとり現状を見究め、悪の根を断ち切る以外にない。

 付け加えるが鈴木氏は、植草さんが指摘したりそなインサイダー疑惑と同様に、郵政民営化も、米国隷従絡みで、政府とメディアが偽装したものだと言っている。以下は鈴木淑夫氏のサイトに載っているコラムである。

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 鈴木淑夫氏のサイトより転載

政治権力に支配された司法とメディアの偽装

―辻井喬、田中森一、植草一秀の新著は共通の問題を訴えている―(H19.9.18)

【多くの人に読んで欲しい辻井喬、田中森一、植草一秀の新著】
 最近、面白い本を3冊読んだ。それぞれテーマは違うし、著者のキャラクターも全く異なるのだが、3冊とも政治権力に支配される司法とメディア、それが作り出す「世論」という怪物、真相の隠ぺい、その結果生じる日本社会の不条理を問題にしているのだ。
 1冊は、作家辻井喬の『新祖国論』、2冊目はヤメ検辯護士田中森一の『反転』、3冊目はエコノミスト植草一秀の『知られざる真実』である。田中森一と植草一秀は、いずれも刑事事犯に問われて裁判中で、それぞれの本を勾留されている時に構想し、あるいは執筆している。
 全く異なるキャリアを持つ3人が、同じ問題を憂い、あるいは告発している事に非常な興味を覚えたので、そのポイントを紹介したい。
 関心のある方は、是非、読んでみて頂きたい。

【メディアに支配された言論の空疎化、政治の堕落】
 辻井喬は、『新祖国論』の中で、次のように訴える。
 改革という言葉が、そのまま内容であるかの如く流通している言論の空疎化。その言論を支配しているのは、「世論」という怪物だ。この「世論」は、センセーショナリズムとセンチメンタリズムを身上にするメディアによって形成されている。
 自分達が努力した結果、国は富み、自分達が苦しむ社会が実現してしまった不条理。改革とは、既得権益を持った人の手から役得や有利性を取り除くことであって、弱者救済と同じ方向性の筈なのに。
 政治は、大衆の中に鬱積している不満を、いつ、どんな方向へ噴出させ、その中で自分の存在を際立たせるかというデマゴーグに満ちている。議会制民主主義は、手続きと数の民主主義に堕している。
 グローバリズムと見えていたものは、実は特定の一国のナショナリズムを偽装したものではないか。
 ナショナリズムが正しいか、正しくないかを判定する鍵は、①情報が常に人々の前に公開されているか、②人々の権利を増大させる方向へ機能しているか、の2点である。情報を隠し、あるいは偽装して、人々の権利を抑える方向に動くナショナリズムは、危険である。今のアメリカは、どうなのか。日本には、正しいナショナリズムが興ろうとしているであろうか。
 今回の教育基本法改正で脱落した文言の中に、「個人の価値をたっとび」「勤労と責任を重視し」「自立的精神に充ちた」の三つがある。全部、民主主義を支える基本的条件なのに。この国は、どこへ向かおうとしているのか。

【身の毛もよだつ検察の「国策捜査」】
 辣腕特捜検事から辯護士に転じて、闇社会の守護神と呼ばれた田中森一は、著書『反転』の中で、日本社会の不条理と理不尽が、政治権力と結び付いた司法によって作られ、あるいは隠されていることを、赤裸々に告白している。ここ迄ひどいのかと、読んでいて身の毛もよだつ。
 彼は特捜検事の頃、上からの命令で、何回も捜査を中止させられ、その経験から、次のような結論に達する。
 検察は法務省の一機関であって、日本の行政機関の一翼をになっている。検察は行政機関として、「国策」のことを考えなければならない。その時の国の体制を護持し、安定させることを専一に考える。最近、「国策捜査」という検察批判がよくされるが、そもそも基本的に検察の捜査方針は、全て「国策」によるものである。
 被疑者に「人権」がある、などと本気で考えている検事はいない。
 現実の裁判官は必ずしも正しくなく、それどころか間違っているケースの方が多い。
 遂に馬鹿らしくなったのか、田中森一検事は辯護士に転じ、検察と裁判を知り尽くした辯護士として、闇社会を護り、大儲けをする。しかし、最後に許永中事件に連座し、獄中の人となる。

【植草一秀を社会的に潰そうとした勢力が居るのではないか】
 辻井喬が今の日本の民主主義の堕落、権力に支配されたメディアが作る危険な潮流を正面から告発しているとすれば、田中森一は権力と結び付いた司法が作り出す、日本社会の不条理と理不尽を、裏から告発しているのだといえよう。
 このような日本の社会の中で、もみくちゃにされたのが、エコノミスト植草一秀である。普通なら起訴されない、あるいは冤罪かも知れない痴漢事件で一審有罪となり、社会的地位を失った。
 辻井喬と同じように日本の政治、社会を憂えて、主としてエコノミストの立場から政府・自民党を批判し続けた植草一秀が、田中森一の告白にあるような「国策捜査」の検察の手で葬られたのではないかという疑いを、田中と植草の本を読んだ人なら、誰でも抱くのではないだろうか。

【経済政策の「見逃された偽装」を正当に告発】
 植草一秀の著書は、その第1章「偽装」で、政治権力による司法とメディアの支配が作る「見逃された偽装」を詳細に述べている。
 96年にバブル崩壊不況から脱出した日本経済が、97年度緊縮予算によって「平成恐慌」(菊池英博の表現)に陥った際の「NHKスペシャル」や「クローズアップ現代」による偽装。
 「金融再生プログラム」の失敗で03年春に再び金融恐慌前夜の様相を呈した時の、りそな銀行救済劇の不公平と理不尽、それを偽装する政府とメディア。
 これを契機とする株価急反発と一連の不良債権処理の中で、いかに外国資本に利益供与が行われたか。郵貯民営化も、同じような米国隷属政策によるものだが、政府とメディアの偽装で国民はそれを知らない。

【政権交替の無い万年与党の存在が社会を腐敗させた】
 以上の3冊が共通に述べている日本社会の不条理と理不尽は、何故生まれたのであろうか。司法とメディアが政治権力に支配されるのは、当然なのであろうか。他の先進国は、ここ迄ひどくはない。司法は行政から独立している。メディアは、どの政治勢力と同じ考えを持っているかを明らかにした上で、論陣を張っている。不偏不党で公正だという建前で、実は時の政治権力を護るようなことはない。
 何故違うのか。政権交替が行われる議会制民主主義が根付いているかどうかの違いだ。政権交替が行われる議会制民主主義の下では、司法とメディアが一つの政治勢力に支配されることはない。
 日本では、細川・羽田政権時代の短期間を例外として、半世紀以上にわたって自民党が与党を続け、政府を作ってきた。この万年与党の存在、政権交替の不在こそが、日本の社会をここまで腐敗させるような司法とメディアを作り出した根本の原因だと思う。

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2007年9月27日 (木)

植草一秀氏著『知られざる真実 - 勾留地にて -』

 今、郵政民営化問題をブログに書いていて、植草さんのご著書の紹介文、及び感想文が遅れ、植草さんには大変申し訳ないと思っている。もっと早く書きたかった。このようなきわめて優れた本の全貌を無学非才の私が上手く解説することはできないが、感じた部分を思いをこめて書いてみた。 なお、第二章と第三章は植草さんの人となりがよく出ていて、読み物としても、とても面白いが、字数の関係でその部分の感想は割愛した。しかし、このようにすぐれた有識者の植草さんに、昭和30年代に色濃く残存していた日本人の美風が醸し出されていることには驚かされる。この時代の暖かさと思いやりが植草さんに強くあるからこそ、彼の経済視点は一貫して国民の幸せに向いているのだ。ご自分の青春時代や世の中、歴史などに対する思いが素直に書かれている。

                                      神州の泉・管理人 高橋

            Shirarezarushinjitsu

『知られざる真実 - 勾留地にて -』の感想文

 プロローグ 想像力

 この中で植草氏は酩酊して事件に巻き込まれた要因をつくったことを反省しているが、けっして疑われているような罪は犯していないと断言。彼は「本書執筆当時においては裁判所が真相を正しく究明し適正な審判を下してくれることを念願するが、裁判所の判断と独立に真実は存在する」と明記している。これは品川事件の裁判を踏まえて、裁判所が公正な裁定基準を厳格に堅持してほしいという植草氏の切実な願いが込められている。逆に言うなら、裁判所が独立していない、すなわち他の権力機構からの干渉があれば正しい裁定は望むべくもないということである。彼は前回の裁判で最も採用して欲しい審議内容が不採用にされた不条理を経験している。そのようなことが本裁判でも起こらないようにという強い希求がこの文には込められてある。裁判所の独立とは、他の権力機構の影響を受けない厳格性だと私は受け止めている。

 メディアの俗悪趣味は個人のプライバシーを拾い集めて針小棒大に騒ぎ立て、事実無根の虚偽情報を無責任に流布すると彼は言う。しかし、私(神州)から言わせるなら、この執拗さ、申し合わせたように画一的で低劣な内容など、これらを鑑みれば、植草さんをメディアが扱ったレベルは「俗悪趣味」をはるかに超えている。それはメディアの背後に横たわる得体の知れない巨大な権力的策謀を浮かび上がらせるものである。マスコミによる大泥流のような植草さん攻撃は、彼が言うように「いじめの構図」そのものではあるのだが、このいじめを生み出した底意には明らかに政治的な背景が存在する。しかし、大きく言えば、マスコミといういう巨大権力に個人がいじめられている現実を、大勢の国民が感知できないところに大きな問題がある。国民は戦後民主主義教育で権力機構の横暴にはすこぶる敏感になった。しかし、どういうわけか、マス・メディアという巨大権力に対しては従順というか、思考停止的でさえある。

 植草さんはメディアについて深い指摘をしている。今日本列島を覆い尽くしているいじめ問題をマス・メディアはこぞって取り上げるが、肝心のマス・メディアが行なっている大がかりないじめをきちんと見つめる必要があると言う。大掛かりないじめ、そう、この言い方は意味深である。彼はマス・メディアが国策捜査に加担する今の日本の体たらくを、言外に嘆いているのだ。もちろん、植草さんは自身の巻き込まれた状況を国策捜査とは言っていないが、メディアが政治と結託した場合の悪しき世論誘導がどれほど深刻に真実と乖離するか、その警鐘を鳴らしている。

第一章 偽装

 この章のタイトルが「偽装」と付けられたのは、りそな銀行問題が主題となっているからであるが、植草さんが巻き込まれた事件の本質を表していて意味深である。

1 沖縄知事選と徳洲会病院臓器売買事件

   この本の最も最初に植草さんは愛媛県宇和島の徳洲会生体腎移植問題が不自然に大きく取り上げられ、これもまた不自然にいきなりその話題が終息したことを指摘して、これと沖縄知事選の相関関係を国策捜査の観点から捉えている。ここに政治権力に介入された司法とメディアの作為が存在した可能性を見ている。

2 テレビ・メディアの浅薄さ

 テレビが政治権力に加担して恣意的な世論誘導を行なう危険について、メディア論を展開している。小泉政権は政治権力、司法、メディアの三位一体による世論誘導政権だった。植草さんの名誉が著しく傷つけられることに、メディアは強い役割を果たしている。本質的なことは伝えないのに、どうでもいいことや愚劣なことは執拗に伝え続ける今のメディアは、国民総愚民化を目指す洗脳機関に成り下がっている。

3 偽装三兄弟

  郵政民営化選挙で、追い出された自民党議員を復党させたこと。それとタウンミーティング、耐震構造偽装事件を偽装三兄弟と言ってる。

4 耐震構造偽装

5 偽装タウンミーティング

    小泉政権は発足年の2001年6月から2006年9月まで、合計174回のタウンミーティングが行なわれ、小泉政権の妥当性を国民に知らしめたと言っているが、それはやらせだった。このことは国民の意見を反映して推し進めたと、誇らしげに強弁しながら遂行した小泉・竹中構造改革路線の実態をよくあらわしている。つまり彼らの実行した構造改革は「偽装」なのである。

6 福井日銀総裁追及の深層

 福井日銀総裁バッシングの深層を植草さんがするどい切り込みで追求している。昨年の量的金融緩和政策の解除やゼロ金利政策解除を実行した福井氏を強く評価している。しかし、財政当局は別の思惑があり、福井氏を叩いた。ここにも表に出ない謀(はか)りごとがある。

7 摘発される人・されない人

 国策捜査で摘発される人と摘発されない人の違いは、米国にとっての「抵抗勢力」の度合いであるということが指摘されている。西村眞悟議員は北朝鮮問題で米国の思惑に反したから抵抗勢力度を高く見られて国策捜査に嵌められた。また、木村剛氏のことにも言及している。木村氏はりそな銀行実質国有化を発表する前とあとでは、言動が完全に異なっていると言っている。

8 りそな銀実質国有化

   本章の主題に位置する重要な内容である。植草氏は小泉政権が発足し、国民が熱狂的に支持している時に、有識者としては唯一と言っていいくらい異端的な存在だった。りそな銀行の実質国有化は大掛かりな偽装であり、小泉政権の実質的破綻を意味していると植草氏は言う。しかし、民主党はこれを追及しなかった。りそな銀行の実質公的救済が発表された日、2003年5月17日、大阪読売テレビのウェークアップ(桂文珍司会)に出演していた植草さんは、番組中に求められたコメントで、「常識的に考えれば週明けの株式市場は大混乱に陥るでしょう」と答えた。すると番組のエンディングで桂文珍氏が、金融庁から入ったとされるメッセージを読み上げた。「現状においては金融システム全体に影響が及ぶ状況にはありません。・・・」

 神州の泉・管理人の意見であるが、このテレビ番組で、偽装を見抜いた植草さんの慧眼に惧れをなした竹中平蔵前金融担当大臣が、慌てて番組に植草さんの見解を否定するメッセージを出したものと思える。このエピソードは植草さんが偽装事件に嵌められる要因を成す重要な契機の一つかもしれないのだ。

9 小泉政権五つの大罪

  小泉政権の本質が国民を不幸に陥れる売国姿勢にあったことを見事に説明している。興味深いことを植草さんは書いている。郵政民営化は小泉氏個人の怨念=ルサンティマンと米国政府の要求によって推し進められたこと。

10 自由党定例研究会

 2001年3月、自由党幹部の定例研究会で植草氏が講師をし、80年代の後半部から2001年までの日本経済の推移を経済政策との関連を軸に講義した。2001年当時に日本経済が直面した不況、財政赤字、不良債権の三重苦は90年代初頭に米国が直面した状況に類似しており、これを解決するためには経済改善が優先されるべきであることを説明。経済改善が資産価格下落の回避に有効であり、金融問題解決や財政赤字が縮小されると。米国は先代ブッシュの時代にS&L(貯蓄貸付組合)預金者を公的資金で保護した。公的資金投入による不良債権問題解決策を法律に盛り込んだことが大きな効果を生んだ。米国の金融問題処理では、巨額の公的資金投入によって金融システム破綻を防ぐが、責任は厳格に問うという原則が貫かれた。(※これは植草さんがりそな銀行インサイダー取引疑惑を語る時の根拠にも使われているから重要である。植草さんはこの原則を日本の金融問題に当て嵌めてみた時、小泉構造改革が「まやかし」であることをあざやかに指摘した)

 米国の財政再建は景気回復実現によって実現したことが、定例会の主要テーマとなっている。(小泉純一郎氏はこの歴史に学ぶ前に、植草さんの言葉自体を耳に入れなかったようだ。この時点で小泉氏には国家国民を不幸に導く愚宰相の徴候が出ているようだ)

11 日本経済混迷の真相
 
 90年代以降の日本経済の推移を植草さんが解説している。これは彼の著書「現代日本経済政策論」で書いたことの抄録を「自由党定例研究会」で発表したことをかいつまんで説明している。ここに1992年から2007年までの日本経済推移の植草さんのグラフがあるが、これは小泉構造改革派が最も忌み嫌っているグラフである。なぜなら、このグラフ自体が視覚的に小泉・竹中的経済政策の偽装性、不当性を端的に示すからである。経済に関心のある方は必読部分である。
1_3   

12 異論の表明

  ここにも植草さんと竹中氏の金融問題についての見解が真っ向から対立していたエピソードが書かれている。自由党定例研究会で竹中氏は植草さんにかなり腹を立てていたようだ。

13 小泉純一郎氏への進講

 自由党の定例研究会の一年半前、植草さんは小泉氏に経済政策の進講を行なった。日本経済新聞の現社長と小泉氏は深い親交があり、社長(当時は副社長)の依頼によるものだった。(留意してもらいたいのはこの席に中川秀直氏がいたこと。神州の泉・管理人の独断で言うなら安倍政権の幹事長を勤めた中川氏は、構造改革継承のお目付け役として配置されたのだ)この時、植草さんは小泉氏に持論を言おうとしたが、小泉氏は遮って緊縮財政論一点張りの主張をまくし立てたそうだ。何のための勉強会?この時、植草さんは彼が宰相になったら、日本経済はお先真っ暗だと感じたそうである。

14 日本経済の崩壊

   ここでは、小泉氏が緊縮財政政策を行なって日本経済をジリ貧に誘導したことが解説されている。

15 標的にされたりそな銀

  竹中氏が発足させた金融再生プログラムの時から、りそな銀行が標的にされた経緯。

16 1・3・5の秘密

  りそな銀行を追い落とすために、竹中金融相、奥山公認会計士協会会長、木村剛氏が連携して謀議を企んだ可能性を指摘。その際、繰延税金資産の計上に秘密があったこと。1・3・5とは、1年、3年、5年のことである。知りたい方は本文を読んでいただきたい。

17 小泉・竹中経済政策の破綻

 彼らは植草さんの提言を無視したために、文字通り日本経済は奈落に突き落とされた。
しかし、植草さんは言う。背後に米国政府と米国金融資本の誘導があったのではと。

18 巨大国家犯罪疑惑
19 りそな銀処理の闇
20 求められる事実検証
21 天下り全廃なくして改革なし
22 第一種国家公務員の廃止

  18~22までは「知られざる真実」の山場なので、本で読んでください。

23 切り捨てられる弱者

 小泉氏は官僚利権は温存して、弱い人々を冷酷に切り捨てた。また政府税調会長に就任した本間正明氏はすぐに失脚したが、就任早々法人税を引き下げるという新自由主義路線そのものの政策を行なった。植草さんはここで興味深いことを言っている。米国の財政支出には福祉予算が自動機械的に決められる「プログラム支出」と、額が個別に裁量される「裁量支出」がある。日本の財務省は、国税配分である地方交付税を、このプログラム支出から裁量支出に切り替えようとしている。理由は官僚利権死守と権力増大志向。

24 米国隷属の外交
25 外国資本への利益供与
26 露見した郵政米英化の実態
27 濫用される権力
28 蔑視されていた国民
29 言論封殺のメディア・コントロール

  24~29は本を読んでください。

30 竹中氏の抗議

 竹中氏は植草氏の言論を徹底的に嫌悪していた。当時植草氏は夕刊フジの「快刀乱麻」でコラムを書いていたが竹中氏はこれに圧力をかけた。植草さんが勤めていた研究所の上司からコラムの表現に手心を加えるように言われた。(刑事ドラマでは、政治家の犯罪を追及していた刑事が上司から担当を外される場面などはよくあるが、まさか竹中氏がこれに類似したことをやっていたとは驚きである。露骨な言論介入である。しかし、植草さんに生起するいろいろな良くないことには不思議と竹中氏が頻繁に登場しているようだ)

第二章 炎

1 『オールウェイズ?三丁目の夕日』
2 小学校
3 中学校
4 こっくりさん
5 百字作文
6 炎
7 受験
8 『隠された十字架』
9 みんなちがって、みんないい
10 『エデンの東』
11 経済学
12 TPR
13 情報操作
14 公益法人の実態
15 転機

16 消えた放送委員会
17 政治権力に支配されるNHK
18 テレビ・メディアの偏向
19 多様な価値観との共生

第三章 不撓不屈

1 美しい地上
2 人類の歴史
3 弱き者のためにある政治


 
特にこの部分で植草さんの重要な視点が出ているので書いておく。彼によれば、近年、日本の政治思潮は従来の「ケインズ的経済政策と市民的自由」の組み合わせから、「ハイエク的経済政策と治安管理を重視する政治体制」の組み合わせに大きく旋回したように思えると書いている。(※神州の泉・管理人の捉え方では植草さんが言う「ハイエク的政策と治安管理の重視」とは、新自由主義の極相である「夜警国家」に日本が変化したということだと思う。特に国策捜査が頻発した小泉体制は「警察国家」の特徴が色濃く出ている。)

4 信長ぎらい
5 望ましい政治
6 平和国家の追求
7 個性を尊重する教育
8 不条理
9 救済
10 執筆の契機
11 他者への祈り
12 弱くもろい社会
13 不撓不屈

エピローグ

巻末資料 真実

1 2006年事件
2 自殺未遂
3 捏造
4 懇親会
5 電車利用
6 脅迫
7 2004年事件
8 横浜駅ビル「シアル」
9 変遷した追跡開始経緯の供述
10 決定的な矛盾
11 12分間の出来事
12 卒業生への電話
13 N氏への電話
14 刺客
15 弁解録取
16 錯乱
17 1998年事件
18 創作された調書

19 罠
20 隠滅された防犯カメラ映像
21 隠蔽された神奈川県警不祥事
22 控訴拒絶

 以下は神州の泉・管理人の見解であるが、巻末資料では1998年、2004年、2006年の事件の経緯が詳述されている。第一章の「偽装」を念頭において読めば、彼が国策捜査に陥れられた背景が明瞭になるとともに、国策捜査を別個に置いて考えたとしても、三度の事件がいかに不自然なものかよくわかるのである。2004年の品川事件における構内カメラの録画の扱いは、植草さんが無実証明として検証するように提示したにも関わらず、無視されたまま、録画は自動消去された。この故意の放置は不可解そのものである。被疑者から訴えているのに、最も有力な証拠が隠滅されている。この事件の公判中に、神奈川県警の現職警察官による多数の盗撮事件が発生していた。すべての事件において警察官は逮捕されておらず、それどころか退職金が支払われている。問題はこれらの事件が植草さんの裁判が終結するまで公表されなかったことにある。皆さんは妙だとは思われないだろうか。

 現職警官が盗撮行為をすれば、テレビや新聞、他のマスコミがこぞってニュース報道を行なうはずである。ところが、植草さんの公判中は故意に報道を控えているのである。明らかに植草さんの裁判への影響が出ないように意図されているのだ。この構図を見れば、植草さんの逮捕、勾留、裁判の流れが、ただの個人的事件の取り扱いではないことがはっきりと見て取れる。植草さんは官邸主導を行なった権力筋によって政治的言論を封殺されたのである。

 虚心坦懐にこの「知られざる真実」を読めば、植草さんの身に起きた理不尽な出来事の真相が透視できるのである。真相とは何か。それは国策捜査である。私、神州の泉は今、10月1日から始まる郵政民営化の亡国性をしろうとなりに検証し、警鐘を発しているが、小泉政権の国家毀損という犯罪性は、植草さんが指摘していた「りそなインサイダー疑惑」のみならず、郵政民営化という究極的な売国法案にも色濃く出ているのだ。従って、郵政民営化のペテン性に気が付いているかたがたも、この「知られざる真実」をお読みいただければ、小泉・竹中路線の売国本質がよく見えてくるのである。何度も言うが、植草氏のこの著書は戦後史の中でも稀に見る名著である。現在おかれている日本の位相が非常に明確に認識できる内容なのだ。是非、読んで欲しい。読めば売国構造改革推進論者にはだまされなくなる。

 この本は最初から最後まで本物の憂国心情に溢れている。読み進めるうちに、きっと読者にも鶏鳴の轟(とどろき)がひびきわたるだろう。これからの日本は国賊的改悪を断行した小泉政権の本質を明確に総括し、断固として悪い部分を見定めて置かなければ先へは進めないのだ。安倍晋三前総理の失敗は、それを怠って構造改革をそのまま踏襲したことにある。「美しい国へ」の構想そのものは全体としてはけっして悪くはない。しかし日本を思う展望と、実体が売国本質の構造改革の狭間で、彼が地層の断層のように引き裂かれるのは時間の問題であった。私はケインズ的な政策がいいか、新自由主義的な政策がいいかという二項対立的な視点でこの問題を捉えていない。この二者の間には絶妙な中間領域が存在するのだ。しかし、このどちらかを選べと言われればもちろん前者である。植草氏は、たとえば企業や銀行が回復の余地を残していて運営破綻に直面した場合、政府救済のシステムは温存していて、なおかつ自己責任原則を守るという一見二律背反的な考えを基本とする。しかし、これには絶妙なバランス感覚が必要なのである。そういう中庸の感覚は日本人の繊細な神経の使い方によく出ている。このバランス感覚を持つエコノミストが、植草さん以外に我が国にいったい何人いると言うのだろうか。怪獣のように粗野な日本破壊を行なった稀代のデストロイヤー・小泉純一郎氏、この男の根本姿勢に疑念を持ち始めた人々は、いまこそ植草一秀という人物の真価を評価しなければならないと思う。

 この本全編に、植草さんの誠実なお人柄が横溢していることを感じるだろう。マスメディアが故意に作り上げた植草氏の人物像と、この本からにじみ出る彼の人格がどれほど極端に乖離しているか、読み進むうちに読者は思い知らされるだろう。今の日本のマスコミには「真」、「善」、「美」が完全に欠落しているのだ。

 

                    神州の泉・管理人  高橋博彦

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2007年9月26日 (水)

関係各党各位に郵政民営化凍結の意見を言おう!!

  「村野瀬玲奈の秘書課広報室」というブログに、「とくらBlog」さんと「神州の泉」を紹介して、郵政民営化凍結にはまだ間に合うという指摘があった。私もそう思う。郵政民営化は日本という国を事実上破綻させてしまう建国以来の悪法である。何としてもこの国家毀損法の計画を頓挫させないと日本と日本人に未来は残されていない。それくらい我々が生まれ育った大切なこの日本を壊滅に導く法案なのだ。その第一段階があと数日で実行されようとしている。

 この危険性を最も知悉する政党である国民新党、売国議員を半数くらい抱えている民主党にも意見を書いたメールを提出し、FAX、電話をしよう。問い合わせ先、意見の送り先は村野瀬玲奈さんがご自身のブログで明記している。意見の文案はおよそ次のようなものでいいと思う。

 10月1日から実行される郵政民営化は、郵貯資金200兆円、簡保資金150兆円、併せて350兆円もの膨大な国民財産を外資に委ねるという稀代の国家毀損法案です。特に簡保の資金は2017年を待たずとも、郵政公社が民営分社化された途端に外資に流れ出す惧れがあります。郵政民営化の真の実体を国民に知らせないために、9月の国会休止は意図的に行なわれた可能性が大です。今からでも遅くありません。郵政民営化を即時凍結するために行動していただきたいと思います。国家国民が今危殆に瀕しています。国民の汗の結晶である350兆円を国外に流出させることを阻止しなければなりません。郵政民営化の凍結に声を上げて世論を引き付けて下さい。そうしなければ国富が海外資本にただ取りされてしまいます。そうなれば、我が国の国力は敗戦直後のレベルに限りなく近づくものと思われます。

 以下は喜八さんたちや私と同様に、郵政民営化の凍結を願ってやまない村野瀬玲奈さんの熾烈な危機感が出ている記事である。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-410.html

 ◎郵政民営化凍結は、あらゆる改革につながる本丸。国民の財産を国民の手に取り戻すこと。

 郵政民営化推進になお疑問を持つ立場から、ひとまず郵政民営化を凍結して政治家と国民全体に再考をうながしたいと思い、精力的に関連の記事を書いている「神州の泉」さんの記事と、もともとの事実紹介をしている「とくらBlog」の記事に私も触れたいと思います。

内容は「驚きの新事実」でもなんでもなく、郵政民営化を国会審議していた2005年に言及されていたことではありますが、人間の記憶力ははかないもの。2年前の議論であれなんであれ、筋が通った内容は何度でも書き、記憶を新たにしてもよいと思いますので。

神州の泉 2007年9月25日
郵政公社のままと、民営分社化の場合の驚くべき損益試算があった!!
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2007/09/post_8aa3.html

とくらBlog 2005年8月30日
郵政民営化について、真正面から論議して!
http://ttokura.exblog.jp/1122335/

とくらBlog 2007年9月24日
民営化すると600億円の赤字、公社のままなら1383億円の黒字?
http://ttokura.exblog.jp/6512594/

事実の要点は次の通り。

2005年当時の竹中平蔵郵政民営化担当相の試算によれば、民営化10年目の2017年3月期の郵便貯金銀行の最終損益(税引き前)は600億円の赤字。日本郵政公社のままなら同時期の郵便貯金事業は1383億円の黒字。 (村野瀬:黒字のものをわざわざ赤字にするカイカク。)

早稲田大学の田村正勝教授のHPによると、郵政職員の給与に税金は使われていない。郵政公社が5年間で、1兆円の国庫納付金を納め、これは全金融機関の10年分の法人税総額に相当する。さらに本来国庫が負担すべき年金部分を、現在は郵政公社が負担している。したがって民営化すれば、財政が改善されるのでなく、逆に悪化する。 (村野瀬:財政が悪化するカイカク。)

あとは、「神州の泉」さんと「とくらBlog」さんをもう一度お読みください。「神州の泉」さんの「350兆円を扱う重要な法案が、こんなわけのわからない経緯で決められていくとしたら、国の秩序はどうなるのかと思う」という指摘は重いです。350兆円ですよ、350兆円。

数日前の新聞に出た、「日本郵政株式会社」の西川善文社長(元・三井住友銀行頭取)名による、バラ色の未来を強調する全面広告、思い出しても腹が立ちます。

過ちを正すのにためらうことはないはずです。過ちを正したいと願う方は、郵政民営化を凍結したいと動いたが民主党の折衝で断念した国民新党と、なぜか国民新党の提案を蹴った民主党にとりあえず出しましょう。あきらめる必要はありません。

国民新党と民主党の個別の議員(特に幹部)への意見はよろしかったらこちらの名簿↓をお使いください。

衆議院・参議院 国民新党・そうぞう 全国会議員 名簿 (2007年8月31日更新)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-11.html

民主党 幹部 名簿 (2007年9月10日更新)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-7.html

また、他党の個別の議員(特に幹部)にも投書するなら、その名簿はこちらから。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-86.html

また、マスメディアへの投書はこちらからが便利。

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郵政民営化法案の凍結
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米日主従構造

9月21日の弊記事、「マスコミが麻生氏劣勢の誘導報道を行なった理由(わけ)」に、シーサン様という方から興味深いコメントを寄せていただいたので掲載します。日米関係と日本のマスコミの真相に肉薄しています。おおむね私の基本見解と一致しています。

*********************************************************************************

 初めて参加します。

小生は、政治や経済など専門的なことは一切解りません。
ただ、小生も多くの皆さんも共通の戸惑いは、郵政民営化を初めとし、この日本社会に様々な難題を突きつけられているのに、何で多くの政治家が異常な事態を黙視しているのか、何でこの位のことが解らないのだろう、かという、事だと思います。

そして、マスコミが怪しい、何か操作されているなと思いながらも、そのほとんどの知識や情報は、大マスメディアによるもので、これに左右されています。
ここが、また、情けないのです。

なぜ、こうなったのか。小生の独断と偏見を聞いてください。
本格的な奴隷化は中曽根や竹下内閣の時に始まったのです。この時代から銀行はじめ、民間企業は戦後の中小企業が編み出した全ての知恵と財産をも抱えてこれを外国へ持ち出しました。国民を捨てたのです。

企業が円高で国外に出始めた時、日本は再占領されました。30年前のことです。
戦時中、中国やアジアの資源を求めて、日本軍は荒し回り内部がおろそかになりました。その姿と同様なのです。
現在、企業は更なる合理化、効率化を謳っていますが、これは、ジェスチャーです。
もう、果実はモンスターに吸引され、国内には回りません。
これが小泉に与えられた使命で、構造改革ではなく構造革命ですべてが奪われたのです。

あちこちで死人がでているのは、革命だからなのです。

そして、マスコミです。私企業である以上、スポンサーや権力には逆らえません。公共のものである、との地位を自ら放棄したのです。

彼らは、普段、虚実をチリばめて報道しますが
事ある時は一方向に集中砲火します。
この時は、必ず、作為されています。

日本が再占領された理由は、経済が無視できぬ脅威となったからで、当時、悪の枢軸国となざしで蔑視されたのです。今の北朝鮮と同じ扱いです。

軍事も経済も同盟国なのにです。
信じられますか。マスコミは沈黙です。タマがひとつ抜かれてたからです。

この時から日米構造協議が始まりました。
そして、今の年次要望書に受け継がれているのです。経済の憲法です。官僚もロボット化し米国の指示通りに動くものとなったのです。

これで、全てのことに対し、「内政干渉だ」と言い張る、政治家は皆無となったのです。

当然、政治家不在、国会も無用の長物となりました。日米軍事経済同盟が全てに優先するのです。
大統領補佐官は、外務省の歴代大使が勤めました。内部は大蔵省や総務省の次官が、構造改革を錦の御旗にして日本を引っ張ってきたのです。

日本の予算も米国の代理人と日米閣僚会議で決定されてきたのです。日本の国会論議は儀式でガス抜きでしかないのです。
その極端な例が、小泉と安部で全ての法案は強行採決です。国会不要なのです。
アフガンもイラクも国会では、憲法に抵触しても真剣な議論にはなりませんでした。
結論ありきなので、野党は無視です。

安部君の最後は特に見事でした。
国会がノーと言うかも知れない時に、テロ特措の延長を米国に約束したのです。しかも約束の不履行を気にして病気になったのです。

日本国民の事は、倒れるまで念頭にもなかつたのです。
如何に、自民党の首脳がアメリカの指示に従って動いてきたかの見本だと思います

頼りない、政治家に変って上記の官僚をテレビに引き込み、虚構の世界を語ってもらいたいと思います。また、今後、彼らがどんな命を受けているかを聞きたいのです。

民主党も政権奪取の時は、日米軍事経済同盟と真剣に向きあわねばなりません。
原爆を落とすぞ との恫喝に耐えうるか。です。

投稿 シーサン | 2007年9月25日 (火) 23時46分

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2007年9月25日 (火)

郵政公社のままと、民営分社化の場合の驚くべき損益試算があった!!

郵政民営化凍結  郵政民営化凍結TBキャンペーン!


 「民主党山口県参議院選挙区第一総支部 代表」のとくらたかこさんのブログ、「とくらBlog」に、昨日の私の記事「城内実氏からコメントがよせられました!!」が取り上げられていた。で、とくらさんの記事を読み進めていくうちに本当に慄然とした。とくらたかこさんは、二年前のあの悪夢、9月11日の衆院解散総選挙の前の8月30日に「郵政民営化について、真正面から論議して!」という記事を書かれていた。その中に郵政公社と、民営分社化した場合の二つの前提で、10年後の損益試算があったことが書かれていた。それを見て、あきれ返るというか、とんでもない話が書かれていると思った。その部分を引用する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
6月6日の共同通信のニュースで以下のように伝えられています。

竹中平蔵郵政民営化担当相は6日午後の衆院郵政民営化特別委員会で、民営化10年目の2017年3月期の郵便貯金銀行の最終損益(税引き前)が600億円の赤字になるとの試算を明らかにした。日本郵政公社のままなら同時期の郵便貯金事業は1383億円の黒字になるとの試算も合わせて示した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050606-00000184-kyodo-pol(※現在表示不能)

(続き)

郵政公社は、黒字分を国庫納付金として納めているそうですが、金利引下げによりあれだけ国民から銀行へ所得移転した上、税金を投入した民間銀行はどのくらい法人税を払えているのでしょうか?
早稲田大学の田村正勝教授は、HPで以下のように書かれています。

郵政職員の給与に税金が使われていない。郵政公社が5年間で、1兆円の国庫納付金を納め、これは全金融機関の10年分の法人税総額に相当する。さらに本来国庫が負担すべき年金部分を、現在は郵政公社が負担している。したがって民営化すれば、財政が改善されるのでなく、逆に悪化する。
http://www.waseda.jp/sem-masakatu/main.html(※現在表示不能)

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 まずびっくりするのは、当時の郵政民営化特別委員会は、分社化したあとの郵便貯金銀行の10年後、2017年には最終損益が600億円の赤字になる、また、今のまま郵政公社で進めば同時期には1383億円の黒字になると試算が出されていたことだ。しかも郵政職員には税金が一円も使われていないし、郵政公社が過去五年間で、日本の全金融機関の10年分の法人税を納めているそうだ。とくらさんが引用したこのニュース記事全体が、今は読めないので文脈はつかめないが、それでも、この情報には驚愕する。特別委員会でこの試算が出されたなら、なぜ民営化を強行するのだろうか?参議院の否決を反故にするという暴挙までして、なぜ民営化なのか。民営化すれば600億円の赤字を許容させる何か確実なメリットでもあるというのだろうか。しかも、この試算は郵政民営化担当大臣の竹中平蔵氏が自ら発表している。このような試算が出ているにも関わらず、なぜ郵政公社を存続させないで民営化する必要があったのか。私にはその理由がまったく理解できない。

 というか、竹中氏たち推進論者たちの行動は思いっきり非論理的だと言うしかない。しかし、350兆円を扱う重要な法案が、こんなわけのわからない経緯で決められていくとしたら、国の秩序はどうなるのかと思う。法案が順当な手続きで検討されるのであれば、日本は民主主義国家なのだから、誰もが納得できる説明があってしかるべきだ。民営化したあとの経営状態が赤字に突入することがわかってる民営化をやらねばならない理由とは?そこで確実に見えてくるのは、この郵政民営化が国民利益とは違う論理構造で動いているということだ。竹中氏たちが狂っているのでなければ、その論理構造はただ一つ、目に見えない外圧である。すなわち対日政策として年次改革要望書を策定した存在の意志だ。こういう理不尽な法案が強行されたのは小泉氏や竹中氏がアメリカのパペットだからだ。それ以外にこのような無体な法案が国会を通過して実現される寸前まで行くことは考えられない。

 小泉純一郎氏は年次改革要望書がもたらされる以前から、郵政民営化に固執していたことは確かである。郵政民営化の中身に自分は最も知悉していると豪語したそうだ。本当に彼は知悉していたのか。彼の行なった構造改革をみればわかるが、稀代の詐欺師的宰相であった小泉氏が、郵政事業の民営化を憑かれたように、かなり前から考えていたのは、国民利益とはかけ離れた売国動機からだったに違いない。それが断言できるのは、それだけ郵政民営化を考え抜いていたのであれば、米国のエクソンフロリオ条項(※)に匹敵する国家防衛策を盛り込んで当然なのだ。しかし小泉氏が外資規制や国富の防衛策に積極的に言及したことが一度でもあっただろうか。まったくない。それどころか彼は大きな声で外資はむしろ歓迎だと言っている。国民利益、国家利益、国家防衛の理念なくして、こんな巨大なプロジェクト、郵政事業に手をつける理由は、国賊的モチベーション以外にないではないか。郵政民営化を早くから考えていた小泉氏はほんとうに日本を思っているのか?この法案に固執した動機は反日的世界観なのではないのか?私にはそうとしか思えないのだ。小泉という御仁は日本を熾烈に憎んでいるとしか言いようがない。知覧で特攻隊の遺書に涙し、靖国神社では英霊に参拝した小泉純一郎氏。英霊は国の未来に一縷の願いと祈りをこめて若き命を散華した。その英霊を参拝しながら、先人たちがかけがえのない努力で造り上げた郵政事業を破壊する男。国富を消尽させ、国家の破滅を招来しかねない法案を提起しながら、国を守ろうとした英霊たちに感謝できる道理はないはずだ。二度と神聖な境内を汚してもらいたくない。国を売り渡すこの法案に賛同した為政者たちも同様である。

 またとくらさんは、当時の「世に倦む日日」に書かれた記事も引用しているが、その内容も重要なので、引用の引用だがここに記載する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それは8月13日の世に倦む日日に書かれているとおりだと思います。

(以下、抜粋してみます。)

郵政改革については二年前に郵政公社法が成立施行されて、公社法に則って公社自らが経営改革を進めることになっている。言われているところの、東京駅前に中央郵便局の建物があるから交通渋滞の原因になっているとか、特定郵便局の世襲制の問題とかは、現行の公社法の枠内で改革を進めて行けばよい話であって、何も無理に郵政民営化法まで持ち出す必要のある問題ではない。事業内容の拡大や変更については、四年間の郵政公社の経営実績と業務改善を見て、そこで判断すればよい問題であった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 つまり、私も当時から根本的に強い疑念を持っていたことは、郵政事業の不備や改善すべき点があった場合、なぜそれが「国営を取り外す」ことに直結するのかということだった。国民は気が付くべきだ。難しいことはわからないが、これだけは素朴な考えとして言える。創始者の前島密以来、郵政事業は壮大な国家事業として列島の隅々まで浸透し、郵便事業、金融など民族の総合的な公益事業として立派な歴史と伝統を持つに至った。郵政事業の便益性というのは金の動きだけに還元される市場原理だけで考えるべきではない。郵便事業とは地域の安定や国民生活に寄与する立派な事業だ。それは日本人の知恵が結集した非常に精緻な社会システムなのだ。そういう公益性の部分で銀行などとは質が違うのである。従って、竹中平蔵氏が口をすっぱくして叫んでいたイコール・フッティング(競争条件の同一性)は郵政事業に当て嵌めてはならないものだ。なぜなら巷の金融機関と郵政事業は同質ではないからだ。郵政事業は国家の安定システムの重要な柱なのだ。

 繊細な神経を持つ日本人が、長い時間をかけて試行錯誤を積み重ねてできがった、公益を目的とする精緻な社会システムが郵政事業ではないのか。そしてこの公益事業は国家システムだからこそ維持可能であり、国民の信頼の裏づけとなっている。国民は郵便局が国営だから安心してささやかなお金を預けたのである。郵政事業は日本が誇れる制度なのだ。それを今、国家の絆を解いてなぜ民営化しなければならないのか。郵政事業の問題点はそのままの国営形態で不具合を修正すればいいだけの話ではないのか。ところが小泉構造改革の最大の中心であった郵政民営化は、きちんとした思想も、理由付けもないまま、考えるべきことを無視していきなり国営から民営に切り替えるという話である。まさに暴挙としか映らないではないか。一番考えなければならないことは、郵政民営化を前提的に是としている考え方が、アメリカ由来の新自由主義(ネオリベ)であることだ。いつ国民の総意がこのネオリベを無条件に是と認めたのだろうか?竹中氏や小泉氏のような売国一味だけが勝手にそういう前提をつけただけではないのか。小泉構造改革自体も思いっきり胡散臭いが、その中心に位置する郵政民営化は根本思想がペテンであることは確かなのだ。みなさんに気が付いてほしいのは、究極的な「小さな政府」論が危険思想だということ。



※ 米国のエクソンフロリオ条項に関しては下記PDFの13及び14ページを参照のこと。
 http://www.meti.go.jp/press/20070607001/070606_houkokusho_kariyaku.pdf

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2007年9月23日 (日)

城内実氏からコメントが寄せられました!!

城内実さん  
(喜八ログさんから無断でお借りした)


 ◎売国郵政民営化と闘う戦士であり、先駆者の城内実氏からコメントが


  9月19日の拙記事「阻止か国家崩壊か!!郵政民営化は何としても解消するべきだ!!」に、前衆議院議員の城内実氏からコメントが寄せられていた。

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  はじめて貴ブログ拝見しました。メディアの激しい世論誘導がなされている中、これだけ正確に真相をご存じとは正直驚きました。

メディアがあまり報道しようとしないこと。
一、①10月の民営化にともない、各種窓口手数料が3~10倍になること。
②集配特定局の無集配化にともない、誤配、遅配が続出していること。
③簡易郵便局の四分の一が既に閉鎖。

二、分社化された保険会社、郵貯会社の株が10年以内に完全売却される。それにより、本来日本国民のくらしと安全、福利厚生、社会資本整備などのために使うべき350兆円という巨大な資金が外資の手にわたり、その結果某国の公共事業(=5年~10年に一回の戦争)、財政赤字補填、失業対策等に使われてしまうこと。(いわゆる日本売り)

郵政法案の中身の問題点については、私のブログhttp://www.m-kiuchi.com/でも紹介してありますので、是非ご覧になって下さい。

(2007/8/24のブログ「☆お知らせ☆なぜ郵政民営化法案に反対したか」をクリックしてください。) 

投稿 城内実 | 2007年9月23日 (日) 07時31分

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  びっくりした。そして恐縮した。今朝メールをチェックしたら、前衆議院議員の城内実さんから弊ブログへコメントが寄せられていた。私が尊敬する植草一秀さんも、城内実さんも、共通することは自己の名利や保身を求めず、曲がったことを許さないという姿勢に徹している。植草さんはエコノミストであるが、その経済提言は時の国策経済に直結しており、重大な影響力を持つ実戦派の人だ。同様に城内実さんも、政治家としての理念と良心を固守し、理不尽なものにまっすぐに向かっていく潔さがあるお人だ。このご両者とも、日本再生にはけっして欠かせない人材である。ご両者の視点で特に共通することは、庶民利益、国民利益の観点であろうか。それを経済的な言葉に置き換えれば、富の正常な国内分配と国内還流を妨げない健全な政策を取るということに尽きる。お二人とも明らかに現代日本の国士なのだ。国士と言っても、国粋主義者という意味ではなく、国民利益、国家利益を重要視するというごく当然の考え方を持っておられるという意味で使用した。今は普通の感覚を持つ有識者を国士と呼ぶ時代なのだ。

 その当たり前のことが、特に小泉政権以来、完全に壊れてしまい、今や政治や経済は国民を欺き、外資を利する方向性で固められてしまった。しかし、植草さんも、城内さんもこの潮流に敢然と反旗を立て、不惜身命を賭して闘っておられるのだ。お二人は国家を危殆に瀕する暴虐な政治に不退転の覚悟で対峙されている。だからこそ彼らは紛れもない「国士」「憂国烈士」なのだ。さて、城内実さんであるが、小泉政権が郵政民営化法案を提起し、国会で審議された折り、民営化の問題点を、周囲のやめろという雰囲気を排して、勇敢に彼は質問した。その結果、我々、「欺瞞の構造改革」反対派は竹中平蔵氏などの貴重な言質を得ているのだ。たとえば平成17年6月、衆議院の郵政民営化特別委員会で、城内氏は竹中平蔵郵政民営化担当大臣(当時)に、過去一年間で日本政府は米国と何回協議したのかということと、あと、アメリカの対日要求で拒否したものはあるのかという質問だった。竹中氏はその時、17回の協議を認めたが、対日要求についてははぐらかした。17回という言質は小林興起さんの著書「主権在米経済」にも取り上げられている。

 小泉隷米政権にとって、国会審議で最も警戒していたのが、米国で言うところのエクソンフロリオ条項のような外資規制に関する質疑応答だった。これを竹中氏たちは芸術的とも言える対応で展開させないように乗り切った。しかも国会でも、この問題はやり過ごそうという雰囲気があり、テレビと新聞を中心とする巨大メディアは努めてそれを報道することを忌避していた問題、すなわち、郵政民営化が施行された場合の外資規制はどうなっているのかということを、城内実さんは率先して質問した。良心的な国益派の自民党議員は陰湿な脅しをかけられ、メディアは国民を洗脳して、郵政民営化が莫大な郵貯・簡保資金をアメリカに捧げる法案であることをひた隠しにしていた時期に、城内さんは身を捨てて向かっていった。その結果、党籍剥奪、在野流浪の身分に陥った。

 城内氏は{「わが青票」に悔いなし}でこう言っている。郵政資金という巨大な財産は国民の共有財産、その利益は国民に還元されるべきだと。その通りなのだ。国民の共有財産は国内で還流され、国民利益に供されるべきである。使い方はあくまでも民族自決的にやるべきなのだ。しかし、小泉氏や竹中氏らは、その大切な財産を海外の自己利益本位の金融資本に委ねようとしているのだ。また「人生の失敗」ではこう述べている。「郵政民営化法案は、私の良心というか、私の心の許容範囲をはるかに超える悪い中身、非民主的な手続きだったので、これは反対しなきゃならんと思ったわけです」。これこそ、植草氏も範例として掲げる上杉鷹山の「経世済民」思想ではないのか。

 城内実さんは植草一秀さんと同様に、日本再生に不可欠の人物である。こういう本物の人物たちを舞台から遠ざけて、無為に置いてはならないと切に思うのだ。城内さんには日本国の舵取りを任せていい人物だと自分は確信する。だって、政治家に必須の条件を完全に備えているお人だからだ。こういう人物は、今の不遇な状況を御自身の可撓性(かとうせい)を養う材料にしているに違いない。今後目を離さずに応援したいと思う。植草さんもそうである。日本にはまだ希望がある。   

さて参考までに、「162-衆-郵政民営化に関する特別委員会-9号 平成17年06月07日」城内実さんと竹中平蔵氏のやり取りを見ていただきたい。その中で竹中氏のこんな興味深い返答があったのでピックアップしてみた。

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竹中国務大臣 ≫  
 城内委員から二点、完全売却等々の内容がそれに近いではないかというような御指摘だったと思いますが、これは何度か御答弁申し上げましたように、きちっと国との関係を切ろうという我々独自の考えに基づいているものでありますので、その点、御理解いただきたいと思います。
 タウンミーティング三回ということですが、私たちは、私自身、地方懇に、二十一カ所でそういったテレビ出演を含めた会合を持たせていただいたりしておりまして、国民との対話というのはしっかりと重視をしてきたつもりでございます。
 そういった意味で、あくまでも国民のために郵政民営化を行うという観点からしっかりと対処をしておりますので、ぜひその点、御理解を賜りたいと思います。

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 竹中氏が「きちっと国との関係を切ろうという我々独自の考え」と語るのは、アメリカが日本に年次改革要望書で構造替えを指令した、いわゆる新自由主義経済(ネオリベ)のことであり、実質的には無分別な規制撤廃、規制緩和を指す。国との関係を切ろうという思想は極限的な「小さな政府」構想であり、ミルトン・フリードマンの考え方である。また、竹中氏はタウンミーティングできちんと国民の理解を得ていると答えているが、ご存知のようにあれはいかさま、やらせ懇親会だったのだ。ここにも郵政民営化を中心とする構造改革の本質があらわれている。まさに城内氏の言う「カイカク真理教」、「カイカク原理主義」の欺瞞性がここにも先取り的にあらわれていた。

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2007年9月22日 (土)

「郵政民営化」列車を発車させるな!!

2007/09/19-19:56 郵政凍結法案、再提出を断念=民主との「統一会派」先送り-国民新

 国民新党は19日の幹部会で、郵政民営化凍結法案の民主党との共同提出を断念することを決めた。これに伴い、参院での同党との統一会派結成を当面、見送る。
 幹部会に先立ち、国民新党の亀井久興幹事長は国会内で民主党の山岡賢次国対委員長と会談。亀井氏は、民主党が求める統一会派結成を受け入れる条件として、郵政民営化凍結法案の共同提出を改めて求めた上で、

(1)参院に郵政問題特別委員会を設置し、委員長は国民新党から起用する
(2)凍結法案と別に、郵政民営化の修正法案も共同で提出する
(3)統一会派での党議拘束を解除する-なども要求した。

 しかし、山岡氏は凍結法案の共同提出以外は「時間をかけて検討したい」と回答を留保。このため、国民新党は、来月1日の郵政民営化のスタートを控え、民主党との協議を続けても、時間的に間に合わないと判断した。
 (「時事通信」より引用)

                         
民主党の対応は酷すぎはしませんか?
あまりに悠長であり、大局観を決定的に欠いているように思います。

小泉・竹中政権が恥も外聞もなく強引に推し進めた「郵政民営化法案」の実態は、日本庶民の生活を犠牲にしてまでも「宗主国アメリカ」に奉仕しようという「郵政売国法案(※)」でした。     (9/22の喜八ログさんより引用)

          http://kihachin.net/klog/
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   喜八ログの喜八さんが、郵政民営化凍結法案が民主党の及び腰のせいで、むざむざ流れてしまった経緯を熾烈に怒っている。喜八さんの表現は紳士然として穏やかだが、最も大事な局面をかくもあっさりと放擲した民主党に激怒と無念さを持っていることがよく伝わってくる。この気持ちは神州の管理人である私もまったく同様である。民主党には初期から郵政民営化に堂々と反対した猛者・櫻井充議員などがいる。しかし、国民新党が救国の乾坤一擲で、共同提案を持ちかけたこの凍結法案を、なんと、民主党は無下に見放したのだ。

 民主党の執行部連中は何をやっているのかと思う。物事はなんでもそうだが、動き出してイナーシャ(はずみ)が付いてくると、そう簡単には止められなくなる。だからこそ10月1日以前に、この国家壊滅法案に機能停止(凍結)をかけることが急務なのだ。今の日本は、国家を安定させている350兆円の国民財産が、自己利益しか念頭にないわけのわからない外資に好き勝手に運用されようという瀬戸際にある。米系の国際金融資本が、前島密依頼、先祖たちがこつこつと蓄えてきた巨大な国民財産に手をつけようとしている。フリー、フェアー、グローバルというインチキ標語で各国をだまし、国際金融市場で暴利をむさぼるハガタカたちに日本の国富が奪われようとしている。みなさんは普通に考えてもお分かりとは思うが、彼らハゲタカが日本のために資金を上手く運用してくれるとはもはや思っていないはずだ。そう、彼らは自己利益獲得、日本の資産を掻っ攫(さら)うことしか頭にない。彼らに日本人の大事な財産を根こそぎ貢ぐ政策を押し進めたのが、小泉・竹中両氏を中心とした売国構造改革派なのだ。もちろん、日本で最も誠実で良心的なエコノミストである植草一秀さんを罠に陥れて口をふさいだのもこの一派である。

 まさに今は国家の命運がかかっている関が原の戦場なのである。その重大な攻防で、戦局が勝つか負けるかに収斂される究極的な局面が今なのだ。だからこそ、民主党は今の特別な時局を読み取って、売国自民党と闘う必要がある。ところが元来が能天気でアホなのか、あるいはアメリカから強い重圧がかけられているのか知らないが、民主党は国家破滅を招く法案をすんなりとレールに乗せるつもりらしい。これは空気が読めない(KY)で済ませる問題ではない。民主党は従米自民党と気脈を通じている売国議員たちをさっさと除名し、文字通り庶民の視点に立った党是で一本化するべきだ。

 まずは郵政民営化という地獄の列車を発車させるな!!!

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2007年9月21日 (金)

マスコミが麻生氏劣勢の誘導報道を行なった理由(わけ)

 今日あたりから少し風向きが変わってきたが、昨日まではテレビも、新聞も福田氏が圧倒的に優勢で、麻生氏はかなりの劣勢に置かれていると、まるで判を押したようにパターン化された報道が主体であった。私はマスコミを操作した権力筋が、なぜ麻生氏の総裁選出を恐れたのか、今日の時点でやっと理解した。

 これは私個人の見解なので、必ずしも確定的に断定することはできないが、私の推測はほぼ的を射ていると確信している。この総裁レースで読売を主体として、福田氏圧倒的有利と印象付け報道したことは、やはり麻生氏を選出させないためであった。その理由を言おう。今から三年前の2004年9月、小泉純一郎首相は郵政公社の民営化に向けて二年半後の2007年4月に「四分社化」するという大枠を定めた。当時は自民党も総務省も郵政公社もこの案に反対していたのだ。小泉氏は郵政公社の生田総裁を呼びつけ、その案を提起したら、生田総裁は難色を示し、「経営者としてできないことはできない」と言った。小泉氏は必死で生田氏を説得し、分社時期が遅れてもいいという含みで彼を納得させた。(現実には半年遅れて今年の10月になった)。そして、経済財政諮問会議の学者ら民間人議員が四分社化を主張した。

 ところがこの時、麻生太郎総務相、生田総裁は、民営化当初の経営形態を、最初単一会社にしておいて、徐々に(段階的に)分社化していくということを主張していたのである。そして、麻生氏は28万人の常勤職員を各社に振り分ける際に、納得を得るまで時間がかかると言っていた。ここまで言ったら、マスコミが今、麻生氏劣勢を故意に報道し、彼を総裁レースから外す意図を持った理由がよくわかると思う。

 つまり、麻生氏の考えであった「郵政の単一会社から段階的に分社化していく」という方針、そして常勤職員の各社振り分けへの手続きに時間がかかるという彼の考え方を、アメリカがナーバスに嫌っているからだ。要点は、郵政民営化に対する麻生氏の考え方が、小泉・竹中氏本流の四分社化案と著しい差異があり、麻生氏の案だと分社化に時間がかかりすぎるということなのだ。だから、麻生氏が総裁になった場合、再び彼の持論が頭をもたげて、郵政民営化のスタートを混乱させる懸念があったからだろう。そうなった場合、密かに計画し、国民には見えない郵政資金の動きが計画通りに行かないからであり、もたついている間に、この法案のいかがわしさが露見する危険があるからだ。和製エクソンフロリオ条項がないことや、資金運用の危険性が国民に見えてくる可能性があるからだろう。麻生氏の考える段階的四分社化は、アメリカエージェントにとってかなり都合の悪いものだと思う。麻生氏が総理権限でこの方策を取った時、郵政民営化の裏の目的が露見する可能性がある。つまり、民営化のブラックボックスが国民の疑惑を招いてしまうからだ。年次改革要望書を推進したエージェントたちは、分社化にわずかでも時間を掛けたくないのである。

 以上が、今日気が付いたマスコミの誘導操作報道の理由である。

 参考図書: 鈴木棟一著「小泉政権50の功罪」


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2007年9月20日 (木)

「郵政民営化法案凍結」のトラックバック・ページが開設!!是非TBお願いします!!

 ◎郵政民営化法案に怒りと憂慮の念を持って記事を書いた方は是非下記のページにTBをお願いします。

 喜八ログの管理者・喜八さんが一念発起して、「郵政民営化法案の凍結」というトラックバック・ページを作成しました。

 年次改革要望書に従って、アメリカに膨大な国富である郵政資金を貢ぎ、日本列島全国くまなく網羅していた郵政事業ネットワークを破壊して、地域コミュニティや地域文化を破壊する稀代の悪法である「郵政民営化法案」。これを何としても阻止したいと考える有意のみなさんは、是非このページに怒りと憂慮の記事をどんどんトラックバックしてください。

  ちなみに、喜八ログは郵政民営化に敢然と反対したあの城内実氏が高く評価するブログです。

 郵政民営化法案を凍結しましょう!!

          

        「郵政民営化法案の凍結」
   
http://tbp.jp/tbp_9088.html



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まだあきらめない方がいい!!凍結を叫ぼう!!

 今日、読者さんのJAXVN様から非常に重要なコメントを寄せていただいたので本記事に掲載する。

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こんにちは。高橋様、レスをありがとうございました。
今回の自民党総裁選は、唐突な安倍首相の辞任表明といいその後の福田氏優勢の流れの作り方といい、過去に例の無い「強引さ」が感じられます。福田氏の出馬にしても、前回は年齢を理由に見送ったという事を考えればあまりもに不自然であり、これは最初は「麻生後継で良い」と考えていた「彼ら」が、途中で(例えば高橋様のおっしゃる様に「麻生氏の性格」に不安を抱く、等の理由で)
「やっぱり麻生ではまずい」とあわてて福田氏を担ぎ出した、とも考えられる様に思います。しかしそれは、逆に言えば「彼ら」のあせりの表れでもあります。「郵政民営化凍結法案」をめぐる民主党内の動きにしても、逆に山岡国対委員長等が「彼ら」及び自民党の別働隊である事を知らしめる事になったともいえます。ここまであせっているというのは、逆に自分たちのやったいかさまがばれそうになっている事を自覚しているからだとも思うのです。「彼ら」の力は確かに強大ではありますが、「無敵」ではありません。反撃は決して不可能ではないと信じています。

投稿 JAXVN | 2007年9月20日 (木) 08時03分

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JAXVN さんの貴重なご意見でつとに思うことがあった。小泉内閣も、安部内閣も明らかに米国の傀儡政権であった。傀儡政策を遂行している以上、これを常に監視し、表に裏にコントロールしている存在が日本にいる。米国エージェントたちである。ハーバード・ンジケートからダイレクトな指令を受けている黄色い顔をした売国奴たちがいる。彼らは植草氏を罠に嵌めたおおもとでもあるが、直接表には堂々と顔を出さないから、自分が米国エージェントだなどとはけっして言わない。しかし、表面上は正統保守の顔をして、魂をアメリカに売り渡している政治家連中が大勢いる。彼らは加藤紘一氏のようなチャイナシンジケートよりもはるかにたちが悪い。なぜなら日本の構造替えを行なって伝統的な日本を破壊しまくっているからだ。彼らは表の顔とは違って、米国利益給与活動を隠密に行なうようだ。しかし、JAXVN さんの言うように、彼らの行動力学はけっして磐石でもないし、緻密でもないようだ。

 ここに、日本国民はまだ突破の糸口があると確信する。なぜならJAXVNさんの指摘したように、9月の臨時国会を慌ててつぶしたこともそうであるが、読売新聞という巨大メディアを使ってまで、麻生氏選出の可能性を何としてでもつぶしておこうという焦りが確実に見て取れるからだ。理由は判然としないのだが、彼らにとっては、麻生氏が選出された場合、郵政民営化凍結法案が注目されてしまうリスクを避けたいのだろう。それがほんのわずかな可能性だとしてもだ。この焦りの理由は、私個人の推測で言えば10月1日の民営化スタートなのである。一般には10月1日にスタートしても、11月1日にスタートしても大差ないように思われるが、彼らエージェントは10月1日に強固に固執しているのだ。なぜこのように焦っているのだろうか。郵政公社が分社・株式会社化され、上場してから外資に乗っ取られるとしたら、まだ多少の時間はあるとは思うが、なぜ今10月1日に固執するのか意味がわからない。何か裏があるかもしれない。私は国民の目を欺いた場所で、郵政資金がこの日を境に自動的に海外に流出する仕組みが出来上がっているのではないかと踏んでいる。

 だから今こそ、みんなで「郵政民営化凍結」を声を大にして叫ぶほうがいいのだ。もしかしたら、来月の末では遅きに失するかもしれないのだ。ところで今日のニュースを聞いただろうか。麻生氏の人気が巻き返しているというニュースだった。国民新党の「郵政民営化凍結法案」提示が、民主党から蹴られた途端、麻生氏巻き返しの報道である。彼らはすでに凍結法案の気運が出ないことを見切ったのだ。

 しかし、我々憂慮する国民は沈黙してはならない!!

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郵政資金の消尽迫る!!

 郵政資金消尽が迫っている

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郵政凍結法案を断念 国民新、民主が拒否
2007年9月19日 21時35分

 国民新党は19日、郵政民営化の実施を1年間凍結する郵政民営化法改正案(凍結法案)の今国会提出を断念した。民主党が共同提出を拒否したためで、参院での両党の統一会派結成問題も先送りされる方向。今後の連携に影響する可能性もありそうだ。

 国民新党の亀井久興幹事長は同日、民主党の山岡賢次国対委員長と会談し(1)凍結法案の提出(2)10月1日の民営化スタート後は、民営化の中身を見直す改正案を提出(3)参院に郵政民営化に関する特別委員会を設置(4)同委員長は国民新党(5)次期衆院選での選挙協力-の5条件を提示。民主党が同意すれば参院での統一会派を結成すると提案した。

 これに対し山岡氏は「10月1日までに時間がなく、凍結法案を提出しても意味がない。そのほかの条件も、すぐに対応するのは無理だ」と述べ、合意しなかった。

(共同)

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 それにしても民主党は何という駄目な党であろうか。自民党はアメリカに魂を売った売国政党に成り下がり、それに対抗しうる規模の唯一の政党である民主党はこのザマである。今の日本は、二大政党が日本を奈落の底に突き落とそうとしているから最悪なのだ。せっかく参院選で大勝した絶好の機会を民主党は自らつぶしてしまった。民主党のこの醜態が何を意味するのかと言えば、自民党の猿芝居に加担したということだ。国民新党の「郵政凍結法案」に対し、山岡国対委員長の拒絶理由が「10月1日まで時間がないから」である。これは民主党にも、明らかに多くの米国エージェントが巣食っているということだ。小沢のカリスマもまったく功を奏していないということか。あのシーファー会談は何だったのか。絶望的な気分になる。

 見事な政治バナーを造る職人さんでもある SOBAさんが、またまた面白いバナーを作ってくれた。「自民党の国会すっぽかし」バナーである。しかし、バナーが面白いなどと言っている場合ではない。バナーのメッセージが意味することは将来の日本にとってあまりにも重大なのである。

政治空白、安倍を病院に隠し、総理空席状態⇒総裁選ごっこ街頭演説パフォーマンスを許すな!「自End」=「でたらめ自民をThe End」バナー

 安部首相が力説していたテロ特措法は、もともと2001年の第一次小泉内閣時代に、暫定的に成立した時限立法だ。それが延ばしに延ばされて今日に至っている。これをまた延長するか、あるいはあらたに恒久法を制定するかという議論は、今の時点で優先順位のトップにする理由はない。また年金問題と格差問題は非常に重要であり、時間をかけて真摯に取り組むべきだが、半月や一ヶ月で打開できるものでもない。だが、今の9月、マスコミはこの三点の政治問題を異常にピックアップして垂れ流し続けている。加えて唐突な総裁選である。これらを見ると、権力中枢にいる誰かが、まるで国会の審議を忌避しているとしか思えない。マスコミを牛耳って、三点の政治問題を不自然に取り上げ、総裁選をこの時期に配置した黒幕の意図とは何か。

 この政治空白の意図、それは間違いなく郵政民営化だ。郵政民営化が10月1日から施行される。民営化は二段階になっていて、第一段階が10月1日の郵政公社解体、そして分社化、当面は政府が株式を保有し、10年の間に民営化に移行、そして完全民営化という第二段階を迎える。問題はこの10年間に、膨大な郵政資金がきちんと運用されながら国内に残っているのかという話である。小泉政権が国民を裏切る売国政権であった以上、郵政株式の政府持ちが安全であるはずがないのだ。最も考えられるのは、10月1日を待って、現在郵政公社が保有する資金350兆円のうち、約200兆円は海外投資に向かう事になる。これが国益的投資にならないどころか、出たきりで戻ってこない可能性が強い。つまり、米系外資のネコババだ。私は10年の緩慢な移行期間はごまかしであろうと思う。

 これには国民が気が付いていないカラクリがきっとある。二年前に郵政民営化関連法案ができた時、国会審議でボイコット(ごまかされた)されたものがある。それが外資規制の審議である。いわゆる米国で言うところのエクソンフロリオ条項に類似した規制がまったく審議されていないのだ。それどころか外資が参入することを前提とした三角合併が今年5月に解禁されている。自民党が数に物を言わせてごり押しした法案が国民利益とは対蹠的なものであったことは、今や多くの人が知るところである。だからこそ、国富を外へ出す法案を稼動させてはならないのだ。

 郵政民営化が国富流出法案であることを考察したTrend Reviewさんの論考がある。読みにくい法律文が引用されているが、非常に深い実証的な考察なので、是非それを参照して欲しい。

     http://www.trend-review.net/blog/2007/08/000390.html


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2007年9月19日 (水)

阻止か国家崩壊か!!郵政民営化は何としても解消するべきだ!!

 郵政民営化は絶対に阻止しなければならない(メディアの世論誘導はなぜ?)

 前掲の水間政憲氏の記事を見ると、明らかに構造改革急進派(亡国政治家たち)の肝煎りで、大新聞が世論誘導を行なっていることがわかる。総裁選活動において、現状では麻生氏のほうが圧倒的に人気もあり、説得力もあって、その場の聴衆の関心を惹きつけているのだが、マスコミは一様に福田氏がほぼ完全に優位を占めているように取り扱っている。我々国民は大手マスコミが国民利益をもたらすような報道は絶対にしないということを、二年前の熱狂的な郵政民営化是か非かの衆院解散総選挙で学んでいるはずである。だとすれば、今行なわれている福田・麻生氏両名の総裁選出レースに関しても、マスコミは国民利益と反する報道を行なっていると判断するべきである。

 騙されてはならない。福田氏優勢は世論誘導だ!!国民はこの事実を重く受け止めて、なぜ今の時期に、総裁選を世論誘導して福田氏を祭り上げねばならないか、その理由を見究めねばならない。非常に簡単なことである。これは小泉・竹中構造改革路線を敷いた大元が構造改革を推し進めるために、マスコミに報道管制を敷いたのだ。小泉構造改革は間違いなく国力を最低レベルに低落させる亡国的政策である。この構造改革で地方の惨状は目に余るものがあり、日本は急速に弱肉強食の格差社会に向かった。その結果、無用な痛みを味わった地方が怒りを持って、この間の参院選に投票し、売国自民党の完敗を招来したのだ。この結果を踏まえて、今自民党はダッチロール状態に陥り、求心力を失っている。この現状を憂えた者がいる。それはアメリカである。アメリカは日本の国富を吸い取ることに国家存続の命運がかかっている。そのために小泉純一郎前総理を籠絡し、売国エージェントの竹中平蔵氏にネオリベ構造改革の旗を振らせた。

 よく聞いてほしい。アメリカによる日本国富収奪の最終目標は郵政資金なのである。従って、アメリカはすぐ先に迫っている郵政民営化を滞りなくスタートさせることが急務なのだ。だからこそ、今月9月の国会を混乱させ、会期をつぶす算段なのだ。唐突な安部首相の退任表明は、郵政民営化凍結の気運を根こそぎつぶす目的に収斂していると私は見ている。アメリカが最も驚愕し恐れたのは、8月に民主党と国民新党で出された「郵政民営化凍結法案」の提示である。ところがこの重要な法案が、誰にも知られない状態でひっそりと廃案の憂き目に遭っている。誰にも知られないように廃案。ここが重要なポイントである。もし、マスメディアが「郵政民営化凍結法案」の消滅を、理由と根拠をあげて報道すれば、国民に不信感が生じ、郵政民営化そのものに疑念を呈する世論が生じる。そうなると、郵政民営化関連法案の実地を急がずに、中身をじっくり検討しようじゃないかということになる。この話が国会で展開されると、アメリカに隷従した構造改革急進派は非常にまずいことになるのだ。彼らはどんなことがあっても構造改革を止めたり停止したりするわけには行かない。アメリカに脅されているからだ。

 だから、今は二年前の郵政民営化時と同じ理由でマスコミは世論誘導を行なっている。その目的は、郵政公社を滞りなく四社分割化することにある。なぜ、今、小泉氏が出てきて福田氏を押したのか。それは福田氏なら構造改革派がコントロールできると踏んだからだ。麻生氏が総理総裁になったらまずいと彼らが焦っている理由は一つ、麻生氏が構造改革に熱心ではないからだ。従って、いま国会審議が行なわれると、再び郵政民営化凍結の気運が起こる可能性がある。アメリカはこれを阻止する動きに出た。これが上述の読売新聞を中心としたマスコミの世論誘導なのである。国民は気が付かねばならない。小泉氏から安部氏に引き継がれた構造改革は、実は国家を破壊する最悪の政策であることを。

 構造改革は、緊縮財政でデフレを拡大させ、不良債権を増加させた。その上、その不良債権を加速的に処理して日本経済を破壊したのである。構造改革派はなぜこのような破滅的政策を行なったのだろうか。ここにこそ、植草一秀氏の小泉政権批判と弾劾の要点がある。すなわち、日本の優良資産の価値を低落させて外資買いに便宜を供与する政策にほかならない。文字通りの売国政策である。そして、この売国政策が収斂している最終目標こそ郵政民営化なのだ。それが今日の時点からあと11日で実行される。国家の命運がかかるこの歴史的に重要な時期に、安部氏退陣と総裁選が出てきた。おかしいとは思わないだろうか?テロ特措法も、年金問題も、格差問題も、今の時点では、郵政民営化が阻害されないために方便として強調されているのだ。

 以上の文脈において、エコノミストの植草一秀さんは嵌められたのだ。植草さんは確実に無実である。そして彼が七年も前から小泉政権を果敢に弾劾した事実とその内容を評価するべきである。植草氏が指摘していた「りそな銀行インサイダー疑惑」は、国富収奪の予兆的形態を持っていた。もっと言うなら、350兆円に及ぶ膨大な郵政資金を収奪するための予兆的収奪が「りそな銀行の公的救済」にあらわれている。小泉・竹中構造改革は偽装の改革であり、その目的は国富流出だ。25日に臨時国会が開催されて新総理が誕生するが、国民新党でも、民主党でも、この日に再び「郵政民営化凍結法案」を国会審議にかけるべきだ。それで何としても世論喚起をして、この売国法案の稼動を停止しなければならない。

 最後に皆さんに重要なことを問いかける。郵政民営化は2007年の10月から始まって、2017年までの移行期間を経て完全民営化に到達する。つまり、移行期間が10年というゆっくりした充分な時間を設けていることになっている。皆さんはおかしいとは思わないだろうか?10年の歳月を要して徐々に民営化に移行するなら、なぜ二月に米国副大統領のチェイニーが来日して来月からのスタートをテコ入れしたのだろうか?米政府の上位の人物がなぜこのような露骨な内政干渉をしたのだろうか。そして、8月に提起された「郵政民営化凍結法案」が、なぜひっそりと廃止されたのか。開始を直前にした今、なぜ国会を混乱させ、審議が開かれない事態が生じているのか。そして、最も重要なことだが、なぜマスコミは世論誘導してまでも、福田氏を必死で担ぎ上げるのだろうか。それは小泉構造改革継続のためであり、郵政民営化を確実に実行するためである。

 はっきり言おう。民営化移行期間の10年は国民を欺くペテンなのだ。アメリカは郵政資金の確保を最優先に急いでいることは明らかだ。どう考えても、売国構造改革派とアメリカは10月1日の郵政公社解散と四分社化を待って急いでいるとしか思えない。その日がきたら、たちどころに郵政資金が国外に流れていくのではないのか?

 心ある人たちは、何としても今、郵政民営化を凍結する叫びを上げてほしい。国富がアメリカに渡ってからでは取り返しがつかないのだ。

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クーデターの主犯はメディア(水間政憲)

 あとわずか11日で郵政民営化はスタートする。「なめ猫」さんのブログで知ったのだが、実に重大な記事が掲載されていた。それは、正論の執筆陣の一人でもある水間政憲氏のスクープ記事が、衆議院議員の戸井田徹氏のブログ、「丸坊主日記」に載っていたことだ。全文掲載を条件に著作権フリーとのことなので、コメントから全文転載する。

 要は、福田氏と麻生氏の総裁候補活動に際して、日本のマスコミが世論誘導を行なっている端的な証左を挙げた論考である。

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  http://blog.goo.ne.jp/toidahimeji/e/f00bc6600d3a4d49e024cd353a98ee0f

クーデターの主犯はメディア (水間政憲) 
2007/09/17 19:06
                                                                        
 私は、現在ジャーナリストとして論文を発表しているものです。
今、自民党総裁選を取材していて、戦後の日本の闇が明らかになった。時系列に取材結果を報告し ます。

昨日の自民党本部での麻生氏、福田氏の所見発表演説会は、圧倒的説得力で麻生の圧勝であった。
帰りのエレベェターの中で、福田側に動員されて来た年配の男女が、「麻生さんに負けていたね」とか「「あれじゃ、とても福田さんじゃ無理だよ」などと、感想を述べていた。

 後、午後4時から渋谷ハチ公前の両者の 演説、6時45分からの秋葉原での麻生氏単独演説を取材した。

 渋谷は、一万以上の聴衆で溢れていた。
NHKは「年配者は福田」「若者は麻生」との趣旨で報道していたが、実態は全然違うのです。

 拍手も掛け声も8割方麻生氏支持で圧倒していたのです。
この状況をテレビで見ると、福田氏へ世論が動くように操作されているのです。
 この世論操作を可能にしたのは、街頭演説を土日だけとし、NHKなどのメディアは両者揃ったところ以外報道しないことで、聴衆がどちらを支持しているかを隠すことが出来るのです。
 メディアの中で反麻生氏の急先鋒は、日テレと読売新聞で朝日グループではないことなのです。この件に関しての報道では、朝日グループがまともに見えることが、いかに異常か理解でるでしょう。

 秋葉原での麻生氏単独演説会は、一万人以上が押し掛けて いたが、メディアが報道するようなオタクだけではなく、突然決まった演説会だったことで、9割以上は買い物客が足を止めて聞き入っていたのだ。

 会場には、 その日の午前中にテレビに出演して、福田氏を支持するような発言をしていた平沢勝栄議員も来ていた。

 メディアが如何に異常かは、会場を取材していたNHKテレビクルーと会話を再現することで理解できる。

筆者「すごいよね、今撮っているの今日報道するの」
カメラマン「わからないです、上がどう判断するか」
筆者「麻生さんを隠そう隠そうとしているのおかしいよね」
カメラマン「そうですよね」

と、メディアの現場もこの異常な状況を実感している。

クーデターの主犯をメディアと判断したことを、明らかにする。今日、テレビ朝日のスーパーモーニングを見て確信したことを披瀝する。

それは、鳩山邦夫氏の発言からすべてが明らかになった。

そもそも、雪崩を打って自民党の派閥が福田氏支持に回るきっかけとなったのは、10日夜都内のホテルで開催された「太郎会」終了後の映像が各テレビ局が、繰り返し報道したことによ る。

それは、テレビカメラに向かって鳩山氏が「太郎会は、みんなで麻生さんに総理大臣になってもらうため集まっている会」です。それが、鳩山氏は安倍首相が退陣する意向を麻生氏から聞いた上での発言として、ネガティブキャンペーンに利用されたのです。

ところが、スーパーモーニングで鳩山邦夫氏は「太郎会は昨年10月に発足して毎月第二月曜日に会合をもって、今まで10回になる。」また、「麻生さんに、 総理大臣になってもらいと思っているものが集まった会」との趣旨を説明したとのこと。また、「麻生さんから、一切安倍首相が辞意を漏らしたことを聞いていない」と断言した。

仮に、鳩山氏が聞かされていたのなら、カメラの前で一点の曇りなく、あれほど堂々と「麻生さんに総理なってもらいたいと…」などと発言することは、あり得ない。

一連の報道は、あまりにもできすぎなのです。

太郎会は、いままで、10回開催されていたにもかかわらず、何故、10日夜のニースで報道されたのか。報道各社はどう説明するのか。

安倍首相が辞意を漏らしたことを知っていたのは、麻生氏だけだったことになっているが、取材したテレビ局も知っていたことになる。そうでなければ、太郎会を取材する意味など 一切ないのです。

その映像で、麻生太郎氏と西川京子氏の笑いながらホテルから出て来る姿の同じ映像が使用されているか、その映像を撮ったテレビ局が、このクーデターの首謀者なのです。
                                                                        
筆者は、GHQ占領下言論検閲を専門に近現代史を研究しているが、公開情報を分析するだけで9割以上の真相が明らかにすることができるのです。

今回の一連の報道で一番酷いのは、日テレと読売新聞です。
17日読売朝刊一面トップは、「福田氏圧勝の勢い 本紙調査 衆参213議員支持世論も福田氏58%」と、見出しを打っているのだ。

読売新聞は、何か相当焦っているようだ。
この世論操作は、まるで人民日報と同じではないか。

今回の世論 操作を見ると、朝日よりも読売が突出しなくてはならない理由を分析すると、戦後史の闇がある。

現在、安倍首相と麻生首相誕生を望んでいないのは、中国より米国なのは歴然としているのだ。それは、米国と同盟国であって北朝鮮問題では、日本の国益と一致しない。これは、専門家にとって周知のことだが、元読売新聞社主正力松太郎は、CIAのスパイだったことが米国の公文書で明らかになっている。

今、日本で進行していることは、GHQ占領下の言論統制と同じなのです。

筆者は、ITのことは、よくわかりません。論文として発表する時間がありません。
この書き込みを著作権フリーとします。使用するときは、全文掲載すること だけを条件とします。
                                                                        
 簡単に説明すると、太郎会を利用することができた人物は、麻生太郎氏が安倍首相から辞意を申し入れされたことを知っている人物だけが、太郎会を利用できたのだ。それは、官邸で麻生氏を安倍首相に言われて呼び止めて会談の内容を聞いた人物であろう。メディアに連絡をとった人物が同一人物かは、判らないが、連携した人物がいる可能性がある。いずれにしても太郎会は利用され、鳩山邦夫氏は、嵌められたのです。
                                                                        
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国家崩壊か阻止か!郵政民営化を凍結しよう!!

 あとわずか11日で郵政民営化はスタートする。「なめ猫」さんのブログで知ったのだが、実に重大な記事が掲載されていた。それは、正論の執筆陣の一人でもある水間政憲氏のスクープ記事が、衆議院議員の戸井田徹氏のブログ、「丸坊主日記」に載っていたことだ。全文掲載を条件に著作権フリーとのことなので、コメントから全文転載する。

 要は、福田氏と麻生氏の総裁候補活動に際して、日本のマスコミが世論誘導を行なっている端的な証左を挙げた論考である。

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  http://blog.goo.ne.jp/toidahimeji/e/f00bc6600d3a4d49e024cd353a98ee0f

クーデターの主犯はメディア (水間政憲) 
2007/09/17 19:06
                                                                        
 私は、現在ジャーナリストとして論文を発表しているものです。
今、自民党総裁選を取材していて、戦後の日本の闇が明らかになった。時系列に取材結果を報告し ます。

昨日の自民党本部での麻生氏、福田氏の所見発表演説会は、圧倒的説得力で麻生の圧勝であった。
帰りのエレベェターの中で、福田側に動員されて来た年配の男女が、「麻生さんに負けていたね」とか「「あれじゃ、とても福田さんじゃ無理だよ」などと、感想を述べていた。

 後、午後4時から渋谷ハチ公前の両者の 演説、6時45分からの秋葉原での麻生氏単独演説を取材した。

 渋谷は、一万以上の聴衆で溢れていた。
NHKは「年配者は福田」「若者は麻生」との趣旨で報道していたが、実態は全然違うのです。

 拍手も掛け声も8割方麻生氏支持で圧倒していたのです。
この状況をテレビで見ると、福田氏へ世論が動くように操作されているのです。
 この世論操作を可能にしたのは、街頭演説を土日だけとし、NHKなどのメディアは両者揃ったところ以外報道しないことで、聴衆がどちらを支持しているかを隠すことが出来るのです。
 メディアの中で反麻生氏の急先鋒は、日テレと読売新聞で朝日グループではないことなのです。この件に関しての報道では、朝日グループがまともに見えることが、いかに異常か理解でるでしょう。

 秋葉原での麻生氏単独演説会は、一万人以上が押し掛けて いたが、メディアが報道するようなオタクだけではなく、突然決まった演説会だったことで、9割以上は買い物客が足を止めて聞き入っていたのだ。

 会場には、 その日の午前中にテレビに出演して、福田氏を支持するような発言をしていた平沢勝栄議員も来ていた。

 メディアが如何に異常かは、会場を取材していたNHKテレビクルーと会話を再現することで理解できる。

筆者「すごいよね、今撮っているの今日報道するの」
カメラマン「わからないです、上がどう判断するか」
筆者「麻生さんを隠そう隠そうとしているのおかしいよね」
カメラマン「そうですよね」

と、メディアの現場もこの異常な状況を実感している。

クーデターの主犯をメディアと判断したことを、明らかにする。今日、テレビ朝日のスーパーモーニングを見て確信したことを披瀝する。

それは、鳩山邦夫氏の発言からすべてが明らかになった。

そもそも、雪崩を打って自民党の派閥が福田氏支持に回るきっかけとなったのは、10日夜都内のホテルで開催された「太郎会」終了後の映像が各テレビ局が、繰り返し報道したことによ る。

それは、テレビカメラに向かって鳩山氏が「太郎会は、みんなで麻生さんに総理大臣になってもらうため集まっている会」です。それが、鳩山氏は安倍首相が退陣する意向を麻生氏から聞いた上での発言として、ネガティブキャンペーンに利用されたのです。

ところが、スーパーモーニングで鳩山邦夫氏は「太郎会は昨年10月に発足して毎月第二月曜日に会合をもって、今まで10回になる。」また、「麻生さんに、 総理大臣になってもらいと思っているものが集まった会」との趣旨を説明したとのこと。また、「麻生さんから、一切安倍首相が辞意を漏らしたことを聞いていない」と断言した。

仮に、鳩山氏が聞かされていたのなら、カメラの前で一点の曇りなく、あれほど堂々と「麻生さんに総理なってもらいたいと…」などと発言することは、あり得ない。

一連の報道は、あまりにもできすぎなのです。

太郎会は、いままで、10回開催されていたにもかかわらず、何故、10日夜のニースで報道されたのか。報道各社はどう説明するのか。

安倍首相が辞意を漏らしたことを知っていたのは、麻生氏だけだったことになっているが、取材したテレビ局も知っていたことになる。そうでなければ、太郎会を取材する意味など 一切ないのです。

その映像で、麻生太郎氏と西川京子氏の笑いながらホテルから出て来る姿の同じ映像が使用されているか、その映像を撮ったテレビ局が、このクーデターの首謀者なのです。
                                                                        
筆者は、GHQ占領下言論検閲を専門に近現代史を研究しているが、公開情報を分析するだけで9割以上の真相が明らかにすることができるのです。

今回の一連の報道で一番酷いのは、日テレと読売新聞です。
17日読売朝刊一面トップは、「福田氏圧勝の勢い 本紙調査 衆参213議員支持世論も福田氏58%」と、見出しを打っているのだ。

読売新聞は、何か相当焦っているようだ。
この世論操作は、まるで人民日報と同じではないか。

今回の世論 操作を見ると、朝日よりも読売が突出しなくてはならない理由を分析すると、戦後史の闇がある。

現在、安倍首相と麻生首相誕生を望んでいないのは、中国より米国なのは歴然としているのだ。それは、米国と同盟国であって北朝鮮問題では、日本の国益と一致しない。これは、専門家にとって周知のことだが、元読売新聞社主正力松太郎は、CIAのスパイだったことが米国の公文書で明らかになっている。

今、日本で進行していることは、GHQ占領下の言論統制と同じなのです。

筆者は、ITのことは、よくわかりません。論文として発表する時間がありません。
この書き込みを著作権フリーとします。使用するときは、全文掲載すること だけを条件とします。
                                                                        
 簡単に説明すると、太郎会を利用することができた人物は、麻生太郎氏が安倍首相から辞意を申し入れされたことを知っている人物だけが、太郎会を利用できたのだ。それは、官邸で麻生氏を安倍首相に言われて呼び止めて会談の内容を聞いた人物であろう。メディアに連絡をとった人物が同一人物かは、判らないが、連携した人物がいる可能性がある。いずれにしても太郎会は利用され、鳩山邦夫氏は、嵌められたのです。
                                                                        
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 ここからは「神州の泉」管理人の訴え

 これを見ると、明らかに構造改革急進派(亡国政治家たち)の肝煎りで、大新聞が世論誘導を行なっていることがわかる。総裁選活動において、現状では麻生氏のほうが圧倒的に人気もあり、説得力もあって世論を国民の関心を惹きつけているのだが、マスコミは一様に福田氏がほぼ完全に優勢を占めているように取り扱われている。我々国民は大手マスコミが国民利益をもたらすような報道は絶対にしないということを、二年前の熱狂的な郵政民営化是か非かの衆院解散総選挙で学んでいるはずである。だとすれば、今行なわれている福田・麻生氏両名の総裁選出レースに関しても、マスコミは国民利益と反する報道を行なっていると判断するべきである。

 騙されてはならない。福田氏優勢は世論誘導だ!!国民はこの事実を重く受け止めて、なぜ今の時期に、総裁選を世論誘導して福田氏を祭り上げねばならないか、その理由を見究めねばならない。非常に簡単なことである。これは小泉・竹中構造改革路線を敷いた大元が構造改革を推し進めるために、マスコミに報道管制を敷いたのだ。小泉構造改革は間違いなく国力を最低レベルに低落させる亡国的政策である。この構造改革で地方の惨状は目に余るものがあり、日本は急速に弱肉強食の格差社会に向かった。その結果、無用な痛みを味わった地方が怒りを持って、この間の参院選に投票し、売国自民党の完敗を招来したのだ。この結果を踏まえて、今自民党はダッチロール状態に陥り、求心力を失っている。この現状を憂えた者がいる。それはアメリカである。アメリカは日本の国富を吸い取ることに国家存続の命運がかかっている。そのために小泉純一郎前総理を籠絡し、売国エージェントの竹中平蔵氏にネオリベ構造改革の旗を振らせた。

 よく聞いてほしい。アメリカによる日本国富収奪の最終目標は郵政資金なのである。従って、アメリカはすぐ先に迫っている郵政民営化を滞りなくスタートさせることが急務のなのだ。だからこそ、今月9月の国会を混乱させ、会期をつぶす算段なのだ。唐突な安部首相の退任表明は、郵政民営化凍結の気運を根こそぎつぶす目的に収斂していると私は見ている。アメリカが最も驚愕し恐れたのは、8月に民主党と国民新党で出された「郵政民営化凍結法案」の提示である。ところがこの重要な法案が、誰にも知られない状態でひっそりと廃案の憂き目に遭っている。誰にも知られないように廃案。ここが重要なポイントである。もし、マスメディアが「郵政民営化凍結法案」の消滅を、理由と根拠をあげて報道すれば、国民に不信感が生じ、郵政民営化そのものに疑念を呈する世論が生じる。そうなると、郵政民営化関連法案の実地を急がずに、中身をじっくり検討しようじゃないかということになる。この話が国会で展開されると、アメリカに隷従した構造改革急進派は非常にまずいことになるのだ。彼らはどんなことがあっても構造改革を止めたり停止したりするわけには行かない。アメリカに脅されているからだ。

 だから、今は二年前の郵政民営化時と同じ理由でマスコミは世論誘導を行なっている。その目的は、郵政公社を滞りなく四社分割化することにある。なぜ、今、小泉氏が出てきて福田氏を押したのか。それは福田氏なら構造改革派がコントロールできると踏んだからだ。麻生氏が総理総裁になったらまずいと彼らが焦っている理由は一つ、麻生氏が構造改革に熱心ではないからだ。従って、いま国会審議が行なわれると、再び郵政民営化凍結の気運が起こる可能性がある。アメリカはこれを阻止する動きに出た。これが上述の読売新聞を中心としたマスコミの世論誘導なのである。国民は気が付かねばならない。小泉氏から安部氏に引き継がれた構造改革は、実は国家を破壊する最悪の政策であることを。

 構造改革は、緊縮財政でデフレを拡大させ、不良債権を増加させた。その上、その不良債権を加速的に処理して日本経済を破壊したのである。構造改革派はなぜこのような破滅的政策を行なったのだろうか。ここにこそ、植草一秀氏の小泉政権批判と弾劾の要点がある。すなわち、日本の優良資産の価値を低落させて外資買いに便宜を供与する政策にほかならない。文字通りの売国政策である。そして、この売国政策が収斂している最終目標こそ郵政民営化なのだ。それが今日に時点からあと11日で実行される。国家の命運がかかるこの歴史的に重要な時期に、安部氏退陣と総裁選が出てきた。おかしいとは思わないだろうか?テロ特措法も、年金問題も、格差問題も、今の時点では、郵政民営化が阻害されないために方便として強調されているのだ。

 以上の文脈において、エコノミストの植草一秀さんは嵌められたのだ。植草さんは確実に無実である。そして彼が七年も前から小泉政権を果敢に弾劾した事実とその内容を評価するべきである。植草氏が指摘していた「りそな銀行インサイダー疑惑」は、国富収奪の予兆的形態を持っていた。もっと言うなら、350兆円に及ぶ膨大な郵政資金を収奪するための予兆的収奪が「りそな銀行の公的救済」にあらわれている。小泉・竹中構造改革は偽装の改革であり、その目的は国富流出だ。25日に臨時国会が開催されて新総理が誕生するが、国民新党でも、民主党でも、この日に再び「郵政民営化凍結法案」を国会審議にかけるべきだ。それで何としても世論喚起をして、この売国法案の稼動を停止しなければならない。

 最後に皆さんに重要なことを問いかける。郵政民営化は2007年の10月から始まって、2017年までの移行期間を経て完全民営化に到達する。つまり、移行期間が10年というゆっくりした充分な時間を設けていることになっている。皆さんはおかしいとは思わないだろうか?10年の歳月を要して徐々に民営化に移行するなら、なぜ二月に米国副大統領のチェイニー氏が来日して来月からのスタートをテコ入れしたのだろうか?そして、8月に提起された「郵政民営化凍結法案」が、なぜひっそりと廃止されたのか。開始を直前にした今、なぜ国会を混乱させ、審議が開かれない事態が生じているのか。

 はっきり言おう。民営化移行期間10年の謳い文句は国民を欺くペテンなのだ。アメリカは郵政資金の確保を最優先に急いでいることは明らかだ。どう考えても、売国構造改革派とアメリカは10月1日の郵政公社解散と四分社化を待って急いでいるとしか思えない。その日がきたら、たちどころに郵政資金が国外に流れていくのではないのか?

 心ある人たちは、何としても今、郵政民営化を凍結する叫びを上げてほしい。国富がアメリカに渡ってからでは取り返しがつかないのだ。

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2007年9月18日 (火)

第九回公判傍聴記とその考察(3)

Z氏による公判(7月4日)傍聴記―目撃証人によって暴かれた植草事件の真相

 平成19年7月4日の第9回公判には弁護側の目撃証人の証言により、この事件の裏側が明らかになった。マスコミが大々的に植草氏が痴漢の常習犯だと報じている中で、彼は痴漢をやっていなかったということを法廷で証言するということは、相当の決断と勇気がいったに違いない。これは「それでも地球は回っている」と言ったガリレオの心境だったろう。それだけに極めて信用度が高いので、彼の証言はもっと詳細に分析する必要がある。植草氏を訴えた訴状にある犯行時間の品川を出発した直後から2分間が犯行時間ということで、この間は植草氏は誰とも密着していなかったという証言をこの証人が行ったのだから、完璧なアリバイが成立した。では、被害者女性や植草氏を逮捕した2人の逮捕者の行動はどのように理解すればよいのだろうか。これは100%でっち上げ事件であり、痴漢事件では絶対にあり得ない。その証拠は山ほどあるが、例えばその一つが、植草氏を逮捕した理由である。逮捕したのは、その車両に乗っていた「乗客」2人であり、その名前も住所も分かっている。

 2人共痴漢を目撃していない。検察側証人が逮捕者は私服であったと言ったのだから、私服警官が植草氏を尾行していた可能性は高いが、仮にこの2人が単なる乗客だったと仮定してみよう。例えばあなたが、たまたま乗客として、その事件現場にいたとしたら、あなたは植草氏を逮捕しただろうか。

 他人を逮捕するということは、一歩間違えば大変な罪を犯すことになる。刑法第二百二十条には、不法に人を逮捕し、又は監禁した者は、三月以上七年以下の懲役に処するとある。もしも植草氏が痴漢をしていなかった場合は、自分が懲役刑に処せられるのだ。あるいは相手が暴れて自分が怪我をするかもしれない。図を見ていただきたい。目撃証人が描いた事件当時の車内の様子であり、極めて信頼できるものだ。ただし、二番目の逮捕者hは筆者が書き加えている。

図2
Photo

 図2でkと書いたのが最初に逮捕した乗客である。hと書いたのは二番目に逮捕した乗客である。事件は被害者とされている女性が、品川を出て2~3分後に「子どもが見ている前で」と、植草氏の方を振り返って少し大きめの声で言ったことから始まる。植草氏には「子どもが見ている前で」と聞こえているが、目撃者証人までは届いていない。あなたがkにいたとすると、あなたは痴漢を目撃していないし、女性が振り返って「子どもが見ている前で」と発言した瞬間も目撃していないが、声は聞こえたかもしれない。あなたはその女性の方を振り向いた。そしてその約30秒後には、すでに植草氏を「押しつぶすように(目撃者の証言)」押さえつけたのである。

 あなたがこんなに簡単に逮捕することは絶対にあり得ないことは納得できるだろう。植草氏は、当時逃げる様子は一切なかった。逮捕理由を一切語られなかった中で逮捕された彼は女性が何かを抗議しているのかと思い、その後、女性と話させてくれと言い続けたのだが、kはそれを一切許さなかった。
 女性と植草氏の間には「子どもが見ている前で」という言葉以外、一切の会話は無かった。女性と逮捕者kとの間の会話も、植草氏も目撃証人も聞いていない。それでいきなり逮捕したということは、女性が声を上げ、それを合図に逮捕するような作戦を事前に持っていたとしか考えられない。もっと明瞭なのは第二の逮捕者hだ。目撃証人が言うように、この男は、痴漢を目撃していないばかりでなく、痴漢事件であることの説明を全く受けることなく、走ってやって来て逮捕に協力している。目撃者と検察の会話を書く。

証人:具体的に見えなかったのですが、何度かわめいて、二番目に来た男が、また植草さんを押さえました
検察:最初の人はどのあたりを押さえていたのですか、肩ですか腰ですか。
証人:横の後ろ側から押さえていたと思います
検察:植草さんはあなたから見て背中を見せていたということですか。
証人:そうです
検察:野次馬はどのように来ましたか。
証人:自分が座っていたところの、品川側の方から、反対側の入口の方からというか、反対側の後ろの通路から入ってきた雰囲気の方ですけれども、横っ走りできましたから。

 これらの証言は極めて重要な意味を持っている。単に痴漢の疑いがあるというだけで、2人の乗客が押さえつけるということはあり得ないことである。もし、男が暴力をふるっていて、他の乗客に怪我をさせたというなら、勇敢な乗客がいれば押さえつけることもあるだろう。無抵抗な容疑者であり、逃げようとしてもいないのであれば、このように植草氏が苦しくてうめき声を出すほどの力で、いきなり押さえつけることは絶対にあり得ない。もう一つ、野次馬と表現された二番目の男hは、何の容疑か全く聞いていないし、ましてや痴漢を目撃していないのだから、100%これは不当逮捕である。警察は直ちに取り調べを行うべきだし、弁護側は彼を不当逮捕で告訴すべきだ。

 目撃証人は、この事件が痴漢事件でないと確信した。だからこそ証言しようと決心したのだ。隣の年配の女性も全く同意見のようで、そのことを話していたとも証言している。おそらく、周りで見ていたすべての乗客も同意見だったろう。目撃証人はそのことを何度も強調している。

証人:はじめから目をあけていたのではありませんが、自分の斜め前の男が動いて行って、植草さんがその男に押さえられていました
弁護人:押さえた人は一人でしたか。
証人:はい
弁護人:どういう感じの人でした?。
証人:ちょっと何というか、ごついような人でした
弁護人:けっきょくのところ、一人で押さえたのですか?
証人:あとで野次馬が大騒ぎしながら加わりました。
弁護人:女性の声は聞いていますか。
証人:聞いたかもしれませんが覚えていないです。私は車内暴力かと思いました。女性のことは覚えていません
弁護人:車内暴力とはどういう意味ですか。
証人:植草さんが、フラフラと左右に揺れていたので、誰かにぶつかったか、その人の足を踏んだとか。
弁護人:ユラユラ揺れていたということですか。
証人:はい、それでぶつかってきた人に暴力を。
弁護人:被告人が被害者なのかと思ったということですか。
証人:そうです
弁護人:押さえた人物の声は聞きましたか。
証人:いいえ
弁護人:押さえられた人の声はどうですか。
証人:うめき声を上げたと思います
弁護人:蒲田駅に着いた時、被告人と押さえた男性はどうでしたか。
証人:あとから加わった人はわめきながら降りでゆきました。
弁護人:一緒に降りた女性は見ていますか。
証人:はい
弁護人:どういう感じの女性だったのですか。
証人:どちらかの男性の連れのように思いました。

弁護人:ほかの乗客には何かを話しかけましたか。
証人:席に戻った時、隣の年輩の女性から、「酔っぱらいが絡んだのでしょうかね~」と声をかけられ、私はそれに対して「どうしたのでしょうかね」と言いました。


 目撃証人は、これは痴漢事件などではなく、2人の男が言いがかりをつけて、電車から引きずり出したと認識した。しかも2人の男と一緒に降りた女性が「どちらかの連れのよう」に見えたと言っているように、彼は、3人が何かの仲間のようだという印象を持った。

弁護人:翌日のニュースを見て、どう思いましたか。
証人:「え!ウソだろ」と思いました。
弁護人:法廷で証言する気になったのは、どうしてなんですか。
証人:事件がハレンチ罪と聞いた時、、自分は車内暴力だと思っていましたから。すぐに警察に行くべきでしたが、通りすがりの通行人をやってしまいました。
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検察:女子高生に気が付いたのは蒲田に着いた時でしょうか。
証人:若い子だなと思った。制服着てるような雰囲気ではありませんでしたから。俗にいうセーラー服とか、ブレザーとか、そういうようなものを着ているような雰囲気の方はいなかったです。
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 あと、弁護人の質問に対しては、女性は「二番目の人(野次馬)に寄り添うような感じで降りて行きました」と言っている。また男に取り押さえられた時の情況については、

証人:とにかく車両が揺れるんで、それで、なおかつ酔っ払っていた人なので、それでちょっと異様だったんですよ。男の人に取り押さえられたときの雰囲気が。まあ、何と表現したらよいのか。その時点で女性にからんでたとか、女性にやったとか、そういう雰囲気には見えなかったんで。

 彼は何度も何度も、これは痴漢事件ではないと繰り返して証言していた。事件現場の雰囲気から、彼は確信していたようだ。

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2007年9月16日 (日)

安部氏辞任に思うテツさんの日本論

本ブログの読者であり、時々深い考察を寄せてくださるテツさんからの9月14日のコメントです。管理人も、この透徹した見方には全面的に共感します。(管理人)

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   安倍首相の辞意表明に思う      
                             (神州の泉の読者さん テツさんより)

 私はやはり2年前の郵政選挙が見えない踏絵であったと思います。「みなさん、これからは手紙を書かなくてもメールという手段でいくらでもコミュニケーシンがとれるのです。あっ、今妻からメールが届きました」「ホリエモンは時代が生んだ寵児です」「官から民へ、改革を止めてはならない~。」これらは安倍さんの選挙期間中の応援演説での言葉です。
 安倍さんは小泉さんの亡国的政治に賛同していました。いちばん政治家として成長しなければならないときに小泉さんにかかわってしまったことで、彼の政治家としての資質が大きく損なわれたのではないかと思います。「これからはメールで・・・」というところに教育再生を唱える人の言葉ではないものを感じました。政治家は言葉が命だと私は思います。真の保守政治家はその言葉の真奥に「日本」がなければなりません。かりにも保守を標榜する者は、先祖から繋がる時間とそこに紡がれてきた歴史・伝統・美意識を自分なりに体現してゆかなければなりません。常に深遠なる「日本」に少しでも近づく努力をしなければなりません。いはんや国を守る政治家においてをや、です。安倍さんには決定的にそこが欠落していました。    

 そのつけが首相になってからの胆力のなさ、先祖のお力をいただけなかったことにつながっていたのだと思います。その資質に対して自分たちの夢を託すために目をつぶって本質を指摘してこなかった保守系の論説家・知識人・マスコミあるいは国民にもおおいに責任があります。安倍さんのことよりも「日本」を考えるべきでした。         

 2年前、郵政の民営化について保守・革新・リベラル問わず、「小泉のやりかたはいけないが、民営化はしなければならない」「族議員をなくさなければならない」など表面的な議論に終始していました。関岡さんの指摘に始まり、城内さんや平沼さんのように「アメリカに資金が流出するためのとんでもない法案」であることに気づいた政治家が存在したことには救われましたが、それでもまだ核心に触れ得ていません。評論家遠藤浩一氏は「(たかが郵政の民営化)で国政を誤るな」と言いましたが、そこにも日本の美的感性・情緒の欠落を見ることができます。「民営化」という言葉がどれほどわが国の国柄にそぐわないものであるか。国土を守りつつ都市の人たちよりもはるかに天皇のご存在を潜在的に意識している山間僻地の人たちの生活にそぐわないものであるか。そんなひとつの言葉さえ世の中を気づかぬうちにあらぬ方向へ導いてしまうことに、今の日本は(特に街に住む人)は気づくことができません。                 

 私は、片田舎の小学校で厳格な校長のもと、あたりまえのように「日の丸」を揚げ「君が代」をうたっていました。目の前には霊峰「富士」が我々を見守ってくれていました。わが家に隣接する郵便局には200~300円の貯金をするために農家の方々が来ては、日の当たる暖かな待合室で談笑し、煙草をくゆらし、お茶を飲んで帰っていきました。いまだからこそ思うことですが、そこには山間僻地の人がわずかな額でも「お国に託す」ことで、潜在的に「公」とつながる懐かしくて暖かな空間が広がっていたということです。ここにも「日本」がありました。

 そんな「日本」をかたちは変わっても心に残る風景として次世代へと繋いでゆく知恵と努力がすべての国民に求められているのだと思います。政治にだけ期待するのではなく、自らのうちに「日本」を蓄え、紡いでいかなければならぬと感じています。安倍さんにはこれを機に疎遠となっている先人との対話を始めてほしい、そして「生まれ変わった政治家安倍晋三」として帰ってきてほしいと思います。

投稿 テツ | 2007年9月14日 (金) 15時13分

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 管理人の安部氏に対する感想

 私は安部氏は基本的にお坊ちゃん的な育ちのよさがある人だと思う。しかし、政治家として見た場合、その基本政策を支える思想信条が思いっきりぶれているように見える。それを端的に表しているのが矛盾だらけの彼の行動原理であろう。まず「戦後レジュームからの脱却」と言うが、この定義を彼はまったく捉え切れていない。戦後の日本人が伝統と文化の正当な継承路線に歩んで来なかったという意味なら、まさに安部氏の言うようにそこから出でて、正道に復帰することはその通りである。しかし、はっきり言って「戦後レジューム」というものの核心は東京裁判史観という一種の洗脳史観なのである。この東京裁判史観という非正統的歴史観に加えて、マルキシズムの世界観が合体して出来上がった異常な歴史観、社会観が、いわゆる戦後レジュームというものの正体なのだ。

 ところが、安部氏は村山談話を踏襲し、アメリカで議会にかけられた従軍慰安婦問題を認めるという大きな愚を犯してしまった。東京裁判史観を全面肯定し、従軍慰安婦問題を史実と認めた彼が、いったいどのような考えを持って「戦後レジュームからの脱却」と言えるのだろうか。そして安部氏が政策展望の重要な柱としてあげた教育問題でも、致命的な欠陥を露呈しているのだ。安部氏が小泉構造改革、すなわちアメリカのネオリベ継承者だということは否定しようもない事実である。政治をネオリベ体制に持って行きながら、教育に「美しい国」構想を謳っても、それは原理的な意味ですでに自己矛盾なのだ。その証左が厳然としてある。安部氏は政権公約に「改憲と教育」を挙げているが、教育基本法の改正に加えて「教育バウチャー制の導入」を行なうと明言している。内橋克人氏の「悪夢のサイクル」によれば、このバウチャー制度は教育に市場原理システムを導入することなのだ。

 ミルトン・フリードマン著「選択の自由」によれば、教育バウチャー制とは、これまで学校ごとに与えてきた助成金を、直接各家庭にクーポン券という形で分配し、子供たちが自由に学校を選べるというものだ。これをアメリカやイギリスで導入したところ何が起きたかと言えば、貧困地区の子供たちがその権利を行使できないと言う格差悲劇が起きたのである。安部氏はこれをそのまま踏襲しようとしていた。美しい国へと言いながら、全人格的な教育をと言いながら、子供たちの教育環境に市場原理至上主義を押し付けてどうやって徳育教育が可能なのか?貧困層がたとえ学校を選んだとしても、その地域に子供を居住させたり、移動させたりする自由が得られないならば、学校格差、居住格差を生む効果以外にないではないか。教育バウチャー制については、同じフリードマンの著書「政府からの自由」でも少し触れていた。

 これらのことから、安部氏の思想上の信念は評価に値しないことになる。失脚した人間を叩く趣味はないが、国民に否定された小泉氏の構造改革を頑強に踏襲する基本姿勢では、いかなる日本文明論を語っても空虚なだけであろう。なぜならネオリベの構造改革自体が我が国の国柄にそぐわないからである。小泉構造改革を支持推進した者たちは、一様に「バラマキに戻ってはいけない」と言いながら何をやってきたのか?彼らは旧弊政治手法の欠陥を盾にとってネオリベ的な構造改悪を行なった。バラマキどころか、これは日本破壊である。福田康夫氏の「構造改革は重要です」発言が、戦略的なリップサービスであることを心から祈らずにはいられない。

 安部氏の理論上の失敗は、祖父・岸信介の親米政策と、継承的な日本文明論の理念的な統合が成立していないところにある。私個人はアメリカという国は、その標榜する自由や民主主義と違って、その本質は、他の国々や民族を食いつぶし、自国の一部の民を誤まった享楽に陥れ、他方では大多数の国民を犠牲にする現代のリヴァイアサンだと思っている。あの国は個々の人権を保証するという建前上、国家が奇怪な暴力装置と化し、世界を不幸に導いている。日本とアメリカの和の統合は文明整合的に無理なのだ。だからこそ大東亜戦争は思想戦でもあった。この深層を見ることもなく、安部氏は岡崎久彦氏のアングロサクソン隷従論と大差ない感覚に陥った。私は思うのだが、アメリカに隷従を誓っている者たちは、堂々とその旨を開示して、郵政資金をアメリカに貢ぐことでしか日本の生存は保証されないと言うべきなのだ。これに国民大多数が賛同したならそれは仕方ないことなのだろう。国民の総意が自国文明を否定したことになるからだ。問題はこの本心をひた隠しにして姑息な欺瞞政治を行なう卑劣さにある。


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「郵政民営化凍結」を即時に行なうべきだ!!

  「とむ丸の夢」さんの12日の記事、「ひどいよ、郵政民営化」のコメント欄に「とくらBlog」さんがTBを入れていたので読んでみた。そこには「ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報」の郵政民営化に関する記事が引用されていたので該当記事を読んでみたら、安部首相辞任の本当の理由はともかく、ここ数週間はテロ特措法や年金問題だけが取り上げられ、郵政民営化凍結法案のことはすっかり忘れ去られた格好になっていることが書かれていた。そこへ安部総理退陣から新総理選出のサプライズが重なって、郵政民営化凍結に関する提言や国会審議の出る幕がなくなったということも書かれてあった。私と同じ見方である。

10月1日になると、郵政公社が事実上解体、あらたに四つの株式会社に分かれて郵政事業が民営化に向けてスタートする。早期から年次改革要望書と陰険な圧力を日本にかけ、アメリカが用意周到に種まきしてきた最も重要な計画が身を結ぼうとしている微妙な時期が9月の今である。今のタイミングで政局流動化が起きたのはけっして偶発的なことではないだろう。これは、アメリカが我が国の国富である郵政資金の国際流動化を確実に遂行したいという確固たる意志の発動と見るべきだろう。また、9月11日、郵政民営化について駄目押しのような下記の記事が出ていた。つまり、総務省と金融庁は郵政事業の民営化を最終承認したというニュースだ。

10月1日からの郵政民営化を承認    2007/9/11 
            
 総務省及び金融庁は、郵政民営化法(平成17年法律第97号)第163条第3項の規定に基づき、日本郵政から認可申請のあった「日本郵政公社の業務等の承継に関する実施計画」について認可したと、2007年9月10日に発表した。これで07年10月1日からの民営化が最終的に承認された。

    http://www.j-cast.com/2007/09/11011167.html

  このように郵政民営化のスタート直前の今の微妙な時期、アメリカのエージェントと化している売国構造改革派は「郵政民営化凍結法案」の再燃だけは絶対に避けたいわけである。そのために安部総理に圧力をかけて、総理交代劇の空白を作ったと考えるのはけっしてありえないことではない。

 さて、ここで植草一秀さんことにも言及するが、郵政民営化と植草さんの国策逮捕も密接な関連があると私は見ている。2004年4月8日、品川駅構内エスカレーターで植草さんは女性のスカートを手鏡で覗いたという嫌疑でつかまった。この直後、植草さんの天敵である竹中平蔵氏の動きは看過できないものがある。4月26日には、郵政民営化準備室が発足し、副室長には竹中氏の子飼いである高木祥吉金融庁長官が就任した。そして、9月の内閣改造では竹中氏本人が郵政民営化担当大臣に就任した。前年の2003年5月17日にはりそな銀行の実質国有化が発表されているが、これについて、金融庁の不審な動きやインサイダー疑惑に植草さんが気が付いて世論喚起を行なうことを彼らは恐れていたのだろう。りそな銀行の公的資金による救済にはもちろん竹中氏が深く関与している。植草さんが品川で遭遇した手鏡事件も明らかに偽装事件である。私も寄稿しているが「植草事件の真実」でそのことは克明に確証されている。これは政治的背景を傍証せずとも、その時の状況から嵌められたことが明瞭にわかる事件なのだ。

 構造改革急進派(国賊派)は、植草さんにりそなインサイダー疑惑を言及されると、世論の怒りを駆り立て、政府がらみの金融犯罪の追求だけではなく、郵政民営化自体がつぶれてしまうリスクがあったからだ。それほど植草さんの存在は彼らにとって大きなものだったのだ。ポイントは、りそなインサイダー疑惑には当時の金融庁が深く関与していることにある。

 ところで、10月1日に郵政民営化が施行されると各種手数料が下記のようになる。

振替口座サービス:150円→330円
電信現金払い:180円→630円
公共料金払い込み:30円→240円
定額小為替:1枚10円→100円

ブログ「とむ丸の夢」さんの記事で初めて知ったが、郵政民営化が来月から施行されると各種手数料が上記のように民間銀行並みの値上になる。市場競争にさらされることが民営化なのだから、当然と言えば当然であるが、私と同様にこの事実を知らない人が多いと思う。知らないのは当然である。マスコミが郵政民営化の負の部分を一切報道しないからだ。特に郵政民営化を直前して安部総理が退陣した今の時期は、上記の手数料の値上のことはけっして言わないだろう。それは前述した理由でアメリカのエージェントたちが深刻にナーバスになっているからだ。小泉純一郎氏は「米百俵の故事」を言って国民をペテンにかけた。もし、本当に改革を実行するには痛みが伴うという真摯な理由であれば、郵政民営化に伴う混乱やその他、以前と比べて変化する部分をマスコミにわかりやすく報道して国民の理解と受容を得る努力が必要だった。しかし、竹中氏を中心とする関係者はそれを行なったのだろうか。

 竹中氏が国会やテレビで郵政民営化の混乱に対する対応策を語っていたが、私から言わせれば、小難しい経済用語ばかり駆使して国民を煙に巻いていたように思えた。B層さえ納得させればあとは何とかなるという方針を固守していた。国民が真に知りたかったことは、例えばこの手数料のように、負担や不便が出る部分についてはきちんと理解されるように言うのが普通だと思う。ところが誠意ある報道をしないということは、この郵政民営化という政策思想そのものがいかにいかがわしい本質を持つかを示している。生活レベルで言うなら、銀行が統合合併を行なって数を減らし、庶民はただでさえ生活空間から金融窓口が離れてしまった。メガバンク化した銀行が力を持ったために、市場原理が働いて手数料は上がるだけである。銀行にとって、庶民という個人はお金を預けてくれるありがたいお客様という思いは微塵もない。銀行が無機的な対応になったことは誰しもが感じることだ。明らかに金融機関はアメリカ化に向かっている。

アメリカの年次改革要望書に従って、二年前に衆参両院の異常な状況の中で郵政民営化法案は成立した。たった一つの法案イシューのために、結果的に亀井静香氏や平沼赳夫氏など、正常な感覚を持つ実力者が排斥されるという狂気の道程をたどってこの法案は成立した。アメリカにはエクソン・フロリオ条項なる金融的な経済防衛体制がきちんと整っている。それに比して我が国はこの防衛的方策に関して、国会もマスコミも故意に排斥したような態度を取っていた。政府が管轄する郵政事業はもちろん完璧なものではないだろう。改善の余地は多くあったと思うが、拙速に民営化する必然性も蓋然性もまったくないものだった。郵政事業は地域の文化維持やコミュニティの安定に深く寄与していた。大きな経済でみれば、財政投融資先に官僚の天下りの問題があって、特殊法人による多額の公金無駄遣いがあり、これは絶対に強硬的な対策を必要としても、巨大な郵政資金は国内還流だった。それが民営化された途端、国外に流出するゲートを開いたことになる。日本よりも金融工学で20年も経験を積んでいるアメリカにとっては、郵政資金を騙し取ることは赤子の手をひねるより簡単なことだろう。

 我々は、郵政民営化の凍結にあらゆる努力を傾注しなければならない。これを放置しておくと、我が国は経済大国から凄惨な貧窮国家に転落する。その時になって気付いても、這い上がる余力は残されていないかもしれない。日本民族には驚くべき復元力が備わっている。かつて日本は敗戦の焦土から立ち上がった。しかし今日、日本が経済戦争、金融戦争に敗北した場合、再びそこから這い上がる道程を歩めるとは限らないのだ。郵政資金には戦後の努力の血と涙、そして巨大なパワーと将来への可能性が蓄積されている。それをむざむざアメリカに貢ぐほど馬鹿らしい自殺行為はない。

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2007年9月14日 (金)

「郵政民営化凍結法案」消滅の真相

「とむ丸の夢」さん9月12日の記事に「郵政民営化凍結法案」のことが書かれていたので、それを紹介する。まずは読んでいただきたいと思う。

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http://pokoapokotom.blog79.fc2.com/blog-entry-415.html

  ひどいよ、郵政民営化

 今日の報道によると、今国会で民主党が提出する主要法案が、年金流用法案、政治資金規正法改正案、イラク特措法廃止法案の3本とする方針を固めたらしい。

 あれ、8月に参議院に提出した郵政民営化凍結法案はどうなってしまったの? と思いませんか。

 8月9日に民主、社民党、国民新党の3党が提出したこの法案は、結局4日間だけの会期を終えた8月の臨時国会が閉会して委員会に付託されないまま廃案になってしまった、ということです。

 そして今度の臨時国会での提出が断念されたのはなぜ?

 これについてはこちら「『自民党』vs『民主党』政権をかけた闘い!」さんが、興味深い推論を載せられてました。
 
 鍵は「臨時国会を前に国民新党が民主党との統一会派に参加しなかったこと」にあると言われています。

 たしかに、民主党と統一会派を組むのが日本新党だとのニュースに、あれ? と思ったのは私だけではないのでは。

 つまり、国民新党そのものが、郵政民営化反対で離党した平沼赳夫の自民党復帰を機に自民党に入って、自民党内の郵政民営化造反組と連携しようとしているのではないか、と言われています。

 さらに、郵便料金、ゆうパック料金等は変わらない、とHPにも書かれているのですが、

10月1日の民営化と同時に各種手数料が民間銀行並みに大幅アップするとのこと。
こちらに載っています。

振替口座サービス:150円→330円
電信現金払い:180円→630円
公共料金払い込み:30円→240円
定額小為替:1枚10円→100円

 これをメディアは国民にまったく伝えていないんですよね。
 その上で10月1日以降には新聞・テレビ等にどっと溢れんばかりに喧伝される、というシナリオでしょうか。

 それにしてもひどい値上げですね。

「送金・決済サービスの料金は、次の通り料金区分の簡素化をさせていただきます」と告げられていますが、なんでも‘簡素化’すればいいというものではありません。

 こうなったら次の選挙では郵政民営化に賛成した候補者たちを落として、その後郵政民営化の見直しをしてもらうよりしかたないかな、

 と諦める前に、喜八ログさんところのrさんの提案を受けて、

「郵政民営化反対」の世論を盛り上げると同時に、民主党以下国民新党、社民党、共産党、日本新党にも「凍結法案提出」を働きかけましょう!

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  まあ、庶民の生活上の問題としても、郵政民営化は重大な悪影響を生むと思われるが、国民全体、国家というレベルで見たとき、このザル法で作られた売国民営化は、340兆円もの国富の消尽を意味している。小泉・竹中両氏は国民を欺いてこの売国法案を成立させ、その実行期限は10月1日、民営化稼動まで、すでに今月九月の残り日だけとなっている。前出の記事で、安部総理の退陣劇は今月の国会討論をつぶす目的だったのではないかという推論を行なった。「とむ丸の夢」さんの記述にもあるように、八月に提出されていた「郵政民営化凍結法案」はひっそりと廃案の憂き目になっていた。不思議なことにマスコミはこれについてまったく報じていない。日本のマスコミは売国マスコミだから、肝心なことは絶対に国民に知らせないことになっている。三角合併などという利敵法案は看過しておきながら、エクソン・フロリオ条項などの防衛法案については露ほども提示しない政治家連中は問題である。

 従って今回の首相辞任劇やコイズミチルドレンの異様な動きは、明らかに郵政民営化の計画実行を完遂するためのものだろう。テロ特措法というのはインド洋における自衛隊の米軍に対する給油活動である。しばし、日本が給油をしなくても米軍にとってはなんら差し支えない。問題は予定されている日本からの莫大な資金が、政治的思惑で急遽止められることにある。アメリカはそれを恐れている。従って今期の国会を何としても妨害して郵政民営化のスタートを滞りなく遂行するつもりだろう。私は米国の魔手が自民党のみならず、当然、民主党にも伸びていると確信する。その結果、郵政民営化凍結法案が消滅する事態となったのだ。

 今日、友人からこんなメールが来ていた。もしかしたら安部さんは城内実さんから教えてもらっていて、郵政民営化の真の構造、真の恐ろしさに気が付き、民営化の土壇場でそれを阻止する動きに転じたのではないのかと。その可能性もあるかもしれない。もしかしたら安部さんは自分の命ばかりか、家族の命も人質に取られてしまったのかもしれない。横田幕府ならやりかねないのだ。

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第九回公判傍聴記とその考察(2)

 ◎Z氏による公判傍聴記―植草氏は痴漢をやっていない

植草事件の公判を傍聴して、植草氏が痴漢をやっていないことを確信した。平成18年12月20日には検察側の目撃証人(以降「検察側証人」という)、平成197月4日の第9回公判には弁護側の目撃証人(以降「弁護側証人」という)の証人尋問があった。マスコミの植草氏への誹謗中傷の報道の中での尋問であったことを考えれば、弁護側証人が証言台に立つには、大変な勇気がいったと思うし、自分には何にもメリットは無かったことを考えれば、嘘を言うために証言台に立ったとは、とても考えられない。第9回公判直後、マスコミは一斉にこの証言は役立たずだと報道した。つまり、弁護側証人が犯行時間にうとうとしていたために、犯行を目撃していなかったと勘違いをしたようだ。しかし、犯行時間は実は品川駅を出て0~2分だということが訴状にあったことで、この時間帯に植草氏が痴漢をしていなかったことを彼はしっかり確認していた。完璧なアリバイ成立だ。弁護側の証人の供述を聞いた全員が、彼が正直に話しているということは確認しており、嘘を言っていると思った人は誰もいない。

弁護側証人と検察側証人の供述は大きく異なるから、どちらかが嘘を言っていることになる。重大な第一の相違点は品川駅を出て0~2分の間の植草氏の痴漢について、弁護側の証人はやっていないと言い、検察側の証人はやっていたと言ったことだ。同一時間帯で完全に相反する事象を両者は証言した。第二の相違点は、植草氏を車内で逮捕したのが弁護側の証人では2人だったと言い、検察側の証人では1人でしかもその男が私服だったと言ったことだ。この2つの重大な相違点は、記憶違いなどでは絶対にあり得ない。

弁護側の証人が、植草氏を極めて注意深く観察しており、記憶が当時の状況を正確に矛盾なく再現できたのに反し、検察側証人は実際と相違する点が多く、しかも中には現実離れした発言も行っていて、信用性は極めて低い。例えば植草氏に関しては

①メガネをしていたのに、していなかったと言った。

②持っていたかばんも傘も見ていない。被告の左手を非常に注意深く見ていたと言っているのに、そこに掛けていたはずの傘を見ていない。

③事件当日と公判の日で植草氏の体重が10kg程度違っていたことは、身体的な印象上から言って一目瞭然だったのだが、その変化に気が付かなかった。

④植草氏は泥酔状態だったのに酔っていなかったと言った。

⑤植草氏を左から見たのに、植草氏の左肩は見なかったが右肩ははっきり見たと言った。これは致命的な発言でありあり得ないことである。

⑥植草氏が被害者に密着して前かがみだったが頭は離れていたと言った。身長差から考えて、そんなことはあり得ない。

⑦自分の40cm前に身長160cmの女性がいて、その前に植草氏がいた。自分と植草氏の距離は70cm。彼はその女性の肩越しに痴漢をしている植草氏の手が見えたとのこと。何と下に降ろした指先まで見えたのだそうだ。身長183cmの彼からは、肩越しに見るのは物理的に絶対に無理。

⑧植草氏の体が不自然に右に傾いていたと言ったが、もし右に傾いていたら、右肩に掛けていたカバンが滑り落ちたはずであり、あり得ない。通常は左側に傾く。

⑨犯行時間も品川から出発して1~2分してから始まり2分間触り続けたとのことで、被害者の主張である品川駅を出発直後からと言うのと食い違っている。

⑩彼は被害者も加害者もつり革につかまっていなかったと言った。図1で分かるようにつり革はつかまろうと思えばつかまれた。あのように激しく揺れる電車内で、両者共、つり革につかまらず2分間もじっとしていること自体、不可能だし不自然である

 このような矛盾だらけの供述をどうして信用できるだろうか。

犯行時間とされている電車が出発してから0~2分の間の車内の様子を最も正確に記述しているのが、弁護人証人による図1である。弁護人証人は「私」と書かれた位置にいた。

図1
1

このとき植草氏はつり革に捕まっていた。これは極めて重要な証言である。以下、証人の供述の枢要を書く。

『自分が座る時、はじめに見た頃は吊り革につかまっていなかった植草さんは高い方の吊り革に右手でつかまっていました。植草さんは電車の揺れにつれて身体が揺れていました。大森海岸のあたりで騒ぎがあることに気付きました。隣の年配女性の近くにいた人が反対側の座席の方に行きました。彼が誰かを押さえていました。その場で立って見ると、植草さんが押さえられていました。


 ごつい感じの男が押さえていました。運動靴とジーパンの人。そのあとから、野次馬風の男が騒ぎながら植草さんを押さえました。女性の声は覚えてないです。植草さんが揺れていたので誰かにぶつかったとかしたのだろうと思いました。その時は被害者が植草さんだと思っていました。うめき声が聞こえました。蒲田駅で彼らが降りる時は野次馬風の人はわめいていました。その時に一緒に降りた女性がいました。この人はどちらかの連れのように見えました。席では隣の年配女性が「酔っ払いにからまれたのでしょうか」と言ったので、私は「どうしたんでしょうかね」と言った覚えがあります』

植草氏も車内で2人の男に逮捕されたと言っているし、弁護側証人も同じことを言っているが、検察側証人は1人だと言っている。しかし、2人目の逮捕者の名前も住所も記録されているわけだから、その男を証人として呼び出し、逮捕した状況を説明させれば、より状況がはっきりするだろう。

弁護側の証人は事実をそのまま述べているし、何の矛盾点も不自然な点も感じられないのに反し、検察側の証人は矛盾だらけである。弁護側証人の証言は植草氏に完璧なアリバイを成立させており、これを崩すに足る証拠は何もない。

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なぜ今のタイミングで安倍総理は辞任なのか?

  ◎唐突な辞任と総裁人事は9月国会の時間つぶしでは?

9月12日、午後二時ごろ、安倍首相は突然退任を表明した。政治家、ニュース解説、評論家などは、所信表明演説を行ったあとで、国家の命運を預かる最高職に就く総理が、今のタイミングで辞職することは無責任だという論調が圧倒的である。この退陣劇について、いろいろな憶測が乱れ飛んでいるが、どれも決定打とはなっていない。民主党の小沢党首との会談を断られたからだとか、消化器系の病状が悪化して気力を喪失したとかいろいろ取り沙汰されている。しかし、安倍首相自身が語ったテロ特措法の延長を考えてのことというのはまったく説得力に欠いている。なぜなら、テロ特措法は暫定立法であり、延長ができなくても、新法として制定すれば問題ないからだ。従って、延長にしろ、新法設立にしろ、民主党を初めとする野党が反対することは同じであるから、今安倍総理が辞任するということがテロ特措法に関わるとは到底思えない。病気入院は後付の体裁だと考えている。そこで私は突飛かもしれないが、安倍総理の退陣理由を別の角度で考えてみた。

 総理大臣は日本国を統べる重責だから、誰がなっても並大抵のストレスではないだろう。しかし、少なくとも15年も政界の空気を吸った安倍氏は、このタイミングで辞める道理がまったくないことは百も承知であろう。つまり個人が調子悪いからと言って会社を休むこととはまったく異なる位置にある。安倍氏にそれがわからないはずはない。しかし、なぜ引き際にこのような不名誉な形態を取ったのであろうか。これを的確に説明しているものはいない。これには冷徹な国際政治が影響しているに違いないと私は考えている。安倍氏が退陣しても後継総裁が浮上するが、国会を中断してまでも退陣した理由があるはずである。

  ここで、スリーネーションリサーチ(株)の最新コラムで、植草氏が書いている末尾の部分を引用する。

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http://www.uekusa-tri.co.jp/column/index.html

  9月10日に臨時国会が召集された。安倍改造内閣は総理の座に留まりたい安倍晋三首相と次期首相を狙う麻生太郎自民党幹事長の私的な利害の一致によって組成された内閣である。経済政策運営では、小泉政権以来の「市場原理主義」を否定する思潮が新内閣内で広がり始めているが、安倍首相は十分な説明を示していない。与謝野馨官房長官は経済政策運営での基本理念を「市場原理主義=弱者切り捨て」から、「弱者への配慮」に転換する意向を示しているが、一方で天下り問題については官僚利権温存をより鮮明に示す可能性が高い。

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今までの安倍政権は、安倍総理と中川秀直氏とのタッグで小泉構造改革路線を継承していた。しかし、新自由主義に基づいた小泉・竹中構造改革路線は、この間の参院選で国民の審判を受けた形となった。与謝野馨氏が言うように、弱者切捨てから、弱者救済の方向転換を模索する勢力が自民党内に生まれていて、これに平沼赳夫氏などの郵政造反組の勢力が加わる様相を呈して来た。つまり、固定化したように見えた新自由主義政策(構造改革)のベクトルが変わろうとする動きが活発になってきたことに、安倍氏辞任の大きな要因があると私は思っている。理由は安倍氏の基本理念が、美しい国という言い方はしているが、結局は小泉構造改革路線の継承を絶対化していたからである。安倍氏は拉致問題の果敢な解決と日本国の主体性を目指すことを「美しい国づくり」の根幹と捉えるなら、政権発足時に鮮烈な小泉批判を行なって、新自由主義路線の確固とした否定路線を目指すべきであった。ところが、安倍氏は構造改革継続は絶対の条件のように旗を振ってしまった。ここに彼のグランドデザインの決定的な間違いがあったものと思える。

 小泉路線を修復するには祖父に当たる岸信介の対米政策を否定して、それを乗り越えなければならなかったのだ。しかし、安倍氏は基本で岡崎久彦氏の「アングロサクソン国家絶対宗主国」という隷属思想を堅持してしまった。ここに彼の自己矛盾が内包され、早晩行動様式上の亀裂が露呈することは避けえなかったと思われる。しかし、安倍氏の器量の問題や国政運営上の矛盾のほかに、安倍氏には深刻な事態が生じていたのではないだろうか。私はそれこそが10月1日から稼動する「郵政民営化」の稼動プランだったと思うのである。テロ特措法の有効期間は11月までである。安倍氏は表向きはこの延長を至上命題としているが、実は言葉に出せない命令をアメリカから強制されている可能性が高い。それこそが10月から始まる郵政民営化の完全遂行なのだ。

 思い出してもらいたい。アメリカの副大統領のチェイニー氏が今年の二月に来日した折、有識者はこのレベルの大物が何のために来日したのかという大きな疑念を持った。それは副大統領自ら、日本の郵政民営化をテコ入れしに来訪したとしか思えない。イラク人道支援という名の下に自衛隊を送り込み、実情はアメリカの軍事作戦の軍事支援であった自衛隊の派遣。その自衛隊の長である久間防衛長官にチェイニー氏は会わなかった。アメリカを批判されたからと言って、アメリカの軍事作戦の大元が外交上で防衛長官と会わない理由はない。だからチェイニー氏の来日は郵政民営化のテコ入れ、すなわち関係者に対する脅しのために来たのだと思う。その結果、あとは郵政株式会社がスタートするのを待つだけで膨大な郵政資金はアメリカ資本の手に落ちるだけである。ところが、最近野党から、「郵政民営化凍結法案」が出された。この法案はいつの間にか消滅していたが、安倍氏が続投していれば、この国会期間にその凍結法案が再び生まれる可能性があった。つまり、国会答弁で郵政民営化問題が一気に燃え上がるかもしれなかった。

 そこでアメリカの政府機関は日本の財務省に働きかけ、安倍氏を孤立無援の状態に追い込んだ。一連の大臣を襲った金銭スキャンダルもアメリカの作戦だろう。植草さんによれば、日本の財務省は外務省よりも売国的体質が強力である。今のタイミングで安倍氏が退陣することにより、時間的な政治空白が生まれ、来月に控えている郵政民営化実行の前に、凍結法案を国会で審議する可能性は限りなくゼロに近くなった。これこそがアメリカが安倍氏に望んだことなのだろう。

 もう一つのできごとは自民党の若手の動きにある。両院総会で次期総理を選ぶ機関が短いのは承服できない、なるべく選出を判断する時間を長く取るべきだという彼らの熾烈な主張である。特に片山さつき氏や佐藤ゆかり氏、小池百合子氏、コイズミチルドレンの必死の叫び、あとは武部勤氏、中川秀直氏、山本一太氏などもそれに呼応して動いている。彼らは小泉前総理の擁立に時間をかけたいということなのだろうか。私は彼ら構造改革派の真意は、総裁選に時間をかけて九月中の国会の時間をつぶすことにあると感じている。これはアメリカによる郵政民営化計画遂行にもとづく動きの一環であろう。アメリカに魂を売り渡した構造改革強硬派の当然なる行動ではないだろうか。小泉氏が突然福田康夫氏を推したことも、郵政造反組みの動きを封じる構造改革継続派の反撃ではないだろうか。彼らの言い方で憤懣やるかたないのは、地域間格差の是正は改革の推進でという空虚な鸚鵡返しだ。「また以前のバラマキに戻ってもいいのか?」と必ず言う。つまり生産性のない無駄な公共事業で地方を疲弊させるのか、それとも改革かという二分法に持って行く。しかし、この小泉論法で言う「改革」とは、弱者切捨て、地方切捨てのことだ。コイズミチルドレンが使うのはこのペテン論法だけである。本心は宗主国様に国富を貢ぐことしか考えていない。

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2007年9月13日 (木)

あれから一年

 今日は9月13日、今から一年前、植草さんは日本をアメリカに売り渡そうとする奴ら(あるいは奴)に無残に嵌められた。奇しくもその日は私の誕生日でもあった。正直言って、当時私は植草さんのことを有名なエコノミストであるという程度にしか知らなかった。テレビでは数回彼の言説を聞いたことはある。真摯にきちんとした根拠をあげて理知的にしゃべるお人だなぁという程度の認識だった。正直、そのころは彼の言う経済についてはあまりよくわからなかった。私自身が経済は専門家に任せておけばいいという実にいい加減な考えでいたからだ。品川事件の当時は、植草さんが小泉政権の政策上の基本構想と対立するエコノミストであることを知らなかったせいか、彼が嵌められたのかもしれないという思いはまだなかった。しかし、西村眞悟議員が国策捜査にやられたと確信した時に、私はその前に植草さんも同じ構図を持つ策謀の被害を受けていたんじゃないかという見方をすでに持っていた。小泉政権が発足し、竹中平蔵氏がその政権に重要な参画をするようになった辺り、つまり2、3年目にこの政権は基本姿勢が妙だ、かなりいかがわしいと自分なりに気が付いていた。

 小泉純一郎氏が総理大臣になった時、私は無知な国民の一人として、この男なら閉塞的な現状を打開してくれるかもしれないと大いに期待した。自民党をぶちこわすと宣言したからである。小泉氏が唱えたスローガンの一つ、「米百俵の精神」は、ウィキペデアによれば、長岡藩の小林虎三郎が言った教育の重要さを示す故事で、「百俵の米も食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万俵、百万俵となる」という、現在を耐え忍べばやがては大きな成果に報われるという話である。郵政民営化という巨大な国家破壊プロジェクトに移行する露払いとして、これは小泉氏が用いた許しがたい詐話(さわ)であった。定義の不明確な構造改革を劇場型パフォーマンスで強行し、国民に我慢を強いておいて緊縮財政下における不良債権処理を急いだ。この結果、日本は歯止めのないデフレ・スパイラルに迷い込んだが、この最悪の政策を裏で行なわせたのはアメリカである。小泉構造改革が実際はどのようなものだったのか、国民はやっと気が付き始め、この間の参院選でその評価が下された。やや遅きに失した感もあるが、零細・中小企業を苦しめ、アメリカ型の格差社会へ構造が変更されたために、いまや老人医療や福祉の根幹が危殆に瀕している。小泉氏の構造改革とは弱者を踏み台にしたり切り捨てたり、一部の金持ち連中が利得を得る構造への改革だったのだ。犠牲者を際限なく出し続けて、米国に連なる外資と一部の金持ちだけが儲かるシステムへの構造替えである。弱者の犠牲、被害が恒常的になっていく社会への切り替えが構造改革の本質だった。そしてその破壊型の構造改悪は今も続いている。

 マスコミが初期報道で植草さんの病的性癖説を土石流のように流布したために、国民はスキャンダラスな次元にばかり目が行って、植草さんの経済提言や小泉政策批判の妥当性に気が付かなかった。政治家も経済界のお偉方もそうだが、ペテン的な小泉政策に幻惑されないで植草さんの言葉を真摯に受け止めていたなら、世の中がこのような有様にはならなかっただろう。国民新党を形成した勢力や平沼赳夫氏など、郵政民営化のペテン性を見抜いていたまとまな政治家たちが頑張って、歪んだ国策の是正に尽力していただろう。国策捜査に嵌められたのは植草さんなのだが、我々国民も、稀代のペテン師である小泉氏や竹中氏のいかがわしさを見抜けなかったために、『国策操作』(国民洗脳)に嵌められていたといえるだろう。もっと言えば完璧にアメリカの思惑通りに日本が操られていたということになる。

 次回は安倍総理がなぜ今突然退任したのかについて、自分なりの突飛な推測を書いてみようと思う。


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2007年9月12日 (水)

過去7回示談報道の真相は国策捜査の補強だった!

  ◎偽装事件の補強として出た記事

 喜八ログさんが今日、「植草一秀さんが朝日放送を提訴」という記事を載せていた。この中で私の記事も紹介されていたが、あの記事から大分時間が経過して、私はより鮮明に例の朝日放送の該当番組が国策的な意志にそって放送されたことを確信している。女性セブン誌が昨年の10月5日号で、「植草痴漢で示談7回の過去」という唐突な記事を出した。朝日放送は、情報番組「ムーブ」の中で、この記事の信憑性をまったく検証することなく、植草氏が痴漢の示談を7回やっていたというでたらめ記事を、あたかも既成事実であるかのように引用した。活字メディアの記事をテレビで報道する場合、視聴者の数や視覚メディア独特の影響の大きさを考慮すると、朝日放送のこの番組は、植草さんにまつわる事件の真相について、決定的かつ重大な意味を持つと言える。

 植草さんは朝日放送に対し、事実無根の放送を行なったとして名誉毀損で1,100万円の損害賠償を請求した。だが、私は国策捜査を基調とする応援者の立場から、元になった週刊誌記事と、その記事を既成事実として放送したできごとを、普通の名誉毀損のレベルで論じる以外に、もっと巨大な背景が存在することを指摘しなければならない。その前に、テレビ番組「ムーブ!」の引用報道に使われた女性セブン誌の該当記事を紹介しておく。

 冒頭部分には痴漢犯罪の量刑や罰金について少し触れており、つづいて犯罪心理学の作田明氏の次の言葉を太字で強調して書いている。

 「痴漢などを含む性犯罪は他の犯罪と比べ、常習性が顕著です。性的嗜好というものは快楽、快感と直結するだけに、なかなか忘れられないからです」

 次に、9月13日の京急事件について語り、その次に品川事件に関わった際に、植草氏が冤罪や無実を主張したこと、植草氏から押収した写真のことなどが書いてある。そして、肝心の過去7回示談記事に触れ、その後に名古屋商科大学大学院での授業に触れ、数十名の女子学生の前でいきなり冤罪の主張を始めたこと、それについて女子大生の一人の感想を書いている。そのあとは大学院事務局の担当者のコメントや別の女子大生のコメントが記述されていて、「研究室で何かされるという危険さえ考えてしまいます。近寄りたくもありません」などと否定的な記事で埋められている。私はこの記事を読んだ時に、あれ?過去7回の記事の具体的な内容はどこにある?と思った。

 それについて書いている箇所は、全記事の真ん中辺にある下記の短い文章だけである。

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 捜査関係者が言う。「最初はいまから14年前の‘92年頃だったと言います。女子高生でチェック柄のスカートを狙う犯行が多かったということで、警察内では要チェック人物でした。ただし、被害者との示談という対応に応じていたので、話は明るみに出なかったようですが、今回で10回目の摘発なんです」(捜査関係者)  つまり、逮捕されたのは三度目だが、過去7回の被害者とは示談が成立していたというわけ。確かに満員電車などで痴漢に間違われる冤罪も少なくない。10回の摘発がすべて被害者の勘違いだというのだろうか。しかもその後示談にしていたというのは事実だ。

******************************************************

 過去7回の示談に関する記事はたったこれだけである。この内容で一体何がわかるのだろうか。捜査関係者から聞いたように書いているから、過去十回の示談に関しては日時と状況、被害者の年齢くらいは最低限度書くべきではないか。しかも、チェック柄と要チェック人物の駄洒落などを書いていることから記事自体に関する真摯性、信憑性はまるで感じられない。加えて私が不審に思ったのは、後半部に「示談7回の過去について、妻に話を聞こうとしたがインターホンの応答はなかった」と書いていることである。俗的な週刊誌だから、奥さんにインタビューする行動はあるような気もするが、肝心の7回示談の内実が示されていない状況で植草さんの関係者にインタビューを取るだろうか。

 以上、女性セブンの記事はタイトルの重要性に比べて肝心の過去7回に関する内容がまったくない記事なのだ。つまり、過去7回の実証的内実がまるでない空虚な記事なのである。この馬鹿げた記事を、朝日放送が検証することもなく、複数の有名人に私見を取り入れて報道させたことになれば、テレビ局の報道姿勢はファッショ的だと糾弾されても当然であろう。巨大メディアが弱い個人を狙い撃ちした最悪な事例の一つと言えるだろう。

 しかし、皆さんは不思議に思われないだろうか。この報道をおこなった週刊誌にしても、テレビにしても、検証の事実がなかったことは歴然としている。しかし、報道はあたかもその過去7回の示談報道が既成事実であるかのように報道された。この異常な形の報道姿勢にこそ、ことの本質が潜んでいるのだ。すなわちこれは権力筋からの意向が働いていると見たほうが筋が通る。私が最近7回に分けて連載したMixiの日記に関する考察とともに、この7回示談報道も、国策捜査を仕組んだ存在が、植草氏が見舞われた偽装事件を補強するために故意に行なったと見たほうがより明瞭に理解できる。公判でこの二種類の記事が採用されていない事実がそれを物語る。今となってみれば、これらの勇み足報道は、法廷で内容を検証された場合、策謀した側にとっては明らかにまずいことになる。当初は勢いで偽装事件の確定性を補強するつもりだったのが、国策捜査の疑惑が生じたために、今度は彼らののど元を突き刺すトゲになったのである。権力側からすれば大失策であったことが見えてくる。

 植草氏の事件が異様な偽装事件の様相を呈していると感じている人たちが、この名誉毀損報道の奥深い真相を汲み取っていただければありがたい。


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2007年9月11日 (火)

第九回公判傍聴記とその考察(1)

 Z氏による第9回公判(7月4日)傍聴記とその考察(1)
   

 これは7月4日に行われた公判証言録と、それへの考察である。被告が痴漢をやっていなかったという決定的証拠になるものを中心に書いてみた。

 証人は座席を探すときに、植草氏のまわりとぐるりと回ったことから、至近距離で彼を注視していた。植草氏は、子どもの頃に見た「スーパーマン」の映画でクラーク・ケントがかけていたような透明っぽい特徴のあるメガネを掛けていたのでよく覚えているとも言っており、メガネに関する記憶も正確である。その時はつり革につかまっておらず、普通に立っていて、どこかで見た顔だと思ったが、植草氏とは気付かなかったと言った。

図1

1

 目撃証言者は自分の座ったときの様子を描いて説明した。それが図1である。この図は証人自身が描いたものがプロジェクターに映し出されたものを、筆者ができる限り正確に写しとった物である。この図では目撃者の右隣には年配の女性gが座っていた。彼は座るとき、その女性に「どうも」と声をかけている。彼が入ったときは席はふさがっていた。発車寸前に座席の右端から二番目の方がちょうど立ったので、そこに座れたと言っている。その時布製のバッグを持っていて、荷物を網棚に上げるとき植草氏をよく見た。それで植草氏だと確信したと言っている。有名人が間近にいるということで、彼は余程植草氏のことを注意深く観察していたことが分かる。
 「疲れているような、くたびれたサラリーマンがつり革に掴まってこうべをさげているような感じでした。黒いカバンを下げていた。」というところまで注意深く観察していて記憶も極めて正確である。通常の乗客に対しては、そこまでは細かく観察しないし、ほとんど記憶に残らない。彼が、植草氏の周りをぐるりと回った時、「乗り込むときに植草さんの横をとおって、ちょっと酒臭く感じました。つり革の掴まり方が、だらしない感じでした」という彼の印象を表現している。植草氏が酒をのんでいたかどうかに関する検事と証人の質疑応答は以下の通りである。

検事: 先ほどの主尋問ではお酒のにおいと言って、今はたばこのにおいもとお話ししましたけど、それはどちらなんですか。 証人:両方だと思いますけれども 検事:酒のにおいに本当に気付いたのですか。

証人:(植草さんが)ふうって言いながら電車の中で立っていましたので、立ってというか、そこを私、通り過ぎましたので、ちょうど人の息のかかるみたいなところですから。

それでお酒の匂いだとわかったのですか? 証人:はい  植草氏のメガネ、泥酔状態であった様子、立っていた場所、カバンを持っていたこと、顔を至近距離で見ていて、植草氏であることを確認していること電車に乗った時間、車両の位置などすべてを考慮に入れて、この証人が事件を目撃したことは100%間違いない。証人は植草氏を非常によく観察している。

検事:青物横丁まであなたは寝ていなかったということですね。

証人:はい。

検事その間に植草氏があなたの方を後ろを向いて振り返ったというような記載があなたのファックスのなかにありますけれども、これは事実なんですか

証人:はい。酔っ払っている方なんで、こうやってこうしたりとか、こうしたりとかやっていましたよ。本人を目の前にして申し訳ないですけれども、やっぱり酔っ払いだなという感じですけれども。

検事青物横丁まで、何回くらい植草さんが後ろを振り向きましたか?

証人:動作ですから、回数と言われると、分かりません。

「被告人がつり革に掴まらずに立っていられる状態だったと思いますか?」との質問に証人は「北品川を過ぎるあたりから京急はすごく揺れるので、掴まっていなかったらひっくり返ると思う」と答えた。つり革につかまらなければひっくり返るだろうということを注視すると、これもこの痴漢事件がでっち上げだと分かる。4kgもの重いかばんを下げ、泥酔状態の人が両手を使って、こんな所で2分間もの間、痴漢をしたなどというできごとはあり得ない作り話だ。この証人は、痴漢をしたとされる最も重要なこの段階で、被害者女性を目撃していない。恐らく女性そのものは視界に入っていたのだろうが、余程注意しないと印象には残っていなかったということだろう。彼は自分の前にいる有名人「植草一秀」のことばかり注目していたために、この女性に関しては記憶に残っていないものと思われる。

 さらに言えば、植草氏が近くにいる女性に触れる行為を2分間も継続していたなら、確実にこの目撃証人によって目撃され、被害に遭った女性の印象も強く刻印されたはずである。その二分間、証人には女性に関する記憶が皆無だ。もし、座席に座っていた証人と植草氏を結ぶ線の延長上、つまり証人から見て、植草氏の陰に位置していた女性がいて、植草氏によって被害を受けていたと仮定するなら、確かにそこは死角になっている。しかし、この仮定もあり得ない。なぜなら植草氏は右手で吊り革をつかんで自分の身を支えていたからである。つまり、植草氏は全方位的に誰にも触れていなかったことは確実なのである。吊り革もつかまず4キログラムのカバンを肩にかけ、酩酊状態で揺れる電車内にいる彼は、吊り革なしでは立っていることもできなかったはずだ。ましてや、その状態で両手を自由にして女性に触れる余裕、余力など生じるわけがない。

 また、起訴状によれば、被害者女性は電車進行方向に向いて植草氏の前にいたことになる。検察の言うその位置を真実と仮定すれば、図1に描いたdの位置にいたことになる。もしも女性がこの位置で痴漢の被害にあったとしよう。そうすると、この位置は図でa,b,c,e,f,g,kのすべての人から目立つというか、丸見えの位置だということに注目しよう。もちろん立っている人はどちらを向いているか分からない。しかし、この証人に加えa,b,f,gの人は向いている方向が確定しているので、痴漢が起きていたら絶対に見ていたはずである。(ただし眠っていない場合であるが)特にa,bは至近距離である。2分間も触られ続けたとすると、例えばbの人に視線を送ればきっとなんらかの行動を起こしてくれたと思う。

 また、証人は車内は混んではいない、「まばら」の乗客だったと証言したが、これは椅子と椅子のあいだのスペースのことであり、座席は満席であり、出入り口付近の四角のゾーンは人が触れ合う程度(表現は違うかもしれないがこのような意味)だったと証言した。図1を見ればわかるが、痴漢を行なったとされる位置が、出入り口付近の四角のゾーンと座席のゾーンの中間領域だとすれば、目撃証人は植草氏を視野に捕捉していたわけだから、位置的に被害者女性が見えなければおかしい。いくら何でも、こんなまばらな所で痴漢をする者がいるはずがない。被害者女性が座席のゾーンに立っていたとするなら、そこは痴漢には最もふさわしくない場所になる。ここでやるくらいなら、ホームで待っていたときに女性を捜してやるほうがまだ理にかなっている。揺れないし、目の前でじっと見ている人もいないではないか。

 しかし、ホームで痴漢に遭うこともほとんどあり得ないことだ。痴漢と言えば混んだ電車内と決まっている。満員電車でどさくさに紛れて触れるから痴漢という卑劣な犯行は成立するわけで、図のような環境では痴漢が起きる条件には程遠い。痴漢に特有な隠蔽性という条件が成立していない。電車内で痴漢にあったという話を作るのは簡単だが、目撃証人が現れたら嘘が簡単に露見するということだ。四方から目撃できる車内環境で二分間の痴漢行為は非現実的である。それでも、今の日本の痴漢冤罪事情とは、女性が故意に痴漢に遭いましたと田舎芝居を実行し、狙った誰かを捕まえれば、起訴するのは検察の判断でできるし、起訴となれば99.9%が有罪になるという現実がある。つまりどんな下手な田舎芝居でも99.9%は成功するという保証を裁判所で与えていることに問題があるのだ。今の日本は、痴漢の摘発の仕方にも問題があるが、司法の取り扱いも先進国としては非常に恥ずべきものがある。

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2007年9月 9日 (日)

植草氏は国策捜査の犠牲に?「知られざる真実 勾留地にて」を読んで

ネットの市民記者ニュースというサイトに、ひらのゆきこさんという方が、植草さんの新著「知られざる真実 公留地にて」に関して素晴らしい感想文を書かれていたのでここに掲載する。

http://www.news.janjan.jp/culture/0709/0709071957/1.php

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植草氏は国策捜査の犠牲に? 「知られざる真実 拘留地にて」を読んで 2007/09/08

関連記事:植草裁判 最終意見陳述で無実訴える

Shirarezarushinjitsu  元大学教授の植草一秀氏著「知られざる真実 拘留地にて」(イプシロン出版企画)を読んだ。

 06年9月、電車内で痴漢行為をしたとして逮捕・起訴された植草氏は、無実を訴え、現在裁判で闘っている。植草氏は本書を当時拘留されていた東京拘置所で書いたそうだ。多くの制約や条件があり、データを充分示せなかったため、その点を保釈後に補足したとの記述があるが、一読して伝わってくるのは、論理の明快さと、その主張に一貫性があることである。

著者:植草一秀
発行:イプシロン出版企画 植草氏は自らにかけられた疑惑に対し、「天に誓い、疑いをかけられている罪を犯していない」と本書の冒頭で明言している。また、「痴漢は卑劣な犯罪」であり、「痴漢犯罪を憎悪していた」とも語っている。そして、「私の言葉を信じてもらえるか、読者に委ねられる」と述べ、「本書で私は真実をありのままに記述した。私の心に一点の翳りもない」と断言している。

 今回の事件に遭遇する直前まで植草氏は、「直言」というサイトに「失われた5年-小泉政権・負の総決算」という記事を書いていた。筆者は「直言」の愛読者だったので、植草氏の記事についても毎回欠かさず読んでいた。最後となった06年9月6日掲載の記事には、小泉政権の5年半の期間、日本経済は最悪の状態に陥った、と植草氏は小泉政権の経済政策を厳しく批判していた。

 小泉政権時代、日経平均株価は7,600円まで暴落した。植草氏は、国民が本来直面せずにすんだ苦しみを与えたと述べ、失業、倒産、自殺などの悲劇が国民に襲い掛かった一方で、日本の優良資産を破格の安値で外資が大量取得したことに言及し、小泉政権の経済政策の失敗による「人災」であるとして糾弾していた。

 本書は、第一章「偽装」、第二章「炎」、第三章「不撓不屈」と三章からなり、巻末資料として「真実」と題する、植草氏が遭遇した事件の経緯について詳細に述べた文章が載っている。筆者がもっとも強い関心を持って読んだのは、本書の眼目ともいうべき、第一章「偽装」の中にある、りそな銀行が国有化される過程で行われた処理の経緯である。

 植草氏によると、それまで銀行には5年分の「繰延税金資産」計上が認められてきたそうである。しかし、りそな銀行だけがなぜか3年計上しか認められず、債務超過に陥った。そのままだと破綻するはずだったりそな銀行に、政府は預金保険法第102条第1項第1措置の「抜け穴規定」を適用し、税金を投入してりそな銀行を救済した。

 問題は、なぜ、それまで認められていた5年計上が、りそな銀行だけ3年しか認められなかったのかということである。「繰延税金資産5年計上」を前提に3月末を迎えたりそな銀行に対し、監査法人が3年計上を伝えたのは5月6日だった。この時期に指摘を受けても手立てを講じることができないことから、植草氏は「謀略」の可能性を指摘している。りそなと同じような程度の財務症状の銀行は複数ある中で、なぜりそなが標的とされたのか。その理由についても、植草氏は言及している。

 りそな銀行については、06年12月、朝日新聞や東京新聞などが、りそな銀行が3年間で自民党への融資額が10倍となったことを伝えていたことが記憶に新しいが、国有化された銀行が一政党に私物化されているような状況は大きな問題であるにもかかわらず、なぜかこの問題について追及する記事がその後書かれることはなく、議論にもなっていないことに、疑問を感じた国民も多いのではないだろうか。

 植草氏は、りそな処理に関する巨大なインサイダー取引疑惑の存在について、テレビで何度も指摘していたそうだ。本書で植草氏は、今回の事件とこうした発言の関連性については一言も言及していない。ただ、事実をありのままに述べているだけである。そこからなにを汲み取るか、読者の想像力に委ねている。

 植草氏は、04年の「手鏡事件」の真相について記述した原稿300枚を書き終え、小泉政権の総括と新政権の政策課題を経済政策論として出版する予定だったそうだ。事件に遭遇したことによって予定が白紙となり、新規に書き下したものが本書である、と述べている。

 前回の事件(エスカレーターで女子高生のスカートの下を手鏡で覗いたとして警察官に逮捕された事件)については、植草氏を横浜から品川まで尾行してきた警察官の目撃証言が二転三転したことや、実際に現場で実況見分した人たちによって、警察官の主張の信憑性に疑いが出ていることや、監視カメラに映像が残っていないことなど、えん罪の可能性が強いことを多くの人が指摘している。植草さんを支援するインターネットのサイトでは、今回の事件が起きたときも真っ先にえん罪の可能性を指摘し、不当な長期拘留に抗議の声を挙げた人が数多くいた。

 佐藤優氏の件で「国策捜査」という言葉が知れ渡るようになったが、植草氏の事件も「国策捜査」であると指摘する声がある。これらのほか鈴木宗男氏、辻元清美氏、西村慎吾氏など、国策捜査と言われている事件に共通するのは、メディアによる異常ともいえるような情報操作だ。

 植草氏の場合も、まだ事実が明らかになっていない段階で、一方的に犯罪者と決め付け、植草氏を貶めるような報道が連日のようにテレビで報じられた。本人が言ってもいないことを言ったように伝え、なんの裏付けもない不確かな情報を、あたかも事実であるかのように報じていた。報道番組やワイドショーなどの司会者やコメンテーターと称する出演者は、一般の視聴者の代弁者のような口調で植村氏を誹謗中傷するような発言を執拗に繰り返していた。

 裁判が始まってからも、公判で審理された内容を正確に伝えず、故意に歪曲し、植草氏を貶めるような記事を書いていた一部のメディアもあった。特に、植草氏の無実を証言した、同じ電車に乗り合わせた目撃証人に対し、犯行があったとされる時間帯のあと、ウトウトしたという目撃証人の言葉をとらえ、「ウトウトしていて(植草氏が犯行行為に及んだか否か)見ていなかった」と断じたことは、著しく事実に反していると言わざるを得ない。

 植草氏は「偽装は偽りがさらされたときにはじめて偽装だと知らされる。偽装が露見するまで、偽装が本物として扱われる。偽装が怖いのはこの点である」と本書で述べている。

 小泉政権の行った経済政策の実態が徐々に明らかになり、小泉首相の唱えた「改革」がだれのためのものであったのか、多くの国民が気づき始めている。自民党惨敗という、参院で示された民意について、閣僚の不祥事や年金問題や政治とカネに対する処理に問題があったこと、また、「自民党にお灸をすえた」などととらえている意見もあるが、大企業や一部の富裕層を優遇する一方で、地方を切り捨て、弱者を切り捨てる小泉政権の政策を継承した安倍政権に対して国民は「ノー」を突きつけたのである。

 政治は弱い立場の人たちのためにある、との信念のもと、弱者切り捨ての小泉政権の経済政策を厳しく批判してきた植草氏がなぜ事件に遭遇したのか、本書を読めばその答えは得られるはずである。「偽装」を見過ごせば、ふたたび同じことが繰りかえされる。植草氏が本書で訴えているように、メディアの情報操作に惑わされず、1人ひとりが自分の頭で考えが、判断することが「偽装」を見抜く大きな手立てとなることを、いまこそ私たちは心して肝に銘じなければならない。

 なお、巻末資料の「真実」には、今回の事件や04年4月の手鏡事件に加え、98年の事件についても、その経緯について真相を明らかにしている。

 1人で多くの人が本書を読み、不当な理不尽と戦いながら、なおも勇気をもって発言を続ける植草氏の声に耳を傾けてくれることを願っている。

(ひらのゆきこ)

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2007年9月 5日 (水)

ネクタイをキーワードとして考察する(7)

Mixi_3

 この記事から弁護側が引用した時、検察官は異議として、それは何の証拠にもなってないと言い、裁判長は、引用されているのかもわからないし、実際にそういう記載があるのかないのかも確認のしようがないので質問を変えてもらいたいと言っている。検察官は該当記事が何の証拠にもならないと断定したが、内容は明らかに事件を直接よく知る者によってもたらされたものだ。しかし、証拠能力がないということは記載内容に問題があるということになる。記事中のネクタイをつかんで逮捕ということと、女の子が「やめてください」と言っていることは公判と一致しているが、その他の記述に不整合があるということなのか。記事中の「咄嗟のことで周囲は動かない」とか、逮捕者が「駅員さん呼んでください、と言ってもなかなか周りは協力しなかった」などということは公判と違っているが、こういう差異が検察側証言を阻害する要因だとは思えない。ではなぜ、この記事を検察が忌避したのかと言えば、おそらく記事中に「あってはならない記述」が盛り込まれていた可能性が高い。

 私は記事に記載されてはならなかった記述こそが、「でね、警察から金一封もらったんですって」という箇所に違いないと思うわけである。我々一般人は、金一封と言えばすぐにそれは賞罰的な意味での報奨金だと思うだろう。しかし、この場合の金一封はニュアンスが異なっていて、何か良いことをしたことへの礼金ではなく、長時間拘束して協力者に迷惑をかけたという意味でのいわば迷惑料に近いものだ。すなわち捜査協力へのお礼である。話を戻すが、もし記事に書かれたようにこの逮捕者が警察署から金一封を受け取っていたとすれば、この人物の身元と職場が固定化される。彼が一般人ならそれはプライバシー保持以外には何の問題もないだろう。しかし、もしも彼が国策捜査プロジェクトの一員ならば、マスコミやその他から彼に話を聞きたいという状況が持ち上がった場合、非常にまずいことになる。国策捜査ならば彼の身元は極秘にしなければならないからだ。ましてや「私服の男性」の逮捕者が警察官をさしていた場合、金一封はあり得ない事になる。繰り返すが、この日記が検察側の言い分を強力に補強することになるのであれば、審議に採用して当然だと思われるが不思議なことに即却下されている。採用されない理由の方に目が向いてしまう。

 この日記は他の媒体で一切取り上げられていない。普通に考えてみてもわかると思うが、有名な植草教授を捕まえた一般人という立場なら、ニュースバリューが非常に高いわけで、その逮捕者にマスコミのインタビューが殺到してもよさそうなものだ。ところがマスコミはこれについて一切触れていない。テレビのワイドショーならば、「この方が植草氏を捕まえたんです」と真っ先にインタビューに飛びつきそうなことを思えば、このやる気のなさは不思議である。マスコミは植草氏が不利になることなら何でも飛びついて報道を行なっていた時期である。しかし、その気になればMixiに書かれたこの逮捕者を調べ、彼の口から聞いたことを記事に書けるはずなのに、週刊誌でさえもこの人物に触れていないのだ。宮崎哲弥氏や橋下徹弁護士が堂々と植草氏の病的性癖論をぶっていた時期でもあったが、なぜかマスコミはこの記事に飛びつかなかった。この現象を逆から投射してみると、この記事内容には、国策捜査を仕組んだ側にとって、絶対に外に出したくない要素があるとしか考えられないのだ。それがおそらく金一封をもらったという記載なのだろう。当日、蒲田警察署にそのことに関して金一封の事実はあったのだろうか。

 以上が私の推論の概要であるが、私がネクタイをつかむことにこだわったのは、植草氏の容疑が都の迷惑防止条例違反であったことと、植草氏自身が暴れたり逃走したりする気配がなかったが、弁護側目撃者の証言を信じれば、車内では屈強な男が二人がかりで強制的に連れていったことが事実としてあるのだ。ところが公判で出された検察側の証言では、なぜか一人の男がネクタイをつかんで逮捕していることになっている。これに強い不自然さを感じた。要は、二人が強い力で制圧したこの連行形態が国策捜査の計画遂行を想起させるからである。それならば、二人という事実と植草氏の上半身が身動きできないほど強力な力で押さえつけられた状況を隠蔽する理由が成立するからである。


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ネクタイをキーワードとして考察する(6)

 植草氏は小泉政権が採用したマクロ的経済政策の誤導性と犯罪性を熾烈に指摘していた。当時の官邸筋の主要な人間、特に竹中平蔵氏は植草氏を政策遂行上の最大の天敵とみなしていた。なぜなら、竹中氏こそが「年次改革要望書」実現の最大の功労者だったからだ。言葉を換えて言えばアメリカの走狗的存在の第一人者である。竹中氏がテレビの経済政策論争で唯一勝てずに避けていたエコノミストがいる。それが植草一秀氏であった。竹中氏は植草氏との論争を努めて回避していた。なぜなら彼は植草氏に完全に打ち負かされてしまうからである。アメリカに魂を売った者と、国益と庶民の幸福原理を念頭に置く者との真摯さの差異とでも言おうか。植草氏の瑕疵のない論旨に竹中氏の水準では歯向かうこともできないということだ。竹中氏が植草氏を嵌めた国策捜査の首魁だとは言わないが、国策捜査という大きな策謀的デザインから言えば、彼にとって植草氏の経済分析・政策分析は最も大きな阻害要因であったことは間違いない。

 もう一度話をネクタイの件に戻すと、第二回と第六回の公判に出た検察側証言者が植草氏のネクタイをつかんだことに言及しているが、冒頭に説明したように、この状況はMixiで、事件の2日後の9月15日の深夜1時9分、逮捕者の同僚と名乗る人物によって、「84a2さんの日記」と題したブログで語られている。
 
 「とりあえずは教授捕まえて次の駅で突き出そうとして、ネクタイぐいっと引っ張って行ったらしいですが、云々」

Mixiのブログに描かれた逮捕状況が、第二回公判の目撃証言と、第六回公判の逮捕者の証言と奇妙に一致していることは、このブログの作者がその事件に関する情報を仕入れていることは確かである。しかも作者は最後尾で、「この日記は当事者の方に許可を得て書いています☆」と明記してあるのだ。これは憶測では書けない内容である。しかし一番不思議なのはこの記事に書かれた逮捕状況が「ネクタイをつかんで」というところにある。車両内の逮捕状況を整理すると、検察側証人の語るものと、弁護側証人の語るものが二つに分かれている。

 (1)検察側証人は二名とも、一人がネクタイをつかんだという逮捕状況を語る 

  (2)弁護側証人は二人の男が、上体が身動きできないほど強い力で取り押さえたと語る(ただしネクタイには言及していない)

 Mixiの記事の作者はこの二つの筋のうち、(1)の検察側証人の語る内容に合致している。すなわち、車両内では一人がネクタイをつかんだと書いているからである。逮捕者の職場の同僚であるということと、当事者の許可を得て書いているということを見ればこの記事が検察側証言の相当に有効な補強材料となるはずである。ところが公判ではなぜかこの記事が採用されなかった。採用されない理由を考えてみると、この記事の出所が国策捜査の初期プランを考えた者たちから出たという推測が出てくる。それは、偽装事件が発生した当初、この記事は事件をもっともらしく見せるために補強的に役立っていたのではないだろうか。この記事は、初期報道でマスコミが偏ったイメージを世間に怒涛のように植えつけたこととまったく同様の意図が働いて、補強的にネットに出されたものと思えるのだ。

 Mixiの当該記事に関するその疑惑は、もちろん私個人の憶測であるが、そうすると、このブログがいつも間にか非公開になり、当該記事が公判で採用されなかった理由がおぼろげに見えてくる。記事の内容に公開を継続してはまずい記述があるのではないだろうか。

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ネクタイをキーワードとして考察する(5)

  さて、ここで再びネクタイに話を戻そう。この逮捕劇が通常の痴漢逮捕の状況だとすると、まったくありえない連行行為だとは断言できないが、少なくとも上述の意味ですこぶる異様である。ホームでの連行途上、植草氏は女の子と話をさせてくれと何度も言っているが、電車内では大人しくしていた。逃亡の気配さえなかった。この状態で、江戸時代の下手人捕縛のような二人がかりの完全制圧はやはり常軌を逸している。このような逮捕状況に論理的必然性は感じられない。繰り返すが植草氏の容疑は強制わいせつ罪ではなく、都の迷惑防止条例違反である。しかしながら、彼らはあまりにも強い周到性と計画性に沿って動いているように見える。二人の検察側証言者による公判証言録によれば、この異様な逮捕事実をそのまま発表することを努めて避けているように思う。そこで彼らは車内では一人でネクタイをつかんだという話にすり替えたのではないだろうか。これなら植草氏の無抵抗な態度と合致するからである。検察側証人がネクタイにこだわったのは、屈強な二人が強制的に制圧したというイメージを避けたからである。これは国策逮捕の事実から世間の目を逸らすためだったのではないのか。もちろんこれは私個人の推測であるが、これを読まれている皆さんも、力の強い大の男が二人で取り押さえたという事実を伏せて、ネクタイをつかんだという表現に故意に変えている事実を考察してみて欲しい。ここで、もう一つ参考になる材料を提供しよう。それは第二回公判の目撃証人が車内で植草氏を逮捕した者を「私服の男性」と思わず語った事実である。「逮捕」という能動的行為にいたる人間を「私服」という言葉で表現すれば、私に限らずダイレクトにその男性が私服の警察官ではないかと考えてしまうだろう。

481 T証人 車両の前方の方から私服の男性があらわれて、女子高生に話しかけました。

 私服の警官が都合よく電車に乗り合わせていたのだろうか。私は、そのことよりも、この検察側目撃証人が逮捕者を私服と形容したことに強くこだわりを持つ。同時に、植草氏を逮捕した二名のどちらかの連れのように見えた女性の存在が、弁護側証人によって目撃されていたと言う事実がある。これらを冷静に鑑みると、偽装事件を成立させるために、複数のスタッフが植草氏の近くに待機していたように連想せずにはいられないのだ。

 植草氏を貶めるために国策逮捕という偽装事件の計画が存在した。犯罪名は過去の二度の事例を引き合いに出して、三度目の同質性を持った事件に仕上げることだった。植草氏の人間性を貶めるために最も適した罪名が「迷惑防止条例違反」だった。これなら彼の病的性癖による事件として世間にイメージを固定化できるからである。卑劣な性癖を持ったエコノミストというレッテルを貼れば世間は彼の言説に耳を傾けなくなる。国策捜査の目的は、標的にした者の犯罪を立証することよりも、標的の信用度や名誉を剥奪することにある。そしてこれはマスコミによる初期の土石流のような報道洪水で半ば成功している。権力と結託したマスコミの個人攻撃と、公判で露呈された事件関係者のさまざまな矛盾によって、これが政治的背景を有した国策捜査であったことがよく見えてくる。加えて、8月21日の最終弁論においても、マスコミは弁護側目撃証人に関する弁護側主張をまったく報じていない。このマスコミ報道の露骨な非対称性こそ、植草氏の事件が紛れもない国策捜査であることを物語っている。弁護側証人に関してマスコミがやったことと言えば、一部マスコミによる「痴漢被害を居眠りしていて目撃していなかった」という虚偽報道だけである。しかも最終弁論でその誤報が明確になったにもかかわらず、マスコミはそのことにはまったく触れていないのだ。初期報道からしてその形は露骨に出ているが、今の段階においてもマスコミは、植草氏に有利な情報は一切報じない。この異常な偏向性にこそ、権力と結託したマスコミの深刻な堕落が見えるのだ。

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ネクタイをキーワードとして考察する(4)

 考えてもらいたいのは、植草氏の上の記述及び第九回の弁護側証人の証言、この二つの証言と検察側が用意した二人の証言とのギャップである。最も大きな差異は逮捕状況であろう。つまり、植草氏や弁護側証人は、ほんの少しの時間差はあるが、ほぼ同時的に二人の逮捕者に押さえつけられたと言っており、ネクタイをつかんだことには言及がない。一方、検察側の証人は車内における逮捕者はあくまでも一人であったことと、ネクタイをつかんだということが強調されている。植草氏が逃げないように確保する状態が、ただネクタイをつかむだけというのは、かなりの不自然さを感じる。二人で植草氏の両腕や肩、あるいは腰のベルトをがっちりと掴むことの方がはるかに合理的である。格闘術を身に着けていない一般人でも、犯罪者を逮捕する時は両腕の自由を奪うことを考えるだろう。人間は自分の身を守る本能から、相手からの不意の攻撃を封じる最も効果的な手段が、両手の自由を封じることにあるのは自明の理だ。ネクタイをつかむ行為は犯罪者確保の視点から見ても非常に不自然だ。連行が目的の場合、逃げられないことと、自分が攻撃を受けないことを念頭において、相手の両腕の制圧を考えることが普通である。一人でネクタイだけをつかんで連行するという行為がいかに不合理であるかよくわかるだろう。

 ではなぜ、「ネクタイをつかんで」というこの不合理な逮捕行為が公判で証言されているのだろうか。端摩憶測と捉えられてもかまわないが、私は「ネクタイ」が国策捜査のキーワードになっていると考えている。逮捕者について事実を正確に伝えているのは、植草氏本人の供述と第九回公判に出た弁護側証人の目撃証言である。この両者に共通するものは、二人の逮捕者が有無を言わせない強力な力で植草氏を制圧しているという点だ。彼らの語る逮捕状況にネクタイは出てこない。これが実際に起きたことであり、犯罪の有無は別にして、純粋に逮捕行為という観点から見ればこの捕らえ方は合理的である。次に、車内での逮捕者の数について、検察側証人はどうして一人だったと説明しなければならなかったのだろうか。一人がネクタイをつかむという行為は、膂力(りょりょく)のある二人が協力して植草氏を制圧的に押さえたというイメージとまるで正反対である。

 この理由を推測してみると、それは植草氏の起訴理由が「迷惑防止条例違反」ということにかかってくると考える。もし植草氏が刃物を持って車内で人を切りつけたり、暴れたりしたなら、二人の屈強な男が彼を制圧することは充分に考えられる。しかし、女子高生の尻にさわった嫌疑だけで、ろくに事情も聴かずに大の男が二人がかりで制圧する光景はこのうえなく異様だとは思わないだろうか。被告人が暴れもせず、強い抗議もせず、逃げる気配もまったくなかった状況で、男二人が身動きできないように取り押さえる必要がいったいどこにあるというのだろうか。植草氏自身は厄介なことにかかわりたくない、騒ぎに巻き込まれたくないという心理から大人しくしていたと言っている。しかし、その場での植草氏の佇まいは別にして、私はこの二人の唐突とも言える野蛮な制圧行為には確たる目的があったのではないかと推測している。

 これも端摩憶測であるが、この二人はホームにおいて、植草氏の抗議を他の人間に聞かせたくないために、植草氏を駅事務室まで強引に、そして可及的速やかに連れて行く必要があったということだ。植草氏は著名人である。ホームで抗議や弁明の時間を与えると、周囲の人間に注目され、植草氏が第三者によって強く印象に刻まれてしまうかもしれない。要はホームにいる人々には逮捕されている人間が植草氏であることをなるべく知られないように急いだものと思える。もう一つは、女の子と植草氏が押し問答した場合、それは非常に周囲に目立つから、一緒にいる逮捕者たちは周囲の目に自分たちが目撃されることを避けたのではないだろうか。植草氏の意見陳述書では、「強烈な力で押さえつけられ」という表現を二度も使っている。推察すると、この二人は最初から植草氏に女の子と話をさせるつもりは毛頭なく、できる限り早く駅事務室に連れて行こうという強い意志を持っていた。

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ネクタイをキーワードとして考察する(3)

 さて、上記の速記録と、例のMix記事とを対比させてみればお分かりと思うが、両者には否定しがたい類似性がある。特にネクタイを掴んで連行したという箇所はそのものずばりである。私は本ブログに書いた「国策捜査を疑わせる箇所を考察する」という記事で、ネクタイをわしづかみにする連行は不合理だと考察した。その理由として、ネクタイをつかむ行為の象徴的な意味を考えると、その行為は人間に対する侮辱である。それは逮捕者側に被疑者が確実に犯罪者だという強い確信がなければ、人間としてこのような屈辱的な取り扱いはできないと思うからである。首に巻かれたネクタイをつかむ行為は、人間が家畜や動物を連れ回す時につかう首紐や頚木(くびき)のイメージがある。容疑段階の人間にこのような非人道的な扱いをする権利があるのだろうか。もしあると考えるのなら、犯罪を確信した警察官か刑事であろう。また被疑者が駅事務室へ行くことを承諾している場合なら、なおさらネクタイをつかむ形は取るべきじゃないだろう。自分の場合に置き換えて考えるとよくわかる。自分が痴漢に間違われ、弁明の機会も与えられないまま、強引にネクタイを掴まれてどこかへ引き連れて行かれたらどう思うだろうか。このような人間の尊厳を冒涜する行為が間違いでしたで許されるものだろうか。

  もう一つの理由は、視点をまったく変えて、ネクタイをつかんで連行する行為の実践的な不合理性についてである。第二回公判の目撃者と第六回公判の常人逮捕者の証言が、植草氏のネクタイを掴んだという状況説明では完全に一致している。しかし、よく考えて欲しい。我々一般人が考えても、この逮捕状況は非常に奇妙だと思わないだろうか。つまり、被疑者の犯罪を確信した有意の一般人逮捕者が、ネクタイをつかんで連行するという行動自体が非常に不可解なのである。なぜならどのような罪を犯した犯罪者であっても、逮捕のあとに、その犯罪者の両手を自由にさせたままで、ネクタイだけを掴んで連行するという状態は逮捕術の原則から言って不合理である。普通は犯罪者が暴れないように、両手を後ろで固定するように保持するのではないだろうか。もし有意の一般人がもう一人協力したなら、二人で左右の腕と肩を分担して確保すればいい。植草氏自身は記憶が曖昧ながらも、その意見陳述書で、駅事務室まで連行したのは二人だったと書いている。しかも、その確保状況は「強烈な」という言葉を二度も使っているし、上半身がまったく身動きできないほどだったと述べている。その記述から、植草氏はかなりの膂力(りょりょく)で両手、上半身の自由を奪われていたことがわかる。

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突然私は左側とうしろ側を誰かに強く掴まれました。自分が犯人に間違われたと思い、がく然としましたが、自分が人によく知られている身でしたので、ここで騒ぎにしたくないと思い、大きな声も出さずに駅に到着するのを待ちました。

 駅に着いたら、女性に事情を聞き、私が無関係であることを理解してもらわなければならないと思っていました。  駅について、当然その女性と話ができると思っておりましたが、おそらく二人だったと思うのですが、私を掴んだ人たちが強烈な力で私を押さえつけて、事務室の方向へ連れて行きました。途中で私は何度も「女性と話をさせてくれ」と言いましたが無視され、上半身が全く身動き出来ないような強烈な力で押さえられ、駅事務室の左側の小さな部屋に私一人だけが、連れてゆかれました。

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ネクタイをキーワードとして考察する(2)

植草氏が京急電車内で一般人に逮捕され、蒲田署に勾留されたのが9月13日である。一方、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の代表的会社であるMixiのある会員が、上図の記事を、なんと2日後の9月15日に公表しているのだ。2日後とは言っても、時間を確認すると実際はほぼ1日後に書いている。当時、私も Mixi の会員になったばかりで、このページは直接Mixi 上で見ている。9月13日の事件の翌日、9月14日の植草氏逮捕のニュースを観て、私は直観的にこれは国策捜査だと確信し、『植草一秀氏の二度目の逮捕はまたもや国策捜査の疑いがある』というタイトルで速攻の記事を書いた。しかし、その翌日に、植草氏を捕まえた男に関する上記の記事がネットに出たので、私はかなりのショックを受けた記憶がある。なぜなら、その男からかなり生々しい逮捕状況が語られるだろうと考えたからだ。上記のMixi記事は、植草氏を捕まえて駅事務室まで連行した男性と同じ職場の同僚が書いた記事ということであるから、逮捕者当人は普通の会社員であり、近々にも、テレビのワイドショー等の取材などで当人から仔細な逮捕状況が聴けるかもしれないと思った。しかし、マスコミはこの男をいっさい取り上げず、Mixiの上記の記事もいつしか閲覧できなくなっていた。

 その記事を見てから約三ヵ月後、第二回公判に事件を目撃した人が証言台に立ち、同様に事件から約半年後の3月28日の第六回公判に、一般人の逮捕者(常人逮捕者)が証言に出てきたのだが、実はこの両者の語る証言内容と、上記のMixiブログに書かれた内容に、偶然の一致と言うにはあまりにも酷似した内容があることに大変驚かされる。ここまで逮捕状況が酷似していた場合、これが偶然の一致ということはあり得ず、Mixiブログの作者が何らかの形で事件に繋がっていることは明らかだ。記事の作者は、逮捕者が通う職場の同僚女性のように書いているが、はたしてこの記事の真の作者は誰なのだろうか。その前に、その記事が検察と裁判長によって取り上げられなかった経緯を第六回公判の逮捕者K氏の証言録から示す。

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501弁護人3 ホームに着いてから、「駅員さんを呼んでください」といったけれども、周りの人は協力しなかったということはありましたか。

502K証人 いえ、ありません。

503弁護人3 証人は事件のことを、その後、勤務先の同僚の方に話したことはありませんか。

504K証人 あります。

505弁護人3 その人がインターネットのホームページにそのことを書いているのはご存じですか。
 
(※ 職場の同僚女性はMixiでこう書いている。 → いろいろ誰かに聞いちゃいました。その時は「植草」って名前を聞いても気付かなかったんです。)

506K証人 知りません。

507弁護人3 実はそこには、ホームに着いてから「駅員さんを呼んでください」といったけれども、周りの人は協力しなかったということが……。

508検察官1 異議です。それは何の証拠にもなってないと思いますから。

509神坂裁判長 引用されているのかもわからないので。実際にそういう記載があるのかないのかも確認のしようがないので、質問を変えていただけますか。

  ****************************************************************************

裁判長が「引用されているのかもわからないし、実際にそういう記載があるのかも確認のしようがない」と言っているが上記の記事が出たことは事実である。そこには第二回及び第六回公判に出た内容と奇妙に一致している箇所がいくつかあるのだ。そのそっくりな部分なのだが、それはネクタイを掴んで連行したとなっている箇所、そして植草という名前を確認していたという箇所である。まず、公判で語られた二人の証言録から、「被告人のネクタイ」に関する部分、そして植草という名前を確認した部分を取り上げてみる。

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(1) 第二回公判における目撃者によるネクタイに関する箇所(速記録より)

493T証人 話しかけた男性がおじさんのネクタイをつかみました。

526検察官1 痴漢行為を働いていたおじさんは、どういうふうにして電車からおりていきましたか。

527T証人 ネクタイをつかまれたままおりていきました。

(2)第六回公判における一般人の逮捕者の語るネクタイ、その他について

389弁護人2 あなたは具体的にどういう行動をとったのですか。

390K証人 その男性に並んで男性のネクタイを左手でつかみました。

391弁護人2 あなたがその男性のネクタイを左手でつかんだときというのは、電車のドアからおりる直前ということですか。それとも、まだ駅に着いて、例えば電車内にいるときなんですか。それともおりる直前ですか。

392K証人 直前というのがどのぐらいかわからないのですけれども、とまり切ってなかったかもしれませんが、それほど長くはない、ドアがあくまでの時間は。

393弁護人2 あなたがその男性のネクタイをつかんだのは、ドアの近くですか。それとも、ドアから少し離れた場所ですか。

394K証人 ドアの近く。ほかの乗客はもうよけてくれていたので、ドアに向かって先頭で2人並びました。

715弁護人1 それからもう1点、男性のネクタイをつかんだという説明なんですが、ネクタイのどの辺をつかんだんですか。

716K証人 ネクタイの真ん中辺を、細い方、太い方両方、同時につかみました。

717弁護人1 首から垂れ下がっているネクタイ、これのちょうど真ん中あたりですか。

718K証人 そうですね。みぞおちあたりです。

719弁護人1 太いのと細いのがありますけれども、これを一緒につかんだということですか。

720K証人 はい、締まらないように両方つかみました。

747大村裁判官 あなたは電車をおりるときには被告人のネクタイを持っていたということなんですけれども、これはいつまでということですか。

748K証人 事務室まで。

808K証人 電車が着くのを待っている間か、おりる直前にネクタイをつかもうとする動作のときか、ローマ字の字体で「Uekusa」と書いているのが見えまして、ああ、そういう名前の人なのかと。

(※Mixiブログの記事  → 色々細かく聞いちゃいました。その時は「植草」って名前を見ても 気づかなかったんですって。)

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ネクタイをキーワードとして考察する(1)

  植草氏が巻き込まれた痴漢事件は、通常の意味合いにおける冤罪ではありえない。これは公権力が行なったれっきとした国策捜査事件なのである。その最大の理由は、植草氏のけっして手を緩めなかった小泉政権批判と、りそな銀行にかかわるインサイダー取引疑惑という政府絡みの金融犯罪の可能性を指摘したことである。これに呼応するかのように権力筋に掌握されたと思えるマスメディアは、植草氏が巻き込まれた事件について、異常な偏向報道を行なった事実がある。この報道の特徴は植草氏がまだ容疑段階であるにもかかわらず、彼が常習性を持った病的痴漢性癖者のように扱ったことだ。ここには著名人が痴漢をしたという話題性をはるかに超えた底知れぬ執拗な悪意、そして攻撃性があった。

 ネットを除くほぼすべての報道媒体は、植草氏があたかも確定的な犯罪を行なったかのように一様にセンセーショナルに報道した。この異常な過熱報道は植草氏という個人の人権を著しく毀損ずるどころか、マス・メディアの犯罪とも言える暴走的体質を示した。植草氏の弁明を完全に無視したまま、事件を伝えた警察も、マスコミも、完全に良識とバランス感覚を逸した報道を行なった事実が、この事件に対する彼らの異常なこだわりがあったことを物語る。マスメディアがこの事件に示した異常なこだわりとはなんだろうか。それこそが公権力と結託したメディアが国策捜査の片棒を担いだという紛れもない事実なのだ。つまり、時の政府が、国民をだましながら誤導的国策を行なっていた事実があった。これを鋭敏に見抜き熾烈な政府批判を敢行した有識者を、国家がマスコミと官憲を使って狙い撃ちしたのが、植草氏に関わる事件の真相なのである。すなわちこれは国策捜査であり、植草氏は紛れもなく無実なのだ。

さて、本題に移ろう。第二回及び第六回公判で、検察側証人の語った逮捕状況に奇妙に類似したブログ記事が存在する。強いて言うなら、これは類似というよりも、その記事自体が検察側公判証言のプロット・モデルとして先行していた観があるのだ。何と、その記事は植草氏逮捕の2日後にインターネットのブログに出ていたのである。この記事が先行的な指標となって公判が行なわれたというのは奇妙な言い方であるが、冷静に考えるとまさにそのように思える決定的な類似性が存在する。私がいまだに不可解なのは、逮捕状況を克明に補完すると思われるその記事を弁護側が提示しかけたにもかかわらず、なんとそれは裁判長によって即座に却下された。それは公判に時間を掛けたくないという意味なのか、あるいは別の思惑が存在するのかよくわからないが、その記事の証拠能力を否定されたことで、却ってその記事と公判証言録との類似性が強調された結果となったことは注目に値する。

 公判録を読むと、その記事が採用されなかったというよりも、検察はその記事が出ることを慌てて忌避したようにも見える。その理由を考察してみると、この事件が冤罪よりもはるかに根深い性格を持つ、公権力による国策捜査を浮かび上がらせる結果となった。審議不採用になったその記事は、内容が証拠としてに不適格ということになるのだろうが、そうであるならば、そこに描かれる逮捕状況が、検察側証人二名による逮捕状況の描写とあまりにも酷似する事実をいったいどのように説明すればいいのだろうか。私はそこに検察側の深刻な苦慮を読み取った気がした。この記事は国策捜査を計画した側が、9月13日の京急事件の事実性を補強するために仕組んだものではないだろうか。ところが、彼らの補強を目的とした思惑とは別に、公判内容はこの記事の内容とは若干不整合な進展をたどったのである。その結果、週刊誌「女性セブン」の「植草氏は七回も示談を行なっていた」という事実無根の勇み足報道と同様に、このMixi記事も彼らは採用できなくなっていたのである。以下にそのことを説明していく。

 ともかくはキャプチャーとして残っていたMixiの記事を読んでいただこう。

Mixi


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2007年8月29日 (水)

植草氏、逮捕時及び降車時の状況

   弁護側目撃証言者による逮捕時及び降車時の状況

 ここに提示する二つの状況図は、植草氏が二人の男に強制的につかまれた時と、電車が京急蒲田駅に到着した時、その二人に異常な力で押さえつけられたまま降りた状況を、7月4日の公判に出ていただいた目撃者の証言をもとに図化してみた。(A)図は逮捕時の状況、(B)図は降車時の状況であり、降車時には、二人の逮捕者のどちらかの連れに見えた女性の姿が目撃されているので、その状況も再現してみた。

 (A)図  植草氏が逮捕された時の状況

(※ただし、図中のアルファベット小文字は、検証する会A氏の「目撃証言から見えてくる偽装事件の疑惑」で意味づけされたものを踏襲したので、そちらを参照されたい)

Photo_2




 逮捕時の状況説明

 目撃者が騒ぎに気付いた後、植草氏が2人の逮捕者に捕まれてい た状況は上図のようなものだったのではないか。目撃証人は現場にいた人間でないと知り得ない情報を多数知っていたわけであり、それが、実際に彼がその場所にいたという動かぬ証拠になっていると思う。植草氏が逮捕されたとき、目撃者は被害者女性の存在に気付いていない。被害者女性は目撃者からは他の乗客の陰になって見えなかったのだと考えられる。しかし、逮捕者や植草氏が電車を降りる際、目撃者は、逮捕者の連れのように見える若い女性の後ろ姿を目撃したと証言している。

(B)図  
  植草氏と二名の逮捕者が電車を降りた時の状況、そしてどちらかの逮捕者の連れに見えた女性の存在

Photo_5

 説明
 電車が京急蒲田駅に到着、植草氏を取り押さえた二人の男性と、そのどちらかの連れのように見えた女性が一緒に降りた状況。目撃者はこの女性の服装がセーターにスカートだったと証言したが、これは被害者と称されている女性の服装と一致している。このことも、現場にいた人間でなければ知り得なかった情報である。

 (※ここで非常に重要なことを強調して置きたいが、目撃証人は事件に関する予備知識が無かったということである。弁護人に言われ植草氏は証人と話しておらず、ろくにあいさつすらしていない。植草氏の弁護人からも、被告・原告の証言等裁判の経緯を知らされておらず、自分の知っていることをありのままに話したという事実がある)


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2007年8月27日 (月)

E氏による植草氏第11回公判傍聴記

    この裁判は茶番だ(検証する会E氏)

 植草氏の第11回公判を傍聴した。実質初めてとなる傍聴券を手に、地裁へ入った。希望者177人に対し24人の倍率だった。入館時のチェックを受け、1階の開廷表を確認した。植草氏の公判がある429号法廷には午後も予定が入っていた。その傍聴人数はなぜか38人。

 法廷の入り口前に並ぶと、廊下の反対側にずらっと報道の腕章をつけた記者が並んだ。入廷して席に座ると、そこは記者席だからどくようにといわれ、せっかくのよい席を移動するはめになった。そんな表示があっただろうか?法廷内では彼らは特権階級らしい。2分間の撮影後、植草氏と弁護団がサッと入り着席した。一瞬のことで表情を見ることはできなかった。この日、私は最後まで植草氏の背中だけを見ていたのである。
 なんだか変な始まりだった。以前に傍聴した公判は、必ず「起立してください」の掛け声で、全員が起立していたはず。それがない。ヨーイドンのないまま始まった徒競走をみる感覚で最終弁論は始まった。

<疑 問>

 素朴な疑問がある。なぜ裁判所は一般傍聴者の録音・録画を許可しないのだろうか?公判内容を少しでも把握しようと手帳にペンを走らせる。しかしとても追いつかない。当たりまえだ。素人がいくらがんばっても、限界がある。個々の文言を追えば、全体像はどこかへすっ飛んでしまう。裁判の傍聴を一度でも体験した人なら、おわかりだろう。

 裁判官3人を前にして、左側に検事が一人。右側には3台のテーブル。最前列に植草氏一人、後ろの2台に4人の弁護士が2人ずつ座っている。パソコンとプロジェクターが置かれ、さらにその奥にディスプレイが立てられた。パソコンのパワーポイントを使ってディスプレイに映しだされる映像を用い、4人の弁護士は交代で被告が犯人ではないことを立証していった。ここでまた疑問が湧く。なぜ当初から製作したDVDを上映させなかったのだろう?上映されては困ることが検察側にあったからに違いない。そしてたぶん裁判所側にも・・・

 最終弁論が続くあいだ、植草氏は左腕をテーブルにのせ右手は軽く握り黒いソファのうえにのせ、体をややよじる体勢でディスプレイの方をみていた。たった一人の検事は、初めのうちは腕組みをして聞いていたが、途中から腕を下におろし椅子ごと左右にゆらゆらとスイングしだした。裁判官の様子は書かないでおく。

<ある記憶>

公判が始まり、ややあって記者の出入りがあった。私の横では法廷絵師と呼ばれる人がデッサンしていた。どうせ本当のことは伝えるつもりはないだろう。絵も写真も歪められたものしか使われない。記者は文字で絵師はデッサンで、それぞれ植草氏への悪意の上塗りに余念がなかった。録画機材1個だけ持ち込みを認めれば、かれらは失業する。

 彼らは植草氏をいかに醜く描くか、さぞ苦労したことだろう。「~よって被告は犯人ではありません。」4人の弁護士は一つひとつ事実を挙げ、丹念に無実を立証していった。検事はあいかわらずイスを揺らしながらディスプレイの方に目線を泳がせている。この光景の中で、私にはある事件の記憶が甦ってきた。

 私は植草氏とは一面識もない。縁もゆかりもない。彼に対する感情すらもちあわせていない、つまりファンであったことさえない部外者である。その私がなぜ東京地裁に足をはこんだか?それは初期報道のあまりの異常さにあった。オウム真理教が関わったとされる地下鉄サリン事件は、ここ東京地裁のある霞ヶ関駅でおきた。強制捜査の過程で信者幹部は、前年の松本サリン事件の関与を認めた。警察のずさんな捜査・一方的な取調べ、それら警察の発表のみを踏まえた偏見的な報道により、被疑者とされた人物は裁判開始前に有責者として扱われてしまったのである。報道被害がいかに過酷なものであったかを知らしめたのではなかったか?植草氏の事件の第一報をきいたときも同様の印象を受けた。いやそれどころか、すべてのマスコミが大同団結しているかのようにおもえたのである。オウムへの強制捜査中、国松警察庁長官狙撃事件が起きた。私はこの事件にかなり近いところで遭遇した。あえてこじつけるなら、この狙撃事件につらなるオウム報道と植草事件の報道の相似により、私は植草氏とつながっていると言えるのかもしれない。これらの記憶を下敷きにして植草事件を眺めると、明らかに松本サリン事件の学習効果が見てとれた。いかにすれば一般大衆が植草氏を変質者と思い込むか、その事件を試行しているかのようであった。メディア報道に対し不満を抱くことはあっても、社会の木鐸としての役割を疑ってはいなかった私にとって、植草事件の異常な報道の不気味さは強烈だった。

 11時15分、パソコンorプロジェクターの調子がおかしくなったが3分後には上映再開された。11時38分、植草氏が中央に進み出て意見陳述を行った。初めて聞くその肉声はかすかに震えていた。一人の人間を葬り去ろうとするこの巨大な力はいったいどこからくるのだろうか。無実を証明するためのあらゆる証拠申請を、ことごとく却下されたらいったいどうすればいいのか。植草氏の口から語られた事実に、私は頭がグラグラし血の気が引く思いであった。おそらくマスコミはまともには報じないだろう。なにせ2月公判の冒頭陳述の内容でさえ、書類が渡っているのに公表しないでいるのだから。裁判長は10月16日に判決と言い渡し、閉廷した。

<雑 感>

 一言でいうなら、この裁判は茶番である。前回の品川の事件は、ありえない。あの場所で手鏡で覗くなど、できっこない。品川駅を利用される人は一度試してほしい。絶対に不可能なことに対し、裁判所は有罪判決を下した。私にいわせれば、あれは「太陽が西から昇った」というのに等しい。「それでも太陽は西から昇る」という検察に裁判官は軍配を上げた。彼らを小学校にもどし、4年の理科から学びなおさせるべきである。太陽は西から昇る、ということと同じことを主張する人たちといくら話し合っても、しょせん神学論争でしかない。植草事件とは、警察・検察、司法、マスコミという三位一体の連携プレーが作り上げた、恥ずべき偽装事件である。第一回公判の報道が事実と異なっていたことは、報道記者自身が一番よく知っているはずである。検察も裁判官もみなよくわかって、その上で芝居しているのである。10月16日、裁判長は「それでも太陽は西から昇る」と言い放つのだろうか。有罪であれ無罪であれ、ハナから決まっているに違いない。植草氏が告発したりそなにマスコミは決してふれようとしないことが、この事件のすべてを物語っているからである。

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2007年8月26日 (日)

目撃証言から見えてくる偽装事件の疑惑

目撃者証言から浮かび上がる偽装事件(国策逮捕)の疑惑
  (検証する会A氏の推理)

 7月4日に行われた公判で、事件現場にいた乗客が証言をし、その証人が描いた図面から事件当時の車内の様子が明らかになってきた。この事件には全く関係の無い第三者が勇気を出して名乗り出て証言したわけであるから、偽証などはありえず、これは極めて信頼性の高い目撃証言である。この人は乗車したとき、座席を探そうと、植草氏のまわりをぐるりと回っていて、彼を至近距離で見ており、間違いなく植草氏であることを確認している。

       図1

Photo

 図1は、電車が品川駅を出発した直後から2~3分後、青物横丁駅を過ぎる頃までの車内の様子である。これで見ると、出入り口はかなり混んでいたのかもしれないが、彼の座席の前にはスペースがあり、植草氏の前にもスペースがあり、彼は誰とも密着していなかった。gには年配の女性がいた。kは、その後植草氏を逮捕した人物である。

 被害者女性の証言は、品川駅出発直後から植草氏による痴漢が始まり、それは2分間続いたと言う。しかし、この図を見ても、誰とも密着していないからそれは嘘だということがわかる。訴状にはその二分間に痴漢行為をした事が書かれているが、この2分間は図1の状態であったことを考慮すると、検察側が犯行を指摘した時間帯には植草氏は完全なアリバイが成立している。

 図1の状態の後、青物横丁を過ぎた頃から、目撃証人はうとうとしていたので、何が起きたかは分からなかった。目を覚ましてみたら、植草氏が車内暴力か何かに巻き込まれていて、次の駅で引きずり出されていたという風に思っていた。植草氏の証言も加え、この間に何が起きたかを、素朴に、素直に考察してみると次のようになる。以下は、この事件が偽装だという前提で見た場合の筆者の推測である。

 被害者女性(実際には被害を受けていないので以後「女性」と呼ぶ)はdあたりにいたと考えられる。事件を故意に起こすためには、必ずしも体を密着させる必要はない。裁判で勝つためにはそこまでやる必要はないのだ。我が国の現行痴漢裁判では、女性がさわられたと言えば、その事実があろうとなかろうと99.9%まで有罪になる慣行がある。しかも、仕掛ける側は、座席に座っている人のすぐ前でそんなことをするわけにいかなかった。植草氏は右手でつり革をつかみ、左手には傘を持っていたので、a,bの人たちが見ている前で痴漢だと言ってもすぐバレると分かっていた。女性はリーダー格の仲間から「この人痴漢です」と大声で出すようにと言われていたが、それは無理だった。

        図2
Photo_5  

 青物横丁を過ぎたあたりで突然ヘッドホンをはずし、右回りに振り向いて、仲間から教えられていた「子どもがいる前で恥ずかしくないのですか」という台詞を言った。大声で叫ぶように言われていたが、緊張で大声にならなかったし、「子どもが見ている前で」までは、少し大きめの声が出たのだが、その後は声が小さくなってしまった。泥酔状態の植草氏は、何が起きたか理解できず、しかも少し距離もあったので、自分がとがめられているのではないのではないかと訝しく思って、体を右に向けた。これが図3だ。

     図3
Photo_6

 約30秒後、女性は、至近距離で待機していたkに目線を送り、それを合図に直ちにkがやってきて植草氏を逮捕した。それに同じように待機していたhも加わった。そこで図4となる。

   図4
Photo_4

 通常の痴漢事件ならば、女性が声を出してから僅か30秒後に一般乗客の2人が黙って犯人を逮捕するなどということはあり得ない。女性と加害者と逮捕者の間で暫くの会話(押し問答)が起きて当然である。それが全くなかったので、目撃者はその騒ぎが痴漢事件であるという認識がなかった。彼は植草氏が野次馬とのトラブルに巻き込まれたのだと思っていた。そのことが目撃者が証言しようと思った動機である。ところが、この目撃者の予想に反して、実際は、女子高生と称する人物が、品川駅を電車が出た直後から2分間痴漢が行われたと告訴していたのである。目撃証人はそのことを知らなかったのだが、彼の証言はその2分間の時間帯に対する植草氏の完璧なアリバイを証明したのである。

 目撃証人は重大な事実を語っていた。それはhは野次馬風だったということ。もう一つは女性はkかhのどちらかの連れのように見えたということだ。これを聞いて、どうしてもある種の連想が浮かんでくる。それはこれが偽装事件であるということだ。ある計画に基づいて引き起こされたでっち上げ事件であるという疑惑が浮かぶ。この事件が通常の意味における痴漢事件であるとは到底考えられない。なぜなら不自然な点が山ほどあるからだ。それはすでに様々な人によって指摘されているので、ここでは省略するが、これが通常の痴漢事件ではなく偽装事件であれば、すべでが附合することばかりなのだ。

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2007年8月23日 (木)

ぶれずに「国策捜査論」をやってきて・・

植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー  Shirarezarushinjitsu

 日本で最も誠実なエコノミストである植草一秀氏は、小泉政権のマクロ政策を痛烈に批判し、りそな銀行の政府救済にかかわるインサイダー疑惑を調べるように指摘していた。同時に、小泉政権は旧田中派筋が行なっていた内需系の利権構造を、財務省主導の外需系金融利権構造に切り替えるという極悪な売国路線を敷いた。植草氏は財務省(旧大蔵省)絡みの「利権構造のすげ替え」は「りそなインサイダー疑惑」よりも悪質だと語っている。そういうことを指摘し始めた途端に、植草氏は国策捜査の罠に捕らえられてしまった。彼は小泉政権の痛烈な国策批判をしたために、アメリカの肝煎りで動いている国策遂行関係者や米国エージェントから睨まれ、東京都迷惑防止条例違反罪という偽装事件に無理やり巻き込まれてしまった。国策捜査によって不当な逮捕勾留、不本意な罪状を冠されてしまった人物は植草氏だけではない。最近では、鈴木宗男氏、佐藤優氏、西村眞悟氏などがいる。国策捜査というものは我々一般国民が思う以上に起きている。国策捜査が頻出する時代とは国家の病変がより深刻な事態に移行していることを示す。

 植草氏は新刊本で、自分が国策捜査に嵌められたとは一切語っていないが、第一章の「偽装」を読めば、作者は自分の身の上に起きた出来事にも、言外にその可能性を色濃く滲ませていることが見えてくる。また、巻末の「真実」の中にもそれを疑っている箇所がある。この本を読めば、マスコミがこぞって植草氏の人権や名誉を徹底して蹂躙したことの隠された底意が透けて見えてくる。初期報道は、被害者と被疑者における弁明の対称性が故意に無視されたまま一方的に行なわれ、植草氏個人の尊厳や名誉は完膚なきまでに叩き潰された。この報道被害の一点を取ってみても、この事件がただならぬ政治的背景によって引き起こされていることがわかる。初期報道は、植草氏側の弁明がないままに彼の人格否定に走った。日本のマス・メディアが、GHQ統制時代の閉ざされた言語空間を粘っこく引きずっているにしても、彼らの本分は左翼的な人権報道だったはずである。ところが、植草氏の件に関しては、人権に配慮するどころか、まるで逆であり、異常なほどの個人攻撃に終始している。これは不可解である。明らかにこの偏向報道には権力筋の底意が存在しているとしか思えない。なぜなら、これは国策捜査だからである。

 マス・メディアは、高名なエコノミストが先天的に持った「病的性癖」というイメージを、世間に対してセンセーショナルに印象付けている。このイメージ付与に加担した芸能人が、テリー伊藤氏、宮崎哲弥氏、橋下徹氏などである。テリー伊藤氏は郵政民営化で竹中平蔵氏が仕組んだ、いわゆるB層狙い撃ち作戦に協力した芸能人である。日本放送のレギュラーラジオ番組で、テリー伊藤氏は痴漢冤罪の問題作「それでもボクはやってない」の周防監督をスタジオに呼ぶ話をした時、誰も尋ねていないのに、「明日は監督に冤罪についてたっぷり語っていただきましょう。あ、でも植草さんは違いますからね、彼は違います」とわざわざ念を押した。私は車を運転中に偶然これを聞いていた。テリー伊藤氏に言いたい、あなたは植草さんの事件をちゃんと調べて言ったのか?公判に足を運んだのか。ただ、植草さんが小泉批判をしたというだけでラジオという公器を使って彼を貶めたのか。それとも植草さんが竹中平蔵氏の政策論的な天敵であるという理由だけで犯罪者扱いをしたのか。

  郵政解散総選挙では、小泉首相の偉大なるイエスマンだった武部勤氏は幹事長としてすこぶる豪腕だった。この武部氏と家族ぐるみでご飯を食べる仲の宮崎哲弥氏は、あるテレビ番組で植草氏の経済学と下半身は別なんだよと何の根拠もなく侮蔑し、薬剤治療の必要性を訴えた。宮崎哲弥氏はかなり以前、小林よしのり氏編集の「わしズム」に投稿していた時はそれなりのいい評論を書いていたが、いつの間にか小泉政権迎合のお座敷芸者みたいな立ち位置を取っていた。反権力の牙を失って、権力になびいた情けない評論家である。そして連日テレビで茶の間の品格を下げている弁護士の橋下徹氏、これらの三名はテレビを通じてB層国民に植草氏の病的性癖説を執拗に繰り返し、宮崎氏や橋下氏などは何度も言うが薬物治療の必要まで言及した。拘束され弁明の機会を与えられていない個人にそこまで言う感覚は、もはや人間性を欠いているとしか言いようがない。この人たちは何の根拠があって人権蹂躙的な断定をしたのだろうか。まったくもって恥知らずである。

 彼らは哀れである。目の前の金と売名に目がくらんでも、無実の人間を貶めた罪は生涯消えることはないだろう。歳を経るごとに彼らの目は醜く濁って行くだけだろう。子や孫に、金のためなら無実の人を貶めてもいいんだよと教育するのだろうか。子や孫が彼らの背中を見て何かを学ぶなとするなら、それは「嘘つきはいいんだ」ということだ。彼らは拝金思想を見事に実践している。かくして、マス・メディアは悪意でくるまれた植草氏の病的性癖説を洪水のように報道し、世間に対し一方的に植草氏の性悪論を印象付けた。このように初期報道では、検察と結託したマス・メディアが植草氏の名誉を徹底的に剥奪した。ここで考えてもらいたいのは、事件初期に発生した台風の通過のような印象操作報道は、ただ単に高名なエコノミストのスキャンダルという話題性だけの次元を明らかに逸脱するものだった。そこには世論に影響力のあるエコノミストを徹底的に辱め、貶めるという陰険きわまりない権力側の底意が感じ取られる。植草氏ご自身はそのことを新刊本で、何度か「自分は損なわれた」という表現を使っている。しかし、これほどのむごい目に遭いながらも、植草氏はその理不尽さを説明する言葉を「損なわれた」という、きわめて抑制された表現に留めているのだ。この謙虚さも彼の清廉な人柄を充分に示している。だからこそ「知られざる真実━勾留地にて━」は読むものに切々と真実が迫ってくるのだ。

 初期報道が行なった悪意の世論喚起、すなわち高名なエコノミストの病的性癖がもたらした破廉恥な犯罪というイメージ操作が非常に効果的に広まった頃、彼を嵌めた側が予想しなかった誤算が生じた。そのファクターこそ、ネットで沸き起こった「国策捜査論」であった。植草氏が偽装事件に巻き込まれた2006年9月13日、その翌日の9月14日から私は本ブログで、植草氏は国策捜査に嵌められたのだという説を展開した。京急電車事件に関しては、ネットで国策捜査論を語ったのは私が一番早かったと思う。また、小野寺光一氏などもメルマガで国策捜査説を提示していた。あとで私は「植草事件の真実」という本に国策捜査論を寄稿した。

 初期報道の暴力的な印象付けがあり、その余勢を駆って、裁判では植草氏の有罪結審が早々と出される寸前まで事態は進展した。しかし、政治的な背景による偽装事件の疑いがネットに沸々と湧き上がり、我々が意を決して「植草事件の真実」という本を世に出したために、公判の審議は早期有罪決着という彼らの思惑に反して延びることになった。そのために、植草氏を嵌めた側の予定にはなかった証言者がにわかに法廷に立たされ、多くの矛盾が露呈する結果となっている。裁判官は植草氏の裁定を公正にやってほしい。特に7月4日の弁護側証人は植草氏と何の係わり合いも持たない一般人であり、多くのプレッシャーを排して法廷に来てくれたから、彼が犯行を目撃していないという証言の信憑性はきわめて高い。法廷に立たされる証言者は偽証しないことを宣誓させられる。今回の裁判に関しては、国民は裁判官の裁定基準が公平か否か、検察に肩を持つか持たないかに強い関心を持って注目していることは確かである。従って裁判官は慣習的な「推定有罪」はやるべきではない。

 もしそれをやったとすれば、植草氏の事件が国策捜査であることが国民に認知され、同時に裁判官の民度が痛烈な批判に晒されることになるだろう。

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2007年8月21日 (火)

植草氏第11回公判、傍聴記(8月21日)

(※ この記事はA氏本人の要望により更新されています)

 検証する会A氏による第11回公判傍聴記

 8月21日、植草事件の最終弁論が行われた。傍聴希望者は177名で24名が傍聴を許された。今回はプロジェクターを使いパワーポイントの画面で人の動きも動画を駆使して分かりやすく説明が行われた。
 最初は、被害者が痴漢犯人を植草被告と間違えたに違いないという主張であった。その次が、7月4日に行われた弁護側目撃者の証言に関するものであった。一部報道では、犯行時間にこの目撃証人がウトウトしていて、痴漢を目撃していなかったのではないかとされていたが、これは誤報である。その可能性は検察側も指摘しておらず、被害者の証言どおり犯行時間は電車が品川駅を出発直後から2分間であることは変更の余地はなく、争点になっていない。
 目撃証人はこの2分間は植草氏が痴漢行為をしていなかったことをはっきり目撃したと述べた。

211_4   

 目撃証人が電車に乗り込もうとしていたときにはすでに、植草氏は電車内にいた。つり革につかまっていてうつむいたような姿勢であった。くたびれたサラリーマン風の格好でだらしなく見えた。植草氏の周りをぐるりと回るように歩いて、間近に植草氏の顔を見た。そのときはどこかで見たような顔だと思った。座席の前に立ったら、丁度前の座席の人が急いで降りたので、座ることができた。誰だろうと考えているうちに、彼が植草氏であることに気付いた。

 弁護人は目撃証人の証言が信用できるものであるという7つの論拠を示した。

証言に至った経緯は極めて自然である。彼は事件の目撃の後、植草氏が痴漢犯人にされていることをニュースで聞いて驚いた。事件を目撃して、これは車内暴力事件であると思っていた。車内で植草氏が2人の男A,Bに逮捕された。Aは、静かだった。Bはわめきちらしており、野次馬風だった。女はいずれかの連れに見えた。

 関わりになりたくないという気持ちや、植草氏に対するマスコミの報道ぶりを見て、名乗り出る決心がなかなかつかなかった。それに自分が名乗り出なくても誰かが証言するだろうという気持ちもあった。しかし、植草氏が保釈が認められ出てくる所をテレビで見て、何とかしなければと思った。弁護士と話す機会があり、相談したら植草氏の弁護人にコンタクトを取るよう勧められた。まず弁護士協会で調べたが、植草氏の弁護人の名前は分からなかった。その弁護士は後で調べて連絡すると言ってくれたが、連絡は無かった。植草氏の事務所にFAXを入れた。それは古いFAX番号で使われていなかった。新しいFAX番号を調べFAXを送った。そのFAXを植草氏が弁護人に送った。

 このような経過を考えるとマスコミのプレッシャーもあり、通知が遅れたのも不自然ではない。

証人は事件に関する予備知識が無かった。弁護人に言われ植草氏は証人と話しておらず、ろくにあいさつすらしていない。植草氏の弁護人からも、被告・原告の証言等裁判の経緯を知らされておらず、自分の知っていることをありのまま話した。何を話せば植草氏に有利になるのかさえも知らないで証言台に立った。(これは検察に4回も足を運び、蒲田警察署にも6~7時間もいたという検察側証人のT氏とは対照的である)

証人の証言は詳細かつ具体的で、著名人である植草氏を近接した距離で確認している。セルロイドの特徴のあるメガネについても注意深く見ている。酒を飲んでだらしない格好をしていたとも言っており当時の状況を正確に捉えている。

証人は被害者の声を聞いていないが、被害者は少し大きめの声で「子どもがいる前で・・・」などと植草氏のほうを向いて、つまり証人に背を向けて、話しているだけである。それは青物横丁駅から大森海岸駅の間だったと思われ、証人がウトウトしていた頃だから、聞こえなかったとしても不自然ではない。

証人は、「右側は植草さんが立っている辺り、それから左側は斜め前の男の人がいるような雰囲気で、あとは特に注意して見なかった」と供述した。人の陰で被害者は視界に入らなかったのではないかと思う)

 それは下図のような周りの人の位置関係を考えれば理解できる。

 弁護側目撃証人が証言した車内の様子は図1で示す。これは弁護側証人が、証言台で裁判官の前で手書きで描いたものがスクリーンにそのまま映し出され、それを筆者が書き写したものである。これにより事件発生当時の車内の様子が初めて公開された。(この図は今初めて本ブログによって公開される)

  図1 弁護側証人の見た被告人位置およびその他の乗客

1_4   

 弁護側証人によると自分の前には、人がいなかった。逮捕者Kは自分の右前にいた(図1で植草氏の下に描いた人)とのこと。この証言を基に描いたのが図1。これは「犯行時間中」の様子を最も正確に再現したものと思われる。なぜなら、弁護人証人には嘘を言う必要性が全くないからである。わざわざこのような証言に来ても彼には何のメリットもないし、逆にマスコミからの大きなプレッシャーがかけられているというマイナスの条件下にあった。

  図2 逮捕者K証言に基づくK証人の位置を書き加えた位置

2

 ところがK証人は、端から2番目の前に立っていたと証言している。ということは、弁護側証人の前ということになる。検察側は、K証人が邪魔して弁護側証人が植草氏を見ることができなかったはずだと主張した。このケースを図2で示したが、やはりこの場合でも彼は植草氏を見ることができる。

 そもそも逮捕者K氏の証言は本当に信用できるのだろうか。彼は、植草氏を車内で一人で捕まえたと言うが、弁護側証人は植草氏は車内で2人によって捕まえられたと言っている。K氏の証言では、もう一人の逮捕者は、駅のホームに出てから乗客の一人が協力してくれたと言っている。さらにおかしいのは、駅ホームに出て暫くしてから周りの人に駅員を呼んでもらい、駅員と共に駅事務室に連れて行ったと言っているが、もしそうなら、駅事務室に着くまでかなり時間が掛かったと思う。警察と駅の記録では、電車が駅に到着してから、駅事務室に着くまで2分10秒以下だったとされている。要するにK証人は事件発生現場にいなかった人だから、当時の事件状況がまるで分からず、このような出鱈目なストーリーを作り上げてしまったということではないのか。

 検察側の証人T氏によれば、逮捕者K氏は私服であったと言っている。(第二回公判速記録参照のこと) もし私服警官がこのように近くで待機していたのであれば、この事件そのものがでっち上げの疑いが大きくなり、その発覚を恐れた検察が、替え玉に証言させたのではないかという疑念が出てくる。K氏の証言に、現場にいた人であれば絶対に間違えないような根本的な間違いが含まれていることを考えれば、K氏は替え玉である可能性が濃厚になる。

 弁護側証人は、被害者女性は2人の逮捕者の連れのようだった、逮捕者の一人はごつい感じだったと言っている。この証言を素直に解釈すれば、逮捕者と謎の女性(被害者とは言っていない)は仲間内である可能性を髣髴とさせるものである。そもそも弁護側証人には植草氏が事件に関わったという認識はまるでない。従って彼の中では被害女性は存在しない。しかし、逮捕者の連れのように見えた女性は実際にいたと証言している。

時間の経過に関する証言内容が、具体的な駅名を基準とするものであったり、車窓の風景や駅の看板で特定されており、信用性が高い。他の証人の供述では、漠然として時間を言っているだけだから、それと比べて信用性が高いと言える。

位置関係に関する証言も進行方向の左側のドアの2人目の座席に座っていたというものであり、極めて正確な位置、向いていた方向の指定ができており、信用性が高い。



追加
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 T証人供述(第二回公判に出た検察側の証人)の信用性について

 メガネについて覚えていない。しかし、植草氏は印象に残るメガネをしていた。《ここでメガネをした顔としない顔の比較がスクリーンに映し出された》しかも、彼はうつろな目をしていたと言っているのだから、目ははっきり見ているわけである。ということは、彼が見た人物は植草氏ではない。植草氏は重いカバンを肩に掛けていた。T氏によると、植草氏の重心が右に傾いていたと言った。右肩ははっきり見えたと言っているのに、カバンは見ていない。やはり別な人を見ていたに違いない。また、重心が右に傾いていたのであれば、右肩に掛けていたカバンは肩から落ちるはず。《この様子もスクリーンに映し出された》

 T氏は犯人の指先も、手の甲も、袖口までも確認している。植草氏は左手に傘を持っていたのだから、もし、女性を触っていたのなら手首に掛けていたに違いない。しかし、彼は傘に気付いていない。実際、傘を手首に掛けていたのなら、傘がはっきりと見えるはずだから、やはり別人を見ていたとしか考えられない。《手首にかけた傘の図がスクリーンに示された》

 T氏は、植草氏が事件当日よりやせたのに気付いていない。実際は66~67kgから、58kgにまで痩せてしまっていた。本当に植草氏を見ていたのなら痩せたことに気付くはずであり、気付かなかったということは、別人を見ていたことになる。

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尚、次回公判は10月16日、午前10時から開廷。判決が言い渡される予定である。今、神坂裁判長以下、裁判官の公正な裁定判断が強く注視されている


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2007年8月19日 (日)

竹中平蔵氏の無反省の裏に・・。

        植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー      Shirarezarushinjitsu    

 今日のフジテレビ、「報道2001」に竹中平蔵氏とエコノミストの浜矩子氏が出ていて、世界同時株安状況について語っていたようだが、私は小泉構造改革の是非について討論していた部分しか見ていない。しかし、竹中と言う御仁は小泉・安倍政権のマクロ政策に最も重要なかかわりを持った当事者だったわけだが、彼はこの路線のマクロ政策的失敗に何の責任も感じていないことはただ呆れるだけである。それどころか、景気を向上させてデフレを克服しなかったことが第一の問題だということをしゃあしゃあと言ってのけている。

 米国のサブプライムローン問題による世界株式市場のショックについては、竹中氏や浜氏が何を語ったのか見ていなかったが、小泉構造改革の最重鎮だった彼が他人事のように構造改革を語っていたことは本当に不愉快な気分だった。何が景気回復によるデフレ克服だ。恥というものがまるでない発言だ。これじゃ植草氏や森永卓郎氏たち良心派のエコノミストが初期に警告していたことを今頃になってそのままパクっているだけではないか。何という醜悪なる宗旨替えだ。小泉・竹中路線の何が最も忌まわしいのかと言えば、彼らが構造改革の真の目的が新自由主義体制に日本を転換するということを国民に説明しなかったことだ。 むしろ、その真相を国民に誤魔化しながら性急に新自由主義に持っていったことは国民に対する許されざる背信行為と言ってよい。

 植草氏が指摘するように小泉政権初期の破壊的グランドデザインによって、2003年には日経平均株価は7000円台まで下落した。小泉政権五年半に日本の経済力の屋台骨はガタガタに疲弊したが、政権初期からりそな銀行の異常な取り扱いまでのわずかな期間に、日本経済の底力は竹中氏たちの人為的な政策によって病的に痛めつけられたと言ってよい。具体的に言うなら罪のない中小零細企業を不必要に苦しめ、健全な金融業態を破壊してしまったからである。日本経済を破綻寸前まで追い込んだ当事者の一人である竹中氏が、自身の行なった破壊的政策には口をつぐんで、傍観者のように「景気対策」が重要だなどと言うに及んではまさしく時代劇の悪代官の所業を目の前で見せ付けられているようなものだ。現代の悪夢である。

 植草氏の言うように、現在の格差社会や弱者の困窮傾向は「人災」なのである。その最大の戦犯である竹中氏が、植草氏に警告されていたことを今になって鸚鵡返しに言っているのはなぜだろうか。これは明らかに構造改革の責任逃れであろう。今頃になって、自分は売国路線とは無関係だと言わんばかりである。自身で緊縮財政を強力に実行、デフレ・スパイラルに導いておいて、今頃になって財政健全化は景気浮揚策だなどと、植草氏のお株を取るような発言をしている。まったく見下げ果てた人物だと思う。竹中氏は植草氏が逮捕される時分には植草氏の主張をほぼ全面的に取り入れているが、自身が行なった初期政策の誤まった政策をきちんと総括して責任を認めていない。終生その汚点をごまかし続けるつもりだろう。彼は小泉前首相とともに、初期グランドデザイン実行の破壊性は認めない様子だ。実はその汚点を国民に明快に反省して、謝罪できないわけが彼らにはある。なぜなら必死で隠蔽しようとするその汚点の中にこそ、対米隷属の売国本質が秘められているからだ。そのことは植草氏の最新刊である「知られざる真実 ━ 勾留地にて━」に最も的確に説明されている。

 竹中氏本人が植草氏を嵌めた人間だとは断定しないが、少なくともりそな銀行問題も含め、初期構造改革の過ちを糊塗しようとする勢力が植草氏の口を封じるという姑息な手段に出たという可能性は大いに考えられるのだ。あ、そうそう、肝心なことを言い忘れていた。竹中氏も最後の方で、バラマキ政治か構造改革かの二分法を臆面もなく語っていた。しかも、そのバラマキ政治の象徴として、国民新党を目の敵にしていたように思う。国民はだまされてはならないと思う。小泉政権が行なったこの悪魔の二分法によって、真面目に働いてきた人間の多くが経済苦で自殺したし、社会的弱者がますます苦しくなる方向に社会が向かっている。バラマキというペテン言葉によって、社会のセーフティネットが崩壊した事実をよく見極めた方がいい。弱者を苦しめて一部の金持ち連中が異常に富むという米国型傾斜配分社会にシステムを転換したのは竹中氏である。また竹中氏は与野党のねじれ現象については、政策がどのように変わってもきちんと明確な旗を立てればいい、我々(小泉・竹中政権)は明確に旗を立て、それが国民に支持された。今回の民主党もちゃんと旗を立てればいいんですよと言った。

 しかし、彼の言った「旗立て論」は大いに疑問である。郵政民営化是か非か、構造改革に疑念を呈するものはすべて抵抗勢力だと言ったことが旗を立てたと言う事なのか。そうではあるまい。これは恐怖政治そのものだった。上に立つ為政者が本当に旗を立てる行動とは、政策の本質が何であるかを国民にわかりやすく説明することだ。説明責任を誠実に履行することだ。ところが彼らは構造改革の本質が、アメリカの意向で行なう新自由主義であることを国民にひた隠しにした。構造改革か、それとも旧弊なバラマキ政治かの二者択一は、本質を矮小化する悪質なペテンだったのである。

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2007年8月17日 (金)

警醒の名著「知られざる真実 ━勾留地にて━」

Shirarezarushinjitsu_2  植草一秀氏の「知られざる真実 ━ 勾留地にて━」をじっくり通読した。一言で言うなら、これは植草氏ご自身が自己の立場の弁明に終始した本ではない。全体を通じて、彼の魂から発した一貫したまなざしに基づいてことの真実が描かれている。彼が突然に巻き込まれた耐え難い不条理の嵐、個人を恣意的に狙い撃ちするマス・メディアの暴走に熾烈な怒りを発するとともに、このようなできごとを許容し、誘発する今の日本の巨大な歪曲に対して鋭い考察を加えている。

 今の日本が、政治的に文化的に何かおかしいぞと感じている人間ならば、植草氏の非凡な知性と天賦の洞察力が、自身の事件を通じて読み取った日本の救いがたいゆがみを冷静な視点で見ることができるだろう。この本は、身に覚えのない事件に巻き込まれた者が行なう単なる弁明の書ではない。日本人としての美徳と良心を決して捨てなかった植草一秀という人物が著した渾身からの警世の書である。弱い個人が理不尽な暴虐に巻き込まれ、一旦は絶望しながらも、不撓不屈の精神で巨大な不条理に立ち向かった勇気を見てもらいたい。この本を読んで心底感じたことだが、私自身の小泉構造改革批判が間違っていなかったことを確信した。と同時に、この書物は非凡な才能を持ち、いわゆるエリートコースを歩んでいた植草氏が、己の良心と節を曲げずに人間として貫き通した勇気ある魂の格闘録でもある。どん底の命運の中で植草氏が勝ち取った日本人としての魂の苦闘、そして矜持、不退転の勇気がこの本にはあますところなく示されている。

 今の日本にそれなりの危機感を感じる人ならば、この書物を読んで得られるものはあまりにも大きい。日本という国の巨大なゆがみは、対米隷属構造という歴史的に根深い背景を持っているが、為政者も官吏もその隷属構造に絡め取られていて、自国の主体性を省みないところに問題の核心があることをこの本によって痛感することだろう。植草氏の問題を深く掘り下げて見ると、今の日本が置かれている米国傀儡国家としての哀れな姿と、それに滅私奉公をやって恥じない醜悪な日本人の姿が浮かび上がってくる。「神州の泉」管理人の私が断言するが、この本は単なる個人の冤罪弁明の本ではない。今の日本を覆いつくす暗雲の正体を鋭く描き、何が問題の根幹なのかを鋭く暴いている。同時に植草氏の人間としての正直な思いが随所に表されていて、文学的にも偉大な書物であると思う。

 御用学者とは人間として脆弱というか勇気がないのである。しかし、植草氏のように自分の良心をけっして捨てない有識者は、国民を犠牲にして自己利益をむさぼる亡国の輩に憎まれてしまうのである。この本を通読して感じることは、内容には醜悪な自己弁明は微塵もなく、そこにあるのは、間違いを間違いだと言い貫いた者の魂のすがすがしい世界が広がっているだけである。私のような半端な者が言うのもおこがましいが、この本には偉大な文学書に通じる魂のカタルシスが確かにある。私は読者にそれを感じてもらいたい。魂の苦闘を経た者だけが書けることが書かれてある。この本を手にする者は得がたい僥倖に恵まれる。自分の運命を呪う者は多くいるが、植草氏の場合は耐え難い運命を呪うことなく、その天賦の才能でそれを昇華し、この理不尽な社会の姿を完全に書物に描ききったのだ。これは凡人に敵う芸当ではない。私はしばし、自分が彼の支援者であるという立場を忘れてこの本に読みふけった。不適当な言い方かもしれないが、それほどこの本は面白いのである。面白いと感じることは、内容に対する深い共感とともに、作者の言語表現につむぎ出された世界観を私もかなり共有しているからだろう。

 植草氏の事件は実は三度に渡っている。一回目は、1998年の東海道線でのできごと、二回目は2,004年の品川駅構内での手鏡事件、そして三回目は2006年の京急電車内のできごとである。断言するが植草氏は性犯罪としての視点から見た場合、この三度とも事実無根である。ではなぜそう言い切れるのか。一度目の事件は相手女性の錯誤的心理(誤解)から生じた不幸なできごとが、警察の密室で強要されて作られたいわゆる「人質司法」がもたらした「冤罪」だからである。二度目と三度目は、この一度目の不本意なできごとが徹底的に悪用された「国策捜査」だった。これは本ブログや「植草事件の真実」、「紙の爆弾」の記事でも展開した。私は植草氏の新刊を読んでみて、自分が展開した国策捜査論がけっして間違っていなかったことをあらためて確信している。三度の事件を客観的に検証できるように植草氏はこの本で内容を詳述している。読む人はマスコミに毒された先入観念を取り払って、その記述を虚心坦懐に読んでみて自分の目で咀嚼してもらいたい。

 私が確実に言えることは、第一章の「偽装」に書かれた内容と、巻末資料の「真実」を読めば、彼が国策捜査という政治的な策略に陥れられたことがよく見えてくるということだ。第二章には彼の経歴や趣味、惹かれた事柄などが出ているが、これにも彼の良心や人間性の基層が素直に出ていて、その性質が第一章「偽装」に書かれているように、植草氏が巨大な悪を許せないという熾烈な社会糾弾を行い、筋を曲げないで向かっていく人間であることが良く見えている。汚れた権力を持つ謀略側から見れば、植草氏ほど籠絡しがたい有識者はいないだろう。欲得に溺れず、脅しに屈せず、名利を求めない有識者。このような人物は汚れた実力者から見れば、度し難い邪魔者なのである。この本全体を通して植草一秀という人物像が非常によく出ている。

 私個人は植草氏の歴史観や官僚の捉え方に、必ずしも全的に同意するわけではないが、それでも基本の世界観には共有するものが多くある。それは社会的な弱者を救済する方便が存在しない社会は社会全体が脆弱性を持つという視点と、経済や政治は遍(あまね)く人々すべての幸福原理を実現することにあるという基本理念である。皆さんに問いかけるが、この日本に経世済民(けいせいさいみん)を本気で問いかけている経済学者や為政者が一体何人いると思われるだろうか。植草氏は紛れもなくその中の稀有な存在である。だからこそ、売国的な実力者が、植草氏の世論喚起を何よりも恐れて彼を不名誉のどん底に突き落としたのである。この本を読めば、目のあるお人なら、彼が国策捜査に嵌められたことが当然のように見えてくるだろう。

 この本は一人でも多くの人に読んでもらいたい。繰り返すがこれは単なる冤罪弁明の本ではない。この本を読むことによって、今の崩れた日本を建てなおすヒントが随所に見つかることを私は請合う。各章についての詳述は近々に本ブログで公開する予定だ。今は、この稀有な本を皆さんに強くお勧めする。

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2007年8月12日 (日)

今日の「NHK日曜討論」を見て

NHKの「日曜討論」を見た。番組の構成は以下の通り。

テーマは「“ねじれ国会”日本政治のゆくえは」            
                              
第1部                           
                  (参議院議長)江田 五月
   (政策研究大学院大学教授・21世紀臨調主査)飯尾  潤
                              
第2部                           
        (国際公共政策研究センター理事長)田中 直毅
             (北海道大学大学院教授)山口 二郎
             (名古屋外国語大学教授)高瀬 淳一
   (政策研究大学院大学教授・21世紀臨調主査)飯尾  潤
                              
                (NHK解説委員)島田 敏男

 第一部の江田五月参議院議長の話は除いて、第二部の討論は実に印象的だった。この討論の主旨は、今回の参院選挙を受けて、衆院と参院の支配議席が、自民党と民主党で逆になってしまうこと、誰が言い出したか知らないが、この状態を「衆参のねじれ現象」と呼んだ。このねじれ構造について、各識者連中にその分析と今後の展望を聞いていた。私ごときのどしろうとが、ここに集まった学者連中の議論を的確に評論できるとは到底思わないが、それでも私の印象に際立って残った二名の主張があった。

 一人は名古屋外国語大学教授の高瀬淳一氏であり、もう一人はこれに対蹠的な立場を持つ北海道大学大学院教授の山口二郎氏である。他の学者連中の論考はどうでもいいというわけではないのだが、少なくともこの二名の政策解釈は小泉政権、そしてその構造改革を踏襲した安倍政権の本質的な部分での解釈に、それぞれの立場から実に明確にわかりやすい形で説明されていたと思う。議論の発端は田中直毅氏が、今回の衆参両院のねじれ現象は小泉・安倍路線において、保守とリベラルの政策本質が明瞭に現われてきたことがきわめて特徴的であるという考えを言った。そう言ったら、北海道大学大学院教授の山口二郎氏が、そうではなく、このねじれ現象、すなわち国民が参院選で圧倒的に民主党を選んだのは、小泉・安倍の行なった「構造改革」そのものの是非が国民によって判断され、構造改革が明らかに間違いであったことがそのままに出た結果だと言った。

 これに対して、名古屋外国語大学教授の高瀬淳一氏は、構造改革の失敗を誇張しすぎると、旧来の「ばら撒き」政治の復活を奨励することになって危険であるという論調を展開し始めた。一時間の討論でこのお二人の学者さんの対論主旨は、小泉構造改革の是非論に終始していたが、私としては実に興味深く二人の話の進展を聞いていた。山口氏は2005年の郵政解散総選挙が、そもそもこの構造改革の大間違いを象徴する出来事であり、郵政民営化是か非かなどというシングル・イシューで国民の総意を問うこと自体が異常であると言った。これに対して高瀬氏は民主党が大きな危険を孕んでいるのは、ポピュリズムがこれから出てくる可能性が大であると言った。世間的にはポピュリスムは小泉純一郎氏のワンフレーズ・ポリティクスを指すようだが、構造改革を否定した形になった民主党は、それと同じポピュリズムによって、これから官僚批判と現金給付(ばら撒き?)の旧態依然の方向性を持つかもしれないとわけのわからないことを言っていた。要はマスコミや現与党によって、小沢一郎氏に不当に付与された旧田中派型の金権利権政治に逆戻りする可能性が大であることをこの高瀬氏は熱心に繰り返していたと思う。つまり高瀬氏の主題は明らかに「ばら撒き」政治への回帰への懸念であった。気をつけてもらいたいのは、ここにも「バラマキ」というペテン言葉が使用されていることだ。この言葉にはケインズ的財政出動の無条件な全否定が込められている。断言するがこの高瀬氏は小泉マンセーの典型的な御用学者である。

 これに対して山口二郎氏は、構造改革が国民の生活や地方の活力を完全に疲弊させた間違った政策であったことを繰り返して表現していたと思う。このお人は明らかに植草一秀氏と同次元の立場でものを言っている。この日曜討論の主題はこのお二人によって完全に言い表されていたように思う。山口二郎氏の言葉で感動したことは、彼が「政治とは再分配のことである」と断言したことである。まったく大賛成である。社会とは富の再分配が健全に行なわれるシステムが機能するからこそ、弱者や底辺層が絶望しないで生存権を行使できるのであり、これが破壊されるような政策はすでに政治ではなく独裁なのである。この基層的考えは植草氏の政治思想とも一致している。また山口氏は小泉・安倍構造改革に実に本質を衝いたことを語った。それはこれらの政策本質が二つの思考停止に支配されていたと言う。一つは構造改革の思考停止であり、もう一つは日米関係の思考停止であると。

 これからは管理人(神州)の拙論なのだが、実は構造改革も日米関係も根は一つの悪しき構造に支配されていたことは重要である。それはアメリカによる対日経済占領のことだ。これを指摘せずして構造改革の是非論を問うことは虚しい。アメリカが奸佞邪知なのは、年次改革要望書の正当性を、旧田中派がもたらしていた金権利権政治の完全否定と、官僚の腐敗体質を根こそぎ改善するというきわめてわかりやすい理由に置いていることだ。これに加え、旧田中派に怨恨を抱き、郵政民営化に異常な情熱を持っていた小泉純一郎氏を構造改革の象徴(旗振り)に祭り上げたことだ。小泉政権の五年半に、日本の従来構造は完全に破壊されつくした。その結果、企業ガバナンスはアメリカナイズされ、日本全国の優良資産は外国資本に激安で買い叩かれ、格差は固定化した。その中には通常の優良不動産のみか、日本文化の精髄の一つでもある温泉観光資源まで外資の貪欲な胃袋に飲み込まれている。日本が弱肉強食、市場原理主義に席巻されている。つまり、この五年半に国民が激痛として実感したことは、社会のセーフティネットが完全に壊されたことであろう。言葉を換えて言うなら、それは公平配分(富の循環社会)構造が破壊されて、弱者だけが傷を深くする極端な傾斜配分社会が実現されてしまったことだ。参院選の結果は、国民が民主党を政治的に選んだものではない。それは小泉政治に対する絶対的な拒絶と受け取ってもいいだろう。何が今湧き上がっているか。それは一般庶民の生活の質(QOL=Quality of Life)の低下に対する耐え難い呻吟(しんぎん)、そしてどうにもならない悲鳴である。参院選は小泉構造改革に対する明らかなノーなのである。

小泉・安倍政権の構造改革が国家破壊であることはもはや明らかである。山口二郎教授は政治は再分配だと言った。小泉政治は間違いだったなどという生易しいものではない。小泉政権は、国民に対しては修正政治的な装いを凝らしたが、その政策本質はアメリカの意志による革命であった。つまり、彼の行なったことは、アメリカ利益誘導を行なう方向に自国経済の構造を急激に転換した、言わば完全なクーデターなのだ。アメリカの完全傀儡国家に我が国を導いたのである。これが国政デザインの描き違いならばまだ許せる。しかし、このクーデターは明らかに国家破壊活動(国家転覆)そのものであり、破防法の適用対象にするべきだ。小泉構造改革がオウム真理教と同レベルの国家犯罪であることをはたしてどれくらいの国民が自覚しているのだろうか。政権発足以来、二年間は急激な新自由主義方針を堅持して株価を7000円台までに激落させ、金融恐慌寸前まで導いた。しかしパニック寸前でりそな銀行を国庫救済したことによって自己責任原則を放擲した。彼らは政策指針を180度転換して何の説明も行なわずに国民を煙に巻いた。ここに彼らの政治思想が国益に合致するどころか、当初から国益毀損を目指していたことがよくわかる。その結果、老人や病人、身障者など、社会的弱者や底辺層が不必要な犠牲と苦吟を強いられることになった。

 構造改革の深刻な本質は、日本の行く末を旧来の閉塞政治か、それとも新しい構造改革かの二者択一論に矮小化したことにある。しかも、この新しい政治体制がアメリカの間違った進歩史観の概念に合わせてあることである。旧態依然の政治形態は修正方針で進むのが順当であり、アメリカに押し付けられた社会ダーウィニズムに支配された新自由主義に変換することは、苦境の脱出どころか、地獄への直結であることを悟るべきである。富の健全な循環構造を破壊する政治思想(端的に言うならフリードマン・モデルのこと)が国民の幸福を担保できるわけがない。原理的に駄目な政策を使用した小泉氏と竹中氏は歴史的な国家破壊者として弾劾すべきである。

 日本人の悪い癖は、起きた物事の「総決算」をしないことにある。小泉政権は国民の総意で絶対に弾劾するべきである。そうしないと同じ地獄がこれからも繰り返されるからだ。今日の日曜討論には出るべき人が出ていなかった。それは植草一秀氏である。混迷の今日こそ、彼の頭脳が必要なのに、彼は国策裁判で手足を縛られている。まことに由々しいことだ。

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2007年8月 9日 (木)

米国にノーを言った小沢氏を評価する

 民主党の小沢一郎代表は8日、党本部で11月1日に期限切れを迎えるテロ対策特別措置法の延長を巡って米国のシーファー駐日大使と会談した。シーファー氏はアフガニスタンでのテロ掃討作戦に関連する同法延長への協力を要請。小沢氏は「残念ながら米国を中心とした活動には参加できない」と、拒否する考えを明確にした。小沢氏とシーファー氏の会談は初めて。

 会談は約45分間。小沢氏側の要請で記者団にすべて公開された。小沢氏は延長に応じない理由について「直接的に国連安全保障理事会から承認されていない」と説明。「民主党は国際平和のために日本が積極的に貢献しなくてはならないという思いは自民党以上に持っている」と述べたが、参加条件については「あくまでも国連活動」との立場を堅持した。

 シーファー氏は「この問題に党は関係ない。超党派で考えるべきだ」と強調。国連決議がないことを理由に協力を拒む小沢氏に「国連決議1746を見てもらいたい。国連が認める活動と明記してある」と述べ、「決議」解釈を巡り、会談は平行線をたどった。(23:03)                              

     (2007年8月8日 NIKKEI NET)

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我が国は日米関係を上手に保っていかなければならない運命に置かれている。しかし、東西冷戦構造(米ソ二極構造)が氷解したあと、アメリカは狩猟民族アングロサクソンの収奪性を露骨にむき出しにしてきた。そういう本来の原点に戻り、アメリカは世界の経済体制に覇者として君臨する方向を定めた。こういう世界史的な潮流において、日米同盟は否応なくその質的方向を変えざるを得なくなっている。米ソ冷戦時代、日本はアメリカの核の庇護の中で経済成長に専心できたが、冷戦が終焉したあとは、アメリカははっきりと我が国を経済的な敵性国家と定め、二国間経済関係は時を経るほど、その利益のアンバランスは顕著になっている。

 巨大な国際金融資本が仕掛けたグローバリゼーションという激流の中で、アメリカは世界各地に自国利益の罠を仕掛けていった。そのためには無理やり相手を悪逆な国家と位置づけ、当然のように巨大な軍事力で相手国の領土を侵略した。最近ではテロ対策という名目でアフガニスタンやイラクを不当に侵攻している。小泉政権は米軍の不正義なイラク侵攻を、ブッシュのお先棒を担ぐような言い方で何の検証もせずにいきなり賛同し、自衛隊を国際援助という名目でイラクの戦地に送った。まさにアメリカの飼い犬的行動様式そのものである。

 さて8日に行なわれた米国駐日大使シーファー氏と、民主党代表の小沢一郎氏の対談は戦後政治史の中でも異例のことだったが、小沢氏はテロ特措法の延長には応じられないときっぱりと言い放った。小沢氏の言うとおりである。アメリカがごり押し的にイラクに攻め入ったあとで、大国のエゴをむき出しにして国連に無理やり追認させた形になっているのは誰もが知るところである。しかも、イラクには大量破壊兵器の痕跡さえも見つからなかった。こういう流れの中で成立したテロ特措法には延長の根拠はまったくない。国際貢献というのは正義がなければならない。大国のエゴで作った偽りの正義などに同調したら、日本の独自性は完全に消失して世界の笑いものとなるだけだ。しかもそれによって蒙る利益は何もない。米国の犬、犬は飼い主に絶対に服従だがまだ餌は確保できる。しかし、日本は飼い犬以下だ。なぜなら自分たちが喰うべき餌も米国に取られているからだ。この状態をバランスと抑制の取れた二国関係だなどとほざいているポチ政治家がいる限りこの国は落ちる一方だ。

 私は小沢氏の肝っ玉の大きさに、かつての田中角栄の土性骨を見た感じがした。田中角栄の日中国交回復については、歴史的にどういう評価を下されるのか私には判断は付かないが、彼の対米認識は戦後の宰相の中でも断トツに立派であったと思う。少なくとも田中は米国と対等に対峙しようとした。ロッキード疑獄はアメリカの策謀である。これには二種類の背景が存在していると思う。どちらも黒幕はアメリカだ。一つは日本の航空機産業が発展しないように頭打ちをやったことだ。自衛隊で使う軍用機や民間のジェット旅客機を日本独自の優れた技術で造られたら、安くて良い製品の需給関係からアメリカが敗北するからだ。特に日本製のジェット旅客機が世界に羽ばたくことを米国は警戒していたと思う。また日本が独自に航空機を作ると、アメリカは日本という優良顧客を失うからである。もう一つの背景は田中が中東経由以外の原油輸入を考えたことである。これが石油メジャーの逆鱗に触れた。石油メジャーとアメリカのエスタブリッシュメントが田中角栄の民族利益を打ち砕く目的で一致したということだろう。田中角栄の失脚した理由は、彼が戦後登場した唯一の民族主義的宰相であったから狙われたのであり、それをガードする政治家と国民がいなかったからである。

 この偉大な宰相の薫陶を受けて育っているのが小沢一郎氏である。小沢氏の国連中心主義には異論はあるが、少なくともシーファー大使にきっぱりと、テロ特措法は米国のエゴの上に築かれた暫定立法だという見解を示したことで、田中角栄譲りの腹の座り方を見せ付けたというところだろう。小泉前首相、安倍現首相、どんなにきれいごとを言っても、米国のポチを前提としたら、それは飼い犬の吼え声でしかない。

 それに引き換え、人類のチンピラ・ヤクザである米国にノーを言える人材は貴重である。小沢氏の真の展望がどこにあるのか知らないが、田中角栄の肝の据わり方を持ち、国益をきちんと考える彼に当面は国政を任せたほうがいいように思う。しかし、最も本来的な日本国宰相には西村眞悟氏がふさわしい。小沢氏は大同的な見地で西村眞悟氏を民主党に復帰させるべきだ。山崎行太郎氏も小沢氏の「人間力」を評価していた。政治は頭ではないと思う。知力が優れていても、人間的に他者を感化できなければそれは政治とは言えない。そういう意味では西村氏も、小沢氏も、かつての政治家らしさ、すなわち「人間力」が残存している稀少な実力者というべきだろう。

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2007年8月 8日 (水)

良き知らせ!!!

 一昨日、植草一秀氏ご本人から、彼の手紙とサイン入りの新刊書「知られざる真実 勾留地にて」が私宛に届いた。

 私は植草氏のミーハー的ファンではまったくないのだが、日本では最も偉大な経済学者だと信じているので、この配達には近頃になく幸福な気分になった。新刊書についてはすでに手に入れ、じっくりと噛み締めて読んでいる最中だが、ご本人のお心遣いが嬉しくて、届けられた本は私の宝物として、最上級のコレクションに加えた。

 私はすぐにでも書評を書きたいが、こういう重要な本は充分に時間をかけて読むことにしている。今、第一章の「偽装」をじっくりと何度も吟味しながら読み進めている。「小泉政権五つの大罪」、「標的にされたりそな銀行」、「巨大国家犯罪疑惑」などを読み砕いているうちに、宮崎学氏が監修している「Web直言」で、植草氏の話をもっと詳しく知りたいと思ったことが、実に直截に簡潔に語られていることに感動し、思いっきり溜飲が下がっている。これは私利私欲を突破した人間にしか書けない内容だ。

 今言えることは、りそな銀行が国家的な謀(はかりごと)で偽装的な窮地に立たされ、土壇場の段階で抜け穴的法律の適用により、国家救済された時、実は日本の金融システムは大崩壊寸前にあったことを植草氏は指摘している。権力を恣意的に使用できる立場にある何者かによる故意のシステミック・リスク創出である。日本の有識者の中で、りそな銀に関して、この大崩壊の危機を見抜き、警告していた人は植草一秀氏だけであったということだ。しかし、国家の金融政策を預かる者たちが行なった権力の私的濫用は実に許されざる重罪である。

 というわけで、書評はもう少し先のことになる。楽しみに待っていただきたい。今は、この画期的な本が出版されたことが本当に嬉しい。植草さんを応援して本当に良かったと思う。

 いずれにしても私のような者にお心遣いをしていただき、本当にありがたいことです。

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2007年8月 6日 (月)

山崎行太郎氏の経済時評に感化されて・・

 今回の参院選の画期的な結果として出た「自民党大敗北」の真因を裏付ける説明として、文藝評論家の山崎行太郎氏が、実に的確且つ妥当な経済評論を記していたのでここに転載する。山崎氏は産経新聞記者・山本雄史氏のブログに描かれている国民新党の選挙奮闘記を土台にして、小泉・安倍政権の本質的な国家政策の悪を経済学的な視点から見事に説明している。僭越ながら管理人(神州)もこの見解にまったく同じである。

 この論評で、山崎氏は小泉構造改革の本質がフリードマン、ルーカスをモデルにした新自由主義経済構造であることを説明しているが、その中でも皆さん(要するに日本国民すべての人)に重大視してもらいたい説明は、山崎氏が使った「バラマキ」という言葉についてである。政治的な用語には、本質から離れた意味を無用に強調し、大衆に対し結果的に多大な悪影響を与えてしまうペテン的な言葉が数多く存在する。その中でも耳に心地よく響く言葉は「建設的な意見」という言葉であろう。賛成論、反対論が凄まじく飛び交うある種の議論で、賛成派が「ここはひとつ建設的な方向で考えましょう」という場合がよくあるが、ここで言う「建設的」なる言葉は、けっして「積極的に全体が利する方向で」という意味ではない。賛成か反対かの二者択一に追い込まれた時、その言葉が志向することは「賛成の方向で考えてみましょうね」という自派に有利な誘導以外の何物でもない。皆さんは各地のコミュニティーなどの会議経験で私が言うことに心当たりがあると思う。たとえば、地方のあるエリアにゴミ焼却場建設問題が浮上し、住民が喧々諤々と賛否両論を戦わせている時、推進派がかならずと言っていいほど住民に使う言葉がある。それが「物事は建設的に考えようよ!」である。端的に言えば、これは「オマエラ反対すんなよ!ゴミ焼却場は建設するんだよ!」の「建設」なのである。(笑)

 このように、聞こえのいい言葉で本質から逸らしていく詐欺的な言葉が多々ある中で、明らかに「構造改革」という言葉もその一つだ。いちいち説明はしないが、この言葉自体に否定的要素は何もない。しかし、あまりにも広義の意味を有する「構造」という言葉は、そのまま使っても何の意味も持たないのと同じだ。構造そのものの定義がまったく為されない状態で使用される場合、それは完全なペテン用語となる。為政者が「構造改革のためには旧弊な構造を壊さなければならない」と言えば、経済に明るい人なら、その言葉を勝手に解釈して「ああ、これはシュンペンターの言う創造的破壊のことなんだな」と勝手に思い込んで受け入れてしまう。経済に暗い人は、「その通りだ、家を新築するには前の家を壊すのは当たり前だ」と、やはり得心してしまう。

 しかし、そういうペテン言葉を大言壮語して国民に痛みを強いておき、実際は経済構造を国民に不利益になるように持って行った宰相がいる。小泉純一郎その人である。彼と彼を担ぎ上げた一派は、構造改革を声高に叫んで国民を奈落の底に突き落としたのである。さて、山崎氏の取り上げた「バラマキ」なる言葉も、重要な政策を売国政策に誘導する非常に悪質な言葉であることを説明する。山崎先生は言う。

 さて、小沢民主党がマニフェストで公約している「バラマキ政策」も、需要喚起を重視した一種のケインズ経済学的な政策と考えていいのだが、しかし残念なことに「バラマキ政策」は、党内の一部からさえ批判されている。それは、おそらく民主党が、「バラマキ」というイメージの悪い言葉に象徴されるように、バラマキの経済学的な意味を、経済思想的に理論化しきっていないからである。「バラマキ」とは、言うまでもなくケインズ経済学の理論を適用すれば、必ずしも否定されるべき政策ではない。バラマキこそ、実は、言葉の印象は悪いが、需要喚起に直結した経済政策である。バラマキを「バラマキ」と言って否定したところに小泉以後のわが国の経済政策の陥穽と失敗の根拠があるのだが、この問題をもっとも明確に意識し、経済学的に理論化し、政策として主張しているのは国民新党である。(山崎行太郎氏の記事より)

 私は山崎氏のこの記述を読んで、ここには、小泉政権の本質と、彼が不用意にあるいは恣意的行なった『日本経済の質的構造転換』の恐ろしさが余すところなく表現されていることを見て取った。山崎氏がいみじくも取り上げたこの「バラマキ」という言葉に、新自由主義信奉者たちの許しがたい悪意が透けて見える。このバラマキという言葉自体には明らかに「賄賂性」を強調する意図が込められていて、いわゆる「構造改革」とは正反対の悪しきイメージを国民に植え付けている。しかし、これをケインジアン的視点から眺めると、まったく異なる様相を帯びてくることを山崎氏は見事に喝破している。どういうことかと言えば、ケインズ政策的社会と新自由主義政策的社会の対比を、所得の分配という観点から捉えた場合、前者は公平配分型社会であり、後者は傾斜型不公平配分社会である。

 官僚の汚職や族議員の利権獲得など、以前の日本社会は是正すべき問題が山積みされていて、それを改善しなければにっちもさっちも行かなくなっていたことは本当である。しかし、だからと言って、日本型の伝統的な経済構造が全否定されるべきで、早急に破壊しろという方向ははたして正しいのだろうか。貧しい者や弱い階層が絶望感を抱かないように社会のインフラを進めて行くのが政治であり健全なる統治社会である。なぜならそうしなければ社会そのものが安定しないからである。富の格差が生じても、富を得る機会が平等に担保される社会であるからこそ、人々の労働意欲は湧き上がり、未来への希望を人々は持ち続けていく。他国に比べかつての日本社会の優れた特質はここにあったのだ。今、福祉に財源を取られて、国は体力が弱っているなどという論調を取る為政者は国賊である。政治の要諦は国民に希望と活力を与え、総需要を喚起して経済を賦活する政策を打ち出すことだ。そのために為政者は将来のグランドデザインを鮮明に打ち出す必要がある。国民全般がイメージできる国家ビジョンを明確に打ち出せなくて総理大臣は勤まらない。

 植草一秀氏が言うように、官僚体制の抜本的是正は「天下り」の完全撤廃にこそある。これを最優先事項として、あとの腐敗構造は随時是正的に行なっていけばいい。しかし、日本の伝統と良心から生まれた伝統構造は温存すべきものは温存する必要があったのだ。問題はケインズ主義を担保していた旧田中派一派を小泉氏がことごとく駆逐してしまったことにある。その本体が橋本派の弱体化であり、郵政民営化で粛清された議員たちである。ここに伝統から生じた日本式の公平分配型社会はその息の根を完全に止められることになった。つまり、「バラマキ」=「賄賂」=「時代劇の悪代官」のネガティブ・イメージで日本型ケインズ構造を徹底破壊したのが小泉施政の政治的本質だったということだろう。国民がだまされたのは、官僚の腐敗や既得権益を異常にピックアップして、それまで機能していた富の還元型構造を完全に破壊してしまったことだ。なぜこういうことが起きたのか?それは国民と為政者に自国の国家構造に対する認識の甘さと、対米認識が間違っているからである。さらに言うなら、日本人の精神構造に巣食う誤まった歴史観が健全な国家構造の概念を構築できないでいるからである。

  ここで、なぜ植草氏が小泉一派から狙われたのか言う必要がある。「バラマキ」というのをケインジアン的視点、つまり植草氏の言い方に翻訳するならこういうことだ。植草氏は競争原理社会を否定してはいない。公正なルールの下で競争原理が発動されるのはいい傾向だと考えている。しかし、彼が新自由主義者でないことは明らかである。最新刊の「知られざる真実」で彼は言っている。経済成長が持続するための最大の条件は、「生産」→「所得」→「支出」→そして「生産」というプラス循環が出来上がることだと。このプラスのループが正常に機能して経済成長は成り立つ。ここで国民一人当たりの支出が増大するには、当然ながら所得の増大がなければならない。しかし、フリードマン・モデルの新自由主義ではこの個人所得増大がまったく担保されないどころか減収するのである。特に低所得者層においてこれは顕著である。従ってこのループは成立しない。その結果、極端な傾斜配分社会が生じ、底辺層に近いほど地獄を見ることになる。社会に希望が失せ、犯罪が跋扈する荒廃した社会へ向かうことになる。この状況で国民の総需要喚起政策は絶対に打ち出せなくなる。

 植草氏の政治的視点は社会的弱者の保護にある。要は福祉と市場経済を同一次元に還元しない、つまり対立構造に置かないことだ。彼は言う。豊かな社会であるための最大の条件は、弱者に対する必要且つ充分な保護であると。小泉政権はアメリカのような原初的な競争原理を持ち込んだ。問題はここに公正な競争原理のルールが存在しなくなったことだ。国民はなかなかそれに気付かない。健全な競争の公正さを担保していたルールこそ、さまざまな「規制」だったのだ。小泉氏はこれを無造作に破壊した。聖域なき規制撤廃や規制改革がどれほど国家構造を損壊したか、今になって気付き始めた国民は多い。国政を預かるものは大衆受けする欺瞞の用語でごまかさずに、理論的に新自由主義から脱却して欲しいと思う。為政者が高橋是清の精神を一パーセントでも汲んだらこれは可能だ。

  時代がどのように変遷しようとも、所得の公平な配分がある程度担保されない社会は荒廃するだけである。そういう意味では植草氏は古典的な意味ではなく現代的なケインジアンだと思う。それもきわめて良心的な。なお山崎行太郎氏が説明しているクラウディング・アウト現象やマンデル・フレミング効果なる専門用語は、丹羽春喜博士の書いた《謀略の思想「反ケインズ主義」》にわかりやすく説明されているし、その理屈がいかに間尺に合わないかも説明されている。


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   http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/
山崎行太郎氏、8月5日のブログより転載

国民新党のケインズ主義的な経済政策を評価する。

国民新党の動きが面白い。選挙結果は、島根県の「亀井女史」の大勝利以外は、たいしたことなかったように見えるが、選挙戦最終日の盛り上がりは半端ではなかったようだ。これは、産経新聞の山本雄史記者が現場取材した上で報告している話だからウソではないだろう。山本記者によると、28日午後7時半、有楽町マリオン前で行われた国民新党の最後の街頭演説は、他党の街頭演説を圧倒する勢いで、そのパワーは群を抜いていたらしい。新橋駅前の安倍演説が、総理の最後の街頭演説とは思えないほどショボかったのに比して、国民新党の街頭演説は、多くの熱狂的な国民に囲まれ、いちばんの盛り上がりを見せたらしいのである。綿貫や亀井の演説に多くの国民が足を止め、聞き入っていたということだ。何故だろうか。国民新党は、経済政策的に言えば、公共投資削減と緊縮財政による財政再建を目指した小泉改革に対して明確に「ノー」と言った上で、小泉改革が理論的に依拠している新自由主義的経済政策を否定し、需要拡大による景気回復を目指すケインズ主義を党是としている。小泉改革や竹中改革に飽き飽きしている国民の多くが、国民新党の経済政策に関心を寄せるのは当然だろう。さて、小沢民主党がマニフェストで公約している「バラマキ政策」も、需要喚起を重視した一種のケインズ経済学的な政策と考えていいのだが、しかし残念なことに「バラマキ政策」は、党内の一部からさえ批判されている。それは、おそらく民主党が、「バラマキ」というイメージの悪い言葉に象徴されるように、バラマキの経済学的な意味を、経済思想的に理論化しきっていないからである。「バラマキ」とは、言うまでもなくケインズ経済学の理論を適用すれば、必ずしも否定されるべき政策ではない。バラマキこそ、実は、言葉の印象は悪いが、需要喚起に直結した経済政策である。バラマキを「バラマキ」と言って否定したところに小泉以後のわが国の経済政策の陥穽と失敗の根拠があるのだが、この問題をもっとも明確に意識し、経済学的に理論化し、政策として主張しているのは国民新党である。しかし、残念なことに、マスコミも学会も、この問題の意味を経済学的に、あるいは経済思想史的に、理解していない。むろん、財政破綻と財政再建の鍵をにぎるのはこのバラマキという言葉である。なぜ、バラマキが批判されなければならないのか。その理論的な根拠は何か。誤解を恐れずに言えば、ケインズ主義的な有効需要理論の本質はバラマキである。逆に、フリードマンやルーカス等が主張する新自由主義経済学、あるいは新古典派経済学は、バラマキを否定することから始まる。たとえば「合理的期待形成論学派」の頭目・ルーカスは、「ルーカス型総供給方程式」に基づいて、需要拡大政策の効果を全面否定する。つまり財政政策も金融政策もすべて無効だ、と主張する。言い換えれば、バラマキは経済成長にとって無駄であり、無用であるということを経済学的に体系化したのがフリードマンやルーカスの経済学である。その時、使われる理論は、たとえば「クラウディングアウト現象」理論(国債の市中消化によって民間資金が国庫に吸い上げられる結果としての民間資金の不足状態が生じ、市中金利が高騰し、景気は回復しない…)であり、「マンデル・フレミング効果」理論(市中金利の高騰が円高を引き起こし、輸出産業に大打撃を与え、よって景気は失速する…)であるが、わが国の経済学者や経済評論家で、これらの理論の正当性について緻密な議論や分析をした人はほとんどいない。ケインズ主義的な有効需要理論が、何故、無効なのかを理論的に、且つ経済思想史的に説明できる人がいないのである。ただ、それが、アメリカで、今、最先端の理論として流行している経済理論だから、正しいに決まっていると盲目的に信じ込んでいるだけであるようにしか見えない。むろん、今や、新自由主義や新古典派経済学の欠陥は明らかだ。小泉改革が、バラマキという名の公共投資のすべてを否定して、徹底的な緊縮財政を貫くことによって、さらに財政のプライマリー・バランスを悪化させ、経済成長をもたらすどころか、日本列島をシャッター列島、あるいは自殺列島にしてしまったのはその見本である。今、国民新党が、はっきりと新自由主義を否定し、ケインズ主義的な経済政策を主張していることの意味は重要である。自民党も民主党も、この問題の本質を理解していない。「成長か、逆行か」と安倍は喚いていたが、言うまでもなく安倍に、この言葉の持つ経済学的な意味がわかっているはずがない。ただ、誰かの振り付けで、口をパクパクさせているだけであろう。「緊縮財政で成長路線を…」とは自己矛盾も甚だしい。国民に声が届かないのも当然である。

■産経新聞記者・山本雄史ブログより

http://yamamotot.iza.ne.jp/blog/entry/249663/

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2007年8月 5日 (日)

応援者X氏のフィクション

 ある応援者X氏から以下のような物語を載せて欲しいと頼まれた。内容は植草さんの実際の事件を参考にはしているが、ストーリーそのものはあくまでも空想であって、実際のできごととはまったく無関係であることをお断りしておく。このショート物語は、腐敗した政権が官憲とタイアップした場合、どんなことが起こるかという一つのフィクションである。私個人は植草さんの身に起きた身に覚えのない逮捕は国策捜査だと確信している。しかし、謀略とは徹底的な隠蔽の中で行なわれるものであるから、実際にどのようなはかりごとが事件の直前まで進行したのか知る由もない。しかし、事実は小説よりも奇なりというから、植草さんの場合はこういう単純なストーリーをはるかに上回る奇々怪々なたくらみがあったと言うべきかもしれない。

 りそなインサイダー疑惑は、前金融庁関係、銀行関係、外資関係が関わって莫大な金が動いたと見ているが、そうであるならばここには当然、闇組織のヤクザが関与していることは間違いない。我々のあずかり知らぬところで、数十億、いや数百億の金が闇組織に流れた可能性は大きい。それが想起されるのはりそなに絡んで人死にが出ているからだ。私も、これに関心を寄せる多くの人々も事実を知りたいと思っている。このままでは真相は深い霧に包まれてしまう。だが、ひょっとして真相の中心にいた人物が突然真実をいうこともあるかもしれない。それは淡い期待だが可能性はある。なぜなら、第九回公判では善意の乗客が正直にありのままを語ってくれたからである。これによって裁判は検察の思惑を越えるベクトルを有したことは確実である。今回の裁判が、推定有罪率99.9パーセントの痴漢裁判の慣習を初めて打破する結果になることを切に願うばかりである。

 まあ、X氏の『フィクション』を一つの参考としてお読みいただきたい。続きが来るかどうかはまったくわからないが。

 「ある物語」 
         (応援者X氏より)

 広域暴力団の傘下の一つである○○組のA男とB男そしてB男の情婦C子は、大掛かりな麻薬取引で逮捕拘留中であった。苛烈きわまる長時間の取り調べと、いつ果てるともしらない不自由な監禁で疲労困憊していた。そうした中にあってある日、3人はとある検察官から意外な話を持ちかけられて目を丸くした。「お前たちがある仕事に協力してくれたら、今取り調べ中の嫌疑は不起訴にしてやってもよいのだが・・。」と言う。意表をつく検察官の突然の提案に、三人はつかの間唖然としていたが、そのうち裏世界の駆け引きに慣れきっている彼らの表情は悪党らしくにやついていた。「こりゃまるで映画のストーリー展開と同じだな」と、薄ら笑いを浮かべて即座に得心したようだった。

 そこで更に詳しく聞いてみると、それは痴漢事件のでっち上げをやってくれというのであった。「お前たちがチームを編成して実行してくれ。それを監督する者はこっちから参加させる。万が一でっち上げが発覚しても、悪いようにはけっしてしない。それに裁判で偽証罪で訴えられるような顛末には絶対にしない。これは、絶対的な上からの極秘の指令であり、すでに決められたことだ。お前たちがこのようなことを検察に頼まれたなどと誰かに漏らそうものなら、お前達は、麻薬取締法違反で3年以上の懲役どころか、一生娑婆には出られんことを覚悟するんだな。」とヤクザも顔色なしの恫喝だった。

 もとより血なまぐさいことに手を汚してきた彼らにとっては願ってもない交換条件である。それなら、「お安い御用だ」と警察に全面協力しようということになった。いや、ありていに言えばそれ以外の選択肢はなかっただけなのだが、かくしてヤクザと警察の混成チームは結成された。実行チームはさっそく行動に取り掛かった。「痴漢偽装工作」を遂行するために彼らは綿密な下調べを行なった。通勤や付き合い、その他、U氏の日常的な行動範囲などをトレースして細部が検討された。どの状況でどのように彼を嵌めるのが最も効果的で安全か、充分な策があらかじめ練られていた。

 彼らが到達していた結論は、電車車両内の痴漢犯罪であった。しかも、この犯罪には被害者や逮捕者の正体を可能な限り不明確にするという前提があり、その最大の目的は、ターゲットにした人物U氏の社会的な名誉が剥奪されることにかかっていた。したがって、強制わいせつ罪の偽装工作では混成チームの素性に響いてくるからまずい。そこで選んだ犯罪が東京都の迷惑防止条例違反という微妙な犯罪だった。目的とするところは、U氏の先天的な病的性癖が押さえきれずに出てしまったという印象を世間に大々的に流布することにあった。目的は彼の有罪を立件に持ち込むことよりも、有名人であるU氏をマスコミを通じて徹底的にイメージダウンすることにあった。そのように行なえば、U氏の言動が世論に反映する可能性は著しく低くなるからだ。それほどU氏を嵌めた政治勢力はU氏の言論活動を恐れていたということだ。

 さて、当日、関係者との宴会ですっかり泥酔したU氏を、A男が自宅と反対方向の電車に押し込んだ。間違い電車だと気付いて出ようとしたU氏を、B男とC子、そして官憲側のスタッフが電車に無理やり押し戻した。電車が品川駅を出発してU氏は、ぐったりとしてつり革につかまっている。C子はその若さの持つ優柔不断ゆえか、最初ためらっていて、なかなかU氏に接近しようとしない。A男は「早くやれ」とC子に促した。「何をするんですか?子どもが見ている前で恥ずかしくないのですか」という検察が考えた台詞は、何回も練習してきていたのだが、なかなかそう脚本どおりにいかなくてあせっていた。しかし結局はU氏に近づいて少し大きめの声で「子どもがいる前で」と言うのがやっとだった。かくして偽装犯罪の幕が開くことになった。

    つづく

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2007年8月 3日 (金)

国策捜査を疑わせる箇所を考察する

 
                      (※この図はクリックすると少し見やすくなります)


Photo_2



    植草さんは国策逮捕に遭遇した


 9月13日の京急事件のタイムテーブルを作ってみた。こうすれば植草氏の逮捕状況を把握するために整理しやすいような気がした。さて、京急品川駅を発車し、京急蒲田駅に到着、そして蒲田警察署に連行されるまでの一連の進行状況を①~⑨までのできごとで分割的に羅列してみた。こうして見ると、どの事象でどのようなことが起きていたか良く見えてくる。

 この事件が国策捜査であることを充分に疑わせる事象としては、この図の中では③と④で語られている二名の一般人(常人)逮捕者の行動の異様さと、⑦の青木巡査部長が京急蒲田駅に向かうように指令を受けた時間が決定的に問題視されることを説明する。あと一つは巡査部長が蒲田駅に着いたとき、不自然な数の応援部隊が到着していたことも不可解としか言いようがない。

 さて、図中記述③及び④には、有志の一般人逮捕者が二名で植草さんを異常な膂力で押さえつけているが、第二回公判の目撃証人も、第六回の逮捕者もそんなことは証言していない。彼らは中心的な逮捕者は一名であると語っているし、連行状況はネクタイを掴んで行ったということである。第二回の目撃者は一人が逮捕したと語っている。また第六回の逮捕者は、自分が電車内で押さえたと言っている。もう一人の一般人は降車したあとで手伝ったように言っている。

 それに対して、植草さんの意見陳述書では二人に異常な力で制圧されたと語っている。一方、第九回の弁護側証人も二人が車内で押さえていたことを見たと言っている。ここで注意してもらいたいのは、検察側の証人は二回の公判に出廷した二名とも、けっして制圧的な力で連行したとは言っていないのである。彼らはネクタイを掴んでいたと証言しているのである。常識で考えたらわかるが、ネクタイを掴んで連行できるという状況はたった一つの条件しかない。それは被疑者がまったく無抵抗であることを確信した場合のみである。それ以外はこの逮捕状態は抵抗に遭いやすい最も愚かな方法なのである。なぜなら被疑者の両手が自由だから反撃に遭いやすい。植草さんは電車内で痴漢呼ばわりされ、まだ何も抗弁しない状況で、捕まえた人間が植草さんの無抵抗を確信できるだろうか。それを確信するためには所定の時間をかけて質問するなり、被疑者と被害者を話し合わせるという最低限の手続きは必要だろう。

 ところがはっきりと言える事は、車内で捕まえたこの二名は、植草さんの抗弁を聞くことも、女子高生と話し合いの機会を与えることもせずに、容赦なく駅事務室に連れて行った。読者の皆さんは、植草さんのネクタイを掴んで連れて行ったということをそのまま信じられるだろうか。被疑者が自分の犯罪を納得していない場合は抵抗するのが自然の行動だ。理不尽だからである。しかし、この逮捕者はその可能性を無視しているように感じられる。つまり、ネクタイをつかむ逮捕行為はこの場合、きわめて不合理なのである。これは植草さんの手と肩を押さえて強制的に連れて行ったという方が真実性がある。有無を言わせない強固な力で駅事務室に連れて行ったというのが本当のことだろう。これは逮捕術や格闘術を心得た人間の仕業を感じるのである。法廷証言ではネクタイを掴まれた植草さんが従順に従ったような印象を与えている。これはなぜだろうか?

 これが偽装犯罪、つまり植草さんを陥れるための作為的な痴漢犯罪だとしたら、充分な弁明の機会も与えずに強引に連れて行ったという印象を掻き消すためであろう。あたかも植草さんが即座に観念して痴漢を認めてしまったということにするためである。実は、この屈強な二人の男の強圧的な行動と、⑦で説明しているパトカーへ連絡が来た時間は強固な対の関係になっているのだ。蒲田駅近辺をパトカーで警邏中の巡査部長は、午後の10時21分に蒲田駅に向かうように指令を受けている。この時間が非常に重要なのだ。この巡査部長が指令を受けた時は、電車が蒲田駅に到着してからわずか2分10秒後のことなのである。

 奇妙だと思わないだろうか。たった2分10秒間だけで、逮捕者は駅員にすべての事情を説明し、駅員はそれを納得して警察に通報しており、尚且つ警邏中の巡査部長に指令が出ているのである。逮捕者と植草氏、そして被害者、この者たちから駅員が事情を聴き、この非常識な短時間内にある結論を出し、警察に110番し、その連絡は警邏中のパトカーに到達している。繰り返すが、これら一連の経過に要した時間が、何とたったの2分10秒間である。これは現実にありえない時間である。電車が蒲田駅に到着してから、パトカーで警邏中の青木巡査部長に指令が到達するまで僅か2分10秒間しかないことに注目しよう。この異常なテンポの展開は、事前に周到な打ち合わせをしておかないと絶対に不可能である。逮捕者は痴漢を目撃していない。被害者女性から話しを聞いただけなら、植草氏を実力で駅事務室に連行しようと決意するまで、それなりの時間は要するはずである。

 しかも、植草氏は駅事務室に行くことを拒否していない。拒否していないなら、女性の言うことだけを聴いて犯罪を確信することはバランスを欠く行為である。植草氏の弁明も聴くことが妥当だ。それを実力で連れて行ったのは相当に不自然である。しかも犯人が暴れて自分が怪我をする可能性だってある。通常の段取りとしては、彼をまず説得してから駅事務室に連れて行く方が合理的だが、この説得作業をまったく無視している。

 更にもっと奇怪なのは、駅事務室に連れて行っても、駅員たちへ、この事件に関する事情説明がきちんと行なわれた形跡がないことである。自分(逮捕者自身)は見てないのだから、被害者及び被疑者から常識として相応の説明を聴くことが必要となる。逮捕者はこれを怠っている。さらに駅員さんは、逮捕した者たちから状況説明を得る必要がある。それが納得いくものであれば、警察への通報となるだろう。これは常識的には10分でも無理だと私は思う。警邏中のパトカーに指令を出すのは警察本部の通信指令室である。110番を受けた後、ここから現場近辺のパトカーに指令を出すのが2分10秒後だとすれば、実際に蒲田駅の事務室で110番する判断を下したのはそれよりも何秒か何十秒か前だということになる。なぜなら迅速に通信指令を出す体制とは言っても、その前に通報内容をチェックする時間があるからだ。すると駅事務室から警察に連絡した時間は、電車が蒲田駅に到着してから、2分10秒よりもはるかに短い時間だったに違いない。この数値がすでに現実的事象から思いっきり乖離している。 

 さて、男二人が植草さんを異常な強制力で駅事務室に連れて行ったことと、電車が到着してから、わずか2分10秒後にパトカーに連絡が入っていることを鑑みれば、これら二つの事象は明らかに強い関連性を有しており、双対をなしている。つまり、この逮捕劇は通常性をはるかに逸脱しており、あらかじめ仕組まれた計画に沿って整然とシーケンシャルに展開したとしか言いようがない。

 結論を言えば、以上の説明から植草さんの逮捕は間違いなく「国策逮捕」であったということが断言できるのである。

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2007年7月30日 (月)

7月4日公判、目撃証人の目撃時間帯

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                         快特

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2007年7月29日 (日)

竹中平蔵日銀総裁論(悪夢!!)

 テレ朝のサンデープロジェクトに、前金融相の竹中平蔵氏と株式会社ドリームインキュベータ社長の掘紘一氏が出て、最近の経済動向を語っていた。竹中平蔵マンセーの田原総一郎氏が、最近の動きとして、米系外資系ファンドのスティールパートナーズなどが行なっているM&A(企業買収)などをどう思うかなどと質問していた。竹中氏は小泉内閣での構造改革路線推進当時そのままに、敵対的企業買収という言葉もなんのそので、昨今の気運では企業が買収にさらされることは当然のことで、その買収者の企業経営戦略が間違っていれば淘汰されるだけの話。だから、経営不良の企業があらわになって却っていい傾向だというような言い方に終始していた。

 掘紘一氏は昨今の外資やファンドによる企業買収に対し、日本企業は昔さながらの持ち合い株制度を復活させ、時代が逆戻りしたかのような防衛を行なっている、これではまるで談合だ。しかもライバル企業同士で株の持合をやっているという、きわめて純日本的な形態が発生しているということを言った。私(神州の泉)などは、この動きはきわめて健全な対処法だと思っているが、構造改革路線を単純な進歩史観に同定した竹中氏に言わせれば、これは旧態依然に復帰するきわめて悪辣な動きなのであろう。彼が濫発した言葉で説明するなら、これは抵抗勢力的な動きということになるのだろうか。それにしても三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。公職を離れ、在野に下った竹中氏でも、今だにフリードマン的新自由主義経済の典型的な信奉者であることが言葉の端々から垣間見える。また竹中氏は何でも合併礼賛主義者である。企業、デパート、金融会社、地方都市、すべてが合併して大きなサイズになることは望ましいという言い方も、現役当時とまったく変わらない。

 竹中氏は特にこれからの合併で重要なものは「金融」だと断言した。これこそ、彼がハーバード・シンジケートの意を受けた米国エージェントの総帥であることを物語る発言だ。掘紘一氏は竹中氏が百兆近くの不良債権を処理した英雄であるかのような物言いをしたが、とんでもない見当違いだ。こういう馬鹿な発言の前提には、不良債権の迅速な処理が金融システムの安定化を促進するという誤まった前提があるのだ。デフレ下で竹中氏が無用の不良債権処理を行なったために、本邦の金融システムはかつてないほどに脆弱化してしまった。竹中氏はその事実を完全にスルーしている。この見かたは植草さんが小泉政権発足当時からすでに口をすっぱくして語り続けたことだ。

 合併といえば、メガバンクの出現で利用者へのサービスが低下し、国民に無用の不安を煽っている現実も無視できないことだ。不良債権の加速処理で日本の金融システムは深刻に弱体化しているが、竹中氏は不良債権処理が大成功で景気は上昇したと今でもうそぶいている。この辺りの経過は菊池英博氏の「実感なき景気回復に潜む金融恐慌の罠」という迫真の名著にあますところなく書かれている。要は、緊縮財政下で竹中氏が行なった金融再生プログラムは日本経済を失速させる悪逆非道なる政策であったということだ。この欺瞞性をいち早く察して警鐘を鳴らしていたエコノミストが植草一秀氏その人なのである。時代の政策を深く見つめた場合、植草氏の良心が訴えていた構造改革のインチキ性は、彼がどれほど国民の側に立っていたかを雄弁に物語っている。彼を痴漢をした、しないの位相で見るのも重要だが、植草氏の言論活動の背景に竹中氏の国益毀損の展望が存在していたことは絶対に認識する必要があるのだ。

サンデープロジェクトと言う番組は、従米マンセー番組そのものだ。国民に奴隷化を強いる番組だ。田原総一郎氏は売国路線の走狗である。今日の番組の締めで、掘紘一氏と田原総一郎氏がとんでもない発言をした。それは次期日銀総裁には竹中平蔵氏が最も相応しいと田原が断言したことと、掘紘一氏が、竹中氏が次期日銀総裁になる確率は六割ないし七割であると言ったことだ。いつの間にか竹中マンセー番組になっていた。真面目な話、竹中氏を日銀総裁に据え付けるというのは、アメリカ「奥の院」の意向だろうが、売国テレビがここまで竹中氏を持ち上げるからには、電通その他がこぞって竹中日銀総裁実現へ持っていくことは充分に考えられるのだ。

 竹中氏が日銀総裁になること。これが完全な国家崩壊だ。

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2007年7月28日 (土)

明日の参院選は分水嶺か?

選挙に行こうプロモーションバナー決定版、安倍でなく自分の都合で行こう、期日前投票バナー(笑)   2001年の第19回参院選から導入の比例代表の「非拘束名簿式」、政党名だけでなく、候補者名でもOKだバナー  選挙に行こうプロモーションバナー決定版、安倍でなく自分の都合で行こう、期日前投票バナー(笑) 比例は好きなとこ、地方区は勝てそな人、これってイイカモ、1票活かそう、命落とすな自公を落とせ、棄権は危険バナー


 植草さんの応援活動をしていてつくづく思うことがある。 私のようなど素人が高所大所に立って、政治をあれこれ論じる資格も見識もないと思っているが、庶民感覚でなら言いたいことは山ほど持っている。私は個人的には植草氏の実直なお人柄が好きで何とか力になりたいといつも思っている。しかし、私の場合は傑出したエコノミストの濡れ衣をただ晴らしたいという一事だけに心はない。私は植草さんの偉大さは尊敬するが、どこかのタレントに対する一個人が持つ盲愛的なファン心理はまったくない。私が植草さんを真剣に応援するのは彼の逮捕の背後に是正すべき国家の歪曲を見ているからにほかならない。

何の政治的背景も考えずに「植草さんは優しくて良いお人だからかわいそう、こういうお人がやるわけはない、だから彼は無実」などと脳天気な世迷言を言っている輩と私の応援立場は大いに異なる。二年以上も応援していて、植草さんの政策経済論の内実を学ぼうとする努力が皆無であることは知的怠慢であり、その狭隘な精神土台で国策捜査論に否定的な姿勢を持つこと自体が、植草氏応援という大所から見た場合、役に立たないどころか有害でさえある。ただし、この中心人物がある時間、品川手鏡事件に関して応援ブログを開設し、孤立無援で応援していた事実は正直賞賛に値すると思っている。しかし、この頑張りに胡坐をかいて、後半に唯我独尊状態に陥ったことは全体としては有害だと私は思っている。この人物の功績は功績として認めるのはやぶさかではないのだが、今後は悪しき影響しか及ぼさないだろう。応援者としての客観的な視座を失い、自尊心を満たす方向へ行っているこの人物はすでに応援者の資格を失っていると思うのである。これは植草さんご本人にとっても不幸である。

 それを私が断言できるのは、植草さん逮捕の不条理性に付きまとう二種類の経済政策論の衝突が根底に横たわっているからだ。実は対立する二種類の経済政策論の内実が読み取れるならば、植草氏の逮捕は不条理でも何でもないのである。この濡れ衣事件の背景は非常に単純である。それは米国や国際金融資本を利する売国政策に敢然と批判を行なったエコノミストが、その売国権力筋に睨まれ、「国権的に嵌められた」ということに尽きるということだ。具体的に言うなら、それは竹中経済路線と植草さんの経済政策論の内在的論理が、国益という観点から言って真っ向から対蹠的な立場にあるということだ。この対立相が読めない、読み取ろうとしない独善的かつ盲愛的なファン心理は度し難いものがある。この馬鹿さ加減については植草さんの第一審が落ち着いたら、本ブログ上で逐次展開するつもりでいる。理由はこういう下劣な輩に偉大な植草さんの命運を預けたら日本の損失に繋がるからだ。ただし、植草さんご本人がその意味を理解しないお人なら、それはご本人の宿痾と言うべきもので、余人にはどうしようもない部分はある。私やフルフォードさん、他の仲間が命を張って国策捜査論陣を張ったことが植草さんの謀殺を防いだ面は否定しがたい。しかし、政治的背景も考えず、修羅場も踏まず、ネットヒロイン気取りに拘泥するこの御仁には、そういう事実はまったく理解できないだろう。まあ、そのうちこいつらの欺瞞の仮面を剥ぎ取っておこう。それもご奉仕の一つだ。

 さて、植草さんの身の上に生じたあまりにも不当と言える逮捕は、現今日本が置かれている戦後政治の疲弊と、それを支持する国民意識の鈍磨に大いに関わる背景にある。一昨年の郵政民営化に関わる衆院解散総選挙時は、戦後の二院政治のバランスが見事に崩れた象徴的な現象だった。郵政一色のあの狂気とも言える選挙が実施されること自体、かろうじて良い面が残存していた戦後政治の終焉であった。つまり、良識の府である参議院が自民一党専制政治、官邸主導政治の影響下に陥ってまったく機能を果たさなくなったのである。売国マスメディアが跋扈しても、良識の参院は泰然として悪いものは悪いと言うべきであったのだ。これをもっと深い位相で眺めれば、戦後政治は裏表に米国主導の圧力が常にあったが、日本は面従腹背と、この二院制の防御作用でかろうじて国益を完全に喪失するところまでは行かずに踏みとどまっていた。ところが、小泉郵政選挙時にこの防衛システムは完全に障害を起こしてしまい、通ってはならない売国法案が立て続けに通過するという異常事態が続いている。

 常識的な話であるが、もともと議会政治で二院制を採用したのは、衆院の未熟な法案を補完し、あるいは行き過ぎた部分を厳粛に削除するという、目の前の欲得よりも思想的政策論が監視役として機能するからである。だからこそ参議院は良識の府と呼ばれた。しかし、戦後の理想政治はいつの間にか権力凝縮の第一院、すなわち衆議院の権謀術数の影響下に置かれてきたのも事実である。しかし、それでも良識と反骨の議員さんが残存していたために、なんとか売国法案は瀬戸際で留められていた観はある。

 明日の参院選に臨んで、参議院が「行政監督者」だという認識を持つ有権者はどれくらいいるのだろうか。衆議院が、暴れ馬に引かれる荷馬車だとすれば、参議院はそれに手綱をつけて制御する御者の立場にある。今度の選挙で郵政選挙の二の舞を演じ、一党(ん?二党?)独裁を狙う売国党にまたぞろ勝たせたら、こんどこそ、言論の自由が確保されている最後の砦であるネットに言論規制が入ることは間違いない。そうなったら、この国が暗黒政治に突っ走ることは火を見るより明らかなことだ。

 若い人たちも、フリーターも、無職の人たちも、この選挙が日本という国家の分水嶺であることを自覚して投票して欲しい。テレビやマスメディア、あるいは御用学者の唱える嘘っぱちの政策論は無視していい。自分の良識で選んでもらいたいと願うのみである。よくも悪くもこの選挙が日本の岐路になる。断言できるが、この選挙結果が下手な方向に行けば、米国の膝下に押さえつけられたまま、二度と日本は立ち上げれなくなる惧れがある。売国政党に権利を委ね、国民意識が拡散してしまえば、日本の風土で練られた議会制民主主義の秩序は二度と回復しない。

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2007年7月25日 (水)

恐ろしくわずかな確率!!

 (検証する会A氏から頂戴した記事)

恐ろしくわずかな確率!!

7月4日の証人は、事件が起きた時、植草氏から1mの至近距離にいて、彼が痴漢をやっていないことを目撃していた。そうであれば、植草氏の無罪は確定するのだが、検察側は彼は別な事件を見ていたのだと主張する。しかし、その確率が如何に小さいか、それは天文学的な数字となる。検察の主張は、そっくりの事件が2つ同時に起きたという主張だ。これをA事件とB事件と呼ぶことにする。A事件には本物の植草氏がいて、B事件には彼にそっくりの人間がいた。これほど似た事件が同時に起きる確率はどの位だろう。

①植草氏と見間違えるほど彼に似た人物と出会う確率・・・100000分の1

②その男性が酔って、つり革に捕まっている確率 ・・・ 100分の1

③その男性が丁度その日のその時間に品川で乗ってくる確率・・・ 100000分の1

④その男性が2人に取り押さえられ蒲田で降ろされる確率 ・・・ 1000000分の1

⑤今回の被害者と言われる同じセーターとスカートをはいた女性も一緒に降りる確率 ・・・ 1000分の1

これだけで、すでに確率としては10の21乗分の1,つまり0.0000・・・
と小数点の後ろに0が20個も並ぶ小さな確率となる。要するに、このような偶然は起こりえないということだ。彼が罪を犯した確率はこれ以下ということになるわけだ。「疑わしきは罰せず」という原則に従えば罪を犯した確率が50%であれば、有罪にしてはいけないということだろう。であれば、当然、判決は無罪しかあり得ない。

 もちろん、検察は、この証人が犯行時間にウトウト居眠りをしていたという主張はしていないし、この証人が被告人に雇われて証言したという主張もしていない。検察には、そのような無茶な主張ができない事情がある。万事休すの状態だが、「かすかな望み」をかけて、別事件を目撃したのではないかという可能性を主張してみたものの、その可能性の少なさに自ら驚いているに違いない。

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2007年7月23日 (月)

やっていないことが目撃された事実は決定的!!!

 この事件においては、犯行が起きたとされる時間帯の確定が最も重要なポイントである。犯行時間帯(あるいは犯行アリバイ時間帯)に言及している証言者は、

①被害女子高生

②検察側目撃者

③一般人逮捕者の片方

④弁護側目撃者 

 の四名である。

 ①被害者女子高生  : この女子高生については初期報道からして、本人が正確にどのように語ったのかという資料を目にしたことはない。警察が発表したものがマスコミを通じて報道されたもの、あるいは公判中に検察が散見的に出したものしか私は見ていない。つまり検察側の起訴状を原文のままで見ていない。従って、最も重要で知りたいところの、女子高生の被害状況、特に被害者が語る痴漢行為の起承転結に関する一次情報が見たいが、現在でもそれはできない状況にある。この女子高生は非公開の質問を受けているが、我々のところへはその全貌が出てこない。わずかに検察が断片的に語ることを唯一の情報とする以外にない。しかし、その情報は決定的な意味を持つ。

 ②の検察側が連れてきた目撃者の場合は痴漢行為の起点が曖昧である。この証人は逮捕者の一人を「私服の男性」と言ったり、植草氏の右肩と左肩の視認についてあり得ないことを語っている。その他の証言にも看過できない矛盾が多々見られる。また、③の逮捕者の場合は犯罪行為そのものは目撃していない。

 従って、植草氏の「やっていない」という「悪魔のアリバイ証明」は、第九回公判に出てくれた善意の第三者である目撃証人④がきちんと真実を証言し、そのアリバイは証明されたのである。女子高生が痴漢をされた時間が品川駅を電車が発車した時刻が起点になっていることを検察自らが確定事項としたことで、この事件における植草氏の無実性が完全に証明された結果となっている。ビジュアル的にわかりやすいようにタイムテーブルを図化してみた。



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1)品川駅発:午後10時08分
2)京急蒲田駅着:午後10時18分(実際は10時18分50秒)
3)パトカーで管内を警邏中だった青木巡査部長が蒲田駅に行くように指令
  を受けたのが午後10時21分
4)青木巡査部長が蒲田駅に着いたのが午後10時30分
  ほぼ同時に4人もの警官が到着し、更にそれに加え応援部隊が駆けつ
  けている。
5)蒲田警察署に連行したのが午後10時35分
6)蒲田警察署の生活安全課へ引き継ぎを行ったのが午後10時45分
  目も止まらぬ早業で多数の警官が動き、連行している。この間に、植草
  氏の手やネクタイに付いた繊維を粘着性のテープを使い採集したそうで
  ある。

 電車が蒲田駅に到着してから、パトカーで警邏中の青木巡査部長に指令
が行くまで僅か3分(実際は2分10秒)しかないことに注目しよう。

 こういうシーケンシャルな展開が当初から企画されていたとするなら、逮捕者が植草氏を押さえつけた時点から、蒲田駅での逮捕の段取りが即応的に決められ、着々と進行したということだろう。植草氏の事件が「国策的偽装事件」である可能性がきわめて高いことが見えてくるだろう。

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2007年7月20日 (金)

報道記事の誤り(7月4日の裁判に関して)

真相掲示板に重要な書き込みがあったので、こちらにも転載しておく。

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7月4日報道記事の誤りを指摘する  投稿者:gigi 
投稿日:2007年 7月19日(木)18時54分4秒 

 こんにちは。元管理人のgigiです。
本日はゲストとして投稿させていただきます。
私の確認した事実に基づいて、前回(第九回公判)
の報道記事の誤りを指摘します。

■日刊スポーツ

◎記事→×「しかし、これまでの事実と食い違う証言もあり、植草被告の“無罪”を印象づけるにはほど遠い内容だった。」

 無実は決定的に裏付けられた。
 弁護側証人は電車が発車してから約3分間、植草氏が誰とも密着せず、右手を高い方のつり革、左手は下の方に下ろした状態で左右にゆらゆらと揺れている様子をはっきりと目撃していた。

 さらに詳しくは、植草さんの様子について次のような証言をした。「(ストラップが)帯に見えたので、黒いカバンを肩から下げていたと思う。傘を持っていたかどうかは覚えていない。 植草さんははつり革につかまっていたので、人には密着はできないと思う。女性の姿は 記憶にない。植草さんの体は右に行ったり左に行ったり、足を組みなおしたりしていた。顔も左右してたのが続いた。

 こうべを垂れていた。植草さんの前を通り過ぎた時にお酒の他にタバコの臭いも感じた。」

 非常にリアルな表現ではないだろうか。ジェスチャーも交えたようだ。仮に作り話だとしたら、足元の表現は見事である。また「タバコの臭い」は、報道には出ておらず、真実味を帯びている。

 植草氏がタバコを吸うかどうかは知らない。私の推測では、吸う吸わないに限らず、宴会の部屋の受動喫煙により、スーツに臭いが移ってしまったのだろうと考える。私も断煙後は人のタバコの臭いには敏感である。居酒屋に行った後などは自分の服に移った厨房からの煙とタバコの煙臭さに辟易する事がある。

◎記事→×「証人の男性は弁護側にとっては、逆転無罪を勝ち取る最後の隠し玉のはずだった。しかし、検察官、裁判官の質問でつじつまが合わなくなってしまった。男性は京急品川駅のホームから下りの快速特急に乗車し、すでに乗車していた植草被告の前を通り抜け、酒臭いことを確認してシートに座ったと証言。だが、植草被告は『ホームに止まっていた電車発車直前に乗った』と供述。入線してきた電車にすぐ乗った男性より前に車内で立っていたことが、これまでの事実と異なってしまう。」

 悪質な捏造記事である。植草氏は発車直前に乗ったとは言っていません。意見陳述書ではこうです。「強い睡魔に襲われる酒酔い状態にあったために、私が本来帰宅する方向とは逆方向に向かう電車に乗ってしまいました。

 電車に乗り込む際には、逆方向に向かう電車であることに気付いたのですが、反対ホームに行くのは面倒だと思い、そのまま電車に乗ってしまいました。」

 いかにも発車直前に飛び乗り、直後にドアがしまったような表現である「発車直前に」は記者の捏造である。

◎記事→×「また、男性は、さいたま市に住んでいるが、事件当日はビル管理業務の夜勤明け。京急川崎駅前で待ち合わせをしていた人にすっぽかされて、自宅に戻ったという。裁判官から「電車に乗ったことを証明できますか?」と同乗の事実の信ぴょう性を問われたが「できません」と力無く答えた。」

 これも捏造が判明した。公判では「夜勤明け」という言葉はなかったので、記者の早とちり?で読者に誤解を与えている。実際のやりとりは、正確ではないが、大体こんな風であった。

   検察:9月13日にまちがいないですか?
   証人:仕事の明けなので、まちがいありません
   検察;なぜ9月13日夜が仕事の明けと云えるのですか?
   証人:明けの日しか、あまり出歩かないからです

 またこのようなやりとりもあった。

   検察:さしつかえない範囲であなたの職業をおしえてください
   証人:建物の管理です

 ビル管理業務とは一言も言ってない。建物の管理である。

また気がついた点がありましたら、書きます。

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2007年7月19日 (木)

植草氏第10回公判傍聴記、及び感想

2007年7月18日公判傍聴記、及び管理人の私見

裁判長 神坂尚
裁判官 大村るい
裁判官 宮本総
裁判所書記官 石川百合子

検察官 清野憲一

 論告求刑の帰結は、先に言ってしまえば、7月18日の公判で検察側は植草氏の犯意は当初から確実だった、そして植草氏が公判で否認したために、被害者の精神的苦痛は一度ならず二次的な苦痛としてもその衝撃は大きく、これは実刑に相当するという見解を述べ、懲役6ヶ月を求刑した。

  午前10時に開廷したが、裁判長が必要事項を読み上げてまもなく、弁護側が、65号証の学術論文、つまり目撃証人に関する論文については、一般の法律的学術論文と同様に、証拠として採用されてしかるべきだという発言をした。裁判長はこれについて疑義をはさみ、証拠としては必要性を感じませんが、と言った。弁護士はすかさず、これは学者の意見として有効である旨を述べた。

 神坂尚裁判長は、これについては検討したいので、5分間暫時休憩しますと言って、公判関係者は別室へ行った。10時15分に法廷は再開された。弁護側は65号証の論文の扱いについては意義がありますと言った。そこで、裁判長はそれは証拠能力がありませんと言い、検察官は客観性がないと言った。裁判長はそれについては却下しますと言った。
(ここで言う弁護側が採用してほしいと言う学術論文は、前回公判に出てきた補充の被告人質問で、目撃者が被告人が眼鏡をかけていたことを覚えていないと証言したことについて、弁護側が日本大学のI教授に依頼して心理学実験をしてもらったことが明らかにされましたという件のことです)

 検察官は57号証の証書(証拠写真の証書)が不同意のまま云々 ← (聞き取れなかった。)

  検察官の読み上げが始まった。被告は公衆に著しく迷惑をかけた東京都迷惑条例防止違反で逮捕されましたが、植草氏自身は「やっていない」と否認しています。しかし、第二回公判に出た痴漢を目撃した証人、第六回公判に出た逮捕した証人、そして第三回公判に出廷した蒲田警察署の青木巡査部長など、これらの証人の証言から、被告が該当する犯罪を行なっているのは明白でありますと言った。そして被害者である女子高生の証言からも、彼女が著しい精神的衝撃を受けたことなどを延々と述べた。また、痴漢をされている最中に、第二回公判の目撃者に対して何度か目線を送って助けを訴えていたということも言ったそうである。また、検察は、女子高生が声を上げた後の被告人の行動についても詳細に語ったが、傍聴人の私が感じたことは、細部の表現はともかく、第二回及び第六回公判における証言録を大まかではそのままトレースしたものと思えた。ただし、予想に反して検察は被害者が電車の出発時からさわられていたという事を認めているのである。
 
 あまりにも検察官の語るスピードが速くてかなり聴き取りにくかったのだが、大枠において、第二回公判の検察側証人は電車の中で植草氏が痴漢をしているのを目撃し、被害者から目で助けを求められていたと感じた、06年12月20日の検察側証人、そして06年3月28日に出廷した、事件発生直後に植草氏を逮捕した検察側証人の証言があり、これらの証言が、前回公判(7月4日)で、被告人が痴漢をしていなかったという証言をした弁護側証人の証言の信用性を比較するという形で求刑理由を述べた。7月4日の弁護側証人の公判で、新聞各紙は証人は事件の際ウトウトしていたから、痴漢を目撃していないかもしれない、つまり証言は役立たないと書いたが、今回の検察論告はそういう立場を取っていないようだ。つまりその報道には今回は触れていなかった。「本件痴漢事件は電車が品川駅を出発して直後から被害者が抗議するまでの2~3分間の事件であると認められる。」というのが今回の犯行経緯であり、これを変更する可能性は無いことを検察側は自ら確定したような結果となった。検察のこの確定事項は今回の論告求刑公判の要であることがわかる。なぜなら、この確認は第九回の弁護側証人の見ていた時間帯と一致するからである。弁護側証人の言を信じれば、この時間帯に犯行がなかったことになり、それだけで植草氏の無罪が明白となるからである。

 つまり、第九回弁護側証人の証言が事実であれば、被告のアリバイは完璧に成立したことになる。現在の争点は、このアリバイを検察側が崩すことができるかどうかということにあった。これ以降は私の推測と私見が交わるから傍聴記というよりも参考意見として考えて欲しい。もしも弁護側証人が被告に雇われていたという視点を敢えて想定した場合、前回の公判で、彼が被告に効果的で有利な証言をする可能性に思い至るのだが、この弁護側証人の証言にはそういう性格は感じられなく、あくまでも第三者としての客観性を保持していたように思う。つまり被告に有利な作為性はまったく感じられないのだ。裁判の詳細を知らない弁護側証人は、被告  に不利になるかもしれない証言を数々自然体でしているからである。例えば、青物横町からはウトウトしていて植草氏を見ていなかったと証言した。またその間に痴漢が行なわれたなら、あなたは見ていなかったことになりますねと裁判長に尋ねられた時、「そう言われるとウ~ンと思う」と答えている。また電車に乗った目的を聞かれ、友人に会う予定だったと答えたものの、友人の名前を聞かれると「プライベートなことを聞くのはやめて下さい」と答えている。被告に雇われ、状況証言を仕込まれて証言したのであれば、このような答え方はないと思う。

 実際、7月4日に傍聴した多数のマスコミ関係者が、揃ってこの点を取り上げ、この弁護側証言は不確かな証言であり、無実の証明にはならないという報道をした。もし彼が雇われ証人であれば、そのように、被告に有利になるのか不利になるのか分からないような証言をするわけがない。おそらくマスコミ関係者は全員がそう思わざるを得ないのではないだろうか。これこそが、弁護側証人が、自分の目撃したものをありのまま話したという歴然とした証明ではないだろうか。しかし、弁護側証人もマスコミ関係者も今まで知らなかった新たな決定的事実があった。それは犯行時間が品川駅を出てから0~2分であったということであり、これは裁判官・検察の確定事項として今日初めて出たように思う。つまり品川駅を出て、0~2分の間、被告は痴漢をやっていなかったという表現で、完璧なアリバイが成立したと私は解釈した。この時間帯における弁護側証人の記憶は非常に鮮明であった。

 弁護側の証人は、被告に有利なこと、不利になるかもしれないことの両方を述べており、事情を知らないマスコミに、「役立たず」と勘違いをさせる内容になっていたことは、逆説的に大きな意味を持つとは考えられないだろうか。

 一方、強調したいことは、検察側の証人のすべての証言は、一つ残らず被告に不利な証言となっている。これこそ検察側証人が雇われ証人であることを疑わせる一つの客観性ではないだろうか。その意味でも、弁護側証人の供述は一貫して第三者の立場を崩していない。証言者の心理として少し思うのだが、国家組織(検察、警察)が背後に控える検察側証人の証言に比して、そういう背景を持たない一般庶民の、剥き身の証言のほうが信用性がはるかに高いように私は思うのだが。別に親方日の丸に対する弱き庶民を気取っているわけではないが・・。

 今日7月18日の公判で検察側が行った「苦しい」アリバイ崩しは次のようなものだった。

(1)弁護側証人は、実は別な事件に遭遇しており、それに関する証言をしたのではないか:

 (この可能性は限りなくゼロに近い。彼は、被告の顔を見て植草氏であることをはっきり確認しているし、植草氏が酔ってぐったりしてつり革につかまっていたところや、2人の逮捕者が強い力で押さえつけながら植草氏を連れ出すところを見ている。この目撃は、時間も場所も検察側の言う時間帯にぴったり一致しており、偶然別な事件を見ていたということはあり得ないと考える。)

(2)弁護側証人の証言と被告の証言とで、被告の立っていた方向が異なっている。

 (何ヶ月も前に乗った電車で自分の立っていた方向を正確に言える人がどれだけいるだろうか。それに時々向きを変える方が普通であり、乗ってからずっと同じ方向を向いているとは限らない。従ってこの立証視点は有効性がないと思う)

(3)弁護側証人は、川崎駅で友人に会う予定だったが、川崎駅に行って20分待っても友人は来なかったから、会わずに帰ったと言ったが、友人の名前を言うのを拒否した。

 (自分の友人が警察に取り調べを受けることを考えれば、友人に迷惑がかかるから答えたくないのは当然と言える。拒否したこと自体が、この証人が雇われ証人でないという証明になるかもしれない。「否認を続ければ、裁判で私生活を攻撃して家族を徹底的に苦しめてやる」とまで警察は植草氏に言っているわけで、警察は怖いと一般の人が思うのは当然であり、この証人も、友人をそのような怖い目に会わせるわけにいかないと考えるのは当然である。)

(4)検察側目撃証人や逮捕した検察側証人は、被害者女性の叫び声や、その被害者と逮捕者との会話を聞いているのに、弁護側証人は被害者女性の叫び声や泣き声を聞いていない。その他、この弁護側証人の様々な証言は検察側証人のものと異なっている。これは弁護側証人が事件を目撃していない証拠ではないだろうか。:

 (これは、第二回証人、第六回証人の証言が作り話だという可能性を示唆する。植草被告自身も、女性の声が、それほど大きくない声で「子どもがいる前で・・・」がやっと聞き取れた程度だったと言っており、弁護側証人までは声が届かなかったとしても不思議ではない。植草氏も女性の泣き声は聞いていない。つまり第二回及び第六回証人が作り話をしている可能性が大である。検察は今日の求刑理由の説明の中で、車内で2人が植草氏を逮捕したように言っている。植草氏も2人に逮捕されたと言っているのだから、その部分では検察と被告のそれは一致している。しかし、第二回公判の証人も、第六回公判の証人も共に、車内で逮捕したのは一人であるという証言をしており、事実と食い違っている。2人の逮捕者の片方である証人がこのような重大なことを記憶していないはずはないから、第六回公判に出た証人は限りなくあやしいと言えるのではないだろうか。第六回公判検察側証人(逮捕者)は、電車が蒲田駅に止まってからホームに被告を連れ出し、暫くしてから、別の乗客が逮捕に協力、更に暫くしてから、周りの人が駅員を呼びに行った。駅員を連れてきてから駅事務室に被告を連れて行ったと証言している。しかし、警察の発表だと、電車が蒲田駅に着いてから植草氏を駅事務室に連れて行き、それから警察に連絡が行き、更に蒲田駅くのパトカーに連絡が行くまで僅か3分しかなかったそうである。しかも駅側の発表だと、電車は約1分遅れて到着したので、実際は2分ちょっとしかなかったそうだ。駅員を呼びに行っていたら、2分強でこれら一連のことが運ぶはずがない。つまり第六回検察側証人(逮捕者)の証言は詐話ではないのかという疑念が出てしまうのである。

 また第二回公判の検察側証人(目撃者)は、逮捕者のことを「私服の男性」と呼んでいる。もし第六回公判に出た逮捕者が私服警官であったのなら、でっち上げ事件の全容が暴露されるから、彼を警察が証言台に立たせるとは到底考えられない。そうなると第六回公判に出た逮捕者の替え玉説が浮上してくるのではないだろうか。もしも証言者が替え玉だとすれば、彼は事件の詳細が分かってないから、作り話をこしらえなければならなくなる。事実と異なるこれらの話を勘案すると、検察側が第九回公判の弁護側証人の話を嘘だと主張する展開は非常に苦しいものとなる。

 第二回公判の目撃証人の証言もかなりの瑕疵がある。彼は植草氏の持っていた傘もかばんも見ていない。犯行時間が出発してから0~2分と被害者は言ったのに、その目撃証人は犯行は出発後1~2分してからだと言った。)

   以下第二回公判速記録より(264~269)

検察官1 あなたがそのような様子を目にしたのは、電車が品川駅を
            発車してどれくらいたったころでしたか。

証人     正確にはわかりませんが、1、2分たったころだと思います。

検察官1 もちろん時計などで確認していたということではないわけ
            ですね。

証人     はい、そうです。

検察官1 感覚としては品川駅を出て割とすぐという感じですか。

証人 はい、そうです。

第二回公判目撃証人はスカートの中には被告は手を入れていないと言ったのに、今回検察は、被害者がスカートの中に手を入れられたと言っており、かなり食い違っている。第二回の目撃者は、被告は女性の体を密着し前屈みであったと言いながら、頭は女性から離れていたと言っている。植草氏が身長2m以上ない限りそんな体勢はどうやっても無理である。また、第二回公判の目撃証人は、植草氏の左サイドから見ていたと語っている。彼は植草氏の左肩は見えなかったが右肩は見えたと言っている。これも位置的にまったくあり得ないことだ。

 以上、検察側による被告のアリバイ崩しは完全に破綻していることが確認された。

 総じて、検察側は、第九回公判に出廷した弁護側目撃証人の信憑性を崩す論拠は至って脆弱だったことは如実に感じた。要約すれば、弁護側証人の信用性がきわめて薄弱なのは、第二回公判の目撃証人の話、及び第六回公判での逮捕者の話との差異が際立っているためというものであった。しかし、これほど乱暴で説得力のない論法はない。この論法は視点を逆転させれば、第二回公判の目撃証人と、第六回公判の逮捕者の証言がいかに矛盾に満ちた作為性の強いものであったかということにもなる。単なる相対的な視点であり、論理の有効性は皆無である。一方、検察側の論拠の中には、平成7年の事件と平成10年の事件が前科となっていて、被告の常習性を余すこところなく証明しているというものであった。従って、彼の今回の犯行が彼本来の性癖から生じていることは明白であるという言い方も付け加えている。しかし、これについては植草氏自身や弁護士さんの公判戦略からは逸脱するが、傍聴人の私(高橋)の立場から言えば、 国策捜査論で充分に植草氏の無実性が論証できるのである。

 あと一つ、被害者の精神的被害について検察が繰り返し言及していたが、私にはいまひとつ納得できかねる話であった。被害者は現実にさわられて極度の精神的苦痛を味わっただけでなく、植草氏が否認したために、公判(非公開)に引き出され、二次的にきわめて重い精神的衝撃を味わったと言っているそうだ。もちろん、被害感情は当事者の受けた感覚だから、それを外側から無神経に否定するようなことはやるべきではないと私も強く思う。ただ、一つの見かたとして、レイプや強制わいせつに至らない迷惑条例違反で、聴衆のいない非公開尋問を受けたことが、セカンドレイプを想起させる被害感情にいたるというレベルがなかなかわからないという私の素直な思いである。それは私が男性だからであろうか。植草氏の冤罪の可能性という深刻な方向性を鑑みれば、少なくとも遮蔽措置の出廷をしてもらいと考えるのは被害者に無思慮な考えなのであろうか。私が言いたいことは、植草氏が無実の罪で長期拘束をされ、報道被害でずたずたになった苦痛を慮ると、被害女性と植草氏の蒙った被害に対称性が感じられないと思うからである。決して被害女性が嘘を言っていることを強調しているのではない。

 以上、ざっと今日の論告求刑をたどってみた。次回の公判は8月21日午前10時からである。

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2007年7月15日 (日)

高橋清隆氏による植草氏関連ニュース

 下記のPJニュースは私と同じ検証の会のコアメンバーの一人であ
る高橋清隆君が書きました。支援者仲間では最も文章作成能力が
高く、歴史や経済、国際政治情勢などに通暁しています。実名で植
草氏の記事を掲載した根性は、仲間ながら並々ならぬ覚悟を感じま
す。

 彼は記者としての取材能力が高く、仲間随一の機動力を有する男
です。しかし、心配なのは、ネットでも記者として植草さんの国策捜
査論サイドに立脚して物を書いている以上、植草さんを嵌めた謀略
勢力に狙われる可能性は大です。

 まぁ、向こうも滅多なことは仕掛けてこないでしょうが、清隆君には
是非注目して応援していただければ幸いです。管理人(神州の泉)
からもお願いします。 なお、高橋清隆君は本ブログ「神州の泉」上で
「人形芝居型国家」を投稿しています。一読を願います。

                      神州の泉管理人

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http://news.livedoor.com/article/detail/3233768/

「植草一秀教授は無実だ」、検察が矛盾とわたしは見る

2007年07月15日15時09分
【PJ 2007年07月15日】- 痴漢の罪に問われている経済学者の植草一秀氏の裁判が7月18日に求刑が言い渡される予定である。昨年12月から始まった公判で検察側の矛盾が山ほど明らかになったが、マスコミは一切報じない。そのため国民の大多数は、彼を変質者だと思っているようだ。彼の名誉と公正な言論空間を守るため、ここで事件を疑ってみたい。

異常に素早い処理、被害者不在の法廷

 事件が起きたのは、2006年9月13日午後10時すぎ。京浜急行下り列車内で女子高校生の尻をスカートの上から触ったとして、東京都の迷惑防止条例違反で逮捕された。報道によれば、被害者が「やめてください」と声を上げたため異変に気付いた男性2人が取り押さえ、駅事務室に連行した、とされる。

 しかし、肝心の「被害者」は一度も出廷していない。植草氏は女性と話しもさせてもらえず、力づくで引き離され、ホームに引きずり出されている。1月25日の公判では、蒲田駅に到着してから蒲田署の担当巡査が出動指示を受けるまで、わずか3分しかかかってないことが、警察の記録により明かされている。これは周到な準備がなければできないことではないか。おまけに12月20日の第2回公判では、検察側目撃者が、取り押さえた男性のことを「私服」と呼んだ。これは何を意味するのだろう。

 この「私服」と呼ばれた男は、3月28日に驚くべき証言をしている。彼は一人で植草氏をホームに連れ出し、しばらくしてから別の協力者に植草氏を運ぶのを手伝ってもらった。ホームに降りてしばらくして「駅員さんを呼んでください」と周りの人に頼み、駅員に来てもらったと話している。これだけのことが3分以内にできるわけがない。逮捕者が私服警官なら、証言台に立って身分が発覚すれば大変なことになる。だから、替え玉を証言台に立たせるしかない。しかし、替え玉は事件のことを知らないから、このような「失言」をするのではないか。

公判で次々と吹き出した矛盾

 公判ではたくさんの矛盾が露呈した。現場の位置関係もその一つ。第2回公判で検察側が連れてきた目撃者は、植草氏は女子高生に体を密着させ、前かがみだった。しかし、手に傘やかばんを持っていることは確認できなかった。頭は彼女から離れていたと証言している。しかし、そんな格好は不可能である。この証人は被害者が車内の真ん中に立っていたと証言したが、裁判で計測された被害者との距離77センチを適用すると、被害者は車内進行方向右端にいたことになる。

 植草氏は事件のとき眼鏡を掛けていたことが認められているが、検察側目撃者は「眼鏡については、付けていたか付けていなかったかは覚えていません」と証言した。植草氏は逮捕からこの公判まで約10キロやせたが、この証人は事件当日と「違いはありません」と答えている。植草氏の顔をどこで覚えたかと聞かれ、「インターネットで」と答えた。具体的にyahooと植草氏の応援サイトを挙げながら、それらに「写真はありませんでした」と証言している。

 この証人は痴漢騒ぎがあったことを車内から友人にメールしたと証言。メールが表示されている携帯電話の写真が提出されたが、時間が後の方がバッテリーが多い。

 繊維鑑定では女子高生のスカートの繊維と植草氏の指に付着した繊維との鑑定を行った。結果は「類似」だったが、通常そのような項目はない。「一致」か「不一致」いずれかである。

 これだけでも何一つやった確証がない以上、無罪と見なせるだろう。そもそも被害者は、「それほど込んでいない車内」なら、少し移動すれば済むではないか。

無実を決定づけた勇気ある目撃者の証言

 さらにやってないことを決定づける証言が7月4日の公判で出された。当日電車に乗り合わせたという男性が、道徳心から名乗り出たのである。起訴状では午後10時8分から午後10時10分の間に犯行があったとしているが、彼はこの時間帯に植草氏が何もしてないことを証言した。初めから植草氏であることをはっきり認識しており、セルロイド製の眼鏡を掛け、つり革につかまってうなだれて立っていたと話した。

 この証人は青物横丁から大森海岸駅当たりまでうとうとした状態になったという。そして大森海岸駅当たりで何か騒がしい感じがして見ると、植草氏が絡まれていたと述べている。品川から青物横丁までの所要時間は2、3分。10時8分品川発の電車だから、容疑の時間帯はとらえている。

 この証人は事件報道を調べていないし、弁護人と打ち合わせも持っていないと証言。検察官が事件がどこであったか知っているだろうと繰り返し問いつめたが、「知らない」と答えた。それでも執拗に「品川から蒲田の最初の3分の1、真ん中の3分の1、最後の3分の1のどこだと思うか」としつこく聞かれると、「それだったら、最後の3分の1じゃないですか!」と腹を立てたように証言した。

 裁判官から「あなたがうとうとしている間に犯行があったのだとしたらそれは分からないのですね」と向けた際には、「はい、それは分かりません」とはっきり答えた。真実をありのままに述べていることが分かる。検察官の「弁護人から事件がどこで起きたのかを聞いているのではないか」との質問には、「全く聞いていない」と答えている。

 ところがマスコミは検察側の主張を覆すこの重大な証言を無視している。産経グループのインターネットニュース『ZAKZAK』では、「ミラーマン号泣、証人出廷に感激…も役立つ証言出ず」と題し、青物横丁駅を過ぎたあたりからうとうとしたとの証言を紹介し、「結局、犯行を直接、目撃していなかった」と断じている。「スポーツ報知」も途中、うつらうつらしていたことを取り上げ、「植草被告の潔白を証明する明確な回答はなかった」と伝える。

 裁判官にとっては、犯行時間である品川駅出発から2分の間に植草氏が痴漢をしたかどうかを知れば十分なはず。していないという証言は、無罪が成立したことを意味する。裁判官が「あなたがうとうとしている間に犯行があったのだとしたら、それは分からないのですね」と聞いたのは、裁判官が犯行時間を知らないからでなく、この証人が植草氏に雇われて被告に有利な証言をしに来たのではないことを確認するためだった。

 この証人は車内で植草氏を捕まえたのは2人だったと明かし、そのときの様子を詳細に述べた。その内容は植草氏の証言と一致しているから、極めて信頼性が高い。2人の逮捕者の一人は3月28日の公判で、車内では自分が一人で捕まえたと証言している。これは、3月28日の証人が替え玉であることを裏付ける。

マスコミによる露骨な印象操作

 マスコミは植草氏に対し、一貫して悪印象を植え付ける記事や番組を発信している。女性週刊誌『女性セブン』(集英社)は昨年「痴漢で示談7回の過去」という記事を出しているし、ABCテレビ『ムーブ』は同記事を紹介し、評論家の宮崎哲弥氏や大谷明宏氏が植草氏の性癖を酷評している。しかし、植草氏が民事訴訟を起こしているように、いずれも根拠のないことだ。

 植草氏に対する悪評の流布は、新聞も同じだ。例えばスポーツ報知は10月7日に植草氏の保釈取り消しを伝えた記事を出している。その中で、「『事件は警察のでっち上げ』『電車が揺れて手が触れ、勘違いされたのでは』などと往生際が悪い供述に終始していることが今回の逆転裁定の原因と見られる」と綴った。

 3月28日の『ZAKZAK』は、「ミラーマン植草DVDで犯行再現…コスプレも登場」と題する記事で第6回公判で弁護側が再現DVDを公開したことを紹介した。上映時間は検察側の要求により非常に短い時間しか許されなかったが、「『それでもボクはやってない』に足下も及ばないワンシーンだけの“超短編映画”」と酷評。このときの公判では、取り押さえた男性の一人(「私服」と呼ばれた男)が証言に立ち、検察側目撃者の証言に反し植草氏と会話しなかったと述べたが、記事はこのことに触れず、「『私が“突き出すからね”というとかすかにうなずき、納得したような感じだった』と、被告が犯行を認めるような行動をしていたことも新たに明かした」と結んだ。

 繊維鑑定の結果を報じた1月25日付の『ZAKZAK』は、「ミラーマン植草ピンチ…手にパンティー? 繊維」と題してスカート繊維との鑑定結果を「酷似」と報じている。「類似」からのさらなる飛躍である。パンティー素材に近い綿繊維が植草氏の手から採取されたとあるが、検察側目撃者はスカートの上からと証言している。おまけに、駅事務室で自殺を図ったことを「茶番劇を演じている」と書いている。

 「酔って覚えていない」という語句は初期報道で各紙に見られたが、植草氏はこのような言葉を使っていないという。「ミラーマン」という語句を連発すること自体が、思惑に満ちている。

日本の独立阻む「国策逮捕」?

 マスコミ報道はこれまで、わが国が独立する機運を一貫してそいできた。占領期のウオー・ギルト・インフォメーション・プログラムで国民に劣等感を植え付け、石油メージャーからの脱皮を模索した田中角栄を金脈問題で失脚に追い込み、ロシアとのパイプを構築しつつあった鈴木宗男氏を嘲笑の的にした。マスコミがキャンペーンを始めたら、米国あたりからの力が働いてる証しだと思ってまず間違いない。

 植草氏といえば、米国の要求に従った小泉構造改革を一貫して批判してきた。2004年の手鏡事件は長銀をリップルウッドホールディングス社が落札した不当性を指摘した直後。今回の事件は、りそな銀行救済時に大規模なインサイダー取引が行われたと指摘した直後であり、前回事件の警察捜査の不当性を告発する本を出版予定だったと言われている。

 賢明な国民は、こうした背景からこの事件を疑っているはずである。記事を書くマスコミがこれらのことを念頭に取材しない方がどうかしている。
 
 そもそも、迷惑防止条例違反の容疑で4カ月も勾留(こうりゅう)されるのは、誰が考えても不自然だ。証拠隠滅の可能性も、逃亡の可能性もない。自宅と会社が強制捜査を受けており、会員制レポートを書くパソコンも押収されている。支援者の一人の自宅には警察が訪ねており、別の支援者は事情聴取を求められた。2人とも勝手に応援しているだけである。このこと一つとっても、国策逮捕であることを告白しているのではないか。

 植草氏の事件については、すでに本が出され、インターネットブログで公判内容が詳しく紹介されている。これらの情報に接すれば、マスコミ報道で培われた印象が偏見だと分かるだろう。いかなる判決が出ようと、植草氏が犯行にかかわっていないことを確信した。【了】

■関連情報
ジャーナリズムの本当の目的

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※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。

パブリック・ジャーナリスト 高橋 清隆【神奈川県】


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2007年7月12日 (木)

アンチの動機を考える(彼らの反擁護のスタンスとは?)

 植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー        「いいのですか?ジュゴンの未来は、あなた達の未来かも、」バナー 

 

   植草氏無実論を強く否定する人たちへの疑念
   (アンチのよって立つ官憲無謬論の背景を探る)


 植草一秀氏を擁護する論調を、異常なまでの執心で否定する人たちの心持ちとはいったいどういうものだろうか。以前から、擁護仲間が集まった時に必ず話題に上ることがあって、それはアンチの表現動機についてだった。昨年九月、京急電車の件がニュースに出た直後、応援するブログが激しく炎上した。正確には覚えていないが、ゆうたま殿のブログに殺到したコメント数は二千とか三千とかいう異常な数だった。その中の大半は強い思いもなく、報道を鵜呑みにし、痴漢を擁護するのはけしからんという、言わばからかい半分のものだったと思う。しかし中には、反冤罪論、つまり「植草氏は実際にやっているんだよ」という論調のブログが出てきた。つまり、マスコミ報道を「強いて」補完するかのようなブログまでが立ち上げられた。コメントにしろ、2ちゃんねるスレッドにしろ、反論ブログにしろ、擁護派のサイトに張り付いて、精力的に反論をネット上で開陳する人々は、いつの間にか「アンチ」と呼ばれるようになった。

 アンチの動機については、我々検証する会の間で何度も話し合われたが、誰も明確な意見を言うことはできないでいる。ただ、共通してみんなが言う感想は「なぜここまで精を出すんだろう?なぜこんなに擁護派への反論へエネルギーを費やしているのだろうか?まったく奇妙なことだね。」ということだった。正直に言えば、私自身も彼らの本当の動機がわからずにいる。私は日本という国を愛している。しかし、私が国を愛しているという時は、時の政権が運営している現在時制の国家体制を愛しているということとはまるで違う。私が愛する国家という時のイメージは、国土、民族、そして過去と未来時制をすべて含んだ生きる有機体としての国家である。

 国家も生き物であるから、時の政権に小泉純一郎氏のような破壊的な宰相が現われることもあるだろう。こういう売国宰相がブッシュの膝下に額づいて国替えを行い、先祖たちが踏襲した精神がまったくない国家構造を造ったとする。これは左翼的な言い方をすれば革命である。小泉氏は国民をあざむいて国替えという革命を行なったのである。私が今の日本を愛する国家と呼べないのは、正確に言えば小泉政権とそれを踏襲する安倍政権を愛せないということだ。なぜ愛せないのか。それは強いものがますます居丈高になり、金を持つ者がますます富んでいくという不公平配分のベクトルを持ったからである。それに加えて、彼らが行なった、あるいは現に行なっている構造改革とは、国民が汗水たらして貯めた預貯金や保険資金を外資に流動させる仕組みに他ならない。国富の国策的流失である。こんな社会は我々の先祖たちが愛した御国(おくに)とはまるで違っている。このまま行けば、「北斗の拳」に描かれているような荒廃した未来社会になる。戦後日本という国家体制が、小泉氏によって革命政権に移行する時、眼力の鋭い植草さんが小泉政権の異常なペテン性を見抜いた。そして彼はエコノミストの良心に従って、小泉政権によるマクロ政策の誤導性を弾劾したのみか、りそな銀行に関するインサイダー疑惑を敢然と指摘した。植草氏の政権批判言動と、日本構造の拙速な変革の動きを眺めれば、属米政権の中枢が植草さんを最大の阻害因子として捉えていたことは間違いない。

 しかし、ネットの力は大きい。品川手鏡事件で植草さんは国策捜査に嵌められたんだという噂が飛び交ってしまった。これによって、植草さんを簡単に謀殺できなくなってしまったのだ。しかも品川事件以降の植草さんは意気消沈するどころか、書籍メディアやネットで果敢に小泉政権の犯罪的国策を指摘し始めていた矢先だった。状況的には、植草さんが人間として不名誉な意味を持つ犯罪者に仕立て上げられて当然の成り行きがあったのである。植草さんを擁護する者も、否定する者も、私が今述べた背景に思いを馳せてもらいたいと思う。

 さて、アンチの書き込み動機であるが、私の足りない頭で考えたところ、理由としては二つあるような気がする。ひとつは、彼らは私とは違っていて、小泉政権が敷いた属米新自由主義体制を心から信奉する者たちであるから、エコノミスト植草氏の政策上の内在的論理を敵性、または破壊要因であると考えている。つまり、何としても植草さんを有罪に持って行き、彼が先天的な病的性癖を持つものにしたいのである。そのイメージを固定化すれば、植草さんの素晴らしい経済哲学が世論に与える影響をつぶすことができる。別な言い方をすれば、特に平成になってから日本のケインズ学派は謀略的に表舞台から外されている経緯があった。この流れの末期的段階として、植草さんは最後の犠牲者の位置にいる。

 もう一つは、非常に精力的に頑張るアンチが官憲の一味であるという可能性である。つまり、警察か、検察かわからないが、植草さんが謀略で嵌められたとすれば、考えられるのは警察か、警察に近い組織による工作班がいたことになる。あくまでも国策で嵌められたと仮定すればだが。アンチが蓋然的な存在理由を問われるとすれば、それは断じて社会正義の動機ではない。社会正義と言うなら、冤罪撲滅の観点からして、その心的態度は我々擁護派にとっては自然である。しかし、擁護を主張する意志と反する立場のアンチの心的態度は我々と同様の庶民感覚ではありえない。つまり、アンチは一般庶民ではないということである。佐藤優氏ではないが、いつの時代にも国家は暴力装置を携えている。鎌倉期から江戸期まで、それは武士階級だったし、現在では警察に相当する。愛国を感じる時の国家とは別に、通常の国民は、ごく通常の感覚として、警察やその他の公権力機関が暴走しないようにいつも見張っている。それが一般庶民の生活感覚である。私は国家の暴力装置を否定しているわけではない。それは社会秩序を保持するため絶対に必要である。表面的には警察は社会秩序の番兵であり、庶民の防塁になっている。しかし、小泉氏のような破壊的宰相が国替えを行ない、国家の様相が根幹から変革される時、つまり、新自由主義(市場原理)社会へ転換する時、公権力装置である警察は、それに歯向かう勢力に牙を剥くのである。佐藤優氏も、植草一秀氏も、国家の生存本能が引き出した官憲の獰猛さにやられてしまったのである。それが無情無慈悲な国家の論理である。もちろん官憲の獰猛さが思想統制装置として最大限に発揮されるのは翼賛体制が生じる戦争時である。

 だから、植草さんが国家構造の転換期に国策によって嵌められることはしごく当然なのである。しかし、時の政権が売国政策を綱領とした時、国民はそれを敏感に察知して歯向かい、軌道修正をする必要がある。それを率先して体現してくれた勇士が植草さんなのである。私自身は日本をグローバリゼーションに従って新自由主義に移行することは国家の終焉だと考えている。つまり絶対的に反対だ。革命によって捻じ曲がった国家は反動エネルギーによって姿勢を修復しなければならない。これは世論が湧くだけで可能だ。国民が無知から覚醒するだけでいい。植草さん個人の無実は勝ち取る必要があるが、植草事件は国家的位相からもその意味を汲み取る必要がある。つまり、私が本ブログで一貫して主張してきたとおり、無実の植草さんは「国策捜査」によって不当逮捕を受けたのである。私はその蓋然性を政治的背景から説明している。

  さて、アンチが植草さんを病的性癖が抑制できなくて痴漢を働いたんだと執拗に言い続けるのは非常に不可解なことである。品川手鏡事件の発生ファクトは不自然である。しかし、強引な推定有罪に裁判は誘導された。また、公判で植草氏を医学的に病的だと証言した者はまだいないし、第一、それを想起させる具体的ファクトは見つかっていない。そのことは「植草事件の真実」に書いてある。報道のように品川事件を具体的ファクトとみなすことは無理である。同様に98年の件も人質司法の疑いが濃厚であるから、それをファクトとみなすことはできない。病的性癖論を掲げるなら、連続した事実をある程度列記する必要がある。品川事件も、京急事件も、初期報道の偏頗性があるからそれをそのまま事実の材料にすることはできない。第7回公判は我が国の司法制度の恥である。あんなものは被告の私生活の暴露以外の何物でもなく、傍証にさえもならない。公権力による人権蹂躙である。

 アンチの反擁護動機はいたって不可解である。少なくとも彼らの言説の内在的論理というか、方向性は一般国民のものとはかけ離れている。なぜ、これほどまで一生懸命に冤罪論や国策捜査論を否定するのだろうか。一般人なら冤罪論に対して、国家の暴力装置ならそういうことはありそうだから注意して見守るか、くらいの視点は持つ。しかしアンチの人たちは、まるで国家的謀略勢力に魂を売った者たちを代弁するかのような印象を受ける。そう思うのは私だけだろうか。一般庶民の場合、どうしても植草さんを有罪にしたいなどという熾烈な動機は持たない。植草さんを憎む動機がないからだ。しかし、アンチは憎悪に近い意志を感じる。この意志の動機が、国家は信頼するに足るものなんだよ、警察も検察も疑ってはいけないんだよ、それを疑うものは健全な国民性ではないのだよ、というスタンスに彼らがあるような気がしてならない。そんなスタンスを持つ国民はいないのだ。私は一般論的には国民が国家権力を信頼すること、すなわち警察も検察も正義の番人であると国民が思える社会は健全であると思う。しかし、現実は冤罪は次々と生起するし、時の権力中枢の都合によって、警察や公安の謀略が国民に向かうことは歴史からも散見できる。問題は、国家構造が新自由主義的国策によって、本来あるべきでない性格に切り替わったとき、官憲が官邸中枢の意向によって忠実に動き、新国家体制を受け入れない思想などを狙い打ちするようなことがあれば、それは統制国家、警察国家であり、国民にとって非常に有害である。アンチの反論・反証スタンスを敷衍すれば、それは警察国家のさきがけとして出てきているように感じるのである。

 つまり、アンチの人々の熾烈な反論と、それに注ぎ込むエネルギーはまさに、統制国家的官憲無謬論に立脚しているように見えてならない。つまり、警察の一部が戦時中の特高警察の性格を帯び、それを官邸サイドの意向を受けた一部の検察がバックアップしているという構図だ。そういう基盤に従って官憲無謬論が展開されていると私は見ている。警察も検察も間違いは起こさないのだよ、それが間違いだという奴はまともな国民ではないんだよと言っているように見える。私には執拗な反冤罪、反国策捜査論のアンチにそういうスタンスが透けて見えるのだ。これは戦後日本のシビリアンコントロールの理念から見てもつとにおかしい。

 結論的に言って、アンチは善意で中立的な一般国民のメンタリティでは絶対にない。では彼らは一体何なんだと思うわけである。何なんだ、いったい???

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2007年7月11日 (水)

植草氏とあい並ぶサムライ・エコノミスト・菊池英博氏

 菊池英博著「実感なき景気回復に潜む金融恐慌の罠」
を推薦する!!

Kikuti

  あと二ヶ月少しで郵政公社が完全民営化に向けてスタートすることになる。私は経済学については無学に近いが、それでも小泉政権が発足してから、一庶民として、この総理大臣が標榜し、政策として実行し始めた構造改革がきわめて悪質なペテン性を持つことに気が付いていた。それは植草氏のようにエコノミストとしての冷徹な読みや洞察力から発したというものとはまるで違っていて、五十年を生きた自己の生活実感や、社会とのかかわり、経験則などから得た、言わば直感に近いところから判断できたと言える。

 小泉純一郎前総理の構造改革の説明は、路地で木箱に立ち、「ガマの油売り」をやる大道芸人の口上を聞かされているようなものだった。ワンフレーズ・ポリティクス、劇場型パフォーマンス、あれかこれか、白か黒か、良いか悪いかの典型的な二項対立による目くらまし、彼は政治家の頭目にあるまじき下品な物言いとやくざ的な押しの強さで国民を幻惑した。小泉首相の強引野蛮な牽引力を経済と金融の両面から最大限にバックアップしたのが竹中平蔵前金融相であった。この二人が中心となり、米国の年次改革要望書に従って行なった構造改革は、我が国特有の社会システムを滅茶苦茶に破壊してしまった。

 通常、腐った体制破壊の後に、あらたな創造がなされる過程(シュンペンターの言う創造的破壊)なら歓迎もするが、彼らの行なった“構造改革”という破壊行為は、国民の幸福の追求という原理原則を根本から突き崩す野蛮なものであった。単純な官僚有害論と、 我慢をすれば未来は明るいという幻想を振りまくいわゆる「米百俵の故事」を旗印に彼らは日本の構造を破壊する作業に邁進した。その結果、政策の誤りによる経済苦による自殺者は減るどころか年々増加し、倒産件数はうなぎのぼりとなった。また、不可逆的な経済格差や教育格差が社会を深刻な状況に追い込んでいる。

 これに一石を投じたきわめて良心的な経済学者がいた。植草一秀氏である。彼は小泉政権発足時から、そのマクロ的政策の破壊的要素に気が付いて、果敢に異を唱えていた。しかし、テレビやその他のメディアは植草氏の言説をほとんど無視した方向に誘導し、竹中経済路線を錦の御旗のように徹底的に持ち上げた。メディアは判を押したように植草氏のような誠意あるケインズ学派を駆逐してしまった。しかし、植草氏はめげずにこの売国政権を糾弾し続けたのである。彼はこの詐欺的政権のマクロ政策の誤りを指摘するに止まらず、りそな銀行にまつわる一連の動きの中に、金融相と銀行関係、そして外資の意向が働いた大掛かりなインサイダー取引疑惑を読み取ったのである。そしてその関係者を洗いざらい取り調べることを提言した。これが売国勢力の逆鱗に触れて、植草氏は国策捜査に陥れられたのである。

 皆さんも考えて欲しい。今の世の中に大塩平八郎のように民を心底思う為政者や学者が何人いるかということを。ほとんどいないことがわかるだろう。植草氏のように国民の幸福追求と経済の大道に立って政策提言ができる有識者が何人いるかとあらためて考えると、ひしひしとこの日本に絶望感が湧いてくるだろう。ほとんどの有識者は米国という巨大なリバイアサンに睨まれただけで萎縮し、むなしくこの潮流に流されて行くだけである。中には竹中平蔵氏のように意識的にアメリカの走狗に成り果て、国家構造の破壊に精力を出している者も多くいる。学者は学者で定見を持たず、時の政権にただなびいて保身をはかる御用学者が目立つ。典型的なお人が小泉政権の子飼いみたいな感じがする松原聡氏であろう。

 しかし、ここに来て、植草氏と並ぶきわめて良心的なエコノミストが貴重な本を出版した。その本のタイトルが「実感なき景気回復に潜む金融恐慌の罠」である。これを上梓した方が、国際金融専門の菊池英博博士である。この人の経済学者としての憂慮の念は凄まじいものがある。彼の言いたいことの中心が、小泉氏がやらかした日本史上、最大の悪行である郵政民営化なのである。菊池氏は言う。郵政民営化は日本の経済システムを崩壊させると断言している。金融の専門家だけあって、この本の内容は緻密に学問的に日本金融の危機を説明している。

 郵政民営化による郵政公社の株式会社化がスタートし、「かんぽ生命」、「郵貯銀行」を国際市場に開放した場合、長短期金利上昇で、我が国の金融システムが崩壊に瀕するという論旨をきわめて明確に説明している。この本は経済の玄人の目で見ても、高度な説得力を持ち、私のような経済音痴が見てもそれなりに頷ける箇所が多々ある。ただの小泉手法が憎しとは別個の客観的な知的冷静さで本邦の置かれた危機が余すところなく説明されている。みなさんにも是非読んでもらいたい。私はこの本が出版される一月前に、菊池英博先生の講演を拝聴した。聴き終えてから、感動した私は、先生のところに行って、「このままでは日本が崩壊します。先生頑張ってください!!」と思わず言った。そうしたら菊池先生は私の肩を両手でがしっとつかんで、「何を言うんですか、頑張るのはあなたですよ、みなさんですよ」と力強くおっしゃった。

 ここにも植草氏と同様に無私の精神で邁進している学者がいる。今の日本の真の危機は金融的危機なのである。猛禽のような国際金融資本の猛攻にあって、それに対応する知的防衛策と精神がまだできていないことが真の問題なのだ。この防衛システムを確立し、日本が海外からの金融的浸潤にきちんとした防壁を作ることが肝心である。そのためには植草氏や菊池氏などの英知が生かされなければならない。日本版のエクソン・フロリオ条項を早急に設置する必要がある。しかし、何よりも10月に差し迫っている郵政公社の分割化、株式会社に最大の注意を払うことだ。郵政民営化は我が国の歴史上、最大のペテンなのである。郵政民営化という国家的な詐欺の雛形になったのが、りそな銀行の国有化である。植草氏が指摘したりそなインサイダー取引に暗躍した勢力もまた、郵政民営化の雛形になっているのだ。

 つまり、郵政民営化が解禁されて外資の国富収奪が始まる時、りそなで暗躍した奴らが桁違いの暴利をむさぼって我が国を三等国(這い上がれない貧乏国家)に導くのである。とりあえず、心ある国民は参院選で売国自民党を勝利させてはならない。

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2007年7月 8日 (日)

植草氏の著書情報 『知られざる真実-勾留地にて-』

植草一秀氏のサイト「スリーネーションズリサーチ株式会社」のコラムより転載しました。

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 平素は格別のご厚情を賜りまして心よりお礼申し上げます。
 2007年7月末に下記著作を上梓いたします。出版の節にはぜひご一読下さいますよう謹んでお願い申し上げます。

タイトル   『知られざる真実-勾留地にて-』

著者     植草 一秀

出版社    株式会社イプシロン出版企画


時期     2007年7月末予定

『勾留132日間 東京拘置所内 渾身の書き下ろし』

『満身創痍にひるまず巨大権力に立ち向かう著者が現代日本政治経済の闇を抉る戦慄の告発書』

「苦難を克服し、信念を守って生きてゆきたい。発言を続けることは危険を伴う。しかし、人はパンのみに生きる存在ではない。いかなる妨害があろうとも屈服せず、勇気をもって今後も発言を続ける覚悟だ。」(第三章「不撓不屈」より)

本書の構成
プロローグ  想像力

第1章     偽装(小泉政権の経済金融政策を抉る)
第2章     炎(半生記)
第3章     不撓不屈(望ましい社会のあり方と生きがい論)
エピローグ
巻末資料   真相(事件の概要)

 ご購入は大手書店またはネットブックショップにてお願い申し上げます。

                      2007年7月5日
                スリーネーションズリサーチ株式会社
                                   植草 一秀


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 「神州の泉」管理人からひとこと

 待ちわびていた植草先生のご著書がようやく上梓されることになって期待感はいやがうえにも増すばかりだ。目次からは内容を伺えないが、第1章の「偽装(小泉政権の経済金融政策を抉る)」は、我が国を奈落の底に突き落とした小泉施政の本質(売国政権の非道な論理構造)をすばり糾弾したものと思える。また、私はそれだけではなく、第3章の「不撓不屈(望ましい社会のあり方と生きがい論)」にも、植草先生の国民の生きがいを問いかける彼の内在的論理が出ているものと推察する。

 もしも植草先生を嵌めた勢力が、この本の出版妨害を行なったら、それは彼らが国策捜査を行なって先生を陥れたことを自ら証明することになるだろう。従って、この本が予定通り出ない時は、国民は植草先生のエコノミストとしての活動が、米国資本に魂を売った前政権中枢にとって、いかに迷惑な存在だったかということを確認できることになる。また、前政権と米国の意を受けた残存勢力が威勢を張る安倍政権にとっても、そのことは言えると思う。

 従って、国民は植草先生の裁判動向をしっかりと見据え、彼の無罪に気持ちを向けて欲しいと思う。私がこのブログで何度も繰り返しているように、先生を嵌めた売国勢力の中枢は破防法を適用して厳罰に処して欲しいとさえ思っている。なぜなら彼らが行なった売国政治は日本の国家構造を根元から悪しき構造に切り替える「日本破壊」だからだ。理念なき新自由主義構造がどれほど国民全体の幸福に背反しているか、今になって思い当たる人々は多くなっている。この間違った国策で死ななくてもいい人たちが大勢死んだ。倒産しなくてもいい優良中小企業や零細企業がたくさん出た。格差社会を不遡及な状態に固定し、国民の希望を奪い去った元凶には戦いを挑む必要がある。そのためには、植草先生の内在的論理をしっかりと見据えて、売国路線を叩き潰し、危殆に瀕した国家構造を修復する必要がある。

 アメリカに尻尾を振り、市場原理至上主義、金融的優勝劣敗(弱肉強食)を是とする竹中平蔵さんと、国家国民の幸福を念頭に置く植草先生が対極の世界観にあることを良く見抜いて、我々は日本社会の回復を志向しようではないか。

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2007年7月 7日 (土)

京急事件における熊八さんの見解

   熊八さんという方から非常に貴重なコメントを寄せていただいたので、その全文を本記事に掲載した。途中に私のリプライが挟まっているが、熊八さんの鋭利な洞察を皆さんも考えてみてください。   (管理人より)

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詳細な傍聴記をありがとうございます。

>ネットやマスコミではこれを根拠に弁護側証人の証言について、「うとうとしたあとに犯行があったのなら証人は気付かなかったはず」として、弁護側証人の証言が被告人の無実を証明することにはつながらないとする見解が流布されています。

この見解は、おっしゃるように、品川を出て「割とすぐ」犯行に気づいたと検察側目撃者が認めていることから否定できると思います。
また、犯行時間とは関係なく、否定できる見解であるとも思います。検察側目撃者は、品川で電車に乗り込んだときには既に「おじさん(犯人)」の存在に気づいており、そのときには既に「おじさん」は被害者の真後ろに付いて吊り革はつかんでおらず、その状態は被害者が振り返るまで続いていたとのことです。つまり、既に品川から、犯人と植草氏とは別の場所で別の体勢を取っていたことになります。したがって今回の証言は、植草氏の無実を証明する決定的な証言であるといえます。

投稿 熊八 | 2007年7月 7日 (土) 12時54分

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熊八様

 貴重なコメントを寄せていただいてありがとうございました。確かに検察側目撃者の語る犯行時間帯(2分間)も、被害者の語る被害時間の2~3分間も重要ですが、ストップ・ウオッチで物理的に計測した時間ではなく、それらは主観的心理的な時間ですから、犯行起点時と犯行終了時には曖昧さが存在します。。私は図を使って、弁護側目撃者と検察側目撃者の語る時間帯の重ね合う部分を強調しましたが、これはあくまでも両者が植草さんご本人という同一人物を目撃していたという前提でやっています。

 しかし、熊八さんのおっしゃるように、弁護側目撃者が電車に乗り込んだ時、すでに別の人が出発時とほぼ同時(割とすぐ)に痴漢犯行に及んでいたとするなら、別人誤認説も大いに頷けることだと考えます。そうなりますと、警察という組織は、おのれの面子を死守するために「誤認逮捕」を死に物狂いで斥けるでしょう。官憲組織の生存本能です。彼らは瑕疵を背負いたくないという発想が熾烈ですからね。これは典型的な冤罪ストーリーに合致します。

 熊八さんの言うことはとても明快に理解できます。ただ、そうなりますと、第二回公判で目撃した証人は植草さんが有名な人であることをまったく知らなかったどころか、かくもはっきりと人間違いを起こしていることになりますね。人間は記憶違いという一種の思い込み的な心理錯誤を起こすことはあります。しかし、同じ人物を2分間以上も目撃していて、しかも、その状況が痴漢行為だったとすれば、通常の乗り合わせで近くの人物を眺めていたことよりもはるかに強い印象で目に刻まれているはずです。特に顔相を見間違えるなどということはないような気がします。ところが彼は植草さんがセルロイド・フレームのメガネをかけていたことさえ思い出せません。真犯人を植草さんと思い違いをした可能性ははたしてどうなのでしょうか。

 私は当初から国策逮捕説をとっていたので、誤認逮捕説ははなから疑っていましたが、熊八さんのおっしゃることももっともなことで、可能性としては大いにありえると考えます。警察が組織防衛のために偽証を行なう目撃者を仕立てることもあながち否定できませんからね。熊八さんの貴重なご指摘で、物事は多元的に考える必要に思い至っています今後ともよろしくお願いいたします。

投稿 高橋博彦(管理人) | 2007年7月 7日 (土) 17時54分

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高橋様。
過分のお言葉ありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いいたします。

この事件、事件直後の報道では、<容疑者は被害女性の右後ろに密着して、左手首に傘を掛けながら、左手で、女性の右臀部を触り、スカートをたくし上げて下着も触った>という容疑でした。これは被害者の供述をもとに構成されたものと考えられます。よく見ると、非常に無理のある痴漢の仕方です。なぜ「右手に持っていた傘を左に持ち替えた」とか「右手で触った」という話にならなかったのでしょう?それは、右手の傘を左に持ち替える時間が無いことや、右手で触ることができないことを、被害者が知っていたからだと考えられます。つまり、被害者が振り返って見た瞬間に見たものは、左手に傘を持ち、右手は吊り革を握って立っている植草氏の姿だったということでしょう。だからこそ、左手首に傘を掛けて左手で触った、なんていう話になったのだと思われます。

このストーリーが変わったのは、9月15日に目撃者が警察に連絡してきたからだと思います。
おそらくこの目撃者は、被害女性の真後ろに不審な男が付いていたのを見ていたのでしょう。そして逮捕騒ぎがあって、スーツの男性が電車から降ろされるのを見た。後日、その犯人は植草氏だったという話を聞いた。そして否認していると聞き、あんなに大騒ぎだったのにそれはないだろうと思い、現場で役立てなかったことに忸怩たるものもあったので、警察に連絡した。という事情だったのではないかと思います。

しかし、この目撃者の見たものは、警察にとってはまずいものでした。真犯人が女性の真後ろにいたことになるからです(そして真犯人には逃げられたことになるからです)。そこで、女性の真後ろにいた植草氏が、女性が振り返った瞬間に1~2歩後退した、というストーリーに変更されたのでしょう。「瞬間移動説」です。また、犯人が左手で右臀部を触っていただけならばこの目撃者の位置からは犯行が全く見えないことになって目撃者としての意味が無いので、左臀部への犯行が加わり、これが目撃者から見えていたことになったのでしょう。結果、<左手で右臀部を>という容疑が、<左手で左臀部を、右手で右臀部を>というストーリーに変更されました。目撃者が9月16日に警察に出頭し話をした6~7時間は、見ていないものを「思い出す」のに要した時間なのでしょう。

そして起訴、初公判と進みましたが、第2回公判で、この検察側目撃者は、非常にまずい証言をしてしまいました。痴漢行為をやめさせようと思って犯人の顔を注視していたはずなのに、犯人が眼鏡をかけていたかどうかわからないと言ってしまいました。さらに、裁判官の質問に対して、事件時から激痩せしていた植草氏を見て、事件時の犯人とは変わりがないと答えました。これで、裁判官が「瞬間移動説」を疑っているということがわかりました。つまり、犯人が移動したと目撃者が思ってしまっただけではないか、犯人から目が離れたのではないか、と裁判官が疑っているようなそぶりが見られたのです。

これでまたストーリーを変更する必要があると、検察側は考えたと思います。次は「犯人は移動しなかった説」です。それが第6回公判のK証人の証言に表れました。K証人は、犯人はほとんど移動していない、移動できるようなスペースはなかった、と証言しました。これにより、移動しなかった犯人が逮捕され、それが植草氏だったことなり、犯人は植草氏と言えることになります。
しかし、この説で生じる難点は、被害者の抗議でした。第2回公判の目撃証言によれば、被害者は振り返ったあと、1~2歩下がった犯人に詰め寄って抗議しています。しかし、「犯人は移動しなかった説」で同様の抗議をしたことになると、被害者は振り返って、犯人とものすごい至近距離で顔と顔をつき合わせることとなり、この状態でひたすら抗議していたことになってしまいます。そこで考えられたのが、「振り返り振り返り、ひとことひとこと抗議」だったと思います。K証人は、被害者が、ひとことひとこと、いちいち大きく振り返り振り返りしながら抗議していた様子を証言しています。

ここまで話を変更すると、もう破綻していると言わざるを得ないと思うのですが、やむを得なかったのでしょう。

そして4日の弁護側目撃者の証言。
検察側は、被害者の真後ろに付いていた男をなんとか植草氏だったことにしたいがために苦心してきましたが、4日の証言によって水泡に帰しました。犯人が吊り革を持たず被害者の後ろに密着していた品川からの数分間は、植草氏は吊り革にぶら下がって誰とも密着していなかったと証言されてしまったからです。これは決定的なので、検察側はこの証言の信用性を攻めるしかなかったものと思われます。

傍聴記・速記録等を見るに、以上のような経過をたどったのではないかと、今のところ考えています。とんだ勘違いをしているかもしれませんが。

陰謀説については、真犯人に陰謀があったのかもしれませんし、もっと大きなカラクリがあるのかもしれません。よくわからないというのが正直なところです。何らかの陰謀の可能性も捨ててはいません。
しかしまずは、植草さんが無実であるということが言えればいいという立場から、その点に集中していろいろ考えをめぐらせています。こういう姿勢も認めていただければありがたいと存じます。

長々と失礼いたしました。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

投稿 熊八 | 2007年7月 7日 (土) 19時43分

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第9回植草氏公判(7月4日)傍聴記

7月4日に植草一秀氏の第9回公判がありました。

ひとりの傍聴人として公判を聞きました。

その傍聴記をお伝えします。

 弁護側申請の目撃証人の証言と補充の被告人質問が行われました。

 これまでの公判情報から得た情報ですが、起訴状では犯行は2006年9月13日午後10時8分から午後10時10分の間に行われたとされています。

犯人は電車進行方向に向いて立っていた被害者の真後ろに被害者と同じ方向を向いて密着して立ち、両手を被害者の臀部側面につけていたとされています。

 4日に証言した証人は、たまたま同じ電車に乗り合わせた乗客で、電車に乗った時に被告人に気付き、電車が出発する時点では植草一秀氏であることをはっきりと認識したと証言しました。事件当日に被告人が男二人につかまれて蒲田駅で電車を降ろされたのを見た時には、電車が揺れた際に被告人が誰かの足を踏むなどして絡まれて、被告人が男二人に蒲田駅で電車から降ろされたと感じており、翌日ニュースで痴漢事件だったを聞いた時には、とても変だと感じていたと証言しました。

 証人は品川駅出発時点から青物横丁を過ぎるあたりまでは、被告人の様子をしっかりと見ていました。被告人はセルロイドフレームの眼鏡をかけ、右手で吊り皮につかまり、右肩にショルダーバッグをかけて、うなだれて酔って疲れた様子で立っていたと証言しました。被告人のそばには女性は見えず、誰とも密着していなかったと証言しました。

 証人は青物横丁から大森海岸駅あたりまではうとうととした状態になり、女性が声をあげたことなどには気付かなかったと証言しました。

 大森海岸駅あたりで何か騒がしい感じがして見ると、自分の右前に立っていた男性が移動して被告人の上からおおいかぶさるようにつかんでいるのが見え、そのあと、もう一人の男性が右奥から声をあげて野次馬のように現れて、被告人を捕まえるのが見えたと証言しました。このあとから現れた男が声をあげて被告人をつかんだ状況を証人は「騒ぎ」と表現していたように思われます。

裁判長は、

 「青物横丁から大森海岸あたりまでうとうとしていたのなら、翌日、ニュースで痴漢と知った時には、うとうとしている間に痴漢があったと考えるのが自然ではないですか」との疑問を証人に投げかけました。

 証人の回答が質問に直結しない部分が多かったので何度か裁判長が繰り返し聞き返しましたが、証人がはっきり答えているのに質問を繰り返したということではありません。あくまで裁判長は質問に対する回答を求めたということだと思います。

 証人は、

①品川から青物横丁までは被告人をはっきり見ていた。

 右手を吊革につかまり、ぐったりしていた。

 誰とも密着していなかった。

 証人が観察していた時間に痴漢の素振りは一切無かったことを証人ははっきり記憶している。

②大森海岸以降で、騒ぎ(なにかざわついた感じ)がして見ると、被告が二人の男に押さえ込まれていた。

 最初の男は声も発さず、被告人も声を発さず、変な雰囲気だった。足を踏んだなどでからまれているのかと考えた。

 二人目の男は野次馬のような男で、少し騒いでいた。証人が「騒ぎ」と言っているのはこの二人目の男が声をあげて被告人をつかんだことを指しているようでした。

③翌日、ニュースで痴漢事件と知って驚いた。車内暴力というか、男に因縁をつけられて電車を降りていったと思っていた。

④事件の詳細については、報道でも聞いていないし、弁護士も一切説明してくれなかったので、具体的にどこで何があったのかは知らないが、当初から、痴漢事件と聞いて、「変だなー」と思っていたと証言しました。

 検察官が痴漢事件がどこであったのか知っているのだろうと繰り返し問い詰めましたが、「知らない」と答え、それでも執拗に検察官が「品川から蒲田の最初の3分の1、真ん中の3分の1、最後の3分の1のどこだと思うか」としつこく聞かれれると、「それだったら、最後の3分の1じゃないんですか!」と腹を立てたように証言しました。検察官は期待と異なる証言が示されたのか、絶句していました。証人が本当に事件の具体的内容についてはほとんど何も知らないということことが誰の眼にもはっきりと分かる受け答えをしていました。

⑤裁判官が「あなたがうとうとしている間に犯行があったのだとしたらそれは分からないのですね。」と質問した際には、「はい、それは分かりません。」とはっきり答えていました。ありのままに真実を述べていることがよくわかる証言でした。検察官からの「弁護人から事件がどこで起きたのかを聞いているのではないか」との質問に対しては、「まったく聞いていない」と答えました。

 証人の証言のポイントは以下のようなものになります。

 青物横丁までの様子で、痴漢をしている可能性はゼロだったこと、大森海岸以降の状況を見て、車内暴力が起きたのかと考えたこと、翌日にニュースで痴漢事件と聞いて、「変だなー、車内のトラブルで男性にからまれたように見えたのに」という感想をニュースを聞いた瞬間から持っていたことを証言しました。裁判長はこの説明で納得したように見えました。

 裁判長は事件発生時刻が品川出発直後からの2、3分の間であることをこれまでの公判の証言などで十分に知っており、「青物横丁から大森海岸あたりまでうとうとしていたのなら、翌日、ニュースで痴漢と知った時には、うとうとしている間に痴漢があったと考えるのが自然ではないですか」と証人に質問したのは、証人がニュースを聞いた時にすぐに痴漢事件だったのだと納得しなかったのはなぜかという素朴な疑問を提示したまでだとうかがわれます。証人は被告人が痴漢行為をまったくしていない場面をしっかりと見ていたために、痴漢事件と聞いて強い違和感を感じたのだと傍聴人には感じられました。

  日刊スポーツは、証人が電車が入ってきてすぐに、人の列の後ろに並んで電車に乗ったと証言したことから、被告人が先に電車に乗っていたのはおかしいとの記事を掲載していますが、被告人質問で被告人は、被告人が電車に乗った時は車内はまだすいていて、その後何人も乗客が乗ってきて発車時点では混んだと供述しています。

 被告人は改札を通るときに目の前に電車が止まっているなと感じたことを証言していますが、改札を通過する瞬間から電車に乗る瞬間までの記憶が途切れており、目の前の電車にそのまま乗ったのかどうかは判明していません。

 被告人が改札を通過した時には被告人が乗った電車はまだ駅に到着していず、ふらふらとホームを歩き人待ちの列の先頭付近から、その後に到着した電車に乗りこんだ可能性があります。

被告人は電車のドアとドアの間のゾーンに立っていたそうですが、証人はドアを入って左側の椅子席のゾーンに入ったところ、たまたま運良く自分の前に座っていた乗客が急に電車を降りて、席に座ることができたと証言しました。

一部のネットに酔っていた被告人がなぜ座らなかったのかとの疑問が提示されていますが、電車の座席はすべて埋まっていたのだと考えられます。証人も座席に空席はなかったと証言しました。

  また、証人は車内は混んではいない、「まばら」の乗客だったと証言しましたが、これは椅子と椅子のあいだのスペースのことで、座席は満席であり、出入り口付近の四角のゾーンは人が触れ合う程度(表現は違うかもしれないがこのような意味)だったと証言しました。

快速特急電車で品川から青物横丁までの所要時間は2、3分だそうです。

  起訴状では、犯行時刻は10時8分から10時10分の2分間とされています。電車の品川発時刻は10時8分です。

犯行は発車後すぐに始まって、トータルで2、3分とされています(各種情報を総合して)。検察側目撃者が公判で、最初は「痴漢行為に気付いたのは電車が出発してから1、2分してから」と証言しました。ネットやマスコミではこれを根拠に弁護側証人の証言について、「うとうとしたあとに犯行があったのなら証人は気付かなかったはず」として、弁護側証人の証言が被告人の無実を証明することにはつながらないとする見解が流布されています。しかし、この指摘はまったく的外れです。検察側目撃者の「品川駅を出て1、2分たったころに痴漢行為に気付いた」との証言に対して、検察官は「時計などで確認したということではないのですね」と確認し、さらに、「感覚としては品川駅を出て、割とすぐという感じですか」と聞き、目撃者は「はい。そうです。」と答えました。犯行時刻を被害者供述に合わせて、10時8分から10時10分ころに合わせるやり取りを公判で展開したものと思われます。

被害者も犯行時刻については起訴状とほぼ同一の内容を証言したと思われます。

 4日の証人は、電車が品川駅を出発してから青物横丁を通り過ぎるまでの間は被告人の様子をしっかり見ていたと証言しています。

 品川を出発してから青物横丁を通過するまでの時間は2、3分になります。

  したがって、証人の証言は事件の犯行時刻の被告人の様子をはっきりと目撃したもので、右手を吊革につかまり、うなだれて酔った様子で誰とも密着せずに立っていたというものです。被害者供述、検察側目撃者の供述する犯人と被告人は別人であることがはっきりと示されたと言えます。

 被告人が有罪になるためには、弁護側証人が偽証をしていることが必要になりますが、弁護側証人の証言は、詳細で具体的、臨場感があり迫真性がある、虚偽を述べる動機がない、供述内容が不合理・不自然でない、経験則に背反していない、主観的確信に満ちている、という要素を満たしているもので、裁判所が弁護側証人の証言を偽証とするのは極めて困難であると感じられました。

 弁護側立証は、被害者供述、目撃者供述を大枠では否定せず、別に真犯人が存在し、被告人が誤認されて取り押さえられたとの仮説に従っていますが、4日の証人証言はこれを補強するものになっています。

 他方、検察側目撃者の証言は

①  被告人が眼鏡をかけていたことを覚えていない

②  勾留中の被告人が著しく痩せたことに気付かなかった

③  目撃者が証言した電車内での被害者の位置が被害者供述などとあまりにも矛盾している

 (目撃者のネクタイ結び目から、目撃者と被害者の間に立っていた女性の左肩までの距離が40センチメートル、目撃者のネクタイ結び目から、被害者の左肩までの距離が77センチメートル、目撃者はドアとドアの間の四角のゾーンの4本の吊革用手すりのうち、進行方向に対して垂直の列車前方の手すりに下がる三つの吊革のなかの、進行方向左側の吊皮を左手で握っていた、と証言しました。これを車内図にあてはめると、被害者の位置は列車進行方向に対して右側のドア付近になってしまいます。被害者の位置がドアとドアの間の中央付近とする他の関係者の証言と著しく矛盾してしまいます。

 を含んでいます。

 7月4日の公判での補充の被告人質問で、

被告人の体重が 事件時   67、8キログラム

   →    12月公判、1月公判時  58キログラム」

   →    現在    64キログラム

 と推移したことが明らかにされました。昨年12月、本年1月時点では被告人はとてもやつれていたことが確認されていますが、検察側目撃者はこのことに気付かなかった証言をしています。

 4日の弁護側証人が「騒ぎ」と証言したのは、二人目の逮捕者が声をあげて被告人を取り押さえたころのざわつきを指しているようです。被害者が声を出したことについて、被告人は被害者が「やや大きめの声をあげた」と証言しましたが、「子供がいるのに」といった言葉しか聞いていません。座席に座っていて、うとうとしていた4日の証人に、線路の音や他の音楽を聞いていた人の騒音などの影響で被害者の声が聞こえなかったとしても、まったく不思議はないと思われます。

 補充の被告人質問では、目撃者が被告人が眼鏡をかけていたことを覚えていないと証言したことについて、弁護側が日本大学のI教授に依頼して心理学実験をしてもらったことが明らかにされました。事件当日の状況を再現して被告人が眼鏡をかけて、目撃者の目線から撮影した9枚の写真を、学生に1枚につき8秒ずつ、合計72秒見せて、3日後に集まってもらい、アンケートを取ったところ、20人中19人が眼鏡をはっきりと覚えていたとの結果を被告人がI教授から直接聞いたとのことでした。被告人がかけていたメガネは特徴のあるもので、写真では顔の印象よりも眼鏡の印象の方が強く残るものだったと被告人は供述しました。犯人の顔を注意して見ていた目撃者が被告人が眼鏡をかけていたかどうか分らないと証言したことは、目撃者が被告人とは別の人物を見ていた可能性を強く示唆するものです。

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2007年7月 6日 (金)

売国政権に単身で立ち向かった植草一秀先生

参院選、これからも馬鹿にされますか?信じますか?だまされますか?7月29日は傲慢自公お灸記念日バナー        小池百合子登場、これからも馬鹿にされますか?信じますか?だまされますか?バナー


7月4日の植草氏の公判は、善意の目撃証言者がその正義感から勇を鼓舞して証言してくれたようだ。この方が法廷に出るまでは何かと紆余曲折があったようだが、やっかいなことにかかわりたくないという一般人の心理を押して、植草氏の真実のために証言台に立ってくれたその気持ちには、植草氏ご本人も、つい感応して落涙、慟哭するというシーンがあったようだ。

 私個人は、あの有名な応援するブログの管理人さんの冤罪説とはまったく異なり、品川手鏡事件も、今係争中である京急痴漢事件での逮捕・勾留も、植草さんが国策捜査によって嵌められたと一貫して主張してきている。簡単に言うなら小泉前政権は、構造改革という、一見して語義が曖昧で、聞いたものが等しくプラスのイメージを抱かせるその言葉を前面に押し出して出発した。ところが、蓋を開けてみると、その政策内実がグリーンメーラーのような儲け至上主義の株屋、つまりハゲタカ的な外資を利する政策に特化収斂したことに気が付く人はいた。しかし、大勢の国民層は小泉前首相の劇場型パフォーマンスに幻惑され、小泉・竹中的構造改革路線を結果的には支持してしまった形となった。もうかなりの人たちが気付き始めているが、ここ2、3年、日本の優良企業や各地の優良資産が安値で外資に買い叩かれる現象が起きている。このように、小泉構造改革の目的は日本の叩き売り路線なのである。そのために、わずか五年足らずで我が国は70年代の米国がたどったような格差社会に急速に移行した。それだけではない。戦後、我が国特有の素晴らしい伝統的な倫理規範は時間を経るごとに漸減し、小泉政権以降に至ってはモラル・ハザードを飛び越えてモラル・クラッシュを起こした。昨今、連日耳にする猟奇殺人や尊属殺人は日本人の倫理道徳意識が急速に破綻してしまったことを物語る。

  かくして、小泉・竹中両氏が米国の意を受けて、属米政策路線、つまりはフリードマン型の新自由主義路線を取ったことは、我が国が築き上げた経済構造の破壊だけに止まらず、日本人の精神性にも甚大な悪影響を及ばしてしまった。私くらいの年代の人間なら、この六年間くらいで日本社会の姿や、日本人の精神構造がかなり異質な方向に変化してしまったことを痛切に感じている。今、この流れを食い止めようとする者こそ、日本のラストサムライなのである。エコノミストの植草一秀氏は、この亡国的ベクトルを早くから見抜いていて、勇敢にも警醒の言葉を発していたことを国民は知らねばならない。宮崎学氏のWeb「直言」で、植草氏は「失われた5年-小泉政権・負の総決算」シリーズを書いている途中で国策捜査によって逮捕された。この小泉政権への植草氏の糾弾姿勢に、彼のエコノミストとしての良心が余すところなく出ている。御用学者には決して書けない勇気ある国政批判が書かれている。小泉政権の初期に国民は植草氏の言葉に耳を傾け、自身の考えでこの売国政策の本質に気付いていたら、今の日本はまったく様子が変わっていただろう。

 今からでも決して遅くはない。植草氏を不名誉の洪水から引き出して、もう一度、日本国家と国民の幸せのために彼の能力を存分に発揮させる必要がある。植草一秀氏はあのおぞましい政権の危険な方向性を初期から指摘していた。それに加えて、彼はりそな銀行の救済騒動が、仕組まれた経緯を持つことに気が付き、インサイダー疑惑を調べるように提言していたのである。新自由主義に我が国の国家構造を変えて、より鮮明にアメリカの奴隷国家への変質を迫った小泉政権の邪悪な意図は、今も尚、安倍政権に引き継がれている。この流れはなんとしても食い止める必要がある。国家国民の利益と幸福を念頭において経済政策を提言できる植草氏は、現今の日本においてはきわめて稀有な存在である。いわば、彼の存在は国の宝である。

 いい加減に国民は気付いてほしい。小泉政権がもたらした新自由主義政策が持つ内在的論理は、ずばり言って「売国論理」である。それに対し、植草氏が持つ内在的論理は日本人の幸福にそのベースがある。この真っ向から異なる内在論理が衝突することは当然と言えば当然なのである。植草氏は時の政権の誤った政策ベクトルを是正するために単身立ち向かった。その結果が、権力側から国策捜査による不当逮捕を仕掛けられてしまったのである。

 植草一秀氏の結審が迫っている。このブログを読んでいる方々は、植草氏がなぜ、無実の罪で陥れられたのかということを、自分の生活環境や社会の変化から考えてみて欲しい。日本で最も良心的なエコノミストが、国民を毀損し愚弄する政策に単独で向かって行った事を是非評価して欲しい。植草氏を不当な闇の権力から救出することは、日本の将来を健全に戻すことと同義の次元であることに気付いてほしい。


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7月4日公判、検証する会、A氏の意見

完璧な目撃証人の出現で冤罪は完璧に証明された

7月4日の公判で、事件のとき植草氏の真横1mの所に座っていたという証人が、植草氏は、痴漢をやっていなかったと証言した。このような証言は、この人にとっては何のメリットもない。昨今の希薄な人間関係の中では、面倒なことに係わり合いになるのを忌避する風潮が強い。それだけに、この人がわざわざ嘘を言うために証言台に立つことはないと思うし、彼の語ることの信憑性は極めて高い。

植草氏が訴えられたとき、訴状には品川駅を出発して2分間の間に痴漢を行ったということだった。被害者女性の証言も品川を出て2~3分間触られたとなっている。品川から青物横丁まで2~3分である。この間、すぐ近くの座席に座っていたこの男性は、「植草氏が右手をつり革にかけて、ぐったりとした酔った状態でふらふらと立っていた。植草氏は彼女に密着していなかった。」と証言している。そうであれば、容疑は完璧に否定される。

マスコミが行った偽りの報道

マスコミの報道をそのまま次に引用する。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
一方、裁判長は、男性が全てを見ていたわけではなく、居眠りしていた時間があった点を指摘します。
 「寝ていた時には、何が起きたのかわからないわけですよね?」(裁判長)
 「そうですね」(証人)
 「そうすると、痴漢の事件も寝ている間に起きたのかもしれないと考えるのではないですか?」(裁判長)
 「一瞬思いましたけど」(証人)
 裁判長は男性の主張に納得できない様子で、何度も質問していました。
いかにもこの証人が眠っていた時に痴漢が行われ、この証言が役に立たないとの印象を与えるような表現ですべてのマスコミが報道した。しかしながら、すべての裁判官も、検察官も、痴漢が行われた時間としては品川駅を出発して2~3分ということは確認している。これを今更、変えることはできない。そうするためには、もう一度被害者尋問を行わなければならないだろうし、それはあり得ないから、もう「犯行時刻」は確定事項なのだ。
それならば、なぜこのような質問を裁判長が何度も行ったかというと、それは証言の信憑性を確かめるためだった。もし、この証人が植草氏から雇われて出てきたとし、実はその現場にはいなかったとしよう。そうしたら、彼の情報は植草氏から聞いたとおりに、つまりできるだけ彼に有利になるように細工をするに違いない。この裁判長の質問は、実はこの証人が本物か、雇われかを区別するのが目的だった。

裁判長は、彼がこの事件についての情報を事前学習しているかどうかテストしたのだ。痴漢は品川駅から蒲田駅につくまでのどのあたりで行われたと被害者が言っていると思うか証人に聞いた。時間帯を3つに分けて、最初の1/3、真ん中の1/3、最後の1/3のどれだと思うかと聞いた。彼は、最後の1/3と答えた。つまり、彼は事前学習をしていないことが分かる。更に念を押すために、裁判官は
「寝ていた時には、何が起きたのかわからないわけですよね?」(裁判長)
「そうですね」(証人)
「そうすると、痴漢の事件も寝ている間に起きたのかもしれないと考えるのではないですか?」(裁判長)
「一瞬思いましたけど」(証人)
「それでも彼が痴漢をやっていないという証言をしようと思ったのはなぜですか」(裁判長)
「2人が捕まえた様子が余りにも変だったからです。普通なら捕まえる際に言い合いになるはずなのに、捕まえる側、捕まる側の両方が異様に静かだった。植草氏が絡まれているに違いないと思いました」(証人)

 これにより、この証人が雇われでないことが完璧に証明されたわけだ。もし雇われなら、うとうとしてたなどと言わないに違いないし「寝ていた時には、何が起きたのかわからないわけですよね?」(裁判長)「そうですね」(証人)という会話は、絶対にあり得ない。この証人は知らないのだが、実は、青物市場まで、植草氏を見ていて、痴漢をやっていないということが証言されれば、それで完璧なのだ。植草氏にとって不利になるかもしれない「そうですね」(証人)という発言は、逆に証言の信憑性を高めるのに役立っているのだ。 すべてのマスコミは、意図的に植草氏に不利になるような報道しかしないから、「役立つ証言出ず」という見出しになった。

 事件の報道では被害者が「やめて下さい」「子どもいる前で恥ずかしくないのですか」といったとなっていた。その後泣き出したそうだ。しかし、至近距離にいたこの証人はこれらを聞いていないし、植草氏も「子どものいる前で・・・」という少し大きめの声が聞こえただけと言っている。今回の証人は、これらの声を一切聞いていないことと合致する。

第六回公判に出たK証人は替え玉であることが証明された

なお、3月28日のK証人が替え玉であったという証拠がまた一つ増えた。なぜなら、7月4日の証人は、車内で植草氏を捕まえたのは2人だと証言したからだ。K証人は一人で捕まえて、ホームでもう一人手伝ってくれたと言った。これは明らかな偽証だ。

 電車が蒲田駅に10:18到着して、植草氏を駅事務室に連れて行き、駅員に説明、駅員が警察に連絡、警察から近くにいるパトカーに連絡が行ったのが10:21。これだけのことを僅か3分でできたというあり得ない離れ業。周到に準備したでっち上げ事件だからこそできたのだ。K証人は、ホームで周りの人に駅員を呼びに行ってもらってから、駅事務室に連れて行ったと証言した。これも明らかな偽証。それでは3分以上かかるからだ。K氏が替え玉でなかったら絶対に間違って証言することはあり得ない。つまり、K氏は替え玉なのだ。


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7月4日の植草氏公判で何がわかったのか

 7月4日の公判で、事件の時、植草氏の真横1mの所に座っていた証人が、植草氏は、痴漢をやっていなかったと証言した。このような証言は、この人にとっては何のメリットもない。さまざまな状況を考えると、この方が出廷することは非常に勇気が要ったに違いない。それだけに、わざわざ嘘を言うために証言台に立つことはあり得ず、彼が行なった証言の信憑性は極めて高い。今、読者に心を留めてもらいたいことは、この善意による第三者の目撃証人は、裁判に係わる原告にも、被告にも、何の利害関係も社会的関係も持っていないということだ。彼は当日乗り合わせた一般乗客の一人である。彼の証言動機は、自分は無関心を装う傍観者でありたくないという思いだった。彼が良心の叫びに従って公判に出廷したことは大きい。

 さて、植草氏が訴えられたとき、訴状には、品川駅を出発して、すぐに痴漢行為が始まり、それは約2分間に及んだということだった。

 以下は第二回公判にて、それについて言及した目撃者の証言録である。(速記録より抜粋)

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192  検察官1 さて、あなたは、この電車の車両に乗り込んですぐに、今回痴漢行為を働いたおじさんや、被害に遭った女子高生が、同じ車両に乗っていることに気づいたのですね。

264 検察官1 あなたがそのような様子を目にしたのは、電車が品川駅を発車してどれくらいたったころでしたか。
265 T証人   正確にはわかりませんが、1、2分たったころだと思います。
266 検察官1 もちろん時計などで確認していたということではないわけですね。

267 T証人   はい、そうです。
268 検察官1 感覚としては品川駅を出て割とすぐという感じですか。
269 T証人  はい、そうです。
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 さて、「植草事件の真相」掲示板を管理するgigiさんが、品川と京急蒲田間における快速特急で、それぞれの駅の通過時刻を近似的に調べてくれた。

 上図は、品川と蒲田間、全8km区間において、快特電車が等速度運転しているものとして、各区間距離から単純に通過時刻を割り出したものである。実際は品川駅を出発して一定速度に達するまでの加速区間があり、同様に京急蒲田駅に停止するまでの減速区間があるから、青物横丁と大森海岸の通過時刻が、距離に比例する単純な時間計算では出てこないだろうし、路線のカーブの状況やアップダウン、あるいは踏み切りの安全状況の判断などで、毎回同じ時刻にそれらの駅を通過するとは限らない。しかし、大まかな目安としては、上図の時刻割り出しとあまり極端な差異は生じないと思う。要は停車駅の到着時刻が正確ならいいということであろう。

 植草氏から、すぐ近くの座席に座っていたこの男性は、「植草氏が右手をつり革にかけて、ぐったりとした酔った状態でふらふらと立っていたことを見ている。しかも、彼は植草氏が彼女に密着していなかった。」と証言している。この二つの証言は重大である。今回公判の最重要箇所は、植草氏のその様子を目撃したその時間帯がどの範囲にあるかである。

上記の速記録によれば、植草氏が電車に乗り込んですぐに痴漢を働いたと検察が言っているが、第二回公判に出た目撃証人は痴漢行為の起点が、品川駅を発ってから1~2分後くらいだったと言っている。ミニマムで出発から一分後に痴漢行為が始まった。マキシマムで出発から2分後に痴漢行為が始まった。そうなると、座席に座っていた今回の善意の証人は、品川から青物横丁までの3分間は覚醒していたわけだから、少なくても1分間、多くても2分間は植草氏の様子を見ていたことになる。そうなると、彼が青物横丁辺りでうとうとして眠るまでは、植草氏が痴漢とは無縁の状況にあったことをはっきりと見ているのである。よく考えてもらいたい。植草氏が痴漢行為を行なったとされる時間が2分間である。つまり善意の証人が、植草氏を見ていた時間が、ミニマム時間で1分間、マキシマム時間で2分間は、植草氏が行なったとされる犯行時間と重なっているのである。

 これらの時間構成を眺めれば、植草氏による痴漢犯罪は明らかに生起していなかったことになる。図によれば、京急品川から青物横丁までは2分45秒であるが、先ほど言ったように加速時間を考慮すれば、その時間にプラスα秒加算した時間になるから三分くらいで青物横丁を通過したかもしれない。すると繰り返しになるが、この証人の語ったごとく、初期の2~3分間は植草氏を見ているから、その間に痴漢は発生していないことになる。10時08分に品川を出た電車は青物横丁を10時10分~11分ごろに通過している。3分に近い所要時間である。

 ニュースは、彼の証言は役に立たないと言っている。この男性が事件そのものを目撃していないから駄目だというニュアンスである。証言者の信憑性を疑うような報道がテレビでなされたことは、たとえば2007年7月5日06時02分に掲載された「スポーツ報知」で書かれた次の内容を見てもらいたい。

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だが、この男性も「痴漢行為はなかったのではないか」と主張しながらも「電車内では途中、うつらうつらしていた」とも。裁判長は証人に「居眠りしている間に痴漢行為があったかもしれないと考えるのでは」と繰り返し質問したが、植草被告の潔白を証明する明確な回答はなかった。
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 神坂尚裁判長は、この善意の証人さんに何度も「居眠りしている間に痴漢行為があったかもしれないと考えるのでは」と訊ねている。しかし、上記で私が語った時間構成を眺めれば、この証人が覚醒していた時間、すなわち植草氏の様子を見ていた時間が、第二回公判で植草氏の痴漢を目撃したと称する証人が語る犯行経緯と、完全に時間的な矛盾を生じていることがわかる。

 つまり、善意の証人が植草氏の犯行を目撃していないという決定的な事実が暴かれたのである。巻頭で言ったごとく、この善意の証人は乗り合わせただけのただの乗客である。彼が虚偽の証言をする理由は何もない。しかし、この事件が植草氏を貶める謀略にもとづいて演出されたのであれば、第二回公判で目撃したと称する男も、その後で名乗り出た一般人の逮捕者の証言自体もすこぶる怪しいものとなる。おわかりだろうか。植草氏は完全に無実なのである。これが国策捜査でなくて何だろう。

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2007年6月27日 (水)

年金問題の向こうに待つ地獄!!

お知らせ:今年も半分ちょっと経過しました。本日より人気blogランキングに参加してみました。皆さんの応援をお待ちしております。(7月1日)
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 TV朝日で今”ボーナス減額に応じない場合、社保庁解体後の組織に採用しない可能性がある”と報道していたと知人から連絡があった。いつの間に社保庁の解体が決定したのだろうか?知人は、これはサブリミナル効果狙いで、今のうちに既定事実のように報道して、国民にある種の洗脳を施したのではないかと言っていた。

 「社保庁解体後の組織に現職員を採用しない可能性がある」などというのは、どう考えても、国民意識の誘導操作なのだと思う。年金掛け金が宙に浮いていることや、それに応じた金額の行方の問題などに対し、国民の怒りが沸騰しているうちに、社保庁のような組織は解体して当たり前だというロジックが強化されていることは間違いない。

 年金問題に怒り狂っている国民は、社保庁解体の真の目的に気が付いていないようだ。それに加えて、今、ニュースワイドショーを中心にミートホープ(株)の偽装牛肉報道が執拗に繰り返されている。自民党の売国勢力は電通などを通じて、偽装牛肉問題を拡大して年金から目を逸らしているのだろうか。まったく姑息である。この手法は何度も自民党がやっているから、かなり多くの人が気が付いてきている。自民党は選挙のたびに民主党のスキャンダル暴きを定番のように行なってきた。細野豪志衆院議員(35)と美人フリーキャスターの山本モナ(30)の不倫が発覚したことや、永田寿康議員の偽堀江メール事件があった。

 今度の参院選はこのまま行くと、年金問題、そして住民税値上げショックも相俟って、自民党は大敗する惧れがある。今、自民党幹部連中は、それを阻止しようと躍起だろう。またいつものように姑息に民主党のイメージダウンを狙っているのかもしれないが、さすがに今回はその程度では自民党への風当たりが弱まりそうもない。すると彼らは牙を剥いて荒ワザを繰り出す可能性がある。その仕掛けの結果、国民がやっぱり自民党じゃなきゃ国政を運営できないなと思わせる何かをやるかもしれない。それが何か見当は付かないが、もしかしたら国家的ハザードを演出するかもしれない。すなわち偽装テロ事件である。米国が自民党の敗北を阻止する方向に影から力を貸すだろうから、北朝鮮のテロリストなどをこしらえてある種の破壊活動を首都圏で仕掛けるかもしれない。たとえばサリン事件のような騒擾事件が想定される。まあ、わからないが彼らが何かウルトラCを出す公算は大きい。

 社保庁解体が当然であるかのようにテレ朝が報道したことに話を戻すが、社保庁解体の真の目的が、国民の怒りの沈静化ではなく、実は外資参入への幕開けだということに国民は思い至らない。自民党の売国勢力が真に危機感を持っているのは、解体後に組織される民間の年金機構が外資参入の目的を持つことを国民に知られることに他ならない。郵政民営化と基本は同じである。国民は今の年金問題の向かう先に最も恐ろしい罠が潜んでいることに気が付かない。新設の年金機構に外資が参入すれば、国民はいくら年金掛け金を積み立てても、それはけっして戻っては来ないだろう。なぜなら年金がごっそり奴らに収奪されるからである。これこそが真のクライシスである。怒りに任せて社保庁を攻撃する気持ちはわかるが、社保庁職員の怠慢などという次元をはるかに飛び越えた国富の収奪が目論まれていることを国民は知るべきである。莫大な郵政資金と莫大な年金資金が海外に流れたら、日本は事実上無一文国家に転落し、地獄のIMF傘下に入ることになりかねない。その時、日本経済は這い上がる余力さえ残されていないのだ。

  何度も言っているが、売国マスコミに扇動されてはならない。

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本邦警察の悪習、代用監獄の弊害

 6月22日の東京新聞にこういう記事が出ていた。国連拷問禁止委員会が批准国からの報告書を見て、日本の警察の取調べや難民認定制度のあり方に対してレッドカードを突きつけたという内容である。このことに関連して、植草一秀氏の不当逮捕・不当勾留も、もちろん大いに関係がある。ジュネーブにおいて、国連拷問禁止委員会は日本の報告書を審査し、相次ぐ冤罪などを鑑みて、「日本には人権を守るという価値観がないのか」という声が出た。同委員会は日本に対して具体的な勧告案を採択し、日本は一年以内にその対応について返答を求められている。特に日本に冤罪が生じやすい土壌を形成している一つの厳然たる理由に代用監獄、すなわち「人質司法」の問題がある。

 東京新聞によれば、「取り調べが昼夜続き、そこから真相を引き出そうとするのは、推定無罪の概念が欠けている」「取調べのために拘禁され、さまざまな自白を強制されている。目の前の人が無罪だということから始めなければならない」―  。

 国連のこの組織は、拷問禁止条約の批准国に対し、条約の履行状況を審査している。今回は日本の警察の留置場が拘置所代わりに使われている、いわゆる「代用監獄」が取り上げられ、十名の委員全員から厳しい批判が出されたそうである。代用監獄は警察にとって、長時間の取り調べに便利である。長い日数、拘置するそのやり方は、自白強要、ひいては冤罪を招きやすい。国連人権委員会も1998年に懸念を表明していたが改善が見られないとして、今回、再度同じ問題が浮上した。この委員の中には周防監督の痴漢冤罪を扱った作品「それでもボクはやってない」を見た人もいて、「痴漢行為で過剰な取り調べを行う一方では、ジェンダー絡みの家庭内暴力など、より重大な事件を放置しているのは理解しがたい矛盾ではないか」と言っている。

 この委員会では、最近マスコミに取り上げられている二件の冤罪のことも言及されたそうである。一つは富山県の男性が強姦事件で服役後に冤罪が発覚したこと、もう一つは、鹿児島県議選の公選法違反事件で全被告の無罪が確定したことである。新聞によると、日本の代用監獄では、起訴前の拘置期間が逮捕一回につき、最大23日間に及ぶ。国連拷問禁止委員会はこの23日が異常に長すぎるとして深刻な懸念が表明された。国際標準は24時間拘束が普通、長くても48時間という実態から、「拘禁できる最長期間の制限」を勧告し、一日あたりの取り調べ時間制限も求めてきた。取り調べにおける弁護士の立ち会いや、ビデオ録画といった方法で体系的に監視される必要性も強調したそうである。

 東京弁護士会のサイトによれば、

 我が国の刑事訴訟法では、逮捕された被疑者は、3日以内に裁判官の面前に引致されなけれぱならず、裁判官が勾留の決定をすると、被疑者は拘置所に移されて、最大10日間(更に10日間、特殊な犯罪の場合には15日間延長が可能)拘禁されることになっています。
 しかし、実際には、監獄法(1908年)で「警察官署に付属する留置場は之を監獄に代用することを得」と定めているため(1条3項)、ごく例外的な場合を除き、全ての被疑者が勾留決定後、捜査を担当する警察の留置場(代用監獄)に連れもどされます。被疑者は、警察によって、逮捕後23日間も拘禁され、身柄を管理されるのです。この警察留置場に監獄の代用として被疑者を長期間拘禁し、取調べを行うことを認める日本独特の制度が、「代用監獄」制度です。

     http://news.livedoor.com/article/detail/1903200/

  さて、昨年の9月13日に、京急電車内において痴漢容疑で逮捕された植草一秀氏の場合は、確か蒲田署に10月19日まで留置されていたと思う。そのあとは小菅の拘置所に移管された。つまり植草氏が代用監獄に留置された期間は36日間、一ヶ月と6日間である。この拘禁日数は監獄法で決められている最長23日を13日間も越えている。その間、植草氏にどのような苛酷な取り調べがあったのか、ご本人から伺う以外に知る由もないのだが、彼は「意見陳述書」でこう述べている。

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 検察官は、「否認を続ければ、裁判で私生活を攻撃して家族を徹底的に苦しめてやる」と学校等でのいじめを意図的に誘発するとも受け取れる発言を繰り返し、また警察官は、「否認して裁判になれば必ずマスコミのえじきになる」、「否認すれば長期の勾留となり小菅に移送される」と繰り返し述べ、罪を認めることを迫り続けました。
 ( http://uekusajiken.ganriki.net/sokki/12060601.html ) より引用
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 これは人権蹂躙というよりも、官憲による悪質な恫喝以外の何物でもない。植草氏が警察署に留置されている間に、上記のような非道な取調べが続いていたことが推し量れるのである。日本では旧態的な男尊女卑の裏返しから皮相的なフェミニズムが横行し、痴漢については被害女性の言葉を絶対視するようである。無実の被疑者であっても、推定無罪は採用されず、初期から推定有罪でことが運ばれていくという慣行が続いている。こういうはじめに有罪ありきの過程の中で、代用監獄制度が冤罪発生に拍車をかけている現状は是正されるべきである。今回の場合は、警察が面子を保つために誤認逮捕をごり押ししようとする冤罪ではない。植草氏の逮捕とは、エコノミストとしての植草氏の経済視点が、従米売国路線に本邦を誘導する勢力に真っ向から反していることに起因する国策捜査であることは間違いない。従って、代用監獄における彼への詰問は苛烈さを極めたに相違ない。彼はこの厳しい状況によく耐えたと思う。


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2007年6月25日 (月)

白昼の悪夢「小泉新党結成!?」

 お昼のテレ朝の番組で、小泉新党が結成か?などという話が聞こえてきた。何でも、郵政民営化を後戻りさせるようなことがあってはならないという設立論旨で、武部勤前幹事長や小泉チルドレンを加えて新党を結成するかもしれないとかいう話だった。

 多分、噂の域を出ないガセ情報だと思うが、安倍晋三首相の不甲斐なさに業を煮やした勢力が、願望として小泉再登場論をぶち上げているのかもしれない。今の日本の状況を見ると、ものをまともに考えることを放棄した日本人が多いから、小泉再登場の可能性がまったくないとは言えない状況になっている。安倍も小泉も徹底的な売国路線に変わりはないのだが、劇場型パフォーマンスとヤクザ的押しの強さを持つ小泉純一郎氏が再び組閣を行なったら、今度こそ皇室そのものが危うくなる。

 こんな売国奴でも支持率はかなり高い状態でやめたので、彼を待望している愚鈍な連中が大勢いることには変わりがない。かつて小泉を担ぎ上げた奸智に長けた売国奴たちはごく一部だと思うが、マスコミの情報操作に踊らされて小泉氏の謀反人的メンタリティを見抜けず、救国の士だと勘違いしたB層(笑)連中が大勢いるのが日本の現実だ。悪魔に魂を売った男を再度国政の壇上に上げるなどということがないように国民は注意をしてもらいたい。


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2007年6月22日 (金)

植草氏公判に関し、法廷傍聴人の数に大いに疑念を感じる

 東京地裁の第709号法廷で、6月20日、徳間書店を植草氏が訴えている件で民事の公判が開かれたが、これを知人が傍聴してきた。約10分くらいで終わったそうである。 この時、知人は地裁の職員から、刑事事件に使用される法廷と、そこに入室できる傍聴人の数を書いた表をみせてもらったそうである。それによれば下記の通りである。

傍聴者が最大96人が入室できる法廷が数室あり、次に大きいのが52人で、これが21室あった。その次が40人、30人、20人台の法廷。

 ここで我々検証する会の面々も当初より奇異に感じていたが、わざわざ26~7人しか傍聴できない第429号法廷を使うのは妙である。それ以上入室できる他の部屋がことごとく満杯ならともかく、これはいたって奇妙である。

 考えてもみてもらいたい。昨年9月の植草氏の件は、2004年の東京品川駅の手鏡事件に続いて、マスコミがあれだけセンセーショナルに報道したできごとである。有名なエコノミストが起こした事件として、テレビや新聞、週刊誌を大いににぎわせたことは周知の通りである。しかし、彼の公判に使用された第429号法廷は傍聴人がせいぜい多くて27名止まりである。私は96人が傍聴できる法廷を使用しても当然だろうと考えている。あるいは52人が傍聴できる法廷を使うべきである。この52名の法廷は21室もあるのだ。これが今回で八回目になる植草氏の公判にただの一度も使われていないことは考えると奇妙である。

 以前にも本ブログに書いたが、矢田部浩二氏の「お父さんはやってない」の傍聴事例では毎回50名くらいだったそうだ。27名という植草氏公判の場合はその半分くらいである。妙だとは思わないだろうか。矢田部氏は一般人であり、植草氏は著名なエコノミストである。矢田部氏には失礼だが、単純に関心を惹くという意味では、公的度合いは植草氏のほうが桁違いに大きい。なのに、なぜ公的度合いの高い植草氏の傍聴者数が半数くらいなのだろうか。裁判所は植草氏の迷惑条例違反の公判内容を強いて外へ知らせたくない何か理由があるのかと勘ぐりたくもなる。

 この事実を穿って考えると、植草氏に関する昨年の事件は国策捜査の色合いを帯びていると考えてもつじつまが合うように思う。何度も言うが、マスコミが植草氏の名誉を毀損する目的だけで、客観性や公平性を欠いた偏頗な報道を大々的に行なったことには明らかに政治的な背景が存在している。強引な犯罪事実の作出には当然ながら、必ずや不自然さが生じるはずである。そのことを露見させたくない意志が、使用した少人数の法廷に反映しているような感じもしないではない。通常、あれだけ世間を騒然とさせた報道様態から見れば、少なくとも第一回目や第二回目の公判は、傍聴人数が96名という最大規模の法廷を選ぶことには蓋然性がある。ところがわずか二十数名しか傍聴できない小さな部屋を選んだ理由を考えると、法廷自体が公判内容を外部に出すのを嫌っているのではないかという疑いが当然起きてくる。つまり、一般人傍聴者を極力閉め出して、報道関係者だけにあることないことを織り交ぜた報道を行なわせようとする無言の意志を感じるのは私だけであろうか。これを見ると、植草氏が官憲がらみの意図で嵌められた事件であることが公判証言類の矛盾から見えてくることを恐れているからではないのか。現に傍聴記や速記録でその疑いは濃厚になっている。

 東京地裁の植草氏公判の関係者がこの記事を読んでいるなら、私からも是非お願いしたいが、あなた方が公正さを示すつもりなら、今後の法廷を傍聴者数の多い法廷に切り替えるべきだと思う。次回以降の公判はそういう観点からも注目を浴びていることを自覚して欲しい。少なくとも52名が傍聴できる法廷で行なってもらいたい。

 この疑念に賛同し、東京地裁の姿勢に意見を言いたい方は次の連絡先に問いかけていただけるとありがたい。

   最高裁判所事務総局広報課
電話 03-3264-8111(内線3156)


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2007年6月19日 (火)

植草一秀氏、6月18日、第八回公判について

 電車内で痴漢行為をしたとして東京都迷惑防止条例違反に問われて
いる経済学者の植草一秀氏の第八回目の公判が18日午後、東京地裁
で開かれた。 

 この日の公判は留保されていた証書関係の認否確認が行われ、1時
間足らずで終わった。次回公判は7月4日午後1時15分から開かれる
予定。


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2007年6月11日 (月)

社保庁解体論やコムスン・バッシングも国家崩壊の道程

 社会保険庁とコムスンのバッシングが同時期に起きているのは偶然ではない。郵政民営化とあわせて、これらの動きは、ここ数年、急速に進行している国家の構造改変の顕著なあらわれである。今から四半世紀くらい前のことになるが、日米二ヶ国は、経済関係において構造摩擦という叩きあい罵り合いが苛烈を究めていた。その頃は、いわゆる国際舞台の中で堂々と関が原の様相を呈していた日米両国であったが、この熾烈な経済摩擦がある臨界点を越えた時、アメリカの国際戦略が発動した。その結果、日本は内政的にアメリカに経済のイニシャティブを牛耳られてしまい、対外的には構造摩擦の喧騒がぱったりと掻き消えた。それが1985年のプラザ合意である。この瞬間から日米関係の潮目が変わったと言ってもよい。冷戦時代はアメリカも経済大国として余裕があり、日本を保護的に遇していた面もあるが、冷戦以後は日本の産業的実力に席巻され、巨大な赤字を抱えていたこともあり、日本を第一の経済上の敵性国家とみなし、対日戦略を転換した。それがプラザ合意であり、この戦略の発動が確定化したのが、1993年の宮沢・クリントン会談である。

 この会談で「年次改革要望書」が組み込まれ、アメリカによる日本の第二次占領体制が敷かれた。ここにおいて、日本が占領下に置かれたことを知悉する一部の為政者を除き、ほとんどの日本国民は大きな錯誤を持ってしまった。つまり、あれほど騒いでいた日米構造摩擦がぱたりと止んだのである。大多数の日本人は、日米関係が荒れ狂った海から、嘘のような凪状態になったことで、まあ、何とかいい方向に向かっているだろうと思い込んだ。ところが日本の内部で起こっていたことは、日本人のエージェント(売国奴・裏切り者)を動かしながら着々と進行した日本型構造の確実な破壊作業であった。

 こういう流れの中で、橋本政権は年次改革要望書を引き継ぎ、小泉純一郎元総理にいたってはアメリカの日本構造改変要望を完全な形で実行するという、まさに肇国以来、最大級の売国為政を完遂した。小泉前総理は元寇時の北条時宗とはまったく正反対の国家破壊型宰相であった。こういう内政的対日占領戦略において、最大のイベントが郵政民営化であり、郵政公社が株式会社化され、外資が郵政資金を略奪する民営化が実効的に始動されるまであと若干四ヵ月弱に迫っている。その布石として五月には三角合併が解禁されている。そして今、年金問題が先鋭的に沸き起こり、社保庁解体論があたかも当然のように噴出している。確かに五千万件を越える支払い履歴のエアポケットは、国家構造を崩壊させるに足る重要な事件であるが、それ以上に国家崩壊を確実視させるものは、この問題に乗じてマスコミが扇動している社会保険庁解体論から保険完全民営化への動きである。安倍総理の言う「非公務員型の保険機構へ」というのは「民間の保険会社」へ移行するという意味以外にないではないか。これは郵政の民営化とまったく同じ姿である。政府介入の徹底廃止である。老人福祉も年金も自由経済の枠組みに入れられるということだ。ここに外資参入の意図を見る者は正常である。年金の民営化も老人福祉の民営化も、一国の上で人間が生きていく上で、確実に不安定要素となっている。ましてや、これに利益収奪だけが目的の外資が参入したら我々の生涯は野蛮な弱肉強食に放り込まれることを認めるようなものである。これが国家崩壊でなくて何と言うのだろう。

 これに加えて、同時期に出てきたコムスンのバッシングは、社保庁解体論と同様の構造、流れの中にある。コムスンは介護福祉事業では寡占的大手である。この会社の不正や抜けは以前から良く耳に入っていたが、今、マスコミはこの会社を社会悪としてのみ異様に糾弾し続けていて、会社自体の社会的存在意義を故意に説明していない。ここにも介護保険制度を改変して外資参入に道を明けようとするアメリカの陰湿な意図が丸見えになっている。ここ数年来の日本はアメリカによる国家解体が急速に進んでいる。マスコミの誘導的なニュースに惑わされてはならない。郵政民営化、三角合併、社保庁解体、コムスン叩き、これらはそれぞれがバラバラに偶然的に生起したものではない。明らかに年次改革要望書という一貫した占領政策の仕上げとして出てきているものである。言葉を換えて言うなら、これらの動きは「日本に特有な構造の解体」を超えて、国家そのものの解体と言えるものである。この総仕上げは、おそらく小泉がやり残した件名、すなわち皇室解体に行くことは間違いないだろう。 


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2007年6月 1日 (金)

現代日本、危殆に瀕する若者の恋愛事情

  恋愛空間の縮退は民族衰亡に繋がる
 
(年次改革要望書に従えば若者の恋愛空間が消滅する

 最近、国際評論家・小野寺光一氏のメールマガジンでとても気になることが書かれていたので、そのことについて私の時代的な感想を少し述べておく。その気になる記事は、三角合併解禁への警鐘として4月29日に、小野寺氏が小説風に書いていた下記の文である。小野寺氏は三角合併解禁後の日本社会の凋落を次のようにあらわしている。

 国際評論家・小野寺光一作、小説「火の鳥と亡国の人物」より

==============================
 両親は共働きではなかった。
父親は、近くのレンズ工場で働いているが、
母親は、手持ちぶさたに家にいるのであった。
とにかく、「金」がない。

 格差社会の結果である。
父親の勤めているレンズ工場は、親会社のカメラメーカーが
外資に買収されていた。

 三角合併という日本の歴史史上最悪の売国奴内閣の
小泉内閣がやった結果である。

・・・・

 父親がいくら働いても初任給からまったく給料は
上がらないのであった。

 都会に出れずに一生を終えることに
なった。なぜなら、格差社会を推し進めた結果、
東京への流入が増えすぎて、「東京へ田舎者は住むべからず」と
流入制限をかけていたからだ。

 そのため、亡国の彼は、レンズ工場でレンズの研磨工として
一生を過ごした。それ以外に職がなかったからだ。

 そして工場の役職までになったが、月給は手取りで23万円
だった。結婚相手はいなかった。日本人の女性はすべて、米国人
かまたは韓国人と結婚をするようになっており、誰も日本人男性と
は結婚したがらなかった。

そして彼は一生を終えた。

================================

 要は、三角合併後の日本社会は、外資が日本の会社を乗っ取ったうえ、日本人社員を安くこき使って労働生産性を最大限までに上げるコーポレート・ガバナンスを実行した。そのためには手段を選ばない過酷な労働条件を課され、日本人には自由や遊びがまったくなくなってしまうという社会を言っているのだ。この小説の中で私が最も目を引いた部分は、日本人の若者男女には恋愛の自由がなくなってしまうというSFみたいな話である。特に若い男は、ほとんど自由に遣える金を持てないために日本人女性と恋愛ができなくなる。一方、若い女性たちは米国人や韓国人とだけ恋愛するようになるという箇所である。しかし考えてみれば、それは新自由主義社会が稼動した場合、当然の帰結のような気がしている。原田武夫氏も「タイゾー化する子供たち」で、これからの日本は「ワーカー国家」となるとはっきりと断言している。アメリカに奪われる日本の最大のイベントは郵政資金の350兆円がターゲットになっていることだ。三角合併と郵政公社が株式会社化される年度が同じだというのは決して偶然ではない。

 三角合併というのは金融資本主義的侵略の前提条件を満たす法律である。米国利益ということでしか意味を持たない法律だ。ゴールドマン・サックスを手始めとする金融侵略者は、70年代に中南米諸国の国富を吸い取ることに成功していて、その成功経験則で培った金融工学的な手法を日本に余すところなく駆使する算段なのだ。国富を奪われ、文字通りワーカー国家となった日本は、若者に恋愛の空間、時間さえ与えられなくなる息苦しい場所になる。このことがどれほど重大なことかと言えば、少子化どころではなく民族の存亡に関わることであり、結婚が日本人の子孫が残らなくなる方向へ進む可能性がある。これは単に生物学的に子孫繁殖が絶たれるということだけではなく、若者の多彩な恋愛感性から生まれる日本独自の文化の火が消えることにも繋がる。

 若者の恋愛、それは生物学的に人類が子孫を残すためにプログラムされたひと時の熱病なのだろうか。私はそれだけではないと思う。恋愛というものは、人生の中の最も重大で決定的な意味を持つイベントではないだろうか。動物と人間が異なる所以は多々あるが、その中でも、恋愛感情は他の生物とはかなり大きく隔たっている。生物学的な本能が基本にあるとしても、人間の場合は、人間にしかない意識の変容を伴うことは明らかで、それは人間であるが故の精神性を示す一大特徴である。恋愛には強い精神昂揚の発露がともなう。これを周囲のものが見ると、一種の熱病のように見える。古今東西、恋愛は世界中の文学や音楽、その他の芸術的発想を触発してきたことは確かである。若い時は二度とないという話はよく聞くがまったくその通りで、若い時の恋愛も二度とない性質のものであることもその通りである。若者が恋愛をすることは、その恋愛が結婚という形で成就しようと、あるいは失恋という形で破局を迎えようと、その体験はその後の人生に決定的な影響を及ぼす。恋愛論の大御所であるスタンダールの恋愛に関する彼の持論がどれほど正しいのかわからないが、彼の恋愛論には納得することが多い。私も二十代の時、人並みに鮮烈な恋に身を焦がし(笑)、その悩みの中でさまざまな恋愛論を読んだことがある。内容はほとんど忘れてしまったが、記憶に少し残っているのは遠藤周作とスタンダールの恋愛論だった。

 遠藤周作の恋愛論では、恋人に過去の恋愛を聞かれた時、そのことを隠し立てぜずにぺらぺらとしゃべっては絶対にいけないということくらいしか覚えていない。しかし、そのあと読んだスタンダールの恋愛論では「結晶作用」という非常に興味深い恋愛心理のことを説明していた。それを理解してから、狐狸庵先生の語る過去のことを語るなという意味が、わが身の経験を通じて鮮明に理解できた気がした。特に若い女性が恋する若い男性に自身の過去の性体験を語ることはいかなる事情が生じても良くないという狐狸庵さんの指摘は、昔から賢い女性にとっては当たり前のことだった。なぜなら、自分に夢中になっている相手の男が、ほかならぬ自分に対して、想像上の美化を必死に構築させているという強い精神的な作業を進行させているからだ。そのことをスタンダールは結晶化作用と名づけた。これは説明すると長くなるのでスタンダールを読んでもらいたいが、一例として、女性が自身の過去の性体験を話した場合、相手の男はこの結晶作用の精神的作業を即座に中止し、それまでに作り上げた女性の美しい幻影的結晶体そのものが泥を塗られたうえに、無残にも破壊されて粉々になったと感じる。これはほとんど修復できない。私も二十代前半の時、一人の女性に食欲をなくすほど恋焦がれたことがあるが、その女性から過去の同棲体験を告白されて一気に醒めたことがある。あれほど身を焦がしていた自分が冷水を浴びせられたように急激に冷えきったことは自分でも驚きだった。彼女は誠意から正直に言ってくれたのだろう。しかし若かった私の気持ちはいきなり凍った(笑)。これは苦々しい喪失感だった。こと恋愛に関しては何もかも正直であることは罪である。若い人は銘肝すべし。ただし、若くない人々にとってはもちろんその限りではない。(笑)

 結晶作用といえば、私は二十代の前半から生々しい現実とは別に、実際には存在しない女性に結晶作用を生み続けてきたことを告白する。ざっくばらんに言うならいわゆる「憧れの女性」のことである。こういうことは特別に私だけではないはずだ。女性の場合はどうかわからないが、男は若い時に理想の女性像を胸のうちに描いて、それを後生大事に幻影として育てていくことはあると思う。その女性像は、例えばオードリー・ヘプバーンや吉永小百合さん(年がわかるかな、これは)などの映画女優だったり、何かの写真で偶然印象に刻まれた女性だったかもしれない。私の場合は後者であり、二十代のある時、映画の雑誌か何かで、たしか満州のことを書いた特集だったと思うが、その中に李香蘭(りこうらん)という女優のモノクロ写真を見たときだった。彼女の写真を見た途端、稲妻に打たれたように李香蘭に惹きつけられ、これこそ理想の女性だと思い込んでしまった。後年、それが国会議員の山口淑子さんであったと知った時も、私の若い李香蘭に対するイメージは変わらなかった。むしろ李香蘭が日本女性であったことに感動していた。私は現実社会で何人かの女性と付き合ったが、胸にある憧れの李香蘭と現実の彼女を比べることはなかった。李香蘭は私の中で永遠化、理想化された女性であって、現実にいるとはけっして考えていなかった。しかし、それはそれで五十路を過ぎる今日まで静かに自分の中で結晶化を続けている。そのことは強いて言うなら、お気に入りの絵を毎日眺めているようなものである。ふと思うのだが、もしかしたら、私はただ目が大きくて美しい女性が好きなだけで、そういう女性を理想化してしまったら李香蘭にたどり着いただけかもしれない(笑)。しかし、私は数年前に李香蘭とそっくりな女性に偶然出逢って大変驚いた。そして心が大きく揺れ動いた。その女性を最初に見たとき、この世に存在しないものがいきなり目の前にあらわれたというような錯覚を覚えた。その李香蘭を目の当たりに見て、私は人生で最も幸福な時を過ごした。もういつ死んでもいいと思った。当の女性は、自分が冴えない中年男に、理想の李香蘭として見られていたことはまったく知る由もないだろう。その女性はすぐに私の目の前から消えて、いつの間にかどこか遠くへ去っていた。しかし、私の胸の中で結晶化されていた夢の李香蘭は相変わらずその場にいた。しかし以前と比べて、ちょっと変わってしまったことは、そっくりな人を見たために若い時から夢見ていた李香蘭は、そのそっくりさんの面影に自動的に修正されていた。より現実的なイメージに変化したと言うべきだろうか。生きているといろいろと不思議なことが起こるものである。

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 私の李香蘭話はともかく、若い人たちにはスタンダールの有名な「結晶作用」という事実を知ってもらいたい。この結晶作用は実は二種類存在する。一つは、惚れてしまえば、相手の異性に、欠点も何も見えずに盲目的に恋してしまうという結晶作用である。これは相手を完全な美として総体的に捉えてしまうという心理作用である。この段階を超えると、実はもう一つの結晶作用があって、自分は本当に相手を愛しているのか、また相手に愛されているのかという疑念を抱いたり、それを打ち消したりという、自己の内部で心理的な葛藤、すなわちシーソーゲームが行なわれる。そして自分は相手を愛しているし、愛されているという確信が生まれてくる。要するに不安と確信の間を揺らめく心である。これによって第二の結晶作用が進行する。恋愛を経験したものなら、このプロセスはある程度当たっていることは頷けるだろう。言いたいことは若い時の結晶作用は非常に重要であるから、大事にしてほしいということだ。岩石の結晶は美しい。それが形成されるまでは過酷な条件下で長い成長時間を要する。恋愛においては、いい加減な思いで突入すると、この結晶生成過程が上手く行かないことになる。余談だが、次から次へ相手を取り替えている者は、当然ながらこの結晶化は起こらない。起こらないから彼(彼女)は人生の重要な場面で何事も大事なことを得られないことを暗示させる。(もっとも実人生はこういう単純なものでもないが) 若い時の恋愛とは、人生の情緒的な視界を得るという意味で言うなら、ニュートン力学ではないが、初期条件が決まれば人生の軌道や結果が決まってくるようなところがあるということである。人間の情緒性が開けるかどうかは初期の恋愛体験が大きく作用しているのではないかという私の思いである。(さりとて、さほど根拠はない。笑)

 要は、若い時の恋愛は二度と手にできない宝物をいきなり与えられたようなものだから非常に貴重なのである。大脳生理学的にも然るべき理由はあるだろうが、恋愛中は感性が研ぎ澄まされ、その人間の洞察力や知的鍛錬に重要な触発を与えていると考える。最も良いことは情緒性が深まることである。日本人の情緒性の究極とは「もののあはれ」である。世界最古の文学である「源氏物語」も相聞、つまりは恋愛が舞台になり、男女の愛が作者のインスピレーションを絶え間なく湧出させている。我々はともすれば恋愛を艶聞という方向で矮小化するきらいがあるが、若い時の純粋な恋愛は人生の喜怒哀楽を深め、芸術的な感性の幅を広げてくれることは確かに言えると思う。思い出してみるとわかるが、若い時代の純粋な恋は見る風景を輝かせ、未来への強い希望と悦びを期待させるものだ。そして、最初は成就する恋より成就しない恋の方がいいかもしれない。これは当事者同志にとっては残酷だが、あれほど恍惚感に耽溺した悦びの実体が失せると深い悲しみを味わう。そうなった時、妙な言い方だが、それまで平板に見えていた人生のコントラストが見えてくる。これも、もののあはれという日本人特有の情緒性を育む大切な感性の入り口になる。恋愛感情とは、それが熾烈であればあるほど「自分とは何者か?」という存在論的な問いかけに対面せざるを得なくなる。当然そこに答えはない。それでも、溢れ出る感情に押しつぶされそうになりながら、彼は熱病に浮かされたように自己探求をする。この情動、この精神の動きが後年の生活の質を決定すると思う。したがって、若い時分に結晶作用を深く経験することは、その人間の人生を強く左右することになると思う。だから若者にとって恋愛は人生教養の必須アイテムなのである。小泉政権が敷いた新自由主義の社会出力として、これが正常にできない恐ろしさが今目前に迫りつつある。一つ気がかりなことがある。それはITの進化、つまりはパソコンや携帯、モバイル等、情報機器の急速な発展によって、若者同志のコミュニケーションが効率と合理性に傾き、ある意味では昔に比べて恋愛は容易にしやすい状況にある。しかし、過剰な双方向的情報の氾濫は、逆に本来的な精神の結晶作用を阻害しているのではないのかという疑問が浮かぶ。このままでは「万葉集」の歌が理解できず、あの芳醇な精神世界を鑑賞できない日本人が育ってしまうような気がする。人間には一人で自然と向かい合う無為の時間が必要なのだ。特に日本人は。

 話が妙なところへ逸れてしまったが、これからの日本が国策で新自由主義を拡張する政策を続けていけば、間違いなく富の極端な偏在、つまり傾斜的不公平配分が生じ、日本社会は地獄の格差社会になる。それだけではない、国富を吸い取る目的だけの外資が跳梁跋扈し、日本の企業形態は、奴隷的な様相を帯びるだろう。その時、若者は恋愛が自由にできなくなる。これが国家にとってどれほど重大な損失を招くか考えると空恐ろしい。若い男が恋愛できない境遇に置かれると希望がなくなり、知的触発も、積極的モチベーションも縮退し、日本は国力が極端に低下するだろう。

 若い人に言いたいが、スタンダールの語る恋の「結晶作用」というのは非常に面白くて重要なことだ。男女の愛は時代を超えてある程度普遍性がある。したがってスタンダールの恋愛論は現代でも充分に参考になる。一度読んでみたらいかがだろうか。それにしても小野寺光一さんは鋭い。三角合併から若者の恋愛事情の逼迫までストレートに読み取った。私も恋愛に関しては小野寺さんの見解に賛同する。このままインチキな構造改革を進め、アメリカに魂を委ねた自民党に政権を運営させておくと、近い将来に若者はまともな収入も得られず、大切な恋愛もできなくなるだろう。


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2007年5月31日 (木)

西村眞悟氏、首相待望論(10)

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 文藝評論家の山崎行太郎氏が毒蛇山荘の読者に強く推薦している月刊誌がある。それは「月刊日本」だ。この雑誌は田舎の書店などではまずお目にかかることがないような発行部数のようだが、数冊読んでみて私はその内容の迫真性、文章の誠実さ、何物をも畏れぬ著者たちの凛然とした佇まいに感銘を受けた。この雑誌の編集方針は現代では数少ないサムライそのものだ。言い方を換えるなら、こんな面白い雑誌は滅多にないということだ。このような本物の雑誌に寄稿できる人たちはやりがいがあるだろう。

 「月刊日本」2007年1月号に、西村眞悟氏が「嗚呼、硫黄島」という題名で、硫黄島の激戦の内容と、そこで戦った先人たちの死に様を書いていた。私はこれを読んで、久々に感動で胸が熱くなった。クリント・イーストウッドが造った映画「硫黄島からの手紙」が当時話題になっていたこともあったが、西村氏はこの映画の着眼点とはまったく異なる視点で硫黄島の攻防戦の実相を捉えている。それは日本人の視点である。その中に感動的なエピソードが二つ紹介されていた。その一つをここに紹介する。硫黄島の真実が書かれた「常に諸氏の先頭にあり」(留守晴夫著 慧文社)という本の中で、西村氏が涙せずにはいられなかったのは次の箇所である。

 《 昭和二〇年二月十九日、アメリカ海兵隊三個師団、六万一千人が硫黄島に上陸した。待ち構えて迎撃する日本軍は二万一千人。まる三日間にわたる艦砲射撃と航空機による銃爆撃のあとの上陸であった。この艦砲射撃を見つめていたアメリカ兵は、爆弾が舞い上げた灰で島が見えなくなったので、島は粉々に吹き飛んでしまうのではないかと疑った。そして、ある兵は「俺達用の日本兵は残っているのかな」と戦友に尋ねた。

 しかし、二万一千人の日本兵は、栗林中将の指揮の下、一糸乱れず島の地下深く潜ってこの艦砲射撃に耐えていたのである。アメリカ軍は五日で島は陥落すると予想したが、戦闘は三月二十六日まで続く。日本軍死傷者一万一千人、アメリカ軍死傷二万八千人。星条旗を摺鉢山に掲げた六人のうち三名が戦死した。戦闘の最終段階の状況を、敵将スミスは次のように書いている。「明らかに栗林が指揮を取っていた。彼の個性は、その強靭な抵抗にはっきりと示されていた。・・・・硫黄島では弾劾から飛び降りて自殺する者は一人もいなかった。・・・栗林はアメリカ兵を一人残らず道連れにするつもりだった。」

 海軍司令部付仕官の松本巌は、暗闇の中を連帯の本部壕を目指して歩いているとき、中隊壕に入った。すると、腕や足をなくした百五十名ほどの兵隊がうずくまっていた。ある兵隊が、「水を呑ませてくれ、もう四日も何も口に入れていない」と言った。水筒を渡そうとすると、入り口の近くにいた下士官が叫んだ。

「海軍さん、やめろ」
「あと二時間もすれば、俺達は皆、火炎放射で焼き殺されてしまうんだ。死にかかった者に飲ます水があったら、その水をあんたが飲んで戦ってくれ。あんたは手も足もまだついている。我々のかたきをとってくれ。」

 そう訴える下士官も、左足首を吹き飛ばされていた。・・・松本は胸が張り裂けそうになったが、「手も足もついている俺には、これからでも水を探すことができるのだから」と言って水筒を与えて後ろ髪を引かれる思いで壕外に飛び出して・・・・・・連帯本部に着いた。程なくして、中隊壕の百五十数名が火炎放射器で全滅させられたという報告が届いた。 》

 西村氏はこの後に述懐している。我々はこのような、硫黄島で戦い抜いた将兵たちのことを忘れてはならない、特に政治家、さらに、内閣総理大臣以下は、片時も無名戦士のことを忘れてはならないと。また、西村氏を先鋭的な右翼政治家だと思い込んでいる一般の人には意外であろうが、聖書をよく読みこなしている西村氏は、イスラエルの政治家と兵士の例を引き合いに出して、我々日本人もマサダを忘れてはならないと語っている。

《マサダはイスラエルの東部砂漠のひし形の台地上にある古代遺跡の名。ヘブライ語で「要塞(ようさい)」の意味。エルサレムの南東約48kmにある。66~73年にローマ帝国の支配に抵抗したユダヤ反乱軍(熱心党)がたてこもった要塞宮殿遺跡である。要塞化された2つの宮殿は、前37~前31年ヘロデ大王によってたてられた。前4年のヘロデ大王の死後、ローマ軍が駐留し、ユダヤ反乱軍が奪回する後66年までつづいた。70年、エルサレムがローマ軍に占拠されたとき、女性や子供をふくむ最後までのこった反乱軍の約1000人が籠城(ろうじょう)した。指導者ベン・ヤイルのもと、ローマ軍の包囲に2年間余り抵抗したが、73年、ついに陥落、籠城した人々のほとんどは自殺した。》(ENCARTA98より)

 戦争時に大規模な玉砕や特攻死を遂げたのは歴史上、日本人だけではない。ドイツ人も特攻をした。そして、このマサダの玉砕は約二千年前に起きていた。この殉国行為を人数の違いで分けてはならないが、それであっても、我々の先人たちはこの何十倍、何百倍の規模で大玉砕を遂げている。イスラエルの人々は、二千年も前の千人(960人)の玉砕を、今日でも民族の最大の誇りとして胸に刻みつけ、子々孫々語り継ぐことを強く決意している。しかし、我々日本人はどうであろうか。語り継ぐどころか、国家を挙げてそのことを忌避しているようなところがある。真の歴史を忘れ、捻じ曲げて平然としてる。だから国民の魂が腐っていく。こんなただれた民族がどこにあるというのか?西村氏は言う。イスラエルの将兵と政治家の合言葉は、「マサダは二度と落ちない」だ。ならば、硫黄島は、このイスラエルにおけるマサダの丘と同様の精神性を称えた聖地である。よって、硫黄島で戦った戦士と共にあるという意識の有無は、時の我が国政治の格調を左右して国家運営に緊張感を与え、実に、現在と未来の我が国の運命に重大な影響を与える要素であると。

 どうだろうか。西村眞悟というお人が持つこの政治感覚。これこそ、今の日本人、そしてほとんどの為政者に欠落している重要な民族意識というべきではないのか。西村氏がよく多用する「歴史の背骨」という表現はまさにこれをさしているのだ。私が西村眞悟氏を日本国総理大臣に最も適していると考えるのは、彼のこの心情が本物だからだ。西村氏が国家を運営するトップになれば、同じ国家に住む同胞のことを第一義に考えて、真摯に提言する最も偉大なエコノミストである植草一秀氏のような人が、現在のようなむごい不名誉に落とされることは決してなかっただろう。

 西村氏はこの同じ「月刊日本」で、硫黄島におけるもう一つの重要なエピソードを紹介している。

 昭和20年3月26日、硫黄島において日本軍最後の反撃が行なわれた。栗林忠道中将、市丸利之助少将以下数百名の残存部隊がアメリカ軍に突撃、玉砕した。この時、アメリカ軍に検死されることを見越していた市丸利之助少将は、懐に一通の手紙を忍ばせていた。その手紙の題名は「ルーズベルトに与フル書」であった。この手紙で市丸少将は、大東亜戦争を戦った大義を説き、ヒトラーを倒すためにスターリンと握手したアメリカの節操のなさを非難している。西村氏は市丸少将が玉砕直前にしたためたこの「ルーズベルトに与フル書」全文を載せている。ここではそれを書かないが、日本の行く末を考える者なら、涙なくしては読めない当時の日本人の真情を書いている。私はこれを思想上の教科書にしたいと思っている。今の政治家の体たらくを見ていると、この日本には、一世紀にも満たない短い過去に、このような偉大な日本人がいたのかとつくづく驚かされる。皆さんも正しい歴史を知るために、是非お読みいただきたいと心より願う。この短い文面には東京裁判史観を根底から覆す力が込められていることを請け合う。玉砕寸前に、アメリカ大統領にこのような文を書く心構えを偲んでもらいたいと思う。これはてらいや、他のいい加減な感情ではけっして書けないのだ。だからこそ、この書は動かしがたい歴史の一つの真実である。死を決意して書くものの凄まじい迫真性と、人間存在のありのままがそのまま感じられる嘘偽りのない文章である。存在論的な人間のあり方から思いっきり乖離した戦後教育で育った我々が小賢しい解釈を施す余地はまったくない。涙で日本の真情を受け止めるしかないのだ。(生きているうちに読んでみてね!)

二千年前、ローマ総督ピラトは、イエスの罪を信じられなくて、ついにユダヤ人群集に言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」すると民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子供達の上にかかってもいい。」こうしてイエスは十字架にかけられた。(新約 マタイ 27章 24~27節参照)

 そして、ユダヤ人は西暦73年のマサダのできごとをけっして忘れない。いい意味でも、悪い意味でも、ユダヤの人々は自分たちの先祖が取った行動についてはしっかりと記憶している。なのに、なぜ日本人はわずか六十数年前のできごとから顔を背けているのだろうか。先人たちの真実の行動をしっかりと心に刻み付けないから、日本人は方向性と人間らしさを失うのだ。「美しい国へ」などと言いながら、教育バウチャー制度を採用するバカ宰相にだまされる。教育バウチャー制度ってのは、新自由主義の大御所であるミルトン・フリードマンが考えたものだ。この意味がおわかりだろうか。安倍晋三首相は、国家の財産である子供たちの育成に、アメリカの言うがままに市場原理主義を投入し、自身が唱える愛国の理念とはまったくかけ離れた人間性喪失の制度を取り入れようとしているからだ。我々は正常な意識を喪失しているのだ。その大きな理由は先人たちの殉国を忘却しているからだ。

 七年前、夜盗の類と何ら変わることのない売国奴・小泉純一郎を宰相にし、在野から出た売国エコノミスト竹中平蔵を重要なポストに付け、彼らの国家破壊作業に気が付かず、漫然とやるがままに任せてしまった国民のだらしなさは目に余る。そのおかげで日本は荒れ果てた不毛の荒野になってしまった。そして日本人独特の精神の沃野さえも忘却してしまった。硫黄島でマサダ以上の果敢な殉国戦を遂げた先人たちが、小泉に続く史上最大の悪政を見ていたらなんと思うだろうか。

 西村眞悟氏が硫黄島の本当の姿を知らせてくれた意義は大きい。このような実相は大手マスコミは絶対に取り上げない。彼らはアメリカの走狗に成り下がっているからだ。自分たちが生まれた祖国・日本がこれ以上奸智に長けた外国連中に蹂躙されたくないと思ったら、西村眞悟氏を日本国の宰相にするべきだ。あ、そうそう、大事なことを言い忘れていた。西村氏が寄稿したこの「嗚呼、硫黄島」の副題は「我が国の未来を拓くため、民族の叙事詩を回復せよ!」である。気が付かないだろうか?これこそが真の「美しい国家へ」の道標であることを!!!


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2007年5月23日 (水)

南出喜久治さんの「日本国憲法無効宣言」

 この間(5月18日)の東京地裁における第7回公判で、少々気がかりな
ことがある。

傍聴するために、私も含めて「検証する会」の面々やその関係者が少なか
らず並んだが、誰一人として抽選が当たらなかった。並んだ人の数はさま
ざまな事情から言いたくはないが、少なくとも2~3名は当たる目算をして
いたのだが。

 南出喜久治という弁護士さんがいて、この方は憲法学論で、思想的にも
私が非常に尊敬する人物の一人であり、一度お会いする機会を得たことも
ある。人間的にも素晴らしい方である。この方が下記のサイトで気になるこ
とを書いていた。

 http://www.meix-net.or.jp/~minsen/topic/kaizen.htm

 この中の内容を見ていただきたい。まさかとは思うのだが、東京地裁は
公判傍聴券の抽選で本当に公平な抽選を行なっているのだろうかという
疑念が少し湧いた。しかし、まさか、地裁の大御所がそんなことはしない
と思う。やるわけはない。もしやっていたら、この植草裁判が明らかに国
策捜査そのものであることを裏付けることになってしまうからだ。

 うん、・・そんなことはないだろう。・・多分・・・。

 ところで、南出喜久治氏は最近渡部昇一氏との対談本で、現行憲法廃
棄論を著している。護憲か改憲かなどと言う低次元の憲法論議に拘泥し
ないで、皆さんも、一回は現行憲法廃棄(無効)論を考えてみて欲しい。
私もそのうち現行憲法無効論に素人なりに挑戦してみたい気が大いにあ
る。私の場合は文明論的スタンスからである。植草さんの問題も煎じ詰
めれば戦後に押し付けられたアメリカの占領観念的憲法を遵守している
という地獄の下地があるからだ。


 著者 南出喜久治氏 、渡部昇一氏

 題名 「日本国憲法無効宣言」


  Photo_35


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2007年5月20日 (日)

ここまで堕ちた法廷を見よ!!!

  人間の尊厳を冒涜する「裁きの庭」
   植草一秀氏、第7回公判の感想



   日本の法廷はここまで品位を下げてしまったのか

 一昨日(5月18日)の第7回公判は、検証する会の関係者が傍聴券を求めて並んでいたが、前回よりは人数が少なかったが、私は2~3名は確実に当たるものと考えていた。 総勢137名のうち、傍聴資格者は27名であった。五人に一人は当たる率であるが、ものの見事に外れてしまった。

 ところで、こういう痴漢裁判において、27名という傍聴者数がどんな基準に基づいて算定されているのかわからないが、矢田部浩二氏の「お父さんはやってない」の傍聴事例では毎回50名くらいだったそうだ。27名という植草氏公判の場合はその半分くらいである。妙だとは思わないだろうか。矢田部氏は一般人であり、植草氏は著名なエコノミストである。矢田部氏には失礼だが、単純に関心を惹くという意味では、公的度合いは植草氏のほうが桁違いに大きい。なのに、なぜ公的度合いの高い植草氏の傍聴者数が半数くらいなのだろうか。裁判所は植草氏の迷惑条例違反の公判内容を強いて外へ知らせたくない何か理由があるのかと穿って考えたくもなる。だから、裁判所は傍聴人数の増員を検討して欲しいと思う。

 それにしても検察は何を企んでいるのだろうか。Livedoorニュースなどの報道を見ると、5月18日の公判で、検察は事件とは無関係な被告の性生活に関するデテールを、公衆の面前で露骨に暴露していたようだ。もし、これらに書かれていることが正確な公判記録に基づいているとするなら、検察のやり方は明らかに品格と人倫を欠いている。今までの植草氏に関するマスコミ報道は偏向している場合が大半だが、今回の検察尋問の意図はあまりにも異常である。一般論で言っても、他人がある特定の個人に対する性的な嗜好を事細かに大衆の前で暴露することは、単なる悪趣味の段階を超えて、あからさまな人権侵害である。しかもこのような種類の尋問は検察庁の威信と品位を著しく地に堕とす所業である。

 たとえば、夫婦の閨房生活やカップル同士の性的嗜好は、あくまでも私的領域の話である。検察官といえどもそのことを公的な場所で暴露する権利はないはずだ。植草氏の性的嗜癖は、夫婦やカップル同士とは違うが、そのことは今の論点ではない。論点は、性的嗜好が即犯罪的行為に直結するかどうかという話である。もし植草氏をそういう嗜好が暴露されたことで責め立てるならば、責められる有名人は枚挙に暇がないだろう。だいたいにして、われわれ一般人でさえ、男女問わずに自分の性的行為を他者に暴かれたら人権蹂躙である。それは有罪が確定していない審理中の被告も同じである。また、有名人であるがゆえに、そういう誘惑の機会は一般人よりもはるかに多くなるが、そういうことは、迷惑条例違反の件と何の因果関係も持たない。というか、公私の峻別が社会ルールで保たれているからこそ秩序が成り立つというおおもとの原則があり、今の場合、犯罪とは無関係な趣味嗜好を、権威のある検察官が自ら暴いてどうするのかと思う。

  今になって、植草氏の性的嗜好を持ち出すことに何の意味があるだろうか。むしろ、そのことによって、私は検察側公判戦略の手詰まりを強く感じている。彼らは当初、目撃証人を出せば比較的簡単に、早期のうちに推定有罪に持って行けると踏んだ。ところが第二回公判の目撃証言者は「私服の男性」と言ったり、その他の証言でさまざまな不整合な証言が目立ち、ネットを中心に国策捜査論を惹起した。つまり、植草氏は嵌められたのではないのかという論調が澎湃と沸き起こってきた。これを脅威と感じた検察は、第三回公判で、蒲田署の巡査部長や、繊維鑑定をした科捜研の職員を証言させたが、この巡査部長の証言もまた時間的な疑念を浮き立たせてしまうという、いわば国策捜査を思わせる内容であった。

 植草氏の手鏡事件と、京急電車・痴漢事件を「でっちあげ」と言っている人もいるようだが、もう一歩踏み込んで言うなら、これは小泉官邸主導型前政権の中枢に直結した国策捜査の疑いが濃厚である。この裁判の流れ(行程)そのものを冷静に見れば、本件の背景に国策捜査の存在が浮かび上がってくる。妙ではないか。京急痴漢事件では、肝心の被害者の女子高生が一度も法廷に登場せず、彼女の証言さえも公の場に出てこない。しかも公判に出てくる証言者登場の優先順位が滅茶苦茶である。重要なことは最初に被害者の女子高生が出て被害状況を克明に述べ、それに基づいて、逮捕者、周囲の目撃者が出てくるのが順当だ。しかし、実際には最初に出てきたのは事件当日ではなく、後から名乗り出た目撃証言者である。この証言者は図体が大きくかなり頑健な人であるが、事件を目の当たりに見ながらも、植草氏の痴漢行為をまったく制止もせずに、ただ傍観していただけだった。(痴漢という現象自体が生起していないわけだから制止できるはずもないのだが・・)

 彼はうっかり「私服の男性」という致命的な発言も吐出したりして、ネットで、これは警察が絡んだ国策捜査ではないのかという噂が瞬時に飛び交った。第五回公判では、弁護側が請求し、私人逮捕権を行使した二人の一般人のうちの一人が法廷に出されたが、慌てた検察側は、おそらく当初予定には入ってはいなかったであろうこの証人を、急場しのぎで尋問したに違いない。その結果、この人物の証言内容と、第二回公判に出た目撃証言者の説明はかなり食い違っていることが判明した。Kと称するこの私人逮捕者の証言録をつぶさに見ると、目撃証言者の語った車内状況とはそうとうに異なる結果が出ている。こういう証言者同士の内容乖離は、当初、検察が意図していなかった方向にこの裁判が進行したことを物語っている。最初に検察(あるいは裁判官)が意図した方向性とは何か。それこそが、今までの痴漢事件に多用され、慣習化された推定有罪という早期結審である。

 ところが、支援派、擁護派が目撃証言者の不自然さをネットで書いたために、裁判所と検察の目論見どおりの早期推定有罪という結審の方向は費えた。しかし、検察側が新たな証言者を出せば出すほど、電車内の状況説明の食い違いや乖離が目立ち始め、彼らは結審方向に対して収拾が付かなくなってきたのである。このために検察側は、5月18日、植草氏本人への尋問に、イタチの最後っ屁よろしく、最も愚かな方法を取ったのである。それが植草氏個人の性的趣味の詳細な暴露である。明らかにこの方法は、検察主導で公序良俗に違反しているのだ。ここにはいったい、検察による猟奇趣味的な視点以外のなにがあるのか。このようなことは日本の司法の恥である。

 私がもっと強調的に言いたいのは、このような人倫感覚を欠損した検察の尋問主旨を、裁判官が許容し、審理を遂行したことにある。法廷の品位と尊厳を保持する責務を持つ裁判官が、このような下劣で猟奇趣味的な尋問を許す道理がどこにあるというのか。国民は裁判官の裁定感性に大きな疑問を持つだろう。検察側も馬鹿ではないから、植草氏の性的な趣向を逐次ばらすことには忸怩たる思いもあったはずだ。だが、あえてそれを遂行した裏には明らかな目的がある。それこそが、ネットや大衆スポーツ紙を使った植草氏の性癖イメージの固定化なのである。検察が恣意的に植草氏の性的嗜癖を暴露したために、大衆紙はそれを面白おかしく強調的に報道し、典型的な印象操作を行なったのである。

 そもそも「国策捜査」なるやり方が、狙う人物による政治的な発言を封鎖することにあるわけだから、仕掛ける側は権力を使ってマスコミを掌握し、一方的な報道を行なって、狙った個人や団体の名誉を致命的なまでに剥奪することが目的である。公判戦略で当初の目論見が外れ、もはや打つ手のなくなった検察が証言者による正当な公判手段を放棄し、マスコミを使って、徹底的に植草氏個人の名誉を奪う暴挙に出たというのが今回の公判なのであろう。言いたいことは、明らかに裁判所もこの動きに加担したということだ。国民はそこを重視する必要がある。

 窮余の策として検察がとった手法、すなわち、今回公判における植草氏の個人的な性的嗜好の暴露は、以前、竹中平蔵氏や世耕弘成氏が、郵政民営化時の総選挙で、マスコミ戦略に使った手法とまったく同じであり、植草氏の性の趣味をばらすことによって、あまりものを考えず、表面的な報道を鵜呑みにする、いわゆるB層をターゲットにしていることは明らかである。日本国民のメディア・リテラシーを持たない層を狙って行なった国策捜査の仕上げなのであろう。それにしても何というお粗末な仕上げであろうか。結果として何が裁判史上に記録されたかと言えば、検察と裁判所の下劣さが白日の下に晒されたということだけであろう。

 ここまで、裁きの庭の権威が堕ちているとは夢にも思わなかったというところである。私は何もむずかしいことは言っていない。今回の公判のやり方に、検察、裁判官も含めて、植草氏の品位を貶める目的だけの審理が行なわれたことは歴然たる事実である。考えてもみてもらいたい。東京都の迷惑条例違反という軽微な事件を扱っているところに、検察が自らの品位を汚してまで植草氏のプライベートな趣味を暴き出し、それを裁判官が制止もせずに遂行させている現実を。皆さんにはこの異常さがおわかりだろうか。この法廷の異常な展開にこそ、植草氏を有罪にしようとする確固たる何者かの意志を感じ取るだろう。この意志こそが、植草氏が国策捜査という罠に嵌められている事実を端的に物語っているのだ。

 国民はこの現実を看過せずにしっかりと監視して欲しい。こんな法廷を許していたら、明日はわが身なのだ。日本の修復すべき悪い現実がここにある。


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2007年5月19日 (土)

通行者さんのコメントです

今回も長講釈ですみません。内容は前回の投稿と対になるものです。

まず朝日新聞の4月29日の社説を引用してみます。

「首相が謝罪すべきは元慰安婦に対してではないのか。首相はかつて河野談話に反発し、被害者に配慮ある発言をしてきたとは言い難い。国内で批判されても意に介さないのに、米国で紛糾すると直ちに謝罪する。何としたことか。
 問題が大きくなったきっかけは『当初定義されていた強制性を裏付ける証拠がなかった』という首相の発言だった。日本としての責任を逃れようとしているものと、海外では受け止められた。
 米議会では、慰安婦問題で日本に公式謝罪を求める決議をする動きがあり、これに弾みを与えた。メディアも『拉致で国際的支援を求めるならば、日本の犯した罪を率直に認めるべきだ』(ワシントン・ポスト紙)と厳しかった。米政府内にも首相の見識を問う声が出た。
 慰安婦は、単なる歴史的事実の問題ではない。国際社会では、女性の尊厳をめぐる人権問題であり、日本がその過去にどう向き合うかという現代の課題と考えられているのである。 」

従軍慰安婦問題に対する朝日新聞の報道姿勢はここでは措いて、この記事を予備知識を持たずに読んだ人は正しいことが書かれていると思うのではないでしょうか。
人権問題を軽視する政府を批判する。記事を読む限りでは朝日新聞の主張は正しいように感じます。しかしこの種の論調を正しいと思うことには重大な問題が潜んでいると思います。その理由は、対象とされる問題がたとえ虚偽の事象に基づくものであっても、人権という概念を掲げてその問題の正当性を主張すれば、その事象が事実であるかのような印象を与えることができるからです。

これを従軍慰安婦問題に当てはめて説明すれば、軍や国家機関による強制連行を示す資料は存在しなかったという検証結果が出ていても、女性の人権を声高に主張することによって日本が悪いのだという印象を与え事実はどうであるかを無視し、その結果、嘘を事実と言いくるめることができるということです。実際、上記に引用した社説の「慰安婦は、単なる歴史的事実の問題ではない。国際社会では、女性の尊厳をめぐる人権問題であり、日本がその過去にどう向き合うかという現代の課題と考えられているのである」というくだりには人権の前では事実は軽視してもよいという意味合いが感じられます。

ここに東京裁判史観を乗り越える上での最後の関門となる問題があると思います。当時の世界情勢を無視して、歴史の全体の事象から、その一面を切り取って現代の人権概念に照らし合わせて批判すれば、戦前の歴史にいくらでも否定的な印象を与えることができるからです。そして日本の周辺には、中共と南北朝鮮という反日を国是とする上に、自国の利益のためには相手の名誉を汚す嘘でも平気で世界中に吹聴する国があります。また日本には彼らの追従をするマスコミが数多くあるのは周知の通りです。

さらに、人権は西洋思想から生まれた概念ですから、人権概念を普遍的と信じることは、その概念を生み出した西洋の政治思想とその思想によって構築された政治制度も普遍的と信じていることになります。それでは東京裁判史観やアメリカを信じなくなったとしても、日本人の意識は、西洋文明中心の価値観、西洋の普遍主義に囚われたままであり続けることになります。
西洋文明のあり方だけを普遍的と捉えている限り、今回の米下院の慰安婦決議案問題のように、アメリカが中共、朝鮮の反日プロパガンダを採り上げて、前述の人権概念を前面に出して嘘を事実と言いくるめるやり方で日本を非難してきた場合は、それを反論することは困難です。
アメリカは、日本人が東京裁判の洗脳からだいぶ解けつつある現状で、これからも日本を永久に敗戦国としておくために、今回の慰安婦決議案問題に見られた手口を使用してくる可能性は十分にあります。
何より物事の判断基準を他者の価値観に委ねていては、主体性は生まれてこないでしょう。
日本人は自分達の視点で西洋文明を批判する局面に迫られているのではないでしょうか。

これから西洋近代思想について私なりに検証してみます。
近代政治思想の基礎を確立した思想家達の宗教に関する記述、またはそれに関連する記述を引用します。

「国家と宗教の本当のすがたは、国家の原理と宗教の原理が統一されるところにあって、プロテスタントの国家ではそうなっています。
 抽象化していうと、プロテスタントの精神の原理は、主観的精神の内面の自由にあって、人間の精神は自由であること、といいあらわされる。いかなる権威も存在しないのが当然だと考えるとき、人間の精神は自由たりうる、ということです。精神は人間の心のなかに住むべきもので、そこで意志と意識をもって生きていかねばならない。それは国家の原理でもあって、人間が自由に生活し、行動すべく、人間の自由を実現したものが、すなわち国家なのです。
 だから、宗教は国家と同じものを究極の原理とし、二つは同じ源泉から流れでたものです。プロテスタントの宗教には平信徒なるものが存在せず、すべての人が、自分のうちに聖霊が宿る、という信念をよりどころとしている。この原理が、プロテスタント教会と国家とをこの上なく内面的につなぐものです。プロテスタント国家は世俗の国家ですが、現実に自由が存在する、という世俗の原理は、同時に、プロテスタント宗教の原理でもあるのです。
 こうした統一の存在することは重要なことです。ラテン民族のカトリック国家は、フランスも、スペインも、ポルトガルも、ナポリも、ピエモンテも、アイルランドも、すべてが三十年来、革命を経験しています。カトリック国家における分裂は、いまに至るも解消されず、革命は終了したが、対立の根は残っています。それにたいして、プロテスタント国家では、内奥の原理たる宗教的原理と現実世界の原理とが同一であるから、法律、制度、習慣がまったく宗教的であるか、宗教と本質的にちがわないものであるかのいずれかで、その点では、カトリック国家よりもすぐれた、真に神々しい体制といえます。」(G.W.F.ヘーゲル『法哲学講義』作品社 3.3,A)

「しかし、コモンウェルスについて考えたばあいに、それは単一の人格であるから、やはり神にたいしても、単一の崇拝を示すべきである。それはコモンウェルスが私的人間に、公共的に崇拝するよう命ずるときに示される。それが公共的な崇拝であり、その特徴は『統一的』な点にある。すなわち各人各様の崇拝を公共的なそれということはできない。したがって、私的人間のさまざまな宗教から生じる多くの種類の崇拝が許されるところには、公共的な崇拝は存在せず、また、そのようなコモンウェルスはまったく宗教を持ってはいないのである。」(トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』 2.31)

「人々がその意志を持とうと持つまいと、彼らはつねに神の権力に服従しなければならない。神の存在、あるいは摂理を否定することによって、人々はみずからの安楽を振りはらうことはできても、軛をはずすことはできない。しかし、人間だけではなく、動物にも植物にも、生命のないものにまで及んでいるこの神の力を、王国の名で呼ぶのは、たんにことばの比喩的用法にすぎない。なぜなら、みずからのことばによって、また、服従する者には報酬を約束し、服従しない者には処罰をもって威嚇することによって、臣民を統治する者のみが、支配していると正当にいうことができるからである。
 したがって、神の王国における臣民は、生命のない物体でも、非理性的な生物でもありえない。なぜなら、これらのものはいかなる戒律をも神のものとして理解しないからである。また、無神論者、あるいは人類の諸行為にたいする神の配慮を信じない人々も、臣民ではありえない。なぜなら、彼らはいかなることばをも神のものとして認めず、神の報酬を望まず、神の威嚇を恐れることもないからである。したがって、世界を支配し、また人類に戒律を与え、報酬と処罰をたまわった神の存在を信ずる者だけが、神の臣民であり、他はすべて敵として解されるべきである。」(ホッブズ『リヴァイアサン』 2.31)

「それゆえ、すべてを見、そして処理される神は、人間がその思うところを行なう『自由』は神の意志に従って行なう『必然性』を伴っており、それ以上でも以下でもないことを見ておられる。なぜかといえば、人間は神が命じたことでもなく、また神がその行為の本人でもないことを数多く行っているかのようであるが、じつは神の意志から生ずる欲求以外には、何ものにたいしても情念も欲求も持つことはできない。もし神の意志が、人間の意志の『必然性』を、したがって、人間の意志にもとづくすべてのことの『必然性』を、保証してくれなければ、人間の『自由』は、神の全能と『自由』に矛盾し、その障害となるであろう。」(ホッブズ『リヴァイアサン』 2.21)

「政治的権力を正しく理解し、それが拠ってきたところをたずねるためには、すべての人が自然の姿でどのような状態にあるかを考察しなければならない。すなわちそれは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。
 それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人より多くもつ者は一人もいない。なぜなら、同じ種、同じ等級の被造物は、分けへだてなく生をうけ、自然の恵みをひとしく享受し、同じ能力を行使するのだから、すべての被造物の主であり支配者である神がその意志を判然と表明して、だれかを他の者の上に置き、明快な命令によって疑いえない支配権と主権を与えるのでないかぎり、すべての者が相互に平等であって、従属や服従はありえないということは何よりも明瞭だからである。」(ジョン・ロック『統治論』 第2章)

「この社会契約のあらゆる条項は、よく理解されるならば、ただ一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すということである。それはなぜかというと、まず第一に各人はいっさいを譲り渡すので、万人にとって条件は平等となるからであり、条件が万人に平等であるなら、だれも他人の条件の負担を重くすることに関心をいだかないからである。
 さらにこの譲渡が無条件に行なわれるならば、結合はこのうえもなく完全に行なわれ、構成員は要求すべきものをもたない。なぜなら、もし数人の個人に多少の権利が保留されるとすれば、この個人と公衆のあいだを裁きうる共通の上位者はいないだろうから、各人はある点について自分自身の判定者なので、やがてはあらゆる点について、判定者たることを主張するようになるからである。そうすれば、やはり自然状態は存続していくだろうし、結合は必然的に専制的になるか、無力になるか、いずれかであろう。」(ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』 1.6)

「神がそれによって人間を支配し、また神の法を破る者を処罰する自然の権利は、神が人間を創造したことに起因し、彼らに与えた恩恵にたいする報恩として人間に服従を要求するといったものではなく、神の『逆らいえぬ力』に起因する。
……すべての人は本来すべてのものにたいして権利を有していたのであるから、彼らはそれぞれ他のすべての人間を支配する権利を有していた。しかし、この権利は力によっては達成されえなかったので、これを放棄し、彼らを支配し防衛する〔主権者としての権限を持つ〕人たちを、共通の同意により樹立することが、各人の安全のためであった。これにたいして、もしも逆らいえぬ力を持つ人があったならば、彼がみずからの判断に従って、その力によって支配し、自分自身と彼らをともに防衛しないいわれはなかったのである。
 それゆえ、逆らいえぬ力を持つ者には、万人を支配することがその力の優越性によって自然に備わっている。したがって人間を支配する王国、また人々を意のままに苦しめうる権利は、この力の当然の結果として、創造者あるいは恵み深き者としてではなく、全能者としての万能の神に本来属している。また処罰ということばは、罪に対する苦しめと解されるから、それは本来、罪に対してのみ課されるはずのものであるが、しかし、苦しめうる権利は必ずしも人間の罪からではなく、神の力にも由来するのである。」(トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』 2.31)
自然状態-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%8A%B6%E6%85%8B

上記に引用したように、近代政治制度の根底にはキリスト教プロテスタントの神学観があります。イギリスの権利章典には信仰に関する規定があります。

「また、カトリック教の君主またはカトリック教徒を配偶者とする国王もしくは女王によって統治されることは、この新教国の安全と福祉に反するということが、経験によって明らかにされたので、前記の僧俗の貴族および庶民は、さらにつぎのように定められるよう懇請する。すなわち、教皇庁またはローマ教会と融和し、もしくは霊的交渉を有する者、カトリック教の信仰を表明する者、またはカトリック教徒を配偶者とする者は、一人残らず全部、わが王国およびアイルランド、ならびにそれに属する諸領地、またはそのいかなる部分に対しても、王冠および政権を継承し、占有し、享受すること、または王としての権力、権威、裁判権を所有し、使用し、行使すること、から排除され、かつ永遠にその能力なきものとされること。このような場合には、どの場合でもいつも、これら諸王国の人民は、これによって忠誠の義務を免除されること。前記のように〔教皇庁と〕融和し、もしくは霊的交渉を有し、〔カトリック教を〕信仰を表明し、または〔カトリック教徒を〕配偶者とする者が、〔すでに〕死亡している場合には、前記の王冠および政権は、本来それを承継し享受すべき人で新教徒の者が、世々継承し享受すべきものとすること、以上である。」(権利章典 9条)

「(今後、いつであっても、わが国の王位に登り、またこれを継承する)わが王国の国王または女王は、すべて――その即位ののち最初に開かれる国会の会合の初日に、貴族院の玉座に坐し、そこに集合した貴族および庶民の面前において、または戴冠式のさいに、国王または女王に戴冠式の宣誓をなさしめる人の面前において――(その最初の)宣誓をなすときに、チャールズ二世治世第一三年に作られた『ローマ旧教徒から国会の両院に議席をもつ能力を奪うことにより、玉体と政冶をさらに効果的に保存するための法律』という表題の法律に記された宣言を行い、これに署名し、かつ聞き取れるように〔口頭で〕くり返さねばならない。しかし、もしこの国王または女王がわが国の王冠を継承する際に十二歳未満である場合には、このような国王または女王は、戴冠式または最初の国会の会合の初日になさるべき前記の宣言を、十二歳に達したのち、最初のこのような機会において前述のようにして行い、これに署名し、かつ聞き取れるように〔口頭で〕くり返さねばならない。」(権利章典 10条)
権利章典(全文)
http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/billofr.htm

日本人が近代民主主義に対して抱いている一番の誤解は、それが無条件あるいは個人の資質如何で成立すると考えていることでしょう。西洋の近代民主主義には構造的制約があり、その人権はキリスト教プロテスタント(のカルヴァン主義)的信仰の下で保障されるものです。
ピューリタン-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3

自由、平等、個の確立といった西洋近代思想の外面的な謳い文句だけを見て、近代政治思想の原点にある、共同体の秩序を維持するための(プロテスタントの)神学的前提に気付かずに、人権の名の下に自分の欲望だけを追い求めることを正当化すれば、共同体の秩序は荒廃して、その結果、次第に文化の前提となる、民族が古代から保持してきた世界観が喪失してしまいます。そうなればその国は独自に国を運営する価値基準の根拠を喪失し、そのため、社会を形成する規範として、イギリスの国家モデルとそれを基盤として作られた経済学を宗教とすることでしか国が成り立たなくなるのです。それは結局、国全体が英米に依存しなければならなくなるということです。程度の違いはあるでしょうが、これは日本だけの問題ではないでしょう。現にカール・マルクスの経済理論は社会主義国家の政治を支配してきました。
これらのことからもたらされるものは、人間の連帯が崩壊し人間が金銭によって完全に支配される世界です。現在の日本を見れば、それは決して法螺話とは言えないことが分かると思います。経済学に国の命運まで支配された国家がどうなるかは社会主義国家の歴史が物語っています。

西洋の人権とは、普遍的な個の確立という謳い文句の裏で、共同体を分裂させ、民族がそれまで保持してきた世界観を破壊し、結果として英米中心のシステムに服従するしかなくさせる空虚な観念です。
個人に必要なのはその個人が属する民族が古代から受け継いできた世界観と、その世界観を守るための倫理だと私は考えています。

投稿 通行者 | 2007年5月18日 (金) 15時45分


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2007年5月18日 (金)

残念ながら、今日の第7回公判録は取れませんでした

 本日の公判は、検証する会の関係者がすべて抽選券に外れて
しまい、傍聴記、及び速記録を得ることができませんでした。予想
外のことで、まことに残念です。

 本日は検察側からの被告人質問と裁判官からの補充質問であり、
午後2時15分頃には閉廷しました。

次回は6月18日、午後1時15分から4時までで、弁護側申請の新し
い目撃者の証人尋問
と被告人質問の補充だそうです。


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2007年5月14日 (月)

フジテレビが「吉野家」礼賛

 フジテレビもここまで落ちたのか
フジテレビが吉野家礼賛、そこには米国の影が

 日曜日のフジテレビ系10:00からの報道番組「新報道プレミアA」で、牛丼チェーン吉野家の話を感動秘話風に取り上げていたのには驚いた。以前、バブル崩壊後の景気低迷で負債を抱えた吉野家が、いかにして復活したのかを、NHKの「プロジェクトX」風に感動物語に仕立てて報道したことには呆れてしまった。

 吉野家の牛肉がもともとアメリカ産輸入牛肉なのは周知の事実である。米国産牛肉は、米国内でのBSE発生を受け、2003年12月に日本が輸入を停止していた。内閣府・食品安全委員会は、輸入再開のリスクを検証し、脳や脊髄(せきずい)などの特定危険部位の除去や、生後20か月以下の牛に限ることを条件に、2年ぶりの再開を決め再輸入を行なった。ところが、輸入再開後、すぐに成田の検疫で特定危険部位の背骨が混入した牛肉が見つかった。日本政府は即座に米国産牛肉の輸入を禁止した。

 ところが、アメリカは日本の安全基準が厳しすぎるとして難癖を付け、このまま輸入禁止を続けると、報復措置として、かつてのスーパー301条のように日本からの輸入関税を引き上げると脅した。こういう強制的な圧力に屈して日本政府はしぶしぶ輸入禁止を解くことになった。こういう経緯を国民は知っているはずである。つまり、日本人の感覚から言うと、米国牛肉はまったく安全とはいえない状況で輸入が再再開されているのである。

 こういうさなかにあって、フジテレビはBSE問題が依然として未解決なことを棚に上げ、アメリカ産牛肉を使用する吉野家の復興美談を臆面もなく放送したのである。これが公器と言われるテレビのやることだろうか。おそらくフジテレビの目的は吉野家の復興物語の感動秘話ではなく、吉野家を大々的に取り上げることによって、アメリカ産牛肉の消費を促す魂胆でなのである。ここまで露骨に吉野家のヨイショ番組を報道した背景には、明らかにアメリカの梃子押しが働いているとみて間違いないだろう。いまや、日本の巨大報道機関はアメリカの代弁者に成り果てている。公器であるテレビ局が、一企業である吉野家を、特別にニュース番組で肯定的に取り上げることは報道の公平性に反している。それよりももっと悪質なことは、国民の安全のためにBSE問題を追及するべきテレビが、それを無視して、BSEの火種を抱える米国産牛肉の消費を歓迎するかのような報道を行なったことである。これは二つの意味で確信犯的に悪質な報道である。一つは、公器であるべきテレビ局が特定企業の宣伝を行なったこと。もう一つは、BSE問題という国民の生命と健康を害する食品に深く関わるテーマを故意に無視して、アメリカ産牛肉の消費キャンペーンになっていることだ。

 心ある人たちは私の言うことに賛同してくれるだろう。しかし、こういうことをされておとなしく黙っている日本人は、まるでオーウェルの「動物農場(アニマル・ファーム)」そのものではないか。日本はここまでひどい状態になっている。


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2007年5月 9日 (水)

「改革にダマされるな!」は必読の書!

Photo_34   


 関岡英之氏と和田秀樹氏の共著「改革にダマされるな!」が発売された。関岡氏は2004年に、年次改革要望書の真実を喝破した突破的な書物をすでに上梓している。この画期的な内容の「拒否できない日本」は、小泉構造改革やプラザ合意以降の日米関係に、隷従的性格をきちんと見抜いて憂慮している各界の人々には少なからぬ衝撃を与えいる。この本の衝撃的な部分は、アメリカ大使館のHPで堂々と公開されていたにもかかわらず、日本の政府やマスコミはけっして取り上げずに秘匿状態に置いてきた。

 関岡氏の画期的な功績は、「年次改革要望書」がアメリカによる片務的強制性を持つことを白日の下に晒したことにある。郵政民営化法案が可決される前、自民党や民主党の良心的な政治家が、この本の趣旨に沿って国会で年次改革要望書の存在を問いかけている。当時、小泉首相は一貫してとぼけていたし、竹中平蔵は一旦は認めたものの、あとで知らないとシラを切っている。

 今回の和田氏との共著である「改革にダマされるな!」は、「拒否できない日本」の内容を拡大、深化した非常に興味深い記述に満ち溢れている。皆さんも是非読んでみて欲しい。最近の日本が置かれている深刻な状況を、二人の俊英がさまざまな確度から切り込んでいて、非常にわかりやすく書いている。グローバル・スタンダードを布石してアメリカを利するだけの構造改革のインチキ性と反国益的性格を余すところなく説明しきっている。この売国的な構造改革が、日本人の安心、健康、安全、教育、などを根底から脅かしている真実をこの本は暴いている。和田秀樹氏も舌鋒鋭く構造改革の非道性と反国益的性格を指摘している。章分けは以下の通りである。

 第一章  「改革」が日本人の「安心」を奪う

 第二章  「改革」が日本人の「健康」を侵す

  第三章  「改革」が日本人の「安全」を脅かす

 第四章  「改革」が日本人の「教育」を蝕む

  第五章  「改革」を封印せよ
        今こそ信念のあるリーダーが求められている

 第五章には対抗策と解決への提案が書かれており、その中でも和田氏の「自国のエリートは自国でつくる」は、原田武夫氏著「タイゾー化する子供たち」で訴える国家エリート育成の急務性と共通しており、実にためになる。また、関岡氏は最後の方の「ほのかに垣間見えた、ひと筋の光明」で、自民党の良心的な政治家である小泉龍司氏や城内実氏の立派な行動を説明し、少数ではあるが彼らがいることに一縷の希望の光を見出している。

 植草一秀氏が嵌められた国策的背景を知るためにも「改革にダマされるな!」は必読の書である。神州の泉が一押しで薦める本である。


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2007年5月 3日 (木)

ベンジャミン・フルフォード氏著「暴かれた闇の支配者の正体」

 ベンジャミン・フルフォード氏の新しい本が4月28日に発売された。題名は「暴かれた〔闇の支配者〕の正体」である。

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 この著書では相当数のページに植草一秀氏の国策捜査について言及されている。彼が言う植草事件の国策捜査の背景の説明は、私が神州の泉で語ってきたそれについての内容とかなり論調が同じになっている。同じ視点を持っているからそれは当然と言えば当然だろう。しかし、さすがにフルフォードさんである。彼の語り口は手馴れているせいか、非常に読みやすく理解がしやすい。 前半部第一章は、国富収奪の背景について説明があるが、その中で大半の部分を、植草氏が嵌められた国策的背景に言及している。また、章末には植草氏と著者との対談が載せられている。植草氏の無罪論に興味のある方や植草事件の政治的な背景をよく知りたいと思っている方々には必読の書である。フルフォード氏は私も寄稿している「植草事件の真実」という本もこの中で紹介している。

  第二章は「アメリカに翻弄されるメディアと政治家」、日本を売る国内エージェントの政治家の存在や、アメリカ支配に抗った政治家たちの末路などが説明されている。また清和会と経世会の暗闘やロッキード事件のことなど、戦後日本の暗部が語られている。

 第三章は「世界を牛耳る支配の構図」、第四章は「日本人よ、目を覚ませ」が書かれていてこれこそが著者のライフワークの真骨頂だろう。読後感は一貫して世界を支配する闇の侵攻が描かれており、その中で日本がその渦に巻き込まれ、植草氏などの良心的な識者が毒牙にかけられたことを説明している。日米関係とは一言で言っても、例えば自然災害の惨禍でアメリカの格差社会を浮き彫りにしたニューオリンズで、被災した人たちと、いわゆるアメリカの一握りの奥の院と言われるエスタブリッシュメントの存在を同列で見るわけには行かないだろう。フルフォードさんのユニークな視点は、アメリカの一般市民もアメリカの少数権力者の犠牲になっていて、現在は18世紀ヨーロッパの格差社会に歴史のねじが巻き戻されていると言っていることである。この本はリチャード・コシミズさんの「世界の闇を語る父と子の会話集」と併せて読むことをお勧めする。

 しかし、「暴かれた闇の支配者の正体」の植草氏について言及している箇所で、植草事件国策捜査論を検証している私としては、著者の看過できない間違いを一ヶ所指摘しておく必要がある。それは、第一章54ページに書かれている「植草氏を襲った国策捜査」の真ん中辺に書かれている記述である。

 実は植草氏は、1998年にも電車の中での痴漢で罰金刑を受けている。「植草は痴漢の常習犯」というイメージを作り上げるためマスコミで盛んに報道された事件だが、事の真相はこうだ。

 この中で、「マスコミで盛んに報道された事件だが」と書いているのは著者の思い違いである。98年の東海道線車両内の一件は、2004年4月8日の品川駅手鏡事件の公判内で初めて明らかにされたものである。従って、98年の一件は、当時、世間に広報されていないはずである。植草氏が「ミラーマン」などと言われ、マスコミや週刊誌等に大々的に、かつ嘲笑的に取り沙汰されたのは品川手鏡事件以降のことだ。

 しかし、フルフォードさんのこの本は植草事件の冤罪派、国策捜査派、あるいはそれらのアンチ派にとっては必読の書である。是非読み通してほしい。  


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リチャード・コシミズ氏著「世界の闇を語る父と子の会話集」発売

リチャード・コシミズ氏著「世界の闇を語る父と子の会話集」発売!!

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 5月1日、ついに恐れていた三角合併が解禁されてしまった。マスコミはこのことについてまったく沈黙している。このまま放置すれば、大切な国民資産は根こそぎ奪われていくだろう。アメリカの軍事的傘下に入り、属国憲法を放置したまま、世紀以上も温室的な狭い部屋に閉じこもった日本は、庇護者であったはずのアメリカが片手にミルク瓶を持って子守唄を歌いながら、丸々と肥えた日本という無垢な赤ん坊を食い殺そうとしていることに気が付かない。

 米国を庇護者と位置づけ、温室の中で思考停止しながら、獰猛な国際世界の真相から目を逸らし続けた日本人は、最も親愛なるパパが、実は日本を食い尽くす獰猛な肉食獣であったことをいまだに認識していない。ここまで深い眠りに陥った日本人は、警醒の叫びには耳を貸さず、北朝鮮のミサイルや中国のミサイルが本土を攻撃し、多くの死傷者が出るような悪夢の事態に遭遇しなければ、もはや目覚めることはないかもしれない。

 しかし、たとえそうであっても、リチャード・コシミズさんは日本が置かれている真相を知っておくのと知らないのとでは、これから日本人がサバイバルしていく上で、雲泥の差が生じてくるという姿勢なのである。そこで彼は「世界の闇を語る父と子の会話集」を世に出して問いかけようとしている。彼の考察する背景も、エコノミストの植草一秀氏が嵌められた背景を強く示唆しているのだ。是非ともこの新刊本を読んで欲しい。

 本書はネット販売のほか、全国の紀伊国屋書店の店頭販売で手に入れることができる。詳しくは下記のサイトを参照してほしい。

 http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/propaganda_2saku.htm


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和製エクソンフロリオ条項の重要性

(本記事は「植草事件の真相掲示板」に書いたものであるが、BBSで流すにはもったいない気分なのでここに転載した)

  エクソンフロリオ条項に関しては、自分のブログで、この掲示板で初めて見たと書いてしまったが、何か心に引っ掛かる言葉だと最初から感じていて、外資規制と関わるものだということはすぐにわかった。

 心に引っ掛かるわけである。私はエクソンフロリオ条項について一度本で読んでいた。京都大学大学院経済学研究科教授の本山美彦氏が書いた「売られ続ける日本、買い漁るアメリカ」の142ページから144ページのたった2ページ半に、これについてわずかに言及があった。読んだ当時はあまり深く捉えていなかったようである。しかし、この条項が我が国にとって非常に重要であることは今の私は痛感している。

 エクソンフロリオ条項というものは、米国の安全保障上の視点から「外国企業による米国企業の買収を制限する」規定である。これは日米投資イニシャティブからすれば、最も重大な国際投資障壁となる。我々は、ともすれば日本へ侵攻する外資に立ち向かうという位相から物事を考えているが、国際投資に双務性が担保される場合、逆に日本がアメリカの企業に投資する場合のことを念頭に置いて考慮する必要がある。

 アメリカでは外国企業からの投資が国防的安全保障に抵触すると“大統領”が判断した場合は、外国からの直接投資を禁止できる。これは国家として当たり前だと思う。エクソンフロリオ条項では、航空、通信、海運、発電、銀行、保険、不動産、地下資源、国防の九分野にこれが適用されている。

 日本人はこの九分野をじっと眺めていて、何か思い当たることはないだろうか。この分野ははっきり言って、「年次改革要望書」でアメリカが執拗にかつ内政干渉的に日本に要求している分野そのものではないのか。特に銀行、保険の金融関連は軒並み外国の巨大外資が参入して外資比率が異常に高くなっていることや、不動産はゴールドマン・サックスを筆頭に日本全国の優良不動産が買い漁られているのだ。

 そして、防衛庁が防衛省に昇格したことも関連するが、これからアメリカのミサイルや戦闘機など軍需機器の導入が活発化されるだろう。日本人は気が付かないのだろうか、アメリカの動き方を。彼らが自国を、エクソンフロリオ条項で鉄壁の守りに徹している分野を、日本に対しては強硬に陰湿にこじ開けてきている現実を。しかも、それを表面的に強行せずに、洗脳した日本人のエージェントを使って内部から扉をこじ開けて、外の盗賊を招き入れていることを。まさしく、この形こそ、池波正太郎が書いた「鬼平犯科帳」に出てくる「引き込み」を使った急ぎ働きにほかならない。

 アメリカがこの九分野を、自国には外資の参入を制限しておいて、日本へはあの手この手で無理やりこじ開けている暴虐的な外資参入への構造変えは、日本の無知が悪いのであり、日本を売り渡す売国人間を政財官に輩出させてしまった国民が悪いのである。しかし、国富が消尽すれば我々を待つのは地獄の貧窮生活であるから、そうも言っていられない。日本は早急に和製エクソンフロリオ条項を固めるべきである。

 私のように無名な人間がこういうことを言っても、さし当たって殺されるようなことはないみたいだが、知名度が高い人間がこの手の真相を語ると殺されたり、社会的生命を奪われるのが今の現状だ。植草一秀氏も今は無事だが、存在そのものが従米売国勢力にとっては、この上なく邪魔な存在には違いない。彼の命は依然として危険なのである。だから、ここに集う有志は、植草事件の背景をしっかりと捉えて、それを表明し続けることにより、植草氏を守るとともに、良心的で有意の識者がこれ以上やられないようにしていくことだと思う。

 植草氏が痴漢を働いたか否かなどということは、どこまで国策意志が働いているかわからない裁判所がやっていることであるから、その次元に拘泥して枝葉末節を根掘り葉掘りやるよりも、三権分立の精神が危殆に瀕してきた今の日本を鑑みて、司法や検察のやり方を極めて厳格に国民が注視しているんだぞという方向性を持った議論が望ましいと私は考えている。パンツやパンティがどーしたこーしたも必要かもしれないが、常にマクロな視点を失わないように議論したいというのが私の本心である。

 アメリカに完全に財布の紐と国防の鍵を預け、安穏としていたら日本に残されている道は奴隷民族としての未来だけなのだ。それでいいのか、諸君!!。

                        神州の泉 管理人


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2007年5月 2日 (水)

植草事件とエクソンフロリオ条項

 植草事件とは、無実の植草一秀氏が国策捜査によって罪に陥れられた事件である。この事件を通常の痴漢事件として見ている人たちは、「国策だって?痴漢と国の政策にいったい何の関係が?」と思うだろう。たしかに私自身も佐藤優氏の「国家の罠」を読むまでは、国策捜査などという言葉も知らなかったし、当然、その意味も知らないし、それに近い概念もなかった。それまでは、日本の警察は、組織の面子を保つために捜査ミスを糊塗することはあっても、狙った人物を故意に犯罪者に仕立てるなどということは、到底あるはずもないと思い込んでいた。しかし、「国家の罠」を読むに及んで、今の日本なら、そういうことが起きることも充分にあり得るなという確信を持った。

 その理由は、劇場型パフォーマンスで国民を騙し続けた小泉政権の亡国的政策を身に滲みて感じていたからだ。植草事件を国策捜査という背景で捉えなおすためには、日本戦後史における日米関係の異常な進展を理解する必要がある。これについてはさまざまな人たちが著しているが、最近のものでは原田武夫氏や関岡英之氏の著書が役立つだろう。特に原田武夫氏の一連の著作は、アメリカが戦後日本を外交的に内政的にどのように誘導してきたかがよくわかるように書いてある。小泉前政権のマクロ的政策に対するエコノミストとしての植草一秀氏の提言や政策批判の思想性は、戦後における日米関係の通史をきちんと理解している人には、ストレートに理解できる位相を持っている。

 植草事件とは、ずばり言って、戦後の日米関係の悪しき進展の中で生起した痛ましい事件である。悪しき進展とは、プラザ合意以降に強められ、小泉政権下でほぼ完全に目論見を達した、アメリカ「奥の院」による日本の再占領政策なのである。植草事件に興味を持たない人でも、私が今指摘したアメリカによる日本再占領の事実を捉えている人たちは大勢いると思う。GHQと違って、現行の占領政策は主に経済だけのことを言っているのだろうと思う人がいるだろうが、占領事実の実態は経済だけではない。アメリカは間違いなく日本の国会をコントロールしている。そこを中心として、日本の金融政策や経済政策全般を牛耳っている。そのために、奥の院は、旧来どおり、保守政権と言われる自民党を代々第一政権与党に据えつけているのである。以前ならともかく、近年の自民党は愛国保守ならぬ売国保守政党である。完全にアメリカの走狗的組織と成り下がっている。しかも、この党には党議拘束などというしきたりがあり、議員各位に政策立案や改正立案などの自由度はまったくない。昨年の前半、小泉純一郎は皇室典範改悪を党議拘束でやろうとしたが、寸前で国民の反対と紀子様の御懐妊で立ち消えになっている。皇室の在り方という国家の基を決める重大事でさえ、彼は党議拘束でやろうとしていたのである。北朝鮮並みの独裁政権である。

  まともな国家なら、国会で政策提言や法律改正、法案樹立などの一連の政策作業を、国の純然たる主体性の下で行なうのが当然だと思うが、日本はアメリカの承諾なしには、何一つ重要な政策を決定できない情けない国家に成り下がっている。その理由は、日本人の為政者やそれを指示する国民に、アメリカが正義であるという東京裁判史観の洗脳がしっかりと染み付いているからである。これがあるから、日本は1993年の宮沢ークリントン会談で、「年次改革要望書」なる隷属書類の発行をやり取りする合意が出来上がった。しかし、この合意の真意は、宗主国と植民地の主従関係を鮮明にする強制指令書であり、見掛け上の双務性とは異なって、ほぼ完全に片務的な内容である。年次改革要望書は、正式には「 日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」と言って、文字上は親和的、協調的、合意的な装いをしているが、実際はこれほど完璧な内政干渉の形はないというくらい徹底したものである。その「要望」に沿って日本が行なった米百俵の精神や、構造改革という威勢のいい叫びだけを上げて、日本の経済構造を根本からネオリベ体制にひっくり返した小泉政権は、国益とはまったく正反対の国富流失、国益毀損の政策を取り続けた。この小泉・竹中政策がすべて年次改革要望書の完全具現化にあったことを知るものはいまだに少ない。その理由の一つにはマスコミがその要望書の存在を報道に載せることを忌避し続けているからである。

 植草事件と小泉売国政権の重要なかかわりはこれから述べるが、概括的に言って、小泉政権は国民の目くらましをしながら、完全なネオリベ経済構造に我が国を導いた。その暴虐と言ってもいい構造転換を、完全従米型の悪しき政策転換だと見抜いた政治家、経済学者たちは少なからずいたと思う。しかし、彼らはその真相を知っていても、社会的な失脚や謀殺に見舞われることを恐れて口をつぐんだのである。そういう中にあってわずかな人だけが小泉政権の異常性、亡国的施政を批判し続けたが、その中でもエコノミスト植草氏の小泉政策批判は突出して容赦のないものであった。植草氏の不正を我慢できない正義感が巨大な売国勢力にただ一人で立ち向かわせたのである。

 たちの悪いことに、アメリカ系外資の見えない圧力によるこのネオリベ構造転換の目的は、大きく言えば、米国系外資によるあらゆる分野にわたる日本国富の収奪である。その流れの中で最大のものが、今年の十月に完全実施される郵政民営化なのである。郵貯資金と簡保資金の合わせて350兆円のうち、国債やその他に使われている分を除いた150兆円の丸取りを米国は狙っている。聖域なき規制緩和・規制撤廃、三角合併の解禁、民営化などはすべてが日本国富収奪に向けての露払いなのである。二年前の郵政民営化是か非かの解散総選挙時に、亀井静香氏、小林興起氏、小泉龍司氏などを筆頭とする郵政民営化造反議員たちは、郵政民営化の危険な底意を見抜いて警告を発していた。ところが、小泉純一郎は独裁者よろしく、彼らを抵抗勢力として露骨な政治的粛正を強行したのである。

 亀井静香氏や小林興起氏が訴えたかったことこそ、郵政民営化法案の構造的な防衛対策であった。この法案は拙速にやらずに、慎重にも慎重を重ねて審議する必要があるといい続けていた。なぜなら巨大な資金を抱える郵政事業を、市場原理のみで動く国際市場にさらすような民営化には、国防上の危険がないかどうかを精査する必要があると考えていたからだ。その話を続ける前に、最近、「植草事件の真相掲示板」に「エクソンフロリオ条項」という聴き慣れない言葉が出ていたので、早速検索をかけてみたら、グーグルでもヤフーでもヒット数は極めて少なかった。エクソンフロリオ条項とは

  米国は外国からの米国内直接投資(FDI)を歓迎するとともに、外国投資家を公正かつ同等に扱う。ただ、国家安全保障を保護するための例外はある。エクソン・フロリオ条項(Exon-Florio provision)の目的は、FDIを規制するのではなく、外国からの投資内容を精査し、米市場をできる限り公開するというもの。しかし、投資内容が米安全保障にかかわるものと大統領が判断した場合には、エクソン・フロリオ条項が適用され、FDIが規制される。

アメリカでのエクソンフロリオ条項とは、簡単に言うなら、国家安全保障上の外資規制のことである。2003年の年次改革要望書における日本側から出した要望の中に、これについて触れた次の箇所がある。

      
       (2003年  日米投資イニシャティブ 報告書の中より抜粋)
  エクソンフロリオ条項(国家安全保障上の理由による外資規制)に係る予見可能性の向上、デュープロセスの確保:基準も明らかにされておらず、いかなる案件がいつ審査の対象となるかが不明確であり、外国企業による米国への直接投資の予見可能性が損なわれている点に懸念を表明。また、一端完了した買収案件も永遠に分割命令のリスクにさらされる等法的安定性も欠く。審査基準の適切さや手続におけるデュープロセスの確保を要望。

 つまり、たとえば日本がアメリカへ直接投資する場合、アメリカが、このエクソンフロリオ条項なる予見可能性の低い、不明確な法律が存在していることに不満を表明しているのである。これはアメリカ側から言わせれば、外資規制のためなのである。重要な問題は、我が国にこの条項と同じような効力を持ち、外資の投資内容が国家安全保障に関わるかを判断する機構が日本に存在しないということである。アメリカの場合は、それを大統領権限で判断できるようになっている。しかし、日本の場合は深刻である。首相にその権限を預けても、小泉のようにアメリカのポチに成り下がった者がやった場合、国防的効力が発生しないどころか、受益はすべてアメリカにやってしまうだろう。

 まったく、政権自体が金融的敵対国家に身売りしていた場合、もはやどうしようもない。これを突破するには政権転覆を謀る以外に手立てはないかもしれない。米国におけるエクソンフロリオ条項と植草氏に何の関係があるのかと訝る向きもあるだろう。要は、植草氏の小泉政権批判は国防的観点から行われているということで、例の条項と思想的には同じなのである。我が国が、この条項に相当する国防的外資規制を起草し、国会で法案を通すためには植草氏の頭脳が役に立つ。なるべく早急に防衛的規制をかけないと、国富流尽が底なしになり、日本全土の優良資産が買い取られてしまうだろう。収奪目的の外資を無制限に参入させる三角合併は解禁された。我々はこれから投機的外資のために、残業代返上で働くことになっていくだろう。日本人とは何という危機感のない愚かな民族だろう。

 あ、そうそう、重要なことを言い忘れていた。エクソンフロリオ条項をgoogleやYAHOO JAPANで調べても、検索に引っかかるのはわずかな件数である。この事実こそ片務的な年次改革要望書の実効性を高めるために、アメリカが日本のメディアに圧力をかけて、その内容を国民に知らせないようにしていることを如実に示すものである。郵政民営化関連六法案の国会討論では、政権側が外資規制に関する審議を神経質に忌避していたが、それと同じ意志がテレビにも、ネット検索エンジンンにも働いているのである。


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2007年4月29日 (日)

排外的冤罪論と国策捜査論の決定的差異

  「植草事件の真相掲示板」にこんな書き込みがあった。
 
> 何故弁護士達が主張もしないのに勝手に政治的策略、国策捜査説を唱えているだろう・・応援する人たちの中でも疑問が湧いてこないですか?(たいまい氏;wrote)

 前の弁護士さんたちも、今担当しておられる弁護士さんたちも、それぞれのこの事件に対する真の思惑は別として、公判戦略的に植草事件が政治的背景を持つ事件だという弁護方針はまったく採っていない。なぜなら、通常、痴漢事件を裁判することは、「やったのかやらないのか」、あるいは「やったのか、それとも冤罪なのか」という詮議を対象としているからである。その弁護方針を、弁護思想的に推察すれば、それは人権的観点からである。

 つまり、裁判で問いかける本質は、痴漢という犯罪が、被告によって生起したのか、しないのかの二者のうち、どちらが事実かを明らかにするという方向性を見極めることにある。そういう現実的な進行を呈しているのに、政治的背景などという憶測だらけで、証明もできないような論法を担ぎ出す必要などはなく、ましてや国策捜査論などは、まったく論外であり、そういう思考はかえってことを複雑にするだけで意味はない。このように考えているのは、もしかしたらアンチ派に限らず、擁護派にも多くいるかもしれない。彼らの言い分は、現実に進行する裁判で重要なものは、被害者、目撃者、逮捕権を行使した者、それを見ていた者たちの傍証、そして被告人の証言だけであるということだろう。

 その見かたはけっして間違っていない。ただし、そう断言するには前提条件がある。その条件とは、その件が通常の痴漢事件の範囲であることが明らかな場合である。つまり、被告人に何ら政治的背景が存在しない場合、あるいは被告人が仕事上や人間関係で、重大なトラブルを抱えていないことがはっきりしている場合である。ところがこの範囲にない痴漢事件、たとえば被告が企業人として、中心勢力が唱える企業ガバナンスに対して、真っ向から異を唱えていたり、企業中枢の秘密を握っていた場合などは、罠に落とされてしまう可能性があると見るべきである。こういう濃密な政治的背景を抱えている被告の場合は、冤罪の可能性を疑うべきであろう。

 しかし、冤罪とは、狭義の意味で言うなら、被害者や警察側による誤認を、警察自身が組織防衛や面子にこだわって、それを訂正せずに強引に犯人に仕立ててしまうことである。いわゆる警察による一種の組織犯罪である。私はこの範囲までは「冤罪」という言葉で表現してもいいような気がする。しかし、数としては希少であるが、この世には同じ濡れ衣でも、政治思想的、政治犯罪的背景が絡んでいて、ある個人を覚えのない罪に陥れる事象が発生する。その背景に時の権力者が複数絡んでいて、被告が時の政権のマクロ的政策に真っ向から反対していた場合、国策捜査というものが発生する確率は非常に高い。特に従米的傾向の政権が続き、アメリカに付和雷同の面持ちを見せながらも、心では地団太を踏んで我慢をし、面従腹背、臥薪嘗胆で時を待つ覚悟があった時代はまだ国策捜査なるものは少なかったという気もする。しかし、時は移ろい、小泉政権という完全売国政権に国民が国家の執権を任せてしまった時から、その売国を見抜いて世間に警告を発した有能な愛国者は国策捜査の犠牲になってしまった。政治家では西村眞悟氏や、政府支出の暗黒部分に踏み込んで殺された石井紘基氏がいる。エコノミストでは現在公判中の植草一秀氏が明らかに国策捜査のターゲットになっている。なぜ彼らがターゲットになったかについては充分な論証は可能である。その背景を論証することによって、彼らが国策捜査の毒牙に掛けられる蓋然性は明確になってくる。 

 りそなインサイダー疑獄を追求している植草氏が殺されなかったのは、たしかに僥倖ではあるが、その理由はいろいろな方々がネットなどで国策捜査疑惑を提示しているからである。この疑獄の性格を考えてみると、植草氏の生命がかろうじて続いているのは、国民の目を国策逮捕に向けて、小泉政権の従米売国の本質を悟らせたくないためである。もし、有志の皆さんが植草氏の国策捜査疑惑を口にしなかったら、彼は昨年9月の痴漢でっちあげに嵌められるどころか、とっくに命を失っていたものと私は確信している。もし、擁護派で国策捜査論の無用論を唱えるものがいるとすれば、それは愚かである。なぜなら、植草氏が生きていてこそ、彼の無罪も真相も暴かれる可能性があるからである。それを狭量な通常冤罪の範囲内に留め、我こそは正攻法なりと国策捜査論を無視し、排外的冤罪論だけを喚いているとすれば、それは植草氏の安全上からも有害であり、稚拙である。冤罪論はもちろん公判戦略上で必要なのであるが、今回の場合、念頭には国策捜査論の可能性を置いてやるべきであろう。

 何度も言うが、今回の植草事件(特に品川手鏡事件と京急痴漢事件)は国策捜査による濡れ衣事件である。この背景を言い続けることによってしか、植草氏の生命の存続はないのだ。そういう認識を持たない擁護派は、氏にとっても、日本にとっても、有害無益な存在である。排外的通常冤罪論だけでは植草氏の命はとっくに消えているものと確信する。何回か言及していることだが、植草事件を真摯に扱う場合は、98年の東海道線車両内のこと、2004年の品川手鏡事件、そして2006年の京急電車内痴漢事件という三度の件をきちんと挙げて論ずることが重要であるし、そうしなければ擁護論としても誠意に欠けると言われても仕方がない。特に、98年の件をスルーして、品川事件と京急事件の冤罪論に固執することは、擁護派としては不誠実なことである。品川事件のみの冤罪を唱えても、メディアによく登場する人物(たとえば宮崎哲弥氏や橋下徹弁護士)などが、8年の期間に三度の性犯罪疑惑を起こしたことを指摘して、そこに見られる三度の連続性こそが病的性癖だと論陣を張れば、通常冤罪論者には相当に分が悪いのは明らかだ。

 病的性癖が強靭に居座っているからこそ、彼は懲りずに何度も同じ類のことをしでかしてしまうのだと言われれば、通常冤罪論者にはまずもって、それを論破することは不可能である。この病的性癖論を根本的に覆す唯一の論証こそ、国策捜査論なのである。従って、98年の件をスルーするということは己の論拠が脆弱であることを自ら証明していることになるのだ。だからこそ、擁護派は98年の一件からは逃げないで向かい合って欲しい。そして、病的性癖論を冤罪論証で覆すことがどうしても無理だと自覚したら、今度は目を国策捜査に向けて欲しいと思うのである。もっとも、そういう客観性と謙虚さがないから、排外的冤罪論者は痛いのである。

 つまり、排外的冤罪論は今回の場合、植草氏の生命を危険に陥れる有害な狭隘性を持ち、国策捜査論は「彼ら」の殺意を食い止める効果を持っているということを私は強く言っておきたい。

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2007年4月27日 (金)

3月28日 植草事件公判、午後の部(後半)の速記録

3月28日、京急植草事件、第六回公判、午後の部
(後半)の速記録です。「植草事件の真相」サイトに
掲載されています。植草一秀氏自身の証言録です。
これで、3月28日分は全部掲載されました。

      
http://uekusajiken.ganriki.net/sokki/032807_02.html

第二回公判速記録も収められています。

http://uekusajiken.ganriki.net/sokki/122006_01.html


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2007年4月23日 (月)

植草事件の真相掲示板

 植草教授を応援する非公認サイト「植草事件の真相」の掲示板
が今日から開設されたようです。関心のある方は投稿してみては
いかがでしょうか。ここの管理者さんは反対意見は削除しないそう
です。自分に都合が悪ければ、どんなに客観性のある意見でも、
速攻で削除する独り善がりの場所(笑)でエライ目に遭った方々も
行ってみるといいでしょう。ただし、場荒らしと反対意見の境界線
ははっきりと置くそうです。

   「植草事件の真相掲示板」

http://9123.teacup.com/uekusajiken/bbs


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2007年4月22日 (日)

島田洋七著「佐賀のがばいばあちゃん」を読んで

  「佐賀のがばいばあちゃん」
第五章、「一番好きで、一番嫌いだった運動会」を読んで感じたこと


 今日、お昼のテレビのトーク番組に、お笑い漫才の島田洋七氏が出ていた。島田洋七氏について知っていることは、第一次漫才ブームの先鞭を切ったB&Bというコンビの片割れであり、彼らの漫才は爆発的に当たり、洋七氏は数年間で三十億の現金を手にしたそうである。当時の彼は、あまり金を儲けて、押入れにファンレターと一緒に封筒に入った給料袋の現金がぎっしりとあったそうである。その話は洋七氏がよくテレビで話していたことは覚えている。

 私は、漫才ブーム初期の頃はともかくも、B&B全盛当時の洋七氏は大嫌いであった。有名になり大金を得て自我が肥大し、高慢な物言いが目立ったことを覚えていたので、この男には最近まで嫌悪感があった。ある種、日本人が陥ったバブル的成金趣味の権化という形に洋七氏が見えていたからである。しかし、振り返ってみれば、この時期の日本人は、芸能人に限らず、押しなべてにわか成金や利殖行為に溺れていたように思う。洋七氏に限らず、事業家や一般人でさえ、こういう雰囲気の人間は多く輩出していた。

 だが、島田洋七氏は第一次漫才ブームが去り、人気の凋落を迎えると、滝つぼに落ちる木の葉のように、その存在は芸能界から掻き消されていった。しかし、これほど栄枯盛衰の激しい男もいないと私は思っていた。島田氏のことを調べたわけでもないので、軽々しくは言えないが、彼は生き馬の目を抜く弱肉強食の芸能界でも、かなり壮絶な没落の地獄を味わっていたはずである。何度もテレビでの復帰の機会を狙ったと思うが、長い間それを果たせなかったように思う。人気の絶頂にいた者が没落のきわみに落ちて捲土重来を待つと言えば聞こえはいいが、本人にとっては、きっと地獄の辛酸を嘗め尽くしたに違いない。一人の人間に生起する極端な栄華と落魄。まさにこれは、平家物語の冒頭にうたわれる有名なかの一節を思わせる。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。


 島田洋七氏は、彼が味わったこの人生流転の究極の愁嘆場にあって、諸行無常の道理を体得し、もののあはれの境地に悟達したものと見える。そして、人の世で何が一番大切かに、はっきりと気がついたに違いない。そうでなければ「佐賀のがばいばあちゃん」を著すことはできなかっただろう。彼は晩年の小野小町と同次元の心境に達したのかもしれない。それほどこれは文学的に優れた叙述なのである。洋七氏が広島から佐賀のおばあちゃんに預けられたのは昭和三十三年である。つまり、洋七氏が多感な時期に、がばいばあちゃんと生涯忘れられぬ重要な時期を過ごしたのが、かの「昭和三十年代」なのである。「佐賀のがばいばあちゃん」シリーズが四百万部の大ヒットをもたらしたのは、彼が最も訴えたかった昭和三十年代を、佐賀のばあちゃんとのエピソードを通じて、その時代精神を明快に伝えきっているからである。平易な文体、雑多で余計なものをいっさい省いたその簡潔明瞭な文章表現は、読む者を昭和三十年代に深く誘う。

  佐賀のばあちゃんという存在を通じて、洋七氏はあの頃の時代精神のエッセンスをみごとに描ききっている。私はお昼のテレビ番組を見て、「佐賀のがばいばあちゃん」を買いに行って、彼の小学生のころの体験までを読んだ。ばあちゃんとの生活体験の初期を書いた第五章に、「一番好きで、一番嫌いだった運動会」という項目がある。これを読んだとき、私は自分の昭和三十年代の体験を走馬燈のように思い出し、洋七氏のこのエピソードに深く感銘した。それは運動会での話で、洋七氏がテレビでも少し語っていたことだった。私は「佐賀のがばいばあちゃん」を全部読んでいないが、確実に断言できることがある。それは、洋七氏がこのシリーズで語りたい本質が、この第五章のエピソードにすべて収斂されているということである。

 洋七少年が佐賀に転校生として来て、没頭したのが走ることだった。一人暮らしだったおばあちゃんは筋金入りの貧乏であり、その日その日を食べることさえ事欠くような生活をしていた。しかし、そこはたくましい女性で、物を無駄にしないことと、近くに流れている川の上流は生鮮市場だったので、そこから流れてくる捨てられた果物や野菜をうまく拾い集めてそれを食卓に供して食べていた。このおばあちゃんは底抜けに明るい性格の人で、惨めな顔は洋七氏には一度も見せずに、ひたすらプラグマティックに、その日その日をどうして食べていくかに挑んでいたそうである。そういう超貧乏な家だったから、洋七氏はまともなおかずの入った弁当も持っていけなかったという。

 しかし、この当時はそういう子供たちはたくさんいて、けっしてそれが珍しい家庭ではなかったと思うが、それでも洋七氏の語りを読んでいるうちに、そういう家庭でも、がばいばあちゃんの家は、超一級の貧乏な家庭であったことがわかる。洋七氏は友達もでき、そのころ、剣道や柔道を習うことが流行ったそうである。洋七氏は何としても剣道を習いたくなり、婆ちゃんに習わせてくれと頼んだ。金がかかると言うと、うちは貧乏だから駄目だとばあちゃんは言った。そこで、今度は柔道を習いたいと頼んだが、やっぱり貧乏だから駄目だと言われた。そこで、ばあちゃんは彼にこう言って提案した。「明日から走りんしゃい、ただ走るだけなら金はかからん。地面はただだし、道具もいらん」

 洋七氏は、それに対してこのように回想している。「なにか違うような気がしたが、俺もまだ子供だったし、何となく納得して走ることに決めた」と。しかし、この書き方は私はすごいと思う。同年代を過ごした私には、彼が本当に言いたいことがわかりすぎるほどわかる。洋七少年はやるせない悔しさに押しつぶされていたはずである。仲の良い友達との関係で最もつらいのは、遊びや趣味で同じことを共有できない苦しみである。この時、洋七少年は貧乏の境遇を心底呪ったと思う。何か違うような気がしたが何となく納得したというのは、人生の辛酸を舐め尽くした彼が、その経験の中で気が付いたおばあちゃんの人間としての偉大さに最大の敬意を払っているからであろう。過去のおばあちゃんの幻影を、凄惨な色合いの現実で傷つけたくないのである。奈落の底に落ちて培った、彼の人としての成長が語らせたほの温かい嘘である。

 「何となく納得して走ることに決めた」という、さりげなくぼかしているこの奥ゆかしい語りには涙が出る思いである。セピア色の抑制とでも言おうか。たぶん、洋七氏はそれに気付いて欲しくないのだろう。お笑い芸人の矜持があるからである。彼の芸は、軽薄で奥ゆかしさのまるで感じられない瞬発的な話芸が信条であるから。しかし、あのテンポのよい話芸は、おばあちゃん譲りであることは間違いないことだ。

 それから、洋七少年は金のかからないスポーツ、走ることに専念した。かれこれ一年もたった頃、運動会が行われた。自分の話になるが、洋七氏より二年足りない私は、昭和三十五年頃の小学校の運動会の楽しさを鮮明に覚えている。秋田の片田舎の寒村で小学生を過ごした私は運動会に特別な思いを抱いていた。あんな楽しいイベントは何物にも代え難い物だった。走る競技も楽しかったが、仮装行列では大好きな月光仮面がいたり、七色仮面(今の人はちんぷんかんぷんだろう。笑)がいたり、夢のような楽しい行事であった。当時は今と違って、田舎にはスーパーもなく、贅沢な物を食べることはできない時代だった。運動会で重箱に入った料理を食べることが運動以外の第二の楽しみだった。というか、最大の楽しみだったかもしれない。父母、家族と一緒に運動場の周辺にゴザを敷いて、家族で楽しく食事するのである。私は好物の特大おいなりさんを腹一杯食べて、この上ない至福感を味わったものだった。

 考えてみれば、昭和三十年代というのは、終戦後、まだ十年あまりの時期である。日本の衣食住環境が充実していたとは言い難い。食べ物は質素だった。バナナもみかんも贅沢品だった。メロンは死の病床の人が食べるようなイメージがあった。しかし、あの当時は「マクワウリ」というのが農家で栽培されていて、時期には食べることができた。今のメロンより香りがよく、はるかに美味しい物だったような気がする。洋七氏は野生の木の実をよく食べたと言っていたが、私も同様である。桑の実を食べて口のまわりを紫色に染め、豆柿(まめがき)という小さな柿を食べ、野生のグミの実や山ブドウ、アケビなどをおやつ代わりに食べていた。今思えばこれらはほんとうに贅沢品であった。野生の木の実には栽培果物にはない清新な原初の味が残っている。

 洋七氏の運動会の話に戻ろう。当時の普段の家庭食は、おしなべて質素で貧しい物であった。しかし、それだからこそ、正月や運動会などの行事には、家庭は奮発してご馳走をつくって楽しんでいた。明らかに洋七氏のおばあちゃんの家はそれができなかった超貧乏家庭だった。父兄参観や運動会にはおばあちゃんはこなかった。毎日一人でよく走っていた洋七少年は、運動会の競技で一番を勝ち取った。しかし、その高揚感はすぐにしぼんだ。先生が「楽しいお昼休みになりました。みなさん、お父さん、お母さんとお弁当をたべましょう」と言ったのである。洋七少年は一人である。弁当も手持ちの梅干し入りの日の丸弁当である。ショウガも入っていたらしい。

 他の子には、親が「怪我せんかったか?よく頑張ったね、さあ、あんたの好きなウインナをお食べ」とか言っているのを、横目で見ていた洋七少年はいたたまれなくなっていた。洋七氏はこの時のことを、走っていて、家族から声援がないことより、お昼時の方がはるかに辛かったと語っている。当然である。両親も家族も来ない運動会、家族が一緒に運動会を楽しむ最大の瞬間がひとりぼっちで味わえないのである。こんな残酷な風景があるだろうか。この気持ちは私の年代でなくともわかると思う。しかし、この当時はこういう子供は案外いたのである。この当時はこういう境遇の子には格差による優越感などという物はなく、ある種の同情がみんなにあった。なぜなら、一般の人たちもけっして生活は楽ではなかったからである。

 しょんぼりした洋七少年は一人寂しく校舎の教室に歩いていった。そして、校庭の喧噪を泣きたい思いで聞きながら、持参した日の丸弁当を食べようとした時、先生が入ってきてこう言った。
「あのな、弁当を取り替えてくれんか?」
「え?」
「 先生、さっきから腹が痛くなってな。お前の弁当には梅干しとショウガが入っていると?」
「ハイ」
「ああ、助かった。おなかにいいからそれと換えてくれ」
「いいですよ」と洋七少年は先生と弁当を交換した。

 「先生は腹痛か、大変やなあ」などと思いながら弁当箱を開けた彼は仰天した。卵焼きにウィンナー、エビフライと、それまで見たことのないような豪勢な料理が詰められていた。彼は夢中でそれを食った。こんな美味い物はないと思った。先生の腹痛のおかげで萎えていた心も晴れやかになり、午後のリレー競技でも思いっきり頑張れた。そしてまた一年たった。彼は相変わらず競技のヒーローだったが、また恐怖のお昼休みが来た。そしたら、また同じ先生が「ここにいたのか。先生、腹が痛くなってな、お前の梅干しとショウガ入りの弁当と交換してくれ」と言った。承諾して、また先生の豪華な弁当を食べた。また一年がたち、四年生になった時、運動会がやってきた。今度の担任は女の先生に代わっていた。先生は「ここにいたの?先生、お腹が痛くなっちゃって、弁当を換えてくれる?」と言った。洋七少年は、この学校は運動会になると先生が腹痛を起こすのだろうかと真剣に考えたそうである。

 それから、卒業するまで運動会は孤独で、先生が腹を痛くして弁当の交換が行われたそうである。洋七少年がその意味に初めて気が付いたのは小学校の六年生だったそうである。運動会になると先生が腹をこわしたとおばあちゃんに言うと、おばあちゃんは「なんば言いよると。それは先生がわざとしてくれたとよ」と言った。そして、「本当の人間の優しさとは、お前のために弁当を持ってきたと言うたら、お前もばあちゃんも気ぃつかうやろ?だから先生は、お腹が痛いから交換しようって言ったとよ」

 かあちゃんが運動会にこられない洋七少年の境遇を思いやった先生たちが、代々、職員室で、せめて一年に一度美味しい物を彼に食べさせてやろうと計らったことであったのだ。本ではこのエピソードをここまで書いていた。しかし、洋七氏がテレビで言ったことは、本に書かれていないことだった。数年間、毎回、先生が腹を痛めて弁当を交換して欲しいという話をしたとき、おばあちゃんは涙をぽろぽろ流してから、それは先生がわざとしてくれたのだと言ったのである。洋七氏はおばあちゃんが涙したことは敢えて本には書かなかった。実はこの本のメッセージは、すべてがこのおばあちゃんの涙に凝集されている。このエピソードには、先生の計らいにも、それに感涙したおばあちゃんの気持ちにも、昭和三十年代の日本の精神が余すところなく出ているからである。洋七氏は、その最も本質的なおばあちゃんの涙を書かなかった。ここに彼の文学的な深い心境がある。これは私の推測だが、洋七少年がおばあちゃんにその話をした時、おそらく彼はおばあちゃんと二人で泣き明かしたのだと思う。しかしそのことを書くのは自制したのであろう。凄惨な貧乏生活をお笑いで塗りつぶすという覚悟があるからであろう。

 この「佐賀のがばいばあちゃん」から垣間見えるものは、昭和三十年代に立派に残っていた日本人のあるべき姿なのである。けっして懐古趣味で言うのではないが、あの頃は日本人が互いに思いやりを強く持っていて、助け合いの精神が息づいていた。敗戦の精神的焦土からともに這い上がってきた共有感覚もあっただろうし、それが日本民族の原型的な和の心でもあっただろう。あの頃は、昔ながらの人情が社会の隅々まで生きていた時代だった。私の家でも、近所の貧乏で米を買えない家に、米を持っていって、今年は実家で豊作だったからと嘘を付いたことがあるし、母は醤油や砂糖の貸し借りはしょっちゅうしていたように思う。同情して、物や金をやるときは、みんなが極力相手に恥をかかせないように気を使っていた。すべてのことがお互い様だった。みんなが裕福ではなかったから、情が生きていたのである。相互互恵の精神は、蛮族アメリカの洗脳のおかげで今は死語となったが、当時は色濃く残存していた日本人の一大特徴だった。本来の日本人は有徳なのである。

 しかし、あの時代から四十数年の歳月が流れ、日本社会は小泉純一郎のメンタリティが象徴する本格的なアメリカ型格差社会が到来した。日本人の幸福感なんぞ、とっくに掻き消されているのだ。他者への物質的優位性だけで己の幸福度をはかる今の時代はなんと貧相であろうか。我々が憧れていた豊かなアメリカ型生活は、実際は弱肉強食の荒廃した地獄の生活空間であったのだ。もういい加減に目覚める時ではないのか。

参照図書 島田洋七著「佐賀のがばいばあちゃん」(徳間文庫)


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2007年4月19日 (木)

3月28日 植草事件公判、午後の部(前半)の速記録



3月28日、京急植草事件、第六回公判、午後の部
(前半)の速記録です。「植草事件の真相」サイトに
掲載されています。植草一秀氏自身の証言録です。

      

  http://uekusajiken.ganriki.net/sokki/032807_02.html


 

植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー植草事件の真実

 
  ※午前の部、私服の証言者K氏の速記録はこちらから


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2007年4月18日 (水)

支援者C氏のご意見

マスコミが書かない「植草事件の真実」 by 「雑談日記」SOBAさん

 神州さん

 「植草事件のK証人が替え玉である決定的証拠」を拝読しました。一般
人がK証人のようなことをしませんよね。駅員を差し置いてシャシヤリ出る
なんて。第一、痴漢現場を目撃していないんですから。

 検察側にほころびが見えてきましたが植草さんの弁護団は今後、どう
主張していくんでしょうか。

 ところで、日本国憲法第38条は下記のように定めています。(1)「自己
に不利益な供述を強要されない」とありますが今回のケースは植草さん
がかなり酩酊状態だったにもかかわらず警察官が尋問しています。とり
あえず「黙秘権」を行使しても違法では無かったのです。(2)と(3)は前回
の逮捕・拘留のケースに当てはまるものであり、今回のケースには当て
はまりません。今回のケースは植草さんの自白はなかったものと私は理
解しています。誤解のないように言いますが(1)のケースにおいて植草さ
んは痴漢行為をしていないので何らやましいことはなく現場の状況を確
認しようと警察官に要求しましたがすでに明らかなように警察側は被害
者と称する女性との話し合いの場を与えませんでした。そればかりか
植草さんに不利益な供述をデッチ上げているのですから始末が悪い。

 なお[刑事訴訟法198条2項]によれば次のように定められています。


 「被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述する必要がな
い旨を告げなければならない。」


告げなかった警察側は明らかに違反しています。

さて、日本国憲法 第38条は、いわゆる黙秘権等を規定しています。

(1) 何人も,自己に不利益な供述を強要されない。

(2) 強制,拷問若しくは強迫による自白又は不当に長く抑留若しくは
  拘禁された後の自白は,これを証拠とすることができない。

(3) 何人も,自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合
  には,有罪とされ,又は刑罰を課せられない。


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植草事件のK証人が替え玉であるという決定的証拠

植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー植草事件の真実植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー

  K証人が替え玉であるという決定的証拠
     (支援者A氏による考証)

公判に登場した3名の証人は

平成18年12月20日 T証人尋問(検察側証人)

  これは、植草氏が痴漢をしているところを目撃したと主張しているT氏の証言。

平成19年1月15日 A証人尋問(検察側証人)

   A氏は、事件の日、駅事務室から警察署まで植草氏を運んだ警官である。

平成19年3月28日 K証人尋問(弁護側証人)、被告人尋問

   K氏は、事件の日電車に乗り合わせていて、植草氏を逮捕し、駅事務室に運んだ人

 事件の2日後、Tという男が、事件を目撃したという電話を警察に掛けてきた。彼は12月20日に検察側の証人として目撃証言をしているが、彼の証言は証拠として採用するには、著しく信頼性に欠いている。例えば、被害者女性は、スカートの中に手を入れられたと証言しているが、彼は入れていないと言っているし、その他矛盾点は至る所にある。しかし、彼は検察に4回も行き、蒲田警察に6~7時間もいたということだから、この事件の警察側の内部事情をよく知っているのは、間違いない。彼は、植草氏を逮捕したのは、「私服の男」だと証言した。つまり私服警官だったと言うことだろう。警察にとっての極秘事項が、何と検察側の証人によって暴露されてしまった。前回の品川手鏡事件も、植草氏は、私服警官3名に横浜から品川まで尾行されていた。今回も私服警官に尾行されていて、事件をでっち上げられたと考えるのが自然ではないか。そういえば、今回、被害者とされる女子高生も発言はまるで婦人警官だから、一緒に尾行していたのではないだろうか。

 もしそうだとすると、この逮捕者は公判に出てこないだろう。私服警官が尾行していたら、でっち上げがばれてしまうから、きっと替え玉が出てくるだろう。このように考えていたら予想通り、3月28日のK氏の証言は、彼が替え玉だということを証明した。

 決定的な証拠は、速記録の次の部分にある。

K証人 駅員さんは途中まで迎えに来てくれましたが、押さえてくれるのかと思ったら、押さえずに、「こちらへどうぞ」と方向を示してもらったので、最後まで僕が事務室まで連れていきました。

弁護人3 途中から駅員が来たということは、駅事務室がどちらの方向にあるかは、証人はご存じだったということになるのですか。

K証人 いえ、わからなかったので、途中で周りにいる人に「呼んでください」といったら、駅員さんがそのうち駆けつけてきて、「こちらへどうぞ」と方向を示したということです。

弁護人3 そうすると、ホームにおりてから、しばらくしてから、やはり駅員を呼んでくださいということをいったわけですか。

K証人 はい。抵抗が激しかったので、呼んできていただいて、それで押さえた方が楽だと思いました。

 この証言通りなら、電車がホームに着いてから駅事務室に着くまで最低でも5~10分は掛かったのは間違いない。蒲田駅に電車が着いたのは10:18であることは、誰もが確認している。植草氏を駅事務室に連れて行き、そこから警察に連絡が行き、最終的に近くのパトカーにいた青木巡査に連絡が行ったのが10:21、青木巡査が駅事務室に到着したのが、10:30であったというのが、A巡査の1月15日の証言である。つまり、電車が着いてから、近くをパトカーで巡回していた青木巡査に連絡が行くまで、僅か3分しか掛かっていない。もし、K氏の言うように、ホームに降りてから暫くしてから、駅員を呼んできて貰っていたら、それだけで3分以上かかってしまうから、絶対無理だ。K氏は電車の中から警察に電話をしなかったし、乗客の中にも電話をした者はいないと証言した(速記録参照)。

 植草氏も、逮捕者は駅員を呼んでいないし、駅員は来ていないと証言している。K氏が替え玉なら現場にいなかったから、植草氏が恐ろしいスピードで駅事務室に運ばれ、直ちに警察に連絡された事実を知らないのだ。

 これがでっち上げでなかったら、乗客が植草氏を実力で駅事務室に運ぶということは絶対にあり得なかった。K氏は、痴漢行為を見ていない。もし、植草氏が無罪になれば、彼は刑法 220 条逮捕監禁罪で3ヶ月以上5年以下の懲役に処されることになる。K氏自身が認めているように、植草氏は逃げようとしていなかった。顔を知られている著名人は逃げても何の意味もない。5年以下の懲役刑の危険を冒してまで実力行使をする乗客などいるわけがない。植草氏は女性と話をさせるよう要求していた。女性はなぜ逮捕するのか、植草氏に説明をしていない。なぜ自分が逮捕されるのかを聞く権利があるのは当然だろう。憲法第三十四条には、「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない」とある。

 K氏の証言だと、被害者女性との会話は

K証人 「触られたの」

女性  「はい」

K証人 「突き出すの」

女性  「はい」

 たった、これだけの情報で、K氏は逮捕し、植草氏に女性と一切話をさせないことを決心したそうだから、まさに憲法違反だし、人権蹂躙だ。植草氏は逃げようとしていなかったのだから、現行犯逮捕の要件を満たしておらず、不当逮捕だろう。K証人が本当に通りすがりの乗客なら、たったこれだけの情報で、実力行使はあり得ない。

 K氏が替え玉であるという証拠はまだまだある。

K氏は、弁護人から事件当日、植草氏が酒に酔っていたのかと聞かれたとき「酔っている印象はなかった」と証言した。しかし、この逮捕者は警察での調書に「植草氏が酔っていた」と答えていた。この矛盾だけでも、K氏が替え玉だと分かる。追求されれば、言い訳はするが、それでは遅い。

K氏は公判の前、N弁護人に対し「被害者が振り返ったときに、被告人は被害者の右斜め後ろにいて、1~2歩後退することもなく、近くのつり革につかまってうつむいた」と述べていた。これは本人も認めると公判で証言した。しかし、公判でN弁護人に同じ質問をされたとき、次のように答えている。

N弁護人 あなたがごらんになったときに、その男性がつり革につかまっていたかどうかというのは記憶されていますか。

K証人 つり革にはつかまってなかったです。

N弁護人 つかまっていなかった。

K証人 はい。

 証言を翻しているのは明らかだ。つまり、つり革につかまっていたのなら、痴漢は難しいだろうから、つり革はつかまっていなかったことにしようと考えたのだろう。現場にいなかった替え玉にしてみれば、どちらでもよいことなのだ。

 K証人が、替え玉ということは、この事件全体がでっち上げだということを証明するものである。

 今回の痴漢被害者とされている女子高生も、明らかに嘘を言っている。事件当時、植草氏は傘と重さ4kgのカバンを持っていたことは、それらが警察に押収されていることから、間違いない。泥酔状態にあった植草氏が、このような荷物を持ったまま、両手で女性の尻を2分間も触ったという主張自体が、すでに不自然である。この女性は、「彼が、指を折りたたむようにして、スカートをたくし上げた」と語ったし、傘の位置まで言及している。しかし、自分の後ろで、スカートに触れた男性の指の形や傘の位置を確認することは、絶対に無理だし、弁護側の作成したビデオでもこのことが確認された。もし、この女性の目が後ろに着いていたとしても、酔っぱらいが、スカートをたくし上げようとしたら、逃げるか、スカートを押さえるかするに違いない。満員電車ではなく、いくらでも自由に動き回ることができたことは誰もが認めているのだから。この女性は、何と2分間もスカートをたくし上げられたまま、触ることを許したと自分で証言している。スカートに手を入れられたまま、2分間もじっと動かないでいたというのは、あまりにも不自然だ。回りに沢山の乗客がいたのに、公判で証言した証人も含め、スカートがたくし上げられたという光景を目撃した人は誰もいない。

 恐くて逃げられなかったというわけではない。K氏に言わせると、彼女は植草氏に対して「やめて下さい」「子どもがいるのに恥ずかしくないのですか」「謝ってください」「次で降りて貰いますから」と告げたという。恐怖に怯えた様子は全く感じられない。むしろ婦人警官による命令という印象を受ける。直ぐに彼女は自分のパンティーを繊維鑑定のため、警察に提出している。普通の高校生なら絶対やらないだろう。

 

「私服の証言者K氏」の証言速記録はこちらから


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3月28日 植草事件、第六回公判速記録(午前の部)

植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー植草事件の真実植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー

3月28日、京急植草事件、第六回公判、午前の部の速記録が
できあがりました。全文は、有志が新しく立ち上げたHP、植草
一秀さんの非公認応援サイト「植草事件の真相」に掲載されて
います。

 読みやすい体裁になっています。

 尚、当日公判速記録、「午後の部」は出来上がり次第、当該
管理人さんが掲載するでしょう。


     http://uekusajiken.ganriki.net/


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読者T氏の日本論(1)に返信

(1/28)神州の泉 管理人より返信

読者T 様

 おたよりありがとうございました。拙ブログを読んで頂いて恐縮します。全文拝読しました。極めて真摯且つ深い歴史認識だと拝察しました。特に戦後の日本人のメンタリティが、明治維新前後の先人たちのメンタリティと基層的になんら変わるものではないというご指摘、まことにご明察であると感じます。

 アメリカ貿易センタービル崩落の911、そして我が国では郵政民営化特化的是非論による衆院解散総選挙において、ある種の歴史的なルビコン河を渡ってしまったという御見解には大いに同感します。確かに、この911という数字には強い相似性があると言いますか、なにか暗示的な符牒を感じさせます。この郵政民営化によって、いわゆるグローバリゼーションの潮流、言い方を変えるなら、日本人のONE WORLD ORDERへの志向が一挙に加速化されてしまったということでしょうか。T様のおっしゃるように、これはアメリカに巣食う「奥の院」が、鮮明に世界統治への意志を示し、世界収奪への方向性を強めたという見かたも、あながち見当違いではないでしょう。私はT様の論文に見える国内売国勢力の動きを問題視しております。

年次改革要望書を国内にまったく説明せず、外務省や政府高官レベルだけでひそやかに進めていたことが、我が国にのさばる米国エージェントの存在を浮き彫りにしています。このエージェントたちのルーツを遡りますと、T様のご指摘のように、明治の西南の役に逢着するのかもしれません。実は明治の欧米化インフラにあたって非常に興味深く、かつ本質的には深刻な問題を想起させる出来事がありました。

 ご存知のように、明治インフラの主要は電信電話の敷設、そして明治五年の新橋-横浜間開設に始まる鉄道網の建設ラッシュでした。今は電信電話について申しますが、この時、日本各地に電信柱の敷設を行いました。これに借り出された欧米の技術者たちが語っていた感想です。彼ら技術者は日本に来て、その国土の美しさに押しなべて圧倒され、これを非常に賞賛していたそうです。当時の街道には、徳川家康時代に奉行の大久保石見守長安が敷設した一里塚などが、ほぼそのまま残っていましたので、我が国独特の美しい街道並木が外国人の審美眼を大いに刺激していたのです。

 そしてこの街道並木を切り倒し、新しい電信柱を立てて行った時、この工事に当たっていた人足はもとより、これを眺めていた大多数の日本人は、なんと、街道並木よりも、林立する電信柱の列の方が美しいと言ったそうです。これを聞いていた外国人技術者たちは耳を疑う思いだったそうです。いかに文明開花のわざとは言え、それによって生じる国土景観の破壊を嘆息することは当然だと思いますが、なんと、新たにつくられた人工景観のほうが美しいなどと言った感覚は信じがたいことに私には思えます。しかし、そういう記録が残っているそうですから、それは事実でしょう。つまり、日本人のある種のきわめて特徴的な性向がこのエピソードに出ているのです。明治のこの時期の日本人の世界観は、和魂漢才から和魂洋才に推移していた時期でありましたが、国内勢力の中には明らかに「洋魂洋才」の売国勢力が台頭していました。

 これに熾烈な怒りを持って立ち上がったのが、あの有名な熊本敬神党(神風連)の反乱でした。実際は国家の大義を守る義挙といいますか、やむにやまれぬ大和心の体現でありました。三島由紀夫が晩年の大作「豊饒の海」で神風連の逸話(神風連史話)を扱っています。現在は、原田武夫氏や関岡英之氏などが国内に巣食う米国エージェントを注視しろと言っております。私は満州帝国は立派な国土拡張計画だったと考えております。本当に五族協和を具現化し、新興国家のモデル的建国となっています。ただし、終戦時に関東軍の行った満州国放擲は重大な問題があります。寝耳に水のように、北部満州の邦人たちはソ連軍の奇襲的侵攻に対し、無残にも人柱(防波堤)とされ、殺戮や蹂躙、虜囚の憂き目に遭わされています。これは関東軍の棄民的行為と糾弾されて然るべきものでしょう。しかし、南下逃避行の時に住民を守りながら引率した関東軍がいたこともまた事実であります。この痛ましいできごとが、単純に関東軍の最大の瑕疵だったとは言い切れない部分もあります。もちろん、ソ連が条約を一方的に突然に破棄したことが原因でありまして、関東軍は全体の無事な避難が間に合わず、鬼の選択肢を取らざるを得なかった事情もあると考えます。しかし、犠牲になった方々のことを考えますと、ものすごく複雑な気持ちになります。実は私の母も満州南下逃避行の一行にいまして、その目で多くの犠牲者を目の当たりに見ながら生きながらえています。従って、その犠牲は、後世の私でも、歴史の非常さに飲み込まれた哀れな人たちだったと思えない気分もあります。

 T様の言われるように、戦後日本人の精神が、ルビコン河を渡って地獄の一丁目に来てしまったことは、遡れば明治維新に端を発しているような気もします。日本核武装論ですが、たしかにアメリカはけっして容認しないでしょう。しかし、逆に言いますと、日本が核武装論を唱えた場合、アメリカや旧連合国家群には反論の根拠がないことも事実です。なぜなら、戦後の半世紀以上にわたって、日本は完全に非戦状態を貫いた実績があるからです。この非戦状態がアメリカの植民地状態だったから、それは主体性を持つ非戦ではなかったという言い方もできますが、国際的、形式的にはアメリカは日本を同盟国としている以上、日本の自衛的核武装は是認する以外にないはずです。当然、周辺国に対する自衛的抑止手段として核を装備すると主張することは現代戦後体制下においても道理が通っています。もし、アメリカや中国が、ヤルタ-ポツダム秩序を盾にとって、日本核武装論を断固否定するならば、かの二ヶ国が戦後、どれほどの戦争行為を行なったかを、国連の場で堂々と言えばいいのです。日本はインドやイスラム勢力を味方に付ければ核武装への進展も不可能ではないと思います。これにアメリカが反対する根拠は極東国際軍事裁判しかありません。従って、この裁判の裁定思想を覆せば、アメリカに反論の余地はないでしょう。

 しかし、問題の根源は、国際事情というよりも、国内の日本を失った日本人にあるのでしょうね。アメリカや中国に魂を売った売国日本人たちです。日本の心を失った日本人、この問題を解決しなければ日本は永久に蘇生しないでしょう。現代のローマに魂まで蹂躙され、ローマに屈服した東洋の国に、唯一残るのはカルタゴの運命だけです。

 メールほんとうにありがとうございました。また、ご意見を寄せていただければご幸甚であります。

                        神州の泉管理人  高橋博彦


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読者T氏の日本論(1)

「神州の泉」様

 私は58歳の自営業者です。いつも記事を拝読させて頂いて居ります。貴兄のご努力とご高察には敬意を表明したいと思います。更に、貴兄のご指摘の9割以上に賛意を示したいと思います。と言って、残りの1割に反対かと言うと、そうでは有りません。単に、自身の不勉強と伴う理解不足に拠るものです。以上を踏まえた上で、私なりの感想を述べさせて頂きたいと思います。目障り・耳障りと感じられましたなら、どうぞ途中でお止め下さい。

 結論から先に申し上げますと、私には日本国及び日本人が先の9・11解散総選挙に於いて、世界と人類が9・11テロに於いてと同様に、渡ってはいけないルビコン河を遂に渡ってしまったと思わざるを得ないのです。私にはこの二つの事柄が重複して見えます。9・11テロはその反動として、国連を無視したアメリカ主導による多国籍軍の大義無きアフガニスタン・イラク侵攻をもたらし、彼の地は阿鼻叫喚の絶えないこの世の地獄と化してしまいました。世界と人類はアメリカのこの横暴に対して何らの対処も出来ません。

 9・11解散総選挙も、その結果はアフガニスタン・イラクと同様に、現在のところ戦争・内乱という最悪の形態にこそ至ってはおりませんが、内実は日本国内を熾烈なアメリカの日本経済収奪に晒し、更にはそれに伴う超格差社会の出現という極めて不安定で醜悪な混乱に導いている気がします。9・11テロ同様に、日本とその国民はその対策になす術もなく、社会は日に日に劣化の一途を辿っております。上述2件に共通する9・11と言う数字には、何か恣意的なものを強烈に感じざるを得ません。意図的な見えない陰の力が働いている様に感じます。

 9.11テロはさておき、9・11解散総選挙に焦点を当てますと、その結果は日本を更なる劣化と混乱に導くものである事は間違いありません。恩恵を蒙る極く一部の人々を除いて、解散総選挙後の日本社会に於いて状況が改善され良くなっていると思う者など、よほどの馬鹿を除いて、一人も居ないでしょう。大多数の国民が状況の悪化を実感しているのが実状でしょう。今後状況はますます悪化して行き、最悪の事態に行き着くと思われます。何故なら、我々が自身でその結果を招いたからです。政治家やマスコミのプロパガンダに踊らされた結果と指摘する向きもありますが、それが総てとは言えません。肝心な事は、我々自身が事前の深い考察も無くそれを望み・受け容れたという事であり、現況はその結果だという事です。これがルビコン河を渡ってしまったと言う、本当の意味です。

 この萌芽を、私なりに歴史的に辿りますと、勿論江戸末期のぺりー来航に行き着きます。砲艦外交の恫喝に於いても本格的内戦には至らなかった日本ですが、結果として開国・明治維新に至りました。しかし、その様な混乱の中でも”西南の役”が起りました。西郷隆盛による明治政府への反乱です。詳しくは解りませんが、その本質は西郷による政府要人の売国政策に対する義挙でしょう。結果として、国民大衆はこれを支持する事なく、反乱軍は鎮圧されます。後に西郷は国家国民により明治維新の貢献者として偉人に祭り上げられ評価されますが、それこそ後の祭りです。国家国民は西郷の義挙を支持することなく、見捨てた挙句、後になって再評価し帳尻を合わせただけなのです。

 西南の役を境に平定された明治はその後、鹿鳴館という毛唐猿真似の狂乱まで出現させます。何か日本の戦後に似ていませんか。短足胴長の日本人が無理して見栄を張って、ドレス・モーニングを纏いワルツに興じる。西郷が見たら、さぞ嘆いた事でしょう。いつの時代も同じですね。時代は飛びますが、昭和に入り、青年将校団による2.26事件が起きます。これも当時の社会状況に憤慨・絶望した青年将校団による義挙であったと思いますが、結果的に軍や国民の支持を得られず、反乱軍の烙印を押され、首謀者達は刑場の露と消えます。後に義挙は純真なる青年将校達による真に国を思う行動であったなどと美化されますが、これも西郷と同様、後の祭りです。

 その後、満州事変等の動乱を経て、太平洋戦争という本格的戦争に突入して行く日本ですが、その間に満州開拓という国策が行われました。悲惨なのは、その結末でした。国策としてソ満国境周辺に開拓移民として送り込まれた邦人達は、大戦末期の敗戦色濃い当時、もうすぐそこまでソ連軍が迫っているにも拘わらず、何ら情報も与えられず、関東軍に見捨てられたのです。その結果はご存知の通りです。戦後、多くの人々が引き揚げましたが、取り残された人々は残留孤児となりました。その後運良く、身許照会などで帰国を果たした人々の大多数は帰国後、不自由な日本語や政府援助の減額や打ち切り等により、社会の底辺に取り残されている者が多いと聞きます。

 戦後の”ギブミーチョコレート”、パンパンの大量出現、極東軍事裁判、占領軍司令官マッカーサー元帥への盲目的崇拝、売国奴宰相吉田茂の国葬、安保闘争,恒久米軍基地列島、政治家による今日まで綿々と続く汚職・疑獄と全く改善されない状況、公害裁判の異常な長期化による被害者の不救済等々、数え上げたらキリがありません。三島事件の時、市谷駐屯地に於ける三島の檄を目の前にした自衛隊隊員達の三島への嘲笑、今でも鮮明に覚えてます。当時、多くの社会人達の漏らした三島事件への感想は”馬鹿じゃないのー”という冷笑が殆どでした。私も事件の本質が解らず、単に時代錯誤のなせる業と思っておりました。今だから、三島のメッセージの重要性が理解できるのですが。時既に遅しです。そして最後に、真打ち小泉売国政権の登場!

 明治以降の日本の汚点を書き連ねましたが、誤解しないで頂きたいのですが、私は愛国者です。国や国土を愛しています。特に日本民族が武士道を有した事に誇りを持ちます。しかし、明治維新以降の日本人には感心できません。何故かと言うと、日本人自身が日本人の敵として、肝心なときにいつも日本人の前に立ちはだかるからです。明治以降、官僚や政治家が獅子身中の虫として危急の際同胞の前に立ちはだかるのです。その害や止まる所を知りません。国民はいつも甚大な被害を蒙るのですが、事後誰として責任を取るわけでもなく、いつもすべてがウヤムヤにされ、国民の側も何時しか忘れ去り、事は風化して行くのです。武士の時代には、最終的ケジメとして、切腹がありました。故に武士はその挙動において矜持を保ち慎重に物事を推進したのだと思います。明治以降この切腹という最終責任の取り方が日本社会から消滅して以来、日本人はその自身の重みを喪失したのでしょう。

 話を元に戻します。日本が日本人が遂にルビコン河を渡ってしまった真因は、武士道精神を敢えて自ら棄て去った明治維新にまで遡るのではないかということです。反動で顔が赤くなるような猿真似の鹿鳴館の登場がそれを物語っているような気がします。当時の日本支配階級は西欧コンプレックスに陥って、古臭い伝統的日本に恥すら感じていたのではないでしょうか。残念ながら、当時の日本には既に日本の伝統文化を見下し西欧文化を崇める日本人高官達(元勲)が、現在の日本と同じ様に、存在していたのではないでしょうか。その様な者達に日本が指導されれば、いずれは国は誤る。このことを賢明な西郷は見抜いており、身を挺して義挙に及んだのでしょう。

 戦後の日本に於いては、原爆を落とされた上、進駐軍の圧倒的物量を目の当たりにしたにした日本人は、上から下まで西欧文明に圧倒され、盲目的にこれに自ら隷従し、昨日の敵に愛情すら覚えたのではないか。しかもその素地は遠く明治維新に存在していたのではないか。その証拠が、突然の日本人のクリスマス狂騒である。私は今でもハッキリ覚えている。クリスマスにサラリーマン達がとんがり帽子をかぶり、酒に酔いながら銀座を闊歩していた事を。戦後の日本人の大多数は国を挙げてアメリカを、いや敗戦をも歓迎したのです。

 以前、ビートたけしのTVタックルという番組で、常連のハマコー氏が”日本はアメリカの植民地だ”と公然と発言しました。卑しくも政権政党の要職を歴任した元国会議員が、しかも元ヤクザの右翼と目される方が、公の場でされた発言でした。出席者の内、誰一人として、この発言に対し、口角泡を飛ばしてハマコー氏に議論し詰め寄る者は居ませんでした。翌日のマスコミでこの発言を取り上げたところは皆無に等しいと思います。私は思いました”氏の発言は真実であり、戦後の日本は総てマヤカシだったのだと”。歴代自民党政権は植民地日本のアメリカの為の行政機関であり、その政治は決して日本人に対して顔を向けてはいないと。戦後日本の独立はあくまで仮のものであり、アメリカの植民地という実体の上に載せられた虚構であったと。戦後の60年は、政官マスコミ一体となり、日本人を騙し続けた嘘の歴史であったと。日本の真の独立が虚構なら、虚構の中で締結された安保条約など無効に決まっています。

 お恥ずかしい話ですが、私はハマコー氏の説を聞くまで、日本を本当の意味で独立国と思っておりました。従いまして、地位協定等に違反する米軍の理不尽さには青くなったり赤くなったりしておりました。しかし、この件以来、総てが氷解しました。歴代自民党政権、小泉元首相・竹中大臣、安倍首相とその内閣,総て売国奴ではないのです。売る国は既にとっくの昔に植民地になっており売る事すら出来ず、単なる買弁に過ぎないのです。アメリカの傍若無人と日本の卑屈なる平身低頭の意味が良く解ります。アメリカと日本の関係の本質実体は単に宗主国と植民地に過ぎないのです。日本は単に独立国ゴッコをやらされていただけです。不幸にも植民地日本人の大多数はこの事実を知らされる事なく、脳天気に日本国と国民を演じさせられていただけです。

 9・11解散総選挙によって、日本人と称すべき者達が小泉元首相に与えたものとは、彼に対する信任のみならず、米国代理現地行政官としての認証と植民地日本に対する米国の直接統治の受け入れを表明したものであったのです。いま友好国アメリカはその仮面をかなぐり捨て、その下にある宗主国としての素顔を顕そうとしています。その時、植民地日本は明治維新以来のトラウマを総決算させられる筈です。それが、貴兄が記事にて心配されている諸事項の現実化です。因みに、宗主国は植民地をして、決して決して核武装などさせません。させるフリはしますが。

 実は、日本がアメリカの植民地であると自覚して以来、私自身はアメリカに対して愛憎などなくなりました。以前はアメリカに対して好き嫌いがありましたが、自覚して以来何も感じなくなりました。ただ現実を直視したいと思うだけです。それよりも残念なのは、明治維新以来、特に敗戦以降の日本人の著しい劣化です。我が民族には自浄作用というものが全く働かないのだと悟りました。矜持もなく自浄作用も働かない民族が、相手から馬鹿にされ軽蔑されるのは当たり前のことです。安倍政権になって安倍首相は未だ一度もアメリカ訪問をしてません。歴代の首相は就任するとイの一番にアメリカに表敬訪問に行きました。安倍氏は他の国々へは行きますが、肝心なアメリカには未だ行っておりません。これを私流に解釈すれば、9・11の解散総選挙の結果、日本人から統治の白紙委任を得たアメリカは、最早日本と儀礼的な国と国との国交ゴッコをする必要性を感じなくなり、必要な命令は既存の通信手段を以ってすれば事が足り、どうしても必要な時だけ安倍氏が來米すればよいとその方針をきりかえたのではないかと思われるます。

 思いつくままに私の所感をお伝えしました。失礼な点がありましたら、お許し下さい。
                     (2007.01.27)            読者T


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2007年4月17日 (火)

アメリカの野蛮なる真実(2) 

 (読者・通行者さんからの投稿文です)

 歴史は過去に起きたことを解釈したものです。しかし、近現代史はただ過去に起きたことの解釈に止まらず、現代の国家関係を形成するための倫理・道徳を求める上での根拠となっています。そこでは、第二次大戦の戦勝国(主にアメリカとイギリス)はその倫理・道徳を体現する存在となり、第二次大戦以後の(国連を中心とした)世界秩序の基礎となる理念を形成する立場に位置し、敗戦国(主に日本とドイツ)は世界の敵にされて、それ故に、戦後世界秩序の理念への絶対服従が要求されています。つまり第二次大戦が近現代史を解釈する価値の土台となっているということです。連合国共同宣言と国連憲章がそれを象徴しています。

 「この宣言の署名国政府は、大西洋憲章として知られる1941年8月14日付アメリカ合衆国大統領並びにグレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国総理大臣の共同宣言に包含された目的及び原則に関する共同綱領書に賛意を表し、これらの政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するため並びに自国の国土において及び他国の国土において人類の権利及び正義を保持するために必要であること並びに、これらの政府が、世界を征服しようと努めている野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争に現に従事していることを確信し、次のとおり宣言する。

(1) 各政府は、三国条約の締約国及びその条約の加入国でその政府
   が戦争を行っているものに対し、その政府の軍事的又は経済的な
   全部の資源を使用することを誓約する。

(2) 各政府は、この宣言の署名国政府と協力すること及び敵国と単独
   の休戦又は講和を行わないことを誓約する。

 この宣言は、ヒトラー主義に対する勝利のための闘争において物質的援助及び貢献している又はすることのある他の国が加入することができる。」  (連合国共同宣言)
連合国共同宣言
ttp://www.hoppou.go.jp/library/document/data/19420101.html

「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機関を設ける。」(国際連合憲章 前文)

「第53条〔強制行動〕
1 安全保障理事会は、その権威の下における強制行動のために、適当な場合には、前記の地域的取極又は地域的機関を利用する。但し、いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。もっとも、本条2に定める敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。 2 本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される。」(国際連合憲章 第53条)
国際連合憲章(全文)
ttp://www.lares.dti.ne.jp/~m-hisa/uncharter/japanese.html

近代の歴史研究は史料の科学的な分析が不可欠ですが、近現代史の研究の場合、上記の戦勝国=善、敗戦国=悪、の図式を正当化する事象が無批判に歴史解釈の根拠に使用され、史料検証がなおざりにされる傾向が目立ちます。そこにあるのは、第二次大戦の戦勝国の支配の正当化、つまり連合国の利益を維持する方向に働くイデオロギーです。ここではそこから先のことを分析してみます。

 連合国が正義だとされるのは戦争に勝ったということもありますが、何より彼等が民主主義を掲げていたことが連合国の正義を印象付ける最大の根拠となっています。ソ連や中国(当時は中華民国)が民主主義国家かという批判もあるでしょうが、当時は共産主義はまだ資本主義よりも民主的な制度だと信じられていたし、身も蓋も無いことを言えば、歴史とは時間が経つに従って単純化、図式化され大掴みな印象が支配してしまうものです。それで結局のところ現在は、近現代史は民主主義を標榜している米英を中心とした連合国が正しかったという観念が先行しています。そして、米英の民主主義を人類の絶対的な理念と信じさせる原因となったのは、やはりナチスのホロコーストでしょう。

 私はホロコーストは存在しなかったと思っています。ここでいうホロコーストとはユダヤ人を対象とした絶滅政策、もっと具体的に定義すれば、ガス室を使用してのユダヤ人の虐殺のことです。しかし、ホロコーストを学術的に検証する能力は私にはないので、私は、米英の民主主義は本当に人類の理念なのかということを検証していきます。ホロコーストの見直しについては、知っている人も多いと思いますが、これらのサイトをご覧になってください。

ソフィア先生の逆転裁判
ttp://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/sohiasenseinogyakutensaiban2_mokuji.html
歴史的修正主義研究会
ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/

 民主主義という言葉が対象とする概念は曖昧です。政治制度を示す意味で使われる場合もあれば、その制度が目指す目標(つまり自由と平等)を指す場合もあるし、その両方を含めたイデオロギーを示す言葉として使われることもあります。これから問題にする民主主義はイデオロギーとしてのそれです。まず民主主義の出発点とされる、アメリカ独立宣言の要旨を引用します。

 「人の営みにおいて、ある人民にとって、他の人民と結びつけてきた政治的な絆(きずな)を解消し、【自然の法や自然の神の法によってその資格を与えられている】独立した、対等の地位を地上の各国のうちに得ることが必要となるとき、人類の意見をしかるべく尊重するならば、その人民をして分離へと駆り立てた原因を宣言することが必要とされるだろう。

我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。

 すべての人間は平等につくられている。【創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。】これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関をもつ。その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。……この宣言を支えるため、【神の摂理への堅い信頼とともに、我らは相互にその生命、財産、そして神聖なる名誉を捧げあうことを約するものである。】」(アメリカ独立宣言)
アメリカ独立宣言(全文)
ttp://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/america/declar.htm

 ここではまず神との契約が明記されています。彼等の神は当然、聖書に出てくる一神教の神です。これだけではなく、すべての西洋思想は一神教の世界観が前提となっています。つまりは近代社会は一神教の世界観の原理で動いていることになります。

 「自然の状態にはそれを支配する自然の法があり、それはすべての人を拘束している。そして理性こそその法なのだが、理性を少し働かせてみれば、すべての人は万人が平等で独立しているのだから、だれも他人の生命、健康、自由、あるいは所有物に危害を加えるべきではないということが分かるのである。【なぜなら人間は皆、唯一全能でかぎりない知恵を備えた造物主の作品だからである。すなわち人間は、唯一なる最高の主の命に
よってその業にたずさわるために地上へ送られた召使であり、主の所有物であり、主の作品であって、人間相互の気ままな意志によってではなく、神の意のある間、生存を許されるものだからである。】」(ジョン・ロック『統治論』 第二篇、第二章)

 「もちろん、かれはふつう、社会一般の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知らない。外国産業よりも国内の産業活動を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。

 だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、【見えざる手に導かれて】、みずからは意図していなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、これを意図していた場合にくらべて、かならずしも悪いことではない。自分の利益を追求することによって、社会の利益を増進しようと真に意図する場合よりも、もっと有効に社会の利益を増進することもしばしばあるのである。」(アダム・スミス 『国富論』 第四篇、第二章)

 それでは一神教はどういう原理で成り立っているのでしょうか。まず一神教の核にあるのは自然宗教(多神教、アニミズム)の根絶です。一神教の神はこの世界を創造した者、つまりこの世の外にいるはずの存在ですから、自然世界に神が宿るという信仰は、一神教の概念を根底から崩壊させることに繋がります。だから一神教は多神教を偶像崇拝として排除しなければならないのです。

 「あなたの神、主が与えられるどこかの町で、あなたがたの中に、男にせよ女にせよ、あなたの神、主が悪と見なされることを行って、契約を破り、他の神々に仕え、その神々や太陽、月、天の万象などわたしが命じたことのないものにひれ伏す者がいるならば、その知らせを受け、それを聞いたときには、よく調べなさい。もし、それが確かな事実であり、イスラエルの中でこうした、いとうべきことが行われたのであれば、この悪事を行った当の男な
いし女を町の門に引き出し、その男ないし女を石で打ちなさい。彼らは死なねばならない。」(旧約聖書 申命記
17.2,3,4,5)

 「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですか
ら、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(新約聖書 ペトロの手紙二 3.10,11,12,13)

 次に、その結果として生じるのは神を共同体の統治の絶対的権威者とすることです。一神教を信仰する者は、自然の秩序の中で生きることを拒否した結果として、彼等の共同体を維持する権威として、(聖書に書かれた)神の命令と、それを履行させるための恐怖が必要になるのです。

 「(だれかが)天下を治めようとして作為するならば、
 わたしはその人は目的を達することができないと断言する。
 『天下』というこの不思議なものは、
 (むりに)治めることのできないものである。
 なんとか治めようとすると、天下を壊してしまい、
 なんとか握ろうとすると、天下を失ってしまう。
 だから、すべてのものごとは(もともと)
 あるものは先に進み、あるものはつき従い、
 あるものはそっと口を吹きならし、
 あるものはいそいで吹きならし、
 あるものは強壮で、あるものは弱々しく、
 あるものは少しく壊れ、あるものはすっかり壊れる。
 それゆえ
 『聖人』は(かならず)極端なもの、贅沢なもの、
 度をすぎたものを捨て去るのだ。」(老子 第二十九章)

 「大道はあふれた川の水のようだ、
 それは左へ右へと流れる。
 万物はそれをたよりにして生きているが、
 それは万物に干渉したことはなく、
 大きな事業が完成しても、
 それがどこでおこなわれたかを言わない。
 (それは)万物を守り育てるが、自分を主とはせず、
 いつも自分の欲望をもたないのでほんの小さなものだとよんでよい。
 万物はそこに向かってゆくが、自分を主とはしないから、
 偉大だとよんでよい。
 それは自分を偉大だと考えない、
 だからこそ偉大になれるのだ。」(老子 第三十四章)

 「『道』が万物を生みだし、
 『徳』が万物を繁殖させ、
 性質が万物に形を与え、
 〔こうしてできた〕具体的な物や器具によって万物が完成する。
 こうしたわけで万物はかならず『道』を尊崇して
 『徳』を重視するのである。
 『道』が尊崇され、
 『徳』が重視されるわけは、
 だれかが命令したからではなく、
 ずっとそのようであったからだ。
 それゆえ
 『道』が万物を生みだし、
 『徳』が万物を繁殖させ、
 万物を生長させ発展させ、
 万物に実を結ばせ成熟させ、
 万物を養い守るのである。
 万物を生み育てながら、それを自分のものだとはせず、
 万物を発展させながら、自分の力のせいだとはせず、
 万物の長となっても、かれらを支配したりはしない。
 これこそが、もっとも深遠な『徳』なのである。」(老子 第五十一章)

 「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。あなたは、今日わたしが、『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。」(旧約聖書 申命記 7.9,10,11)

 「同じ母の子である兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友に、『あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』とひそかに誘われても、その神々が近隣諸国の神々であっても、地の果てから果
てに至る遠い国々の神々であっても、誘惑する者に同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。

 このような者は必ず殺さねばならない。彼を殺すには、まず、あなたが手を下し、次に、民が皆それに続く。あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出したあなたの神、主から離して迷わせようとしたのだから、彼を石で打ち殺さねばならない。全イスラエルはこれを聞いて、恐れを抱き、あなたたちの中でこのような悪事は二度と繰り返されることはないであろう。」(旧約聖書 申命記 13.7,8,9,10,11,12)

 「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。」(新約聖書 テサロニケの信徒への手紙二 1.6,7,8,9)

 異端審問-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F
魔女狩り-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E7%8B%A9%E3%82%8A

 さらに、一神教では神は一人しかいないことになっていますから、一神教の秩序に基づく共同体を確立させるには異教あるいは異教徒を根絶しなければならなくなります。そのことを世界最大の一神教であるキリスト教の教徒達が行ってきた行動が証明しています。

十字軍-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D

「スペイン人はまず西インド諸島にやってきて、エスパニョーラのインディアンに対して一連の皆殺し作戦を行った。歩兵とブラッドハウンド犬をともなった騎乗の征服者(コンキスタドール)たちは、島の狩猟収集部隊をほとんど意のままに打ち破った。女、子供を逃さず、強姦し殺戮した。インディアンの抵抗は容赦なく鎮圧された。1496年までにスペイン人はエスパニョーラ島を完全に制圧した。同様の襲撃はキューバやカリブ海の他の島々に対しても行われた。

 コンキスタドールは国王の名において新世界にやってきたのだが、しかし、それはまたイエスの名においてでもあった。教会はしばしば彼らの手先として、進んで新しい土地の略奪に参加した。司祭は兵士たちと一緒にインディアンの村落にあらわれ、インディアンに向かって、キリスト教信仰を受容すべし、とスペイン語で書かれた公式の催告書(レケリミエント)を読みあげることになる。

 レケリミエントは教会が国王に新世界領有権を与えたと述べていた。そこには、イエスが宇宙の主であり、彼が聖ペテロをローマ大司教に任命し、ローマ法王がアメリカをスペイン国王に授けた、と宣言されていた。」(トーマス・R・バージャー 『コロンブスが来てから 先住民の歴史と未来』朝日選書 第一章)

 「ワシントン大統領はインディアンを保護する点での彼の政府の無能さに悩まされた。ワシントンは『万里の長城か軍の横隊でもなければ』土地投機屋や不法居座りの連中をインディアンカントリーから締め出すことはできないと匙を投げた。ワシントンの陸軍長官ヘンリー・ノックスはフロンティアの男たちと入植者によるインディアンの土地の押収を『力と詐欺による』ものと書き、さらに続けている。

  われわれはインディアンよりも、より強力でより文明化されているのだから、彼らを親切な心で、いや寛容の心すら持って取り扱わな くてはならぬ、国民性にかかわる責任がある。われわれの植民のやり方が、インディア
ン先住民に対して、メキシコやペルーの征服者の 振る舞いよりもなお破壊的だったことを思うと、憂うつな気持ちに沈められる。われわれの悪業の証拠は、合衆国の最も人口の多い部分 ではほぼすべてのインディアンが全く絶滅しているということである。将来、歴史家はこの民族破滅の原因を暗黒色で描くかも知れぬ。

 ワシントンの後の、歴代ほぼすべての大統領は連邦の権威でインディアンの諸権利を保護しようとした――あるいはそうするふりをした――が、そのだれもがインディアンの土地に対する入植者たちの飽くことを知らぬ欲望の前に屈してしまった。」(バージャー『コロンブスが来てから』第六章)

「南北戦争の間ですら、西部では白人入植者とインディアンの間で衝突が起こった。地方の民兵はとりわけ野蛮だった。1864年11月29日、コロラドの志願民兵たちは、サンドクリークの野営地で睡眠中のシャイアン・インディアンの男、女、子供を皆殺しにした。北と南の戦争状態が終わったあとは、インディアン戦争は以前にもまさる激しさで再開された。ロバート・M・アトリーの言葉のとおり、『アポマトックスのあと、合衆国は西を向いた』。それに続く25年の間、合衆国はインディアンに対して戦争を行い、一連の事実上の絶滅政策は、南北戦争の終結から1890年まで続いた。

 南北戦争のあと西部大平原の合衆国陸軍の司令官となったウィリアム・テクムセ・シャーマンと、その配下のフィリップ・シェリダンの両将軍は、ともに南北戦争の英雄だが、両者ともインディアンを絶滅すべしという発言をしたことがあった。ユリシス・S・グラント将軍ですら、1868年の共和党からの大統領候補者の一人として、その要求に呼応する発言をした。言うまでもないことだが、それは多くのフロンティアの男たちが取り上げたスローガンでもあった。シャーマンが南部に対して全面戦争を挑んだのと同様に、彼とその指揮下の将軍たちはインディアンに対して全面戦争を実行した。グラントは大統領になると、建前としては和平政策をとったが、西部のインディアンにとっては平和などありはしなかった。」(バージャー『コロンブスが来てから』第七章)

 「合衆国は寄宿舎つきの学校を設立した。インディアンの子供達たちは何年も学校に保留され、彼らから親たちと部族の影響を取り除く、あらゆる努力がなされた。衣服、言語、宗教的行事を含む、実際上すべてのインディアン的なものが禁じられた。カナダでは、私たちは一般土地割当法は採用しなかったが、先住民の子供たち用の寄宿学校は設立した。それはキリスト教会によって運営管理された強制同化の施設であり、インディアンの全世代に傷痕を与えた。」(バージャー 『コロンブスが来てから』第八章)

 「コンキスタドーレスに代表されるスペイン人、ポルトガル人の新大陸征服事業は、イベリア半島における異教徒イスラム教徒からの国土回復運動の延長であったが、その性格は『三つのG』(ゴールド・ゴスペル・グローリー)
によって象徴されるように、富の獲得とキリスト教の拡大と個人の栄光との三位一体であった。では、異教徒インディアンや黒人が、キリスト教徒に改宗すれば、奴隷化を免れたであろうか。初期にはそういう事例もあった。し
かし、奴隷による商品作物生産が本格的になり、利潤獲得が第一目的になると、インディアンや黒人キリスト教徒の奴隷化の禁止や、あるいは改宗による解放といったことも影を潜め、すべてのインディアン、アフリカ人が(そ
の実現の成否はともかく)奴隷化の対象とされたのである。

 それではキリスト教徒たちは、自分たちの行為の正当性をどのように主張したか。キリスト教徒はアフリカ人の奴隷化を、旧約聖書や新約聖書が奴隷化を是認したこと、神によって選ばれた民が奴隷所有者であり、キリストも奴隷制を攻撃していないし、その弟子パウロは奴隷制の積極的支持者であったと、長い間正当化してきた。」(『近代世界と奴隷制』人文書院 序章)

 「エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。あなたは彼らを過酷に踏みにじってはならない。あなたの神を畏れなさい。しかし、あなたの男女の奴隷が、周辺の
国々から得た者である場合は、それを奴隷として買うことができる。あなたたちのもとに宿る滞在者の子供や、この国で彼らに生まれた家族を奴隷として買い、それを財産とすることもできる。彼らをあなたの息子の代まで財産として受け継がせ、永久に奴隷として働かせることもできる。」(旧約聖書 レビ記 25.42,43,44,45,46)

 「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけ仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」(新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6.5,6,7)

 「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いな
さい。」(新約聖書 コロサイの信徒への手紙 3.22,23)

 「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒瀆されないようにするためです。」(新約聖書 テモテへの手紙一 6.1)

 「奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。」(新約聖書 テトスへの手紙 2.9,10)

「次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているか
らです。」(新約聖書 コリントの信徒への手紙一 15.24,25)

 これらことから近世以降、白人達が異教徒、有色人種に対して行ってきた残虐行為は、一神教のイデオロギーによる必然的な行動だった言えます。世界史の流れで見れば、一神教イデオロギーによって組織された西洋人(白人)国家の世界征服事業、一神教イデオロギーを社会組織へ適用させるために生み出された西洋思想が世界を混乱させてきたことになり、その到達点としての二度の大戦を生み出したことになります。第二次大戦後の世界秩序は、世界の災いの元凶である西洋思想と西欧の国家モデルを基礎として形成されていることになります。戦後世界は最初から誤った運営方針で構築されてきたのですから、現在の世界情勢が行き詰ってい
るのは当然の結果です。

 だからこそ連合国は歴史を捏造しなければならないのです。連合国の世界支配を確立しているものは、西洋文明が人類にとって唯一の文明であるという信仰であり、そして、その文明を連合国が守り通してきたという神話です。西洋文明が人類の唯一の文明だと信じているうちは、人々はその文明の正統性を疑うことができず、そのため、西洋人が歴史上行ってきた残虐行為は黙殺されていますが、西洋文明こそが人類の災いの源であると知られてしまえば、連合国中心史観に与した者は、自分達が下した正義の裁きを、今度は逆に自分達に向けなければならなくなります。彼等は、西洋人が一神教イデオロギーの下に近世から行ってきた異教徒、有色人種の絶滅政策と、その史実を、歴史を捏造することで隠蔽してきた事実を直視しなければならなくなります。そして、西洋文明の犯罪性の要因が一神教にあることが世界の人々に知られ、世界中から一神教を放棄しなければならなくなったとき、一神教の世界観の下で築き上げられてきた西洋文明は崩壊します。


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アメリカの野蛮なる真実(1) 

 (読者・通行者さんからの投稿です)

 「ワシントン大統領はインディアンを保護する点での彼の政府の無能さに悩まされた。ワシントンは『万里の長城か軍の横隊でもなければ』土地投機屋や不法居座りの連中をインディアンカントリーから締め出すことはできないと匙を投げた。ワシントンの陸軍長官ヘンリー・ノックスはフロンティアの男たちと入植者によるインディアンの土地の押収を『力と詐欺による』ものと書き、さらに続けている。

  われわれはインディアンよりも、より強力でより文明化されているのだから、彼らを親切な 心で、いや寛容の心すら持って取り扱わなくてはならぬ、国民性にかかわる責任がある。われ われの植民のやり方が、インディアン先住民に対して、メキシコやペルーの征服者の振る舞い よりもなお破壊的だったことを思うと、憂うつな気持ちに沈められる。われわれの悪業の証拠 は、合衆国の最も人口の多い部分ではほぼすべてのインディアンが全く絶滅しているというこ とである。将来、歴史家はこの民族破滅の原因を暗黒色で描くかも知れぬ。

 ワシントンの後の、歴代ほぼすべての大統領は連邦の権威でインディアンの諸権利を保護しようとした――あるいはそうするふりをした――が、そのだれもがインディアンの土地に対する入植者たちの飽くことを知らぬ欲望の前に屈してしまった。」(トーマス・R・バージャー『コロンブスが来てから』朝日選書 第六章)

「南北戦争の間ですら、西部では白人入植者とインディアンの間で衝突が起こった。地方の民兵はとりわけ野蛮だった。1864年11月29日、コロラドの志願民兵たちは、サンドクリークの野営地で睡眠中のシャイアン・インディアンの男、女、子供を皆殺しにした。北と南の戦争状態が終わったあとは、インディアン戦争は以前にもまさる激しさで再開された。ロバート・M・アトリーの言葉のとおり、『アポマトックスのあと、合衆国は西を向いた』。それに続く25年の間、合衆国はインディアンに対して戦争を行い、一連の事実上の絶滅政策は、南北戦争の終結から1890年まで続いた。

 南北戦争のあと西部大平原の合衆国陸軍の司令官となったウィリアム・テクムセ・シャーマンと、その配下のフィリップ・シェリダンの両将軍は、ともに南北戦争の英雄だが、両者ともインディアンを絶滅すべしという発言をしたことがあった。ユリシス・S・グラント将軍ですら、1868年の共和党からの大統領候補者の一人として、その要求に呼応する発言をした。言うまでもないことだが、それは多くのフロンティアの男たちが取り上げたスローガンでもあった。シャーマンが南部に対して全面戦争を挑んだのと同様に、彼とその指揮下の将軍たちはインディアンに対して全面戦争を実行した。グラントは大統領になると、建前としては和平政策をとったが、西部のインディアンにとっては平和などありはしなかった。」(バージャー『コロンブスが来てから』第七章)

「合衆国は寄宿舎つきの学校を設立した。インディアンの子供達たちは何年も学校に保留され、彼らから親たちと部族の影響を取り除く、あらゆる努力がなされた。衣服、言語、宗教的行事を含む、実際上すべてのインディアン的なものが禁じられた。カナダでは、私たちは一般土地割当法は採用しなかったが、先住民の子供たち用の寄宿学校は設立した。それはキリスト教会によって運営管理された強制同化の施設であり、インディアンの全世代に傷痕を与えた。」(バージャー 『コロンブスが来てから』第八章)

アメリカはこういう課程を経て築き上げられてきた国です。信用なんて出来ません。


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2007年4月16日 (月)

アメリカはハメルーンの笛吹き(流れない原田武夫氏の意見)

      芸能人たちの政治激論スペシャルを見て

 13日の金曜日、本ブログの読者さんが、午後7時の日本テレビに原田武夫氏が出ると教えてくれたので、その番組を見てしまった。それは「太田総理と秘書田中みんなで話せば日本が変わる!春の激論SP」という番組で、爆笑問題の太田光が「総理大臣」となり、国会議員や文化人、芸能人たちが、提案された”マニフェスト”について議論するスペシャル番組だった。

 この中の日米安保がテーマの箇所で、原田武夫氏はほんの数秒間出ただけだった。ケビンとかいう若者が、「年次改革要望書」は一方的じゃなく、双務的だなどと親米派の常套句を言っていたが、原田氏はその言質を捉えて、「今、双務的だと言いましたが、そうじゃないですよ」と言ったきりで出番は終わった。招かれた大勢の識者の中で、原田氏が最も傾聴に値することを言える人物だったが、番組は彼の言葉を封じていた。次の日は、東京で原田武夫氏の講演会があったそうである。それを聴いた人から伺ったが、原田氏は実はスタジオで多くを語ったそうだが、放映時には、そのほとんどはカットされていたとご本人が言っていたそうである。

 つまり、日本のマスコミは識者の対米批判を流さないようになっているのである。戦後の日本人は、日本という国は、アメリカと同様に自由主義が実現されていて、言論思想の自由が文字通り担保されている国であると漠然と信じているところがある。現行憲法でも19条と21条はその権利を謳っている。しかし・・。

第十九条【思想及び良心の自由】
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十一条【集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密】
1  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 これらの条文は明らかに効力を持たなくなっている。というか、もっとありていに言うならこうである。戦後の日本では、言論や思想の自由に関して言うならば、ある領域に関して、この二つの条文は一貫して無効であったかもしれない。つまり江藤淳の言う「閉ざされた言語空間」という意味で、この国には思想言論の自由はなかったと言っても過言ではない。その「ある領域」とは、簡単に言えば、日本人が米国の正義や正当性を疑う言辞は一貫して許されなかったということである。原田氏の言うことがほとんどカットされている現実が、GHQ時代のプレスコードがいまだに有効に機能していることを物語っている。この現状が、マスコミの自主規制だけで行なわれているとは到底思えない。明らかに宗主国アメリカによる直接統治の形態が露骨に現われている。

 それにしても、元防衛庁長官の石破茂の日米安保認識は最低の水準だ。この人物の防衛観念はひと言で言って愚劣、ひどい。彼と太田の論争は見ごたえがあり、石破茂の論理矛盾を太田が見事に衝いていた。太田は自身のマニフェストで日米安保をご破算にして考え直すべきだという、彼なりに考え抜いた実に当然の議題を提起していたと思う。しかし、この最も基本的な論議に対し、識者はいつも判で押したようにお決まりの言辞を言い繕い、物事の本質から逃げてしまう。

 そのルーチンワークと言ってもいいような逃げの論理とはこうである。米国と上手く付き合いながらも、言うべきことはきちんと言い続けていく日本であるべきだと。いつものことながら、聞いていてうんざりしてしまう言辞である。日米ともに共有する価値感を基準にして親米を貫き、駄目なものは駄目だとはっきりと米国に言っていくなどという論議は、すでにその論理基盤からして虚妄なのである。東西冷戦の時期には、米軍占領状態の日本は地政学的に、旧ソ連や中国に睨みを利かせる橋頭堡として米国の役に立っていた。したがって、米国は、日本にある程度の国力の温存を期待した。だから日本の経済成長は大目に見ていた。しかし、東西冷戦終結前後は、日本の工業生産力は質、量ともに米国を脅かしていた。そして、東西の軍事的拮抗バランスが崩れ、一人勝ち状態になったアメリカは軍事覇権のパワーを世界経済覇権にシフトしてきた。

 アメリカは、国際軍事に注いでいたパワーを経済覇権にシフトし、友好国、同盟国から富の収奪を徹底して行なう方針に切り替えた。そのためにグローバリゼーションという市場原理主義を各国に浸透させ、その準備が整った国から、金融工学的な手法を用いて富の収奪を行なっているのである。アメリカの餌食になった国は数多くある。ラテンアメリカ諸国、ニュージーランド、東アジア諸国など、IMFと結託したアメリカの熾烈な収奪行動によって国力を殺がれた国は枚挙に暇がない。日本は同盟国という立場にあったが、防衛本能の高い有識者が面従腹背で国富防衛に頑張ってきた。しかし、その必死の体勢も小泉売国政権で完全に影を失ってしまった。

 繰り返すが、親米スタンスで日本は米国と共存共栄を行い、言うべきことはしっかりと言っていくなどと、森本敏や岡崎久彦などはしたり顔で言う。しかし、そんなことはすでに60年安保の時代からさんざん言い尽くされたことであり、今はその姿勢では日本側に弊害しか生まないことがはっきりと出てきている。今の日本は、ごまかしのない真の自主独立志向を問いかける時期に来ているのだ。なぜなら、米国による日本収奪が本格的に始まってしまったからである。石破茂も、拓殖大教授の森本敏も、もっともらしいことを言っているが、彼らの論旨は、煎じ詰めれば、日本は米国の膝下でおとなしく言うことを聞くしかないということである。奴隷国家の論理である。

 終戦時、日本に皇室が残され、国家が存続したのは戦勝国アメリカの温情であると考えている日本人は多いが、その認識が大きな誤りである。もし、当初の目論見のようにアメリカが天皇を処刑するか、あるいは国外追放するようなことを実行したら、あの当時の先人たちの半数は山にこもり、本土上陸した米軍兵と子々孫々に渡るまでゲリラ戦を行なう覚悟を持っていた。このとき、降伏して国を復興しようと考えた他の半数の先人たちと、この徹底抗戦派の熾烈なにらみ合いが始まり、一触即発で内戦状態に突入する事態があったのである。日本人同士の殺し合いを深く心痛された昭和天皇は、終戦の御詔勅を発布した。これによって日本人同士の自滅的内戦は阻止されたのである。

 こういう経緯があったからGHQは皇室の解体ができなかったのである。日本が内戦の無政府状態になったら、アメリカによる統治は事実上不可能になるからである。つまり連合国が最も望んでいた国民と天皇の紐帯の断裂はできなかったのである。アメリカ人のような馬鹿な二値論理判断を軽蔑し、それを嫌う日本人が、このときばかりは決然とした二値論理を選んだのである。すなわち、皇統が断裂するくらいなら、残った国民は総玉砕してもいい、民族は滅んでもいいという覚悟があったのである。原爆が落ちてもこの覚悟は変わらなかった。

今の日本人が、この覚悟の十分の一でも持てたら、アメリカのくびきは完全に取り去ることができる。

 太田が、日本の自主独立を話題にしたとき、石破は、もしアメリカから離れて日本が孤立した場合、中国に付くかロシアに付くか、そういうことを考えてみたらわかると思うが・・などと、アホなことを真面目くさって言っている。つまり、最も強いものに付かなきゃ損でしょ?と言っているのである。山本敏も基本はこれと同じである。誰の子分になるのがいいかという発想を持った時点で、自主独立の精神という議題からは完全に乖離している。これが奴隷根性じゃなくてなんだというのだろう。彼らは真面目くさって言う、アメリカに逆らわずに生きることが最も賢明で無難な国家の存続スタイルだと。識者や知識人、あるいはエリート官僚にこういう奴隷精神があることが、現代日本の致命的な脆弱性なのだ。

 台湾人の金美齢さんだけが唯一まともなことを言っていた。日本人は覚悟を持つだけで米国の桎梏を逃れられると。その通りである。アメリカは傍若無人にイラクやアフガニスタンを攻撃した。独善、偏屈な正義を振りかざして。こういう人殺し国家が標榜する虚妄の正義を受け入れ、国の屋台骨を造る国策を決めて、どうして日本国民が幸せになるというのだろう。アメリカが決める世界パラダイムは世界を地獄へ導くだけである。アメリカは現代のハメルーンの笛吹きなのである。こういう反人類的、独善的な精神性を持つアメリカ(奥の院)が築いた文明の幻影を追いかけてはならない。

 アル・ゴアが「不都合な真実」を世界中にばら撒いているが、産業革命以来、都合の悪い獰猛な収奪資本主義を世界に浸透させてきたのは米英である。世界中の人々から富と希望を奪い、南北格差を生じさせ、今、ガイアという地球生物圏の生命力を奪おうとしている。人を殺し、多様な文明を崩壊させ、地球環境を地獄の荒廃に導く文明が、人類に有用で永続性を持つ道理はない。アメリカが敷いた戦後パラダイムは人類史の終焉を招く本質を内包している。支那の文明圏も同一志向である。この地獄のパラダイムを切り替えて、ガイアを健全な恒常性に導く文明は日本しかない。


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2007年4月13日 (金)

日本大崩壊元年

 来日中の中国共産党国務院総理・温家宝と、創価学会の池田大作氏
が堂々と会見し、その光景が大々的にテレビで報道された。中国の首相
が公式訪問中に、一宗教団体の長に堂々と会った事を、日本の有力マス
コミが自然な成り行きのように報道することが、今の日本が陥ってる恐ろし
い現実を示している。今の日本を捉えている大きな負の潮流は、米国によ
る完全な対日経済支配の完成と、中国によるカルト的精神支配の二つの
流れに剥き身でさらされていることにある。中国国務院総理と創価学会名
誉会長の日本における友好的会談は、リチャード・コシミズさんやマッド・ア
マノさんの掲げる世界が、けっして電波的な陰謀論ではないことを物語っ
ている。

 日本は来月から「三角合併」と言う、外資の参入を歯止めなく許す売国
法案が施行される。また、今年の10月からは郵政公社の完全民営化が
スタートされる。日本は1985年のプラザ合意から、米国「奥の院」による
経済侵略に蚕食され続けていたが、歴代の内閣は面従腹背、その場そ
の場で、できる限りの抵抗をし続けてきた。しかし、この抵抗も、小泉政
権になってからは完全に鳴りを潜め、むしろ積極的に米国利益誘導政策、
すなわち完全な国益毀損型の政策に方向を定めてしまった。国民は小泉
純一郎や竹中平蔵が掲げる路線を、平成大不況を突破する新たな方向
性だと完全に見誤ってしまった。その最大の過ちが2005年の郵政民営
化関連法案の成立を許容してしまったことである。

 彼らが推し進めた「構造改革」は、端的に言えば、従来の日本型経済
構造を破壊して、外資が参入しやすい構造に日本を作り変えた
という
ことである。小泉構造改革の骨子として拙速に進められた規制緩和、規
制撤廃路線は、自由競争にして日本経済を賦活させていくという標榜と
は背反し、その実態は、日本の企業や優良資産のすべてを外資が食い
荒らすために行なわれたものである。その結果が三角合併や郵政事業
の拙速的解体である。小泉政権のこの亡国的現実を感知しない大多数
の国民の知的怠慢は、子々孫々に至るまで日本史に大きな禍根を残す
ことになった。それどころか、日本史の連続性そのものが青息吐息の状
態に陥っている。

 こういう流れの中で、良心的な警告を発し続けた勇敢なエコノミストである
植草一秀氏が、売国勢力の薄汚い罠に嵌められてしまったのである。

 このまま行けば、平成19年(西暦2007年)の今年は、間違いなく「日本
大崩壊元年」になるだろう。日本人が覚醒しなければ、まもなくこの国は滅
びてしまうだろう。我々日本人はローマに翻弄されたカルタゴ人とは違うの
だ。今、民族の理性と矜持を取り戻さなければ、この日本は外側にうようよ
徘徊する禽獣や猛獣たちの格好の狩猟場と化してしまうだろう。
 


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2007年4月10日 (火)

第三回公判(1月25日)傍聴記

     第三回公判(1月25日)傍聴記(支援者A氏)

(植草氏を蒲田駅から蒲田署に護送した巡査部長の証言)

《警察のでっち上げが余りにも明白で、傍聴記を書く気になれませんでしたが、3月28日の公判で、電車に同乗していて逮捕したT氏の証言との整合性を見ることで、T氏が実は替え玉であったのではないかという疑惑が出てきました。それが裁判の行方を左右する可能性があります。是非、多くの人にアオキ氏の証言とT氏の証言を比べてみて頂きたいと思い、傍聴記を書きました。》

証人 アオキヒデオ

アオキ氏の証言:

   ---最初は、検察側の尋問であった。---

アオキ氏:  私は9月13日に植草一秀氏を京浜急行蒲田駅で逮捕した警官である。蒲田警察署の巡査部長である。私は、昭和53年に警官となり、平成17年から蒲田警察署に勤務。平成18年9月13日の夜、痴漢の現行犯として逮捕した。9月13日午後10時30分頃、京急蒲田駅で身柄を引き取った。その名は植草一秀。ここにいる人に間違いありません。110番指令からパトカーで警備中、指令を受けた。そのときセキ巡査と一緒だった。すぐに蒲田駅に行った。指令を受けたのは午後10時21分頃と記憶している。

《電車が到着したのが10時18分だから、僅か3分後ということになる!》

 続報がありました。痴漢の被疑者には、あまり(?)がある(前科がある)と聞きました。

《なぜこんなに早く、前科があることが分かったのだろうか。植草氏を逮捕したT氏は、捕まえたのが植草一秀氏であると確認したのは、翌日だったと証言している。》

 10時30分頃に、駅に到着しました。事務室に入ったところ、駅員が犯人らしき男の胸元を押さえつけている様子でした。犯人と思われる男は、何らかの抵抗を行っていた。私が男に近づくと男は抵抗を止め、おとなしくなった。犯人らしき男は「植草一秀という名前ですね」と聞くと「はい」と答えた。それ以前から名前は知っていた。個人的というわけでなく、著名人だということで知っていた。そのときは植草一秀とは気付かなかった。会社員風の男だった。

 彼は立ったままだった。男の表情は酒を飲んでむくんだ表情だった。しかし、さほど飲んでいたとは思われなかった。ふらついていたとは思わない。無言のまま、下向きかげんで立っていた。その後落ち着いて、イスに座ってくださいと言いました。落ち着いて聴取しようとしました。彼は無言のままゆっくりと座った。特に変わった言動は無かった。下向き加減だった。「あなたは何をしたのですか」と聞いたら何も答えなかった。暫くして「電車の中で女性に不快感を与えるようなことをしました」と言った。

《植草氏は、このような発言をしていないと証言している》

 そのとき、彼が電車の中で痴漢行為をしたのだと思いました。それは、すでに痴漢容疑で事務所内に連行されていると聞いていましたから。そういう認識があったと思います。

検察官:  なぜ「女性に不快感を与えるような行為をした」という回りくどい言い方をしたのだと思いますか。不快なことと言っても、電車の中で足を踏んでしまったとかということもありますが、なぜ男が痴漢をしたのだと思いますか。

アオキ氏:  いくら痴漢をしたことを認めたくても、恥ずかしくて言いにくかったと思う。だからこの表現が本人にしては、精一杯だったと思う。ごまかそうとしているとは、思わなかった。否認しようとか、逃れようとかしているようとは思わなかった。否認するなら「俺はやっていない」とか言うだろうが、そうは言っていない。

《植草氏本人は、一度も痴漢を認めたこともなければ、女性に不快感を与えるようなことをしたという発言を行ったことは無いと言っている。当日の調書にも、犯行を否定しているし、それどころか、当日なぜ逮捕されたかすら教えられなかったと証言している。ということは、アオキ氏の証言は周到に準備された嘘ということになる。「女性に不快感を与えるようなことをした」という発言は過去の事件での彼の発言だ。彼は事前にそれを読んでいて、それを「引用」したのだろう。》

アオキ氏:  それから、不快感とはどういうことなんだということを尋ねました。

検察官:   何を聞き出したかったのですか。

アオキ氏:  痴漢行為の具体的な内容を聞き出そうと思った。そのことに対し、彼は無言のままだった。時折、目線をあげるなどしていた。無言の状態が10秒以上あった。

検察官:   なぜ、そうしたのだと思いますか。

アオキ氏:  本人にとって、羞恥心やプライドといったものがあり、生々しい言葉で痴漢をした、お尻を触ったなどと言い出せなかったのだと思った。

《よくまあ、ここまでストーリーをでっち上げるものだと思う。当日の調書には、犯行を否定していたと書いてある》

アオキ氏:  それ以上供述が得られないなら、捜査員に取り調べをゆだねることにしました。そこで確認をするため、痴漢行為の確認をした。

検察官:   質問の具体的内容は?

アオキ氏:  質問について間違いないかと尋ねた。彼は「私がやったに間違いありません」と言った。声を荒げるでもなく。表情は普通でした。やっぱり、痴漢行為をしたことを認めたと思いました。

《警察官がこういう偽証を平然と言うとは、桜田門が泣く》

その後、身分を確認しました。自動車運転免許証で確認した。私の事情聴取で誰かに似てるなと思っていましたが、植草教授という身分を確認しました。その後、被害者のほうに行こうと思いました。

検察官:  なぜですか。

アオキ氏:  被害事実の確認をしたかったからです。

検察官:   被害者はどこにいましたか。

アオキ氏:  被害者は同じ駅事務所のロッカーとついたてで区切られていた所にいました。犯人の男は、遅れてきたセキ巡査が私の横に来たので任せました。被害者のほうにいた、伊藤巡査部長が被害者の事情聴取をしていて、どういう被害があったかを聞いていた。伊藤巡査部長は被害者は「電車の中で後ろにいた男に痴漢をされた。スカートの上からお尻を触られ、スカートに手を入れられた」と言っていたと言った。そこに私どもの小池警部補が入ってきて、聴取した。小池警部補は蒲田警察の地域を担当している。小池警部補に、犯人は著名人で、痴漢行為を認めていると言いました。その後、蒲田警察署に連行しました。私を佐々木巡査が連行した。9月13日午後10:35頃に連行しました。

《ということは、現場に駆けつけた警官は少なくともアオキ、セキ、小池、佐々木ということになる。電車が着いたのが10:18で、到着が10:30、連行が10:35、つまり到着してから、連行するまで僅か5分ということになる。こういう展開を電光石火で仕上げるには、事件発生前の準備が周到だったことになるのでは?本当に痴漢事件が起きていたなら、とてもこうはいかないだろう。これは、あらかじめ仕組まれたシーケンスに沿って、首尾一貫した意志のもとで、きわめて短時間に進展したとしか思えない状況である》

アオキ氏:  そのとき、同じパトカーにセキ巡査を乗りました。犯人は特段声を出すとかはなかった。パトカーが蒲田警察署に着いてから、生活安全課の取調室に行き、生活安全課の警察官に引き継いだ。引き継いだのは10:45だった。

検察官:  京急蒲田駅で歩いていく途中とか、パトカーの中とかで、犯人は「自分はやってない」「人違いだ」とかのように否定する言葉はありましたか。

アオキ氏: ありません。

検察官:  「なにをやったか覚えていない」という発言はあったのか。

アオキ氏: ありません。

検察官:  酔いの程度はどうでしたか。

アオキ氏: 酔っているように思えなかった。酔いのためにふらついていたというようなことはなかった。

----次に、弁護人による反対尋問があった。----

坂井弁護人: 勤務時間は、翌日午前9:30までだったのですか。実際いつまで働いたのですか。

アオキ氏:  いつまで働いたか覚えていません。当初は9:30まで働く予定になっていましたが、いつまで働いたか覚えていません。

坂井弁護人: 駅に到着したのは10:30ですか。

アオキ氏:  はい。時計は確認しました。その後、連行した10:35も、生活安全課に到着した10:45も時計を確認した。

坂井弁護人: 駅事務室にいた警察官は、誰でしたか。

アオキ氏:  私とイトウ巡査部長が先に着いて、パトロールをしていたセキ巡査、指令を受けて、イトウ部長、ササキが来た。2台のパトカーがついた。駅の事務室にいた人は、駅員が2名、関係した男が2名、犯人が1名だけがいた。被害者はロッカーと衝立の中にいた。女の気配は分からなかった。駅員の洋服については覚えていない。被告人に聞いていたときセキ巡査が来たが何も言わなかった。

弁護人:  被告人がネクタイで首をしめて自殺しようとした話を聞きましたか。

アオキ氏: はい。警察署に行ってから、イトウ巡査部長から聞きました。イトウ氏は駅員から聞いたようです。私の補助にセキ巡査が来た。被告人になにをしたのですかと聞いたら、うつむいて「女性に不快感を与えるようなことをした」と言った。

弁護人: 「それはどういうことをしたんだ」と聞いたことはありますか。

アオキ巡査: 「ありません」

弁護人:  痴漢のことかと示唆したことがありますか。

アオキ巡査:  ありません

弁護人:  イトウ巡査から聞いて「スカートの中に手を入れたか」と聞きましたか。

アオキ巡査: 被告人にその場では、犯人に聞いていません。無線で「暴れがある」ということを聞いたので4人がいた。生活安全課の係長に引き継ぎ、そして状況報告書を作った。現行犯逮捕報告書をイトウさんが作成。取り扱い状況報告書、9月13日、を作成。間違いはないのかと聞いて「やったことには間違いない」と言いました。逮捕手続き書は記憶に基づいて作成。警察署に戻ってから書いた。被告人が罪を認めていないことは、新聞報道で聞いた。

  ---小林弁護人の質問への答え---

アオキ氏:  駅に着いたとき、駅員と男がもみ合っていた。駅員が男の胸元を掴んでいた。駅員と犯人は声を出していなかった。その後引き継いだとき、何も駅員と話をしていない。

弁護人: あなたは、今まで痴漢の通報を受けて言ったことはありますか。

アオキ氏:  はい、2回あります。(・・記録漏れ・・)女性に不快感を与えて、痴漢を認めていると、110番指令を受けて行きました。

弁護人:  痴漢を認めていると考えた理由は何ですか。

アオキ氏:  本人は痴漢として駅事務室に連れてこられ、私も痴漢逮捕としてかけつけていました。

弁護人:   セキ巡査は引き継いで何をしたか。何を質問したか。

アオキ氏:  警察署に着いてから聞いたことですが「話をしたら何も答えなかった」と言ってました。「何で来たのか分かっているのかと聞いたが何も答えなかった」被告人はメガネをしていた。

坂井弁護人: 被告人はネクタイをしていましたか。

アオキ氏:  していません。

弁護人:  どこにあったのですか。

アオキ氏: 駅員が持っていました。それをイトウ巡査に渡しました。

石川検察官:  「私がやったことに間違いありません」と言ったとき、声を詰まらせながら言ったのか、時間的な間隔を開けて、つまり一呼吸あけて言ったのか。

アオキ氏:  間隔を開けてです。

《検察は、でっち上げを完成するために、こういう意味のない質問をするのだろうか・・・》

大村るい裁判官: 「女性に不快感を与えるようなことをした」「私がやったことに間違いありません」といったことをセキ巡査は聞いていなくて、あなただけが聞いたということですか。

アオキ氏:  被告人が罪を認めていないことを新聞報道で聞きました。作成時、捜査員は被告人は罪を認めていないと言ってました。

裁判官:  酒の臭いはなかったのですか。

アオキ氏: 顔が赤くむくんだようでしたが、臭いはしていません。

裁判官:  彼は被害者と合わせてくれとは言わなかったのですか。

アオキ氏: 言いませんでした。

宮本裁判官: メモはその場で書いていたのですか。

アオキ氏: 書いていません。

裁判官:  持っていましたか。

アオキ氏: はい。

裁判官:  署に戻ってから思い出して書いたのですか。

アオキ氏: はい

裁判官:  あなたが、話していたとき、イトウ巡査が被害者と話している声は聞こえましたか。

アオキ氏: 聞こえませんでした。ロッカーに囲まれてたし、電車の往来があって聞こえませんでした。

裁判官:  あなたと被害者の距離はどのくらいでしたか。

アオキ氏: 5mくらい離れていました。

裁判官:  大声で話していたということはなかったのですか。

アオキ氏: ありませんでした。

裁判官:  ネクタイをしていなかったが、そのときどこにあったかわかりましたか。

アオキ氏: 分かりませんでしたが、署に言ってからネクタイはイトウ巡査が持っていることを知りました。

裁判官:  イトウ巡査に渡すところを見たのですか。

アオキ氏: 見ていません。

裁判官:  自殺しようとしていたという、その痕跡はありましたか。

アオキ氏: 分かりませんでしたが、顔が赤かった。首にネクタイで絞めた後も分からなかった。ワイシャツが開襟で、しわくちゃだと分かった。

裁判官:  植草氏であることは分かりましたか。

アオキ氏: 免許証で分かりました。それまでは見たような顔だと思っていました。前回の事件は知っていました。

裁判官:  被告人が罪を認めたと言われましたが、認めさせようとしてはいませんか。

アオキ氏: 取り調べではしていません。事情聴取はしました。

神坂裁判長: 駅員、関係者2名に対して事情聴取はしたのですか。

アオキ氏: していません。どういうことになったか、後からセキ巡査が聞いています。セキ巡査が逮捕した人(T氏)の事情聴取を、イトウ巡査が駅員の事情聴取をしています。

裁判長:  取り扱い状況報告書には、被告人はやったことを認めていないと書いてありますが、このことを知っているか。

アオキ氏: 知っています。

《警察作成の書類には植草氏の発言が、色々矛盾する形で書いてある。彼は一貫して無実であると言っているのにも拘わらず、警察が書類をねつ造するからこのようなことになる。》

裁判長:  被告人の取り調べで、被告人は何と言いましたか。

アオキ氏:  覚えていないと言いました。

《植草氏によれば、「痴漢をした覚えはない」と言ったのに、「痴漢をしたかどうか覚えていない」と言ったと調書をねつ造されたそうだ。》

これに続いて○○○○○○○という繊維鑑定の鑑定人からの証言があったが、これは省略する。


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2007年3月31日 (土)

3月28日 午前の証人(犯人逮捕者)尋問

3月28日 第六回公判、午前、犯人逮捕者への証人尋問
     (支援者B氏による傍聴記録)

3月28日の植草事件公判は午前中に、弁護側の申請による犯人逮捕者の証人尋問が行われた。以下は、証人に対して弁護士達、裁判官達、検事から様々に行われた尋問の結果を、一傍聴人が全体的にまとめたものである。当日は電車内の人物の位置関係等について、数枚の図面をもとに証人と弁護士達、裁判官達、検事の間で何度にもわたる細かな検討がなされたが、それらの図面は傍聴席からは見ることができなかったので、それに関する記述は一切はぶいてある。)

2006年9月13日夜の状況

 当日の証人の服装:黒のTシャツ、紺色のワイシャツ、グレイがかったジーンズ。
 持ち物:リュックサック。傘は折りたたみ傘。

 仕事を終えた後、10時過ぎに泉岳寺から京浜急行・快速久里浜行きに乗った。
 前から何両目の電車だったかは分からないが、乗ったのは3ドアの車輌の真ん中のドアからである。
 次の品川駅から電車は、押し合うほどではないが、かなり混んできた。
私の左隣にいた人が男だったか女だったかは分からない。
私は車輌の長いシートの端から二人目あたりに座っている乗客の前に立って本を読んでいた。

***

 品川駅を出てから2・3分後に「やめてください!」という女性の声を聞き、そちらにふり向いた。
 声を出した女性は女子高生のようにみえた。この2・3分というのは正確なものではなく、あとから逆算したおおよその見当である。
私自身は痴漢行為を見てはいない。

 その声をかけられた男は、つり革につかまってなく、女子高生の真後ろに立っていた。
 私がふり返って見た時に男は身を引く動作をしたので、被害者と被告の距離が最初はどのくらいであったかは正確には分からないが、ともかく男が女性の直ぐ後にいた。
 この身を引く動作は、身をのけぞらせる感じで、足が動いたとしてもせいぜい一歩か半歩。足が動いたとしても私からは見えなかった。
 男のこの最初の身を反らす動作は、ひるんだような、「失礼」という風な感じでであったが、その後男はそ知らぬ顔をし続けたので女子高生はますます気持ちが高ぶった。私が思うには、はっきり謝ると事実を認めることになるので、男は知らんぷりをしていたのであろう。

 女子高生は続いて、
「子供がいるのに恥ずかしくないのですか」、
「謝ってください」、
「次の駅でおりてください」と言った。

 女子高生は、男に抗議をした時は男の方に顔を向け、また顔を正面向きにもどし、また言葉をかける時には男の方に顔を向けた。男の方をふり向くのは右側からであった。
 男は少し女子高生から間隔をあけたが、位置を大きく変えたり、身体の向きを大きく変えたりしたことはない。
女子高生も場所は移動しなかった。

私が初めて男をみたとき、酒を飲んでいる気配は感じられなかった。

***

私は女子高生の最初の声を聞いて一瞬あっけにとられたが、女子高生が泣き出したので、何人かの乗客をかき分けて男の方へ移動した。声を聞いてから1分ぐらい後だと思う。
 私は女子高生に「さわられたの?」と聞くと彼女は「はい」と言った。
「突き出す?」と聞いたら、「はい」と答えた。

 私は、自分が逮捕した男が犯人だと言うことは、女と男のやりとりを見ていて、すでに分かっていた。
 また私が近づくとき、男の存在はまわりの乗客の間で浮き上がっていた。まわりの多数の乗客が一点を見つめている感じで、その中で男は注目されて浮いている感じがした。

 その男が、今この被告席にいるこの男であることに間違いはない。

 男に向かって「突き出すからね」と確認してから男をつかまえた。そのとき男はつり革につかまっていなかった。この「突き出すからね」という言葉に男はかすかに同意した感じで、文句は言わなかった。
私は右手で男の左腕を軽くたたいた。
男の所持品については覚えてはいない。

***

 私は蒲田駅につくまでの間に被害者と男の間に割り込んだ。男はややドア寄りに動いた。
 女子高生と私と男との間にもう一人ひとが入る余地はなかった。
私は女子高生と男の間にいて、泣いている彼女をなぐさめるようなことをしていたが、時々は男の方も見た。
 私は車内にいる間、駅に着いてから駅員たちに起こったことを話そうと考えていた。
 男はそれから蒲田駅に着くまでの間につり革をつかむようになった。どの段階でつり革につかまったかは分からないが、電車のゆれなどを利用してつり革の方に移動したようだ。
 電車が混んでいたので、男が逃げることは心配しなかった。電車の混み具合は、私が女子高生の方に近づく時人をかき分ける必要があるくらいの程度であった。
 蒲田駅に着くまでの間、私は男との間でそれ以上の言葉をかわさなかった。男はつり革のぶら下がって目を閉じていた。この状態が駅に着くまで続いた。その間、男が「やっていない、無実だ」などと言ったことは一度もない。

***

 女子高生と男に声をかけて一段落した時に、子どもたちの存在に気がつき、これが女子高生の言っていた子どもたちだな、と思った。子供は女子高生の後に複数いたと思う。両親がいたかどうかはさだかでないが、母親が子どもたちに話しかけていたような気がする。母親の位置は分からない。

 電車内で携帯で警察に電話をしたことはない。他の乗客が電話をしたこともない。

 男をつかんだもう一人の人物については、電車内にいたときには気がつかなかった。
 ホームに降りてから、男があばれたので、そのときもう一人の人物が男をつかまえていることに気がついた。

 男のドア側の近くに年配の人もいた。その年配者は私たちが蒲田駅で降りる時にアドバイスをくれた。

車内の他の乗客についてはよく覚えていない。

 (宮本裁判官が「弁護団は人違い説をとっているようだが真犯人が別にいたか」と質問したのに対し)真犯人があたりにいながらさっと逃げたので人違いになった、ということはない。

***

 電車が駅に到着しそうになった時、男と同じ向きに並んで左手でネクタイをつかんだ。ネクタイは真ん中あたりを二本一緒につかんだ。他の乗客がよけてくれたので、ネクタイをつかんだままドアに近づき。ドアが開いたので2人一緒に電車から降りた。ネクタイは駅事務室に行くまでずっとつかんでいた。

 降りたドアが図面上でのどちらのドアであったかははっきり分からないが、上のドアだったと思う。自分は京浜急行を利用するようになってからまだ一ヶ月もたっていなかったので電車にはなじんでいなかった。

***

 蒲田駅に降りた時、駅員は近くにはいなかった。ホームに降りてから男が抵抗したので、近くの人に「駅員を呼んでください」と頼み、駅員が来た。
男は「彼女と話させてください」と何度も繰り返した。しかし私は、女子高生は泣き続けているし、男は大声を出して暴れているので、2人を話させることはしなかった。私は男が話をさせてくれと言うのは示談を求めているのかなと思った。ホームで男がじたばた動こうとしたのは逃げるためではなく、女と話したいためだったと思う。
 駅員は男を捕まえることなく、「こちらへどうぞ」と案内するだけだったので、私も駅事務室の入口まで行った。

 駅事務室で女子高生はしきりの中に入り、男は私と並んで立っていた。
女子高生は母親に電話し、泣きながら「お母さん、また痴漢された」と言っていた。
 それから警官が大勢どやどやと入ってきた。女子高生が警官と何を話をしたかは分からない。
 男はその時も「女性と話させてください」と何度も繰り返した。

***

 私が捕まえたのが有名な植草一秀氏であることを知ったのは翌日である。
 私はそれまで前回の植草事件のことはほとんど知らなかった。上着のネームに植草という名を見たが、前回のと同一人物であることには気がつかなかった。

 私はその後事件について同僚に話をした。

 私がこの証人台に立つことになったのは、N弁護士が突然自宅に訪ねてきたことがあったからである。

(以上)


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3月28日 植草事件の公判傍聴記(4)最終版

3月28日 植草事件 第六回公判傍聴記(4)
 支援者A氏による最終版

                              

********************************************************

 重いバッグも傘も、警察に押収されているわけだが、それらを持っていたことは、疑いようもないし、警察もそれを疑ってはいない。呼気のアルコール濃度から、極度の泥酔状態であったことも証明されている。これだけの荷物を持ち、しかも泥酔状態のとき、2分間も尻を触るなど、あり得ない。

 また平成18年12月20日の検察側の証人による証言は嘘であることは疑いようもない。彼は、被告が傘もバッグも持っておらず、両手で2分間尻を触り続けたと証言した。これは絶対にあり得ない。この証人は、蒲田警察署で7時間、検察庁に6回も通い猛特訓を受けたのに、その努力も報いられることはなかった。しかし、このことが、今回のでっち上げにかける警察の意気込みを物語っている。迷惑防止条例違反で、4人の検察官が公判に毎回出てくること自体、異常なのだそうだ。ただし、今回に限り一人に減った。
*********************************************************

車内の混み具合は、動けば人に触れ合う程度だった。前にいたと思われる女性が左回りに振り返った。

弁護人  若い女性は制服を着ていましたか。

被告   制服は分からなかった。

弁護人  女性が振り返った後、どこまで移動しましたか。

被告   女性は電車の進行方向に対し、右斜め後ろを向いていた。動い   た後、70~80cmの距離があったと思う。

弁護人  平成18年12月6日の意見陳述書では、あなたと被害者の距離は1~1.5mとありました。

被告   これは頭の中の間隔の距離でした。ビデオ撮影をして距離を測ったら、70~80cmだった。女性が動く前は、1~1.2mだったと思う。痴漢騒ぎかと思った。女性が大きな声を出したから、絶対に関わり合いになりたくないと思い、つり革を掴んで下を向いていた。そのとき、体の向きを変えたが、場所は変えていない。右手はつり革を掴んでいた。女性の声が聞こえ、目を開けたが、その後目をつむった。

Photo_28

かなり時間が経ってから、突然掴まれた。2人が掴んだのだと思う。向きを変えてから、30秒~1分後だと思う。その2人に対し「何ですか。ちょっと待ってくださいよ。なにもしてませんよ。」と非常に小さな声で言った。この場では、騒ぎにしたくはなかった。私と分かれば、大騒ぎになると思った。大騒ぎになれば、犯人に仕立て上げられると思い、下を向いて目をつむっていた。蒲田に着くまでそうしていた。そのときの女性の状況は分からない。泣いている声は全く聞こえなかった。到着したとき、その女性に聞いて、誤解を解かなければと思った。電車が着く直前、「逃げるなよ」と言って「逃げませんよ」と言った。つり革を握りかえしたのを覚えている。

弁護人 女性に対して、手で謝るような仕草をしたのですか。

被告  してません。謝っているような仕草に見えたのかもしれない。

弁護人  次の停車駅でネクタイを掴まれたのですか。

被告   掴まれていません。進行方向左のドアが開いて、到着後、捕まえた人に押さえつけられ、誤解を解くため話すことができると思っていた。

弁護人  周囲の人たちはどうしていましたか。

被告   痴漢騒ぎを注目している状態だった。女性と話をしたいと思っていたが話ができなかった。肉体的抵抗はそれほどしなかった。ネクタイを握っている手を振りほどくほどのことはしなかった。ネクタイが首にしまって苦しかったという記憶はない。

*********************************************************

やはり、訓練を受けたプロがやることですから、決して、首を絞めて殺してしまうとか、苦痛を与えるとかということは、なかったわけです。素人がやると絶対にそうはいきません。

**********************************************************

     ホームに着いてから、何も言われなかった。とにかく「女性と話をさせてくれ」と言った。何度も言った。取り押さえた人は何も返事をせず、強引に事務室に連れて行った。

弁護人  駅員は来たか。

被告   来ていません。どう通ったかは覚えていない。痴漢と間違われたと理解していた。「間違いだ」とは言っていない。女性と話すのが先決だと考えていた。事務室の右に女子高校生が歩いていた。その女性が事務室に入ったかどうかは、分からない。事務室の中では、女性の泣き声は聞いていない。駅員から、女性が何を訴えているか聞いていない。駅員に対し、女性と話をさせてくれと頼んだが、聞いてくれなかった。女性が声を出す前に眠っていたので、何がおこったか、わからなかった。駅員を押しのけて女性の所へ行こうとしたが、そこでもみ合いになった。

弁護人  駅員が女性と話しをさせないと言ったのですね。

被告   駅員に女性と話をさせてくれと言い、前に進もうとしたが、阻止された。相撲でもみ合うような状態になった。駅員は大きながっしりとした体格だった。必死で誤解を解こうと思った。このままでは犯人にされてしまうと思い、自分のネクタイで首を絞めようとした。以前もこのようなことがあった(品川の事件のこと)。この場で、死んだ方がよいと思った。女性と話をさせてくれと言ったが、それが阻止され、ネクタイを駅員から取り上げられた。駅員にもう一度詰め寄った。話をさせることはできないと、何を言っても無駄だった。もみ合いになった。上半身もみ合いになり、密着して取っ組み合いになった。「間違いだった」とは言っていない。騒ぎが起きるまでの状態が全く分からなかった。女性と話をさせてくれと言っただけで、逃げようとは全く考えていなかった。逃げようとしたことは全くなかった。

ここで15分間の休憩に入った。午後3:15から再開した。

弁護人  駅事務室に入った警官は何人だったか。

被告     一人だった。何をしたのかとかは、聞かれていない。女性に不快な思いをさせたというようなことを言っていない。警官が来てからは、もみあいはしていない。警官が来てからは、非常に緊張していた。警官からは名前と職業を聞かれた。身分を示すため、免許証を示した。その最中に別の男が一人、警官と所へやってきた。警官に耳打ちするのを見た。どのような話かは分からなかった。首を絞めたことを耳打ちしたのだと思う。警察署に着いて、何人もの警察官に囲まれた。連れてこられた理由は痴漢であると言われた。「やった覚えはない」と言った。書類には、「やったことは覚えていない」と書かれていた。弁解ロクシュショが作られる前に、やり取りはなかった。

弁護人  酒酔い酒気帯びカードを示す。平成18年9月13日作成ですが、これを覚えていますか。

被告   覚えています。

弁護人  カードに0.47mgと書いてある。これを認めますか。

被告   これは認めます。これは私の字ではない。このカードに、指で捺印をせよと言われた。0.47というのは、目の前で測定されたので、問題なかった。その記載の横に指印が押してある。こでは私の指印だと思う。この記載で納得しないのは、歩行能力で丸(正常)となってたが、自分の認識では、正常な歩き方ではなかったと思う。翌、9月14日、取り調べを受けた。インメン調書、身上書、身上履歴を作成した。身上履歴以外、取り調べた警察官から、説明が無かった。「痴漢したんだろ。やったと言え。」と言われた。やっていないと言った。何を疑われているのか何度も聞いたが、一切断られた。当日弁護士とは、昼と夜の2度、接見した。女性の声を聞く前のことは覚えていないと言った。分からないことは認めるなと言われた。9月15日検察に行った。何を具体的に疑われているのか説明があった。そのとき、およその内容は分かった。「やっていない」と言った。裁判官から、翌日勾留質問を受けた。裁判官から、どういう疑いかを説明してくれた。分からない点を聞いた。蒲田警察署で聞いたのと、裁判官から聞いたので、答えの内容が違っていた。

 9月15日まで、何を疑われているのか、分からなかった。9月15日には、それは絶対にないと言った。9月13日から現在まで、認めると言ったことはない。接近禁止に関する書面、準抗告申立書に書いてあった。

弁護士  その日付より、少し後、その書類の中に、駅で犯行を認めていますか。

被告   書類を作成した警官の証言にあるように「女性に不快感を与えるような行動をした」という発言は絶対にありません。そのような書類のねつ造を知って、激しいいかりを感じました。その警官に対し、申立書を見た後、そのことを正したら、「えー、そんなことまで知っているのか。恐ろしいね。でっち上げと言うんだな。」と言った。でっち上げという言葉を、検察庁の検事からも聞きました。9月15日だったと思います。

 私を取り調べた警察官が「でっち上げというんだな」と言った。私はでっち上げとは発言していない。直接検察官がネットに流れている情報を読んで「でっち上げと言っている」と発言したと考えられると言った。

********************************************************* 

でっち上げという言葉は、ネットでは頻出する言葉だろう。しかし、拷問まがいの厳しい取り調べが続く密室に閉じこめられていた人にとって、警察に対し、この言葉を口にすることは、生命の危険を脅かされると感じることなのだろう。警察は恐い。個人では、とても立ち向かえない。その怖さを悪用して、警察は発言の自由を封じている。

********************************************************

・・・ここから、上映を許可されなかったビデオの部分の説明を弁護人が行った・・・

弁護人  被害者の供述に基づく再現ビデオを紹介する。

ここで、たくさんの写真を使って、説明をしていた。写真を見せてもらえない傍聴者にとっては、何が何だかわからない。女性が左回りに振り向いた場合と、右回りに振り向いた場合の説明があった。》

被告      女性の声を聞いて下を向いて他の乗客が真後ろに真犯人がいて、真犯人が被害者に密着していた。被害者の記憶に基づくものと、私の記憶に基づくものとで作成してある。ビデオでは痴漢の部分を省略してある。被告人は見ていないから略してある。被害者の供述に基づいたビデオ撮影に、私は立ち会ったが、こちらは私は役をやっていない(自分の記憶に基づくものは、自分が役をやっている)。Tさんという若い女性が、被害者役をやった。何がわかるかと言えば、被害者供述に基づいて作ったものだと、目撃者からは被害状況は見えないはず。女性が遮る位置にある。被害者が真後ろにいる犯人の傘と手を確認することは、体をひねっても犯人の左手と傘を見ることはできないことが分かった。最初、撮影したとき、傘が当日使っていたものと少し違っていたので、再度撮影をし直した。なお、傘は押収されたままである。被害者は、犯人の左手と傘を見ることができないことが示すことができた。

次回の公判は5月18日 午後1:15


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2007年3月30日 (金)

3月28日 植草事件の公判傍聴記(3)

3月28日 植草事件 第六回公判傍聴記(3)
           (支援者A氏)

午後1:30から弁護側の被告人尋問があった。

被害者

真犯人

植草







 被告人尋問の前に、DVDの上映があった。弁護側は①被告人の供述②被害者の供述、それぞれに基づいた再現DVDの上映を2種類制作。この日は、検察側が証拠採用に同意した①の前半部分十数秒のみ上映された。内容は、真犯人が別にいて、彼が痴漢行為をした。女子高生が振り返ったとき、間違えて、植草氏が犯人だと思い込んでしまった。

 映像には12名、写っており、正確にどこに誰がいたかは描写できないが、主な人物は下記のような感じだったと思う。被害者は身長156cm、ヘッドホーンをして音楽を聴いている。そこに真犯人が尻を触り始める。触り初めてから、2秒後に女子高生は「止めてください」といいながら、ヘッドホーンをはずし、振り返る。その時真犯人は逃げ、植草氏が犯人と間違われる。
3_1

 それでは、2分触り続けたらどうなるだろう。さすがに、それは、AV女優を使わなければ無理だろう。この状況では、女子高生が「止めてください」と言って振り返るタイミングは、2秒が適切だ。2分間も音楽を楽しみながら触られ続けたのであれば、この女性は触られることも楽しんでいたとしか考えられない。それにまわりの人も、2人は恋人だと思い、公衆の面前でこんなことをするとはと、あきれるに違いない。

―――――――――――――――――――――――――――――

被告人質問に移ります。

弁護人  大崎駅付近の地図を示したいのですが。

神坂裁判長  検察官、認めますか。

検察官    見せてください。

弁護人    市販の地図です。

検察官    問題ありません。

弁護人    平成18年9月14日の被告人のいんめん調書2~3を示します。第4項以下5項、被告人の経歴が記載されていますが、間違いはありませんか。

被告人    《細かい修正点をいくつか指摘》

 今まで修正をしなかったのは、細かいところはいいということにしていました。

 平成18年9月13日の事件ですが、京浜急行JR大崎駅の中華料理店で6:30から、宴席に出席していました。顧問をしている会社で8月に社長が交替し、新社長が企画し、企画計画室が加わっていました。宴席の前は、私が顧問をしていて、外苑前にある別の会社で、宴席に出ていました。そこから、地下鉄新橋経由で、電車を乗り継いで大崎に来ました。普段は、車で移動するが、車でないときは、電車を利用しています。午前中は車でした。タクシーを使わないのは、事務所が駅から20-30秒くらいの所だし、経費節約のこともあります。これらの会社も、現在は顧問関係はありません。この事件の後、顧問を解消すると言われています。

 この日は、ビールを紹興酒を飲みました。ビールはグラス5~6杯、通常のグラスで、高さが10cmくらい。紹興酒は小さめのグラスで、20~30杯、5~6cmの高さのガラスのクラスでした。一気のみをやったので、飲む速度は速かった。普段、会食が続けば、毎日飲むときもあるし、10日位、飲まないこともある。缶ビール1杯まで含めれば、週2-3回のペース。ビール、焼酎、ワイン、ウィスキー、バーボン、ブランデーなどを飲みます。普通は焼酎のお湯割りを3~5杯程度飲みます。この日は中華料理のフルコースで、飲み放題。宴席に出た人の中で飲めない人が多くいて、飲む人は、沢山飲むというようになりました。自分は酒は好きなほうですが、大量に飲むことは滅多にありません。酒は強い方だと思います。

 宴会の出席者は、社長、社長室、経営企画室で、よく知った人ばかりでした。

 ここで、弁護人が、この宴会の出席者の一人の「○○○○○」という人に、警察が尋問し調書を取っていたので、その調書を基に、質問をした。

 ・・・○○氏が、宴会のときの席順を図で示しており、その図を見ながらの質問をした・・・

弁護人    出席者のメンバーと並んでいる位置は、間違いないか。

被告     T氏、Y氏の位置が逆だった。A氏、W氏はその通り、それ以外ははっきり、記憶していない。この日の宴会の前半は、覚えているが、後半は余り覚えていない。記憶がなくなることは、それほど多くない。酒を飲んで眠ったりして記憶がなくなったりしたことは、会わせて15回くらいある。過去に酒を飲んで眠ったこと、酔って激しい睡魔に襲われたことはあるが、酒を飲んで、記憶がなくなってしまったとき、被告が変わった行動を取ったことはない。

 宴会の後半に、ゴルフについて話したという記憶がある。宴会の始めはフルコースで飲み放題で、飲める人は飲まなければならないという話題、中国の紹興酒の謂われ、社長の子どもが生まれる話などが話題となった。取り調べのときに気付いたことだが、社長主催のゴルフコンペの日程も言った。社長が挨拶し、言葉のやりとり、ゴルフコンペに関し検事から11月3日にゴルフの約束を入れていた。11月3日は家族との予定があったので、その記載は驚いた。中国やアジアの話をした。常務の人が中国での紹興酒の話をしたことを覚えている。この宴会の前に、昼、ある政党本部に行って話をしたこともあって、政治の話題があった。

 宴会が終わった記憶が無い。終わって、個室から出るときのドア付近の光景を覚えている。大崎から誰と一緒だったか、覚えていない。宴会が終わって2次会に誘われた。終わった後、事務所に帰る予定だった。事務室には、留まるところがある。レストランがあったのは、大崎ニューシティーで、これは駅に隣接していた。大崎駅のちかくで、目黒川を越え反対側にある。

 大崎ニューシティーの近くに、タクシー乗り場は無い。大崎近辺の地図を示す。この地図の中程上に大崎ニューシティーという建物があり、ニューが書いてある近辺に・・・・

 大崎ニューシティーと大崎駅の間に、歩道橋があり、ニューシティーの3階と繋がっている。中華料理店は2階にある。タクシー乗り場は、ニューシティーの反対に降りたとき、そこに並んでいる。タクシーがいる所を丸をつけて下さい。

 泉岳寺に事務所がある。ここからタクシーに乗ると、JRに阻まれるから、遠回りになると思う。山の手通りは立体交差になっているから、直接入れない。第一興商から携帯に電話がその頃あったはずだが、マナーモードになっていて気付かなかった。大崎からJR山手線に乗ったのだろうと思う。そして、品川で降りたのだろう。京浜急行品川駅に降りたのだろう。月に6~7回、これを使うと思う。JRの品川駅の構内に連絡改札口がある。パスネットを持っていたと思う。連絡改札を通り、横浜方面に進むと、普通は改札を入ると右手に下り階段がある。連絡改札を通ったとき、電車が止まっているという光景があったのを覚えている。電車に乗るとき、逆方向だと思ったが、頭が働かなくて、どこかの駅で乗り換えればいいと考えていた。逆方向か、まあいいかと思った。泉岳寺方向の電車に乗ろう、やっぱり降りようかと思った瞬間に何人か乗ってきて、そのままになった。どの電車に乗ったか覚えて無くて、どこで乗り換えようとしていたかも分からない。

弁護人   今回のように、京浜急行以外でも、その方法をやったことがありますか。

被告人   あります。(具体例を示した。溜池山王という言葉は聞き取れたが、全部は書ききれなかった)京浜急行の何両目に乗ったか覚えていない。

弁護人  電車に乗り込んで、押し戻されて電車に入った。酔って記憶が無くなるほどだった。そのときの思考状態は。

被告人    ぐったりしていた。

弁護人    何を持っていましたか。

被告     傘とバッグを持っていた。バッグには、書類が入っていた。バッグは重さは、同程度の物を入れて測ったら4kgだった。現在、そのバッグは警察に押収されている。

弁護人   バランスはどうでしたか。

被告    思いバッグを持っていたから、つり革につかまらなければならないほどだった。

弁護人  当時のあなたの服装はどうでしたか。

被告   スーツにネクタイを結び、メガネを掛けていた。

弁護人  その色はどうでしたか。

被告   スーツはグレー、ネクタイは赤色系統、メガネは赤っぽいセルロイド製。

 降りようとしたけど、何人かが乗り込んできた。そのため、空いていたドアの反対側のドアあたりまで、押し戻されてしまった。出発してから、女性の大きな声がした。「子どもがいるのに」という声だけが聞こえた。電車が出てすぐだったと思う。その声で目を覚ました。

弁護人  《図面1を示し、それを使って説明》

被告   女性の声が聞こえたとき、進行方向左手のドアの方向に向いていた。傘を持っていた。傘のとって部分を左手に持っていて、つえにしていた。バッグは右肩に下げていて、右手はつり革を掴んでいた。

********************************************************** 重いバッグも傘も、警察に押収されているわけだが、それらを持っていたことは、疑いようもないし、警察もそれを疑ってはいない。呼気のアルコール濃度から、極度の泥酔状態であったことも証明されている。これだけの荷物を持ち、しかも泥酔状態のとき、2分間も尻を触るなど、あり得ない。

 また平成18年12月20日の警察側の証人による証言は嘘であることは疑いようもない。彼は、被告が傘もバッグも持っておらず、両手で2分間尻を触り続けたと証言した。これは絶対にあり得ない。この証人は、蒲田警察署で7時間、検察庁に6回も通い猛特訓を受けたのに、その努力も報いられることはなかった。しかし、このことが、今回のでっち上げにかける警察の意気込みを物語っている。迷惑防止条例違反で、4人の検察官が公判に毎回出てくること自体、異常なのだそうだ。ただし、今回に限り一人に減った。
********************************************************

車内の混み具合は、動けば人に触れ合う程度だった。前にいたと思われる女性が左回りに振り返った。

弁護人  若い女性は制服を着ていましたか。

被告   制服は分からなかった。

弁護人  女性が振り返った後、どこまで移動しましたか。

被告   女性は電車の進行方向に対し、右斜め後ろを向いていた。動いた後、70~80cmの距離があったと思う。

弁護人  平成18年12月6日の意見陳述書では、あなたと被害者の距離は1~1.5mとありました。

被告   これは頭の中の間隔の距離でした。ビデオ撮影をして距離を測ったら、70~80cmだった。女性が動く前は、1~1.2mだったと思う。痴漢騒ぎかと思った。女性が大きな声を出したから、絶対に関わり合いになりたくないと思い、つり革を掴んで下を向いていた。そのとき、体の向きを変えたが、場所は変えていない。右手はつり革を掴んでいた。女性の声が聞こえ、目を開けたが、その後目をつむった。


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3月28日 植草事件の公判傍聴記(2)

 3月28日 植草事件 第六回公判傍聴記(2)  (支援者A氏)

**********************************************************

 このように、満員でもない電車で痴漢をすると、女性には逃げられるし、騒がれると、まわりの人にジロジロ見られるし、しかも逃げられないから、最悪である。だから、痴漢は、必ず満員電車で発生する。満員でもない所で痴漢をする人は、ホームの上でも、宴会の席でも、本屋でも、デパートでも、学校でも、所構わずするだろう。どこでもいいなら、せめて逃げられる場所のほうが、まだましだ。植草氏が、わざわざ、最悪の場所を選んで痴漢をやったというストーリーを作ったわけだが、こんなお粗末な、作り話を信じてしまう人がいること自体が、信じられない。もしこの作り話が、「デパートの中で痴漢をした」という内容だったら、誰も信じなかっただろう。だが、混んでない電車内では、逃げられない分、デパート以上に痴漢はやりにくい、あり得ない場所なのだ。
***********************************************************

証人   女子高生は、移動していた。被告人と見たとき、身をひく動作はあった。この図で言うと、降りた側は、上だった。このままするっと降りた。

弁護人  品川駅と蒲田駅で、開く側は同じですか。

証人   自分は、うといです。自分は、この電車を利用し始めて1ヶ月しか経っていないから、この電車には、それほど詳しくない。

      ・・・もう一枚の図面を示しながら・・・

弁護人  被告人、女子高生、本人、その他乗客がどこにいたか、覚えていたら描いてください。

証人   一緒に逮捕した人が、どこにいたか、気付いていない。ホームで男性が戻ろうとして、結構あばれていた。さっき電車にいた人(一緒に逮捕した人)だと思った。年配の人がいた、どこかの段階で、この子どものことを言っていた。

弁護人  子どもが近くにいたのですか。子どもは何人いたのですか。

証人   複数はいたと思うが、何人いたかは記憶にない。一人おとなが話しかけていた。女親だと思う。

弁護人  子どもがいた場所を描いてください。丸をつけて下さい。いつ、子どもを認識したのですか。

証人  女性に声を掛けて、位置を入れかえて、一段落して、このあたりに私はいました。

弁護人  女性の真後ろあたりになるんですか。

証人   この図面で、下より、位置が入れ替わって・・・
     大きく青い丸、これが子ども2人分、お母さんらしき人は分かりません。

・・・子どもを描き入れる・・・

 年配の男性は、男よりドア側にいた。その位置は特定できない。それ以外に記憶にない。

弁護士  蒲田駅についたとき、駅員は来ていなかったのですね。

証人   来ていませんでした。

弁護士   駅員を呼んできたことを、勤務先の同僚に話したのですか。話したら、その人は、ホームページにそのことを書いていますね。

このとき、検察官と弁護士が、発言を制止した。それは証拠として認めないので、その話はしないようにと。

証人   ホームについてから、駅員を呼んでくださいと言った。駅員が来て、駅事務室に行った。駅員は途中まででてきたが、協力してくれなかった。駅事務室がどこにあるか知らなかった。駅員を呼んでくださいと言った。駅員が来た。抵抗が激しかったので、駅員を呼んだ。

     「彼女と話させてくれと言った」

      話させなかったのは、被害者が泣き続けていたし、被告人は大声を出して暴れていたから。

*********************************************************
 痴漢をしただろうと、疑いを掛け告訴しようとするのなら、そしてその事実を相手の男性が、否定するのであれば、相手の男性に十分な説明をする義務があるのは当然だ。逮捕者が、痴漢を目撃したのなら別だが、そうでないなら、逮捕しようとする人は、両者の言い分を十分聞いて、痴漢をしたことが間違いないという確実な証拠が得られるまで、実力行使をしてはならないはずだ。それを無理矢理実力行使をしようとすれば、大声を出して、抵抗するのは当然である。
********************************************************

       駅事務室の入り口付近に行った。

弁護人  平成18年8月25日 駅員の山崎氏に検察官が対して書いた、駅事務室の図面がこれです。

    ・・・そこにいた人物の配置を描かせ、配置に間違いはないか確認する・・・

証人   ロッカーの位置はあっている。女子高生は斜線のあたりにいた。しきりの当たりにいた。もう一人。
     警察がくるまでの時間があったので、この場所にいた。

・・・ここで検察官が制止した・・・

検察   証人尋問は車両内に限る約束です。

弁護人  すぐ終わりますから。
     女子高生は何か話していましたか。

証人   お母さんに電話していた。

弁護人  どのようなことか。

証人   痴漢について、泣きながら、お母さんに電話して、また触られたと言ってないていた。  《また触られたということは、しょっちゅう、こういった事件で男を逮捕しているということでは》
     警察官が結構な人数ドヤドヤとやってきて、何人も質問していた。被告人は「彼女と話させて下さい」と言っていた。
  《この逮捕に備え、事前に用意周到に準備されていたのだろう。電車が駅に着いてから、僅か3分で現場の警官に一斉に連絡が行き、ドヤドヤと警官が乗り込んできた。植草氏が電車に乗るずっと前から準備が出来ていたのでなければ、こうはいかない。》

弁護人 品川駅を出て、女子高生の声を聞くまで、あなたは何をしていたのですか。

証人    それまで、本を読んでいました。

検察   弁護人から図面を示されて、あなたは位置関係を示していたのですね。

証人   自分の立ち位置が、2けんめの位置だったので・・・。
     彼女の頭越しに見た、男の位置ということで見てた。

検察   つり革の位置を確認してですね。

証人   もう少し、外側にあったように思う。もうちょっと廣いと思う。つり革との位置関係は、それほど意識せずに描いた。最初、事件について気付いたのは、「止めて下さい」と言ったので振り返って、そのときの位置関係はどうでしたか。最初の図面で女子高生を?、被告人を?で描いてください。

検察   弁護人は、?の人物が誰か他の人と入れ替わったと言っていますが、そうですか。

証人   入れ替わることはあり得ない。振り返ったとき、被告人が逃げたような動作をして、右手を・・・・やや身をひくような動作をしていた。「止めてください」という言葉に反応して身をひいた。のけぞらせるという感じ。足の移動は、半歩か、一歩しかない。動く余地は、あまりなかった。止めてくださいという言葉の後、1秒後した後、振り向いた。女子高生が「止めてください」と言った瞬間に被告人が移動したかどうか、分からない。

証人   女子高生は進行方向よりやや左側にむいていた。背の高さの違いがあったので、一直線上に並ぶような位置にあった。被告人は抗議を受けた。それに対して、一瞬「失礼」というような動作で、特に抗議に対して反応がなく、それで、女性は余計感情が高ぶったのだと思います。

検察   彼はなぜ、反応しなかったのですか。

証人   はっきり謝罪をすると、余りにも明らかになるから、なんとなくとぼけているように思います。「謝ってください」と言われて、被告人は右手を顔の前に挙げた。そのとき、被告人の表情は、ちょっとひるんだ、たじろんだ感じでした。
     最初、被告人を見たとき、つり革には捕まっていなかった。その後、女性の近くに行って、女性に「被害があった」「警察に突き出すから」と、被告人に一歩近づいて「突き出すからね」と言った。それまでの間、被告人が捕まえられたということはなかった。被告人は「突き出すからね」と言ったとき被告人はうなずき納得した。文句を言ってくることもありませんでした。
  《そうであれば、ホームで「女性とはなしをさせて下さい」と、もみあいになることはなかったのだから、これも嘘だ》

 その後、電車が蒲田駅に着くまでの間は、少し時間があった。その間に、ぶら下がるように、つかまっていたのが、印象に残っている。女子高生と男の間に立っていた。女子高生が泣き続けていたので、何となく慰めるような声を掛けた。男は、視界に入る程度の角度に立ったが、話しかけることはなかった。蒲田駅に降ろし、駅員に渡そうと思った。

弁護人    あなたの位置では、男は見えない。逃げるかとかんがえたことは無かったか。

証人    車内で移動しても、追いかけられると思い、心配していなかった。暴れるかもしれないので、降りるまでは、そっとしていた。女子高生をフォローしている感じで、被告人も目の中に入れていた。

     《おや、この人警官かな。こんな発言をするとはね。》

弁護人    蒲田駅で電車から降りるまで、自分は無実だと言ったことはありませんか。

証人     一度もありません。電車を降りてからホーム上、駅の事務室とかで無実だと言ったこともない。

・・・ここで、図面を使った説明があったが、図面を見ないと意味不明・・・

弁護人    蒲田駅でホームに降りてから、被告人が女子高生と話をさせてくれと言っていたのに、なぜさせなかったのか。

証人   女子高生との会話を示談のきっかけにするのかと思った。
       《冗談じゃあないですよ。事件発生して、まだ一度も会話していないときから、示談の話ですか。例え、そうだったとしても、話し合いをさせないのはおかしい。》

弁護人  あなたの判断では、話し合いをさせるべきではないと思ったのですか。

証人   被告人が大きな声で叫んでいたのと、激しく暴れていたし、女子高生もおびえていて、距離をとっていたので、話をする状態ではないと判断しました。
     《理由もろくに告げられず、実力で連れて行かれそうになれば、誰だってそうするでしょう。》

弁護人  男が酒に酔っている様子はなかったと、あなたは言いました。蒲田警察署の調書を、作成したのは、当日一回ですね。

証人   はい

弁護人  犯人の男は、酒に酔った感じだったと書いてあります。

証人   振り向いた瞬間には、酔っているとは思われなかった。駅事務室についてから、酔っていたと説明した。
      《これで、正体がばれました。例え、その一瞬酔っていないという感じを受けたとしても、かなり、もみあっているうちに、酔ってるなと気付いたはず。その後で、彼は酔っていたかと聞かれれば、絶対に「酔っていた」と答えなければならないはず。この替え玉さんは、別の証言に騙されましたね。青木巡査は1月15日の公判で、彼は酔っていなかったと証言してますね。彼は、これを読んできたのでしょうね。これを引用しちゃあ、駄目でしょう。自分は逮捕者の代役なんだから、逮捕者の調書を引用しなきゃ。》

弁護人  女性の声で振り向いたとき、女性の目を見ることはできなかった。男性を見たとき、浮いたような気持ちだったと言ったのはどういう意味か。

証人   男性のネクタイのまん中へんを掴んだ。これは、首が絞まらないように、表と裏と、一緒につかんだ。
     《さすが、警察官は訓練を受けていますね。こういった逮捕の方法が、最も確実だ。一般の人は、こんなこと知りませんし、やりません。》
    振り返って、女子高生と男を見たとき、男が浮いているような感じがあった。

弁護人  周囲の状況は、どんな様子でしたか。

証人   他の乗客も、すぐには気付かなかったが、これだけの人が、一人を見つめるのも初めて見た。
      《満員でない電車で痴漢をやると、このように大恥をかくだけだから、誰もやらない。でっち上げで、やったことにされる場合は、場所・状況を選ばない。》

弁護人   女子高生が抗議をするので、あなたもそうだと思ったのか。

証人    乗客は、みんなが注目していたから、浮いているように見えた。

弁護人   この図で、女子高生をなだめているときは、男は視角に入らないのではないですか。逃げると思わなかったのですか。

証人    片時も、目を離さなかったわけではない。

大村裁判官  混み具合ですが、押し合ったりするほどではないということは、簡単には、移動できないということですか。

証人   ドア付近は、混んでいた。真犯人と彼が入れ替わることはあり得ない。

大村裁判官  女子高生は右がわから振り向いたとき足の移動は、半歩から一歩だったのか。

証人    胸より下は、見えないから、足の移動はこの程度だろうと思った。

大村裁判官  顔色はどうだったか。

証人    少しやや赤く、つりかわにぶら下がる感じで、暴れたりは、車内ではしなかった。ホームに降りてから、後ろに戻ろうとして、女子高生に話したいと言っていた。ネクタイを持っていたのは、事務室まで。

  ・・・以下、後日起こったこと・・・

証人   N弁護人の尋問を受けた。自宅に訪ねてきた。今日、言ったことを言った。
     検察庁も一回行った。証言で異なっているところは無いと思う。自分が捕まえたのが、植草氏だと分かったのは次の日。手鏡事件のことは知っていた。サラリーマンとは、雰囲気が違っていた。名前は上着の内側に書かれていたのが見えた。降りる直前、Uegusaという名前が見えた。
     被告人以外にあやしい人はいなかった。

弁護人  まわりを見回したのか。

証人   全員が注視しているのは、壮観だなあと思った。


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3月28日 植草事件の公判傍聴記(1)

(3月28日 植草事件 第六回公判傍聴記(1)
                (支援者A氏)

27名の席を200名の応募があった。裁判官は

神坂尚(裁判長)
宮本聡
大村るい(前回欠席したが、今回元に戻った)

検察官  小出幹
(なぜか、今回は検察官は一人だった)

書記官 石川百合子

弁護士は4名。

最初は、弁護人が作成したビデオの上映を許可するかどうかの話し合いがなされた。結局、被告人の証言に基づいて作成したもののうちの一部のみが許可され、残りは写真による説明となった。出演者は12名。

午前中は、植草氏を逮捕した逮捕者「○○○○○○○」という人物の証人尋問であった。これは弁護側が申請したもの。弁護側が冤罪を訴えている根拠として、真犯人は別にいる、誤認逮捕だということ。しかし、逮捕者の証人尋問はそれを証明するというより、この事件がでっちあげだと証明するためということではないか。

●弁護人による質問

  証人の身長は173cm、体重は60kg。
 電車内で、犯人を逮捕した。そのときの服装は、黒いTシャツ、その上に紺色のワイシャツ、ズボンはグレーがかったジーンズ。持ち物は小さなリュックサックと折りたたみの傘。
(これが「私服の男」と警察の目撃証人が言った服装)
泉岳寺から京浜急行に乗っていた。勤務先は○○○○。仕事が終わって、泉岳寺で乗った。

弁護人による質問

証人 快速の久里浜行きに乗った。泉岳寺を10時すぎに出発、電車に乗ったときの混み具合は、人が密着したり、押し合ったりするほどではなかった。揺れれば人とぶつかるくらい。これは品川駅を出た頃の混み具合のこと。
 何両目に乗ったかは分からない。車両のまん中のドアあたりだったと思う。

・・・ここで弁護人が図面を示した・・・

弁護人 この図で左側が進行方向だと思ってください。この図面の上下左右に座席があるとして、大きく長方形が描かれている。パイプがあり、つり革が下がっていて、ピンク色はつり革の位置を示します。あなたの入ったドアはこれですか。

《図面は見せてもらえなかったが、一瞬見えた限りでは以下のような図面だった》

1_6

ここで、弁護人が進行方向を図面に描き入れた後に、証人に自分のいた位置を描かそうとしたが、証人は、どちらが進行方向かは認識していなかったと証言。ここで弁護士同士で話し合い、進行方向を描き入れていない図面に取り替え、もう一度、証人に自分の位置を描き込んでくれとたのむ。

弁護人 進行方向を考えないで、座席の位置、ドアの位置から判断して自分の位置、被害者の位置を描いてください。

弁護人 あなたの隣に人はいましたか。

証人 いたと思う。男女の区別は分からない。このとき、女性の声が聞こえた。品川駅を出て2~3分経ってから「止めてください」という声が聞こえた。その声を聞いて、そちらを振り向いた。

弁護人 その人の位置は分かりますか。その位置を丸で囲んでください。?と描いてください。

証人  《書いている様子》その声を出している女性は女子高生に見えた。女子高生は「止めてください」と言ってた。近くに男性がいたということですが、その男性の位置を描いてください。被害者は?、男性は?と描いてください。

《図面は見せてもらえなかったが、遠目で、ほんの一瞬見えた図面で描き込まれていたのは、下図の左上のようだった。


               進行方向

2_3

証人 男性はつり革にはつかまっていませんでした。

弁護人 女子高生と男性はどのくらい離れていましたか。

証人 直ぐ後ろに立っていました。

・・・ここで弁護人は証人に近づき、巻き尺を使って距離を確認しようとした。証人の前にある机の縦と横の長さを引き合いに出し、これらに比べてどうかと聞いた。証人は、縦の長さくらいだと証言。弁護人は縦の長さを測り51cmであることを確認。

証人 被害差hと男性の距離はこの机の縦の長さ(51cm)より短いか、そのくらいかといった程度だった。すぐ後ろに立っていた。自分がいた位置は、間隔が見える所ではないので、はっきり言えない。女子高生の発言は

「止めてください」
「子どもがいるのに、恥ずかしくないのですか」
「謝ってください」
「次で降りて貰いますから」

と、少し間隔を開けながら話した。

*******************************************************
平成18年12月20日に警察側の証人が、逮捕したのは「私服の男」と言ったが、このとき「車両の前方の方から私服の男性があらわれて、女子高生に話しかけました」と証言している。つまり○○○氏は私服の男なわけだ。○○○氏は車両の前方から来たとは言わなかった。それよりずっと近くにいたようだ。電車の中で、これだけの会話がはっきり聞き取れる位置だから、相当近くにいたのだろう。証言が大きく食い違っている。乗車していた人の図面を描いていたが、20日の証人の配置図とは全く異なるもののようだ。2人とも現場にはいなかった人のように思えた。

●20日の証人の証言:

○証人 話しかけた男性(○○○氏)がおじさん(植草氏)のネクタイをつかみました。

○小出検察官 その男性乗客はおじさんに何かいいましたか。

○証人 「逃げるな」みたいなことをいったように思います。

○小出検察官 「次の駅でおりるように」というようなことはいっていませんでしたか。

○証人 そういった内容もありました。

○小出検察官 それに対して、おじさんの方は、その男性乗客に対して何かいっていましたか。

○証人 「逃げないから」というようなことをいっていました。

20日の証人も、○○○氏も、これだけの会話をしっかり聞いているということは、相当近くにいたに違いない。発言内容は全然違うものの、次で降りろという発言だけは、共通しているということは、警察、検察で受けた特訓の成果の表れだ。
*********************************************************

証人 その後、男性は、自分が見た最初のときからは、少し間隔を開けた。しかし、位置を大幅に変えるほどでもなかった。女子高生は、振り返って、男性の右の方を振り向くような感で、その後は、はずす感じだった。男性はつり革を捕まるとかは、確認していませんが、その後、蒲田につくまでには、つり革を捕まっていた。

弁護人 どのつり革でしたか。

証人 このつり革につかまっていたと思う。

弁護人 男性は酒に酔っていたのですか。

証人  酔っている印象はなかった。(警察で作成した調書では、この証人は男性は酒に酔っていたと言っている。そうでしょう。この証人は替え玉ですから。私服が証人に立てるわけがないでしょう。)女子高生が振り返ったとき、他の乗客は、あっけに取られていた。女子高生が、鳴き声になったので、女子高生のほうへ、移動した。声がしてから移動するまで、何十秒。その後1分くらいで移動した。

・・・ここで、図を見ながらの移動の様子の説明となったが、図を見せてもらっていない我々には、分かりづらい内容となった・・・

弁護人 被害者とあなたが交わした会話はどのようなものでしたか。

証人 
 
   証人   「触られたの」
   被害者  「はい」 
   証人   「つきだす」
   被害者  「はい」

***********************************************************
 驚くべきは、たったこれだけの会話で、彼が実力で植草氏を駅事務室まで運ぶ決心をしたということだ。通常の人は絶対にそのようなことはしない。もし誤認逮捕であったら、逮捕者は3年以下の懲役になるし、男が暴れて怪我をするかもしれない。余りにもリスクが大きいのだ。ましてや、加害者とされている男性が逃げる気配もない場合は、話し合いの末、本人の合意の上で駅事務室に連れて行くでしょう。そもそも、この会話そのものが、12月20日の証人に聞かれていないというのも、どちらか(あるいは両方が)嘘を言っている証拠である。
*********************************************************

 その後、この男の横に移動して、男に「つきだすからね」と宣告した。結構近づいて言いました。

・・・このとき、位置を確認・・・

 男は、つり革には捕まっていなかった。左手で腰を叩くようにしていたので右手は、下に降りていたと思う。

弁護人 その男性がバッグを持っていましたか。

証人  その時点では、持ち物をもっていたか、覚えていない。左手で右手を軽く叩いた。弁護人 京急蒲田駅まで、そこにいたか。

証人  いいえ、身動きが取れない混みようではなかったし、女性の気分が悪いだろうと思って、間に入った。男は、つり革に途中で捕まった。京急蒲田駅につくまで、やりとりは何も無かった。男性も話しかけなかった。男性はつり革に捕まって、目をとじた。そういう状況が京急蒲田駅まで続いた。電車にブレーキがかかったタイミングで、男性に並んでネクタイを左手でつかみました。

弁護人 電車を降りる直前か。

証人  直前がどのくらいかわからないが、止まりきってはいなかったが、長くはなかった。他の乗客はよけてくれたので、ドアに向かって並んでいた。止まったか、止まらないかというときに、そこでドアが開いて、2人が出て行った。開いて出て行ったのは、上の方のドアだったと思う。電車内にいるとき、警察に電話はしなかった。乗客も、警察に電話した人はいなかった。ホームに降りてしばらくして、もう一人の逮捕者が協力してくれた。何人かの人が声を掛けてくれた。

**********************************************************
 頼みもしないのに、もう一人、ボランティアが現れて、実力行使を手伝ったそう。これだけ危険なボランティアを引く受ける人が、こんなに簡単に見つかるなどという話、誰が信じるだろうか。何人の人が声を掛けてくれたそうで、その間、相当時間が経過していることが、察せられる。
**********************************************************

ここからは、T弁護人

弁護人 事件が発生したのは、品川駅を出て2~3分位してからですか。
証人  それは根拠はありません。感覚的にそうだったと思う。逆算してみると、品川駅から蒲田駅は10分、事件が終わってから5分くらいは待っていた。私は、痴漢は見ていない。被告人を突き出すと決めたのは、女子高生が抗議をしていたから。それに男が顕著に目立っていた。浮いている感じだった。女子高生が、その男を見てたし、他の乗客が全員見ていた。

(次回に続く)


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2007年3月29日 (木)

3月28日 植草事件の公判傍聴記(概要)

3月28日 植草事件、第六回公判傍聴記(支援者A氏)

27名の席を200名の応募があった。裁判官は

神坂尚(裁判長)

宮本聡

大村るい(前回欠席したが、今回元に戻った)

検察官  小出幹

(なぜか、今回は検察官は一人だった)

弁護士は4名。

詳しくは後日、まとめますが、今日は要点のみ。

ビデオは制作されたもののうち、一部の上映が許可され、車内の様子が分かってきました。

それはともかくとして、私の印象ではこの公判で、この事件がでっち上げである証拠が次々と明らかになってきたと思います。

今回は、植草氏を逮捕したTという人物の証人尋問が午前中にありました。

平成18年12月20日に警察側の証人が、逮捕したのは「私服の男」であると証言した人だ。もし、彼が私服警官なら、替え玉が出てくると思われる。

①彼が言うには、植草氏を実力で車内から連れ出した後、乗客にお願いして、駅員をよんできてもらい、駅事務室に連れて行ったという。駅事務室がどこにあるか分からないからそうしたのだろう。そうであれば、どう少なく見積もっても、電車が到着してから駅事務室に彼を連れて行くまで5分や10分かかるだろう。しかし、警察の発表では、電車がついてから、この痴漢容疑者に関する連絡が警察に行き、それが、近くのパトカーに連絡が行くまで僅か3分しか掛かっていない。つまり、T氏の言うように、駅員を呼んでいたら、3分では絶対無理だ。自分は電車の中から警察に電話はしなかったし、他に電車の中から電話をしていた人はいなかったそう。であれば、明らかな矛盾であり、彼は明らかな嘘を言っている。T氏は、植草氏が酔っていなかったと証言した。しかし、警察で作成された調書には、彼は酔っていたとある。このことを弁護士に追求されると、とたんに、「最初見たときは酔ってないように見えたが、後でよく見ると酔っていた」と話しを変更した。この人と警察で調書を作った人が別人ならこんなへまも、あり得るだろう。やはり、替え玉なのではないだろうか。

②平成18年12月20日に警察側の証人が、逮捕したのは「私服の男」と言ったが、このとき「車両の前方の方から私服の男性があらわれて、女子高生に話しかけました」と証言している。つまりT氏は私服の男なわけだ。この私服の男の服装は、黒いTシャツの上に紺色のワイシャツ、ズボンはグレーがかったジーンズだったそう。これが私服の男であるT氏の服装だそうだ。T氏は車両の前方から来たとは言わなかった。それよりずっと近くにいたそう。証言が大きく食い違っている。乗車していた人の図面を描いていたが、20日の証人の配置図とは全く異なるもののようだ。2人とも現場にはいなかった人のように思えた。

③証言した会話の内容もまるっきり違っている。

●20日の証人の証言:

○証人 話しかけた男性(T氏)がおじさん(植草氏)のネクタイをつかみました。

○小出検察官 その男性乗客はおじさんに何かいいましたか。

○証人 「逃げるな」みたいなことをいったように思います。

○小出検察官 「次の駅でおりるように」というようなことはいっていませんでしたか。

○証人 そういった内容もありました。

○小出検察官 それに対して、おじさんの方は、その男性乗客に対して何かいっていましたか。

○証人 「逃げないから」というようなことをいっていました。

T氏の証言:

自分は、植草氏に「(警察に)つきだすからね」と宣告した。京急蒲田に着くまでのやり取りは何もなかった。植草氏も話しかけなかったし、自分も植草氏に問いかけていません。

T氏が証言した、女子高生と被告人との会話は

女子高生:「止めてください」

「子どもがいるのに、恥ずかしくないのですか」

「謝ってください」

「次で降りてもらいますから」

と発言した。随分気の強い女のような印象を受ける発言だ。しかし、一転して泣き出すところは芝居もいいところだ。何と、その後、駅事務室に行ってもずっと泣き続けていたそう。駅事務室では、お母さんに電話して、「また触られた」と言って泣き続けたのだそう。そして自分のパンティーを警察に鑑定に渡したとは、余りに現実離れしていないか。

弁護側では、女子高生の証言に基づいて、ビデオを撮影している。

植草氏の証言では、当時彼は、左手に傘を持ち、それを杖の代わりにしていた。右肩に約4kgのかばんを掛け、右手でつり革につかまっていた。泥酔状態で、思いかばんを掛け、体を支えるのがやっとで、女子高生の言うように両手で2分間も触り続けるなど、あり得ないことではないか。それにすべての証人の言うように、車内は随分空きスペースがあったよう。T氏は、女子高生が騒いだらまわりの乗客が全員植草氏を見ていたというから、やはりかなりスペースはあった。ということは、そんなに酔っぱらいが近づいてきて尻を触ったら、本能的に振り払うとか、2,3歩前進して難を逃れるかするに違いない。女子高生の話はやはりあり得ない話だ。

 しかも、再現ビデオで被害者役を演じた女性の話では、どうやっても、傘を持っている左手を見るのは無理だということ。残念ながら、これに関し説明をするのを検察側は認めていない。

続きは後日。


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2007年3月27日 (火)

東京地裁よ、植草事件の再現DVDを採用せよ!

 東京地裁は植草教授の再現DVDを採用せよ!

明日、3月28日の公判は午前10:00からである。弁護側は逮捕者(植
草氏を駅事務室に連れて行った者)の一人の証人申請をしており、午前
中の2時間はその証人尋問、午後は弁護人からの被告人尋問になるも
のと思う。

  公判で植草氏は無実であることを証明するために、DVDを作成した。そ
の上映を裁判所が許可するかどうかは、検察側の意見に基づき裁判所が
判断する予定になっている。その判断が微妙な段階にある。裁判所がもし
これを許可しないとなれば、この裁判が、被告人の反論を封じ込める意図
で行なわれている八百長裁判、すなわち悪質な“私刑法廷”となっているこ
とは明らかである。

 裁判所がこのDVDの上映を認めない場合、この植草事件における全体
の審理そのものが、鮮明な国策捜査の様相を帯びていることを自ら証明す
ることになる。そこには売国政治屋どもに魂を売った一部の検察だけでは
なく、裁判所までが彼らに加担して、司法の正義がゆがめられていること
が、広く国民に認知されることになる。

 DVD採用を裁判所が許可しないということは、植草事件の審理全体が
暗黒裁判であることを象徴することになる。国民は、この再現映像を裁判
所がどう扱うかに注目している。今、司法の良心が問われているのである。
もし、このDVD採用が却下されたら、私は植草事件を担当した裁判所そ
のものの裁定思想の不正義を声を大にして訴えかける。

 東京地裁の公正な判断を期待する。

 おまいら!ちゃんとやれよニャン
Photo_26

(しかし、なんだニャア、裁判所に公正を期待するなんて思わ
 ず言うこと自体が現代日本の恐ろしい現実をあらわしてい
 るんだニャア。三権分立なんて、ネコのおいらでも知ってる
 からニャン)


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2007年3月25日 (日)

植草教授は反撃の火蓋を切った!

 植草一秀氏は、「月刊日本」四月号という雑誌で、

『安倍首相よ、対米隷属経済と訣別せよ』というタイトルで
小泉・竹中路線の痛烈な批判を行なった。

 私はこの心意気を長いこと待ち望んでいた。

1_1 


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カオス・ポイントを求めて!

鹿砦社ホームページ             植草事件の真実    

 気が付いてみたら10日間、更新が途絶えていた。まあ私も普通の人間、
筆が乗らない時もある。昨年から「国策捜査」疑惑という、何と言うか、あま
りにも非日常的で深刻なテーマを扱ってしまったせいか、一本調子になら
ないように自戒しているといったところだろうか。しかし、更新が途絶える
と、何かあったのかと心配してくれる読者がいて、何やらありがたい気持
ちになる。

 数名の方から、元気ですかとか、生きていますか(笑)とか、無事という
ひと言でいいですから返事をくださいというメールが届き始めた。何にして
も、私ごときにもったいない話である。私は無事に生きております。(笑)

 さて、植草一秀事件を検証する会が、万難を排して何とか出版にこぎつけ
た「植草事件の真実」は、当初、楽天ブックスのランキングで一位に躍り出
たが、最近では売れ行きは頭打ちになったようだ。出版社はアマゾンでも扱
うように申し入れたのだが、まったく無反応だった。この状況がブックマーケ
ットに作用する、いわゆる自然な状態での収穫逓減則に従っているのか、
あるいは、ブックマーケットの需給関係に何らかのバイアスが働いたのかは
定かではないが、いずれにしても、不完全ながらもこの稀有な内容の本が
もっと人々の目に触れてくれればいいと願っている。

 私自身はひそかに期待していたことだが、この本の特異性を考えてみる
と、この本のジャンルが、既存の範疇におさまらずに未分類に位置すると
思っていたから、通常の本と違う売れ行きをたどることを半ば予測してい
た。それは、この本が数人の著書で構成されており、植草氏無実論では統
一性が取れているのだが、大きく分けて二つのテーマ性を扱った本だから
である。つまり、一方では冤罪論を提示し、私が書いた物は「国策捜査」論
を展開しているからである。私は両者の見解が混在していても、植草氏無
罪論という立場から言えば何の問題もないと考えている。むしろ、考察の範
囲が広くなり、世の中に訴えかける境界面が大きく取れるメリットがある。

 ある人間は、国策捜査などという証拠性の乏しい憶測が却って事実を希
薄にする影響を与えるではないかと、さも優等生ぶった発言をしているよう
だが、それは私から言わせれば逆である。むしろ、国策捜査の見地に立た
ない通常冤罪の地平では説得力はまるで乏しい。通常冤罪論をぶち上げ
る人にこういう言い方をする。8年間というさして長くもない期間に、三度の
性犯罪疑惑が生起し、その連続性を理由に、植草氏の「病的性癖論」が既
成事実として定着されつつある現実を、冤罪論でどうやって覆すつもりなの
だろうか。つまり、通常冤罪論では三度の連続性を合理的に説明すること
は無理なのである。

 冤罪と国策捜査では性格がまったく異なる。冤罪とは、捜査当局が犯罪
を摘発する過程で間違いが生じ、無実の人間を犯人にしてしまったにもか
かわらず、捜査当局の面子や組織防衛のために、その人間を強引に継続
捜査してしまうという形態である。要は「捜査当局無謬論」から生じた故意
による犯人仕立てである。ここには政治的な背景は存在しない。

 一方、国策捜査とは、国家の自存本能により、国家の政策に多大な影響
を与えるような才能を持った人物を最初から標的にして、政治的に、言論的
にその人物の無力化を狙ったものである。ここには百パーセント政治的な
思惑が存在している。狙われるのは主に政治家や政策提言を行なう経済
学者である。

 そこで、通常冤罪が8年間のうちに三度起きたとすれば、その生起する
確率はいかほどなのであろうか。女子高生や女性の単独の考えによるイタ
ズラ説は、品川手鏡事件に関してはまったく考えられない。しかし、東海道
線車両事件や京急電車内の事件に関しては可能性はないとは言えない。
ただし、イタズラ説をとるのであれば、警官が追尾して無理やり逮捕した真
ん中の品川手鏡事件はまったく異質な事件だったことになる。

 三度の性犯罪疑惑が起きて、品川事件を警察の見込み捜査による冤
罪、京急電車内の痴漢疑惑を誤認逮捕、あるいはその他による冤罪とし
た場合、東海道線車両内の事件はどう説明するのであろうか。品川事件
も、京急事件も、冤罪を強弁したとしても、一回目の東海道線車両のこと
も無視するわけにはいかないのだ。だとすれば、通常冤罪説でこの三度
の事件の整合性をどう解釈するというのだろうか。8年間に冤罪が三度起
きましたよと言うのと、8年間に病的性癖による性犯罪が三度起きました
よと言うのは、はたしてどちらが説得性を持つかは言わずとも明らかであ
ろう。通常冤罪論では三度の連続性を無効化することは絶対に無理なの
である。

 通常冤罪論を主張する者も、マスメディアの偏向報道を指摘しているが、
それならなぜマスメディアはそういう偏向報道をやらねばならなかったの
か、その理由を鮮明に述べる必要がある。その肝心な部分を思考停止し
ておいて、通常冤罪論を優等生ぶってぶち上げても、三回という性癖論に
対しては無力であろう。マスメディアが軒並みに植草氏の病的性癖論をイ
メージとして固定化させたのは、背景にアメリカの対日占領政策があり、
そのことに重大な警告を唱える植草氏の言論を封じ込めるためにほかな
らない。彼を嵌めた勢力は、小泉・竹中の従米傀儡政権筋なのである。
この背景はすでに国策捜査の前提領域なのである。

 今まで私が述べたことをよく反芻すれば、その意味は明確だが、三度
の連続性を性癖説以外で捕捉でき、かつ充分な説得性を有する考え方は
国策捜査以外にありえない。従って、小泉・竹中売国政策路線と植草氏が
政策上でどういう対立があったのかを、こと細かく分析すれば、植草氏が
国策捜査の罠に嵌められる充分すぎる動機が存在することが明らかとな
る。その対立軸の中では、特にりそなインサイダー疑惑という大規模な経
済犯罪が存在したことは、重要な要件として上げられるのだ。

 本の売れ行きに話の本筋を戻すが、冤罪論と国策捜査論の混交という
稀有の形態を有していることがこの本の特徴だとすると、この本はジャン
ル的には未分類であり、珍しい独自性を持つと考える。そういう目で見た
場合、複雑系経済学のアーサー・ブライアンの言う『収穫逓増』の作用が
働いて、この本は売れ続けるかもしれないと思っていた。しかし、国策捜
査という事象そのものに多くの人々が無関心であることが、この本の売れ
行きを収穫逓減の典型的なパターンに置いたのかもしれない。

 つまり、この状況を突破して、植草氏の無罪と名誉を世間に納得させる
ためには、小泉・竹中政権がいかに売国的施政に徹していたかを暴き、
世論喚起をすることにある。私のつたない能力がどこまでそれを可能に
出来るかわからないが、やる価値は充分にある。

植草氏の無実を信じて、私なりに応援の活動を行なっているが、彼が陥
れられた国策捜査の背景を考えていると、戦後日本が、なるべくして進ん
できた道筋の向かう先が、あるオメガ・ポイント(終局点)に向かって、急速
に加速の度合いを高めてきたという実感がある。これを三島由紀夫の予見
した「無国籍化」への道程と見るならば、そのオメガ・ポイントは明らかに破
滅点(バニシング・ポイント)となるが、民族や国家の歴史は、人間が考えた
ようには単線的な推移はたどらないものである。

 おそらくは、我々が漠然と持つ暗澹たる未来のオメガ・ポイントは、複雑
系の揺らぎの道程をたどり、ぎりぎりのところで民族の潜在能力が覚醒す
るに違いない。その時、我々がオメガ・ポイントだと考えたいわゆる破局点
は、起死回生のカオス・ポイントになり、我々は新たな秩序・パラダイムを
明確に展望できるかもしれない。日本民族にはそういう底力が封じ込まれ
ている。


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2007年3月15日 (木)

胴体着陸に敗戦の悲哀を見た

     (3月13日)  

 午前、NHKを観たら四国の高知空港の実況中継だった。何だろうとその
まま観ていたら、大阪伊丹空港から高知空港へ向かった全日空のDHC8と
いうプロペラ機が空港の上空を旋回中だった。機の前輪が降りなくなり、本
体車輪のみで着陸しようとしていたところであった。その前に一度着陸を試
みたが駄目だったらしい。

 乗客は56人、乗務員は4人、合わせて60人の命がかかった「半胴体着
陸」が、まさに今から行なわれようとしていた。テレビの画面に目が釘付け
になった。爆発炎上の悪夢がよぎった。 飛行機は機首を水平にして減速
し、そのままランディングに移ったが、機首底部から二回くらい火花が散っ
ただけでスムーズに停止した。機体そのものは損傷もなしに着陸できたの
で、見た目には安心したが、地面と金属の摩擦でかなりの高熱を帯びてい
たらしく、消防車が機首に放水をするのを見て、まだ予断を許さない状況な
のかと注視していた。しかし、どうやら事なきを得たらしい。

 航空評論家は、マニュアルに即した冷静な操縦を行なったパイロットの腕
を評価していた。確かに爆発火災も起きずに無事に着陸したことは旅客航
空史の僥倖であろう。アナウンサーがこの機体はカナダのボンバルディア
機だと言っていたので、ネットで調べたら、そのボンバルディア機は故障が
多いと書いてある。そうだったのか、危ない話だなと思った。しかし、それは
それとして、私は急にあることに思い当たって、しばし強い悲哀感に苛まさ
れた。

 この航空機事故の生中継を見ていて、私の胸には日本の戦後史のある
先鋭的な断面が急に去来した。今から、数十年前の高度経済成長期、日
本はその工業生産のダイナミズムと優秀な品質管理能力で、家電や自動
車、その他の工業製品が瞬く間に世界中を席巻し、世界の奇跡と呼ばれた
時代が確かにあった。この事実は戦後史に燦然と輝く我が国の誇らしい記
憶である。

 しかし、造船、新幹線、家電、自動車など、世界のトップレベルを行く勇躍
を成し遂げた我が国は、ある科学部門がまったく駄目であったことを自覚す
る者は少ない。戦後の成長期も含めて、今現在も駄目なものとは何であろ
うか。それこそが、我が国戦後の航空産業である。我が国の航空産業史
は、敗戦を境にして見事なまでにぴったりとその連続性を途絶えている。か
つては三菱があの芸術的な名機である零式艦上戦闘機を生産した。その
日本は大東亜戦争に敗れてから航空史の発達を止めた。唯一、ターボプロ
ップのYS-11を造ったのみである。下記のサイトは誰が書いたのか筆者
は不明であるが、日本の航空産業がYS-11で頭打ちになった歴史的契
機をロッキード疑獄事件に見ている。

http://speech.comet.mepage.jp/note02/mint_070.htm

私も基本的には、田中角栄が関与したこのロッキード事件の背景には二
面性があり、両方ともアメリカの強い関与があったと感じている。一つの側
面は当時の田中首相が、原油の輸入ルートを中東以外の所に求め、石油
メジャーの逆鱗を招いたという、比較的知られている話である。もう一つは、
上記のサイトで主張するように、アメリカが日本の航空技術の発展と、大空
の航路覇権を求めることを畏れ、日本の航空運輸の未来をつぶしたことで
ある。

 アメリカが日本の航空産業を発展させなかったのは、GHQ統治の時代か
らである。アメリカは真珠湾を日本に叩かせ、開戦の理由を作り、わずか三
ヶ月で日本を降伏に導く算段でいた。ところが、日本は物資の消耗時点が
終局点ではなかった。連合国の思惑に反して、日本は三年と八ヶ月を戦い
抜いた。それどころか、ミッドウェー海戦で優勢な戦いをしていたら日本に
勝機はあったのである。

 日本は降伏が近づいてきても、特攻や玉砕戦法を行い、戦陣訓の「生き
て虜囚の辱めを受けず」の精神を貫き、祖国防衛の熾烈さを見せ付けた。
大東亜戦争で日本民族のポテンシャルの高さを痛感した米国は、戦後、日
本の国力を殺ぐ方針を徹底して実行した。終戦後、GHQはマスメディアを
駆使することによって、“閉ざされた言語空間”を日本人の心理空間に施し
た。ありていに言うなら、これは全国民レベルの洗脳(WGIP)だった。

 大東亜戦争末期、弾薬も、食料も、原油もほとんど尽きかけていた日本
人は、特攻戦法を採用する頃から、最後の精神戦争に突入した。後世の
人間は、特攻や玉砕戦法に至った状況を、無能で無駄な戦いだった、戦
後、国家を再建するには著しい阻害をもたらした無意味な消耗戦であった
と捉えるものは多い。私はまったく違う見解を持っているが、これについて
の評価は本論から外れるので今は語らない。言うべきことは、特攻や玉砕
戦法は、日本人が極限的位相における立ち居振る舞いに現われる最も日
本人らしい行動だったということである。しかし、それは、結果的に民族の
精神を深部から疲弊させた。

 銃後の国民も含め、死力を尽くして祖国防衛の戦いを行なった先人たち
は、天皇のご詔勅を耳にし、ようやく武装解除を認め、即して精神の武装解
除まで行なった。私の父も含め、終戦時のこのプロセスを踏んだ生き残りは
まだ多く残存している。しかし、彼らは、自らその口を開いて、当時の“精神
の”武装解除を語ろうとはしないのである。それはなぜなのか。その時を生
きてきた者にしかわからない歴史的な感情があり、それは言葉になりにくい
のかもしれない。

 後世の我々はそれを敗戦ショックという無機的なひと言で無造作に括る。
だが、実際は、戦争に負けたという認識によるショックではなく、祖国防衛、
本土防衛に費やした精神戦による底知れぬ消耗であったと私は思う。終
戦のご詔勅の直後、日本民族は建国以来、未曾有の心理的空白(エアポ
ケット)に遭遇したのである。江藤淳の言った“閉ざされた言語空間”とは、
単にGHQがメディア統制のために行なった放送コードだけを指すのではな
い。それは本土死守を覚悟して精神戦に突入し、天皇のお言葉があるまで
は、生きながら鬼道を踏みしめた先人たちの深い眠りなのである。これが
俗に言う東京裁判史観の深層なのである。

 こういう洗脳空間に落とされても、日本は工業立国として世界の最高水
準までその技術を高め、研鑽を続けた。その結果、家電、半導体、自動車
などはどの国も太刀打ちできないレベルまで到達した。ところが、自動車の
次にやろうとした航空機、それも軍用と無関係な旅客航空機が当初から壊
滅的状況に近いものだった。1960年代、日本はターボプロップのYS-11
という旅客機を造り、数々の試練を経て実用にこぎつけ、世界の評判を得
たが、1973年に戦後唯一の旅客機は後継もなくその幕を下ろした。戦
後、我が国が作った旅客機はそれ一種類だけである。これは日本の航空
産業史のあだ花となった。

 そこで、冒頭に書いたボンバルディア機の胴体着陸を思い浮かべて欲し
い。カナダのボンバルディア機は故障が多くて空のシンドラーと書いた週刊
誌があった。粗製乱造とまでは言わないが、この規模の旅客航空機では寡
占状態にちかいシェアーを有しているようだ。四国の胴体着陸は、パイロッ
トの見事な操縦によって事なきを得たが、考えてみると、陸、海、空の乗り
物の中で最も安全を確保しなければならない乗り物は、重力に逆らって飛
ぶ飛行機である。世界中の人々の生命の安全を託す飛行機は、最も堅実
で品質管理に優れた民族が造るべきなのである。先人たちはゼロ戦や戦
艦大和を造った。

 そう考えた場合、我々日本人が旅客飛行機を造るに最も相応しいと思っ
ているのは私だけであろうか。ところが日本製の旅客機はどこにも存在し
ていない。妙だとは思わないだろうか。工作機械、自動車、電子機器、制
御機器、液晶パネル、そういう技術では世界の最高水準にある我が国が、
なぜ旅客機を造っていないのだろうか。品質管理、工程管理でも日本人に
敵う民族は現われていないのだ。日本が旅客機を造らないのは、造れない
のではなく、世界最高水準の物を造る技術力があるからこそ“造れない”の
である。このアイロニーがおわかりだろうか。

 アメリカが造らせないからである。日本人に空の乗り物を造
らせたくないのである。たとえ民間の飛行機であっても、制空権を手放した
くないアメリカは、世界で最も優れた飛行機造りを実現してしまう日本人に
夢の飛行機を造らせない。この意識に、特攻機の残像が影響していないと
誰が言い切れるだろうか。そして、私が日本人の敗戦ショックをわざわざ書
いたのは、日本人自らが精神の深い部分で戦いを封印したからである。つ
まり、日本人が飛行機を造らないのは、アメリカの圧力という表面的な理由
とともに、民族自らが、東京裁判史観という口実を基にして、空で戦うことを
禁じたからである。だから空を飛ぶものは模型ヘリしか作らないのだ。これ
はある意味、自主的な“刀狩り”と言える。

 日本の刀狩り状態は、憲法規定における自衛隊の異様さだけではない
のだ。飛行機を造らない国という悲しい宿痾を背負っていることに民族が
思考停止していることがそのことを示している。胴体着陸を見ていて、私が
強い悲哀感を味わったのは以上の理由からである。
 


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2007年3月 7日 (水)

ファスト風土化と命名権ビジネス

植草事件の真実小泉の「自民党をぶっ壊す、「47.7%の得票率で、73%の議席獲得の「圧勝」自民。小選挙区制インチキ選挙。」、結果安倍で、やらせ・ごまかし・改悪やり放題、で、「日本の9・11絶対に忘れない」バナーキッパーをかぶっていったいなんのつもりだバナー

 3月4日の日曜日、爆笑問題と阿川佐和子さんが司会をするフジテレビ
の「スタメン」という番組で、命名権ビジネスの話を取り上げていた。命名権
ビジネスとは、例えば野球の競技場などにスポンサーや商品の名前を付
け、代わりに権利料を払うビジネスのことを言う。命名権は英語ではネーミ
ングライツ(Naming Rights)と言う。

 命名権ビジネスはスポーツ施設だけに限らないが、ここではスポーツ施
設の命名権について述べる。私が指摘したいことは、命名権がアメリカ発
のグローバル・スタンダードと密接な関係を持つということだ。命名権ビジ
ネスの存在そのものが、市場原理至上主義によって破壊される伝統や文
化を示している。命名権ビジネスの風潮は、現代特有の現象であると当然
のように捉えている人が多い。しかし、実はこういう感覚こそ、グローバリゼ
ーション浸透による国民意識の頽廃であり、日本人の自己同一性の危機な
のである。

 町や市の施設に命名権を使用することは、テレビ側の調べでは約六割の
人間が賛成しているそうである。その理由として、町や市が、その施設の
新しいネーミングによって、資金的に潤い、活気付くことは好ましいというこ
とが上げられていた。スタメンに出ている解説者も命名権ビジネスに諸手を
上げて賛成していた。しかし、コメンテーターの中で、宮崎哲弥氏は、命名
権ビジネスについて比較的まともなことを言っていた。

 彼は全国にある有名な施設は、その街の“ランドマーク”的な意味合いが
あるから、それを商業主義的な価値に置き換えてもいいのかというような疑
問をはさんでいた。それにはまったく同感である。そういう捉え方ができる
宮崎は惜しい男である。彼は知識もあり頭も切れるが、小泉政権的な売国
潮流にすっかり魂を売る情けない評論家に成り下がっている。特に、植草
一秀氏を悪し様に病気呼ばわりしたことは、前政権絡みと気脈を通じてい
るとしか思えない。電波芸人のテリー伊藤や電波弁護士の橋下徹と同じ類
である。

 それはともかく、日本全国の名だたるスポーツ施設は、この命名権ビジネ
スによって、無残にも露骨な商業主義的ネーミングに席巻されてしまった現
実がある。これを読んでいる読者諸氏も、身近にそういうスポーツ施設を見
て思い当たるに違いない。その例をいくつか上げてみる。

フクダ電子アリーナ    千葉市蘇我球技場       2005/10~
iichiko総合文化センター  大分県立総合文化センター   2005/4~
インボイスSEIBUドーム  西武ドーム           2005/4~2006/12
エプソン品川アクアスタジアム   品川アクアスタジアム  2005/4~
スカイマークスタジアム   神戸総合運動公園野球場    2005/4~
福岡Yahoo!JAPANドーム     福岡ドーム       2005/3~
フルキャストスタジアム宮城   県営宮城球場       2005/3~
日産スタジアム         横浜国際総合競技場    2005/3~2010/2
シャネル ルミエール   東京国際フォーラムガラス棟    2004/4~
Yahoo!BBスタジアム    神戸総合運動公園野球場     2003/4~終了
味の素スタジアム    東京スタジアム          2003/3~2008/2
サントリー東伏見アイスアリーナ  東伏見アイスアリーナ   1996~終了



 これは全国の命名権ビジネスのほんの一角であるが、時期が2003年
から2005年くらいに集中していることがわかる。鋭い人は、この時期に思
い当たることがあると思う。そう、これは小泉政権が、りそな問題を筆頭とし
て、郵政民営化に進むまでの従米売国体質が最も顕著に出ていた頃の時
期と一致しているのだ。

 重要なことは、この命名権ビジネスというものが、三浦展氏の創案した造
語である「ファスト風土」化に連動して起きていることである。ファスト風土と
は、地方社会において固有の地域性が消滅し、大型ショッピングセンター、
コンビニ、ファミレス、カラオケボックス、パチンコ店などが、無規律に郊外に
建ち並ぶ現象であり、それが全国の郊外風景の単一化、画一化をもたらし
ている。この「ファスト風土」という造語は、おそらくファスト・フードから来て
いる。

 ハンバーガーやホットドッグのような即席立ち食い食品をもじって「ファスト
風土」なる言葉が生まれた。地方特有の風土に市場原理一色で染められ
た即物的な大型店が進出し、ファスト・フード店やコンビニと同様に、業績が
悪ければすぐに立ち退き、そこにはぺんぺん草も生えないコンクリート荒野
が野ざらしになってしまう。伝統や文化などの地域性を頭から無視した市場
原理最優先の空間創出で、地方の特有性や風土が根こそぎ破壊されてい
る状況を「ファスト風土化」現象と言う。

 全国の知られたスポーツ施設の名前が、企業の宣伝に使用され、ランド
マーク的な地域性を有した施設が企業イメージだけに矮小化されてしまう
ビジネスが命名権ビジネスである。公共的な建物や施設は、その地域の
インフラでは、共通イメージとして、その地域に住む住人の共有財産とな
っている。つまり、文化のシンボルである。たとえ、その施設で興行される
イベントが商業主義になっていても、そういう活動を提供する空間として、
その場所は公共空間である。しかし、そこに特定企業のコマーシャリズム
を適用すると、公共空間が特定の企業のイメージに特化され矮小化され
てしまう。ゆえに、命名権行使とは、明らかに公共空間的な意味における
文化破壊なのである。

 命名権が濫発されてきたことは、グローバリゼーションの浸透だけが問題
なのではない。実はそれを無批判に受け入れてしまう国民精神にその問題
の根の深さがある。煎じ詰めて言うなら、それは戦後民主主義が招いた究
極の成り行きである。今、世界中で起きているグローバリゼーションというも
のは、国家や地域の伝統や多様性を根こそぎ破壊して、そこには物質的な
市場原理主義だけが横行する血も涙もない弱肉強食の空間を現出するこ
とである。これは最終的に巨利を得る得体の知れない国際金融資本がそ
の中心にいて、この趨勢を司っているのである。はっきり言えば、彼らが地
球環境の元凶的破壊者であり、南北格差の真因であり、人類の敵であるこ
とは間違いない。

 私が言いたいことは、この日本だけに限定してみても、このグローバリゼ
ーションを世界共通の人類社会の趨勢であると決め付け、その受け入れが
当然であるかのような前提で世界観を構築している有識者が多すぎるとい
うことである。この趨勢を肯定したら、彼らは当然ながら親米的スタイルに
ならざるを得ない。グローバリゼーションは人類の進化史として蓋然的に発
生したものではない。これは一部の金融資本家たちが、より効率的に富を
世界から収奪する目的で、世界中に仕掛けた金融システム的な罠(トラッ
プ)なのである。

 言い換えれば、国際金融資本の不気味な親玉たちが、世界中に張り巡
らしている金融収奪システムのフランチャイズ化なのである。これは、あた
かもヤクザがショバ代(アガリ)を押収する構造と同じ仕掛けなのである。
我々は国際金融ヤクザが世界中からショバ代を収奪する機構造りを、グロ
ーバリゼーションなどと呼んで、何やらありがたい現代的趨勢のように思い
込んでいる。しかし、このシステムを敷設している存在が人類文明の寄
生体であることを知るものは少ない。
リチャード・コシミズさんやベンジャ
ミン・フルフォードさん、あるいはマッド・アマノさんなどは、この存在を実に
小気味よく指摘していると思う。

 この国際金融ヤクザ、すなわち「奥の院」は、かなり以前から対日戦略
として、日本の伝統構造の破壊と、それをグローバリゼーションに整合さ
せるために国際関係の表裏にわたって画策を続けてきた。日本に対し、こ
れが陰湿な形で現われたのが「年次改革要望書」という対日経済イニシャ
ティブの敷設なのである。命名権ビジネスの発生はそういうプログラム遂行
の中の小さな一角である。

 日本人でグローバリズムの危険性を知っている者がどれくらいいるのだろ
うか。圧倒的に少ないと私はみている。橋本政権時代に改正された大規模
小売店舗立地法(新大店法)を皮切りにして、我が国は全域的に大型店舗
が地域を侵食し、伝統ある国土が瞬く間にファスト風土化されてしまった。
これによって、戦後民主主義に汚染されていた国民精神は、よりいっそうの
日本的心象風景の崩壊を招いた。地域性、風土性の崩壊が国民の精神を
退嬰させることは当然の成り行きであった。こういう日本人の精神崩壊に呼
応して、米国「奥の院」は日本に「年次改革要望書」を敷設した。それは、
米国大使館のHPで堂々と一般公開されている。

 米国がなぜこの片務的な対日圧力要望を堂々と公開しているのか、その
理由が上記の説明でよくわかったと思う。そう、日本人の精神構造がすで
に崩壊しているのである。今の日本人はアメリカによる日本国富収奪の意
図があからさまに見えても、それに抵抗する気概さえ失せた情けない民族
になっているのだ。まさにアメリカに管理、飼育される動物農場(アニマルフ
ァーム)そのものである。だからこそ、アメリカ「奥の院」は小泉純一郎という
稀代のチンピラ宰相に力を与え、竹中平蔵というハーバード・シンジケート
の犬を経済ブレーンに使うことによって、我が国の国家改造に見事に成功
したのである。

 こういう流れの中で、我が国の最も良心的なエコノミストである植草
一秀氏が、その良心の叫びである小泉政権弾劾を実行した。
植草氏
は最も勇気ある日本人である。他にも小泉政権の危険性、インチキ性を見
抜いている有識者は数多くいた。しかし、彼らはその怯惰(きょうだ)と自己
保身から、アメリカの対日矯正プログラムに飲み込まれてしまったのであ
る。彼らを卑怯者と言い切ってしまってはあまりにもかわいそうなのだが、
彼らはその惰弱ゆえに、自身の未来と子孫の未来をつぶしてしまったので
ある。

 私は何度でも言う。植草一秀氏のような本物の有識者の洞察力を大事に
しなければ、このままでは日本は確実に沈んでしまうのだ。私や他の支援
者が植草氏を擁護する姿勢には、瀕死の日本を蘇生させたいという強い希
望がある。この日本はまだ捨てたものではない。我々の先祖たちの弛まな
い努力と忍耐、そして研鑽によって、我々自身のDNAには信じられないよ
うな潜在能力が宿されてる。物体が柳の枝のようにたわむ性質を“可撓性
(かとうせい)”と言うが、日本民族の可撓性は巨大である。折れる寸前ま
でたわむが、日本民族は必ず復元する。今の日本はまさに折れて息が尽
きそうな気配であるが、それだからこそ、このすぐあとに大いなる勇躍が待
ち受けている。私はそれを信じている。


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2007年3月 6日 (火)

月刊「紙の爆弾」に私の記事が出ます

鹿砦社ホームページ
(↑クリックで鹿砦社ホームページへ)

 
エコノミスト・植草一秀氏が国策捜査に嵌められたことと、
そういうことが起きる時代背景を少し考察してみました。
(神州の泉 管理人 高橋)

月刊『紙の爆弾』4月号
3月7日発売!

A5判/160頁 32ページ増!
特別定価600円(本体571円+税)

緊急レポート!その時ヤクザ業界では何が!? 山口組VS住吉会 新東京
戦争の舞台裏日本音楽著作権協会(ジャスラック)に刑事告訴され、逮捕
された老舗ピアノバー店長 日テレに編集された「本当に言いたかったこ
と」「X-JAPAN再結成」報道 先走るTOSHIにYOSHIKI、小室哲哉ら
大顰蹙
「あるある大事典」捏造の根本的原因 まさに奴隷以下!の制作会社の
実態
テレビ界の「捏造」に拍車をかける仕出屋プロダクションの最新“仕込み”
事情
“華麗なる一族”大社ファミリーが築いた日本ハムの懲りない偽装体質

多発する食品会社の不正 不安だらけの加工食品とその業界体質
パチスロ狂乱回顧録2001-2006(6)史上最悪4号機ゴト地獄の最前線
=ホールセキュリティT氏の証言(前編)
2007年はパチンコ凋落年 ”不況ですら儲かる業界”神話の崩壊
家庭教師派遣業界 ボロ儲けのカラクリと業界最大手「家庭教師のトライ」
の悪徳商法
それからの「外務省のラスプーチン」佐藤優外伝
『哲也』(原作)『人は見た目が9割』の竹内一郎(さいふうめい) サント
リー学芸賞受賞に批判の声が続出

「植草事件」に隠された闇??メディア報道にみる
欺瞞の時代構造
(高橋博彦)

関西テレビ番組審議会委員長・渡辺武達教授の「市民主義」を構成する
矛盾と混乱
八百長はなくならない!?
徹底暴露! イラク侵略戦争を支えてきた「七つの嘘」
「裁判」報告

《連載》
美しい国ニッポンに住む人々
芸能裁判10
マッドアマノ「風刺画報」
村田らむのテケテケ見聞録 「東京タワーでデート?」編
ベラミ伝説4
ニッポン主義者同盟(遊郭派)
高須新聞


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2007年3月 1日 (木)

2/28日、第五回公判傍聴記

2月28日の公判を傍聴して(支援の会・某氏)

 今回は27人の傍聴が許されたが、190人の傍聴希望者があり、競争
率は7倍であった。記者は、以前の公判よりかなり減り今回は7名しかい
なかった。記者のための席は12あったが空席が目立ち、以前の公判の
ように、途中退席して速報を本社に報告する姿も見られなかった。警察
側の発表は報道するが、被告人の発言は報道しないというマスコミの
偏向ぶりが露骨に現れた。

裁判長 神坂尚
裁判官 宮本聡
裁判官 日野進司(前回までは大村るいだったが、その替わり)

検察官  小出幹
検察官  山崎文子
検察官  石川一彦 (前回までは森田秀人)

 今回は、弁護士側がびしびし要求を突きつけていた反面、検察側は元
気が無く、ぽつぽつと「検討します」程度の答えだった。

 最初、弁護士が変わったということで、冒頭陳述のやりなおしから始ま
った。まずは弁護方針の表明から。主張するのは、

①被告人控訴事実に記載されたような被告人が痴漢行為を行ったという
 事件は存在しない。

②被告人は痴漢行為を行っていない。つまり痴漢行為が存在しないのだ
 から、誤認逮捕である。

 被告人の当日の行動:

6時20分、大崎の中華料理店で、顧問を引き受けている会社主催の、飲
み放題のパーティーに出席した。一気のみをしていた。飲める人と飲めな
い人がいて、飲める人である自分に多く回ってきた。ビールに紹興酒を数
十杯飲んだ。その場で同社社長と11月3日にゴルフのコンペに行くと約
束をし、手帳にメモしていた。

 しかし、その日には海外出張が入っていたから、それは不可能だった
が、相当泥酔状態だったので、それを約束してしまったようだ。それ以後
のことは断片的にしか覚えていない。大崎でタクシーを取り、目的地の泉
岳寺に行こうとしたが、大崎駅の構造上、タクシー利用が非常に難しい場
所だった。宴会場は駅に隣接していた。大崎から品川までの記憶は無い。
品川駅で電車が止まっていた記憶は覚えている。

 京浜急行の10:08の電車に乗り込んだが、乗り込む際には、逆方向に
向かう電車であることに気づいたのだが、面倒だと思いそのまま電車に乗
ってしまった。自分の後に何人かが乗り込んできた。進行方向に向かって
左側のドアのほうに向いて立っていた。やはり降りようかと思っているうち
にドアが閉まり電車が発車した。

 右手で高いところの吊り輪につかまって寝ていた。左側のドアの進行方
向に向かって右斜め前方0.8―1mの所にいた女性が「子どもがいるの
に」と言った声が聞こえた。「痴漢騒ぎかもしれない」と感じて、右を向いて
右手はつり革をつかんだまま、目をつむっていた。そのとき左側と右側を
つかまれた。蒲田駅に到着した。駅で無関係であることを話せると思って
いたが、2人は駅事務所に連れて行った。女性と話しをさせてくれと言っ
たがさせてくれなかった。

 有罪になるかもしれない、そうなるとマスメディアは無責任な事をかき立
てる。家族を守るためには自殺するしかないと思いネクタイで自分の首を
絞め自殺をしようとした。しかし駅員に止められた。

 当日自分は痴漢はしていないし、「女性に不快感を与えるようなことをし
た」といった発言をしたこともない。

これからの反証の方針

①被害者と目撃者の主張が不自然である。

②被害者が、自分が彼女の真後ろにいたと主張するが、実際は自分は
 右斜め後ろにいて、つり革に捕まっていた。真犯人が後退し、植草氏と
 見間違えた可能性がある。

③繊維だが、京浜急行の駅員の制服の繊維がついたはずであり、その
 繊維鑑定を申請する。

④事件当時、酩酊状態にあったことは、顧問会社の従業員が証言して
 いる。そのとき、酒気の検査も警察がしており、1リットル当たり、
 0.47mgのアルコールが検出されており、その検査結果の提出を求
 める。

⑤訴えている女性は、被告が体を密着させたと証言しているが、それな
 ら、彼女の衣服の繊維が自分の衣服に付くはずであるから、繊維がつ
 いているかどうかの鑑定を申請する。当時の衣服は警察が保管してい
 る。

⑥被害を訴えている女性の証言を再現したビデオを制作した。その証言
 が不自然だということをそれを使って証明する。

⑦親族、知人によって、被告人が痴漢をするような人間ではないことを証
 言してもらう。

⑧被告人尋問

 次に弁護人による訴訟申告が行われた。

 2月9日は被告人質問の予定であった。これは被告人による反論の場
である。検察側の分析、それまでの経過説明等が手元に無い状態であ
った。それは前弁護人の怠慢によるものであって、2月9日に被告が反
論する機会を奪うものであった。これは憲法の理念にそくわないもので
あり、被告が弁護人を解任したのは当然のことである。訴訟進行の迅
速性を妨げるものではない。

 冒頭陳述の最後で、最高裁甲府放火事件判決(最1小判昭和48年
12月13日判例時報725号104頁)に述べられている「疑わしきは被告
人の利益に」の鉄則が引用された。

 次に弁護人による証拠の請求が行われた。
 本日までに証拠として準備できたものが3点ある。

①被告人、逮捕者、目撃者のそれぞれが供述した事件現場での位置関
 係がまるで違うこと。(これは決定的な証拠となるのではないか。第2回
 の公判で検察側の証人が逮捕者は私服であると証言した。私服警官で
 あれば、本人を出すわけ無いから替え玉に決まっている。そうであれば、
 事件現場の事を理解していないから、位置関係などが食い違うはずで
 ある)

 それ故逮捕者の証人尋問を申請する。弁護人は逮捕者と会い、事情聴
取している。

②平成18年9月25日に警察官作成の調書:駅事務室で女性に会おうと
 した被告人を駅員が阻止しネクタイを取り上げたから、その際に駅員の
 制服の繊維が付着した可能性があり、それを立証したい。

③平成19年2月24日に弁護人事務所にてビデオ撮影を行った。被害者
 女性の証言をもとに作成。被害者の動きを4つの場合で再現した。

  〔1〕仮想目撃者の証言に基づいたもの
  〔2〕被告人の左手に傘の取手を外側にかけて触っていたとした場合
  〔3〕被告人の左手に傘の取手を内側にかけて触っていたとした場合
  〔4〕女性が振り返った際、被告が離れて移動した様子

 被害者は一部始終を目撃したとしているが、上体をひねっても被告人の
指の甲や傘を見ることは不可能。位置関係は逮捕者の供述内容とは異な
っている。

 これらは、すでに検察側には開示してある。ここで裁判官は、検察側に
これに関するコメントを求めたが、検察側は「意見を留保する」とだけ述べ
た。弁護人は「撮影に協力した仮想被害者の認証(証人調べ)を申請す
ることも考えている。」と発言。裁判官は、「ビデオを見れば分かるのでは
ないか」と質問。弁護人は「ビデオは事実を説明したもの。被害者が被告
人と思われる手が見えたと言ったが、それが可能かどうか仮想被害者に
証言してもらいたい」と主張。見えるわけがないとの証言が出てくるようで
ある。

 逮捕者に関しての証人申請に関して

裁判官「事情聴取報告書にあるからそれでよいのでは」

弁護人「1時間くらい面談をしただけ。もっと証人尋問を申請したい。」

 駅員の聴取に関しても言及。
DVDに関しては、説明も含め作成報告書の提出を予定している。

 次に証拠開示の請求が行われた。

弁護人:請求の期日は本日行う。開示資料によっては、今後の予定が変
     わってくる。

 次に園部弁護人からのコメントがあった。大内弁護人の発言の中で、酒
気帯び調書というものがあった。これに関し、被告人が顧問をしていた会
社の○○○○という人が飲酒の度合いに関して証言をしている。逮捕直
後の検査では、1リットルあたり0.47ミリグラムということであった。

 スーツに付いた繊維の鑑定書に関してであるが、訴えている被害者と被
告が密着していたと言っていた。そうであれば、被害者の衣服の繊維が被
告人の衣服に付く筈である。また京浜急行の駅員の制服の繊維も付くは
ずだから、その鑑定結果を知る必要がある。それが開示可能か。

 宴会での従業員に、宴会の様子についての取り調べをやって欲しい。駅
員の同意が得られれば、駅員も証人請求をするかもしれない。

 DVDには作成報告書がつくものの、目撃者の①に立った人とカメラと人
間の視線が一致しないかもしれない。実際に体験してこうだという証言が
欲しい。

 検察官のほうからは「逮捕者の証人尋問の請求は検察官で検討中であ
る」と述べた。ここで、10分間の休憩に入った。この間、公判の進め方に
関する微妙な駆け引きがあったものと思われる。「私服の男」とされた逮
捕者の証人尋問が認められるかどうかは、この裁判の行方を決める大き
な鍵となるだろう。しかし、認めないとなれば、明らかな証拠隠滅であり、
不当裁判、八百長裁判のそしりを免れないだろう。

2時15分から公判は再開された。

裁判長:次回は3月28日10:00より被告人質問を実施する。ただし、
     午前中に証人尋問に振り当てる可能性がある。検察が認めた
     場合にそれが許可される。その場合、午後に被告人尋問があ
     る。ビデオはどのくらいの時間か。

弁護人:ビデオは2本で15分くらいの上映時間。被告人質問の前に見
     て欲しい。

裁判官:28日の午後いっぱい取ってある。主尋問、反対尋問で2時間
     +2時間でどうか。

弁護人:主尋問(つまり弁護人の質問に被告が答える)だけで3時間は
     かかる。

裁判官:検察官はどのくらいを予定していますか。

検察官:検察側としては次回で終わりにして欲しいと考えている。しかし
     弁護側で3時間、検察側で10分や20分というわけにもいきま
     せんから、後日になる。そのときは、検察官が交替すると思うの
     で日を開けて欲しい。

裁判官:証人を採用しない場合には、その日に終わる可能性もある。

 その後、前弁護人を解任した理由、裁判の進行についての被告人本
人からの上申書が提出され、被告人がそれを読み上げた。

 この後も公判はまだまだ続いたのだが、要点をまとめる。
2本ビデオを作る。

①被害者の言っているとうりに作成したビデオ。これはすでにできた。
  被害者の証言が嘘であることを示す。

②被告にの記憶に従ったビデオ。これはこれから作成する。2本で15
  分程度。

 3月28日の10:00から被告人尋問を行う。ただし、弁護人の申請して
いる証人(逮捕者2人、駅員)の証言が認められた場合には、午前中に証
人尋問を行い、午後には、被告人尋問の主尋問(弁護人が質問する)を行
い、後日検察側が質問を行う。この場合、検察のメンバー交代があるので、
日をおいて行うことになる。


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2007年2月27日 (火)

国策捜査をこう考える!

 私は昨今の日本が、国家として思いっきりねじれていると感じている。そ
の理由は国家がその政策上において、都合の悪い個人を狙い撃ちする傾
向が強くなっているからである。狙い撃ちとは、言論表現という世界におい
て、対象とした個人の社会的生命の徹底的な剥奪を意味する。この傾向は
小泉政権下において最も強くなり、安倍政権に移行してからもなお続いて
いる。例を挙げれば、国家に狙われた者として鈴木宗男氏、佐藤優氏、西
村眞悟氏などがいる。そして今、私たちが力を入れて支援している傑出し
たエコノミストのひとりである植草一秀氏がある。政府に物言う空気がはば
かられ、同時に国家が個人を狙うようになったら、その国の衰亡を端的に
表していると断言しても差し支えない。ぎらついた電飾をまとった小泉構造
改革は短時間のうちに、日本の安定的な社会システムを根底から打ち壊し
てしまった。それと同時に、言論メディアでは、多くの国益を志向する知識
人たちが、言論表現の場から露骨に外されてしまった。我が国は末期的
なねじれ現象が加速的に早まっている。

 我が国は戦後の一時期、未曾有の経済発展を遂げたが、一方では倫理
道徳は頽廃し、国家防衛の基本理念である自主防衛構想は60年以上も
放擲されたまま今日を迎えた。この長い期間を米国の膝下に甘んじたため
に、いまや我が国はローマ(ヘビ)に睨まれたカルタゴ(カエル)のような状
況に置かれている。すでに日本人は、国際政治や経済においても民族自
決の精神を忘却し、国家そのものが萎縮してすくんだ状態になっている。
身動きが取れないままに害獣の餌食にされようとしている。滅びの深淵が
目の前に迫っているというのに、日本人は脳天気な毎日を過ごしている。

 国家のねじれは小泉売国政権によって一層激化した。その一つの鮮明
な現象が国策捜査である。国策捜査が頻発する国家とは、政治的には警
察国家に変わりつつあることを示し、経済的には新自由主義の到達点で
ある「夜警国家」に向かっていることを示している。通常、警察国家と夜警
国家はその意味合いが異なるが、我が国の場合は、奇しくもその両者が
同時発生的に進行し、急速に国家的求心力が疲弊している。行き着く先
は、顔と国籍を失った流浪の民が弓形の土地にいるだけという荒廃の近
未来世界である。今の日本人は三島由紀夫が37年前に予見したとおり、
急速な無国籍化に向かっている。

 無国籍化という現在急速に進行する現象を、三浦展氏の定義した“ファ
スト風土論”の視点から考察しても、そのことは視覚的に明確な変化とし
て確認することができる。橋本内閣時代には、大店法改正によって、
日本列島の隅々まで大型店が席巻した。その結果、従来からあった里山
や、自然に満ちた日本本来の郊外の光景は一変し、毒々しい大型店が無
法者のように乱立した。それは紛うことなく暴虐な郷土破壊そのものであ
った。人々の生活の核、すなわち日々の生活における価値観は、そのほ
とんどが購買と消費だけに偏向し、従来からあった日本的な様式としての
ライフスタイルは崩壊しつつある。郷土の個性である地域性は消え去り、
どの地方でも、チェーン店である大型店が跋扈し、人々は家から大型店の
駐車場へ車で通うことが定着しつつある。

 この結果、子供たちがその成長過程で身に付ける社会性は、もはや昔
の形態とはまったく異なる、無機的で人工的なものだけになってしまった。
家庭という閉鎖空間から、外に出るときはショッピング・モールなどの商業
的閉鎖空間へ直行するような環境になった。社会とは、そこに行き交う人
間と文明の装置であるさまざまなインフラとの有機的な係わり合いである。
子供たちは成長過程に当たって、その関係性を自然に身に付けていた。
ところが、郊外がファスト風土化され、昔ながらの商店街が崩壊した今、
子供たちは正常な社会性の涵養が不可能になりつつあり、風土から自然
に培われていた日本人としての自己同一性も学べない状況に至っている。
これがファスト風土論から見る無国籍状態なのである。この変化の収束す
る目的点は、日本を新自由主義的構造に変換する一連の政府の政策に
あり、特に小泉構造改革と呼ばれる作業が、改革と言う名の日本破壊で
あったことは論を俟たない。こういう流れの中で国策捜査は生まれたので
ある。

 さて、「国策捜査」という言葉は、2005年に出た佐藤優氏の「国家の罠」
を読んで初めて目にした。背任と偽計業務妨害の被疑者となった著者を取
り調べた検事が使用した言葉となっている。この言葉が以前からあったの
かどうか、私は寡聞にして知らないが、最近では国策捜査が有名になった
ために、ネットではこれから派生した「国策逮捕」という言葉まで同義的に
使われ始めている。今ではこの言葉は定着しつつあるように思う。国策捜
査はいわゆる冤罪とは決定的に異なる構造を持つ。

 佐藤優氏の言に従えば、「冤罪」とは、捜査当局が犯罪を摘発する過程
で間違いが生じ、無実の人を犯人としてしまったにもかかわらず、捜査当
局の面子や組織防衛のために、強引にその人間を犯人として継続捜査を
して行くことである。これに対して、国策捜査は国家の「自己保存本能」に
より、国家の政策方針を変えうるような多大な影響力を持つ人間を、初め
から狙い撃ちし、検察を媒介にして政治的な事件や不名誉な事件を創出
することである。(「国家の罠」300項参照)  

 私は国策捜査をこう捉えている。国策捜査とは、時の政府が推し進める
政策上のトレンドに対し、そのベクトルを変えうるような大きな影響力を持
ち、政府が思い描く時代形成に反する方向性を持つ学者や政治家を狙い、
その言論を世論的に封じる目的で行なう恣意的な捜査のことである。その
目的は、時代のけじめをつけるために、何か象徴的な事件をでっち上げ、
時の政府の政策トレンドに異を唱える影響力のある人間を、検察が主体と
なって恣意的に断罪するということであろうか。

 佐藤氏を取り調べた検事の言によれば、国策捜査は冤罪ではなく、これ
というターゲットを見つけ出して、そのターゲットの隙を見つけ、それを徹底
的に揺さぶって国家の罠に引きずり落とすことである。そのターゲットにな
る人物はその道の第一人者であり、その言論表現を放置すると、時の政
府のマクロ的な国家運営に甚だしい阻害要因となる能力を有している。従
って国策捜査とは、国民に時代が変わったことを印象付けるために、旧時
代を代表する人物を、もはや不要な者として、あるいは新しい時代に有害
な考え方を持つ者として、その人間を象徴的な人身御供とする国家の断罪
行為と言えるだろう。

 植草氏の逮捕劇を、有名な経済アナリストが痴漢性癖で捕まったと世間
が面白おかしく騒いでいた時、私は彼の経済学者としての自己同一性と、
小泉政権時代の国家的グランドデザインとの整合性という観点からその逮
捕劇を捉えなおしてみた。植草氏は経済学者ではあるが、その経済学的視
点は徹底して政治に反映されてこそ意味があると考える実戦派エコノミスト
に位置している。つまり植草氏は衒学的な経済エッセイストではなく、国家
の政策中枢レベルに影響を与えうる提言と予見ができる非常に稀有なタイ
プのエコノミストなのである。

 われわれが認識する「事実」について少し考察しておきたい。われわれが
普段知覚する「事実」(ファクト)には、実は大きく分けて二種類ある。一つは
日常の中で、自分の目の前で生起する生々しい現象としての事実である。
これは、目の前で起きたこと、視覚、聴覚、嗅覚など、いわゆる五感をもっ
て体験しうる体験的事実のことである。その臨場感、迫真性は疑いの余地
のない場合がほとんどである。もし、この日々の実体験に疑いを持つとす
れば、人間は実存感覚の危うさに陥ってゲシュタルト崩壊を起こす。われ
われ人間が内包するこの実存的な脆弱さを精神的に制圧しているものこ
そ、日常に生起する多様な情報から得られるリアルな感覚というか、生き
生きとした存在感なのである。

 もう一つの「事実」は、日々目や耳にするニュースと言われる情報から得
られる仮想的な事実である。テレビやラジオ、あるいは、新聞等の活字媒
体から目にする情報は、物理的に放送局や記事の書き手という中間の媒
体を介して流れる物であるから、その情報は程度の差こそあれ、必ず加工
されていると見るべきである。その人為的な「加工」の度合いによっては、
われわれが知らされるニュースは事実(ファクト)とは大きな懸隔が生じる
と考えられる。しかし、我々は、時には胡散臭さを感じながらも、前提とし
てメディアは正直に遠方の物事を伝えているという暗黙の担保を与えてい
る。

 植草氏に起きた甚大な報道被害は、国策捜査の一環として、メディア操
作が行なわれたことにある。冤罪の可能性をまったく無視した初期報道に
よって、植草氏の弁明が世間に出る前に、徹底した印象操作が行なわれ
てしまったのである。これは、日本がすでに、言論統制国家、警察国家の
性格を帯びていることを端的に示すものである。


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2007年2月25日 (日)

何度考えても腑に落ちない車内状況

クリックすると本の内容が
     

私が書いた第四部「救国のエコノミストが落ちた陥穽(わな)」
                    は、国策捜査に視点を置いている”

 ◎何度考えても腑に落ちない車内状況

 つぶやきいわぢろうというブログを読んでみた。ここの管理人さんが実際
に、品川10:08分発の京急電車に乗って、車内の様子を観察した時のこと
が書かれてある。その中に、

>この車内の状況で痴漢をすれば、確実に半径5メートルにいる
>人たちに目撃されるだろうという感じです。「バレてもいいーっ、
>触りたいっ」という人ならきっと痴漢できると思いますが、出来心
>痴漢はしにくいだろうなぁ。。

         http://blog.iwajilow.com/?eid=478592

 と書いているが、まったくもって私もその感を強くしている。肩と肩が触れ
合わないくらいの混雑状況、そして目撃証言者が本当にそこにいたと仮定
するなら、その目撃者と女子高生の空間距離が77センチもあったことな
どを考慮すれば、車内が自由に動き回れる状態にあったことは明白であ
る。。これらを鑑みると、半径5メートルくらいの範囲内にいる乗客に
痴漢行為を目撃されてしまうだろうというのは重大なポイントに思え
る。


 もし、植草氏が、その状況下で強引に痴漢行為を行なったとしたら、それ
はもはや「痴漢」ではなく、「強制わいせつ行為」ではないだろうか。つまり、
相手は「強制わいせつ罪」で訴えるのが妥当だと思う。ところが、現実は迷
惑条例違反で訴えている。

 何度考えてみても、この車内状況での「痴漢犯罪」はあり得ないと思う。
ぎゅうぎゅう詰めだからこそ確実な秘匿性があり痴漢は成立する。車内の
混雑具合は、どんなに気の弱い女の子でも、百パーセント回避行動が可能
な状況にある。二分間も為すがままに任せて、回避行為をしなかった女の
子には強い作為性が存在するように思う。植草氏が同じ場所に立ってい
て、女の子から離れなかったとすれば、それはアルコールや他の物による
酩酊か意識の朦朧状態である。もし意識が明晰だったなら、そこにじっと佇
んでいたということは考えにくい。周囲に悟られる状況で破廉恥行為は行
わない。それでもあえてやるのであれば、それは確信犯的な強制わいせ
つ行為である。

 アルコールの酩酊で理性のタガがはずれ、つい性癖が出たのだろうとい
う考えもまったく成立しない。なぜなら、女子高生が2分間もさわられたま
ま、それを回避していないという摩訶不思議なことが起きているからであ
る。

 冷静に考えると、今回の事件は、比較的自由に動ける車内で、朦朧とし
た植草氏に対し、女子高生が後ろ向きににじり寄って、接触してきたとい
う考え方もできるように思う。しかも、視点を変えれば、植草氏の朦朧とし
た意識を確認したうえで、彼女は後ろ向きに植草氏ににじり寄っていたと
いう見方も可能なのである。

 つまり、作為は一貫して被害者側にこそ強く出ているように思える。
この作為性は状況的に証明できるように私は思っている。そして、目撃証
言者の目撃情報が異常なことは、周囲の誰一人、止めようともしないし、
注意もしなかったことを“目撃している”ということだ。つまり彼の目撃状
況そのものも、そうとうに不可解に思える。何度でも言うが、自由に移動
できる車内で、しかも周囲に目撃されてしまう状況で痴漢は起こらない。

 女子高生は法廷に出てくるべきである。遮蔽措置というプライバシー保護
があるにも拘らず、この被害者は一度も公の場に出てきて証言していな
い。検察はこの女子高生を公判に出せない理由でもあるのだろうか。


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2007年2月24日 (土)

これは妙だ!与党の差し金か?

北海道に住むある読者さんが、非常に気になることを言っていた。歌手
の松山千春さんが、京都で暴力団の会合に参加したというニュースが先
週末にあったようだ。しかし、これについて読者さんは、構造改革派が、
松山氏を狙い撃ちしてイメージダウンさせたんじゃないかと言っていたの
である。

 理由は、北海道知事選と参院選挙に関し、松山千春さんの応援活動
の影響力を今のうちに殺いで置くためだということらしい。鈴木宗男氏と
大の仲良しである松山千春さんが、勝手連派などの応援をすると、絶大
な影響力を持つと思う。これを懸念する勢力が、国策的な意図を持ち、
このニュースを取り上げた可能性は無下に否定できない。北海道では松
山千春さんの人気は絶大なものがある。彼は鈴木宗男氏がバッシングさ
れていた時、ただ一人、堂々と鈴木氏を庇っていた侠気溢れる男であり、
当時、私はその姿勢に感心した。

 昔から芸能人が興行に当たって、地元のヤクザに挨拶するのは
慣例となっていたし、それを警察がいちいち見咎めて問題視していたら、
日本の芸能活動は上手く行かなかっただろう。今の時期に松山千春さ
んが、会津小鉄会の会合に参列したから問題視するというのは、知事
選や参院選絡みで、松山さんのイメージダウンを狙ったと見ても不思議
ではない。芸能人とヤクザは、癒着関係というよりも伝統的には、ある種
の社会的な共生関係を保ってきたと捉えるべきだろう。マスコミが突然、
社会正義のきれいごとを強調するときは、大概は政治がらみではない
のだろうか。

 もし、松山千春さんを社会正義で弾劾するのであれば、他の多くの
芸能人も同じようにやるべきなのである。

********************************************************
 1.  歌手松山千春さん、暴力団の会合に参加 京都府警調べ(朝日新
聞)京都に本拠を置く暴力団会津小鉄会(約800人)が今月12日に京都市
内で開いた会合に、歌手の松山千春さん(51)が出席していたことが京都
府警の調べでわかった。同会会長の就任10周年を祝う催しで、幹部組員
約130人が集まったという。府警の調べでは、会合は12日午後6時ごろか
ら約2時間、京都市下京区の事務所で開かれた。府警は事前に松山さん
が会合に出席するという情報
      2007年02月16日(金) 21時58分

***************************************************

    http://www.stv.ne.jp/radio/
「松山千春 季節の旅人」 2月18日(日)放送休止のお知らせ

STVラジオで放送しております「松山千春 季節の旅人」(毎週日曜午前
11時00分~11時55分)は、松山千春さん本人が指定暴力団会津小鉄会
が開いた会合に出席していたとの報道があり、現在、事実関係を確認す
るとともに、18日の放送につきましては見送ることと致しました。尚、今後
の対応につきましては、随時HPに掲載する予定です。ご迷惑をおかけ致
しますが、どうぞよろしくお願い致します。

********************************************************

民主党の荒井聡衆院議員(60)は26日、札幌市内で記者会見し「北海
道は危機的状況にある。身をなげうって再生に取り組む」などと述べ、来
年春の北海道知事選に無所属で立候補することを正式に表明した。
民主、社民両党と地域政党新党大地(代表・鈴木宗男衆院議員)が支援
する方針。自民、公明両党の支援で再選を目指す現職高橋はるみ知事
(52)と激戦になりそうだ。

荒井氏は「医療、介護、教育を支える市町村が悲鳴を上げている。時に
は一緒に国とたたかう」と市町村重視の姿勢を強調、破たんした夕張市
についても「国や道に責任はないのか。市とともにたたかう知事でありた
い」と述べた。14ある道の支庁機能を強化する考えも示した。 (2006年
12月の記事)


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芸能人も一役買っているのか?!

 マッド・アマノさんの2月2日の「本音のコラッ!ム」に、テリー伊藤に
関することが書かれていた。この投稿は私の感想とそっくりである。

****************************************************

   ■2007年02月02日(金)  テリー伊藤はなぜ植草氏を有罪扱いする
   のか? 

 ある人物から貴重な内容のメールをいただいた。匿名で紹介します。

 昨日、車を運転していた時、カーラジオで日本放送を聴いていました。
そうしたら、テリー伊藤が言っていました。『次回のゲストはあの「それで
もボクはやってない」の周坊監督ですよ、冤罪についてたっぷりと話をし
ていただきます。でもね、植草教授は違いますからね、あれはまったく
違う』とわざわざ念を押して言いました。まったく不自然ですね。

 テリー伊藤は郵政民営化・是か非かの衆院解散総選挙の実況中継の
とき、某テレビ局のゲストに来ていて、中曽根弘文など郵政民営化に反
対した政治家を悪辣きわまる者のようにこき下ろしていました。奴は竹中

平蔵の子飼いとして動きましたね。

 このテリーが、今、話題になっている周坊監督の映画を話題にした時、
誰も聞いていないのに、敢えて植草氏の場合は冤罪ではないと念押し
することは非常に不自然なことでした。まったく悪質な芸能人です。しか
し、逆に考えますと、マスコミがこの映画の盛況で植草さんが話題にな
ることを極度に怖れていることを感じますね。

*****************************************************

 テリー伊藤というタレントが、植草氏を積極的に、かつ徹底的に痴漢扱
いすることは、ある意味で筋は通っている。なぜなら、テリー伊藤は、植
草一秀氏の宿敵である竹中平蔵前金融大臣・郵政民営化担当大臣の
手先として、いわゆる“B層国民”をターゲットにした、あの郵政解散総
選挙のために動き回ったからである。従って、彼が売国構造改革の応
援団として、植草一秀氏を徹底的にこき下ろすことは何の不思議もな
いことである。

 植草氏をよく茶化す芸能人には爆笑問題の太田光がいる。彼の植草
氏に対する執拗な茶化しも、気にかかることの一つである。また、最近
では「週刊ポスト」3月2日号の「ビートたけしの21世紀毒談 第875回」
というコラムでも、“本物の電車で痴漢ができるんなら、幾ら払ったって
いいっていう人もいっぱいいるよ。あの植草センセイも絶対に喜ぶぜっ
ての”などと無礼極まりないことを書いている。

 ビートたけしは「たけしくん、ハイ!」などで、自らの体験を基にした昭
和30年代の時代風景を描いたことや、フライデー殴り込みで義侠心を
示し、私はそれなりの好感を彼に持っていたが、今回、植草氏を茶化し
たことで私は怒っている。

 まあ、感情的なことは抑えて少し冷静にみてみると、芸能人が、まだ
公判中の植草氏のことを、あたかも犯罪が確定しているように茶化す
ことに、私はただならぬものを感じる。もしかしたら、所属芸能事務所
に“お上”からお達しがあったのかと勘ぐりたくもなる。なぜなら植草氏
のイメージ墜落を意図するなら、有名な芸能人を使えば効果が大きい
からである。

 芸能界には在日・半島系の息がかかっている場合が多い。彼らの多く
は日本の伝統文化や国体への破壊志向があり、その動きはアメリカに
よる日本構造改変の動きに合致している。米国と半島系は、目的は違
いこそあれ、日本破壊では互いに価値観を共有している。だから芸能
人に植草氏のイメージ固定をやらせている可能性も否定できない。ア
メリカは新自由主義社会への日本改変を急ぎ、半島系は日本の国柄
破壊に精を出している。そういう構図があるように思う。


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2007年2月23日 (金)

植草事件の闇(6)◎性癖説に牛耳られたマスコミ

 この間、東京都内で早稲田大学の関係者と会い、植草一秀氏の話をし
た。この人A氏は、植草氏を陰になり日向となってサポートしていたお一
人であるが、植草氏が巻き込まれた2004年の件と2006年のことで、
大学関係者からかなり辛らつな非難を浴びていて、困惑というか、その
面持ちには強い悔しさがうかがわれた。

 A氏からいろいろと話を聞くうちに、早稲田大学のA氏の友人たちから、
植草氏の病気説が出ていたということがわかった。A氏は品川駅構内の
高輪出口付近エスカレーターにおける手鏡事件の時、早稲田大学にたい
して、判決が出る前に植草氏を解職するのはおかしいと堂々と抗議を行
い、それからも植草氏をサポートし続けたそうである。

 A氏は昨年、2006年9月の痴漢容疑事件が起きた時は、驚天動地の
思いで、植草氏にどういうことなのか釈明してもらいたいと思い、彼宛に
何度かメールしたそうである。しかし返事は来なかった。それもそのはず
で、植草氏は拘束され、メールの返事どころではなかったのだ。

 また、A氏はこうも言っていた。『植草さんと野○総研時代に席を並べて
いたという人の知り合いから、私の友人が聞いた話ですが、野○総研で
は彼の性癖は有名で、ついに野○総研はそれを隠しきれなくなって植草
さんを放出したという事を言っている人がいます。その事を知らなくて教授
にした早稲田大学が情けないとも言っているくらいです』と語気荒く私に語
り、何とか真実を暴けないものかと、強い無念をにじませながら心中を吐
露した。
 
 A氏の真剣さと気迫に圧倒された私は、自分の知る範囲で、国策捜査
の疑いが極めて濃いことをこの方に伝えた。A氏からいろいろと話を聞くう
ちに、大学周辺や、野○総研から、植草氏の病的性癖説がにわかに広
がり、その説が既知の事実のように流されたことがわかってきた。つまり、
京急電車内痴漢事件の初期報道でさんざん流されていた病気性癖説が、
品川手鏡事件の時も流されていたのである。二回とも、同じパターンの言
い方が、テレビや他の刊行物、あるいは植草氏の職場周辺から判を押し
たように流されている。

 その典型的な事例として、以下の動画がある。大阪朝日放送(ABC)の
「ムーブ」という番組で、テレビ的に有名な評論家たちの口から、植草氏
の病気説がまことしやかに出されている。これはネットの動画になって
配信され、今も視聴可能である。

http://www.youtube.com/watch?v=JhgFeMPtwOU

 この放送は、女性セブン誌が出した唐突な記事「植草一秀容疑者 
痴漢で示談7回の過去」
を引き合いに出し、それについて各コメンテ
ーターが意見を述べていくという進行になっている。この中で評論家の
宮崎哲弥氏と、弁護士でタレント活動も兼ねる橋下徹氏が、植草氏の
病的性癖説を熱弁しているのだ。しかも薬物治療の必要性まで語って
いる。つまり、品川手鏡事件の時と同様に、京急電車内の都条例違反
疑惑も、植草氏の病的な性癖によって行なわれたという一方的な見解
が強弁されたのである。

 唐突に、不自然に強調された植草氏の性癖説は、植草氏側の弁明も
なく、乱暴な形で茶の間に流されたのである。ここに、女性週刊誌と、こ
の朝日放送に共通する恣意的な悪意を感じないだろうか。「女性セブン」
誌では、植草氏が過去に7回の痴漢摘発があって、それは全部示談に
なっていると書いた。これを読んでいる人は、当時のこのきわめてセンセ
ーショナルな「7回の示談」報道を思い起こして欲しい。示談が7回為され
ていたという報道が、女性セブン誌以外から、別個の取材ソースとしてど
こからか出ていたのだろうか。

 大事なことなので、よく考えてみて欲しい。私の記憶する限り、この「7
回示談」に関する報道は「女性セブン」誌以外からは出ていない。これを
報道した各社は一様に「女性セブンによれば」という断りで始まっていた。
つまり、この報道ネタは小学館の女性セブン一誌のみなのである。警察
からリークされた第一次報道が、一つの週刊誌だけだったというのは、そ
れだけで奇妙である。

 捜査関係者が、マスコミにサイド情報(横流し情報)として流す場合に、
このような重大な件名を通俗的な雑誌一誌だけに流すだろうか。私はそ
の記事が書かれた女性セブン誌(十月五日号)を手に持っているが、不
思議なことに、過去7回の示談の経緯や状況を書いている箇所は何も
ない。断言するが、これは完全にでたらめで印象報道そのものである。     

 植草氏を嵌めた何者かが、彼の病的性癖説定着を補強する意図で流
した悪質きわまる印象操作報道である。女性セブンの「過去7回示談」報
道はまったくのでたらめで、事実そのものがない。私は官憲が、国策捜査
を成功させる上塗り手段として行なったこの「示談7回報道」は、植草氏の
病的性癖説を補完するどころか、間違いなく大失敗であったと思っている。

 彼らは念を入れすぎて墓穴を掘った。妙だとは思わないだろうか。この
「過去7回」報道がである。植草氏の三回に及ぶ鉄道内の事件は簡単に
要約すれば次の通りである。

○1998年  JR東海道線横浜~川崎間。植草氏が湿疹を掻いたことが
        向かいの座席に座った女性に勘違いされる → 罰金刑

○2004年  JR品川駅構内の手鏡事件 → 罰金刑。手鏡没収

○2006年  京浜急行品川~蒲田間。痴漢行為疑惑 → 公判中。

 上のように、一回目が東海道線車両の事件、二回目が品川手鏡事件、
三回目が京急電車内の痴漢事件。この三度の連続性を不動のものとす
るために、謀略側はマスコミを動員し、後追いで「過去7回示談」報道を
追加した。これが謀略側の大失敗であったことを指摘する。「過去7回
示談」報道には、植草氏を嵌めた存在の大きな焦りが見て取れる。

 それは、記事の信憑性云々よりも、とにかく7回の示談があったことを
出して、だめ押ししようとする意図が見え見えだからである。これに宮崎
哲弥氏と橋下弁護士が映像メディアのだめ押しとして乗ったわけである。
7回の痴漢事実があって、示談に持ち込んだ過去があるとやれば、病的
性癖説はもはや動かしがたい印象として固定化する。ところがこの「7回」
は真っ赤な嘘。これによって、東海道線車両、品川駅、京急電車の三度
の連続性も脆弱になってしまうのである。国民に性癖による連続性を印
象づけようとして、だめ押ししたことが、かえって彼らの作為性を露呈す
ることになったわけである。

 それに加えて、品川事件も京急事件も、「りそなインサイダー取引」疑惑
を植草氏に追求されるのを畏れる権力側に捏造されたと考えて間違いな
い。1998年の東海道線車両内の事件は冤罪。そのあとの二度にわたる
事件は国策捜査によるでっち上げである。さまざまなことを考察すれば、
その傍証が成立してしまうのだ。つまり、メディアによる病的性癖説の流
布と、小泉政権がらみの経済犯罪疑惑が合体すると、植草事件が大きな
経済犯罪を背景にした「やらせ」事件であったことがはっきりと見えてくる。

 そして、公判で出てくる証言はあちこちにほころびが出ている。最も強烈
なものは、車両にいた乗客の一人で、植草氏のネクタイをつかんで、駅
員室に強引に引き連れて言った者を、目撃証言者が「私服の男性」
と思わず言ってしまった
ことだ。これは謀略側にとっては致命的であり、
まさに国策捜査を疑わせるに充分な証言記録である。検察と証言者との
綿密な打ち合わせや応答訓練にも関わらず、普段使用している“その
道独特の常用言葉”
が思わず飛び出してしまったということだ。

 私服の男性というのは、明らかに私服刑事のことである。私服刑事とい
う言葉を頻繁に使うことが日常化している職業の目撃者、そして植草氏
に「子供の見ている前で恥ずかしくないんですか?」と説教する婦人警官
のようなキャラクターの女子高生。これらは、○察関係者で構成された
「でっち上げ工作斑」と考えることが、もっとも合理的な推論ではない
だろうか。


 つまり、この事件は、報道の虚偽性、その報道への不自然な補完作業、
そして、公判証言から出る多くのボロ(作為性)などをみると、全体が虚偽
の事件であることがわかる。まもなく莫大な郵政資金がアメリカに流出す
るだろう。郵政民営化推進論者、すなわち売国構造改革派が恐れること
は、郵政民営化の完全実現を阻む者である。植草氏は、外資に利益誘
導する性格の構造改革はまやかしであり、有害だと言い続けてきた。

 りそなインサイダー疑惑が、植草氏によって国民に知られると、郵政民
営化を中心とする諸々の構造改革がまやかしであり、外資へ利益供与す
るためのシステム改変であることが暴露される。だからこそ、謀略側は大
慌てで粗っぽい仕掛けを植草氏にかけた。その結果、彼らは抜け目ない
どころか、数々の失態を演じている。その一つが京急蒲田付近での電
車内の痴漢行為が、すし詰めの満員電車とはかけ離れたまばらな
混み具合の中で発生したとされたことである。

 たとえば、抗精神薬を混入された紹興酒を植草氏が飲んでいて、意識
がおぼつかなかったとしても、周囲からよく見える状況下での痴漢発生
は不自然きわまりない。ましてや、被害者が二分間もその場を動かな
かったなどということは、奇妙さを通り越して充分に作為的である。

 A氏が困惑した植草氏の病的性癖説は、謀略側が植草氏のイメージダ
ウンを意図して、警察やマスコミを使役して行った印象操作にほかならな
い。国策捜査とは第一義的に、国民に時代の変化を印象づけるため、
自分たちが意図した時代構築にそぐわない考えを持つ識者を罠に落とす
ことにある。その目的は、その人間のイメージを徹底的にたたき落とすこ
とによって、時代が変わったことを国民に印象付けることにある。その意
味で、植草氏が受けた身に覚えのない連続した事件は、完璧に国策捜
査の性格を宿していると言えるのである。


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2007年2月21日 (水)

横浜のメリーさん

1000889_01

 久しぶりにDVDを借りてきて観た。題名は「ヨコハマメリー」。特に目的
があって観たかったわけではないが、ハマのメリーというのは以前、どこ
かで聞いた覚えがかすかにあった。横浜という街にはあまり馴染みはな
いが、二十代の時、鶴見で数年間働いていたことがある。なぜか横浜中
華街のエキゾチックな空気が好きで、仕事の合間には好んで行っていた。
当時、私は中東の石油プラント関係の設計をやっていて、中東諸国のど
こかの建設工事に一度行って、働いてみたいという強い夢を見ながらチャ
イナタウンを歩いていた。

 矢沢永吉の歌ではないが、金はなく、空のポケットに夢ばかり詰め込ん
でいた私の懐かしい時代である。「ヨコハマメリー」というタイトルを見て、
なぜか、当時へ強いノスタルジックな想いが湧き、その作品を借りてきた。
詳しくは言えないが(笑)、中華街とポニーテールは、私の記憶の中で一
セットになっている。今でもポニーテールの女の子を見ると、夢一杯のあ
の時代を想いだし、今の自分が恥ずかしくなる。

 さて、横浜のメリーさんとは、顔を異様に白く塗り、白いドレスと赤い靴
を履いて伊勢崎町などの横浜の街に佇んでいた老婆であり、彼女は終
戦時に米兵を相手にした街娼だったらしい。詳しい経歴は不明のようだ
が、その異形の風体と、街娼には相応しくない高雅なものごしのせいか、
彼女はハマのメリーさんと呼ばれ、いつしか横浜の風物詩になっていた
ようである。横浜に住む人なら誰でも彼女のことを知らない者はいない。

 ドキュメンタリーは、メリーさんが横浜にいた時の写真をふんだんに使用
していた。はっきり言って、彼女のどぎつい化粧はびっくりするようなインパ
クトがあり、実際に目にしたらそうとうに気持ち悪いかもしれない。薄暗い
山道でばったり出会ったら、間違いなく水木しげるの世界に入り、心停止を
起こすかもしれない。白いお化けなのだ。しかし、彼女には不思議な強い
存在感が溢れていた。彼女を知る人たちが口をそろえて言う。彼女は確か
に横浜の風景の一部になっていた。

 年老いても、背中が曲がっても、横浜の繁華街に立ち続けるメリーさん
は、けっして白い厚化粧を崩さず、いつも泰然と街に佇み、横浜の風景の
一部に同化していた。映画を観ていて私はいつしかメリーさんに魅了され、
すっかり引き込まれていた。老いた街娼と横浜の街並み。この取り合わせ
は不思議な雰囲気を醸し出していた。メリーさんをいつも見守り、それとな
く援助していたシャンソン歌手の永登元次郎さんは、癌に蝕まれた身体を
必死に鼓舞して好きな歌を歌い続け、メリーさんの語り部になっていた。そ
の語りが独特の風趣があって、横浜の一つの風貌を見事に描き出してい
た。

 元次郎さんのメリーさんに対する思い入れは、メリーさんに母を感じてい
たからということらしいが、その献身的な面倒見は心を打たれるものがあっ
た。それにしても、メリーさんはなぜ白い化粧で、毎日街に立っていたのだ
ろうか。戦争から敗戦、そういう激動の時代を街娼という運命に身をゆだ
ね、必死に生き抜いてきたという自負心が立たせているのか。それとも、
自らが渦の中の木の葉のように、時代に翻弄されたことへの抵抗なので
あろうか。

 敗戦ショックで、日本の男は心が折れた。しかし、日本の女は生きるため
にたくましく戦い抜いた。敵兵だった米兵に身を売って生きる街娼は、当時
はパンパンと呼ばれ、それは蔑みの言葉ではあったが、完全な侮蔑だけで
はなく、そこには時代に翻弄されて生きる者というニュアンスもあった。誰が
好き好んでパンパンになるだろうか。戦争に敗れるということは哀しいこと
である。私はメリーさんに横浜の戦後史を観ると言う人々の言葉を、その通
りだと思うし、それ以上の表現はないと思っている。しかし、メリーさんとい
う存在には、ひと言では語れないような、何かしら悲しみの時間がまとわり
ついている。

 メリーさんは人に心を許さず、いつも毅然として誇り高くいたらしい。人前
では常におしろいお化けの姿を保ち、高貴な人たちのものごしを崩さず、
いつも凛然とした態度を貫き通していたという。言えることは、メリーさんが
確固たる様式美を通したということだ。その様式の意味はいまだに誰もわ
からない。近い立場にあった元次郎さんにもわからなかった。元次郎さん
は2003年に病死した。メリーさんを慕い、その存在に強く惹かれながらも
ついに彼女をわからないままに死んでいった。

 元次郎さんも妙に横浜に似合っている不思議な人物なのだ。私はカラオ
ケなどで歌われる「マイウエイ」という歌はベタ過ぎて嫌いである。本人が
自己陶酔的に歌った場合は尚更である。「お前の道はそんなに凄いの
か?」と思わず突っ込みたくなる。しかし、元次郎さんの「マイウエイ」は素
直に沁みた。生で聴きたいと心底思ったが、もう彼は逝ってしまった。今の
時代は、心や情けのある人間がどんどん淘汰され、死んでいく。摩天楼の
ような金ぴかのビル群が押し寄せ、人間同志の悲しみさえ淘汰の風に掻
き消されていく。

 全編を観ていて、なぜか涙が出てくる映画であった。特にストーリーもな
いし、劇的なことも起こらない。さまざまな人が淡々とメリーさんを語ってい
るだけである。それでいて、私は横浜を通して戦後日本のある種の哀しい
姿が切々と胸に沁みてくるのである。ある人が言っていたことが、やはり胸
に響いてくる。それはメリーさんのお化けのような白塗りが、実は化粧とい
うよりも、生きるための仮面(ペルソナ)であったという説明だ。その通りだ
と思う。あの気味の悪い白塗りが、なぜか愛しくて哀切に思えるのは、時
代の持つ絶対的な時の悲しさがそこに溢れているからに違いない。

 街には独特の時の流れがあり、雑踏の中でその時の表情を強く感じて孤
独になる時がある。人々が往来し、四季が移り変わって、街路樹の風情が
変化するような時間とは異なる、時代の絶対的な時の流れが街にはある。
メリーさんはその時の流れに独りで乗って自分を様式化したのであろう。街
の孤独におのれを同化させ得る人間は滅多にいない。それをやるには、そ
うとうな自己克己と孤独に耐える覚悟がいる。そして何よりもおのれの魂を
むき出しにする自己放棄、究極の諦念が要る。それができる人だけが街の
風景となる資格を持つ。・・彼女はなるべくして横浜の風景の一角を担っ
た。我々は、時代の孤独な流れと対峙した女性の顔をまともに見ることは
できない。なぜなら我々は自分たちが思っている以上に、時の重圧に耐え
られない弱い存在なのだから。

 彼女はそれを知っているから顔を塗った。我々が魂の自己放棄を成し遂
げた人間の顔を凝視できないことを知っていたから。ハマのメリーさん、そ
れはあまりにも悲しく、そしてなつかしい風景なのだ。だから涙が出た。メ
リーさんが横浜から忽然と消えた時、人々はある重要な風景を失っている
ことに気が付き、慣れるまで茫然とした思いをした。なぜなんだ?と問いか
けてみてもそれは虚しい。なぜなら、メリーさんは、我々自身が気が付いて
いない時の流れに映った、我々自身の素顔だからである。

 戦争も、敗戦も、普通の人にとっては不可抗力である。時代そのものが
不可抗力であった。そういう時代は自分の意志でどうにかなるものでもな
い。受け入れていく以外に選択肢はない。生きるために米兵に身体を売
り、生きた証を納得するために白塗りをしてハマの街角に佇む。この女性
の様式は戦後の日本人すべてに当てはまるのではないだろうか。自主憲
法も造らず、自衛隊も身分を曖昧にし、年次改革要望書を丸呑みすること
しかできない日本人。米国に隷属する現実を、自ら見まいとして、顔を白
塗りにして62年間も仮面の日本人を演じ続けている日本人。われわれす
べての日本人はメリーさんの白い顔と同じではないだろうか。

 メリーさんを、横浜の戦後史を象徴する一つの風景として捉える見方は
無難でわかりやすい。しかし、そんなお悧巧さんなことを言って、悦に入っ
て、何になるという気持ちである。もしかしたら、彼女のペルソナは日本人
すべてのペルソナと同じ素材でできているのではないのか。だから、我々
ひとりひとりの日本人と、メリーさんはフラクタルな相似形を持って共振し
合っているように思うのである。あのお化け風味の白塗りは、我々の顔そ
のものではないだろうか。目の前にいると気色が悪いメリーさん。しかし、
いなくなると胸にぽっかり穴が開いたようになるメリーさん。どうして、この
婆さんに人々は惹かれてしまうのだろうか。

 老いてもなお街角に佇むメリーさん。彼女自身はけっしてその意味を語
ろうとはしなかった。メリーさんを無理に意味づけする必要はないのだろう。
彼女は街の風景だったからである。馴染みの建物も時が経てば取り壊さ
れ、新しい風景の一部になる。そんなところだろう。ただ、孤独で悲しい
色合いを宿した時間の流れが街にはある。その時間がメリーさんになっ
ただけなのだろう。

 彼女は昔の街路灯のような風情がある。さりげなく立っていて、少し上
から淡い光を照らす、お洒落な一本のガス燈である。物悲しい風景では
あるが静謐で心が和む。これは一幅の絵画に記されたメリーさんという
都市伝説である。横浜という街は深い懐がある。ちなみに、私が横浜を
もっとも強く感じるのは、メリーさんには悪いのだが、永ちゃんが歌った
「チャイナタウン」である。

 ♪ チャイナタウン 横浜トワイライトタイム 流れてる俺たちの好き
   だった「ドッグ オブ ザ ベイ」 ♪


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植草事件の闇(5)◎マスコミの異常な硬直性



 米国と結託し、国家の正道を踏み外した国賊的為政者たちと、それに
絡む金融関係者、加えて、強圧によって彼らを動かしたハゲタカと呼ばれ
るタイプの国際金融資本。この三者勢力は、米国の軍産コングロマリット
を支えるために、その資金供出を日本に頼っている。米国は自国の戦争
経済を支えるために日本の国富を流用する形を日本に造った。実際に構
築したのは米国通商代表部の意を汲んだ日本人である。そのシステムが
本格的な稼動をし始めたのが、りそな銀行の救済劇にあったと私は考え
る。

 アメリカ「奥の院」が、十年ほど前から、「年次改革要望書」という、一見、
平和的で双務的な日米経済協調コミットメントを行なっている。しかし、そ
の実態は完全に片務的であり強制的である。しかも日本への要望が実
行されたのかどうかを確認する行事まで念入りに盛り込まれている。これ
らのアメリカによる諸要望は、日本の国富をアメリカに流すための仕掛け
作りにほかならない。日本政府、特に小泉政権は、先鋭的にアメリカに従
ったために、日本の経済構造は公平配分型から傾斜配分型に急速な変
化を遂げた。

 聖域なき規制緩和、激しい規制緩和を柱とする新自由主義的な構造改
変は、構造改革と呼ばれ、あらゆる既成の商習慣を打ち砕いた。この弱
肉強食経済の結果、矯激な優勝劣敗ゲームが過熱し、資金不足や規模
の小さい弱小企業は地獄の苦しみを味わっている。小泉構造改革は結
果的に血も涙もない冷酷無残な政策となった。今、それを踏襲する安倍
政権の構造改革も、小泉改革と大差ない国富流出機構つくりにほかなら
ない。こういう売国システムを喜んで作っていたのが、竹中平蔵を始めと
する幾多の米国エージェントたちだった。日本人の顔をした米国の犬たち
である。

 大きな問題は米国の対日経済占領だが、直接的な問題は米国に魂を
売った者たちによる日本改造計画にある。その最大の構造改変が「郵政
民営化」であった。郵政民営化と言えば、先ごろ、米国通商代表部(USTR)
のシュワブ代表は、米国の条件と対等なものが築けなければWTOに提訴
すると脅しのような言い方をした。これで、小泉が死を賭して実現したと言
う郵政民営化が、実は米国の要望で行なわれた国富流出のための法案
であることがよくわかる。植草氏はこういう国家毀損的な流れに対し、果敢
にもクサビを打とうとして彼らに睨まれてしまった。そして国策捜査の罠に
嵌められた。植草氏は、いたいけな少女の姿を借りた汚れた国家権力に
口を封じられたのである。

 こういう背景があるから、植草氏の名誉を晴らすことは、単に彼個人の
名誉回復ではなく、多くの関係者たちの名誉を回復することになる。それ
のみではない。その延長上には、ねじれてゆがんでしまった醜い日本の
あり方そのものを回復することに繋がることになる。弱肉強食の拝金主
義、市場原理一辺倒の社会構造は、我々の日本民族の感覚にマッチし
ない。

 植草氏を嵌めた相手は強大な国家権力の一部である。これと戦うには、
我々も不退転の覚悟を決め、結束力のある行動をすることが肝要だと考
える。これは一見、蟷螂の斧であり、ごまめの歯軋りを思わせる。逃れよ
うもない絶望的な戦いに見えるが、けっしてそうではない。腐った権力が
最も畏れるのは世論である。そのために彼らは電通やその他を通じ、マ
スコミを掌握しようと必死である。これは植草氏に対する悪いイメージ付
けを行なうとともに、国民の目を真実から逸らして、世論の奔出を抑える
ためである。

 マスコミを押さえてしまえば、世論誘導などは簡単にできるわけで、そ
れはかなり成功している。植草事件の背景を国民に悟らせたくない権力
構造は、徹底的にマスコミによる印象操作を行い、植草氏のイメージ毀
損に血道を上げている。植草氏には集中豪雨のように報道被害が襲っ
た。しかし、品川事件の体験で学習した植草氏は果敢にも人質司法の
圧力を撥ね返し、四ヶ月に及ぶ長期勾留に耐え忍んで拘置所を出てい
る。まさに強靭な精神力である。

 いくら強大な権力でも、マスコミすべてを統制的に管理することはでき
ないだろう。マスコミの中にも、警察、検察の中にも反骨精神の強い者、
愛国心の強い者は大勢いるはずである。彼らがいつまでも沈黙を押し
通すとは思えない。私は彼らの日本人としての良心の発動に期待する。


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2007年2月19日 (月)

ベンジャミン・フルフォードさんが逮捕されたら

  ベンジャミン・フルフォードさんがご自身のブログで下記のことを語って
いる。情報網をたくさんお持ちの方だから、確度の高い情報から表明し
ているはずである。

****************************************************
February 18, 2007
ベンジャミンフルフォードが逮捕されるかもしれません
最近、複数のマスコミ関係の知人の方々から警告の電話があります。

どうやら、警察幹部が私のことを「あの外人は一体なんなんだ」と
色々な言いがかりをつけているようです。こういう動きがあると、
でっちあげ逮捕が近いうちに行われる可能性が高いと言われました。

但し、私はどんなに調べても絶対に違法なことはしていない自信が
あります。もし私が逮捕されることがあれば、それはでっちあげ逮捕
だと思って下さい。

警察幹部の方々は私のことを勘違いされているようですが、私の目
的は暴露ではありません。私の目的は、日本人をアメリカの闇の
支配から解放し、自由にすることです。そうすることにより、日本の
本来持っている力を発揮させれば、世界から貧困をなくし、環境破壊
を止めることができると信じています。

その目的のために力を貸してくれるのでしたら、警察の複数抱えて
いる大掛かりなスキャンダルにも目をつぶる余裕もあります。

Posted at 05:58 PM | Permalink

   http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/2007/02/post_12.html

*******************************************************

警察が彼を逮捕するなら、それは明らかに植草一秀氏の国策逮捕絡
みであることは間違いない。ネットは警察の動きを監視している。ベン
ジャミンさんが逮捕されたら、いっせいに国策捜査が話題になり、それ
が揣摩臆測の範囲ではないことを国民は如実に思い知ることになるだ
ろう。

 官憲が、彼を不当逮捕した瞬間に植草事件の話題は沸騰すること
間違いない。当然、従米的な構造改革の欺瞞に対し、それは爆発的
な世論喚起を呼ぶことになる。

 彼は日本人の覚醒に期待し、世界の行く末を考えている素晴らしい
男である。それは私が日本人として断言する。


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・・海行かば

 ふと思った。オレのように名もなく何の才能もない人間が大上段に構え
て、植草氏の擁護をやっていていいのかと。

 オレがやるより、どこかの女がやるより、もっと相応しい立派な人間が
やるべきだと最近思うことがある。

 しかし、社会的な地位も名誉もある立派な人間が植草氏を応援してい
る話は聞かない。オレのような地位も名もない卑賤な奴でも、植草氏を
嵌めたやつらにはそれなりの憤りがある。義憤だ。黙っていられないの
だ。こんな社会をそのままにしていてはよくない。

 第一、先祖に申しわけが立たない。それに、子孫にこんな悪辣な社会
を伝統として残すわけにもいかない。ヤクザでもなく、警官でもなく、刀も
鉄砲も持たない非力な俺は文字通り非力だ。だが、オレはオレができる
ことをして奴らと戦う。オレの言葉がある。

 大東亜戦争では、先人たちが「海行かば」を歌って戦場に赴いた。

  海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
  山行かば 草生(くさむ)す屍
  大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
  かへりみはせじ

http://y4444y.hp.infoseek.co.jp/flagk/gktop.html

 この歌、古風な言葉だが、内容はいたって簡単だ。日本人として生ま
れたなら、大義がある限り、同胞の屍(しかばね)を乗り越えてでも戦え
という歌だ。人権至上主義、生命尊重至上主義の教育馬鹿たちが戦慄
する歌なんだろうな、きっと。でもおれは前からこの歌が好きだった。いさ
ぎよいからだ。

 俺は植草氏にも言いたい。そして、俺と似た心情の持ち主の不特定多
数の人にも言いたいことがある。

 何を言いたいのかといえば、それは、今から53年前に、シベリアに抑留
されていた山本幡男という人はついに帰郷を果たせなかった。自分の子供
たちに再会する望みが消えうせ、おのれの死を目前にした時、子供たちに
伝えたメッセージの一節がある。それをおれは伝えたい。

 『最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友達と
交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部
面において、この言葉を忘れてはならぬぞ』(山本幡男氏の遺訓より)

 おれは言いたい。刀も飛び道具も持たない人間が、戦って勝てる唯一
の武器は「道義」なんだ。戦後の日本人はこの道義心をすっかり忘却し、
人々は似非個人主義の究極相に突入した。今の日本はミーイズムに汚
染された。鬼畜アメリカを手本とした結果なのだ。

 しかし、だからこそ、権力者の腐敗には正攻法で「道義」をかざすことだ。
それは時代を超えて有効なのだ。日本人の品格は?などと考える前に
「道義」を貫けばそれは力になる。

 戦艦大和は一機の護衛機もなく、水上玉砕の旅路に敢えて出航した。
そして海底に沈んだ。彼らのその英断のために、戦後の我々は精神の
奴隷にならない選択肢を持っていたはずなんだ。

 ところが為政者からして、野卑な薄ら笑いを浮かべ、鬼畜アングロサク
ソンの奴隷化を選んだ。今では植草氏のような真面目な日本人を平然と
奴らの祭壇に生贄として提供する。こんな日本は変えなきゃいかん。変え
なきゃ日本が日本でなくなる。涙が出る。

 道義が通らなくなる社会のどこに生き甲斐がある?

 生れた土地は荒れ放題 今の世の中、右も左も
真っ暗闇じゃござんせんか  (せりふ)

♪何から何までまっくら闇よ すじの通らぬことばかり 
右を向いても 左を見ても バカとあほうのからみ合い 
どこに男の夢がある♪

http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/KizuDarake_no_Jinsei.htm

 おれの年代は知っているが、これは鶴田浩二の「傷だらけの人生」
だ。今の世の中はまったくこの通りになっている。鶴田の歌は預言詩だ
ったわけだ。

 アングロサクソンから日本は何を学んだ?狡猾に他者を騙して金儲け
をすることか?こんなヨゴレの先生から学んだ奴に、どうして品格が生ま
れる?

 植草氏を助けなければ日本は滅ぶ。日本が滅べば世界の未来もない。
だからおれは道義だけで戦う。おれがくたばったら次の奴が向かっていけ。
そいつがくたばったら、また次の奴が向かっていけ。

 それが大和民族のかたちだ。

 この世界に生まれて生きた。おれも友人たちも奴隷になるために生ま
れたんじゃない。日本人として生き、日本人として死にたい。ただそれだ
けの話だ。日本人の生き意地とはそういうことじゃないのか。

 ね?みなさん。


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植草事件の闇(4)◎欺瞞の時代潮流

 初回のボックス席事件は確実に冤罪である。しかし、そのあとの二件の事件は
国策捜査の疑惑がきわめて強い。植草氏と小泉政権が以前から政策展望において
根底から対立していたことは事実である。小泉政権が遂行した構造改革は「年次
改革要望書」に忠実に沿って行なわれた。大胆な規制緩和を旗印に国家構造の
作り替えを急いだ。典型的な新自由主義政策を強引に実行した結果、日本は完全な
傾斜配分社会に変換され、格差は固定化し、自殺者はいっこうに減る気配がない。

あの政権は米国の傀儡政権だったのである。植草氏は国益毀損型の小泉経済施政
を舌鋒鋭く批判し続けていた。手鏡事件以後も、植草氏は身の潔白と共に小泉施政、
特に「りそな銀行騒動」に絡むインサイダー取引の疑惑を、株価の動きや金の動きか
ら、経済学者として指摘していた。宮崎学氏主催の「直言」での一連のレポートも、
彼の訴えたいことが、りそな銀行関係に収斂していることが見えてくる。

 これが官邸サイド、特に竹中平蔵や小泉総理、その取り巻き連中の決定的な
危機感を招き、植草氏は手鏡破廉恥男の汚名を着せられた上に、今回の痴漢逮捕
劇を演出されてしまったのである。背景には官邸サイドが絡む国策捜査が働いたと
私は確信している。今回の植草氏の痴漢逮捕は、それを仕掛けた側の焦りが感じ
取れるとともに、二度と植草氏に政権批判をしてもらいたくないという熾烈な意志が
見える。その理由としては、植草氏が行っていた政権批判の中に、小泉政権絡みの
重大な経済事犯が存在していた可能性があるからである。しかも、それが国家的な
規模の経済犯罪だとしたらどうであろうか。植草氏のレポートで最も重大なポイントは、
小泉政権の失策を指摘するというレベルにはないかもしれない。それは、りそな銀行
に絡む、金融危機不安の誘導による株価暴落と、小泉お得意の「自己責任論」を
放棄してまでも、政府資金でりそな銀行を救った、その一連の動きの中にあるのかも
しれない。

 世間は表面的にはこう受け止めた。小さな政府論をうんざりするほど絶叫していた
小泉や竹中は、りそなに関してだけは自己責任論を回避して金融システムの安定化
を最優先とし、ケインズ経済的な政府救済を臆面もなく行った。それを眺めていた
経済通たちも、おい何だいこりゃ、まったく変節もいいところだなと思ったに違いない。
 
 しかし、りそなの真の問題はそんなところにはなく、実はこれら一連の騒動の中で、
その動きの本質を植草氏が一番言いたかったことは『政府犯罪』の実態だったの
だろう。彼が指摘するように、政府が金融不安を恣意的に煽ることによって、株価を
一気に下落させ、それが底値であることを「知っている」何者かが、底値買いを行い、
竹中がりそなの救済に政府資金を供出して、株価が再び上昇に転じた頃合を
見計らって、売り抜け、または、その後の株価上昇を睨んで保持し、膨大な儲けを
手にした、あるいはこれから手にする可能性があるということなのか。ここで外資が
動いていたと植草氏は指摘する。りそなの深い背景を説明するには紙数が足りない
が、この問題が孕む米国による国富の収奪は、郵政民営化においても鮮明に
繰り返される恐れがある。

 つまり、植草氏は、小泉政権は政策上の失敗で日本経済を破綻寸前まで導いたが、
その副産物として二つの出来事が日本に派生したと言っている。一つは、本来は生起
しなかったはずの失業、倒産、自殺の地獄を招来したことと、もう一つは外国資本が
日本の優良資産を理想的な安値で買い叩くことができたことの二つを上げている。
外資の政府への介入を、「小泉施政の副産物」だと植草氏は書いているが、彼が
本当に言いたかったことは実はこうである。りそな疑惑に関わるグループは三つあり、
国会議員、外資系ファンド(アメリカ系金融資本)、そして、竹中に協力した一部民間人
を含む協力者たちのトライアングルで構成されていた。これら共謀者どもが起した
巨大なインサイダー取引があったということである。

 植草氏はそれを調べるために当時の関係者から事情聴取を行う必要を説いている。
小泉は基本的にはアメリカに都合のよい売国方針を貫いてきたが、それだけではなく
戦後最大の疑獄事件と言われるロッキード疑獄を上回る、アメリカが絡んだ国家的
経済事件を起こしていた可能性があるかもしれない。そして植草氏は株や金の動き
からその本質を正確に把握した。植草事件とは、それに気付いた前政権筋の黒幕が
起こした国策捜査の可能性がきわめて濃厚なのである。

 参考図書

  1、  「あるべき金融」東洋経済新潮社 (著者:堺屋太一、刈屋武昭、
                              植草一秀 )
  2、   植草一秀「失われた5年ー小泉政権・負の総決算(2)~(6)」

       (宮崎学氏主催 ネット論壇「直言」に掲載中)

  3、   「植草事件の真実」ナビ出版(植草一秀事件を検証する会/編著)


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植草事件の闇(3)◎公判証言から見えてくる国策捜査の構図

 

公判証言から垣間見える国策捜査の構図                        

  私は2006年、京急電車内事件の第二回及び第三回公判を傍聴した。その結果、通常
の痴漢事件にしては不可解なことを多く見つけている。その中で、これが通常の冤罪ではない
という大きな証言を二つ指摘することにする。その一つ目は、これは最大の疑問なのであるが、
当日電車内の混み具合なのである。

 当日の電車内は立錐の余地がないほど混雑していなかった。その混雑程度は立っている
乗客が、動こうと思えば安易に動ける乗り合わせ状況であった。加えて、目撃証言者の言に
よれば、女子高生と、この証言者の間隔は直線にして77センチも空いていた状況がある。つ
まり、立っている乗客は、ぎっしりと詰まった状態ではなく、人が容易に通り抜けられるような、
いわゆる「疎」の状態であった。ここで被害者、加害者、目撃証人、目撃証人と加害者の間
にいた女性乗客の平面配置関係が目撃者証人の語ったとおりに再現するとおよそ次のように
なる。

 




この平面配置状態は、目撃者の証言を忠実にスケッチして出てきた図である。見てもわかる
とおり、この状況の中で痴漢が行なわれたとすれば、目撃者はほぼ完全にその行為が目撃で
きたことになる。被害者の女子高生は、電車の進行方向側に逃げることも、進行方向に対し
て左側、すなわち目撃者の方に移動することも出来たはずである。目撃証人は、車両の混み
具合を「肩が触れ合わないくらい」と言っているが、この図を見る限りにおいては、被害者と加害
者の行為は周囲から丸見えである。しかも、目撃証人の右斜め45度の所にいる女性はまった
く遮蔽にはなっていない。この状況で痴漢は行なわれたのであろうか。痴漢が行なわれるための
条件、すなわち、極度に視認性が低い状況とはまったく異なることは一目瞭然である。

 これでは、痴漢をする以前に、女子高生と加害者が不自然に密着状態にあるだけで、周囲
から確実に目を付けられてしまう状況である。ところが、二分間もの間、誰も咎めるものはいない
し、女子高生自体が抗議もしなければ動くこともしていない。なぜ黙っていたのだろうか。この被
害者の無為の方がよっぽど異常なのである。しかも2分間もさわらせておいて、いきなり【何をす
るんですか。子供の前で恥ずかしくないのですか】などと言うことのほうが奇妙である。

 

 重要であるから、何度も繰り返すが、痴漢被害を受けたと称する女子高生が、この「疎」の乗
り合い状況の中で、2分間もさわられたまま、痴漢被害の回避行動を取ることもなく、植草氏と
身体を密着させたままであったことは不自然きわまりない。

  もし、この女子高生が植草氏にさわられた恐怖で身動きが取れない、つまり心理的な萎縮
を起こし、ヘビに睨まれたカエルのように、そのままの体勢で動かなかったとすれば、上の言動は
非常に異様である。四十代半ばの男性に、「子供の前で恥ずかしくないんですか」などという説
教めいた言葉を投げかけたとすれば、この17歳の女子高生はかなりの気丈さを持っていること
になる。まるで婦人警官のような物言いである。それならば、2分の間に回避行動を取るか、あ
るいは抗議言動を発していなければおかしいことになる。通常であれば、この女子高生はさわら
れてから数秒でなんらかの回避措置を行なっているはずであるが、実際は何も行なっていない。

 したがって、この不可解な受容的態度には明らかな作為性が見られる。この女子高生につい
て、不可解なのはそれだけではない。彼女はまだ一度も公判に出ていないのだ。期日外尋問
という、法廷ではない場所でこっそりと行なわれたらしいが、その方法だと被疑者側が尋ねたい
疑問はすべて回答が得られないことになる。そのような乱暴なことがあっていいのだろうか。被疑
者の言い分が法廷で検討できない裁判に意味があるのだろうか。

周防監督作品の映画「それでもボクはやってない」では、15歳の女子中学生が法廷に立っ
て被害状況を述べる尋問を受けているのである。ただし、傍聴席から姿が見えないようについた
てで仕切られていた。これを遮蔽措置と言うらしい。植草氏の公判ではなぜこれをやらないのだ
ろうか。遮蔽措置を施して被害者の尋問を行なえば、被害者のプライバシーは確保できるし、
「証人威迫罪」のリスクも回避できるはずである。これをやらない裁判の目的はなんだろうか。感
じられることは、被害者女性を法廷に出したくないということである。遮蔽措置を行なえば尋問は
可能なはずなのに、一貫して法廷内での被害者尋問を拒否する理由とは何であろうか。

 二つ目の疑問は、目撃証言者が植草氏を取り押さえた乗客を「私服」と呼んだことや、植草
氏が京急蒲田駅から蒲田署へ連行される経緯に要した時間の非常識な短さなどを加味する
と、この事件が官憲ぐるみで行なった大掛かりなでっち上げ事件であることを充分に確信させる
ものがある。したがって、ここから見えてくるものは、昨年9月の京急電車内の痴漢事件は、植
草氏を陥れるために何者かが意図立案し、その意を組んだ実行グループによって偽装工作が
為された可能性が非常に高いということなのである。

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2007年2月16日 (金)

植草事件の闇(2)◎三回という連続性に垣間見える官憲の巧妙な仕掛け

 三回という連続性に垣間見える官憲の巧妙な仕掛け

さて、我が国の気鋭のエコノミストである植草一秀氏が遭遇した三度にわ
たる摘発・逮捕は、三度とも鉄道にかかわる場所で起きた事件である。鉄
道の世界で起きた事件、これが植草事件の本質を解明する鍵となる。私
は、この三度の痴漢事件すべてが国策捜査の範疇で起きたとは捉えてい
ない。私は、1998年に起きた一度目は典型的な「冤罪」であり、
あとの二件は、その初回の「冤罪」を既成事実として目一杯利用し、
綿密に計画され実行された国策捜査であると確信している。
それ
を逐次説明する前に、植草氏が遭遇した三度の事件のあらましを箇条的
に書いて置く。

(1)1998年6月 JR東海道線横浜駅~品川駅間で24歳の女性へ痴漢
     行為で逮捕、神奈川県迷惑防止条例違反で罰金5万円(品川手鏡事
     件の公判中に検察側から出された)

(2)2004年4月 品川駅のエスカレーターで女子高生のスカートの中を
  手鏡で覗こうとしたとして逮捕。2005年3月、東京地裁は罰金50万
  円、手鏡1枚没収(求刑懲役4カ月、手鏡1枚没収)の判決を言い渡し
  た。

(3)2006年9月 京急電車内で17歳の女子高生に対する痴漢行為で
  逮捕、東京都迷惑条例違反で現在(2月15日)公判進行中

 この三つの事件を時系列的に俯瞰すれば、8年間に3度の連続性
が認められ、もはや植草氏の痴漢常習癖は疑いの余地はないように大衆
には思われるだろう。この俯瞰が示すことは、この連続した「事実」が動か
しがたい決定的なものとして人々の目に映ることにある。しかも、この三
度の事件を何者かによる画策、すなわち、「謀略的でっち上げ」の範疇に
当てはめるというのは無理があり、もっとも整合的で妥当な結論が、植草
氏自身の性癖がもたらした犯罪性癖にあると誰もが思うに違いない。

 しかし、私は一見動かしがたいこの「事実の連続性」が、実は完全な作
為的ストーリーの流れの中で起きたことを弁証する用意がある。弁証だけ
ではない。私は、2006年9月の京急電車内で起きたとされる痴漢事件に
おいて、今進行中の公判を二回傍聴した結果、重要な目撃証言の中に、
確固とした作為性を発見している。それについては後述するが、その前
に我々が認識する「事実」について少し考察しておきたい。

 我々が普段知覚する事実(ファクト)には、実は大きく分けて二種類ある。
一つは日常の中で、自分の目の前で生起する生々しい現象としての事実
である。これは、目の前で起きたことは、視覚、聴覚、嗅覚など、いわゆる
五感をもって体験しうる体験的事実のことである。その臨場感、迫真性は
疑いの余地のない場合がほとんどである。もし、この日々の実体験に疑
いを持つとすれば、人間は実存感覚の危うさに陥ってゲシュタルト崩壊を
起こす。我々人間が内包するこの実存的な脆弱さを精神的に制圧してい
るものこそ、日常に生起する多様な情報から得られるリアルな感覚という
か、生き生きとした現実感なのである。

 もう一つの「事実」は、日々目や耳にするニュースと言われる情報から得
られる仮想的な事実である。テレビやラジオ、あるいは、新聞等の活字媒
体から目にする情報は、物理的に放送局や記事の書き手という中間の媒
体を介して流れる物であるから、その情報は程度の差こそあれ、必ず加工
されていると見るべきである。その人為的な「加工」の度合いによっては、
我々が知らされるニュースは事実(ファクト)とは大きな懸隔が生じると考え
られる。しかし、我々は、時には胡散臭さを感じながらも、前提としてメディ
アは正直に遠方の物事を伝えているという暗黙の担保を与えている。

 従って、大衆は自分の生活に直接関わることでなければ、よほどのこと
がない限りは、日々のニュースを漫然と鵜呑みにし、メディア・リテラシーを
駆使することはしない。特にそういう傾向は芸能ニュース、ワイドショー、週
刊誌等に顕著である。芸能人のゴシップを深く追求し、確度の高い分析を
しようとする大衆はまずいない。そういうものは各自にとって、まるで切実さ
を感じないからである。従って、流す側にとってみれば、このジャンルのネタ
は扱いやすく誇張もしやすいのである。これに比して、経済スキャンダルや
政治ネタは、報道内容に正確さと裏づけ、高いインテリジェンスが要求され
るから、流す側は必死である。つまり、このジャンルのネタは安易な情報操
作がやりにくい面はあるだろう。

 メディアから放たれる情報は、大衆がそれを疑わない限り事実として受け
止められる。言い方を変えれば、ニュースを流す媒体主体が、その情報を
恣意的に加工することによって、思うがままに事実は歪曲できることにな
り、極端な場合は、事実との乖離を超えて、発生していない事実さえ作り
上げることができるという話なのである。このようなことは人類が放送メディ
アを有したかなり昔から言われていることである。だからこそ、権力中枢が
メディア情報を掌握するようなことがあれば、その国は独裁色を帯び、思想
統制が常態となる最悪の状況に陥るのである。

 小泉政権下では、特にメディアの意図的な暴走があり、それは報道被害
という形で洪水のように植草氏を襲った。ここから、植草氏が陥った人生の
底知れぬ闇の扉が開いたのである。この闇の背景には、メディアに止まら
ず、警察、検察、そしてその上に聳え立つ汚れた権力の頂上がおぼろげに
見えてくる。再び佐藤優氏の「国家の罠」に書かれていることから重要な箇
所を引き合いに出し、我々が日常的に「事実」だと思っていることが、実は
場合によっては、先入観念としての幻想的な「事実」であることを強く指摘し
てみたい。もっとはっきり言うなら、上に掲げた植草氏の三度にわたる事件
が、メディアを掌握する者たちによって、巧妙に計画された『事実の創作』
であることをこれから説明して行こうと思う。

 「国家の罠」の290ページに書いてある著者と西村検事の対話の中に
次のような内容がある。重要なので頭に叩き込んで欲しい。

○西村検事 『国策捜査は冤罪じゃない。これというターゲットを見つけ出
  して、徹底的に揺さぶって、引っかけていくんだ。引っかけていくという
  ことは、ないところから作り上げることではない。何か隙があるんだ。そ
  こに僕たちは釣り針をうまく引っかけて、引きずり上げていくんだ』

○著者(佐藤優氏) 『ないところから作り上げていくというのに限りなく近
  いじゃないか』

○西村検事 『そうじゃないよ。冤罪なんか作らない。だいたい国策捜査
 の対象になる人は、その道の第一人者なんだ。ちょっとした運命の歯車
 が違ったんで塀の中に落ちただけで、歯車がきちんと噛み合っていれ
 ば、社会的成功者として賞賛されていたんだ。そういう人たちは世間一
 般の基準からすればどこかで無理をしている。だから揺さぶれば必ず
 何かが出てくる。そこに引っかけていくのが僕たちの仕事なんだ。だか
 ら捕まえれば、必ず事件を仕上げる自信はある』

 以上の会話の中に、一連の植草事件の謎を読み解く重大な鍵が存在し
ている。私は植草一秀氏を実際に知る周囲の何名かに話を伺ったことがあ
るが、彼は生真面目な人であり、日常性の中で、たとえば当面は駐車違反
の心配がないような路上であっても、そこには車を止めずにきちんと近くの
駐車場に入れるような性格である。こういう人であるから、身にまとったダ
ークな噂もまったくない清廉な人柄である。従って、彼がしまい込んでいる
わずかな瑕疵を探し出し、それを俎上に乗せていくというようなことが最も
できにくい人物である。奸計を用いて彼を嵌めようとする側が、いくら揺さぶ
ってみても、植草氏の場合は軽微犯罪、つまり瑕疵がないに等しいわけで
あるから、いわゆる「可罰的違法性」の線で彼を陥穽(わな)に落とすことは
難しいと、検察当局あるいはそれに連なる権力側は判断したはずである。

 そこで謀略側は、植草氏個人の『使えそうな』瑕疵を、片っ端からあら探し
した結果、あることを見つけ出した。植草氏にはたった一つ、自らの瑕疵と
して強く悔恨の念を抱き続けているできごとがある。それこそが、(1)に書
いた1998年の東海道線車内で起きた事件であった。ここで誤解のないよ
うに強く指摘しておくが、彼が後悔しているという意味は、東海道線車内で
痴漢事件を起こしてしまったという意味ではない。この事件は警察と検察
の取調べ中に発生した純然たる濡れ衣なのである。つまり冤罪である。な
ぜここで冤罪が起きたのか。それは日本の官憲特有の「人質司法」だから
である。

 簡単に言えば人質司法とは、被疑者を逮捕し、否認を続けた場合、延々
と勾留し、なだめすかしたり恫喝したりして、被疑者の自白を引っ張り出す
という警察、検察による悪しき慣習である。1998年の東海道線車内での
できごとも典型的な人質司法により、植草氏は強引に調書を取られ、やっ
ていないのにやったという自白の言質を取られた。そして結果的に五万円
の罰金刑になった。東海道線車両のボックス席で、内ももにできた湿疹を
掻いていた時、それを向かい側の席に居た24歳の女性に見咎められ、彼
女は駅員を呼び止めて、「この人が感じ悪いんですけど」とだけ言ってい
る。この後の駅員室における取調べは、文字通り典型的な人質司法であ
り、認めなければ返さないというものであった。警察による冤罪である。

 ところが、品川駅における手鏡事件、そして、京急電車内における女子
高生への痴漢事件は国策捜査の疑いがきわめて濃厚なのである。私は
品川事件の時は、さほどこの事件に興味を抱かなかったが、2006年の
痴漢疑惑の時は、これは完全に嵌められたなと直感した。その洞察の契
機は、当時、テレビや週刊誌等でセンセーショナルに報道された、その報
道の仕方の極端な偏頗性に気付いたからである。どのメディアも、判で押
したように植草氏側の弁明がほとんど出てこないという同じ偏りを示して
いた。この初期報道には、併せて2004年4月の品川駅構内エスカレー
ターにおけるスカート覗きの事件も必ず報道されていた。そこには品川事
件で付けられた「ミラーマン」などというあだ名までよみがえっていた。

 2004年の品川駅での手鏡事件、これは神奈川県警鉄道警察隊がから
んだでっち上げ捜査である。まず、私服の警察官による執拗な追尾は、そ
の証言録を読むと「目つきが怪しかったから」という曖昧なものであり、追
尾の合理的目的性が欠落している。ほとんど底意があるとしか思えない
追尾理由である。

 また、構内エスカレーターでは、植草氏の姿は複数の監視カメラによって
映像が撮られており、その記録開示を植草氏自身が強く求めたにもかかわ
らず、警察はその意向を無視し、自らもカメラ映像を確認することもないまま
に、記録は自動消去されてしまった。これではどちらが捜査側で、どちらが
容疑者であるかわからない。主客転倒である。


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植草事件の闇(1)◎国策捜査

   国策捜査

 私は昨今の日本が、国家として思いっきりねじれていると感じている。そ
の理由は国家がその政策上において、都合の悪い個人を狙い撃ちする傾
向が強くなっているからである。狙い撃ちとは、言論表現という世界におい
て、対象とした個人の社会的生命の徹底的な剥奪を意味する。この傾向
は小泉政権下において最も強くなり、安倍政権に移行してからもなお続い
ている。例を挙げれば、国家に狙われた者として鈴木宗男氏、佐藤優氏、
西村眞悟氏などがいる。そして今、私たちが力を入れて支援している傑出
したエコノミストのひとりである植草一秀氏がある。政府に物言う空気がは
ばかられ、同時に国家が個人を狙うようになったら、その国の衰亡を端的
に表していると断言しても差し支えない。ぎらついた電飾に照らされた小
泉構造改革の一方では、国益を志向する言論人がメディアの場から露骨
に外されたことも、我が国の末期的なねじれ現象の一つである。

 我が国は戦後の一時期、未曾有の経済発展を遂げたが、一方では倫理
道徳は頽廃し、国家防衛の基本理念である自主防衛構想は60年以上も
放擲されたまま今日を迎えた。この長い期間を米国の膝下に甘んじたため
に、いまや我が国はローマ(ヘビ)に睨まれたカルタゴ(カエル)のような状
況に置かれている。すでに日本人は、国際政治や経済においても民族自
決の精神を忘却し、国家そのものが萎縮してすくんだ状態になっている。
身動きが取れないままに害獣の餌食にされようとしている。滅びの深淵が
目の前に迫っているというのに、日本人は脳天気な毎日を過ごしている。

 国家のねじれは小泉売国政権によって一層激化した。その一つの鮮明
な現象が国策捜査である。国策捜査が頻発する国家とは、政治的には警
察国家に変わりつつあることを示し、経済的には新自由主義の到達点で
ある「夜警国家」に向かっていることを示している。通常、警察国家と夜警
国家はその意味合いが異なるが、我が国の場合は、奇しくもその両者が
同時発生的に進行し、急速に国家的求心力が疲弊している。行き着く先
は、顔と国籍を失った流浪の民が弓形の土地にいるだけという荒廃の近
未来世界である。今の日本人は三島由紀夫が37年前に予見したとおり、
急速な無国籍化に向かっている。

 さて、「国策捜査」という言葉は、2005年に出た佐藤優氏の「国家の罠」
を読んで初めて目にした。背任と偽計業務妨害の被疑者となった著者を取
り調べた検事が使用した言葉となっている。この言葉が以前からあったの
かどうか、私は寡聞にして知らないが、最近では国策捜査が有名になった
ために、ネットではこれから派生した「国策逮捕」という言葉まで同義的に
使われ始めている。今ではこの言葉は定着しつつあるように思う。国策捜
査はいわゆる冤罪とは決定的に異なる構造を持つ。

 佐藤優氏の言に従えば、「冤罪」とは、捜査当局が犯罪を摘発する過程
で間違いが生じ、無実の人を犯人としてしまったにもかかわらず、捜査当
局の面子や組織防衛のために、強引にその人間を犯人として継続捜査を
して行くことである。これに対して、国策捜査は国家の「自己保存本能」に
より、国家の政策方針を変えうるような多大な影響力を持つ人間を、初めか
ら狙い撃ちし、検察を媒介にして政治的な事件や不名誉な事件を創出する
ことである。(「国家の罠」300項参照)  

 私は国策捜査をこう捉えている。国策捜査とは、時の政府が推し進める
政策上のトレンドに対し、そのベクトルを変えうるような大きな影響力を持
ち、政府が思い描く時代形成に反する方向性を持つ学者や政治家を狙い、
その言論を世論的に封じる目的で行なう恣意的な捜査のことである。その
目的は、時代のけじめをつけるために、何か象徴的な事件をでっち上げ、
時の政府の政策トレンドに異を唱える影響力のある人間を、検察が主体と
なって恣意的に断罪するということであろうか。

 佐藤氏を取り調べた検事の言によれば、国策捜査は冤罪ではなく、これ
というターゲットを見つけ出して、そのターゲットの隙を見つけ、それを徹底
的に揺さぶって国家の罠に引きずり落とすことである。そのターゲットにな
る人物はその道の第一人者であり、その言論表現を放置すると、時の政府
のマクロ的な国家運営に甚だしい阻害要因となる能力を有している。従っ
て国策捜査とは、国民に時代が変わったことを印象付けるために、旧時代
を代表する人物を、もはや不要な者として、あるいは新しい時代に有害な
考え方を持つ者として、その人間を象徴的な人身御供とする国家の断罪行
為と言えるだろう。

 植草氏の逮捕劇を、有名な経済アナリストが痴漢性癖で捕まったと世間
が面白おかしく騒いでいた時、私は彼の経済学者としての自己同一性と、
小泉政権時代の国家的グランドデザインとの整合性という観点からその逮
捕劇を捉えなおしてみた。植草氏は経済学者ではあるが、その経済学的
視点は徹底して政治に反映されてこそ意味があると考える実戦派エコノミ
ストに位置している。つまり植草氏は衒学的な経済エッセイストではなく、
国家の政策中枢レベルに影響を与えうる提言と予見ができる非常に稀有
なタイプのエコノミストなのである。

 以上の視点から、植草氏の二度にわたる逮捕事件を読み直すと、報道
機関によって大衆に印象付けられた彼の「常習的な痴漢性癖」という人間
像はにわかに怪しい様相を帯びてくるのである。植草氏の病的常習性を強
調する評論家には宮崎哲弥氏や弁護士の橋下徹氏などがいる。彼らは植
草氏の病的常習性を指摘するに止まらず、薬による治療にまで言及してい
るから悪質である。植草氏の病的常習性を確認するようなできごとは何もな
い。このような一方的な決め付け表現がテレビや週刊誌で大手をふるって
まかり通る現実がある。しかし、冷静に振り返ってみればわかるが、二度
の植草事件に共通することは、それぞれの初期報道に植草氏側の弁明が
ほとんど出てこなかったということである。

 二度とも、警察からマスコミにリークされた第一次情報に強いバイアスが
かかっていたのである。その情報ソースが第二次情報として、各メディアか
ら発表された時は、植草氏側の弁明がほとんどないに等しい状況であっ
た。この初期報道のバイアス、つまり報道に反映される加害者と被害者の
言い分の非対称性を見ると、この事件には検察あるいは警察を通して、あ
る種の策謀が働いたことを充分に思わせるものがある。このメディアの偏
向報道に関しては、「植草事件の真実」という本に、私が詳しく書いてある。


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2007年2月15日 (木)

リチャード・コシミズ本・第二版情報

★リチャード本情報          <<作成日時 : 2007/02/13 22:44 >>

http://richardkoshimizu.at.webry.info/200702/article_18.html

( 改訂版 植草事件に関する項目追加!!)

Vfsh0128

「リチャード・コシミズが暴く 911自作自演テロとオウム事件の真相」 
第二版

第二版は、204ページ (初版は190ページ)。なにが増えたかというと、

1)安倍鮮三の犯した悪行と今後の悪行の予定
2)植草事件に見る日本の腐敗度

が追加になったわけです。あとは、間違いを訂正したのと、若干、記述
内容に手を加えました。(指摘のあったところをわかりやすくしたなど。)

1)第二版をご注文の皆さん、2月14~16日には到着します。郵便受け
  から速やかに回収して、貪り読んでください。長らくお待たせしてすい
  ませんでした。

2)紀伊国屋新宿本店には、実は最後の第一版(オレンジ色の表紙)が、
  まだ数冊、平積みとなっています。(おそらく、まだある?)初版マニ
  アの方は、これが最後のチャンスです。明日以降は、第二版(青の
  表紙)となります。

3)鹿児島・熊本の皆さん、リチャード本第二版30冊が、2月16日、鹿児
  島阿久根のブックセンター書林に入荷します。第三セクターに乗って、
  買いにいってください! 

4)稀少本専門店、模索堂さん(新宿)にも第二版を置いてもらうことにな
  りました。明日以降です。よろしく。

5)2月17日の東京秋葉原の講演会でも、第二版を販売します。本だけ
  買いに来てもいいですよ。(人気トップの植草本も販売あり。)尚、
  講演会では、ワールド・フォーラム8,12,1月講演DVDも販売。(2500円)
  あとはちょっとややこしいので当日説明。

来てください!

6)リチャード・コシミズ後援会「独立党」の正式サイトは、こちらです。

http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/dokuritu.htm


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2007年2月13日 (火)

アマゾンにレギュレーション?!

 さっき、楽天ブックスのランキング・サイトを覗いたら、『植草事件の真実』
がデイリーでトップに、ウィークリーで第二位のランキングになっていた。ま
た、本の総合ランキング・ベスト100ではやはり一番になっていた。

http://books.rakuten.co.jp/RBOOKS/08gakumon/best.html

 しかし、ネットの大手であるアマゾンでは『植草事件の真実』を検索しても
まったく出てこない.。楽天ブックスでは上位に出ても、アマゾンで存在しな
いのはなぜだろうか。我々が知らない業界特有の慣行があるのだろうか。
それはそれとして、アマゾンでは時々おかしなことが起こるようである。

 たとえば、一昨年は関岡英之氏の「拒否できない日本」(文春新書)とい
うアメリカ発「年次改革要望書」の実態を鋭く暴いた画期的な本が、定価
700円に対して、稀少本扱いと言うのか、かなり高額の値段が付いてい
た時期があった。この本は2004年に初版本が出ているが、内容はアメリ
カによる日本改造の実態であり、それは衝撃的なものである。

 ところが発売の翌年、つまり一昨年の2005年は郵政民営化騒動が起
きた年であり、この本はアマゾンでは値段的に入手しにくい状況になって
いた。しかし、今は適正な値段で手に入る。この値段の変動は郵政民営
化騒動の時局と何か関わりがあるのだろうか。アマゾンでは、アメリカの
対日政策の真相が書いてある本は、対米関係が微妙な時期に差し掛か
ると販売したくないのだろうか。

 これと似たようなことが、植草一秀氏の本『ウエクサ・レポート 2006年
を規定するファクター』
にも進行しているようである。今見たら3000円
よりになっている。これは定価が1800円である。この本はたしか2005
年の12月に出た本だから、まだ一年ちょっとしか経っていないし、出版
社に問い合わせたら在庫は相応にあるそうだ。なぜ稀少本扱いになって
いるのだろうか。

 勘ぐれば、この本の内容には私が本ブログで展開しているように、完全
に米国の傀儡と化した前政権への批判が随所に出ているからであろうか。
アマゾンはディープな米国批判に関する書籍に関しては、その販売にレ
ギュレーションをかけているのであろうか。ちょっとした謎である。


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2007年2月12日 (月)

売国プロジェクト政権に憎まれた植草一秀氏

 

  ◎りそなインサイダー取引に関わる経済疑獄は、
  これから起こる郵政資金奪取のプロトタイプと
  なっている

   
  小泉純一郎前総理や竹中平蔵前金融相は、ミルトン・フリードマンが志
向した新自由主義の重要な掟である「自己責任原則」を旗印に構造改革
をぶち上げ、国民を扇動して強引に売国型の政策を推し進めてきた。その
結果はどうなったのか。老人や身障者への福祉の圧倒的後退、極端な所
得格差社会の現出、毎年三万人を越える自殺者は減る気配がまったくな
い。そして投機しか眼中にない外資の跳梁跋扈。我々の国はいったいど
うなってしまったのだろうか。

 小泉政権の欺瞞性を最もあざやかに示していたのが、2003年5月のり
そな銀行の国家救済であった。小泉・竹中の構造改革路線は、この銀行
の救済に預金保険法第102条を適用したが、その第一項には第一号措
置と第三号措置があり、彼らは第一号措置を選んだ。小泉政権の頑強な
基本理念から言えば、当然第三号措置が取られていなければならなか
った。しかし、彼らはあえて第一号措置をもってりそなに政府資金を注入
したのである。植草氏はこれがこの内閣の欺瞞性をあらわす象徴的な
事例であると語っている。以下は植草氏の説明である。我々一般人に
は耳慣れない世界の話であるが、重要なので我慢して読んでいただき
たい。

****************************************************

  預金保険法102条は「抜け穴規定」を有する条項である。第1項に第1
号措置と第3号措置が規定されている。当該金融機関の自己資本がマ
イナスに転じた場合、すなわち債務超過の場合は「破綻処理」になる。こ
れが第3号措置である。これに対して、自己資本が規定を下回っても、プ
ラスを維持する場合は「破綻前資本注入」が実施され「救済」される。こ
れが第1号措置である。りそな銀行には、第1号措置が適用されたので
ある。

 この措置が人為的に選択されたことは間違いない。「破綻処理も辞さ
ぬ」と言いながら、結局は「破綻処理ではない救済」が選択されたのだ。
この時点でりそな銀行を破たん処理していたなら、日本は間違いなく「金
融恐慌」に突入したはずである。この懸念があったからこそ、株価は暴落
していたのだった。(植草一秀 2006.06.25第10回「失われた5年-小泉
政権・負の総決算(4)」より抜粋)


***************************************************

 りそなの場合、この「預金保険法 第102条」において、自己責任原則で
行けば、第3号措置の「破綻処理」を適用するはずの局面であった。ところ
が、実際は第1号措置の「破綻前資本注入」が適用されたのである。政府
のこの判断を、金融恐慌を回避するための切迫した応急的措置であり、そ
れは当然な対応だったと片付ける人もいた。

しかし、その考え方こそ、日本人が金融政策に疎いということと、小泉構造
改革の欺瞞性を自覚していないことの何よりの証拠なのである。単純に目
の前の現象を見て、りそなが破綻すれば連鎖的に他の有力銀行に波及す
るから、それは何としても未然に防がなければならない、だからこの場合、
第1号措置の「破綻前資本注入」はやむを得ないではないかと見た人が圧
倒的に多かった。

 問題はそこである。考えてみてもわかるが、もしそうならば、なぜそこまで
株価の暴落を起こす政策を掲げ、それを強硬に実行してきたのかという、
それまでの経緯への当然の疑念が湧いてくる。なぜなら、それこそが小泉
構造改革の基本テーゼだったはずである。国民がマインドコントロールを
受けていることは、その疑問をスルーしてしまったことによくあらわれてい
た。
 
 小泉構造改革の骨子である自己責任原則、この一大テーゼを平然と自
己瞞着しておいて、次のステップに進むこの政権の異常な本質こそ、小泉
政権の売国姿勢を端的に示しているのである。国民はそのことをきちんと
問いかけるべきであったのだ。実際のところ、小泉政権はその時点で完全
な政策上の失敗を露呈していたのである。

 金融恐慌は最も恥ずべき政策の失敗であり、国民を窮地に陥れる大罪
である。それを回避するために使った手法が、小泉たちが忌み嫌っていた
ケインズ的財政出動であった。簡単に言えば「大きな政府」の手法である。
ここに小泉構造改革のテーゼは完全に崩壊し、内閣総辞職になるはずで
あった。ところが、マスコミはりそな救済劇の肝心な真相を世論に訴えるこ
とをしなかった。そのせいで、小泉たちは政権崩壊を免れたのである。

 小泉ー竹中構造改革路線がいかに欺瞞の政策であったのか、それは
「構造改革」という曖昧な言葉で国民をごまかし、その本質が実は、アメリ
カが1970年代に国内政策として完全に失敗した典型的な「新自由主義
(ネオリベ)」による経済政策であったことをひた隠しにしていたことにある。
この政権運営を司った当事者から、小泉構造改革がネオリベ・モデルであ
ることは一切説明されていない。あたかも、そのことが知られることを忌避
していたかのように。しかも、マスコミは良心的な経済学者がテレビなどで、
小泉構造改革の本質がネオリベだということを説明することを、一切封じ込
めたのである。

 りそな救済劇には植草氏が指摘するように、政府がらみ、米国外資がら
みの巨大なインサイダー疑惑があるが、自己責任原則をなりふりかまわず
放棄したことに、小泉政権の欺瞞の本質が露呈されているのである。りそ
な救済劇の本質を彼らは必死にごまかし、臆面もなく政権を運営し続けた。
二年後に目論む郵政民営化法案の実現に向けて、彼らは政策の失敗を
体よく糊塗し続けたのである。私はほとんど確信に近い思いがある。植草
事件は明らかにでっち上げであり、「国策捜査」そのものである。その国策
捜査の理由は、前政権が植草氏に「りそな騒動」の背景を経済政策的に
語って欲しくないところにある。

 もし植草氏がことの真相を語って、小泉政権の欺瞞性を国民に知ら
せれば、反小泉、反竹中の世論が沸き起こり、内閣は引責総辞職す
るか、無力化に追い込まれていたはずである。そうなると、小泉政権
は「年次改革要望書」に従って行う郵政民営化の約束をアメリカに対
して果たせなくなる。小泉政権の主たる目的は郵政民営化にこそあ
ったからである。だからこそ、その最大の妨害因子として働く、植草
氏の言論を止めたのである。それが、品川駅構内における手鏡でっ
ち上げ事件の真相である。

 そして、今回の京急電車の痴漢でっち上げ事件であるが、これも郵政民
営化と大いに関係がある。郵政事業は、2007年10月に郵便事業会社、郵
便局(窓口ネットワーク)会社、郵便貯金銀行、郵便保険会社の4事業会社
に分割し、持ち株会社化する。そのあと2017年までに完全民営化に移行す
ることになっている。四事業会社に分割されて持ち株化するのは2007年の
10月からである。植草氏が痴漢冤罪に遭遇したのが、2006年9月、このタ
イミングも重要である。

 植草氏は品川駅での事件があってから、また精力的に活動を再開し、小
泉政権のペテン性とりそなインサイダー疑惑を展開し始めていた。ここで、
彼の政権批判が世論に伝播した場合、アメリカの悲願である郵政民営化
が瓦解するおそれがあったのである。つまり、植草氏の言論によって、国
民が郵政民営化の真相に気付き、この法案の執行を停止、振り出しに戻
すおそれがあった。そのリスクを回避するために、植草氏は再びその口を
封じられてしまったのである。

 植草氏は品川駅で手鏡事件を仕立てられ、捕縛の仕打ちを受けたのが
2004年4月8日である。ここである出来事と奇妙な一致を見せていることが
ある。郵政民営化に関わる年次改革要望書(The U.S.-Japan Regulatory
Reform and Competition Policy Initiative)が正式に日本に提出されたの
は2004年の10月14日である。しかし、そのことについて米国と日本政府
が頻繁に会うようになったのはもっと前である。竹中平蔵が率いた「郵政
民営化準備室」とアメリカの政府及びその関係者が、18回も重ねて協議を
行ったのであるが、その第一回目が、なんと植草氏が手鏡事件として嵌め
られた4月からなのである。これは偶然の一致ではない。(小林興起氏の
「主権在米経済」参照)

 日本郵政事業の民営化を熱烈に要望したアメリカが、その実現を阻む
最も熾烈な抵抗勢力として筆頭に掲げた人物、それはいったい誰であった
だろうか。私は確信を持って言うことが出来るが、その人こそ植草一秀氏な
のである。よく考えてみて欲しい。植草一秀氏がこの時点で、もし、小泉構
造改革の欺瞞性を叫び、りそな実質国営化顛末の真相を国民に向かって
解説していたとしたらどうだったであろうか。それは小泉政権の欺瞞性を国
民に完璧に悟らせてしまうことに繋がったのだ。そうなれば小泉内閣は必
然的に引責総辞職を迫られる。これを阻止するために、アメリカと黄色い肌
の米国エージェントたちは植草氏の口を封じたのである。

 そして、その冤罪の衝撃から、山崎行太郎氏や日本経済復活の会等に
よって引き上げられ、やる気を回復した植草氏が、再び小泉政権の巨大な
欺瞞性を語り始めたのが昨年の前半から京急の痴漢でっち上げで逮捕さ
れた9月まである。この時期に植草氏が再びでっち上げ事件に遭遇したの
は、政権が安倍晋三に移り、またもや今年の10月に決行される郵政民営
化稼動に向けての大事な時期であるからである。

 つまり、植草氏が嵌められた二度の冤罪事件を時系列的に眺めてみる
と、米国とそのエージェントたちが、郵政民営化遂行に向けて計画を押し
進める大事なタイミングであったことが見えてくる。国民は目覚めなければ
ならない。小泉構造改革はペテンであり、郵政民営化は国富流尽の目的
で拙速に行われた売国法案であることに気が付かねばならない。植草氏
がりそな問題を重点的に語ったのは、前政権の構造改悪を国民に知らせ
ることによって、この国益毀損の政策を停止させ、国民利益の確実な政策
に切り替える世論を巻き起こすためだった。植草一秀という人物は間違い
なく救国のエコノミストなのである。

 この人物を無実の罪のまま放置したら、国家の行く末は暗澹たる荒廃に
向かうだけである。国民が自分たちや子孫の幸福を願うなら、植草一秀氏
をいわれなき不名誉の身から解き放ち、なるべく早急に彼を国政の壇上に
乗せるべきである。これは個人の問題ではない。植草氏を救出することは、
今陥っている国家の悪しき潮流をよい方向へ変えることにもなる。ことは一
経済学者の命運だけではない。彼の名誉を取り戻すことこそ、国家の命運
を正しい方向に戻すことに繋がるのである。

 日本人には悠久の時間が培った日本人特有の生き方があるのだ。経済
もその流れから、日本特有の経済体制が生まれて当然だ。これをネオリベ
で破壊することはけっして許されることではない。したがって、日本固有の
経済構造を、アメリカの介入で全否定することは、国民の不幸を招くだけで
あり、日本の未来がつぶされてしまうことになる。

植草氏の問題にはこういう重要な背景があるということを汲んで欲しい。


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2007年2月11日 (日)

旧弁護団解任の背景を推測

  以下はリチャード・コシミズさん率いる独立党の党員Fさんが、第四回
公判を傍聴して書いた弁護士解任の記事である。党員Fさんとは一度
お会いしたことがある。

*******************************************************

■植草裁判に新展開 

「不信の」弁護団解任し、意見陳述仕切り直し  2007年2月09日 
 
電車内で痴漢行為をしたとして、東京都迷惑防止条例違反の容疑に問
われていた元大学教授植草一秀被告(46)の公判が、9日、東京地裁に
て行われた。元々被告質問が予定されていたこの日の審理だが、植草
被告が前日8日付けで当初からの弁護人4人を解任。これにより、新しい
弁護団が結成されるが、次回2月28日公判では、これまでより被告の真
意に近い形での冒頭陳述が行われると見られ、注目される。

 植草被告は8日自身のホームページ上で、旧弁護団とは「弁護方針を
巡って当初より溝を感じていた」と表明。旧弁護団の解任が遅れた理由
としては、勾留期間が同種の容疑としては異例の4ヶ月の長期に及んだ
結果、裁判を戦う上で必要な情報が被告自身に欠落していたことを挙げ

ていた。

 3~4人で編成される見込みの新弁護団だが、この日の公判にはその
うち一人のみ出廷。次回に行う主張・立証方針陳述について「新たな証拠」
提 出の予定にも触れた上、冒頭陳述30分、全体で2時間程度の所要時間
が必要との見通しを述べたところ、神坂尚裁判長が「え?そんなにかかり
ますか?!」と 驚きの声を漏らす場面があった。
 
 この日の審理を見る限り、「現状すでに、被告人質問に移るのも十分な立
証状況」というのが裁判官、検察側とも共通の見解。それだけに新弁護人
による長時間の冒頭陳述は実に意外との反応だが、同裁判長による「遅く
とも開廷45分後の2時までには終えて欲しい」との要望に対しては、新弁護
人は 「努力する」と答えるにとどまった。

 植草被告の冤罪の訴えを支援する、パロディストのマッド・アマノ氏:
「今までの弁護士は、やる気のない態度があまりに露骨だった。(今回の
弁護士解任は)
本人(=植草被告)が思い切って、よく決断したと思う」
 
     党員F

http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion2/top_test3.html

*******************************************************

雑談日記で、SOBAさんが植草氏による弁護団解任の動機を推測してい
た。

http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2007/02/post_9952.html

ここでSOBAさんの奥さんがいみじくも言及されているように、弁護団は、
ネットに支援の広がりが起こっていたことを正確に伝達していなかった事
が大きいと思う。これについては、私たち「支援の会」独自の情報からも、
そのことをある程度は裏付けることができる。

 我々支援の会の一人が、旧弁護団のある弁護士に時々電話を入れて
いたが、最近になって突然、彼の電話番号が拒否扱いされ、彼は「何とい
う侮辱だ」とかなり憤慨していた。この事実は、この弁護団が我々「支援の
会」をあからさまに嫌っていたことを裏付ける証左以外の何物でもない。加
えて彼らが「私服の男性」発言を不自然にスルーしたことも私は絶対に忘
れない。

 なぜ彼らが「私服」を無視したのか、推測ではあるが、彼らは人権派弁護
士であるから、「私服」などという「国策捜査」の領域に関する内容には努め
て触れたくなかったのかなと思う。SOBAさんがずばり指摘してるように、こ
の植草氏の「でっち上げ」事件は政治的な背景を展望できる弁護士さんじゃ
ないと無理である。

 正直に言ってしまえば、植草さんは優しい方だとか、子供の頃は弱者を
いたわる子供だったなどと言って擁護している者たちにとっては手に余る背
景を有している。同様に弁護士について言うなら、これは人権感覚の弁護
範疇だけでは手に負えない深さと重さを持っているのである。植草さんの
背景には政治的国策的な思惑がずっしりと絡んでいる。

 つまり、時の権力に嵌められたという前提でのみ、この事件は初めてそ
の全貌を現すのである。


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飯島さん、植草氏へのお詫びを忘れていませんか?

◎飯島さん、これって贖罪意識なのかな?!

*************************************************

ゲンダイ・ネットより

2007年02月09日 掲載
飯島元秘書官“夕張市長選出馬”

 財政破綻した北海道夕張市。4月に市長選があるが、手を挙げる人がい
ない。そんな借金自治体の首長に小泉前首相の秘書官、飯島勲氏(62)が
名乗りを上げた。本人は日刊ゲンダイ本紙の取材に「誰も立候補しなけれ
ば、私が立つ。政府は再チャレンジと言っているが、霞が関の役人は知ら
んぷり。再建のお手伝いをしたい」と話す。
************************************************

何なんだ、いったい、このニュースは?この話をカーラジオで聞いたとき、
私はしばらく唖然とした思いがした。飯島勲前書記官と言えば、小泉政権
の「陰の実力者」と呼ばれた男である。竹中平蔵氏や中川秀直氏などと同
様に、小泉官邸主導型政治の重鎮の一人であった飯島氏が、憂国の思い
から夕張市の建て直しを自ら働きかける言明をした。

飯島氏による夕張市再建表明は一見、素晴らしい心がけのように見える
が、はたしてそういうものなんだろうか。私にはとっては、これほど奇異な表
明はない。なぜなら、彼は小泉ー竹中構造改革プロジェクトの政策推進に
あたる中心的存在だったはずである。今から二十年くらい前、日米構造摩
擦が激化していた当時、軍事的には完全な片務性にあった我が国だが、
少なくとも経済に関してはまだ米国に対して双務的な関係性を保持してい
た。つまり、当時はまだ言いたいことは言えたのである。

 ところが、プラザ合意辺りからその関係性は露骨な非対称性を示し、宮沢
クリントン会議からその関係は完全に崩され、片務的な傾向がいっそう強く
なっていた。そして小泉政権に至っては、日本政府は完全に米国の傀儡政
権と化した。片務的というよりも完全に強制指令書と化した「年次改革要望
書」をご本尊と崇める小泉政権は、国民にはそのことを隠し、ひたすらブッ
シュ政権に貢ぐような形でその年次改革要望書の実践に邁進したのであ
る。

 この「小泉ー竹中構造改革プロジェクト」の実態が、「年次改革要望書推
進プロジェクト」であったことは間違いない。このプロジェクトを政治力学的
な推進本部として動かしていたのが飯島勲元秘書官その人であったと私
は記憶している。このあとすぐに言いたいことはあるのだが、ダイレクトに
言ってしまうと私が危ないのでやめる(笑)。少なくとも(笑)、官邸主導を強
引に推し進めてきた人物たちが、政敵やアンチ竹中経済政策を提言する
人物を疎ましく思い、何らかの『対策』を講じたとしても不思議なことではな
い。(う~ん、自分の表現が歯がゆいがこの程度にするのは仕方がない、
笑)

 官邸主導の中心に居た勢力が、アンチ小泉を標榜する者へ『ある種』の
攻撃を仕掛けた可能性はないのか?つまり西村眞悟議員やエコノミストの
植草一秀氏の活動を封じた可能性はないのか、という捉え方が、私がここ
で展開する「国策捜査」疑惑の中心になっている。飯島氏がそれに加担し
たとはもちろん言わないが(笑)、彼がそういう「アンチ小泉対策」と、まった
く無縁だったとは私には到底思えないのである。知る立場にあったんで
は?と考えるのが妥当だろう。だが、あくまでも可能性としてだが。

 その飯島氏が新自由主義社会の現象的荒廃として最初に出てきた地方
都市の再生を願うことが、私には奇妙としか映らない。夕張市を建てなおす
憂国心情がおありなら、そもそも小泉政権が進めた新自由主義(ネオリベ)
政策に対し、秘書官の立場から反対意見を小泉総理に提言するか、自ら
官邸を去るべきであっただろう。ところが実際は官邸主導を強力に推し進
めてきて、安倍政権に移行した後で財政破綻した夕張を復興するプロジェ
クト構想をぶち上げても説得力はまったくないのでは。

 それって、自らが犯したことに対する贖罪意識なのか。小泉政権は徹底
した反国益政策であった。卓越した洞察力を持つ植草氏は、その姿勢に
初期から気付いていた。植草一秀氏は果敢にも小泉政権を批判し続けた
のである。そして彼は国策捜査の毒牙にかけられた。飯島さんご自身が、
植草氏を嵌めた張本人とはもちろん言わないが、少なくとも、当時の官邸
が、反小泉派に何らかの対策をした事実は知る立場にあったと思う。

 したがって、もしそうなら国益擁護を基本にして経済政策提言を行なって
いた植草さんに謝罪する方が先なのではないだろうか。「夕張破綻」に贖
罪意識があるのであれば、西村眞悟氏や植草一秀氏にお詫びを表明す
るのが自然なことではないのかなと思う。地方都市の荒廃はネオリベ実
践の帰結である。米国に隷従してこれを推し進めた者たちが悪いのであ
る。その勢力の中心に位置していた飯島さんが、ネオリベ推進の責任を
夕張市再建に向けるなら、それに併行して、植草氏に謝ってもらいたい
と思う私なのであった。

 昨日、東京へ出たとき、帰りに八重洲ブックセンターを覗いてきた。政治
社会のコーナーには竹中平蔵氏の本や飯島勲氏の本が所狭しと置かれ
てあった。あなた方はいったい何をそんなに高らかに謳歌したいのか?
大和朝廷の国にネオリベ体制を敷設した喜びなのか?アマテラスの怒り
を畏れる心はないのか?

夕張市を建て直すのはけっこうだが、その前に植草氏の名誉を立て直
してもらいたい。


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2007年2月10日 (土)

これまでの弁護団を解任!

http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20070209-154012.html

痴漢・植草被告が弁護人を解任

 電車内で女子高校生に痴漢行為をしたとして、東京都迷惑防止条
例違反罪に問われた元大学教授植草一秀被告(46)の公判が9日、東京
地裁で開かれ、神坂尚裁判長は植草被告が8日付で弁護人を解任して新
しい弁護人を選任したとして、9日予定していた被告人質問を3月28日に
延期した。

 2月28日にも公判を開き、新たな弁護人が冒頭陳述を行う。

 植草被告は昨年9月13日夜、京浜急行品川-京急蒲田間を走行中の
電車内で、女子高校生のスカート内に手を入れ、下半身を触ったとして起
訴された。昨年12月の初公判で無罪を主張した。

[2007年2月9日12時18分]

*************************************************

昨日は第四回目の公判が開かれた。所要時間はわずか30分である。今
までの弁護団が解任された。四人の弁護団解任の経緯は知らないが、私
にはその理由はおよそ見当が付く。

 第二回公判で、目撃証人が思わず発した「私服の男性」について、弁護
人たちは何の追求もしなかった。このことだけでも私には彼らに相当の疑
念と不服を持っていた。この時、もし勝利を意識する弁護士であったら、
「私服」を徹底して追及するべきであった。

 植草氏の事件は前政権筋による明らかなる「国策捜査」であり、背景は
大掛かりである。これに弁護団が怯惰した、あるいはその他の理由で植草
氏の弁護にやる気を喪失したという感じであろうか。しかし、今後はよい方
向に行ってくれればと切に願う。

 植草事件に対して、これはただの冤罪であり、深い政治的な背景がない
と頭ごなしに思い込んでいる自称「擁護派、支援派」に対しても私は強い
疑念がある。わずか二年半の間で、二度も個的な冤罪が生じる確率は極
度に低いはずである。

 それが実際に起きたことに対して、通常の個的な冤罪だと主張し続ける
根拠とはいったいなんだろうか。その連続性を謀(はかりごと)以外のどう
いう説明で納得させるというのだろうか。このただの冤罪説で植草氏が蒙
った「常習的性癖」説のイメージ操作をどうやって払拭するというのだろう
か。

 このタイプの擁護派の中には、国策捜査に疑念があるかのような書き込
みをしている者がいるが、それならば、通常の意味における冤罪が二度も
起きた事実について正当な理由を提示して欲しいものである。それを提示
し得なければ、植草氏自身の「性癖による連続的犯意」説を覆すことは困
難だと私は思う。

 まあ、落ち着いたら、このタイプ、つまり情動的擁護派のいい加減さと有
害さについて、思いっきり叩いてみようと思っている。


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2007年2月 9日 (金)

リチャード・コシミズ氏講演会で、マッド・アマノさんが植草事件を語る!

2007年2月17日、リチャード・コシミズさんによる東京単独講演会におい
て、パロディ作家のマッド・アマノさんが特別ゲスト出演して「植草問題の
真相」について語ることになった。コシミズさんの新年会で、コシミズさん
とマッドさんが笑いながら「講演会でコラボしましょう」と言っていたから、
冗談だとばかり思っていたが、思いがけなく御両者のコラボレーションが
実現できて嬉しい。

 マッドさんは品川手鏡事件の時から植草一秀氏を信じ、その強い正義
感から彼を応援しているお人である。最近では、本ブログの管理人であ
る私も、マッドさんから世の中の多岐にわたる貴重な話題を伺う機会が
増え、大いに光栄に思っている。パロディ作家というものが、その作品一
つを表現するために、どれほど深い考察を行い、裾野の広い分野を渉猟
する博識を持たなければならないか、マッドさんにお会いして初めて知っ
た次第である。以下の記事はマッドさんの「THE PARODY TIMES」の
TOPICSから転載し、本の写真を付加したもの。

 『植草痴漢冤罪「デッチアゲ」事件の真相』

(1)演題 「痴漢冤罪事件の真相 

★<痴漢容疑>という名の恐ろしいワナ 
★植草氏が権力に狙われた真の理由」(30分)

   講師 マッド・アマノ

一回目の逮捕から「植草氏はやってない」と信じ、冤罪事件というよりむし
ろ「デッチアゲ逮捕=国策捜査」と睨み植草氏を支援している。
なぜ植草氏は4カ月という長期に渡る拘留を強いられたのか?それには明
確な理由がある。1月25日、2月9日の公判傍聴の模様などを含めて真相
に迫ります。

当日、以下の書籍を即売します。

 ★「リコール!小泉鈍一郎」(マッド・アマノ/著)特価1000円
     (※この本は、安倍さんが幹事長時代に通告書を突きつけてきたとい
   ういわくつきの本である。2004年の8月に刊行されているが、この時
   期の小泉政権をここまでパロディにする著者の胆力には驚く )

     Photo_23

  ★「植草事件の真実」(植草一秀事件を検証する会/編著)ナビ出版 
(緊急出版!)

        Photo_25

(2)演題
「リチャード・コシミズが解析する日本と世界の秘匿された構造」(2時間)
講師 リチャード・コシミズ
主 催 リチャード・コシミズ後援会 「独立党」
911とオウム事件は、世界を裏側から支配する強大な権力が、その醜悪な
姿を少しばかり露呈した瞬間でした。911とオウム事件を深く追及すること
が、彼らの更なる目論見を暴き、阻止し、人類を危機から救うことにつなが
ります。数百年にわたって、彼らに騙され、殺戮され、搾取されてきた我々
大衆は、子孫のために、今、なにをなすべきか、一人一人が自覚し、行動
に移さなくてはなりません。もう余り時間の余裕はありません。

リチャード・コシミズが、2時間たっぷり時間を使って、911とオウム事件を解
析し、背後に潜む巨悪の正体と目論見を暴きます。過去の講演では時間
切れで、解説しきれなかった部分にもたっぷりと時間を割き、なにが世界の
真実であるのかを明確にします。2時間の講演のあとには、参加者の方か
らの質問の時間も一時間弱設けてあります。
日 時  

2007年2月17日 (土) 14:30 ~ 17:30 

場 所 

TKP秋葉原ホール (東京都千代田区岩本町3-3-6井門岩本町ビル
7F)

アクセス  

JR秋葉原駅 昭和通口徒歩5分 都営新宿線 岩本町駅 A4出口徒歩
1分 東京メトロ日比谷線 秋葉原駅4番出口 徒歩4分 MAP

定 員  

150名 (満員の場合、受付を締め切らせていただくことがあります。)

参加費用 

①事前予約 一般 3000円 。
②事前予約 賛助会員 3000円 (後援会入会の方。ただし、当日、会場
  にて500円返金しますので、実質2500円となります。)。
③当日参加 一般 4000円 (当日一般参加の方は、匿名で入場できま
  す。ただし、事前予約で満員の場合はご容赦ください。) 
④当日参加 賛助会員 4000円 (後援会入会の方。ただし、当日、会場
  にて500円値引きしますので、実質3500円となります。) 

詳細は「リチャード・コシミズ」でネット検索願います。

以上、リチャード・コシミズ後援会「独立党」事務局

http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/2.17kouenkai.htm


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2007年2月 8日 (木)

アメリカの悪を見抜けない日本

 普段お世話になっているMad Amanoさんからこういうメールが今届い
た。ある弁護士さんからMadさんに来たメールだそうです。

******************************************************
         (転送・転載は大歓迎です)
ズビグニュー・ブレジンスキーといえばアメリカ・カーター大統領の補佐官だ
った人物としても、国際政治学者としても著名ですが、彼が去る2月1日、
米上院外交問題委員会で、ブッシュがイラン侵略の口実を探している、9.11
のようなテロが発生するかもしれない、と警告を発しました。アメリカの大マ
スコミは、無視を決め込んでいますが、今、このニュースが世界を駆けまわ
っています。詳細は、以下にアクセスしてください。

http://www.asyura2.com/07/war88/msg/499.html
http://www.asyura2.com/07/war88/msg/525.html
http://www.asyura2.com/07/war88/msg/593.html

 それにしても、このようなアメリカの動きを知れば、このようなアメリカと運
命を共にするという憲法改悪がいかにナンセンスかはよくわかると思いま
す。あの小林よしのり氏が憲法改悪反対に立場を変えたようです。

『SAPIO』2月14日号68頁で、「憲法改正が『自主独立』のためでなく、『日米
同盟の強化』のためのものであり、米国の属国化を進めるものならば、わし
は『護憲派』にはならないが、『現時点での憲法改正に反対』の立場に回ら
ねばならない!」と述べています。誠に立派な発言だと思います。

*********************************************************

私自身も「日米同盟」強化のための憲法改正は大反対である。なぜなら
国民同胞の自衛隊がアメリカの傭兵と化し、アメリカのために血を流すこ
とが歴然としているからである。

 これは自主憲法策定の精神から思いっきり背反している。国家国民の
防衛を前提にしないで、日米同盟という宗主国と植民地の結託同盟のた
めの憲法改正は亡国へ向かう急坂を滑り落ちるようなものである。

 同盟とは銘打っているが、その内実はカルタゴとローマ軍の欺瞞の関
係そのものである。この欺瞞の平和はカルタゴ(日本)滅亡の前奏曲な
のである。


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「植草事件の真実」増刷決定

 新刊本「植草事件の真実」は、思いのほか売れ行きがよくて、各地で
売り切れた書店が続出したため、今日、出版社の方で増刷を決めました。

 これからは求めやすくなると思います。楽天ブックスの「人文、哲学、社
会」ランキングでは、現在第3位になっています。

  http://books.rakuten.co.jp/RBOOKS/08gakumon/best.html

Photo_17

 裏側
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2007年2月 7日 (水)

詐術的構造変換の狭間で翻弄された植草一秀氏

 佐藤優氏の「国家の罠」を読んでみて初めて知ったが、可罰的違法性(か
ばつてきいほうせい)という言葉がある。「可罰的違法性を欠く」というの
は、刑法で刑罰をもって処罰する程度の違法性がないということである。他
人の畑から土を一握り持ってきたとか、時速40Km/hの道路で40.1Km/h
の速度で運転したとかいう範囲の超微罪のことを考える場合である。厳密
には違法性があるが、世間の常識では犯罪の範疇に入らないという類のも
のであるらしい。人間は日々生きる上で、こういうレベルの「微犯罪」は必ず
やっているものである。

 ところが、官憲がある人物を恣意的に逮捕したい時は、この可罰的違法
性の境界線というか、そのハードルを下げ、普段では世間が見逃すような
ことでも、犯罪としてむりやり確定する場合があるように思えてならない。そ
の法律的な厳密性がどうなっているのかわからないが、私のドシロウト的解
釈によれば、世間的には問題視されないような軽微な犯罪を、あえて恣意
的に拡大解釈することによって「立派な一人前の犯罪?」として持って行く
ことであろうか。

 私の頭のレベルでは、その説明はしにくいが、どこからが罰するに値する
犯罪と看做し、どこからがそうは看做さないという線引きは、実際的には法
律という厳密な物差しによるものではなく、その時々の世間の空気みたい
なものでファジーに変化しているように思えてならない。たとえば、最近、汚
職する奴らが増えてきたなぁという空気が強く出ていれば、議員さんがもら
う犯罪レベルの賄賂の額が引き下げられてしまうと感じている。

 一般的には、賄賂性があればその額如何にかかわらず、それは犯罪な
のであるが、10円や50円負担してもらっただけでは、世間的はそれを贈
収賄とは考えない。田中角栄の時代と現代では明らかに贈収賄の敷居は
変わっている。こういうことを素朴に考えると、ある人物に対し、またはある
出来事に対し、マスコミが恣意的に印象報道を行なえば、可罰的違法性の
線引きはそれによって変わってくるというのが私の見解である。

 専門的に法律をかじっている人には異論はあるだろうが、特に前政権下
において起きたこと、たとえば鈴木宗男議員や西村眞悟議員の逮捕の場
合は、本質論において、官憲がこの可罰的違法性を濫用した可能性は濃
厚だと私は感じている。鈴木宗男氏の場合は地元密着型の政治家で旧世
代的な政治家だと思われていた。

 完全な新自由主義体制を日本に敷設したい小泉政権から見れば、こうい
う土着的な日本型の政治家は邪魔で仕方がない。そこで、彼らを駆逐する
ために世間に対して行なったイメージ操作は、旧世代の政治家は利権をあ
さり、汚職にまみれた悪い存在だという印象付けであろう。小泉純一郎が
血道を上げた橋本派の一掃もそういう流れで行なっていた。さて、国策捜査
とは、佐藤優氏の著書を参考にして私流に言い換えれば、時代のけじめを
付けるために国家が行なう印象上の人身御供のことである。

 つまり、それなりの分野において、国策的にも影響を与えるような力量を
有する人間が、その時代の政権の方向性にとって阻害的性格を持つ場
合、その人間を悪の時代の象徴として、あるいは未来の時代には不必要
な人間として、世間に強くイメージ付けるために行なわれる人身御供が「国
策捜査」なのではないだろうか。それならば、なぜ私が植草一秀氏の二度
にわたる「でっちあげ」を国策捜査と位置づけたのか、説明をしなければな
るまい。

 簡単である。プラザ合意辺りから我が国の経済は米国の膝下に置かれ
る傾向が強まり、小泉政権下ではほぼ完全に米国の傀儡政権と化してし
まった。我が国を席巻した米国による奴隷化構造への変化は、GHQ時代
のような目に見える力の圧制ではなく、日本人自らの内発的意志で行なわ
れたかのように徐々に進行している。アメリカ「奥の院」の奸佞邪智は、日
本人から反発的なナショナリズムを惹起しないように極力注意深く行なわ
れたのである。それが関岡英之氏が指摘した「年次改革要望書」という日
米間の協議スタイルに端的に現われている。これを双務的だなどと言って
いる奴がまだ多いのには呆れ返る思いである。

 こういう流れの中で植草氏は亀井静香氏などと同様に、色濃く日本型経
済スタイルを踏襲する経済学者であり、横文字を使って申し訳ないが、日
本に残存する最後の正統派ケインズ主義者とでも言えるだろう。昨今の
日本は、グローバル・スタンダードを敷設する米国「奥の院」の知的戦略が
功を奏し、民族利益を色濃く内包するケインズ派の経済学者や政治家は
ほぼ完全に駆逐されている趨勢なのである。まさに経済学者の丹羽春喜
博士の言うとおりである。一昨年の郵政民営化総選挙で、構造改革という
「素晴らしい政策」に反対する悪の守旧派として、自民党の外へ投げ出さ
れた政治家にはこういうタイプが多かった。

 時代の変化には、自然に起こる流れと、もう一つは時の権力構造のパワ
ーゲームによって、恣意的に作られるものがある。今日本に起こっている
時代の変化は、明らかに米国発の意図によって起きていることにほかなら
ない。小泉構造改革とは、新自由主義経済体制へ日本の国家構造を変え
て、我が国の優良企業や優良資産を外国に安値で売り飛ばすためのシス
テム作りにほかならない。そのために日本の伝統文化や精神が根こそぎ
否定されかかっているのである。

 これが、我が国における時代の作為的変遷である。国民が騙されている
のは、この作為的構造変化が時代の自然な趨勢であると思いこまされて
いるところにあるのだ。この観点から植草氏のでっち上げ逮捕を考えてみ
ると、時代の詐術的構造がよく見えてくる。小泉や竹中は構造改革万歳を
大々的に喧伝したが、その内実が新自由主義(新古典派経済)であること
は一度も国民に説明しなかった。この事実は重い。なぜならそれを言えば
彼らが進める「改革」の詐術的構造が見えるからである。


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2007年2月 4日 (日)

映画『それボク』と植草事件との不思議な類似性

 昨日の朝、日本テレビの「ウェークアップ!ぷらす」という辛坊治郎氏が
司会をやっている番組で冤罪の話をしていた。 その中では、「痴漢えん罪
全国合同弁護団長」でもある弁護士の秋山賢三氏が言っていた。痴漢の
裁判では、裁判官は被害者の女性だけの供述を取り上げ、被疑者の言い
分はまったくと言っていいほど無視される場合がほとんどであると。私はこ
の見解に植草氏が陥った出口なき迷路を思いやった。

 この番組では、今ヒット中の映画、周防正行監督の『それでもボクはやっ
てない』を取り上げていた。冤罪被害について、辛坊治郎氏に何名かのゲ
ストコメンテーターが意見を聞かれていたが、その中に自民党の世耕弘成
氏もいた。彼は「マスコミも悪いんですよ!」と語っていたが、私はその物言
いに物凄い違和感を感じ、思わずテレビに向かってツッコミを入れていた。

『完全官邸主導の前政権中枢にいて、マスコミ対策を一手に引き受けてい
たのは誰だったんだ?せこうさん、あんただろうが。そのあんたがマスコミ
が悪いなんて今更言うのかよ?』

 竹中平蔵氏率いる経済政策の基本スタンスは、米国発の強制指令書と
も言うべき「年次改革要望書」に則った構造改革であった。ずばり言うなら、
これは米国による第二の日本占領政策にほかならない。この年次改革要
望書の要望事項をつぶさに見てみると、これはM・フリードマンをモデルに
した完全傾斜配分型の構造転換なのである。いわば、日本の社会体制を
新自由主義経済へ塗り替えるマニュアルである。その目的は日本国富の
アメリカ流出システムの構築にある。

 小泉政権の本質が米国の傀儡政権であったことは疑いのない事実であ
り、世耕さんはその広報宣伝マンだった。その傀儡政権の国民に対するイ
メージ付与を担当していた世耕さんが、周防監督の「それボク」映画のヒッ
トで話題になった冤罪について、なぜゲスト出演していたか、私は気になっ
た。彼の出演目的は、穿って考えれば、番組の話題が植草事件に及ばな
いようにレギュレーションをかけることではなかっただろうか。

 この番組を見て触発され、私は矢も盾もたまらなくなって、『それでもボク
はやってない』を観に行ったのである。ひと言で言えば非常にリアルなタッ
チでよくできた映画だと感じた。午後3:20分に始まって、夕方の6時前に
終わった。予告編の時間を引いてもゆうに二時間半はかかっていた。しか
し、あまりにも引き込まれて一時間くらいにしか感じられなかった。それほ
ど秀逸な作品なのである。

 この映画は、細部は違うが、本質的には植草氏の事件とほとんど相似形
を持っていることに驚いた。これは私が植草氏の公判を、立て続けに二回
も傍聴したすぐ後ということもあるだろうが、法廷内の空気や質感、判事や
検察官、弁護人、傍聴席の人々などの存在感は紛れもなく私が行ってきた
ばかりの東京地裁そのものだった。映画では被害者は15歳の女子中学生
であった。スカートをたくし上げて、うしろから尻をさわるという設定も植草事
件と似ていた。

 植草事件の場合は、乗客が私人で植草氏を逮捕したが、この映画では
15歳の女子中学生が被疑者の袖をつかんで現行犯逮捕していた。しか
し、それに手を貸した乗客がいたことは植草氏が京急電車内で経験した
ことと発生的には似ていると感じた。

 私がこの映画に、植草事件と本質的な類似点を最も見出したのは駅の事
務室に連れられた時の展開である。植草氏は駅事務室に連れて行かれた
ときは、力づくというか、抵抗できない状況で強引に連れて行かれ、車内状
況の説明も被害者との話も出来ない状態だった。一方、映画も駅事務室に
主人公が連れて行かれたときは、彼が痴漢をやっていないことを状況的に
見ていた女性が、すぐに駅事務室に行って証言をしようとしたにも関わら
ず、駅員が彼女を追い返した形になったことである。

 このストーリー展開は、植草氏が弁明の機会も与えられないままに、一方
的に京急蒲田駅の駅事務室に連行されたこととほとんどそっくりである。あ
とは警察、検察に身柄を拘束されたまま、一方的な推定有罪の前提による
取調べが行なわれたことである。そして映画の主人公は釈放されるまでに
四ヶ月の拘禁生活を強いられることになった。植草氏も131日の勾留で、
映画の主人公とほぼ同じ期間である。
 
 そして、この異常な長期勾留の理由も植草さんと同じなのである。つま
り、否認をすれば、次の三つの理由のどれかで延々と勾留されてしまうわ
けである。      

 ① 住所不定

 ② 罪証隠滅のおそれ

 ③ 逃亡の疑いがある

  現実的には、長期勾留の理由として検察が利用するのは、②の「罪証隠
滅のおそれ」である。これは物的証拠を隠すというよりも、被害者に対して、
その被害意識を取り下げるような方向に、被疑者が何らかの有形無形の干
渉を施すということらしい。たとえばお金で買収したり、あるいは脅しで相手
を萎縮させたり、そういうことも範囲に含んでいるらしい。

 支援者の仲間があることを調べてくれた。それは『証人威迫罪(しょうにん
いはくざい)』である。むりやり被害者や証人と会おうとしたり、強弁をもって
相手を言いくるめたりすると犯罪になるという法律である。

    証人威迫罪

 刑事事件の捜査・審理に必要な知識をもつ者などに対し、正当な
理由なく面会を求め、または要求に応ずるようおどす犯罪。

刑法では

(証人等威迫)
第百五条の二 自己若しくは他人の刑事事件の捜査

若しくは審判に必要な知識を有すると認められる者

又はその親族に対し、当該事件に関して、正当な理

由がないのに面会を強請し、又は強談威迫の行為を

した者は、一年以下の懲役又は二十万円以下の罰金

に処する。

専門的にはどうか知らないが、検察が釈放しない理由が「罪証隠滅」にあ
るとすれば、この「証人威迫罪」はそれに含まれるのかもしれない。しかし
ながら、これを考えてみると、痴漢の被疑者がこのような犯罪を敢えて犯し
てまでも被害者とコンタクトするだろうか。私は現実性がほとんどないと思
う。したがって、推定無罪が原則の近代法治国家で、被疑者の長期拘束
は妥当性を著しく欠いていると考える。

 植草氏の痴漢事件に冤罪の疑いが濃いと思っている人も、植草氏を常習
的な性犯罪者だと思っている人も、周防監督の「それでもボクはやってな
い」を是非見て欲しいと思う。冤罪の恐ろしさがとてもよくわかる。しかも、そ
れは誰にでも起こり得る事であることがよく理解できる。そして私たち支援
者が公開し考察したことと、この映画の展開を照らし合わせて欲しい。

 すると、植草事件の真相が浮かび上がってくる。そうすると、植草事件は
ただの偶発的な冤罪ではなく、深い背景を持った大掛かりなでっち上げで
あることに考え方がシフトしてくるはずである。なぜなら、植草事件の場合
は、被害者と目撃者、それに「私服」と呼ばれた膂力のある乗客に、ある
共通した世界が垣間見られるからである。

 映画と植草事件が決定的に異なっている点が二つある。一つは、植草事
件では、被害者が一度も公の場所に出てこないことである。映画では15歳
の少女が「遮蔽措置」と呼ばれる衝立(ついたて)を使い、傍聴席から遮っ
た状況で証言しているのである。しかし、植草事件では被害者の少女は一
度も出廷しないし、期日外尋問の内容さえ、公判で公開されていない。被
害者が被害状況を一度も法廷で出さない植草氏の裁判ははたして成り立
つのだろうか。

 日弁連は言う。今の裁判制度では「証人保護の諸方策を活用すべきとし
ているが、すでに、遮蔽措置、期日外尋問が、被告人の意向に反して濫用
的に実施されている現状にある
」と。しかし、今、進行中の植草氏の公判は
それよりもはるかに不可解なところに行っている。なぜなら、遮蔽措置もな
ければ、期日外尋問の内容さえ公開されていないからである。

 ここまで異常に被害者を出してこないということは、すでに証人保護の域
を超えているように思えてならない。これは被害者不在の裁判ではないだ
ろうか。迷惑防止条例というものが、被害者不在で裁けるという法律なら、
明らかにこれは冤罪を多産する悪法ではないのか。ぜったいにおかしい!

 二つ目は車両の混雑率である。映画では混雑率250パーセント、すな
わち、ぎゅうぎゅうのすし詰め状態であり、痴漢が容易に発生する状況であ
った。しかし、実際の植草氏が嵌められた京急車両内の混雑率は、肩と肩
が触れ合わない程度、または目撃証人と被害者の距離が77センチもあっ
たことなどから、隙間のない、すなわち車両の床に立錐の余地のない混雑
率を100パーセントとすれば、当日車両の混雑率は60ないし70パーセン
トくらいであったと思う。これは決定的な差異であろう。痴漢は起きにくい。

 映画では女子中学生が犯人を間違えたという設定になっているが、植草
氏の場合は犯罪そのものが発生していなかったという疑いが濃厚なのであ
る。


 ※注記
*********************************************************
 上記の混雑率について、読者から訂正の投稿が来た。

 『細かい点ですが、社団法人日本民営鉄道協会のホームページによる
と、100%の混雑率は「定員乗車(座席につくか、吊革につかまるか、ドア
付近の柱につかまることができる)」、150%の混雑率は「肩がふれあう程
度で、新聞は楽に読める」だそうです。植草氏の事件の場合は、150%弱
の混雑率だったと思われます。』


 だとすれば、植草氏の場合は「肩が触れ合わない程度」であるから、150
%以下であることは間違いない。いわゆる『定員乗車』に近いものだったの
ではないだろうか。肩が触れ合う程度でも新聞が楽に読めるくらいだから、
肩が触れ合わない程度がいかに「疎」なる状況かわかると思う。この状況
で、周囲の視認を避けて痴漢行為を起こすことは考えにくいのである。
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2007年2月 2日 (金)

植草氏をガードしよう

 植草被告は逮捕直後自殺を図ったとされるが、同氏は「彼は私に『自殺
するつもりは全くない』と言いました。自殺に見せかけて殺されることを恐
れているからです。彼は日本の経済の裏を暴くことをあきらめていません」
と話した。

  ( http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20070202-150404.htmlより抜粋)

 私は昨年の9月24日にすでに『植草氏は今、謀殺の危機に晒されてい
る』というタイトルで、彼の生命が安全ではないということを書いていて、そ
の後も何篇か彼の生存の危機を書いている。当時私が一番憂慮していた
ことは、植草氏が絶望して自殺を行なったように見せかける「謀殺」が行な
われるかもしれないという思いであった。

 実はその心配は釈放された今、最も大きなものになっている。特に彼は
武士道精神があるお人であるから、三月にりそな関係の本を出すと、フル
フォードさんが明言している。これを観ている黒幕たちは今あせって切歯
扼腕しているに違いない。今が植草氏の最も危ない時期なのである。周
囲の方々はそのように覚悟し、植草氏を絶対にガードして欲しい。彼のご
両親や奥様、そしてお子さんたちのためにもガードして欲しい。それに、
我が国が彼を失ったら、それは国家の計において、取り返しが付かない
ことになる。

『植草氏は今、謀殺の危機に晒されている』
         ↓   
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2006/09/post_5052.html

 黒幕たちよ!やるなよ!国民が黙っていない
からな!やったら一気に火がつくぞ


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テレビ朝日が紹介した記事

 テレビ朝日が、朝の「やじうまプラス」という番組で紹介した日刊スポーツ
の記事。

********************************************

(2月2日、日刊スポーツ、第24面から)

元フォーブス支局長が「陰謀説」
植草被告ハメられた?
インサイダー疑惑追及で国策逮捕だと?


電車内で痴漢行為をしたとして公判中の元早大大学院
教授植草貸す秀被告(46)に1日、思わぬ”援軍”が現れた。
米経済誌「フォーブス」の元アジア太平洋支局長のベンジャミン・
フルフォード氏で、植草被告が大手銀行をめぐる、政府関係者、
外資が絡んだ巨大インサイダー疑惑を追及していたことで狙われ
「国策逮捕」された可能性が高いとの見方を示した。同紙によると、
植草被告は3月にも同疑惑の告発本を出版するという。

多すぎる偶然
(以下略)


**********************************************
Photo_21

※元フォーブス支局長「植草被告陰謀説」
          
http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20070202-150404.html
(nikkansports.com   2007年2月2日8時31分 紙面から)


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テレビ朝日が植草氏の国策逮捕疑惑を放送!!!

 ◎テレ朝で、ベンジャミン・フルフォードさんが語る
  植草氏国策捜査疑惑を報道!


 ほんとうにびっくりした。朝起きて身支度をしながら、何気なくテレビを観
ていたら、なんと、植草一秀氏は国策捜査で捕まったのだという言葉が飛
び出していた。その放送があったのは、朝の6時40分くらいであった。

 注視すると、その番組はテレビ朝日系の「やじうまプラス」という朝のニュ
ース番組(ワイドショー番組?)で、キャスターが画面に映るスポーツ新聞
の記事を示しながらこう語っていた。『ベンジャミン・フルフォード氏という
元フォーブス誌の支局長が語っているところによれば、植草氏は二度
も国策捜査に嵌められて不当な逮捕を受けている。植草氏は米国が
背景に絡んだ「りそな銀行」のインサイダー疑惑を追及していて国策
捜査に嵌められてしまった
』という内容だった。

 あまり唐突なので録画できなかったため、正確ではないが内容は以上の
ことだった。私のように、去年の事件の次の日から国策捜査疑惑をネットに
書き続けていた
者からすれば、この放送は驚天動地なのである。なぜなら
テレビや新聞は例外なく小泉政権筋の国策方針を是とし、米国の謀略的
対日政策に関する報道は一切してこなかったからである。特に植草事件に
関する米国の思惑などは、テレビ業界にとっては禁忌中の禁忌となってい
たはずだ。

 しかしテレ朝のこの動きはいったいどうしたことだろうか。考えられること
は、テレビ業界の中にも反骨の人がいて、植草さんの国策捜査に義憤を抱
いているということなのか。しかし、この報道が呼び水になって植草さんの
疑惑を晴らす一大潮流になることを望むばかりである。

 他のテレビ局も遅れを取るな!! 植草さんの
冤罪疑惑、そして国策捜査疑惑を大々的に報道
せよ!日本の未来のために!勇気を持って!

 ベンジャミン・フルフォードさんには、私も含めた支援者数名が書いた本
『植草事件の真実』の帯に推薦文を書いてくれたお人である。その人が語
る植草国策捜査疑惑をテレ朝が報道したことは一大事である。もしかした
ら、アメリカべったりの国策とアメリカの報道管制によるテレビ洗脳が解除
される方向に向かうかもしれない。

 ベンジャミン・フルフォードさんのブログにも植草さんのことが書いてある。
          
   http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/

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2007年2月 1日 (木)

偽証の可能性は濃厚

  1月25日、第三回目の公判を傍聴して、気になった一言をメモしたので、
いまここに書くことにする。

 その言葉とは、被害者女性を尋問中、加害者は「指を折りたたむようにし
てスカートをたくし上げていた」と証言したと、弁護士が彼女の言葉を引用
して話したことである。これは被告人の指についた繊維に関連しての発言
であるが、弁護士が引用した言葉を直接聞いたので間違いないと思う。

 被害者女性のこの言葉にはほんとうに驚かされる。なぜなら、彼女が、加
害者の指の状態や、スカートがたくし上げられた状況を正確に知るには、ち
ゃんと後ろを見ていなければならないはずである。しかし、もし女性が後方
を振り返って見ていたのなら、こっそり狼藉に及ぼうとしている者が、堂々と
スカートをめくり上げたりするものだろうか。

 まずもって不可解なのは、この被害者女子高生の言うように、植草氏が
スカートをたくし上げていたとしたなら、そのまま2分間もその様態のまま経
過するものだろうか。前の記事で私が指摘したように、当日の車内状況は
肩と肩が触れ合わず、立錐の余地があり、移動しようと思えば比較的楽に
移動できる程度の混みようだった。こういう車内状況でスカートをめくり上げ
たとしたら必ず周囲が見咎めるに決まっている。

 しかし、周囲は沈黙しており、女子高生はスカートがめくり上げられるとき
の手の形まで正確に見ていたらしい。被害者が加害者の手の形まで見る
ためには、上体をねじって相当無理な姿勢を取らなければならない。また、
見咎めて制止するはずの周囲の乗客は何も言わない中、女子高生はスカ
ートをめくり上げられたまま2分間もそこに静止していたことになる。この状
況はありうることだろうか。

 つまり、彼女はスカートをたくし上げられ、二分間も極度の羞恥心を耐え
ながら、子供がそれを見ていることを観察しているのである。このような車
内風景など、まったくもって非現実的であろう。つまり、彼女はあり得ない
話をしているとしか思えないのである。第一、そこを一歩も動かなかったの
はなぜだろう。何度も言うが、動こうと思えば自由に動けたわけだから、動
かなかったのは他力的な原因ではなく、自分の意志で動かなかったとしか
思えないのである。これは通常の痴漢事件とは違い、余りにも不自然なこ
とである。

 第3回公判の話では、スカートはめくり上げられていた。しかし、第2回公
判に出廷した目撃者は、スカートの上から触っていたと証言しているから、
これでは女子高生か目撃証言者のどちらかが嘘を言っていることになる。
最初はスカートの上から、そしてエスカレートしてスカートの中へ手が入っ
たというステップを踏んだとでも言うのだろうか。

 しかし、そのことを考える前に、被害者と目撃者、そして加害者と目撃者
の間隔がそれぞれ70センチ以上離れていたこと、そして目撃者と加害者
の間の微妙な位置に、一人の女性乗客がいたという話を総合して勘案し
てみても、目撃者は、被害者と加害者の状況をかなり鮮明に見て取れる
わけである。しかも重要なことは目撃証人以外の人間にも、痴漢行為は
目撃されて当然の状況にあったと言える。満員電車内では破廉恥な行為
が周囲の目に触れない場合がほとんどであるが、今回の場合は複数の
人間に見られて当然の車内状況があった。

 だからこそ、植草氏と女子高生が密着状態で2分間そのままいたという
進展自体が非現実的なのである。その上、スカートがたくし上げられてい
たとなれば、その展開を二分も放置しておく周囲の乗客の方が常軌を逸脱
しているだろう。もちろん、目撃証人も含めてなのだが。

 これらを鑑みると、女子高生と目撃証人の証言は信憑性がまったく感じ
られないのである。

          【植草氏冤罪に関する本を発売中】

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2007年1月31日 (水)

「雑談日記」管理人SOBAさんの功労

 植草さんは釈放されている。これについて私はひとまずは安心している
が、彼の身の上はけっして安全ではないと考えている。むしろ、拘置所か
ら出てきて危険は高まっているような気がしている。

 植草さんを応援するブログは、私の「神州の泉」も含めて数は少なかっ
た。応援者は何名かいて、その応援動機はさまざまであろう。有名なとこ
ろでは、植草さんと顔見知りの人が応援していて、その人が「独自」の応
援動機で長く頑張っていることも知っている。

 私、神州の泉と雑談日記のSOBAさんは、植草さんと面識もないし、互
いの交流もなかった間柄である。しかし、植草氏や小泉政権などに関し
て、ブログでの表現を行なっているうちに「同志」としての絆が自然に結
ばれた。二人とも日本の歪に熾烈な怒りと憂慮を抱いているせいであろ
うか。

 この雑談日記の管理人SOBAさんは本当に頼りになるお人である。お
会いしたことはないが、ネット上でいろいろと関わって行くうちにそれを確
信している。

 SOBAさんが植草氏冤罪のバナーを作って賛同者を募り、現在、そのバ
ナーを貼っていただいたブログが65になっている。この仕事がどれほど
価値のあることか言ってもいい足りないくらいである。なぜなら、植草さん
を支援する会のメンバーに、今のところ、植草さんを陥れた側からの何ら
かの圧力や攻撃はないからである。私どもは、九割がた「植草事件の真
実」という本の出版は妨害され日の目を見ることはないだろうと踏んでい
た。しかし、何とか出版に漕ぎ着けたのである。私自身が今無事である
こともSOBAさんのおかげである。

 私はこのことは SOBAさんの働きによるところが非常に大きいと考えて
いる。彼が他の多くのブログに賛同バナーを働きかけてくれたおかげで、
闇の権力機構は手が出しにくい状況になっているのである。下手に手を
出せば、たとえば私が人身御供となった場合でも、SOBAさんたちがその
ことを大々的に報じてくれるだろうし、SOBAさんになにか起きたときは私
が65のブログの方々に働きかけて、植草事件が国策的な深い背景を有
することを報じるつもりである。お互いに無駄死にはしない覚悟である。
現実に、「支援の会」初期のコアメンバーの一人が恐怖のあまり脱会し、
今は行方知れずである。

 したがって、 SOBAさんが行なってるブログ活動はバナーのことと言い、
記事と言い、歴史的に大きな意義のあるブログであると考えている。神州
の泉の私が多くの支援者に成り代わってSOBAさんの勇気にお礼を述べ
ておきます。まだ予断を許さない展開ではありますが、頑張りましょう、
SOBAさん。

 そしてバナーを貼っていただいた多くの方々にもお礼を述べておきます。

                        神州の泉 管理人:高橋博彦

 植草さん冤罪に関する本発売中

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2007年1月29日 (月)

「植草事件の突破口」要約

植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー

◎これは確実に冤罪!しかも国策的背景を有する
冤罪である

 前回記事、「植草事件の突破口」(1)~(3)の要約を簡単に行うとすれば
こういうことである。

 当日の電車内は立錐の余地がないほど混雑はしていなかった。その混
雑程度は立っている乗客が、動こうと思えば安易に動ける乗り合わせ状況
であった。加えて、目撃証言者の言によれば、女子高生とこの証言者の間
隔は直線にして77センチも空いていた状況がある。つまり、立っている乗
客のスタンディング・ポジョションは、ぎっしりと詰まった状態ではなく、人が
容易に通り抜けられるような、いわゆる「疎」の状態であった。

 しかし、痴漢被害を受けたと称する女子高生は、この「疎」の乗り合い状
況の中で、2分間もさわられたまま、痴漢被害の回避行動を取ることもな
く、植草氏と身体を密着させたままであった。

 しかも、さわられていた2分後には毅然とした調子で植草氏にこう言い
放っているのである。

 【何やっているんですか、子供の前で恥ずかしくない
  んですか】

 そして、すぐそのあとに
 【次でおりてください】
とも言っているのである。

 もし、この女子高生が植草氏にさわられた恐怖で身動きが取れない、つ
まり心理的な萎縮を起こし、ヘビに睨まれたカエルのように、そのままの体
勢で動かなかったとすれば、上の言動は非常に異様である。

 四十代半ばの目上の男性に、「子供の前で恥ずかしくないんですか」など
という説教めいた言葉を投げかけたとすれば、この17歳の女子高生はか
なりの気丈さを持っていることになる。それならば2分の間に回避行動を取
るか、あるいは抗議言動を発していなければおかしいことになる。通常であ
れば、この女子高生はさわられてから数秒でなんらかの回避措置を行なっ
ているはずであるが実際は何も行なっていない。したがって、この不可解な
受容的態度には明らかな作為性が見られるのである。

 それに加えて、目撃証言者が植草氏を取り押さえた乗客を「私服」と呼ん
だことや、植草氏が京急蒲田駅から蒲田署へ連行される経緯に要した時
間の非常識な短さなどを加味すると、この事件が官憲ぐるみで行なった大
掛かりな冤罪事件であることを充分に確信するに足るものである。したが
って、ここから見えてくるものは、昨年9月の京急電車内の痴漢事件は、
植草氏を陥れるために何者かが意図立案し、その意を組んだ実行グルー
プによって偽装工作が為された可能性が非常に高いということなのであ
る。


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(3)植草事件の突破口(痴漢犯罪の偽装を見破る)

 それでは9月13日、植草氏が嵌められた電車内の混雑具合を第二回
目・公判速記録から抽出してみよう。(下記は私がアップした公判速記録
の(1)から引用したものである。もう少し前後の事を知りたければ、該当
箇所をお読みいただきたい)

********************************************************
155.○小出検察官 品川駅を出るときのその電車の車両内の
    混みぐあいはどのようなものでしたか。

156.○証人 混雑はしていましたが、隣の人の肩とぶつかるような
    ことはないぐらいの混みぐあいでした。

157.○小出検察官 座席は全部埋まっていましたか。

158.○証人 埋まっていました。

159.○小出検察官 立っている人も大勢いましたか。

160.○証人 はい、いました。

161.○小出検察官 ただ、普通に立っていれば、隣の人と体が触
    れ合うようなことがなく立っていられるような状態ではあった
    のですか。

162.○証人 はい、そうです。

*********************************************************

 この質疑応答からもわかるように、当日、品川駅22:08分発の京急電車
の混み具合は、隣同士の肩と肩がぶつかり合わない程度の混雑具合であ
った。このレベルの混雑状況において、目撃証人が語るような痴漢行為が
約2分間にわたって行われたとすれば、その犯行自体が単独犯による痴
漢行為としては異常に不自然なのである。

 なぜなら、当日電車内の混み具合の状況は、明らかに痴漢という犯罪が
成立しにくい要件を完全に満たしているからである。痴漢という犯罪は、自
己の性的欲求を満たすために、相手の同意を得ずに行う性的な行為であ
る。重要なことは痴漢を行うための条件があるということである。それは犯
人の行為が秘匿されてしまう環境下で行われることにある。具体的に言う
ならば、それは、公共の場所である満員電車内や夜道など、行為そのもの
が第三者に認識されにくい場所であることが必須の要件となっている。

 電車内の痴漢が成立するための条件として、被害者も加害者も容易に身
動きが出来ない程度の混雑、すなわち「満員電車」の条件が必要なのであ
る。ところが当該電車の混み具合は上述のように、双方とも充分に移動で
きる程度の混雑具合だったのである。もしかしたら、その車両に乗り合わせ
た乗客の絶対数は「混雑」と言えるかどうかさえ疑わしいほど「疎」の状況を
思わせるのである。

 もしも、がら空きの電車内で対象女性に性的行為に及ぶ人間がいたな
ら、それは痴漢とは言わずに強制わいせつ行為なのであり、逮捕されるこ
とを厭わない確信犯である。なぜなら周囲の人間が確実にその犯罪を認
識するからである。こういう粗暴な露悪的犯罪とは異なり、痴漢は秘匿性
の中で行うから痴漢なのである。

 つまり、昨年9月、京急電車内で起きたとされる植草氏の痴漢行為は、
女子高生側から、そして痴漢常習者側から見て、二重の意味で起きる可
能性がなかったことを私は言明できる。

 その一つ目の理由とは、痴漢犯罪常習者側の立場から見て、単独犯で
はけっして行わない電車内の混み具合だったからである。立っている乗客
同士の肩が触れ合わない程度、または第二回公判に名乗り出た目撃証
人が言った、被害者と目撃者の距離が77センチも空いていたという事実を
鑑みるなら、周囲に目視されてしまうその混み具合で、敢えて痴漢を決行
する者などいないはずであろう。

 もしいたなら、それは確信犯的な強制わいせつ罪であり秘匿性は皆無で
ある。もし植草氏が酩酊して心神を喪失し、そういう行為をしたならば、強制
わいせつ罪で訴えるべき事柄である。ところが植草氏の犯罪件名は「東京
都迷惑防止条例違反」なのである。現実には植草氏はあくまでも「痴漢」と
いう嫌疑をかけられているわけである。したがって、この痴漢行為は成立し
得ない事件である。

 二つ目の理由であるが、これが最もこの事件が冤罪であることを確信さ
せることである。それは被害者と称する女子高生が、この「疎」なる乗り合
わせ状況において、2分間も植草氏に腰部や臀部をさわらせて置きなが
ら、一度も移動しなかったことにある。重要なことなので何度も言うが、当
日電車の混み具合は、乗客が移動しようと思えば簡単に移動できた「疎」
の乗りあわせ状況であった。従って、17歳の女子高生が2分間も尻をさ
わられたまま、そこから脱出しようとしなかったことの方が異常なのである。

 普通であれば、2分どころか数秒で女子高生は身体をよじって振り返る
なり、そこから離れるなりの回避行動を取って当然なのである。それが簡
単にできる混雑状況にあったはずである。ところが彼女は2分間も植草氏
に腰部と臀部を触らせたまま身動きしなかった。この状況そのものが、被
害者と称する女性の常軌を逸した行動様式を先鋭に浮かび上がらせるの
である。

 つまり、植草氏が過度のアルコール摂取による酩酊的心神耗弱で痴漢
行為に及んだと考えるよりも、女子高生が何らかの意図を有して植草氏
に密着したまま、そこを離れなかったという方が事実を端的に言い当てて
いることになる。これが犯罪偽装でなくて何であろうか。

 もし、女子高生が植草氏にさわられた途端に、恐怖で萎縮して、蛇に睨
まれたカエルのように身動きが取れなくなったと言うなら、次の事実はその
ことを根底から否定していることになる。つまり、公判における証人尋問録
を参照すれば、痴漢行為が行われたとする2分が経過した後、女子高生は
「何やっているんですか、子供の前で恥ずかしくないんですか」と毅然とし
て言っている。そして、すぐそのあとに「次でおりてください」とも言っている
のである。

 恐怖で身動きが取れなかった被害者の第一声が「子供の前で恥ずかしく
ないんですか」などという説教めいたことを、四十代半ばの人間に対して言
うだろうか。これだけ気丈夫な女性なら、充分に身動きの自由がある電車
内で痴漢行為を回避する行動を取らない方がおかしいのである。したがっ
て、2分間植草氏と密着していたとすれば、それは植草氏の意志というより
も女子高生の意志である可能性のほうがはるかに高いことになる。ここにこ
の事件を解く鍵が存在していると私は確信するのである。〔第二回公判速
記録の(440)から(447)まで参照〕
 


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(2)植草事件の突破口(痴漢犯罪の偽装を見破る)

 植草氏のネクタイをつかんだ膂力の強い乗客が何者であろうとも、警察
に連絡する前に必ずやるべきことが二つある。一つは被害者と称する女子
高生と、加害者の立場で扱われた植草氏の双方から、然るべき事情聴取
をすることである。この二人の聴取が離れたところで同時に別々に行われ
たとしても、わずか3分間で確証的な言質を得ることは不可能であろう。ま
してや、被害者と加害者が連続的に聴取されたなら、なおさら長い時間を
要するはずである。しかし、今回の場合、被害者、加害者の双方から事情
を聴くという過程がすっぽりと抜け落ちていたとしか言いようがない。

 駅員事務室に植草氏と女子高生を連れて行き、間髪を容れずにパトカー
の巡査に連絡を入れることの不自然さはあまりにも作為的である。準備を
整えていたとしか思えない用意周到さである。まるで、京浜蒲田駅に着く
前の走行中の電車内から、痴漢を確信している誰かが電話であらかじめ
駅員を納得させ、すぐに蒲田署へ連行する段取りをつけていたとしか思え
ないのである。

 考えてもわかるが、善意の一般乗客あるいは乗務員が事の成り行きを
見ていて、機転を利かせて駅員に到着前に連絡していたとすれば、それ
も甚だしく異様である。しかし、それで納得する駅員であれば、その知性
と職業倫理を疑わざるを得なくなる。要は駅員室に二人を連れて行く目的
は、加害者、被害者の身柄を確保し、然るべき事情を把握する場所を提供
することにある。双方の事情を聴いて、場合によっては勘違いなどで和解
に至ることもあるだろう。しかし、被害者が強固に被害を訴え続け、加害者
の弁明に説得性がなければ、初めて警察を呼ぶという展開なのであろう。
このような過程が完全に抜けている痴漢容疑などというものが成立するの
だろうか。

 植草氏が、誰ともわからない「私服の男」にネクタイをつかまれ、蒲田署
に連行されるまでの間、一度でも弁明の機会は与えられただろうか。彼の
犯罪を遡及できるのは、今まで一度も公の場に出てこない、得体の知れな
い女子高生のみである。第二回公判に出た目撃証言者も、当日は当事者
たちと接触もしていなければ、駅員に連絡も取っていない。最初から最後
まで傍観者であり、後日、目撃を名乗り出ただけである。重要なことは当
日、この証言者が駅員や警察に目撃談を語ることなのである。ということ
は、当日関わった者の中で、誰一人として植草氏の犯罪を確証して駅員
に報告した者は居なかったはずである。

 しかし、電車が到着してからわずか3分で警邏中の巡査を呼び寄せてい
るのである。ここに、通常の対応とは異なる警察側の予測されていた行動
があったということである。この時間のミステリーも異様なことではあるが、
それよりももっと異様なことはこの事件の初頭にすでに起こっていたのであ
る。それは被害者と称する女子高生の取った行動様式の不可解さにある。

 冒頭にも言ったように、私は電車内の状況について、仕掛ける側の決定
的な「瑕疵」に気が付いた。それはあまりにも単純すぎてこれまで見落とし
ていた重大事である。当日の品川駅では、仕掛けを行うスタッフが、植草氏
を罠に嵌めるための最適な条件が整った状況とタイミングを狙ったはずで
ある。はたして、この偽装犯罪が、当初プランニングしたとおりの最適な状
況下で実行されたのであろうか。私は仕掛けたスタッフが、仕掛ける最適
条件が整っていない段階で無理やり仕掛けを決行したものと見ている。

 つまり言い換えれば、植草氏が痴漢行為を行ったとする当日の電車内状
況とは、痴漢常習者がけっして行わない状況下にあったという見解なので
ある。仕掛ける側が残した決定的な瑕疵、それは当該事件が起こった電車
内の混み具合そのものなのである。


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(1)植草事件の突破口(痴漢犯罪の偽装を見破る)

 以前から気にかかっていたことがある。それはあまりにも単純かつ自明
すぎて、かえって見逃していたと言うか重要視していなかったことである。
われわれ植草さんを支援する会は、会合を開いた初期から、その場で一
度や二度は必ず話題になっていたことである。

 話題にはなっていたが、あまり問題にされずにいつもスルーしていた話
である。しかし、最近になってはたと気が付くことがあった。実はこの単純
明快な疑問こそが植草氏痴漢冤罪説の根幹なのではないのかと。

 平成18年9月13日夜、京急電車内において植草氏が蒙った非道きわ
まる冤罪について、私自身の擁護の立場は国策捜査の観点から入ってい
る。小泉政権と政策上の対立を深めていた植草氏は、経済評論家として
小泉政権の負の本質を余すところなく指摘していた。それのみか、彼はり
そな銀行救済に関する政府がらみのインサイダー疑惑まで追及し始めて
いた矢先の逮捕だった。

 竹中平蔵前総務大臣を中心として、年次改革要望書に沿いながら傀儡
政治を進めていった前政権官邸筋は、植草氏の政府批判が内閣瓦解の
危険性を秘めていることを憂慮し、是が非でも植草氏の口封じをする必要
があったのである。おそらく、前官邸筋を後押しして、植草氏の口封じを強
要したのは、おそらく米国通商代表部(USTR)あたりであろう。かくして、
植草一秀氏は国策捜査の罠に嵌められてしまったのである。

 このような前提で、私は植草氏に降りかかった災厄を見てきたし、その視
座は今もって変わることはない。今まで電車内における具体的な犯罪偽装
の仕掛けをあれこれと推測し、検討を重ねてきた結果、京急電車内におけ
る植草氏の一件は国策的な偽計・姦計に間違いないことを確信した。事件
の発生そのものが捏造である。一般的に、嘘によるつじつま合わせを綿密
に調べると、そこには必ずどこかにほころびや瑕疵が見つかるものである。
今回の京急電車痴漢事件もまったく例外ではない。

 ある存在が犯罪の偽装を凝らして無実の人間をおとしいれた。そういう状
況では、生起する事実の不可解さ、矛盾点、不整合な部分などが必ず露呈
するものである。嘘やでっち上げで事実を固定化しようとする試みは、それ
を目論んだ者たちがまったく想定しなかったような瑕疵が必ず出てくるもの
である。ここでも事実は小説よりも奇なりなのである。

 警察と検察がぐるになって植草氏の偽装犯罪を仕立て上げたと仮定すれ
ば、被害者の下着繊維の鑑定などは無意味であろう。むしろ、そういう細か
い部分に目を移す前に、前回の記事で指摘したように、植草氏が膂力の強
い人物にネクタイをつかまれたまま被害者との接触を徹底して拒まれこと
が第一の不審な点である。次に、電車が京急蒲田駅に到着し、植草氏は
手際よく駅員事務室に連れて行かれた、そのあと警邏中のパトカーに連絡
されたのであるが、これら一連の進展に要した時間が、たったの3分であっ
たことが決定的に不審な点であろう。

 電車内で植草氏をつかみ、駅員事務室に連行した「私服の男」、そして、
それに応対した駅員、警邏中のパトカーの即応体制などをつぶさに眺めて
みると、植草氏が蒲田署まで連行される一連の手続きが、異様にシーケン
シャルな展開なのである。手際のいい展開が次々に進んだというよりも、あ
らかじめ組まれていた工程どおりに事が強制的に運ばれたという感は否め
ない。電車が駅に停止してから、わずか3分間で警邏中パトカーの巡査に
来るように要請を行っていることが通常の展開ではありえないことを物語
る。


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2007年1月26日 (金)

第三回公判備忘録(通報時間のミステリー)

   ◎1月25日、第三回公判における二名の証言者

 1月25日の公判であるが、傍聴券が4枚入手できたので、我々支援者の
会は4人で傍聴してきた。今回の公判主旨は、植草氏を京急蒲田駅から蒲
田警察署に護送した、青木ひでおという蒲田警察の巡査部長による証言
と、警視庁科学特捜研究所(俗に言う科捜研のこと)の女性職員による繊
維鑑定に関する証言であった。まず青木巡査部長であるが、彼は植草氏を
蒲田駅から蒲田警察署に連行した警官の一人で、2つのことを植草氏より
聞いたと証言した。その植草氏の発言とは、

A)「女性に不快感を与える行動をした」
B)「自分がやったことに間違いはありません」

 という2つの発言を聞いたということであった。(A)に関して、不快感を与
える行動とは、どのような行動かは断定できないが、彼は痴漢を意味する
のではないかと想像したと言っている。検察官や弁護人に、それはなぜか
と聞かれたら、彼は、植草氏には羞恥心やプライドがあって、痴漢をしまし
たとはダイレクトは言えなかったのではないかと憶測した。勝手に自分でそ
う思っただけではないのか。

 青木巡査部長は、植草氏が犯行を否認しているということも別の警官か
ら知らされていて情報が錯綜しているが、否認していると聞いた警官の証
人尋問は行わないようである。ということは、この(A)と(B)だけを、選別的
にマスコミに流そうという警察の意図が良く見えてくる。

この巡査部長の証言録を通観すると、驚くべきことに、この事件が信じられ
ないほど「短時間」に「スムーズ」に「処理」されていることに気が付く。

9月13日の夜、植草氏が乗った京急電車は、

①品川駅発10時08分
②京急蒲田駅着10時18分
③パトカーで管内を警邏中だった青木巡査部長が蒲田駅に行くように指令
  を受けたのが10時21分
④青木巡査部長が蒲田駅に着いたのが10時30分
  ほぼ同時に4人もの警官が到着し、更にそれに加え応援部隊が駆けつ
  けている。
⑤蒲田警察署に連行したのが10時35分
⑥蒲田警察署の生活安全課へ引き継ぎを行ったのが10時45分
  目も止まらぬ早業で多数の警官が動き、連行している。この間に、植草
  氏の手やネクタイに付いた繊維を粘着性のテープを使い採集したそうで
  ある。

 電車が蒲田駅に到着してから、パトカーで警邏中の青木巡査部長に指令
が行くまで僅か3分しかないことに注目しよう。この早業は、事前に周到な
打ち合わせをしておかないと絶対に不可能である。もし、あなたが友人と供
に、たまたまこの痴漢騒ぎに出くわしたと考えてみればよい。痴漢を目撃し
たわけではなく、被害者女性から話しを聞いただけなら、植草氏を実力で駅
員事務室に連行しようと決意するまで、それなりの時間は掛かる。友人と
協力するとなると、被害者女性の話を聞くだけでなく、友人との相談、植草
氏との相談をするのが絶対条件である。

 これだけのことでも3分内に行うことは絶対不可能。しかも、植草氏は駅
員事務室に行くことを拒否していない。それを実力で連れて行ったのは余り
にも不自然である。実力で連れて行けば、万が一彼が無罪になれば、自分
は逮捕監禁の罪で3年以下の懲役刑に相当する犯罪に手を貸したことにな
る。しかも犯人が暴れて自分が怪我をする可能性だってある。段取りとして
は、彼をまず説得してから駅員事務室に連れて行く方が理にかなってい
る。

 更に、駅員事務室に連れて行っても、駅員たちへ、この事件に関する事
情説明も必要となる。自分は見てないのだから、被害者による説明が必要
となり、それが納得いくものであれば、警察への通報となるだろう。これだ
けでも常識的には3分以内には無理なのである。110番通報が行われれ
ば、近くにいる警官に通報される。これらの事柄すべてを、僅か3分でやる
ことは、これがでっち上げでなくては絶対に不可能であろう。

 今回の公判で、もう一つ重大な事実が発覚した。警察が女性のパンティ
ーを押収し、植草氏の衣服の繊維の鑑定をやっていると、警察が嘘の情報
をマスコミに流していたことだ。そんな鑑定はやっていなかった。やったの
は、植草氏の指に、女性のスカートやパンティーの繊維がついていないか
どうか、更に彼のネクタイに女性のスカートの繊維がついていないかどうか
ということであった。彼の手に粘着テープのようなものを貼り付けて繊維が
ついているかどうか調べたそうだが、鑑定では黒とも白とも完全には断定さ
れなかった。この事件全体がでっち上げなら、この程度のねつ造は造作も
ないことである。重要なことは、警察が意図的にマスコミに対し、パンティー
を押収し繊維鑑定をしているという嘘の情報を流したことだ。彼の名誉を失
墜させるための嘘としか考えられない。

 植草氏は単なる個人的な冤罪に陥れられたのではない。彼の場合は
国策捜査による冤罪なのである。つまり、彼を嵌めた側の意図するとこ
ろは、植草氏の徹底的な口封じであり、彼の社会的信用の完璧な失墜
なのである。公判を無用に長引かせ、その間に恣意的な印象報道を行わ
せ、彼の名誉をこれでもかと剥奪することにあるのである。それほど、植草
氏を嵌めた黒幕たちは、植草氏の政策批判を超えた致命的な政策スキャン
ダル(りそな銀行にかかわるインサイダー疑惑等)の発覚を怖れているので
ある。

 従って、今、植草氏は釈放され、一先ずは自由の空気を吸ってはいるが、
彼の身辺はけっして安全とは言えない状況にあると我々は憂慮するのであ
る。


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2007年1月23日 (火)

真昼の幻想(国策トリック)

◎「私服」に触発された白昼夢
(それは警察スタッフなのか!?)


 第二回公判では傍聴券を五枚手に入れた。そのうち一枚はプロの速記
屋さんが手にし、後の四枚は私も含めた支援者の四人が手にして傍聴し
たわけである。しかし、素人の四人が、聞き漏らすまいと必死に書き込ん
だノートではあったが、そのメモはプロの速記録と比較すると、内容精度
の歴然とした品質低下が見られる。

 たとえば、目撃証人が思わず吐いた致命的な言葉として「私服」という
言葉があったが、我々四人はその言葉は聞いてはいたが、その言葉に
関する前後の文脈ははっきりとは捉えきれていなかった。しかし、プロの
速記屋さんは確実に捕捉していたのである。この差は言うまでもなく決定
的である。人員を動員して傍聴券を確保することや速記録には効果がな
いという意見も一部にあったが、情報の少ない中、植草さんの冤罪を晴
らすには、これが一番効果的だと思うので、やって良かったと思っている。


 さて、本題に戻るが、目撃証人が「私服」という言葉を発した時、我々四
人は「私服」の言葉にかなりの違和感を覚え、しばしその意味を考えあぐ
ねていた。しかし、速記屋さんはありのままの記録に集中していたので、
「私服」が入っているセンテンスを正確に書き記していた。我々が公判直後
にネットに書いたことは、「私服」という言葉が出たぞ~っということにかか
りっきりだったが、後から思い起こしてみれば、検察官がそれを必死になっ
てフォローしていたことも漠然とした記憶にはあったようである。しかし、そ
の内容は四人とも正確にメモしていなかった。なぜなら速すぎて追従でき
なかったからである。

 その箇所は、速記録を見て初めて、ああそうだったんだなということが思
い起こされたという感じである。

  ******************************************************

482.○小出検察官 その後おじさんや女子高生はどうなったんですか。

483.○証人 車両の前方の方から私服の男性があらわれて、女子高生
        に話しかけました。

484.○小出検察官 今、私服というふうにおっしゃったのですが、要はス
    ーツとかそういうものではないということですか。

485.○証人 はい、そうです。

486.○小出検察官 スーツではない服装をしたということになりますか。

487.○証人 はい、そうです。

  ******************************************************

 我々四名は、目撃証人が吐いた「私服の男性が」という言葉を検察官が
フォローしていたことには素通りしていたようである。しかし、上の証言記
録を見ても明らかなように、検察官は冷静さは装っていたが、二度も私服
という言葉を必死でフォローしているのである。

 走行している電車に「私服」がいたという表現は、その「私服」が、単な
るスーツ以外の私的な服装をしていたことを指しているとは到底考えにく
い。我々一般人は、「制服」という言葉は頻繁に使用することはあるが、
「私服」という言葉を単独で使うことはまずない。使うとするなら非常に限
定された状況でしか使わない。今回の目撃証人が使った「私服の男性」と
いう言葉は、常識的に考えて、その男性が、「私服」の対語である「制服」
を着ていることもあることを知っている場合に限られる使い方である。

 そのように考えないと、証人の「私服」発言は不自然きわまりないのであ
る。その上、検察官の言う「スーツではなかったという意味での私服発言」
というフォローもまったく説得力は持たない。考えてみれば、その奇矯さが
よくわかる。電車に乗り合わせるという行為は日常的な風景の一つである。
人は、その日常性の中で、電車内で痴漢を取り押さえた男に対して、いき
なり「私服の男性」とは言わない。

 普通であれば、その乗客のことは、「男性乗客の一人が」とか、「男性が」
というふうに使う表現が通常であろう。服装を私服だと形容する必然性はこ
の場合はまったくないはずである。だが、思わず口をついて出た「私服」発
言は、証人があらかじめ、その人物を見知っていたことを充分に暗示させ
る。お里が知れたという感じであろうか。

 私がここから妄想的に考えていることを言おう。これは組織的な計画性に
基づいた冤罪の可能性が非常に高いということである。この冤罪を実行し
たグループが何者かはわからない。しかし、その一員が私服と制服を使い
分けている職業の人間だとしたら、私の脳裏にピィ~ンッと来るのは警察
関係者なのである。よく刑事ドラマなどで耳にする「私服デカ」とか「私服警
察」という連想が一番ぴったりと当てはまるのである。

 この妄想が的を射ているとするならば、植草さんを実行的に嵌めたグル
ープは警察関係者ではなかろうかという推論が成り立つ。もう、どこから見
ても落ち度のない立派な国策捜査である。とは言っても、これはあくまでも
私が抱く真昼の幻想である。


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2007年1月22日 (月)

(4)18.12.20第二回公判、速記録

(1201番から1693番まで)

1201.○弁護人2 きょうまでの間にニュースやインターネットで調べて、被告人の顔というのは見たことはありますか。

1202.○小出検察官 13日以降きょうまでということですか。

1203.○弁護人2 9月13日からきょうまでの間。

1204.○証人 テレビで今回の件があって、前回の記者会見のときの映像が流れるというようなものは見たことがあります。

1205.○弁護人2 インターネットで見たことはないですか。

1206.○証人 インターネットでは写真等は見てないと思います。

1207.○弁護人2 ヤフーのニュースで見たということなんですけれども、ヤフーのニュースというのは、ニュースで今回の記事というのはどうやって探したのですか。

1208.○証人 まず友人から、そういうニュースになっているというのを聞いて調べました。

1209.○弁護人2 実際にパソコンで調べるときの手順として、どうやって調べるのですか。

1210.○証人 自分のポータルサイトとしてヤフーを使用しているので、まずニュースを見るとしたら、ヤフーのニュースです。

1211.○弁護人2 ヤフーのホームページ欄から検索したのですか。

1212.○証人 検索というか、もうヤフーニュースはトップから入れるので、そこから見ます。

1213.○弁護人2 そこにもう記事が、項目があったんですか。

1214.○証人 はい。

1215.○弁護人2 それを見たと。

1216.○証人 はい。

1217.○弁護人2 それ以外には、今回の件について、インターネットを調べたりはしてないんですか。

1218.○証人 特に最近まではしていません。

1219.○弁護人2 最近まではというと、最近はしたんですか。

1220.○証人 最近は、はい、調べたことがあります。

1221.○弁護人2 どんなことを調べたのですか。

1222.○証人 どんなことというか、これも友人から事実そういった植草元教授を応援しているページがあるという、その中で、証人がいるらしいけれども、うそくさいというようなことが書いてあったみたいな話を聞いたので、どんなことが書かれているのだろうと思って見たということです。

1223.○弁護人2 そういうときに写真を見たりはしませんでしたか。

1224.○証人 写真はなかったと思います。

1225.○弁護人2 それから、被害者が声を上げたときというのは、あなたはそのときの被害者やその後ろの男性というのを見ていましたか。

1226.○証人 はい、見ていました。

1227.○弁護人2 被害者が声を上げたときは、どちら向きに振り向いたか、あなたは覚えていますか。

1228.○証人 後ろの方に、おじさんの方に振り向きました。

1229.○弁護人2 つまりは、どちら回りか。

1230.○証人 詳しくは記憶していませんが、右回りだったと思います。

1231.○弁護人2 右回りというと、自分の右手の方を振り向くような感じ。

1232.○証人 はい。

1233.○弁護人2 振り向いたと記憶していると。

1234.○証人 はい。

1235.○弁護人2 それから、被害者とあなたは、その女性が声を上げる前に目が合ったということをいわれていますけれども、被害者は、あえてあなたの方に顔を向けていたということなんですか。

1236.○証人 そういうふうに見えました。

1237.○弁護人2 今までの話だと、大体あなたの真っ正面ぐらいに真横を向いていた。

1238.○証人 はい。

1239.○弁護人2 そうすると、顔を真横に向けるような形で見ていたということですか。

1240.○証人 はい。

1241.○弁護人2 それから、被害者が声を上げて振り向いたとき、男性はどういう様子だったか。先ほどは1~2歩下がったというようなことをいわれたのですけれども、何か気づいた様子はありましたか。

1242.○証人 自分の印象としては、無関係を装うというような印象を受けました。

1243.○弁護人2 そういうときは特に表情に変化はなかったんですか。

1244.○証人 その瞬間の表情までは覚えていません。

1255.○弁護人2 無関係を装うというのは、要はその女性に対して何か対応するという感じではなかったということですか。

1256.○証人 はい。

1257.○弁護人2 あなたの記憶だと1~2歩下がった後、後ろを向いたんですか、反対側のドア。

1258.○証人 反対側のドアの方を向いたような気がします。

1259.○弁護人2 あなたの方で先ほどいわれた、その女性に何か「わかったから」というようなことをいったというのはいつの段階ですか。

1260.○証人 そういった行動があったこと自体は覚えていますが、それがどの時間帯的に、行動の前後としてどのあたりだったかというのは、余りよく覚えていません。

1261.○弁護人2 あなたの印象だと、1~2歩下がったと。それで無関係を装ったように見えたと。

1262.○証人 はい。

1263.○弁護人2 それで後ろを向いてつり革をつかんだということなんですか。

1264.○証人 つり革をつかんだとはいってないです。

1265.○弁護人2 後ろを向いたと。

1266.○証人 はい。

1267.○弁護人2 そうすると、その女性が、先ほどいわれた「何をやっているんですか子供の前で恥ずかしくないんですか」、あるいは「次でおりてください」というようなことに対して、「わかったから」といってなだめる様子ではなかったと。

1268.○証人 そのあたりは詳しく記憶していません。

1269.2弁護人 そのなだめる様子と無関係を装うというのは、ちょっとうまく頭の中で整理できないのですが、声を上げられた後、1~2歩下がって、反対側のドアを向いたという中に、それは入ってくるんですか、その「わかったから」という行動は。

1270.○証人 無関係を装っていて、いわれて、女子高生の方から何かいわれているうちに、無関係を装えなくなったということだったと思います。

1271.○弁護人2 それから、「わかったから」という声は、どのくらいの大きさでいっていたのですか。あなたのところにも聞こえるぐらいですか。

1272.○証人 「わかったから」といったような感じであって、一言一句「わかったから」だったかどうかは定かではありません。

1273.○弁護人2 先ほど被害者とされる女性に前の方から人が近づいてきて何かいったというようなことがありましたよね。

1274.○証人 はい。

1275.○弁護人2 そのときは、もう何をいっているのか、全然あなたに聞こえなかったわけですか。

1276.○証人 それはだれのことを指しているのですか。

1277.○弁護人2 要は、最終的に被告人のネクタイをつかんだと。これは前の方から来て被害者の女性に何か話しかけた。そのときには、その人が何を話しているかというのは聞こえなかったと。

1278.○証人 はい。

1279.○弁護人2 女子高生の位置は、あなたの話だと、位置は変わってないんですか。

1280.○証人 多少変わっています。

1281.○弁護人2 どちらに?

1282.○証人 もといた場所には近かったと思いますが、男性、おじさんの方に抗議をしたときには、おじさんの方に近づいていますので、全く同じ位置にずっと立ち続けていたというわけではありません。

1283.○弁護人2 女子高生が振り向くときに1~2歩前に進んだというようなことはないんですか。

1284.○証人 女子高生がですか。

1285.○弁護人2 女子高生が。

1286.○証人 進んでいったことはあったと思います。

1287.○弁護人2 その場ですぐに振り向くのではなくて、前に進んでから振り向く。

1288.○証人 振り向いてから進んだということです。

1289.○弁護人2 私が聞きたかったのは、振り向くときに、その場で、要は全く移動せずに振り向いたのか、それとも1回後ろに男性から離れるようにしてから振り向いたのか。

1290.○証人 そういう細かいところまでは余り覚えていません。

1291.○弁護人 弁護人の小林から補充させていただきます。

 先ほど弁護人から紙を渡されて、そこに被告人とか乗客の位置を書いたと思いますけれども、その弁護人から示されて書いた位置というのは、今でも当時の記憶として、記憶と合致していますか。

1292.○証人 大体合致していると思います。

1293.○弁護人 警察署で書いたときも、そのように書いたということですね。

1294.○証人 はい、そうです。

1295.○弁護人 当時ですが、被告人の所持品で何か気づいたことはありますか。

1296.○証人 所持品については余り記憶がありません。

1297.○弁護人 あなたが痴漢行為を確信したという理由の中で、左腰についていた手が、女性の体が動いたときについていったということがありましたね。

1298.○証人 はい。

1299.○弁護人 電車が揺れていたときにもついていったというふうにお話しされましたか。

1300.○証人 はい。

1301.○弁護人 電車が揺れたというのは、電車がどういう方向に揺れたんでしょうか。

1302.○証人 揺れた方向までは、そこまでは詳しくはわからないんですけれども。

1303.○弁護人 ただ電車が揺れた方向に手もついていったということですか。

1304.○証人 電車が揺れたことによって女子高生の体が動いたので、それについていったという形だと思います。

1305.○弁護人 電車が揺れていたことによって女子高生の体が動いたということのほかに、女子高生が自分で体を動かしたということはあったのですか。

1306.○証人 はい、ありました。

1307.○弁護人 女子高生はどのように体を動かしたのですか。

1308.○証人 やや前の方に動いたように記憶しております。

1309.○弁護人 前の方に動くというのは、そのまま並行に、前に、進行方向に進むということなのか、体を右か左に傾けるということなのか、どちらでしょうか。

1310.○証人 1歩動くというような動きではありませんでした。

1311.○弁護人 そうでなければ、どうだったんですか。

1312.○証人 どちらかというと、体をひねるというふうな形だったのかもしれません。

1313.○弁護人 どちら側にひねったかわかりますか。

1314.○証人 細かい動きまでは覚えてないです。

1315.○弁護人 ただあなたは、その男性、女子高生の後ろに立っていたという男性がさわっている様子は、その手が、その女性に触れているという様子をはっきり見ていたわけですね。

1316.○証人 はい。

1317.○弁護人 2分間ぐらい見ていたということですか。

1318.○証人 はい、そうです。

1319.○弁護人 指先から袖口のあたりまでははっきり見えていたということですね。

1320.○証人 はい、そうです。

1321.○弁護人 あなたは男性が傘を左手首にかけていたということについて気づきましたか。

1322.○証人 いえ、気づいていません。

1323.○弁護人 あと、先ほど出てきたんですが、ヤフーのニュースを確認したということですね。

1324.○証人 はい。

1325.○弁護人 それは事件のあった次の日。

1326.○証人 はい、そうです。

1327.○弁護人 全部で2回ですか、1回ですか。

1328.○証人 次の日には1回です。

1329.○弁護人 次の日、何時ごろか覚えていますか。

1330.○証人 お昼ごろだと思います。

1331.○弁護人 12時過ぎていましたか。

1332.○証人 詳しい時間まで覚えてないです。

1333.○弁護人 次の日のほかにも調べましたか。

1334.○証人 次の日も1回調べました。

1335.○弁護人 9月14日に2回調べたんですかね。

1336.○証人 同じ日に2回調べてはいないです。

1337.○弁護人 次の日と、あともう1回はいつ調べたのですか。

1338.○証人 その翌日です。

1339.○弁護人 大体の時間は覚えていますか。

1340.○証人 それもお昼ごろだったと思います。

1341.○弁護人 あと支援サイトというのも見たということですね。

1342.○証人 はい。

1343.○弁護人 これは大体何日ごろか覚えていますか。

1344.○証人 つい最近です。

1345.○弁護人 何日ぐらい前かはどうですか。2~3日前とか。

1346.○証人 1週間くらい前か、それ以内だったと思います。

1347.○弁護人 1週間くらい。被告人初公判というのが12月6日にあったのですが、その前か後かわかりますか。

1348.○証人 詳しくは、その中を、文字が多かったので、余り見てないので、内容については余り記憶はしてないんですけど。

1349.○弁護人 1週間ぐらい前。

1350.○証人 はい。

1351.○弁護人3 川村ですが、先ほどの支援サイトなんですけれども、被告人の顔写真というのは出ていたんじゃないですか。

1352.○証人 なかったように思います。

1353.○弁護人3 それから、先ほどの主任弁護人の尋問で、左手は女子高生のお尻や腰のあたりをたださわっていただけで、なで回すような動きは自分が見た範囲ではなかった、こういうご趣旨でしょうか。

1354.○証人 はい、そうです。

1355.○弁護人3 あなたが見ていた時間というのは約2分間ですか。

1356.○証人 はい。

1357.○弁護人3 2分間というのは、起訴状の公訴事実による犯行時間が大体2分間ということだったのですが、その間そういう様子は見受けられなかったということですか。

1358.○証人 自分が見ている範囲ではそういうことは見てないです。

1359.○弁護人3 その点、捜査段階で何回か聞かれませんでしたか。

1360.○証人 聞かれました。

1361.○弁護人3 被害者の方が何といっているかというのはご存じですか。

1362.○証人 それは知りません。

1363.○弁護人3 あと、被害者が声を上げた瞬間、その状況について、あなたと被害者1364.の間に立っていたその女性はどういう反応だったのでしょうか。

1365.○証人 どういう反応というと……。

1366.○弁護人3 何か意外なことが起きてびっくりしたとか、そういう状況というのは見受けられましたか。覚えていませんか。

1367.○証人 覚えてないです。

1368.○弁護人3 それからメールのことなんですけれども、相手方の方は高校生のころからの友人だそうですね。

1369.○証人 はい。

1370.○弁護人3 しばしばメールを打ち合う相手なんですか。

1371.○証人 そこまでしょっちゅうメールはしないです。

1372.○弁護人3 たまに打ち合うという感じですか。

1373.○証人 はい、そうです。

1374.○弁護人3 難しい質問かもしれませんが、どの程度の頻度なんでしょうか。

1375.○証人 会う機会ができそうだったり、そういったときにメールを打っています

1376.○弁護人3 答え方が難しいかもしれませんけれども、何日に1回という言い方をすると。

1377.○証人 なかなかそういった範囲ではいうのはちょっと難しいです。

1378.○弁護人3 今回のように続けて打つこともあれば、数カ月あいちゃうこともあるんでしょうか。

1379.○証人 はい、そうです。

1380.○弁護人3 今回のメールを打った理由、その前にどこで発送したかというのは覚えていますか。

1381.○証人 送信したタイミングは余り覚えてないです。

1382.○弁護人3 メールの発送時刻を見ると、これは先ほどの甲25を見てください。2239分という記載がありますね。

1383.○証人 はい。

1384.○弁護人3 これが発送時間になるわけですか。

1385.○証人 そうですね。

1386.○弁護人3 時刻表上は、金沢文庫に着く前ぐらいか、と。電車がおくれていなければその程度なのかなと思うのですけれども、あなたの記憶はそうではありませんでしたか。

1387.○証人 実際に送信したときのことを覚えてないので、そうであったのであれば、ああ、そうなんだという程度です。

1388.○弁護人3 メールを打った動機として、あなたが近くで犯行を見ておきながら注意できなくて、自分の最低の部分を隠せなかったという記載がありますね。

1389.○証人 はい。

1390.○弁護人3 本当にそういう動機で打ったのですか。

1391.○証人 はい、そうです。

1392.○弁護人3 失礼かもしれませんけれども、最低の部分というのは、むしろ人に余りいいたくないことであって、あえてそれを伝えるというのは、どういうお気持ちなんですかね。

1393.○証人 黙っておくのも、黙ってそれを自分の中に置いておくのも、つらかったというところはあります。

1394.○弁護人3 メールの中を見ますと、女の子がみずから泣きながら訴えるまでその男を注意できなかったとあるのですが、これは事実と違うと思うのですが。

1395.○小出検察官 先生、どこが違うということですか。

1396.○弁護人3 最後まで注意できなかったというのが主尋問の内容ではなかったでしょうか。この文面は、むしろ泣きながら訴えるまでその男を注意できなかったとありますので、逆にいえば、泣きながら訴える女子高生のためにその男を注意したかのように読めるのですけれども、じゃ、そういうふうに聞きましょうか。そういう趣旨ではないんですか。

1397.○証人 違いますけれども。

1398.○弁護人3 わかりました。

 私からは以上です。

1399.○弁護人4 弁護人4からお聞きします。

 同じくメールを示します。本日提出の甲25ないし28までの4枚、あわせて示します。これはあなたの方から○○さんに送ったメールですね。

1400.○証人 はい。

1401.○弁護人4 この甲25の写真の本文の1行目の文面を示します。今電車の中で痴漢が起こったとお書きになっていますね。

1402.○証人 はい。

1403.○弁護人4 起こったというふうにお書きになっていますが、「見た」という言葉ではなくて、「起こった」という言葉を使われたのはどうしてか、説明できますか。

1404.○証人 ……。

1405.○弁護人4 できなければできないでいいです。

1406.○証人 ちょっと説明できないです。

1407.○弁護人4 それから、この後のこのメール、あなたが送信したメールの最後まで、あなたのいうおじさんが、女の子の体をさわったというような表現、あるいはこれにたぐいするような表現は使われていないんだけれども、これはどうしてか、説明できますか。

1408.○証人 痴漢の内容を伝えることが趣旨ではなかったからじゃないでしょうか。

1409.○弁護人4 それでは、この事件の翌日、14日のことですけれども、あなたはヤフーニュースで被告人が逮捕されて、本件については覚えていないと、そういうニュースに触れたということですね。

1410.○証人 はい、そうです。

1411.○弁護人4 このときに名乗り出なかったのはどうしてですか。

1412.○証人 覚えていないという言葉に対して、私自身が強い否定は感じていなかったからです。

1413.○弁護人4 それから翌日、またこれはやってないという報道に接して、そんなことはないと思って警察にいおうと思ったと。

1414.○証人 はい。

1415.○弁護人4 それで京急電鉄に電話されて、蒲田警察に事情をいわれたということですね。

1416.○証人 はい。

1417.○弁護人4 蒲田署に電話をかけて最初に何とおっしゃったんですか、あなたは。

1418.○証人 正確には覚えてないですけれども、13日にあった事件の現場にいた者というふうな形で切り出したと思います。

1419.○弁護人4 その後どういうふうにいいましたか。担当の人が出てきたんでしょう、電話に。

1420.○証人 はい、そうです。

1421.○弁護人4 どういうふうにいったんですか。

1422.○証人 そのとき痴漢の現場を見ていたので、自分の持っている情報が力になればという内容で話したと思います。

1423.○弁護人4 そうしたら、警察は何といいましたか。

1424.○証人 ちょっとどう答えたかは覚えてないです。

1425.○弁護人4 蒲田署には何回行きましたか。

1426.○証人 蒲田署には1回です。

1427.○イイ弁護人 蒲田署には1回だけ。話をしていた時間はどのくらいですか。

1428.○証人 6~7時間だったと思います。

1429.○弁護人4 調書は何通とりましたか。

1430.○証人 1つです。

1431.○弁護人4 検察庁には何回行きましたか。

1432.○証人 4回ぐらいだったと思います。

1433.○イイ弁護人 9月13日からきょうまでに4回ですか。

1434.○証人 正確に4回か数えてないのでわからないのですけれども、それぐらいだと思います。

1435.○弁護人4 調書は何通とりましたか。

1436.○証人 調書は1つだと思います。

1437.○弁護人4 蒲田署のことに戻りますけれども、最初あなたに応対したのは小林さんという人ですか。

1438.○証人 たしかそうだったと思います。

1439.○弁護人4 その人と6時間か7時間話をしたのですか。

1440.○証人 電話に出た方じゃなかった気がします。

1441.○弁護人4 名前はわからないと。

1442.○証人 忘れてしまいました。

1443.○弁護人4 同じ人と6時間か7時間話したんですか。

1444.○証人 大体そうです。

1445.○弁護人4 ほかにも検察官が来ましたか。

1446.○証人 1人サポートに入った方がいらっしゃいました。

1447.○弁護人4 それであなたはどういうふうに聞かれたんですか、警察官から、まず最初。あるいは、あなたから話し始めたんですか。

1448.○証人 どういうふうにというのは、ちょっと余り覚えていないのですけれども。

1449.○弁護人4 終わります。

1450.○弁護人 弁護人1点だけ確認させてください。

 メールで○○さんとやりとりをしたわけですが、9月13日の当日ですけど、1回目のメールは電車の中ですね。2回目、3回目のあなたからの送信メールはどこから送ったか覚えていますか。

1451.○証人 電車をおりた後だと思います。

1452.○弁護人 自宅に着くまでの間ですか。

1453.○証人 はい、そうです。

1454.○弁護人2 弁護人の酒井から質問します。

 被害者とされている女性が、その後ろにいる男性に対して振り向いて声を出したということですけれども、その振り向いたとき、女性は男性に声をかける、声をかけるというか、何かいう以外に、例えば自分の後ろ、スカートを気にするとか、そういうような様子を何かしていましたか。様子は何かあなたは見ていますか。

1455.○証人 そういうような動作の記憶はないです。

1456.○弁護人2 もう振り向いて、後ろにいた男性に声を出して、何かいったということしか覚えていないですか。

1457.○証人 はい。

1458.○弁護人2 そのほかの動作というのは覚えてないですか。

1459.○証人 はい、そうです。

1460.○弁護人2 被害者とされる女性の持ち物とか何か覚えていますか。

1461.○証人 持ち物については余りよく覚えていません。

1462.○小出検察官 検察官から若干質問します。

 弁護人の方からの質問に、あなたが当日、9月13日に乗っていた電車、これは22時8分発であるとか、何両目から乗ったかということについて、警察や検察庁で確認してわかったんですかというご質問があって、それに対して、「はい、そうです」という答えをしたかと思うのですけれども、これはそうなんですか。

1463.○証人 それまでははっきりと、自分が何両目に乗っていたかということまでは、実際乗るときは数えていないので、そこを確認してくださいという形でいわれたので、調べました。

1464.○小出検察官 検察庁の方で、先週でしたか、打ち合わせをしたときに、検事の方から、私からですけれども、そのとき乗った電車は何分発だったのか、どこから乗ったのか、何両目から乗ったのかということがわかるのであれば、調べてきてくださいというふうに申し上げましたよね。

1465.○証人 はい。

1466.○小出検察官 それでご自身でお調べになって、その結果を、きょうここの法廷で話した、そういうことになりますか。

1467.○証人 はい、そうです。

1468.○小出検察官 それから、先ほど弁護人からの質問で、2回目、3回目のメールはどこから打ったのかという質問があったかと思いますが、2回目、3回目というと、この9月13日のときに、2回も3回もメールを打ったんでしょうか。

1469.○証人 友人からの返答に対して「ありがとう」と一言返しています。

1470.○小出検察官 それは、つまり2回目のメールということになりますね。

1471.○証人 はい。

1472.○小出検察官 それはもう電車からおりて、自宅に帰る途中だった、そういうことですか。

1473.○証人 はい、そうです。

1474.○小出検察官 3回目のメールというのはあったんでしょうか。

1475.○証人 3回目はちょっと覚えてない。打ったかどうかは覚えてないです。

1476.○小出検察官 終わります。

1477.○大村裁判官 裁判官の大村からお尋ねします。

 まず、被害者とされる女性が振り返って、やめてくださいということをいう前に、言葉に出さなくても、助けを求めるそぶりですとか、そういうのはなかったのですか。

1478.○証人 目が合ったときに、それが果たしてそういったサインであるかどうかという考えはありました。

1479.○大村裁判官 目が合ったというのは、具体的に何回ぐらいあったのですか。

1480.○証人 記憶している程度では2回だったと思いますけれども、はっきりと覚えているのは1回です。

1481.○大村裁判官 その際に、あなたに何か合図を送ってきたりなどはしたのですか。

1482.○証人 いえ、目が合っただけです。

1483.○大村裁判官 先ほど傘の話が少しありましたけれども、当日に雨が降っていたかどうかというのは覚えていますか。

1484.○証人 降っていたと思います。

1485.○大村裁判官 あなたも傘を持っていたのですか。

1486.○証人 持っていませんでした。

1487.○大村裁判官 被害者とされる女性が振り返った後の話なんですけれども、その被害者とされる女性と加害者とされる男性は本当に密着していたと思うので、それが振り返った後で、離れたと思うのですけれども、女性の方が少し下がったのか、男性の方が離れたのか、どちらですか。

1488.○証人 男性がまず離れました。

1489.○大村裁判官 それから、あなたがインターネットでこの事件のことを調べて、その結果、警察に申し出ることになったのですけれども、先ほど写真がなかったとおっしゃいましたけれども、なぜネットで出ている事件が自分の目撃した事件であると考えたのですか。

1490.○証人 そのサイトを見る前に、先日メールを送った友人から、その犯人というのは植草元教授じゃないかという趣旨のメールが届きまして、その中に、その事件の内容がニュースに出ているという話を聞いて調べました。

1491.○大村裁判官 例えば自分の見た記憶と、記事として載っていた時刻とか、電車が同じことを確認したということですか。

1492.○証人 時刻というよりも、自分の大体の時刻と、乗っていた電車で、京急蒲田駅で犯人がおろされたという事実からです。

1493.○大村裁判官 それから、メールのことについてお尋ねしますけれども、まずこの写真なんですけれども、これを撮影したところであなたはそばにいたのですか。

1494.○証人 はい、いました。

1495.○大村裁判官 これは一番初めのメール、25番、表題の載っている写真のメールとそのほかの写真も、同じ機会に撮影されたものですか。

1496.○証人 大体同じ時間に撮影していると思います。

1497.○大村裁判官 何でそれを聞くかと申しますと、背景が違うというのと、充電器、バッテリーのところとか、ほかのは写ってないものもあるのですけれども、ほかのは満タンの状態なんですけれども、この25のものだけ、残りのバッテリーが1つなので、同じ機会に撮られた、撮影されたのかなというふうに思ったのですが、これは同じ機会でよろしいですか。

1498.○証人 はい。

1499.○大村裁判官 そうすると、充電器の状態、バッテリーの状態が違うというのは……。

1500.○証人 18日に撮影する際に、自分の充電状態が、ほとんどなくなっている状態だったので、撮影の途中に充電器を差し込んだままの状態で撮影しました。

1501.○大村裁判官 つまり、これは充電しながら撮影されたということでよろしいですか。

1502.○証人 はい。

1503.○大村裁判官 それから、送信メールの方が50/49みたいな表示があるのですけれども、多分これは保存できるのが50だということですか。

1504.○証人 多分そうだと思います。

1505.○大村裁判官 つまり、撮影されたのは1218日とおっしゃったと思うのですけれども、9月13日のメールはあえてその後保存しておいたということですか。

1506.○証人 はい、そうです。

1507.○大村裁判官 それが警察官ですとか、検察官の方から、そのメールを保存してくださいとか、お願いされたということですか。

1508.○証人 関係するメールに対しては保存してくださいとはいわれました。自分であえて1つ送ったメールについては保存しておりました。

1509.○大村裁判官 このメールの中で、かぎのマークみたいなのがあるのですが、これは……。

1510.○証人 これは保護をしてこのメールが流れないようにするというマークです。

1511.○宮本裁判官 あなたがこの痴漢を目撃した当時ですけれども、あなたは酔ってなかったのですか。

1512.○証人 はい、酔っていません。

1513.○宮本裁判官 酒は飲んでなかったのですか。

1514.○証人 はい。

1515.○宮本裁判官 痴漢の犯人の方は酔っている雰囲気はありましたか。

1516.○証人 当日酔っているとは思いませんでした。

1517.○宮本裁判官 例えば酒のにおいがしたとか、ふらふらしていたとか、そういう感じはなかったですか。

1518.○証人 目がうつろっぽいという印象は受けましたが、ふらふらはしていませんでした。

1519.○宮本裁判官 この犯人が傘を持っていたかどうかというのは記憶はないんですよね。

1520.○証人 はい。

1521.○宮本裁判官 かばんを持っていたかどうかは記憶はあるのですか。

1522.○証人 それも余り記憶ありません。

1523.○宮本裁判官 ただ、右肩は見えたといいましたよね。

1524.○証人 はい。

1525.○宮本裁判官 右肩にかばんをかけているとか、そういう記憶はないですか。

1526.○証人 そうですね。ないです。

1527.○宮本裁判官 あと、周囲に子供がいたんですか。

1528.○証人 はい、いました。

1529.○宮本裁判官 1人ですか。

1530.○証人 1人以上いたと思います。

1531.○宮本裁判官 お母さんに連れられた子供がいたということですか。

1532.○証人 はい。

1533.○宮本裁判官 何歳ぐらいの子供がいたのですか。

1534.○証人 詳しくはわかりませんが、小学校に上がってないような小さな子供がいたと思います。

1535.○宮本裁判官 小学校に上がってないような小さな子供がいたということですね。

1536.○証人 はい。

1537.○宮本裁判官 被害者がこの犯人に向かって、「子供の前で恥ずかしくないんですか」といったということですよね。

1538.○証人 はい。

1539.○宮本裁判官 あなたはそれを聞いて、その子供というのは、そこにいた子供だと思ったのですか。

1540.○証人 最初は何のことかと思いました。最初は自分のことを指しているのかと思ったら、後ろにいる子供のことかなというふうに考えました。

1541.○宮本裁判官 携帯電話の写真で、あなたが送信したのが1039分で、○○さんから受信したのは1055分ですが、その時刻というのは、正確というのは、警察とかで確かめられましたか。

1542.○証人 正確というのは……。

1543.○宮本裁判官 誤差がないかどうか。携帯の時計の時刻が、実際の時刻からずれてないかというのはどうですか。

1544.○証人 それは確かめてはいないと思います。

1545.○宮本裁判官 あなたとしてはどうなんですか。時刻は常に合っている。携帯の時刻は正確にしているとか。

1546.○証人 あえて5分ずらしたりとか、そういうことはしていないです。

1547.○宮本裁判官 自然にずれてくるのはあるかもしれないけれども、一応あなたとしては正確な時刻をあらわしていると思うということですか。

1548.○証人 はい、そうです。

1549.○宮本裁判官 9月14日に友人からメールが来たというのは、それは○○さんからメールが来て、きのうの事件の犯人は植草元教授じゃないかというメールが来たということですか。

1550.○証人 はい、そうです。

1551.○宮本裁判官 そのメールも残っているのですか。

1552.○証人 はい、残っています。

1553.○宮本裁判官 犯人のネクタイをつかんだ男がいますよね。

1554.○証人 はい。

1555.○宮本裁判官 その人はどこから来たのですか。

1556.○証人 車両の前方というか、前方の座席の方から来たように思います。

1557.○宮本裁判官 あなたはそのときまで、全然その男のことは認識していなかった。

1558.○証人 はい。

1559.○宮本裁判官 先ほど弁護人の質問で図面を書きましたよね。警察段階で、いた人物について図面を書きましたよね。

1560.○証人 はい。

1561.○宮本裁判官 その中ではネクタイをつかんだ男というのは入ってないわけですか。

1562.○証人 たしか書いてないと思います。

1563.○宮本裁判官 さっきの図面では書いてないでしょう。

1564.○証人 はい。

1565.○宮本裁判官 警察段階でもそれは書いてないという記憶ですか。

1566.○証人 はい。

1567.○宮本裁判官 前の方から、車両の前方の方から来たということですか。

1568.○証人 そうです。

1569.○宮本裁判官 あと、あなたは携帯を持っていたんですね、当日。

1570.○証人 はい。

1571.○宮本裁判官 カメラつきなんですか。

1572.○証人 カメラはついていません。

1573.○宮本裁判官 カメラはついてないの。

1574.○証人 はい。

1575.○宮本裁判官 証拠を撮ろうとか思わなかったんですか、痴漢の現場の。

1576.○証人 ついていたら、もしかしたらそういった行動に出たかもしれないですけれども。

1577.○宮本裁判官 ついてないの。

1578.○証人 古いので、ついていません。

1579.○宮本裁判官 あと、あなたは植草教授を応援するホームページを見たのですか。

1580.○証人 見ました。

1581.○宮本裁判官 どういうことが書いてあったのですか。

1582.○証人 自分が読んだ範囲では、そういうことをする人じゃないといった内容が書かれていたのと、活躍している場、こういうところで活躍しているといった内容が書いてある部分しか読んでないです。

1583.○宮本裁判官 あなたは今回目撃したということですが、それまでは植草教授に対する知識というのは余りなかった。前の事件とか、手鏡の事件ぐらいしか知らなかった。

1584.○証人 はい、そうです。

1585.○宮本裁判官 本とか読んだことはあるのですか。

1586.○証人 ないです。

1587.○神坂裁判長 今聞かれたことに若干関連しますけれども、この事件より前には、植草一秀という名前を聞いて、こういう風貌の人だという知識はなかったわけですか。

1588.○証人 前回の事件で見たとき、報道でしゃべっている、そういうのは見ているので、そのときの記憶はあると思いますけれども。

1589.○神坂裁判長 今回あなたが現場で女子高生の後ろに立っている人を見たときに、その人が植草一秀だというふうに、パッと見たときにはわからなかったですか。

1590.○証人 わかりませんでした。

1591.○神坂裁判長 そのときにあなたがごらんになった範囲で、被害者の後ろに立っている人物と、きょう法廷でごらんになっている被告人との違いについて、先ほど弁護人の方からも聞かれていましたけれども、顔だとかということについて、違いがあるとお感じになりましたか。

1592.○証人 いや、特にないです。

1593.○神坂裁判長 例えば当時よりも顔つきがやせているのではないかとか、やつれているのではないかというふうな印象は、特にはお持ちにならないですか。

1594.○証人 そういう印象はありませんでした。

1595.○神坂裁判長 今お持ちになっているかどうかなんだけれども、当時あなたがごらんになられて、電車の中でごらんになった男ときょう法廷でごらんになった男と比べると、特にきょうの方がやせているとか、やつれているとか、そういう印象はないということでいいですか。

1596.○証人 はい。

1597.○神坂裁判長 それから、何度かあなたの携帯電話のことを聞かれているのですけれども、もう一度示してもらえますか。甲24から31まで全部。

 撮影したのはあなたじゃないから、あなたに聞くのも悪いかもしれないけれども、この順番に撮影していったという記憶でいいですか。

1598.○証人 はい。

1599.○小出検察官 これは、1番が、重複の部分も含めて、最後に撮影しています。

1600.○証人 携帯電話の全体を写しているものに関しては、最後に撮影しました。

1601.○神坂裁判長 2枚目以降、25以降ですが、一番最上部にあるバッテリー容量の表示なんですけれども、25は赤い色の表示になっていますね。その次の262728は表示がないですね。その次の29が……。

1602.○小出検察官 26がそうですね。

1603.○神坂裁判長 26は表示がない。27は満タンの表示がある。こういうふうになっていますね。27の方ですね。こうなっていますね。

1604.○証人 はい。

1605.○神坂裁判長 これから、どうしてこういう表示になっているのかというのはわかりますか。

1606.○証人 はい。

1607.○神坂裁判長 もう一度説明してもらえますか。

1608.○証人 一番最初の赤い表示になっているものについては、バッテリーがない状態で撮影したものです。その後については、充電器を借りて、充電しながらという形です。

 ついているものと、ついてないものがあるのは、充電中は、ここは点滅するので、そのタイミングによってという話だと思います。

1609.○神坂裁判長 充電のときに点滅しているときのバッテリーそのものの表示は、黒色で表示されるのですか。

1610.○証人 満タンでこの緑の状態です。

1611.○神坂裁判長 点滅しているのは、黒色の一色で点滅するのですか。赤い色で表示されるのではなくて、赤い色の表示で点滅するのではなくて、黒色で表示するのですか、あなたの携帯電話は。

1612.○証人 点滅というのは……。

1613.○神坂裁判長 充電しているときというのは、今点滅するとおっしゃいましたよね。

1614.○証人 それは満タンの記号がついたり消えたりするということです。

1615.○神坂裁判長 黒色で点滅するのですか。

1616.○証人 黒というより、この表記が全く消えてしまうということの意味です。

1617.○神坂裁判長 消えるんですか。

1618.○証人 はい、そうです。

1619.○神坂裁判長 そうすると、27番目が、今度は満タンで表示されているのは、これは充電が終了してから撮影したということですか。

1620.○証人 終了したというより、充電中に、ちょうどこの点滅している、ついている状態を撮影したのだと思います。

1621.○神坂裁判長 ここで黒色のものがついているということは、黒色で点滅するということの意味ですよね。緑ですか、これは。

1622.○証人 そうです。

1623.○神坂裁判長 緑色から黒色で点滅するわけですね。

1624.○証人 そうです。

1625.○神坂裁判長 24番の一番最初のやつは、一番最後に撮ったものだと、こういうことですか。

1626.○証人 はい。

1627.○神坂裁判長 25番と、それから29番、要するに、送信メールと受信メールのそれぞれの表題部分が撮影されているメールというのがありますね。

1628.○証人 はい。

1629.○神坂裁判長 先ほどもちょっと聞かれていましたけれども、一番最上部に送信のところに括弧つきで49/50、それから受信の方には134/200、そういうふうになっていますね。

1630.○証人 はい。

1631.○神坂裁判長 多分この200とか50とかいうのは、保存できる全部の量ですか。

1632.○証人 だと思います。

1633.○神坂裁判長 実際に保存してあるメールの中の何番目のメールかということではないんですね。

1634.○証人 そうですね。ちょっとわからないです。

1635.○神坂裁判長 このスラッシュの左側に書いてある134とか49というのは、これは例えば実際に保存してある送受信メールかどうかというのはわからないですか。

1636.○証人 中を見て調べてみればわかると思います。

1637.○神坂裁判長 それでは終わりました。

 ご苦労さまでした。

     〔証人、退廷〕

1638.○神坂裁判長 それでは、引き続き立証の方針について伺いたいと思いますけれども、証人尋問の続行ということになると思いますが、現在までに、一応あと本日の証人以外に、被害者の証人尋問を申請していただいて、それについては、検察官、弁護人の方でご意見をいただいていますので、本日決定するということにしてよろしいですね。

 では、採用いたします。取り調べを行いますけれども、次回公判ということでよろしいでしょうか。

1639.○小出検察官 被害者ですか。

1640.○神坂裁判長 はい。

1641.○小出検察官 前回ちょっと手続で申し上げたか記憶がないんですが、被害者に対しましては、前回法廷で申し上げましたように、東京に住んでいる者ではないということ、それから高校生で学校があるということを考慮して、期日外で行っていただきたいと思います。またその際には、遮蔽措置を講じていただきたいというふうに考えております。

1642.○神坂裁判長 期日外の尋問ということでよろしいですね。

1643.○小出検察官 はい。

1644.○神坂裁判長 本日それで採用されるということでよろしいですね。

1645.○小出検察官 はい、結構です。

1646.○神坂裁判長 遮蔽については、また後日、詳細については検討することにいたしますので。

 期日外の尋問について、弁護人のご意見はいかがでしょうか。

1647.○弁護人 そういうことが前提になっていますので。

1648.○神坂裁判長 採用されるということでよろしいですね。

 それでは、被害者の尋問については、期日外の尋問とするということで決定いたしました。

 そうすると、期日を決めないといけないのですけれども、その期日については、また追って裁判所の方で日程を調整して、各当事者にご連絡いたしますので、よろしいですね。

 そういうことで、これも期日外の尋問期日については、追ってご連絡するということにいたしまして、そうすると、それ以外の検察側の立証なんですけれども、本日までの段階では、今のところ、証人はそこまでなんですけれども、あとはどういうご予定でしょうか。

1649.○小出検察官 これは打ち合わせ等では申し上げたことなんですが、検察官としては、今までの書証あるいは証拠物の関係でいいますと、そのほか、日程のことも、証拠物の申請を予定しております。

 それから、そのほかの検察官の方で調書等を証拠請求したけれども、不同意とされたものとの関係でいいますと、甲7号証、8号証の供述者である青木さん、これにつきまして、本日付で証人申請をしたいと思います。

1650.○神坂裁判長 そうすると、7と8の供述者、青木さんについては、本日付で請求されるということでよろしいですね。

1651.○小出検察官 はい。

1652.○神坂裁判長 この証人尋問の申請についての弁護人のご意見はいかがですか。

1653.○弁護人 しかるべく。

1654.○神坂裁判長 それでは、この方はもちろん公判廷でよろしいですね。

1655.○小出検察官 はい。

1656.○神坂裁判長 それでは、次回の公判としては、この方を予定するということでよろしいですか。

1657.○小出検察官 はい。

1658.○神坂裁判長 こちらの方で恐縮なんですけれども、鑑定書が不同意になっていますよね。

1659.○小出検察官 はい。

1660.○神坂裁判長 これは……。

1661.○小出検察官 この鑑定人につきましても、証人申請する予定でございますが、申しわけございませんが、今この鑑定人と連絡をとっているところでございまして、正式な申請については、いましばらくお待ちいただきたいと思います。

1662.○神坂裁判長 公判期日については、弁護人の方にも打ち合わせをした上で、決定させていただきますが、できるならば、このときに実施するということも含めて、検察側の方では、一応日程の調整と、それから申請される場合の申請の手続を、期日外でお願いするということでよろしいですかね。

1663.○小出検察官 はい。この期日というのは、同じ期日に青木さんもやって、さらに鑑定人もということですか。

1664.○神坂裁判長 はい。

1665.○小出検察官 それはもう同日付ということで結構です。

1666.○神坂裁判長 弁護人の方もそういうことでよろしいですね。

1667.○弁護人 はい。

1668.○神坂裁判長 それでは、そういうことで、公判期日を改めて決定することにいたしますけれども、これも打ち合わせの結果ということになるのですけれども、1月24日午前10時ということでよろしいですか。よろしいですね。

 それでは、次回の公判期日は、1月24日午前10時ということで、法廷は429号法廷。少なくともこの日には、検察官の準備等もあると思いますけれども、鑑定人の方も取り調べをするということにいたします。

 被害者については、これとは別の日に、日程を調整して、なるべくこの日にまとめたいとは思いますけれども、期日外での尋問を行うということにいたします。

 そこまでは、恐らく調書の同意状況から、実施することになるだろうと思うのですけれども、検察官の方から話が出ました、証拠番号でいうと甲20と甲21の供述者ですね、それからさらに別途立証の請求ブツの請求をされるということで、予定があるということのようなんですけれども、その辺については、大体いつごろを予定されるのですか。

1669.○小出検察官 ちょっとまだ現段階では……。

1670.○神坂裁判長 この段階で請求というのは……。

1671.○小出検察官 この段階ではまだ……。

1672.○神坂裁判長 それは、甲2021については、もちろん不同意とされているのですけれども、立証の趣旨、検察官が請求をされた場合であるとか、あるいは、甲2021の証人尋問のかわりの証人尋問を申請される場合の弁護人のご意向としては、大体どんなものでしょうか。

1673.○弁護人 ブツについては関連性がないということで……。

1674.○神坂裁判長 要するに、そのまま2021

1675.○弁護人 立証についても必要ないということです。

1676.○神坂裁判長 そういうことになるわけですね。

1677.○弁護人 はい。

1678.○神坂裁判長 恐らくそうなると思います。

 そういうことですけれども、裁判所の方としても日程の関係がありますので、なるべくあれしたいと思うのですけれども、これは、その段階で、まだ検察側の立証が全部終わってない段階だと思いますので、できるだけ検察官に対して、今立証することを確定しているやつはもういいのですけれども、それ以外の甲2021のかわりの証人尋問の申請と、それ以外の証人申請をされるのであれば、恐らく弁護人の方のご意見はそうなるんだろうということで予想がつきますので、なるべく具体的な必要性、関連性を示した上で、なるべく早期に請求を、期日外でも結構ですので、お願いしたいと思うのですけれども。

1679.○小出検察官 はい、了解いたしました。

1680.○神坂裁判長 よろしいですかね。

 あと、期限を区切るというのもあるのですけれども、ある程度のめどをつけたいと思う1681.ので、公判期日については1月24日ですよね。

1682.○小出検察官 はい。

1683.○神坂裁判長 それよりもさかのぼって2週間ぐらい、1月10日ぐらいに打ち合わせを入れる、打ち合わせで重複するところもあるんでしょうけれども、1月の10日前後ということで、10日くらいまでに検察官の方で、甲2021にかわる証人尋問の申請と、それから現在まだ証拠請求されていない状況について、新たな証拠請求をされるということであれば、具体的にはっきり示した上でということで、早いうちに証拠請求をお願いしたいという形で、お願いできますか。

1684.○小出検察官 はい。要望は理解いたしました。

1685.○神坂裁判長 もちろん、検察官として、それまでにできなかったものについては、こういう事情があったということであれば、それでも結構ですので、手続上の理由で、そういうこともあるということは考えておりませんが、一応きょうのところは、勧告であれば何とかなるというふうなところまでの段階にないと思いますので、一応裁判所の要望ということで、1月10日までに、甲2021にかわる証人尋問の申請と、それから現在までに証拠請求をされていないような新たな立証等の請求については、具体的な必要性、関連性を示して、証拠請求を期日外にてお願いしたいということで、お願いいたします。

1686.○小出検察官 はい。

1687.○神坂裁判長 要望として理解していただきたい。お返事をいただいたということでよろしいですかね。話も具体的な動きで示して、ちょっとできればお願いしたいと思いますけれども。

1688.○小出検察官 はい、わかりました。

1689.○神坂裁判長 よろしいですか。お願いします。

 もしそれが出た場合には、弁護人の方でそれに対してご意見があるようであれば、それが提出されてから1週間ぐらいの間に、それに対する必要性、関連性に対する反論があれば、それを述べてもらってよろしいですか。

1690.○弁護人 はい。

1691.○神坂裁判長 それを見て、裁判所の方としては、裁判所の判断をしたいと思いますので。では、一応検察側の立証については、そういうことでということなんですけれども、この段階でどうかというのは難しいのですけれども、弁護人の方として、ある程度のことに基づいて、本件の立証について、もちろん被告人質問はされるだろうと思いますけれども、それ以外の何らかの証拠請求をされる見込みがあるかどうかということについては、今の段階では、その見込みについてはどのようにお考えですか。

1692.○弁護人 今のところ、被告人質問だけを予定しております。そのように今の段階では検討しております。

1693.○神坂裁判長 これも、詳細についてはなるべく早期に決めたいとは思いますので、その辺の方針が固まれば、期日外でも結構ですので、特に証人申請される場合には、必要性であるとか、関連性であるとかの上でも、裁判所に対して、別に公判期日にこだわりませんので、その辺、書面をもって申請をされますようにお願いするということで、お願いしておきます。

 特に検察側の立証の方針が、例えばもっと広がるということがあるかもしれませんけれども、ある程度固まると、裁判所が採用するかどうかは別にして、最大限、さっき1月10日というふうにいいましたけれども、そこの段階で、もし検察官が裁判所の要望のとおり、この立証の範囲での証拠調べということに決まれば、最大限度、不採用は別にして、検察官の立証方針が決まるかなというふうに思いますので。

 それに対して、弁護人の方でも証拠請求されるのであれば、なるべく早い段階で証拠請求をしていただければと思います。請求をお願いしたいというふうにお願いしておきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 それでは、一応公判期日としては、次回、1月25日午前10時から429号法廷で、これは○○さんの証人尋問を行います。それからあとは、期日を調整した上で、期日外で被害者の証人尋問を申請するということに決定することにいたします。

 本日はここまでといたします。


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(3)18.12.20第二回公判、速記録

(801番から1200番まで)

801.○証人 人数は違います。

802.○弁護人2 もっと多い人を書いたということですか。

803.○証人 はい、そうです。

804.○弁護人2 それは大体どのくらいの人を書いたかというのは覚えていますか。

805.○証人 大体は覚えています。

806.○弁護人2 甲4号証に添付されている再現現場見取り図、先ほど検察官が示されたものと同じものですが、その中で、ちょっと邪魔になると考えたので、長さをはかっている線であるとか、その数字を消したものを示したいのですが。

807.○神坂裁判長 ちょっとそれを検察官に示してください。長さを消してあるそうです。

808.○小出検察官 こちらは入っていますけれども。

809.○弁護人2 それは邪魔にならないので。

810.○小出検察官 はい。

811.○弁護人2 こちらに、では黒のペンで、あなたがまず警察で説明したときに、どのように説明したかという人物の配置というのを、今覚えている限りで書いてもらえますか。

812.○証人 はい。

813.○弁護人2 まずあなたはどれですか。

814.○証人 これです。

815.○弁護人2 「私」というふうに書いてもらっていいですか。

816.○証人 はい。

817.○酒井弁護人 それから、あなたと、あなたの位置から、被害者とされる女性はどれですか。それは先ほどと同じで「V」で書いてもらえますか。

818.○証人 はい。

819.○弁護人2 それから、あなたが被害者に痴漢を働いているというふうなのを見たという男性はどれですか。それを「A」にしてもらえますか。

820.○証人 はい。

821.○弁護人2 あと、あなたとその被害者と被告人との間にいたというのが女性ですか。

822.○証人 はい。

823.○弁護人2 それは「女」というふうに書いてください。

824.○証人 はい。

825.○弁護人2 そのほか性別のわかる人はいますか。

826.○証人 はい。

827.○弁護人2 それも性別を書いてください。

828.○証人 はい。

829.○弁護人2 これは子供ですか。

830.○証人 はい。

831.○弁護人2 子供の「子」でいいです。男か女かは覚えてないですか、子供は。

832.○証人 女の子だったという記憶です。

833.○弁護人2 これは大体座席の位置なんかもわかると思いますけれども、そのとおりで大体間違いないですか。

834.○証人 はい。

835.○神坂裁判長 ちょっとそこまででよろしいですか。

836.○酒井弁護人 はい。

837.○神坂裁判長 はい、結構です。

838.○小出検察官 こちらもよろしいですか。

839.○弁護人2 はい。

840.○神坂裁判長 確認させてもらいたいんですけれども、今記載したのは、あなたが警察でこのように書いたと思うという記憶に基づいて記載したと聞いてよろしいですか。

841.○証人 はい、そうです。

842.○神坂裁判長 そういうことですね。

 はい、どうぞ。

843.○弁護人2 それでは質問を続けますが、そのとき、警察で書いてからきょうまで844.の間に、その警察で書いた図面というのは、あなたは見たことがありますか。

845.○証人 見たという記憶はありません。

846.○弁護人2 今はもうこういうふうな人がいたということをあなた自身は覚えてないんですか。

847.○証人 この程度であれば覚えています。

848.○弁護人2 このぐらいの人がいたのを覚えていますか。

849.○証人 はい。

850.○弁護人2 先ほど向きを書いてもらった人以外の人、つまり、この「私」と間にいる女の人と被告者以外の人が、どちらを向いていたかというのを今覚えていますか。

851.○証人 ちょっとわからないです。

852.○弁護人2 個別に聞いて、例えばあなたと反対側のドアの近くにいる、図の中で、2人男の人がいますけれども、その右側の男の人、この人がどちらを向いていたかというのは覚えていますか。

853.○証人 ちょっと覚えていません。

854.○弁護人2 左側の人も覚えてないですか。

855.○証人 はい。

856.○弁護人2 この右側の男の人というのは、スーツを着ていたかどうかというのは覚えていますか。

857.○証人 スーツを着ていました。

858.○弁護人2 左側の男の人はどうですか。

859.○証人 スーツを着ていました。

860.○弁護人2 どんな色のスーツとか、そういうことは覚えていますか。

861.○証人 それは覚えてないです。

862.○弁護人2 そこまでは覚えてないと。

863.○証人 はい。

864.○弁護人2 スーツを着ていたというのはサラリーマン風なんですか。

865.○証人 はい、そうです。

866.○弁護人2 今確認した人の位置というのは、どの時点での位置ということになるんですか。つまり、電車に乗った後、あなたが女子高生と男性というのを認識した時点とか、あるいはその後、痴漢行為を確認した時点であるとか、あるいは女子高生がその痴漢行為について声を上げた後の時点、それはどの時点ということになるのでしょうか。

867.○証人 この構成は余り始終変わらなかったように思います。

868.○弁護人2 基本的に電車に乗っている間はこの位置ということですか。

869.○証人 はい、そうです。

870.○弁護人2 自分の前であるとか、あるいは注目していたというその被害者あるいは被告人以外の人の場所というのを覚えていたというのは、何か理由があるのですか。

871.○証人 おじさんの後ろにいた女性に関しては、母親と子供連れだったので、その会話は聞こえてきたのは覚えています。詳しい内容までは覚えていません。私の斜め後ろにいる女性については、入ってくるときにちらっと見えたというのと、余りぶつからないように距離をはかろうとしたという記憶はあります。反対側のドアの近くにいる男性については、自分がそちらの方を向いていたので見えました。

872.○弁護人2 そのほかにあなたの位置から見えたけれども、覚えていない人とか、あなたの位置から見えなかったけれども、いた人というのもいるんですか。

873.○証人 はい、大勢いると思います。

874.○弁護人2 ドアとドアの間のスペースといいますか、座席がないところがありますよね。

875.○証人 はい。

876.○弁護人2 この部分には何人ぐらいの人がいたというような感じですか。

877.○証人 私の後ろにもしかしたら人がいたかもしれませんが、余り覚えていません。

878.○弁護人2 全部で何人ぐらいいたかもわからないと。

879.○証人 はい。

880.○酒井弁護人 では、事件の内容についてお聞きしますけれども、まずこの事件、電車の中で痴漢の事件を見るまでというのは、被害者の女性というのはあなたは見たことがありますか。

881.○証人 電車に乗る前に、女子高生がいるなというのは気づいていました。

882.○弁護人2 あなたより前にいたわけですか。

883.○証人 はい。

884.○弁護人2 その人、女子高生がいるなと思った女子高生と、今回乗った女子高生が同じ人かどうかはわからないですか、被害に遭った女性。

885.○証人 正確にはわからないです。

886.○弁護人2 あなたはほかには、この車両のあなた付近には、この被害に遭ったという女子高生以外の女子高生が乗っているというのは何か知っていますか。

887.○証人 知りません。

888.○弁護人2 電車に乗る前にその女子高生を見たという以前は見たことはないんですか。

889.○証人 何をでしょうか。

890.○弁護人2 その女子高生。

891.○証人 見ていません。

892.○弁護人2 その日初めて見た人ということですか。

893.○証人 はい、そうです。

894.○弁護人2 それから、あなたが警察や検察庁で話していたときは、被害者の後ろにいた男性というのがいると思うのですけれども、それが今回被告人であるという話だったと思うのですけど、あなたは、その後ろにいる男性というのは、初めてこの男性がいるなと認識したのはいつですか、電車の中で。

895.○証人 それは電車に乗って間もなくです。

896.○弁護人2 その男性が電車に乗る前であるとか、あるいはあなたが乗ったとき、既に乗っていたとか、そういうことはわかりますか。

897.○証人 わかりません。

898.○弁護人2その男性を最初に見たとき、つまり、被害者の後ろにいて、痴漢行為をしているのではないかとあなたが最終的に思った人、その男性を初めて見たとき、あなたがその男性を最初に見て、容姿とか姿形について何か記憶に残っていることというのはありますか。

899.○証人 はい、あります。

900.○弁護人2 どんなことですか。

901.○証人 重心が右に傾いていて変な格好というか、変な格好をしているなというふうに思いました。

902.○弁護人2 服装や髪型とか、そういうことでは何か記憶に残っていることはありますか。

903.○証人 服装はスーツを着ているというぐらいで、特に記憶はありません。

904.○弁護人2 先ほどの重心が右に傾いているというお話なんですが、いまいちイメージができないんですけれども、体自体が傾いているのですか。

905.○証人 やや傾いていました。

906.○弁護人2 やや。

907.○証人 はい。

908.○弁護人2 話がまた飛ぶんですけれども、先ほどの主尋問の中で、あなたがドアからドアにかけてのつり革を持っていたという話だったのですけれども、それはこの電車909.の中のドアとドアの間の部分というのは、まず、つり革が座席と座席の間にあるんですよね。

910.○証人 はい。

911.○弁護人2 それから座席と座席というのもよくわからないのですけれども、ドアと並行にある部分と、それからドアとドアの間に垂直というか、ドアに対して垂直にあるつり革とある。あなたが持っていたというのはその垂直にあるつり革ですか。

912.○証人 はい、そうです。

913.○弁護人2 要はドアとドアに対して垂直に並んでいるつり革、そのつり革も幾つかあると思うのですけれども、どのあたりの位置というのは覚えていますか。

914.○証人 一番乗車口に近いものです。

915.○弁護人2 あなたはドアに対して全く並行にというか、入ってきたドアに背を向けて立っていたということですか。

916.○証人 はい、そうです。

917.○弁護人2どちら側かに斜めになっていたということはないんですか。つまり、ちょっと進行方向に向いているとか、あるいはちょっと進行方向に対して後ろを向いているとか、そういうことはないですか。

918.○証人 なかったと思います。

919.○弁護人2 進行方向に対して真横ということですか。

920.○証人 はい。

921.○弁護人2 それから、先ほどあなたと被害者、あるいはその後ろにいた男性との間にいる女性について、顔はよく見てないというお話だったと思うのですけれども、これはあえて見ていなかったということなんですか。つまり、見えない位置にあったのか、全く見てなかったのかという意味では、どちらが正しいんでしょうか。

922.○証人 のぞき込むようなことはしませんでした。側面は見えたと思いますが、顔の詳しい感じがわかるような位置ではありませんでした。

923.○弁護人2 あなたの右前方に立っているんですよね。

924.○証人 はい。

925.○弁護人2 あなたの位置との関係でいうと、あなたの方には左肩を向けているような感じなんですか。

926.○証人 そうだと思います。

927.○弁護人2 図面では書いてもらったのですけれども、あなたとその女性との距離というのはどのくらい離れているのですか。例えば女性の左肩とあなたの体の一番近い部分、これはどのくらい離れていたのですか。

928.○証人 数十センチだと思います。

929.○弁護人2 数十センチというと、かなり幅が広いと思うのですけれども、例えば今いる私の位置とあなたの位置よりも近いですか。

930.○証人 近いです。

931.○弁護人2 もっと近いと。

932.○神坂裁判長 それではわかりません。

933.○弁護人2 済みません。そうすると、例えば私のひじから手の先までという部分、このぐらいというよりもっと近いですか。

934.○証人 ……。

935.○小出検察官 済みません。ちょっとはかっていただかないと。

936.○神坂裁判長 済みません、ちょっとよろしいですか。そういう不確定な位置でやるとあれですから、今あなたが座っている証言台の一番前のふち、前側のふちがありますよね。

937.○証人 はい。

938.○神坂裁判長 その位置よりも近いですか。

939.○証人 女性の方が近いですね。

940.○神坂裁判長 もっと近いと。

941.○証人 はい。

942.○神坂裁判長 そうすると、今の位置を計測してもらえますか。

943.○裁判所職員 ちょうど70センチです。

944.○神坂裁判長 70センチ。もう少し近いんですね。

945.○証人 はい。

946.○神坂裁判長 それを基準にして、半分くらいとか、3分の2くらいとか、あるいはもっと近いとかいえますか。

947.○証人 このあたりだったと思います。肩がここら辺にあるということです。

948.○弁護人2 ここというのはここですか。

949.○証人 そうです。この真っすぐになっているところ。

950.○神坂裁判長 証言台の肩があったと思われる付近の位置に指を置いてもらえますか。

951.○証人 はい。

952.○神坂裁判長 じゃ、証人の体からの長さを計測してください。

953.○小出検察官 右肩から。

954.○神坂裁判長 右。

955.○小出検察官 わかりませんけれども、弁護人の尋問だと思いますので、どこからはかってくださいとかいえばいいのではないかと思います。

956.○神坂裁判長 弁護人の方から指示してもらえますか。

957.○弁護人2 はい。まずあなたがこちらを向いているときに、女性の左肩というのはどこら辺にあったということですか。

958.○証人 ここら辺です。

959.○弁護人2 この辺でもうさわれるということですか。

960.○証人 そうです。

961.○弁護人2 指先ですか。手のひらですか。

962.○証人 手のひらです。

963.○酒井弁護人 手のひらのあたり。このあたり。

964.○証人 はい。

965.○弁護人2 ここを計測してもらっていいですか。要はあなたのネクタイのあたり、ネクタイからの距離、ネクタイの結び目の位置からの距離をちょっと計測してください。

966.○裁判所職員 40センチです。

967.○弁護人2 40センチぐらい。あなたの体の中心ぐらいから40センチぐらい離れたところに肩があったということですね。

968.○証人 はい。

969.○弁護人2 あなたに対しては大体45度ぐらいの角度にいたということですか。

970.○証人 はい、大体です。

971.○弁護人2 被害者というのはあなたの真っ正面にいたのですか。

972.○証人 ほぼ真っ正面です。

973.○弁護人2 ほぼというと、どちらかにずれているということですか。

974.○証人 自分の中心線から比較して多少前後というか左右はあると思います。

975.○弁護人2 大体真っ正面ということですか。

976.○証人 はい。

977.○弁護人2 右側にずれているとか、左側にずれているというのははっきりしない。

978.○証人 そうですね。

979.○弁護人2 被害に遭った方というのは、あなたに対しては真横を向いているということになるんですか。

980.○証人 はい、そうです。

981.○弁護人2 もっと正確にいうと、この図だと、あなたの左側を向いている。

982.○証人 はい。

983.○弁護人2 あなたの左側を向いて真横に立っているということですか。

984.○証人 はい。

985.○弁護人2 そうすると、被害者はあなたに対して右肩を向けている。

986.○証人 左。

987.○弁護人2 失礼。左肩を向けて立っているということですか。

988.○証人 はい。

989.○弁護人2 その距離というのは大体わかりますか、どのくらいというのは。手を伸ばせば届くぐらいですか。

990.○証人 届きはしないと思います。

991.○酒井弁護人 届かない位置。先ほどはかったここの証言台の一番前、ここよりも遠いですか。

992.○証人 そこら辺じゃないでしょうか。

993.○弁護人2 このあたりに肩があったぐらい。

994.○証人 そうですね。はい。

995.○弁護人2 先ほどはかったのと大体でいいんで。

996.○神坂裁判長 70センチ。

997.○弁護人2 ええ。

998.○神坂裁判長 もう一回はかりましょうか。

999.○弁護人2 ええ。

1000.○神坂裁判長 では、もう一度。

1001.○弁護人2 またネクタイの結び目から証言台の前の端。ちょっと離れましたかね、さっきよりも。

1002.○小出検察官 体勢は変わりますからね、多少は。

1003.○弁護人2 今の最初のいる位置で、この辺ということで問題ないですか。

1004.○証人 はい。

1005.○弁護人2 大体。

1006.○証人 はい。

1007.○小出検察官 今、目盛りでいいますと。

1008.○神坂裁判長 目盛りは。

1009.○弁護人2 77センチとなっていますけれども、このぐらい?まあこのぐらいというか、このぐらいの位置。

1010.○証人 はい。

1011.○弁護人2 そういう間隔。

1012.○証人 はい。

1013.○神坂裁判長 センチは、77センチが正確ということです。

1014.○弁護人2 はい。そうすると、あなたとその被害者や被告人との間にいた女性というのは、被害者の方を向いていたということでいいですか、向きとしては。

1015.○証人 まあそっち側だと思います。

1016.○弁護人2 そっちの方を向いていたと。この女性がこの事件については何か気づいた様子とか、そういうのはあなたはわからないですか。

1017.○証人 はい。

1018.○弁護人2 それから、その被害に遭った女性の後ろにいた男性について、あなたはその男性の全身が見えたんですか、上から下まで。

1019.○証人 いえ、全身が見えたわけではありません。

1020.○弁護人2 全身は見えてない。どこから見えたのでしょうか。

1021.○証人 上半身は見えました。

1022.○弁護人2 上半身というと、どこですか。腰か肩か胸か、どこから見えたのですか。

1023.○証人 女子高生とかぶっている部分もあるので、正確にここからというのはちょっといいにくいのですが。

1024.○弁護人2 肩は見えましたか。

1025.○小出検察官 肩というのは左肩という意味ですか。

1026.○弁護人2 左肩でもいいですし。左肩は見えましたか。

1027.○証人 左肩は余り記憶にありません。

1028.○弁護人2 覚えてない。右の肩はどうですか。

1029.○証人 見えました。

1030.○弁護人2 右の肩は見えた。左肩というのはあなたから見て近い方の肩ですね。

1031.○証人 はい、そうです。

1032.○弁護人2 近い方の肩は見えなかったと。

1033.○証人 見えていたかもしれませんけれども、余り注意はしてなかったので、記憶にはありません。

1034.○弁護人2 記憶にない。被害者の女性の後ろにいた男性というのは、やはり被害者の女性と同じ方向を向いていた、全く同じ。

1035.○証人 はい、そうです。

1036.○弁護人2 というと、あなたの体の向きに対して垂直ということになるんですか。

1037.○証人 ……。

1038.○弁護人2 あなたが前を向いているのに対して、位置が違いますけど、方向としては前。

1039.○証人 はい、そうです。

1040.○弁護人2 あなたと被害者とされる女性やその後ろにいた男性との間には、その女性以外にはだれもいなかった。

1041.○証人 はい、そうです。

1042.○弁護人2 あなたからは、被害者の女性の全身というのは、やはり見ようと思えば全身見えるような位置だったのですか。

1043.○証人 ……。

1044.○弁護人2 例えば足の先から頭まで。

1045.○証人 足の先は記憶にないんですが、ほぼ見えたと思います。

1046.○弁護人2 先ほど被害者の女性の後ろにいた男性について、女子高生とかぶっている部分があって見えないというのがありましたけれども、かぶっているというのはどういう意味ですか。

1047.○証人 密着していたために隠れているということです。

1048.○弁護人2 女子高生の陰になっていて見えない、男性が。

1049.○証人 はい、そうです。

1050.○弁護人2 それから被害者の左の腰からお尻にかけて、体の側面をさわっているのが見えた。

1051.○証人 はい。

1052.○弁護人2 さわっている手というのは、手のどの部分が見えたか。指先からどこまでか。指先は見えないか。

1053.○証人 はい。

1054.○弁護人2 指先は見えた。

1055.○証人 指先の手と、あと手の甲と、あと袖口も見えました。

1056.○弁護人2 袖口が見えるぐらいで、それより先、ひじまでとかは見えない。

1057.○証人 ひじの部分に関しては、前に立っている女性がいたので、余りよく見えなかったです。

1058.○酒井弁護人 袖口ぐらいまでは見えたということですか。

1059.○証人 はい。

1060.○弁護人2 さわっていたという状態なんですけれども、さわっていたというのは、被害者とされる女性の体の側面に手が触れているということですか。

1061.○証人 はい、そうです。

1062.○弁護人2 それ以上にその手が動いているとか、あるいは女子高生、被害者の女性の体をなぜているとか、そういうものは見たことがありますか。

1063.○証人 自分が見ている中ではありません。

1064.○弁護人2 ただ触れている。

1065.○証人 はい。

1066.○弁護人2 動いたりはしていない。

1067.○証人 はい。

1068.○弁護人2 それから、あなたが見たその手ですけれども、その手は要は、指を全部真っすぐに伸ばしたような状態なんですか。

1069.○証人 はい、そうです。

1070.○弁護人2 指先はどちらというのはおかしいですけど、地面に対してどういう方向を向いていたかというのは覚えていますか。つまり、真横なのか、真下なのか、それとも斜めなのか。

1071.○証人 真下ではありませんでした。

1072.○弁護人2 真下ではないというのは。

1073.○証人 正確に横か斜めかというのは覚えていませんけど。

1074.○弁護人2 斜めだったのではないかということですか。

1075.○小出検察官 今、真横か斜めかわからないとおっしゃったんです。

1076.○弁護人2 横か斜めかはわからない。

1077.○証人 はい、詳しくは記憶してないです。

1078.○弁護人2 女子高生の体の側面に、要は手のひらをこのままつけている。要は下をつけているとかじゃなくて、手のひらを横につけているということですかね。

1079.○証人 はい、そうです。

1080.○弁護人2 それで体の側面の腰からお尻にかけてというのはちょっとわからなかったのですが、手のひらが触っている場所は体の真横あたりですか。

1081.○証人 ……。

1082.○弁護人2 あなたが見たとき。

1083.○証人 女子高生の側面です。

1084.○弁護人2 側面。そのあたりに手のひらがあった。

1085.○証人 はい、そうです。

1086.○弁護人2 そうすると、指はもうちょっと前になるんですか。

1087.○証人 そんなに前には出ていない。

1088.○弁護人2 それから、その手が見えたことについては、間に立っていた女性の左側というか、左側から見えたということだったんですか。

1089.○証人 はい、左側にもスペースがありましたし、左の肩越し、上からでも十分見えました。

1090.○弁護人2 肩の上から見えたというのは、手が見えたんですか。

1091.○証人 はい、そうです。

1092.○弁護人2 袖とかじゃなくて、手が肩の上から見えたと。

1093.○小出検察官 手というのはどこ。

1094.○弁護人2 手の甲です。

1095.○証人 手の甲、それは一体として見えていました。

1096.○弁護人2 それは肩の上から見えたと。

1097.○証人 見えました。

1098.○弁護人2 肩の上からも動きが見えたというのは、あなたが見る位置を変えているんですか。

1099.○証人 見る位置は変えていません。

1100.○弁護人2 それから、あなたが見た女性、被害者とされている女性、女性の前というのはだれがいましたか。

1101.○証人 はい、人がいました。

1102.○弁護人2 それは女性のすぐ前ということですか。

1103.○証人 はい、そうです。

1104.○弁護人2 先ほども書いてもらった図面にこれを書いてもらうことはできますか。

1105.○証人 はい。

1106.○弁護人2 どの位置にいたか、丸で示してもらっていいですか。

1107.○証人 真っ正面か、ややずれているのか、わからないですけれども。

1108.○弁護人2 真っ正面かずれているかはわからないけれども、前に人がいたと。

1109.○証人 はい。

1110.○弁護人2 この範囲からこの範囲というのを、丸を1つ書いてもらってもいいですか。大体このくらいと。

1111.○証人 はい。

1112.○弁護人2 大体このくらいの位置というふうに。

1113.○証人 余り記憶にないんですが、こういった感じではないかと思います。

1114.○弁護人2 その人はどちらを向いていたか覚えていますか。

1115.○証人 後ろだと思いますけれども、確かではないです。

1116.○弁護人2 進行方向を向いていたということですか。

1117.○証人 はい。

1118.○弁護人2 はっきり覚えてない、よくわからないということですね。

1119.○証人 はい。

1120.○弁護人2 わかりました。ごらんになりますか。

1121.○神坂裁判長 はい。

1122.○小出検察官 よろしいですか。

1123.○弁護人2 はい、どうぞ。

 それから、この電車の中では、座席の前というのも人が立っていた状態ですか。

1124.○証人 はい、そうです。

1125.○弁護人2 大体それはもう埋まるというか、特にあいているというのはなくて。

1126.○証人 そのように記憶しています。

1127.○弁護人2 そういう記憶だと。今書いてもらった被害者の前にいた人というのは、座席の前のつり革につかまっている人ではないんですか。

1128.○証人 ちょっとそれはわからないです。

1129.○弁護人2 それから、最初にこの女子高生の左の側面、体の側面に男の人の手が触れているというのに気づいたのは、電車が出発してからどのくらいたってからですか。

1130.○証人 自分の感覚で1~2分ぐらいだったと思います。

1131.○弁護人2 1~2分たってから、それに気づいた。

1132.○証人 はい。

1133.○弁護人2 その後、あなたが見ていた時間がさらに1~2分。2分くらい。

1134.○小出検察官 先ほどは2分くらいという証言をされました。

1135.○弁護人2 あなたが、最初はどうかわからなかったけれども、その後、痴漢だと確信したというふうなお話がありましたけれども、それはその手がずっと被害者の体の左の側面についていたからということなんですか。

1136.○証人 はい、そうです。

1137.○弁護人2 それから、被害者の後ろにいた男性の手、両手が前の方に出ているというお話がありましたけれども、男性の手というのはどこまで見えたんですか。肩は見えたんですか。先ほどの話だと右肩は見えたと。

1138.○証人 右肩は見えました。

1139.○弁護人2 右肩から右手の先はどこまで見えたんですか。

1140.○証人 その先は見えませんでした。右の腕のつけ根ぐらい。

1141.○弁護人2 腕のつけ根ぐらい。

1142.○証人 はい。

1143.○弁護人2 左肩は見えた記憶はない。覚えてない。

1144.○証人 はい。

1145.○弁護人2 左手の方で見えたのは袖口から先ということですか。

1146.○証人 はい、そうです。

1147.○弁護人2 それから、被害者が声を上げるまで、痴漢の被害に遭っているということについて声を上げるまでの間というのは、あなたは被害者の顔を見たりしていたんですか。あるいは後ろにいる男性の顔を見たことはあったのですか。

1148.○証人 はい、ありました。

1149.○弁護人2 その左手、左側面に触れているという左手も見たりしたんですか。

1150.○証人 はい、そうです。

1151.○弁護人2 それは顔については、先ほど、要は自分が見詰めていることで、それに気づいてやめることを期待して見ていたというようなことがありましたけれども、左側面をさわっている手については、何か意図があって見ていたのですか。

1152.○証人 確信を持てない間については、もっとエスカレートした行為に発展したらまずいなというふうには思っていました。

1153.○弁護人2 注意して見ていたということですか。

1154.○証人 はい。

1155.○弁護人2 それから、被害者の後ろにいた男性というのは、少しうつろな目をしてぼーっとしていたということなんですか。

1156.○証人 はい。

1157.○弁護人2 どこを見ていたというのは記憶はないですか。

1158.○証人 車両の前方を見ていました。

1159.○弁護人2 前の方を見ていた。

1160.○証人 はい。

1161.○弁護人2 では、自分の前にいる女子高生を見ていたり、自分の手を見ていたりということはないんですか、あなたの見ていた範囲では。

1162.○証人 そうですね。

1163.○弁護人2 真っすぐ前を見ていた。

1164.○証人 真っすぐ前の方を見ていましたが、視点は定まっていないような感じでした。

1165.○弁護人2 それから、先ほどから右に重心がかかっているということなんですが、体全体としては前かがみであるとか、真っすぐ立っているとか、そういうのは何かありますか。

1166.○証人 多少ちょっと覆うような感じだったと思います。

1167.○弁護人2 覆うような感じ。

1168.○証人 はい。

1169.○弁護人2 被害者を覆っている。

1170.○証人 はい。

1171.○弁護人2 被害者の頭とその後ろにいる男性の頭というのは、どういう位置関係にあったのですか。真っすぐ並んで後ろにいるような。

1172.○証人 そこまで頭は接近していなかったと思います。

1173.○弁護人2 頭は接近していないと。

1174.○証人 はい。

1175.○弁護人2 位置関係としてはその男性と被害に遭った女性というのは真っすぐ並んでいるといったらおかしいのですけれども、男性の体の真ん前に同じ方向を向いて女性の体がある、そういうことですか。

1176.○証人 はい、そうです。

1177.○弁護人2 頭はそこまで接近してない。というのは、ただ、あなたの話だと、体が密着していたということですよね。

1178.○証人 はい。

1179.○弁護人2 体が密着して頭は離れていたということですかね。

1180.○証人 身長差があったので、そういうふうな感じでした。

1181.○弁護人2 どちらかというと、前かがみに。

1182.○証人 前かがみのように見えました。

1183.○弁護人2 それから、あなたは、その被害者というのは、声を上げた女性の後ろにいた男性が、きょうここにいる被告人だというふうにいわれたのですけれども、きょうここにいる被告人と、あなたが当日見たその人とは、何か違いがありますか。

1184.○証人 はい。

1185.○弁護人2 どこが違いますか。

1186.○証人 イメージとしては、当日は覇気がないようなイメージが。

1187.○弁護人2 そういう様子という以外、要は見た目ですね、格好であるとか、髪型であるとか、そういうものは何か違いがございますか。

1188.○証人 特に変わりはないと思います。

1189.○弁護人2 これと同じような感じですか。これというのは、こういう被告人と同じようなという感じですか。

1190.○証人 ネクタイはつけていました。

1191.○弁護人2 顔についてはどうですか。

1192.○証人 正直、眼鏡については、つけていたかつけていなかったかは覚えていません。

1193.○弁護人2 これと違うような眼鏡をかけているとかというのはわかりますか。

1194.○証人 眼鏡については余り記憶がありません。

1195.○弁護人2 それから、あなた自身は、被害者の後ろにいる男性というのは注意して見ていたわけですね、顔を。

1196.○証人 はい。

1197.○弁護人2 それは覚えている。

1198.○証人 はい。

1199.○弁護人2 それから、先ほど事件の後、警察に行く前、インターネットなんかでニュースを見たりしたということですけれども、そういうときに、被告人の顔をインターネットなんかで見たことはありますか。

1200.○証人 特にそのときの記事に写真がついてなかったように思いますが、よくわかりません。


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(2)18.12.20第二回公判、速記録

(401番から800番まで)

401.○証人 少しうつろな目をしていました。

402.○小出検察官 ぼうっとしたような感じですか。

403.○証人 はい、そうです。

404.○小出検察官 あなたはそのとき、おじさんの顔をはっきりと見たのですか。

405.○証人 はい、見ました。

406.○小出検察官 なぜあなたはそのとき、おじさんの顔をはっきりと見たのですか。

407.○証人 私が注視することで、おじさんの方がそういった行為をやめないかというふうに考えました。

408.○小出検察官 それで、おじさんの顔をじっと見たりもしたと、そういうことになるわけですか。

409.○証人 はい、そうです。

410.○小出検察官 あなたがその痴漢行為を目撃していた間、女子高生の方はどういう顔をしていたかわかりますか。

411.○証人 はっきりとは覚えていませんが、困惑したような表情をしていました。

412.○小出検察官 その間、女子高生があなたの方を見て、あなたも見て女子高生と目が合ったということもあったのですか。

413.○証人 はい、ありました。

414.○小出検察官 女子高生はどうしてあなたの方を見たんだと考えましたか。

415.○証人 助けを求めているんじゃないかという考えはありました。

416.○小出検察官 さて、あなたとしては、しばらくおじさんと女子高生の様子に注目していて、結局のところ、おじさんが女子高生に痴漢行為を働いているのに間違いないと確信したと、そういうことになるわけですね。

417.○証人 はい、そうです。

418.○小出検察官 それで、あなたはどうしたのですか。何か具体的な行動を起こしたりしましたか。

419.○証人 注意しようとは考えましたが、なかなかできずにいました。

420.○小出検察官 注意しようというのは、おじさんに注意しよう、やめなさいと注意しようと、そういうことですか。

421.○証人 はい、そうです。

422.○小出検察官 女子高生に声をかけて助けてあげようとか、そういうことは考えませんでしたか。

423.○証人 それもありました。

424.○小出検察官 実際にはそうはしなかったということですか。

425.○証人 はい、そうです。

426.○小出検察官 先ほども少し証言されましたけれども、おじさんの痴漢行為をやめさせるために、おじさんの顔をじっと見るというぐらいのことはされたんですね。

427.○証人 はい、そうです。

428.○小出検察官 ただ、それ以上に声をかけたり、具体的な行動として、おじさんに注意をしたり、女子高生を助けたりしたということはなかったと、そういうことになるわけですか。

429.○証人 はい、そうです。

430.○小出検察官 あなたとしては、痴漢行為だと確信したのに、なぜおじさんに注意したり、女子高生を助けたりしなかったのでしょうか。

431.○証人 注意したことで、相手が暴れしたりしたら嫌だなというふうには考えました。また、注意しても、女子高生の方が自分に賛同してくれなかったら困るなというふうにも考えました。

432.○小出検察官 今、女子高生が自分に賛同してくれなかったらということをおっしゃっていたのですが、あなたとしては、これは女子高生は、痴漢の被害に遭っているに違いないと確信していたわけでしょう。

433.○証人 はい。

434.○小出検察官 どうして女子高生が賛同してくれない可能性もあるというふうに考えたのですか。

435.○証人 痴漢されたことを恥ずかしがってなかなかいえずに、いえなくなってしまうといったことです。

436.○小出検察官 そういうことも考えると不安になったと、そういうことですか。

437.○証人 はい、そうです。

438.○小出検察官 あなたは、おじさんが女子高生に痴漢行為を働いたということに確信が持てないために、それで注意したり、助けたりすることができなかったということではなかったのですね。

439.○証人 はい、そうです。

440.○小出検察官 さて、その後、おじさんと女子高生はどうなったんですか。

441.○証人 女子高生の方からおじさんに対して抗議をするという形になりました。

442.○小出検察官 具体的には、その女子高生はどういう言動をとったということになりますか。

443.○証人 後ろに振り返って、最初の第一声はよく覚えていませんが、「何やっているんですか、子供の前で恥ずかしくないんですか」といったことをいっていました。

444.○小出検察官 そのほかに、女子高生がそのときにいっていたことで覚えていることはありますか。

445.○証人 その後続けて「次でおりてください」というようなことをいっていました。

446.○小出検察官 そういうことをいっているときの女子高生の声はどんな感じでしたか。

447.○証人 はっきりと毅然とした声でした。

448.○小出検察官 女子高生がそういう抗議をしているときに、ずっと毅然としたはっきりした声でいっていましたか。

449.○証人 最後の方は涙まじりでした。

450.○小出検察官 いい終わった後はどうでしたか。

451.○証人 泣き出してしまいました。

452.○小出検察官 一方、おじさんの方は、女子高生から抗議を受けてどうしたのですか。

453.○証人 女子高生が振り向いた直後、後ろの方に下がって、乗車したドアとは反対のドアの方を向きました。

454.○小出検察官 まず女子高生が振り返ったあたりで、おじさんの左手はどうなったんですか。

455.○証人 女子高生から離れました。

456.○小出検察官 それはそのあたりで痴漢行為自体は終わったと、そういうことになるわけですか。

457.○証人 はい、そうです。

458.○小出検察官 それからおじさんは、後ろに下がったり、あるいはドアの方に向いたりしたと、そういうことになるのですか。

459.○証人 はい、そうです。

460.○小出検察官 そのほかに、おじさんのそのころの言動で何か覚えていることはありますか。

461.○証人 右手だか左だか忘れましたが、顔の前に上げて、女子高生と距離をはかるような動きをしました。

462.○小出検察官 そのほか、おじさんの動きで、あるいは言動で覚えていることはありますか。

463.○証人 女子高生のいっている言葉に対してうなずくようなしぐさをしていました。

464.○小出検察官 女子高生に対しておじさんが何かいうといった場面はありましたか。

465.○証人 「わかったから」というようなことをいっていたと思います。

466.○小出検察官 それは女子高生が抗議をしているころの話ですか。

467.○証人 そうです。

468.○小出検察官 女子高生は抗議をして声を発した後、泣き出してしまったと、そういうことでしたね。

469.○証人 はい、そうです。

470.○小出検察官 それはどういう感じで、どちらの方を向いて、どんな感じで泣き出してしまったのですか。

471.○証人 抗議をしている場所で泣き出しました。

472.○小出検察官 泣き出した体勢というか、それはどんな感じだったのですか。顔を上げたまま涙をぼろぼろ流すとか、そういう感じですか。それともうつむいたり、顔を押さえたりとか、そのあたりはどうですか。

473.○証人 うつむいて顔を押さえていたと思います。

474.○小出検察官 女子高生が顔を押さえて泣き始めてからのおじさんの言動で何か覚えていることはありますか。

475.○証人 余り記憶にありません。

476.○小出検察官 余り記憶にないですか。

477.○証人 はい。

478.○小出検察官 泣き出してしまった女子高生の方におじさんが近寄っていったとかということはありませんでしたか。

479.○証人 女子高生が泣き出した位置から少し戻って、後ろの方に向いたときに、おじさんの方が近寄って、何か話しかけようとしたしぐさ、動きはありました。

480.○小出検察官 おじさんは女子高生に対して、自分は何もしてないんだとか、人違いだとか、そういうことはいっていませんでしたか。

481.○証人 そういった話の内容については聞き取れませんでした。

482.○小出検察官 その後おじさんや女子高生はどうなったんですか。

483.○証人 車両の前方の方から私服の男性があらわれて、女子高生に話しかけました。

484.○小出検察官 今、私服というふうにおっしゃったのですが、要はスーツとかそういうものではないということですか。

485.○証人 はい、そうです。

486.○小出検察官 スーツではない服装をしたということになりますか。

487.○証人 はい、そうです。

488.○小出検察官 その男性が女子高生に近づいて、それからどうなったんですか。

489.○証人 女子高生と幾つか言葉を交わしていました。

490.○小出検察官 その話の内容というのはわかりますか。

491.○証人 いえ、わかりません。

492.○小出検察官 女子高生はその男性に対してどういう態度をとっていましたか。

493.○証人 話している中でうなずいているようなしぐさは見えました。

494.○小出検察官 それから、どうなりましたか。

495.○証人 話しかけた男性がおじさんのネクタイをつかみました。

496.○小出検察官 その男性乗客はおじさんに何かいいましたか。

497.○証人 「逃げるな」みたいなことをいったように思います。

498.○小出検察官 「次の駅でおりるように」というようなことはいっていませんでしたか。

499.○証人 そういった内容もありました。

500.○小出検察官 それに対して、おじさんの方は、その男性乗客に対して何かいっていましたか。

501.○証人 「逃げないから」というようなことをいっていました。

502.○小出検察官 おじさんは、その男性乗客に対して、自分は何にもしてないんだとか、人違いなんだとか、そういうことはいっていませんでしたか。

503.○証人 そういった内容については聞こえませんでした。

504.○小出検察官 少なくともあなたが聞いている範囲では、そういうことは聞こえなかった、そういうことですか。

505.○証人 はい、そうです。

506.○小出検察官 あなた自身は、そのとき女子高生に声をかけたり、おじさんに声をかけたり、あるいはおじさんのネクタイをつかんだ男性乗客に声をかけたり、そういうことはしなかったのですか。

507.○証人 はい、しませんでした。

508.○小出検察官 なぜしなかったのですか。

509.○証人 女子高生の方から注意したということで、現場を見ていながら何もできなかった自分が、体裁が悪いと感じました。また、男性が助けに入ったことで、もう大丈夫かなといった感じにはなりました。

510.○小出検察官 おじさんの態度についてはどうでしたか。

511.○証人 自分の感覚では、したことを認めているようなイメージは受けました。

512.○小出検察官 それもあって大丈夫なんじゃないかと思った、そういうことになるのですか。

513.○証人 はい、そうです。

514.○小出検察官 ただ、あなたとしては、そのとき、場合によっては痴漢行為の目撃者としてみずから名乗り出てやろうということも考えていたのですか。

515.○証人 そういう考えはありました。

516.○小出検察官 例えばどういうことを考えたのですか。

517.○証人 痴漢したことに対して否定をした場合です。

518.○小出検察官 それはそのおじさんが、自分はやっていないんだとかっていい出したらということですか。

519.○証人 はい、そうです。

520.○小出検察官 いい出したらどうしようと思っていたのですか。

521.○証人 やはり自分は見ていたということで名乗り出ようとは考えました。

522.○小出検察官 ただ、実際には、そういう場面というのは現実には起こらなかったと、そういうことになるわけですね。

523.○証人 はい、そうです。

524.○小出検察官 その後、電車は品川駅を出てから10分ぐらいで京急蒲田駅に到着しましたね。

525.○証人 はい、そうです。

526.○小出検察官 電車が京急蒲田駅に到着した後、女子高生やおじさん、あるいはおじさんのネクタイをつかんだ男性乗客、この人たちはどうなったんですか。

527.○証人 京急蒲田駅でおりていきました。

528.○小出検察官 痴漢行為を働いていたおじさんは、どういうふうにして電車からおりていきましたか。

529.○証人 ネクタイをつかまれたままおりていきました。

530.○小出検察官 当然そのネクタイをつかんでいた男性乗客も、そこで一緒に電車からおりていった、そういうことになるわけですね。

531.○証人 はい、そうです。

532.○小出検察官 女子高生はどういうふうに電車をおりていったか覚えていますか。

533.○証人 それは覚えていません。

534.○小出検察官 ただ、京急蒲田駅で女子高生がおりたことは間違いないですか。

535.○証人 はい。

536.○小出検察官 それはどうしてわかるのですか。

537.○証人 その後の車内に女子高生がいなかったからです。

538.○小出検察官 あなた自身は、京急蒲田駅で電車をおりたりはせずに、そのまま電車に乗っていたのですか。

539.○証人 はい、そうです。

540.○小出検察官 おじさんやそのネクタイをつかんでいた男性乗客、その人たちは、電車をおりてからどうなったかということは、電車の中からある程度見えましたか。

541.○証人 はい、見えました。

542.○小出検察官 あなたが見た限りで結構なんだけれども、どういうことがありましたか。

543.○証人 電車をおりた直後のホームで、おじさんが逃げるようなそぶりをした形になりました。

544.○小出検察官 具体的にいうと、ネクタイをつかんでいた男性乗客はどちらの方へ行こうとしたのですか。

545.○証人 電車の進行方向と同じ方向に移動していました。

546.○小出検察官 それに対しておじさんの方はどうしようとしたのですか。

547.○証人 体勢がその反対方向に崩れているような感じでした。

548.○小出検察官 男性乗客はおじさんに何かいうような場面はありましたか。

549.○証人 「逃げるな」というようなことをいっていました。

550.○小出検察官 そのあたりまでは見ていたと、そういうことになるわけですか。

551.○証人 はい、そうです。

552.○小出検察官 その後、電車は京急蒲田駅を出たのですね。

553.○証人 はい、そうです。

554.○小出検察官 そしてあなたは、その電車にそのまま乗って、金沢文庫駅まで帰ったと、そういうことになるわけですね。

555.○証人 はい、そうです。

556.○小出検察官 あなたは電車が京急蒲田駅を出た後、どういうような気持ちでその電車に乗っていたのですか。

557.○証人 自分が注意できなかったことに対して後悔していました。

558.○小出検察官 それで、あなたはどうしたのですか。

559.○証人 友人に、起きたことをメールしました。

560.○小出検察官 その後悔の気持ちを紛らわそうとしたと、そういうことですか。

561.○証人 はい、そうです。

562.○小出検察官 携帯電話を使ってお友達に電子メールを送ったと、そういうことですね。

563.○証人 はい、そうです。

564.○小出検察官 お友達というのは何という名前の人ですか。

565.○証人 ○○○です。

566.○小出検察官 ○○さんの字は、○○は普通の○○で、○さんの○というのはどういう字を書きますか。

567.○証人 「○○」の「○」です。

568.○小出検察官 あなたとはどのような関係にあるお友達ですか。

569.○証人 高校からの友人です。

570.○小出検察官 そのとき、あなたがお友達に送信した電子メールの内容はどのようなものだったのですか。

571.○証人 電車の車内で痴漢があったこと、自分がそれを見ていたこと、自分がそれを注意できなかったことです。

572.○小出検察官 それを後悔しているんだというような内容だったと、そういうことですか。

573.○証人 はい、そうです。

574.○小出検察官 あなたがそのメールを送ったのは、その日、京急蒲田駅から金沢文庫駅まで帰る電車の中でのことだったのですか。

575.○証人 はい、そうです。

576.○小出検察官 そのメールを送ったのは、電車がどのあたりを走っているころですか。

577.○証人 横浜駅に差しかかっているあたりだと思います。

578.○小出検察官 その辺は、記憶ははっきりしていますか。

579.○証人 はっきりと横浜あたりだとは覚えていませんが、大体そのあたりだった気がします。

580.○小出検察官 その程度の記憶ですか。

581.○証人 はい。

582.○小出検察官 そのお友達からは、すぐにメールの返信がありましたか。

583.○証人 はい、ありました。

584.○小出検察官 お友達からのメールの内容はどういうものだったのですか。

585.○証人 自分が打った内容に対して慰めるというような内容でした。

586.○小出検察官 もう少しだけで結構ですが、具体的にいうと、どういうふうにして慰めていた内容だったのですか。

587.○証人 自分が、友人が実際その現場にいても、注意できるかわからないといった内容でした。

588.○小出検察官 本日請求をして取り調べをいただきました甲24号証から31号証までを示します。同じものですので。

 これらの写真が何であるかわかりますか。

589.○証人 はい。

590.○小出検察官 何ですか。

591.○証人 私の携帯電話とメールです。

592.○小出検察官 あなたの携帯電話とメールということですが、それはこの9月13日、あなたが電車の中からお友達に送ったメール、あるいはそれに対してお友達から返信されてきたメールが写っていると、そういうふうに聞いてよろしいですか。

593.○証人 はい、そうです。

594.○小出検察官 まず甲24号証を示しますが、これはあなたの携帯電話を撮影したものですね。

595.○証人 はい、そうです。

596.○小出検察官 次に、甲25号証、26号証、27号証、28号証を示しますけれども、この4つですけれども、これはあなたがお友達に送信した電子メールの内容画面を撮影したものですね。

597.○証人 はい、そうです。

598.○小出検察官 その表示によれば、9月13日の2239分に、○○さんあてに送られたメールのようですが、それで間違いありませんか。

599.○証人 はい、そうです。

600.○小出検察官 そのとき送ったメールの内容もこのとおりだったわけですね。

601.○証人 はい、そうです。

602.○小出検察官 さらに甲29号証、30号証、31号証を示しますが、これらはその後、お友達からあなたへと返信された電子メールの内容画面を撮影したものですね。

603.○証人 はい、そうです。

604.○小出検察官 この表示によれば、9月13日の2255分に○○さんから送られてきたというもののようですが、それで間違いないですか。

605.○証人 はい、そうです。

606.○小出検察官 これらの電子メールは、9月13日以降、現在まで、ずっとあなたの携帯電話にそのデータが保存されたままになっているのですか。

607.○証人 はい、なっていたと思います。

608.○小出検察官 もちろん、これらのメールのデータの内容を、後から書きかえたり、つけ加えたり、一部削除したというようなことは一切ありませんね。

609.○証人 はい、していません。

610.○小出検察官 これらの今見ていただいた写真、この写真の撮影は、いつ、どこで、だれが行ったものかわかりますか。

611.○証人 はい、わかります。

612.○小出検察官 いつ、どこで、だれが行ったことですか。

613.○証人 1218日に地方検察庁で上山検事が撮影したものです。

614.○小出検察官 あなたもその場所に居合わせたと、そういうことになりますね。

615.○証人 はい、そうです。

616.○小出検察官 さて、結局のところ、あなたは9月13日の夜、電車の中で痴漢行為を目撃したんだけれども、その場では、みずから名乗り出たりしなかったということでしたね。

617.○証人 はい、そうです。

618.○小出検察官 しかし、その後、あなたは警察に、自分が目撃者だと名乗り出て、捜査に協力をしたのですね。

619.○証人 はい、そうです。

620.○小出検察官 その経緯を教えてもらいたいのですけれども、まず翌日の9月14日、どういうことがあったのですか。

621.○証人 友人からメールが来ました。

622.○小出検察官 どういう内容のメールでしたか。

623.○証人 きのうの事件の犯人が植草元教授じゃないかといった内容です。

624.○小出検察官 それで、あなたはどうしましたか。

625.○証人 最初はそうなのかなといった程度で返しました。

626.○小出検察官 あなた自身で、例えばテレビを見たり、インターネットで調べたりして、そうなのかどうか調べたりしたのですか。

627.○証人 はい、しました。

628.○小出検察官 どうしたのですか。

629.○証人 インターネットでヤフーニュースを見ました。

630.○小出検察官 それは9月14日に見たということですか。

631.○証人 はい、そうです。

632.○小出検察官 どういうことが記事として載っていましたか。

633.○証人 13日に京急の電車で痴漢が発生したこと、その犯人、捕まったのが植草元教授だったことが書いてありました。

634.○小出検察官 そのときに、その犯人とされている植草元教授が、事件のことについてどういうふうにいっているかというようなことについての記事が載っていましたか。

635.○証人 はい、ありました。

636.○小出検察官 どういうふうに書かれていましたか。

637.○証人 覚えていないといったことをいっていると書いてありました。

638.○小出検察官 その後、さらにインターネットなどで、事件についての報道を見るというような機会がありましたか。

639.○証人 はい、ありました。

640.○小出検察官 いつありましたか。

641.○証人 その翌日です。

642.○小出検察官 9月15日ですね。

643.○証人 はい、そうです。

644.○小出検察官 何を見たのですか。

645.○証人 同じ事件の記事に対して……。

646.○小出検察官 何を見たのですかというのは、例えばテレビを見たとか、新聞を見たとか。

647.○証人 インターネットのヤフーニュースです。

648.○小出検察官 どういうことが書かれていましたか。

649.○証人 同じ事件に対して、植草元教授が、自分はやっていないといった発言をしているといった内容でした。

650.○小出検察官 それで、あなたはどう思いましたか。

651.○証人 そんなことはないと思いました。

652.○小出検察官 それで、あなたはどうしようと思ったのですか。

653.○証人 自分が見たことを警察にいおうと思いました。

654.○小出検察官 それで、あなたはどうしましたか。

655.○証人 京急のコールセンターに問い合わせました。

656.○小出検察官 どうして京浜急行のコールセンターに電話をしたのですか。

657.○証人 担当の警察がわからなかったからです。

658.○小出検察官 それで、京浜急行のコールセンターで担当の警察署を教えてもらったのですか。

659.○証人 はい、そうです。

660.○小出検察官 それで、あなたはどうしたのですか。

661.○証人 蒲田署へ電話しました。

662.○小出検察官 それが9月15日だったと、そういうことになりますか。

663.○証人 はい、そうです。

664.○小出検察官 実際、その後、あなたは蒲田警察署に出向いていって、刑事さんに事件を目撃した状況について詳しくお話をしたということがあったのですか。

665.○証人 はい、ありました。

666.○小出検察官 それはいつのことでしたか。

667.○証人 その翌日です。

668.○小出検察官 9月16日ということですか。

669.○証人 はい、そうです。

670.○小出検察官 ところで、あなたは、今回痴漢事件を目撃する前の時点で、元大学教授の植草一秀という人物を知っていましたか。

671.○証人 はい、ある程度知っていました。

672.○小出検察官 どういうことで知っていましたか。

673.○証人 前回の事件で報道されていた程度です。

674.○小出検察官 前回の事件というのは、平成16年ごろに品川駅で手鏡を使った痴漢行為をしたということで検挙されたその事件のことですか。

675.○証人 はい、そうです。

676.○小出検察官 そういうことでテレビなどで顔を見たことはありましたか。

677.○証人 そのときに報道で流れた程度は見ました。

678.○小出検察官 逆にいえば、それぐらいしか見てなかったと、そういうことになるわけですか。

679.○証人 はい、そうです。

680.○小出検察官 特にこの植草という人に注目したりしていたということではないわけですか。

681.○証人 はい、そうです。

682.○小出検察官 今回、9月13日の夜に、電車の中でおじさんが女子高生に痴漢行為を働いている場面を目撃したとき、すぐにそのおじさんが植草一秀だということに気づきましたか。

683.○証人 いえ、わかりませんでした。

684.○小出検察官 その後になって、あなたは先ほど証言されたように、お友達からメールが来たり、あるいはインターネットで確認したりして、あのおじさんがどうやら植草だったらしいというふうにわかりましたよね。

685.○証人 はい。

686.○小出検察官 それがわかって、あなたはどう思いましたか。

687.○証人 いわれてみれば、そうかもしれないというふうに思いました。

688.○小出検察官 先ほどあなたは、9月13日の夜に、電車の中で見た痴漢行為を働いたおじさん、それは右横にいる被告人だと、そういうふうにいいましたよね。

689.○証人 はい。

690.○小出検察官 それは間違いないのですか。

691.○証人 ないと思います。

692.○小出検察官 終わります。

693.○上山検察官 検察官の上山から1点伺います。

 先ほどあなたは、被害者の女子高生が後ろを振り返って、おじさんに「やめてください」というふうに抗議をしてきたということですけれども、その後のおじさんの行動の中で、女子高生に対し、距離をはかるようなそぶりをしたということをいいましたね。

694.○証人 はい。

695.○上山検察官 距離をはかるというのは具体的にどういう状況だったのですか。

696.○証人 左手か右手かは覚えてないのですが、目の前に手を出す、手のひらを出すといったような状況です。

697.○上山検察官 目の前というのは、おじさんの目の前ということですね。

698.○証人 はい、そうです。

699.○上山検察官 おじさんの体のどのあたりというのは、体からいくと、どのあたりということになるのですか。

700.○証人 顔のあたりです。

701.○上山検察官 わかりました。

 以上です。

702.○神坂裁判長 それでは、反対尋問、どうぞ。

703.○弁護人 弁護人からお聞きします。

 まず、あなたは9月13日の午後10時8分発の電車に乗り込んだということですが、あなたが通った京急の改札口は、JRと京急の乗りかえ口だったということでよろしいですか。

704.○証人 はい、そうです。

705.○弁護人 スイカとパスネットの両方を通すところですね。

706.○証人 はい、そうです。

707.○弁護人 あなたが京急の改札を通ったときには、既にその10時8分発の電車はホームにとまっていたんですか。

708.○証人 はい、そうです。

709.○弁護人 あなたが当日その電車に乗り込んだときには、何両目かはっきり覚えていなかったんですね。

710.○証人 はい、そうです。

711.○弁護人 後ほど警察や検察官から確認されて、3両目というのがわかったということですか。

712.○証人 はい、そうです。

713.○弁護人 あなたがその車両に乗り込んだ際、既に電車のとびらは開いていたんですか。

714.○証人 はい、そうです。

715.○弁護人 改札を通ったときには開いていましたか。

716.○証人 それはよく覚えていません。

717.○弁護人 あなたがその3両目の車両にたどり着いたときに、他の乗客は乗車を始めていましたか。

718.○証人 はい、始めていました。

719.○弁護人 あなたが電車に乗り込む際、あなたは他の乗客が乗り込むのを待って、続いて乗車したのか、それとも全く待たずに、たどり着いてそのまま乗り込んだのか、どちらでしょうか。

720.○証人 並んでいた乗客の後ろに続く形です。

721.○弁護人 あなたの前に並んでいた乗客は何人ぐらいいましたか。

722.○証人 もう乗り込んでいる方もいたので、詳しく覚えていませんが、10人ぐらいはいたと思います。

723.○弁護人 10人ぐらいあなたの前に並んでいたのですか。

724.○証人 はい。

725.○弁護人 何列で待っていましたか。

726.○証人 乗り込んでいる途中だったので、列もばらけていましたが、3列ぐらいだったと思います。

727.○弁護人 あなたが乗り込み、そのあなたの直前の人、これはどんな人でしたか。

728.○証人 直前の人はちょっと覚えていません。

729.○弁護人 男性か女性かも覚えていませんか。

730.○証人 はい。

731.○弁護人 あなたが乗り込んだ後、電車が発車するまでに何人が乗り込んできましたか。

732.○証人 後ろから2~3人だと思います。

733.○弁護人 2人か3人かははっきりしませんか。

734.○証人 ちょっと覚えていません。

735.○弁護人 その乗ってきた人の性別とか身長とか、そういうものは覚えていますか。

736.○証人 1人は女性であることを覚えています。

737.○弁護人 ほかの人については余り覚えてないですか。

738.○証人 はい。

739.○弁護人 その女性については、身長はどのぐらいでしたか。

740.○証人 ちょっと思い出せません。

741.○弁護人 髪型についてはどうですか。

742.○証人 長くはなかったと思います。

743.○弁護人 服装について思い出せますか。

744.○証人 それも余り詳しくは思い出せません。

745.○弁護人 あなたは初めに警察でお話をしたときに、他の乗客に並んで、続いて乗ったというふうにいったか、そのまま駆け足で乗り込んだか、何というふうにいったか覚えていますか。

746.○証人 ちょっと正確には覚えてないです。

747.○弁護人 人が並んでいないところに駆け足で乗り込んだ。

748.○小出検察官 異議です。そういうふうに書いてないと思いますけれども、もう一度ごらんになってください。

749.○弁護人 そのとおり書いてあると思います。もう一度質問します。

750.○小出検察官 改札口から余り人が並んでいないというふうに書いてあると思うのですが、違いますか。

751.○弁護人 じゃ、そのとおり聞き直します。あなたは警察でお話をしたときに、改札口から余り人が並んでいない、改札から左方向の車両に駆け足で乗り込んだ、こういうふうにお話ししたというふうに記憶していますか。

752.○証人 はい、記憶しています。

753.○弁護人 今並んで乗り込んだというふうにおっしゃいましたけれども、どちらが正しいんですか。

754.○小出検察官 異議です。どちらが正しいのか別に矛盾してないと思うのです。そごしてないと思うのですけれども。

755.○弁護人 いや、並んで乗り込んだということと、そのまま駆け足で乗り込んだというのは違うと思います。

756.○上山検察官 そのままとは書いてない。

757.○神坂裁判長 先ほどの尋問で、あなたより前に10人くらい人が並んでいたというふうに証言されましたね。

758.○証人 はい。

759.○神坂裁判長 警察での取り調べでは、余り人が並んでいないドアに行き、そのドアに回って乗ったというふうに供述調書には記載されているのですね。

759.○証人 はい。

760.○神坂裁判長 あなたの感覚では、10人ぐらい並んでいたということは、余り人が並んでいないドアというふうに思えたんですか、その当時。

761.○証人 改札を通って正面のところには、人はもっと並んでいるように見えました。

762.○神坂裁判長 人が並んでいる幾つかのドアの中では、人が並んでいないドアというふうに当時思ったということですか。

763.○証人 はい、そうです。

764.○神坂裁判長 証言の趣旨はそういうことですけれども、さらに尋問されますか。

765.○弁護人 今のところで1点だけ。乗り込んだ、今思い出してみてということで結構ですけれども、今思い出してみて、あなたが乗り込んだドアには、10人ぐらい人が並んでいたということは間違いないですね。

766.○証人 そうだと思います。

767.○弁護人 あなたが乗車して立っていた位置というのは、先ほど紙に書き込んだ位置ということで間違いないですね。

768.○証人 はい、そうです。

769.○弁護人 あなたは乗車してから、乗ってきたドアと反対のドアの方を向いていたということも間違いないですね。

770.○証人 はい、そうです。

771.○弁護人 あなたはずっとその方向を向いていたのですか。

772.○証人 はい、そうです。

773.○弁護人 あなたは電車に乗ってから中づりの広告を見ていたということですね。

774.○証人 はい、そうです。

775.○弁護人 どんな広告を見ていたか覚えていますか。

776.○証人 覚えていません。

777.○弁護人 あなたは中づりの広告を見るほかは何をしていたのですか。

778.○証人 特に何をしていたというわけではないと思います。

779.○弁護人 あなたは品川から金沢文庫まで乗っていたということになりますか。

780.○証人 はい、そうです。

781.○弁護人 ほぼ毎日同じ経路で帰っているということでしょうか。

782.○証人 はい、そうです。

783.○弁護人 品川から金沢文庫までは何分ぐらいかかるんですか。

784.○証人 40分ぐらいだと思います。

785.○弁護人 あなたは毎日電車の中で、その40分というのはどのようにして過ごすのですか。

786.○証人 特に何をして過ごしているというわけでもないと思います。

787.○弁護人 メールをして過ごすということはよくあるのですか。

788.○証人 何か用件があればそういうこともあると思います。

789.○弁護人 音楽を聞いて電車の中で過ごすということはあるのですか。

790.○証人 ありません。

791.○弁護人 本や雑誌を読んでいるということはないんですか。

792.○証人 たまにあります。

793.○弁護人 当日はなかったですか。

794.○証人 はい、ありませんでした。

795.○弁護人 かわります。

796.○弁護人2 では、弁護人の酒井からお聞きします。

 まず、きょう検察官の質問に対して、被害者とされる女性、それから被告人、それとあなたと被害者、被告人との間にいた女性の位置というのを書き込まれましたね。

797.○証人 はい。

798.○弁護人2 警察や検察庁でもそういう図面を書いたりしたということはありますか。

799.○証人 はい、書きました。

800.○弁護人2 そこに書き込んだ人というのは、警察や検察で書いたときと、きょう書いたときとで、人数とか場所は違いがあるかどうかというのは何かわかりますか。


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(1)18.12.20第二回公判、速記録

(1番から400番まで)

平成18年特(わ)第4205号

迷惑防止条例違反

裁判速記録

日時・平成181220

(水)

於・東京地方裁判所第425号法廷


1.○神坂裁判長 よろしいでしょうか。それでは、開廷いたします。

 本日の日程は、予定として、証人尋問ということでよろしいでしょうか。

2.○小出検察官 はい、結構ですが、その前に証拠請求があるのです。

 甲24号証から甲31号証まで8点、証拠物として写真を証拠請求したいと思います。

3.○神坂裁判長 ブツとして請求するということになるのですか。

4.○小出検察官 そういうことです。

5.○神坂裁判長 証拠等関係カードはお持ちですか。

6.○小出検察官 作成しておりませんが、必要であれば、また追って提出いたします。

7.○神坂裁判長 24号証から34号証にかけての11点になるのですか。

8.○小出検察官 いえ、24から31までの8点です。

9.○神坂裁判長 この証拠についての立証趣旨は。

10.○小出検察官 立証趣旨は、○○○○が友人との間でやりとりしたメールのやりとり、その内容ということです。

11.○神坂裁判長 甲20号でしたか、これに添付されるということですね。

12.○小出検察官 添付されたもの、そのものではありませんが、内容的には同じようなも13.のが入っております。

14.○神坂裁判長 この証拠請求について弁護人のご意見はいかがですか。

15.○弁護人2 ブツとしてということですが、証拠とすることには異議があります。立証趣旨がそのメールの内容ということであれば、それはやはり供述調書として……。

16.○神坂裁判長 内容ということですか。

17.○弁護人2 検察官は、そのメールの存在及び内容ということでしたので、立証趣旨が、そういうことであれば、やはり……。

18.○神坂裁判長 請求証拠について異議があるということですか。供述調書とするには異議があるという趣旨ですね。

19.○弁護人2 はい。

20.○神坂裁判長 立証趣旨は、そのメールそのものの存在ということで間違いないですか。

21.○小出検察官 存在でも構いませんけれども、メールの内容といっても、そのメールの内容、記載している内容、そういう意味だということですので。

22.○神坂裁判長 内容の真実性というのを、メールの内容、書かれているその記載内容ということだろうと思うのですけれども、これもやはり同じでしょうか。

23.○弁護人2 そうですね。記載内容といっても、やはりそれが出てくる以上は、その内容の真実性……。

24.○神坂裁判長 弁護人のご意見としてはそういうことで、では検察官の立証趣旨は、記載内容というふうに聞いておきますが、どうですか。

25.○小出検察官 はい。

26.○神坂裁判長 それでは、この段階で、今の24から31を採用いたします。

27.○弁護人 今の証拠決定について異議があります。記載内容ということで、決定ということですけれども、通常これが証拠に出れば、その内容についても裁判官の目に触れますし、その内容の真実性についても、判断の対象になると考えますので、その点で320条の伝聞証拠禁止の原則の解釈適用を誤った違法なものがあると考えます。

28.○神坂裁判長 検察官、ご意見。

29.○小出検察官 異議は理由がないものと思料いたします。

30.○神坂裁判長 弁護人の異議の申し立ては棄却いたします。

 取り調べを行いますので、24号から添付資料ということでよろしいですね。

 証拠そのものの方は、弁護人の方にいっているわけですね。それでは、提出されたということでよろしいでしょうか。改めて提出……。

31.○小出検察官 はい。

32.○神坂裁判長 それでは、この段階で提出されたことにいたします。

33.○小出検察官 一応、写真なので、幾つか特定をしておきます。

34.○神坂裁判長 ちょっと待ってくださいね。証拠の番号が、写真そのものに記載されていないので。

35.○小出検察官 それは書いてないですね。

36.○神坂裁判長 書いているものがあるのですか。

37.○小出検察官 書いているものはないです。

38.○神坂裁判長 では、それを確認しながら。

39.○小出検察官 そうですね。済みません。

40.○神坂裁判長 携帯電話の全体を撮影されているものが24ということでいいですか。

41.○小出検察官 はい。

42.○神坂裁判長 これが24です。それからメールの表題部分から終わりまで、これが25です。本文の書き出しが「訴える」となっているものが26。やはり本文で「顔をした男が」で始まるのが27です。本文、「い」句読点、「なんか」で始まるのが28。次に、最上部に表題があって、括弧の134とあって、「いいな」とあるのが29。次に本文、「が次回に」で始まるのが30。やはり本文、「らとかあるしな。」、これが31

43.○弁護人2 最後の2つが、順番が逆の方が、つながると思います。

44.○神坂裁判長 ああ、そうですか。その順番の方がつながりますか。

 済みません。ちょっともう一度そこは30番と31番で、「らとかあるしな。」、これが30番、「が次回に」で始まるのが31番、それでよろしいわけですか。

45.○弁護人2 はい。

46.○神坂裁判長 失礼しました。それでは、そういう順番で提出してください。

 では、裁判官用ということでお持ちいただいているということなんで。

47.○弁護人2 ああ、同じものを。

48.○神坂裁判長 それでは、提出してください。

 それでは、よろしいですね。

 証拠で、今振った番号でいくと、27から28にかけてですけれども、裁判所が今いただいたものは、飛んでいるようなんですが、これはこれでよろしいわけですか。

49.○小出検察官 飛んでいるといいますか、重複しているんだと思います。携帯電話をスクロールしながら撮っていまして。

50.○神坂裁判長 わかりました。

51.○小出検察官 それについては3031にあると思います。

52.○神坂裁判長 ああ、そうですか。

 では、よろしいですね。

 今の新たな証拠調べの関係を終了してよろしいですね。

 では、尋問に移ります。

     〔証人、入廷〕

53.○神坂裁判長 どうもお忙しいところをご苦労さまですが、お名前、年齢、職業、住所は、先ほどカードに署名、記載していただきましたけれども、そのとおりで間違いないでしょうか。

54.○証人 間違いありません。

55.○神坂裁判長 それでは、この事件で証人としてお伺いすることになりましたので、お伺いする前に宣誓をしていただきますので、宣誓書を手にとって朗読してください。お願いします。

56.○証人 宣誓。良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。証人。

57.○小出検察官 それでは、いすがありますので、おかけになってください。

     〔証人、着席〕

58.○神坂裁判長 それでは、今から順番にお話を聞いていくということになりますけれども、今宣誓していただきましたので、宣誓された証人の方がわざとうそをいうと、偽証罪ということになって処罰されるおそれがありますので、真実のみを答えてください。

 それでは、検察官の方からどうぞ。

59.○小出検察官 それでは、検察官の小出の方からお尋ねしていきます。落ちついて答えていただきたいと思います。

 あなたは、ことし、つまり、平成18年の9月13日の夜、電車の中で、男が女子高生に対して痴漢行為を働いているところを目撃したということがありましたか。

60.○証人 はい、ありました。

61.○小出検察官 9月13日の夜の何時ごろのことでしたか。

62.○証人 22時ちょっと過ぎのことです。

63.○小出検察官 電車の中ということですが、どういう電車の中でしたか。

64.○証人 京浜急行の快速の電車の中でした。

65.○小出検察官 その電車にはあなたはどこから乗ったのですか。

66.○証人 品川駅です。

67.○小出検察官 品川の駅を何時何分に出る電車の中だったかというのはわかりますか。

68.○証人 22時8分です。

69.○小出検察官 08分ということですね。

70.○証人 はい、そうです。

71.○小出検察官 どこ行きの快速電車でしたか。

72.○証人 京急久里浜行きです。

73.○小出検察官 その電車の何両目のどのあたりで目撃したのですか。

74.○証人 3両目の真ん中のドアです。

75.○小出検察官 前から3両目ということですか。

76.○証人 はい、そうです。

77.○小出検察官 1車両にドアが幾つあるのですか。

78.○証人 3つあります。

79.○小出検察官 そのうちの真ん中のドアの中ということになるわけですか。

80.○証人 はい、そうです。

81.○小出検察官 ドアから入ったあたり、そういうことになるわけですかね。

82.○証人 はい、そうです。

83.○小出検察官 その電車がどのあたりを走っているときにあなたは痴漢行為を発見したのですか。

84.○証人 品川から京急蒲田駅の間です。

85.○小出検察官 痴漢行為をされている人が女子高生だということはどうしてわかったんですか。

86.○証人 服装からです。

87.○小出検察官 服装というと、どういう服装からということですか。

88.○証人 制服だった。

89.○小出検察官 高校生っぽい制服を着ていたということですか。

90.○証人 はい、そうです。

91.○小出検察官 その女性の見た目の年齢とかはどうでしたか。

92.○証人 1617ぐらいだったと思います。

93.○小出検察官 そういうことから女子高生だろうとわかったと、そういうことになりますか。

94.○証人 はい、そうです。

95.○小出検察官 一方、痴漢行為を働いていた男、この男は、どういう男でしたか。

96.○証人 40過ぎのおじさんだと思います。

97.○小出検察官 どういう格好、どういう服装をしていましたか。

98.○証人 スーツを着ていました。

99.○小出検察官 ネクタイを締めていましたか。

100.○証人 はい。

101.○小出検察官 あなたが目撃したその痴漢行為ですけれども、そのおじさんが女子高生に対してどのような痴漢行為を働いているところを目撃したのでしょうか。

102.○証人 左手で女子高生の腰からお尻にかけてをさわっているところを見ました。

103.○小出検察官 それで、どうなったんですか。

104.○証人 女子高生の方からおじさんの方に抗議の声が上がりました。

105.○小出検察官 で、結局その抗議があって、そのおじさんは痴漢行為をするのをやめた、そういうことになるのですか。

106.○証人 はい、そうです。

107.○小出検察官 で、その後、そのおじさんと女子高生はどうなったのですか。

108.○証人 京急蒲田駅でおりていきました。

109.○小出検察官 その痴漢行為を働いていたというおじさんですけれども、顔などを見ればわかりますか。

110.○証人 はい、わかると思います。

111.○小出検察官 この法廷の中にはそのおじさんはいますか。

112.○証人 はい、います。

113.○小出検察官 どこにいますか。

114.○証人 こちらです。

115.○小出検察官 あなたの右横の被告人がそのおじさんですか。

116.○証人 はい、そうです。

117.○小出検察官 それでは、あなたが痴漢行為を目撃したときのことについて、さらにもう少し詳しくお尋ねしていきますが、まず、あなたがそのとき京浜急行の電車に乗っていたのは、職場から自宅に帰るときだったのですね。

118.○証人 はい、そうです。

119.○小出検察官 あなたの職場はJR中央線

の荻窪駅

が最寄り駅、あなたの自宅は京浜急行

の金沢文庫駅

が最寄り駅になるのですね。

120.○証人 はい、そうです。

121.○小出検察官 この日、9月13日の職場からの帰宅時刻や帰宅ルートはどのようなものだったのですか。

122.○証人 帰宅時刻は2120分ごろだったと思います。

123.○小出検察官 そのころに職場を出たと、そういうことですか。

124.○証人 はい、そうです。

125.○小出検察官 それで、あなたはどうしたのですか。

126.○証人 最寄りのJR

荻窪駅

から新宿に向かいました。

127.○小出検察官 中央線に乗ったと、そういうことですか。

128.○証人 はい、そうです。

129.○小出検察官 新宿駅からはどうしたのですか。

130.○証人 JR山手線で品川に向かいました。

131.○小出検察官 品川駅に着いたのは何時ごろでしたか。

132.○証人 22時ちょっと過ぎだったと思います。

133.○小出検察官 そして、そこから、品川駅から京浜急行に乗って、金沢文庫駅まで行ったということになるのですか。

134.○証人 はい、そうです。

135.○小出検察官 その途中で、電車の中で、最初にお話しされた痴漢行為を目撃した、そういうことになるわけですね。

136.○証人 はい、そうです。

137.○小出検察官 ところで、そのときあなたは、先ほど京浜急行の快速電車、2208分に品川駅を出る電車に乗ったというふうにお話しされたのですけれども、どうしてそういうふうにいえるのですか。

138.○証人 品川で見た掲示板に時間が出ていたからです。

139.○小出検察官 2208分というふうに出ていたとはっきり見て、はっきり記憶しておったのですか。

140.○証人 08分とまでは覚えていませんが、0何分までは見えました。

141.○小出検察官 きょうの証言では、2208分に出る電車だったというふうにおっしゃったんだけれども、それはどうしてそういうふうにおっしゃったのですか。

142.○証人 自分の帰宅時間から、後で調べてみまして、該当する時間がそれだということがわかりました。

143.○小出検察官 後日、京浜急行のダイヤを調べてみたと。

144.○証人 はい。

145.○小出検察官 それに当たるものがそれだったと、そういうことになるわけですか。

146.○証人 はい、そうです。

147.○小出検察官 それから、あなたはそのとき、前から3両目の車両に乗ったということですけれども、どうしてそのようにいえるのですか。

148.○証人 乗車した位置は覚えていましたので、これも後から調べて、正確に前から3両目ということがわかりました。

149.○小出検察官 当日、電車に乗るときに、前から何両目の車両に乗ろうとか考えて、あるいは車両を数えて乗ったというわけではなかったのですね。

150.○証人 そうです。

151.○小出検察官 ただ、乗った位置自体は覚えていたと。後日確認してみたら、3両目に間違いないということがわかったと、そういうことになるわけですか。

152.○証人 はい、そうです。

153.○小出検察官 そして、あなたは先ほどもちょっと証言がありましたけれども、ドアが3つあるうちの真ん中のドアからその電車に乗った、そういうことでよろしかったですか。

154.○証人 はい、そうです。

155.○小出検察官 品川駅を出るときのその電車の車両内の混みぐあいはどのようなものでしたか。

156.○証人 混雑はしていましたが、隣の人の肩とぶつかるようなことはないぐらいの混みぐあいでした。

157.○小出検察官 座席は全部埋まっていましたか。

158.○証人 埋まっていました。

159.○小出検察官 立っている人も大勢いましたか。

160.○証人 はい、いました。

161.○小出検察官 ただ、普通に立っていれば、隣の人と体が触れ合うようなことがなく立っていられるような状態ではあったのですか。

162.○証人 はい、そうです。

163.○小出検察官 あなたはそのとき、その電車の車両に乗って、どういう位置に立ったのですか。

164.○証人 真ん中のドアから入っての広い場所に立っていました。

165.○小出検察官 つり革につかまったりしましたか。

166.○証人 はい、つかまりました。

167.○小出検察官 どのあたりのつり革につかまったか覚えていますか。

168.○証人 はい。ドアからドアにかけての方につながっているつり革につかまりました。

169.○小出検察官 どちらの手でつかまりましたか。

170.○証人 左手です。

171.○小出検察官 あなたの顔や体はどちらの方を向いていたということになるのですか。

172.○証人 乗車したドアとは反対のドアの方向を向いていました。

173.○小出検察官 ちなみに、このときのあなたの服装はどのようなものでしたか。

174.○証人 上下、濃いグレーのスーツです。

175.○小出検察官 ネクタイも締めていましたか。

176.○証人 はい、していました。

177.○小出検察官 かばんや手荷物は持っていましたか。

178.○証人 はい、リュックを持っていました。

179.○小出検察官 手に何か持っていたということはあったのですか。

180.○証人 いえ、ありません。

181.○小出検察官 リュックを持っていたというふうにおっしゃったのですけれども、リュックを背負っていたということですか。

182.○証人 はい、そうです。

183.○小出検察官 リュックはどういう色のものですか。

184.○証人 黒いリュックです。

185.○小出検察官 真っ黒ですか。

186.○証人 オレンジのラインが幾つか入っています。

187.○小出検察官 ここで甲4号証に添付されております再現現場見取り図1の写しを作成しておりますので、これを証人に示したいと思います。

 この図面は京浜急行の電車の車両の中を図面化したものですけれども、これを見て、何188.のことだかというのはおよそわかりますか。

189.○証人 はい、わかります。

190.○小出検察官 この図面にあなたが立っていた位置を示して、そこに赤ペンでマルWというふうに書いてください。

191.○証人 はい。

192.○小出検察官 そして、そのときあなたが向いていた方向がわかるように、向いていた方向に矢印を書き入れてください。

193.○証人 はい。

194.○小出検察官 さて、あなたは、この電車の車両に乗り込んですぐに、今回痴漢行為を働いたおじさんや、被害に遭った女子高生が、同じ車両に乗っていることに気づいたのですね。

195.○証人 はい、そうです。

196.○小出検察官 最初に気づいたとき、女子高生は、その車両の中で、どちらの方を向いて立っていたのですか。

197.○証人 真ん中のドアから入った広い場所の真ん中に立っていました。

198.○小出検察官 どちらの方を向いていましたか。

199.○証人 進行方向を向いていました。

200.○小出検察官 その女子高生もつり革につかまっていたのですか。

201.○証人 つかまってはいませんでした。

202.○小出検察官 女子高生は高校の制服と思われるような服を着ていたと、そういうことでしたね。

203.○証人 はい、そうです。

204.○小出検察官 覚えている限りで結構ですが、どういう服装でしたか。

205.○証人 上着については、余り記憶がありません。下についてはスカートを履いていました。

206.○小出検察官 何色のスカートでしたか。

207.○証人 紺色です。

208.○小出検察官 その女子高生の身長は、見た目で結構なんですが、どれぐらいに見えましたか。

209.○証人 158ぐらい。160いかないぐらいだったと思います。

210.○小出検察官 一方、あなたが最初に気づいたとき、おじさんの方は、その車両の中で、どのような位置に、どちらの方向を向いて立っていたのですか。

211.○証人 女子高生の真後ろに立っていました。

212.○小出検察官 どちらの方向を向いていましたか。

213.○証人 進行方向を向いていました。

214.○小出検察官 そのおじさんはつり革につかまっていましたか。

215.○証人 いえ、つかまっていませんでした。

216.○小出検察官 その女子高生とそのおじさんは、いずれも同じ方向、つまり電車の進行方向の方を向いて立っていたということになるわけですね。

217.○証人 はい、そうです。

218.○小出検察官 そして女子高生の後ろにおじさんが立っていたと、そういう位置関係にあったわけですか。

219.○証人 はい、そうです。

220.○小出検察官 その女子高生とおじさんとの距離関係はどのような感じでしたか。

221.○証人 密着していました。

222.○小出検察官 そのときの女子高生の様子はどんな感じでしたか。

223.○証人 窮屈そうな感じでした。

224.○小出検察官 そのおじさんの後ろ、後方はどんな感じでしたか。

225.○証人 1人、2人、立てるぐらいのスペースはあいていました。

226.○小出検察官 先ほどの図面をもう一度見ていただきたいと思うのですけれども、その図面に女子高生が立っていた位置を示して、そこに赤ペンでマルVというふうに書き入れてください。

227.○証人 はい。

228.○小出検察官 またその女子高生が向いていた方向がわかるように矢印を書き入れてください。

229.○証人 はい。

230.○小出検察官 それから今度はその図面におじさんが立っていた位置を示して、そこに赤ペンでマルAと書き入れてください。

231.○証人 はい。

232.○小出検察官 やはり同じように、おじさんが向いていた方向に矢印を書き入れてください。

233.○証人 はい。

234.○小出検察官 あなたは最初にその女子高生とおじさんを見たときに、その位置関係を見てどういうふうに思いましたか。

235.○証人 非常に近いなと思いました。

236.○小出検察官 非常に近いなというのはどういう意味ですか。

237.○証人 それほど密着する必要がない程度の混雑だったので。

238.○小出検察官 それにしては密着しているなということを思ったと、そういうことですか。

239.○証人 はい、そうです。

240.○小出検察官 距離に違和感を感じたと、そういうことになりますか。

241.○証人 はい、そうです。

242.○小出検察官 そのとき、女子高生の後ろに立っているおじさんはどんな体勢でいましたか。

243.○証人 右側に重心がかかっているような状態でした。

244.○小出検察官 それを見て、あなたはどう思いましたか。

245.○証人 不自然だなとは思いました。

246.○小出検察官 そのおじさんの手はどういうふうになっていましたか。

247.○証人 両手ともに自分の真横ではなく、前の方、女子高生の方にいっていました。

248.○小出検察官 その時点であなたは、そのおじさんがその女子高生に痴漢行為をしているというふうには思いませんでしたか。

249.○証人 その時点では思いませんでした。

250.○小出検察官 その時点であなたは、そのおじさんの手の先がどこにあるか、どうなっているのか確認していたというわけではなかったのですか。

251.○証人 確認していません。

252.○小出検察官 その時点では、ただ距離に違和感を覚えたり、あるいはおじさんの体勢に不自然さを感じたりした程度だったということでよろしいですか。

253.○証人 はい、そうです。

254.○小出検察官 ところで、電車が品川駅を発車してからのことですが、あなたは当初何をしていましたか。

255.○証人 電車の中づり広告を見たり、ぼうっとしたりしていました。

256.○小出検察官 電車が品川駅を発車してしばらくしてから、今回、先ほどおっしゃったような痴漢の場面を目撃したということになるのですか。

257.○証人 はい、そうです。

258.○小出検察官 先ほどと重複するかもしれませんが、どういうことがあったのか、もう一度おっしゃってください。

259.○証人 おじさんの左手が女子高生の腰からお尻にかけてのあたりに触れていました。

260.○小出検察官 女子高生の腰からお尻にかけてのあたりというふうにおっしゃったのですが、腰とかお尻といっても、それで大体はわかるのですけれども、体の部分として、例えば左側の方とか、右側の方とか、真ん中のあたりとかというふうにも分けられると思うのですけれども、そういう言い方でいうと、どのあたりをさわっていたということになるのでしょうか。

261.○証人 女子高生の左の側面です。

262.○小出検察官 左の側面ですか。

263.○証人 はい。

264.○小出検察官 それの腰からお尻にかけてのあたり、そういうことになるわけですか。

265.○証人 はい、そうです。

266.○小出検察官 あなたがそのような様子を目にしたのは、電車が品川駅を発車してどれくらいたったころでしたか。

267.○証人 正確にはわかりませんが、1、2分たったころだと思います。

268.○小出検察官 もちろん時計などで確認していたということではないわけですね。

269.○証人 はい、そうです。

270.○小出検察官 感覚としては品川駅を出て割とすぐという感じですか。

271.○証人 はい、そうです。

272.○小出検察官 ちょっとおかしな質問かもわかりませんが、なぜあなたはそのとき、そのことに気づいたんでしょうか。

273.○証人 特に見ようとして見ていたわけではないのですが、ふとした瞬間というか、そこに目がいったからです。

274.○小出検察官 あなたとしては、先ほどおじさんと女子高生との距離に違和感を感じたり、あるいはおじさんの体勢に不自然さを感じたということでしたね。

275.○証人 はい。

276.○小出検察官 だからといって、その後おじさんと女子高生のことをずっと注意して見ていたというわけではなかったのですか。

277.○証人 はい、そうです

278.○小出検察官 ただ、その後、またそちらの方に目がいったときに、先ほどのような場面が見えたと、そういうことになるわけですか。

279.○証人 はい、そうです。

280.○小出検察官 そのときおじさんの左手は、女子高生の腰からお尻にかけてのあたりに完全に触れていた、さわっていたのですか。

281.○証人 さわっていました。

282.○小出検察官 なぜ完全に触れていた、さわっていたといえるのですか。

283.○証人 さわっていたところに、スカートのしわというか、くぼみのようなものがあったからです。

284.○小出検察官 それは、さわれば、ある程度の力が加わるわけなんだけれども、それにそのスカートの生地が、体の方に押しつけられるような、そういったしわ、くぼみができていたからと、そういうことになるわけですか。

285.○証人 はい、そうです。

286.○小出検察官 あなたの視力はどれくらいですか。

287.○証人 左が1.5、右が1.2です。

288.○小出検察官 もちろんめがねをかけたり、コンタクトレンズを入れたりしなくても、日常生活に不便はないですね。

289.○証人 はい、ありません。

290.○小出検察官 このときの電車の明るさというのはどのような感じでしたか。

291.○証人 普通でした。

292.○小出検察官 ごく普通の電車の明るさということですか。

293.○証人 はい、そうです。

294.○小出検察官 新聞や雑誌などを読むこともできるくらいの明るさでしたか。

295.○証人 はい、そうです。

296.○小出検察官 そのときですけれども、あなたと女子高生との間に、あるいはあなたとおじさんとの間に、ほかの乗客は全くいなかったのですか。

297.○証人 女性が1人いました。

298.○小出検察官 どのあたりにいましたか。

299.○証人 自分の右斜め前あたりです。

300.○小出検察官 この乗客は女性ということでしたね。

301.○証人 はい。

302.○小出検察官 年齢とか身長とかわかりますか。

303.○証人 顔を見ていないので、詳しくはわかりませんが、割と若い女性だと思いました。

304.○小出検察官 身長はどれくらいに見えましたか。

305.○証人 160前後だったと思います。

306.○小出検察官 服装とか髪型などは覚えていますか。

307.○証人 余りよく覚えていません。

308.○小出検察官 その女性の乗客はどちらの方を向いて立っていたのですか。

309.○証人 進行方向に対して右斜め45度くらいの角度だったと思います。

310.○小出検察官 それでは、また先ほどの図面を見ていただきたいのですが、その図面にその女性乗客が立っていた位置を示して、そこに赤ペンでマル女というふうに書き入れてください。

311.○証人 はい。

312.○小出検察官 同じく先ほどと同じように、その女性乗客が向いていた方向がわかるように矢印を書き入れてください。

313.○証人 はい。

314.○小出検察官 ところで、あなたは、おじさんの左手が女子高生の腰からお尻にかけての部分に触れていたと、そういうふうに証言されるわけですけれども、今図面に書いてもらったように、女性の乗客が立っていたのに、それでもあなたの位置から、おじさんの左手あるいは女子高生の腰、女子高生のお尻のあたりは見えたのですか。

315.○証人 はい、見えました。

316.○小出検察官 女性の乗客がいたのに、どうして見えたんですか。

317.○証人 女性は私の真っ正面に立っていたわけではなかったので、左側に十分に見えるスペースはありました。また、左肩の上、肩越しからでも十分に見える位置でした。

318.○小出検察官 そもそもその女性の体は、あなたが女子高生の腰あるいはお尻のあたりを見るときに、完全にダブってくるような位置関係ではなかったわけですか。

319.○証人 はい、そうです。

320.○小出検察官 あなたは身長は幾つあるのですか。

321.○証人 183です。

322.○小出検察官 その女性は、先ほどあなたの見立てによれば、160センチ前後ということでしたね。

323.○証人 はい、そうです。

324.○小出検察官 その女性の肩越しからも、ある程度向こうが見通せる状況だったと、そういうことだったわけですね。

325.○証人 はい、そうです。

326.○小出検察官 あなたは、おじさんの左手が、女子高生の腰からお尻にかけてのあたりに触れているのを見たということですけれども、それを見た時点で、すぐに痴漢行為を働いているんだというふうに思いましたか。

327.○証人 可能性はあると思いましたが、確信はしていませんでした。

328.○小出検察官 なぜ確信していなかったのですか。

329.○証人 そういった体勢をとらざるを得ない事情があるかもしれないと考えたからです。

330.○小出検察官 そういった体勢をとらざるを得ないというのは、そのおじさんがということですか。

331.○証人 はい、そうです。

332.○小出検察官 例えばどういうことが考えられますか。

333.○証人 考え過ぎかもしれませんが、手が不自由な方であったりといったことです。

334.○小出検察官 例えば電車が揺れたり、あるいは電車が混雑したりしているために、たまたまおじさんの手が触れてしまっただけではないかというようなことは考えなかったのですか。

335.○証人 そういう可能性も考えました。

336.○小出検察官 なので、見た瞬間、すぐに確信できるということではなかったと、そういうことですか。

337.○証人 はい、そうです。

338.○小出検察官 それで、あなたはどうしたのですか。

339.○証人 しばらく注目する形になりました。

340.○小出検察官 それはなぜしばらく注目していたのですか。

341.○証人 怪しいなというイメージを受けたからです。

342.○小出検察官 もちろん注目というのは、おじさんの動きに注目していたと、そういうことになりますか。

343.○証人 はい、そうです。

344.○小出検察官 怪しいなというのはどういうことですか。

345.○証人 痴漢をしているのではないかといったことです。

346.○小出検察官 要するに、わざとさわっている、つまり、痴漢行為をしているんだというのか、それともたまたま何らかの事情で、おじさんの手が女子高生の体に触れてしまっているのか、それを見きわめようと思ったと、そういうことですか。

347.○証人 はい、そうです。

348.○小出検察官 それでその後、しばらくの間、あなたはおじさんの様子あるいは女子高生の様子を見ていたと、そういうことになるわけですか。

349.○証人 はい、そうです。

350.○小出検察官 しばらくそういう様子を見ていて、結局のところ、最終的にあなたとしてはどのように判断したわけですか。

351.○証人 痴漢をしていると判断しました。

352.○小出検察官 先ほどいったように、あなた自身もおっしゃったように、例えばおじさんの方に何らかの理由があって、あるいは電車が揺れたりして、たまたまそういう体勢をとらざるを得なかった、あるいは、たまたま女子高生の体に触れてしまっただけなんだというふうには思わなくなったと、そういうことですか。

353.○証人 はい、そうです。

354.○小出検察官 それはどうしてそういうふうに判断したのですか。

355.○証人 途中、電車が揺れたりしたときにも、手が離れることなくついていたからです。

356.○小出検察官 途中、電車が揺れたりして、女子高生の体が動くというようなこともあったわけですか。

357.○証人 はい、ありました。

358.○小出検察官 それでもおじさんの左手というのは、その女子高生の体についていっていたと、そういうことになりますか。

359.○証人 はい、そうです。

360.○小出検察官 そのほかにどういうことがあったのですか。

361.○証人 女子高生自身が動いたこともありましたが、同じく手がついていっていました。

362.○小出検察官 女子高生自身が動いたというのは、みずから体を動かしたということですか。

363.○証人 はい、そうです。

364.○小出検察官 そのときも同じような状況だったわけですか。

365.○証人 はい、そうです。

366.○小出検察官 あなたが見ていた限りで結構ですけれども、おじさんの左手はどれくらいの時間、女子高生の腰からお尻にかけての部分に触れたままの状態でいたのですか。

367.○証人 正確にはわかりませんが、感覚で2分ぐらいだったと思います。

368.○小出検察官 それぐらいずっとおじさんの手は、女子高生の体に触れたままだったと、そういうことになるわけですか。

369.○証人 はい、そうです。

370.○小出検察官 そうすると、そういうことも、あなたが、つまり、あなたの感覚で2分ぐらいずっと触れたままだったということも、これはたまたまではなくて、わざとなんだなと判断した理由ということになりますか。

371.○証人 はい、そうです。

372.○小出検察官 さて、おじさんの左手の方は女子高生の体に触れていたというお話なんですけれども、その間おじさんの右手の方はどうなっていたかわかりますか。

373.○証人 右の手のひらまではわかりません。

374.○小出検察官 どうしてわからないのですか。

375.○証人 女子高生とおじさんの体の陰に隠れて見えなかったからです。

376.○小出検察官 右手の動き、あるいは右手というと語弊があるかもしれませんが、右腕、右手の動きで何かわかったようなことはありましたか。

377.○証人 右腕は、おじさんの方でなく、前の方に出ていました。

378.○小出検察官 前の方ということは、女子高生の方に出ていた、そういうことになりますか。

379.○証人 はい、そうです。

380.○小出検察官 それは見えたわけですか。

381.○証人 はい、わかりました。

382.○小出検察官 手の先までは見えなかったけれども、腕がそちらの方へいっているのは見えたと、そういうことになりますか。

383.○証人 はい、そうです。

384.○小出検察官 そのときのおじさんの体勢はどんな感じでしたか。

385.○証人 右に重心がかかっているのが見えました。

386.○小出検察官 おじさんの右手が、そのとき、つり革をつかんでいたというようなことはありますか。

387.○証人 ありません。

388.○小出検察官 おじさんの右手の先については見える位置にいなかったということでしたよね。

389.○証人 はい。

390.○小出検察官 それなのに、どうしておじさんの右手がつり革をつかんでいなかったといえるのですか。

391.○証人 つり革をつかんでいれば、右手が上がっているはずなので、それはわかる位置にいました。

392.○小出検察官 右手を上に上げているような場面はなかったと、そういうことですか。

393.○証人 はい。

394.○小出検察官 あなたとしては、おじさんの右手はどうなっていると思っていましたか。

395.○証人 痴漢をしているだろうと確信した後は、右手もそういうことをしているのではないかというふうに考えました。

396.○小出検察官 つまり、右手も、左手と同じように、女子高生の体をさわっているのではないかと思った、そういうことですか。

397.○証人 はい、そうです。

398.○小出検察官 その右手については、あなたは見ていたわけではなくて、推測でそう思ったと、そういうことになるわけですね。

399.○証人 はい、そうです。

400.○小出検察官 おじさんは、少なくともあなたが見た範囲で、左手で女子高生の体をさわっていたということなんですけれども、そのとき、おじさんはどういう顔をしていましたか。


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「それでも僕はやってない」と植草さんを絡めない民放番組

    ◎統制色たっぷりの民放番組

 フジテレビの「スタメン」という爆笑問題が司会をしている番組に、映画・
「それでも僕はやってない」の周防(すお)正行監督がゲスト出演していた。

  周防監督は言っている。映画化に三年もかけて最も疑問に思ったことは
裁判制度であると。なぜこういうシステムが何の疑問もなく残っているの
か、なぜ日本の裁判所は立派に違いないとみんなが思っているのか不思
議であると。周防監督の目の付け所は、被告がほんとうにやったのか、実
際は誰がやったのかではなく、日本の裁判制度、つまりは法廷そのものの
有り方への疑念である。

http://www.at-s.com/html/cinema/movie_topics/soreboku/061212.html

 我々は裁判において、有罪か無罪かのアウトプットだけを見てわかった
気になっている。しかし、私自身も実際の裁判を傍聴して感じたが、裁判過
程、公判過程が非常に重要であることを痛感している。このあと、植草さん
の第二回公判における検察側尋問の速記録を本ブログに掲載するが、そ
の中に「私服」という重大な言葉が出てきていることは、植草さんの事件が
通常の痴漢冤罪の範囲を超えて、国策捜査による事件のでっち上げを想
起させるものがある。

 ところがである。検察官も弁護人もこのキーワードを重要視しなかった場
合(今回はそういう感じがあるが)、尋問の方向は通常の痴漢事件の展開
を行うだけである。しかし、傍聴している人間が証言の中にこれは重要だと
思える表現や言葉を発見した場合、事件の真相が非当事者の立場から見
えてくる場合もあるだろう。しかし、テレビや新聞報道を鵜呑みにしていた場
合、そのようなことは決してありえない話である。

 このように公判中の証言録は、通常そのままの形で出ないわけであるか
ら、傍聴は重要である。そこで例の爆笑問題の番組に話を戻すが、これま
でに爆笑問題の太田は植草氏を茶化すのが好きだったが、今回はひと言
も植草さんについては触れなかった。タイトルが「それでも僕はやってない」
という映画が注目を浴びているならば、当然、現在進行形で行われている
植草さんに言及してしかるべきである。植草さんも痴漢を否認したまま、異
常に長期間、勾留され続けているわけだから、この作品と明らかにシンクロ
しているのである。

 ところが番組ではいっさい植草さんの話は出なかった。ゲストの宮崎哲弥
はあるテレビ番組(You Tube動画で見られる)で激高しながら、植草氏は病
気なので治療する必要があると息巻いていたが、この番組では、その件に
いっさい触れずに、日本における人質的な自白制度は遅れているというよ
うなことを言っていた。たとえ否定的な見解でも、宮崎は植草さんの事件に
言及するのが自然であると思えるが、なぜかだんまりを決め込んでいた。

      http://www.youtube.com/watch?v=JhgFeMPtwOU

(わずか四ヶ月前、この番組の中で宮崎哲弥は植草氏を病的常習者であ
り治療する必要があると強弁している)

 おい!宮崎哲弥よ、そこまで日本の裁判制度を批判するなら、その間違
ったシステムに植草さんも巻き込まれていることをなぜ指摘しないんだ、お
前は。

 私は番組の構成自体に植草問題を徹底的にスルーするという統制がか
けられていることを確信した。今の日本では植草問題は隠然たるタブーに
なっているのである。


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2007年1月17日 (水)

外資に破壊される温泉文化

 植草さんの問題にかじりついていて後回しにしていたのだが、実は昨年
の11月30日に、私の読者から次のようなメールが届いていた。

************************************************************

害資による温泉地乗っ取りに関して

何時も興味深く拝見しております。
昨日の日刊ゲンダイの夕刊に気になる記事が載っておりましたので
是非取り上げてもらいたくメール致しました。

それは来年7月に施行される温泉の排水規制です。表向きは環境に配慮し
ての事となってますが明らかに害資による温泉地乗っ取りを容易にする為
の売国法案としか思われません。
私の杞憂に終われば良いんですが・・・。

************************************************************

これに対して私は次のような返信を送っている。

○○○様

 メールありがとうございました。
貴重な情報を知らせていただいて感謝しています。

 温泉地の唐突な排水規制はまったく奇妙と言うか、
明らかに背後に底意が存在しますね。

http://allabout.co.jp/travel/yado/closeup/CU20061123A/index.htm

 この記事を読みますと、ホウ素とフッ素が健康に悪影響を及ぼすから
とありますが、取り締まり対象が温泉地の旅館、すなわち温泉の権利者
ですね。規制を行って、高価な除去装置を設置しないと営業が出来なく
なるのでしょうね。

 弱小の経営者は事実上、経営が出来なくなり廉価で手放すことにな
るでしょう。そこを待ち構えていたゴールドマン・サックスのような外資が
一気に利権を買い漁るかもしれませんね。まったく悪質です。

 これが全国規模で進行すると、我が国の古来からの伝統文化である
湯治や温泉地観光が、海外式の市場原理主義にすっぽりとはまって
醜悪な様変わりをするでしょうね。儲けさえすれば、湯の町の情緒など
どうでもいい。地域の生活者などどうでもいいと排斥されるでしょう。こ
れも重大な日本破壊に繋がる法律ですね。

 結果的に文化風習が崩壊し、地域社会は無残なことになるでしょう。
構図が「りそな」とそっくりです。無理難題をふっかけておいて相手を
弱らせ、価値が下がったところで買い漁る。ハゲタカの常套的手口
ですね。

 もう少し調べてからブログに書きたいと思います。また、なにかお気づき
のことがありましたらご一報ください。こっそり進んだみたいですから
これは悪質ですね。では。

                      神州の泉   高橋博彦
*****************************

 まぁ、この時はこんな感じで、後になったら取り掛かろうと考えていた。し
かし、今、不二家の不祥事で株価がどんどん下がっている現状を見て、外
資の日本買いは止まることを知らずに進んでいることを痛感している。長
銀がリップルウッドに売却されたことや、現在、ソニーの外資株比率が半
分を越えたことや、他の優良企業株が、軒並み外資に買い進められてい
ることなどを考え合わせると、今の日本は、外資買い叩きの猛攻にさらさ
れ、日本の優良資産も優良企業もすべてが外資の手中に収まってしまう
勢いである。

 しかも、今年の五月に三角合併が完全解禁されると、この外資買いは
雪崩を打ったように加速されることは明らかである。

 この実態を日本国民はどれくらい意識しているのであろうか。
中曽根政権時代に結ばれた「プラザ合意」以降、顕著になったアメリカの
対日利益誘導システムの構築であるが、この極点として登場したのが小
泉政権であったことは間違いない。植草さんの言うように、小泉政権の本
質は米国傀儡政権であり、彼らの行った構造改革は外資に利益誘導をも
たらすためであった。規制緩和や規制撤廃、その他の法令上の改正(改
悪)は、外資が日本での跳梁跋扈をしやすいように行ったことはもはや疑
問の余地はない。

 我々が郵政民営化法案を結局は容認してしまい、この売国政権を放任
したことが、どれほど国益を害し、日本文化を破壊したか、認識している
国民はあまりいないようである。ただし、今でもなんか妙だぞと感じてきて
いる人たちは増えてきている。彼らの気持ちを捉え、彼らの間に燎原の火
のように世論喚起を起こす可能性を持ったお人が植草一秀氏その人であ
った。だからこそ、彼を嵌めた胴元は、ここぞという局面で植草氏の口を
封じたのである。

 バブル崩壊以後、軒並み斜陽化した国内ゴルフ場は相当数がゴールド
マンサックスなどの外資に買収され、それは今に続いている。その上、古
くから根付いている我が国固有の伝統文化である「温泉湯治文化」が今
、外資の手で根こそぎ破壊されようとしているのである。

 バブル以降、衰退したゴルフ場の再生を請け負ったのが、ゴールドマン・
サックスとローンスター社である。特にゴールドマン・サックスのゴルフ場買
収は著しい。現在はゴルフ場のみか、ホテル、スポーツ施設、旅館、観光
地などの利権を買い漁っている。その中でも彼らが温泉買いを行っている
ことに日本人は無頓着である。国民は外資が温泉を買収していることがど
ういうことか考えたことがあるだろうか。

 いしにえの時代から、日本人は山里の温泉を利用してその心身を癒して
きた長い歴史がある。温泉文化は日本の代表的な伝統文化である。これ
を外資に買収された場合、どんなことが起こるか考えてみればその恐ろし
さが実感できる。今、ゴルフ場を買収した外資がゴルフ場の経営方針をど
のように転換したか、昔からゴルフをやっている連中は気が付いているだ
ろう。ゴルフ場は回転効率を目指した経営に変わっているのである。つま
り、外資喫茶店のスターバッグスなどのように集客効率と回転率を上げ、
プレーが即席化している。徹底した合理化である。

 日本人には接待ゴルフという言葉があるくらいに、ゴルフはスポーツプレ
イという側面と同時に、社交の延長という側面がある。これは日本独特の
文化である。従って、外資経営の合理化とは、日本の接待的な要素をす
べて捨てて、短時間内のプレイに集中させ、回転効率を目指すことになる。
私自身は日本のゴルフ場は、その存在そのものに批判的だから、ゴルフ
場の経営方針などどうでもいいのだが、これが温泉になると話は違ってく
る。

 日本人とって温泉は、時代を超えて心身を癒す時間を供給する重要な場
所であり、民族の文化である。これが外資に渡り、ゴルフ場の集客効率と
同様の経営方針をとられた場合、我が国の伝統的な温泉文化は破壊され
る。おそらくすべての有名温泉では水着着用を義務付けられ、伝統ある古
びた温泉地は西洋風にリニューアルされてしまうだろう。湯の町の情緒性
などは根こそぎ破壊され、集客効率と回転率だけを志向した即物的な施設
が乱立するだろう。

 そして最終的には日本人も外国人も無機的な施設の温泉地に興味を失
い客足が途絶えることになる。その時、温泉地は町もろともさびれ果て、打
ち捨てられる可能性が高い。外資には地方文化の興隆などという意識はま
ったくないから、儲からないと判断した時点で完全に撤退し、後には無残な
観光地のむくろだけが残ることになる。

  あるブログを参照にすると、水質汚濁防止法の改正が2001年にあり、温
泉の成分にも含まれるホウ素やフッ素が排出規制の対象となった。暫定
期間が来年(2007年)7月に終わり、「新基準」に移行する。水質汚濁防
止法が改正され、古来から自然に湧き出ている温泉そのものに適用され
るらしい。しかもその法律の適用対象となるのは地元の旅館や温泉の権
利を持つ地主である。この法律をクリアーさせるために必要なフッ素除去
装置の値段は、3千万円から4千万円だそうである。当然、それは流出規
模の大きい源泉を有した施設ほど金がかかるだろう。

 そもそも、自然湧出の温泉にこのような法律を被せること自体がまともな
発想ではない。自然現象を罰則対象にする発想自体が狂気と断言しても
よい。もし、これが狂気でないとするならば、考えられることはただ一つで
ある。それは環境省に外資勢力が圧力をかけて無理やり行わせ、温泉地
の利権を安く買い漁る目的なのである。

 このまま行くと、我々日本人は温泉情緒を楽しめなくなるのである。我々
日本人は、ホワイトカラー・エグゼンプションで成果主義を押し付けられ、
過当な生き残り競争の中で疲れ果て、その血のにじむような労働は、ほと
んど外資のためであるという構図の中で生きていくことになる。そして疲れ
た身体を癒すために遠隔地の温泉に行けば、金ばかり吸い取られてゆっ
くりできない休日を迎えることになる。しかも水着着用で過ごすはめになる
かもしれない。目先の利益で外資に委ねることは日本の切り売りなのであ
る。しかし、これを推進する為政者とお役所は国賊である。


 にゃろ~!
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2007年1月13日 (土)

リチャード・コシミズさんと会う

 夕べはリチャード・コシミズさんの新年会に招かれ、面白い話を伺ってき
た。その話題をここに書くわけには行かないが、きわめて貴重な時間であ
った。それにしても彼は物凄いバイタリティのお人である。話題性のインパ
クトもさることながら、強烈なテンションで話すので、ぐいぐい引き込まれる
感じである。しかも、シビアな話題のほかに、陽気な話題を振りまいてみん
なを笑わせてくれる神経の配り方も楽しいものであった。

 当然、私も植草さんの話を彼にしてみたが、彼の見解も大きな謀略に嵌
められたということで、私たちのそれとほとんど一致していた。ただ、植草
さんの場合は完全に計画的に仕組まれていて、検察も警察もグルである
から決して楽観視できないということであった。それだけ植草事件の背景
は根が深いということなのである。

 ところで、リチャード・コシミズさんは自費出版で出した「911自作自演テ
ロとオウム事件の真相」という本を1000部限定販売し、新宿紀伊国屋書
店などに出していたが、すべて売り切れてしまい、今、第二版の発行を計
画中である。私も運よく買えたので読んでみたが、この衝撃的な内容では
どの出版社も後ずさりすると確信した。

              Vfsh0128

 我々の日常性の背後に横たわる巨大な黒い世界の話が満載されてい
るのである。よく、このような危険この上ない話題を活字に出来たものだと
思う。読んでいて、附合することだらけであることに驚かされる。

 また彼は、2月17日に、東京で単独講演会を開催する。論題は『リチャー
ド・コシミズが解析する日本と世界の秘匿された構造』である。興味のある
方はこちらへアクセスして欲しい。

http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/futuunokaiwa3.htm


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2007年1月12日 (金)

私は思い描く!

 これは理想ではなく、現実的に私が今思い描いていることである。

 西村眞悟議員に内閣総理大臣になってもらい、我が国の舵取りを
彼に任せる。そして、財務省と金融庁を再統合して以前の大蔵省に
もどし、その全体的な統括をエコノミスト植草一秀氏に任せるという
筋書きである。

 こうすれば日本は確実に復活する。ただし、目の覚めた国民は声
を大にして、小泉純一郎や竹中平蔵が敷き詰めた売国・亡国的な
政治路線を完全につぶさなければならない。

 グローバリズムは時代の趨勢だから仕方がないなどと言っている
馬鹿な政治家たちを国政の壇上から引き摺り下ろす必要がある。何
よりも日本人は精神的にアメリカのくびきから脱出する必要がある。


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ベンジャミン・フルフォードさん

以前、偶然ではあったが、ベンジャミン・フルフォードさんというカナダ系
白人のフリージャーナリストと会って話を聞く機会があった。

 ベンジャミンさんについては、以前から数冊の本などを読んでいて私も強
く興味を持っていたお人である。彼はただの親日家と言うよりも、日本民族
の特性や本質を彼なりに深く理解して、日本人の覚醒に強い期待を持って
いるようである。日本人が己に目覚めれば、文明構築や環境対策でも世界
のトップに立ち、他の国々の中心になって、彼らを牽引する力があると本気
になって確信している。二十数年日本に住んで、本気で帰化したいと思っ
ているようである。私はビル・トッテンさんと同じくらいこの人は信用してい
る。日本をこよなく愛しているが、彼の思いは世界人類の行く末にまで及ん
でいる。彼のサイトの巻頭言にはこういうことが書いてある。

日本人が『プロパガンダ』から目が覚めた時、人類や地球を救うことができ
る。日本が立ち上がれば、世界から「戦争、貧困、環境破壊、無知」などを、
なくすことができる。日本こそが新しい時代を創ることができるのだ。そのた
めなら、私は命をいくつでも投げ捨てる覚悟がある.。(ベンジャミン・フルフォ
ード氏)
        http://benjaminfulford.com/

 これを見てもわかるとおり、彼は日本民族の巨大な潜在力を確信してい
るのである。日本のヘビーな愛国者でさえ、ここまでの意識を持つ者は少な
い。彼は言う。日本はアメリカの睥睨に負けちゃいかんという言い方が良く
出る。彼が上で言っているプロパガンダとはアメリカによる対日政策のこと
であり、それは東京裁判史観から昨今の「年次改革要望書」までを含んで
の発言であると私は感じている。しかし、外国人にこういう教唆を与えられ
る我々日本人というのはいったい何であろうか。つくづく情けない限りであ
る。

 日本人の真の問題はアメリカである。昨今は我が国が、愛国気運である
とか、保守傾向が出てきたとか言うが、私はこれらの保守勢力は偽物だと
考えている。なぜならアメリカの理不尽な対日政策に迎合しているからであ
る。たとえば年次改革要望書の存在を受け入れて何も抵抗しないのは真
の保守でもなければ愛国でもない。完全に奴隷根性である。

およそ、親米保守なんてものは保守の値打ちがゼロだと断言しても良い。
保守とはアメリカの意向を守ることなのかと言いたい。日本人は、何を守る
ための保守なのかということを明確に考える必要がある。守るべきものは
日本文明の本質なのである。いつの時代にも日本人が日本人であることを
忘れてはならない。親米ポチとは、米国と同盟しなければ滅びるからなどと
いう皮相な理由だけで思考停止しているやからである。岡崎久彦氏は真剣
に日本を思っているが、あの考え方は「日本奴隷論」そのものである。彼は
アングロサクソンを怒らせたら日本は滅びると真剣に心配している。笑止千
万である。アメリカ人を怒らせて日本が滅びても構わないではないかと私な
どは思っている。国家の品格などという言葉が取り沙汰されているが、人間
も国家も自立自尊の誇りを失ったら品格などは出てこない。誇りと民族自決
のためには死を厭わないという心がけからしか品性や品格は生じないの
だ。

 戦略としての日米同盟は仕方がない部分もあるが、魂だけは毅然と保
ち、日本の独立自尊を志向するのが本物の「保守」である。私は日本民族
がこのまま何でもアメリカの言いなりになり、恒久的に奴隷化の道を歩むつ
もりなら、無理して存続する必要はないという立場である。

 私は核武装論者である。その唯一の論拠は、日本や他の伝統ある多様
な国々が欲望資本主義、すなわちグローバリゼーションに塗り込められ、そ
の道筋以外に選択の余地がなくなったら存続をあきらめてもよいという考え
が腹にある。日本がアメリカのくびきにかかってしか生きられない動物農場
になったら、その時は自国製の核爆弾を起爆して民族が潔く自死すること
が望ましい。だから核武装を行う必要を感じる。民族規模の切腹の方法論
としてである。高貴な民族が品性下劣なアメリカアングロサクソンの奴僕に
成り下がり、彼らと共に自堕落に地球を汚し続けて行くのであれば、さっさ
と滅んだ方がいいと考えている。私の核武装論は民族自死の論理である。

 まぁ、現実的には核の抑止バランス効果を狙うが、今の日本は武士道の
根源的なスタイルを取らなければ存続できない時期に来ている。永遠の敗
北主義は魂を腐らせるだけである。最も恐ろしいことは死ぬことではなく、
魂を腐らせたまま漫然と生き永らえることである。だから、そうならないため
にも日本人は死のふちに我が身を置いて国際政治や国内政治に当たる覚
悟が要る。経済も民族自決の心意気を復活させねばならない。つまり、進
化型ケインズ主義へ日本が舵取りをすることである。グローバルスタンダー
ドの経済侵攻が今、世界中を覆っているが、これに対抗するには、民族の
存亡を賭ける意気込みが必要である。すなわ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあ
れという心意気が必要である。

 恥を知ることが武士道、民族の生き恥を晒して存続することは先祖の遺
訓に背くことである。それくらいの気概を有してこそ日本人だと思うのだが。
もう一つは三島由紀夫が自決の直前に檄文で言っていたことだが、『生命
尊重のみで魂は死んでもいいのか』ということに、今の日本人は本気で対
峙する時期に来ていることは間違いない。これを理解しないで日本論も英
霊もないのだ。

 今の対米関係は、日本人を魂の奴隷化の道へ向かわせている。あらゆる
分野の日本人が心を合わせてこの隷従への動きに対抗しなければならな
い時期だと思う。そうしなければ数千年の栄光を持つ日本文明が消失す
る。日本文明が消失すれば、世界人類の未来の指標も消え去ることにな
る。日本人とはそういう役目を担った民族ではないだろうか。アングロサクソ
ンかユダヤかわからないが、多様な文明を意図的に滅ぼして、自分たちの
ゲスな生存欲に寄与させるために、世界を都合のいい構造に変えようとす
る勢力がいる。

 これを打ち負かせるか否かに今後の地球の命運がかかっていると思う。
植草さん問題の背景を深く見つめると、金儲け主義の賤人たちが仕組んだ
浅ましいグローバリズムへの時代変貌と、それを必死になって阻止しようと
する動きの二つのダイナミズムの拮抗が見えてくる。それはミクロに見れば
自民党内部にも見えるし、もっとミクロに見れば我々の心の中にもこの拮抗
が見えてくる。そういう意味では、現代はどういう風に生きるか、どういう風
な生存様式が妥当なのか、一人ひとりが、あるいは一国一国が問いかけら
れる時代である。

 アメリカ型文明には人間の幸福はない。そこに見えるのは苛烈な格差社
会と享楽と頽廃の醜さだけである。しかも、その文明は京都議定書を無視
する環境汚染の傲慢さを持つ。これが、人類の美意識の醸成や望むべく文
明の構築の絶対的な妨げになることはもはや誰の目にも明らかである。産
業革命以来、進展した欲望刺激型の資本主義体系、すなわちアメリカ型大
量消費文明は落日を迎え、これからは日本の先人たちが謙虚に、そして地
道に築いてきた神道的な「和の文明」形態が世界モデルとなるだろう。げろ
を吐くまで飲んだり喰ったりするようなローマ型(現代アメリカ)頽廃文明は
やめて、自然を讃美し、内面的な価値を優先する物静かな文明を志向する
必要がある。私はそれを名づけて「もののあはれ文明」と呼ぶ。

 実はベンジャミン・フルフォードさんは、基本において上述の私の考え方と
きわめて近い人に思える。ここまで日本を思ってくれるなら、私にとっては人
種の壁は存在しない。彼は立派な日本人である。


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重複する通常国会招集日と第三回公判日

 1月25日は今年初めての通常国会が召集される。植草一秀さんの第三
回公判も1月25日である。はたしてこれは偶然の一致なのであろうか。

 通常国会の開催日をどんなシステムで決めているのか私にはわからな
いが、この日付の重複は何か意図的な重ね合わせに思えてならない。

 植草さんの政権批判の本質が見えない人たちは、何を馬鹿な、植草氏
がそれほどまでに政府筋に睨まれているなどということはありえないと思
うだろう。しかし、国家がらみ、外資(米国)がらみのりそなインサイダー
取引疑惑を握っている植草さんは、現政権にとっても、最も恐ろしい爆弾
を抱えているのである。

当然、都合の悪い政治家や実力者たちは、第三回の植草公判を、世間
に対して目立たないように仕向けるために国会始動を25日に定めた可能
性は非常に強い。りそなインサイダー疑惑が国民に露呈すれば、前政権
の関係者のみか、前政権の欺瞞の構造改革路線を踏襲している安倍政
権の崩壊も確実になるだろう。

 従って、第三回公判は故意に捏造する証人たちの証言が破綻する可能
性は非常に高い。だからこそ、この公判自体の注目度を極力低めようと官
邸筋が画策することは大いにあり得ることである。逆説的に言うなら、無理
にこしらえた植草冤罪を長期にわたって継続し公判を開き続けることは、謀
略側にとって非常に大きなリスクなのである。彼らは出来るならしたくないと
考えているに違いない。

 公判を無理やり引っ張って、ありもしない事件を、いかにも事実であった
かのように法廷で偽装するには限界があるだろう。この間の第二回公判で
も、「私服が」という致命的な証言の失敗が起きている。次回公判もそれに
輪をかけて取り返しの付かないミスが生じる可能性は極めて高い。

 もしかしたら、速記録を確保しようとする我々に対して官憲の妨害が入る
可能性は非常に高い。私も何らかの罠に嵌められて擁護活動が出来なく
なる可能性も感じている。そうなったら、これを読んでいる読者の皆様は植
草事件が国策捜査に間違いないことをしっかりと認識して欲しい。私のよう
に国策捜査を全面に唱えて擁護する者には当然危険が付きまとうものだと
考えている。その覚悟は当初から持っているが、仲間に何か不測のことが
起こるかもしれないと考えると胸が痛む。

植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー


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2007年1月11日 (木)

印象操作(刷り込み)

 傍聴記を書いたAさんは私の知り合いの奥さんである。昨年の九月、植
草さんの痴漢冤罪が起こったあと、Aさん宅に別用でお邪魔した折り、この
事件の話が出た。私はご夫婦に対し、これは冤罪であり、小泉政権初期か
ら植草さんが、この政権のインチキ性や売国的政策に気が付いていて、経
済政策の観点から熾烈に批判していた経緯があり、そのために前政権の
官邸筋に嵌められた疑いが濃厚であると、私の見解を滔々と述べてみた。

 その時、旦那さんは神妙に聞いてはいたが、特に肯定も否定もしなかっ
た。しかし、奥さん、つまりは傍聴人Aさんのことであるが、彼女はこの話を
一笑に付して、「この人ねえ、やったに決まっているじゃないですか」と言下
に言い放った。彼女もこの時点ではテレビやその他のマスコミ報道を鵜呑
みにして、あたかも植草さんが常習的に痴漢性癖を有しているかのように
思っていたいたようである。

 すべてを覚えているわけではないが、彼女は確かにこういう意味のことを
言った。たしか植草氏は二度目であり、一度目なら私も間違いを考えたか
もしれないが、二度目ともなると、もうこの癖は常習的なものであり、直らな
いんじゃないかと。これは、以前、司グループの社長が言ったこととほぼ同
じである。知人や親戚筋に植草事件の話をしても、大方がこれに近い反応
だった。つまり、二度目となってしまったら、もうこれは彼の性癖が起こした
病的な行為以外の何物でもないんだという思い込み、決め付けである。

 ここで私はもう一つの重要な事実をAさんの反応に見ているので、それに
ついて少し考察してみたい。Aさんは9月の事件の後、植草さんを常習的痴
漢犯罪者だと確信していたようである。その確信の根拠を彼女に聞いてみ
たが、そういう風に感じているという、ある先入観念を基にしているように私
には思えた。この場合、論理よりも印象が優先しているのかなという感じで
あった。

 私は複数の人たちに似たような反応を示され、大方の人々はそういう印
象を植草さんに持っているのかと思った。しかし、考えてみると、ほとんど
の人は植草さん本人を間近に見ているわけではなく、そういう印象を抱くに
至った直接の情報類は日ごろ接しているテレビや週刊誌などである。それ
らに出ていた写真類や関連報道から植草さんという人物像を形成している
のである。まぁ、それが我々が政治家や芸能人などのゴシップなどを目に
する日常的な機会なのであるが。

 その話の続きを展開する前に、Aさんの話に戻る。彼女は昨年暮れの植
草さんの第二回公判で、私の頼みで並んでくれた人々の一人である。旦那
さんが仕事で行けなくて申し訳ないからと彼女が代わりに並んでくれたのだ
が、この時も彼女は、いかにも旦那さんと私との義理があるから来たという
風体で、けっして擁護の気持ちではなかったことは確かである。しかし、偶
然にも彼女は傍聴券を手にしてしまい、私と共に公判を目にすることができ
たのである。

 予想外に傍聴席に座ることができたAさんは、公判中、必死に書きとめた
り、スケッチをしていた。スケッチの中には目撃証言者の正面の肖像もあっ
たのだが、これはあまりにもリアルに似ていて、とてもネットに出せるもので
はなかった。しかし、植草さんの似顔絵は二枚お借りしてこの間の本ブログ
に載せている。

 公判を終えてAさんは開口一番、私に言った。「本人を見て植草さんは無
実であることを確信した」と。私は皮肉交じりに彼女に、「え?今回、彼はひ
と言もしゃべっていないのにどうしてそう思ったんですか、この間は痴漢常
習者だと言っていたじゃないですか」と訪ねた。Aさんは「週刊誌やテレビで
見た本人と間近に見た本人はあまりにも印象が異なっていて、正直そうい
うことをするような人には見えなかった」と言ったのである。

 それからAさんは植草さんのことを「こんなに素敵な男性だとは思っていな
かった」と、女性として彼にかなりの好感を持ったことを正直に言っていた。
(旦那さんにもそう言うのだろうか。笑) 私には女性が植草さんを異性と
してどういう風に見えたのかということは感覚的にはわからないが、嫌な印
象を得たというのに比べれば、それは良かったというくらいである。しかし、
あれほど植草さんのことを否定的に言っていたAさんが、裏を返したように
好意的に変わっていたことには少し驚いた。まぁ、彼女の異性への好感度
などはどうでもいいことである。私が興味を持ったのは、人間の印象という
ものには、エドモンド・フッサールやメルロ・ポンティなど、現象学で言う志向
性(指向性)という心理機能が関与していることについてである。

 人間の心理現象が物理的な現象と決定的に異なるのは「指向性」という
機能があるからである。小難しいことを言うつもりもないが、人間の認識作
用には、認識の対象に対して、すでに自己のうちに、それに関わる「何か」
を内在させている。何かを認識することは、同時に自己に内在するその指
向性を働かせているのである。この指向性は哲学者や心理学者に研究さ
れているが、必ずしも充分に解明されているわけではない。

 しかし、人間の日常意識においては我々はこの指向性を無意識に働か
せている。テレビや活字メディアで、植草さんが痴漢で逮捕されたと、何度
も繰り返すと、それを聞いた者は、植草さん自身に特別な関心がない限り、
報道の真偽を疑わずに受け入れてしまうことは多い。むしろ、これは通常の
反応である。しかし、私のように、少しでも植草さんのエコノミストとしての思
想傾向や考え方に興味を持っていた者であれば、痴漢行為という現象をひ
とまずは受け入れても、何か腑に落ちないものを感じ取る。私は、腑に落ち
ない、すっきりとしないという一抹のこの疑念は指向性がもたらしたものだ
と考えている。

 私はこの指向性の強弱は、その人間の対象に関する関心度合いに対応
しているものと考える。公判のあと、Aさんから自分のブログに寄稿してもら
い、はじめて彼女の文章を目にしたが、なかなかわかりやすく理知的な文を
書き方をする人だと思った。文章はそれを書いた人間の知的な内面をさら
け出す。彼女の文は論理的で無駄がなく読みやすい。旦那さんのメールは
読みなれているが、奥さんの方がはるかに美文家である。彼女が公判で植
草さんを見て、生理的な好悪感情だけで否定派から擁護派に変貌したとは
思わないが、少なくとも実際の人物を目の当たりに見てそれなりの影響を
受けたことはまちがいない。これを少し深く捉えると、人間の印象というもの
は所与の前提条件でまったく違うものになるということを、私自身も肝に銘
じたということである。彼女の印象の変化には、それまでに私が与えた説
明も彼女自身に論理的な考え方を促した側面はあると思う。

 理知的なAさんは、私が説明した冤罪にいたる政治的背景や状況の論理
性を一応は自分の中で咀嚼していたと思う。しかし、多分彼女はあと一歩
の確信が持てなかったのであろう。それが植草さん本人を目の当たりに見
て得心したという経緯であったと私は思う。Aさんもそのように言っている。
私はAさんの「改心」(笑)について、少し考察をしてみた。Aさん自身は日常
性の中で植草さんのニュースに触れても彼に対して、もともとほとんど関心
はなかったようである。せいぜい植草さんは経済評論家らしい人だと思って
いたくらいであった。従って、彼女の内なる指向性はこのニュースに対して
特に強い働きはせず、他のニュースと同様に受身的に見ていただけであ
る。

 つまり他の人々と同様に、以前の彼女に対しては、植草さんは常習的痴
漢性癖者であるという「刷り込み」が行われたのである。これが彼女の中で
固定化され、いつの間にか植草さんを「クロ」だと思う指向性が作用するよ
うになっていた。このことを鑑みて、植草さんをクロだと思い込んでいる人々
は、そう思い込む機縁となった情報ソースを咀嚼してみたほうがいい。そこ
には植草さん側の弁明情報がほとんどないことを悟るだろう。今はAさんを
象徴とした一般大衆を主体にこの事件を考えてみたが、今度は刷り込みを
もたらしたメディア側に目を向けてこの問題を考えてみる。

 品川駅の手鏡事件、そして京急電車内の痴漢疑惑事件、この二件の植
草事件は単なる冤罪ではないと私は当初から考えている。これは背後に重
大な政治的思惑が絡む国策捜査によって起きたことだという確信である。
今言いたいことは、そのことの真贋そのものではなく、警察やマスコミの一
次報道が明らかに恣意的な偏りを持っていることを取り上げたい。

 このバイアスした一次報道が、第二、第三の偏った連鎖報道を増幅し、そ
れが時間を追ってループ的な性格を持ってしまったことは重要である。なぜ
なら植草さん側の弁明が皆無に等しい一次報道が先行し、その非対称な
情報が各マスコミから、ループ状の連鎖報道として増幅されたことは、この
事件にあまり関心のない人々に対して決定的な印象誘導を行ってしまった
ことを断言できるからである。すなわち、物事の真偽を確認するという過程
を省いて、メディアがそろいもそろって勝手な印象報道を行ってしまったこと
に重大な問題があるのである。

 植草さんを、あたかも治療必須の病的な性癖者だというイメージを国民に
強く植えつけることになってしまったからである。これがマスコミの偏向報道
の恐ろしいところである。Aさんも当初はこの報道に明らかに影響を受けて
いたことが以前の話し方から推察できる。この影響力はいわば洗脳に近い
ものであり、背後の事情をよほど意識して考察しないと、マスコミの言うがま
まにイメージが刷り込まれてしまうのである。

 警察や検察、あるいは背後にいる国家権力の中枢が、時の政治権力に
批判的な識者を失墜させようと企んだ場合、その識者の社会的な信用を完
全に地に堕とそうと画策することは充分にありうることである。小泉政権以
降においては特にそういう傾向は顕著であると考えねばならない。私は植
草事件の背後には、人間の指向性を利用した巧緻なマスコミ宣伝が最大
限に応用されていると確信している。これは歴史的に名高いあのヒトラーの
腹心でもあり、宣伝大臣であったヨゼフ・ゲッペルズの手法にそっくりなので
ある。ゲッペルスは「ハイル! ヒトラー」を提唱した人間であり、ヒトラー神
話を創設した張本人である。

 ゲッペルスはヒトラーをマスコミを使って神格化したが、植草さんを狙った
者たちは、植草さんの人間性を地に堕とすイメージ作戦を展開したのであ
る。これが日本国民に簡単に浸透したのは、今の日本が、かのドイツプロ
イセンのワイマール時代にそっくりな様相を呈しているからである。すなわ
ち小泉前首相の俗悪なポピュリズムに幻惑され、国民の思考能力が退嬰
したからである。背景には平成の大不況があり、強烈なデフレ経済で社会
の活力そのものが極度に低下していたからである。精神的には、伝統を捨
てた戦後民主主義のなるべくしてなった結末とも言える。

 植草事件の背景には、国を売り渡す者どもが、日本の伝統に基づいた日
本型社会構造を完全に悪者扱いして、アメリカの言うがままに、血も涙もな
い新自由主義という弱肉強食社会に変えていることが大きな潮流としてあ
る。この流れに警醒の言辞を唱えたまともな人たちが国策捜査の毒牙にか
かっているのである。その筆頭がエコノミスト植草一秀なのである。

 


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2007年1月10日 (水)

疑問点2 (体験から考える:byA)

疑問点2(体験から考える:byA)

私は自分で痴漢に遭っているが、他の女性が痴漢にあっている現場も
何度か目撃した。それらは朝の通勤ラッシュという時間帯なので、植草さ
んのケースとは条件が異なるが、同じ痴漢事件として今回の証言と決定
的に異なる事柄を発見した。

 それは痴漢の顔つきである。私が見た痴漢は、どれも周囲の視線に神
経を尖らせていた。そして同時に触っている対象の女性の事も時折ちらち
らと見ているのが特徴的だった。痴漢行為を他の人に見られてはまずい
わけだから、当然まわりに目がないかどうか確認しながら痴漢する。

一方、女性をちらちらと見るというのは、痴漢の心理として当然ではないだ
ろうか。考えられる理由としては、第一に女性の反撃の兆候をいち早く察
知して危険を回避するため、第二に痴漢特有の快感を得るためだ。という
のは、痴漢の禁断の快楽はスリルだからだ。そのスリルの要素の一つと
して「内気な女の子の嫌がる素振り」が痴漢にとってはたまらない喜びな
のだ。痴漢は微罪ではあるが、強制わいせつに変わりはないので、レイプ
と同質の犯罪であり、犯人は同じ類の快感を得る。だから相手の表情を見
ると思うし、たとえば地蔵の様に無反応な女性のお尻を触り続けても、あ
まり面白く感じないのではないかと思う。

・・・と男性の気持ちになって考えてみたが、その他にも興味深い話を聞
いた。痴漢は、本格的な行動を起す前に、女性の体に軽く一度ポンッと触
れてみるらしいのだ。それで、その女性がどんな反応を示すかで対象にす
るかどうか決めるという。声をあげそうな女性はその時の反応でわかるわ
けだ。

以上の経験や考察から、視点の定まらないボーッとした痴漢というのは
私に限ってはいまだかつて見たことがないし、かなりレアなタイプだと思う。
もしも、何者かが植草さんを封印する目的で姦計をめぐらし、証人に虚偽
の証言を行わせていたとしたら、緻密な計画は意外な“痴漢研究”という
ところで綻びを見せてしまったのではないだろうか。

----証人の植草さん描写部分----

453.○弁護人2 それから、被害者の後ろにいた男性というのは、少しう
    つろな目をしてぼーっとしていたということなんですか。
454.○証人 はい。

455.○弁護人2 どこを見ていたというのは記憶はないですか。

456.○証人 車両の前方を見ていました。

457.○弁護人2 前の方を見ていた。

458.○証人 はい。

459.○弁護人2 では、自分の前にいる女子高生を見ていたり、自分の手
    を見ていたりということはないんですか、あなたの見ていた範囲では。

460.○証人 そうですね。

461.○弁護人2 真っすぐ前を見ていた。

462.○証人 真っすぐ前の方を見ていましたが、視点は定まっていないよ
    うな感じでした。

(参考webサイト)

痴漢電車はNO!痴漢行為の被害にあわないための女性護身サイト。

痴漢犯罪者のタイプ

http://tantei.web.infoseek.co.jp/chikan/type.html


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2006年12月31日 (日)

植草氏第二回公判速記録(弁護側尋問)


平成18年特(わ)第4205号

迷惑防止条例違反

裁判速記録

(弁護団による証人尋問部分)

日時・平成18年12月20日(水)

於・東京地方裁判所第425号法廷

〔開廷後、検察官による主尋問〕

1.○神坂裁判長 それでは、反対尋問、どうぞ。

2.○弁護人 弁護人からお聞きします。

まず、あなたは9月13日の午後10時8分発の電車に乗り込んだということですが、あなたが通った京急の改札口は、JRと京急の乗りかえ口だったということでよろしいですか。

3.○証人 はい、そうです。

4.○弁護人 スイカとパスネットの両方を通すところですね。

5.○証人 はい、そうです。

6.○弁護人 あなたが京急の改札を通ったときには、既にその10時8分発の電車は

ホームにとまっていたんですか。

7.○証人 はい、そうです。

8.○弁護人 あなたが当日その電車に乗り込んだときには、何両目かはっきり覚えていなかったんですね。

9.○証人 はい、そうです。

10.○弁護人 後ほど警察や検察官から確認されて、3両目というのがわかったということですか。

11.○証人 はい、そうです。

12.○弁護人 あなたがその車両に乗り込んだ際、既に電車のとびらは開いていたんですか。

13.○証人 はい、そうです。

14.○弁護人 改札を通ったときには開いていましたか。

15.○証人 それはよく覚えていません。

16.○弁護人 あなたがその3両目の車両にたどり着いたときに、他の乗客は乗車を始めていましたか。

17.○証人 はい、始めていました。

18.○弁護人 あなたが電車に乗り込む際、あなたは他の乗客が乗り込むのを待って、続いて乗車したのか、それとも全く待たずに、たどり着いてそのまま乗り込んだのか、どちらでしょうか。

19.○証人 並んでいた乗客の後ろに続く形です。

20.○弁護人 あなたの前に並んでいた乗客は何人ぐらいいましたか。

21.○証人 もう乗り込んでいる方もいたので、詳しく覚えていませんが、10人ぐらいはいたと思います。

22.○弁護人 10人ぐらいあなたの前に並んでいたのですか。

23.○証人 はい。

24.○弁護人 何列で待っていましたか。

25.○証人 乗り込んでいる途中だったので、列もばらけていましたが、3列ぐらいだったと思います。

26.○弁護人 あなたが乗り込み、そのあなたの直前の人、これはどんな人でしたか。

27.○証人 直前の人はちょっと覚えていません。

28.○弁護人 男性か女性かも覚えていませんか。

29.○証人 はい。

30.○弁護人 あなたが乗り込んだ後、電車が発車するまでに何人が乗り込んできましたか。

31.○証人 後ろから2~3人だと思います。

32.○弁護人 2人か3人かははっきりしませんか。

33.○証人 ちょっと覚えていません。

34.○弁護人 その乗ってきた人の性別とか身長とか、そういうものは覚えていますか。

35.○証人 1人は女性であることを覚えています。

36.○弁護人 ほかの人については余り覚えてないですか。

37.○証人 はい。

38.○弁護人 その女性については、身長はどのぐらいでしたか。

39.○証人 ちょっと思い出せません。

40.○弁護人 髪型についてはどうですか。

41.○証人 長くはなかったと思います。

42.○弁護人 服装について思い出せますか。

43.○証人 それも余り詳しくは思い出せません。

44.○弁護人 あなたは初めに警察でお話をしたときに、他の乗客に並んで、続いて乗ったというふうにいったか、そのまま駆け足で乗り込んだか、何というふうにいったか覚えていますか。

45.○証人 ちょっと正確には覚えてないです。

46.○弁護人 人が並んでいないところに駆け足で乗り込んだ。

47.○小出検察官 異議です。そういうふうに書いてないと思いますけれども、もう一度ごらんになってください。

48.○弁護人 そのとおり書いてあると思います。もう一度質問します。

49.○小出検察官 改札口から余り人が並んでいないというふうに書いてあると思うのですが、違いますか。

50.○弁護人 じゃ、そのとおり聞き直します。あなたは警察でお話をしたときに、改札口から余り人が並んでいない、改札から左方向の車両に駆け足で乗り込んだ、こういうふうにお話ししたというふうに記憶していますか。

51.○証人 はい、記憶しています。

52.○弁護人 今、並んで乗り込んだというふうにおっしゃいましたけれども、どちらが正しいんですか。

53.○小出検察官 異議です。どちらが正しいのか別に矛盾してないと思うのです。そごしてないと思うのですけれども。

54.○弁護人 いや、並んで乗り込んだということと、そのまま駆け足で乗り込んだというのは違うと思います。

55.○上山検察官 そのままとは書いてない。

56.○神坂裁判長 先ほどの尋問で、あなたより前に10人くらい人が並んでいたというふうに証言されましたね。

57.○証人 はい。

58.○神坂裁判長 警察での取り調べでは、余り人が並んでいないドアに行き、そのドアに回って乗ったというふうに供述調書には記載されているのですね。

59.○証人 はい。                   

60.○神坂裁判長 あなたの感覚では、10人ぐらい並んでいたということは、余り人が並んでいないドアというふうに思えたんですか、その当時。

61.○証人 改札を通って正面のところには、人はもっと並んでいるように見えました。

62.○神坂裁判長 人が並んでいる幾つかのドアの中では、人が並んでいないドアというふうに当時思ったということですか。

63.○証人 はい、そうです。

64.○神坂裁判長 証言の趣旨はそういうことですけれども、さらに尋問されますか。

65.○弁護人 今のところで1点だけ。乗り込んだ、今思い出してみてということで結構ですけれども、今思い出してみて、あなたが乗り込んだドアには、10人ぐらい人が並んでいたということは間違いないですね。

66.○証人 そうだと思います。

67.○弁護人 あなたが乗車して立っていた位置というのは、先ほど紙に書き込んだ位置ということで間違いないですね。

68.○証人 はい、そうです。

69.○弁護人 あなたは乗車してから、乗ってきたドアと反対のドアの方を向いていたということも間違いないですね。

70.○証人 はい、そうです。

71.○弁護人 あなたはずっとその方向を向いていたのですか。

72.○証人 はい、そうです。

73.○弁護人 あなたは電車に乗ってから中づりの広告を見ていたということですね。

74.○証人 はい、そうです。

75.○弁護人 どんな広告を見ていたか覚えていますか。

76.○証人 覚えていません。

77.○弁護人 あなたは中づりの広告を見るほかは何をしていたのですか。

78.○証人 特に何をしていたというわけではないと思います。

79.○弁護人 あなたは品川から金沢文庫まで乗っていたということになりますか。

80.○証人 はい、そうです。

81.○弁護人 ほぼ毎日同じ経路で帰っているということでしょうか。

82.○証人 はい、そうです。

83.○弁護人 品川から金沢文庫までは何分ぐらいかかるんですか。

84.○証人 40分ぐらいだと思います。

85.○弁護人 あなたは毎日電車の中で、その40分というのはどのようにして過ごすのですか。

86.○証人 特に何をして過ごしているというわけでもないと思います。

87.○弁護人 メールをして過ごすということはよくあるのですか。

88.○証人 何か用件があればそういうこともあると思います。

89.○弁護人 音楽を聞いて電車の中で過ごすということはあるのですか。

90.○証人 ありません。

91.○弁護人 本や雑誌を読んでいるということはないんですか。

92.○証人 たまにあります。

93.○弁護人 当日はなかったですか。

94.○証人 はい、ありませんでした。

95.○弁護人 かわります。

96.○弁護人2 では、弁護人2からお聞きします。

まず、きょう検察官の質問に対して、被害者とされる女性、それから被告人、それとあなたと被害者、被告人との間にいた女性の位置というのを書き込まれましたね。

97.○証人 はい。                                                         

98.○弁護人2 警察や検察庁でもそういう図面を書いたりしたということはありますか。

99.○証人 はい、書きました。

100.○弁護人2 そこに書き込んだ人というのは、警察や検察で書いたときと、きょう書いたときとで、人数とか場所は違いがあるかどうかというのは何かわかりますか。

101.○証人 人数は違います。

102.○弁護人2 もっと多い人を書いたということですか。

103.○証人 はい、そうです。

104.○弁護人2 それは大体どのくらいの人を書いたかというのは覚えていますか。

105.○証人 大体は覚えています。

106.○弁護人2 甲4号証に添付されている再現現場見取り図、先ほど検察官が示されたものと同じものですが、その中で、ちょっと邪魔になると考えたので、長さをはかっている線であるとか、その数字を消したものを示したいのですが。

107.○神坂裁判長 ちょっとそれを検察官に示してください。長さを消してあるそうです。

108.○小出検察官 こちらは入っていますけれども。

109.○弁護人2 それは邪魔にならないので。

110.○小出検察官 はい。

111.○弁護人2 こちらに、では黒のペンで、あなたがまず警察で説明したときに、どのように説明したかという人物の配置というのを、今覚えている限りで書いてもらえますか。

112.○証人 はい。

113.○弁護人2 まずあなたはどれですか。

114.○証人 これです。

115.○弁護人2 「私」というふうに書いてもらっていいですか。

116.○証人 はい。

117.○弁護人2 それから、あなたと、あなたの位置から、被害者とされる女性はどれですか。それは先ほどと同じで「V」で書いてもらえますか。

118.○証人 はい。

119.○弁護人2 それから、あなたが被害者に痴漢を働いているというふうなのを見たという男性はどれですか。それを「A」にしてもらえますか。

120.○証人 はい。

121.○弁護人2 あと、あなたとその被害者と被告人との間にいたというのが女性ですか。

122.○証人 はい。

123.○弁護人2 それは「女」というふうに書いてください。

124.○証人 はい。

125.○弁護人2 そのほか性別のわかる人はいますか。

126.○証人 はい。

127.○弁護人2 それも性別を書いてください。

128.○証人 はい。

129.○弁護人2 これは子供ですか。

130.○証人 はい。

131.○弁護人2 子供の「子」でいいです。男か女かは覚えてないですか、子供は。

132.○証人 女の子だったという記憶です。

133.○弁護人2 これは大体座席の位置なんかもわかると思いますけれども、そのとおりで大体間違いないですか。

134.○証人 はい。

135.○神坂裁判長 ちょっとそこまででよろしいですか。

136.○弁護人2 はい。

137.○神坂裁判長 はい、結構です。

138.○小出検察官 こちらもよろしいですか。

139.○弁護人2 はい。

140.○神坂裁判長 確認させてもらいたいんですけれども、今記載したのは、あなたが警察でこのように書いたと思うという記憶に基づいて記載したと聞いてよろしいですか。

141.○証人 はい、そうです。

142.○神坂裁判長 そういうことですね。

     はい、どうぞ。

143.○弁護人2 それでは質問を続けますが、そのとき、警察で書いてからきょうまでの間に、その警察で書いた図面というのは、あなたは見たことがありますか。

144.○証人 見たという記憶はありません。

145.○弁護人2 今はもうこういうふうな人がいたということをあなた自身は覚えてないんですか。

146.○証人 この程度であれば覚えています。

147.○弁護人2 このぐらいの人がいたのを覚えていますか。

148.○証人 はい。

149.○弁護人2 先ほど向きを書いてもらった人以外の人、つまり、この「私」と間にいる女の人と被告者以外の人が、どちらを向いていたかというのを今覚えていますか。

150.○証人 ちょっとわからないです。

151.○弁護人2 個別に聞いて、例えばあなたと反対側のドアの近くにいる、図の中で、2人男の人がいますけれども、その右側の男の人、この人がどちらを向いていたかというのは覚えていますか。

152.○証人 ちょっと覚えていません。

153.○弁護人2 左側の人も覚えてないですか。

154.○証人 はい。

155.○弁護人2 この右側の男の人というのは、スーツを着ていたかどうかというのは覚えていますか。

156.○証人 スーツを着ていました。

157.○弁護人2 左側の男の人はどうですか。

158.○証人 スーツを着ていました。

159.○弁護人2 どんな色のスーツとか、そういうことは覚えていますか。

160.○証人 それは覚えてないです。

161.○弁護人2 そこまでは覚えてないと。

162.○証人 はい。

163.○弁護人2 スーツを着ていたというのはサラリーマン風なんですか。

164.○証人 はい、そうです。

165.○弁護人2 今確認した人の位置というのは、どの時点での位置ということになるんですか。つまり、電車に乗った後、あなたが女子高生と男性というのを認識した時点とか、あるいはその後、痴漢行為を確認した時点であるとか、あるいは女子高生がその痴漢行為について声を上げた後の時点、それはどの時点ということになるのでしょうか。

166.○証人 この構成は余り始終変わらなかったように思います。

167.○弁護人2 基本的に電車に乗っている間はこの位置ということですか。

168.○証人 はい、そうです。

169.○弁護人2 自分の前であるとか、あるいは注目していたというその被害者あるいは被告人以外の人の場所というのを覚えていたというのは、何か理由があるのですか。

170.○証人 おじさんの後ろにいた女性に関しては、母親と子供連れだったので、その会話は聞こえてきたのは覚えています。詳しい内容までは覚えていません。私の斜め後ろにいる女性については、入ってくるときにちらっと見えたというのと、余りぶつからないように距離をはかろうとしたという記憶はあります。反対側のドアの近くにいる男性については、自分がそちらの方を向いていたので見えました。

171.○弁護人2 そのほかにあなたの位置から見えたけれども、覚えていない人とか、あなたの位置から見えなかったけれども、いた人というのもいるんですか。

172.○証人 はい、大勢いると思います。

173○弁護人2 ドアとドアの間のスペースといいますか、座席がないところがありますよね。

174.○証人 はい。

175.○弁護人2 この部分には何人ぐらいの人がいたというような感じですか。

176.○証人 私の後ろにもしかしたら人がいたかもしれませんが、余り覚えていません。

177.○弁護人 全部で何人ぐらいいたかもわからないと。

178.○証人 はい。

179.○酒井弁護人2 では、事件の内容についてお聞きしますけれども、まずこの事件、電車の中で痴漢の事件を見るまでというのは、被害者の女性というのはあなたは見たことがありますか。

180.○証人 電車に乗る前に、女子高生がいるなというのは気づいていました。

181.○弁護人2 あなたより前にいたわけですか。

182.○証人 はい。

183.○弁護人2 その人、女子高生がいるなと思った女子高生と、今回乗った女子高生が同じ人かどうかはわからないですか、被害に遭った女性。

184.○証人 正確にはわからないです。

185.○弁護人2 あなたはほかには、この車両のあなた付近には、この被害に遭ったという女子高生以外の女子高生が乗っているというのは何か知っていますか。

186.○証人 知りません。

187.○弁護人2 電車に乗る前にその女子高生を見たという以前は見たことはないんですか。

188.○証人 何をでしょうか。

189.○弁護人2 その女子高生。

190.○証人 見ていません。

191.○弁護人2 その日初めて見た人ということですか。

192.○証人 はい、そうです。

193.○弁護人2 それから、あなたが警察や検察庁で話していたときは、被害者の後ろにいた男性というのがいると思うのですけれども、それが今回被告人であるという話だったと思うのですけど、あなたは、その後ろにいる男性というのは、初めてこの男性がいるなと認識したのはいつですか、電車の中で。

194.○証人 それは電車に乗って間もなくです。

195.○弁護人2 その男性が電車に乗る前であるとか、あるいはあなたが乗ったとき、既に乗っていたとか、そういうことはわかりますか。

196.○証人 わかりません。

197.○弁護人2 その男性を最初に見たとき、つまり、被害者の後ろにいて、痴漢行為をしているのではないかとあなたが最終的に思った人、その男性を初めて見たとき、あなたがその男性を最初に見て、容姿とか姿形について何か記憶に残っていることというのはありますか。

198.○証人 はい、あります。

199.○弁護人2 どんなことですか。

200.○証人 重心が右に傾いていて変な格好というか、変な格好をしているなというふうに思いました。

201.○弁護人2 服装や髪型とか、そういうことでは何か記憶に残っていることはありますか。

202.○証人 服装はスーツを着ているというぐらいで、特に記憶はありません。

203.○弁護人2 先ほどの重心が右に傾いているというお話なんですが、いまいちイメージができないんですけれども、体自体が傾いているのですか。

204.○証人 やや傾いていました。

205.○弁護人2 やや。

206.○証人 はい。

207.○弁護人2 話がまた飛ぶんですけれども、先ほどの主尋問の中で、あなたがドアからドアにかけてのつり革を持っていたという話だったのですけれども、それはこの電車の中のドアとドアの間の部分というのは、まず、つり革が座席と座席の間にあるんですよね。

208.○証人 はい。

209.○弁護人2 それから座席と座席というのもよくわからないのですけれども、ドアと並行にある部分と、それからドアとドアの間に垂直というか、ドアに対して垂直にあるつり革とある。あなたが持っていたというのはその垂直にあるつり革ですか。

210.○証人 はい、そうです。

211.○弁護人2 要はドアとドアに対して垂直に並んでいるつり革、そのつり革も幾つかあると思うのですけれども、どのあたりの位置というのは覚えていますか。

212.○証人 一番乗車口に近いものです。

213.○弁護人2 あなたはドアに対して全く並行にというか、入ってきたドアに背を向けて立っていたということですか。

214.○証人 はい、そうです。

215.○弁護人2 どちら側かに斜めになっていたということはないんですか。つまり、ちょっと進行方向に向いているとか、あるいはちょっと進行方向に対して後ろを向いているとか、そういうことはないですか。

216.○証人 なかったと思います。

217.○弁護人2 進行方向に対して真横ということですか。

218.○証人 はい。

219.○弁護人2 それから、先ほどあなたと被害者、あるいはその後ろにいた男性との間にいる女性について、顔はよく見てないというお話だったと思うのですけれども、これはあえて見ていなかったということなんですか。つまり、見えない位置にあったのか、全く見てなかったのかという意味では、どちらが正しいんでしょうか。

220.○証人 のぞき込むようなことはしませんでした。側面は見えたと思いますが、顔の詳しい感じがわかるような位置ではありませんでした。

221.○弁護人2 あなたの右前方に立っているんですよね。

222.○証人 はい。

223.○弁護人2 あなたの位置との関係でいうと、あなたの方には左肩を向けているような感じなんですか。

224.○証人 そうだと思います。

225.○弁護人2 図面では書いてもらったのですけれども、あなたとその女性との距離というのはどのくらい離れているのですか。例えば女性の左肩とあなたの体の一番近い部分、これはどのくらい離れていたのですか。

226.○証人 数十センチだと思います。

227.○弁護人2 数十センチというと、かなり幅が広いと思うのですけれども、例えば今いる私の位置とあなたの位置よりも近いですか。

228.○証人 近いです。

229.○弁護人2 もっと近いと。

230.○神坂裁判長 それではわかりません。

231.○弁護人2 済みません。そうすると、例えば私のひじから手の先までという部分、このぐらいというよりもっと近いですか。

232.○証人 ……。

233.○小出検察官 済みません。ちょっとはかっていただかないと。

234.○神坂裁判長 済みません、ちょっとよろしいですか。そういう不確定な位置でやるとあれですから、今あなたが座っている証言台の一番前のふち、前側のふちがありますよね。

235.○証人 はい。

236.○神坂裁判長 その位置よりも近いですか。

237.○証人 女性の方が近いですね。

238.○神坂裁判長 もっと近いと。

239.○証人 はい。

240.○神坂裁判長 そうすると、今の位置を計測してもらえますか。

241.○裁判所職員 ちょうど70センチです。

242.○神坂裁判長 70センチ。もう少し近いんですね。

243.○証人 はい。

244.○神坂裁判長 それを基準にして、半分くらいとか、3分の2くらいとか、あるいはもっと近いとかいえますか。

245.○証人 このあたりだったと思います。肩がここら辺にあるということです。

246.○弁護人2 ここというのはここですか。

247.○証人 そうです。この真っすぐになっているところ。

248.○神坂裁判長 証言台の肩があったと思われる付近の位置に指を置いてもらえますか。

249.○証人 はい。

250.○神坂裁判長 じゃ、証人の体からの長さを計測してください。

251.○小出検察官 右肩から。

252.○神坂裁判長 右。

253.○小出検察官 わかりませんけれども、弁護人の尋問だと思いますので、どこからはかってくださいとかいえばいいのではないかと思います。

254.○神坂裁判長 弁護人の方から指示してもらえますか。

255.○弁護人2 はい。まずあなたがこちらを向いているときに、女性の左肩というのはどこら辺にあったということですか。

256.○証人 ここら辺です。

257.○弁護人2 この辺でもうさわれるということですか。

258.○証人 そうです。

259.○弁護人2 指先ですか。手のひらですか。

260.○証人 手のひらです。

261.○弁護人2 手のひらのあたり。このあたり。

262.○証人 はい。

263.○弁護人2 ここを計測してもらっていいですか。要はあなたのネクタイのあたり、ネクタイからの距離、ネクタイの結び目の位置からの距離をちょっと計測してください。

264.○裁判所職員 40センチです。

265.○弁護人2 40センチぐらい。あなたの体の中心ぐらいから40センチぐらい離れたところに肩があったということですね。

266.○証人 はい。

267.○弁護人2 あなたに対しては大体45度ぐらいの角度にいたということですか。

268.○証人 はい、大体です。

269.○弁護人2 被害者というのはあなたの真っ正面にいたのですか。

270.○証人 ほぼ真っ正面です。

271.○弁護人2 ほぼというと、どちらかにずれているということですか。

272.○証人 自分の中心線から比較して多少前後というか左右はあると思います。

273.○弁護人2 大体真っ正面ということですか。

274.○証人 はい。

275.○弁護人2 右側にずれているとか、左側にずれているというのははっきりしない。

276.○証人 そうですね。

277.○弁護人2 被害に遭った方というのは、あなたに対しては真横を向いているということになるんですか。

278.○証人 はい、そうです。

279.○弁護人2 もっと正確にいうと、この図だと、あなたの左側を向いている。

280.○証人 はい。

281.○弁護人2 あなたの左側を向いて真横に立っているということですか。

282.○証人 はい。

283.○弁護人2 そうすると、被害者はあなたに対して右肩を向けている。

284.○証人 左。

285.○弁護人2 失礼。左肩を向けて立っているということですか。

286.○証人 はい。

287.○弁護人2 その距離というのは大体わかりますか、どのくらいというのは。手を伸ばせば届くぐらいですか。

288.○証人 届きはしないと思います。

289.○弁護人2 届かない位置。先ほどはかったここの証言台の一番前、ここよりも遠いですか。

290.○証人 そこら辺じゃないでしょうか。

291.○弁護人2 このあたりに肩があったぐらい。

292.○証人 そうですね。はい。

293.○弁護人2 先ほどはかったのと大体でいいんで。

294.○神坂裁判長 70センチ。

295.○弁護人2 ええ。

296.○神坂裁判長 もう一回はかりましょうか。

297.○弁護人2 ええ。

298.○神坂裁判長 では、もう一度。

299.○弁護人2 またネクタイの結び目から証言台の前の端。ちょっと離れましたかね、さっきよりも。

300.○小出検察官 体勢は変わりますからね、多少は。

301.○弁護人2 今の最初のいる位置で、この辺ということで問題ないですか。

302.○証人 はい。

303.○弁護人2 大体。

304.○証人 はい。

305.○小出検察官 今、目盛りでいいますと。

306.○神坂裁判長 目盛りは。

307.○弁護人2 77センチとなっていますけれども、このぐらい?まあこのぐらいというか、このぐらいの位置。

308.○証人 はい。

309.○弁護人2 そういう間隔。

310.○証人 はい。

311.○神坂裁判長 センチは、77センチが正確ということです。

312.○弁護人2 はい。そうすると、あなたとその被害者や被告人との間にいた女性というのは、被害者の方を向いていたということでいいですか、向きとしては。

313.○証人 まあそっち側だと思います。

314.○弁護人2 そっちの方を向いていたと。この女性がこの事件については何か気づいた様子とか、そういうのはあなたはわからないですか。

315.○証人 はい。

316.○弁護人2 それから、その被害に遭った女性の後ろにいた男性について、あなたはその男性の全身が見えたんですか、上から下まで。

317.○証人 いえ、全身が見えたわけではありません。

318.○弁護人2 全身は見えてない。どこから見えたのでしょうか。

319.○証人 上半身は見えました。

320.○弁護人2 上半身というと、どこですか。腰か肩か胸か、どこから見えたのですか。

321.○証人 女子高生とかぶっている部分もあるので、正確にここからというのはちょっといいにくいのですが。

322.○弁護人2 肩は見えましたか。

323.○小出検察官 肩というのは左肩という意味ですか。

324.○弁護人2 左肩でもいいですし。左肩は見えましたか。

325.○証人 左肩は余り記憶にありません。

326.○弁護人2 覚えてない。右の肩はどうですか。

327.○証人 見えました。

328.○弁護人2 右の肩は見えた。左肩というのはあなたから見て近い方の肩ですね。

329.○証人 はい、そうです。

330.○弁護人2 近い方の肩は見えなかったと。

331.○証人 見えていたかもしれませんけれども、余り注意はしてなかったので、記憶にはありません。

332.○弁護人2 記憶にない。被害者の女性の後ろにいた男性というのは、やはり被害者の女性と同じ方向を向いていた、全く同じ。

333.○証人 はい、そうです。

334.○弁護人2 というと、あなたの体の向きに対して垂直ということになるんですか。

335.○証人 ……。

336.○弁護人2 あなたが前を向いているのに対して、位置が違いますけど、方向としては前。

337.○証人 はい、そうです。

338.○弁護人2 あなたと被害者とされる女性やその後ろにいた男性との間には、その女性以外にはだれもいなかった。

339.○証人 はい、そうです。

340.○弁護人2 あなたからは、被害者の女性の全身というのは、やはり見ようと思えば全身見えるような位置だったのですか。

341.○証人 ……。

342.○弁護人2 例えば足の先から頭まで。

343.○証人 足の先は記憶にないんですが、ほぼ見えたと思います。

344.○弁護人2 先ほど被害者の女性の後ろにいた男性について、女子高生とかぶっている部分があって見えないというのがありましたけれども、かぶっているというのはどういう意味ですか。

345.○証人 密着していたために隠れているということです。

346.○弁護人2 女子高生の陰になっていて見えない、男性が。

347.○証人 はい、そうです。

348.○弁護人2 それから被害者の左の腰からお尻にかけて、体の側面をさわっているのが見えた。

349.○証人 はい。

350.○弁護人2 さわっている手というのは、手のどの部分が見えたか。指先からどこまでか。指先は見えないか。

351.○証人 はい。

352.○弁護人2 指先は見えた。

353.○証人 指先の手と、あと手の甲と、あと袖口も見えました。

354.○弁護人2 袖口が見えるぐらいで、それより先、ひじまでとかは見えない。

355.○証人 ひじの部分に関しては、前に立っている女性がいたので、余りよく見えなかったです。

356.○酒井弁護人 袖口ぐらいまでは見えたということですか。

357.○証人 はい。

358.○弁護人2 さわっていたという状態なんですけれども、さわっていたというのは、被害者とされる女性の体の側面に手が触れているということですか。

359.○証人 はい、そうです。

360.○弁護人2 それ以上にその手が動いているとか、あるいは女子高生、被害者の女性の体をなぜているとか、そういうものは見たことがありますか。

361.○証人 自分が見ている中ではありません。

362.○弁護人2 ただ触れている。

363.○証人 はい。

364.○弁護人2 動いたりはしていない。

365.○証人 はい。

366.○弁護人2 それから、あなたが見たその手ですけれども、その手は要は、指を全部真っすぐに伸ばしたような状態なんですか。

367.○証人 はい、そうです。

368.○弁護人2 指先はどちらというのはおかしいですけど、地面に対してどういう方向を向いていたかというのは覚えていますか。つまり、真横なのか、真下なのか、それとも斜めなのか。

369.○証人 真下ではありませんでした。

370.○弁護人2 真下ではないというのは。

371.○証人 正確に横か斜めかというのは覚えていませんけど。

372.○弁護人2 斜めだったのではないかということですか。

373.○小出検察官 今、真横か斜めかわからないとおっしゃったんです。

374.○弁護人2 横か斜めかはわからない。

375.○証人 はい、詳しくは記憶してないです。

376.○弁護人2 女子高生の体の側面に、要は手のひらをこのままつけている。要は下をつけているとかじゃなくて、手のひらを横につけているということですかね。

377.○証人 はい、そうです。

378.○弁護人2 それで体の側面の腰からお尻にかけてというのはちょっとわからなかったのですが、手のひらが触っている場所は体の真横あたりですか。

379.○証人 ……。

380.○弁護人2 あなたが見たとき。

381.○証人 女子高生の側面です。

382.○弁護人2 側面。そのあたりに手のひらがあった。

383.○証人 はい、そうです。

384.○弁護人2 そうすると、指はもうちょっと前になるんですか。

385.○証人 そんなに前には出ていない。

386.○弁護人2 それから、その手が見えたことについては、間に立っていた女性の左側というか、左側から見えたということだったんですか。

387.○証人 はい、左側にもスペースがありましたし、左の肩越し、上からでも十分見えました。

388.○弁護人2 肩の上から見えたというのは、手が見えたんですか。

389.○証人 はい、そうです。

390.○弁護人2 袖とかじゃなくて、手が肩の上から見えたと。

391.○小出検察官 手というのはどこ。

392.○弁護人2 手の甲です。

393.○証人 手の甲、それは一体として見えていました。

394.○弁護人2 それは肩の上から見えたと。

395.○証人 見えました。

396.○弁護人2 肩の上からも動きが見えたというのは、あなたが見る位置を変えているんですか。

397.○証人 見る位置は変えていません。

398.○弁護人2 それから、あなたが見た女性、被害者とされている女性、女性の前というのはだれがいましたか。

399.○証人 はい、人がいました。

400.○弁護人2 それは女性のすぐ前ということですか。

401.○証人 はい、そうです。

402.○弁護人2 先ほども書いてもらった図面にこれを書いてもらうことはできますか。

403.○証人 はい。

404.○弁護人2 どの位置にいたか、丸で示してもらっていいですか。

405.○証人 真っ正面か、ややずれているのか、わからないですけれども。

406.○弁護人2 真っ正面かずれているかはわからないけれども、前に人がいたと。

407.○証人 はい。

408.○弁護人2 この範囲からこの範囲というのを、丸を1つ書いてもらってもいいですか。大体このくらいと。

409.○証人 はい。

410.○弁護人2 大体このくらいの位置というふうに。

411.○証人 余り記憶にないんですが、こういった感じではないかと思います。

412.○弁護人2 その人はどちらを向いていたか覚えていますか。

413.○証人 後ろだと思いますけれども、確かではないです。

414.○弁護人2 進行方向を向いていたということですか。

415.○証人 はい。

416.○弁護人2 はっきり覚えてない、よくわからないということですね。

417.○証人 はい。

418.○弁護人2 わかりました。ごらんになりますか。

419.○神坂裁判長 はい。

420.○小出検察官 よろしいですか。

421.○弁護人2 はい、どうぞ。

それから、この電車の中では、座席の前というのも人が立っていた状態ですか。

422.○証人 はい、そうです。

423.○弁護人2 大体それはもう埋まるというか、特にあいているというのはなくて。

424.○証人 そのように記憶しています。

425.○弁護人2 そういう記憶だと。今書いてもらった被害者の前にいた人というのは、座席の前のつり革につかまっている人ではないんですか。

426.○証人 ちょっとそれはわからないです。

427.○弁護人2 それから、最初にこの女子高生の左の側面、体の側面に男の人の手が触れているというのに気づいたのは、電車が出発してからどのくらいたってからですか。

428.○証人 自分の感覚で1~2分ぐらいだったと思います。

429.○弁護人2 1~2分たってから、それに気づいた。

430.○証人 はい。

431.○弁護人2 その後、あなたが見ていた時間がさらに1~2分。2分くらい。

432.○小出検察官 先ほどは2分くらいという証言をされました。

433.○弁護人2 あなたが、最初はどうかわからなかったけれども、その後、痴漢だと確信したというふうなお話がありましたけれども、それはその手がずっと被害者の体の左の側面についていたからということなんですか。

434.○証人 はい、そうです。

435.○弁護人2 それから、被害者の後ろにいた男性の手、両手が前の方に出ているというお話がありましたけれども、男性の手というのはどこまで見えたんですか。肩は見えたんですか。先ほどの話だと右肩は見えたと。

436.○証人 右肩は見えました。

437.○弁護人2 右肩から右手の先はどこまで見えたんですか。

438.○証人 その先は見えませんでした。右の腕のつけ根ぐらい。

439.○弁護人2 腕のつけ根ぐらい。

440.○証人 はい。

441.○弁護人2 左肩は見えた記憶はない。覚えてない。

442.○証人 はい。

443.○弁護人2 左手の方で見えたのは袖口から先ということですか。

444.○証人 はい、そうです。

445.○弁護人2 それから、被害者が声を上げるまで、痴漢の被害に遭っているということについて声を上げるまでの間というのは、あなたは被害者の顔を見たりしていたんですか。あるいは後ろにいる男性の顔を見たことはあったのですか。

446.○証人 はい、ありました。

447.○弁護人2 その左手、左側面に触れているという左手も見たりしたんですか。

448.○証人 はい、そうです。

449.○弁護人2 それは顔については、先ほど、要は自分が見詰めていることで、それに気づいてやめることを期待して見ていたというようなことがありましたけれども、左側面をさわっている手については、何か意図があって見ていたのですか。

450.○証人 確信を持てない間については、もっとエスカレートした行為に発展したらまずいなというふうには思っていました。

451.○弁護人2 注意して見ていたということですか。

452.○証人 はい。

453.○弁護人2 それから、被害者の後ろにいた男性というのは、少しうつろな目をしてぼーっとしていたということなんですか。

454.○証人 はい。

455.○弁護人2 どこを見ていたというのは記憶はないですか。

456.○証人 車両の前方を見ていました。

457.○弁護人2 前の方を見ていた。

458.○証人 はい。

459.○弁護人2 では、自分の前にいる女子高生を見ていたり、自分の手を見ていたりということはないんですか、あなたの見ていた範囲では。

460.○証人 そうですね。

461.○弁護人2 真っすぐ前を見ていた。

462.○証人 真っすぐ前の方を見ていましたが、視点は定まっていないような感じでした。

463.○弁護人2 それから、先ほどから右に重心がかかっているということなんですが、体全体としては前かがみであるとか、真っすぐ立っているとか、そういうのは何かありますか。

464.○証人 多少ちょっと覆うような感じだったと思います。

465.○弁護人2 覆うような感じ。

466.○証人 はい。

467.○弁護人2 被害者を覆っている。

468.○証人 はい。

469.○弁護人2 被害者の頭とその後ろにいる男性の頭というのは、どういう位置関係にあったのですか。真っすぐ並んで後ろにいるような。

470.○証人 そこまで頭は接近していなかったと思います。

471.○弁護人2 頭は接近していないと。

472.○証人 はい。

473○弁護人2 位置関係としてはその男性と被害に遭った女性というのは真っすぐ並んでいるといったらおかしいのですけれども、男性の体の真ん前に同じ方向を向いて女性の体がある、そういうことですか。

474.○証人 はい、そうです。

475.○弁護人2 頭はそこまで接近してない。というのは、ただ、あなたの話だと、体が密着していたということですよね。

476.○証人 はい。

477.○弁護人2 体が密着して頭は離れていたということですかね。

478.○証人 身長差があったので、そういうふうな感じでした。

479.○弁護人2 どちらかというと、前かがみに。

480.○証人 前かがみのように見えました。

481.○弁護人2 それから、あなたは、その被害者というのは、声を上げた女性の後ろにいた男性が、きょうここにいる被告人だというふうにいわれたのですけれども、きょうここにいる被告人と、あなたが当日見たその人とは、何か違いがありますか。

482.○証人 はい。

483.○弁護人2 どこが違いますか。

484.○証人 イメージとしては、当日は覇気がないようなイメージが。

485.○弁護人2 そういう様子という以外、要は見た目ですね、格好であるとか、髪型であるとか、そういうものは何か違いがございますか。

486.○証人 特に変わりはないと思います。

487.○弁護人2 これと同じような感じですか。これというのは、こういう被告人と同じようなという感じですか。

488.○証人 ネクタイはつけていました。

489.○弁護人2 顔についてはどうですか。

490.○証人 正直、眼鏡については、つけていたかつけていなかったかは覚えていません。

491.○弁護人2 これと違うような眼鏡をかけているとかというのはわかりますか。

492.○証人 眼鏡については余り記憶がありません。

493.○弁護人2 それから、あなた自身は、被害者の後ろにいる男性というのは注意して見ていたわけですね、顔を。

494.○証人 はい。

495.○弁護人2 それは覚えている。

496.○証人 はい。

497.○弁護人2 それから、先ほど事件の後、警察に行く前、インターネットなんかでニュースを見たりしたということですけれども、そういうときに、被告人の顔をインターネットなんかで見たことはありますか。

498.○証人 特にそのときの記事に写真がついてなかったように思いますが、よくわかりません。

499.○弁護人2 きょうまでの間にニュースやインターネットで調べて、被告人の顔というのは見たことはありますか。

500.○小出検察官 13日以降きょうまでということですか。

501.○弁護人2 9月13日からきょうまでの間。

502.○証人 テレビで今回の件があって、前回の記者会見のときの映像が流れるというようなものは見たことがあります。

503.○弁護人2 インターネットで見たことはないですか。

504.○証人 インターネットでは写真等は見てないと思います。

505.○弁護人2 ヤフーのニュースで見たということなんですけれども、ヤフーのニュースというのは、ニュースで今回の記事というのはどうやって探したのですか。

506.○証人 まず友人から、そういうニュースになっているというのを聞いて調べました。

507.○弁護人2 実際にパソコンで調べるときの手順として、どうやって調べるのですか。

508.○証人 自分のポータルサイトとしてヤフーを使用しているので、まずニュースを見るとしたら、ヤフーのニュースです。

509.○弁護人2 ヤフーのホームページ欄から検索したのですか。

510.○証人 検索というか、もうヤフーニュースはトップから入れるので、そこから見ます。

511.○弁護人2 そこにもう記事が、項目があったんですか。

512.○証人 はい。

513.○弁護人2 それを見たと。

514.○証人 はい。

515.○弁護人2 それ以外には、今回の件について、インターネットを調べたりはしてないんですか。

516.○証人 特に最近まではしていません。

517.○弁護人2 最近まではというと、最近はしたんですか。

518.○証人 最近は、はい、調べたことがあります。

519.○弁護人2 どんなことを調べたのですか。

520.○証人 どんなことというか、これも友人から事実そういった植草元教授を応援しているページがあるという、その中で、証人がいるらしいけれども、うそくさいというようなことが書いてあったみたいな話を聞いたので、どんなことが書かれているのだろうと思って見たということです。

521.○弁護人2 そういうときに写真を見たりはしませんでしたか。

522.○証人 写真はなかったと思います。

523.○弁護人2 それから、被害者が声を上げたときというのは、あなたはそのときの被害者やその後ろの男性というのを見ていましたか。

524.○証人 はい、見ていました。

525.○弁護人2 被害者が声を上げたときは、どちら向きに振り向いたか、あなたは覚えていますか。

526.○証人 後ろの方に、おじさんの方に振り向きました。

527.○弁護人2 つまりは、どちら回りか。

528.○証人 詳しくは記憶していませんが、右回りだったと思います。

529.○弁護人2 右回りというと、自分の右手の方を振り向くような感じ。

530.○証人 はい。

531.○弁護人2 振り向いたと記憶していると。

532.○証人 はい。

533.○弁護人2 それから、被害者とあなたは、その女性が声を上げる前に目が合ったということをいわれていますけれども、被害者は、あえてあなたの方に顔を向けていたということなんですか。

534.○証人 そういうふうに見えました。

535.○弁護人2 今までの話だと、大体あなたの真っ正面ぐらいに真横を向いていた。

536.○証人 はい。

537.○弁護人2 そうすると、顔を真横に向けるような形で見ていたということですか。

538.○証人 はい。

539.○弁護人2 それから、被害者が声を上げて振り向いたとき、男性はどういう様子だったか。先ほどは1~2歩下がったというようなことをいわれたのですけれども、何か気づいた様子はありましたか。

540.○証人 自分の印象としては、無関係を装うというような印象を受けました。

541.○弁護人2 そういうときは特に表情に変化はなかったんですか。

542.○証人 その瞬間の表情までは覚えていません。

543.○弁護人2 無関係を装うというのは、要はその女性に対して何か対応するという感じではなかったということですか。

544.○証人 はい。

545.○弁護人2 あなたの記憶だと1~2歩下がった後、後ろを向いたんですか、反対側のドア。

546.○証人 反対側のドアの方を向いたような気がします。

547.○弁護人2 あなたの方で先ほどいわれた、その女性に何か「わかったから」というようなことをいったというのはいつの段階ですか。

548.○証人 そういった行動があったこと自体は覚えていますが、それがどの時間帯的に、行動の前後としてどのあたりだったかというのは、余りよく覚えていません。

549.○弁護人2 あなたの印象だと、1~2歩下がったと。それで無関係を装ったように見えたと。

550.○証人 はい。

551.○弁護人2 それで後ろを向いてつり革をつかんだということなんですか。

552.○証人 つり革をつかんだとはいってないです。

553.○弁護人2 後ろを向いたと。

554.○証人 はい。

555.○弁護人2 そうすると、その女性が、先ほどいわれた「何をやっているんですか。子供の前で恥ずかしくないんですか」、あるいは「次でおりてください」というようなことに対して、「わかったから」といってなだめる様子ではなかったと。

556.○証人 そのあたりは詳しく記憶していません。

557.○弁護人2 そのなだめる様子と無関係を装うというのは、ちょっとうまく頭の中で整理できないのですが、声を上げられた後、1~2歩下がって、反対側のドアを向いたという中に、それは入ってくるんですか、その「わかったから」という行動は。

558.○証人 無関係を装っていて、いわれて、女子高生の方から何かいわれているうちに、無関係を装えなくなったということだったと思います。

559.○弁護人2 それから、「わかったから」という声は、どのくらいの大きさでいっていたのですか。あなたのところにも聞こえるぐらいですか。

560.○証人 「わかったから」といったような感じであって、一言一句「わかったから」だったかどうかは定かではありません。

561.○弁護人2 先ほど被害者とされる女性に前の方から人が近づいてきて何かいったというようなことがありましたよね。

562.○証人 はい。

563.○弁護人2 そのときは、もう何をいっているのか、全然あなたに聞こえなかったわけですか。

564.○証人 それはだれのことを指しているのですか。

565.○弁護人2 要は、最終的に被告人のネクタイをつかんだと。これは前の方から来て被害者の女性に何か話しかけた。そのときには、その人が何を話しているかというのは聞こえなかったと。

566.○証人 はい。

567.○弁護人2 女子高生の位置は、あなたの話だと、位置は変わってないんですか。

568.○証人 多少変わっています。

569.○弁護人2 どちらに?

570.○証人 もといた場所には近かったと思いますが、男性、おじさんの方に抗議をしたときには、おじさんの方に近づいていますので、全く同じ位置にずっと立ち続けていたというわけではありません。

571.○弁護人2 女子高生が振り向くときに1~2歩前に進んだというようなことはないんですか。

572.○証人 女子高生がですか。

573.○弁護人2 女子高生が。

574.○証人 進んでいったことはあったと思います。

575.○弁護人2 その場ですぐに振り向くのではなくて、前に進んでから振り向く。

576.○証人 振り向いてから進んだということです。

577.○弁護人2 私が聞きたかったのは、振り向くときに、その場で、要は全く移動せずに振り向いたのか、それとも1回後ろに男性から離れるようにしてから振り向いたのか。

578.○証人 そういう細かいところまでは余り覚えていません。

579.○弁護人 弁護人から補充させていただきます。

先ほど弁護人から紙を渡されて、そこに被告人とか乗客の位置を書いたと思いますけれども、その弁護人から示されて書いた位置というのは、今でも当時の記憶として、記憶と合致していますか。

580.○証人 大体合致していると思います。

581.○弁護人 警察署で書いたときも、そのように書いたということですね。

582.○証人 はい、そうです。

583.○弁護人 当時ですが、被告人の所持品で何か気づいたことはありますか。

584.○証人 所持品については余り記憶がありません。

585.○弁護人 あなたが痴漢行為を確信したという理由の中で、左腰についていた手が、女性の体が動いたときについていったということがありましたね。

586.○証人 はい。

587.○弁護人 電車が揺れていたときにもついていったというふうにお話しされましたか。

588.○証人 はい。

589.○弁護人 電車が揺れたというのは、電車がどういう方向に揺れたんでしょうか。

590.○証人 揺れた方向までは、そこまでは詳しくはわからないんですけれども。

591.○弁護人 ただ電車が揺れた方向に手もついていったということですか。

592.○証人 電車が揺れたことによって女子高生の体が動いたので、それについていったという形だと思います。

593.○弁護人 電車が揺れていたことによって女子高生の体が動いたということのほかに、女子高生が自分で体を動かしたということはあったのですか。

594.○証人 はい、ありました。

595.○弁護人 女子高生はどのように体を動かしたのですか。

596.○証人 やや前の方に動いたように記憶しております。

597.○弁護人 前の方に動くというのは、そのまま並行に、前に、進行方向に進むということなのか、体を右か左に傾けるということなのか、どちらでしょうか。

598.○証人 1歩動くというような動きではありませんでした。

599.○弁護人 そうでなければ、どうだったんですか。

600.○証人 どちらかというと、体をひねるというふうな形だったのかもしれません。

601.○弁護人 どちら側にひねったかわかりますか。

602.○証人 細かい動きまでは覚えてないです。

603.○弁護人 ただあなたは、その男性、女子高生の後ろに立っていたという男性がさわっている様子は、その手が、その女性に触れているという様子をはっきり見ていたわけですね。

604.○証人 はい。

605.○弁護人 2分間ぐらい見ていたということですか。

606.○証人 はい、そうです。

607.○弁護人 指先から袖口のあたりまでははっきり見えていたということですね。

608.○証人 はい、そうです。

609.○弁護人 あなたは男性が傘を左手首にかけていたということについて気づきましたか。

610.○証人 いえ、気づいていません。

611.○弁護人 あと、先ほど出てきたんですが、ヤフーのニュースを確認したということですね。

612.○証人 はい。

613.○弁護人 それは事件のあった次の日。

614.○証人 はい、そうです。

615.○弁護人 全部で2回ですか、1回ですか。

616.○証人 次の日には1回です。

617.○弁護人 次の日、何時ごろか覚えていますか。

618.○証人 お昼ごろだと思います。

619.○弁護人 12時過ぎていましたか。

620.○証人 詳しい時間まで覚えてないです。

621.○弁護人 次の日のほかにも調べましたか。

622.○証人 次の日も1回調べました。

623.○弁護人 9月14日に2回調べたんですかね。

624.○証人 同じ日に2回調べてはいないです。

625.○弁護人 次の日と、あともう1回はいつ調べたのですか。

626.○証人 その翌日です。

627.○弁護人 大体の時間は覚えていますか。

628.○証人 それもお昼ごろだったと思います。

629.○弁護人 あと支援サイトというのも見たということですね。

630.○証人 はい。

631.○弁護人 これは大体何日ごろか覚えていますか。

632.○証人 つい最近です。

633.○弁護人 何日ぐらい前かはどうですか。2~3日前とか。

634.○証人 1週間くらい前か、それ以内だったと思います。

635.○弁護人 1週間くらい。被告人初公判というのが12月6日にあったのですが、その前か後かわかりますか。

636.○証人 詳しくは、その中を、文字が多かったので、余り見てないので、内容については余り記憶はしてないんですけど。

637.○弁護人 1週間ぐらい前。

638.○証人 はい。

639.○弁護人3 弁護人3ですが、先ほどの支援サイトなんですけれども、被告人の顔写真というのは出ていたんじゃないですか。

640.○証人 なかったように思います。

641.○弁護人3 それから、先ほどの主任弁護人の尋問で、左手は女子高生のお尻や腰のあたりをたださわっていただけで、なで回すような動きは自分が見た範囲ではなかった、こういうご趣旨でしょうか。

642.○証人 はい、そうです。

643.○弁護人3 あなたが見ていた時間というのは約2分間ですか。

644.○証人 はい。

645.○弁護人3 2分間というのは、起訴状の公訴事実による犯行時間が大体2分間ということだったのですが、その間そういう様子は見受けられなかったということですか。

646.○証人 自分が見ている範囲ではそういうことは見てないです。

647.○弁護人3 その点、捜査段階で何回か聞かれませんでしたか。

648.○証人 聞かれました。

649.○弁護人3 被害者の方が何といっているかというのはご存じですか。

650.○証人 それは知りません。

651.○弁護人3 あと、被害者が声を上げた瞬間、その状況について、あなたと被害者の間に立っていたその女性はどういう反応だったのでしょうか。

652.○証人 どういう反応というと……。

653.○弁護人3 何か意外なことが起きてびっくりしたとか、そういう状況というのは見受けられましたか。覚えていませんか。

654.○証人 覚えてないです。

655.○弁護人3 それからメールのことなんですけれども、相手方の方は高校生のころからの友人だそうですね。

656.○証人 はい。

657.○弁護人3 しばしばメールを打ち合う相手なんですか。

658.○証人 そこまでしょっちゅうメールはしないです。

659.○弁護人3 たまに打ち合うという感じですか。

660.○証人 はい、そうです。

661.○弁護人3 難しい質問かもしれませんが、どの程度の頻度なんでしょうか。

662.○証人 会う機会ができそうだったり、そういったときにメールを打っています。

663.○弁護人3 答え方が難しいかもしれませんけれども、何日に1回という言い方をすると。

664.○証人 なかなかそういった範囲ではいうのはちょっと難しいです。

665.○弁護人3 今回のように続けて打つこともあれば、数カ月あいちゃうこともあるんでしょうか。

666.○証人 はい、そうです。

667.○弁護人3 今回のメールを打った理由、その前にどこで発送したかというのは覚えていますか。

668.○証人 送信したタイミングは余り覚えてないです。

669.○弁護人3 メールの発送時刻を見ると、これは先ほどの甲25を見てください。

22時39分という記載がありますね。

670.○証人 はい。

671.○弁護人3 これが発送時間になるわけですか。

672.○証人 そうですね。

673.○弁護人3 時刻表上は、金沢文庫に着く前ぐらいか、と。電車がおくれていなければその程度なのかなと思うのですけれども、あなたの記憶はそうではありませんでしたか。

674.○証人 実際に送信したときのことを覚えてないので、そうであったのであれば、ああ、そうなんだという程度です。

675.○弁護人3 メールを打った動機として、あなたが近くで犯行を見ておきながら注意できなくて、自分の最低の部分を隠せなかったという記載がありますね。

676.○証人 はい。

677.○弁護人3 本当にそういう動機で打ったのですか。

678.○証人 はい、そうです。

679.○弁護人3 失礼かもしれませんけれども、最低の部分というのは、むしろ人に余りいいたくないことであって、あえてそれを伝えるというのは、どういうお気持ちなんですかね。

680.○証人 黙っておくのも、黙ってそれを自分の中に置いておくのも、つらかったというところはあります。

681.○弁護人3 メールの中を見ますと、女の子がみずから泣きながら訴えるまでその男を注意できなかったとあるのですが、これは事実と違うと思うのですが。

682.○小出検察官 先生、どこが違うということですか。

683.○弁護人3 最後まで注意できなかったというのが主尋問の内容ではなかったでしょうか。この文面は、むしろ泣きながら訴えるまでその男を注意できなかったとありますので、逆にいえば、泣きながら訴える女子高生のためにその男を注意したかのように読めるのですけれども、じゃ、そういうふうに聞きましょうか。そういう趣旨ではないんですか。

684.○証人 違いますけれども。

685.○弁護人3 わかりました。

私からは以上です。

686.○弁護人4 弁護人4からお聞きします。

同じくメールを示します。本日提出の甲25ないし28までの4枚、あわせて示します。これはあなたの方からWさんに送ったメールですね。

687.○証人 はい。

688.○弁護人4 この甲25の写真の本文の1行目の文面を示します。今電車の中で痴漢が起こったとお書きになっていますね。

689.○証人 はい。

690.○弁護人4 起こったというふうにお書きになっていますが、「見た」という言葉ではなくて、「起こった」という言葉を使われたのはどうしてか、説明できますか。

691.○証人 ……。

692.○弁護人4 できなければできないでいいです。

693.○証人 ちょっと説明できないです。

694.○弁護人4 それから、この後のこのメール、あなたが送信したメールの最後まで、あなたのいうおじさんが、女の子の体をさわったというような表現、あるいはこれにたぐいするような表現は使われていないんだけれども、これはどうしてか、説明できますか。

695.○証人 痴漢の内容を伝えることが趣旨ではなかったからじゃないでしょうか。

696.○弁護人4 それでは、この事件の翌日、14日のことですけれども、あなたはヤフーニュースで被告人が逮捕されて、本件については覚えていないと、そういうニュースに触れたということですね。

697.○証人 はい、そうです。

698.○弁護人4 このときに名乗り出なかったのはどうしてですか。

699.○証人 覚えていないという言葉に対して、私自身が強い否定は感じていなかったからです。

700.○弁護人4 それから翌日、またこれはやってないという報道に接して、そんなことはないと思って警察にいおうと思ったと。

701.○証人 はい。

702.○弁護人4 それで京急電鉄に電話されて、蒲田警察に事情をいわれたということですね。

703.○証人 はい。

704.○弁護人4 蒲田署に電話をかけて最初に何とおっしゃったんですか、あなたは。

705.○証人 正確には覚えてないですけれども、13日にあった事件の現場にいた者というふうな形で切り出したと思います。

706.○弁護人4 その後どういうふうにいいましたか。担当の人が出てきたんでしょう、電話に。

707.○証人 はい、そうです。

708.○弁護人4 どういうふうにいったんですか。

709.○証人 そのとき痴漢の現場を見ていたので、自分の持っている情報が力になればという内容で話したと思います。

710.○弁護人4 そうしたら、警察は何といいましたか。

711.○証人 ちょっとどう答えたかは覚えてないです。

712.○弁護人4 蒲田署には何回行きましたか。

713.○証人 蒲田署には1回です。

714.○弁護人4 蒲田署には1回だけ。話をしていた時間はどのくらいですか。

715.○証人 6~7時間だったと思います。

716.○弁護人4 調書は何通とりましたか。

717.○証人 1つです。

718.○弁護人4 検察庁には何回行きましたか。

719.○証人 4回ぐらいだったと思います。

720.○弁護人4 9月13日からきょうまでに4回ですか。

721.○証人 正確に4回か数えてないのでわからないのですけれども、それぐらいだと思います。

722.○弁護人4 調書は何通とりましたか。

723.○証人 調書は1つだと思います。

724.○弁護人4 蒲田署のことに戻りますけれども、最初あなたに応対したのはKFさんという人ですか。

725.○証人 たしかそうだったと思います。

726.○弁護人4 その人と6時間か7時間話をしたのですか。

727.○証人 電話に出た方じゃなかった気がします。

728.○弁護人4 名前はわからないと。

729.○証人 忘れてしまいました。

730.○弁護人4 同じ人と6時間か7時間話したんですか。

731.○証人 大体そうです。

732.○弁護人4 ほかにも検察官が来ましたか。

733.○証人 1人サポートに入った方がいらっしゃいました。

734.○弁護人4 それであなたはどういうふうに聞かれたんですか、警察官から、まず最初。あるいは、あなたから話し始めたんですか。

735.○証人 どういうふうにというのは、ちょっと余り覚えていないのですけれども。

736.○弁護人4 終わります。

737.○弁護人 弁護人から1点だけ確認させてください。

メールで渡辺さんとやりとりをしたわけですが、9月13日の当日ですけど、1回目のメールは電車の中ですね。2回目、3回目のあなたからの送信メールはどこから送ったか覚えていますか。

738.○証人 電車をおりた後だと思います。

739.○弁護人 自宅に着くまでの間ですか。

740.○証人 はい、そうです。

741.○弁護人2 弁護人2から質問します。

被害者とされている女性が、その後ろにいる男性に対して振り向いて声を出したということですけれども、その振り向いたとき、女性は男性に声をかける、声をかけるというか、何かいう以外に、例えば自分の後ろ、スカートを気にするとか、そういうような様子を何かしていましたか。様子は何かあなたは見ていますか。

742.○証人 そういうような動作の記憶はないです。

743.○弁護人2 もう振り向いて、後ろにいた男性に声を出して、何かいったということしか覚えていないですか。

744.○証人 はい。

745.○弁護人2 そのほかの動作というのは覚えてないですか。

746.○証人 はい、そうです。

747.○弁護人2 被害者とされる女性の持ち物とか何か覚えていますか。

748.○証人 持ち物については余りよく覚えていません。

749.○小出検察官 検察官から若干質問します。

弁護人の方からの質問に、あなたが当日、9月13日に乗っていた電車、これは22時8分発であるとか、何両目から乗ったかということについて、警察や検察庁で確認してわかったんですかというご質問があって、それに対して、「はい、そうです」という答えをしたかと思うのですけれども、これはそうなんですか。

750.○証人 それまでははっきりと、自分が何両目に乗っていたかということまでは、実際乗るときは数えていないので、そこを確認してくださいという形でいわれたので、調べました。

751.○小出検察官 検察庁の方で、先週でしたか、打ち合わせをしたときに、検事の方から、私からですけれども、そのとき乗った電車は何分発だったのか、どこから乗ったのか、何両目から乗ったのかということがわかるのであれば、調べてきてくださいというふうに申し上げましたよね。

752.○証人 はい。

753.○小出検察官 それでご自身でお調べになって、その結果を、きょうここの法廷で話した、そういうことになりますか。

754.○証人 はい、そうです。

755.○小出検察官 それから、先ほど弁護人からの質問で、2回目、3回目のメールはどこから打ったのかという質問があったかと思いますが、2回目、3回目というと、この9月13日のときに、2回も3回もメールを打ったんでしょうか。

756.○証人 友人からの返答に対して「ありがとう」と一言返しています。

757.○小出検察官 それは、つまり2回目のメールということになりますね。

758.○証人 はい。

759.○小出検察官 それはもう電車からおりて、自宅に帰る途中だった、そういうことですか。

760.○証人 はい、そうです。

761.○小出検察官 3回目のメールというのはあったんでしょうか。

762.○証人 3回目はちょっと覚えてない。打ったかどうかは覚えてないです。

763.○小出検察官 終わります。

〔この後、裁判所からの尋問及び各種手続〕


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2006年12月27日 (水)

疑問点(体験から考える:byA)

1) 痴漢行為の2分間と状況の謎

 私も若い時に何度か痴漢に遭った事がある。最初は小学校6年の時、
山手線の中だった。その時はなにしろ初めての事で、怖さのあまり何もす
ることが出来ず、男の手の動きにじっと耐えているしかなかった。その後
何度か遭ううちに自分にも痴漢に対する免疫が出来、だんだん強くなって
いった。それでも声をあげるのはかなり勇気がいる。もし間違っていたら
大変だからだ。逆ギレされるのも怖い。

 痴漢を捕まようと考える正義感の強い女性だったら皆同じかもしれない
が、あやふやな場合には、本当の痴漢かどうかを見極めるために何分間
か我慢してそのまま触らせ、様子を見る時がある。触られている箇所に全
神経を集中して、当たっている手の向き(手のひらが不自然な角度だった
ら痴漢度が高い)、指の動きを観察する。そこで決定的だと確信した時初
めて、手首を掴みながら「何やってるんですか!」と声をあげる。

ただし、今書いた事は「ぎゅうぎゅうのすし詰め状態で身動きの取れない
満員電車」の中に限った話だ。「混雑していても肩が触れ合わず、スペー
スに余裕があるような車内の状態」ならば話は違ってくる。人と人の間に
少し隙間のあるような電車の中で、男が密着してきた上にスカートがくぼ
むほど手のひらを押し付けてくれば、それはもう明らかに痴漢だと考えて
間違いない。その犯罪を確信するまでの時間は約10秒、いや、もっと短
いほんの数秒しかかからないだろう。電車が揺れた時に誤ってタッチして
しまったとしても、それは1秒以下に過ぎない。

 ちなみに私は二度摘発しようとして両方とも失敗した事がある。一度目
は電車が揺れた拍子にヒップを「ムギュッ」という感じで下からつかまれた。
反射的に「キャー」と叫んでしまった。ただの接触と違い、意図的に触った
のが明らかだったのですぐに痴漢を指摘したところ、同伴していたヒステリ
ー妻に逆ギレされ、あたかも私が言いがかりをつけてるように抗議された。
今思い出しても腹立たしい記憶だ。二度目は満員電車で痴漢を確信して
虚を衝こうと無言でいきなり手をつかんだら、スルッと抜けてしまい、どの
男の手か見失ってしまった経験だ。(教訓:痴漢の手は必ず手首を掴むこ
と)


2)「子供がいるのに」の謎

 被害者は植草氏の後ろにいた子供の存在を何故知っていたのだろか?
考えられる可能性としては、

○子供の声が聞こえた
○振り返って見た
○はじめから子供の位置を把握していた
○窓ガラスに映った子供の姿を見た
 の4点である。

 まず「子供の声が聞こえた」とする場合であるが、証人は当然子供の声
が届く位置にいたことになる。ところが、被害者の「子供がいるのに~」発
言については「はじめ何の事か解らなかった」と証言している。証人がボ
ーッとして乗っていたなら、子供の声を認識しているのが自然であるから
この線は可能性が低い。仮に子供の声だったとしても、被害者がその声
だけで子供が痴漢行為を目撃できる位置だと正確に判断できたことには
疑問が残る。

 次に「振り返って見た」と仮定してみると、証人の証言からは、はっきりと
大きく振り返ったのは「何をやっているのですか?」と言った時が初めてと
考えられる。子供から痴漢が見えるかどうか確認するためには180度振
り返る必要があり、その動作についての言及は証言にない。

 「はじめから位置を把握」に関しても、痴漢以前と痴漢中、声を上げる直
前まで、子供がどっちを向いていたかは判断しようがない。混んでいると
は言っても、当時の車内は肩が触れないほどであった。その位の余裕が
あれば、動きの激しい子供は、あっちこっちに体の向きを変えることも移
動することも十分に考えられる。

  最後の「窓ガラスに映った子供の姿を見た」の場合は、今のところ可能
性が一番高いと思う。被害者はドアに対して直角に立っていたというから、
夜の窓ガラスを鏡にして自分の後方を見ることができる。ただし、被害者
と痴漢、子供の位置と京急車両の窓ガラスの位置が正確にわかることが
条件である。背丈の小さな子供の姿が、被害者の目線の位置からドアの
上の方についている窓ガラスの高さに映るかどうかは検証してみないと
判らない。

3)被害者の人格の謎

 1)でも書いたように、女性が痴漢犯罪を声に出して指摘するには相当
な勇気がいる。しかもこの被害者は、「子供の前で」と客観的な状況を犯
人に冷静に伝え、「次の駅で降りてください」と命令までしている。ところ
が、その後被害者は意外な反応をする。泣き出して、うつむいて顔を押さ
えてしまうのだ。

 私は、若いのにこの勇気ある行動と、思わず泣いてしまうようなか弱い
一面が一人の女の子から立て続けに出たということを不思議に思い、今
まで見たことのないキャラクターに新鮮さを感じた。泣くような気の弱い女
の子だったら、痴漢に抗議できないような気がするし、また反対に、痴漢
に声をあげ、子供を観察する冷静さと説教できる気丈さを持つ子ならば、
普通だったらもっと早い段階で声をあげるか、体を痴漢男から即座に離
すために移動しているような気がする。

 痴漢とは違うが、私は一度座席の一番端に座っている時に、横に立っ
た男が露出行為を行った事がある。私は立ち上がり、「この人ヘンなもの
出してます!」と大声で叫んだ。すかさず逃げる男を乗客はポカーンと見
ていたが、その後乗客たちの視線は私に集中した。男はまもなく停車した
次の駅に消えてしまったが、私は視線を浴びてとても恥ずかしくなった。公
共の場で騒動が起きると、どの人間が騒ぎの中心になっているのか、被害
者・加害者の区別なく姿を捜すのが一般人の反応だ。

 私は「乗客に自分の顔をジロジロ見られている」という状況がいたたまれ
なくなり、露出男を追いかけることなく、別の車両に逃げ出した。

 今回の事件の場合、この女子高生は泣いて「顔を押さえて」しまったた
め、その視線の集中砲火に顔を晒す事がなく幸いであった。逆にいえば、
やじうま的な乗客が「痴漢にあったのはどんな子だろう?」と興味本位に
その子の顔を見ようとしても、期待を満足させる結果は得られなかっただ
ろう。


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2006年12月25日 (月)

位置証言に費やした冗長な時間

 第二回公判は3時間15分の時間がかかっているが、腑に落ちないこ
とがある。それはその三時間の質問応答の中で、位置関連の質疑応
答に三分の二くらい費やされていることである。

 位置関係の証言と言っても、今回の場合は、女子高生、植草さん、
目撃証言者、そして目撃証言者と植草さんの間に居て、目撃者から
見て、若干右寄りに立っていた若い女性の位置、それに植草さんの
後ろ側に居たという子供である。

 知りたいことは、この五名の空間配置と各自の服装、持ち物、身長
である。特に平面方向(床に面した)の各自の配置(X-Y軸座標)と、
これら五名の身長と目線の高さ(Z軸座標)がわかれば、目撃視線の
仰角なども明瞭となり、目撃者から見える範囲が明確になる。つまり、
これらの基本要素を把握すれば三次元的な幾何学配置が明確となる。
あとは、これらの人々が電車の進行方向に対してどのように配置され、
どのように向いていたかがわかれば、状況描写は可能になる。

 たったこれだけの要素を知るために二時間も費やす必要がどこに
あったのだろうか。私の記憶では、肝心の要素の一つ、植草さん自
身の身長が出ていなかったように思う。身長を数値的に出すことは
重要である。身長と手足の長さは必ずしも比例的に割り出せるわけ
ではないが、それでも触っている状態を知るには重要である。

 あとは、目撃視界の中に女性の乗客がいて、彼女が目撃者の視
界をどういう具合に遮っていたかがポイントであろう。繰り返すが、た
ったこれだけのことに二時間も費やす必要がどこにあるのだろうか。
3Dの配置画像でもあらかじめ造っておいたら、かなりすっきりと、短
時間に鮮明にこのような位置証言は可能だろう。私には位置関係
の証言は不必要に冗長と感じられたことは否めない。


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公判印象記(傍聴人A)

 12月20日(水)、幸運な事に、抽選券が当たって植草一秀被告の裁判
を傍聴できることとなった。

 10時からの開廷を前に、1階で空港ゲートのようなチェックを受け、4階
の425法廷まで上がる。法廷前ではさらに検査がある。携帯や録音機能
がついたものはそこで預けるのだが、荷物は女性のみがバッグを1つだけ
持ち込める。男性は筆記用具等を手に持つだけでバッグは不可。バッグ
の中身は一応開いて中をチェックされた。

 並んだ人の列に続き、425法廷に入っていった。想像していたより小じ
んまりしている室内だ。無機質で窓のない閉鎖的な空間に少々圧迫感を
覚える。正面に裁判官3名がいた。真ん中はテレビで見た神坂尚裁判長
だった。

 左側に検察官4名。右側に弁護人4名。傍聴席は4人がけのイスが左
4列、中4列、右が3列。はじめにメディア用のVTR撮りが2分間あり、そ
の間はシーンと静まり返っている。この撮影で姿が映りたくない者は撮影
が終わった後に入廷することも出来るが、空いている席が限られてしまう
ので、狙った位置がある場合は初めから撮影に参加していた方が無難だ。

 撮影が終わり、すぐに植草さんが腰縄と手錠で2人の担当官に挟まれ
て入ってきた。やはり痩せていたが、報道で聞いていたほど自分には「や
つれた」という感じには見受けられなかった。植草さんは席にかけるとす
ぐに傍聴席を見回し、入り口の方も一瞥された。どんな人が来ているの
か観察している様子だった。姿勢は堂々として、毅然としている。頬は
以前よりこけてはいたものの顔色は良く、色白な頬がほんのり赤みを帯
びていた。

 初めて生の植草さんを拝見したが、率直にいって「ダンディで素敵な人
だなぁ」と思った。繊細な感じで、とても清潔感がある。痩せているがスラ
ッとしていて割と肩幅があった。逮捕時の植草さんはやつれていると言
われる現在よりもっとカッコ良かっただろうし、タッパもあるから、女性の
私だったら電車で一緒に乗り合わせたらすぐに注目していたに違いない。
ましてや顔が知られているのだからかなり目立つはずだ。

 証人は彼のことをはじめに「オジサン」と言ったようだが、それも私の耳
にはちょっと奇妙な感じに聞こえた。なんというか、とってつけたようなと
いうか・・・。植草さんはオジサン呼ばわりされるのはまだ似合わないよう
な雰囲気だし、「オジサン」には大衆に埋もれ、視界にも入らないどうでも
よい見知らぬ中年男といった響きがある。まあ感じ方は人それぞれ違う
から、証人にとっての植草さんは確かにオジサンだったのだろう。

 いよいよ公判が始まるのだが、最初に「今から始めます」みたいな開廷
宣言があるのかと思いきや、証拠請求について意義だの、メールの存在
がどうのこうのと、裁判官や検事らの間でいきなりやりとりが始まっていた。
それが終わってから証人が入ってきた。証人は証言の間、傍聴人に背を
向けて立っていたので、その表情をうかがい知る事は出来なかった。植草
さんは、始めから終わりまでずっと、証人の顔を真横からじっと見つめてい
た。真実を探るような厳しい眼差しをしていた。もし本当に女子高生のお
尻を触っていたとしたら、あんなに証人の前で堂々としていられるだろう
か・・・。芝居だとしたら、アカデミー賞ものだ。

 その後検察、弁護人両方から証人への訊問が延々と続いたが、後から
聞いたら通常ならあまり考えられない長さだったようだ。それも電車での
立ち位置の確認が異常に長い。図を描いたものを証人に見せてあーだこ
ーだと確認するのだが、図自体がこっちには全く見えない。証拠とされる
携帯メールの写真も数十枚あるのだが、これらももちろん傍聴席には見え
ないわけで、数字が会話に出てきても、文字数のことか、送信数、受信数
のことか良く解からない。これじゃあ傍聴できたって、開かれた裁判とは
言えないんじゃないかと不満を持ちつつ最後までなんとか頑張って傍聴
した。しかし3時間15分は長かった。こちらも一字一句聞き逃さないよう
に気を張り詰めていたので、終わった後はくたくたになっていた。 

 被告人の机の上には分厚い資料があった。植草さんはたまにそれをめ
くったり、ノートにメモを取ったりしていたが、証人から目を離して何度か傍
聴席の方に視線を移すこともあった。自由を剥奪された辛い拘置所生活
の植草さんだろうが、証人の「覇気のない」発言で思いがけず植草さんが
笑った。その笑顔が思いのほか明るく見えて、一瞬の救いが得られたよ
うな気持ちになった。植草さんの口元から白い歯がこぼれたのはそれ一
度だけだったが。

 終わってから、「裁判は我々がドラマや映画で観るのと同じように進んで
いくのだな」という誠に単純で少し不謹慎な感動があった。しかし初めてな
ものなので、メモの取り方に要領を得てないことに沢山の後悔が残る。大
切な裁判を傍聴する予定のある人は、その前の練習として他の裁判を何
度か傍聴しておくと良いと思う。耳コピーしていくにも速度が追いつかず、
結局大事な部分が抜け落ちてしまったりして、後から見て意味がわかる
ようにするには何かコツがありそうだ。

 次は報道されているように、被害者の下着が証拠品として本当に出てく
るのだろうか。だとしたらどのように提出されたのか?証人が「スカートの
上から触った」と証言した内容と矛盾しないのか?など、今後の展開が
非常に興味深いが、どのように進んでいくのか引き続き厳しくウォッチし
ていこう。


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傍聴人A氏の傍聴記(2)

(つづき)

・証人は蒲田署に電話をして、「13日の事件の現場にいた者です」と話した。
・蒲田署に行ったのは1回だけだ。
・そこで話した時間は6~7時間。調書は1つである。
・検察庁には4回行ったと思う。
・応対した蒲田署の担当はKさんだった。サポートはHさんだった。
・事件後にメールを送った友人とのやりとりは複数回ある。
・その友人から最初のメール返信があったのは、当日、事件の電車の中だ(時刻?)。
・証人は降りてから自宅までの間、「ありがとう」と返信をした(時刻?)。
・3回目?(筆記者よく聞こえず。メールの存在もよくわからず)
・友人から受信したメールのうちの1通の受信時間は22時55分。
・「被害者の女子高生は振り向いて声を出したが、その他に何か他の動作をしまし
  たか?」との質問に「わからない」と答えた。
・「被害者は何か助けを求める素振りをしましたか?」との質問に「目が合った時に
 サインかな?とも思ったが、はっきり覚えているのは1回です。」と答えた。
・「当日は雨が降っていましたか?」との質問に「ハイ。そう思います」と答えた。
・証人は当日傘を持っていなかった。
・事件当時そばにいた子供は、1人以上だったと思う。
・その子供は小学校にあがっていないような小さな子だったようだ。
・「子供の前で恥ずかしくないんですか?」という被害者の声に、最初は何の事か
 と思ったが、後ろにいるこどものことかな、と思った。
・ネクタイを掴んだ男性は前方の座席の方からきた。
・「携帯のカメラで現場を撮ろうと考えなかったか?」との問いに、自分の携帯は
 カメラがついていない機種だと答えた。

 (この辺で大体終了。最後の方かなり抜け落ちています。)

 この後、次回についての予定などの話があった。

・女子高生は東京在住ではなく、かつ学校もあるため「期日内尋問」となる。
・立証予定としては~
 (ここより音だけのメモを記す)証拠物の申請、調書、○○さんが7と8の供述、
  本日付けで証人尋問の申請、鑑定書、鑑定人を証人申請、証拠物、ブツの
  請求、ブツはじゃあ・・・などとごちゃごちゃとしたやり取りが続く。

・神坂裁判官より、次回は1月25日 午前10時から429号法廷で行います、
 とのアナウンスがあり、閉廷となる。


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2006年12月22日 (金)

傍聴人A氏の傍聴記(1)

(内容をより明確にするため、修正・加筆した。 12/23 10:00

※次の記録は筆記者のメモと記憶によるものである。したがって記述の順番、細部は正確ではないこと、事実に支障ない範囲で要約および( )の注訳をしてあることをお断りしておく。
(傍聴人A)

◆目撃者(男性1名)の証言

<検察側質問>

・証人は事件当日の夜、都内の職場を出て自宅に帰るため、そのままJRを乗り継ぎ品川まで行き、京急品川駅の構内に入った。電光掲示板で乗る電車を確認して「22:08発の京急久里浜行き」に乗った。時刻の証言は証人のその時の記憶ではなく、後日電車のダイヤを調べて正確な時刻を確認した結果である。

・場所は前から3両目、車両内に3つあるうちの真ん中のドアの付近。

・痴漢行為をされていた女性は女子高生。「高校生」というのは制服を着ていたのでわかった、年齢は1617歳に見えた。

・痴漢行為を働いていた男は上下スーツにネクタイをしていた。

・男は両手で女子高生の腰から尻にかけて触っていた。

・女子高生が声をあげて、男は止めた。

・車両内は、混雑はしていたが、隣の人と肩がぶつかるほどではなかった。

・(事件当時の証人の服装、持ち物の簡単な質疑があった。)

・女子高生は乗車したドアの反対側の方にいて、進行方向を向いていた。つり革にはつかまっていなかった。

・女子高生の上着についての記憶はない。紺色のスカートを着用していた。身長は158~160cm弱に見えた。

・オジサン(植草氏)は女子高生の真後ろにいて密着していた。オジサンは右側に重心がかかっていた。

・オジサンの両手は、ともに真横に降ろしているのではなく、女子高生の方にいっていた。

・証人自身は、事件のあった電車内では(事件まで)中吊り広告を見たりボーッとしたりして過ごしていた。

・オジサンの左手が女子高生の腰からお尻のあたりに触れていたのを目撃した。左の側面を触っていた。品川を出て1~2分経った頃だったと思う。それはふとした瞬間に目撃した。

・完全に触っていたと確信できたのは、オジサンの手が女子高生のスカートに触った事によるしわ・くぼみのようなもの目視できたからだ。

・証人の視力は左が1.5、右が1.2である。

・電車の中の明るさは普通だった。

・証人は公判中に自分の右側の被告席にいる植草氏を見て、そのオジサンと同一人物だと証言した。

・当時、証人とオジサンの間には、証人から見て右斜め前に他の女性がいた。その女性は割りと若く、身長は160cm前後。進行方向に対して右斜め45度位の向きに立っていた。

・間に女性が立っていたのに、なぜ証人からオジサンが見えたのかというと、その女性が証人の真正面に立っていたわけではなく、(また身長差からも?)肩越しに見えたからである。

・オジサンが「怪しいな」という動きをしていたので、痴漢をしているのか見極めようと思い、見ていた。

・オジサンの顔は少しうつろな目をしていた。(ボーッとしているような感じかとの検事の質問にハイと答えた。)

・証人が注視することでオジサンが痴漢をやめると思い、オジサンの顔を見た。

・女子高生の顔ははっきりと覚えていない。

・女子高生は困惑しているような感じだった。

・女子高生と証人の目が合った。

・声をかけて助けてあげようとか思わなかったか?との検事の問いに「注意してもオジサンが暴れたり、女子高生が自分に賛同してくれないと困ると思いました。」と回答した。

・「何をやっているのですか?子供の前で恥ずかしくないんですか?」「次の駅で降りてください」と女子高生ははっきりとした声で言っていた。最後の方は涙まじりで、言い終わった後は泣き出してしまった。

・オジサンの方は女子高生が振り返ったら、後ろに下がって反対側のドアの方を向いた。

・オジサンは女子高生の言っている事に対して、頷くような態度をしていた。そして「わかったから」というような事を言った。

・女子高生は行為をされた場所で泣き出した。うつむいて顔を押さえていた。

・前の方から「私服」が近づいて、女子高生と話をした。

・その話しかけた男性がオジサンのネクタイを掴んだ。「逃げるな」というような事を言った。

・オジサンは「逃げないから」というような事を言っていた。弁明については良く聞こえなかった。

・証人は自分が何もしないので、体裁が悪いと感じた。でも男性(痴漢を捕らえた男)が入ってくれたので、大丈夫かと思った。

・電車が蒲田駅に到着し、オジサンはネクタイを掴まれたまま男性と一緒に降りて行った。

・女子高生はどういう風に降りたのか証人は見ていないが、蒲田駅を過ぎた後の車両内にその女子高生の姿がなかったので、蒲田駅で降りたというのが分かった。(証人は降りず、そのまま同じ電車に乗車していった)

・(証人が車両内から見ていた様子によると)ホームではオジサンが逃げるような素振りをした。

・ネクタイを掴んだ男は、電車の進行方向と同じ方向にオジサンを連れて行こうとした。オジサンは反対方向に逃げようとし。「逃げるな」と言った(誰が言ったか主語はなかった)。

・その後電車が発車して、証人は友人に起きた事を電車内から携帯でメールした。相手は高校からの友人である。内容はその電車内で痴漢があって、それを見たこと、自分が注意をしなくて後悔していることだった。

・電車が横浜駅に近づいた辺りで携帯メールを送信した(証拠画像有り)。

・その友人からは慰める様な内容の返信が来た(証拠画像有り)。

・証言者の携帯保存メールには、9/13~第二回公判当日(12/20)までの送受信が含まれている状態だった。

・携帯の証拠画像の撮影は12月18日に地方検察庁でK検事が撮影をした。

・事件翌日の14日にメールを送った友人からメールがきた。その友人は植草教授逮捕のニュースを見たが、昨日証人が見たのはそれではないかという内容だった。はじめは「そうなのか」と思った。

・その後、インターネットのYahoo!ニュースで「自分はやってない」と報道で書かれたのを読んだ。そんな事はない、と証言者は知っていたので、証人として名乗りでようと思った。

Yahoo!ニュースを見た(選んだ)のは、自分のインターネットのポータルサイトをYahoo!にしていたからだ。

・まず京急のコールセンターに電話をした。そこで担当の警察署が蒲田警察署であることを教えてもらい、蒲田警察署に電話した。

・9月16日に蒲田警察署に出向いた。

・植草氏の事は前の事件で報道されていた程度に知っているだけだった。植草氏の顔もその時に知っていた(知った?筆記者良く聞き取れず)。

・(いつの時点か記録が不明確だが、痴漢直後)オジサンは顔の前に手を出すような感じで女子高生と距離をとった。

<弁護側質問>

・証人が品川駅で乗る電車は、品川駅にすでに入っていた。

・証人は並んでいる乗客の後につくような感じで乗車した。

・前に並んでいたのは、はっきりは覚えていないが10人程度だったと思う。

・直前に並んでいた人は覚えていない。

・発車まで証人の後に2~3人が乗り込んできた。

・乗ってきたその2~3人のうちの一人は女性という記憶があるが、身長・服装に関しての記憶はない。ただ髪の毛は長くなかったと思う。

・車両内で見ていた中吊り広告の内容の記憶はない。

・中吊り広告以外には特に何か見ていた記憶はない。

・毎日同じ経路を使っている。

・自宅のある駅はX駅である。(

・証人が普段電車に乗る時も同じように(中吊りを見たりボーッとして)過ごしている。携帯メールは用があれば使うこともある。音楽は聴かない。本・雑誌はたまに読むが、当日は読んでいなかった。

・後ろに母親とその子供がいた。(筆記は誰の後ろか聞き逃した)

・ドアとドアのスペースには何人位の人がいたかは覚えていない。

・電車に乗る前に「女子高生がいるなぁ」と思った。

・女子高生の後ろに男性がいるのを気づいたのは、電車が発車してまもなくだった。

・痴漢をする男をはじめ見た時の印象は、「重心が右に傾いていてヘンな格好をしている」である。その他に関してはスーツを着ていたという以外の記憶はない。

・男が女子高生を触っている時、男の手の甲、指先、袖口までは見えた。肘は前の女性がいたので見えなかった。

・手は動いてはいなかった。

・男の指はまっすぐ伸ばした状態だった。手のひらを横につけている感じだった。

・その時の男は(目の前にいる植草氏)とどのように違っているかという質問に「当日は覇気がないような感じ」と表現した。(この時法廷内、一時どっと笑いが起きる。植草氏も思わず笑う)。

・男が眼鏡をかけていたかどうかは覚えていない。

・(公判当日より)1週間位前にインターネット内で植草氏の「支援サイト」を見た。

・そこに顔写真があったかとの弁護側の問いに「ありませんでした」と答えた。

Yahoo!ニュースにも顔写真はなかった。

・痴漢行為を見ていた時間は約2分間であった。

・被害者が声をあげた瞬間、間に立っていた(被害者ではない)女性はその後どうしたのか覚えていない。

・事件後、車内から携帯メールを送った相手とは、どの位の頻度でメールをやり取りするかの問いに、毎日のようにはしない。正確にはわからないと答えた。「○週間から○か月(筆記者記録抜け)の間ですか?」との弁護側質問に「ハイ」と答えた。

・その携帯メールの送信時刻は22時39分であった。

・携帯メールを送った理由は、女子高生が泣きながら訴えたのに注意できなかったことを、黙って自分の中においておくのは辛かったからだ。

・携帯メールの本文は「今電車の中でちかんが起こった」という内容である。「オジサンが女の子を触った」という事は書いてなかった。

                       -続きは後に報告したい-

追記:web上で、一部誤った解釈を書かれている方がいたので、修正をお願いしたい。

・携帯メール画像のバッテリーの状態について

証人は後日検察に出向いて、検察官による証人の保存メール画像撮影が行われた。

私の解釈によると、撮影をしているうちに証人の携帯電話のバッテリーが少なくなり、撮影途中で充電したという話だ。

メールを表示した状態で写真を何枚も撮っていき、その写真が証拠として出されたわけだが、裁判官の一人が複数の写真を見て、スクロール前、スクロール後のメールの途中でバッテリーが空に近い状態からフル充電になっていた事を質問した。それについては、充電器を使って充電したとのことだ。その充電器は誰のものか分からないが、証人の携帯は最近では珍しいカメラのついていない機種で、たまたまそれに合う充電器がそこにあったという点が私としては疑問に思う。証人自身が充電器を持ち歩いていれば不思議ではないが、自分のものとは言わなかったような気がする。その辺は私の記憶やメモがあいまいなので、他の人や速記者の正確な記録を待ちたいと思う。

実際の法廷内では証拠品を証人や検事、弁護人、裁判官が見ながら、「ここに出ている~」「この位置からは、」なんて風に、傍聴人からは見えない写真や図面を指しながら指示代名詞ふんだんに会話がなされていくため、見ている方はちんぷんかんぷんになり、かろうじて聞き取れた音で判断するしかなく、解読に難儀してしまうのである。

したがって事件のあった電車内で、証人がメールを打ちながら充電したわけではない。他の誤った解釈については、上記をよく読んでくださればご理解いただけると思う。

神奈川県

内)


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『私服』というキーワード

   『私服』というキーワード(公判傍聴記)

   速記者ではないので、抜けがあるとは思うがメモを起こしてみた。

 12月20日(水)、第二回目の公判が開かれた。現場を目撃していたと
称する証人が法廷に臨んだ。9月13日、帰宅途中の彼は京浜急行、品
川~蒲田間の電車内で植草氏の痴漢行為を目撃したそうである。彼は、
品川22:08 分の電車、前から3両目の車両、三つあるドアのうち、真ん
中のドアから乗っている。

検察官 「その時の混雑具合は」

証人  「混雑はしていたが、ぶつかるようなことはなく立っていました」

検察官 「その時の位置はどこですか」

証人  「位置は真ん中のドア近く、ドアに背を向けて、左手で吊り革に
            つかまっていました」

検察官 「証人はどんな格好をしていましたか」

証人  「リュックを持っていました。背負っていました。真っ黒にオレン
             ジ色のラインが入っています」

 このような尋問応答が繰り返され、話題が女子高生のことに及ぶ。

証人  「女子高生は真ん中のドアーの近くに立っていました。吊り革に
            はつかまっていませんでした。スカートは紺色、身長は158セン
            チから160センチくらいでした。進行方向には向いていましたが
      吊り革にはつかまっていませんでした」

証人  「進行方向に女子高生とおじさん(植草氏)が向いており、二人
      の距離が異常に近いなあと見ていました。女子高生は窮屈そ
      うでした。最初に位置関係が近すぎると思いました。それほど
      密着する必要はないと。おじさんの後方には人が一人二人は
      立てるスペースがありました。二人の距離には違和感を感じ
      ていました。彼は右側に重心がかかっていて不自然だと思い
      ました。彼の両手は前のほうに行っていました。その時点では
      痴漢だとは思いませんでした。」

      ・・・

検察官  「その時点で(多分、電車が品川駅を出た時の状況)痴漢を
       確認していたのですか」

証人   「確認していません」

検察官  「電車が品川駅を出たとき、あなたは何をしていたのですか」

証人   「中刷り広告を見たり、ぼーっとしていました」

検察官  「痴漢を目撃したのは、いつ頃からですか」

証人   「品川駅を出て、わりと直ぐにです」

検察官  「なぜ痴漢に気付いたのですか。見落としていたというわけ
       ですか」

証人   「ふとした瞬間です。ずっと見ていたというわけではありませ
       んでしたから」

検察官  「そのとき彼は偶然触れたのですか。なぜ痴漢だとわかった
       のですか」

証人   「左手が腰からおしりに完全に触れていました。触っていたと
       き、スカートの左側にくぼみ(しわ)のようなものがみえたか
       らです」

検察官  「あなたの視力はいくらですか」

証人   「左が1.5,右が1.2です」

検察官  「そのときの電車の明るさはどうでしたか」

証人   「普通でした」

検察官  「あなたと女子高生の間に誰かいましたか」

証人   「女性が1人いました。自分の右斜め前にいました。その
      乗客は女性で、わり と若く、身長は160cmくらいでした。」

検察官  「服装はどうですか」

証人   「覚えていません。斜め45度くらいだったと思います」

検察官  「彼の左手が腰からおしりに触れていたと言いましたが、
       女性の乗客が立っていたのに見えたのですか」

証人   「はい。見えました。女性は私の真正面に立っていたわけで
       はないので見えました。」

検察官   「あなたの身長はいくらですか」

証人    「183cm、女性は160cm前後でした。女性の肩越しから
        見通せる位置でした。」

検察官     「なぜ痴漢だとわかったのですか」

証人    「電車が揺れたときも手がそのままになっていたからです。
        それであやしいなぁと思いました。痴漢をしているのではな
        いかと。それで、それを見極めようと注目していました。揺
        れても手が離れない、女子高生が動いても同じ状況でし
        た。正確にはわかりませんが、2分くらいの感覚です」

検察官  (・・記録抜け・・) 

証人   「 左手は腰にありました。右手はわかりません。右手の先は
       見えませんでしたが、腕は前の方に出ていました」

検察官  「おじさんは吊り革をつかんでいましたか」

証人    「つかんでいませんでした。右手は上に上がっていませんで
        した。右手は見ていませんが、右手も左手と同様に触って
        いると思いました。」

検察官   「その時、おじさんの様子はどうでしたか」

証人    「うつろな顔をしていました。(私が)注視することで抑制にな
        ることを狙いました 」

検察官   「女子高生はどういう様子でしたか」

証人       「困惑した顔で私を見ました。助けを求めているんじゃないかと
       感じました」

検察    「止めようとは思いませんでしたか」

証人    「注意しようとは考えましたが、なかなかできませんでした。お
       じさんの顔を注視しました。注意しても暴れられたら嫌だなあ
       と思いました。また、女子高生が賛同してくれない可能性も考
       えました」

  証言は続くが、女子高生がうしろを振り返って、「何をやっているんです
か?子供の前で恥ずかしくないですか。次で降りてください」と毅然と抗
議をし、最後の方は涙混じりになり、泣き出してしまった。そこで痴漢行
為は終わっていた。女子高生が振り返った時、おじさんはその場を離れ
てドアの方に行った。そして、手を顔の前にあげ、距離を測るしぐさをし
た。そして「わかったから」と言ったら、女子高生はうつむいて顔を押さ
え、泣きはじめた。

 車両の前方から来た『私服』がおじさんに話しかけた。おじさんは頷
いた。そうしたらその人はおじさんのネクタイをつかんで「逃げるな、逃
げるな」と言った。おじさんは「逃げないから」と言った。男性が助けに
入ったからこれで大丈夫だと思った。その時、自分が助けなかったの
で体裁が悪いと思った。もし、おじさんがやっていないと言い張ったら、
自分が証人として名乗り出ようと思った。その人はおじさんのネクタイ
をつかんだまま、蒲田駅で降りた。女子高生も降りた。

         今回はここまで

証言者が思わず発した『私服』という言葉は、この時一回だけである。
弁護側がこの「私服」という言葉を根掘り葉掘り聞かなかったのは、今
から思えばかなり不満である。同じ車両内に乗っていた一般人を「私服」
と表現することは奇妙である。「普通の服装をした人」なら、まだわかる
気もするが、通常、「男性」とか「乗客」とか言うべき状況である。 私服
という言葉の使用を考えれば、証言者と、この「私服」と呼ばれた者が
どういう関係があるのだろうかと考えてしまう。通常、「私服」という言葉
をこういう状況で使用するだろうか。
 


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2006年12月20日 (水)

法廷内の植草さんの様子

 今日、裁判というものを初めて傍聴した。入廷直前は手荷物を
検査され、身体を金属探知機でチェックされた。テレビなどで観て
知っていた法廷の様子と大体において大差ないように思った。

ただ、入廷した時は意外に狭いんだなぁという第一印象があっ
た。私は真ん中の席、前から二列目の左端にいたが、植草一秀
さんを間近に拝見することができた。凛としたその表情は、植草
さんの内面の強靭さを物語っていた。

 このお人を間近に見て、擁護したのはけっして間違いではなか
ったと改めて思った。 彼は目撃証言者の右側面、真横に居たの
だが、終始目撃者を毅然とした表情で睨んでいた。一緒に入った
知人が植草さんのスケッチをしていたので二枚お借りした。


 植草さんの様子。

 ノーネクタイ、シャツは白、右手にボールペン、ストライプ入りの
グレーの背広、ウール素材。

紺色のハンカチを前に置き、たまに指の汗をぬぐっていた。しきりに
MEMOをとっていた。痩せてはいたが、比較的元気そうであった。

Vfsh0096

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第二回植草氏公判・見聞録

 有志の皆さんのご尽力により、傍聴券は5枚取得でき、我々擁護派は、
私と速記者を含め全五名が法廷でしっかりと傍聴することができた。以
下、その速報を一部開示する。この情報は緊急性を優先したので、詳細
は追って明らかにしたいが、今はとりあえず、書けることを書く。

 12月20日、今日、東京地裁で午前10:00時より植草一秀氏の公判が
開かれ、午後1時15分に閉廷した。所要時間は3時間15分であった。

 今回は、事件を目撃した人(検察側の証人で名前は我々には明かさな
かった)の証言が主体である。年齢は35歳くらいの男性である。

 今、確実に言えることを開陳する。何と、この証言者は、車両内で植草
氏を捕まえたのは「私服」だったと証言したのである。さすがに植草氏を
捕まえた者が警官だったとは言わなかったのだが、暗にそれに近い表
現で、本音がぽろりと出たという感じであった。その「私服」と称された
男は、当時車両前方に座っていたそうである。その人がすぐに駆けつけ
て来て、植草氏のネクタイをつかみ連行したのだそうである。これは、もし
かしたら証言者がその者を「私服」と思わず言ったことを鑑みれば、その
人が一般人ではないと感じたのかもしれないというニュアンスに我々は
受け止めた。

 ところで、この証言者は、本日の証言の前に、蒲田警察署で6~7時間
調書を取られたり、話をしているし、検察にも4回も行っており、公判証言
に関する十分な特訓を受けたのではないかと我々は感じた。その理由は、
検察の質問には、途切れなく見事で流暢な受け答えに終始していたから
である。逡巡の様子がほとんどないことが、却って私は不自然な感じがし
た。

 彼は、事件を目撃して、すぐに○○という友達にメールを送ったそうで、
そのメールが証拠物件として提出されていた。長いメールで、何回かスク
ロールがしてあって、その写真が何枚か出されていた。最初の画面でバッ
テリーの充電レベルが空に近い状態に表示になっていたのだが、後の方
ではバッテリー充電レベルがフル状態になっていたのはおかしいではな
いかと裁判官が質問したら、充電器を借りて充電しながらスクロールした
のだと答えた。これについては今後精査してから再度記述することにする。

 次に、その友人とはどの位の割合でメールのやり取りをするのですかと
いう問いに、証言者は答えられなかった。しかし、一週間に一回とか、半年
に一回とかですかという質問には、ハイそうですと答えた。半年間もメー
ルを出さないかもしれないような相手に、事件の直後メールを出すのは奇
異な感じする。送信メールが49/50となっているのに、返信メールは134/
200となっていた。これは何を意味するのだろうか。送受信文字制限が短
メールと長メールが併用できる機能になっているのだろうか。

 次に彼は、位置に関する証言としてかなり詳細な証言を長い時間をか
けて、検察の質問に沿って行った。これも詳細がわかり次第追って公表
する。たとえば、目の前に植草氏がいた。植草氏は女子高生に体を密着
させ、左手は彼女の腰部左側面に手の平が触れていた。姿勢は前かが
みだった。しかし、手に傘を持ち、肩にかばんを掛けていることは確認で
きなかった。植草氏は前かがみになり、女子高生に身体を密着させてい
たが、頭は彼女からは離れていたと証言した。(はたしてそんな格好がで
きるのだろうか)。それと同時に植草氏の重心が右側にかかっていたこと
を何度か言ったが、それは右側に身体が傾いていたと言うことなのだろ
うか。

 証言者は、そのときは、植草氏とは気がつかなかったが、翌日、友人が
メールで、あれは植草氏ではないかと教えてくれたから、はじめ
てそうかなと思い、ヤフーニュースで調べたら、載っていた。そこには顔写
真は載っていなかった。更に植草さんを支援するサイトも読んだ。しかし、
そこでも植草氏の顔写真は載っていなかったと数度も言った。植草氏を支
援するサイトの名前は明かさなかったが、常識的に考えて、彼が見たのは
「AAA植草一秀氏を応援するブログAAA」のことであろうと思うが、そうだと
すれば、そのサイトに植草氏の写真がなかったと何度も証言したことは間
違いである。というか、自身の目でよく見ていないで見たと言った可能性
がある。また、当時のヤフーニュースに植草氏の顔写真はなかったのであ
ろうか。

 次に、自分の目の前にいた女子高生が、植草氏に身体を密着されて、
前に逃げなかったのかという質問に対し、前に動いたと思うと答えたのだ
が、では何歩動いたのかという質問に対し、今度は一歩も動いていない
と訂正した。

 被告人席に座っている植草氏を見て、その痴漢をしていた人に違いな
いかという質問に対し、違いないと答えた。今のほうがやつれたとか、痩
せたとかとの違いはないかとの追加質問に対しても全く違っていないと答
えた。しかし、植草氏ご本人は逮捕前より痩せていたことは一目瞭然であ
った。

 また、この証人の前方に女子高生が、電車の進行方向に向かって立っ
ており、その後ろに植草氏、さらにその後ろに母と子ども(小学校に入る
前)がいて、植草氏と証人の前にも女性が、電車の進行方向に向かって
立っていた。女子高生が「子どもがいる前で恥ずかしくないのですか」と
発言しているのを彼は聞いたと言う。しかし、自分の後ろに植草氏がい
て、さらにそのうしろに子どもがいたのだが、その子どもが痴漢を目撃し
たのをどうやって確認したというのだろう。その子供の目線の先を冷静に
観察していたのだろうか。

 この証人は植草氏が女子高生を2分間触っていたと証言した。しかも、
スカートの上から触っていたと証言した。以上、喫緊に書けることを書い
た。また追って法廷の様子を開示していく。

 次回公判は1月25日午前10時 ある人の証人尋問を予定してい
るそうである。


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郵政民営化売国プロジェクトに嵌められた植草一秀氏

植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー

  小泉純一郎前総理や竹中平蔵前金融相は、ミルトン・フリードマンが志
向した新自由主義の重要な掟である「自己責任原則」を旗印に構造改革
をぶち上げ、国民を先導して強引に売国型の政策を推し進めてきた。その
結果はどうなったのか。老人や身障者への福祉の圧倒的後退、極端な所
得格差社会の現出、毎年三万人を越える自殺者は減る気配がまったくな
い。そして投機しか眼中にない外資の跳梁跋扈。我々の国はいったいど
うなってしまったのだろうか。

 小泉政権の欺瞞性を最もあざやかに示していたのが、2003年5月のりそ
な銀行の国家救済であった。小泉・竹中の構造改革路線は、この銀行の
救済に預金保険法第102条を適用したが、その第一項には第一号措置
と第三号措置があり、彼らは第一号措置を選んだ。小泉政権の頑強な
基本理念から言えば、当然第三号措置が取られていなければならなか
った。しかし、彼らはあえて第一号措置をもってりそなに政府資金を注入
したのである。植草氏はこれがこの内閣の欺瞞性をあらわす象徴的な
事例であると語っている。以下は植草氏の説明である。

  預金保険法102条は「抜け穴規定」を有する条項である。第1項に第1
号措置と第3号措置が規定されている。当該金融機関の自己資本がマ
イナスに転じた場合、すなわち債務超過の場合は「破綻処理」になる。こ
れが第3号措置である。これに対して、自己資本が規定を下回っても、プ
ラスを維持する場合は「破綻前資本注入」が実施され「救済」される。こ
れが第1号措置である。りそな銀行には、第1号措置が適用されたのである。
 この措置が人為的に選択されたことは間違いない。「破綻処理も辞さぬ」
と言いながら、結局は「破綻処理ではない救済」が選択されたのだ。この
時点でりそな銀行を破たん処理していたなら、日本は間違いなく「金融恐
慌」に突入したはずである。この懸念があったからこそ、株価は暴落して
いたのだった。(植草一秀 2006.06.25第10回「失われた5年-小泉政
権・負の総決算(4)」より抜粋)

 この「預金保険法 第102条」において、自己責任原則で行けば第3号
措置の「破綻処理」ではなく、第1号措置の「破綻前資本注入」が適用さ
れたことは、金融恐慌回避措置だったと片付ける人もいるが、そうならば、
なぜそこまで株価の暴落を起こす政策を掲げたのかという、それまでの経
緯への当然の疑念が湧く。なぜならそれこそが小泉構造改革の基本テー
ゼだったからである。この一大テーゼを平然と自己瞞着しておいて、次の
ステップに進むこの政権の異常な本質とは何であろうか。国民はそのこと
をきちんと問いかけるべきであったのだ。実際のところ、小泉政権はその
時点で完全な政策の失敗を証明していたのである。

 金融恐慌は最も恥ずべき政策の失敗であり、国民を窮地に陥れる大罪
である。それを回避した手法が、小泉たちが忌み嫌っていたケインズ的財
政出動であった。ここで小泉構造改革のテーゼは完全に崩壊し、内閣総
辞職になるはずであった。ところがマスコミはりそな救済劇の肝心な真相
を世論に訴えることをしなかった。そのせいで、小泉たちは政権崩壊を免
れたのである。

  この時点で彼らは必死にごまかし、政権を運営し続けた。二年後に目
論む郵政民営化法案の実現に向けて、彼らは政策の失敗を体よく糊塗し
続けたのである。私はほとんど確信に近い思いがある。それは植草一秀
氏が2004年の4月に、国策捜査によって冤罪に嵌められた理由は、りそ
な銀行救済劇の真相を植草氏に語って欲しくないという一点に尽きるの
である。もし植草氏がことの真相を語って、小泉政権の欺瞞性を国民に
知らせれば、反小泉の世論が沸き起こり、内閣は総辞職するか、無力化
に追い込まれていたはずである。そうなると、「年次改革要望書」に従って
行う郵政民営化の約束をアメリカに対して果たせなくなる。小泉政権の眼
目は郵政民営化にこそあったからである。だからこそ、その最大の妨害
因子である植草氏の言論を止めたのである。それが、品川駅構内におけ
る手鏡事件の真相である。

 そして、今回の京急電車の痴漢事件であるが、これも郵政民営化と大
いに関係がある。郵政事業は、2007年10月に郵便事業会社、郵便局
(窓口ネットワーク)会社、郵便貯金銀行、郵便保険会社の4事業会社に
分割し、持ち株会社化する。そのあと2017年までに完全民営化に移行
することになっている。四事業会社に分割されて持ち株化するのは2007
年の10月からである。植草氏が痴漢冤罪に遭遇したのが、2006年9月、
このタイミングも重要である。植草氏は品川駅での事件があってから、
また精力的に活動を再開し、小泉政権のペテン性とりそなインサイダー
疑惑を展開し始めていた。ここで、彼の政権批判が世論に伝播した場合、
アメリカの悲願である郵政民営化が瓦解するおそれがあったのである。
つまり、植草氏の言論によって、国民が郵政民営化の真相に気付き、こ
の法案の執行を停止、振り出しに戻すおそれがあった。そのリスクを回
避するために、植草氏は再びその口を封じられてしまったのである。

品川駅で植草氏が手鏡事件を仕立てられて捕縛の仕打ちを受けたの
が2004年4月8日である。ここである出来事と奇妙な一致を見せている
ことがある。郵政民営化に関わる年次改革要望書(The U.S.-Japan
Regulatory Reform and Competition Policy Initiative)が正式に日本に
提出されたのは2004年の10月14日である。しかし、そのことについて
米国と日本政府が頻繁に会うようになったのはもっと前である。竹中平
蔵が率いた「郵政民営化準備室」とアメリカの政府及びその関係者が、
18回も重ねて協議を行ったのであるが、その第一回目が、なんと植草
氏が手鏡事件として嵌められた4月からなのである。

 日本郵政事業の民営化を熱烈に願ったアメリカが、その実現を阻む
最も熾烈な抵抗勢力として確定したのは誰であっただろうか。私は確信
を持って言うことが出来るがその人こそ植草一秀氏なのである。よく考え
て欲しい。植草一秀氏がこの時点で、もし、小泉構造改革の欺瞞性を叫
び、りそな実質国営化顛末の真相を国民に向かって展開していたらどう
だったであろうか。それは小泉政権の欺瞞性を国民に完璧に認識させて
しまうことに繋がったのだ。これを阻止するために、アメリカと黄色い肌の
エージェントたちは植草氏の口を封じたのである。

 そしてその冤罪の衝撃から、山崎行太郎氏その他によって引き上げら
れ、回復した植草氏が、再び小泉政権の巨大な欺瞞性を語り始めたのが
今年の前半から京急の痴漢冤罪で逮捕された9月まである。この時
期に植草氏が再び冤罪に遭遇したのは、政権が安倍晋三に移り、またも
や来年10月に決行される郵政民営化実現に向けての大事な時期である
からである。

 つまり、植草氏が嵌められた二度の冤罪事件を時系列的に眺めてみる
と、米国とそのエージェントたちが、郵政民営化遂行に向けて計画を押し
進める大事なタイミングであったことが見えてくる。国民は目覚めなけ
ればならない。小泉構造改革はペテンであり、郵政民営化は国富流尽の
目的で拙速に行われた売国法案であることを。植草氏がりそな問題を重
点的に語ったのは、前政権の構造改悪を国民に知らせることによって、
この国益毀損の政策を停止させ、国民利益の確実な政策に切り替える
世論を巻き起こすためだった。植草一秀という人物は間違いなく救国の
士なのである。

 この人物を冤罪で放置したら、国家の行く末は崩壊に向かうだけである。
国民が自分たちや子孫の幸福を願うなら、植草一秀氏を幽閉の身から解
き放ち、なるべく早急に国政の壇上に乗せるべきである。これは個人の
問題ではない。植草氏を救出することは、これからの国家の命運がかか
っているのだ。そこを気付いて欲しい。


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2006年12月19日 (火)

植草氏を取り押さえた二人は暴力のプロか?

12月7日に一度出しているが、6日公判時の植草一秀氏の「意見
陳述書」を再度公開する。植草氏はこの陳述書の中で、彼を取り押
さえた二人の「一般人」について、強調して語っている。この二人は
はたして善意の一般人だろうか。この供述書を素直に読む限り、と
てもそういう感じには受け取れないのだ。この二人はあきらかに、い
わゆる「かたぎ」の人間ではないように思う。

 強いて考えれば、柔道や逮捕術を会得している警察関係の人間か、
もしくは武闘派暴力団関係者ような体術格闘戦に手馴れている者の
ように感じる。植草氏が彼らを何度か強調的に書いているので、彼ら
を注目しろというメッセージのように私には受け取れる。その部分を
赤くしておいた。

******************************

 (これは「植草一秀氏を応援するブログ」さんからお借りしています)

   意見陳述書

           
           平成18年12月6日

           東京地方裁判所刑事第2部 御中

    被 告 人  植  草  一  秀


 私は、平成18年9月13日夜、ある宴席に出席し、その場での特別な
事情もあり、お酒を大量に飲みました。その結果、しばらくして強烈な睡魔
に襲われる酒酔いの状況に陥り、このことが私が今回の事件に巻き込ま
れる一因になりました。その結果として、これまで私を支援してきて下さっ
た多くの皆様に多大なご迷惑をおかけしてしまうことになり、この点につい
ては大変申し訳なく思っておりますと同時に、お酒を飲み過ぎたことを深く
反省しております。

 強い睡魔に襲われる酒酔い状態にあったために、私が本来帰宅する方
向とは逆方向に向かう電車に乗ってしまいました。電車に乗り込む際は、
逆方向に向かう電車であることに気付いたのですが、反対ホームに行く
のは面倒だと思い、そのまま電車に乗ってしまいました。
 それでもその後に、やはり降りようかと思った瞬間にドアが閉まり電車
が発車してしまいました。

 自分が乗ってきたドアの方向に向かい眠ったような状態で立っていたと
ころ、少しして少し大きめの声が聞こえたので目を開けましたら、私の前方
の少し離れた所にいた女性が、その女性がそれまで立っていた位置を左
回りに振り返りながら、私の右斜め前方、1~1.5メートルほど離れた場所
に移動しながら、「子供がいるのに」といったことを言うのを目撃しました。

 私は「痴漢騒ぎかもしれない」と感じて、「絶対に関わり合いになりたくな
い」と思い、少し右を向いて、元の姿勢のまま目をつぶって立っておりまし
た。
 それから20~30秒ほどした時に突然私は左側とうしろ側を誰かに強く
掴まれました。
自分が犯人に間違われたと思い、がく然としましたが、自
分が人によく知られている身でしたので、ここで騒ぎにしたくないと思い、
大きな声も出さずに駅に到着するのを待ちました。

 駅に着いたら、女性に事情を聞き、私が無関係であることを理解しても
らわなければならないと思っていました。

 駅について、当然その女性と話ができると思っておりましたが、おそら
く二人だったと思うのですが、私を掴んだ人たちが強烈な力で私を
押さえつけて、事務室の方向へ連れて行きました。途中で私は何
度も「女性と話をさせてくれ」と言いましたが無視され、上半身が全
く身動き出来ないような強烈な力で押さえられ、
駅事務室の左側の
小さな部屋に私一人だけが、連れてゆかれました。

 11月10日過ぎに受け取った検察官開示記録によると、私を掴んだ
人達は事件を目撃していない二人の民間人の男性であったとのこ
とですが、それならばなぜ、私が女性と話をしようとするのを力づく
で阻止し、私一人だけを女性とは別の事務室に連れていったのか、
非常に不自然である
との思いを拭えません。

 事務室の入り口の所に体格の大きめな駅員がおりましたので、「とにか
く女性と話をさせてくれ」と告げて事務室を出ようとしたところ、その駅員
に制止されました。激しくもみ合った末に結局阻止され私は椅子に座りま
した。
 私は、「このままでは私が犯人にされてしまう。そうなればマス・メディア
は無責任で一方的な情報を土石流のように氾濫させ、家族が想像を絶す
る報道被害に直面する。あげくの果てに有罪にされてしまうかもしれない。
家族の報道被害を最小に食い止めて家族を守るには、いま私が命を絶ち、
すべてを遮断するしかない。命を絶つとすればそのタイミングは今しかな
い」ととっさに判断し、駅員が外側を見ているすきに、ネクタイをはずして、
そのネクタイで自分の首を絞めて自殺をはかりました。

 ところが、その途中で駅員が気付き、力づくで阻止されました。私は放
心状態に陥りましたが、まもなく警察官が来て、事件については何も聞か
れることなく、警察署に連れていかれました。事件について私は当初より
一貫して無実を主張して現在に至っております。

 その後のマス・メディア報道においては、テレビ番組においても、タレン
トや弁護士の立場にある者までもが、未決収容者にある私をあたかも確
定者であるかの如くに扱う発言を繰り返すことが放置され、また週刊誌な
ども私が過去に痴漢事件で何度も示談をしたことがあるなどの事実無根
の情報を流布するなどの状況が放置されております。私が懸念した報道
被害は現実に生じております。

 検察官は、「否認を続ければ、裁判で私生活を攻撃して家族を徹底的
に苦しめてやる」と学校等でのいじめを意図的に誘発するとも受け取れ
る発言を繰り返し、また警察官は、「否認して裁判になれば必ずマスコミ
のえじきになる」、「否認すれば長期の勾留となり小菅に移送される」と
繰り返し述べ、罪を認めることを迫り続けました。

 現実に現在私は長期間勾留され、また私が営んでおります事業の顧
客データも押収されているため、私の経営している零細な事業にも重大
な支障が生じております。

 それでも私は、自らの誇りと人間としての尊厳に鑑みて、事実に反して
罪を認めることはできないと考え、無実の主張を貫いて現在に至っており
ます。
 裁判所におかれましては、予断・偏見を持たれることなく、被告事件に
ついて、適正な手続に基づいて真相を究明し、関係法令の適正な運用に
基づき正しい判決を下されますよう強くお願い申し上げます。

以 上

******************************

 私が上記に赤文字で強調してある箇所を読むと、植草氏は、彼を取り
押さえた人物について、男女の性別も風体も人数さえ認識していないよ
うに思える。つまり、それだけ彼を取り押さえた二人は確実に植草氏を
身動きの取れない状況で駅員室に連れて行ったことになる。民間人が
このような行動を行うだろうか。この二人は明らかに一般の人間ではな
いように私は思う。植草氏を取り押さえた行動が並の膂力ではないこと、
植草氏が抵抗できないように二人で確実な連係プレー(示し合わせた
動き方)を行っているように見えること。これは素人の印象ではない。

 もうひとつは、この二人の行動はいっさい無言の中で行われていた
という不気味な事実である。善意の一般人であれば、「お前何をしたん
だ」とか、「駅員室に行くぞ」とか、そういう類の発言が行動と同時的に
あってもおかしくないし、あれば植草氏が陳述書にそのことを明記する
と思う。ところがそのことが書かれていない。つまり、彼らは無言で滞り
なく一連の行動を起こしていたことになる。植草氏を捕まえた二人は捕
縛のプロの印象が強い。

 あと、公判証言にこの二人の出廷がないことが妙である。この二人が
痴漢そのものを目撃していなくても、状況証言はできて当然の重要な位
置にいたことはたしかである。この二人が証言者として出てこないのは
非常に奇異である。出てこられない事情があるからなのだろう。

植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー


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2006年12月11日 (月)

綿密な計画性に生じたディレンマ

  ◎植草氏の冤罪は巧妙に計画されたが
   すでに綻びが見えてきた


 過去の記事、「植草氏謀殺までの必要な過程として仕掛けられた罠
でも触れたが、植草冤罪が綿密周到な計画性にもとづいて実行されたこ
とを強く感じる。植草氏は小泉政権発足前から、景気低迷時における緊
縮財政政策の危険性を見抜き、鋭意それを指摘していた。しかし、前政
権はその提言を無視、植草氏の憂慮どおりのミスリーディングを行い、一
時は株価を七千円台まで暴落させた。

 この時、小泉構造改革批判を行っていたエコノミストに、内橋克人氏や
金子勝氏などもいたが、植草氏が最も精力的かつ的確に前政権のマク
ロ政策の過ちを衝いていた。そのために植草氏は、前政権筋の恨みを
買い、2004年4月8日に、東京都迷惑防止条例違反に該当するとの容
疑で逮捕・勾留された。その間、マスコミは彼の弁明的言動をきれいに
除外した先行報道を行った。そのバイアス的先行報道によって、彼の
名誉は著しく毀損されてしまったのである。

 そして、弁護士さんを中心に、約一年かけて植草氏は無実を明らかに
するための立証活動を行った。ところが、植草氏本人が2005年4月7日
の関係者各位に出したコメントで述べているように、裁判官が植草氏側
の重要な立証論点を無視するということが起こったようである。植草氏
は、裁判官が、司法正義に悖る誘導を恣意的に行なう現実を目の当た
りにして、深い絶望と諦念に陥っている。なぜか、その裁判では、裁判
官の不正義によって司法の公平性は担保されなかったのである。

 これを痛感した植草氏は、裁判を継続する意義を保てなくなっていた。
植草氏本人がその痛憤の思いをコメントで述べている。

私は法廷の正義を信頼し、全力を投入して裁判に取り組んでまいりまし
たが、この思いは完全に裏切られました。本来、不当判決の場合は当然
控訴する考えでおりましたが、実質的な吟味の無い、あまりにも空虚な判
決を眼にして、裁判を継続することについての疑念が一気に広がってしま
いました。残念ながら現実の裁判制度は私が期待したものとはまったく異
なっておりました。この下で裁判を継続することの意義を見出すことができ
なくなり、控訴しないことを決しました」

 http://www.geocities.jp/yuutama_1/407comment.htmlより

 控訴を断念した植草氏は、警察のみか、司法の不正義を身をもって経験
し、深い絶望と諦念に陥った。希望を喪失した彼は消極的な毎日を送って
いた。普通の者であれば、このまま意気消沈し、硬い殻に閉じこもる精神
生活を送るだろう。しかし、彼には持ち前の正義感があり、個を越えた深
い憂国の思いがマグマのようにわだかまっていた。植草氏の精神は死ん
ではいなかった。

 この時、文藝評論家の山崎行太郎氏が植草氏へ社会復帰を呼びかけ
た。山崎行太郎先生は、その著書「小林秀雄とベルクソン」の冒頭部分
で何度か述べている。「矛盾にぶつからない思考が合理的なのではない。
矛盾にぶつかることをおそれない思考が合理的なのである」人は何かに
挑戦して大きな矛盾が眼前に立ちはだかると、そこで立ち止まってしま
い、適当につじつまを合わせて無難に矛盾を回避しようとする。そうする
ことが誰にも突っ込まれない合理的な判断だと思い込む。しかし、山崎
先生は言う。矛盾を包含したまま考えを進めていくことをおそれない精
神こそ、真の合理的思考であると。

 この精神こそ、あらゆる批評眼の精髄であると私も思う。この場合の
「矛盾」を「不条理」という言葉に置き換えても私は大差ないように思う。
文藝評論とエコノミストという差異はあれ、自己の仕事の信念において、
植草一秀というエコノミストも、山崎先生と同質の精神を持つことは明ら
かである。彼も一度は冤罪に打ちのめされたが、根底において不条理
に立ち向かう資質を持つ男である。だからこそ、司法と警察を掌握した
傍若無人な前政権の官邸ファッショに再び歯向かったのである。

 この局面において、山崎行太郎先生が彼を世間に浮上させたことは暗
示的でさえある。なぜなら両者とも不条理や矛盾に逢着することを怖れず
に対峙する精神性を持っているからである。お二人は、根底的なところで
ある種の同質性があるから、社会復帰への助言が功を奏したのである。
立派な仕事をする人は、狭隘皮相な合理の世界に安住することはできな
いということである。

 これは何も衒学的な文学の態度を言うのではなく、実際の仕事に直接
あらわれてくる、人それぞれの哲理的な構え方の問題である。これは仕
事のジャンルを問わず横断的な普遍性を持つことかもしれない。私には
小林秀雄を論じる資格はまったくないのだが、小林が究極の「無私の精
神」を追求した人であることは感じていた。その到達点が本居宣長論で
あることも私なりに思っていた。

 しかし、若い時に少し読んで挫折した小林論が、この年になって山崎先
生の著書によって新たな視座を開かれていることは不思議である。小林
の「無私」とは、山崎先生流に言うならば、自ら進んで矛盾の包含体系に
挑んで行く心的態度なのだろう。それは、硬直した制度的な合理主義で
はなく、カオスを内包した真の合理主義の地平に到達し、そこから眺め
る視点を得ることが可能になるということである。小泉純一郎の愚劣きわ
まるニ値論理的思考の世界とは何という隔たりであろうか。

 山崎先生はこうも言っている。「合理的に考える人すべてが合理主義者
とは限らない。合理主義者とは、合理主義という思考のパラダイム、いい
かえれば思考の歴史的制度から抜け出すことができない人のことである
と言ってよい」と。この観点から、山崎先生は、物理学において、ニュート
ン力学から非ニュートン力学への止揚、あるいはユークリッド幾何学から
非ユークリッド幾何学への変容へと思考を進めていく。「小林秀雄とベル
クソン」は、そういう物理学的な世界観の変遷と対比して、小林秀雄の
文藝評論の基底精神を探ろうとする非常に貴重な文献である。この本は
類書がないと思う。読むと、心地よい知的な空間へ誘われてしまうのであ
る。

 今までは不動の合理世界であったはずのものが、ある日突然に新たな
パラダイムに飲み込まれる。その過程は、矛盾への恐怖を飛び越えて行
われ、その矛盾へのゆるぎない対峙、そして突破を経て、あらたな地平
が見えてくる。ここにおいて真の創造性へいたる心的態度は、矛盾への
逢着を怖れない精神であり、その意味において究極的には、物理も数理
も芸術も同じであることを山崎先生は言っているように思う。小林の見る
無私の精神である。無私でなければ矛盾を越えられないのである。無私
とは矛盾を受容することでもある。これは西洋の合理主義を突き抜けた日
本古来の神道の受容性に通じるものがある。その意味で小林の「無私」
は至って日本的である。

 なぜ「小林秀雄とベルクソン」のその話を持ち出したのかというと、植草
氏の小泉政権批判には、山崎先生言うところの「真の合理主義」精神が
鮮明に見られるからである。多くの御用学者の中には、小泉政権の実相
を正確に捉えていながらも、自己の立場を損ねる政権批判を必死に回避し
ていた状況にあった。彼らは狂気の売国政権の放つ不条理の圧力に耐
えられなかったのである。

 これに立ち向かえる学者魂を持ったものは、本来的に不合理なもの、不
条理なものに真っ向から対峙できる勇気と資質を持つ者のみである。謂
わば精神の貴族性を堅持している者のみに与えられた勇気というものが
ある。その意味で植草氏という人物は真に創造的なエコノミストであるこ
とがわかる。こういう資質を持つ者は、売国政策を意図的に行う為政者に
とっては脅威そのものである。なぜなら、「魚心あれば水心」的な懐柔策が
一切通用しないからである。植草氏が目の前の女子高生の尻の誘惑に
幻惑され、我を忘れてしまうような男であれば、人生の不条理を招く小泉
国賊政権に真っ向から挑んだりはしないだろう。

 植草氏を嵌めた策謀者たちが意図する目的は、一にも二にも植草氏の
口を封じることにある。懐柔も、金銭の誘惑も、脅しも効かない植草氏の
ような人間は、殺すか物理的に幽閉する以外に方策がないのである。彼
らは植草氏の確実な口封じのため、そのプロットプランに、1998年の東海
道線車両内における不幸な出来事を徹底的に利用した。

 すなわち、98年当時、東海道線車両の四人がけボックス席の真向かい
の女性から性的異常者の誤解を受け、心外なことに彼は取調べを受け
るはめになってしまった。そして、彼は電車内でわいせつ行為をしたとし
て、神奈川県迷惑防止条例で罰金刑になった。しかし、実際は真向かい
の女性の勘違いに過ぎなかったと私は考えている。この話は当時世間
には出なかったが、植草氏にとっては、拭いがたい嫌なしこりとなってい
たに違いない。彼にとっては不本意な経歴上の瑕疵となっていた。人間
には生きている限り、このような忘れたい汚点や瑕疵は付き物である。
奸智に長けた者は他者の弱点を暴きだして、そこを衝く。

 小泉政権批判を緩めない植草氏に、謀略勢力は98年のそのできごと
をベースにして、植草氏を破廉恥罪の常習者としてイメージ付けすること
を思いついた。その結果が2004年の品川駅構内における手鏡事件なの
である。いうまでもなくこの事件は完全な冤罪である。この時のマスメディ
アの偏頗報道はまさに常軌を逸していた。一方的に植草氏を貶め、ミラ
ーマンなどというあだ名まで付けて彼の誹謗中傷報道を大々的に行った。

 そして冒頭に説明したように、法廷闘争で自身の無実を証明しようとし
たが、裁判官がまったく公平性を担保しない状況があったので、植草氏
は控訴を断念し、地道に名誉回復をやっていくことに腹を決めた。しかし、
警察と司法の不正義を目の当たりにした植草氏は落ち込み、意気消沈し
ていた。そこを山崎行太郎先生が植草氏の背中を押したのである。再び
息を吹き返した植草氏は講演活動や大学での授業に勤しんだ。その傍
ら、小泉政権に対する批判は以前よりも容赦ない厳しさを持ち、政権担
当者たちの心胆を寒くさせたのである。

  やむなく策謀者たちは第二の偽装逮捕を画策したのである。それが今
年、9月13日の京浜急行電車内の痴漢容疑であった。これもさんざん説
明してきたが、偽装逮捕(冤罪)の可能性が極めて濃い事件である。植
草氏に常習的に内在するかのような性癖論を固定化するためには非常
に都合が良い仕掛けであった。すなわち今回も痴漢という破廉恥罪を植
草氏に被せれば、三回目という連続性が発生する。相手の女子高生は
未成年であるがゆえに、その正体に関する情報は徹底的に保護されて
いる。報道は品川駅での一件と同様に、植草氏の弁明がないままに一
方的な垂れ流しと化している。

  策謀側は完全に思い通りに植草教授打倒プランを実行したかのように
思えた。しかし、彼らにとっては思いがけない計画外のファクターが生
じてきたのである。それがインターネットにおける冤罪疑惑、及び国策捜
査疑惑の出現であった。これによって、彼らは植草氏の言論活動を何と
しても封じたいと、いっそうの思いを強めたはずである。しかし、彼らは今、
明らかに一つの重大なディレンマに向かい合っている。このまま勾留を長
引かせれば、植草氏の勾留理由が証拠隠滅や逃亡の惧れにはないこ
とが明白になってくる。当然ながら、世間の耳目は勾留延長の理由を考
えるだろう。そして、噂どおり、りそなインサイダー取引疑惑の詳細や、
国策捜査そのものに目が向いてくる。

 すでにネットではそういう見解が増え始めているのである。しかし、植草
氏を釈放すれば、植草氏自身の口から前政権の諸悪が暴露されかねな
い。彼らは、植草氏の釈放も出来ないが、勾留延長理由もすでに消えて
いるというディレンマを抱えてしまった。何度も言うが、彼らがこのディレン
マを抜ける唯一の方策は、彼らが植草氏の息の根を止めることである。

 参考図書 :  「小林秀雄とベルクソン」山崎行太郎(彩流社)


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奇妙な符合◆なぜ今?

  ◎植草氏のいる東京拘置所で、なぜ今検閲強化?

**********************************************

ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061209i201.htm

塀の中から被害者周辺に脅迫状、検閲素通り…服役の男

 暴力行為の疑いで逮捕された男が、拘置中に被害者周辺の住民に
脅迫の手紙を送り付けたとして、栃木県警に脅迫容疑で逮捕されてい
たことが8日わかった。

 少なくとも23通が、拘置所と刑務所の検閲をくぐり抜けて送られてい
たことがわかっており、検閲が不十分だった可能性が高い。男は、栃
木県大田原市の黒羽刑務所に服役していた岡三男受刑者(54)。

 調べによると、岡受刑者は2003年2月、近くの工場に「音がうるさい」
と農機具を持って押し掛けたとして暴力行為の疑いで逮捕され、公判中

の04年5月ごろ、拘置されていた東京拘置所(東京都葛飾区)から工場
周辺の住民に「オレをチクッた(密告した)あんたたちを許さない」などと
書いた手紙を送り脅迫した疑い。那須烏山署に被害届が出され、今月4
日、逮捕された。

 同拘置所から送った脅迫の手紙は20通以上にのぼり、刑が確定して
黒羽刑務所に移った後の今年6~7月ごろにも、「永い間蔑視(べっし)し
て呉(く)れた礼は100倍にして返す」「問答無用で攻撃する」などと書い
た手紙を少なくとも3通送っていたとみられている。

 法務省によると、被告や受刑者が拘置所や刑務所から手紙を出す際
には、検閲担当の書信係と上司が2重にチェックする。検閲の具体的な

基準はないものの、逃走をほのめかしたり、脅迫を意味したりする文面
が対象となっており、同省は「問題のある手紙を発信することは制度上
ないはず」としている。

 東京拘置所は「被害者には申し訳ない。きちんと検閲するよう指導し
たい」と陳謝。黒羽刑務所も「見過ごしたかもしれない。事実関係を調
査し、検閲を徹底したい」としている。

 岡受刑者は、別の暴力事件で執行猶予中だった03年2月、栃木県
警烏山署(現・那須烏山署)に暴力行為容疑で逮捕され、服役。今月
18日に出所予定だった。

       (2006年12月9日3時10分  読売新聞)

*********************************************

 暴力事件容疑の男が、拘置所の中から被害者に脅迫の手紙を送って
いたかどで逮捕された。ところが、実際にその脅迫状が送られたのは、
なんと今から2年半も前のことだというのだ。

 その拘置所とは、今、植草一秀氏の公判が始まって、注目度を浴びて
いる東京拘置所なのである。現在、彼はまだそこに勾留中である。

 服役男の脅し文面が、拘置所の検閲を素通りして被害者に送られてし
まったのが、今から二年半も前の2004年の5月頃、公判中のできごとで
あった。その男が逮捕されたのは植草氏の初公判日である12月6日の
わずか二日前の12月4日である。

 この件は植草氏と決して無関係ではない。むしろ、植草氏の保釈停止
と大いに関係がある話ではないだろうか。今頃になって、二年前の脅迫
状を出した事件を出してきて、拘置所の検閲を厳格化するというのは奇
妙な話である。この検閲体制の強化は、明らかに植草氏からの情報遮
断を目的としているのだろう。植草氏は都条例違反という、いわば微罪
の疑いによって不当な長期勾留を受けている。

 彼を嵌めた者たちが、どうしても彼の言動を封じたい場合、取り敢えず
は物理的な身柄拘束を行って彼の言論活動を封じ込めるだろう。しかし、
二度の保釈却下は検察側にとってはもう限界だろう。この次も保釈却下
を裁定することは、確実に世論の不審を買い、その不条理性を浮かび上
がらせることになるはずである。植草氏を出したくない。しかし、勾留延長
の理由がなくなる。

 すると何が考えられるだろうか。やっぱり、私は偽装自殺、すなわち植
草氏の謀殺の危険が高まってくると思わざるを得ない。あとは考えたくな
いことだが、薬物や拷問で植草氏の精神を破壊することだろうか。

 検察やその上が、植草氏の釈放を嫌う理由は一つしかない。彼に発
表して欲しくないことがあるのである。これは確実にわかったと思う。ここ
までくると、植草氏の件は、完全に国策捜査を傍証していると考えて間
違いない。


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2006年12月 9日 (土)

保釈取り消し二度目の意味

  植草元教授の保釈停止 地検の抗告を受け東京地裁

 東京地裁は8日午後、東京都迷惑防止条例違反(痴漢)罪に
問われた元名古屋商科大大学院客員教授植草一秀被告(45)
の保釈について、東京地検の抗告を受け、執行を停止する決定
をした。

 同日、保釈保証金600万円で保釈を認める決定をしていた。

(共同)
(2006年12月08日 17時36分

  何としても植草氏を封じてしまいたいらしい。しかも、他の反小泉構造
改革を唱える有識者たちへの徹底的な見せしめの意味合いがあるのだ
ろう。この状況は、司法が権力者の手に握られているということである。

 国民は植草氏のこの状況を単なる都条例違反の次元で見てはならな
い。背景には我が国の国柄を破壊するアメリカ、及びそれに追従する
媚米勢力の横暴がある。従って、植草氏の問題を他山の石として看過
していると、日本はとんでもない圧制の社会に成り下がる。共謀罪法案
成立への意志がそれを物語っている。この法案は煎じ詰めて言えば、
あらゆる政府批判を封じ込めるということである。つまり、植草一秀氏の
ような救国意志のある識者を血祭りに上げることで、言論の完全封鎖を
目論んでいるのである。

 国民は知っているだろうか。今から22年前の1984年は、所得の上層
20%と、所得の下層20%の合計額の差が13倍だった。それが2002年
には、その差が何と168倍になっているのだ。わずか18年の間である。
(内橋克人「悪夢のサイクル」より)

 つまり、これだけの格差分極社会に移行している現実にありながら、
今、何が起きつつあるのかと言えば、所得上層の少数階層が、絶対
支配権を確立するために、警察権力と司法の掌握に取り掛かってい
るのである。国家構造的な言い方をするなら、これはレーガノミックス
を参考にした中曽根政権から始まって、小泉政権を頂点とする新自
由主義経済体制への盲目的な移行政策が招来したことなのである。
新自由主義社会はある時間を経て遷移し、やがては極相として夜警
国家に変わるのである。警察国家である。この意味がわかるだろうか。
警察や司法が一部の特権階級に掌握されてしまう社会が到来すると
いうことにほかならない。

 それを象徴しているのが、万民の利益や幸福を願う植草氏の言論
封じなのである。従って、植草氏の理不尽な逮捕・勾留をこのまま放
置すると、国民自身も最悪の統制社会に置かれることになる。   

 今ならまだ間に合うのである。警察にも司法にもまだ良心は残って
いる。国民が声を上げればまだ修正可能である。だからこそ、植草氏
を放置しないで欲しい。彼は明らかに国策捜査によって身柄を拘束さ
れているのである。これが一般国民レベルに波及しないように植草一
秀氏は何としても救援しなければならない。皆さんには、明日はわが
身のこととして植草事件を考えて欲しい。


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2006年12月 8日 (金)

保釈決定!地裁はどう出る?

    痴漢行為:植草被告に保釈決定 検察側は抗告

 電車内で女子高生に痴漢行為をしたとして東京都迷惑防止条例違反
に問われ公判中の元大学院教授、植草一秀被告(45)について、東京
地裁は8日、保釈を認める決定を出した。保釈保証金は600万円。これ
に対し、検察側は決定を不服として同日抗告した。

        (毎日新聞 2006年12月8日 12時32分)




  植草一秀氏の保釈が決定したが、検察がそれに対してまた抗告した。
これに対して地裁はどういう決定を下すのだろうか。

 植草氏の不当勾留は今日でもう86日目である。このような異常な状態
で、もし地裁が検察の抗告を認めて勾留が延長されるようなら、明らか
に司法も検察も狂っているとしか言いようがない。もしそうなったら、今
回の植草事件が確実に国策捜査の様相を帯びてくることを世間に知ら
せるようなものである。

 そこまでしても、植草氏にしゃべらせたくないことがあるのかと。さて、
地裁の判定はどう出るのか。


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ハルシオン混入の可能性か?

 9月13日、京急電車内の痴漢容疑で逮捕された植草氏に関する初期
報道で、私はいまだに合点が行かないことがずっとあった。しかし、最
近、知人と話していて、電車内での植草氏の行動について、今まで考
えたこともない別種の推測が湧いてきた。

 それはあくまでも推測なので、真偽のほどはもちろんわからないのだ
が、あり得るかもしれないと考えている。

 知人は言っていた。今回の植草氏の事件で、植草氏は”覚えていな
い”と言った。警察が捕まえた時には、ひどく酔っていた状態だったらし
いこと、加えて、品川駅で飲んでいたのに、タクシーを使わないで、わざ
わざ電車に乗ることを選んだということは、要するに植草氏はその時
点で通常の判断力が働いていなかったのではないのかと思わせる行
動様態ではなかったのかと。これらを考えると、植草氏はハルシオンを
酒に混ぜられて、それを飲んでしまったという可能性を強く疑ってしまう
と。

 知人の推測を見ると、植草氏がハルシオンという睡眠導入剤をどこか
で盛られた可能性は否定できないと思う。私も十年ほど前のことだが、
アルコールを飲んだあとでうっかりハルシオンを飲み、数時間の記憶が
陥没した経験がある。

 植草氏の深い酩酊状態が、深酒の可能性ももちろんあるが、もし、ア
ルコールと一緒にハルシオンという薬物を摂取していたなら、その酩酊
は通常飲酒の酩酊とはかなり様子が違っていたかもしれない。電車内
で記憶の断裂、あるいは亡失を招いた可能性がある。つまり、植草氏
の意識に、眠気を誘う深酔いとは別種の、強度の薬理作用が生じてい
た可能性があるのである。

 そう考えれば、今回の植草氏の「覚えてない」発言は真実味を帯びて
くるし、12月6日の意見陳述の冒頭にあった植草氏の激しい酩酊状態
の意味も見えてくる。つまり、本当に電車内のことは覚えていなかった
可能性がある。常識的に見て、我々は、覚えていないくらいの酩酊と
いえば、それは睡魔に襲われていたからだろうと考える。しかし、ハル
シオンとアルコールの同時摂取による複合作用の場合は、身体的に
は歩いて行動できるが、通常の認識力がなく、夢遊病的な意識の混迷
を招きながらも行動はできるということではないのか。そして、結果と
しては、その行動においての記憶が欠落するということになる。

 その辺のことは専門家に聞かなければわからないことではあるが、少
なくとも、通常の酩酊からは逸脱していたように思うのである。しかし、
薬物混入がもし事実だとすれば、植草氏はとんでもない用意周到さで
犯罪者に仕立てられたとも言える。最悪の犯罪偽装である。正直言っ
て、ここまでやるのかという思いである。奸佞邪智(かんねいじゃち)の
きわみとはこういうことを言うのだろう。

 私は何度でも言うが、植草氏の場合は自殺偽装まで視野に取り込ま
れた国策捜査であると確信している。「国家の罠」を書いた佐藤優氏に
よれば、検察には国策捜査の犠牲者に対する礼儀があるらしい。それ
は、国策捜査では狙った人物の人生を完全に奪うようなことはしないと
書いている。再起の可能性を残しておいてやるそうである。従って、国
策捜査の目的は、逮捕事実が最も大きなニュースで、初公判はそこそ
この大きさで扱われるが、判決は小さな扱いだそうである。

 植草氏の場合はそれには当てはまらない気がする。彼の場合は、そ
の人生を奪われるどころか、肉体的な生命までも狙われているように思
えてならない。もし、薬剤を混入してまでも、今回の痴漢偽装犯罪を成
功させるという意志が働いていたとするなら、これを計画した者に対し
て戦慄の思いが走る。


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2006年12月 7日 (木)

裁きの庭、腰縄凄愴!

 12月6日、植草一秀氏の第一回公判が開かれた。以下は公判を傍聴
した人の書き込みである。

 法廷で見た、植草さんは廷吏に前後を挟まれ、手錠に腰縄で出てきた。
ノーネクタイにグレーの背広だった。 事前知識で知ってはいたが、やは
り実際に見るとショックだ。


http://www.asyura2.com/0610/senkyo28/msg/934.html 
 より抜粋)

 
 腰紐は罪人の象徴である。私はこの目撃談を聞いて、重い十字架を肩
に背負い、ゴルゴダの丘を、刑場に向かってよろめきながら進んでいくキ
リストを思い浮かべた。当然ながら、植草さんを人類の救世主となぞらえ
ているわけではないのだが、正直に言って感情を深く揺すぶられる痛々
しい光景である。キリストは全人類の原罪をみずから背負い、磔刑につ
いた。

 植草さんは日本民族の良心を代弁して腰縄に引きずられた。やつれ果
てた姿で。なぜ、このような凄愴無残な風景が、我が国の裁きの庭に現
出されるのであろうか。植草氏やそのご家族がなぜこのようなむごい目
に遭わねばならないのだろうか。

 彼は人間として、まっすぐすぎるほどまっすぐである。その凛々とした性
格のために、前政権の国を売る政策を黙視することは到底出来なかった。
国家の行く末を心から思う植草氏は、舌鋒鋭く前政権の政策の誤りを指
摘し、何度でもその軌道修正を促し続けた。それに加えて、りそな銀行の
実質国有化までの一連の動きに、政府金融庁筋によるインサイダー疑惑
を感じ取っている。彼は、宮崎学氏のネット論壇「直言」やその他でこの
インサイダー疑惑を展開し始めていた。その矢先に痴漢疑惑で逮捕され、
本人の抗弁もないままに徹底的な報道被害を浴び続けている。

 この流れは前回の品川駅における手鏡事件でも、基本的には同様で
あった。ここに、政府がらみの陰惨きわまる作為性が見受けられ、植草
氏は明らかに国策による逮捕・勾留の冤罪を受けているのである。今回
公判で初めて明らかになったことだが、植草氏は「意見陳述書」で、次の
ように自殺未遂のことを述べている。

 私は、「このままでは私が犯人にされてしまう。そうなればマス・メディア
は無責任で一方的な情報を土石流のように氾濫させ、家族が想像を絶
する報道被害に直面する。あげくの果てに有罪にされてしまうかもしれ
ない。家族の報道被害を最小に食い止めて家族を守るには、いま私が
命を絶ち、すべてを遮断するしかない。命を絶つとすればそのタイミング
は今しかない」ととっさに判断し、駅員が外側を見ているすきに、ネクタ
イをはずして、そのネクタイで自分の首を絞めて自殺をはかりました

 なんというむごい話だろうか。これはドラマではない。現実である。報道
のとおり、まだ植草さんを疑っている方々には、この自殺の決意を是非汲
み取ってもらいたいと思う。彼はご家族を心から愛している。だから、自ら
の死を賭して、ご家族を報道被害の洪水から防ごうとしたのである。それ
でもあなた方は彼の性癖を疑うのだろうか。彼が自死を決意した時、品
川で冤罪に嵌められた時の経緯が瞬時に思い出されたに違いない。そ
の時、彼の脳裏を占めたのは自らの将来ではない、愛する家族の名誉
だったと思う。涙を禁じえない。

 しかし、私はこの時の植草さんには天佑神助が働いたことを感じ取る。
よくぞ助かってくれたと、今はしみじみと思うのである。この人物は、まだ
まだ生き抜いてもらい、我が祖国と我が民族のために、その持てる偉大
な力を振ってもらわなければならない。日本の未来を拓く極めて尊い人
材なのである。私は以前、9月24日に、このブログで「植草一秀氏は今、
謀殺の危機に晒されている
」を書いている。その時、この心配が杞憂だ
ったら私を嘲笑えと書いたが、今はその勘が正しかったことを感じてい
る。私は、なぜか彼が死の瀬戸際にいることを知覚していたのだ。不思
議なことに、小野寺光一氏と私はほとんど同時期に謀殺の危機を訴えて
いる。

 みなさんに言いたいことがある。彼は自死を決行しようとしたが、半ば
で制止させられた。ここに不思議な力は働いたと思う。しかし、この植草
事件を報道のとおりに受け止め、彼の性癖に眉をひそめ続けていると、植
草さんには、第二、第三の死の危機がまた必ず訪れる。彼を罠にかけた
者たちは、本心では明らかに彼の死を望んでいる。まだ安心はできない。
彼が絶望して自殺を試みてもけっして不思議ではない状況はまだ続いて
いる。つまり、彼を陥れた悪意が、この状況を利用して、「自死偽装」とい
う謀殺を仕掛ける可能性はまだ消えていない。だから、彼の無罪を信じ
てあげて欲しい。彼は無罪なのだ。


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植草さんの意見陳述書

 (これは「植草一秀氏を応援するブログ」さんからお借りしています)

   意見陳述書

           
           平成18年12月6日

           東京地方裁判所刑事第2部 御中

    被 告 人  植  草  一  秀


 私は、平成18年9月13日夜、ある宴席に出席し、その場での特別な
事情もあり、お酒を大量に飲みました。その結果、しばらくして強烈な睡魔
に襲われる酒酔いの状況に陥り、このことが私が今回の事件に巻き込ま
れる一因になりました。その結果として、これまで私を支援してきて下さっ
た多くの皆様に多大なご迷惑をおかけしてしまうことになり、この点につい
ては大変申し訳なく思っておりますと同時に、お酒を飲み過ぎたことを深く
反省しております。

 強い睡魔に襲われる酒酔い状態にあったために、私が本来帰宅する方
向とは逆方向に向かう電車に乗ってしまいました。電車に乗り込む際は、
逆方向に向かう電車であることに気付いたのですが、反対ホームに行く
のは面倒だと思い、そのまま電車に乗ってしまいました。
 それでもその後に、やはり降りようかと思った瞬間にドアが閉まり電車
が発車してしまいました。

 自分が乗ってきたドアの方向に向かい眠ったような状態で立っていたと
ころ、少しして少し大きめの声が聞こえたので目を開けましたら、私の前方
の少し離れた所にいた女性が、その女性がそれまで立っていた位置を左
回りに振り返りながら、私の右斜め前方、1~1.5メートルほど離れた場所
に移動しながら、「子供がいるのに」といったことを言うのを目撃しました。

 私は「痴漢騒ぎかもしれない」と感じて、「絶対に関わり合いになりたくな
い」と思い、少し右を向いて、元の姿勢のまま目をつぶって立っておりまし
た。
 それから20~30秒ほどした時に突然私は左側とうしろ側を誰かに強く
掴まれました。自分が犯人に間違われたと思い、がく然としましたが、自
分が人によく知られている身でしたので、ここで騒ぎにしたくないと思い、
大きな声も出さずに駅に到着するのを待ちました。

 駅に着いたら、女性に事情を聞き、私が無関係であることを理解しても
らわなければならないと思っていました。

 駅について、当然その女性と話ができると思っておりましたが、おそらく
二人だったと思うのですが、私を掴んだ人たちが強烈な力で私を押さえつ
けて、事務室の方向へ連れて行きました。途中で私は何度も「女性と話を
させてくれ」と言いましたが無視され、上半身が全く身動き出来ないような
強烈な力で押さえられ、駅事務室の左側の小さな部屋に私一人だけが、
連れてゆかれました。

 11月10日過ぎに受け取った検察官開示記録によると、私を掴んだ人
達は事件を目撃していない二人の民間人の男性であったとのことですが、
それならばなぜ、私が女性と話をしようとするのを力づくで阻止し、私一
人だけを女性とは別の事務室に連れていったのか、非常に不自然であ
るとの思いを拭えません。

 事務室の入り口の所に体格の大きめな駅員がおりましたので、「とにか
く女性と話をさせてくれ」と告げて事務室を出ようとしたところ、その駅員
に制止されました。激しくもみ合った末に結局阻止され私は椅子に座りま
した。
 私は、「このままでは私が犯人にされてしまう。そうなればマス・メディア
は無責任で一方的な情報を土石流のように氾濫させ、家族が想像を絶す
る報道被害に直面する。あげくの果てに有罪にされてしまうかもしれない。
家族の報道被害を最小に食い止めて家族を守るには、いま私が命を絶ち、
すべてを遮断するしかない。命を絶つとすればそのタイミングは今しかな
い」ととっさに判断し、駅員が外側を見ているすきに、ネクタイをはずして、
そのネクタイで自分の首を絞めて自殺をはかりました。

 ところが、その途中で駅員が気付き、力づくで阻止されました。私は放
心状態に陥りましたが、まもなく警察官が来て、事件については何も聞か
れることなく、警察署に連れていかれました。事件について私は当初より
一貫して無実を主張して現在に至っております。

 その後のマス・メディア報道においては、テレビ番組においても、タレン
トや弁護士の立場にある者までもが、未決収容者にある私をあたかも確
定者であるかの如くに扱う発言を繰り返すことが放置され、また週刊誌な
ども私が過去に痴漢事件で何度も示談をしたことがあるなどの事実無根
の情報を流布するなどの状況が放置されております。私が懸念した報道
被害は現実に生じております。

 検察官は、「否認を続ければ、裁判で私生活を攻撃して家族を徹底的
に苦しめてやる」と学校等でのいじめを意図的に誘発するとも受け取れ
る発言を繰り返し、また警察官は、「否認して裁判になれば必ずマスコミ
のえじきになる」、「否認すれば長期の勾留となり小菅に移送される」と
繰り返し述べ、罪を認めることを迫り続けました。

 現実に現在私は長期間勾留され、また私が営んでおります事業の顧
客データも押収されているため、私の経営している零細な事業にも重大
な支障が生じております。

 それでも私は、自らの誇りと人間としての尊厳に鑑みて、事実に反して
罪を認めることはできないと考え、無実の主張を貫いて現在に至っており
ます。
 裁判所におかれましては、予断・偏見を持たれることなく、被告事件に
ついて、適正な手続に基づいて真相を究明し、関係法令の適正な運用に
基づき正しい判決を下されますよう強くお願い申し上げます。

以 上


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2006年12月 3日 (日)

日の丸を忘れた社会

Photo  

 私はこのブログで何度か言っているが、植草一秀さんという人物が、
個人の力では太刀打ちできない大きな力によって、心ならずも幽閉の
身に置かれていることを真剣に憂いている。

 今の時代において、植草さんの不当逮捕・不当勾留が何を意味して
いるかと言うならば、それは戦後日本が行き着くところまで来てしまっ
たということにある。戦後、GHQが現行憲法という孵化装置を設置し、
そこへ置いたニヒリズムの卵が孵化し、立派な成虫に化したというこ
とである。そのニヒリズムは小泉政権という政治に完璧に反映されて
しまった。その動きに、日本人の良心から立派に対抗した植草さんが
権力構造に狙われたというのが真相である。

 今、教育問題やいじめ問題、それに関わる自殺問題が突出して問題
視されている。いじめや自殺は、何も今に始まったことではなく、かなり
長いこと続いている。マスコミや知識人たちは、社会教育が悪いからだ
とか、親が悪いからだとか、教育指針が崩壊しているからだとかいろい
ろともっともなことを言う。しかし、根本原因を指摘するものは誰もいない。

 現今日本人の倫理の退落、道徳観の欠如。この原因は言葉で言え
ば非常に簡単である。あまりにも単純すぎるがゆえに誰も気が付かな
い。それは日本人が「日の丸」の歌を忘れているからである。私が小
学校に入った時、学校でよく歌わされていた歌に次の歌がある。

  白地に赤く
 日の丸染めて
 ああ美しい
 日本の旗は

 
 私は単純な旋律と単純な歌詞のこの歌が大好きだった。この歌は
いつの間にか聴くことがなくなってしまった。大人たちは皆、立派な
教育論を一家言のように持ち、機会あることにそれを滔々と披瀝す
る。しかし、それは人権感覚や個性尊重という自我拡張意識を、教
育論という衣にくるんで、自己慰撫、自己確認をしているだけの話
であり、教育にも、社会貢献にも何の役にも立たない衒学である。

 子供に最も必要なものは、祖国愛の情緒的、直感的な基本概念
であり、それは郷土を誇り、親を誇り、国家を誇るということである。
その感覚は親が教え、学校が教える基本である。その重要な徳育
の基本が欠落した戦後日本は、現在の虚無的感性の日本人を量産
してしまったのである。戦後社会は大人が率先して国家を卑しめてき
た。それは大東亜戦争への贖罪史観というものに帰着することであ
ると大人は思い込んでいるが、子供はそれを受け入れることはでき
ない。

 当たり前だろう。自己の存在理由の重要な核を為す国家の威厳を
信じられない教育など、生きる気力を奪う方向性しか持たないに決ま
っているからである。大人が、先祖の行動規範やそこから発現した行
為を全否定する認識の下で、どうやって子供たちの徳育教育を行うと
いうのであろうか。

 たとえば、国家観なき地球市民のような漠然とした無国籍感覚で、
子供たちの育成は不可能である。 その不可能を文字通りやり続けた
結果が今の極限的な荒廃である。

 西村眞悟氏は日本人には歴史の背骨(せぼね)が欠落していると
言っている。歴史の背骨とは日の丸であり、日の丸とは日本人の霊的
な存在理由である。これを砂地のような心を持つ子供に染み込ませな
いで教育は不可能であると考える。教育には次の単純な徳目を教える
だけで充分である。

父母に孝養
兄弟愛と友愛
夫婦の和合
朋友への信頼
謙遜の美徳
博愛
修学習業
智能啓発
徳器成就
公益世務
遵法精神
義勇

 この徳目羅列を見ても全部当たり前のことがらである。この当たり
前のことがらが、学校でも、家庭でも、社会でも生かされていない。こ
の当たり前の徳目が何であるか、わかる大人がどれくらいいるのだろ
うか。以前の日本では当たり前の教育勅語である。教育勅語のシン
ボルが「日の丸」なのである。現代教育論には決定的な芯が欠けて
いる。芯がないからそれは有害でさえある。なぜなら「日の丸」が存
在しないからである。

 植草さんの話に戻るが、彼の訴える政策論をよく眺めて欲しい。そう
すれば、彼の経済政策論が、上の徳目によく合致していることを知るだ
ろう。そうなのである。彼の言っていることは、「世を経(おさ)め、民を済
(すく)う」経世済民思想にほかならない。植草さんは本来の日本人の真
面目さ、心根の優しさを基調精神に持つ人であることがわかる。従って、
彼は、己の救国信条に従って舌鋒鋭く小泉政権批判を行った。その結
果、日本破壊を推進するアメリカと売国奴たちに憎まれてしまったので
ある。彼が小泉政権を痛烈に批判したのは、上の12の徳目のうち、「一
旦緩急アレハ義勇公に奉シ」を地で行ったからにほかならない。今の
日本は、経済的に大東亜戦争開戦前と同じ危急存亡の状況にある。
ただ、国民がそれに気が付かないだけである。

 彼の政権批判は、やむにやまれぬ大和心のなぜるわざなのである。
日本人であろうとするなら、植草さんを救うことがどれほど重要かわか
るはずである。

 「美しい国」を連呼する安倍が、美しい国を実践しようとする植草
さんを幽閉するのか。こんな馬鹿なことがあってたまるか。


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2006年12月 2日 (土)

植草氏はシロ

 雑談日記(徒然なるままに、。)管理人のSOBAさんが、家のシロをバ
ナーに使ってくれたのでありがたいと思っている。

 シロは名前の通り、混じりっ気のない白ネコである。シロが植草氏の
不当な国策逮捕の象徴としてネットに出回るのは大歓迎である。植草
氏は間違いなく無罪潔白、シロである。

植草氏の公判情報がSOBAさんのブログに出ているので、傍聴希望の
方は参照していただきたい。もし、首尾よく傍聴できたら、女子高生及び
官憲側の証人が何を言うか、全体の印象を含めて注意深く聴きとって欲
しい。

 http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2006/12/post_01ff.html

Vfsh0164 

Vfsh0264

Vfsh0327


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2006年11月30日 (木)

乱心か中興か。平沼赳夫氏

 平沼赳夫議員が、草野仁が仕切る午後のワイドショーに生出演してい
た。

 12名の復党願いを出した議員のうち、平沼氏を除いた11名は復党を認
められる公算が強くなった。しかし、平沼氏だけは中川幹事長が要求す
る誓約書の提出を頑固として拒否し、復党を断念している。11名につい
ては、毒蛇山荘日記で山崎行太郎先生が書かれていたように、私もとん
でもない奴らだと思う。彼らは、政治家である前に人間の振る舞いとして
言語道断である。

 何名かの記者会見を見たが、私は嘔吐感を抑えることができなかった。
なんという醜悪なたたずまいであろうか。これを若い人や小学生が見た
と思うと暗澹たる思いを禁じえない。安倍よ、こんなことを黙認しておい
て何が教育再生だ。復党を考えた議員のひもじさはわからないでもない。
彼らが安倍総理に愛着を持つことも構わない。問題は政治思想の貫徹
性にこそある。おまえら、郵政民営化の売国政策に反対したから出た
んだろう。それを翻すのか?そんな生き方をして恥ずかしくはないのか。


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 小泉・竹中が行った郵政民営化は売国所業であるというのが造反議
員たちの「造反」理由だったはずだ。それを、完全に翻し、賛意をあらわ
す屈辱的な誓約をして復党することは、悪魔に魂を売り渡すということ
である。11名は、日本人として許しがたい先祖毀損である。

 平沼赳夫氏に関しては、私は山崎先生とは少しばかり見解が異なる。
平沼氏はテレビで、郵政民営化に反対した理由を次の三つに要約して
述べていた。

 1)あの法案成立に向けて、党議手続きの一方的な強引さが民主政治
   の枠をはみ出していること

 2)小泉・竹中が主導した郵政民営化法案はアメリカの「年次改革要望
   書」に従って行われたアメリカ利益のための改革であること
  
 3)郵便サービス業務の偏在化。地域格差が助長されることは明らか

 平沼氏は国会議員である。国会議員たるもの、国賊宰相が主導して決
めた法案であっても、衆参両院で結果的に可決されてしまった法案には
従わざるを得ないという苦しい胸のうちを説明した。私も含めてこう思うだ
ろう。ならば、最初から復党意志など示すなと。

 ここである。私が平沼赳夫氏の腹のうちを見抜いたのは。彼はそういう
ことがわからずに行動するような愚かな男ではない。そういう行動を敢え
て起こすにはそれなりの思惑が腹にあるからである。平沼氏の不可解な
出来事を見抜くキーワードは、安倍晋三首相その人である。言い方は悪
いが、私は安倍晋三という男は、ロバの心を持った宰相であると見てい
る。つまり、実直で真面目ではあるが、透徹した強靭な意志力がないた
めに周囲の奸臣に感化され易い。国家主導者には不向きである。

 それを百も承知の平沼氏は、国家のために何としても中川秀直主導を
切り崩す必要を感じた。理由は郵政民営化政策施行時の「国富流失」を
防御するためである。このまま進むと、来年から郵政資金がハゲタカの
舞う市場へ開放される。アメリカ系外資が日本国富の収奪に入るので
ある。すなわち、平沼氏も中川秀直幹事長も、ことの本質が(2)の「年
次改革要望書による郵政民営化」ということに収斂している。同じもの
を胸に置き、両者、まったく対蹠的な立場から動いているのである。そ
れが今度の復党騒動の本質である。

 復党問題は、国家存亡の国益をかけた戦いの中で起きたことである。
平沼氏は他の国賊的復党派のまとめ役として、自らがリーダー役とな
り復党連中をまとめた。腐った連中のまとめ役だから、やりたくはなか
っただろう。反感を買う覚悟で臨んだ平沼氏の今回の復党行動は、明
らかに世論喚起のためであろう。それは現政権を掌握する中川秀直や
世耕弘成ら、旧売国政権の置き土産となった連中の力を殺がなけれ
ば郵政資金の流失に歯止めが利かないからである。

 そのためには、中川秀直が頑強に繰り返す「筋論」の筋が、実は売
国法案実施に向けての筋であることを万人に知らせることである。最初
から無理な復党を希求し、腐った仲間には踏み絵を踏ませておいて、
自らは断固としてそれを忌避する。この一連の無意味とも言える行動
の裏に、中川筋論の本質を国民に叩きつけたのである。それが彼の
口から出た「年次改革要望書」の存在である。平沼氏が、見た目には
愚かなこの芝居を打って出たことによって、忘れかけた郵政民営化問
題が再び世間の耳目を浴びたのである。

 平沼氏の性格を知り、彼を愛国者として評価する人間は、彼の本心
を見抜くべきである。彼の本心は郵政民営化の実際的な始動に対して
防御策を講じろと、自民党と国民に訴えているのである。国民も昨年と
は違って、小泉が郵政法案以外にはまったく関心のなかったことに今
は疑念を抱いている。その理由が年次改革要望書にあったことにはた
と気が付くはずである。

 中川秀直の動きが、売国政策の完全実施にあることはすでに明らか
である。安倍はこれを阻止する気がない。マスコミもアメリカ隷従である。
亀井静香氏や小林興起氏が郵政法案実施の危険性を訴えたくとも、マ
スコミは絶対にそれを報道しない。窮余の策として、平沼氏は敢えて中
川秀直と対峙することによって、郵政法案の異常性を国民に提起した
のである。昔の仲間に誓約書を書かせるという意味は、安倍自民党は、
いまだに郵政民営化が最重要課題なのである。売国奴たちは郵政資
金が完全に食われてしまうまで見届ける魂胆であろう。

 平沼氏の行動は私利私欲ではない。明らかに中興の計画であったと
私は思っている。愚かな方法ではあったが、これ以外に取るべき道は
なかったのだろう。それほど日本はアメリカに牛耳られているということ
である。それにしても、野田聖子らの行動様式はひどい。飯がまずくな
る。三島由紀夫が生きていたら「行動学入門」に、松尾敬宇中佐の対
極として、こいつらの醜悪な行状を書いたかもしれない。

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2006年11月27日 (月)

植草事件は国家の行く末にかかわる問題

 今年の913日に植草一秀氏は、京浜急行電車内において痴漢容疑
で逮捕され、それ以来、現在(1126日)までに70日を越えてもなお勾
留は継続されている。植草氏は二年前にも、品川駅構内において手鏡
を使用したと言われる破廉恥罪容疑で逮捕されている。

 最初に、植草事件に対する私の立場を明確に申し上げておこう。植草
一秀氏は、エコノミストとして、その秀逸な分析能力と類まれなる洞察力
で、小泉構造改革が外資に利益誘導する性格しか持たないことを的確
に見抜き、世間に警鐘を発していた。そのために、構造改革を推進する
勢力や新古典派経済学を志向する権力者たちに睨まれ、非道なことに
国策捜査の罠を仕掛けられてしまったのである。従って、植草一秀氏は
品川の手鏡事件、及び今回の電車内痴漢事件は無実潔白だと私は確
信している。

 無実の人間が、権力者の政策上の都合によって、不当に逮捕・勾留
され、その言論が封殺される現実が進行している。私は、良識ある一国
民として、その現実を絶対に看過できない。

 品川駅の手鏡事件、その後わずか25ヶ月後に起きた、今回9月の
植草氏の痴漢容疑事件は、二つとも、無実の状態で起こったこと、すな
わち濡れ衣を着せられた事件であったと私は確信している。その理由
は二つある。一つは品川駅での事件が不可解な要素に満ちているか
らである。その時の詳しい内容は公判記録を読んでもらいたいが、こ
の事件は、次の二点で非常に強い違和感を覚える。

 まず、逮捕の状況が現行犯逮捕となっているが、それに至るまでの
経緯が常軌を逸した背景を持っていることである。二人の警官は、植
草氏が痴漢をやるだろうという前提で尾行していたという。植草氏には
痴漢常習者という性犯罪の事実がない。それでもなお、尾行してまで
も未然の犯罪を捕捉しようとする意識、そしてその行動形態が異常な
のである。

 もう一つの奇異な点は、品川駅構内に設置してあるモニターに記録
された映像を、植草氏側から求めたにもかかわらず、警察はその決定
的記録映像を忌避し、記録が自動消去されるまで故意に放置したこと
にある。これらの二点を考えてみても、捜査する側の官憲の行動が、
通常の捜査手法にはありえない方向性を持っていることがわかる。従
って、品川駅での植草氏の事件とは、警察二人と背後にいる共同正犯
によって仕組まれた国策捜査の疑いが濃厚なのである。

 そこで、今回の京浜急行電車内における痴漢疑惑であるが、これも、
彼の性癖によって生じたことではなく、警察を動かせるほど大きな力を
持つ勢力によって、捏造された事件であったという可能性が強いので
ある。その理由として、警察発表とマスコミ発表における事件報道が、
植草氏の「性癖」によって連続的に起きたものであるという一方的な決
め付け報道に終始していたからである。

 特に悪質だったのは初期報道である。最初に痴漢犯罪ありきの決め
付け報道ばかりで、植草氏側の発言がほとんどないに等しい極端な偏
頗性を示していた。痴漢という犯罪は冤罪を生みやすい犯罪でもある。
したがって、容疑はあっても、事実確認が確定されるまではマスコミ報
道には抑制をかけるべきである。ところが、実際は一方的に偏った報
道が先行的に流布され、植草氏の名誉はずたずたにされているので
ある。

 マスコミの偏頗な先行報道と警察発表の異常なバイアスの中で、植
草氏の不名誉だけが加速的に広まっている。この形は鈴木宗男氏の
場合と酷似していて、国策捜査のパターンに非常によく合致している。
私は逮捕報道の新聞記事やテレビ報道に不審を抱き、植草氏が逮捕
された翌日の914日から、自分のブログに国策逮捕の疑いを今日ま
で書き連ねている。

  その間、私は植草氏の事件を国策捜査というマクロ的な方向から考
えてきたので、今回、その思考の一端をブログというメディアで世間に
問いかけてきたつもりである。植草氏は今もまだ幽閉の身の上にある。
彼が無実なら、このようなむごい話があっていいはずはない。

 植草氏は無実であると私は確信する。経済政策上における小泉構造
改革路線に対する植草氏の政策批判と、前政権にからんだ巨大な金融
疑惑が今回の逮捕をもたらしたのではないかと私は睨んでいる。その疑
問の整合性を、読者諸氏にも真摯に考えてもらいたいのである。

 植草氏の国策による逮捕が事実であるなら、権力者側は国民には決
して知らせたくない反国益的な政策を志向していることが明らかになる
からである。彼らは絶対に植草氏に語って欲しくないことがあるのであ
る。我々は、それを暴き、間違った方向に進もうとしているこの日本の
航路修正を行う必要がある。

 植草氏の事件を、マクロ的な方向性から掘り下げることによって、国
政を運営する立場の者たちが、日本の未来を消滅させようとした
こと
が白日の下に晒される可能性は非常に大きい。


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中川ノムヒョン・ヒデ、奮闘する

中川ノムヒョン・ヒデちゃんが頑張っているようだ。郵政民営化造反議員
の復党問題で、今、自民党が喧々囂々の騒動になっている。これはいい
傾向である。

 平沼赳夫氏と中川ノムヒョン・ヒデちゃんが一騎打ちみたいなことにな
っているようだ。官邸主導型政治を確立し、小泉・竹中構造改革路線を
内部で支えた人物がヒデちゃんである。ちなみに官邸主導とは「小泉ファ
ッショ」のことである。

 復党を「情」で迎えるべきだと言う一派と、中川ノムヒョン・ヒデちゃんの
ように「筋」論で行くべきだという考えがぶつかり合って火花を散らしてい
るようである。

 党是に従わせることが「筋」なら、ヒデちゃんの構想は、小泉構造改革
路線の一糸乱れぬ踏襲にある。要は、ヒデちゃんの役目は、小泉、竹中、
飯島を継承する大事な役目をおおせつかっていたということになる。

 中川ノムヒョン・ヒデちゃんが郵政民営化に固執して、筋論として、平
沼氏に「党是の絶対服従」を迫っているのは、ヒデちゃんが米国エージェ
ントの総大将の役を担ったからであろう。ノムヒョン・ヒデちゃんが、新総
理・安倍ちゃんのたずなを引いて、対米売国路線をひたすら突っ走ると
いう筋書きなのであろう。ところが、ここに強大なライバルが復党を望ん
だので、計画が狂う恐怖をヒデちゃんは感じている。

 平沼氏の復党は、ヒデちゃんが握っている駄馬・安部ちゃんの首につ
いているヒモが、平沼氏に横取りされてしまうという恐怖である。これは
アメリカが最も忌避することであろう。小泉・竹中はルーカス、フリードマ
ンなどの新古典派の経済構造に日本を切り替えて去っていった。では、
後に残されたノムヒョン・ヒデの役割とは何であろうか。それこそが郵政
資金の番人の役目なのである。

 ノムヒョン・ヒデちゃんは郵政資金を無事にアメリカに流すまで、その
全工程を見届ける義務をおおせつかって張り切っているのである。従
って、平沼氏は日本の国富を守ろうとする最もやっかいな人物なので
あり、何としても駄馬・安倍ちゃんに近づけたくないのだろう。

 竹中は初期には自民党にバッシングされた。しかし、アメリカの肝煎
りで、誰も竹中に異を唱えることが出来なくなった。ノムヒョン・ヒデちゃ
んも、下手に取り扱うと、やがては竹中と同様になって誰も文句を言え
ない状態になる可能性がある。ノムヒョン・ヒデちゃんには麻薬がらみ
の悪い噂も付きまとっているようだし、今のうちに徹底的に叩いておい
た方が得策だろう。

 「ノムヒョン・ヒデ vs 平沼氏」の構図とは、新古典派による売国構
造改革派や増税派と、救国勢力による戦いである。大きく言えば、日
本はケインズ主義から反ケインズ主義(ルーカス、フリードマン、ハイエ
クなど)に構造転換されつつあり、この位相変位の真っ只中、救国勢
力の筆頭として植草一秀氏は国策捜査をかけられたのである。

 駄馬・安倍ちゃんは、駄馬であるが故に、どっちの方向にも走る。従
って、駄馬に必要なものはきちんとたずなを引っ張ってくれる御者なの
である。


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2006年11月25日 (土)

お勧めの本ニ冊

Photo_10


 世の中には、非常に価値が高く、自己の視点を上げ、見識の幅を広げ
る情報でも、なかなか一般に流布しないものがある。皮肉なことにそうい
う高度な価値を有するものほど、商業主義の第一線からは遠のいている
場合がほとんどである。

 最近、私は二冊の本を手にした。この二冊は読み進むに連れて私自身
の心に黎明の光が差し込み、清新な衝撃を受けているところである。本
当に有用な本とは、内容が有用で高度なだけに読んでいて面白い。二
冊とも経済の本であるが、互いに両者に共通するものは、日本民族の幸
福を願う気持ちと、国民が誇り高く生きるサムライスピリットを回復させよ
うとする意気込みに満ちている。

 その本の一冊目は、「日本経済復活の会」の会長さんである小野盛司
氏の「政府貨幣発行で日本経済が甦る」(ナビ出版)である。経済門外漢
の私が読んでも面白いのだから、この本は政治家や経済界の人間だけ
に読ませるものではないと思う。ごく一般の生活者が読むべき本である
と確信する。

 政府貨幣発行の妥当性をさまざなまな角度から正確に論じていて日本
経済の流れが良くわかるようになっている。日本が金不足で喘いでいる
のは、土地本位制による管理通貨制度の欠陥にあり、土地本位制から
の脱却が必要であることから始まって、「死に貨幣」とか「生き貨幣」とか
実に興味深い論考に満ちている。全体を通じて、なぜ政府貨幣の発行が
有効なのかをわかりやすく書いている。

 二冊目は、これも私にとっては衝撃的で新たな視界を開いてくれた本
である。丹羽春喜氏の『謀略の思想「反ケインズ」主義』(展転社)であ
る。この人は、経済を思想戦という観点から描いており、日本人を蚕食
する戦後思想と、反ケインズの勃興、謀略を同位相として捉え、日本人
が独立自尊に目覚めなければ、海外の邪悪な超知性に翻弄されると
言っている。ここに書かれてあることと、ここ15年の日本の推移を比較
すると、日本の経済がどうなっていたか、あるいは今どうなっているの
かが鮮明に見えてくる。この本は経済思想的に観た日本論である。

 これを読めば、売国小泉政権の構造改革や緊縮財政強行という逆噴
射政策の間違いを新たな視点で見ることが出来る。

 紹介した二冊の本は、専門家だけではなく、一般庶民こそ読むべき内
容だと思う。だんとつお勧めの二冊である。こういう情報が、もっと早く世
間に浸透していたなら、小泉や竹中の国家毀損はなかったに違いない。
日本をつぶそうとする勢力が最も忌避している書物であることは間違い
ない。


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2006年11月24日 (金)

米国傀儡政権が、憂国者・植草一秀氏を狙い撃ちした

       滅び行く日本の良心

 米国傀儡政権が憂国者・植草一秀氏
 を狙い撃ちにした

 宮崎学氏編集の「直言」の中で、経済学者の植草一秀氏が次のように
言っている。


重大なことは、ホリエモンが小泉政権の「改革」政策の象徴だったこと
だ。昨年9月11日の「刺客」選挙で小泉政権はホリエモンを全面支援し
た。竹中総務相は「改革は小泉純一郎とホリエモンと竹中平蔵がスクラ
ムを組んでやり遂げます」と絶叫していた。ホリエモンが象徴していた
のは、「弱肉強食」、「拝金主義」、「外資優遇=対米隷属」、「市場原理
主義」、「格差社会」だった。


  小泉純一郎が進めていた構造改革は、植草氏が述べているように拝金
主義、対米隷属、市場原理主義である。この構造改革の本質を一言で言
ってしまえば弱肉強食である。戦後から六十年、この間の日米関係を俯
瞰するとある一つの見方が浮かんでくる。戦後の日本は、時間を経るに
従い、徐々に、あるいは急激に、日本の伝統や心持ち、日本的共同体
の形態を失ってきている。そのことは、戦後の日本人の自覚的な生き方
にその原因を求めることも必要だが、内在的な原因とともに、外在的な
原因も重要な観点である。

 日本人がこれほどまでに精神的な退嬰を起こしてしまった外在的な主
原因とはいったい何か。それはずばり言って米国の対日政策にある。
我々日本人は、東京裁判史観の催眠から目覚めかけた者でも、まさか
米国による日本解体が今も進行中であるなどという意識は持っていない。
しかし、もう本気で日米関係の実態を見定めなければならないだろう。
「年次改革要望書」と言い、BSE問題と言い、昨今の対日政策の変化を
見ると、米国は戦後、長い間行っていた間接的な対日統治をやめ、最近
は直接統治に移行してきた感がある。

 米国による直接日本統治と言うと、そんな馬鹿なと思うかも知れない
が、直接統治の「直接」の証拠は、小泉純一郎と竹中平蔵が核となって
いた前政権なのである。小泉の日本破壊の狂気が何に基づいているの
かはよくわからない。しかし、竹中平蔵の場合は、ハーバード・シンジケ
ートと言われる米国対日謀略機関の尖兵であることは間違いないこと
であり、竹中が主導推進した構造改革や経済改変が、小泉政権の本質
だったと言っても間違いないだろう。

 小泉政権が、日本のための政権ではなく、米国のための政権であった
ことは、さまざまな政策形態に顕著に見られた。たとえば、世界でいち早く
米国のイラク侵攻を指示したこと、国論を無視して、自衛隊をイラクに派遣
したこと、また、派遣期間をまたもや国論無視で延長したことなどは、間
違いなく米国による直接統治の形態であり、国論というものが完全に無
視されていたのである。このような国家の一大事にあたって、国論的主
権意志が介在しなかったことが何よりもそれを物語っていた。

 イラク戦争とは、いわゆる通常の意味における戦争ではなく、あれは米
国による一方的かつ全面的な侵略戦争なのである。イラク側からすれば
暴虐な侵略にやむなく応戦したという戦いであった。このように国際的な
大義のかけらもない侵略に、有無を言わせず我が国を組み入れてしまっ
たのが小泉純一郎である。最近のBSE問題でもわかる通り、米国は日本
人の神道的潔癖性から来ている全頭検査を頭ごなしに無視し、米国流の
検査方式をごり押ししたまま牛肉の輸入を強要した。それをやむなく受け
入れた日本であったが、輸入再開一ヶ月で、今度は取り決め無視の背
骨混入の肉を輸出するという杜撰さを示した。

 この理不尽な米国の姿勢に見えるものは、日本を植民統治していると
いう米国の露骨な支配感覚であろう。「年次改革要望書」が、間接統治
的な押しつけではなく、アメリカ大使館HPに堂々と公開されていることか
らすれば、これも直接統治の一つの型である。小泉政権が直接米国統
治政権、すなわち傀儡政権であることは、ホリエモンの持ち上げ方を見
てもよくわかった。民主党が取り上げ、騒がれていた送金指示疑惑メー
ルなるものは、メールの真贋よりも、堀江と小泉派自民党の金銭がらみ
の結びつき、そして、裏社会との結びつきを国民に意識させたことは意
味がある。

 文藝評論家の山崎行太郎氏も言っていたが、ことの本質を提起した永
田議員の自爆的行動は、大きな意味では、小泉政権の反国家的意図を
白日の下にさらすということでは、逆説的にはそれなりの効果はあったと
言える。民主党員には二種類の人間が居て、旧社会党的な左翼の流れ
と、旧自民党に背を向けた比較的良心的な保守層がいる。小泉官邸に
はめられて、党籍を離脱した西村眞悟氏などはその良心派議員層の代
表格であった。

 本質的な問題は、あの郵政解散総選挙で、武部前幹事長が堀江を自
民党のマスコットに仕立てようとしたことに凝縮されている。ホリエモンと
は、宗主国なるアメリカが、日本をどういう国に仕立てようとしているかを
物語る象徴的な人物であった。堀江の世界観はあまりにも単純でわか
りやすい。すなわち、この世は、老人や伝統や国家などは阻害要因であり、
もちろん天皇などは不必要である。彼の思う日本の理想的形態は、世界
に対応できる巨大金融市場に変貌させるというアメリカの意向そのもの
である。それは巨大虚業マネー集団が跋扈する株取引社会にするとい
う発想である。

 堀江とは、市場原理主義を金科玉条とし、我が国歴史の連続性を無視
した享楽的金銭至上主義者であり、あらゆる革命理論の産みの親である
ジャン・ジャック・ルソーも舌を巻く単純さ、明快さを持つ革命家なのである。
アメリカの理想的市民の良きモデルであり、左翼パラダイスに生きる指標
的人物として格好のモデル的な人物なのである。武部たちの嘘を国民は
きちんと見抜いて欲しい。武部や小泉が、ホリエモンを、ただ、郵政民営
化に賛同する経営者だったから、あの時は応援をしたのだなどと言って
いるが、それは大嘘である。ホリエモンこそ小泉・竹中構造改革が志向す
る社会の理想化されたモデルなのである。だからこそ、彼を自民党のマ
スコットとして厚遇したのである。

 竹中-小泉が進めた構造改革路線は、アメリカが日本に強制的に導入
しているフリードマン的新自由主義であり、反ケインズ主義的政策である。
そのために、政策にケインズ的な視野を持つ政治家や経済学者を粛清
の対象としているのである。そこに西村議員や植草一秀氏がいたのであ
る。小泉たちの希求する新自由主義社会のさきがけとしてホリエモンは
選ばれ持ち上げられたのである。小泉たちは、彼らの目指す構造改革の
結果が、やがてはバラ色の未来をもたらすかのような誤った先入観を国
民に与えた。しかし、彼らは着実に日本型資本主義を破壊していたので
ある。小泉が敷いた構造改革路線には、国益誘導的性格はまったくない。
むしろ、すべてが外資利益、アメリカ利益に貢献するシステム造りにほか
ならない。

 小泉政権のこの姿勢は反国家的であり、武部が堀江を「わが息子、わ
が弟です」と言ったことは決して軽視してはならない。この言い方にこそ、
小泉政権の危険な本質が顕著に現れているのであり、それは許し難
い反国家的姿勢なのである。もっと言うなら、このことは日本が直接的
なアメリカ統治型国家に移行している現実を物語っているのである。堀
江は数冊の本を出しているが、その一冊でも読んだならば、彼の単純
明快な反日的世界観が手に取るようにわかる。

 それを踏まえても彼を応援した小泉自民党は、自身も堀江と同じ世界
観に立脚していることがありありと見えるではないか。小泉たちが、堀江
人気に乗じて若者票を誘引させるだけの魂胆であったとしても、当然な
がらその人物の品格や思想(世界観)を調べたはずである。その結果が
問題なくOKなのであるから、前政権は堀江と同根の世界観を持っている
ことを端的に示している。武部と堀江の関係を深くえぐり出して、小泉自
民党が持っていた反国家的な本質を暴き出すべきである。

 唐突だが、武部勤と言えば、評論家の宮崎哲弥とは非常に仲がよく、
宮崎自身が武部一家とよく食事を共にするとテレビで語っていたことが
ある。なぜ、宮崎哲弥のことを持ち出したのかと言えば、この男も自己
の知名度を使って、植草一秀氏の名誉をずたずたに毀損する言動をテ
レビ放送で行っていたからである。それは女性セブン(10月5日号発売)
という週刊誌に、突然、「逮捕三度目の植草には、示談7回の過去があ
る」という記事が出たことにかこつけて、植草氏自身を何の根拠もなく、
痴漢性癖を持つ病気だと断定していたからである。

 私は宮崎哲弥が武部と昵懇であるという事実を重く見る。植草氏が小
泉前政権の官邸サイドの国策捜査で逮捕されているなら、宮崎が植草
氏の事実無根の犯罪性癖を固定化するために、世間に対して印象誘導
を行った可能性は非常に高いのである。

 http://www.youtube.com/watch?v=JhgFeMPtwOU    
(女性セブン7回示談報道に関することを話題にしたトンデモ・テレビ番組)

 私は、女性セブンの「過去7回示談」報道は、前政権官邸サイドによる
駄目押し報道だと確信している。何としても植草氏に語って欲しくない事
情があるからである。「過去7回示談」の件は「女性セブン」誌のほかに、
独自の情報ソースで、放送あるいは報道したメディアはない。これはあ
るはずがない。なぜなら、旧官邸サイドが植草氏冤罪説、あるいは植草
氏国策捜査説がネット等で流されているのを見て非常な憂慮を持ち、窮
余の策として女性セブン誌に「駄目押し報道」をやらせたからである。

 過去7回示談の件に関して、確固とした情報ソースがあるのであれば、
そのニュースは他の週刊誌や新聞、その他のメディアに大々的に流され
てしかるべきである。ところが、このニュースだけは取り上げたすべての
メディアが女性セブン誌から引用しているのである。つまり、他の報道機
関はこのニュースソースを持っていないということになる。従ってこの報
道はガセネタである可能性が非常に強い。しかし、この駄目押し報道を
さらに駄目押しする役目を買って出ていたのが宮崎哲弥や橋下徹弁護
士である。

 「過去7回示談」の充分な検証もなく、ただ、女性セブン誌のガセネタ
報道を根拠として言いたい放題に植草氏の名誉を毀損したのである。
この二人の主張は植草氏の性癖は病気であるから治療の必要がある
という悪質なものである。週刊誌一誌のガセネタ報道だけで病気を確
定できたこの二人の見識とはなんだろうか。それよりも小泉官邸の中
心にいた武部勤と宮崎哲弥が昵懇の付き合いであるという事実から、
植草氏性癖論のイメージ固定化を狙う報道操作を疑うべきである。

 植草氏の報道に関して、見れば見るほど何者かの恣意性が働いて
いることが見えてくるのである。会社のパソコンの押収、関係者への事
情聴取、女性セブン誌の不自然な示談報道と、それを敢えて補完する
かのような宮崎哲弥たちのテレビ言説、これらは明らかに植草一秀氏
が大きな力によって嵌められていることを端的に物語っているのである。
つまり、警察やこれだけの規模のマスコミを動員して、植草氏を犯罪者
に仕立てることが可能なのは政府なのである。植草一秀は国策捜査
によって逮捕されたのである。


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2006年11月23日 (木)

竹中や飯島を引き継ぐ中川秀直

  ◎中川秀直は安倍ファッショ政治の中枢になる(かも)

**************************

平沼氏「ハードルが高い」・造反組、11人の動向焦点

 中川氏と平沼氏の会談の結果、平沼氏の復党は当面、先送り
となり、焦点は残る現職11人のうち何人が復党するかに移る。

 平沼氏は中川氏との会談後、「私の場合、ハードルが高いなぁと
いう感じがしている」と記者団に語った。造反組現職12人のうち平
沼氏以外の11人は最終的に郵政法案に賛成したが、平沼氏は
「信念で反対した」。誓約書の提出も当選9回のベテランには屈辱
的な対応と映る。 (11月23日、07:01  NIKKEI NETより)

***************************

 郵政民営化に反対した平沼赳夫氏は、安倍晋三首相に政策的に共鳴
するところが多々あり、一旦は復党の意思を持ったが、中川秀直幹事長
に誓約書の提出を強要されて屈辱感のうちに復党を断念したようだ。

 中川秀直氏のこの行動が何を意味するか、国民は気をつけて判断する
べきである。「誓約書」とは何だろうか。それは昨年の郵政民営化総選挙
後に成立した内閣の党是(マニフェスト)である。これに絶対に逆らわない
ように宣誓して欲しいという強要が平沼氏に対して行われたのである。具
体的に言えば、平沼氏に対して、記者会見などの公的な場で、はっきりと
郵政民営化に賛成して、一切の批判をしないことを宣誓しろということな
のである。

 後ろ指を差される苦難に耐えてまで、安倍政権の内部に潜り、謂わば
「トロイの木馬」作戦で、小泉政権残党勢力を打倒しようとした平沼氏で
あったが、さすがにこの踏み絵は踏めなかったようである。この態度が小
沢一郎に評価された。平沼氏の器は小沢一郎と互角に戦える力量を有
しているから、小沢の評価は一つの成果ではあろう。しかし、今回の中
川幹事長の妥協を許さぬ態度で、明らかに安倍政権の重要な本質が露
呈したのである。それは安倍現内閣の構造改革路線が、小泉・竹中路
線と寸分違わぬ性格と方向性を持っていることが明確になったことであ
る。安倍政権に移行するにあたり、権力側は自らの中枢に居座って絶大
な権力を有していた飯島勲元秘書官、竹中平蔵元金融大臣を官邸から
外した。

 これは国民の目を欺く目くらましであった。彼らを外すことによって、国
民の目から小泉内閣のダーティなイメージを払拭し、刷新された今の政
権は「美しい国」を目指すクリーンな政権だというイメージを持たせたこと
である。しかし、復党組に対する中川幹事長の硬骨な態度は、現政権が
小泉売国政権を完全に踏襲していることを明示して余りあるのである。
小泉構造改革路線の売国のかなめが郵政民営化法案であった。そして
この法案は来年4月から本格的に始動するのである。

 忘れてはならないことは、中川秀直という人物は小泉・竹中路線を内
部で必死に支えてきた人物である。官邸主導政治、早く言えば官邸ファ
ッショ型政治の中心にいた人物の一人が中川秀直であったのである。
今の安倍政権では、表立って安倍をコントロールし、従米売国政策を仕
切る人物が中川なのである。日本はいまだに奈落の底に向けて滑り落
ちているのである。

 つまり、今後も西村眞悟氏や、植草一秀氏のように、官邸主導による
国策捜査の罠にかけられる有識者たちが続発する可能性が大いにある
ということである。余談ではあるが、中川秀直は韓国のノムヒョン大統領
に何となく顔が似ていると思うのは私だけであろうか。


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2006年11月21日 (火)

報道と公判証言にあらわれる駄目押しパターン

   ◎報道に見られた駄目押しパターンは、
   公判にも出てくるのだろうか

 
これから述べることは私の揣摩臆測の域を出るものではないこと
をあらかじめ断っておく。

 風の噂で耳にしたが、植草一秀氏の公判は、12月6日と20日に
開かれるようである。植草氏側の証言は否認調書だけ。対して、女
子高生側の証人は、女子高生本人、駆けつけた警官二人、そして
あとから名乗り出た若い男の合わせて四人だそうである。

 風の噂だからあまり真剣に考える必要もないが、初期報道には30
代の男二人が駅員に植草氏を突き出したとある。この二人は来ない
のだろうか。それにしてもあとから名乗り出た若い男というのは誰で
あろうか。何で当日に名乗り出なかったのだろうか。後から気が変わ
って名乗り出たのだろうか。興味津々である。

 それに、これも風の噂だが、6日に植草氏は「証拠隠滅の惧れ?」
があるから、釈放はないようである。しかし、なぜ釈放されないのだ
ろうか。証拠隠滅の惧れも、逃亡の惧れも、非現実的なこと甚だし
い。誰が考えたって、依然として身柄を拘束していることが異様であ
る。

国策捜査を疑う私としては、後から名乗り出た若い男は駄目押し
の役目なのであろうと考えている。植草氏の電車内痴漢疑惑の
初期報道とは期をずらし、そのあとに出た女性セブンの週刊誌報
道では、植草氏が過去7回の示談を行っていると唐突に出した。
この7回の示談記事は話にもならない与太話である。信憑性ゼロ
の報道である。これを宮崎哲弥などは、あるテレビ番組で、さも事
情通のように喋っていた。

http://www.youtube.com/watch?v=JhgFeMPtwOU

 これは国策捜査を仕掛けた側が植草氏の社会的信用性を完璧
に剥奪する目的で出した駄目押し報道であったと私は確信する。
これと等しい駄目押しパターンが、今回の公判でも、その若い男
を出現させて証言という形で行われるのだろうか。だとしたら、凄
まじい念の入れ様である。ここまでして、女子高生を完全被害者
として通したいという背後の黒幕たちの熾烈な執念が見える思い
である。

 しかしである。女性セブン誌の駄目押し報道も、これから起こる
であろう公判での駄目押し証言も、裏を返せば、国策捜査を仕掛
けた連中の焦燥感があるのかもしれない。それはこの事件に興
味を抱く者たちの一部に、冤罪、あるいは国策捜査の疑念を抱く
者たちがいるという事実に対して焦りを感じているからである。冤
罪論、または国策捜査論は、特にネットに根強く出ている。これを
打ち消すために女性セブン誌を使って「過去7回示談」という駄目
押し報道を行ったのである。黒幕サイドは、この駄目押しを公判
でも行おうとしているのだ。つまり、女子高生一人だけの証言で
は何とも心もとなく、公判進捗が不安で仕方がないのである。

 もしも、私が6日の公判を傍聴できたなら、この若い男が何を言
うか、聴覚神経を最大限に研ぎ澄まして聴くことになるだろう。何
度も言うが、今回の記事は風聞をもとに書いたから信憑性はない
と思っていただきたい。ついでに言うが、当てにならない風聞では
東京地裁429号法廷、午前10時開廷。

  余談であるが、当時、その雑誌を片手に、女性セブンの編集室
がある小学館(千代田区一ツ橋)に行ってきた。どうせ話はしても
らえないと最初から思っていたが、案の定、当該記事担当者の女
性は剣もほろろであった。


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植草氏に関し、初期報道の悪質さ

 植草氏の痴漢報道に関して、nikkansports.comの記事に怒りを感じた
ので、そのことを書く。それは事件が起きた9月13日の翌日、9月14日と、
その翌日、9月15日の記事で、一見目立たないが、非常に重要な表現
上の変更があったことに気付いたことである。私が注目したポイントは
二人の乗客の反応である。以下の二つの記事にその乗客二人に関す
る記述を見比べてもらいたい。

  (1)[2006年9月14日13時38分]

 懲りない植草教授、今度は痴漢で逮捕    

 電車内で女子高生(17)に痴漢をしたとして、警視庁は14日までに、東
京都迷惑防止条例違反の現行犯で、元早稲田大大学院教授で名古屋商
科大大学院客員教授の植草一秀容疑者(45)を逮捕した。

 「酒を飲んでいて覚えていない」と供述しているという。

 調べでは、植草容疑者は13日午後10時10分ごろ、京浜急行品川-
同蒲田間の電車内で、私立高校2年生の女子生徒のスカートの中に手を
入れ、下半身を触った疑い。

 電車内で目撃していた乗客2人が取り押さえ、京急蒲田駅で駆け付け
た蒲田署員に引き渡した。

 植草容疑者は04年4月、JR品川駅のエスカレーターで女子高生のス
カート内をのぞこうとして逮捕された。昨年3月、東京地裁で罰金50万
円、手鏡没収の判決を受け、確定した。

  (2)[2006年9月15日8時14分 紙面から]

    植草容疑者、今度は痴漢で逮捕    

 警視庁は14日までに、電車内で痴漢したとして東京都迷惑防止条
例違反の現行犯で、元早稲田大大学院教授で名古屋商科大大学
院客員教授の植草一秀容疑者(45)を逮捕した。13日夜、京浜急行
の電車内で女子高生(17)の尻などを触った疑い。「酒を飲んでいて
覚えていない」と、容疑を否認しているという。植草容疑者は04年4
月、女子高生のスカート内を手鏡でのぞこうとして逮捕。無実を主張し
たが、昨年3月に有罪判決を受けた。最近、経済学者として本格的に
再起し始めたばかりだった。

 調べでは、植草容疑者は13日午後10時10分ごろ、京浜急行品
川~京急蒲田間の快速特急久里浜行き下り電車内で、神奈川県内
に住む私立女子高校2年の女子生徒のスカート内に手を入れ、尻な

どを触った疑い。

 この電車は同10時8分に品川を発車。席は埋まっていたが、乗客
の肩が触れるほどは込んでいなかったという。女子生徒は前から3
両目の車両中央部付近に立っていた。セミロングの黒髪、身長は約
155センチ。紺のミニスカートに白のブラウス、グレーのセーター、白
のハイソックスという制服姿で、学校行事の準備を終え、1人で帰宅
途中だった。

 調べによると、植草容疑者は品川を発車直後から女子生徒の右背
後に立ち、左手でスカートの上から尻の右側を触り始めその後、左手
をスカートの中に入れ、下着の上から尻を触ったという。当時はスー
ツ、白いワイシャツ姿でネクタイはしていなかった。右肩にバッグをか
け、左手に黒い傘を持っていたが、女子生徒は、植草容疑者はこの

傘を左手首に引っ掛けて触っていたと話しているという。

 数分間触り続けたところで、女子生徒が泣きだし「やめてください」
と声を上げた。
付近にいた30代男性2人が異変に気付き「何やっ
てるんだ」と注意
植草容疑者は黙ってうつむき続けたという。

 午後10時18分、電車が京急蒲田駅に着くと、2人の男性が植草
容疑者をホームに降ろし、植草容疑者は一瞬逃げようとしたが、すぐ
駅員に突き出された。ホームでは、植草容疑者に気付いた客らの人
だかりができたという。蒲田署員が駅事務室に到着した際、植草容
疑者は両手がふさがっていることをアピールし「この状態でできない
でしょ」などと否認したという。

 同署に行き、都迷惑防止条例違反で現行犯逮捕されてからは「酒
を飲んでいて覚えていない」と供述。乗車前、品川周辺の飲食店でビ
ールや焼酎などを飲んだという。一方、女子生徒は「許せない」と話し
ているという。

 植草被告は04年4月、JR品川駅のエスカレーターで女子高生の
スカート内を手鏡でのぞこうとしたとして逮捕。昨年3月、罰金50万
円、手鏡没収の有罪判決を受け、確定したばかりだった。短期間で
2回、女子高生がらみのわいせつ事件で逮捕されたことになる。

 植草被告は今回、手鏡は持っていなかった。「自宅に帰る途中だ
った」と話したというが、電車は自宅とは逆方向。同署では厳しく追
及している。



 (1)では、この二人は(痴漢行為を)「目撃した」と書かれてあるが、
(2)では、『付近にいた30代男性2人が異変に気付き「何やってる
んだ」と注意』と書かれている。これは解釈次第によっては、目撃し
たとも、女子高生が叫んだから初めて気が付いたとも、両方に受け
取れる表現に書き換えられている。

 要するに、この表現上の乖離を直視すれば、乗客二人が植草氏
の痴漢行為を目撃していなかったことは一目瞭然なのである。第一
報で断定的表現を使い、第二報では曖昧にぼかしている。植草氏
が最も要望するであろう弁明がまったく
出ずに、警察経由の一方的
な情報ソースから得た新聞各社の報道洪水の中で、上記のような
悪質な二重報道が行われているのである。

 乗客二人の目撃証言が未確定なら、「目撃」という表現は出来な
いはずである。ところが、それを平然とやっておいて、翌日は曖昧に
ぼかしてしまうこの神経はひどいのひと言に尽きる。報道良心のか
けらもない。ダメージの強い印象だけが植草氏の身に降りかかって
しまったのである。本当に悪質である。金を貰ったらここまでやるの
か。報道の良心以前に、人間としてやっていいのか、こういうことを。


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植草一秀氏と西村眞悟氏に見える共通性

   ◎国家の罠に嵌められた二人に見える共通性

 エコノミストの植草一秀氏と西村眞悟議員。この二人には無視しがたい
共通性が二つある。その共通性こそ、彼らが国家の罠に絡め取られた理
由を為すものである。

一つの共通性は、彼らの唱える経済政策である。前にもブログに書いて
いるが、植草一秀氏は   平成15年5月9日、全国木材産業政治連盟主
催の講演「日本経済の現状と展望」において、彼の時局分析はかなり手
厳しい小泉・竹中批判を行っている。「改革なくして成長なし」という小泉
前首相の言葉とは裏腹に政策が完全な失敗を繰り返していることを強く
指摘し、景気が低迷しているときの緊縮財政政策の危険を訴えた。

 小泉・竹中路線の転換、すなわちサプライサイド重視の逆効果性を指
摘することから始まり、内需喚起型の景気回復策を提起した。不良債権
処理問題でも、注意すべき点は、経済を改善させながら行うのが常道で
あるにも関わらず、現政権のやり方は、経済を悪化させながら、不良債
権処理のルールを不明確に行うという、タイミングを考えない拙速性が
逆の効果をもたらしているという指摘をしている。

 金融の抜本的な一括処理は、日本経済が余力を残していた当時は効
果が出たと思うが、今のように低迷を続けているときは却って、企業倒産
は増大し、銀行は破綻するというものである。事実、日本は植草氏の言
う通りに推移していたのである。

 一方、西村眞悟氏であるが、景気対策としての構造改革はまったく無
効であると断じている。まずインフレになった時を思い出すと、インフレー
ションとは、需要が溢れている時に供給が追いつかなくなり物価が跳ね
上がる。この時の不況とは、供給側の供給能力が貧弱になることが原
因となっており、対策としては供給サイドの構造を改革して、より需要に
見合った多くの品物が行き渡るシステムを構築することにある。

 反対に、デフレとは、供給側はいくらでも品物やサービスを供給できる
のに、需要が少なく、品物は売れない、物価は下がる、企業の売り上げ
は落ちる、働く人の給料は下がり、それでまた需要が減るという悪循環
のサイクルに入る。数年前の日本は典型的なデフレ・スパイラルに陥っ
ている。この対策は需要を喚起してそれを増大することに尽きる。小泉
政権の構造改革は、この単純明快な手順とはまったく逆方向のベクトル
を有していた。つまり、需要喚起を行わず、供給サイドの方にしか目を向
けていないのである。

 こうして見ると、植草氏と西村氏の経済スタンスは大きいところでは総
需要喚起を重要視していることがわかる。これは、両者とも小野盛司氏
や丹羽春喜氏などと同じ、ケインズ主義のスタンスに立っているのであ
る。西村眞悟氏は「日本経済復活の会」の小野盛司氏のシュミレーショ
ンに言及して、小泉初期政権当時の塩川財務大臣に対し、政府が持っ
ている政府貨幣発行特権(セニアーリッジ)を使えば、デフレから脱却で
き、失業率も低下、結果的に不況から脱出できるはずだと質問している。

  日本政府は、三つの財源を持っている。一つは税金徴収。二つ目は
国民から金を借りる、すなわち国債発行。三つ目は、政府紙幣を発行
することである。税金徴収と国債発行はすでにやりつくしているが、政
府紙幣の発行はまだである。政府紙幣発行特権を行使すれば、国民
から税金を取らず借金をせずに財源を調達する手段となる。この政府
の紙幣発行特権行使による財源で大減税を実施するか、または、そ
れを総需要喚起の為に投入すれば、確実に景気は回復するという意
見である。

 植草氏も、西村氏もともにケインズ主義政策推進論者である。そして、
彼らに共通する思想的スタンスは国益重視、国防的概念が基礎になっ
ている。エコノミストと政治家の違いはあれ、二人とも明らかに愛国者
である。従って、外資優先、アメリカの要望だけで動く小泉政権には遠
慮なく鋭い批判を行っていた。つまり、小泉従米政権を踏襲する安倍政
権は、残存するケインズ学派のエコノミストや政治家を、小泉時代と同様
に片っ端から毒牙にかける可能性は非常に大きいのである。国民は真
剣に考えるべきである。どのジャンルにかかわらず、国益重視の有識者
たちが粛清されたら、国民のまともな生存権すら確保できなくなる時代が
到来するのである。すでに格差社会というはっきりした徴候があらわれ
ている。

 両者共に、弱者に対する暖かいたわりの心を持っている、いはば、失
われつつある人間味溢れる世代の残像を色濃く宿しているのである。こ
れは、アメリカが塗り替えようとしている新自由主義への構造転換路線
にとっては邪魔なことこの上ないのである。かくして、この両者は国策捜
査の網に捕らえられてしまったのである。小泉の敷いた構造改革路線は、
このように日本の国益を心配し、弱い人々を守ろうとする為政者や経済
学者を奈落の底に突き落とすのである。

 平成15年に、全国木材産業政治連盟が主催した講演会で、植草
一秀氏が行った小泉批判の中には、次のような言動がある。

 『一般的には改革派と抵抗勢力に分けられるが、中身をみると
  「亡国派と救国派」勢力という表現の方が正しいような気がす
  る。我々が日本の国益を守る。国益とは日本の物は日本人が
  持つ。これが民族自決であり、日本の資産を全部外国の人が
  持つ状態を植民地という状態で、それは避けるべきである。』


 植草氏のこの言い方は、小泉・竹中路線が体現する反国益的な改
革派の生の実像を申し分なくあらわしている。小泉政権が敷いた構造
改革路線とは、国家の構造を新自由主義経済に合致させるために、
アメリカの言うがままに行われているのである。この形がこのまま続け
ば、日本型ケインズ主義を守る少数の人々は間違いなく駆逐されて行
くだろう。それは国家の崩壊を意味することになる。

 ミルトン・フリードマンが死去したと言うが、日本人も早く目覚めて新古
典派一色の弊害を早く一掃する方向に切り替えるべきである。それには、
植草一秀氏、小野盛司氏、丹羽春喜氏、西村眞悟氏、それに連なる志を
有する方々に奮起してもらわねばならない。そうしなければ日本は遠から
ず三流国家に転落し、格差社会は固定化、大多数の国民は貧窮に襲わ
れることになる。西村眞悟氏の問題発言とされた『マネーゲームの世界
に国民をなだれ込ませているのが小泉なんです。あれは狙撃してもいい
男なんです』
の中で、「マネーゲームの世界」と彼が言っているのは、フリ
ードマン的新自由主義経済の本質を指している。


 とにかく今は、虜囚の身となった偉大な経済学者の植草一秀氏を一日
も早く復帰させ、国家の役に立ってもらわなければならない。彼の不名誉
は捏造された不名誉であるから何としても回復されねばならない。彼は
潔白である。       

    


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2006年11月18日 (土)

文明論から言える教基法改正の欺瞞

 ここのところ、毎日ニュースを騒がせているのがイジメ問題、そして生徒
や先生、校長の自殺などである。なぜ今、急激にこれらの問題が突出的
に浮上してきたのだろうか。

 それは、例によって政府とマスコミがタイアップし、昨年の「郵政民営化・
是か非か 」選挙前のように、ある一つのイメージを国民に刷り込もうとし
ているのである。社会の荒廃にかこつけて、文科省が薦める教育基本法
の改正が、いかにも喫緊かつ必定であるかのような情報操作が行われ
ているのである。完全にマスコミ洗脳である。

文科省のHPを読んでみて、今回の教基法改正の意図を汲んでみた。各
条項の文面だけに限って言うなら、個々にはまともなことを書いてあるよう
に思える。特に第一条「教育の目的」にある「人格形成」と「国家・社会の
形成者として必要な資質を備えた、心身ともに健康な国民の育成」はなん
ら不備を感じさせない。

 しかし、この教育基本法なるものがどういう経緯で成立したものであるか
をなぜ歴史的に説明していないのだろうか。改正ならば、特に成立過程が
重要である。なぜなら成立期にこの体系の基本精神があるからである。そ
もそも教基法に日本人オリジナルの精神がどれほど反映されているのだ
ろうか。ここにあるのは個人の抽出であり、決定的に欠けているのは国家
と歴史の伝統時間である。今回の改変には確かに国家も、伝統も、郷土
も出てはいるが、これは取ってつけたような感じであり、日本人の素直な
気持ちから出たものではない。

 国民が関心を持つべきなのは、教育基本法というものが現行日本国憲
法と抱き合わせて作られた連合国総司令部(GHQ)による策定であると
いう事実である。つまり、教基法は、占領軍による日本民族の精神改造
を目的として、西洋近代主義を教育理念にしただけのものである。従っ
て、この教基法には民族の精神がまったく反映されていないのである。

 はっきり言おう。現行教育基本法は、明治以来、日本人教育の核を為
していた「教育ニ関スル勅語」の完全否定としてアメリカの意志で作られ、
付与されたものなのである。教育勅語と言えば、すぐに悪しき軍国主義
を彷彿とする者が大勢いるが、その誤った観念こそ、家庭内、学校内に
おける教育が崩壊してしまった根本原因なのである。

 国民は日本という国をどう考えているのだろうか。我々にはイギリスや
フランスなどとはまったく違う、日本独自の文明形態を持った長い時間が
ある。たった一度、戦争に敗北しただけで、この伝統精神や、蓄積されて
いた文明を全否定するのは大間違いである。戦前といえばすべてが悪か
ったかのような誤った歴史観が国民を席巻し、その後遺症はいまだに深
い。

 戦前日本が悪かったというのは、すべてがアメリカの独善的な正義感
から発している。縄文以来の日本が培った悠久の文明が悪いはずがな
い。西欧近代主義の矛盾や非人間的なものすべてが凝縮して出来上が
った化け物みたいな米国に、日本の至高の伝統文化をけなされる謂わ
れはまったくない。
 
 青少年、あるいは国民精神を涵養する教育体系とは、知育のほかに徳
育が必要である。この徳育の根幹はアメリカの精神ではなく、我々の先祖
が育み積み重ねてきた伝統的な精神性に基づいていなければおかしい。
つまり、教育の根幹は独自の固有文明に由来する理念によって行われる
べきなのだ。ところが現行教基法にはこの固有文明性が皆無なのだ。

 しからば、日本文明の根っことは何であろうか。それは天皇である。皇
統を奉る基本が抜けている教基法などというものは、出し殻から濃いお茶
を求めるようなものである。青少年が荒れるのは当たり前である。彼らの
DNAを励起しないような指針で教育されては、まともな人格が形成される
はずがないからである。今の日本国民に最も欠落しているのは、自分た
ちには世界に比肩されない固有の文明時間があったという矜持である。

 これがなくして目先の技術論で何が変わるというのか。「我が国と郷土
を愛する態度を養い」などという空疎な文面には日本の血が通っていな
い。教基法の改正は無効である。教基法自体も無効であり、全撤廃する
べきである。

 文明の内実を伴わない愛国心の明文化は、憲法九条を変更して、自
衛隊をアメリカの傭兵にするための前段階としか考えられない。アメリカ
人のために日本人が血を流す方向に向いているのである。経済もアメリ
カに押し付けられた新古典主義、自衛隊も日本のためではなくアメリカの
ために戦う傭兵戦力として変わろうとするこの趨勢。

 どこに日本の自生的精神があるというのか。何でもアメリカの言いなり
で動く国、日本。この媚米精神では、青少年に愛国や日本人としての自
尊心の大切さを教えられるわけがないだろう。現在の方向性からの教基
法改正は、現在以上に加速的に大量の殺人者を生んでしまうだろう。


こらあ~っ、安倍よ。
ニャンコの住む日本をミスリード

しちゃいかんニャア! (憂国シロより)


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2006年11月17日 (金)

命令放送について高橋清隆氏が面白い分析をしている

 森田実氏のサイトに、高橋清隆氏が鋭い視点で投稿している。
NHKへの命令放送とか、松坂大輔のMLB入りで大騒ぎしている
背景にもアメリカの戦略的意志が色濃く見えてくる気がする。

 清隆氏の視点を見て欲しいと思う。

http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/YU17.HTML


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2006年11月16日 (木)

幽閉されてもなお、弱者へのまなざしが・・

 品川駅でのいわゆる手鏡事件のあと、警察にも、検察にも、裁判所に
も、深い不信感と絶望感を持ってしょげていた植草一秀氏だった。その
彼の心を再び社会に向けさせ、言論活動へと引っ張り上げたのは文藝
評論家の山崎行太郎先生である。先生ご本人から伺ったから間違いな
い。

 そのおかげで、我々はネット放談「直言」や、その他で植草氏の言論を
眼にすることが出来た。植草氏が再び世に出て精力的に活動を始めた
ために、小泉・竹中政権の国政的巨悪の構図が見え始め、経済動向に
疎い私のようなものでも、こりゃあ本当におかしいぞ、あいつらは売国
政策をやっているんじゃないのか、という視点が確立したのである。そう
して調べ始めた矢先に、再び植草氏は幽閉の身となった。

 もともと彼は一貫して狙われていたのだと思う。小泉政権は威勢のい
い構造改革路線を突っ走り、景気低迷の中で、不良債権処理や緊縮財
政政策をやり、日本は出口の見えないデッド・デフレーションの鎖に絡ま
れていた。その突破を真摯に説いた植草氏は小泉・竹中にとっては不
倶戴天の敵として認知されてしまったのである。「あるべき金融」に書か
れた植草氏の論考を参照すると、バブルがクラッシュしたあと、資産価
格の大幅下落が資産保有者のバランスシートを著しく悪化させ、企業
活動の悪化が経済全体の停滞を招いていた状況をデッド・デフレーショ
ンと呼ぶそうである。

 この状況で優先されるべき課題は、資産価格の下落に歯止めをかけ
ること、またそれによって不良債権処理がはじめて可能になる。日本が
直面していた問題は、景気、財政、不良債権という三つの問題であった。
この三つの中では景気浮揚が最優先されねばならないことはアメリカ
が先例を出していた。小泉政権は金融問題がある以上は景気回復は
あり得ないというスタンスを押し通した。これが日本を窮地に追い込ん
だ。90年代から何度か景気浮揚があり、安定に向かったが、緊縮財政
という逆噴射政策によってそれらはことごとく失速したのである。

 財政の建て直しと不良債権処理優先の、いわゆる「改革なくして成長
なし」の小泉政策は間違っていたのである。優先すべきは景気回復路
線であった。植草氏は一貫してこの方策を訴えていた。

 植草氏は逮捕されてから64日幽閉されている。弁護士さんを通じての
みの外部との乏しい接触、かなりの情報閉鎖、そういう状況下でも植草
氏はスリーネーションズリサーチのコラムを三度更新している。そして最
新コラム(11月15日)の最後にはこう書かれている。

「障害者自立支援法、難病に対する公的助成縮小、医療リハビリの日数
制限、高齢者医療費の自己負担増など、弱者を痛めつける政策ばかりが
先行している。10年来主張してきたように「天下り」制度廃止が先行され
るべきである。豊かな社会を構築するために最重要の施策は、「弱者に
対する必要十分な施策整備」ではないか。「格差」の問題、「希望」の問
題を考えれば、公教育に財政資源を十分に投入すべきだが、事態は逆
の方向に進行している」

 植草氏は、豊かな社会を構築するためには「弱者に対する必要充分な
施策整備」と言っている。私が『植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある
(10)』
で指摘したように植草経済の本質がここにある。彼の視点は弱者
に対する限りない優しさである。幽閉されてもなお、弱者や格差への憂
慮を第一義に持つこの人間は日本にとってかけがえのない人間なので
ある。
 


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2006年11月14日 (火)

植草氏の身の安全を心配する理由

  多くの心ある人々には植草氏の勾留が長く続いていることを考えて欲し
い。今年の9月13日、痴漢の罪で一般人の手で現行犯逮捕され、それ以
来、今日で62日間の勾留が継続されている。

 この勾留日数そのもの、あるいは途中における保釈申請の却下など、
その司法的な妥当性を、法律に詳しい人たちが、専門分野から仔細に
検討評価することは大事であろう。しかし、私と同様な一般人が見ても、
植草氏を扱う司法の態度は常軌を逸していることがよくわかるのである。

 検察が、罪を自白するまでは簡単に外へは出さないぞという態度を取
っても、そのための身柄拘束には限界があるはずである。本人が否定し
ているわけだから、そういう形ならいつまで経っても平行線で埒が明か
ない。だからと言って、延々と勾留延長が許されていいのだろうか。

 10月初旬、東京地裁が植草氏の保釈申請を許可したが、すぐに東京
地検が不服の準抗告を出し、それが認められた。痴漢の場合、証拠隠
滅も、国外逃亡も考えられないのだ。それとも娑婆に出せば、再犯の確
率が高いからということなのか。それなら、セクハラまがいの言動をした
者も片っ端からしょっ引かなければおかしいだろう。それにしても、地検
はなぜここまで確固たる意志で植草氏の身柄を拘束しなければならな
いだろうか。

 ここで、心ある皆さんはよく考えて欲しい。逮捕勾留について専門的な
知識はなくともこれだけは納得するだろう。植草氏はすでにこれでもかと
言い尽くせないくらいの充分すぎる社会的制裁を受けてしまっているの
だ。まだ容疑段階であるにもかかわらず、植草氏はテレビや週刊誌で常
習的性犯罪者として徹底的に叩かれてしまっている。いくら有名人とは
いえ、「痴漢の疑い」だけでそこまでやられる理由がどこにある?疑いだ
けで犯罪事実は確定していない。

 植草氏の名誉剥奪は、社会のすみずみに、ほぼ完膚なきまでに浸透し
てしまったのである。犯罪事実が確定されていない段階で、一人の人間
をここまで貶める権利が一体誰にあるというのか。地検や地裁には『彼
が行ったかもしれない』という痴漢事象についてのみ、それを解明する
権限しかないはずである。しかし、今生じていることは司法の異常な越
権であり、容疑者に対する理不尽な制裁だけである。つまり、痴漢の有
無にかかわらず、過酷過ぎる刑罰がすでに植草氏に与えられてしまった
情況なのである。これは法治国家としてはあまりにも異常なことではな
いのか。

 この上、彼を勾留する理由として何がある?何もないだろう。私は植草
氏とは面識もなければ何のかかわりもない人間である。しかし、その私
でさえ、この理不尽な状況について悔し涙が出てくるのである。無実の
人間の幽閉を看過出来ない思いである。ご家族の方々はどんな心境だ
ろうか。そこで、冷静に今の状況を考えてみると、一つの重大な懸念が
私に湧き上がってくる。それは私が植草氏の事件が国策捜査であるこ
とを確信しているからこそ湧き上がる疑念である。

 植草氏はすでに社会的信用も名誉も完全に剥奪されてしまった。これ
によって、前政権(おそらく現政権の一部の人間も含む)の官邸サイドは
植草氏の口封じの第一段階が予定通り終了したと考えている。しかし、
植草氏は生きている。彼が世間に出て、前政権、あるいは現政権に不
利になることをしゃべられる可能性はまったく消えていない。消えていな
いどころか植草氏ならば敢然と世間に言いたいことを言うだろう。

 保釈申請が却下され、勾留日数が不自然に延長されている今、官憲
側が永久に植草氏を閉じ込めておくわけにも行かないだろう。保釈は近
いかもしれない。さて、そこでである。彼を陥れた連中が、植草氏にはど
うしても触れてもらいたくないことがあり、彼を脅してもなだめすかしても
無理だと悟っているならば、次に考えるのは何であろうか。答えは小学
生でもわかる。いわゆる獄死である。この場合は植草氏が状況を悲観し
て自殺するというストーリーを国策捜査を仕掛けた側が狙っている可能
性はけっして否定できない。

 このことは何度でも言う。私にとっては植草氏が生き残ることが先決
事項なのである。彼が息の根を止められたら、それこそ国家の損失であ
る。こういう大道的見地からも彼の復権は国家再生の鍵なのである。彼
は心根が優しくけっして自分を押し売りはしない。少し気弱な感じはある
が、曲がったことに身を置くことを潔しとしない人間である。従って、売名
行為を決して行わない植草氏の知名度は一般的にはそう高くはない。し
かし、彼の数字の読みを間違わない洞察力と予見力はずば抜けている。
我々は植草氏を過小評価しすぎているのだ。彼は日本再建の重要な柱
となる不世出の経済学者である。

 小泉政権が発足する一年前、植草氏は直接小泉から経済政策を聞い
ていたので、その誤ったマクロ経済政策が国政に導入されたらエラいこ
とになると強い危惧を持っていた。2001年、小泉政権は始動し、植草氏
の憂慮の通り、景気低迷の中で行った緊縮財政政策で日本経済は疲
弊し、株価は下落した。しかも、露骨に外資優先傾向が現われている。
りそな問題を境にして、経済は上向きになったが、それは上昇ではなく
政策を転換したための回復傾向である。しかも現在の景気は国民全般
の利益に寄与する形態からは外れて、完全な傾斜配分である。いわゆ
る不均衡格差経済への転換である。こういうものはやがて国力を殺ぐ
方向にしか向かないだろう。

 小泉政権は、かなり以前から植草氏の経済提言を、目ざわりこの上な
いものだと考えていたと思う。小泉・竹中路線が行う構造改革の中で、
最大の目玉が郵政民営化関連法案の絶対的成立にあった。小泉・竹中
経済路線の反国益的施策を逐次見ていた植草氏は、この政策運営を続
けていけば日本経済は遠からず壊滅的打撃に見舞われることを見通し
ていた。だからこそ、彼の提言は容赦のないものであった。それだけで
はない。彼は政府がらみ、そして外資がらみの巨大な犯罪の輪郭を見
て取った。かくして植草氏は売国勢力に狙われたのである。

今の長期勾留が国策捜査以外の理由で行われていると思っている方が
いたら是非とも私にそれを教えて欲しい。ともかく、釈放が近い植草氏は
今、命の危険に晒されている。


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2006年11月12日 (日)

植草一秀氏逮捕は国策捜査以外に考えられない

 皆さんには是非とも考えて欲しい。痴漢で拘留日数が60日を越え、
まだ続くという状況がすでに異常であることを。

 警察は植草氏のオフィスからパソコンを押収した。一部の人間は、
これはパソコンに、エロ画像や彼の倒錯的性心理を証明する画像が
ファイルされていないか調べたんだと言うが、その理由でのパソコン
押収はありえない。

 痴漢逮捕は現行犯逮捕が契機となる。これで会社のパソコンを調
べる必然性は何もない。この捜査形態は明らかに政治犯に対するも
のである。植草氏が何か政治犯罪を犯したとでも言うのか。そんな
話は誰も聞いていないだろう。

 だが、前小泉政権官邸サイドから見れば、最も熾烈に彼らの政策
を批判した者が植草一秀氏なのである。一般的に言って、政策スタ
ンスを批判されただけで、批判当事者を弾圧するなどということが今
の世の中であるのだろうか。ありうるのである。それは昨年暮れの
日朝協議の直前に、西村眞悟氏が不当逮捕されたことで、すでに
明確にあらわれていた。

 植草氏が逮捕されたのは、痴漢というでっち上げを画策実行し、
彼の発言を全面的に封じ込めるためにほかならない。同時に植草
氏の逮捕拘留を通して、前政権、あるいは現政権に対し、一切の
批判的言辞を許さないぞというメッセージを世間に与えたことにな
る。これを見ていた経済学者や政治評論家にとっては恐怖である。

 前政権や現政権の政策批判や不審点を追及すると、生業(たっき)
の道を閉ざされるばかりか、逮捕拘留されるのかという萎縮効果を
与えているのである。これは判で押したような言論弾圧である。

 植草氏に関して、まだ世間に出ていない情報がある。ことの性質
上、固有名詞は省く。あるところから聞いたが、植草氏の携帯メ
モリーに入っていた友人知人の一部が、とある警察書に呼び出し
を求められたそうである。普通、痴漢犯罪ではこういうことはあり得
ない。

 この捜査形態は明らかに思想犯罪者への手法である。現代日
本で思想犯罪なるものが存在するのか?そんなものは存在しな
い。憲法上は思想表現の自由は保護されているはずである。従
って思想犯は存在しない。存在しないはずなのに、パソコン押収
や知人への事情聴取が求められるこの現状は、植草氏の活動
が第一級の思想統制懸案になっていることの証明に他ならない。

 皆さんには植草氏の置かれている現状を看過してはならない
ことを強く言って置きたい。なぜなら、言論表現を禁じられた社会
で国民が幸せになった事例は皆無だからである。思想統制社会
への移行は断じて許してはならない。

 植草氏の事例を放置して、国家のなすがままに任せておくと、
一般国民も明日はわが身のことになる。小泉政権にしろ、現政権
にしろ、「共謀罪」などという最大級の悪法を成立させようとしてい
る政府の意図を見ても、今がいかに危ない社会に移行しつつある
かがわかる。

 断言する。植草氏は国策逮捕の犠牲者に間違いない。しかも彼
の命はいまだに危険な状況にある。国民は「共謀罪」法案の真の
意図を知っているのだろうか。この法案の目的は、明らかに国家に
とって都合の悪い批判を完全に封じることなのである。つまり共謀
罪法案が通過すれば、植草一秀氏のような不当逮捕が常態となる
のである。共謀罪と植草氏逮捕はまったく同じ線上で起きているこ
となのである。

 国民は植草事件を、有名人のただの痴漢事件という次元で見て
はならない。これは政府の邪悪な意図のさきがけとして真剣に考
えるべきだ。


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(続)植草氏は最高度の危険ゾーンに入った

 正確に言うなら、女子高生の被害証言は世間にはいまだに出ていない。
警察発表と称するものにはその事実を裏付けるものはない。事件の直後
にさまざまなメディアがこの事件を大々的に報道したが、どういうわけか、
女子高生が語ったところによれば」という肝心な表現はまったく出てい
ない。最初の報道からして奇妙である。誰が証言したか明らかにしてな
い。証言主体がいないままに痴漢報道だけが暴走したのである。しかも、
目撃者がいたかどうかも言わずに、すでに痴漢犯罪ありきの先行報道が
一人歩きし、いかにも既知の事実であるかのように流布されたのである。

 今、先行報道と言ったが、後追いで足りない部分を補完する報道さえい
まだに出ていないのである。植草氏は徹底抗戦すると言っているから、女
子高生はきちんと事実を述べて行かねばならないだろう。そうなれば事件
の概要ははっきりする。この女子高生は法廷に出るべきである。もし、あ
の件が冤罪だとなれば、自分の立場が被害者から加害者になり、植草氏
からの当然の責めを受けるばかりか、世間は女子高生を絶対に許さない
だろう。女子高生はそういうことにならないためにも真剣に植草氏と対峙
するべきである。

 可能性として、この女子高生には四つの場合が考えられる。

1)純粋な被害者としての場合。
2)からかい半分で狂言を行った場合。
3)ゆすりたかりの目的で金品を植草氏からせしめようとした場合。
4)国策逮捕(警察権力濫用)を仕掛けるスタッフとしての場合である。

 今のマスコミというものは明らかに偏頗である。報道されたのは(1)の
純粋被害者だけであり冤罪の可能性を指摘する報道はまったくと言っ
ていいほどない。

 (4)は、警察あるいは国政が絡む話であるから、報道は慎重にならざる
を得ないかもしれないが、(2)や(3)の女子高生が意図的に仕掛けた場
合については、不思議と一切言及されていない。この事件の鍵は女子
高生の存在である。彼女が何者なのか。高校の学園祭の準備で帰りが
遅れたのは事実か。彼女の交友関係は一般の女子高生の範囲内にあ
るのか。

 つまり、援交やその他の不良行為を行った経歴はないのかなどは、き
ちんと調べないと捜査の片手落ちになるだろう。証言主体がまだ確定さ
れていない以上、実際の痴漢と冤罪は同じ重さで取り扱うべきケースで
あるにもかかわらず、今回の場合は「痴漢ありき」だけが伝播され、植草
氏側の肝心な弁明は出てこない。明らかに情報の非対称が存在してい
る。

 女子高生の友人関係や生活環境がどうなっているか、つとに知りたい
ころである。彼女が純粋な痴漢犠牲者であるならば、過去に何をしたか
とか友人関係などを調べても普通の女子高生の範囲内にあるはずであ
る。しかし、もし恣意的なでっち上げをやるような女子高生なら、友人関
係にも共通した不良性があるかもしれないし、彼女の過去にはそれと
類似する行為を行っていた可能性があるかもしれない。女子高生を取り
巻く環境や、彼女の過去の行動を調べれば何か浮かび上がってくるの
かもしれない。

 もし女子高生が国策捜査に取り掛かったスタッフの一人であるなら、こ
の女子高生の身元は徹底的にガードされ、霧に包まれた状況で押し通
されてしまうことも考えられる。国策捜査の目的は植草氏の経済学者とし
ての信用性を打ち砕くことにあり、彼の発言のすべてを世間に対して無効
にすることなのである。つまり、刑が確定することを目標とするよりも、彼
が常習的な痴漢を行う破廉恥男なんだというイメージを世間に与えること
ができれば充分な効果を得たと考えているのである。

 今日で拘留が60日目である。ここまで拘留しなければならないほど、
彼の発言を封じ込める意志があるということである。私は植草氏は、故
石井紘基議員と同じくらいの重さで命を狙われていると考えている。しか
し、彼がまだ生存しているのは、品川での手鏡事件が「罠」であったと考
える者が多くいて、謀殺を安易に実行できなかったと考える。実行するな
ら、植草氏が自分の社会的生命を絶たれて絶望し、拘置所内で自殺をす
るというストーリーを造り上げることだろう。そしてその可能性はまだかな
り強く残っているのである。


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植草氏は最高度の危険ゾーンに入った

 
  植草一秀氏はここ一週間くらいは危ないかもしれない

 植草一秀氏の痴漢逮捕における拘留日数が今日で60日になる。なぜこ
こまで植草氏を世間から隔離する必要があるのだろうか。世間の耳目は、
植草氏が逮捕された時には面白おかしく興味を示していたが、痴漢の容
疑だけで拘留日数がこのように異常に長引いていることに対してはおそ
ろしく無関心である。彼をでっち上げで逮捕拘留するご本尊の意志は、彼
の社会的生命の抹殺とともに、彼自身の生命の抹殺にあると私は睨ん
でいる。

 彼が払う有名税を差っぴいたとしても、この拘禁は長すぎる。これに対し
て誰か正当な理由を言えるだろうか。言えるはずがない。なぜなら、これ
は不当逮捕、国策逮捕だからである。この逮捕拘禁を画策した者は、明
らかに植草氏と世間との接触を忌避しているとしか思えない。その線か
ら考えないと、この拘禁日数延長の理由は説明できないのである。
   
 植草一秀氏の第一回公判が近づいているらしい。それがいつになるか
まだわからないが、そう遠くはないらしい。あと何日かのオーダーである。
公判継続となれば、被害者の女子高生は唯一の証人として法廷に登場
しなければならない。公判では、被告が東京都条例違反であっても証人
の出廷は必要らしい。はたして、この女子高生は出廷するだろうか。今
回の場合、唯一の証言者は被害者本人だけである。証人自体が出廷し
なければ事件は成立しなくなる。被害者本人が出廷せずに、周囲の第三
者が、植草氏はやったかも知れないと言っても証人不在では事件になら
ないらしい。

 被害者の女子高生が、当日、警察に被害状況を告白していて、そのた
めに植草氏が逮捕拘留されているのなら、その女子高生は公判でも同じ
ことを証言しなければならないと思う。当然、裁判は厳正なものであるか
ら、被害状況を語るとき、矛盾があってはならない。植草氏の弁護士さん
は仕事上、矛盾点を見つけたら、それを根掘り葉掘り聞くだろう。しかし、
この女子高生が真実をありのままに証言すれば、矛盾点はほとんど生じ
ないで植草氏は有罪になるだろう。ところがである。この女子高生の証言
だと断定しているメディア発表は何もない。女子高生の証言だと思わせる
ような痴漢状況の説明は、すでに最初からいくつかの矛盾が見えている。

 たとえば「スカートの上から触った」、「スカートの中へ手を入れて触った」
とか、左手首に傘の柄を引っ掛けて触っていたとか、初期の段階で言うこ
とが確定していない。仮に氏が傘を持ったまま触ったことを彼女が見てい
たなら、当然、彼女は後ろを振り返っていたことになる。その不自然性も
あるが、触られたら普通に考えて、その場所を離れるのが自然であろう。
恥ずかしくて声を上げられなかったとしても、その場所から離れて行くこ
とは出来たはずである。空きスペースはあったと思うからである。いろい
ろ状況的に妙なところがある。胡散臭い商業誌やテレビの報道ではなく、
実際に女子高生の確固たる証言が必要である。何度も言うが、真実なら
証言はぶれないはずである。しかし、嘘ならその女子高生の証言は一転
二転して、信用の置けないものになるだろう。

 植草氏の命運を決するものが、第一回公判でこの女子高生が何を語る
かにある。私や他の人々の推測だが、この女子高生は支離滅裂な証言
をする可能性が強い。最初の報道で出た被害状況の説明が女子高生本
人の口から語られていると仮定したならば、そういう結論にたどりつく。そ
こで私は植草氏の命の危険をここに再度強く取り上げるのである。植草
氏は各報道機関から徹底的にその名誉と社会的信用を傷つけられてし
まった。この状況だけで国策捜査を敷いた者たちはほくそ笑んでいるに
違いない。しかし、彼らには女子高生の証言の問題が眼前に迫ってきて
いるのだ。

 どういうことかわかるだろうか。この女子高生が公判でポカを働く、つま
り支離滅裂な証言を行った場合、植草氏の犯罪性は消去されるばかりで
なく、世間の目は植草氏を嵌めた目的に向くことになる。これは黒幕にと
って逆効果である。従って、黒幕にとっては、公判前に植草氏が絶望して
自殺してくれれば最も願ったりかなったりの展開なのである。つまり、自
殺を偽装されるかもしれないのだ。そうすれば永久に口封じができるか
らである。だからこそ、公判までの何日かが最も危険なのである。植草
氏を有罪にするためには、被害者女子高生本人の証言が必要である。

 しかし、国策捜査を実行した側は、この女子高生を法廷には出したくな
いはずである。それとともに、植草氏の社会への発言も何としても忌避し
たい。この二つを満足する条件はたった一つである。それは希望を失った
植草氏の自殺なのである。この女子高生が普通の女子高生であっても、
あるいは国策捜査のスタッフ(たとえば某宗教団体の一員)として、みっ
ちり仕込まれた者だったとしても、黒幕側は表には極力出したくないはず
である。だからこそ、公判までの何日かは植草氏謀殺の危険があると考
えている。


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2006年11月 8日 (水)

靖国神社暮景

Photo_5

 昨日の夕方、所用で東京に出た折、久々に靖国神社に参拝してきた。
平日の夕方だからであろうか、参道も境内も参拝客は異常に少なかった。
ここへ来る度、いつも不思議な感慨に囚われるのだが、この空間だけは
大都会の喧騒と隔離された深閑とした時間が流れている。夕暮れ時は
特にその静謐な感じが濃厚である。

 大鳥居から神門までは距離があるので、私は植草一秀氏のことを考え
ながら歩いていた。彼は冤罪で逮捕拘留されるという不当な現実の真っ
只中にいる。国家経済を深く案じ、民族自決の経済政策を行えと堂々と
政府中枢に具申し続けてきた真の憂国者が囚われの身となった。その
ために、国家のためになる植草氏の明察的提言は封じ込められたまま
になっている。

 私は創価学会も立正佼成会も大嫌いである。理由は現世利益やお布
施至上主義が品がないからというよりも、肝心の日蓮上人の「立正安国
論」の精神が反映されていないからである。日蓮は最も過激で不退転の
憂国者であった。日本は、米国「奥の院」に掌握されたまま、池に浮かぶ
木の葉のように頼りなく漂っている。今の日本人に必要な存在は、政治、
経済、産業を問わず、日蓮のように過激な闘争心を有する理性的な救国
者であろう。今の日本こそ、官民をあげて国を憂うべき時なのだと思う。
そういうことをつらつらと考えながら参道を歩いていた。

 なぜ私が学会や佼成会のことを言ったかといえば、不遜にも私は英霊
に植草氏のことをお願いしようという現世利益の心があったのである。英
霊はお稲荷さんではない。何事に限らず、英霊に「こうしてください、ああ
してください」は、いくら何でもないだろう。なぜなら英霊はすでに国家の
ために偉大な行為を成し遂げているからである。もし、感謝の念のほか
に、何かを彼らに求めるのであれば、それは「国家安泰」であろう。植草
氏の経済提言も立派に国家のためになると確信していても、そのことを
殉国者に祈るのは屁理屈であると思った。靖国は民族の魂の館である。

 手水舎で手と口を清め、拝殿で英霊に冥福を捧げた時、いつものように
拝殿は静かに無の体をなして私を包んでくれた。不思議である。拝殿に
着くまでにさまざまなことを夢想し、大東亜戦争を想い、国家のことをあれ
これ考えている。しかし、拝殿に立った時、そのような想いはすべて消し
飛び、私は無の空間に独り置かれていることを自覚するだけである。そこ
はいつでも「無」である。無ではあるが虚無ではない。茫洋とした不思議
な温かさに満ちている無である。国家の本質とは「無」なのであろうか。

 それとも、拝殿に佇む我々は、無を感じるほどに英霊の最後の意識と
隔たっているのだろうか。同じ日本人でありながら、現代日本人は、英霊
が息をしていた当時と精神の位相があまりにもかけ離れているからであ
ろうか。多分、そうなのであろう。実はこの思いは、私が靖国に行った時
にいつも自分に問いかけることである。私は参道を帰る時、無と対面した
自分そのものを問いかけている。答えの出ない問いかけを。私は何を生
きているのだろうか。日本人皆がどこへ行こうとしてしているのだろうかと。

 しかし、神門の巨大な御紋章を見て、俗世間に向かって歩いて行く時、
いつも一つの救いの想いが湧き上がる。それは自分が日本人であるこ
とをつくづく思い知るのである。英霊はいつも「無」の顔をして私を出迎え
る。私はそこで彼らに共振できない自分を恥じる。しかし、英霊は帰り行
く私の背中越しに温かく「日本」を甦らせてくれるのだ。

 一体、戦争を体験しない現代人が靖国神社に行くとはどういうことなの
だろうか。私に限って言うなら、拝殿前だけが参拝なのではない。大鳥居
をくぐり、参道を歩き、拝殿に立ち、また参道を戻り、大鳥居を出るまでの
過程すべてが、過去の自分と現在、そして未来の自分への問いかけに
なっている。この一連の意識のあり方、変化を、英霊は茫洋とした無の
顔で見守っているのである。そしてこの静かな問いかけは日本人その
ものを問いかけている。私の靖国参拝はいつもそういう感じなのである。

 山崎行太郎先生はブログで語っている。
                  
「実は、僕も、「新日本学」の次号から、「葉隠と哲学」という論文を連載
しようと思っている。「葉隠と三島由紀夫とハイデッガー」を縦横に論じた
ものである。もっと具体的に、テーマは何かと聞かれれば、それは、「特
攻隊の死とは何であったか…」という問いへの僕なりの応答であると言
っておこう。ちゃんと書けるかどうかわからないが、自由に書いていいと
いうことなので、自分の心構えとしては、自分の代表作として歴史に残
るようなものにしたいと思っている」

 私もその内容を是非にも知りたいと思う。先生にはライフワークとして頑
張っていただきたいと切に願う。三島由紀夫は、日本人がやがてニュート
ラルな意識になることを預言していた。ニュートラル、中立、空白、虚無、
無国籍。戦前当時の日本人が、ある時を経て、そういう表現に置き換え
られるほど、今の日本人は精神の位相がずれてしまった。明らかに本来
的な日本人ではない。三島は神懸かり的な洞察力でそのことを見抜いて
いた。しかし、靖国という空間には、日本が忘れた大事なものが確実に
ある。皮相では日本の空白領域に生きる現代人も、そこに行けば自分
たちのDNAに働きかける力場があることを本能的に察知する。

 だからこそ、高校生や若い男女のカップルが、その力場に誘引されて
靖国神社に足を運ぶのであろう。昨日の夕方、暮れかかる参道を歩く若
い人々の姿を見て深い感慨が湧いた。

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2006年11月 6日 (月)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(12)

 日本はアニマルファームを過ぎて収穫農場になった

さて、再びコアーな話に戻ろう。橋本内閣時代、96年以降推進された金
融ビッグバンは、名目上はバブル崩壊後の金融システムの再生を目的と
し、業態・業務の自由化、自由な内外取引、自己責任原則の確立、情報
公開の徹底、国際水準の法制、会計および事前規制から事後規制へ監
督体制を構築する等々が具現化された。その旗振り標語として呼称され
たのが、フリー(Free)、 フェアー(Fair)、グローバル(Global)であった。
これによって行われたことは、敢えて俗っぽい表現をするなら、日本が博
打(ばくち)経済に書割変更されたということである。

 「業態・業務の自由化」とは、銀行と証券、生保と損保業務の規制緩和
が行われて相互乗り入れが出来るようになった。銀行でも証券業務が可
能になり、その逆も出来るよう垣根が取り払われた。こういう経緯をたどり
ながら、10年を経て、日本の都市銀行、信託銀行、長期信用銀行などが
メガバンクへ収斂されて行った。そこへ竹中平蔵が指揮する金融庁の金
融再生プログラムによって銀行業界は完全にグローバルスタンダードに
塗り替えられてしまった。

 金融ビッグバンは、見かけ上は日本の自主的政策で行われたかに見え
るのだが、90年代後半に「アジア通貨・経済危機」が発生した時は、日本
人が自国の閉鎖的な「鎖国論理体制」を恥と思うように仕向け、それを否
定して、昨今のグローバリズムの趨勢に合わせるように考えを切り替える
ことを促したのはアメリカである。そして、この金融改革の動きには、日本
を間接金融から直接金融へシフトさせることを最大の眼目にしていたので
ある。直接金融は、銀行の業務形態を多様化、自由化したと言うが、ざっ
くばらんに言えば先ほど言ったように「株バクチ経済」への移行なのであ
る。金融活動の主要な現場が、銀行から証券会社へとシフトしたのであ
る。

  この間の推移において、米国の内政干渉的な関与については、故吉川
元忠氏の「マネー敗戦」や関口英之氏の「拒否できない日本」などは重要
な示唆に満ちている。また、原田武夫氏の「騙すアメリカ 騙される日本」
は日本の第二敗戦の真実をよく捉えていると思う。日米構造協議という
一方的ではあったが、まだ二国間協議の体裁を有していたものが、いつ
の間にか「年次改革要望書」という占領政策みたいな「命令書」に変わっ
ていた。ところが、実質的には身動きの取れない占領政策的指令である
米国の対日経済政策は、表面上は日本人が自らの意志で行ったように
推移してきたのである。米大使館HPで、「年次改革要望書」は堂々と公
開されている。この理由は、日本人自らが隷米状況をひた隠しにしてしま
うという本性がすっかり身に付いてしまったと米国側が知っているからな
のであろう。つまり、日本人はここまで米国への跪拝心理が出来上がっ
てしまっているということである。

 かつては、日本人の怒りを直接米国に向けないことと、東京裁判史観
へ疑念を生じさせないままに日本を意のままに統治するという米国の実
に繊細で巧妙な作戦が実行されていたが、アメリカはもう占領統治意識
を隠そうともしていない。以前は巧妙に対日画策をおこなっていた。この
辺りの真相は原田武夫氏の並外れた炯眼で書かれた「騙すアメリカ 騙
される日本」に的確に解説されている。植草一秀氏は「ウエクサ・レポー
ト」で、関口英之氏の「拒否できない日本」を例にして、植草氏自身も、
1990年に日本経済がアメリカの膝下に置かれていることを指摘する論
考を書いたと言っている。

 日本人は自国の政治のみならず、経済、特に金融経済がオーウェルの
「アニマルファーム」(飼育農場)状態になっていることに無頓着なので
ある。アニマルファームに生きる自己同一性を知らずに、どのような高邁
な思想や哲学を語ろうとも、己の宿命は飼い主に喰われるだけの家畜な
のである。ましてや「美しい国へ」などという標語には、そのあまりのアイ
ロニーのきつさに、ただ、ため息だけが出るのみである。しかも・・、今の
日本はアメリカの「実験飼育農場プラント」の段階を超えて、本格的な「収
穫農場」に変わってしまったのである。ここまで急速に国富の収穫場に
経済国体を変貌させたのが小泉・竹中構造改革路線である。そのことを、
いったい、日本人の何人が認識しているのであろうか。

 りそな金融疑惑にしてもそうであるが、日本の根本問題は、外資、特に
アメリカ系金融資本の意が政策に反映されてしまうということと、意識的
に売国政策を買って出て、国益をアメリカにもたらし、国民を裏切る政治
家連中がいるということに尽きるのである。非常に深刻な内憂外患にあ
るのだが、内憂、つまり売国政治家たちを見抜けずに権力を与えてしま
う国民の知性退潮や民度低下も大問題である。日本人は真の敵が誰
であるかまったく自覚していないのである。この敵が最も強い執着心を
もって用意周到に根回しして、実現にこぎつけたものが「郵政民営化関
連法案」であった。

 植草氏は最近の「ウエクサ・レポート(2006年を規定するファクター)」
で、「大政翼賛が助長する三度目の経済悪化」の中に「2.郵政民営化は
誰のために強行されるのか」(P215から217)でこういう意味のことを書い
ている。

 国民にはきわめて関心度の薄い議案が国会での最重要案件となり、
抵抗勢力という反対グループを構造刷新に歯向かう敵と見立ててこの法
案をごり押ししたが、国民には郵政公社をなぜ民営化しなければならな
いのかは非常にわかりにくい。小泉がこの法案を強行した理由は二つあ
って、第一には銀行界の強い要請があったこと、第二は米国が郵政事業
の民営化を求めていたことにある。バブル崩壊後、銀行業界は住宅金融
公庫と共に郵便貯金の打倒が悲願であった。米国の要望としての郵政民
営化は、1996年、2003年、そして2004年の年次改革要望書に記載され
ていることを小泉が実行したのである。コクドや西武鉄道保有の莫大な金
融がどう流れるか気になるが、外国に日本の金が流れた典型は、旧長期
信用銀行のリップルウッドへの売却である。

 (次回に続く)


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2006年11月 1日 (水)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(11)

  小泉政権五年半は建国以来最も悪質な国替え期間である

 私の見解であるが、植草氏の件は小泉政権、あるいはそれを踏襲した
安倍政権のマクロ的政策ヴィジョンの本質が何であるのかということと大
いに関係がある。その本質とははっきり言えば「売国」政策内閣であった
と言うことに尽きる。よく聞くことだが、小泉政権への政策批判と、植草氏
本人の痴漢性癖は別個のものとして考えることが妥当だという訳知り顔
の言い方がある。この考えはあるレベルまでは正論であろう。しかし、植
草氏の場合のように批判した相手が、国益重視を標榜しながらも、その
実態が外資利益誘導政策であると同時に、これまでの利権構造を自分
たちの利益のために付け替えただけの政策だったとしたらどうだろうか。

 政権絡みの巨大な政府犯罪の可能性に、ある人間が感づき、それを
公表した場合のことを考えてみるといい。その公表は、政府中枢にいた
当事者たちにとって、その政治生命ばかりか人間としても致命的な結果
に至るのであれば、彼らは本気になってそれを阻止しようと画策するだろ
う。その場合、国策捜査という政府犯罪が発生する可能性は非常に高い。
今回の植草氏の逮捕拘留の場合は、その可能性が非常に高いと私は考
えている。佐藤優氏の指摘する通り、これまで続いてきた時代が政府の
意思で、別の時代に急激に変化させる場合、以前の時代を象徴し、それ
を踏襲するタイプの政治家や著名人を人身御供として国策的に逮捕する
ことで、国民には時代が変わったことを印象付け、前時代を踏襲しようと
する者たちには、彼らの抑制を促すために効果的な脅しを与える。これが
国策捜査の目的であると言っている。

 国策捜査とは、政府による都合の悪い者たちへの脅し、見せしめの意
味合いが強い。従って、鈴木宗男氏にしても、西村眞悟氏にしても、国益
重視、本物の愛国政治家が小泉政権にとって疎ましかったのである。西
村氏の場合は、拉致問題を故意に下位に置いた日朝国交正常化協議の
成功を直接の目的とするために言論を封じられたのである。しかし、これ
は結果的に失敗している。植草氏の場合は小泉政権発足以前から、彼
らのマクロ政策の誤りを指摘していたわけであるから、小泉たちにとって、
植草氏は、政策的に一貫して非常に邪魔な存在であった。その上、植草
氏はりそなインサイダー疑惑を指摘した。それに加えて、小泉政権は、旧
田中派から続いていた利権構造を解消させたのではなく、実はその利権
の仕組みの書割を変更して、自分たちの政権の利益になるように造り替
えたという驚くべきことを言い始めていた。

 そのために、植草一秀氏は一般的な国策捜査として、ただの言論封じ
だけではなく、その生命をも狙われている。すなわち暗殺される可能性が
非常に高いのである。これは私と小野寺光一氏しか指摘していないよう
である。小泉政権がアメリカの意を受けて何を目標としていたのかを冷静
に分析すれば、植草氏が国策捜査にかかり、その命を狙われる必然性
が非常によく見えてくるのである。小泉政権の大目標は国家のグランドデ
ザインを掲げることではなく、アメリカの意向に沿って、日本の国家構造を
新自由主義というアメリカに都合の良い無政府主義的な市場経済主義に
書割変更することにあった。簡単に言えば、これまでの日本を全否定して
アメリカだけの言うことを聞く「無国籍国家」への作り替えであった。

 国民は、小泉構造改革路線を従来の経済路線の大胆な改革だと思い
込んでいて、まさか国家構造のすげ替えだなどとは微塵も考えていない。
かなり深く考えた者でも、構造改革が市場経済主義を鮮明にした今まで
の経済路線の修正主義の範囲だと受け止めている。これがまったくの間
違いであることを私は強く言っておく。国民の各自が私の指摘をよく考え
てみれば、ことの真相が見えてくるはずである。はっきり言おう。小泉政
権の五年半は国家構造の完全転換なのである。

 つまり、彼の行ったことは、従来日本型資本主義へ、新自由主義の市
場経済を手段として適用したのではなく、新自由主義社会そのものへ日
本の構造を丸ごと転換する政策だったのである。一本の植木があり、そ
れを剪定することと、種類の異なる別の木に植え替えてしまうことは全然
別の話なのである。小泉・竹中・飯島たちは日本を別の国家体制に切り
替えしてしまったのである。しかも、それはまだ未完成であり、継続中で
ある。国替え政策は、安倍政権や次代の政権で完成されようとしている
のだ。日本を思う者ならば、この動きは命に変えて阻止しなければならな
いだろう。その先鞭を切った経済学者が植草一秀その人なのである。

 この見解に従えば、今話題となっている郵政造反議員たちの復党は最
も愚かな選択であることがわかる。小泉・竹中構造改革路線と、今の安
倍政権は、フリードマンの新古典主義モデルをそのまま取り入れたもの
である。あの郵政民営化関連法案というのは、それが是か非か小泉が
直接国民に問いかけた時点で、日本人全体に二者択一の決定的な選
択を迫っていたのである。

 当時の日本人は、それを国営郵政事業を民営化することという次元だ
けで捉えていたが、実際に小泉はそのことをゲートにして国民にとんでも
ない選択を迫っていた。それは小泉自身が郵政民営化を構造改革のカナ
メと言った以上、党のマニフェストの最需要項目として筆頭に上げられて
いるものである。このマニフェスト(党公認宣言書)は郵政民営化が柱とな
っている謂わば党是なのである。この党是に違反した造反議員が戻る条
件として、郵政民営化にすべて賛成するということならば、平沼氏以下、
復党議員の政治理念が根底から崩壊することは必至だろう。これは道義
的人間的にも許されることではない。

 小泉政権は、伝統ある日本国家の国替えを「構造改革」という美名で国
民を詐術にかけたまま強引に行った。それを見抜いたはずの愛国派造反
議員は、フリードマンモデルに従って国替えされた日本を回復させる役目
があったはずである。従って、非日本的な自民党に復党するということは、
自ら日本人の魂を捨てて、小泉たちと同じ奴隷民に成り下がる選択をす
ることと同じなのである。

 あの当時、郵政民営化とは、小泉一人の悲願ではなく、まさしく党是の
中心に位置していたのである。郵政民営化とは、政府事業解体であり、
伝統的国家構造解体の象徴なのである。すなわち小さな政府具現化の
最も先鋭的な政策として郵政民営化が行われたのである。米国に対して
恭順な隷属意志を最も儀式的にはっきりとあらわした一大改革だったの
である。このようなことを行った為政者は死罪に値すると私は本気で思っ
ている。国を破壊する団体への適用法律として、破防法の検討がオウム
真理教に課せられたのと等しく、国体毀損という国家破壊を国家の最高
為政者が行った場合、彼らも当然破防法の適用対象となるべき存在であ
ると私は確信する。

 小泉が政権初期に言った言葉、「自民党をぶっこわす」は、経済通の
人々からは、シュンペーターの言う、停滞した悪しき均衡を打ち破り、
新しい経済構造を創設していく、いわゆる「創造的破壊」を意味している
と捉えられていた。しかし、小泉がやったことは、創造なき破壊、身売り
するためだけの破壊、破壊のための破壊であった。だからこそ、彼らは
「破壊活動防止法案」の適用対象となるのである。建国以来、ここまで
国家の内実を非日本的なものに変えた為政者がかつていただろうか。

 郵政民営化には二つの重大な意味を持っていた。一つは年次改革要
望書の強制的な計画に則って行われたこと。もう一つは、この法案の是
非を国民に問うという形で、小泉が国民と自民党にある選択を強いたこ
とである。その選択が、アメリカの奴隷となり自国の伝統を完全否定する
か、あるいは、排斥され、置き去りにされる負け犬になるか、どっちかを
選べということであった。つまり、完全新自由主義政策を認めない奴は生
存権を持てなくなるぞということである。

 マスコミは小泉自民党を持ち上げ、背反する勢力をこき下ろした。マスコ
ミは売国本能しかないのである。結果的に国民は、売国型の小泉郵政民
営化を、そういう意味が背後にあったことは知らずに是認することとなった。
この選択が実は米国へ完全隷属する国民の意思表示となってしまったの
である。また、この解散総選挙は首相公選制の意味合いも持っていた。
かねてからの小泉の持論である。今、その理由は述べないが、首相公選
制自体が伝統国家の全否定なのである。郵政事業の改革は遠からず必
要なことではあっただろう。しかし、それが喫緊に民営化へ移行する理由
は何もないのである。国営のまま事業の効率化を遂行する方法は時間を
かければ必ず良い方策が見出せたはずである。小泉たちは急ぎ働きのよ
うに民営化を行うことのまともな理由は一切述べなかった。

 小泉が行った売国政策の結果は、貧富格差の増大、社会正義の欠如、
失業問題、自殺、環境問題への不適応など、アメリカ型資本主義が築い
てきた負の潮流を余すところなく踏襲しているのである。

 そこで、植草氏に否定的なみなさんも奇妙だと思わないだろうか。痴漢
の容疑で拘束された彼が、いまだに自由の身にならずに拘束されている
この事実を・・。植草氏は一方的に犯罪者と言われ続けているだけで、植
草氏自身の弁明はほとんど世間に伝えられていないという状況はすこぶ
る異常である。しかも、それは、徹底して今も続いているのである。なぜ
だろうか。どうだろうか。一度、植草氏自身の口から、彼の思うところを思
いっきり語らせてみたいという気持ちは起きないだろうか。それから彼を
弾劾するのなら、まだ話はわかるのである。しかし、今の状況は、最初か
ら植草氏の言論表現が封じられている。これは奇妙というよりも悪質な言
論封じが実行されていると断言できる。なぜ彼の記者会見が開かれない
のだろうか。彼の言うことを聞いてみたいとは思わないだろうか。

小泉政権の非常に顕著な特性として「情報の非対称性」がある。要する
に政府に都合のいいことしか国民に伝えないというワンウエイである。こ
の最も典型的な事象が植草一秀氏の長期拘束なのである。よっぽど、彼
に言われては困ることがあるのであろう。

 (次回に続く)


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2006年10月28日 (土)

郵政造反組復党?正気なのか

    ( YOMIURI ONLINE 10/25 より抜粋)

*********************************************************

安倍首相は24日夕、郵政民営化に反対し、自民党を離党した「造反組」
の復党問題について、「最終的には党の判断を聞いた上で、私が判断す
る」と語った。9月の首相指名選挙で安倍氏に投票した平沼赳夫・元経済
産業相ら12人の無所属議員の復党を、自らが判断して容認する考えを示
唆したものだ。首相官邸で記者団に語った。*********************************************************


 昨年、郵政民営化関連法案に反対して自民党から追放された「郵政造
反組」の年内復党がどうやら本格的に決まったようだ。来年夏の参院選を
勝ち抜くためには、造反組の復党が不可欠という話が現実的に具体化さ
れてきたようだ。この話は、郵政問題総選挙で生き延びてきた自民党にと
ってはタブーであり、党内世論を二分する危険性を孕んでいる。とは言っ
てみたものの、私には隷米自民党のお家事情などはどうでもいいことで
ある。しかし、平沼赳夫氏ら、首相戦で安倍に投票した12人が自民党に
復党することの奇態さ、その変節に心底驚いている。

 平沼赳夫氏は人間としてやってはならないことに踏み込もうとしている。
私は平沼氏が、小泉が狂気の熱情でごり押しした郵政民営化法案可決
までの国際的な意味を最もよく知悉している人だと考えていた。つまり、
あの郵政民営化法案はアメリカ主導の反国益的、反国家的悪法なので
ある。小泉自身が言っていたように、郵政民営化は構造改革のカナメな
のである。だからこそ、造反者たちは抵抗勢力として小泉たちに睨まれ、
徹底的に疎まれた。彼らは構造改革の足を引っ張る害意ある犯罪者とい
う謂れのない罪を着せられた上に流刑を言い渡されたわけである。しか
し、彼らは日本という土台から見れば、最もまっとうな正論と批判力を持
った愛国・国益派議員だったのである。

 小泉政権の本質が隷米売国にある以上、郵政民営化法案に反対した
議員たちは国家に寄与する資格を持った唯一の国会議員だった。彼ら
の仁義としては自民党に復党するなどということは絶対にあってはなら
ない。私は、竹中と飯島勲が安倍政権中枢から外れたことによって、小
泉政治が踏襲されないというサインだと初めは思ったが、安倍は小泉政
権の構造改革を継続し、より強力に推進して行くとアメリカに媚を売った
施政方針演説を行っている。

 竹中や飯島が去っても官邸にはまだ中川秀直がいる。現幹事長中川
秀直は、かつて、「小泉なくして竹中なし。竹中なくして小泉なし。それが
真実だ」と豪語して憚らず、竹中を必死になって支えてきた人物である。
中川秀直という人物は、竹中平蔵や飯島勲の手法を徹底的に踏襲して
いる人物だと私は見ている。小泉は「官邸主導型政治」という革命的な
政治体制を作った。はっきり言えば官邸独裁政治である。これを支えた
中川が、「ファッショ型官邸主導政治」を操舵しないと考える方が不自然
である。従って、安倍政権の本質は小泉政権とほとんど変わらないとい
うことである。

 安倍内閣は新自由主義による米国の肝煎り政権であることを自ら言明
しているのだ。米国に阿諛追従する新自由主義の政治形態を踏襲するこ
とは、明らかなる日本破壊である。ここに復党することは日本国家に対す
る裏切りであろう。平沼氏は女系天皇論を激しく攻撃した。そこまで日本
の国体を明示する者ならば、小泉政権踏襲自民党に復党するのは皇統
への裏切りでもある。

 平沼氏は自民党に復党して、我が国の対米隷属体制を覆す公算でも
あるというのか。もしないのであれば、平沼氏は人間としても最低の政
治家となる。私は平沼氏や亀井静香氏が中心となって、小泉売国政治
の持続を打ち破り、新自由主義に塗り替えられた日本の構造を転換して
新たに日本を始動させていく勢力のさきがけになると信じていただけに、
今回の復党意志は信じがたい。

 復党議員。そんな奴らは要らん!

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2006年10月26日 (木)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(10)

格差を怒り、弱者を思いやる植草一秀氏

 ところで、「AAA植草一秀氏を応援するブログ」の管理人さんや、「一秀
くんの同級生のブログ
」の管理人さんは、植草氏その人をきわめて優しい
人間だと書いている。私は植草氏に会ったことはないが、彼の書いたもの
を読んでいるうちに、その「優しさ」がどういうものであるかを、その折々の
文章の中に見出している。じつはそのことが私を彼の擁護に向かわせた
動機でもある。植草氏は、小泉や竹中の人を人とも思わぬ冷酷非道さと
は対極に住む人である。テレビで植草氏が政策について解説されていた
時も、彼は他の御用学者たちとは際立って異なる印象を放っていた。

 彼は常に庶民の視線で経済や政策を語るのである。たとえば「ウエク
サ・レポート」にはこういうことが書いてある。

 今求められているのは「成長重視の政策」である。言い方を変えれば、
「均衡重視の政策」である。「人間尊重の経済政策である。「均衡」状態
にある経済とは、存在する経済資源が過不足なく有効に活用されている
状況だ。働く能力があり、働く意志が有る人には働く場が存在する状況で
ある。失業が大量発生している状況は、労働力という貴重な経済資源が
遊休化したまま放置されている状況なのである。
 人間は生きていくために職業を得る必要がある。経済成長を促し、経済
を均衡状態に誘導することは、すべての国民に健康で文化的な生活を送
ることができるための条件を整えることにほかならない。日本国憲法が保
障している生存権を満たすために政府が取るべき責務とも言える。
 現在のような不況下でも、現実に生活に困窮する、死線をさまよう人々
の比率は10%程度だろう。残りの90%人々はそれなりの豊かな生活を享
受しているだろう。しかし、
貴重なのは10%もの人々が苦しみに瀕し
ていることを重大視することにある。
誰しもがいつこの10%に転じるか
もしれないのである。社会学者のロールズは
「鎖で繋がれた輪を社会
と見たとき
社会の強さは鎖で構成される一つ一つの輪のなかのも
っとも弱い輪がどれだけ強いかで決定される」
と述べた。
 現在の政策は弱者切捨ての政策である。弱肉強食を支持し、強いもの、
恵まれたものがさらに収奪を強化することを推進する政策である。同時に
日本の国富の所有権が激しい勢いで海外へ流出しており、政府の政策
はそれを回避することに力を注ぐどころか、海外勢力に国富を贈与するこ
とに貢献するものになっている。(P184~P185)

 この文章の中に植草氏の信条や、小泉政権に対する基本的な批判が
余すところなく示されている。「10%もの人々が苦しみに瀕していることを
重大視する」という彼の信条に、植草氏の人間性の核がある。実はこの
思想は「一秀くんの同級生のブログ」の管理人さんが書かれていた、植
草氏に対する人物評とまったく符号するものである。つまり、植草氏はお
そらく幼少期からデフォルトで心優しい人物なのであろう。人の裏をかい
たり、陥れたり出来ない性格のまま大人になった人のように感じる。狡猾
さや悪意がない人だと私も思う。だからこそ自ら不利な局面に入り易い
のかもしれない。人を信じ易く純粋な人間は悪意に弱いところがある。

 自分に累が及ばなければ他人のことなどどうでも良いという昨今の風
潮はますますはっきりと出てきている。こういう日本にあって、植草氏の
ような弱者に対する慈悲のまなざしは、今後の日本を創造していく上で
のキーワードの一つであろう。小泉政権や現安倍政権の格差固定を志
向する新自由主義政策の非人間的な雰囲気とは180度の違いである。
これこそ伝統的な日本人の精神性そのものである。痴漢を行う奴らとは、
煎じ詰めて言うなら、他者に対する思いやりが欠けている。被害者女性
が屈辱と恐怖に打ち震えている時に、それを無視して、自己の欲望を優
先させる卑劣さがある。ここには他者への思いやりは微塵もない。植草
氏の弱者への温かいまなざしのどこに、他者の感情を無視して自己の
欲望を優先させる無神経さ、残酷さがあるというのか。そんな酷薄な人
間ならば、10パーセントの弱者にいたわりの気持ちを持たないはずであ
る。仮に植草氏が病的な性癖を持っていると仮定するならば、彼の知性
では、その性癖と自分の経済学との乖離に我慢できないだろう。そのよ
うな心理状態で、首尾一貫した経済政策論の展開は不可能である。し
かし、彼の基本的な政策論は緻密でブレがなく、経済弱者が出ない世の
中を志向しているのである。

 私が植草氏を信じる所以は、庶民の生活と幸福を最も大事な柱にした
彼のその一貫した考え方にある。植草氏の経済思想は間違いなく経世
済民(けいせいさいみん)思想である。日本の深層に息づいていた相互
互恵主義、弱者への思いやり、経済とは人倫と世の秩序の要でもある。
こういう精神が植草氏の核に根付いている。しかし、彼はそれだけでは
ない。彼には昔の日本人に宿っていた武士道精神がある。あの優しい
風貌の中に、人々を苦しめる政策を外国の命じるがままに行う不届きな
者どもに対して熾烈な怒りを持って立ち向かう男でもある。だから、品川
駅構内で無体きわまる国策捜査に遭い、手鏡男の汚名を被せられても、
意気消沈せずに、再びあの売国政権に向かって怪気炎を上げたのであ
る。こういう人物は今の日本では得がたいのである。

 植草氏は「ウエクサ・レポート」の巻頭言の最後にこう書いている。

 「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」のが経済政策の目的であ
る。・・・・中略・・・・
 政権に「もの申す」ことが憚(はばか)られる空気が言論空間を支
配しているが、純粋な洞察に基づく、良心に偽りのない声を、あら
ゆる妨害を乗り越えて、私は今後も唱え続けていく覚悟である。

 植草氏は上の覚悟を実行して9ヵ月後に再び国策捜査の罠にかかっ
た。戦後日本は、建前上は思想表現の自由を謳歌していたように見え
るが、東京裁判史観に疑念を呈する言語表現は率先して忌避され続
けていた。小泉政権では、再びGHQの放送コードが甦った感がある。
植草氏は日本の言論封じの背後にいるアメリカを見据えていながら、
果敢にも良心に基づいた洞察で、国家を毀損する勢力を言論攻撃した。
こういう不惜身命の気概に感じたら、彼を擁護せずにはいられない気
持ちである。

 (次回に続く)

 参考図書

      「ウエクサ・レポート 2006年を規定するファクター」
                   植草一秀    

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植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(9)

   景気の逆噴射を好んでやった竹中平蔵

 竹中平蔵金融相は、昨年10月末に不良債権処理を加速する「金融再生
プログラム」を公表。資産査定の厳格化、自己資本の質向上、ガバナンス
(統治)強化の3原則に沿って、大手銀行の不良債権を2004年度に半減す
る目標を掲げた。「ウエクサ・レポート 2006年を規定するファクター」で植
草氏は言う。バブル崩壊から15年が経過し、日本企業の体力を象徴する
株価が、2003年4月に日経平均株価で7600円に暴落した。こういう局面
で株式による企業買収を外国企業に認めるという政策は、完全に日本の
無条件降伏と同じである。政府が外資による対日投資を激しく推進してい
た時、ホリエモンによる日本放送株買収騒動が起きた。これが「外資の対
日投資促進政策」の是非へと国民の関心を向けたのは、盲目的隷米政策
続きの最中にあって、ほんの少しはいい傾向だった。

 かつて、米国にはグラス・スティーガル法があり、銀行と証券は明確に
区分されていたが、制度の抜本的変革を行って、業態間の垣根が取り払
われ、相互参入が可能となった。日本も証券取引法第65条で証券及び銀
行は明確に区分されていたが、米国は日本にも制度変更を迫り、米国型
に切り替えさせた。日本版金融ビッグバンを提案したのはアメリカであっ
た。97年、98年の金融大波乱を契機に、銀行、証券、保険、消費者金融、
企業再生、不良債権処理は外国資本の跳梁跋扈する所となった。彼らの
狙いとする最後の宝の山は郵政公社が保有する350兆円の国民資金で
あり、これを獲得することで米国による第二次日本占領政策はほぼ完結
することになる。

 こういう事態の推移に対して、国会はほとんど審議をせずに成り行きに
任せている。またマスコミはその真実を報道することを実に強い意志で忌
避しているのだ。日本は完全に米国の対日占領政策に飲み込まれている
のであり、国民はこの巨大な流れに身を任せているだけである。このよう
な対日占領政策を日本内部から支え、それを意識的に推進した急先鋒が
いる。竹中平蔵その人である。彼は民族に対する裏切り者として鮮明な形
で売国政策を主導した。小泉純一郎は竹中の政策主導を誰にも邪魔させ
ないために、総理としてのその権力を最大限に行使して竹中を庇った。彼
らの売国政策の最大値が郵政民営化であり、りそなショックはその先駆け
として、日本の安全弁を壊すために金融庁が恣意的に起こした政府犯罪
の可能性が非常に高い。

 第一次小泉内閣の金融担当大臣には柳澤伯夫氏が就任した。旧大蔵
省OBであり、金融監督庁を所管していた金融再生委員会の初代委員長
でもあった人である。金融庁は2000年に金融監督庁と大蔵省金融企画
局が統合してできた行政機関であるが、大蔵省という歴史的に由緒ある
省庁の名が失われたこと自体、小泉内閣の構造改革の本質をある意味
で象徴している。日本の金融構造改悪は橋本時代から進んでいたので
ある。初代金融庁大臣である柳澤伯夫氏は、2002年の内閣改造で更迭
され、その代わり竹中平蔵がその役職に就いた。これは、小泉が柳澤氏
の従来的ソフトランディング路線を嫌ったというよりも、子飼いの竹中を使
って性急に金融改革を日本にやらせる必要があったアメリカの意向なの
であろう。アメリカが日本の金融改造をハードランディング路線で行うため
に、刺客として竹中平蔵が送り込まれたと言ってもよい。結果的に竹中
はアメリカの期待通り、有能な刺客として日本金融界の咽の深部にドス
を突き刺した。

 さて、竹中の金融再編プログラムは、自分と親しい木村剛など、民間の
有識者を招いて発足したプロジェクトチームで始められた。発足当時は、
「繰り延べ税金資産の算定ルール見直し」、「国有化による経営者の退
陣」など、それまでの日本金融界の慣習や常識などを完膚なきまでに無
視する強硬路線が盛り込まれた。「完膚なきまでに無視」した内容とは、
大蔵省が金融庁に改名されたことが象徴するように、それまでの伝統構
造を悪として無価値化・害悪化し、アメリカ一辺倒の資産査定方式を取り
入れたことになる。アメリカの金融対日プログラムは、橋本時代の金融ビ
ッグバンから、後の会計ビッグバンを経て、竹中金融庁で急激なピークを
迎えたのである。竹中の役目は日本金融システムの完全書割転換なの
であった。

 ここでも構造改革の美名の下に、日本伝統構造の破壊が行われてい
たのである。しかし、銀行や与党内部からの激しい反発があり、竹中は
一定の譲歩を迫られたが、大方では米国流のやり方がそのまま踏襲さ
れた。この時、銀行家の反対者の急先鋒であった勝田泰久氏は金融庁
の姿勢を熾烈に非難したため、勝田氏は竹中の怨恨を買い、これが後
のりそなショックの直接の契機となっている。しかし、りそなが狙い撃ちさ
れた真相は、植草一秀氏が何度も指摘しているように、政府と外国資本
がつるんだインサイダー取引による経済犯罪だった可能性が非常に強
い。

 竹中が登場する以前の柳澤金融庁の指針は、金融システム自体は大
勢としては安定しているから、個別の成績の悪い金融機関には個別対
応で行くというソフトランディング路線であった。対症療法で済むという考
えであった。旧あさひ銀行と旧大和銀行を統合させたのも、その政策の
具体化であった。しかし、アメリカの肝煎りで登場した竹中は、金融シス
テム全体も深刻な危機にあるとして金融再生プログラムを発動させた。
これが大手銀行の恐怖感を招き、株式相場の値崩れを引き起こした。性
急な不良債権処理と経営の健全化という背中合わせの方策を強いたた
めに、銀行は必死になって合理化やその他できる限りのことを行った。し
かし、竹中がこういうハードランディング路線を実行している時に、国内中
小零細企業が、その改革の軋みをまともに受けて、どれほど途端の苦し
みに喘いだか、マスコミはほとんどその社会的損失と悲劇を報道しない。

 植草氏が繰り返して言うように、経営の健全化も、不良債権の処理も両
方重要である。両方とも重要ではあるが、両者を同時的に性急に行えば、
合成の誤謬が生じて結果的に経営的生命力が低下してしまうことになる。
マクロ経済が下降気味になっている時に企業整理を行えば、景気はます
ます下降へ傾くのと同様である。

 (次回に続く)

 参考図書

      「ウエクサ・レポート 2006年を規定するファクター」植草一秀

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2006年10月23日 (月)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(8)

   グローバルスタンダードとは米国欲望資本主義の別名である

  「直言:失われた5年  ー 小泉政権・負の総決算(4)」によれば、植草
氏は、2002年9月、内閣改造に伴って金融担当大臣に任命された竹中平
蔵が、その金融再編プログラムで、既存のルールを充分な検討もなく、初
めに正義ありきで拙速、無理やりに変更したと言っている。その際、銀行グ
ループは熾烈な反対を示し、結局、この時は竹中策定は見送られること
になった。こういう背景の上にりそなショックは生起した。植草氏は加えて、
2003年のりそな処理には三つの論点があると言っている。

1)金融行政と外国資本との連携の疑い

2)りそな銀行がなぜ標的とされたか

3)りそな処理における繰延税金資産計上の不自然さ

(1)については、りそなインサイダー取引疑惑の核心であり、竹中に牽引
された小泉内閣が、外国資本に利益誘導するための構造破壊の途上に
起きた一つの型である。(2)についての説明は論を俟たないほど単純で
ある。すなわち竹中金融再編プロジェクトが始動した時、反対した銀行家
の中で、最も頑強に抵抗した急先鋒がりそな銀行社長の勝田泰久氏で
あったからである。りそなは竹中に狙い撃ちされたのである。(3)は(1)
の外国資本と金融庁との連携にも関わるが、小泉構造改革の信条でも
あった「自己責任原則」を放擲して、りそなの破綻を回避、そのうえ預金
保険法の「抜け穴規定」を利用して救済したこと。この方法には早くから
米国が関与した疑いがあることなどである。

 (2)を除き、(1)と(3)は、りそな金融ショックの核心に触れる問題点で
あろう。この疑惑の仔細については、当事者しか知りえないこともあるの
で、植草氏は当時の関係者からさまざまなことを聴取したほうがいいと言
っている。これだけの疑惑の指摘があるにもかかわらず、マスメディアは
そのことについて不自然なくらい沈黙を通している。もっともメディアがそ
こを衝いて、大々的に世の中に問題点を流布したならば、植草一秀氏は
いまだに拘留されていることなど、あるはずもないからである。

 植草氏の国策逮捕・不当拘留が、竹中平蔵の個人的な怨念だけで行
われているものなら、逮捕時にマスコミが行ったセンセーショナルな報道
だけで充分だろう。この時点で植草氏の名誉はズタズタである。しかし、
彼を意味もなく長期拘留している官憲は、明らかに植草氏の言論活動を
封じたい意志が有りありである。私の見解では、植草氏の表現活動を封
じたい大元は、小泉構造改革の本質を隠したい大元と明らかに同一なの
である。りそなショックとは、ただの金融犯罪ではない。それは、国家の
体制を根底から覆した小泉売国内閣の悪の本質が最もよく象徴された
事件として、後世の歴史に残るだろう。

 なぜなら、金融行政の権力にある者が、その権力を国政以外の恣意的な
目的で発動させる時、国家や国民を裏切る形で利益を享受できることを如
実に示したからである。しかもここで重要なことは、そのようなことが可能
な国家体制、経済体制こそ、フリードマンモデルやハイエクモデルが示唆
する新自由主義体制だからである。国民は知らねばならない、市場原理
至上主義的な国家構造とは、新自由主義の「自由」を享受する世界理念
ではなく、資本強者が限りなく富を得、金融を司る立場の人間が犯罪的に
利益を享受できる最悪の弱肉強食世界を実現する社会なのである。りそ
なショックとはそういう世界の地獄絵図を先取りした雛形的事件なのであ
る。この事件が象徴するものは、かつての伝統ある日本の終焉だったの
である。

 国民はその事実を知らずに、りそなショックを従来経済の延長線上で起
きたこととして看過している。そこが大問題なのである。植草一秀氏が釈
放され、国民に小泉政権の売国政策の本質と、りそな騒動の舞台裏を理
路整然と語った場合、国民は小泉政権の真の姿を見ることになるだろう。
それが、日本人の独立心情を急激に揺り起こし、日本人全体に意識革命
が生じる可能性があるのである。りそなとはそういう背景を宿した歴史的
に重大な事件だったのである。ここで、竹中平蔵が金融再生プログラムを
策定するに当たっての思想的背景を最近までの動きの中で少し説明する。

 関岡英之氏によると、企業の成績、つまりは企業の業績を評価するもの
は決算書である。企業の業績は株価に反映する。株価の動きを決算書に
どう反映し、どういう作業で関連付けるかなどの基本的なルールが会計基
準である。これは一般の人には馴染みにくい。世界の国々は多様であり、
伝統習慣も違い、当然、会計基準も国によってかなり異なっているようで
ある。ところが、世界経済が越境性を持ってくると、このルールが違うこと
によってさまざまに支障を来たすようになり、国際統一基準が求められる
ようになった。

 この国際ルール造りは「国際会計基準理事会」という組織が行っており、
これはアングロサクソン系が約七割という偏った人種比率で構成されてい
る。事実上、この組織はアメリカが取り仕切っていると言っても過言ではな
い。従って、日本や他のアジア諸国のように、アングロサクソンとは異なっ
た歴史軸にある国々は、当然ながら会計制度も、その国に合った自生的
で固有なものがある。しかし、国際ルールを策定する例の理事会ではアン
グロサクソンに決定的に有利なルール作りしか行われないのである。ここ
にはアメリカの国是である民主主義はまったく存在しない。

 国政会計基準に関わらず、アングロサクソン流が問題なのは、自分たち
の基準が絶対基準であり、これに反するものや整合性がないものは、市
場の自由を阻む後進性、あるいは「不正義」であると、何の疑いもなく各
国へ押し付けることになる。これは一種の侵略と言ってもいいくらいであ
る。りそな銀行の前身である旧大和銀行が損失隠しをやったころ、アメリ
カは日本の会計・監査制度を「後進的すぎる」と痛烈に非難していた。金
融ビッグバンでアメリカは日本の閉鎖性をこじ開けるための大義名分とし
て「フリー、フェアー、グローバル」の標語を、日本人自らが気にかけて呼
称するように仕向けた。

 ところで、閉鎖性という言葉は、マイナスの語感、響きを持っているが、
一般には危ない物からの防衛性、楯という意味もある。この言葉と同質の
意味を持つ言葉として、かつての日本の270年に及ぶ「鎖国」がある。これ
も西洋近代主義的な歴史観で観るなら、後進性とか遮断性というマイナス
の見方が出るが、最近の研究では日本独自の固有性、積極性の意味合
いで捉える人も増えてきている。アングロサクソン感覚で、後進性とか閉
鎖性で捉えられている事柄は、文化の独自性とか、伝統が色濃いという
歴史の連続性にもとづいた固有な構造をさす場合が多い。

 会計制度も然りである。日本の会計制度も戦後にGHQの占領方針に
則ったアメリカの肝煎りがあったわけだが、それは日本の伝統的観念に
従って日本独自のものになっていた。「国際会計基準準備理事会」の思
想そのままであるアメリカは、そういう各国の固有性を、閉鎖性とか後進
性というきめ付けで全否定させ、自分たちに都合のいい方向で変えさせ
てきたのである。その旗振りの大義名分がフリー、フェアー、グローバル
なのであった。特にその中のフェアー(公正、透明性)とグローバル(グロ
ーバル・スタンダード)に関係するものとして、会計制度の国際標準化が
行われた。この三つの言葉は、あたかもフランス革命の標語、「自由、平
等、博愛」に奇妙に似た感じがある。

 1993年11月に、ノルウェイ・オスロで「国際会計準備委員会」理事会が
開催され、13対1でアングロサクソン流の会計基準策定が敢行された。
反対した1は日本である。それまでの日本の会計基準は「取得原価方
式」であった。取得原価方式とは、企業の保有財産は、取得した時点の
価格が帳簿価格として貸借対照表に記載されていた。従ってこの価格が
時価との相違を生じても、それは「含み損」か「含み益」として扱われ、帳
簿上には明らかにされない。

 この取得原価方式は、不透明、閉鎖的、情報の非対称性と言われ、い
わゆるフェアーの原則に反しているということで日本式会計基準は攻撃を
受けた。一般にアジア諸国も日本式もそれで充分にうまく行っていたの
である。むしろ取得原価方式は企業の長期安定性を確保し、全体的な経
済システムの安定に寄与していた面がある。剥き出しの裸や二値論理的
な思考を厭う日本人は、その伝統的な知恵として、物事には故意の曖昧
さを設定し、その曖昧さの中で自己修正的なバランスを取って来たのであ
る。自動車のハンドルやブレーキの「遊び」みたいなものとでも言おうか、
それは曖昧性の効用である。

 しかし、その情報の非対称性が、インターナショナルな企業活動の弊害
になるというのであれば、性急に原価主義を時価主義に変更する前に、
日本企業にとってマイナスになる要因を突き詰め、企業の生命力を弱め
ないように慎重に事を運ぶべきであった。ところが、日本側にも閉鎖性、
不透明性という言葉に囚われて、伝統的な会計基準を悪しきもののよう
に思い込んだ人もいた。結果として1999年に「会計ビッグバン」というグ
ローバルスタンダードが採用されてしまうのである。即時性を最大のメリ
ットと捉えるアングロサクソン系の「時価主義」と、時間をかけてバランス
を取ろうとする日本の「原価主義」、この違いは奪うこと略取することを旨
とする狩猟民族のアングロサクソンと、育てることを旨とする農耕民族の
日本人の違いから出ているものである。
 
 この違いを弁えないで、グローバルスタンダードに阿諛追従した日本は
情けないと言うべきだろう。せめて大東亜戦争時の百分の一の気概でも
あればことは変わっていただろう。アングロサクソンに隷従することがど
れほど民族益を損なうことか、日本人はよく考えるべきである。たとえば、
護送船団方式などと言われ、アジア特有の一種のクローイー二ズムの
弊害と看做された日本式のシステムには株式の持ち合い制度や談合制
度など、相互互恵主義が根付いていた。アングロサクソンの市場主義が
よくて日本の同族互恵主義が悪いという二値論理的な単純化をする前に、
日本の特性を温存、あるいは修正的調整を行う努力があって然るべきで
ある。

  このようにアングロサクソン流の市場主義だけに肩入れして、日本やア
ジアの伝統や文化を根こそぎ破壊する方向へ旗を振ったのが小泉と竹
中なのである。

 (次回に続く)

  参考図書
 
1) 「直言:失われた5年  ー 小泉政権・負の総決算(4)」植草一秀
2) 「騙すアメリカ 騙される日本」原田武夫 
3) 「拒否できない日本」関岡英之

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2006年10月19日 (木)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(7)

  幻想と虚構の繁栄がもたらした日本の虚無

 1970年とは、私にとってはきわめて面白くもあり落ち着かない年でもあ
った。この年は3月に大阪万博があり、高校3年生であった私たち生徒は、
先生の引率の下、万博会場を見学に行って来た。覚えているのは人ごみ
と異様な熱気、一瞬も絶えない喧騒であった。大阪万博の真のテーゼ、
それは「進歩と調和」などではなく、科学技術が日本の直線的な右肩上
がりの繁栄を確実に保証したかのような幻想をしめす「無限繁栄」だった
に違いない。国民全体が地球の有限性を感じない無限繁栄の幻想に酔
い痴れていたのである。

 面白いことその二は、この年の6月に第二次安保闘争があり、私のい
た高校の校門にも、大学紛争の波が押し寄せてきて、学生デモ隊を教師
たちが必死な形相で堰き止めていた光景を思い出す。当時、私はこのム
ーブメントにはまったく興味はなかったが、今から思えば70年安保闘争で
は、学生を中心として急進左翼が反米独立を謳っていた。けっして皮肉で
はないが、今の従米保守連中の軽薄さや脆弱さに比べたら、この時代の
左翼闘志の方がよっぽどまともな保守に見える。

 面白いことその三、というよりもショックだったできごとがその年の秋に
起こった。11月、教室は倫理社会という授業に入っていた。先生の表情
がいつもとは違い、少し蒼ざめた深刻な感じがあったので、これはただ事
じゃないという気配は何となく察していた。先生は開口一番にこう言った。
「さっき、作家の三島由紀夫が切腹したというニュースがあったぞ」。教室
内はざわついた。先生は一通り事件の概要を説明した後、本来の授業を
そっちのけにして、国粋主義や天皇のことなど、三島にまつわるさまざま
な話を語り始めたのである。そして、最後に「君たちは同じ日本人なのだ
から、これを切腹の事件として観るだけではなく、君たち自身がこれから
生きていくうえで、三島由紀夫が行ったこと、考えたことがどういう意味を
持っているのか、君たち自身でこれからもよく考えてみなさい」と言って授
業を締め括ったことは覚えている。我々生徒は、「現代社会で切腹だっ
て?」というニュース性に気をとられ、あまり熱心には聴いていなかった。

 私はそのあと、三島にも左翼にも国粋主義にもまったく興味を持たなか
ったが、あの三島事件は心のどこかにへばりつき、意識の底に沈殿した
まま時を過ごした感じがある。それがここ十年くらいの間に意識の表層に
浮かび上がってきている。私はここで三島由紀夫論をぶち上げようとして
いるのではない。そのような知識も気迫もない。私が言いたいことは、三
島由紀夫の異常とも思える時代への洞察力である。三島は割腹自決の
四ヶ月前に、日本のその後を見通した有名な文章を書いている。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま
いったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深
くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュ
ートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東
の一角に残るであろう」
私の中の二十五年・昭和四十五年七月七日発表) 

  また、最後の檄文に書かれているが、自衛隊は「護憲の軍隊」であり、そ
の行く末は「アメリカの傭兵になる」と言っているのである。どうであろうか。
これも安倍政権とその後に続く政権の喫緊の課題になりつつあり、北朝鮮
の核武装問題でその動きはますますエスカレートする趨勢である。この預
言ももうすぐ可視的に実現するだろう。しかし、その本質はけっして日本国
家の主体性から生じているものではなく、アメリカの国際戦略上の一駒とし
て位置づけられていることを忠犬のようにやっているだけである。

 日本人の精神が無機的でニュートラルになってきたのは漸次的であった
が、自衛隊の位置づけは、憲法の私生児から、いきなり米国の傭兵に変
わろうとしているのは急激である。我々はその動きを皮相的な意味での愛
国という言葉で自身を欺瞞しているのだ。それはあたかも、心のまったくな
い小泉が、靖国神社に参拝に行く行為と一致している。村山談話を踏襲し
て靖国に行く行為は「護憲の平和」という「呪詛」を英霊に向ける行為であ
る。

 ここで、佐藤優氏の「国家の罠」を思い出していただきたい。今から36年
も前に非凡な直観力で今日の時代を見据えていた三島の近未来把握は、
奇しくも小泉純一郎と言う稀代の亡国宰相によって鮮明に実現化、可視
化されようとしているのである。佐藤優氏は小泉政権の時を「時代の転換
点」と位置づけている。佐藤氏の書いている次の文章に注目して欲しい。

「小泉政権成立後、日本の国家政策は内政、外交の両面で大きく変化し
た。森政権と小泉政権は、人脈的には清和会(旧福田派)という共通の
母胎から生まれてはいるが、基本政策には大きな断絶がある。内政上
の変化は、競争原理を強化し、日本経済を活性化し、国力を強化するこ
とである。外交上の変化は日本人の国家意識、民族意識の強化である」
                         (「国家の罠」P293より)   

 佐藤氏は言う。社会哲学風に整理すれば、ハイエク型新自由主義社会
モデルで構造変革をすることと、国家意識、民族意識の強化を同時的に
行うことは、それぞれのベクトルが逆向きである。従って、これを矛盾なく
包括的に成し遂げるためにはパラダイムの転換が必要とされるのだと。
 しかし、時代構造を分析する手段の中の、一つの作業仮説として捉え
たとしても、はたしてそれはどうなのだろうか。今の日本で生起している
排外的ナショナリズムは、皇統と神道を基底にした真の憂国気運、愛国
情念とはまったくかけ離れている。私には小泉純一郎も、安倍晋三も、
偽装ナショナリズムを気取った左翼的情熱で動いているとしか映らない。

 理由は排外という「外」にはアメリカが含まれていないからである。ナショ
ナリズムやパトリシズムと言うからには、あらゆる国々からの内政干渉を
毅然と斥けることが最低の姿勢であろう。中国や大韓民国の干渉には憤
然としても、アメリカの内政干渉については、意識、無意識レベルで受容
するこの国、このどこが民族主義、愛郷主義だと言うのだろうか。今の日
本人は明らかに国家意識も民族情念も溶解しかかっているというのが実
相である。それをもたらしている本当の元凶を見定めずに愛国も独立もあ
り得ない。勿論、安倍晋三のいう「美しい国」は幻想の中の幻想に過ぎな
い。残念ながら三島由紀夫の眼力が見通した通りにことは進んでいるの
である。

 しかし、佐藤優氏の言う「森政権と小泉政権の間にわたる深い断絶」は
決して見逃せない時代のターニングポイントである。すなわちこの「時代転
換」の狭間に、植草一秀氏の国策逮捕が生じているのである。私が植草
氏の擁護論展開において、最も訴えたい部分が小泉政権が行った「時代
転換」なのである。この重要な事実にこそ、植草氏の国策逮捕を矮小化で
きない巨大な問題が秘められていたのである。なぜなら、小泉たちが行っ
たこの時代転換は、一般国民には意識されないように非常に注意深く行
われたからである。

 一般国民はフリードマンにしても、ハイエクにしても、その新自由主義モ
デルが、日本の国柄や伝統、皇統という歴史のレジティマシーにとって、
どういう意味を持ったものかまったく考えないでいる。なぜなら、小泉たち
は「構造改革」という経済修正的な言葉で、その時代転換の真相を覆い
隠していたからである。国民は小泉たちが行った政策を単なる「経済的
試み」としてしか受け止めていない。しかし実態は「国替え」なのである。
だからこそ、関岡英之氏や私はフリードマン・モデルの向かう先が「極左
急進的アナーキズム」だと断言しているのである。

 思い出してみるといい。小泉政権のスタッフから、自分たちが行ってい
る構造改革が、新自由主義をモデルにしているとか、ハイエクやフリード
マンを参考にしているなどという話を一度でも聞いたことがあるだろうか。
彼らはそのことをどこかで発言し、どこかで文字化しているのを見たこと
があるだろうか。私にはまったく覚えがない。ということは、小泉政権は
構造改革の本質が新自由主義に基づいている事実を故意に隠蔽し、
「従来経済路線の思い切った改革」という旗振りで国民をペテンにかけ
ていたのである。この意味がわかるだろうか。私が小泉政権を「転換」と
か、「時代の位相転化」だと言うのは、この短い五年間に日本という国の
質がすっかり変わって別のものになってしまったからである。すなわち国
替えされてしまったということなのである。

 小泉政権が行った、この「国替え工作」の頂点、すなわち国政ベクトル
が鋭角に変わった転換点に当たるのが「りそな金融ショック」だったので
ある。それまでは、戦前精神のイナーシャがかろうじて継続していたが、
小泉政権はその最後の力まで消滅させてしまったのである。国内外の
金の動きを監督するために、最も厳しいモラルを必要とする金融庁が、
日本人の誠実な魂を踏みにじる行動を行った時点で、それまでの日本
は終わったのである。現時点でも、このことに気が付かない国民は小泉
ポピュリズムを醸成した大衆層でもあるが、彼らは三島の預言にあるよ
うなニュートラルで無国籍な日常に揺曳しているのである。そのニュート
ラルという意味は極限的な空疎感、つまりは虚無感である。

 小泉純一郎を好ましく思った国民は日本人としてのリアリティを完全
に喪失しているのである。これほど不幸なことがあるだろうか。市場原
理主義に埋没した政権は、かろうじて残存していた日本の伝統精神や
共同体的原風景を憎悪し、敵視し、その殲滅に乗り出した。規制の徹
底解除とは日本的なるもの、伝統的なるものへの熾烈な憎悪に他なら
ない。これこそ新自由主義の思想的行動力学にほかならない。

 この本質を最も的確に説明しうる立場にあった識者が植草一秀その人
だったということである。りそな問題を彼が究明し、その国家的犯罪性を
暴いていくと、最終的には小泉構造改革が、ただの経済政策ではなく、
米国の思惑に百パーセント従った、非日本的な新自由主義構造に日本
社会が転換されたことに国民が気付いてしまうからである。つまり、小泉
が行ったことは、先祖に泥を塗る国体破壊であったことに気が付くのであ
る。りそなインサイダー疑惑で、謀議者たちが儲けた金が数十億円か、
あるいは数百億円かわからないが、問題は金銭的授受を超えて、小泉
たちの売国実体が白日の下に晒されることになることなのである。

 植草氏が踏みつけた虎の尾とはそういうことなのである。国民が国体
破壊の実態に気が付いた場合、瞬く間に世論形成が起こり、国民は二
大政党の政権交代実現などということよりも、新自由主義という構造改
革、いや、「構造転換」をやった政権や政治家たちを真っ先に糾弾する
だろう。それは一種の覚醒である。これが民族を囲繞している極東国際
軍事裁判の桎梏を解放し、WGIP(War Guilt Information Program)の鎖
を引きちぎる可能性がある。だからこそ、国内売国勢力もアメリカもその
ことを最大限に警戒しているのである。植草氏がその起爆剤となる最も
危険な人物であることを彼らは知り抜いているのである。

 さて、今回は時代のマクロ的な俯瞰を行ったが、次回は「りそな金融ショ
ック」のミクロ的な観点に視線を持っていく。物事は大きな視座から生々し
い現在性へ、そしてまた大きな枠組みに視点を換えるという焦点の当て
方を繰り返しながらやる方が自分の性に合っている。

 (次回につづく)

 

 

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2006年10月18日 (水)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(6)

  背景にはアメリカの一貫した対日戦略がある

 植草氏は最近の「ウエクサ・レポート(2006年を規定するファクター)」中
で、米国の対日金融戦略はきわめて長期の視野に立って行われており、
橋本龍太郎が金融ビッグバンの構想をぶち上げた時、私はこれが米国
の対日戦略であることを強く訴えたと書いている。また、植草氏は、金融
をめぐる意見対立について関岡英之氏の見方を引き合いに出してこうも
書いている。当時から今にかけて、日本では「国益擁護派」と「米国従属
派」に分かれた対立があり、(小泉政権にいたっては)真に国益を踏まえ
た「独立自尊」を軸に主張を展開する人々が、マスコミ支配の権力を行使
する「米国従属派」によって「抵抗勢力」として殲滅されかけていると。
                                                                                    (P459)

 これを私流に延長して言えば、マスコミ権力を盾にする米国従属派の
総本山が、最も先鋭的な「抵抗勢力」つぶしとして実行したことが「国策
捜査」という国家犯罪なのである。植草氏は上記レポートを書いていた
時点では、まさか自分が再度国策捜査の毒牙にかかるとは思っていな
かったと思う。しかし、9月までの彼の言動が、強烈な政府批判と同時
に、りそなショックの巨大な暗部を糾弾し始めた矢先、彼は再び国策に
よる口封じ作戦に捕らえられてしまった。小泉内閣とは米国従属勢力が
最も先鋭化した内閣なのである。それを引き継いだ現内閣が、その国
策の手を緩めていないのなら、植草一秀氏のいまだに解けない長期拘留
の謎は理解できる。安倍政権も従米売国政権の可能性がきわめて強い
ということである。

ところで、前回では、小泉構造改革がフリードマンの徹底した考え方で
行われていることを書いた。しかし、大ナタをふるったと言われるその構
造改革は国民に是認される下地がすでにできていたのである。少々長
くなるが、りそなショックを解明するためには、その伏線的背景として橋
本時代の金融ビッグバン辺りからの日本の経過を簡単に述べておこう。

 1989年、ベルリンの壁が崩壊、二年後にソビエト連邦が完全解体さ
れた。冷戦構造が消滅したこの辺りから世界は再び帝国主義の様相を
呈してきた。それは二極対立的な軍事均衡が崩れたあとの混沌状態で
あるが、世界が再びそれなりの恒常的均衡に落ち着くまでの揺れ動き
の中、世界における各国の経済ヘゲモニーは、大戦後、最も熾烈な様
相を帯び始めて来た。それまで、西側の軍事大国としてソ連共産圏を睨
んでいたアメリカは、今度はその国際戦略を経済問題に振り向けてきた。

 それまで世界の勝者であり自由圏内の庇護者、指導者であったアメ
リカが、今度は自分に従っていた国々に対して、極めて洗練された頭
脳的経済侵略の牙を向けてきたのである。これは、東西冷戦が消滅し
て、それまで抑制されていたアメリカの本質が出てきたという捉え方が
できるわけであるが、我々は当時のことを思い出すと、ある一つの不
思議なできごとに気付く。それはアメリカと日本の間で起きていたあの
熾烈きわまる日米貿易摩擦の話が’90年代になっていつの間にかす
っかり消滅していたことである。

 日米経済摩擦とは言うが、その実態はアメリカが一方的に日本に対
して、フェアーな貿易関係が樹立できない、従って、日本特有の組織構
造が駄目だから何とかしろという言いがかりである。実はこれが曲者だ
ったわけであるが、当時の外務省や政府関係者は、アメリカのこの執拗
な大騒ぎに辟易していた。しかし、ドイツ・ナチ、ゲッペルス宣伝相の鸚
鵡効果ではないが、アメリカのこのワンパターンな遠吠えを繰り返し聞
いているうちに、「本当に日本市場は閉鎖的なのかもしれない」などと
思うようになってきた者も出てきた。

 この意識の変化は、グローバリズムという言葉が、日本の知識人た
ちの口に頻繁にのぼり、それがあたかも国際経済のスタンダードでも
あるかのような錯誤が浸透していったことと期を一にしていた。もうひと
こと言うなら、日本から伝統観念や共同体意識が希薄化してきたことも
内在的な要因ではあった。さらにもうひと言付け加えるなら、戦後日本
に常識として根付き始めた「国際化」という標語の浸透とも同期してい
る。この常識とは、真の国際化という意味から乖離し、アメリカの標準
にいかに近づくかという思い込みであった。

 日本人は国際標準という漠然とした概念を、アメリカと国際金融資本
が提唱するグローバルスタンダードだと思い込んでしまったのである。
あとで説明するが、グローバルスタンダードというアメリカ一国の経済
覇権的な戦略を、日本人が普遍的な世界の趨勢だと読み違えてしま
ったところに、小泉政権という日本史上最悪の内閣が誕生する土壌が
あったのである。

 話を15年前に戻すが、日米貿易摩擦の喧騒の中で、アメリカの口撃
に頭にきていた日本人も、一方では、経済体制をモノから金融へ、生
産から情報革命へと、アメリカ並みの「近代化・進化」を遂げる必要を
痛感していた。そして、平成バブル不況に至っては、そのアメリカへの
思慕は、半ば脅迫観念を持っていたようなところもあった。そういう中
にあって、1993年、宮沢・クリントン会談で「年次改革要望書」の取り
決めが合意され、その辺りから、日米通商関係に関する摩擦やごた
ごたは不思議なことにきれいさっぱりと消えてしまい、小泉政権が始
動する数年前までにはほとんど耳にすることはなくなっていた。

 1996年、橋本龍太郎政権時代には、金融ビッグバンが起こったが、
その時の掛け声が「フリー、フェアー、グローバル」であった。金融ビッ
グバンは、小泉構造改革の予兆的原型を持っていた。それは金融に
特化された規制緩和、規制撤廃であり、いわゆる国際化に柔軟に対
応できる金融システムを作ろうということだったのである。ここにも「グ
ローバルスタンダードに合致する構造改革」という暗黙の了解ができ
ていた。また、ここには急速なIT化など、第三次産業革命と言われる
情報革命の進展があった。この時に目指したものが国際市場に倣っ
て、さまざまな規制に関する法制度の変革と会計制度の国際標準化
であった。グローバルスタンダードにあわせたこの会計制度の変更が、
2003年のりそな銀行国有化におけるインサイダー取引疑惑と重要な
関連性を持っているが、その話はもう少し後になる。

  この時点で、日本の金融界も、これまでのきわめて日本的な、そし
て集団主義的な共同体意識の変革とともに、護送船団方式による旧
弊なシステムを、新たに流動的市場原理に変えて刷新して行こうとい
う機運が生まれた。ここに小泉純一郎が気に入って繰り返して使用し
た言葉、すなわち「自己責任原則論」の萌芽があったのである。この
時の掛け声が、フリー(自由市場)、フェアー(公正な条件)、グローバ
ル(国際化)なのであった。記憶している方々も多いだろう。

 当時はバブル崩壊のショックで知的な後退に陥っていた日本人は
今、この時のことを冷静になって総括する必要がある。すなわち、あ
の金融ビッグバンとは、国益に敵う改革だったのかということと、それ
までネガティブにイメージ化された「日本の護送船団システム」が、本
当に時代遅れで機能障害を負い、全否定に値する産物であったのか
という真摯な問いかけである。

 フリー、フェアー、グローバルとは、日本人や他のアジア諸国をだま
す最も適切な標語群であった。しかし、落ち着いて考えてみるとこの三
つの標語には決定的に欠落しているものがあることに気が付く。それ
は文化や伝統の大切さが見事にというか故意に抜けているのである。
フリー(自由市場)、フェアー(公正な条件)、グローバル(国際化)とは、
フリードマンが提唱する世界、新自由主義そのものの世界観から成り
立っていることに気が付く。

 (次回に続く)

 参考図書
         植草一秀「ウエクサ・レポート」(2006年を規定するファクター)」
                              市井文学株式会社刊

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2006年10月17日 (火)

マッドアマノ氏の記事を読んで

「AAA植草一秀氏を応援するブログAAA」さんの最新記事に
マッドアマノ氏のサイトが紹介されており、その中の記事に植草
氏のことが言及されていた。

「竹中平蔵・議員辞職の謎と植草氏逮捕のカラクリ」(2006.9.28)
というコラムだが、そこに書かれていることは、ほぼ私の見解と
等しいものであった。マッドアマノ氏は、品川駅構内・手鏡事件の
係争中だった植草氏と弁護士にそれぞれ別の機会に会って事情
を聴いたことがあるそうである。その結果、彼は植草氏は権力に
ハメられたと確信していると断言している。

 このマッドアマノ氏の見解は重要である。直接、植草氏本人に
会った印象で言っている言葉は重い。推測や推論以外のダイレ
クトな印象があるからである。マッドアマノ氏は、植草氏がりそな
銀行インサイダー取引疑惑に言及した際、「りそな救済劇」に米
国が関与していることに触れたが、これが虎の尾を踏んだ可能
性があると言っている。

 私も最近はそう思い始めている。国策捜査は小泉政権の官邸
筋から出たのだろうが、これを指令した大元は米国ではないか
と思う。興味があったら是非読んでみて欲しい。

     http://www.parody-times.com/

 (この中の「最新パロディ」というコラムにある)

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2006年10月16日 (月)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(5)

  時代の強制転換を秘密裏に行うために植草氏は口封じされた

 私は、植草一秀氏の国策逮捕を追求し始め、「りそな金融ショック」問題
にたどり着いた。自動機械の装置設計や機械部品の設計などで細々と糊
口を凌いでいる私にとって、経済論はおろか、金融業界などの動向を語る
に至っては、門外漢などということさえ通り越した自分の無知蒙昧を感じて
いる。しかし、植草氏の無念を一刻も早く晴らしたい一念で、その恥をこら
えながら思ったことを書いていこうと考えている。

 さて、私は「植草つぶしは『りそな問題』の隠蔽にある(3)」で、フリー
ドマンの自由主義経済思想を素人なりに説明してきた。読者には、金融
問題、経済問題に特化された「りそなショック」に、新自由主義(新古典主
義)経済の説明などまったく不要ではないかと考えている人もあるだろう。
ところが、私はそれこそが「りそな問題」と「植草冤罪」の核心だと考えて
いる。私は植草氏が嵌められた、冤罪策謀が、「日本型資本主義経済」
と「アメリカ型新自由主義経済」の熾烈な対立軸の中で生起した国策的
な事件であることを確信している。

 それは、表現を換えて言うなら、佐藤優氏が「国家の罠」で語っていた
国策捜査がなぜ起きたかとということにも密接に関係している。氏の「国
家の罠」292ページに書いてあることに従えば、現在の日本(この場合、
小泉政権の五年間を言う)は、内政におけるケインズ型公平配分路線か
らハイエク型の傾斜配分路線への転換と、外交における地政学的国際
協調主義から排外的ナショナリズムへの転換という二つの線で「時代の
けじめ」をつける必要があり、その二つの線が交錯する箇所に、国策捜
査で狙われるターゲット、すなわち、その動きを鋭く捉えて警鐘を発する
知識人がいるということである。

 佐藤氏の表現は少し難しいが、私なりにわかりやすく言い換えるとすれ
ばこうなる。小泉政権という異常な政権が志向した政策とは、これまでの
日本型資本主義体制から、フリードマンが提唱した新自由主義経済体制
へ日本構造を転換する作業そのものに他ならなかった。佐藤氏が説明し
たケインズ型からハイエク型へという意味はそういうことである。また、「地
政学的国際協調主義」から「排外的ナショナリズム」へ転換するという意
味は、具体的な解釈をすれば、憲法九条の改正を目論み、これまで堅持
してきた戦後日本の絶対平和、絶対不戦の方向性を転換し、場合によっ
ては中国と軍事的に対抗できる路線へ変更していくということである。

 小泉・竹中路線は、今述べた二つの線の一つ、経済構造の転換は比較
的スムーズに行ったが、後の線、つまり排外的ナショナリズムへの転換は
まだ実現していない。これは小泉改革継承路線を踏襲すると断言した安
倍政権やその後の政権に託すことになったのである。従って小泉純一郎
が引退した後も、これが実現するまでは彼の院政が続く可能性は非常に
高い。狂気の宰相がトップから退いても、実質的には狂気の独裁政権が
今後も継続することは充分に考えられる。

 二つの線が交錯する時代と言うと何やらむずかしい感じがあるが、それ
はこの動きが日本国内の自生的自立的な動きだと捉えてしまった場合で
ある。実はこの動きは何もむずかしいことはない。この動きの力学的供給
源は日本ではなく、アメリカにあるのである。我々が「年次改革要望書」を
ただ、アメリカに有利なだけの商取引の次元で行われていると思ったら大
間違いである。アメリカの対日プログラムはそのような生易しいものではな
い。佐藤優氏の書いた「二つの線」とは、私流に深く掘り下げて言えばこう
いうことである。

 一つ目の線) 対日経済プログラムとして、日本に利益確定シス
          テムを構築し、恒久的に日本の国富を搾り取ること

 二つ目の線) 憲法を改正して自衛隊に交戦権を賦与し、アメリカ
          の傭兵として中国軍と戦わせること

 この二つがアメリカの日本改造の主目的なのである。アメリカは経済的
に日本から効率よく利益を本国に誘導し、搾り取れるだけ搾り取る算段な
のである。同時にアメリカのために日本という国を極東アジアの防波堤に
造り替え、場合によっては日本の自衛隊を中国軍と戦闘させる底意があ
る。おそらく、そのためには、アメリカの管轄範囲、限定的条件の範囲内
で日本核武装を推奨する可能性もあるだろう。 

 話を小泉政権の構造改革路線に戻すと、そのやり方、その政策決定の
さまは、劇的に急進的な革命政権の行動様式であった。その性格が最も
顕著にあらわれたのが、郵政民営化法案可決までの行動であった。郵政
民営化法案の異常に短い決定過程はいまだに人々の脳裏に鮮明に記憶
されている。竹中・小泉の構造改革とは構造破壊なのであった。この小泉
政権の不可思議なところは、日本の伝統的な構造をラディカルに破壊した
こと、つまりその構造改革の実態が急進的な構造解体であったことを国
民にひた隠しにしていたことにある。不可思議というか、実際はそこが非
常に悪質なのであるが、その理由は次回に書く。

 表面上は「希望の構造改革」という勇ましい掛け声で行っていたが、実
際は国民を偽り続け、米国のために利益供与確定システムを構築し、日
本固有の市場構造ばかりか、日本人の精神文化も破壊したのである。小
泉がやったことは、日本人の考え方を変えるために、新自由主義を啓蒙
することなく、構造改革という欺瞞の旗印で構造を先に変えたのである。
その新自由主義的な構造改変も、日本人の心を形から入らせて行く形を
とったのである。その意味するところは、日本人の心から伝統文化的な
固有性を取り除いて無国籍状態に置き、パブロフの犬よろしく、アメリカ
の忠実なロボットに造り替えることにある。

 以上、時代の転換点で、前の時代にけじめをつけるために、前の時代
にけっして後戻りしないために、前の時代を象徴する人物たちを見せしめ
として血祭りに上げるのが「国策捜査」なのである。これに狙われてしま
ったのが、鈴木宗男、佐藤優、西村眞悟、そして植草一秀である。彼ら
に共通することは、世の中に影響力を持つ本物の愛国者であるという一
点に尽きるのである。特に植草一秀氏は経済政策のスタンスから、この
偽りの政権の正体とその悪逆な本質を最も的確に見抜いていたと思わ
れる。彼はりそな金融ショックの背景に、小泉政権の確信犯的な国政誤
導を見通していた。従って政府(現政権も含む)は、植草氏が真相を語る
ことによって、「反構造改革」の劇的な世論湧出になることを真剣に危惧
しているのである。これが植草氏の冤罪逮捕と長期拘留の真相である。

 再度繰り返して言うが、世の中の転換点というのは、けっして自生的、
自律的な意味での転換ではなく、アメリカによる無言の強制命令で行わ
れている他生的、他律的な転換なのである。この様相を見抜いた国士た
ちが狙われたのである。次回は日本がフリードマン思想による経済構造
に塗り替えられたことと、植草氏が人身御供に狙われたことの関係性を
書くつもりである。上に掲げた数名の国策捜査による被害者で、植草一
秀氏が小泉政権にとって最も脅威を有した人物である理由を次回で述
べたいと思う。

 (次回に続く)

 参考図書  佐藤優「国家の罠」(新潮社) 

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2006年10月14日 (土)

熊本敬神党随感

   アカショウビン様のコメント

久しぶりにブログを拝見させていただきました。植草氏にあまり興味
はない小生ですが、氏をめぐる各論説は興味深く拝見しています。
 氏に対する対する管理人さんの言説も興味深く、それは決して自
己陶酔閑話ブログではないでしょう。
 「超賎人は人類の敵」さんのハンドルネームはともかくその論旨は
明快です。中高年の自殺が3万人を超える日本の現状は確かに異
常と思います。まして小学生の児童や中学生が自殺するのは平常
が或る境域を超えて病的症状を呈していると思われます。
 小生も現在の現状を憂える者ですが、さてどうするのか。ここのと
ころ「神風連とその時代」という渡辺京二さんの新書を読んで触発さ
れています。熊本敬神党の思想的支柱だった林 櫻園と言う人物が
興味深い。管理人さんはお読みでしょうか?



 アカショウビン様、お久しぶりです。コメントありがとうございました。

>中高年の自殺が3万人を超える日本の現状は確かに異
>常と思います。まして小学生の児童や中学生が自殺する
>のは平常が或る境域を超えて病的症状を呈していると思
>われます。


 まったくその通りだと思います。植草一秀さんによれば、小泉内閣が発
足してから、中高年の自殺が毎年、年間三万人を越え続けている現状が
あり、この自殺の原因は、大枠では経済的困窮に起因しているそうです。
これは単純に言えば、アメリカの対日本プログラムが、日本の国富を獲
得するために、小泉傀儡政権を介して行った利益移転システムの構築
に主な原因があると思います。小泉傀儡政権はアメリカに日本の富をた
だで貢ぐためだけに「構造改革」という名の「革命的破壊」を行いました。
この破壊は経済構造のみならず、国柄や日本人の道徳律にまで及んで
います。子供たちが小泉のやり方を真似て、気に入らない奴は抵抗勢
だからどんなことをしても排斥するという攻撃的姿勢しか持たなくなりま
す。謂わば、小泉は政府レベルで日本を学級崩壊させたような感じで
す。構造改革政権はモラル・ハザード政権でもありました。

 小泉がやったことは、構造改革、構造刷新による創造的破壊などでは
なく、それとはまったく対蹠的な国家破壊、すなわち破壊のための破壊
です。彼らが目標に掲げた「構造改革」は、新自由主義的発想をそのま
ま政策に用いた日本破壊であることを、私は度々指摘しています。この
ため、市場原理至上主義が瞬く間に日本社会を取り巻き、それは蛇の
毒のように、日本という国家を衰弱させています。

 小学生や中学生が自殺し、今までは考えられないような尊属殺人や
凶悪な事件が頻発してます。これは形態的に言えば、弱肉強食の本尊
国家・アメリカの社会風土がそのまま入ってきたと言えますが、精神的
に言えば、日本の国を預かる立場の人間に独立自尊の気概が喪失し
たことを意味しています。同時に小泉純一郎なる大漢奸や、その奸臣
たちを野放しにしてしまった国民精神の退廃にもあると思います。

 この民族存亡の危機に際して、どのような方法、どのような心構えを
日本人は持たなければならないのか。それを死ぬ気で考える時点に今
の日本は突入しています。私は寡聞にして、神風連(しんぷうれん)・
熊本敬神党のことも、林 櫻園という碩学のことも良く知りません。一つだ
け読んだもので、今、手元にあるものは、三島由紀夫の「豊饒の海」第
二巻「奔馬」に書かれてある「神風連史話」です。ここには絵巻物のよう
に熊本敬神党の発起から、その壮絶なる最後までが叙述されています。

 実は、私は大日本帝国海軍の魂が、いや当時の日本人すべての魂
が結晶化してでき上がったようなあの戦艦大和が、水上特攻(菊水)
作戦において、爆沈に向けたその最後の航行を決意した時の、艦長
以下乗組員たちの精神の持ち方を知りたいと思っています。それに関
してはいろいろな本が出ていまして、それぞれに頷くことは多々ありま
すが、根底において、今一つ、私を納得させないものがあります。最近
になって、そこに欠落しているものが熊本敬神党の心持ちではないの
かと思うようになっています。

 明治維新、欧風の合理精神が日本を席巻し、日本人の大和魂の純
粋性が汚染されることを最大の危機と考えた大田黒伴雄以下170名
の、思いを等しくする同志たちは、熊本城の鎮西鎮台を襲撃しました。
この時の大田黒のいでたちは、烏帽子姿に日本刀という、日本の伝
統、精神、文化を象徴し、廃刀令に屹然と背く日本の魂をあらわした
ものでした。170名の彼らの戦い方は壮絶そのもので、欧米近代科学
が生み出した火器、すなわち銃や大砲類を一切用いずに、近代兵器
を有する二千の敵に向かって討ち死にを遂げました。

 この実戦記を戦後感覚ですなおに読むと、あまりの馬鹿ばかしさ、無
駄死にの極地に圧倒されてしまうわけですが、なぜか、読み進むうちに
涙が止まらなくなります。彼らを、極端な復古神道主義のカルトだとか、
超国粋主義だとかいろいろな見解はあるでしょう。しかし、私でさえも、
心の奥底を揺さぶられる何か名状しがたい感動が起こってくるのはな
ぜなんでしょうか。神風連には明らかに本居宣長の有名なあの一句が
凝集されているからでしょうか。そこには理屈を越えた純粋さがありま
す。

 敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花

 一機の護衛戦闘機も伴わず、戦果を期待できないことがわかりなが
らも、三千名の兵士を乗せて死出の航海に踏み切った戦艦大和、私
はここにあらわれた深層の精神に熊本敬神党を見るのです。日本と
いう国は、時代が存亡の危機に達すればかならずや熊本敬神党、あ
るいは2.26事件の青年将校たちのように、やむにやまれぬ大和心
が出てくるのではないでしょうか。私には、それが日本人本来の救国
精神の発露なのではないかと感じています。

 平成現代、日本人の精神が内部から瓦解しかかっている今も同じで
はないでしょうか。小泉純一郎のような大漢奸が国家壊滅をたくらむよ
うな時代、第二、第三の神風連が出現するのではないでしょうか。で
なければ、神が何のためにこの日本をこの世界に存続させてきたの
かわからなくなりますから。

 アングロサクソンは人類史の害虫です。それ以外の何物でもない。
その害虫に隷属するなどということは、日本人のあり方にとって最も忌
まわしいということに尽きるわけです。若い人は日本がかけがえのない
国であるということを知るべきです。 

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2006年10月13日 (金)

燕子の遠吠え

  下は読者からのコメントである。

==============================

「閑話休題」?、なんだ、今までのは無駄話だったのか。今回も従来と同
一論調なんだが・・・。

マル激トーク・オン・ディマンド」第210回、植草氏の表情に植草氏の心の
動きが出てますね。例えばpart1の54分頃(友人の下着姿の写った携帯
や家宅捜査で押収もセーラー服に話題が及んだ頃)の植草氏の表情か
ら垣間見られる心の動揺。苦衷の表情と絶句とに神保氏が慌ててとりな
す場面など。

 マル激第210回は植草氏に肩入れしてた印象を受けたのだが、その後、
蒲田での三回目逮捕があって、神保・宮台両氏の植草観がどう変わった
か興味がある。分別ある人びとが三回目逮捕で冤罪説と訣別、「擁護派
激減したのは何故?」と管理人氏をして慨嘆せしめた。


ここは所詮、自己陶酔「閑話」ブログ。読ませて貰う度に「なにを燕子が
実相を談じ顔なる」の思いを禁じえない。

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反論コメントとしては、このお人の書き方は秀逸である。それはさておき、
たしかに「閑話休題」の題名は不適当だった。最初は植草氏に関わりな
い話を予定したが急に気持ちが変わり、従来の話の延長になってしまっ
た。私もこの「マル激トーク・オン・ディマンド」第210回 を観ているので、こ
のコメントに答えてみる。

「(友人の下着姿の写った携帯や家宅捜査で押収もセーラー服に話題が
及んだ頃)の植草氏の表情から垣間見られる心の動揺
」と言われていた
ように、その箇所では、植草氏の心理的な動揺を私も感じた。しかし、こ
れについても、私は同じ男として弁解できることがある。性的なフェティッ
シュは人間であれば誰でも例外なく持っていると思う。これは神保氏や
宮台氏が言ったことにも繋がるが、フェチは内面の範囲の中で多様性を
持っていて、人によって千差万別である。

 問題はその傾向が、他者に関わる行動として出た場合、法律に抵触
する範囲内にあるかどうかである。友人の下着姿写真の真偽はわから
ないが、仮にそれが事実だとしても、それは秘匿している限り、フェティ
ッシュの範囲内にあることだと考える。普通に考えても、性は各自のプ
ライバシーの範囲にあり、個人にまつわる公私の併存においては「私」
に属するものである。

 女性の下着姿の写真、そのような物が携帯に入っていたとしても、そ
のことをもってして、手鏡で覗いたことが証明される、あるいはその犯罪
と連続性を持つんだという指摘はまったく当たらない。それがある個人の
犯罪性を担保する物的証拠となるのであれば、週刊誌のヌードやグラビ
ア写真を見る男は全員有罪となる。イスラム社会ならいざ知らず、日本に
おいてはあり得ない。

 セーラー服の件も同様である。これもフェティシュの範囲内にあり、盗ん
だとか、女子を強要して確保したとかいう話でなければ何の問題もない。
問題があるとすれば、そういうフェティッシュの部分を公的に自ら恣意的
に公開するという行為であろう。これは犯罪ではないが、公徳心や倫理
的には問題がある。そういうものを、官憲によって出されたとしても、それ
が都条例違反の行為にはまったく結びつかない。性的フェチシズムが犯
罪の担保になるのであれば、人類は全員有罪ではなかろうか。「欧米か
よっ!」風に言うなら、人類は誰一人として例外なく「原罪」を有している
から有罪であろう。ふとヨハネ福音書の有名な記述を思い出した。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を
投げなさい。」これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人
と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

 私も含めてだが、我々は自分のことも省みずにこの手のことをやって
いる。 四六時中、女性の裸のことを微塵も考えずにいる男がいたなら
その人は珍獣の部類であろう。


「(友人の下着姿の写った携帯や家宅捜査で押収もセーラー服に話題が
及んだ頃)の植草氏の表情から垣間見られる心の動揺
」 というコメントの
話は「だから何だ」ということに過ぎない。不特定多数の見ている場所で、
自分のプライベートなフェティッシュを指摘されたら、どんな男でも動揺す
るのは当然である。恥ずかしいからである。人間には公と私の顔があり、
この両者は峻別される場合と、同時に出る場合と、互いに連続的に関
わる場合があると思う。国士と言われる人もこれは例外ではない。

 必ずしも適当な引き合いだとは思わないが、知識が足りないのでこれ
しか思い浮かばない。アブラハム・H・マズローの五段階欲求階梯心
理学を例に出せば、人間の欲望は段階があって大枠では自己実現とい
う最終段階にベクトルを向けるが、実はそんな単純なものではなく、日々、
要求の次元は事細かに揺曳している。男であれば、アダルト映像を観
たくなる時もあれば、次の日は社会や人類の行く末に思いを馳せる時も
ある。低次要求や高次要求がばらばらになって複雑に混在しながら生
きているのが人間である。

 性的な部分での要求が異常に突出して、それが他者を巻き込む行動
に出た場合は間違いなく犯罪である。しかし、人間一般の情動・欲情の
範囲内にあるものを恣意的に引っ張り出して、これに注目しろとやった
場合、実は今の捜査はこれに該当するのだが、その場合は常習性や
犯罪性を証明する担保にはまったく当たらない。むしろ、マスコミを使っ
てこれを注目させたことは悪質とさえ言えよう。

 三度も似たような事件で御用になる。しかも、携帯には怪しげな写真
が・・。公権力が公平性を保っていると万人が信頼している時ならこれ
は決定的である。しかし、小泉のように、公権力を私物化するような政
権が実現してしまった場合、政敵や、植草氏のように、政策論的に政
権の暗部、危険性を唱える者は、公権力によって恣意的に狙われる可
能性がある。植草氏の場合、これだけの判断材料で、その人間の性向
を常習的性犯罪者と印象付けるやり方は恣意性があるとしか言いよう
がない。「三度」という件をつぶさに見たとき、この連続性を既成事実
化するための演出を伴った故意の捜査、そしてこれを助ける報道の意
識的な印象操作を強く感じる。

 分別ある人が三回目の逮捕で冤罪説に決別、私、管理人はそれを慨
嘆と言っているが、私はこの三度の連続性が、国家権力によって意識的
に作られていると指摘してきた。国策捜査である。しかし、一度目の東海
道線車内の場合は、所轄警察の強引な誘導による結果であって、これは
国策ではないと考えている。しかし、あとの二件は明らかに最初の一件
を利用した国策捜査、国策逮捕である。

ここは所詮、自己陶酔「閑話」ブログ。読ませて貰う度に「なにを燕子が
実相を談じ顔なる」の思いを禁じえない。

 ご批判、しっかりと肝に銘じて置こうと思う。私の無学によって表現が稚
拙なことと不徳のなすところだろう。ただ、燕子だからこそ、今回のよう
な場合は声を上げなければならないのではないのか。そうでなければ、こ
の社会はがんじがらめの「警察国家」と成り果て、国民の幸福や希望は
雲散霧消することになる。

 私が言いたいことは、「三度の逮捕」という既成事実から出発しない見
方、可能性を考えて欲しいということである。逮捕は既成事実ではあって
も、その既成事実には国家権力の意図が関与していないのかという視点
を持って欲しいのである。なぜなら、小泉純一郎は三権分立の相互不可
侵性を自ら破壊した最初の宰相であるという疑いを強く持つからである。

 

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閑話休題(植草氏擁護に思うことあり)

 植草一秀さんは、小泉構造改革路線の売国的本質を、その経済政
策論的な洞察と炯眼で見抜き、かなりきびしい口調で批判を続けてい
たが、りそなの暗部を指摘し始めた途端に陥穽にはめられしまった。

 私はそのことを、マクロ的な観点からスポットを当ててみようと、いろ
いろと心当たりのある本や記事を調べているところである。すると、小
泉構造改革五年のあいだに、ほとんど見過ごしてきたようなニュース
や出来事が、互いに有機的な関連性を持つことが見えてきたり、売国
奴内閣の驚くべき隷米構造が明瞭になる瞬間がある。

 その時、驚きとともに、あらためて熾烈な怒りが湧いてくる。戦後は
一貫して、政治的にはアメリカに対する隷従傾向は強かったが、それ
でも小泉内閣以前は、政治家も、官僚も、言論人も、経済学者も、そ
れなりの反骨の気概は持っており、米国の奸佞邪智(かんねいじゃち)
に、それぞれの仕方できっちりと反抗していたのである。

 特に官僚の中には、世間のイメージとは違って、アメリカの好きなよ
うにやられてたまるかという強い防衛意識が働いていたように思う。
その中の一人が元通産官僚の小林興起氏であった。ところが、プラ
ザ合意辺りを境にして従米官僚と反米官僚の均衡状態がくずれ、反
米勢力がなし崩し消滅した。その結果、官吏の世界はアメリカ信奉
主義の官僚に席巻されてしまったようである。小泉個人の人間とし
ての器量や資質を考えた場合、彼を宰相に据えるような精神土壌は、
かつてはなかったはずである。

 ところが、こいつが宰相に居座るという異常な位相に我が国が突入
してから、日本の伝統意識や秩序感覚は急速に崩壊して行ったよう
に思う。国家の品格とか、美しい日本とかいう者が、皮相的な愛国ブ
ームに乗って胡散臭く出てきたし、先祖の遺徳を無視して靖国論をと
うとうと述べたりする馬鹿者が出てきたりする。

 私自身、過去五年間の日本の変化に、戸惑いを感じるほど驚いて
いる。戦後民主主義の単相な進歩史観に取り込まれている馬鹿者た
ちは、小泉施政のこの五年間の移り変わりが、日本の進化とか進歩
という概念で捉えているが、真相はその真逆に向っており、日本人の
精神風土はかつてないほど荒廃しているのが現状である。

 植草さんの本物の救国意志が通らない今の日本は、究極的な精
神の堕落に揺曳しているのである。気が付かないだろうか。テレビを
観ても、論壇誌などを見ても、米国を真正面から批判できるタイプの
気骨ある言論人が見事なまでに排斥されている現実がある。その代
わり、まがい物が排出している。中国や韓国を徹底的に毒づく話は
花盛りである。日本文明論を説く中西輝政とかね。あいつの拝米感
覚には反吐が出る。お前らのどこが保守なんだ。米国を睨む肝っ玉
を持つ奴が本物の保守なんだと私は確信する。小林よしのり氏など
は本当に頑張っていると思う。

 植草さんが痴漢だから逮捕されたと考えることは、頭を何も使わな
いから楽ではあろう。しかし、今の日本に心底違和感を感じている人
々なら、痴漢で逮捕され、拘留された植草さんが、会社のパソコンを
押収され、いまだに拘留を解かれていないことを不思議だと思う気
持ちが湧いて当然だと私は思っている。最もシンプルに素直に考え
たとしても妙である。彼の拘留継続を望んでいる者たちが、植草さん
に語ってほしくないことがあるんだという方向を考えてもらいたいと
切に思う。

 9月13日は私の誕生日である。この日に植草さんは逮捕された。
なぜか知らないが、自分に彼の汚名を晴らせという気持ちが強く湧
いた。私の直感であろう。今はこれを信じて突き進む以外にない。
滅多にはなかったが、今までこの手の直感に裏切られたことは一度
もない。

小泉や竹中どもによって、ここまで滅茶苦茶にこわされてしまった
日本は、植草さんの力を借りないと修正さえ出来ないと思う。だから
なるべく早く彼には復活してもらい、その能力を日本のために使って
もらいたいのである。植草さんの事件を面白おかしく捉えている者た
ちに言う。もうすぐそんな余裕なくなるぞ。郵政資金という国の安定を
保っていた国富がアメリカに吸い取られたら、日本の秩序は完全に
崩壊する。そうなってからでは遅い。政治でも、経済でも、国を思う者
を立てないと日本は壊滅する。
 

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2006年10月12日 (木)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(4)

  売国計画としてのりそな騒動(ブッシュの異常な饗応の陰に)

 植草氏によると、2003年4月28日の日経平均株価は7607円に達し、わ
ずか二年で株価は半値まで下落した。株価がここまで暴落した原因は、
それまで小泉が「退出すべきは退出させる」と何度も繰り返し、大銀行も
その例外にあらずとする、「自己責任完遂」の強硬的対策という一貫した
背景があったからである。政策決定における小泉の強硬裁断を見ていた
銀行や企業は、政府のりそなへの対処にも、当然ながら、この強行措置
がとられるものと戦々恐々としていた。その後に続く多くの銀行や企業を
連想したからである。これが結果的に金融恐慌発生の不安を波及させ、
株式の投げ売りが広がった。

  2002年9月に内閣改造が行われた時、竹中平蔵は経済財政政策担
当大臣に加えて金融担当大臣を兼務することになった。実は、2002年の
この年は、対米隷属構造強化において重大な進展が起きた年でもある。
それは、この年(平成14年)の5月に50年ぶりの商法(会社法)大改正が
行われ、翌年2003年の4月からそれが施行されている。りそなショックの
一月前である。この大改正の特徴は、日本型の経営組織をアメリカ型の
経営組織構造に変えることにあり、具体的には「社外取締役制度」を導
入したことである。これは強制ではなく、企業の自主裁量に委ねてはい
るのだが、改正の志向するところは、日本企業の経営組織構造をアメリ
カ型に切り替えることである。

 商法大改正の最も非日本的なところは、指名委員会、報酬委員会、監
査委員会の三つの委員会制度を採用するに当たっては、この委員会メン
バーの過半数が社外取締役、つまり外部の人間でなければならないとい
うことである。関岡英之氏によれば、この商法改正も2000年度版の「年次
改革要望書」に従っているということである。この改正の目指すところは
明らかに日本の便益のためではない。それは社外取締役にアメリカ人を
置くことでわかる。

 日本の企業経営最前線にアメリカ人を配置することで、経営の指揮コン
トロールをアメリカ本国から行うという狙いがある。実質的な経営権をコント
ロールできるということは企業ガヴァナンスもアメリカ式になるということで
ある。こんな法律を臆面もなくやる者たち、それを許容している者たちは、
日本人の顔をしたアメリカの奴隷である。南北戦争の時代、アメリカでは
リンカーンによって黒人奴隷が解放されたが、21世紀の今、アメリカは
またその制度を復活し、今度は一億二千万を越える日本人を使役しよう
とでもいうのだろうか。商法改正とは、アメリカによる対日利益確定システ
ムが、より高効率の稼動性能を発揮するためのバックアプなのである。

 もう一つ、りそな騒動が起きている頃、それに同期した興味深いことが
起きている。本山美彦氏の「売られ続ける日本 買い漁るアメリカ」によれ
ば、2003年の5月22、23日に、米テキサス州クロフォードのブッシュ牧場
でブッシュと小泉純一郎の会談が催され、宿泊も許されたそうである。こ
の日米首脳会談での小泉へのもてなしは異例中の異例で、それは外交
上の最高の「ご褒美」であるとワシントン・ポスト紙が伝えたことを、衆議
院議員・中川秀直が得々と語っていたそうである。

 ブッシュのこの異例な饗応に呼応して、会談後直ちに、USTRのゼー
リック代表は、「日本の市場開放努力と規制緩和の進展を米政府として
歓迎している」というコメントを発表している。りそなに公的資金の注入が
決定した頃、ブッシュは小泉を最大級の歓迎儀礼で遇していたのである。
今になって、あらためてこの年を顧みると、私はブッシュが敢えて行ったこ
の異常な饗応の理由が、3月20日のイラク開戦前に、小泉がいち早くブッ
シュを支持した事に対する謝礼以上のものがあるような気がするのである。

 だからこそ、USTR(米国通商代表部)のゼーリックが、「日本の市場開
放努力と規制緩和を歓迎する」という、経済に特化したコメントを出したの
が気にかかるのである。USTRだから通商関係のコメントが出たと言えば
それまでであるが、この時期、小泉純一郎のブッシュ参りの理由は、イラ
ク開戦に当たって、日本が米国の正当性を西側先進諸国でいち早く是認
したことへの「お礼」であるはずである。しかも、開戦直後で何かと慌しい
ブッシュが、そのことだけで小泉を歓待することの方が異常なのである。
つまり、この裏には同盟国日本の開戦賛同表明以上の何か、何か大き
な実利的な益が日本からもたらされたと考えなければ合点が行かないの
である。

 徹底したプラグマティズムと実利的な確実性でしか動かない米国の大統
領が、中東プランを左右する最も重要なあの時期に、唯一自分に戻れるブ
ッシュ牧場の「寝屋」に、尻尾を振るだけの小泉をわざわざ泊めたりするも
のだろうか。これこそ世界史の七不思議であろう。深読みかもしれないが、
私は今、イラク戦争と「りそな金融ショック」が、日米関係の深層の部分で
連動した動きのように思えてきている。この時期、日本人の目をりそな騒
動から遠ざけたのは、世界を驚愕させたアメリカによるイラク開戦であった。

 しかし、ブッシュが最も欣喜雀躍したであろう、2003年のこの年、自衛隊
のイラク派遣基本計画が閣議決定されたのが12月9日である。りそなショッ
クの半年以上も後のことである。ブッシュが、自衛隊の実質的派遣決定を
喜ぶなら、例の「異常饗応」の件は合点が行くことである。しかし、欧州各
国やロシア、中国などが反対しているさ中、日本がイラク開戦に賛同した
ことをブッシュが喜んだのは、開戦の大義や正義を日本が認めてくれた心
強さだけであったのかという素朴な疑問が生じる。

 この年、平成15年(2003年)の3月初旬、つまり「りそな金融ショック」の
約二ヶ月前であるが、3月初旬、日経平均株価の終値が8千円を割り込ん
だ。この株価の暴落因子が、イラク戦争勃発による世界環境の変化、そ
れに連動した米国景気のリセッション(一時後退)への不安が日本に波及、
加えて恒例的な3月危機説、あるいはこれらの複合要因であると一般には
感じられていたと思う。こういう大きな世界動向にまぎれて、この株価暴落
の真因が見逃されていたような気がする。

 植草一秀氏の視点は違っていた。この株価下落の真因は、日ごろ小泉
内閣が唱えていた、前提として例外なしの「退出させるべきは退出させる」
という構造改革の骨子的政策路線にあったことを彼は断言している。表面
的にはイラク開戦による世界同時株安という動きの中で、急激な日本株安
が発生した原因は、純然たる国内金融システムの構造的な要因にあった
のである。それこそが「りそな金融ショック」の真因なのであった。

 腹を括って、世界レベルの対テロ戦争を開始したブッシュが、その重要で
最も忙しい時期に、わざわざ時間を割いて、ハアハアとベロを出しながら尻
尾を左右に振る小泉ポチ犬に、最恵国宰相への待遇以上のもてなしを行っ
たのである。これは考えてみると不思議なことであろう。BSE感染疑惑の
ある牛肉を脅し入りの強圧で日本に輸入させるアメリカが、その見下げ果
てている日本の宰相を、最高レベルで饗応したことは異常である。これは、
この時期に日本からそうとう美味い汁を吸い取った満足感の表れとしか考
えられないのである。ここに植草一秀氏が、その鋭い視線に捕捉していた
国家がらみの「りそな騒動インサイダー疑惑」の線が浮かび上がってくるの
である。これは、この時期に米国にとって、よほど大規模な実益が日本か
らもたらされていたことを示すものである。

 日本はイラク開戦前、確かにこの戦争を秒単位の速攻で支持した。しか
し、それ以外に何か米国が喜ぶような突出したことを行っていただろうか。
考えられることは、上述したアメリカに都合の良い商法改正である。これは
アメリカにとっては確かに僥倖ではあろうが、さしあたっての強制性がない
ため、すぐには利益確保に結びつかない。それ以外に日本から米国に巨
額の利益が入った話はないのである。・・表面的には。

 私は小泉構造改革には表裏の位相が進んでいると言った。構造改革
のペテン性、まがい物性を「表」と言い、その裏で起きている、日本人に
よる犯罪的な米国利益誘導を「裏」の位相と名づけることにしたのである。
植草一秀氏が捕捉したことは、この裏の位相にほかならない。ここまで
言えば、私が何を言いたいのか賢明な読者諸氏にはもうおわかりだろう。

 そうなのである。植草氏が逮捕される前に、最も世間に訴えたかったこ
とが、りそなホールディングスの実質国有化までの一連の騒動において、
アメリカがらみ、政府がらみの意図的なインサイダー取引があったという
疑惑である。つまり、りそな騒動の背景には、政府、外資、そして政府に
協力した民間人たちのトライアングルで共謀され、仕掛けられた巨大な
規模の金融犯罪があったという植草氏の着目があったのである。

 あとで説明するが、新日本監査法人によるりそな査定と、それにまつわ
る金融庁の最終的な救済措置までの一連の胡散臭さの中に、外資(アメ
リカ)や政府関係者がむさぼった巨大な暴利が生じたということである。
これを鑑みれば、この時期、ブッシュが破格の待遇で小泉を迎えたことの
真の意味が見えるかもしれない。しかし、この記事を書いていて気が付い
たことがもう一つある。それはイラク開戦と「りそな金融ショック」の関係性
についてである。

 今年8月30日の産経新聞・東京朝刊に出ていたが、当時(’03年)、開戦
3カ月前に米国務長官(当時)アーミテージが、日本に戦費拠出の要請は
しないと伝えていたことがある。この新聞の書き方によれば、その理由と
して、米側は、日本側の湾岸戦争時の苦い教訓に配慮したということであ
った。何度も言うが、日本を属国扱いし宗主国気取りの米国が、1991年に
勃発した湾岸戦争時に、日本が130億ドル(1兆8000億円)も拠出しなが
ら、国際的には冷たい反応しか得られなかったことを配慮して、2003年の
イラク開戦には、日本から戦費の供出をびた一文求めないという話であっ
た。アメリカの本質を知る者にとって、この話を鵜呑みにしろと言う方が無
理がある。

 私は、りそな金融ショックと、その後の郵政民営化という国益毀損法案
の一連の生起過程において、米国が日本から巨額の資金を吸い込み、
また吸い取ろうとしていることを如実に感じ取る。アメリカは、これをイラク
戦費や米軍再編成に充当していると考えている。りそな金融ショックによる
恣意的な株価変動による莫大な「上がり」なども、2003年に米国がイラク
開戦に踏み切った重要な契機になったと考え始めている。それならば、ブ
ッシュ牧場の異常な饗応の一幕がすっきりと理解できるのである。

 今年の7月、国連イラク支援派遣団(UNAMI)は、イラク開戦以来、武力
攻撃で死亡した民間人の数は5万人を越えた発表した。我々日本人が、
アメリカのイラク侵攻を大義のない戦争と言うことは容易いが、私の推論
がもし当たっているのなら、ブッシュたちネオコンが、この戦争に踏みきっ
た直接の動機は、戦費捻出の目処がついたからである。だとすれば、隷
米売国政権であった小泉内閣を持ち上げ、受け入れた多くの国民は、自
分は関係ないと言っていられるだろうか。枡添要一はあるテレビ番組で、
「北朝鮮に対して米国の武力をあてにしているからイラク戦争に同意し、
自衛隊の派遣を行った」というような意味のことを吐いていた。小泉政権を
存続させてきた国民は、イラク戦争で亡くなった無辜の民の血を背負って
いることをどれだけ認識しているのだろうか。

 偽装されたりそな金融ショックが、米国のイラク武力侵攻の資金的契機
となった可能性は大きいのである。りそな金融ショックとは、あとに控えて
いる膨大な資金源である郵政資金に狙いを定めた米国が、その試験的
回収の意味合いとして行った、日本に作られた利益確定システムの稼動
実験であると私は考える。従って、この巨大な国家がらみ、米国がらみの
インサイダー疑惑の背後には、米国の獰猛な世界戦略が横たわっていた
のである。

 
 

(次回に続く)

 参考図書 

  1) 「売られ続ける日本 買い漁るアメリカ」本山美彦
    2) 「拒否できない日本」関岡英之

   

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2006年10月10日 (火)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(3)

  りそな問題にひそむ表の欺瞞性と裏の犯罪性(その二)

 前回記事では、葉山元氏の「国富消失」に書かれてある、りそなホール
ディングスの実質国有化までの経緯を簡略に書いてみた。その時系列に
従った「推移」の中には、実は同時に二つの位相で進んでいた重要な問
題があった。それについては、目に見える形で進んだほうを「表」、見えな
い形で進んだほうを「裏」と今は便宜的に言っておく。小泉・竹中構造改革
に内在する、この表と裏の関係は、この内閣に先天的に横たわる巨悪の
本質をよくあらわしている。

 まず表の方になるが、かつてのイギリスのサッチャリズム、中曽根政権
時代のレーガノミクスを参考とし、それを踏襲した新自由主義(新古典主
義)経済をモデルとして小泉構造改革路線はスタートした。この経済思想
の中核を担ったのが竹中平蔵であった。小泉内閣が、それまでに残存し
ていた日本型資本主義構造を完全に破壊して、急進的突発的に「新自
由主義経済」型社会に我が国の構造を造り替えて行ったことは事実であ
る。国民の大多数は、新自由主義、新古典主義経済と言っても、ほとん
ど何のことかわからずに、せいぜい小泉はアメリカ型に似た経済システ
ムを導入しようとしているんだなくらいにしか思っていない。

 本人が意識しているかどうかは別にして、小泉純一郎が新自由主義
経済を日本に敷設したことは明らかである。最もわかりやすいのが、累
進課税の撤廃と所得格差の急激な現われである。新自由主義経済学
の大御所であるミルトン・フリードマンは次のように言う。

「わたしは自由主義者として、もっぱら所得を再分配するための累進課
税については、いかなる正当化の理由をも認めることがむずかしいと考
える。これは他の人びとにあたえるために強権を用いてある人びとから
取り上げるという明瞭な事例であり、したがって個人の自由と真正面か
ら衝突するように思われる。」(政府からの自由)

 何のことはない、彼の主張はケインズ思想への徹底的な憎悪であり、
伝統ある国家の意義を完全否定する経済思想なのである。簡単に言え
ば、国家は鎖であり、足かせであり、くびきであり牢獄のようなものだと
いう国家否定である。小学生にもわかりやすく言うならば、人間は本来
自由であり、その権利と思いを何の障害もなく行動に移すことができる
社会を造ろうという考え方なのである。食い物を見たら自らの力で奪い
取って食え、より良い生活を望むなら自らの力で築き上げろ。そのため
には手段は選ぶなという徹底した弱肉強食の世界である。そして何よ
りもその思想が過激で特徴的なことは、国家が人間の自由を阻害する
諸悪の根源であるということにある。まあ、学級崩壊に関して言うなら、
生徒個人の人権意識を、究極的な過剰レベルで認めてしまうと崩壊
(クラッシュ)にいたるわけであるが、その現象の根幹にあるものも、フ
リードマンたち新自由主義者が志向した極左急進的アナーキズムに
ほかならない。行き着くところは無政府主義なのである。

 フリードマンの世界では政府や国家そのものが、人々の自由を奪い、
個人の行動を制限する悪しきケモノ、すなわちホッブスのリヴァイアサ
ンである。経済的視点から言うなら、あらゆる縛りから解放された市場
は、自ら理想的な秩序を形成して上手く行くのだという思想である。
(ハイエクの言う自生的秩序)しかし、そういう世界とは、イメージ的に
言うならば、あの拳劇コミック「北斗の拳」の舞台になった荒廃した近
未来世界の姿であろうか。

 すなわち、絵に描いたような優勝劣敗の世界である。動物の世界はそ
ういう風になっているから、動物の一種である人間社会もそういう傾向
になって当然ではないかと思う人がいたら、その人は自分の知性を疑
うべきである。生態学的実相では弱肉強食ではなく、生物同志は総体
として共生関係にある。つまり、求むべき人間社会の実相として、より
正しい姿とは、欧米連中が自明とするチャールス・ダーウィンから派生
した社会ダーウィニズム(ハーバート・スペンサーなどに代表される進
化論的社会学)などではなく、今西錦司博士が提示した棲み分け、す
なわち共生的進化論による社会学なのである。そしてこの視点こそが、
我が国、日本の伝統的社会構造に合致するのである。経済学もこの
視点を重視する必要がある。今の我が国で、この方向性を持つ最も
ふさわしい経済学者は植草一秀、あるいは内橋克人を置いて他にい
ないだろう。

  さて、話を戻すが、 所得格差の度合いをあらわすジニ係数の動きを見
てもわかるように、小泉内閣になってから、日本は明らかに典型的な傾
斜配分へ急速転換した。すなわち深刻なる格差社会である。小泉が累
進課税構造を破壊したからである。「旧弊なる自民党をぶっ壊す!」とい
うスローガンをぶち上げ、「小泉ポピュリズム」を醸成した低知能連中の
喝采を浴びた小泉は、文字通りの破壊を行ったが、彼がぶち壊したもの
は、伝統的日本が築き上げた知恵によって形成されていた優れた社会
構造であった。時代が進展し、世の中の形に合わなくなってきた旧弊構
造は改善する必要があるが、そのことを以ってして、日本型構造全体を
悪と看做し、それを根こそぎ破壊することは重大な犯罪である。

 小泉が行った構造破壊の型は、ラディカルな構造改革というよりも、ど
ちらかと言えば革命政権の行動様式にそっくりである。ただ、アメリカの
傀儡として行った構造破壊を革命と呼べるかどうかは疑問の余地があ
るところである。国民は小泉の狂気の熱気に巻き込まれ、この重大か
つ歴史的な大犯罪を見過ごしたのである。これはまさに、あのドイツ・ワ
イマール共和国時代におけるドイツ国民精神の落魄、退嬰化を髣髴と
させるできごとである。

 小泉には初期から国家のグランド・デザインがまったくなく、怨念のみ
で日本的国家構造なるものを選択的に破壊して行った。多分、小泉自
身はフリードマンなどという言葉さえ知らないだろうが、彼が行った構造
改革の思想性をこちらから忖度すれば、その手法は明らかにフリードマ
ンの考え方に沿っている。彼のやったことは、福祉の切り捨て、累進課
税構造の変更による大企業優遇、中小零細企業への税制的圧迫、非
正規社員の増加、国家的安定システムとして我が国の社会を守ってい
た郵政事業を解体し、その莫大な富を市場経済に投擲したこと等、彼
の政策的行動原理がすべてフリードマン思想に収斂しているのである。

 これをひと言でいうならば、小泉構造改革とは『日本破壊』なので
ある。

 以上、りそな問題に言及するために、その前提的背景として、小泉・竹
中路線の性格というものを私なりに簡単に説明した。これをある程度説明
しておかないと植草氏の政策批判の要諦が見えてこないからである。さ
て、冒頭で言ったように、小泉構造改革路線には、表と裏の二つの位相
が同時に進行していた。表は小泉構造改革がアメリカに利益を供与する
方向性しか持たない目的で行われたことを言う。ただし、小泉・竹中たち
が「隠しモデル」として採用した「新自由主義」は、アメリカの意向を百パ
ーセント汲んで行われているものであるから、これは個人の自由も国家
の自由もまったく関係なく、奴隷経済構造そのものである。

 つまり、小泉構造改革の真意とは、日本がこれまでに築き上げた経済
構造や伝統的慣習を根底から破壊し、国富流出の装置を新たに築き上
げることにあった。装置とは言っても、改革という名前を前面に推し出し、
日本の社会や国益をガードするさまざまな規制を、アメリカに都合のいい
ように撤廃、あるいは極限的な緩和を行ったことである。この動きの中心
に郵政民営化が存在するが、これについては別記事であらためて考察
するつもりである。とにかく、国民は気付くべきである。グローバリズム経
済に沿った構造改革というものは、この経済思想に親和性をもたらすた
めに行う改革だなどという生易しいものではなく、それは国家の尊厳と自
己同一性を根こそぎ破壊するための、アメリカによる日本破壊であること
を銘肝すべきものである。

 次に裏の位相であるが、これこそが、りそな銀行実質国有化騒動の動
きに隠れた小泉政権の巨悪の本質を言う。私は植草一秀氏が国策捜査
に狙われた直接の原因がここにあると確信している。ただし、植草氏が
かねてから舌鋒鋭く批判していた小泉内閣のマクロ的政策が、表の位
相、すなわち小泉のペテン的構造改革の反国益的性格を暴きだすとい
う意味でも、植草氏は最も都合の悪い存在なのである。

 金融政策で完全主導権を握った竹中平蔵が、りそなを救済するという
名目で行った実質国有化が、実は構造改革の眼目である自己責任原則
を根底から裏切っていることは、植草氏が繰り返して強調的に指摘する
ポイントである。おそらく、これに気が付いていた国民でも、この自己責任
原則を反故にしたことについては、「何事も原則通りには行かないものだ」
という程度で看過しているが、実は植草氏がこの原則論放擲に固着した
ことは重大な意味を持っているのである。

 この問題は、政策というものが場合によっては原則論通りには行かず、
時に応じて縦横無尽に手を打つ必要があるという考え方のレベルからは
はるかに隔たっている。植草氏は言う。りそな救済の言い訳に使われた
法律、すなわち「預金保険法第102条 第1項 第1号措置」でりそなを救
済したことに、重大な国家犯罪の含みがあったのである。

  (次回に続く)

 参考図書 
     1) 葉山元「国富消失」
     2) ミルトン・フリードマン「選択の自由」
            3)            〃             「国家からの自由」
            4)  植草一秀「失われた5年-小泉政権・負の総決算(4)」

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2006年10月 9日 (月)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(2)

 りそな問題にひそむ表の欺瞞性と裏の犯罪性(その一)

いよいよ「りそな問題」に入る。この問題は植草氏に限らず、さまざまな
方々が、その不自然さや恣意的な不可解さをピックアップしているようだ。
2003年10月に「国富消失」(新潮新書)という本を出版した葉山元という
方がいる。その中に、りそなホールディングスの実質国有化の一件を分
析したことが書いてある、まずは、その葉山氏の分析から紹介しよう。
105ページから122ページまで、りそな問題を中心に書いているが、それ
を参考として時系列的に述べていく。これをウエクサ・レポートと重ね合
わせて見ると興味深い事実が浮かび上がってくる。

 2003年5月17日に、りそなは預金保険法第102条に基づく、金融危機
対応会議開催の第一案件となった。りそなホールディングス社長である
勝田泰久氏も、高木祥吉金融庁長官も、当局も、直前までは、りそなの
実質国有化などという事態は想定していなかったようである。ただ、一人、
アメリカのエージェントである竹中平蔵だけは違っていた。

 りそなに引導を渡したのは、りそなの監査を担当する「新日本監査法人」
だった。焦点となったことは、脱効果会計の見直しであった。脱効果会計
とは、赤字決算となった企業が、将来の儲けを上げた時に、税金を払わな
くてすむ分を、自己資本として勘定する仕組みらしい。税金を支払いが繰
り延べられるので「繰延税金資産」とも言うらしい。繰延税金資産は将来
の儲けを前提にした、見かけ上の自己資本であり、先々の収益計画が当
てにならない赤字続きの銀行にとっては「とらぬ狸の皮算用」である。

 りそなの前身である大和銀行とあさひ銀行は、向こう5年間の納税軽減
額を繰延税金資産に計上して自己資本をかさ上げした。この両行は、2003
年3月に経営統合したが、竹中平蔵は一時これに難色を示した。大和銀
行のかさ上げぶりがあまりにもひどすぎたためらしい。竹中と金融庁事務
方が睨みあう中、2003年5月6日、新日本監査法人は最初の通告をりそな
に出した。

「りそなは繰延税金資産を計上する前の段階では債務超過。その場合は、
繰延税金資産を計算する決算の期間を5年より短くする必要がある」

 この通告はりそなにとっては寝耳に水であった。それまでの日本の慣例
からして考えられないことであった。通告を受けてりそなは金融庁に報告し
た。竹中金融相は言った。

「監査法人と銀行の協議には、金融庁が何らかの影響を与えるということ
があっては絶対にいけない」

 5月9日、新監査法人は重松孝司代表社員の名で、二度目の通告をり
そなの常務執行役員。大谷昭義に送った。

 「繰延税金資産を除けば債務超過」

 重松自身の見解は、「今後の業績が収益計画を下回るリスク、及び、
4、5年目の不確実性を考慮して、向こう3年の決算を合理的期間と判断
する」というものだった。期間3年の根拠としては、

 1、中期計画が3年単位
 2、経営健全化計画の見直しが2年
 3、主要行に対する繰延税金資産の厳格化に対する日本公認会計士
   協会長通牒を斟酌(しんしゃく) 

 などと記されている。その上で、「りそなホールディングスのように、繰
延税金資産の計上前に多額の債務超過状態にある場合には、安定的
な業務純益があることを前提としても3年が相当と判断した」と念を押し
ている。新監査法人がこのような出方をした背景には、りそなの協同監
査を受託した朝日監査法人所属の公認会計士・平田聡さん(享年38歳)
の自殺があった。4月24日に、都内の自宅マンション12階から転落死し
たのである。

 日本公認会計士協会会長・奥山章雄氏が、金融問題タスクフォースの
会議中に竹中平蔵に「脱効果会計について、金融庁が事前に意見を言
うことはあるのですか?」と聞いた。これに対し、竹中は「そんなことは
ありません、事後チェックだけです」と答えた。りそな延命を働きかけて
いた金融庁事務方も竹中直々のこの言明には従わざるを得なかった。
こうして新日本監査法人は、繰延税金資産を3年分しか認めず、りそな
の自己資本比率が国内業務を営むのに必要な4パーセントを下回る公
算が強まってきた。

 この経過を小泉純一郎に報告した竹中平蔵は、一緒に行った温存派
の金融庁事務方が「りそなは四パーセントの自己資本比率を維持できる」
と発言したことを無視して彼を所払いした。その上で、竹中は「預金保険
法第102条の発動もあり得ます」と言った。小泉は竹中にこの問題を丸
投げした。この瞬間に国内規模第6位の銀行の命運は決定した。

 5月14日、新日本監査法人は当初の主張をりそなに最終的に伝えた。
こうして金融有事を想定した金融危機対応会議は開催され、小泉首相
は、りそなの事態を放置すれば預金保険法第102条第一項に規定する
信用秩序の維持に極めて重大な支障が生じるおそれがあると答申した。
りそなへの公的資金の注入はこうして決まったのである。竹中はこの事
態をこう言い切った。「破綻ではなく、再生。国有化ではなく公的支援」で
あると。

 繰延税金資産問題は、2002年に就任した竹中金融相が、銀行経営陣
と正面衝突したテーマである。竹中は繰延税金資産を絞り込み、銀行の
自己資産を丸裸にすることで、銀行への公的資金の注入を急いだ。その
時、自民党の守旧派と手を組んで、頑強に抵抗していたのが、りそなの
社長である勝田泰久氏であった。小泉に金融政策の全権をまかされて
完全な主導権を握った竹中は、りそな問題を突破口として、金融庁の事
務方や銀行界守旧派へのリベンジを果たしたことになる。

 以上が葉山元氏の「国富消失」に従ったりそな騒動のあらましである。

 さて、これからは以上を踏まえて植草レポート「失われた5年-小泉政
権・負の総決算(2)~(6)」 に書いてあることを追っていこう。

  (次回につづく)

参考図書:葉山元「国富消失」(新潮新書)

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2006年10月 8日 (日)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(1)

    欺瞞の小泉・竹中構造改革路線

 「直言:失われた5年  ー 小泉政権・負の総決算」によれば、植草一秀
氏は、小泉内閣発足の一年前に、小泉純一郎と中川秀直に対してレク
チャーをしている。植草氏は財政収支改善を中期的に取り組む必要を説
き始めた時、小泉はその発言をさえぎって、「緊縮財政運営こそがすべて
に優先されるべき」であるという持論を得々と開陳したそうである。植草氏
は、当時、日本経済の根っこには、巨大な不良債権問題が沈潜しており、
これを無視して財政緊縮路線を遂行すれば、経済悪化、金融不安増大、
財政赤字拡大等の深刻なマイナス要因が発生し、「魔の悪循環」のスパ
イラルに呑みこまれることを指摘していた。

 植草氏は、小泉純一郎が政権を取った時、上述の基本政策が取られた
場合、明らかに日本経済の失速・墜落を招くと一年も前から確信していた
ので、小泉政権がスタートしてから一貫して政府のマクロ的な経済政策に
対して精力的に警鐘的な批判をしていた。植草氏の予想は的中し、政権
発足から2年経った2003年の4月28日に、日経平均株価が7607年円とバ
ブル以来の最安値に暴落した。金融不安を引き起こしたのである。

 その前に、小沢一郎が主催するある朝食会に植草氏が講師として招か
れた時、竹中も主席していた。この席で植草氏は、米国はこれまでに、「経
済、財政、金融」不振の三重苦からなる巨大な財政赤字を抱えていたが、
経済改善優先の指針を明確に採用したことによってこれを改善していたと
説明した。すると竹中平蔵は植草氏の正論に真っ向から異を唱え、先に
不良債権問題を処理しなければ経済は回復しないと突っぱね、それを強
硬に小泉施政の中で実践した。その結果、2001年から2003年までの経済
は、植草氏の判断が適正であったことを裏付けるように失速していった。

 竹中と植草氏には基本的にこういう経緯があって、マクロ的な政策見解
では完全に対蹠的、対立的な関係にあった。この時点で植草氏は、アメリ
カ・ハーバード・シンジケートの直轄エージェントである竹中平蔵に決定的
な要注意人物としてマークされ、それは当然、アメリカに最大級の危険人
物として報告されていたはずである。

 小泉内閣は、新自由主義経済の背骨である自己責任論の実践形式とし
て、「退出させる企業には有無を言わせずに退出させる」という断固とした
金融政策上の基本テーゼを掲げた。その時、退出させる企業には当然大
銀行も含まれると言明したために株式市場は慌てふためき、2003年の春
に日本経済は金融恐慌の崖っぷちまで滑り落ち、誰もが小泉政権の断末
魔をかいま見た。

 植草氏は言う。この究極の局面で小泉政権は、最大の眼目であった「自
己責任論テーゼ」を完全放棄して政策路線をケインズ型財政出動にいきな
り切り替えてしまったのである。「小さな政府論」を口角泡を飛ばして繰り返
し、官僚主導による「大きな政府論」の弊害を徹底的に非難し、憎悪を叩き
つけていたはずの小泉内閣が、その基本方針を180度方向転換し、小泉
構造改革のレエゾンデェートルを自ら放棄したのである。

 国民はこの時点で、この内閣の無思想性と極悪なペテン性を糾弾するべ
きであった。ところが、小泉べったりのマスコミ(実はアメリカの金が動いて
言論統制の網がかけられている)のせいもあるが、総じて、国民はこの大
事件を看過してしまったのである。実は、この『りそな突き落とし&りそな
救済』の雛形は2001年末にも存在した。小泉施政の根本的誤謬によって
株価暴落が始まり、マイカル(サティなど)や青木建設などが次々と破綻し
た。小泉はこの時、「退出するべき企業は退出させる」という政策テーゼが
実行されていることを念頭において、この動きを歓迎する旨の発言を行っ
た。これを受けて市場はパニックに陥った。そしてダイエー存続問題が急
浮上した。小泉は突如、このダイエーを政府資金で充当して救済したので
ある。構造改革路線への第一の裏切りであった。

 国民はこの時も「なんか変だなぁ」と思いつつもこれを看過した。しかも
小泉はダイエー救済後、臆面もなく竹中スタンスである緊縮財政路線に引
き戻したのである。株価は当然のようにまた暴落を再開し、小泉の支持率
は急落した。ところが、小泉はこの難局を北朝鮮訪問で乗り切り、支持率
を回復した。2003年以降、景気は上昇傾向に乗り出した。悪質なことに、
小泉や竹中は、この上昇を構造改革路線の紛れもない成功だとはやし立
てていた。この間の推移で、日本経済の底力を担っていた中小企業や零
細企業、多くの人々が、倒産、失業、自殺などで、どれだけ犠牲になったこ
とだろうか。

 国民は知らねばならない。2003年以降の景気回復は、構造改革の成果
とはまったく違い、これは経済が最悪の状況まで落ち込み、慌てた政府が
なりふり構わず、土壇場で自分たちが唾棄していたはずのケインズ主義的
な財政出動を行ったためである。ちゃっかりと路線を転換していたのであ
る。この時点で小泉構造改革は、その基本方針の根拠を完全に失ってお
り、後の郵政民営化に手をつけるどころか、内閣の存続理由を失っていた
のである。そういう自死的な状況にも関わらず、この内閣が奇跡的に延命
したのは、マスコミがその真相を報道しなかったことと、小泉・竹中が、構造
改革の痛みはさまざまにあったが、いまはそれを乗り越えて景気が良い
方向に向っていると国民を見事に騙したからにほかならない。

 あのような致命的な自己矛盾を内包しながらも、後の郵政民営化問題で
亀井静香氏を筆頭とする守旧派を攻撃した小泉純一郎の思想性、神経は
異常そのものである。まるで精神異常をきたしたヤクザが、腹を括って凶
暴な行為に駆り立てられているようなものである。こういう宰相を出してし
まったこと自体が日本史の汚点なのである。

 植草氏は言う。この現実をしっかりと踏まえた小泉政権の総括が必要で
あると。政府が釈明する「りそなの救済」は、救済という言葉が、新自由主
義経済の掟である「自己責任論&小さな政府論」の政策基本と整合性が
まったく取れていないことを示すものであった。小泉施政の失敗は、金融
恐慌を甘受するか、あるいはそれを回避するために自己責任原則を放棄
して政府救済を行うかの二者択一(究極の選択)のぎりぎりの限界点まで
日本経済を追い込んでしまったことにある。

 素人なりに思うが、植草一秀氏の経済思想とは、国家の適正な介入と
いうマクロ的ケインズ主義の包括的な視点と同時に、ミクロ的各論的なフィ
ールドサイドの問題では徹底した自己責任を被せるという、謂わばケイン
ズ経済主義の日本型進化形態に属していると私は見ている。適正なマク
ロ経済政策運営によって、経済システム総体の安定的恒常性を確保しつ
つ、個別の金融問題の対処については「自己責任原則論」を固守する。
一見、相反するかのように見えるこの両者の絶妙な拮抗バランスを維持
させ、それを政策的に実現していくことが経済政策の手腕であると植草氏
は言っているのである。よく考えてみれば、これも昔から日本人が得意とし
た「和の融合的創造性」なのである。植草氏の経済理論は、新古典主義
でもなければケインズ主義でもなく、両者の融合的視点から生まれた「む
すび」の経済学なのである。いかにも日本人の経済学と呼ぶに相応しい
ものだと私は見ている。

 私は植草氏のこのプリンシパルな経済思想が、日本民族の性向にもっ
ともよく合っていると思っている。なぜなら日本民族というものは、あれか
これかの二値論理的思考を好まずに、全体の空気からいつの間にか
整合的な結論を引き出せる本能を持っているからである。大江健三郎で
はないが、日本人の曖昧性や即断を嫌う性質の中には、全体から個別
に向かい、個別から全体に向う心の動きを繰り返しながら、いつの間に
か然るべき適正な思考にたどり着き、その結果が最適な結論に収斂して
行くという、謂わば複雑系に似た思考様式を持つ。日本人の思考様式が
欧米人の「要素還元主義」的な思考様式と決定的に異なるのは、各論と
総論が、フラクタルな自己相似関係を持ち、結果としては合成の誤謬の
リスクを回避して調和的な領野へ思考の方向性を向けることが可能なこ
とにある。これこそ、十七条憲法に謳われた「和を以って貴しとなす」の
基層精神の働きによるものである。こういう民族性は、民族の長い経験
則によって裏打ちされたDNAに蓄えられたものである。

 ところが、物事で、これがいいか悪いかという、小泉の二項対立を基底
にした間抜けな遠吠えは、人間の精神性まで要素還元主義に置換する
アングロサクソンの典型的な思考様式なのである。こんな奴は最も日本
人らしくない思考や行動様式に囲繞されており、魂の底までWASPに跪
いているのだ。。このような思考様式で、植草理論が提唱するマクロとミ
クロの絶妙な拮抗バランスを理解もできなければ実行できるはずもない
のである。また、ミクロ的な政策が結果的に合成の誤謬を惹起しないよう
に、政権は常に極度の観察力と深い洞察力をもって目を光らせている必
要がある。この総論と各論の絶妙な舵取りこそが、経済政策の要点であ
るという植草氏の提言を、あの小泉が理解できるはずもない。しかし、竹
中平蔵はあれでも経済学者である。彼は植草理論の要点は完全に理解
した上で植草理論をつぶしにかかったのである。

 つまり、小泉政権は「構造改革なくして経済再建なし」と花火をぶち上げ
て置きながら、「りそな騒動」で自らそれを破っていたのである。スローガン
と実践は違うとは言っても、これでは足下からの自己否定である。しかし、
小泉や竹中はこの致命的な政策破綻を糊塗し、乗り切るための偽装説明
を行った。それに使われたのが「預金保険法 第102条」である。

 (次回につづく)

 
 

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2006年10月 6日 (金)

私はなぜ植草一秀氏を擁護するのか

 敷島の 大和心のををしさは 事ある時ぞあらは
 れにける              
(明治天皇)

( 大意:わが日本国民の大和魂は、男々しいものであるが、平生はあ
らはれなくも、一朝事のある時に、始めて外にあらはれるものではあるよ)

私は植草一秀と言う人物に出会ったこともなければ、勿論、話をしたこと
も、手紙やメールで文字を交わしたこともない。彼の書いたものを網羅的
に読んだわけでもない。従って、彼の人柄や気風気骨、倫理道徳観、日
本観、総体的な世界観なども、直接のフィーリングとしてはまったく知らな
い。

 では私は今、なぜ彼を擁護し彼を庇うのか。それはいたって簡単明瞭
である。私は、植草一秀という一人の人物が、冒頭に掲げた明治天皇の
御製に則った行動を、彼が迷いなくとっていることをストレートに評価して
いるからである。彼は間違いなく現代の国士である。門外漢の私が言うの
もなんだが、いったい経済学者とは何であろうか。経済学者とは何を考
えて何を行う責務を担った人たちなのか。経済学者とは、古今東西の経
済学を頭に入れ、それを分析統合し、現代の実学として応用し役立てる
学者さんたちのことなのだろうか。

 自分の分際も弁えず、敢えて大言壮語をしてみるが、今の経済学者
は、それぞれが、それなりに一見鋭そうな分析を行い、見事な経済予
測や、人々に有効だと感じさせる政策提言や、近未来の展望をここぞ
とばかりぶちかます。しかし、彼らの多くは、学んだ学問や自分の経験
則や試行錯誤で訓練した、その重厚で膨大な知識と応用学を日本国
民大多数の幸福に寄与するように役立てているのだろうか。正直言っ
て、私には大いに疑問である。

 彼らの多くは、衒学的で空疎な経済学もどきを能弁しているだけであ
る。もっと生意気なことを言わせてもらえれば、彼らはまったく役立たず
なのである。無知を承知で言うが、我が国の高度経済成長期や平成に
入る直前辺りまでは、語弊はあるかもしれないが、日本型国家計画的
経済が主流であり、いわゆるケインズ的視野で経済を捉え、我が国の
経済の進展に、それなりの効果を果たしていた学者連中が多々いたよ
うな気がする。

 ところが、細川護煕政権くらいを境にして、このケインズ的色彩を持っ
た経済学者、学説が雪崩を打ったように駆逐され、平成の今となって
はほとんど消滅してしまったかのように思える。しかし、それに代わり、
押しなべて台頭してきたのが、イギリスやアメリカを礼賛する新自由主
義の経済学者、そして学説なのである。東大派の学者が駆逐されて、
慶大派の学者が席巻してしまったと単純に言っていいのかどうかわか
らないが、少なくとも今の経済学は新自由主義の色合いが極めて濃い
ものだと感じる。

 私は、我が国の戦後の経済復興や、そのあとの高度経済成長の原
動力となったのは、日本人のDNAが為せるわざであったことは勿論な
のだが、そのダイナミズムをもたらしたものは戦前精神の残存だった
と確信している。その頃は、日本人は表面的には東京裁判の影響で
戦前否定をしていたが、伝統的な共同体精神は、尚も強固に残存し
ていたので、工業技術や生産工学などインダストリーの分野で驚異的
な躍進を遂げて行った。これは戦艦大和の建造方式が、トヨタ生産方
式や大型タンカーなどの生産技術として花開き、ゼロ戦の技術が新幹
線の安全技術に生きたことを鑑みれば、戦後の経済復興のハードウェ
アーの基盤が、戦前からの連続性に基づいていたことがわかるだろう。
そして、ソフトウェアーとしての精神的なモチベーションも戦前の残存
にあるのだが、戦後の日本人は、ここに目に見えない大きな瑕疵を内
包していた。しかし、そのことは本記事の要点から外れるので今は説
明を除外しておく。

 つまり、日本人の顕著な特徴は「和の共同体」が確立した時に大き
な力を発揮するということである。この和の共同体をバンドリングし、
堅固に維持していくための求心力が国民精神の共有なのであった。
昭和30年代、そして40年代は、日本人全体に経済を立て直し、未来
を科学の力で築いていこうという、あの時代特有の共有できる目的が
あった。ところが世代交代を行ううちに、戦後教育がもたらした戦後民
主主義は、国民の心を個人に向わせ、それは平成になって、ほぼ完
全なミーイズムに取って代わられたのである。

 戦後の日本人の精神相を捉えたニヒリズム、三無主義、しらけなど、
価値相対主義が増殖するに連れて、日本人から「和の共同体」が雲
散霧消して行った。個々の人間の感覚がアノミー(無連帯)に向った
のである。共同体がバラけるに従って、経済学者もケインズ学派から、
ハイエク、フリードマンなどの新自由主義学派に代わって行ったので
ある。しかし、それでも日本人が取り入れた新自由主義は、実効的
な経済の考え方として、適度な国家の介入を認めている前提があっ
た。厳密に言うなら、日本人が比較的最近まで取ってきた経済方式
とは日本型資本主義だったのである。

 植草氏が小泉政権を初期から叩いていたのは、実は小泉政権の構
造改革の思想が間違っていることと、その政策上の一貫性がまったく
ない国益毀損型の政策に終始していたからである。植草氏の経済思
想は、今は絶滅した昔の型を踏襲していながらも、無駄や非効率を取
り除くスタイルも持っている。つまり、マクロで見るならば、国家の安定
的な介入も認めるが、自己責任の実力主義も視野に入れ、その両者
の絶妙なバランスを保つことが国益経済にかなうという考え方である。

 この形こそ、日本型資本主義経済の枢要なのである。だから、亀井
静香氏が植草氏のレクチャーを真剣に受けていたのである。はっきり
言って、今メジャーになりつつある新自由主義型の経済学では日本
の再生は不可能である。滅びに向うだけである。小さな政府論の極
相は国家否定であり、そこは狂暴な経済プレデターが跋扈する弱肉
強食の無政府エリアと化していく。そして最終的には監視社会、密告
社会の「警察国家」に成り果てるのである。事実上、小泉政権がアメ
リカの命令に従って、日本固有の社会構造を解体してしまい、今の
日本は警察国家になりかかっている。だからこそ、今、国策捜査
による不当な逮捕が出始めているのである。鈴木宗男、佐藤優、
西村眞悟、そして植草一秀、これからも日本の防衛を心底から
考えて活動する真の愛国者たちが狩り出されるかもしれない。

 この圧倒的な流れに対し、経済政策の分野で雄雄しくも立ち
上がり、政府を相手に堂々と反論し、国家の崩壊を食い止めよ
うと孤軍奮闘する偉大な経済学者がいる。それが
植草一秀
である。言論者の鏡である魂と誇りをもつ勇気ある人である。

 今、極悪な犯罪が連日多発していることも、小泉政権が行った極端
な新自由主義社会への構造転換に起因している。今の日本で救国
の思想をベースに持っている経済学者は植草一秀氏なのである。そ
のことは、りそな疑惑を一貫して糾弾し続けている姿勢にもあらわれ
ているし、彼は「あるべき金融」という本の中で次のように言っている。

「経済政策に関する考察は、優雅な経済学論争とは本質的に違うの
である。経済学論争は決着がつくまでに無限に時間を費やすことが
許され、誰が正しく誰が間違っていても、それによって国民が傷つく
ことはない。しかし、経済政策は現実の行政にかかるものであり、そ
の失敗は直接国民生活を左右する。
 経済学の重要な役割は、現実の経済政策の立案、決定過程に貢
献することだということを忘れてはならない」(P182)

 植草氏は、エコノミストたちが無責任な発言をしたり、重要ポストに
ある政治家たちに無責任な助言をすれば、結果として国が傾くと言
っているのである。小泉・竹中政権の五年間は、日本の構造をアメ
リカ型の新自由主義社会へ強引に構造転換しただけではなく、国民
を裏切って、国富をアメリカに貢ぐシステムを構築してしまったのであ
る。

 これを激しく糾弾し続けている植草一秀という男は掛け値なしの救
国心情に溢れている。こういうかけがえのない人物が、小泉、竹中、
世耕、飯島などの売国政治家に狙われるのは当然であろう。日本と
いう国は、国家が危急存亡になると、必ず有意の人物があらわれ、
命をかけて救国的警醒活動を行う。その一人が植草一秀氏であるこ
とは間違いない。日本の破壊を黙って見ていられない彼の義勇心、
義侠心が今回の境遇を招いているのである。彼の仕事はこれから
である。我々国民は家族や子孫に確固とした日本という国を残して
行かなければならない。植草一秀の救国のこころざしを見抜いた者
であるなら、彼が性犯罪の位相にはないことを確信できるはずであ
る。

 小泉の破壊によって日本は青息吐息、壊滅的な状態まで追い込
まれた。アメリカによる第二の経済敗戦である。なにを、馬鹿なこと
を、今日本の株価は上昇傾向にあるではないかと思っている日本人
は多い。しかし、これは外資活動による一時的な現象である。今、日
本経済の実情は死の瀬戸際にある。今、日米の長期金利の差は3パ
ーセント以上ある。日本はゼロ金利。外資はこの金利差を利用して
安い円を集め、これをアメリカで運用して儲ける。この儲けた金を日
本で運用しているから、一時的に日本の景気が良くなっているので
ある。そういうシステムが作られてしまったのである。

 これを専門用語では「キャリートレード」(carry trade)と言うらしい。
小泉政権はこのキャリートレードの型を恒常的に固定化してしまった。
今の景気浮揚は外資活動による皮相的現象にほかならならず、日
本の自力とは関係ない。これに気づき、早急に国を立て直さなけれ
ば我々に未来はない。今、植草一秀という男の力が何としても必要
なのである。


 かくすればかくなるものと知りながら
 やむにやまれぬ大和魂  
(吉田松陰)

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2006年10月 5日 (木)

(続)藤原直哉氏の例の放送について考える

 前回記事に対して、無記名さんから真摯なコメントをいただいたの
で参考になった。それにコメントを書いていたら、長くなったので本記
事に載せた。

>藤原氏の意図が、
>もっと本質を考えるように促しているのか、
>或いは、
>オカルト的なサイトを潰そうとしているのか。
>真意は測りかねますが、
>いずれにしても私たちが注意すべきは、
>コピペして喜ぶようなサイトも
>真意の推測もせずに、まるでおもちゃを貰った
>子供のように喜んで叩くような
>サイトも同じようなレベルであることです

ご意見、ありがとうございました。

たしかにおっしゃるとおりのようにも思いますが、藤原氏に情報
をあたえた者の意図ははっきりとはわかりません。ですが、この
放送による最終的な効果としましては、警醒の意味合いが結果
として強く出てしまうように思われます。

 藤原氏の語った「小泉政権の後始末」は、額面どおりに受け
取るわけには行かなくとも、話の骨格そのものは「年次改革要
望書による郵政民営化」の真相を衝いている内容だと考えます。
年次改革要望書の存在は紛れもない事実ですし、郵政事業を
民営化するという、構造改革そのものが国際金融資本を介して、
アメリカに日本の金を貢がせるシステム造りなのであります。

 小泉政権がやったことは、郵政民営化を構造改革のかなめ
と言いながら国富流失システム、すなわちアメリカに日本の国益
をトランスファーさせるシステムを構築したことには間違いありま
せん。人間や企業や社会は、基本的に自由がいいとは思います
が、だからと言って、国家の枠や国民生活の安寧に必要な規制
を闇雲に取り外していたのでは、それはもはや秩序ある国家とは
言えない状態になります。

 災害時、戦争、経済危機などの危急存亡の時などは、大規模で
利潤とは関係ない救済措置が必要となります。その場合、国家
以外に誰がその役割を担うのでしょうか。郵政事業というものは確
かに無駄もありましたし、汚職も発生していました。しかし、日本
に一旦ことが生じた時には、郵政の持つ莫大な資金は、国家国民
の救済の役割を担います。以前も言いましたが、こういう市場原
理の法則からはずれた金融装置が日本にあることは、国民生活
や国民心理に大きな安心感を与え、国内の秩序を維持することに
大きな力となっています。

 国営か民営かなどという愚劣な二値論理に拘泥せずに、郵政
事業がどうしたら安定的に、国益にかなうように、国民の幸福に
寄与するように出来るのかを、時間をかけてゆっくり考えていけ
ばいいことです。それを、こともあろうに小泉は、アメリカの片務
的な要望に追いまくられて拙速に民営化をやってしまいました。
それで何が解体されたのでしょうか。旧弊な郵政事業団体でしょ
うか。違います。解体されたのは国家の安全システムなのです。
郵政とは、日本人が歴史的経験則から得た知恵によって築き上
げた一つの精巧な国家安全装置なのです。それがまったく省み
られずに、市場原理至上主義的な観点のみで民営化が強行さ
れてしまいした。

 しかもです。この市場原理に特化した方向性で行われた郵政
民営化は、その市場原理で、どうすれば国益にかなう運用がで
きるのかとか、その際にヘッジファンドのように数字の大金だけを
動かしたり、その他の金融的手法を駆使して莫大な利潤を得る
ハゲタカ的な外資の攻勢を、どうしたら防衛できるのかという肝
心な議論を、竹中や小泉は敢えてさせなかったという経緯があ
ります。やらせるはずがありません。自由市場による「公正な競
争」という名目で、我が国の国富をアメリカにごっそり流動させる
ことが目的だったわけですから。

 植草一秀氏が、マクロ的観点から小泉経済施政が根底から誤
っていると指摘し続けたのは、構造改革が間違っているのではな
く、小泉・竹中がやった構造改革が国益毀損型であると見抜いて
いたからです。植草氏も実は構造改革論者なのですが、彼の構
想は小泉・竹中たち、売国ペテン師とはまったく違っています。そ
れは彼の著書や論文を読めばわかります。

 国益毀損型国政、郵政民営化もこの形を忠実に踏襲している
わけでありまして、やがては郵貯、簡保にストックされている膨大
な資金も、国外に流失することになります。日本人はそうなってか
ら、初めて竹中主導による郵政民営化が戦後最大の国富毀損犯
罪であり、日本人の知恵と経験がつくりあげた日本固有の構造が
解体されたことに気が付くわけです。このまま行けばですが。

 我が国の経済危機及び国難的状況に対応できる唯一の防御シ
ステム、安定システムである郵政事業が解体され、国際金融資
本が暗躍する弱肉強食の民間市場に投げ出されるのみならず、
国民の勤労努力の賜物が「ただ」でアメリカに出て行きます。し
かも見返りゼロの状態で。

 肇国以来、最大の国売り宰相である小泉純一郎に、たとえ六
分でも国家を思う気持ちがあるのなら、一兆円を懐にしてもかま
わないから、日本生存のために何か役立つ大きな交換条件をア
メリカに出せなかったのかという思いが強く出ます。たとえばで
すが、無条件の日本核武装をアメリカに確約させるくらいの手は
打てなかったのかと思うわけです。ところがこいつは喜々として
国富をアメリカに献上する準備を整えました。

 藤原氏の例の放送は、すでに朝貢システムが稼動して、200
兆円が外債に当てられたと完了形で言っていますが、その部分
と金額を度外視すれば、まったく起こりうる話だと考えます。

 従って、私は「警醒」の性格がかなり強いものと見ています。ま
あ、謂わば、ジョージ・オーウェルの「1984」が予言的性格を持っ
た小説であるように、例の放送も「これから、そういうことが起き
るから注意しろ!」というメッセージに見えます。

 これが実は嘘でしたということになったとしても、多分そうなるで
しょうが、この放送を聞いた人々は、現実の対米構造の最も危険
な側面を面白小説の形でインプットしたことになるわけです。これ
は小泉政権の欺瞞性を見破るためには、非常に効果的だと思い
ます。

 あとは聞いた人々が、各自の情報リテラシーを駆使して「小泉
内閣の五年」を、そういう角度からアナライズして行けば、郵政民
営化法案の拙速な成立が、いかに日本国民を欺いて為されたか、
その真相が見えてくるでしょう。

 結論において、藤原放送は国益に敵う方向に行くと思います。
これを放った人物は頭がいいと思います。なぜなら、郵政資金が
すでに流れてしまったと言えば、聞いた国民は度肝を抜かれる
からです。まっとうな警醒の語りよりも、起こることを起きたと言う
方が、はるかに大きなインパクトを与えることが出来ます。その
意味でこの警告放送は効果的だと思います。もし、これがブログ
つぶしの意図だとすれば、キックバックの一兆円、二兆円も嘘、
アメリカ国債への充当も嘘、従って根も葉もない放言であるこの
放送内容を、確定引用したブログは責任をとって閉鎖せよとな
るのでしょうか。

 コピペしたからと言って、それを鵜呑みにしたとは解釈されま
せん。こういう衝撃的な話があるんだよということで人々の耳目
をひきつけるにはいいアイディアだと思います。この話が作り話
であることが知れた時、その内容を全否定するほど日本人は愚
かではありません。

 なぜなら、この話が加速的に広まったというはっきりした事実
が、いかに多くの人がこの問題を気にかけているかをあらわし
ているからです。

 関岡英之「拒否できない日本」&「奪われる日本」、小林興起
「主権在米経済」、原田武夫「騙すアメリカ 騙される日本」等を
読んでいる人なら、この放送内容が骨格的には事実に基づいて
いることが一目瞭然に理解できるからです。

小泉構造改革の罪とは、国富流失システムを構築したことだけ
ではありません。かれが行ったことは改革の名を借りた国家構造
の大破壊です。国民は三島由紀夫が予言した内面がニュートラル
な無国籍人間になりかかっていますが、その前に小泉純一郎とい
う狂気の宰相が日本という国家構造を解体してしまったのです。
三島の予言は当たりつつありますが、三島が射程に捉えきれな
かった別の変数が出てきたのです。小泉による国家崩壊です。

 国家が先に崩れてしまったので、日本人は内面から無国籍人間
と化す前に、列島というあるエリア内で根無し草になり、漂流をし始
めたのです。これがどれほど恐ろしい現実であるか、まだ日本人は
気づいていません。

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2006年10月 3日 (火)

「小泉1兆円、竹中2兆円」放送の真意を推測する

 今、ネット世界に衝撃的な情報として急速に増殖しつつあるネットラジオ
放送について、その放送意図を少し推測してみた。この見解は前々回の
記事「同一情報源のはずが、二つの違う話に分化」にも書いたが、今回は
その部分だけをピックアップする。

 その内容は「藤原直哉のインターネットラジオ放送局、9月26日、「小泉
政権の後始末」である。この内容は、小泉・竹中路線が、小泉構造改革政
策の中核として、昨年10月に強引に成立させた「郵政民営化」によって、
郵便貯金資金と簡保資金合わせて340兆円の内、200兆円がすでにゴー
ルドマン・サックスの仲介を経て、30年満期の米国債に充当されたという
ニュースである。このキックバックで、小泉は一兆円、竹中は二兆円を懐
中にしたというものである。

 ここで語られている驚くべき内容の真偽は確かめようもないが、すでに郵
貯が米国債に充当されたという事象は俄かには信じがたい。郵政民営化
が本格始動するのは来年の10月であるから、時制的におかしいし、金融
関係者からその話がリークされている様子もない。もしそういう巨大な資金
の動きがあったのであれば、これに不審を抱く者が必ずあらわれると思う
からである。そういう噂がいっさい出ていない。

 しかしである、数字そのものはともかくも、郵政民営化の本当の目的が
この話の構造と一致していることは確かである。すなわち「郵政米営化」
である。ここで私は二つの推測をした。一つは、この話は郵政資金の外
資食いを防ぐために世論喚起として故意に投入した可能性と、もう一つ
は、郵政資金の流れに対して、日本人が今、どれほどの警戒感を抱くの
かという、米国政府機関による日本人の反応をリサーチする目的がある
のかもしれない。私自身は前者の可能性が高いと思っている。すなわち
警告のために、敢えて米国の思惑が完了したと過去形で語っているよう
な気がする。

 冷静に考えるなら、郵政公社が民営化に向けて本格始動するのが来
年’07年の10月からであり、民営化が完全に完了する設定期間が2017
年までの10年間である。私はこの設定期間が国民の目を欺いて安心さ
せる最大のペテンだと思っている。竹中平蔵がやったのである。国民が
10年というタームに安心しきっている時に、来年の民営化始動時から郵
政資金は外資の入れ食い状態となり、あっという間に国富は消尽してし
まうのである。

 あと一年である。あと一年の間に日本人が世論を喚起して、非国民政
権である小泉内閣が決めた郵政民営化を見直す法案を出さないと、国民
の血と汗の結晶である日本国の生命線的国富が外に流失してしまうので
ある。つまり、藤原直哉氏の語る内容が予言的雛形構造を持っている
ことは間違いない。

藤原直哉のインターネット放送局より、
『藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2006年9月26日
 小泉政権の後始末
                    ↓
http://naoyafujiwara.cocolog-nifty.com/ipodcasting/files/0926.mp3

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2006年10月 2日 (月)

植草氏謀殺までの必要な過程として仕掛けられた罠

 前回記事で、underdogさんが寄せてくれたコメントに植草氏ご本人が語
っている ビデオニュース、「丸激トーク・オン・ディマンド」が紹介されてあっ
た。これは全部で1時間06分の長さであるが、植草氏自らが語っている話
をじっくりと聞いてみて、大いに参考になった。’98年の件は40分ほど経過
した辺りから聞くことができる。

 前回、前々回の記事で私は、植草氏の’98年の事件そのものが、あた
かも現象として何も起きていなかったと書いてしまったが、その件では植
草氏が、警察による恫喝をともなった強引な取調べで、無実であるにも関
わらず、むりやり、警察の言い分に従った調書を取られてしまうという結果
になっていることを知った。破廉恥行為があったとされる、そのきっかけと
なった出来事は、植草氏ご本人の説明に従ってここに説明しておく。

 ’98年に東海道線電車内で起きたその出来事であるが、植草氏は四人
座りのボックス席の通路側に座った。対面側の席には二人の女性が座っ
ていた状況であった。植草氏は、太もも(股)の湿疹が痒くて掻いていたこ
とと、電車が揺れた時に、荷物を抱えていた彼の小指の先が、女性の膝を
ほんの0.01秒ほど擦過(さっか)しただけであるということだけであった。膝
を擦過された女性が、ちょうどその時に通りかかった車掌に「この人が感
じ悪いんですけど」と訴えたと言っている。

 それで植草氏は駅の事務室に連れて行かれ、その後、駅の警察で事情
聴取を受けたという経緯である。植草氏は故意にさわっていないことを何
べんも言ったが、警察はまったく肯えんじなかったと言う。警察は(意識的
に)さわったことを認めなければ返さないという態度に一貫して拘泥し、結
果的には上申書に「さわった」と書いてしまうこととなった。その後、また一
回、警察に呼び出され、恫喝されながら警察の言うがままに調書を取られ
たそうである。そのあと、五ヶ月くらい経ってから検察に呼び出され、上申
書にこう書いてあるからということで、最終的には五万円の罰金を払ってこ
の件が落着したそうである。

 ここで、植草氏の言は一旦おいて、ひとつあることが考えられる。たと
えば、A、Bという二人の男がいて、ある女性がAに好感を持ち、Bに嫌悪
感を持っていた場合、同じ軽微な偶発的擦過が、Aは何事もなく、Bはセ
クハラだと捉えられてしまう場合もある。偶発的接触に対して、女性側の
心理的、主観的な好悪感情による選別がはたらいてしまう場合も否定で
きない。

 それを勘案してこの一件を見た時、植草氏が湿疹を掻いている行為を
見ていた相手がその行為を誤解し、その時点でかなりの不快感を持って
しまったという前提も充分に考えられるのである。そうなると、偶発の擦
過的接触が、主観的におぞましい痴漢行為として感じられる場合もある
のではないだろうか。累犯といわれる’98年のこの件の場合、偶然的擦
過が意図的擦過のように女性に受け止められた可能性はないだろうか。
私は平野貞夫氏が言っているように、女性が過敏反応をした可能性を強
く示唆する出来事だったと考えている。

 植草氏自身も、そういうことが起きると男性側に非常に不利だと語ってい
るが、結局は大騒ぎになるよりは、おとなしく微罪を認めて収拾する方向へ
行くものらしい。これは著名人であるほどそういう傾向が強くなることは充分
に考えられる。現状の仕事やこれからの仕事に支障をきたすことや、社会
的な信用に致命的な傷がつくからである。勿論、冷静に考えれば、あとで
世間に発覚した場合も社会的信用に致命的な傷がつくことにまったく変わ
りはないのである。要は調書に応じないことであるのだが・・。

 これに対して部外者は、やっていない場合は、長い目で見れば一貫して
否認を通したらいいではないかと思いがちだが、現実にそういう場合に遭
遇し、拘留、取調べという非日常的な状況にいきなり陥った場合、冷静さを
保つべきだったと断言できるのだろうか。認めればすぐに釈放するが、否
認すれば拘留がずっと続くんだぞという言動や無言の示唆は、動顛した被
疑者にとっては人生の鬼門中の鬼門であると思う。

 実際にそういうことに遭遇して無実の罪を着せられた場合、それが微罪
ならば、認めることによって波風を立てず、罰金で済ませたいという誘惑に
抗しきれない気持ちも良くわかるのである。植草氏自身はこの件に関して、
そうとう深い後悔をしているようである。

 事実上、植草氏は前回の手鏡覗きの件と、今回の痴漢容疑の件で、こ
の’98年の一件が、咽に突き刺さったまま抜けない棘(とげ)のように彼の
状況を悪くしていることは否めない。逆に言うなら、アメリカと対米従属売国
政権にとって、植草氏が抱えていたこの’98年の不幸な一件は、彼を罠に
嵌める謀略側にとっては、思いっきり有利にはたらく出来事となっている。

 だからこそ植草氏は、手鏡覗き事件、そして今回の痴漢事件という、二
件とも「性犯罪」という事案で国家の罠をかけられたのである。なぜら、’98
年の一件を植草氏が抱えていることが利用されているからである。植草氏
を常習的性犯罪者、すなわちそういう破廉恥な性癖を持つ人間であるとい
う固定化したイメージを世間に流布するためには、’98年の件、’04年の手
鏡覗きの件、そして今回’06年の痴漢の件、すなわち、通算三度の件に連
続性を持たせることが最も確実な方法なのである。

 謀略側、すなわち小泉・竹中政権の黒幕たちが植草氏に狙っているもの
は、植草一秀氏の言論表現を完全に封殺することであり、そのためには謀
殺することが最も効果なのであるが、手鏡覗き事件に国策捜査の疑いがか
けられ、たとえ、それがわずかな声であっても、インターネットなどを介して
爆発的に世間に広まる危険があるのなら、たとえそうなっても、植草氏の言
論に対して国民の興味を惹起しないようにすればいいわけである。彼らは
植草氏の常習的性癖をどうしても立証し、植草氏のイメージ悪化を世間に
固定化する必要があったのである。

 繰り返すが謀略側は、品川駅構内の件と、今回の京浜急行電車内の件
の二つの性犯罪をでっち上げる必要があったのである。’98年の電車内で
の件は、不幸にも植草氏の身に起きた、謂れなきアクシデントである。植草
氏に対して、謀略側が立案しプロットした「国家の罠」における基本計画の
出発点が、もしかしたら’98年のこの一件に目をつけたことにあるのではな
いかと、今は思い始めている。

 つまり、「性犯罪者・植草一秀固定化計画」の核になる材料として、この
一件が利用されたと思うのである。謀略側が最も懸念していることは、植草
氏が見据えていた、政府がらみ、米国がらみの巨大な金融犯罪疑惑に世
間の耳目が集まり、取り返しのつかない巨大な世論を惹起してしまうことな
のである。

 これを防御する確実な手段として、植草氏を謀殺する前に、彼の人格的
な評判と社会的な信用を確実に地に堕とす段階が必要だったのではあ
るまいか。それが品川駅構内の手鏡のぞき事件と今回の痴漢事件で
あった。それが起きれば、世間は、このような破廉恥な男の理論や言
動などは読むに値しないということになる。

 このように植草氏謀殺までにはどうしても踏んでおく過程があったの
である。そして、この謀殺を実行する準備としての要件は、今回の
京浜
急行電車内における痴漢事件の偽装ですでに完了している
のである。

 だからこそ、私は今、植草氏が謀殺される
可能性が最も高くなっていると訴え続けてい
るのである。




※ 参考としたビデオ・ニュース(植草一秀氏ご本人の肉声あり 1時間06分)
 mms://wms04.aii.co.jp/vnews/210marugeki-uekusa/marugeki210-1a.wma

       
(’98年の件は、全体の2/3くらい、40分くらい経過した所から聞ける)

 

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2006年10月 1日 (日)

同一情報源のはずが、二つの違う話に分化(植草氏の謀殺を防ごうではないか)

 前回の記事はあまりにも長すぎて読みにくいので、非常に重要な要点
だけをここに短めに書いておく。「女性セブン」に発表された、植草氏の
過去7回の摘発という新事実はそれまで公表されていなかった。

 そこで、まずは、公表されてきた三回の事件の最初の事件について発
見したことをここに書く。それは手鏡事件の前、すなわち1998年の件に
ついてである。それに関する週刊誌報道が二種類出ていることを発見し
た。

 一つしか生起していないはずの事件が、「女性セブン」と「週刊現代」
では、まるで違った事件として描かれていたのである。次にそれを併記
する。

  1)女性セブン(10月5日号)   
         公判が進むにつれ‘98年に電車内で自らの陰部を触る
         などの自慰行為を行ったとして逮捕、罰金刑を受けた
         過去も明らかに。

 2)週刊現代  (10月7日号)
         また、手鏡によるのぞきの前にも、電車内で、女性の
         股間を触ったとして罰金を払っている(‘98年)

 一つの事件が二種類になって報道されていいはずがない。この二つの
ニュースの決定的な違いは、微妙な表現上のニュアンスの違いというレベ
ルにはなく、まったく別の事件になっていることである。この事実から何が
わかるのかと言えば、植草氏が起こしたといわれる三回の事件において、
最初の’98年の事件が実は生起していなかったという可能性が出てくる
のだ。

 二種類の週刊誌が時を同じにして、一つの事件が別の事件として報道
されたことは、これら週刊誌記事の致命的な確度の欠如もそうだが、肝
心の情報元である警察関係者、捜査関係者によるこの事件に関する「提
供情報」そのものの信憑性が最初からないことを強く示唆していることに
なるのだ。

 ’04年の手鏡事件の時は、公安が一時間も植草氏を追跡監視していた
ことや、品川駅の構内カメラの映像記録が、
ある時間が経つと自動的に
消去されるそうだが、その記録があるうちに警察が、それを押収しなかっ
たことの不自然が目立ち、そういう逮捕状況の怪しさから冤罪の可能性
を指摘する者は多い。よく考えてみよう。植草氏が大々的に報道された
のは二年前のこの手鏡覗き事件である。その前の’98年の件に関して
は、その時点では話題にもならなかった。これが事実として公判に提出
されたのが、’04年の手鏡事件の裁判中であり、世間に流布され始めた
のが今回の痴漢事件の後なのではないだろうか。つまり、ごく最近のこ
とではないだろうか。

 私は’98年の件の報道については、明らかに後付け報道ではないかと
疑っている。その報道が最初に出た時点、つまり、その報道の時系列的
な位置づけができないが、少なくとも私の記憶では、’04年の手鏡事件の
後か、今回の電車内の痴漢事件と期を同じくして出てきたのではないか
と感じているのだがどうだろうか。確実に知っている方がいたなら是非教
えて欲しいと思う。

 前の記事でも指摘したが、女性セブンによる「過去7回報道」には事件
生起を説明する確信的な情報は一切ない。同様に’98年の事件報道は、
客観的な事実報道としては致命的な「事件内容の乖離」が存在する。こ
れらの客観的材料から、浮かび上がる結論は、今回の痴漢逮捕も冤罪
の可能性がきわめて強くなるということである。

 こう言えば、’98年の件は、公判中に出たものとされているから、公判
記録が存在しているはずだ、それが絶対的な事実として揺るがないので
はないかと思う人もいるだろう。もし、調べてみて、その公判記録が「女性
セブン」の記事、あるいは週刊現代の記事のどちらかと同一性があったと
するなら、週刊誌のどちらか一方は捏造記事を書いていることになる。そ
うなれば、その出版社は自社の社会的責任をかけて世間に謝罪し、情報
ネタ元を明らかにする義務があると思うがどうだろうか。


 もし、その公判記録と違う記事を放出した週刊誌が、ネタ元の秘匿を理
由にうやむやに済ますのであれば、明らかに植草氏の人権侵害になると
思う。事実の成否以前に、犯罪そのものの捏造記事を書いた責任は許容
されるべきものではない。

 そして、参考としてあげるが、衝撃的な話題として急速に広まっており、
波紋を投げかけている話題に、「藤原直哉のインターネットラジオ放送局、
9月26日、「小泉政権の後始末」がある。この内容は、小泉・竹中路線が、
小泉構造改革路線の中核として、昨年10月に強引に成立させた「郵政民
営化」によって、郵便貯金資金と簡保資金合わせて340兆円の内、200兆
円がすでにゴールドマン・サックスの仲介を経て、30年満期の米国債に充
当されたというニュースである。このキックバックで、小泉は一兆円、竹中
は二兆円を懐中にしたということである。

 ここで語られている驚くべき内容の真偽は確かめようもないが、すでに郵
貯が米国債に充当されたという事象は俄かには信じがたい。郵政民営化
が本格始動するのは来年の10月からである。しかし、数字そのものはとも
かくも、郵政民営化の本当の目的がこの話の構造と一致していることは確
かである。すなわち「郵政米営化」である。この話は郵政資金の外資食いを
防ぐために世論喚起として故意に投入した可能性と、もう一つは、郵政資
金の流れに対して、日本人が今、どれほどの警戒感を抱くかという、米国政
府機関による日本人の反応をリサーチする目的があるのかもしれない。私
自身は前者の可能性が高いと思っている。すなわち警告のために、敢えて
米国の思惑が完了したと過去形で語っているような気がする。

 冷静に考えるなら、郵政公社が民営化に向けて始動するのが来年’07年
の10月からであり、民営化が完全に完了する設定期間が2017年までの10
年間である。私はこの設定期間が国民の目を欺いて安心させる最大のペ
テンだと思っている。竹中平蔵がやったのである。国民が10年というターム
に安心している時に、来年の民営化始動時から郵政資金は外資の入れ食
い状態となり、あっという間に国富は消尽してしまうのである。あと一年であ
る。あと一年の間に日本人が世論を惹起して、非国民政権である小泉内閣
が決めた郵政民営化を見直す法案を出さないと、国民の血と汗の結晶であ
る日本国の生命的国富が外に流失してしまうのである。つまり、藤原直哉
氏の語る内容は、予言的雛形構造を持っていることは間違いない。

藤原直哉のインターネット放送局より、
『藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2006年9月26日 小泉政権の後始末

                      ↓

http://naoyafujiwara.cocolog-nifty.com/ipodcasting/files/0926.mp3


 この番組の中で、植草氏の冤罪と関連して、実に気にかかることが一つ
あった。それは検察がCIAから10億円で口止めをされたという話である。こ
れが事実なら、検察がCIAか、あるいは官邸サイドに強制されて、植草氏
の犯罪をでっち上げることなどいとも簡単なことだろう。しかも、米国中央
情報局が絡んでいるとすれば、小泉・竹中路線のマクロ政策を初期から
徹底的に批判していた植草氏が、すでにアメリカに目を付けられていた可
能性は俄然強くなる。植草氏がCIAサイドに謀殺されなかったことがむしろ
不思議なくらいである。しかし、考え方を、植草氏の小泉政権批判にベー
スを持って行けば、CIA、あるいは官邸サイドが植草氏の謀殺を躊躇して
いた一つの理由が見えてくる。

 それは植草氏が、小泉政権と米国のタッグマッチによる巨大な金融犯
罪の中心を捕捉し、そのことを随所で言い始めていた事にある。そういう
国際疑惑を白日の下に晒す発火源となった植草一秀氏を、下手に謀殺
した場合、今まで彼が世間に発表した内容が一気に注目され、日本国
民の注視の的になる可能性は大きい。

 皆さんはよく聞いて欲しい。だからこそ、植草氏は永遠に口封じされる
前段階として、今回の「痴漢犯罪」を演出されてしまったのである。週刊
誌やテレビは、こぞって植草氏の性犯罪常習者としての性癖を固定化
する報道に躍起である。日本国民のほぼ全体が、これらの印象操作報
道によって植草氏の常習癖を事実だと信じ込んだ時、植草氏は殺され
てしまうことが充分考えられるのである。未来に絶望したという理由に
よって植草氏の自殺が偽装される可能性は非常に高い。

 
何としても植草氏の謀殺を防ごうではないか。

  
 一人の人間にも、さまざまな精神の位相があり、時には高雅、高尚に
なりもするが、時には世俗的な空気に埋没する。従って、世俗的な情報
を覗き趣味的に面白おかしく語る週刊誌が当然あってもいいとおもうが、
犯罪の容疑や、疑惑に関して語る時は、話の性質上、確度の高い情報
を発信する必要があると思う。しかも語る内容は慎重にも慎重を重ねる
姿勢がなければおかしい。よく、週刊誌ごときの報道などは、話八割くら
い差し引いて読めとか言うが、読んだ時はそのつもりでも、あとでそのこ
とを他人に語る時は既成事実であるかのように言う時がある。それが又
聞きとなって他の人間に伝搬して行く。案外、風評というのはこのように
して広がる場合もかなりあるのではないだろうか。

 たかが芸能ネタや下半身事情をあつかう週刊誌だなどと言っても、優
れた情報リテラシーを持った読み手ばかりではない。記事の確度をまっ
たく疑わずに記憶してしまう人々も多いだろう。風評、風説は、時には雪
崩現象的に、大衆にまたたく間に広がってしまう場合も多い。今回の植
草氏逮捕の報道も、かなりこの現象に近く、確度があやふやな最初の情
報が、いつのまにか、あたかも植草氏の常習的な性癖が引き起こしたか
のように伝わっているのは大問題である。

 週刊誌が元ネタを面白おかしく誇張的に報道するのは仕方ないし、そ
れがその世界の持ち味だということもよくわかる。しかし、まだ確定して
いない犯罪を、既成事実であるかのように報道するのは人権蹂躙以外
の何ものでもない。

 (短くまとめるつもりであったが、結局今回も長めになった)

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「女性セブン」誌、過去7回報道の悪質さ

     ◎植草一秀氏に関する週刊誌報道のひどさ

 この間、初めて女性週刊誌を買いに行った。植草氏に関する記事を直
接見るために、小学館刊行の「女性セブン」誌(10月5日号)を買ったので
ある。この週刊誌がどういう性格を持つものか、私はまったく知らなかった
が、他の記事の次のような内容から察するに、世俗的で下世話な話題を
主としている週刊誌の一種であるようだ。まあ、世俗週刊誌らしい週刊誌
である。しかし、そのことと犯罪報道の無謬性は別のことである。

 下は植草氏に関する問題の記事のタイトルである。

   ○植草一秀容疑者(45) 「痴漢で示談七回」の過去 
   部屋からは四つん這いパンチラ写真509枚、教室で
       女子大生に「えん罪でした」

 

 植草氏に関する重要な続報がそれまで出ていなかったので、これが出
たときは衝撃的だった。『「痴漢で示談七回」の過去』というその記事は、
私の知る限りメディアが初めて発表したものである。この世間の意表を衝
いた週刊誌情報について見解を言う前に、それまでに世間に流布された
三度の件を整理しておく。

 女性セブンによれば、一度目は、公判中に出たとされる、98年の電車内
での件である。彼は陰部を触り、自慰行為などのかどで逮捕された。二度
目は04年の品川駅での、いわゆる手鏡覗き事件である。三度目は今回、
京浜急行の電車内で起きたとされる痴漢事件である。

 一度目の事件に関連して言う事がある。今日、「AAA植草一秀氏を応援
するブログAAA」に週刊現代のことが書かれていたので、早速買い求めて
該当記事を読んでみた。週刊現代10月7日号である。応援するブログの管
理者であるゆうたま氏は、記事に書かれた植草氏の学生時代からの友人
の面会事実はなかったと、自分で調べて、その友人なる者のインタビュー
記事の捏造性を喝破されている。

http://yuutama.exblog.jp/

 私は上記の女性セブンの記事を熟読していたので、週刊現代誌に書かれ
ていたある重要な説明にすぐに目が留まった。それが、植草氏の一度目の
出来事、すなわち98年の事件である。読み比べてみると、その事件の内容
が、女性セブンと週刊現代では、まったく異なっているのである。その二つ
の該当する部分の抜粋記事を次に併記する。

 1)女性セブン(10月5日号)   
         公判が進むにつれ‘98年に電車内で自らの陰部を触る
         などの自慰行為を行ったとして逮捕、罰金刑を受けた
         過去も明らかに。

 2)週刊現代  (10月7日号)
         また、手鏡によるのぞきの前にも、電車内で、女性の
         股間を触ったとして罰金を払っている(‘98年)

 上の二つの記事は、‘98年にあったとされる同じ事件を扱っている。まっ
たく違う内容である。以前にも書いたが、日時の決まっているある事件に
ついて、警察から出る情報ソースは一種類であるはずである。よく注意し
て欲しい。いかに週刊誌記事とはいえども、個人や団体の犯罪を知らせ
る重要な記事が二種類あっていいはずはない。しかし、現実に二種類の
記事が書かれているのである。この事実をどう解釈したらいいのだろうか。

 女性セブンでは、「陰部を触る自慰行為」になっており、週刊現代ではは
っきりと「女性の股間を触った」となっている。同じ破廉恥行為ではあって
も、一つであるべき犯罪内容が、まったく異なった形で外に流布されてい
る事実をどう説明できるのだろうか。この二誌の表現における極端な乖離
は絶対看過できないことである。なぜなら植草氏の名誉と信用の失墜とい
う、彼の人生がかかっていることだからである。そういう重大なことをこの
ようないい加減な記事で決めていいのだろうか。

 それとも警察関係者が二通りの情報ソースをそれぞれの週刊誌に与え
たとでも言うのだろうか。もしそうであるなら、この‘98  年の植草氏の事件
は、警察サイドによる捏造である可能性が俄然高くなってしまうのである。
別々の犯罪内容が、植草氏の手鏡事件の前の件、すなわち‘98年の事件
として出ていること事態が、この一件の真実性を大きく欠いていることにな
る。このことは報道する側の失態で片付けられることではないし、情報源と
なる警察側のミスでも当然済まされる性質ではない。

 この二つの異種報道記事が示唆することは、‘98年の植草氏の事件は
なかったということに尽きるのである。もし、あったとするなら、同じ年に二
つの事件が起きていたことになる。今のところ、そのような報道は目にして
ない。しかし、これだけ、無責任にいい加減な記事を、さも本当であるかの
ように書く週刊誌類の常態では、そのうち、二つの事件があったような記事
が出てくるかもしれない。その時は私の指摘したことを思い出してほしい。

 皆さんも考えて欲しい。手鏡事件は冤罪だと思うが、今回の痴漢は三度
目だから、植草氏ももはや言い逃れはできないなと思っているのであれ
ば、手鏡事件の前の事件も、内容自体がこのような不確定性に留まって
いる事実を反芻してほしい。私が「植草氏逮捕に関するメディアの独断性
と偏頗性」でも書いているように、今回、京浜急行電車内の痴漢は、犯罪
を証明する核心的な情報が不確定のまま、逮捕事実だけがセンセーショ
ナルに先行報道されている。

 だとすれば、‘98年の件も、‘04年の手鏡覗きの件も、今回の電車内痴
漢の件も大いに疑わしいことにならないだろうか。すなわち植草氏は性犯
罪を犯していないという見方のほうが、はるかに妥当であると思えるので
ある。これに異議を唱える人は、上述の二つの内容の矛盾を考えてほし
い。仮にどちらかの週刊誌が訂正をして、事件内容を一つに絞ったとして
も、情報の出所の曖昧さ、いい加減さが解消されることはない。

 さて、本記事で私が最も言いたいことを最後に書く。冒頭でも書いたよう
に、女性セブンは決定的であるかのように衝撃的な記事を書いた。それ
は、植草氏には、過去三度の表に出た性犯罪のほかに、過去七度の痴
漢行為の前歴があり、それらは示談が成立したから表に出てこなかった
という内容である。この報道はテレビ報道でも便乗し、植草氏の常習性を
確定するイメージが構築される決定打となっている。この7回という数字の
魔術によって、その内容を確かめる気もなく、そのまま信じる手合いが多
いが、女性セブンには、その7回の前歴に対しても、なんら確定的な情報
を出していない。

 それについて書いている箇所は下記の短い文章だけである。

     捜査関係者が言う。「最初はいまから14年前の‘92年頃だった
     言います。女子高生でチェック柄のスカートを狙う犯行が多かっ
     たということで、警察内では要チェック人物でした。ただし、被害
     者との示談という対応に応じていたので、話は明るみに出なか
     ったようですが、今回で10回目の摘発なんです」(捜査関係者)  
    

 今まで秘されていたとする過去7回の摘発について書かれているのはた
ったこれだけである。妙だと思わないだろうか。過去7回の犯罪歴は、ひ
とりの容疑者の性癖を証明することに決定的な重要性を持つはずである。
ところが、その7回の事件について、女性セブンが明らかにしていること
は、第一回目、‘92年の最初の時だけである。しかもである。その情報は
「植草氏が要チェック人物であった」という、何も犯罪を確定していない出
来事のみである。この最初の事件には、被害者の年齢や起きた場所、月
日もないし、被害状況も何も書かれていない。しかも、あとの6回に関して
は情報がゼロなのである。このような無内容な記事で、7回の前歴がある
などと断言できる方がおかしい。

 もう一つ気になることが女性セブンの記事にある。原文のまま転載した
上記の記事を見て欲しい。

 捜査関係者が言う。「最初は・・中略・・摘発なんです」(捜査関係者

 重要な文の初めと終わりに、前後からはさむように「捜査関係者」の言葉
が置かれている。普通、これは文書ミスであり、どちらかの文は校正で削除
するはずである。ところが、わざわざ二箇所に配置した理由は何であろう
か。捜査関係者から聞いたんだぞというイメージを強調するためだろうか。
奇異な感じがする。もし、ミスであったとしたなら、校正もしない文章を載せ
たのかという疑問が湧く。それなら、この二重配置形式の文章の信憑性は
落ちると思う。植草氏の常習的性癖性を確定する重要な文章にしては、校
正ミスがそのまま記事に載ることは考えにくい。

 したがって、内容の強調の意味で「捜査関係者」というのを二重配置した
のだと思う。しかし、前述したように内容はほとんどない。これらから導き出
されることは、過去7回の件に関して、女性セブンが植草氏の確定的な情
報を得ていないのではないかという疑問が残る。

 もう一つ気になることがあった。それは文章内の「チェック」という言葉が
「チェック柄」と「要チェック人物」という言葉に引っ掛けて使用されているこ
とである。通常、「要チェック人物」とは言わずに「要注意人物」と言う。そ
れをわざわざ「要チェック人物」という言葉にしているのは、ふざけていると
しか思えない。先ほどの「捜査関係者」という言葉の二重配置も、もしかし
たらふざけて書いたのかもしれない。いずれにしても、植草氏の常習性を
担保する唯一の文章の中に、こういう「駄洒落」を入れていること自体が
信じがたい軽佻浮薄さだと言える。

  平野貞夫氏は、表沙汰になったとされる過去三回について、一度目の件
は女性の過敏な反応の可能性を示唆しているし、二度目のJR品川駅での
手鏡事件は冤罪であり、政治的な背景があったと私は信じていると言って
いる。そのことは、本記事で私が週刊誌の記事をつぶさに見て気が付いた
ことと符合する。

 
 最後に、女性セブンは植草氏が10回の「摘発」を受けたと書いているが、
この「摘発」という言葉は、手鏡事件と今回の痴漢事件には相応しい言葉
かもしれないが、過去8回の件についてはどうなんだろうか。「摘発」を広辞
苑で調べると、

     摘発 → 悪事をあばいて公表すること

 あと、あるサイトではこういう説明をしていた。

「逮捕・捜索→記者会見という一連の行為を、マスコミ用語で摘発とい
います。法律用語ではありません」 

「刑事手続について時系列を示すと、告訴・告発→摘発→送検→提訴
となります」

   ということは、マスコミの一種である「女性セブン」が「 今回で10回目の
摘発なんです」と書いたのは「摘発」という用語の間違った使い方なので
はないだろうか。上の説明を参考にすると、「摘発」は「逮捕・捜索→記者
会見という一連の行為」まで含む言葉に見える。また、国語辞典にも、広
辞苑にも、「摘発」の意味は「悪事を暴いて公表すること」となっている。

 だとすれば、これは推測であるが、「女性セブン」が「 今回で10回目の
摘発なんです」と書いた場合、10回全部が世間に公表されていたことに
なるのではないだろうか。しかし、公表されたのは手鏡事件と今回の二
度だけである。過去の8回は公表されていないから摘発とは言えない気
がするがいかがだろうか。そうなると、過去8回の件に対して、植草氏が
性犯罪をやっていたと警察が証言することは妥当なのだろうか。摘発の
厳密な意味を知りたいと思う。

 まあ、「摘発」のことはともかく、週刊誌記事は不確定な記事が多く、興
味本位のでたらめな推測や想像が、あたかも見てきたかのごとく書かれ
ていることが多い。そういうものだと思って読めば、週刊誌もそれなりの
娯楽性を大衆に与えているかもしれないが、一人の人間の社会的な生
命や全人格を否定されかねない性格の記事は、何よりも正確さ、無謬性
が要求されるのである。読者が多いほどこの前提条件は堅固としなけれ
ばならない。

 私が植草氏の冤罪説を唱えることで、被害者と取り押さえた人物たち
の人権が犯されると言う者たちがいるが、彼らは実名はもちろんのこと、
人物を特定する情報は一切出されていない。それに比べ、いい加減な情
報だけで、植草氏が常習的性犯罪者に仕立て上げられているこの現実こ
そ、人々はしっかりと見つめるべきではないのか。

 

                                    

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2006年9月29日 (金)

この国は人形芝居型国家なのか?(高橋清隆氏を紹介する)

 ここに記載する記事は、植草一秀氏の逮捕に関してもそうだが、私
(高橋博彦)と同様の、あるいは極めて似通った視点で、昨今の社会
現象を捉えている方の文章である。彼の名は高橋清隆(きよたか)氏
である。私は彼と会っていろいろと話をしたが、さまざまに生起する最
近の社会事象や、戦後の日本の歩みに対して、非常に鋭敏かつ深い
洞察力を持ったお人だと感じている。私は彼からいろいろ重要な示唆
を受け取った。

 今の日本を取り巻くメディアのバイアスのかかった空気や、それに巻
き込まれていながらも、そのバイアスに気がつかず、何にも疑いも持た
ずに偏頗な報道を鵜呑みにする人々。そういった昨今の日本の気持ち
悪さ、それが案じさせる危険な方向性を、高橋清隆氏も、私と同じく強
い憂慮の念を持って眺めている。このブログで今後も彼の文章を披露
して行こうと考えている。

 以下は高橋清隆氏が、植草報道に関して、特に警察の第一次発表
そのものにも「おいおい、ちょっと待てよ」という感じを持つことや、その
情報源を元に、あまたのメディア類が書き散らかしている記事や報道が、
問題の核心から逸れた興味本位の偏頗なアウトプットとして世間に放
散されていることなど、これらの背後に屹立する巨大なリバイアサンの
姿を冷静に直視し、分析している。

 そういうメディアの節操のなさや報道管制的態度が、この国のメディ
アには明らかに存在する。それを奇異に思わない今の日本の不気味
な空気・気配というものを、清隆氏は社会学的に鋭敏な視点で的確に
衝いている。皆さんにも是非お読みいただきたいと思う。

                   「神州の泉」管理人  高橋博彦

*****************************

   9月26日(火)

 人形芝居型国家
                     

                            高橋清隆

 今日、大田区の蒲田署に行ってきた。植草一秀名古屋商科大学客員教
授の逮捕事案について、詳しい話を聞くためだ。植草教授は電車内での痴
漢容疑で逮捕され、13日たった今も拘置されている。2年前にも手鏡を使
ったのぞき容疑で逮捕され、有罪判決を受けたが、本人はえん罪を主張し
ていた。

 氏は小泉改革批判を一貫して厳しく展開している。先回は同種の事件と
しては異例の家宅捜索まで行われ、今回は会社のパソコンまで差し押さえ
られている。その一方、報道では「被害者」と「取り押さえた男性2名」が知
り合いなのかどうか、植草氏がどこから乗ったのかも触れられていない。そ
の上、「被害者が声を上げたため近くにいた男性2人が気付いた」とする記
事と「目撃していた男性2人が取り押さえた」という記事の2通りが存在す
る。短い警察発表を基に、各紙が憶測で書いた証左に見える。不明な点は
はっきりさせなければならない。

 「フリーライターですが」と署の受付に行くと、当事件の責任者であるとい
う副署長に内線連絡してくれたが、「一切お答えできません」との返事だっ
た。その上、「取材は警察庁の広報室で報道機関の登録許可を得てから
来てください」とくぎを刺された。

 植草教授はまだ容疑段階にあり、自身の会社のホームページで潔白を
訴えている。しかし、「容疑否認」の続報を出したマスメディアは時事通信
と『スポーツニッポン』だけだった。『毎日新聞』に至っては唯一の記事で
「否認」の文言もない。わたしは神でないから、真実がどうかは知るよしも
ない。しかし、「公正・中立」を旨とするマスコミ人が容疑者と犯罪者を同
一視し、氏を常習変質者と決めつける興味本位の記事も繁殖している。
権力と闘っているつもりのジャーナリズムが自分の足で取材せず、警察
発表を垂れ流すだけの機関に堕していることに失望する。

 植草氏は某誌9月号で、りそな救済に絡む竹中平蔵らのインサイダー
取引疑惑を指摘したばかりだ。近日発売予定の暴露本があったとのうわ
さもある。記者たちはこうした重大な背景を念頭に、小さな事件も慎重に
扱うべきではないのか。しかし、そうさせないものがこの国の報道体制に
あるのかもしれない。記者クラブに登録しなければ取材が許されない。記
者発表以上のことを発表者の意に反する方向で書けば、後で上司を通じ
て怒られることになる。大抵それ以前に内部で削られる。運良く載れば、
記者クラブから外され、何も情報をもらえなくなる。職に有りついているた
めには、つまらない発表資料でも、ほかにコメントをもらえなければ、それ
で書くしかない。記事がないよりはましである。万が一生活するに十分に
お金があって、独立できたとする。フリーで登録できても、危ない記事を書
けば、今度は直接狙われる危険性が常につきまとうだろう。住所も連絡
先も提出しているからである。

 植草事件に限らず、新聞やテレビでは問題の核心を欠いた空疎な議論
がよく展開される。マスメディアを覆う深い闇は、こうした"会員制"取材管
理体制を装置に維持されているのかもしれない。

 昨年の「郵政国会」のとき民主党の桜井充参議院議員が、米国から出
される「年次改革要望書」について取り上げた。郵政民営化への指示も、
これに明記されている。竹中大臣は同文書の存在を知らないと答えたが、
前年の衆議院予算委員会ではその存在を認めている。どの新聞もこのこ
とを報じないばかりか、今に至るまで「年次改革要望書」という文字を一
切載せていない。

 8月ごろから、医師不足が問題にされ始めた。NHK総合「特報首都圏」
では、少ない医師状況を創意工夫で乗り切る各地の事例を紹介した。毎
日新聞の「闘論」では、医師不足を偏在性と見る識者と絶対数不足と見
る識者の意見を併記していた。地方の医師不足は2002年と2006年の
2度にわたる診療報酬のマイナス改定と医局制廃止が原因なのは明らか
だ。報酬が下がった結果、地方の零細な診療所では経営が悪化し、閉鎖
が相次いでいる。改革によって自由選択が始まる前は、国家試験に合格
した研修医は出身大学の医局に残ったまま配属先の病院が人事で決め
られた。わたしは医療の専門家でも何でもないが、『奪われる日本』関岡
英之(講談社現代新書)を読んで初めて合点がいった。小泉首相は米国
の要求に応え、民間保険会社に医療保険商品の販売市場をつくるため
医療費の患者負担の相次ぐ引き上げを実施した。これに反対する日本
医師会が郵政民営化法案に反対する自民党非公認候補を応援したため
の報復が診療報酬の引き下げと言われる。マスコミが「医師の名義貸し
問題」を騒ぎ立てて医局制廃止に貢献したため、これを原因に挙げない
のはまだ分かる。しかし、医師不足問題を取り上げるとき、専門家も含め
なぜマスメディアは診療報酬の改定に触れないのだろう。

 わたしの取ってる全国紙は、「農業コンクール」や「街元気シンポジウム」
などを所管官庁の後援で開いている。「農業コンクール」の上位入賞事例
は、毎年紙面に掲載される。今年は40万羽を目標に規模拡大に挑む養鶏
所や26ヘクタールの茶畑を経営する製茶メーカーなど。社説は規模の拡
大を絶賛し、講評として大学教授が企業家意識と専門化を歓迎した。しか
し、農水省の統計によれば、前回の調査から全国で5000の集落が消え、
今年ついに全国の過疎地比率は50パーセントを超えた。米国が要求し続
ける農業自由化が着実に進んできた結果である。農水省は農地法を改正
し大規模化・法人経営化を促進しているが、新聞は成功事例を紹介するば
かり。根本原因である食管法廃止を論じたり、自由化がもたらす弊害を扱
った記事を見たことがない。

 6月末に開かれた「街元気シンポジウム」は、都市計画法と中心市街地
活性化法の改正を機に開かれたもので、座談会と基調講演の内容、「が
んばる商店街77選」の受賞事例が新聞に掲載された。商店街の衰退問
題はNHKでも新聞でもよく取り上げられるテーマだが、「シャッター通り」化
を招いた最大の原因である大店法の廃止に言及したものを見たことがな
い。日米構造協議で米国に撤廃を要求され、相次ぐ基準面積緩和の末、
2000年に全廃された。今回の特集紙面も隅々まで見たが、原因に言及
することなく、創意工夫で乗り切っている商店街を礼賛しているだけだっ
た。前中小企業庁長官の基調講演は特にひどい。「弊害の原因はそんな
に難しいものではない。モータリゼーションや住み方、あるいは街の将来
像を考えずに公共施設を郊外に移転してきたことも原因だ」ととぼけた挙
げ句、「やはり商いをする人たちの工夫が大事だ。9割の商店街が疲弊し
ていると言ったが、逆に言えば1割の商店街はにぎわっている所もある」
としゃあしゃあと言ってのける。自分たちが外圧に押されるまま廃止した
大店法に触れたくないのは理解できなくもないが、誰もこれに言及しない。

 秋篠宮殿下に親王が誕生したことで、2600年にわたって国体を守って
きた皇室滅亡の危機は一時的に回避された。引き続き検討しなければな
らない皇室典範見直しについて、NHKの「時論・公論」や新聞紙上でも議
論が行われている。世界に例を見ないほど永きにわたる王室を断絶の窮
地に追い込んだのはGHQである。天皇本家を残し、11宮家の廃絶を強
制した。占領統治後は日本人の心をまとめる装置などない方がいいとの
判断からだろう。11宮家が皇族離脱したことに触れるマスメディアはある
ものの、「皇族復帰は国民の理解が得られるものでない」「この選択肢は
もはや現実的でない」などと論外な主張として片付けている。

 それぞれの問題について、どんなに詳しい専門家や勉強秀才たちが難
しい言葉で議論を続けたところで、肝心な部分に触れないのでは永遠に
解決に至ることはない。前小泉政権は、よく「劇場型政治」と言われた。メ
ディアで訴えて得た国民の支持を武器に、党内で反発のある改革を次々
と断行するスタイルを指すのだろう。しかし、それだけなら大衆政治という
平易な言葉で済まされる。米国が操っていることを、わたしはこの言葉に
含ませたい。その意味で、人形芝居と言った方がいい。劇の語り手であ
るマスメディアは、人形使いの存在を知らないふりをし続ける。演目は政
治にとどまらず、社会的事件、音楽や映画など文化、スポーツなど国民
生活全般に及ぶ。大衆は人形芝居の観客。子どもが語り手に反して本
音を言うとしかられ、それに耳を傾けては職を失う。ただし、劇を見ている
限り、現実は直らないのである。このお芝居は敗戦からずっと続いている
のではあるまいか。


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2006年9月25日 (月)

国思う者を救うのは今(植草先生は無罪)

    
 下記は前回記事へ、underdog 氏から寄せられたコメント投稿である。

 あるとき、京浜急行に乗っていたとき、車中を移動している人達がいまし
た。よく見るとその中心に監察医の上野正彦先生がいました。有名人も電
車に乗るのだと感心しました。引きつれていた人達は年配の女性たちでし
た。明らかに彼女らはボディガードでした。有名人が電車にのるときは、そ
の位の注意は必要と思いました。

 なるほど、まったくその通りだと私も思う。植草先生は官邸サイドを中心と
する売国謀略勢力が放った監視チームに、常時監視されているという自覚
が不足していたと私も思う。しかも、酒を呑んで電車に乗ったのはうかつな
ことだと思う。それでも私は植草先生のことをおもんぱかってこう考えてい
る。彼が狙われるそもそもの原因の巨大さ、重さを考えれば、仮に植草先
生が電車に乗らないように極力注意していたとしても、別の状況で今回の
ような目に遭わされていたのではないだろうか。

 植草一秀という、斯界ではそれなりに知られ、かつては新進気鋭と言わ
れて強い嘱望を浴びた有能な経済学者がいる。彼は、天賦の才能である
その鋭い知性を駆使して日本経済を分析していた。そのうち、日本経済の
動きと、小泉内閣の施政方針及びその政策実践の相関関係を調べて行く
うちに、この政権が志向するある重要な政治ベクトルにはたと気が付いて
愕然とし、熾烈な怒りを持った。

 植草先生は、小泉経済政策に横たわる政策的な根幹に一本の揺るがな
い対米隷従構造を発見していた。第一次小泉内閣の折、植草先生は小泉
総理や竹中経済財政政策担当大臣と直接会って、彼らの間違った政策を
正すべく、日本の国益にかなうまっとうな経済政策の考え方を具申してい
る。(この辺りの経緯は「失われた5年ー小泉政権・負の総決算(2)~(6)」
にも出ている。)

 しかし、小泉や竹中の売国為政者たちは、植草先生の国を思う正当な経
済政策を無視し馬鹿にした。その上、彼らは植草先生を構造改革に反抗す
る最も悪質な経済学者として位置づけたのである。植草先生はこのときか
ら彼ら官邸サイドの監視下に置かれたと私は思っている。推測ではあるが
植草氏が今回、冤罪逮捕の直接のきっかけとなったのが、「マル激トーク・
オン・ディマンド 第283回(2006年09月01日) シリーズ『小泉政治の総決
算』その5 小泉内閣は改革政権にあらず  」に語られている下記の内容
である。


しかし、植草氏は小泉政治にはより大きな罪があると言う。それは、「構造
改革」の名のもとに行った様々な制度改革はその内実をよく見てみると、実
際はこれまで日本の政治を支配してきた旧田中派の建設・運輸関連と郵政
関連の利権を破壊し、それを小泉氏自身の出身母体となっている財務・金
融利権へと塗り替えただけでのものに過ぎないというのだ。そこには国民
の生活をよりよくするなどの「国民の側に立った視点」はまったく欠如してい
る。しかも、その「利権の移動」を、アメリカの後ろ盾で行いながら、アメリカ
のファンドなどにはしっかりと稼がせているという。これが、植草氏が、小泉
改革を「売国奴的」とまで呼んで酷評する最大の理由だ。

                            

 つまりこういうことである。小泉は、日本が背負ってきた旧田中派が有し
ていた金権利権の自民党を否定し、日本の旧弊構造を破壊して構造を刷
新するのだと気炎を上げて、旧経世会の流れをくむ橋本派を事実上、日本
の政治史から葬り去った。小泉たちはこれを、現行構造改革の必須事項
として大いに喧伝した。これで日本を腐食させていた「利権政治」は終焉し
たと歓喜の合唱をした。ところがである、植草一秀先生はこれに最大の欺
瞞を発見しているのである。それが上の記事にある「利権の移動」という
驚くべき事実である。植草先生は、りそなに絡む国家的インサイダー取引
よりも、こっちの方がはるかに悪質だと言っている。

 植草一秀先生が小泉政権を批判した悪の本質には、二重の国民を裏切
る構図が存在していたのである。一つはりそな疑惑、もう一つは橋本派
つぶしの実態が、実は「利権移動」にあったことである。
後者の方がは
るかに悪質だと彼が言うのは、これによって国民に期待を抱かせた構造改
革の本質が、小泉政権を儲けさせるために行われていたという驚愕すべき
内実だったからである。すなわち財務・金融利権への塗り替えである。先
生は、これらの詳細をこれから世間に暴露する途上であったと思われる。

 皆さんも考えてみるといい。植草先生はその正義感から、その義憤から、
小泉政権の悪を糾弾する覚悟を決めたのである。しかもその告発的言動を
単独で行う決心をして、あちこちで言い始めたのである。彼自身も鋭敏な察
知力を持つ方であるから、当然、監視されていることは百も承知だったと思
う。しかし、彼が単身で立ち向っていた先の疑惑・疑獄の巨大さを思ってみ
ればいい。ことは小泉内閣だけではなく、アメリカの肝入りが絡んでいるの
である。こういう国家的怪物、すなわちリバイアサンを相手にして、どんな硬
骨漢であろうとも毎日毅然として気を張っているなどということはできない。

 考えたことがあるだろうか。命を狙われるストレスを抱え、それでも悪の告
発に踏み切っている単独生身の男というものを。その独りの男が耐える精
神のあり方を。それがどんな重圧かを。我々が植草先生の踏み切った凄惨
な修羅の道をどれほど想像できるというのだろうか。並みの覚悟ではこれ
は出来ないのだ。

 しかし、植草先生とてこの重圧を持続したままでは精神が持たないはず
である。酒でこれを緩和したいと時には思うことだってあるだろうし、その極
限的な緊張から解放されたい瞬間だってあるはずである。こう言うと悪意の
ある連中は、「ほれ見ろ、だから植草はその緊張緩和のために女子高生の
尻を撫でたんだ」と即座に言うだろう。違う。国民と国家の行く末を腹の底か
ら思い、命を賭けている者は酔っていても絶対にそのようなことはしない。
それを性癖として持つ者なら、最初から命がけで国家を護ろうとする発想は
出てこない。毎日AVでも鑑賞しているQOL(生活の質)に身を置いて居る方
がよっぽど安全で楽しいだろう。

 なぜ植草先生が性犯罪者に仕上げられねばならないのか。それは彼の
名誉を徹底的に貶めるためである。その犯罪でなければならない理由は、
彼が社会に言論を発することを封じるためである。言論人としての植草先
生の価値を完全に否定することが謀略サイドの目的なのである。それに
は植草先生の人格を全否定する痴漢犯罪者が最も都合がよかったから
にほかならない。冤罪を殺人に仕立てた方が決定的であろう。しかし、何
もしていない植草先生には犯罪事実も動機もないわけであるから、下手
をすれば謀略側の犯意や工作が発覚して世間の耳目を集めてしまう。そ
こで以前の手鏡汚名の経緯から考えるならば、仕掛ける側が最も安全で
確実な方法こそ、痴漢犯罪であったということになる。

 謀略側がただ植草氏を謀殺した場合、植草氏の書いたことや言論活動
は世間の関心を引く可能性が強い。しかし、彼の名誉を完全に剥奪するこ
とによって、彼の経済学者としての人格的信用性、そして社会的信用性を
完全に剥奪して置けば、彼が何らかの理由で亡くなっても、世間は彼の言
論を知りたいとは思わないだろう。今回の植草先生の逮捕の目的はそこに
収斂しているのだ。今回の謀略側の意図は、植草先生のすべての小泉政
権批判の信憑性を、完全な形で地に堕とすことを狙ったものなのである。そ
この部分をよく考えて欲しい。

 謀略側の思惑が、その最初の段階に成功した今、次に何が起ころうとし
ているのか、そのことをどうか皆さんも考えて欲しい。それは植草先生自
身の口を永久に封じることなのである。植草一秀謀殺の危機は単なる思
い付きではない。そのことは、これまでの経緯から導き出される、きわめ
て明確な論理的帰結なのである。

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2006年9月24日 (日)

植草一秀氏は今、謀殺の危機に晒されている

 これは冗談でも何でもなく、私は植草一秀氏の生存が脅かされている可
能性を真剣に憂慮している。それをブログに書く私を、あざ笑う者はいるだ
ろうが、ことはそのような些細な問題ではない。植草一秀氏が生命の危険
に最も晒されているのが今であると感じているのだ。その理由をざっと述
べる。

 前回の手鏡事件は確実に冤罪である。植草氏と小泉政権が以前から
政策展望において根底から対立していたことは事実である。植草氏は国
益毀損型の小泉経済施政を舌鋒鋭く批判し続けていた。手鏡事件以後も、
植草氏は身の潔白と共に小泉施政、特に「りそな銀行騒動」に絡むインサ
イダー取引の疑惑を、株価の動きや金の動きから、経済学者として指摘
していた。宮崎学氏主催の「直言」での一連のリポートも、彼の訴えたい
ことが、りそな銀行関係に収斂していることが見えてくる。

 これが官邸サイド、特に竹中平蔵や小泉総理、その取り巻き連中の決
定的な危機感を招き、植草氏は手鏡破廉恥男の汚名を着せられた上に、
今回の痴漢逮捕劇を演出されてしまったのである。

 背景には官邸サイドが絡む国策捜査が働いたと私は確信している。そ
の理由を私なりに述べ、今後のブログで展開していくつもりであるが、本記
事では至急言わねばならないことがある。謀略で植草氏を拘束し、無実の
植草氏に性犯罪の汚名を着せ、世間に対する彼の言論表現を封じるにし
ても、今回の痴漢逮捕劇には謀略側の焦りが感じられるのだ。植草氏を
憎む連中側の、何かしらの緊急性が感じ取れるのだ。

 今日から二日後の26日に、国会召集が行われて竹中平蔵の辞任発表
が出るまで、謀略サイドは植草氏に、絶対に言って欲しくない、あるいは書
いて欲しくない理由があったのかもしれない。それが何であるのかわから
ないが、もしかしたら、そのことは植草氏を突然襲った不幸の中の僥倖で
あったのかもしれない。なぜなら、謀略側の緊急性がどのような理由であ
ったにせよ、それによって今の所は植草氏の「謀殺」が回避されているよ
うな気がしているからである。しかし、植草氏の身はけっして安全ではな
いと思っている。

 今回の植草氏の痴漢逮捕はあまりにも唐突であり、それを仕掛けた側
の焦りが感じ取れると共に、二度と植草氏に政権批判をしてもらいたくな
いという熾烈な意志が見えてくる。この記事を見ている皆様方にも是非真
剣に考えてもらいたい。

 もしも、もしもである。植草氏が行っていた政権批判の中に、小泉政権
絡みの重大な経済事犯が存在していたとしたらどうであろうか。しかもそ
れが国家的な規模の経済犯罪だとしたらどうであろうか。植草氏のリポ
ートで最も重大なポイントは、小泉政権の失策というレベルにはないかも
しれない。それは、りそな銀行に絡む、金融危機不安の演出による株価
暴落と、新自由主義経済政策の根幹的精神である小泉お得意の「自己
責任論」を放棄してまでも政府資金でりそな銀行を救った、その一連の動
きの中にあるのかもしれない。

 世間は表面的にはこう受け止めた。小さな政府論をうんざりするほど絶
叫していた小泉や竹中は、りそなに関してだけは自己責任論を回避して
金融システムの安定化を最優先とし、ケインズ経済的な政府救済を臆面
もなく行った。それを眺めていた経済通たちも、おい何だいこりゃ、まった
く変節もいいところだなと思ったに違いない。

 しかし、りそなの真の問題はそんなところにはなく、実はこれら一連の騒
動の中で、その動きの本質を植草氏が一番言いたかったことは『政府犯
罪』の実態だったのだろう。彼が指摘するように、政府が金融不安を恣意
的に煽ることによって、株価を一気に下落させ、それが底値であることを
「知っている」何者かが、底値買いを行い、竹中がりそなの救済に政府資
金を供与して、株価が再び上昇に転じた頃合を見計らって、売り抜け、ま
たは、その後の株価上昇を睨んで保持し、膨大な儲けを手にした、あるい
はこれから手にする可能性があるのだ。ここで外資が動いていたと植草
氏は指摘する。

 つまり、植草氏は、小泉政権は政策上の失敗で日本経済を破綻寸前ま
で導いたが、その副産物として二つの出来事が日本に生じたと言ってい
る。一つは、本来は生起しなかったはずの失業、倒産、自殺の地獄を招
来したことと、もう一つは外国資本が日本の優良資産を理想的な安値で
買い叩くことができたことの二つを上げている。文脈に気をつけて欲しい。
私には行間に込められた植草氏の本音が見える。外資の政府への介入
を、「小泉施政の副産物」だと植草氏は言葉や表現に最大の注意を払っ
て書いているが、彼が本当に言いたかったことは実はこうである。小泉政
権は、国会議員と、外資系ファンド(アメリカ金融資本)と、竹中に協力し
た一部民間人を含む政権協力者たちのトライアングルが構成されていた。
これら共謀者どもが起した巨大なインサイダー取引があったということで
ある。

 植草氏はそれを調べるために当時の関係者から事情聴取を行う必要を
説いている。小泉は基本的にはアメリカに都合のよい売国方針を貫いて
きたが、それだけではなく戦後最大の疑獄事件と言われるロッキード疑
獄事件を上回る、アメリカが絡んだ国家的経済事件を起こしていた可能
性があるのだ。そして植草氏は株や金の動きからその本質を正確に把握
したのである。

 従って、この疑惑が当たっていたとするなら、植草氏がすでに謀殺され
ていてもなんら不思議ではないのである。ところが前述したように、売国
謀略サイドには今それを実行できない理由があるのである。それが竹中
辞任の直前だというタイミングに関わることだと私は感じている。官邸サ
イドと警察が共謀したら、個人を抹殺することなどいとも簡単にできるだ
ろう。しかし、痴漢逮捕という事象を経ないで植草氏を殺めた場合、その
死の不自然さが世間の注目を引く。しかし、逮捕拘留という過程を経た
場合は、「絶望感に打ちひしがれて」といういかにもな自殺理由が出来
上がるわけである。だからこそ、今の植草氏の身は危険な状況に入っ
てきたと私は感じているのである。

 とにかく、私が今、最も憂慮しているのは、現在を含む今後の植草氏の
身の安全についてである。植草氏のリポート『失われた5年ー小泉政権・
負の総決算』を熟読してもらいたい。このようなことが言える者は完全に
身を捨てて、自身の命を捨てる覚悟をしなければ絶対に書けないことな
のである。植草一秀氏はその優しい風貌に似合わず、幕末から明治動
乱期以来の国士そのものである。不惜身命の極地の覚悟でこの言論活
動を行っているのだ。小泉や竹中のような屑、奸人たちが跋扈する今、
植草氏のような立派な人物を日本から抹殺してもいいのかと一国民とし
て真剣に思う。

 私が植草氏の命を案じていることが杞憂に終わるならば、それは幸せ
なことである。私が嘲笑されればそれで済むからである。しかし、謀略サ
イドの植草封じの意志が強靭であることがわかった今、植草氏は拘留中
にも自殺などの偽装によって謀殺死に追い込まれる可能性がある。それ
を防ぎたい一心でこの記事を発信する。

 皆さんには、竹中平蔵辞任のあとの植草氏の安否動向を気遣って欲し
い。彼の命が今、最も危ない状況にあるのは、マスコミがこぞって彼を性
犯罪者に仕立て上げていることだ。この状況は彼が絶望して自殺を選ん
だと当局が最も説明しやすい状況なのだ。

 何度でも言う。植草一秀氏は現代の武士道精神を最大限に実践してい
る救国のもののふである。こういう人物を生かすことこそ、国家再生の礎
(いしづえ)となる。よく考えて欲しい、彼が官邸の眼の敵になる重大な理
由があることを・・・。

 我々日本人は、いつまでも米国の膝下に甘んじていては駄目なのだ。
今のままでは大切な国富が消尽されるばかりか、植草氏のような有意の
国士までこの日本から居なくなる。こんな亡国状況をいつまで続ける気な
のだ。眼を覚ませ、日本人よ。



 参考図書

  1、  「あるべき金融」東洋経済新潮社 (著者:堺屋太一、刈屋武昭、
                              植草一秀 )

  2、   植草一秀「失われた5年ー小泉政権・負の総決算(2)~(6)」

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2006年9月22日 (金)

植草氏、すでに七回も示談あり、って何だ?

 おお、吉原炎上ですな。過疎地域の拙ブログがこんな風にアクセス
数が上がるとは予想だにしていなかった。ランキングでもやるかな。(笑)

 山崎行太郎先生、トラックバックありがとうございました。本当に恐縮
しております。

 さっそく先生の毒蛇山荘日記の記事、『「女性セブン」の情報源は? 
官邸? かな(笑)…。』から一部引用させていただきます。

 
 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/

 さて、「女性セブン」は、植草氏その後として、物凄い情報を出した
ものである。 植草氏は過去10回、痴漢による逮捕歴があり、そのうち
7回は示談が成立して、表沙汰になったのは今回を含めて3回だとい
う話である。

 そもそも過去7回の示談事件があったとすれば、前回の「手鏡事
件」の時、長い裁判期間が継続していたにもかかわらず、その示談
事件がいっさい話題にもならなかったのが不思議だろう。なぜ、今、
その7回の示談歴が、「女性セブン」で暴露されなければならないのか
              (毒蛇山荘日記より)

 まったくもってその通りである。それについて、下のテレビ番組で宮崎
哲也が、過去七回の逮捕歴は、当時植草氏が所属していた野村総合
研究所が揉み消したと言っている。宮崎はその情報をどこから仕入れ
たのだろうか。思うに、野村総合研究所が揉みつぶしたとしても、一回、
二回の示談ならともかく、七回も示談が成立した事実がまったくリーク
もされずに今まで保留されてきたということなのか。

 また、その発表がなぜ「女性セブン」なのだろうか。トドメの手榴弾を
なぜ女性誌に? 女性の敵、にっくき痴漢犯罪だからか。いかにも都
合よすぎないかなと思ってしまう。しかも、なぜ今になってから?

  http://www.youtube.com/watch?v=JhgFeMPtwOU

 印象操作風に言うなら、宮崎哲也は武部勤一家とご飯を共にする仲
だといつかテレビで言っていたから、野村総研の件は官邸サイドから
聞いたのだろうか。印象操作ではなくストレートに言うなら、宮崎は官
邸マンセーなのかな。(笑)

 このテレビ番組を見ていて、ふと感じたことがある。私は西村眞悟氏
の逮捕の時も、今回の植草氏の件のときも、テレビ番組で「国策捜査」
という言葉を聞いた覚えがない。それを聞いたのは今回が初めてであ
る。司会者が大きな声でその言葉を使っていた。

 テレビが、たとえ否定的な意味で使用したとしても、「国策捜査」とい
う言葉が放送された意味は非常に大きい。なぜなら、それを聞いた視
聴者が国策による捜査の意味と、植草氏事件の背後の謀略の可能性
を考えるからである。今までは、著名な経済学者・植草氏の性犯罪とい
う位相で観ていた人々が、たとえ面白半分にしろ、小泉政権のどす黒
い謀略性に思いを馳せるからである。

 もしかしたら、小泉政権の五年間には、巨大な経済犯罪疑惑が存在
し、植草氏がそれを指摘して、政府を酷評し始めたから狙われてしまっ
たのかなという視点が出てくるからである。国策捜査疑惑を否定するた
めにテレビが放った「国策捜査」というキーワードは、聞いた者の興味
を、性犯罪から国家的経済犯罪の可能性にいざない、植草氏の論評
が指摘する巨大な悪を浮かび上がらせる契機になるかもしれない。

 宮崎哲也いわく、

「だからね はっきり申し上げるけれども、彼の経済的な知識や彼の経
済理論と、彼の下半身がどういう方向性を持っているかということは、ま
ったく別なんですよ。ですから、彼は、私は更生して欲しいと思う。更生
されるためには、冤罪とかね、陰謀とかね、そういうことを言っちゃい
けないんだよ、治療させるべきなんだよ



 
下線の部分はかなり激高した感じで喋っていたが、なぜ宮崎がここま
で突出的に、陰謀説とか冤罪説を否定した上に、植草氏の治療に話の
落ちを収斂させねばならないのだろうか。その前に、前七回の逮捕歴に
ついてこうも言っている。「七回ほんとかどうか知りませんけど云々」。
 その七回の逮捕に信憑性が持てないのならば、後半で「治療しかな
い」という結論の持って行き方は奇妙である。彼の説明に矛盾点を感じ
るところがあるとすれば、七回逮捕歴には確信が持てないが、野村総
研がそれをもみ消したことについては断定していることである。野村総
研が揉み消した件が確定的な情報に基づいているのであれば、新た
に出た七回の逮捕事実も確定的な信憑性を持つと言わなければなら
ないのでは?

 テレビが視聴者にバランスの取れた受け止め方をしてもらうためには、
たとえば、10のいわゆる正当な意見を言う者に対して、1か2くらいの
反対の視点、疑問の視点を持つ者を配置するのが普通なのではない
だろうか。特にこの番組のように週刊誌記事を俎上に乗せて、あれこ
れ思ったことを語らせる番組はそういう風にするのではないだろうか。
警察の直接の発表ならともかく、週刊誌記事だけで情報源の確度が
保証されたかのような放送態度はどうなのだろうか。娯楽性に視点を
置く番組なら、なおさら反対意見があってもいいのでは?「女性セブン」
の記事の確度や権威ってのはそれほど高いのだろうか。


 私にはコメンテーターたちが、植草氏を「性的欲望を抑制出来ない男」
という前提に立ち、あとは治療しかないと言っている様子に対して、典型
的な印象操作であるとしか思えないのである。 
      

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2006年9月20日 (水)

植草氏逮捕に関するメディアの独断性と偏頗性

 植草一秀氏の痴漢疑惑逮捕のニュースで、私は、報道された情報をす
べて網羅しているわけでは勿論ない。痴漢事件が起きたときの電車内の
状況や、植草氏が駅の事務室で蒲田署員に引き渡されるまでの詳細な
情報は、はたしてどれくらい出てきているのだろうか。

 私の知る範囲では、一連の経緯をそれなりに報道しているのは、下記
のnikkannsports.com である。これ以上の仔細な報道が出ているのかど
うか私にはわからない。もしあるのなら、是非にも知りたいと思っている。

 (1)nikkansports.com[2006年9月15日8時14分]
 この電車は同10時8分に品川を発車。席は埋まっていたが、乗客の肩
が触れるほどは込んでいなかったという。女子生徒は前から3両目の車
両中央部付近に立っていた。セミロングの黒髪、身長は約155センチ。紺
のミニスカートに白のブラウス、グレーのセーター、白のハイソックスという
制服姿で、学校行事の準備を終え、1人で帰宅途中だった。調べによると、
植草容疑者は品川を発車直後から女子生徒の右背後に立ち、左手でス
カートの上から尻の右側を触り始めその後、左手をスカートの中に入れ、
下着の上から尻を触ったという。当時はスーツ、白いワイシャツ姿でネク
タイはしていなかった。右肩にバッグをかけ、左手に黒い傘を持っていた
が、女子生徒は、植草容疑者はこの傘を左手首に引っ掛けて触っていた
と話しているという。数分間触り続けたところで、女子生徒が泣きだし「や
めてください」と声を上げた。付近にいた30代男性2人が異変に気付き
「何やってるんだ」と注意。植草容疑者は黙ってうつむき続けたという。

      

(2)毎日新聞の記事の抜粋
  警視庁蒲田署によると、植草容疑者は13日午後10時10分ごろ、京
浜急行品川―京急蒲田駅間を走行中の下り快速電車内で、女子高生
(17)の後ろに立ち、スカートの上から尻を触った疑い。女子高生が「や
めてください」と声を上げて発覚。乗客の男性2人が植草容疑者を取り
押さえ、京急蒲田駅で同署員に引き渡した。  (毎日新聞 9月
14日)

 (3)Dialy Spoprts Onlineより抜粋
調べでは、植草容疑者は13日午後10時10分ごろ、京浜急行品川-
京急蒲田間の快速電車内で、神奈川県内に住む私立高校2年生の女
子生徒のスカートの中に手を入れ、下半身を触った疑い。女子生徒が
「やめてください」と声を上げ、目撃していた乗客2人とともに取り押さえ、
京急蒲田駅で駆け付けた蒲田署員に引き渡した。

 以上の三つの記事から最も気になる部分を抜粋して疑問に思うことを
書く。気になることとは、植草氏を取り押さえたと言われている二人の30
代男性の判断と行動の時系列である。

(1)の記事に見られる二人の男性の行動
==============================
 数分間触り続けたところで、女子生徒が泣きだし「やめてください」と声
を上げた。付近にいた30代男性2人が異変に気付き「何やってるんだ」
と注意。 
==============================

 これを読むと二人の男性は、女生徒が声を上げてから異変に気づいた
ことになる。

(2)の記事に見られる二人の男性の行動
=============================
女子高生が「やめてください」と声を上げて発覚。乗客の男性2人が植
草容疑者を取り押さえ、・・・・
=============================

 これも(1)と同様に、女子高生が声を上げたことで、二人の男性が発
覚したということになる。

(3)の記事に見られる二人の男性の行動
=============================
女子生徒が「やめてください」と声を上げ、目撃していた乗客2人ととも
に取り押さえ、
=============================

 これは(1)、(2)の記事と決定的に意味が異なってくる。すなわち、植
草氏を取り押さえた男性二人は、女子生徒が「やめてください」と言った
ときは、すでに植草氏の行為を目撃していたことになる。わざわざ「目撃
していた」と過去進行形で書いているのである。文脈から言ってそう受け
取るのが自然である。書く側は、重要な意味を持つ表現をぼかすことは
しないだろう。この記事から読み取れることは、痴漢を働いた者と被害
者以外の第三者の客観的な目撃があったことを示している。

 
 取り押さえにかかった男性二人について、上記以外の表現で報道され
た記事がまだあるのかもしれないが、少なくとも矛盾した報道が出ている
わけである。その矛盾の意味は非常に重大である。つまり、痴漢行為に
ついては、女子高生が「言ったから発覚」したということと、女子高生の声
とは別に、男性二人はすでに行為を目撃していたという二種類の報道が
出ていることになる。つまり、男二人が犯罪を確認した方法と、それに至
る時系列、因果関係が決定的に違うのである。

 被害者である女生徒本人が叫んだことで発覚されたことと、第三者が
女生徒とは別個に目撃していたこととは客観性の重さがまったく違って
くるのである。

 それにしても奇妙ではないか。蒲田署の発表ソースはあくまでも一つ
である。それを新聞各社が文字にして発表した時は、裁判的な意味合
いがまったく異なる二種類の報道が出たことになる。逆説的に考えれば、
蒲田署が報道関係者に説明した時には、この第三者の男性二人の目撃
証言について肝心な部分は語っていないことになる。(3)の記事は表現
上の勇み足の可能性が高い。ということは、植草氏の痴漢を指摘した
者は、その女子高生だけであったという可能性が非常に高いことに
なる。

 私がいくつかのニュースを見た感じを言えば、植草氏を決定的に犯罪
者だと断定する客観的な情報は何一つ出ていないことになる。しかもで
ある。「女子高生自身の証言によれば」という情報さえも目にしていない
のだ。私はここに、植草氏に関するマスメディア報道の恣意的な偏頗性
を感じるのである。女子高生自身の証言という表現もなく、取り押さえた
男性二人に関する確定的な情報もない。

 妙だとは思わないだろうか。女生徒、そして男性二人、この三名の証
言という確定性が曖昧な状況で、マスコミが逮捕記事を流している事実。
この状況で、はたして植草氏を犯罪者呼ばわりできるのだろうか。つまり、
今の段階で何が起きたのかと言えば、植草氏の件には、推定有罪の方
向性しか見えていないということになる。もう少しこの事実を敷衍すれば、
この三名の証言の不確定性を敢えて示すことに加えて、マスコミにいき
なり逮捕記事とワンパターンな前回手鏡事件の併置報道をさせることに
よって、国民にこの事件の誤った先入観を与えていやしないだろうか。す
なわち、三人も当事者がいるのに、彼らの証言が一切報道に出ていない
ことと、逮捕という言葉と過去の手鏡事件を併記、あるいは併置報道す
ることによって、国民に恣意的な刷り込み操作をしているように私には見
えるのである。これは植草氏の痴漢性癖が、あたかも既成事実であるか
のような印象操作そのものである。謂わば洗脳に近い構造になっている
とは思わないだろうか。

 発表されているものには、植草氏の有罪を特定する客観的な材料、
つまり、決定的な目撃証言に関する一切の情報ソース、及びその因果
関係は書かれていない。つまり、「スカート内に手を入れ、尻などを触っ
た疑い」という肝心な痴漢行為については、誰がそれを証言したのか
がわからない。常識的には、被害を受けたと称する女子生徒自身から
の証言を暗然と示しているかのように感じるが、それさえも書いていな
い。痴漢の場合は、被害者本人の証言を重視する推定有罪が有効で
あるから、女生徒の話だけで植草氏は痴漢行為を行ったとされたのだ
ろうか。その可能性は圧倒的に高い。

 身体に関する犯罪というものを一般的に考えると、普通は実行犯と
被害者の間には決定的な犯罪の痕跡が残る。決定的なのは、傷害や
傷害致死の場合は被害者に傷痕があるとか、極端な場合は被害者の
死という完全に眼に見える状態がある。同じ身体関係の犯罪でも、拉
致や監禁などは物理的な拘束を受けるという客観性が生じる。ただ、
名誉毀損などの心理犯罪の場合は、物理的視覚的な傷は付かない
が、心理的な傷を付けた原因となる文章や言動が記録されている場
合が多く、そういう意味でははっきりと犯罪事実が確認できる。

 しかし、痴漢被害の場合は、女性が被害を訴えるか、実行犯人を自ら
確保するまでは、わいせつ行為自体があったことは、通常、周囲の人
間には知られていない。周囲の人間がそのことを「気が付く」場合とは、
ほとんどが女性の訴えや指定を受けてからである。今回の植草氏の場
合にも、ニュースに出てくる二人の男性が、痴漢行為と同時進行的に
それを目撃していた可能性は限りなくゼロに近い。ならば、女性が故意
に、意図的に叫んである男性を指差しても、その男性を鉄道公安官や
警察に引き渡すことも大いにありうることだと考えなければならない。

 痴漢という犯罪は、ほぼ完全な隠匿性の中で行われるから悪質なの
である。従って、痴漢被害の場合に限り、人権を拡張的に考慮する立
場から、被害者の申し述べだけを根拠とする推定有罪が特例的に認
められてきたのではないだろうか。しかし、被害者本人以外の目撃が
ない状況で、どうやって被害者の訴えが真正なものと確認できるので
あろうか。それが痴漢冤罪ではないとどうやって証明できるのだろうか。

 「おれはやっとらん」という弁明が、被害者の言葉よりもはるかに軽い
のであれば、本当にやっていない場合は悪魔の証明以外にないこと
になる。そういう極端な非対称性を持つ犯罪が痴漢なのである。冤罪
が生起しやすいまことに厄介な犯罪である。女子高生が植草氏という
有名人を見て、ほんのイタズラ心で狂言被害者を装った可能性は除去
できないのである。その可能性もあるが、私自身は植草氏逮捕に直接
関わった女生徒と男二人が確信犯である可能性のほうが強いと感じ
ている。この件に関するかぎり、ことの真相は慎重にも慎重を重ねる
検証が必要なのである。

 ところが我が国のマスコミのひどさは筆舌に尽くしがたい。警察の曖
昧な情報源だけで、蓋然的に植草一秀氏を確定的な犯罪者扱いにし
ている。こんなことが法治国家で許されるのか。特にマスコミがある種
の力を有していて、それを行使するなら、それは権力の暴走を監視して、
国民に訴えることにあるのではないか。今のマスコミは、特に小泉政権
下のマスコミは報道陣としての魂を完全に亡失し、小泉独裁権力におも
ねる愚劣さを持ってしまった。現在の日本は事実上の暗黒社会である。

 もう一つは、テレビ報道の偏頗性である。このニュースに関して、テレビ
で報道する内容はネットや新聞で見るものとほとんど同じであるが、奇妙
なことにテレビ特有の猟奇趣味的で野次馬的な視点による取材を一切し
ていないようなのである。どういうことかと言えば、テレビはワイドショーが
特に典型的だが、有名人が事件を起こすと、必ずそれを取材に行き、周
囲の迷惑も省みずに、事件の関係者や周辺にいた人たちにあることない
ことを聞きまわる。それはほとんど事件の本質とはかけ離れたプライベー
トなことに重点を置いているが、少なくともテレビ独自のソースを見つけて
取材を行うのが通例である。テレビが独自の取材を行うのは、テレビが
文字メディアとは異なり、視覚メディアであることを示す存在証明でもあり、
矜持とも言える。

 しかし、不思議なことに、今回の植草氏に関することについては、テレビ
も警察発表ソースだけで止まり、独自の画像主体の取材活動を行ってい
ないように見える。アナウンサーやキャスターが、警察発表の新聞記事を
そのまま棒読みしている感じなのだ。各局とも、一様に、前回の手鏡疑
惑を強調し、電車内の件についてはテレビ独自の取材行動をしていない
ようなのだ。思い起こせば、前回の手鏡騒動の時も、テレビは駅構内の
混雑した映像のみを流しながら新聞記事と同じことを繰り返していたよう
に思う。つまり、植草氏の件に関しては、テレビの存在証明である関係者
画像を用いなかったのである。

 その気になれば、当日、現場に居合わせた者を一人や二人見つけて、
ワイドショーらしい覗き見趣味な質問を行っていたはずである。あるいは
未成年の女子生徒本人は避けても、その親兄弟や親族、近所の住民に
聞き込みに行くくらいは常套手段であったはずである。ところが、そのゴキ
ブリ的な生命力は、植草氏の件に関してはまったくと言っていいほど発揮
されていないように見える。テレビの有名人報道が、植草氏に関しては、
その定番的な下司取材を行わないということは、あらためて思うと不可解
である。

 うがって考えれば、これは昨年の郵政民営化時にテレビが、民営化の
背後で糸を操る、外資やアメリカの意図を報道することを一切禁忌にし、
徹底的に忌避したことと、どこか似通っているキナ臭さがあるのだ。宮
崎学氏の「大衆迎合的人道主義」という言葉を借りて言うなら、植草氏報
道に限っては、普段よりも極端な大衆迎合的人道主義が優先され、テレ
ビメディア特有の映像取材による検証がなかったような気がする。そのこ
とはとりもなおさず、テレビの報道視点が植草氏の件に関しては通常と
異なっていることを暗示している。昨年の郵政民営化総選挙前の一ヶ月
あまりのテレビ報道には明らかに報道管制が敷かれていた。それは一
貫して、郵政民営化推進の小泉擁護の報道視点であった。これに反す
る考え方や視点は一切封じ込まれたのである。この時、テレビが報道
世界の良心や魂、公平性を完全に亡失していたことは記憶に新しい。

 その時を髣髴とさせるほどあからさまではないにしろ、今回の植草氏報
道でも、テレビの視点は偏頗性を強く有している。つまり、事実を検証しよ
うともせず、はじめに植草氏の痴漢逮捕ありきという前提を、あたかも常
識であるかのようにセンセーショナルに伝えたのである。事実を伝えると
いう段階をすっ飛ばして、植草氏の決定的な社会的ダメージを構築する
ことが目的であったかのような印象を受ける。つまり、テレビや他のメディ
アが、今回の植草氏報道に本音のメッセージとして孕んでいたものは、
常態的に痴漢をするような性癖の植草氏の言うことはまったく信用できな
いでたらめなものなんだぞということである。警察発表に出た正確な情報
の異常な少なさと、メディアの偏頗性を足して二で割ると、権力を有した
第三者の策謀という線が浮かんでくる。

 つまり、あの当時の抵抗勢力と言われた政治家たちの論評を一切発言
させずに忌避し、封じ込めた気配と共通した匂いを感じるのである。植草
氏は竹中や小泉の憎悪の的である。それは取りも直さずアメリカの警戒
心を強く買っている人物ということなのである。それも植草氏自身は、アメ
リカにとっても、最重要クラスの抵抗勢力なのである。私は今回もマスコミ
が、特にテレビが官邸とタイアップして植草有罪論を祭り上げたような気
がしている。これは元をたどれば必ずアメリカの意図が働いていると言え
るだろう。

 郵政民営化は来年の2007年に郵政公社を民営化して本格的に始動
する。アメリカの垂涎の的である郵政資金が、彼らの仕掛けた自由市場
の罠に晒されるのが近づいてきている今、植草氏のような国益主義の経
済学者は最も邪魔な存在なのである。従って、推量できることは、今回の
植草氏の痴漢逮捕は、植草氏の全人格否定を的にした故意の偽装犯罪
だったという結論になる。その黒幕が国民に対して無言で示したことは、
植草氏の発言を信用するな、彼の書いたものは決して読むなという強い
サインなのである。だからこそ、この事件にきな臭さを感じている人は
積極的に植草論文、あるいは植草論考を読むべきである。

 新聞記事やその他のニュースでは、植草氏が推定有罪の可能性にお
いて逮捕されたのか、あるいは第三者の決定的な目撃をもって逮捕され
たのかまったく出てこない。見えるのは、とりあえずは逮捕拘留して置い
て、マスコミで徹底的にイメージを悪化させれば植草氏の言論活動は完
全に封殺できると考えているのだろう。立件が可能かどうかは後回しと
いうことなのか。

 被害者の女子高生と、植草氏を取り押さえたという二人の男性の素性
や背景を徹底的に調べてもらいたい。もちろん、蒲田署とは別の管轄で。
警察権力と無関係の人が調べることはできないのだろうか。二人の男性
はテレビや新聞になぜ出てこないのだろう。最後に言うが、植草氏の犯
行を示す客観的な情報は何一つ出ていない。そのうえ、被害者自身の
主観的な情報は、植草氏が左手首に傘を引っ掛けながら尻を触っていた
こと以外には何一つ出ていない。尻の触り方も二種類の報道が出ている。
(1)は下着の上から触ったことになっているが、(2)はスカートの上からと
書いている。これも判然としない。警察がその点もはっきりと言わなかった
ということなのか。

 出たのは、女子生徒が「やめてください」と言ったということだけである。
あと、彼女は泣いたそうである。警察は肝心なところを何も出していない。
にもかかわらず、マスコミは逮捕だ、逮捕だと検証もしないで花火を打ち
上げている。この構図をじっと見たら、植草氏が「はめられた」という疑念
がますます強くなる。また、「反戦な家づくり」というブログからたどったが、
「PJオピニオン」に無視しがたい記事が出ていた。

 「どこかのテレビ局では、事件が起こる前に、電車内で女子高生の
  「あー、植草だぁ~」という声が聞こえたという証言が紹介されて
 いたが、
女子高生の植草氏へのいたずらの可能性も残されて
 おり、
もしも、その可能性が出てこれば、事実関係の確認の前に、
 今度は女子高生叩きに走るだろう。」


  http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2452811/detail


 以上を踏まえて言うのだが、植草一秀さんの心情をおもんばかると、
心底胸が痛くなる。

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2006年9月18日 (月)

トンズラ小僧、竹中平蔵

 竹中平蔵総務相が15日に議員辞職表明をした。自分は小泉首相の補
佐として仕事をしたのだから、小泉純一郎の退陣と共に議員を辞職すると
いう理由を述べた。

 普通に考えて不可解なのは、郵政民営化法案の成立をあれほど矯激に
牽引した竹中が、任期四年を残して今退陣することである。一般的に考え
て、郵政民営化法案の是非を脇においてみると、竹中があれほど執心し
た郵政民営化の具現化というか、その後の推移を責任を持って見届ける
というのが普通であり、政治家の責任だと思う。たとえ、担当大臣を退い
ても政治家としてその行く末を見守る責務があるのではないだろうか。

 小泉の補佐役でしたなどと言ってあっさり辞めることは奇異な感じがす
る。あるブログで、竹中が退くことはキリスト教で言う、いわゆる良い知ら
せ、福音であると書いていた人がいた。まったくその通りである。この御
仁が重要ポストを続ければ続けるほど日本の国益が損なわれるからであ
る。竹中は、平成16年の参院選、自民党比例代表で72万票の獲得でト
ップ当選している。しかも彼は、小泉の支えで経済財政担当相、金融担
当相兼務、総務相を勤め、昨年の郵政担当大臣として総指揮的な牽引
力となっていた。

 こういう「活躍」は民間出の政治家では異例のことである。後ろ盾が、小
泉だけではなく、アメリカだからである。竹中は1998年、小渕政権の諮問
会議メンバーとして初めて政治に参加している。その後、森首相諮問機関
のメンバーとなり、IT戦略会議のブレーンを務めた。小泉は首相就任の年
(2001年)に早くも竹中を国務大臣、経済財政政策担当大臣に任命して
る。最初は学者として自民党のブレーン的な立場にあった民間学者が、こ
れだけ早期に重要な指導的ポストに就いているのは奇異である。

 小泉内閣発足当時、自民党員の竹中へのバッシングは凄まじいものが
あったのだが、小泉の異常なまでの庇護と不可解な力によって竹中は重
要な位置に就き、いつの間にか郵政民営化の強力な牽引力となっていた。
この頃は反竹中を標榜する自民党員は圧倒的に少数になっていた。小泉
がブッシュの後押しを盾にして睨みを効かせたからである。党内で竹中批
判が封じ込められたのは、反竹中の連中が竹中の背後にいるアメリカを
怖れたからである。これを見ると、郵政解散総選挙時にパージされた小林
興起議員やその他の反小泉議員が、いかに反骨精神が強いかわかるだ
ろう。彼らこそ、真に国民の期待を付託するに相応しい立派な政治家たち
である。それにしても、金融政策で、その強権を余すところなくふるった竹
中が、任期半ばで辞めていくのは通常の感覚ではいたって奇妙である。

 もし、郵政民営化が、竹中や小泉が国民に説明したように、民営化する
ことで経済の活性化を狙ったものならば、2017年の完全民営化に向け
て中心人物の竹中が、それまでの順調な郵政の民営化体制構築に目を
配っていくのが、彼の順当な政治姿勢なのである。それを小泉が辞める
から自分も出て行きますでは筋が通らないだろう。このような行動を見る
と、民営化が国益目的で行われたのではないということがわかる。要す
るに、竹中が心血を注いだ要点とは、郵政事業の民営化による経済の
賦活ではなく、国営郵政を解体して、その膨大な資金を、外資の跋扈す
る民間市場に開放するということだけであったことが見えてくる。つまり
は、関岡英之氏が憂慮し、小林興起氏が言う「郵政米営化」が真の目的
なのであった。

 小泉政権とは、小泉自身が語ったように、郵政民営化という政策実現
一本に絞られ特化された特殊な内閣であった。彼は自身の内閣を「郵政
内閣」と言った。彼らにとっては、郵政民営化法案の成立自体が悲願の
目標だったのである。もちろん、売国的民営化が目的であるから、当然
国家の計、すなわち民営化後の国家グランドデザインがあるはずもない。
デザインどころか、彼らは国家解体に尽力を傾けたのである。郵政民営
化法案が成立した今、竹中の最大の役割は終わったということである。
もちろん小泉もそうである。小泉は郵政法案に命を賭けると断言した。小
泉構造改革を頼もしく思う国民は、それを小泉の積極的なやる気だと好
意的に受け止めた。しかしその実態はこうである。小泉が年次改革要望
書の実現を、ブッシュ政権に期限付きで命令され、脅されていたのであ
る。彼は文字通り命がかかっていたのかもしれない。小泉と竹中は、マ
スコミを動員し、国民を詐術にかけて、どうにか郵政民営化法案成立に
漕ぎ着けた。それ自身が目的だったから、彼らは今後の日本には興味
がないのである。

 竹中が政治家として、今後の動向を見守ることを辞退したのは、これか
ら、郵政の膨大な国富が消尽され、日本経済が壊滅的に失速する現場
に責任者として居たくないからである。まだ国民がことの真相に気が付く
前に逃走する魂胆なのである。山崎行太郎先生も言っていたが、竹中は
国益を害する構造改革をやりたい放題やり散らかして、早々に逃げていく
やり逃げトンズラ野郎なのである。あとは野となれ山となれ、日本が瓦礫
の山となろうがどうでもいいのである。

 彼がアメリカに行こうと、どこに行こうと日本を大企業、金持ち優先の酷
薄な格差社会に切り替えた罪は重い。前時代的に大仰な言い方をすれ
ば、日本の魂をアメリカに売り渡した小泉や竹中は、畳の上で往生でき
ないばかりか、無間地獄に真っ逆さまに落ちることになる。

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2006年9月17日 (日)

神州ノ尊 神州ノ美

Photo_4

    ◎黒木大尉の末期の目に浮かんだ麗しい日本


  このブログは立ち上げてからほぼ一年になった。私がこのブログを立ち上
げたことについては、いろいろな思いがあるのだが、タイトルをなぜ「神州の
泉」と付けたのか少し説明して置きたい。

 安倍晋三が「美しい国へ」という本を出しているが、我々日本人は、自分
たちが生まれ育ったこの国を、この国土をどれほど美しい所だと感じている
のだろうか。昔の人たちが、なぜこの日本を神州(しんしゅう)と呼称したの
か、私にはその由来はわからない。しかし、私はなぜか以前から、この神
州という言葉がしみじみと好きになっていた。それは私が戦艦大和に興味
を持ち始めた頃と期を一にしているような気もするが、その前からだったよ
うにも思う。

 この神州という言葉は、自分の内面にある種の日本の光景を静かに浮き
上がらせてくれる特殊な言葉の一つである。その光景は言葉では説明しが
たいのだが、そのイメージは、我が国のかけがえのない自然の美しさの讃
美が基調となっている。もちろん、神州と言うからには、もともとは記紀神話
に出てくる多彩な神々がつどい、住まう国という意味であろう。しかし、私自
身はあえて言うならば、それは我々の先祖たちが、四季折々の日本の自
然に心を溶け込ませ、生きていることの喜びや自然の美しさを静かに祈っ
た末に出来た言葉であるような気がしてる。それほどこの言葉が私に喚起
させる世界は美しく静謐なものである。

 今の日本人は、白砂青松(はくじゃせいしょう)とか山紫水明(さんしすい
めい)という言葉を知識としてではなく、どれくらいの実感を持ってその光景
をイメージできるだろうか。これら二つの熟語は文字通り、日本本来の国土
の美しさを象徴した言葉である。しかし、国民はこれらの熟語の本来のイメ
ージを二つの意味で喪失しつつある。一つは現実に日本の山川草木が汚
れ、荒廃してきたことである。もう一つは日本人から、ふるさとの山河を慈し
み、愛しむ心が失われてきたことである。

 私は日本人が真に幸福を取り戻すためには、白砂青松と山紫水明の風
景を日本の国土に取り戻さなければならないと思っている。それは現実に
国土を美しい姿に復興させることと、そして同時に今を生きる日本人の心
に、この美しい砂浜、青々と輝く松原、黎明に神秘的に輝く紫色の山々、
そしてその山々を水面に映す美しい水辺を取り戻すことだと考える。日本
人の心に美しい国土を反映させる国家とは、すなわち「神州」に生きる精
神を持つ日本人が住む国になってもらいたいのである。これは私の偽らざ
る願いであり、一人の日本人としての祈りである。

 靖國神社から出ている「英霊の言之葉(1)」に、特攻兵器「回天」の訓練
中、機関の故障により海底に座礁し、救助の見込みのない中で、ただ死を
待つばかりの最後に書かれた二通の遺書が載っている。乗っていたのは
海軍少佐・樋口孝命23才、もう一人は海軍大尉・黒木博司のものである。
今から八年くらい前であろうか、私は友人がメールで送ってくれた黒木大
尉の遺書を読んで、一晩中、涙が止まらなかったことがある。末期の黒木
大尉の言葉の中に「神州」という言葉が出ている。彼のその言葉を見つけ
た時、私は黒木大尉の日本や日本人に対する深い愛情を悟り、流れ出る
涙を止めることができなかった。この遺書には特攻兵の祖国に対する愛情
と讃美の気持ちが強く出ていると私は感じた。

 以下は樋口大尉と死を共にした黒木大尉の遺書である。享年24歳であ
った。

『海底の遺書』

昭和十九年九月六日、徳山湾大津基地に於て水中特攻兵器「回天」の
潜行訓練中樋口孝少佐と共に従容として最期を遂げられた黒木博司海
軍少佐が回天第一号海底突入事故報告と題し、状況、処置、経過、所
見と区分された詳細に亘る遺書の最後の部分である。

==============================
辞世

国を思ひ死ぬに死なれぬ益良雄が友々よびつ死してゆくらん

  二二〇〇壁書ス
  天皇陛下万歳
  大日本  万歳
  帝国海軍回天万歳
一九、九、六、二二〇〇

         海軍大尉 黒木博司

呼吸苦シク  思考ヤヤ不明瞭
手足ヤヤシビレタリ。

〇四〇〇  死ヲ決ス  心身爽快ナリ  心ヨリ樋口大尉ト万歳ヲ三唱ス
死せんとす益良男子のかなしみは留め譲らん魂の空しき
所見万事ハ急務所見乃至急務靖献ニ在リ同志ノ士希クハ一読、緊急
ノ対策アランコトヲ。
一九 - 九 - 七〇四〇五絶筆
樋口大尉ノ最後従容トシテ見事ナリ  我又彼ト同ジクセン
〇四四五  君が代斉唱  神州ノ尊  神州ノ美  我今疑ハズ
莞爾トシテユク万歳
〇六〇〇猶二人生存ス  相約シ行ヲ共ニス万歳」

  
(昭和39年5月、靖國神社社頭掲示)

===============================

 神州ノ尊  神州ノ美  我今疑ハズ
 莞爾トシテユク万歳

 座礁した潜水艇の薄れ行く空気の中で、従容として死を受け入れ、淡々
と遺書を綴った当時の皇軍兵士の心意気や武士道精神も賞賛するしかな
いのだが、彼が死の間際に心に鮮やかに描いたのは、彼の人生を彩るか
けがえのない日本の美しい自然であった。それが、この遺書の最後部分
でよくわかるのである。

 神州の尊厳、そしてその美しさを、今逝かんとする我は疑わない、という
のは、彼が日本人として日本の国土に育ったことを心底感謝していること
を書いている。そしてそれは薄れ行く意識の中で、祈りにまで昇華された
ように私には感じとれる。

 今の日本人に一番欠落しているもの、そして取り戻すべきものこそ、この
「神州ノ尊 神州ノ美」なのではないだろうか。日本という国の本来の文明
の質は、この言葉に集約されているのではないだろうか。「神州不滅」と聞
いて「軍国主義」を彷彿とする人々が圧倒的多数だと思うが、それは戦後
教育によって刷り込まれた誤ったイメージにほかならない。私にとっては、
これほど美しい言葉はない。なぜなら、神州不滅の本当の意味とは、「君
が代」に歌われているほまれある永遠の日本を言うのである。それは同時
に、世界に比類のない麗しい豊穣の日本美を形容しているのだ。この大切
な大和の国土を護るために、外夷に特別攻撃をかけた純粋な若者たちを、
今に生きる我々が、いったいどんな評価を下せるというのか。・・・神州の存
続を願う彼らの深い祈りを受け止めて生きていくしかないではないか。

 今の日本人は何をやっているのだろう。靖國神社には神州のかおりがあ
り、心を澄ませば神州の世界を垣間見ることが出来る。その入り口が神門
上部に淡く輝く菊花の御紋章である。あの淡い黄金色こそ、豊葦原瑞穂國
を象徴する豊穣の稲穂色なのである。その菊花は日本を護る象徴の形で
もある。だから、十六弁の菊花御紋章は戦艦大和の舳先に配された。そこ
に先人たちの神州護持の祈りを私は感じる。

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 分祀問題などの前に、英霊の末期の眼に生じた美しい日本の心象風
景を感じてもらいたい。特に若い人たちには・・。若い人たちは未来を背負
う。朝の湖面に映る静寂な風景のように、若い人たちの胸に神州の美、そ
して神州の尊厳が観えるようになれば、日本はふたたび蘇生するだろう。

 本ブログ名を「神州の泉」と名づけたのは、黒木大尉の末期の眼に映っ
た美しい日本を回復したいという願いからである。

Vfsh0179

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2006年9月16日 (土)

今回、植草氏擁護論が激減した奇妙さについて

 植草氏の逮捕について、人々の反応の仕方に奇妙な思いがある。それ
は、前回の「手鏡冤罪」の時は、彼を擁護していたブログなども今回は沈
黙を守るか、否定的な見解になっていることである。

 それが私にはいたって奇妙なのである。2004年、理不尽な国策捜査
が植草氏の身に降りかかった時は、小泉政権の暴政的売国姿勢に気が
付いて、ああ、これなら官邸サイドはやりかねないなぁと思った人々も、今
回は植草氏の『性癖』を信じて、国策捜査の疑いを持たないことである。
たしかに、小泉純一郎は宰相の座から降りる時期になっているが、それ
が即、小泉従米売国構造改革の終わりなのではない。

 小泉が起こした日本の革命政権、すなわちアメリカの完全傀儡政権が
終焉を向かえたわけではない。小泉の破壊的な構造改革路線は、その
まま安倍晋三に継承されることがほぼ確定的となっている。安倍晋三は
小泉の忠犬ハチ公である。小泉や竹中が退陣したからといって、国民を
地獄に陥れる国家毀損型の構造改革は続くのである。つまり、黄色い肌
の米国エージェントたちの巣窟はこれからも賑わいを見せて、米国の言
うがままに国家破壊作業を行っていくのである。

 このような現実にあって、国策捜査の邪悪な意図が小泉や竹中の退出
によって消え去るとは到底考えられないのである。だとすれば、息を吹き
返して精力的に活動を再開した植草一秀氏がまた官邸のターゲットにさ
れることは充分にありうることだという想像力は働かないのだろうか。

 世の中の動向を見据え、植草氏の言論の国益的方向性を確認してい
る者ならば、今回も植草氏が国策捜査の毒牙にかかったのではないか
と推量しても自然であると私には思えるのだが・・・。

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植草氏を庇って何の得があるのかという質問に

  下記のコメントをいただいたので、思うところを述べてみます。

 >これだけ社会的な信用を失墜した人を陥れて、
  >なにか得があるでしょうか。? 

  >あなたは教授を擁護することで何か得でもある
  >のでしょうか?

 たしかに植草氏は「手鏡事件」の冤罪を浴びて信用を失墜
していましたが、最近では精力的にあちこちで言論活動を行
っていたみたいです。たとえば、宮崎学氏が主催するネット
論壇「直言」などでも、小泉政権の鋭い批判を手を緩めずに
行っていました。宮崎氏も植草氏の現政権批判は斯界第一
であると太鼓判を押していました。

 従って、小泉・竹中が中心になって築いてきたいわゆる構
造改革の反国益性が植草氏の舌鋒により、以前より核心を
衝いて鋭くも鮮明に暴かれる傾向が強くなっていたと思いま
す。これを最も危惧したのが竹中平蔵だと思いますが、彼の
背後にはアメリカの監視の眼が存在しているので、植草氏を
再度、陥穽に陥れることを意図したのはアメリカの指令があ
ったのではないでしょうか。

 植草氏の経済理論は、私のような門外漢にとっては専門的
過ぎてわかりにくい箇所も多々ありますが、小泉におもねる
御用学者たちにとって、植草氏の言論活動は、経済学者とし
ての無能性を暴くに等しい恐ろしい存在となっています。つま
り、新自由主義経済に改変されていく我が国の構造改革を、
見て見ぬ振りをしている御用学者たちにとっては植草氏の言
動に戦々兢々としているということです。

 植草氏の専門的な分析能力は、我々シロウトが想像する以
上にその世界にとっては大きな影響力を持っています。そうで
なければ、手鏡事件などの実質的被害が曖昧で、ご本人の社
会的な信用だけが剥奪されるというような謀略は働かないと思
います。今回の痴漢事件も、ご本人の社会的信用を永久に失
墜させようとする謀略側の激しい意志が感じられます。

 植草氏を庇って、何か私自身が徳になることなどあるのかと
いうお尋ねですが、徳になることは何もありません。小泉施政の
売国性に気が付いている経済学者はかなり多いと思います。し
かし、彼らはそのことをけっして表現はしません。国益優先や国
家毀損防御よりも、自己保身が大事だからです。

 私が彼を応援する理由は、ひとえに彼の学者としての良心と、
言論活動におけるその武士道精神に感じているからです。彼の
言説をよく読んでみるとわかりますが、彼は立派な人物であるこ
とを確信できます。

 一言で申すなら、植草氏は日本の経済学になくてはならない稀
有な人物の一人であるということです。彼がこういう理不尽な人生
の苦難を一人で浴びている現状は、他の経済学者たちがヘタレで
だらしないからなのです。何名か名を知られた経済学者たちが、植
草氏と同様に現政権の欺瞞に敢然と立ち向かっていれば、植草氏
がこのような目に遭うことはないと思います。

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植草氏逮捕劇の大いなる違和感

 まず、電車内で酔った中年男と女子高生というシチュエーションでこの
痴漢事件が起こったということ自体が思いっきり怪しい。いかにもありそ
うな状況という感じである。はてなダイアリー・キーワードと言うサイトに
痴漢について以下の説明があった。

 
1、他人に気付かれないように、ふれたり写真を撮ったりする(人の)こと。

2、満員電車等の人混みのどさくさに紛れて女性のお尻に触る等の猥褻
  な行為をする事。軽犯罪法第1条第5項?による違法行為。但し他にも
  刑法第176条強制わいせつ罪?や刑法第208条暴行罪?が適用される
  ケースもある。

 まあ、痴漢の説明としてはこういう感じなんだろうが、植草氏が陥れられ
た痴漢捏造は、上記の典型的な説明にほとんど合致している。十年前く
らい前からであろうか、電車内の痴漢が急増して、駅構内や電車内では
私服の警察や鉄道公安官の警邏が頻繁になっている。そのうちに、由々
しきある問題が頻発してきた。それは「痴漢冤罪」という、謂わば、犯人と
被害者の主客転倒の悪質な犯罪が起きてきたことである。

 ほとんどは示談金目当てだが、女性が故意に「この男が痴漢している」
と指差して、まったく無実の男を痴漢犯罪者に仕立て上げるという事件で
ある。なぜこのようなことが起きるのかと調べてみれば、近代法治国家と
して適用する他の犯罪の「推定無罪の原則」と違って、痴漢などの性犯
罪では、ほとんどの場合は「推定有罪」が成立してしまうかららしい。その
場合は、女性側の邪悪な意図による犯罪のでっち上げが問題となる。
もし、ある男性を罠に嵌めようとした場合、特にその人間の社会的な信用
失墜を目論んだ場合、痴漢犯罪というトラップに嵌めることが最も確実で
あり、しかも、それを意図する側のリスクはかなり低いのではないかと思
われる。官邸サイドは前回の国策捜査の時、一部の国民に謀略逮捕の
疑いを掛けられている。それを学習した彼らは、今回は完全な仕掛けを
考えたと思う。すなわち、植草氏の性癖がことを起こさせたというイメージ
をでっち上げたのである。まったく悪質である。

 陥れる側に、露見リスクの最も少ない痴漢演出は、被害者に仕立て上
げる女性一人のみを偽被害者として彼女に依頼することである。相応の
報酬を渡すか、あるいは何か彼女の弱みを握って脅すことである。この
場合、少なくとも女性が口を割らない限り、犯罪事実は成立してしまうこ
とになる。もっと確実な方法は、被害女性以外に目撃者と共に、逮捕権
を行使する人間を仕立てて置くことである。逮捕権は一般人にもある。こ
れをやれば、犯罪立件は確実に成立する。しかし、協力者の素性や犯罪
前歴などを調べられたり、当事者がうっかり真実をしゃべるなどというアク
シデントが起きて、彼らが捏造犯罪に加担したことが露見するリスクは高
くなる。

 要は、誰か目撃者がいて、被害女性が強硬に言い張れば、痴漢冤罪
は容易に起きてしまうような気がするのである。だからこそ、ここ何年間
は男の防衛意識が進んで、如何に痴漢にされないように電車に乗るか
という自衛技術が発達しているようだ。しかし、電車に乗るだけで「俺は
犯罪者じゃないぞ」という積極的なアピールをしなければならないのは
異常すぎる。私は男として同情的である。しかし、実際に悪質な猥褻行
為をする馬鹿者が増えていることが、そもそもの発端であるから致し方
のないことである。

 何度も言うが、被害に遭ったと称する女子高生と、植草氏を取り押さ
えた者たちの素性と経歴、交友関係をしっかりと調べて、犯罪捏造加
担の可能性を調べるべきである。男とは総じてスケベな生き物である。
これは生物学的に仕方ないことである。しかし、その欲求程度の差は個
別に違っている。問題はこのような低次レベルの欲求を抑制できるかど
うかである。飲酒運転とは問題が異なるが、酒を飲んでもこの抑制が効
く人間は圧倒的に多い。もしすべての人間が、酒を飲んだがゆえに、低
次レベルの欲求が解放されるのであれば、そもそも、居酒屋文化とか
酒類の販売自体がありえないだろう。それでも、酒の上での失敗は後を
絶たないが、明らかに人様に迷惑をかけずにきちんと帰宅する人間が
圧倒的多数なのである。植草氏がそれ以外のわずかなアホ人間の部
類に属すとは到底思えない。「アルコールが理性のタガを外す」などと
真顔で一般論を述べる者は、すべての犯罪がアルコールに起因される
とでも言いたげでアホ丸出しである。植草氏のように高度で怜悧な経済
分析を行う学者は、並外れて超克心、自己陶冶力、状況分析などが優
れている。そうでなければ学問的な深層には肉迫できないからである。

 ましてや、一度検察の横暴で冤罪を受けた人間が、性犯罪というものに
対して、過度の警戒的心情を持つことは当然であると考える。植草氏のよ
うに論理的で怜悧な分析ができる人間が、しかも、一度冤罪を経験してい
る人間が、性犯罪生起の可能性を疑わせるような状況に自らを置くわけは
ない。たとえアルコールを飲んだとしても、自分の人生の破滅や、家族の
命運を決定的に悪い方向へ左右するような行為を行うだろうか。一度、性
犯罪の冤罪に遭遇した者が、多少の酒を飲んだからと言って、「出来心だ
った」などということは有り得ない気がする。むしろ外での行動における性
的な欲求は、普通の人よりも強い抑制下にあると考えた方が整合性が高
い。

 従って、今回の植草氏の痴漢逮捕は、政治的な謀略の可能性を強く暗
示させる。起きた状況が極めて不自然なのである。痴漢とは、最も冤罪が
起きやすい犯罪であるということも視野に入れるべきであろう。

 当日の電車内に居合わせた方々にお願いしたい。どのような些細なこ
とでも、事件について何か目撃していたら、警察にではなく、週刊誌でも
口コミでもいいから世間に発表していただきたい。これが冤罪であるの
なら、居合わせた人たちは国策捜査による偽装犯罪立件の現場で、なに
かしら不自然なファクトを目撃している可能性があると思う。

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植草一秀氏逮捕が不当逮捕だと考える理由

 植草氏逮捕の件であるが、私は現場に居合わせたわけでもなく、取調室
で尋問の様子を見たわけでもない。一般の国民と同様に・・。
確かめようがないものを、なぜ植草一秀氏がシロだと感じたのか、そのわ
けを話したい。一番おおきなわけとは、西村眞悟氏の例をみてもわかると
おり、今の政権は、その政策に疑念を持ち、厳しい批判を行う者に対して
は、官邸サイドの主導によって国策捜査を行うという強い確信を持つから
である。逮捕事例がすべて国策ということは当然ありえないが、世の中に
影響を及ぼす要人の逮捕については、そのすべてが百パーセントの妥当
性があるとは思えない。

 なぜなら、小泉政権が三権分立に則っていないのが明らかだと思うから
である。議院内閣制では、立法、行政、司法、これらの機関相互の独立性
を保つため,他の機関に対し、不当な介入は忌避されることになっている。
例えば,国会は,国政全般について内閣に質問できる権限が与えられて
いる。また、内閣は、国民の代表である国会議員から受けた質問に、誠
意を持って答弁しなければならない。そこで、昨年の郵政民営化法案に
おける審議過程を振り返ってもらいたい。

 小泉内閣は、他の法案はともかく、郵政民営化法案に限っては、議員の
質問を適当にはぐらかし、まったく真摯に答えずに法案成立をゴリ押しした
のである。郵政民営化の中身を充分に審議させずに途中で打ち切り、強引
に決定に持って行った。つまり、小泉は、「国会は国政全般について内閣
に質問できる権限が与えられていること」と、「内閣は、国民の付託を受け
た国会議員の質疑に対して真摯に答える義務がある」という議院内閣制
の根幹を破壊していたのである。

 その結果、何が起きていたかと言えば、充分な審議を望んでいた人たち
を、党是に反動するグループとして粛清したのである。ここに議院内閣制
は小泉総理大臣の恣意的な独裁権力行使によって崩壊した。つまり、小
泉は明らかに三権の頂点に立って、その権力をフルに行使したことにな
る。ほぼ完全な独裁体制である。郵政民営化については小泉純一郎は鬼
将軍と化していた。以下は「直言」で、平野貞夫氏、宮崎学氏、植草一秀
氏の三者対談の中から、植草氏の小泉内閣評を抜粋したものである。ここ
に売国政権である小泉内閣が蒼白になる真実が言い当てられている。

 植草一秀氏の談話
=============================

 内閣総理大臣が権限をフル活用すると三権の頂点に君臨する存在にな
る。議院内閣制は絶対権力を創出する「ポテンシャリティー」を持つ仕組み
なんですね。これまでの日本では、「自己抑制」がどこかで働いて、自民党
の総裁であっても、タテマエ上、人事権をフル活用することは不可能でない
のですが、それを行使した人はいなかった。派閥均衡というのは権力者の
権力行使における「自己抑制」なんですね。内閣総理大臣は司法の問題
について介入しようと思えば介入できるわけです。人事権を通じて。日銀も
そうです。
 戦後の日本では政治権力者の「自己抑制」によって「三権分立」のタテマ
エが曲がりなりにも成立してきたと思います。小泉首相はこの不文律を根
こそぎ破壊した最初の人間ではないか。内閣総理大臣が「自己抑制」を捨
て去れば三権の頂点に君臨することは不可能ではない。「権力を持つ者が
活用できる権利を100%フルに活用するのは当然である」と考える発想法
は、「市場原理主義」そのものと言えるのではないでしょうか。

   http://moura.jp/scoop-e/chokugen/special/060324/s05/content01.html 

=============================

  まったく言い得て妙である。小泉個人の資質と、それが牽引した独裁内
閣の本質をずばり言い当てている。三権分立の建前が瓦解すれば首相
の独裁傾向が強まるのだと簡単に言えるが、その実態がどんなものであ
るか、北朝鮮やポルポト政権を考えると一目瞭然である。端的に言えば、
司法権や警察権力を恣意的に動かすことができるのである。その血なま
ぐさい独裁権を有効に使うためには、第四の権力とも言うマスコミを掌握
することである。小泉は郵政民営化総選挙の時は、マスコミをフル動員し
て、あのナチのゲッペルズ宣伝担当相と同じような洗脳喧伝を国民に対
して行った。実際はマスコミを小泉万歳に仕立て、反小泉派のイメージを
徹底的に落としたのはアメリカ保険業界の金がマスコミに流れたからで
ある。

 昨今の平成不況で精神の退嬰を起こした国民は、小泉の威勢の良いワ
ンフレーズ・ポリティクスに幻惑され、この男はきっと何かいいことをやって
くれるに違いないと思い込んだ。竹中平蔵は、あの郵政解散総選挙時の
宣伝工作に、IQ値の低い層を狙い撃ちにするプランを出したそうである。

         http://www.tetsu-chan.com/05-0622yuusei_rijikai2.pdf

随分と失礼な話であるが、平成不況やその他で、思考能力が低下してい
る国民層が小泉たちの詐術に嵌ってしまったことは確かである。中身をブ
ラックボックス状態にした郵政民営化法案が、どれほど国益や国防を毀損
する法案であったのか、国民には考える力がなかったのである。その辺の
ところは小林興起氏の「主権在米経済」という本の「郵政米営化」に余すと
ころなく説明しきっている。郵政資金の国家的な意味を、小林興起氏の著
書から得た知識をもとにして少し説明する。

 この郵政民営化に最も尽力した男が竹中平蔵である。この法案の実質
的な推進力は実は小泉ではなく、アメリカの意を汲んだ竹中なのであった。
結論から言って、郵政資金と言われる膨大な簡保資金、そして郵貯資金
は、ただの流動性を持つ「お金」ではない。郵貯資金は、敗戦の焦土から
立ち直ってインフラをはじめる時の資金でもあり、大災害時に復興する時
の資金にも流用されるかけがえのない国家の財産である。また、国家が
経済的に窮地に陥るとIMFの世話になることになる。しかしIMFはアメリカ
の完全傀儡金融である。けっして安全な国際金融機関ではないのだ。こ
こから一旦、国家が金を借りれば、アメリカや外資の経済奴隷国家となる。
日本は郵政資金があるから、いざと言う時に郵政資金を使うことによって
外資の干渉から防御できるわけである。

 国営の郵政事業は、商売という側面よりも、国家の安定装置としての役
目がより重要な性格である。それをこともあろうに拙速に民営化に持って
いく愚を、国民のいったい何割が自覚しているのだろうか。小泉や竹中が
行った郵政民営化とは国家を丸裸にして完全に無防備化してしまったこ
とになる。思い出さないだろうか。小泉は「官から民へ」を繰り返し、竹中
は「イコールフッティング」を繰り返した。どっちも意味は同じであり、郵政
事業に国家が干渉せずに、民間と同等の条件でやれということである。
すなわち「小さな政府論」である。これはミルトン・フリードマン的な新自由
主義社会の姿そのものである。

 なぜ、小泉内閣が日本の経済構造をフリードマン的な新自由主義に転
換することを急いだのか。それこそがアメリカの強制命令なのであった。
アメリカが日本の虎の子の膨大な郵政資金を狙っているということである。
アメリカが日本から直接金を分捕るというのではなく、民営化の名目で、
日本の経済構造に自由市場という地引網を仕掛けたわけである。アメリ
カは新自由主義の地獄を通ってきた国である。彼らの持つ金融工学的な
経験値から繰り出される手法に日本が対抗できるわけがない。来年から
は外資は入れ食い状態になって郵政資金は風呂の栓を抜いたように外
に流れていくことだろう。しかし、国民が小泉政治の本質に気づけばまだ
間に合うかもしれないのだ。

 植草氏は、かねてから小泉施政を権力の暴走と見て三権分立の破壊
を読み取り、経済学的にそれをロジカルに分析した。これに顔色を失った
のが郵政民営化を牽引した非国民の竹中であった。竹中の経済学レベ
ルでは、植草氏の正当な経済学的批判をかわす術がないのである。そ
こで、官邸が国策捜査を行って植草氏の言論を封じたのである。アメリ
カ金融世界の奴隷である竹中が引退しても、安倍政権は従米売国路線
を引き継ぐことになる。植草氏のストレートな言動は、次期小泉内閣踏襲
政権にとっても邪魔なことこの上ない。

 そういう理由で、植草氏はアメリカのエージェントに成り下がった売国政
治家たちによって今度も嵌められたのだと私は推察するのである。植草
一秀氏は従米売国勢力に狙われる充分な理由を持つのである。今の検
察は堀江や村上を挙げる勢力よりも、官邸に従う勢力の方がはるかに強
いと思う。少なくともそれらが拮抗しているとは思えない。従って植草氏が
また官邸の毒牙にかかったことは充分に考えられる。

 推測だが、竹中辞任はアメリカの意向なのではないだろうか。彼は郵政
民営化具現化には大きな役割を果たしたが、国会答弁などで致命的なミ
スも犯している。その一つが年次改革要望書の存在を認めたり、知らない
と言ったりしたことである。これがアメリカの逆鱗を招いて辞職になった可
能性はある。しかし、アメリカに対してそれなりの功績がある竹中は、辞
職に際して一つの条件を出したのかもしれない。それが植草一秀氏の国
策逮捕である。なぜなら植草氏は竹中の不倶戴天の敵であるからである。
そのまま、植草氏の言論を放置すれば、彼の名誉はずたずたになるから
である。心までアメリカの従僕になった竹中は、植草氏に憎悪に近い恨み
を持っているはずである。

 参考図書:「主権在米経済」小林興起 光文社

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2006年9月14日 (木)

植草一秀氏の二度目の逮捕はまたもや国策捜査の疑いがある

 昼のニュースで、経済学者の植草一秀氏が京浜急行の電車内で、女子高生を痴漢し逮捕されたと報じられていた。にわかには耳を疑うニュースである。それにしても、植草氏本人のコメントが聞けないかぎり軽々には事件を判断すべきではないだろう。しかし、私は一報を聞いた時、米国エージェントの官邸はまたやったのかという思いがした。本人の仕事と人格は別だというまことしやかな言い方が横行しているが、仕事の結果に現われる人格は本人の性格を反映している場合が多いというのが私の見解である。そういう見方で行くと前回も今回も、本人の全人格を否定しなければならないような破廉恥な事件が生起したとは考えにくい。むしろ、背後に国策的な背景を持つ罠があるのなら、それはなぜかという疑問を追及したほうがいい。

===================================================

調べによると、植草容疑者は今月13日午後10時10分ごろ、品川―京
急蒲田間を走行中の京浜急行の電車内で、神奈川県内の高校2年の女
子生徒(17)の下半身を触った。女子生徒が「やめてください」と声を上げ
たため、植草容疑者は周囲の乗客に取り押さえられ、京急蒲田駅で同署
員に引き渡された。植草容疑者は当時、酒に酔った状態で、調べに対し
ては「覚えていない」と否認しているという。(14日、読売新聞から抜粋)

===================================================

 テレビや新聞でこういう報道をしているから、事の成り行きは確かめようがないが、私は植草一秀氏の逮捕は、またもや冤罪であると確信している。今の段階では、事件について仔細なことはわからないが、植草氏の前回の破廉恥罪の汚名に関して考えるに、今回の逮捕にも、警察、検察の謀略の匂いが強く感じられる。前回の警察の不審な動き方、肝心な駅構内のテレビモニターの録画像が出てこないことなどを鑑みると、前回は明らかに国策逮捕であると私は考えている。しかも、小泉政権の経済政策の本質が、植草氏に分析されると困ったことになると考えた官邸が彼の逮捕に踏み切ったことは、植草氏の以前からの小泉政権批判の言論活動をみれば頷けるのである。

 今回も、政権が安倍晋三に移行しても、彼が踏襲する売国政治は、小泉純一郎や竹中平蔵が行ってきたアメリカ型の新自由主義への日本改変である。この姿勢がほぼ確実となった今、アメリカにとって植草一秀氏のように国益主体を考えて、小泉売国施政を痛烈に批判できる経済学者は邪魔者以外の何物でもない。今度、小泉に代わって安倍晋三を祭り上げるアメリカエージェントたちが、小泉がやり残した売国路線を完成させようと企んでいるとすれば、今度の安倍政権も、愛国姿勢を持つ経済学者や識者連中を陥穽にはめて、無理やり彼らの表現を封じようとすることだろう。今回の植草氏の逮捕は、その血祭りがまた始まった可能性が非常に高い。

 上の記事に書かれている通り、被害にあったと称する女子高生や、植草氏を「取り押さえた」と言われている乗客の素性を徹底的に調べてもらいたいものだ。うかつにも今回の報道を鵜呑みにすることなく、植草氏の言論活動が、小泉現政権と、それを踏襲する安倍政権にとってどういう意味を持つのかを考え、国策捜査の疑いがないかどうかを国民は目を凝らして監視するべきである。

 「国家の罠」を書いた佐藤優氏は、世の中が大きな変化を起こす時、新しい時代の露払いとして、前の時代を象徴する人物を悪人に仕立てて時代の変化を固定化するというようなことを書いていたが、まさにそれと同質のことが起きているような気がする。植草氏の逮捕が、何か時代のメッセージを持つとすれば、植草氏と同様な視点で小泉内閣や安倍政権を批判したら、必ず社会的に血祭りに上げてやるという、官邸サイドの強靭な意志が示されたということにほかならない。これにびびる経済学者や、米国主導の実態を警告する識者連中は多くいるだろう。つまり、特に経済学者は小泉政権の本質を語ることも、安倍政権の姿勢を批判することも一切許容しないということを、構造改革を進めるアメリカのエージェントたちが決定したと言うことであろう。

 我々国民は、堀江貴文や村上世彰の逮捕で不用意に安心していないだろうか。博打経済の先鞭を切ったような彼らが罪に問われた時、国民は弱肉強食の株式社会の到来はこれで抑えられたと感じたかもしれないが、実際はアメリカの強圧により金融株式資本主義社会への転換が進められている。つまり、植草氏が狙われたのは、安倍政権が今までどおりの国益毀損の経済政策を進めていくということの証左なのである。

 もし、今回の逮捕も国策捜査であったのなら、植草氏が二度も官邸から狙われるということは尋常なことではない。それほど彼の経済分析は国益に敵い、アメリカ万歳連中の心胆を寒からしめるものであるということである。しかし、植草氏が無実だとすればこれほどむごいことはない。小泉政権の売国路線に憤りを持つ者ならば、植草氏の二度目の逮捕には目を光らせていなければならない。どう考えてみても強い違和感がありすぎる。彼の性癖が本当かどうかを考える前に、官邸サイドの謀略があったかどうかを考えた方がいい。つまり、植草氏の最近の経済言論が何を言っているかをよく知るべきだと思う。

 米国隷従の官邸サイドが目を光らせている連中は、国益的観点と憂国の思いが強い識者たちである。その中には当然「拒否できない日本」や「奪われる日本」を書いた関岡英之氏がいるだろう。もしかしたら、ターゲットしては最も狙われている御仁かもしれない。しかし、官邸サイドが彼を黙視しているのは下手に捕まえたりしたら、関岡氏が全国レベルで有名になり、その著書が爆発的に売れることを警戒しているのだろう。植草氏に対しても、エージェントたちは、彼を再逮捕した場合の国民の警戒レベルの惹起を何度もシュミレーションしたに違いない。つまり、国策捜査として彼の無実を信じる国民と、謀略どおり、でっち上げられた彼の犯罪性を信じる国民の割合を冷徹に計算したのかもしれない。

 一つだけ今確実に言えることは、手鏡事件で植草氏の逮捕拘留がなかったなら、小泉内閣の売国施政はかなり阻害されていた可能性があるということである。郵政民営化も成立しなかったかもしれない。それほど植草氏の経済学者としての存在感は現売国構造改革内閣にとっては目障りどころか、年次改革要望書の実現を阻むものだったと思う。では現政権がやり残して安倍政権に引き継いだ日本構造改革の要諦とは何であろうか。つまりアメリカがやろうとしている日本改変とは何であろうか。それこそが、医療システムの民営化と司法制度のアメリカ化なのである。私は西村眞悟氏と同様に経済学者の植草一秀氏を信じている。彼らは真に日本にとって必要な人物なのである。

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呑んだら乗るな

 連日、飲酒運転による事故や致死傷害がテレビニュースを賑わせてい
る。私は飲酒してハンドルを握る者は、人々が想像しているよりもはるか
に多いのではないかと思っている。「呑んだら乗るな」というのがこの話
の結論ではあるが、それが守られていないから少し感じたことを書いて
みたい。飲酒運転常習犯がいるということである。

 交通過密、歩行者と車の接触契機がいたるところにある今日、素面
(しらふ)でさえ事故を惹起する、あるいは遭遇する危険に満ちている。
このような車中心の社会で、飲酒運転をするということは、かなりの確率
で事故を引き起こすことは当然である。アルコールを体内に入れてハンド
ルを握った者が、岩に激突するとか、川に落ちて自死自傷することは本
人の責任であるから仕方ないと言いたいが、これは厳密な意味では飲
酒運転に適用できない。なぜなら、実際にガードレールを破損したり、
川に落ちたりれば引き揚げ作業に金がかかるし、明らかに社会に迷惑
をかけることになる。飲酒運転は自己責任という選択の問題ではなく、飲
酒運転そのものが犯罪だということである。

 狂犬というものは見境なく目に付いた者を噛み殺す犬であるというイメ
ージがあるが、飲酒運転車両はそういう狂犬意識を持つ自動車である。
困ったことに飲酒行為とはアルコールの神経作用によって多幸感や根
拠のない自信が満ち溢れるなど、一時的に自己肯定感覚が惹起される
ことである。ここにはネガティブな感情は抑制されて本人はいい気分にな
る。だからこそ、人間は酒を好んで呑む。問題はネガティブな感情が抑制
されてしまうことにある。このおかげで事故ってしまうという想像力や自覚
が本人にとって決定的に欠落してしまうのである。むしろ、アルコールは
自我の万能感を増幅して、運転することに躊躇を持たせなくなる。まった
く厄介である。アルコールとは冷静な自己抑制や客観的な想像力を眠ら
せてしまうのである。

 飲酒運転に対して、小泉純一郎の大好きな言葉である「自己責任」論
をぶちかませば、運転する奴は大概、「おれは自己責任をわきまえてい
るから運転は大丈夫」ということになる。飲酒運転をしてしまう意識とは、
ほとんどが「自分だけは例外である」と考えていることである。例外的要
素はまったくない。アルコールが体内に入ると、普段並外れて運動神経
や反射神経の優れている者でも咄嗟の回避行動ができないほど反応が
遅れてしまうのである。運動生理学的に、ノイロンやシナプスなど、神経
連結機能系に伝達遅れが生じるのか、あるいは大脳そのものに知覚麻
痺が生じるのか私にはわからないが、明らかに視覚情報から得る判断
や反応に致命的な遅れが出る。

 一番危険なのは前酩酊段階の飲酒であろう。本人はふらついていない
から大丈夫だと思う。しかし、傍から見ると明らかによれよれであるとい
うことはわかる場合である。むしろ完全酩酊状態になれば運転する気そ
のものが起こらないだろう。昔、飲酒運転常習者に聞いたことがある。彼
の話で最も恐ろしかったのは、「呑んで運転しているとガードレールや電
柱、側溝などが怖くないよ」と言っていたことである。これが酔っ払い運転
の真実を言い表しているのである。怖くないということは、自分が制御し
ているモバイルが物理的に動いているという認識が薄れていることであ
る。当然、そこには何かにぶち当たるという想像力がない。人も犬も壁も、
路面とあまり大差ない感じで見ているのである。というか、動体視力も低
下しているから、動いているものが視野にあっても認識していないことは
十分に有りうる。まったく恐ろしい話である。

 一番たちが悪いのは、「おれは酒は呑むが酒には呑まれない」などとい
う戯言を運転に適用する輩である。酒の席では乱れないから運転も大丈
夫。まったくアホ過ぎる。と言うか痴呆である。自動車という緻密な制御系
をコントロールする頭脳の主体が、道路を走る車の中で、人間的な礼儀を
守った守らないなどということは関係ないことである。酒を呑んだ瞬間に
人間は酒に呑まれている。アルコールが及ぼす自己肯定感覚は危険意
識を遮蔽してしまうのである。

 話の方向は変わるが、飲酒運転の罰則を強化した途端に、轢き逃げ運
転が増加してきたそうである。つまり、大人しく捕まるよりは逃げた方が増
しだという感覚である。悪質な飲酒運転を取り締まることによって生じるさ
らに悪質な轢き逃げ行為の増殖。これらの根本的な対策は交通ルール遵
守の啓蒙教育しかない。つまり、自分さえ助かれば後はどうなっても良い
とか、他者の気持ちを忖度しない不道徳な社会感覚を根元から正すこと
にある。今の社会の交通倫理とは、人を殺してから反省する前に、いか
に殺さず、自分も死なずにすむかという方向から考えなければならない。

 国民は交通警察にしっかりしてもらいたいなどと要請する前に、小泉が
敷いた「小さな政府」が、際限のない自由の暴走を許す社会であることに
気が付き、日本に相応しい国柄や社会の在り方をまず問題にすべきであ
る。しかし、昼間は滅多にないだろうが、夜に歩道を歩いていて我々は、
車道を流れる車とそれなりの距離を保っているから安全だと考えている。
しかし、実際のところ、本当に安全なのだろうか。横断歩道は安全なのだ
ろうか。通り過ぎる百台の車のうち、何台かは飲酒運転状態の車がある
と考えて用心していた方がいいと思う。

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2006年9月13日 (水)

日本人劣化の原因は教育問題の前にある

安倍晋三に関わらず、自民党、民主党、公明党、その他の党に関わらず、
政治家連中はこぞって教育問題を訴え、その改革や指導方針を訴える。し
かし、口角泡を飛ばして教育を語る彼らの言説がなぜかことごとく空々し
い感じで聞こえてくるのは私だけであろうか。

 確かに、今の日本社会で国民を特に暗澹とさせている暗いニュースは、
殺人、強盗、傷害、窃盗など、かつての日本が誇った安全神話の完全崩
壊を示唆する事件で目白押しである。そこで慌てた政治家や大人連中は
何の考慮も歴史的な思考過程も経ずに短兵急に教育問題に飛びついた。
教育さえしっかりと行えば今からでも何とかなる。犯罪を招来しない青少
年の育成をしなければならないと、みんなそういう方向に思考を持ってき
ている。

 はたしてそれは効果のあることだろうか。今の日本社会の乱れや規範
崩壊の原因を、教育というジャンルのみに帰趨させてもいいのだろうか。
広い意味で言うなら、確かに大人も含めて青少年の犯罪傾向は教育の
失敗に帰するところが大半ではあろう。しかし、教育というものの根拠が
何に由来するのかを深く観た場合、今の日本人が凄まじいまでに倫理や
道徳規範を喪失した根本的な原因は戦後パラダイムそのものにある。

 つまり、大戦が終えてアメリカが主導した近代主義的な価値観そのもの
に日本人の究極的退嬰の原因があったのである。教育というものは民族
固有の伝統的価値観や文化的価値観を、民族自体があまねく共有すると
いう前提が主体になって生じるものであると私は考えている。わかりやす
い例をあげるならユダヤ民族である。彼らは二千年前に祖国を失い、流
浪の民となって世界各地に離散した。そして1948年にパレスティナに
イスラエル共和国を建設した。

 ディアスポラ(離散)の艱難辛苦に耐え抜き、ヒトラーのユダヤ人殲滅の
政策にも耐え抜き、彼らが確固たる自己同一性を守り抜いてきた理由は
彼らが、国家を失っても歴史の背骨を失わなかったからである。その背骨
に相当するものが、ユダヤの聖典である旧約聖書(トーラ)と戒律などを説
いたタルムードである。これらにはユダヤ人が約束の地を与えられている
ことが示されており、彼らは選民意識とシオニズムをけっして失わなかった
という事実がある。それが彼らの民族的な教育体系であった。

 民族の自己証明をしっかりと保てば、民族は滅びないという最大の証明
がユダヤ人である。日本もその例に倣えば、戦前と戦後では民族の自己
同一性の性格がまったく異なってしまっていることに気が付くであろう。日
本人は大東亜戦争を経過して、国家と民族はもとのままに残ったのだが、
日本人の固有の背骨となる自己証明を失った。その理由は固有で長く続
いた日本の伝統精神を捨てて西欧近代主義的価値観へ移行することを
民族の主眼に置いたからである。ここに日本民族劣化の最大の原因があ
るのである。

 そもそも、日本固有の伝統的価値観を捨てておいて、科学技術至上主
義的な価値観と、放埓で享楽主義的な価値観しか持たない新興擬似文
明国家のアメリカを模倣することを国是にした日本が、どうして真の教育
が施せるのだろうか。物質至上主義、金銭至上主義の価値観しか持た
ない新自由主義社会の中で、倫理や道徳の涵養を期待するほうが無理
というものであろう。

 日本に新自由主義体制、すなわち市場原理至上主義社会を敷設して
おきながら、犯罪を惹起しない教育改革を行おうという魂胆が最初から
筋違いなのである。なぜなら、弱肉強食の社会ダーウィニズムで稼動す
る社会機構が今、小泉政権やそれを引き継ぐ安倍が進めている構造改
革の本質なのである。ことは今の戦後民主主義的価値観の中ではけっ
して改善できないことなのである。

 日本人は思い切って精神世界の質的変更をする必要に置かれている。
すなわち、国民精神を戦後パラダイムから戦前パラダイムに変換するこ
とである。何も難しいことではない。核家族化をもとに戻し、三世代が同
居するか、すぐそばに居て互いに家族として交流できる状況に復帰する
べきである。私は幼い頃、おばあさんの背中に負ぶされて、その着物に
鼻汁を垂らした。おばあさんはいろいろな話を私にしてくれた。仔細は記
憶にはないが、子供の私は感性的に、情緒的に何か大事なことを伝えて
もらったと思っている。私と同世代の人間はそういう経験を持っているは
ずである。

 教育はそこから始まっていると私は考えている。おばあさん、おじいさ
んは孫に学校教育のような知育は教えない。しかし、人としてどうあるべ
きか、日本人としてどう考えるべきかという原初的な思考の枠は教えて
いたのである。代々、日本人はそうやって何か民族の魂を受け継いでき
ていたのである。その基本の上に教育はなされるのだと私は思う。おじ
いちゃん、おばあちゃんが孫に教えてきたのは、先祖の大切さ、郷土へ
の愛情なのであった。これが土台となって真の愛国心は芽生える。今の
個性尊重とかいうバラバラな相対主義的な人間関係の中で、どうやって
歴史の背骨が我々の中に継承されるというのか。

 小泉や安倍は、日本社会を新自由主義というアンモラルな社会構造に
転換した。こういう激越な日本破壊を行っていて、そこから生まれる教育
とは、人殺しを野放しにする方向性以外に何があるというのか。社会の
在り方と教育体系は乖離しないはずである。実社会では弱肉強食の金
銭至上主義を最上の価値に置いて、教育だけは愛国心や人倫の道を
涵養するなどということが有りうるはずがない。しかし、今の自民党が語
っていることはそういう欺瞞の教育改革なのである。自国の誇り高い高
次な伝統精神を忘却し、低次元な欲望だけで成り立つアメリカ社会をモ
デルにして日本人がまともな教育を施せるわけがない。教育や社会を
モラルあるものに変えるなら、日本人自身の精神からアメリカナイズさ
れたものを剥ぎ取る以外にないではないか。

 ユダヤ人にはトーラという民族の背骨があった。今の日本人はこれに
相当する民族の魂がどこにあるのか考えて、それをしっかりと掌中にし、
それを求心力として教育を考えることである。少なくとも教育基本法や現
行憲法にはそれはまったくない。まったくないどころか、それは日本人の
背骨を覆い隠しているのである。核家族化を昔の大家族制へ復帰せよ
と言うのではない。理想的にはスープの冷めない距離に三世代がうまく
住んでいることである。三世代が近しく暮らせる社会インフラを整える計
画を行うことである。理由は生活の中から日本人の伝統精神を継承して
行くことができるからである。それによって社会構造はかなり変わってく
るだろう。仕事の形態や地域社会の構造がそういう方向を持つように政
治が指針を示し、実行することである。しかし、その前に戦前文明の価
値観の重要なエッセンスは再構築されなければならない。それは国民
的覚醒の中で行われる必要がある。簡単なことである。アメリカのポッ
プコーン文明を根底において否定することである。

言い方を間違えた。アメリカのポップコーン文明は楽しんでもよいが過度
に惑溺しないことである。こんなものは二千六百年のわが国の歴史から
見れば泡沫のようなものである。しかし、アメリカの文明は無害なポップ
コーンだけではない。この文明の最も悪質なところは、西欧近代主義の
有毒な観念が余すところなく凝集されているところにある。日本人はこの
毒を飲むことをもうやめるべきである。これ以上飲むとアナフィラキシー
ショックで民族の生命が枯渇する。

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2006年9月10日 (日)

次期安倍政権は従米売国路線踏襲内閣である

昨日、NHKで次期総理三候補の演説会が放送されていた。最初の安倍
晋三の演説の冒頭部分を聞いただけで、こりゃまったく話にならんなと思
った。安倍の開口一番は、八年前に小泉純一郎を応援したのは自分だっ
たという小泉万歳の逸話から始まったのである。この冒頭の発言に安部
政権というものの本質がすべてあらわれている。

 奇しくもこの日、フィンランドを訪問中の小泉純一郎が安倍晋三指示を鮮
明に打ち出した。この事実だけで、安倍の率いる政権が、日本の極限的
な脆弱化を狙う小泉従米的構造改革路線を引き継ぐ方針であろうことは決
定的となった。国民は安倍の「美しい国へ」などという著書名にごまかされ
てはならない。この男の政治的な本質は保守を気取る盲従的アメリカ信奉
者に過ぎない。安倍晋三は小泉・竹中構造改革というアメリカ受益だけで
画策される経済路線、政治路線をより顕著に踏襲して行くだろう。

 安倍自身が所信表明演説みたいに自ら語っていたが、今やっている構
造改革を緩めるどころか、いっそう先鋭的にそれをやって行くとのたまって
いる。安倍は言う。公立学校を建て直し国民が国家や公を信頼できるよう
な社会にして行くと。公の復権を唱えるなら、今の小泉・竹中路線が遂行
している新自由主義(ネオ・リベ)的な構造改革路線を完全な失敗と見て
即刻中断し、真に国益と日本の尊厳性を復活させるべく政策方針に転換
するべきであろう。安倍にはこの観点が微塵もないばかりか、より強力に
従米経済路線を遂行して行く方針が見え見えである。

 私は、かつて森喜朗前総理大臣が、日本は天皇を中心とした神の国で
あること、それから、鎮守の森やお宮さんを中心とした教育改革をすすめ
ることなどの発言に対して、ああ、日本もようやく独自文明認識の方向に
変わりつつあるんだなと、素直な期待を寄せたものである。ところが森前
総理は、こともあろうに小泉純一郎という稀代の売国奴を密室政治的手
法で政権の長に祭り上げたのである。その結果、どれほど日本の良い部
分や、先人たちが苦労して築き上げた有効な日本的経済構造を破壊した
か、言っても言い足りないくらいである。政権を造り上げ運営して行く裏構
造の勢力があるとしたら、こいつらは完全に米国のエージェントと化して
いる。

 その米国の走狗に過ぎない一政治家が、皇統や神社というキーワード
で日本国体の強化を目指すかのような嘘発言をして、日本を解体に追い
込む方向に国の舵取りをやっていたら、国家の品格も希望もあったもので
はない。安部晋三も、基本は支離滅裂な森喜朗とほとんど形は変わらな
い。私が安部の演説を聞いていて絶望感に打ちひしがれたのは、あの郵
政民営化時に追放(パージ)された自民党議員に対する彼の見解である。
自民党は郵政民営化反対で放逐された議員を復党させるのであるならば、
党規綱領をちらつかせ、党の方針に逆らったから、あの時はあのような強
硬手段を取ったが、それは過ぎたことである。しかし、今は自民党の党是
に気持ちを合わせてくれたなら復党は可能であるなどと言っている。

 国民もそうだが、自民党議員連中もあの郵政民営化という狂気の法案
の、異常すぎるほど異常な成立過程をよく振り返ってみた方がいい。法案
審議というものは反対意見を調整しながら進むのが本分であり常道であ
った。ところが当たり前の審議過程が異様な空気によって完全否定され
ていたのが郵政民営化法案であった。なぜ、あの法案だけが突出して是
か非かの二項対立的な論点に収斂させられたのか、なぜ中身の審議を
慎重に行おうとした連中まで、党是に反する悪党というレッテルを貼って、
彼らの生業(たっき)の道を強引に塞いでしまったのか。

 この奇妙さ、この異常さに国民のどれくらいの人間が気づいていたのだ
ろうか。小泉施政の六年間を振り返ってみると、この内閣の最大の眼目
が郵政民営化にあったことが良くわかる。あの悪名高き「年次改革要望
書」の成立よりも、小泉純一郎の郵政民営化思案の方が明らかに先行し
ている。だからと言って、そのことをもってして小泉がアメリカの言いなり
になったのではないといういい訳にはならない。小泉自身が思想的に若
い頃からネオリベ経済路線を志向していたことは十分にありうることであ
り、それにアメリカが目を付けて彼を最大限に利用したというのが今回の
真相だろう。

 もともとアメリカマンセーの小泉が、アメリカの金融政策路線に追従して
アメリカの虎の威を借り、郵政民営化を強引に具現したことは間違いない
ことである。年次改革要望書にはアメリカ保険業界からのあからさまな圧
力があり、日本郵政の簡易保険の解体、つまり、特別保護を撤廃した簡
保の民営化が無理やり進められた。年次改革要望書では民間保険会社
と簡保の身分を同一にしろという要望はあるが、郵貯資金については特
に要望はない。しかし、結果としては、簡保のみならず郵貯資金も政府の
保護を離れて国際金融が介入できる民間市場への解放に向っているの
である。

 アメリカは日本の国家が国民の保護を目的としたあらゆる国家政策の
要を解体する目的を持っている。そのことによって、彼らが敷いたグロー
バリゼーションという虚妄のアメリカ主導経済ルールに日本の市場を無
理やり参加させ、日本の奥にしまい込んだ国民保護の目的の金を余す
ところなく晒させ、株式的方法やM&A、その他の金融的手法を駆使して
巻き上げる魂胆なのである。一般日本国民は金融工学的手法に馴染ん
でいないから、郵政資金が自由市場に開放されたとき、それを国際金融
資本やアメリカ保険業界、いわゆる外資がどんな手法を持って巻き上げ
の算段を講じるかという想像力がまったくない。

 基本において、この恐怖の国益毀損をいち早く見抜いた小林興起氏や
亀井静香氏、橋本派の小泉龍司氏などが憂慮の念をもって国民に問い
かけようとしたが、小泉売国一派は彼らに熾烈な怒りを抱いて刺客候補
まで立て、党から放逐したのである。盗人猛々しいとはこういう時も使っ
ていいだろう。自身がアメリカに日本国民の労働の成果である国富を提
供する法案をごり押しして、それに反対する良心的な議員に敵意を抱く
とはとんでもない大悪党である。この案に賛成か反対かどっちだと、すべ
ての法案に対してこういう二値論理を振りかざして来たのならそれなりの
一貫性はあるだろう。しかしこの血なまぐさい二項対立の押し付けが、な
ぜ郵政民営化だけに絞られたのだろうか。小泉を応援する愚鈍な国民は
そこのところをしっかりと考えるべきである。

 理由は小泉内閣の最大の施政目的が郵政民営化に収斂していたから
である。それはアメリカからの期限付きの強制命令に従ったということに
他ならない。あの郵政民営化が是か非かの解散総選挙の時、マスコミの
小泉擁護は突出して異常であった。テレビは連日、アリコやアフラックなど
の外資保険会社のCMばかりを流し、報道番組では古館伊知郎やみのもん
たのように、露骨に外資リスク論を言わせないようにしていたことは記憶に
新しい。テリー伊藤は竹中平蔵や世耕のマスコミ対策にかりだされ、郵政
民営化擁護に働いた。彼らは庶民の味方のような振りをしてとんでもない
売国芸能人たちである。

 小泉内閣政策の本質とは、アメリカに魂を売り渡すことにあったのであ
る。次期政権を担う安倍晋三も、それと同様にアメリカに日本を売り渡す政
策に血道を上げることは間違いない。安部晋三の対アメリカ施政には厳し
い視線を向けて行く必要があるだろう。


参考図書 : 関岡英之「奪われる日本」(講談社現代新書)

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2006年9月 8日 (金)

安倍晋三次期総理への深刻な危惧

 平野貞夫氏があるネット論考でこのようなことを書いている。

「小泉首相の劇場政治の悪い部分が、テロ事件の遠因である。自己と異
なった意見、靖国参拝問題でいえば加藤氏や山崎氏との議論をせず、短
絡な感情論をテレビでたれ流し、狭隘なナショナリズムを煽って人気を押し
上げる手法は、ナチス・ドイツ、ヒットラーと何ら変わらない。理性も論理も
倫理も存在できない世界を日本に創ってしまった。

 安倍晋三官房長官に至っては、二重の責任がある。首相の補佐役とし
て小泉首相に諭(さと)すべき立場ではないか。それだけではない。次期
内閣総理大臣として事実上確定している立場からしても、民主政治の根
本を支える「言論の自由」を破棄するテロに対して、自分の見識を表明す
る義務がある。それが政権を担当する指導者の最高の政治感性である。
なのに夏休みと称してダルマになっていたとは何事か。


 安倍官房長官は自分の見識というものがないに等しい政治家だ。報道
や状況についてはなんとか説明できるが、判断やその理由については側
近やブレーンの補助がないと、発言できないといわれている。岡崎久彦、
八木秀次、中西輝政といった有識者が影響を与えているとのことだが、彼
等が加藤邸放火テロに対してどう考えているのか。そのだんまりが、安倍
官房長官のだんまりの原因かもしれない。」

  http://web.chokugen.jp/hirano/2006/08/27_898e.html
            

 平野氏が指摘していることだが、「安倍官房長官は自分の見識というも
のがないに等しい政治家だ」というのは非常に気になる発言である。実は
安倍晋三は、小泉訪朝第一回目の時、金正日に会えたことですっかり上
気してしまい、ここ一番の気力と慎重さを失った小泉をきつくたしなめて交
渉に当たったそうである。この時、交渉の合間に安倍晋三が、腑抜けた小
泉に喝を入れて拉致を金正日が認めるまでは日朝平壌宣言合意に持って
行っては駄目だと強硬に言い張っていたそうである。小泉や安倍たち随行
者たちの会話を盗聴していた金正日は、安倍のこの強硬姿勢を見ていて、
拉致を認める決心をしたという。つまり、第一回訪朝時に、北朝鮮の首領
自身に国家拉致を認めさせた功労の主体は安倍自身であった。

 なかなか肝の据わっている政治家だと思えて、その時は私も安倍を頼も
しく思った。しかし、その後の四年間の安部の小泉に対する阿諛追従を思
い出すと、彼へ抱いていた一抹の期待は完全に裏切られてしまった。小
泉第一次内閣の時は、まだ安倍は保守としての矜持を持っていたように
思えたが、いつの間にか小泉という狂気の宰相にすっかり取り込まれ、
小泉ポチに成り下がった感じである。私が安倍晋三に怒りを抱いている点
は主に二つある。一つは郵政民営化騒動時における彼の政策的な意味
でのだんまりである。彼の愚かさから郵政民営化というものの本質が極
限的な対米隷従政策であることに気が付かなかったのか、あるいは十分
に気が付いていながらも、小泉と歩調を合わせて反目をせずに時を待っ
て政権の長(おさ)に着くことを狙っていたのか、私にはわからないが、い
ずれにしても愛国を標榜する保守としては致命的な政治姿勢であると思
えた。

 あの郵政民営化法案の参議院議決の時、静岡選挙区第七区の城内
実氏を安倍晋三が最後まで引きとめた議場シーンは印象に残っている。
安倍は城内氏の清廉な愛国行動に、少しは自身を恥じる心がなかった
のだろうか。城内実氏は若いながらも、郵政民営化法案がアメリカ国益
だけで意図された国家毀損法案であることをいち早く見抜いていただけ
ではなく、人権擁護法案の危険性などにも熾烈な憂慮の念を持ち、人々
に訴え続けていた本物の有意の青年愛国者である。むしろ、安倍自身
が彼の意気に感じて郵政民営化に反旗を翻すべきであっただろう。要す
るに早くから、狂気で愚鈍な小泉純一郎の売国政策を、憂国的政治思
想を鮮明に打ち出して決然とした反意を示すべきであったと思う。

 ところが安部は小泉純一郎の完全な奴僕と成り果て、アカ思想紛々た
る識者連中で作成された皇室典範改悪法案を見て見ぬ振りをした。聞く
ところによれば、安倍は小泉の拙速な典範改悪案をよく思っていなかっ
たらしいが、それなら早くから小泉の弓削道鏡的な思い上がりを国民に
わかりやすく説明しながら叩くべきであった。それもせずにのほほんと
小泉に追従する姿は人間として駄目である。

 それから、二番目に私が頭に来ていることは、官邸サイドの謀略によ
る西村眞悟氏の逮捕劇の時、安倍がだんまりを決め込んでいたことで
ある。北朝鮮拉致被害の件で、最大の功労者であり、最も至当な国家
戦略を持つ西村氏が逮捕されることを官房長官なら当然知っていたは
ずである。西村氏の逮捕が、日本の国際的立場にとってどれほど深刻
な意味を持つものか、憂国の人々なら当然気が付いて然るべきである。
特に安倍と西村氏は拉致問題では党派信条を超えて協同する立場で
ある。それを座視したまま動かなかった安倍は、半島利益満載の売国
国交正常化に心から賛同していたとしか思えない。卑しくも、愛国を標
榜する政治家であるなら、身命を投げ打って西村眞悟氏の国策逮捕を
阻止するのが安倍の立場であっただろう。良心のある政治家としても、
あるいは一個の人間としても。西村氏を生贄にしたことは許されること
ではないだろう。子供が愛せる国家を目指すなら、西村氏の国策捜査
の動きに義憤を感じて然るべきであった。

 安倍晋三には保身の先読みはあっても、歴史的流れにおのれの政
治姿勢を投影する能力はまったくない。今の時局で、小泉政治を熾烈
に酷評する者だけが、我が国の歴史の正統性に乗ることができるので
ある。その評価は意外に近いうちに現われてくるだろう。安倍の取るべ
き道は反小泉以外にはなかったはずである。彼の選択は当初から完
全に間違っているのである。つまり、彼は小泉の後押しで宰相になると
いう最悪の道を選んでしまったのである。彼が本物ならば小泉を打倒す
ることによってこそ、一国の最高権力者に成り上がるべきだったのであ
る。その時が数年遅れても彼の評価を桁違いに上げただろう。しかし、
選択は為されてしまった。

 安倍がこのまま、総理になった時、彼が歴史に評価される宰相の道
を選ぶとするなら、小泉純一郎や竹中平蔵の国家毀損的な政策を正し、
正道に戻すことだろう。そのためには象徴的な売国奴としてこの二人
を死刑にするくらいのことはしてもいいはずである。日本は韓国などと
違って、以前の政策の悪を罰することはしない慣習があり、その大らか
な許容性が日本人の優れた民度でもあるのだが、この二人は死罪に
値すると私は思っている。それはともかく、安倍に歴史的な起死回生が
あるとするなら、対米売国路線を命がけで捨て、国家の浮沈を左右す
る組閣を小泉政権の方向、ベクトルと真逆にすることである。

 そのためには、西村眞悟氏を内閣官房長官に抜擢し、強権を発動し
て中国(支那)勢力、韓半島勢力、魂から従米奴僕の政治家連中をパ
ージするべきだろう。米国に関しては実は彼らのくびきから自由になる
ことが最も大事であるが、魂を売らずに米国と賢く付き合える政治家を
残すべきである。撲滅すべきは、日本に「年次改革要望書」を嬉々とし
て敷設した官僚や政治家連中を厳罰を持って放擲することである。彼
らは黄色い肌をしたアメリカエージェントである。これが最も悪い。もち
ろん小泉チルドレンは有害無益である。

 安倍晋三が今のままで小泉路線を踏襲すれば、日本は壊滅するよ
うな気がする。何よりもアマテラスの御怒りを買うことだろう。彼自身が
誇り高い宰相になる気なら、腹を決めてアメリカと対峙する覚悟が必
要だろう。それには西村眞悟氏や平沼赳夫氏に代表されるような本
物の日本魂を持つ政治家の力を借りる以外に道はない。このお二方
は絶対にブレーンにするべきである。そうすればお坊ちゃん宰相でも
なんとかなるだろう。間違っても小泉のブレーン的な売国奴たちを入
れる愚は犯してはならない。とは言っても、それができる決然とした
性格ならとっくの昔に小泉施政に牙を剥いていたと思うが。

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2006年8月23日 (水)

小泉の涙は英霊への不遜のきわみである

 今日は小泉純一郎という希代なる性格破綻者の情緒的不整合性を指
摘する。この間の8月15日の終戦記念日、小泉純一郎は、2001年に
おける自民党総裁選時の公約どおり、ようやく靖国神社参拝を果たした。
世の保守的な連中にはこれを高く評価する向きがある。日本国宰相が終
戦の日に靖国神社を参拝することは、たとえ首相自身が鬼畜的な心を持
っていたとしても、国家という建前から見れば、内外的には大きな意味は
あるのだろう。国内マスコミが恣意的に好んで使いたがる公的私的の区
別、あるいは小泉自身が言うごとく「心の問題」という、国家の政治的な長
としてあるまじき不鮮明な意味づけで行ったとしても、内外的にはそれなり
の重さはあったのかもしれない。

 戦後において、首相が靖国神社の8月15日に参拝する事実とはどのよ
うな意味づけを行おうとも、それは明らかに「公式」なのである。従って、英
霊を追悼する資格のない鬼畜小泉ではあるが、国内の左翼、そして中国、
韓国に対してそれなりの牽制力が生まれたことは評価できるだろう。ただ、
この意味合いにおいて、私は02年のブッシュ米国大統領夫妻の来日にお
いて、小泉と外務省筋がブッシュ夫妻の靖国神社参拝の打診をつぶした
ことは許されることではないと考えている。つまり、小泉は01年の終戦記
念日に参拝公約を果たし、02年にブッシュ米国大統領と揃って靖国参拝
を行うべきだったのである。日米首脳同士が靖国参拝を行う国際政治学
的な意味、そして歴史的な意味は夙(つと)に大きい。この二つのことだけ
でも実現していれば、彼の性分である鬼畜性は結果において緩和された
ことだろう。

 思うことは、革命政権の長(おさ)である小泉純一郎が、終戦記念日の
靖国参拝を今になって行うことは、日本人の国民精神のあり方に深刻な
悪影響を与えたことは誰も指摘しないことである。確かに小泉は首相に
なる前に靖国神社参拝を公約していたという事実はある。しかし、上述し
たように、その公約実現は首相在位初年度、つまり初めて総理大臣に就
任した01年に行うべきであった。

 彼が最初の年に公式参拝を果たしていれば、今日のように国民精神に
甚大な悪影響は出なかったはずである。その意味を的確に説明しよう。
当時、小泉政権は良くも悪くもまだ発足時であるから、なんら効果のある
政治的な実績は積んでいない時である。国民はこの新宰相に諸手を挙げ
て大きな期待を寄せていた。この時、小泉は靖国に参拝するべきであった
のである。なぜならこの時期はまだ、郵政民営化を軸とした小泉の邪悪
な売国施政が発動していなかったからである。

 しかしながら、この狂気と軟弱が同居している男は、初年度の八月に至
って、こともあろうにあの媚中派(チャイナゲート)の急先鋒である加藤紘一
の諫言によって公式参拝を13日に前倒しした。国民はこの時点でこの男
の詐欺師的な危うさを見抜き、国民世論を動員して彼を政権の座から引き
ずり降ろすべきであった。衆愚的な人気で成り上がったこの男は、同じ衆
愚的な反意で十分に引きずり降ろせる程度の人気しか担保がなかったか
らである。

 小泉政権が過去五年間で行った歴史的な売国行為の性格を一言で言
うならば、それは我が国の国体を極限まで貶めて、国の経済機構をアメリ
カへの完全朝貢国に仕上げたことである。そのためにこの内閣がやった
ことは、アメリカの国益だけに沿う規制緩和、規制撤廃という「日本の構
造破壊」、つまりは日本の国柄破壊、国体破壊を行ったという事実である。

 日本人は良く考えてもらいたい。小泉が日本という国家をアメリカ的な新
自由主義の国へ、つまり市場原理がすべてを駆逐する弱肉強食の世界に
切り替えたことは、我が国の先祖たちの事跡や想いをことごとく無に帰す
る行為なのである。この「先祖毀損」という政治思想を以ってする彼の靖
国参拝とは一体何であろうか。また、それを受容する国民の意識とはどう
いうものであろうか。

 大東亜戦争に散華した英霊たちは、敵国米国の奴隷に堕することを我
が国建国史上の最大の恥として戦った。そのために身命を捧げた方々を、
アメリカの精神性に取り込まれ、国益を放擲し、日本社会を無情な弱肉強
食に造り替えた小泉がどうして追悼や冥福を祈ると言うのか。建国三千年
の歴史を有した国の魂を、新興的な人工国家アメリカに売り渡した売国宰
相が英霊の何を尊いと感じるのか。

 知覧の特攻記念館だったか、万世の特攻資料館だったか忘れたが、小
泉純一郎は、特攻兵の遺書を見てガラスケース越しに涙をぽとぽと落とし
てしばらく佇んでいたらしい。そのシーンは何回かニュース映像で観てい
る。しかし、おかしいではないか。靖国に居られる英霊たちが国体をアメリ
カ型に切り替える事業を喜ぶはずがない。小泉の涙が人間的だというより
も、それが私には正気の沙汰とは到底見えないのだ。心ある人たちは、小
泉によって日本という国柄が次々と破壊されて行く現実に強い危機感をも
ち、慙愧の想いを強めている。日本の文明が消失することを憂えているの
である。

 膨大な時間の集積からなる日本の文明が、アメリカの軽薄な人工文明
と置換されつつある現実を、卑しくも日本国の宰相ならば身命を投げ打っ
て阻止するのが先祖への報いというものである。ところが、この小泉は
嬉々として国を売り渡しているのである。私の言いたいことがわかってく
れただろうか。この売国宰相は、国家構造が精神のレベルからアメリカ
ナイズされることを悲しむどころか、むしろ自ら率先して行っているのであ
る。GHQの日本解体占領策によって、日本特有の国家構造はだいぶ強
制的に変えられたが、それでも日本人は戦前の伝統精神をバネにして戦
後を歩んできたところはある。高度経済成長を世界の奇跡と言うなら、そ
れは戦前の真面目さ、日本らしさがそれを実現したのである。日本人が
かろうじて保っていた古き日本の残滓は、橋本や宮沢の時代辺りから急
速に減じて行き、小泉内閣に至っては、その伝統構造は壊滅に近い状態
にいたった。この内閣自体が、アメリカの第二占領策の完全な走狗となっ
たからである。

 アメリカナイズされるということは、戦後日本が主体的にアメリカをモデル
に社会形成をしてきたこととは本質的に意味合いが異なっている。今の日
本は経済も、社会運営に重要な政治も完全にその主体性を剥奪されてい
る状況にある。アメリカを主体的に模倣することと、アメリカから他力的に
強制されることはまったく違うことである。年間、三万人を上回る自殺者は
一向に減る気配がない。人間は経済苦や悩み事ではそう簡単に自死は
選ばない。死を選択する時は、身の回りの身近な社会から希望が喪失し
た時である。

 構造改革などともっともらしいことを謳いながら、日本の構造破壊を急進
的に行い、敗者復活の余地がまるでない弱肉強食の社会にしておいて、
格差を恒常的に固定化するアメリカ型の構造に今の日本はなりかけてい
る。小泉純一郎という男は、戦後の国民と政治家が、押しなべて拝米、従
米という米国帰属感覚が結晶化したような男である。国民の深層心理は
もはやこのような売国奴を祭り上げるまでに退嬰化しているのである。アメ
リカに国富が流尽し、属国化した日本社会には希望が失せている。英霊が
未来に何としてでも存続させたいと希求欣求した日本の姿がこれなのか。
アメリカへ属州化する日本に英霊が安心できるはずがない。国家の尊厳を
自ら毀損する政治思想を持つ鬼畜的宰相が英霊を追悼することは敬神崇
祖の民族感性に違背することなのだ。

 英霊は国家に殉じた偉大な魂である。英霊が身命を賭して守ろうとし
たその国家を、アメリカに売り渡す中心人物がどうして英霊に参拝できる
のだろうか。どうして特攻という行為に涙することが可能なのか理解に苦
しむ。現代に生きる我々が汲み取れないほど深い気持ちで国家に殉じた
英霊に対して、小泉が流す涙とは一体何なのか・・。アメリカの奴婢とな
り、嬉々として国柄を毀損した小泉純一郎が殉国者を尊敬できる理屈と
は何だろうか。人間とは多かれ少なかれ矛盾した行動原理を持っている
ものだが、小泉の英霊と国家に対する行動原理のベクトルは真逆である。
このあまりにも極端な背理を併存させる宰相は危険人物という以外にな
いと思う。ことは幽冥界の英霊に関わることである。小泉はけっしていい
死に方はしないだろう。つまり小泉純一郎の特攻兵の遺書に対する涙と
ともに、彼の靖国神社参拝の意味を考えると、彼の行動原理そのものが
究極的な不整合性を持ち、それは狂気に近い破綻と考える以外にない
のである。

 言い忘れていたが、小泉の今回の終戦記念日における靖国参拝が、
国民に決定的に悪影響を与えてしまったということは、英霊が死守しよう
とした国柄をアメリカの言うがままに改変した宰相の参拝を国民が看過し
たという事実である。「ああ、ようやくこの変な男も8月15日に靖国を参拝
してくれたか」などとのんびり見ていたという事実が、国民精神の退嬰を
証明しているのである。このことは、国民がアメリカの支配下に移った日
本を認容したのと同じことなのである。英霊が望まない国替えを行った売
国宰相の参拝を黙視したことは、とりもなおさず国民精神の無国籍化を
正当化することになってしまったのである。小泉施政五年間の平均国民
支持率は50パーセントくらいだそうである。構造改革という勇ましい掛け
声の中で、この五年間に彼が何を行ったか、国民はほとんど洞察できな
かったということである。刷新というわざとらしい雰囲気の影で、彼が行っ
たことは、アメリカの意図に沿う形での、不断の日本型構造の破壊なの
である。ここまで国家を毀損した宰相が英霊の前に顔を出せる道理は
微塵もないのである。あつかましくも英霊の聖なる領域に踏み込んだこ
とは彼の鬼畜性を最も端的にあらわしていることなのである。

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2006年8月20日 (日)

麻生氏の靖国神社特殊法人化案を批判する

 麻生太郎外相の靖国神社特殊法人化案を少し検討してみる。麻生氏の
靖国神社問題の解決案は、簡単に言えば、靖国神社自身が自主的に宗
教法人格を解散した上で、国が関与する特殊法人格に移行するというも
のである。そこで、無宗教の国立追悼施設とすることで、憲法の政教分離
原則に抵触しない形態を取り、天皇や首相が参拝しやすい環境を整える
という主旨である。

 まず総論的に言って、靖国神社に祭られている英霊の存在を考えれば、
現在のように靖国神社が一宗教法人のままであることは本来的な在り方
から大きく外れていることは間違いない。理由は戦前、戦中には靖国神社
は国家管轄であり、国家に殉じた戦没者は、当然、国家が中心になって
祭ることになっていた。この最も重要な「国家と戦没者」の関係を否定的な
歴史感覚で捉える人々は、靖国神社の存在目的を、国家のために戦争に
出て働き、そのために戦死する国民を量産するための邪悪な「国家装置」
であると考えている者たちがある。

 しかし、麻生氏など、靖国に祭られている英霊が、国家のために身命を
投げ打った尊い犠牲だったと考えている人々は、靖国神社を招魂の場と
いう本来の静謐な空間に戻して、その形をけっして政争の具にせず、英霊
に安らいでいただくために靖国神社の性格を宗教法人から、国家が管理
できる特殊法人にする必要があると考えている。私は、麻生氏らの英霊に
対する想いは至極順当であり、立派なものだと考える。靖国神社は最終
形態として国家管理にしなければならないという見方も、その視点で見る
限りにおいてはまったくその通りであると賛同するにやぶさかではない。
国家防衛に命を賭けて散華した方々を国家が最大の感謝と栄誉を与え
て祭り上げることは至極当然のことである。

 しかし、麻生氏らの構想には、けっして認めるわけには行かない致命的
な欠点が存在する。私はそれを指摘せずにはいられない。麻生氏の言う
靖国神社の代替施設は有り得ないという見解はまったくその通りであるの
だが、果たして現在の靖国神社を特殊法人化するという案にはどんな妥
当性があると言うのだろうか。結論的に言って、私は現在、靖国神社を特
殊法人化して、祭式を取り除いた無宗教施設に変容させることは亡国的
行為であるときっぱりと断言しておく。早く言えば、この行為は歴史的な意
味で拙速行為なのである。今の段階では、けっしてやってはならないこと
である。そのことは後述する。

 麻生氏らが、現在の当神社における最も深刻な問題点として把握してい
ることは、現行憲法に定める「政教分離の原則」を考慮の中心に置いてい
ることである。この問題が、戦後休みなく噴出していたので、246万6千柱
の御霊は安らかになれないという強い配慮である。だから、靖国神社の神
道的祭式、儀式を取り払って宗教的に中性色にしてしまおうという考えなの
である。

 靖国神社という場所が御霊の慰霊と安息を約束し、静謐な祈りの空間で
あるためには、時代や国家の都合によってその性格をころころ変えてはな
らない。ましてや外国の干渉によって参拝の有無が規定されるようなことは
言語道断である。麻生氏らは、靖国神社が政治的取引の材料にされるよう
なことは絶対にあってはならないと言っているが、特殊法人化への当該神
社の変容こそが最も悪質な政治的行為なのである。ご存知のように靖国神
社を形成するいわゆる「神社」とは、我が国に存在する大多数の記紀神話
に属する伝統的神社とは性格が著しく異なっている。

 靖国神社とは、現代は存在しない「国家神道」による成立過程を経てい
るのである。ならば、国家神道は戦後の「神道廃止令」によって、現在は事
実上存在しない観念であるから、靖国神社の神道的要素は廃止して当然
だという論理的推論が成り立つと考える人々もいるだろう。問題の核心は
ここにある。英霊とは、国民と国家の約束事によって靖国神社に祭られて
いるのである。戦前の国家神道、あるいはそれに従う慣習や様式が消滅し
ても、国家のために身命を投げ打った方々の御霊はそこに存在しているの
である。これを自動的に消滅させることは民族としてけっして考えてもなら
ないことである。そのようなことを考えただけで人間として失格であり、神
に恥じる非道である。

 しからば、麻生案のように、英霊たちを国家神道と無関係の空間に安置
するという考え方は妥当だろうか。実際は他の追悼空間に移すということ
ではなく、同じ靖国のお社に居ながらも彼らの身分は神ではなく「御霊(み
たま)」ということになる。私はその考えを決して肯えんじることができない。
理由は、戦後に生きる我々が国家神道を捨てたとしても、その時代に殉
国した方々は国家神道の靖国神社に祭られることを国家と約束している
からである。つまり、英霊は国家神道によって一柱、二柱と呼ばれる神様
と成っているからである。戦争は終わっているので、彼らは「護国の鬼」で
はなく、今や護国の神様なのである。ここに英霊の聖性の根拠がある。

 英霊を参拝する行為とは、彼らを祈る行為とは、いったいどういうことで
あろうか。少なくとも殉国の御霊に後世の我々が感謝の念を捧げることが
基本となっている。なぜ彼らに感謝するのだろうか。彼らは頑張って戦い
抜いたのだが、戦争には敗れてしまったのである。何を感謝するのだろう
か。それは戦争の勝敗ではなく、彼らが国に殉じた行為が尊いのである。
彼らに至尊の殉国行為を行って頂いたから、日本国家の尊厳性は歴史に
永遠に刻まれているのである。だからこそ、我々戦争を知らない世代は彼
らに感謝することによって、彼らの死に値する尊厳ある立派な国家を築く
責務があるのだ。過去との連続性を意識上で断ち切ってはならないのは
そういう背景があると私は考えている。

 戦前に生きた日本人と戦後に生きている日本人の精神の位相はまった
く異なったものになっている。しかし、幽冥界におられて現代の我々を見守
っている英霊たちの精神の位相は変化していないのである。アングロアメ
リカンの文化、精神性を模倣しようと進んできた現代日本人を幽冥界の英
霊たちは無念に思い、国家観が鎔けかけている日本人を哀れんでいる。
日本には日本の固有性、独自文明があったが、それを忘却している日本
人を英霊は悲しんでいるのである。追悼施設を無宗教にして大勢の人間
が追悼に来ることを英霊は望んではいないと思う。それよりも、日本の文
化、伝統に回帰した少数の日本人の参拝を心から待っているのだと私は
思う。参拝者の多寡の問題ではない。英霊は我々が日本的霊性を保てる
かどうかを心配しているのだ。

 戦後の日本人のあり方は根本的に考え直す必要がある。人間も国家も
過去には戻れないが、一貫して流れる民族の精神性は不滅なものとして
保持していく必要があると思うのである。私は麻生氏を、売国内閣の閣僚
の中では最も素直で「まとも」な人だと思っていて嫌いではない。安部が総
裁になるよりは麻生氏の方がいいと考えている。しかし、靖国神社の特殊
法人化は、国家が本来の栄誉と尊厳のある立派な日本に戻るまではけっ
して行ってはならないと考えている。今の和魂の存在しない堕落した日本
の国体で、靖国神社を特殊法人化するのは、戦没者追悼の代替施設を建
立することと同質の破滅的な結果しかもたらさないのである。

 これは少し考えただけでもわかることである。麻生案のように、現段階で
靖国神社を特殊法人化した場合、いずれまた小泉純一郎のような、アメリ
カの奴婢で鬼畜のような者が率いる売国内閣が誕生すれば、英霊の尊厳
はことごとく傷つけられてしまうことは火を見るよりも明らかなことであろう。
従って、靖国神社という日本国家の聖域は今のままで守らねばならない。
そして日本人に祖国感情が芽生え、過去の尊厳ある国家の精神を受け
継いだ新しい日本が生まれた時、はじめて特殊法人化やその他の形を
全国民で真剣に考えればよいことである。今、特殊法人化を拙速に行うこ
とは歴史的過誤を招来する事になる。 

言い忘れていたが、現行憲法的な制約の中で靖国神社を変容させては
ならない。理由は、現行日本国憲法は、英霊の魂が宿っていない占領
憲法の性格を持つからである。そんなものが規定する政教分離に配慮し
て靖国神社を特殊法人化に移すことは英霊と靖国神社を日々守ってくだ
さる方々への冒涜である。靖国神社という空間は、時代性を超えている
聖なるものであることを銘肝するべきである。この神社に国民の考えを反
映させようとするなら、それは日本人が日本を回復した時だけである。英
霊は御遺族の方々だけの英霊ではなく、全日本国民に対して等しく英霊
なのである。従って靖国神社に祭られている英霊は、どんなに時代が移
ろっても、常に英霊の尊厳性を損なわないように保っていかなければなら
ないと思うのである。

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今日のサンデープロジェクトを観て

 今日のサンデープロジェクトを見た。各党の代表が、ポスト小泉の話や安部晋
三の歴史認識などに、それなりの意見を言っていた。谷垣禎一財務相(ポスト
小泉候補)に対する田原総一郎の質問は特に興味深いものだった。その質問
が内包する問題は、現今の行き詰った日本政治の本質を象徴していたからで
ある。

 終戦記念日における総理大臣の靖国神社参拝ついて、田原は究極的な質問
を谷垣禎一に浴びせていた。それは、A級戦犯の合祀、及び分祀論の中で谷垣
が、靖国に祭られている戦没者に対して政治が口出しすべきではないと再三繰
り返して言ったのに対して、田原は、靖国神社は太平洋戦争日本肯定論の立場
であるが、煎じ詰めて言うなら昭和のあの戦争が日本が間違った戦争であった
か、あるいは正しい戦争であったか、どっちだったと考えていますかと斬り込ん
だ。

 これに対して谷垣禎一の答え方は、今の政治家のほとんどの歴史認識を代表
する優等生的な答えであった。田原の質問の要諦は、言葉を換えて言うならば、
あの極東国際軍事裁判の裁定結果を真っ向から反対する立場なのか、あるい
はそれを首肯して受け入れている立場なのかどっちであるかということである。
谷垣の優等生的な答えは次のようなものだった。それは、つまりは、あの東京
裁判とサンフランシスコ講和条約をどう考えているのかということである。戦後の
世界史において、とにかく日本はあの裁判と講和条約を受け入れて出発できた。
結果的には日本の戦後はそのおかげで始まったわけであり、けじめとしてはよ
かったという言い方をした。

 実は、谷垣のこの答え方に、今の保守陣営の歴史認識における致命的な瑕疵
が内在しているのである。田原は大東亜戦争を肯定するのか否かと質問してい
るわけである。これに対する谷垣の答えは、今までの保守政治家のごまかし史
観をまったく忠実に踏襲したものであった。日本人は中国や韓国に、靖国神社
参拝問題と教科書の歴史認識をあれこれ内政干渉的に言われることに辟易し
ている。しかし、声を上げて腹からそれに抗議しないのはほとんどの日本人が谷
垣と大同小異の曖昧模糊とした歴史観で自分を欺瞞し、その意識を囲繞してい
るからである。

 今の日本が置かれている不可避な状況とは、日本の大東亜戦争が正しかっ
たのか悪かったのかという二者択一を迫られている時局に突入していることで
ある。これを中間の灰色状態にするというその場しのぎがもはや通用しなくなっ
てきているのである。これは現行憲法の解釈改憲が通用しなくなってきているこ
とと同期している。次期総理大臣が靖国参拝をするのが是か非かで国論が二
分されている状況とは、A級戦犯を愛国者と見るべきか、恐るべき戦争犯罪者
として見るべきかの結論を公式に出さねばならない状況が内外共に切迫してき
ている。 

 この間書いた「英霊と国家について」でも言及したが、大東亜戦争を自存自衛
の戦争か侵略戦争か、どっちかの歴史観を選ばなければならない国際的時局
に日本が進んでしまったということである。ここにおいてあの戦争を思考停止す
るわけには行かなくなってきている。従って、A級戦犯分祀論問題をどう扱うかに
よって日本は再生に向くか、亡国的無国籍化に向かうかの岐路に立たされてい
るのである。政治家に限らず、大方の日本人は靖国神社に祭られている戦没者
を国に殉じた尊い存在だと口にするが、その尊い方々は国家の選択した間違
った戦争の犠牲になったのであり、二度と戦争を起こさないように平和の祈念を靖
国で行うと言っている。

 考えてみるといい。これほど英霊を馬鹿にした言い方があろうか。何度でも言
うが、英霊が英霊であった最大の証とは、国家が生命を捧げるに値する価値を
有していたからに他ならない。その国家が、戦勝国連中の言うがままに、人道
に対する罪と平和に対する罪という東京裁判の裁定を受け入れているのであれ
ば、英霊は人殺しの悪党ということになる。つまり、何が一番悪質な欺瞞である
かを言うなら、大東亜戦争を人類に対する悪逆な戦争だったと規定しておいて、
英霊を尊い行為に殉じたという考え方なのである。

 この自己矛盾を放擲して日本人を続けることはできないだろう。これができる
者は国家なきアカ市民なのである。谷垣貞一のような靖国神社史観を持つ者こ
そ、かつて三島由紀夫が予言した無国籍化した恐ろしい日本人なのである。
心に日本のない者は英霊を追悼する資格はない。小泉純一郎の靖国参拝が、
英霊のみか先祖が営々と築き上げた祖国の品格をどれほど毀損したか測り知
れないものがある。

 世界史を概観して観れば、数百年に及ぶ歴史の中で、白人帝国主義者が、
白人、有色人種を問わず侵略した規模と、日本がやったそれを比べると、比較
にならない量的な差異があることに気づく。日本が侵略というものに抵触するこ
とがあるとすれば、それは7世紀後半に白村江(はくすきの え)の戦いと秀吉軍
の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)であろう。それに比べ、白人がどれ
くらい多くの人種を虐殺し収奪したかを見ると、その頻度や規模において比較に
はならない。そもそも虐殺の血にまみれている彼らが、人道や平和を冠して他国
を裁く資格はまったくない。裁かれるべきは日本ではなく彼らである。

 英霊は二度と戦争を起こさないために戦ったのではない、彼らは自分や家族
を生み育てた大事な国家を守るために殉じたのである。東京裁判肯定史観、
すなわち侵略戦争史観を肯定して置きながら、英霊の事跡を顕彰し追悼するこ
とは人間として最大級の欺瞞なのである。はっきり言おう。英霊を尊い存在だっ
たと靖国神社に参拝する気持ちがあるのなら、大東亜戦争は肯定しなければ筋
が通らないのだ。
英霊を祭る靖国神社が大東亜戦争肯定の歴史観を基層にお
くのは当然のことなのである。靖国神社に出向いて平和の誓いを行うことは、
原爆記念日に「二度と過ちは繰り返しませんから」という平和の誓いを行うこと
と同様に人間として最低の行為である。

 自虐史観を払拭すると言っている安部晋三が、内閣総理大臣になった場合、
愛国などというリップサービスをするよりも、堂々と大東亜戦争を肯定する戦後初
の日本宰相になって欲しいものだ。それをやって、歴史的な売国宰相、小泉純
一郎に真っ向から反旗を向けるならば、私は彼が反日小泉内閣の重鎮であっ
た事実は許そうと思う。日本人の代表がそれをやれば、アメリカが怒り狂うだろ
う。しかし、日本が再生する道は、そのアメリカを敢然として睨み返す胆力を持
った宰相が出てくることである。私にはその任に就ける者は、西村眞悟氏以外
には浮かばない。安部晋三が、あの郵政民営化において、志の立派な青年愛
国政治家、城内実氏に、最後まで反対するなと説得していた光景を思い出すと
安部に期待することは虚しいことなのかもしれない。

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2006年8月16日 (水)

英霊と国家について

 A級戦犯分祀論に一言。 今世間をにぎわせている靖国神社のA級戦犯
分祀論であるが、奇々怪々な論が横行しているようである。まず、A級戦
犯分祀論の話の前に、国立の戦没者追悼施設を造ろうという奇態な話が
ある。これは、宗教色を取り除いて誰でも無条件に戦没者の追悼が可能
な施設を造るというものである。追悼を政治的な行為と解釈している連中
には確かに可能だろう。しかし、我々が死者の冥福を祈る行為は政治で
はない。それは極めてデリケートな精神的行為であり、一種の信仰なの
である。だから無宗教の唯物論的追悼空間は追悼の意味を為さないの
である。

 小泉純一郎の言うように、参拝が「心の問題」であるならば、その無宗
教追悼施設には、日本人、外国人、宗教、宗派の区別なく、誰でも「来る」
ことは可能だろう。心の問題なのであるから、来た人それぞれが自分の
宗教、信仰形式で冥福を祈ればいい。これは一見納得しそうに思える。し
かし、それならば、「心」があれば施設や場所は問わないということになる。
原則的には常住坐臥、どこでもお参りできるということになる。どこでも冥
福を祈ることができるということは追悼施設そのものが必要ないということ
である。これが何を意味しているか、一目瞭然である。すなわち、国立の
追悼施設をあらたに無宗教で建立するという考え方は、靖国神社の否定、
つまりは護国神社の存在理由を否定する行為なのである。靖国神社は
今まで通り行きたい人が行けばよい。しかし神道形式が嫌な人やその他
の理由で靖国に参拝したくない人は新しい追悼施設に行けばすべての問
題は解決するとでも言いたげである。

 このレトリックにごまかされてはならない。追悼施設が重複して存在する
と、靖国神社の存在理由が損なわれてしまうのである。宗教色のない無
機的で唯物論的な空間に英霊が招かれて来るという前提が間違ってい
る。靖国神社は国家が建立した殉国者の追悼施設である。一方、もう一
つの無宗教の国立施設を建立すれば、国家は英霊に対してダブルスタ
ンダードの姿勢を持つことになる。すなわち無宗教という国家施設が存
在した時点で、靖国神社の国家性は完全に剥奪されてしまうことになる。
つまり、国家と英霊の不可分の聖性が消滅してしまうのだ。英霊はその
ようないい加減な国家のために誠を尽くして死んだのではない。従って、
無宗教の追悼施設は国立にしては駄目なのである。民間がそれを造る
分には構わないだろうが、そのような施設はまったく無意味である。

 国家のために散華された方々や殉難者の方々は大きく捉えて死者で
あることは間違いない。日本では、仏教が入る以前から先祖を敬い死者を
冥福する習慣があった。それは日本特有の敬神崇祖という神道的心性
から来ている。日本人は身近な人が死んでも、その人を偲び冥福を祈る
時は、この敬神崇祖の神道的な流れに沿って先祖代々行ってきたのであ
る。死者を弔うというのは仏教的な形式を借りている行事であるが、本来
的には日本古来の神道的な伝統風習が仏教的に転化したものである。
これは日本が「むすび」という固有の融合的精神風土を持っているため
であり、死者に対する心持ちにもそれが生きているということである。

 一神教とは異なる宗教風土を持つ我が国は、本地垂迹的に神道と仏
教の習合が行われた。日本古来の風習で死者を祭っていた時代から、
仏教が導入され、いつの間にか死者は仏教形式で扱われるようになっ
た。しかし、靖国神社の前身である東京招魂社では、国家に殉じた尊
い御霊を招魂して国民が等しく参拝できるような場所に設えた。それが
靖国神社というおやしろなのである。国家に殉じた人々を祭る空間とし
て、そこだけは神道形式にしたのである。

 だから、そこに祭られている方々は仏教でいう「ホトケサマ」ではなく、
一柱、二柱と数えられる神様になっている。これは外国人から見たら理
解の範囲外にあることである。日本は仏教国であり死者が仏になるの
はわかる。しかし、国のために死んだ者がなぜ「かみさま」になるんだと
いう素朴な疑問が湧くと思う。しかし、それこそが日本の固有性なので
ある。人間が死後に神になること、この形は昔、菅原道真や楠木正成
など多くの前例がある。なぜ、普通の意味での仏様ではなく神様なの
かという当然の疑問が湧く。ここに国家という概念が加わるのである。

 靖国に祭られている方々が普通の意味での死者ではなく、神様扱い
になるのは、国家に殉じたと判断されたからにほかならない。つまり国
のために死することは偉大で尊いという民族的心性がそのような形に
させたのだと私は考えている。だから靖国神社では死者を弔うのでは
なく、英霊となった高貴で偉大な神様を顕彰し、感謝の念を捧げるため
にお参りするのである。国家安泰の時、人間の死は病死、事故死、自
然死などに限られるが、国家が危急存亡時に陥った時、国を守るため
に死んだ方々を、特別称えられる存在として祭られることは日本人に
限らず理解できることであろう。欧米ではそれは英雄というニュアンスで
語られる。「英」という文字には秀でたこと、良いことという意味が込めら
れている。従って靖国神社に祭られている戦没者を英霊と言うのは、国
の未来のために命を捧げた人たちを深く尊ぶ気持ちで言うのである。

 日本では古来から「山川草木悉皆仏性」という概念が尊ばれる。この
言葉はアニミズムの根幹と思われているが、仏性を神性に変えても意
味はほとんど同じである。日本人はもともと自然のあらゆる事物に神の
顕現を観る民族なのである。路傍の小石に、野草に、名もない花に神
を見る心性があった。私は人間も死んでから神になるという感覚も、こ
の万物に神性が宿るという民族古来の自然信仰から来ていると考えて
いる。

 従って、ここで言われる神とは一神教のような包括的な神ではなく、
極めてパーソナルで人間的な神である。それは時には祟り神となり、
時には人や自然に恵みを与える慈母神的な神でもある。特に人間が
死んでから神に祭り上げる行為には、菅原道真のように恨みを鎮める
場合と、忠誠と正義の象徴である楠木正成が湊川神社に祭神とされ
ているような場合がある。靖国神社に祭られる英霊は、楠木正成が
神様になった場合と限りなく近い立場である。楠木正成は後醍醐天
皇に究極的な忠義を尽くした功労で神となったが、靖国神社では国の
ために殉じた方々が神として祭られている。国のために命を捧げる行
為は、尊くて偉大であるという前提が基礎になっているのである。

 靖国に祭られる者は高貴で偉大な英霊となる。ここが肝要である。
この気持ちが国家と国民に等しくなければ靖国神社の存在意味はな
いのである。彼らはなぜ高貴で偉大な英霊なのか。それは国に殉じ
たからである。戦前であれば、国に殉じるという行動の深い意味がき
ちんと教育として行き届いていた。しかし、戦後の社会は大東亜戦争
を侵略戦争と決め付け、「国家」という悪辣で幻想的な観念のために、
結果的には多くの国民と外国人が死んだと教え続けてきた。この感
覚で英霊の行為を顕彰しようという気持ちが起こるだろうか。

 国防、すなわち国家の尊厳を保持し、国家の未来を磐石にするため
に個人の生命を捧げた方々に、その魂よ、やすらかなれという祈りをも
って参拝する場所が靖国神社であると私は思っている。英霊の彼らを
祈るという行為は、同時に現世に生きている我々自身の安泰と国家の
安泰を願う行為でもある。そもそも、それが護国に殉じた英霊の心でも
あると思う。この死者を奉る生者の心持ちは、大きい概念で捉えるなら
日本人のお墓参りと同じである。ただ、お墓参りは個々に関わる死者
とのプライベートな対峙であるが、護国神社をお参りする行為は、個々
のプライベートな死者との出会いであると同時に、個を越えた神との出
会いの場でもあるのだ。なぜなら、彼らの魂は個を越え、時間を越えた
すべての日本人に奉公した人々だからである。私はこういう観点から、
明治政府が、国に殉じた者を神に昇格させる場として靖国神社を設け
たことは、一人の日本人としてよく納得できる。

 もう一度、日本人の死者に対する民族的な心持ちを言おう。日本人は死
者を過去の人間として切り捨てるという態度を取らず、幽冥界に居る彼ら
と共に、自分たちと現在性を共有しているという感覚がある。その部分で
は普通のお墓参りと靖国参拝は同じ意味である。両者とも死者との連続
性や繋がりを大事にしているのである。繰り返すが、人間がその所属する
国家を守るために死することがどれほど偉大で高貴なことかを顕彰するお
やしろが靖国神社なのである。我々は、国のために殉じた方々に敬意を
抱くなどと簡単に言うが、その意味をどれほど深く理解しているのだろう
か。日本人に、A級戦犯分祀論や国立追悼施設建立論が出るという背景
には、そういう論議を提示する側に、彼らの心に押しなべて国家というも
のが完全に抜けているとしか私には考えられないのである。

 戦後の日本は、過去から伝統的に継承されていた強固な共同体意識
が徐々に緩くなり、平成の今日にいたってほぼ完全に溶解した。これに
はGHQによる日本解体の意志が働いており、日本人が強く持っていた公
に対する気持ちが漸減してきて、伝統的共同体が崩壊した。歴史の過去
から遊離した個人は、その意識から国家という観念を捨象してしまった。
これが分祀論や追悼施設建立論に繋がったのである。つまり、分祀や追
悼施設を考えるということ自体が、日本人の心から「国家」が亡失してい
るということの直截的な証左なのである。

 この私の論法に頷ける方々は、教育基本法に「国を愛する」という概念
を盛り込むことがどれほど胡散臭く悪質な欺瞞であるかお分かりになると
思う。国というものの正統な本質を教育しないで「国を愛する」という心は
絶対に生まれないのである。教育基本法は近代主義のエッセンスであり、
そこには「公」も「国家」も欠落している。教育に、公に報じるという概念を
持たない内実のまま、国を愛することは教えられないのである。もし、国
家への愛情が欠落していることが、現今の日本人の劣化の主要な原因
であると考えるなら、「教育二関スル勅語」の復権以外に手立てはないは
ずである。

 国家が回復されていない現状で靖国神社に安置されている246万余
柱の御霊を、政治家と民間人がその時代の都合に合わせて定義しなお
すという行為は明確な涜神行為である。国のために死する行為が尊いと
本気で思うなら、その人は靖国神社にお参りする資格がある。しかし、戦
前の国家像を、死してまでも守るに値する国家ではなかったと、もし考え
ているのであれば、その者は英霊に感謝の念を捧げる必要は微塵もない。
戦後、日本は旧弊の国家意識を葬り去り、新たに欧米的な近代主義国
家を目指してきた。しかし、国に殉じた多くの御英霊たちは、いわゆる
「旧弊な」日本国を本気で信じ、本気で愛して果てた方々である。彼らが
信じた国家の有り方を古いもの、時代に合わないもの、悪辣な軍国主義
国家だったとして切り捨てているのであれば、どうして彼らが国に殉じた
ことを「尊い行為だった」などと言えるのだろうか。もっとわかりやすく言う
なら、極東国際軍事裁判を首肯している人間が英霊をお参りするなどとい
う行為は有り得ない話なのである。ところが、そういう最大級の欺瞞を平
然と行う宰相がいる。小泉純一郎である。

 小泉純一郎は、戦没者は心ならずも一部の国家指導者に命令され、
いやいやながら死んでいった可愛そうな方々である、彼らの気持ちを忖
度すれば二度と戦争は起こしてはならないと心に誓うなどと言っている。
この言い方のどこに英霊の護国真情があるのか。まったくないではな
いか。それどころか、この総理大臣は階級闘争史観であの戦争を捉えて
いるのである。これこそ英霊に対する冒涜以外の何物でもない。小泉は、
戦没者に対して「心ならずも戦地に赴いた人々」と言った時点で、彼らの
護国真情を全否定している。否定しておきながら「国のために戦った尊
い行為」と言うのは自己矛盾も甚だしい。戦地に赴いた兵士が階級闘争
史観で戦っていたなら、護国の御霊になって靖国神社に行くことを願う者
は誰もいないであろう。

 何度でも言おう。英霊が己の身体と生命を国のために捧げたという行
為の真髄には、その時に自分が所属していた日本という国家が、命を捧
げても守るに値する価値を持っていたからである。この時分には、教育勅
語にある「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という心境が全体的に生きてい
た。我々、戦後民主主義に育った者は、この「義勇公ニ奉シ」という感覚
が身に付いていない。なぜなら戦後教育の眼目は「公」を消し去る方向に
進んできたからである。

 よく考えてもらいたい。公も義勇の意味も知らず、その心持ちもない政
治家や民間人が、靖国に祭られている英霊を理解することがはたしてで
きるのだろうか。国家という概念の溶解した無国籍感覚の人間が、国に
殉じた行為を理解できるのだろうか。少なくとも西欧近代主義が国是で
あり己の世界観と考えている戦後教育派には英霊がなぜ英霊となった
かについては理解していないと考える。共同体感覚や国家概念の崩壊
した人々が、国に命を捧げた行為を意味のあることとして認められない
のは当然のことである。従って、分祀論や国立追悼施設論は唯物論的
な思考の産物以外の何物でもない。戦後教育は個人の尊厳を口をすっ
ぱくして執拗に唱えたが、国家の尊厳や伝統の尊さはまったく言わない
できた。むしろ、国家は戦争を招聘する悪であるというイメージ賦与に専
念してきたというのが実情だろう。その結果が民族的なレベルでの日本
人の劣化である。

  日本人が劣化したのは、正しい歴史認識が確立しないからである。正
しい歴史認識とは何か。それこそが大東亜戦争という歴史観なのである。
わかりやすく言うならそれは靖国神社の歴史感覚である。左翼的な団体
が呼称するいわゆる靖国史観、遊就館史観と言われるものに真実の歴
史が集約されるのである。靖国神社、遊就館が持つ世界観こそ、間違
いのない正統な「大東亜戦争史観」ということである。

 これは単純な話である。今世間を騒がせている分祀論とは、畢竟、東
條英機以下、A級戦犯と言われる方々を、日本人がどう思うかの一言に
尽きるのである。彼らははたして戦争犯罪人か否か、戦争犯罪人であ
るなら何の罪を負った犯罪者であるか。東京裁判で言うように、彼らは、
日本の無辜の民をむりやり戦争に導いて戦わせた極悪人なのか。この
見解を取る人たちは、日本が置かれていた当時の開戦状況を何度でも
調べてみるといい。

 たとえハル・ノートを堪えたとしても、そのままで日本が国家として行
き抜く方途があったのだろうかということを考えてもらいたい。はっきり
言えることは、日本の尊厳と自主性を維持するそのような第三の道が
あったのなら、日本人は間違いなくその道を選んでいたということであ
る。日本民族とはそういう民族である。世界情勢は我が国に第三の道
をまったく残していなかったのである。ここを曖昧にして開戦責任論と
早期降伏論を滔々とぶつ日本人は恥を知って欲しいと思う。

 当時、英米への隷属なしに日本が生きていく道があったというなら、
そのことを堂々と語るべきである。そのことを検証せずに大東亜戦争を
頭ごなしに否定するのは的を射ていないどころか、先祖を毀損する卑
怯きわまりない態度である。あの戦争が遊就館が語るように自存自衛
の戦争であったか、あるいはアメリカ、中国、韓国、または国内左翼が
語るように侵略戦争であったかという見方で、A級戦犯の位置づけは
180度変わるのである。

 A級戦犯という勝者連合国側による格付けと、戦争指導責任という国
内的問題はまったく別ものである。戦争指導責任はあったとしても、彼
らはけっして戦争犯罪人ではない。日本を死守するために最大の功労
を成し遂げた国家護持者たちなのである。私は彼らが靖国に合祀され
たのは当然であったと思う。敗戦に至らせた責任はどうするのかという
疑問はあるだろうが、当時、敗戦局面が濃厚になった時、日本の武士
道的な国是から言って、戦争指導者がこれ以上やっても無駄だから、
早めに終わらせようとすることができたのだろうか。またそれは正しい
判断なのだろうか。何よりもアメリカがそれを許したのだろうか。アメリ
カは原爆を投下するために日本の降伏意志を引き伸ばしていた事実
もある。そういう当時の諸々の状況を考えてもらいたい。

 戦争が終局面に差し掛かった時、大多数の戦闘兵士は神州不滅、
護国奉仕の精神で戦っていた。国とは命を賭けて守り抜くものだと信
じきって戦っていた。一億人が等しく日本人の心を持って戦っていたの
である。この状況を後世の我々がなんという無駄な戦いをしてしまった
のだろうと断定することはできない。大義と日本の誇りを抜きにして大
東亜戦争は語れないのである。大義と武士道の誇りを取り去ったら、
そもそも英霊の存在はありえなかったはずである。死んでも守り抜きた
い国家と言う時、言葉を換えて言えばそこまで国を愛しているというこ
となのである。この観点が欠落しているから、グロテスクな分祀論や新
規追悼施設論が出てくるのである。

 問題は「お国のために尽くした」尊い御英霊が、と言いながら東京裁
判史観を肯定する小泉純一郎のような非国民である。護国のために戦
死した方々を無駄死に、犬死にであったと考える者が国を守るために亡
くなった方々を「参拝」できる道理がない。国に殉じたことは尊いが、あの
戦争は侵略戦争であり、心ならずも死んだ者たちが戦没者であったなど
ということは事実に反している。小泉のようにそう思いながら英霊をお参
りするなどという心的態度は有り得ないことなのである。小野田寛郎氏
もそう言って憤慨されていた。

 結論を言う。A級戦犯分祀論も、無宗教の国立追悼施設建立論も、靖
国神社消滅への足がかりに他ならない。日本という国の自己同一性を
完全に消滅させるには、皇室と靖国神社の存在を消すことなのである。
つまり、今、巷間を賑わしている分祀論や追悼施設建立の動きは国家
崩壊への序曲なのである。皇室と靖国神社には政治的に手をつけては
ならない。時代が変遷し、国の在り方がいかに変わろうとも、日本人が
日本人である限りは、皇室と靖国神社をその時の都合で政治的思惑の
次元に置いてはならない。なぜなら、皇室と靖国神社は時代を超えてい
る存在であり、日本民族の魂を賦活する存在だからである。

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2006年8月10日 (木)

米国産牛肉に群がる者を日本国民と呼べるのだろうか

 ◎米国産牛肉に群がる者は祖国を喪失した市民である

 今日、知人が横浜にあるアメリカ系巨大スーパーに買い物に出た時、
輸入したばかりの米国産牛肉が売られているのを目撃したので、思わ
ず手元の携帯カメラで撮ったそうである。それを私に送ってきた。

Tenaia

 下は、中年の人がその牛肉を買ったところをお願いして写したものであ
る。

Usabeef

 下は、その米国産牛肉を販売していたブースにお客が群がっている
ところである。

Tennai

 今回の販売は、日本の評判が最悪なことを見て、アメリカの業者が輸
送費を全面負担したため、その分、単価は安くなっているそうである。昨
日のテレビでは、このアメリカ産の牛肉が入った箱を、税関の職員たち
が一生懸命見ている光景が映し出されていた。目で見る検査ももちろん
大事だろうが、それは肉以外の特定危険部位の混入を視認的に見分け
ているだけであって、病原体プリオンの混入までは突き止められない。
前にも書いたが、米国内における肉処理業者の一連のバキューム作業
そのものが信用ならない現状では視認的検査はほとんど意味を成さな
いのである。

 基本的に金を出して買うわけであるから、買う行為そのものは本人の
自由である。だから米国産牛肉を食べたい人はどうぞ食べてくださいと
言うしかないが、それでもこの牛肉に群がって買う日本人に言いたい。
たとえ運悪く病原体入りの牛肉を買ってそれを食してしまったとしても、
CJD(クロイツフェルト・ヤコブ病)が発病するにはある程度の年限があ
るから、指し当たっての脅威は感じないかもしれない。

 しかし、それを食べるという行為は、身体に死の時限装置を抱えてし
まうという可能性は否定できない事実である。ずばりと直截に言いにく
い感じもあるのだが、敢えて言うなら、日本人に国家観が抜けてしまっ
ている一つの証左がこの牛肉買いという行為に見られるのである。理
由は、未来の自分に健康の担保を想定しない国民には、国家意識が
欠落していると考えていい側面がある。

 国家とは国土と民族を含む物理的な総体であるが、それは当然、過
去、現在、未来という時制的な連続性を伴っている。国土と、そこに住む
民族、そして過去から未来に連続する時制、少なくとも国家の概念とは
それらを含む総体的観念であろう。ところが未来の、つまり子孫の代に
対して不見識で無責任な考え方を持てば、それは国家というものの認
識がないということと同じなのである。自分の身体を防衛する意識のな
いものが国防という観念にたどり着くことは考えにくい。国防という概念
のない者が、俄か保守になって靖国神社参拝問題を論じる風潮が呆れ
る。話題からは逸れるが、谷垣大臣が、日本の平和国是から言って、総
理の靖国神社参拝は控えるべきだという言辞は極めて反日的である。
靖国に祭られている英霊は「国防」のために死んだのである。中国と韓
半島に配慮して靖国参拝を控えるなどという考え方には防衛観念がまる
でない。このような者の言う愛国とは売国の意味以外にない。

 日本人が国家意識の薄弱化をもたらしているということの捉え方は、
一つは過去を否定するか、過去に対して思考停止してしまうという大
愚を犯しているからである。東京裁判は戦勝国の優位性をフルに使
って日本の過去否定を行った。これを受け入れたまま、ある時間、歴
史時間を持ったことは国家意識の脆弱化を招くことになった。もう一
つの国家意識の崩壊は未来を考えないことにある。多くの日本人が
未来展望をしなくなっている。その理由は自国の過去に贖罪感を持
つからである。BSE牛肉が混入しているかもしれない品物を輸入して、
国民の食卓に上げることは、国民の未来を危うくする行為である。つ
まり、未来に対して無責任である。過去と未来に対して責任を負えな
い現在の国民に国家という概念は生まれようがない。国家とは不断
の連続性を伴うからである。たかが牛肉ではない。この牛肉を食すと
いう行為とは、象徴的に民族の奴隷化と敗北主義を表すことなので
ある。

 今の日本人がアメリカ産の牛肉を食べるという行為は、日本人に
国家を防衛するという気概が何もないことを表しているのである。米
国産牛肉を買って食う者は、おそらくこう考えているだろう。自己責
任で食うわけだから問題ない、最悪の場合でも他人には迷惑はか
けていない。はたしてそうだろうか。自己責任における自分個人だ
けの問題であろうか。将来、ある年齢でCJDを発症すれば、家族や
会社やすべての係わり合いに影響を及ぼすのである。つまり、自分
個人の範囲に留まる問題ではなく、その個人が関わる社会に敷衍
される問題となっているのである。ここに公があり、その先に国家
がある。

 戦後、共同体観念が崩壊したと同時に国民意識から国家が消え
た。国家観が消失した国民は正確には国民と言わずに市民という
存在に変わってきているのである。これこそフランス革命の世界観
であり、アメリカの胡散臭い自由の極限なのである。究極の市民性
に宿る究極の自我、ここには国家という片鱗さえ生じないのである。
食の安全を犠牲にし、未来を捨象した形で選択した日米の貿易体
制には日本という国家は存在しないのである。

 冒頭に掲げたアメリカ系巨大スーパーの店内の広さを見れば、こ
れが今、日本各地の郊外に進出して里山の風景を破壊した巨大
小売店舗の原型であることがわかる。こういうアメリカ的な社会構
造の改変が進む現状を見て感じることはないだろうか。これこそが
文明の入れ替えによる社会のインフラなのである。戦後の日本文
明とは、不断の日本破壊と共に進行しているアメリカ型文明の構
築なのである。これが非常に深刻な先祖毀損になっており、日本
人の日本人らしさを破壊していることを文明的に悟る人は少ない。

 アメリカ産牛肉を買う人間は、国と国が決めたことで我々がそれ
に従って何が悪いと開き直って言うかもしれない。しかし、自分の
住む国が主体性を持たず、相手国の言いなりになって危険が内
在する食品を輸入するという政府の敗北主義こそ大問題である。
国民でありたいのであれば、抗議としてこの牛肉は買うべきでは
ない。日本人を同じ人間として見ていないアメリカと、それをわか
っていながら、国民の生命保全の問題を政治レベルで敗北決着
する日本政府に怒りを示すべきである。これをしないで、値段の
安さで買う国民はもはや国民ではない。未来を喪失した愚劣な
「市民」である。

 

 

 

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2006年8月 8日 (火)

パージした議員連中に秋波を送る小泉自民党

 戦後の日本とは、アメリカとの係わり合いの中で常に主体性を危うい
状態に置かれながら生き馬の目を抜く国際社会を凌いできた。生き馬
の目を抜くという表現は、国際社会という漠然とした表現よりも、ずばり
アメリカそのものを言い表している。我が国は戦後、軍事から目を背け、
一貫してアメリカの核の傘下で生きながらえてきた。この究極的に非対
称な軍事同盟のために、我が国は経済力、生産力、工業技術力など、
それぞれに高品質に抜きん出た実力を持ちながらも、最後はアメリカ
の鶴の一声で主体性を発揮できずに隷属経済に甘んじている現状が
ある。

 特にここ十数年は、アメリカへの隷属強化が何段階も進んでしまい、
日本は軍事隷属のみならず、完全な経済隷属国家に成り下がってい
る。それは宗主国アメリカによる「年次改革要望書」という事細かな内
政干渉が強制的に行われてきていることに端的に示されていて、その
最大の具現化が昨年の郵政民営化であった。「国家の罠」を上梓した
佐藤優氏は、その著書の中で、時代が別の時代に変化する時は、そ
の変化の位相を象徴するかのような国家の姿勢が出てくるというよう
なことを語っている。それが国策捜査という、検察による旧時代を象徴
する人物たちの血祭りである。

 佐藤氏は敢えて小泉批判をまったくせずに、行間でこの内閣の急進
的過ぎる革命性や、それによる構造破壊を示唆している。おそらく彼が
大声で言いたかったことは、完全な新自由主義経済体制に切り替えた
現内閣は、日本の伝統的な感覚を強く保持していてアメリカ的な新自
由主義に反感を持つ識者や政治家連中が時代の犠牲になっていると
いう事実であろう。佐藤氏が「国家の罠」で書いていた国策捜査の対
象は鈴木宗男氏などであったが、小泉内閣は実行部隊隊長である武
部勤の指揮下において、郵政民営化に反対した議員連中を政治の舞
台から排撃するという暴挙を行ったのである。

 これはちょうどGHQ占領下の日本で、レッドパージ(アカ狩り)とともに
愛国者が多数パージされたことと同じ型を持っている。パージされた
連中は例外なく、抵抗勢力などというほとんど意味を成さない愚劣な
レッテルを貼られ、いかにも進歩史観に対して、彼らが無知蒙昧な退
歩史観的守旧派であるかのように報道されたのである。間違ったこと
に抵抗するのは当たり前である。筋の通った意見を吐いただけで、抵
抗勢力という悪に等しいニュアンスを付加されたのである。アメリカ様
に反意を示しただけで極悪人扱いである。郵政民営化に反対か、あ
るいは賛成でも外資参入の問題点を論議をしようとした議員たちを、
抵抗勢力と烙印を押し、むりやり党外に出してしまった武部が、今頃
になって、自ら放逐した議員連中と協力をしたいと言い始めている。
気は確かなのだろうか。

 民主党の小沢党首が意外に人気を上げてきているのを見て、議席
数が気がかりになり、恥も外聞も捨てて、自分たちが極悪犯扱いした
前自民党議員たちに秋波を送るのは政治家として最低のことである。
ならば、郵政民営化が是か非かで解散総選挙を行った時のあの血も
涙もない無残な放逐劇はいったい何だったのか。郵政民営化はアメ
リカの悲願であり、それを達成した後はどうでもいいとしか思えないの
である。もっとも深刻な売国劇をやっておいて、今更同志よ、再び手に
手を取り合って頑張ろうもないと思う。卑劣さを通り越えて喜劇である。

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2006年8月 1日 (火)

日本人のBSEアパシーに見える深刻な背景

 今、日本人は何という大人しい状態にあるのだろうか。ここまで静かな状
況を個々人はどうして異常だと思わないのだろうか。それはBSE(牛海綿状
脳症)感染牛が混じっているかも知れないアメリカ産牛肉の輸入が解禁さ
れたことに対してである。

 言い換えよう。なぜ大人しいのかではなく、なぜ怒らないのかと。人間は
口に入るものを毒だと知っていて食べることはない。知性を通して生命維
持本能が働くからである。これは動物が捕食者(プレデター)を異常に警戒
することと同じである。生存本能を危機にさらす事柄には、人間、動物を問
わずに必死になって防衛本能を作動させるのが常態である。国際的な貿
易の中で入ってくる食品に、生命への深刻な脅威が存在していることがわ
かった場合は防衛本能が百パーセント目覚めることは当然である。しかし
・・・。

 今、日本人は妙だとは考えないだろうか。庭で無邪気に遊ぶ自分たちの
頑是無い子が、石や金属を口にする気配を感じただけで俊敏にそれを防ぐ
両親がいて、それは日本全国、幼子を持つ家庭の日常的な風景である。そ
れは洋の東西、人種を問わず当たり前の光景である。しかし、今の日本人
は外国から輸入される牛肉が脳神経細胞を破壊する危険を帯びていること
を良く知っていながら異常に大人しくしている。怒りもしないし、国民的な議
論を沸騰させる兆候も今のところない。この状態は本当に奇妙奇天烈であ
り、謂わば国民全体のアパシー(無感動、無関心)状態とさえ言えるだろ
う。

 BSEの危険を孕んだ牛肉を日本が輸入することは、たとえて言えば、一
家の主婦が食料品店に買い物に行って、毒の入っている可能性を持った
食品を金を出して買っているようなものである。通常そういう買い物は有り
得ない。店の食品の中に、毒物が混入している可能性があると知れ渡っ
た時点で誰もそこへは買い物に行かないだろう。しかし、店側には完璧な
検査体制があり、その検査をパスした食料品なら問題ないわけである。こ
こで最も重要なことは食品の安全を保証する検査体制である。

 検査体制とは言っても、検査個々は人間が行うから、その店の店員の良
心や質の高さを信用するという前提がないとそこで物は買えないのである。
今、日本人はアメリカの畜産業界における牛肉処理技術と検査体制をまっ
たく信じていない。なぜならアメリカ政府に対し、日本が当然として求める安
全上の検査グレードを、アメリカが頭ごなしに無視しているからである。アメ
リカの安全の考え方は、何万頭に一頭の割合でBSEが発生しても、まあ仕
方ないかという確率論である。だからこそ航空機事故よりも確率が低いと
かいう言い方をしている。

 これに対して日本は、精緻に全頭の安全が保証されなければ気持ち悪
くて食う気が起こらないという感覚である。つまり、アメリカと違って日本人
の食に対する潔癖性には棄民感覚がないということである。これは神道的
国民性による。両国のこの感覚の差異は文化の差異である。しかし、この
文化の差異の前にアメリカの牛畜産業界の惨憺たる現状をしっかりと認識
した方がいい。どう見ても、アメリカの解体処理は恐怖そのものである。ジャ
ーナリストの吾妻博勝氏の記事によれば、バキューム処理が杜撰そのもの
で骨髄液が飛散し枝肉などに付着している上に、それを水洗いする作業が
相当にいい加減らしい。

 髄液の付着した肉はかなり危険である、この間、関税で特定危険部位で
ある背骨入りの肉が見つかったことは記憶に新しい。これによって輸入の
全面禁止を行ったわけであるが、背骨が混じっているという事実そのもの
は深刻すぎるほど深刻である。もしもこの牛がBSE感染牛であれば確実に
その肉も汚染されていることになる。もう少し、これを考えてみると危険部
位の背骨や脳、回腸などを除去していても、髄液飛沫が飛散する作業環
境では、アメリカの処理現場に狂牛病の牛が混じれば、輸入される肉に確
実にプリオン病原体が入ることになる。つまり、アメリカの処理体制そのも
のがまったく信用ならない現状なのだ。

 アメリカの牛飼育環境は、処理された牛の残骸や病死牛を無駄にするこ
となく生きている牛の飼料としてリサイクルしている。これが狂牛病発生の
機序だと考えられているようだ。欧米的近代主義が生み出した市場原理
至上主義の資本主義経済は飽くなき効率化を求め、草食動物に動物性
蛋白飼料を与えるという、いわゆる人工的な共食いをさせている。自然の
禁則を冒したのである。自然が織り成す生態学的な掟は精妙なバランス
を持った食物連鎖を構成する。これは当然、雑食性の人間が口にする物
にも当てはまる掟があるはずである。

 欧米の合理主義は自然の食物連鎖では有り得ない捕食のループを作っ
た。すなわち草食動物の肉食という反自然である。草食動物に肉骨粉を食
わせるという発想は、食物連鎖の精妙なバランス体系を、要素還元主義と
いう考え方で破壊したということである。つまり、動物の体を、分子レベル細
胞レベルにしてしまえば草食動物に食べさせても栄養的に問題ないと考え
たのである。

 日本人の伝統的感性からは、こういう発想はけっして出てこない。全体の
バランスを大事にするからである。欧米的合理主義の欠陥は、分割しては
ならないものを分割し、組み合わせてはならないものを組み合わせてしま
うところにある。これは科学的には有効な側面もあるが、生態学的な世界
には適用できない考え方なのである。

 まあ、狂牛病の発生真因はともかく、現実に日本国民の食の安全が危
機にさらされているわけであるから日本人はアメリカに対して、また、アメ
リカの走狗となってこの輸入を進めた政治家や官僚に憤りを持つべきであ
る。こういう危険な食品をアメリカの条件で輸入することに尽力を費やした
日本人は売国奴である。というか、破防法を適用するに相応しい対象であ
る。しかし、問題は、この深刻さを認識しているにも拘らず、声を上げない
で大人しくしている大多数の国民である。これはアパシーに近い判断停止
状態である。

 考えた方がいい。アメリカに脅されて毒入り牛肉を言われるがままに輸
入しなければならない日本の危機的な現状を。なぜ、断れないのか。何故
ノーを言えないのか。いまや、日本人は軍事だけを無力化されているので
はない。食料の点でもアメリカにコントロールされているのである。それは、
アメリカのグローバリスムによる輸入自由化という詐欺的な名目で、国内
農業や国内経済を破壊されているからである。我が国の食料自給率は四
十年前までは80%近くあったが、今は40%である。石油メジャー、穀物
メジャーが日本にやったことは、石油供給の窓口を制限し、日本の食料自
給率を可能な限り低下させることであった。これによって日本は、エネルギ
ーも食料もアメリカに牛耳られ、国民のQOL(生活の質)さえもアメリカに
ハンドリングされてしまったのである。

 日本のどこが独立国なのかと言いたい。砂上の楼閣のような物質主
義に甘んじていることをやめて、真の自由と幸福を取り戻すにはアメリカの
桎梏から完全に離れる必要がある。日本の置かれた現状をよく見極めて
欲しい。日本人は精神的には東京裁判の呪縛に絡め取られ、物質的には
食料もエネルギーもアメリカの支配下に置かれているのである。この背景
があればこそ、日本はBSEリスク牛を押し付けられても怒ることができなく
なっている理由である。私は不思議で仕方がない。みんな、悔しくないの
だろうか。

 

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2006年7月29日 (土)

BSEリスクの米国産牛肉は日本人をどこまで怒らせるか

 別冊正論Extra03の巻頭で、評論家の日下公人(くさかきみんど)氏が、
昨今の日本に勃興してきたナショナリズムについてこう述べている。

 『いまや日本人は総体として、先の大戦に敗れて以後「この国」には不要
なものとしてきたナショナリズムに目覚めてきた。その切っ掛けを作ってくれ
た恩人は、アメリカのクリントン前大統領、中国の江沢民前国家主席、北朝
鮮の金正日総書記長、ロシアのプーチン大統領の四人である。端的に彼ら
に共通していたことと言えば、日本に対しては、どれだけ無礼な振る舞いを
しても、どんな嘘をついても構わないと思っていたことである。』

つまり、このナショナリズムを喚起させた人物は、クリントン、江沢民、金正
日、プーチンの四人であり、確かに彼らの言動や対日姿勢は日本人をかな
り怒らせてきている。日下公人氏は、これでようやくマッカーサーの催眠術
から目を覚ましたと書いているが、はたしてそうだろうか。私はマッカーサ
ー催眠術、すなわち東京裁判の桎梏から日本人はまだ解放されていない
と見ている。確かに、日本人は何でこんな無礼を浴びてまで我慢せにゃな
らんのだと思っている人々は増えてきている。

 しかし、まだこの怒りは真のナショナリズムには遠いような気がする。クリ
ントンが日本を軽視する形で中国を称揚して戦略的パートナーとまで言い
切ったことは記憶に新しい。この時、日本の一部はざわめいたのだが、総
体としては日本はアメリカとの信頼関係を信じていたようである。ところが
今頃になってわかったことであるが、クリントンは宮沢と会談した折、すで
に年次改革要望書の原案をしっかりと敷設していた。そのことは関岡英之
氏の「拒否できない日本」を皮切りに、米国の宗主国気取りの実体を暴い
た本が続々出始めているにも関わらず、マスコミはそれについて終始沈黙
し、国会もそのことに触れないようにしている。

 その事実こそ日本人が真に目覚めてないことの証左である。昨今の中国
の領海問題、韓国との竹島問題、北朝鮮の拉致問題、これらは確かに国
民の怒りを買ってはいるのだが、これはまだ本物ではない。香山リカ氏の
言うプチ・ナショナリズムというレベルであろう。その最も象徴的な人物は小
泉純一郎である。日本人はまだ東京裁判の呪縛が解けていないのであ
る。

 ところで、いよいよアメリカ産牛肉が日本に入って来る。BSE対策をなおざ
りにしているとほとんどの日本人が感じている段階で、政治的圧力によって
輸入を解禁するこの状況は日米の興味深い動きを予想させる。私は日本
人がどれくらい米国産牛肉を購入して食べるのかに強い興味がある。おそ
らく、日本人の民族的な潔癖性を考えれば消費者の食指はほとんど動かな
いだろう。これに対して、中間流通業者は悪いことをするものが出てくるの
かもしれない。

 たとえば、米国産牛肉を第三国経由で輸入し、生産国表示をメキシコ産
だとか、他の国にするとなど偽装することがあるかもしれない。また、国内
の流通過程で産地のすり替えが行われるかもしれない。しかし、今回は日
本人全体が米国産はリスクが高いと感じているから、姑息な手段でごまか
すことは無理だと思う。今の日本人は牛肉を常食的に食べないことに慣れ
てきている。たまには食べたくなるかもしれないが、たとえばそれは月に一
度の贅沢として国産牛、あるいはオーストラリア産の高級牛肉を食べること
になるだろう。

 贅沢な食事の楽しみに食のリスクをわざわざかける必要がないからであ
る。私が強い興味を覚えることは、日本人が米国産牛肉を消費しないと知
った時のアメリカの反応である。その時、アメリカがどんな態度を取るのか
およその予想はつく。国民が食べなければ当然輸入量は激減する。その
時、アメリカは日本政府に対してどういう要望を出すのだろうか。たとえば
スーパー301条のような通商的な制裁条項を立案して発動するのだろう
か。

 あるいは、国民に米国産牛肉を消費するように然るべき国策を講じろと
言うのだろうか。アメリカがどんな強制力を発動するのかわからないが、お
そらく政府は国民の反意と米国圧力の狭間に立って呻吟することになるの
だろう。それでも、国民は食の安全を優先するとしたら政府は手の打ちよう
がなくなる。つまり、結果としてはこうなるだろう。アメリカが日本の要望に
折れてBSE対策をきちんと行うか、あるいは今までの姿勢を踏襲して頑強
に日本を恫喝するかである。

 後者の可能性が強いが、私はアメリカが恫喝に入ってくれた方がいいと
考えている。なぜならアメリカが直接日本国民の神道的潔癖性という文化
を侮辱し、頭ごなしに日本の食生活を非難してBSEのリスクを有した牛肉を
ごり押しする事態になった時、日本国民の総意的な怒りの湧出が非常に
重要だからである。どんなお人よしでも食いたくないものを無理やり強要さ
れ、しかも金を払わなければならないとしたら怒る以外にない。この怒りの
喚起がアメリカによる東京裁判史観の呪縛解除にストレートに繋がる可能
性はあるかもしれない。少なくともアメリカの理不尽さが今に始まったこと
ではないという自覚を持つことは大事である。それに、また特定危険部位
の混入という米国側の手落ちは必ず起こるだろう。

 この時、米国は全面輸入禁止は駄目だと今から言って牽制しているが、
そのこと自体がアメリカの検査体制の杜撰さを露呈している。日本人が納
得するわけはない。特定危険部位が入ったら国民はますます食いたくなく
なる。しかし、アメリカは日本を異常に潔癖すぎると言って強硬に非難する
だろう。つまり、アメリカは日本人の文化を否定しているのである。私はアメ
リカがBSE問題で、日本人を家畜同然の存在とみなしていることを徹底的に
見せ付けてくれればいいと考えている。この問題はとことん揉めたほうがい
い。日本政府の弱腰は揉める胆力さえも持たないが、国民が頑強に突っぱ
ねた場合は米国に阿諛追従するわけには行かないだろう。

 米国産牛肉問題は嗜好や値段の問題ではなく文化の違いの問題であ
る。この問題を究極まで詰めていくと、異質な文明同志の齟齬ということに
なる。アメリカは近代合理主義の確率論でBSEのリスクを認識し、日本は神
道的潔癖性から全頭検査を要求する。所詮噛み合わないのである。ここで
我が国の捕鯨禁止の経緯を考えてもらいたい。国際捕鯨委員会は、1982
年に商用捕鯨の全面禁止を決議した。日本や韓国など数ヶ国が反対した
が、日本はアメリカに恫喝されてやむなく従うことになった。国際捕鯨委員
会とは言っても実質は国連と同様にアメリカの傀儡組織であった。戦後、ア
メリカが日本に行ったことは刀狩りばかりではない。食文化の破壊もやって
いたのである。米食からパン食切り替えの奨励、そして伝統的鯨食の禁止
である。小麦の輸出と牛肉の輸出のためである。アメリカ産牛肉輸入には
そういう背景もあるのである。

 つまり、米国が行っていることは、イスラム教徒にキリスト教に改宗しろ
と強要していることと本質的には同じであり、相手側文化の徹底的な無視
と侮辱なのである。これは彼らが唱えるグローバルスタンダード経済の一
つの本質でもある。日下公人氏は、日本人を怒らせたら本当は怖いんだぞ
と随所で言うが、いつその怒りが出るのかと思う。BSE問題に私が期待して
いることは、政府が米国と玉虫色の妥協を図ったとしても国民がそれに従
わないということである。そこへ米国が強圧的に畳み掛けて来た時、はたし
て日本人全体は最終的にどういう反応をするだろうか。

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2006年7月23日 (日)

現行日本国憲法失効論、補遺

 この間の記事、「現行憲法廃棄、そして創憲への道」で、ある読者から下
記の批判コメントが寄せられた。このお人の批判の根拠というものは何だ
ろうかと考えると、投稿文には思想的スタンスが書かれていないので今一
よくわからないが、大日本帝国憲法を神聖視した愚かな論法であるという
指摘があった。それも含めてもう少し現行憲法失効論を文明論的に考察
してみようと思う。

***************************

 馬鹿も甚だしい。高橋氏のタイプは帝国憲法に戻そうとしてい
るが、実は帝国憲法に強烈な『憧れ』と『畏敬』の念に溢れた『だ
け』で『神の託宣を書き止めた』『聖典』のように崇め奉ってるだけ
である。

 したがって、『旧来の憲法下に戻れば全てが変わる。』と思い
込んでいる『だけ』であり、それに対して理由も理屈も情勢の判
断も冷静な分析もない。

この頑迷なくらい憧れ、崇め奉る姿勢は高橋氏が冒頭で非難
した戦後、憲法を一度も改正しないようにし、解釈などの誤魔
化しでやってきた勢力となんら変わりはない。

 彼らは現憲法を『聖典』と崇め奉る一派である。彼らは彼らで
『現憲法を堅固に維持していれば日本は平和であり続ける。』
とかたくなに思い込んでいる『だけ』の一派である。それに対し
て理由も理屈も情勢の判断も冷静な分析もない。

 つまり現憲法を改正することを強行に反対し、聖典のごとき扱
いをしている勢力も高橋氏も同じなのである。 が、当人はソコ
の所に少しも気が付かず、鏡に映ったおのれをコキ降ろしている
だけなのである。コレを馬鹿といわずなんと言おうか。

まぁソコら辺に気が付かないからこそ、コレだけ馬鹿げた文章を
ブてるのであろう。

****************************

  上では、私の試論に理由も理屈も情勢の判断もないと言っているが理由
と理屈は十分に述べたつもりである。情勢の判断については、現行日本国
憲法の廃棄が、現実的に可能な現状かどうか、それについて冷静に現状
分析を行っているのかという指摘だと考える。私の試論の要諦はこうであ
る。現行憲法の廃棄が方法論的に可能かどうかを検討することはもちろん
重要であるが、その前提としてまず先にクリアーしなければならない国民
意識のことを問題にしているのである。

 国民は戦後七年間の占領時代に、ほぼ完全に東京裁判史観に洗脳され
たままであり、その呪縛が解けていない状態で改憲論、廃憲論はまったく
実効性を持たないということが私の論点の土台なのである。つまり、方法論
という現実的な次元に到達する前に、憲法理念が属する文明観をはっきり
と自覚する必要があると考えている。欧米由来の文明観を参考にすること
は大いに有りうるが、それを全面導入して自国の固有文明を全否定するこ
とは、はたして道理にかなったことかどうかを戦後の日本人は検討する必
要がある。この作業を行わずして改憲、廃憲への道はあり得ない。

 自己弁護するわけではないのだが、私は大日本帝国憲法に復帰すれ
ば、戦後の問題のすべてが解決するとはけっして思っていない。私の言い
たいことは、帝国憲法が孕んでいた日本特有の文明的内実、すなわち国
柄・国体に対する想いであり、そこからの連続性を取り戻さなければ日本
人の国民精神の復活も、正しい実効性を持つ憲法論議も不可能だと捉え
ているのである。そういう文明論的な正統性の問題を度外視して、法律学
的なカテゴリーだけでは戦後憲法の問題を扱うことはできないと考えてい
る。

 現行憲法の最大の問題点とは何か。それは我が国の過去の国体的内
実の連続性が断ち切られているところにある。従って、現行憲法の成立理
由及び継続的存在理由そのものは根源的に問われなければならない。日
本という国家の総体的歴史性から鑑みて、現行日本国憲法の存在理由(レ
エゾンデエトル)を問いかけねばならないのに、戦後は一貫してそれに背を
向け、不戦憲法は人類の宝典だとか、平和のモデル憲法だとか、美辞麗
句でごまかし続けてきた。かなり大勢の人が美名憲法の名の下に自己陶
酔的、自己詐術的な言い逃れをしてきたが、それはもはや通用しなくなっ
てきている。存在理由とは、我々が信奉する現憲法に歴史の正統性があ
るかどうかということに尽きる。

 たしかに、良いとか悪いとかは別にして、現行憲法は戦後60年の継続時
間がある。この時間をどう考えるかということは重要である。しかし、それよ
りもはるかに重要なことは、戦前文明、戦前国体と有機的に繋がった連続
性をどうやって復活するかということにある。私は戦前の日本に戻れと言っ
ているのではない。戦前の日本が確かに保持していた伝統的連続性を現
代に取り戻す必要があると言っているのである。

 歴史時間は新しい時代に向かって常に動いており、その方向性は不可
逆である。従って、昔をどんなに憧憬しても、歴史時間のベクトルそのもの
は変えられない。だが、伝統的日本精神を復活することは可能である。け
っして古い過去の時代の古い入れ物を再構築しろとは考えていない。従
って次のような指摘は見当違いである。

>帝国憲法に強烈な『憧れ』と『畏敬』の念に溢れた『だけ』で
>『神の託宣を書き止めた』『聖典』のように崇め奉ってるだけ
>である。

 確実に言えることは、明治憲法が属していた世界には、国家の伝統に
基づいた国柄、国体が存在したということである。では終戦から今日まで
の戦後時間には、国柄や国体が存在しないのだろうか。また皇紀2666年
の中に戦後時間の60年は意味を成さない時間だったのかという深刻な問
いかけがあることも承知している。この戦後空間の自己同一性は確実に
現実のものだったわけだから、そこからの連続性はどのように処理する
のかということがある。

 今、我々が過ごしている時間は、要するに新しい時代である。だからと
言って、その文明的内実に過去時間の集積を全否定することは国家のあ
り方として確実に間違っている。戦後空間の文明史観は、断言しても良い
が西洋近代普遍主義である。それはすなわち進歩史観なのである。進歩
史観とは過去を全否定して、未来に人間や文明が完全化するという幻想
に基づいている。それと同じ位相を持つのが、キリスト教的時間軸で言う
なら予定調和説、至福千年説であり、マルクス・レーニン的時間軸で言う
なら共産革命なのである。

 これは端的に言って、フランス革命のジャコバン党の理念、つまりはロベ
ス・ピエールらの革命理念なのである。現行日本国憲法の理念はそのフラ
ンス革命の流れに基づいた典型的な革命憲法だと私は認識する。そうい
う意味で左翼的な法思想に基づいた左翼憲法なのである。この源流にあ
る哲学はジャン・ジャック・ルソーである。

 このような左翼世界観で造られた憲法でも、60年も求心力を保っていら
れたのはなぜか。その求心力こそ天皇条項だったのである。この憲法の
やっかいなところはそこにあるのかもしれない。象徴天皇が現行憲法に
組み入れられたことは、GHQは西洋近代主義の左翼思想に皇統の連続
性をリンクさせてしまったのである。西洋近代主義と皇統は文明的に不整
合である。だから帝国憲法の第73条が適用された時に、国体の連続性
か、帝国憲法の失効かの二者択一を迫られることになったわけである。
日本は咽元にナイフを突きつけられて、心ならずも帝国憲法の失効を認
めざるを得なかった。

 ここで、天皇が象徴化されたという部分には、明治憲法理念の失効化
が行われたことが「象徴」されていたと考えられなくもない。立憲君主制が
廃棄されながらも、新憲法には象徴天皇制が堅固にリンクされてしまった。
これによって、西洋近代主義の内実しか持たない非日本的な憲法が今日
まで命脈を保った感は否めない。GHQ上層部は考えた。日本人は与えら
れた憲法体系が何であろうとも、天皇条項さえ付帯していれば安心して
憲法を遵守する民族である。だから帝国憲法の精神を完全に抜き取り、
その中身を国民主権の近代憲法思想に置き換えるに当たって、天皇の政
治的権能は完全に無力化し、その上で天皇と国民の関係を存続させるこ
とにした。これが現在の象徴天皇制である。

 もう少し詳しく説明しよう。GHQの当初の目的は、日本人の神道的民族
性と天皇体制の完全破壊にあった。しかし、よく日本人を観察してみると、
国民と天皇の精神的なつながり(紐帯)があまりにも堅固であることを認め
ざるを得なくなった。GHQの日本人研究は徹底していた。ここにルース・ベ
ネディクトの書いた「菊と刀」などが参考にされたことでもそのことはよくわ
かる。アメリカという国は良くも悪くも戦略的行動様式が徹底しており、彼
らの占領支配があった7年間は、日本民族のその後のあり方に致命的か
つ決定的名な影響を与えてしまったのである。

 つまり、やむなく天皇体制の存続を決定したGHQは、天皇をどのように扱
うかで腐心し、結果として出したのが天皇を国民の統合的シンボルとして
位置づけたのである。これが今の象徴天皇制度である。天皇という存在だ
けに限って言えば、国民の側から見て立憲君主制であろうと、政治権能を
失った天皇象徴性であろうと大した差異はなかったのである。この表現は
誤解を与えるかもしれないが、差異がないという意味は、時代がどのよう
に変化しようとも日本人が天皇を認識する精神の有り方には基本におい
て変化がないということである。それは江戸から明治に劇的な国家変容を
起こしても日本人の自己同一性は常に変わらなかったように、天皇も外見
的衣替えをしても、その御存在の内実は時代を超えて不易であることを意
味する。

 なぜなら、天皇は歴史的に観て常に雲の上の人であり、政治的権威とは
本来的に隔絶された御存在だからである。天皇は国民精神の中心的支柱
であり、日本文明の憧れである。天皇は日本的霊性の本体である。この認
識、この精神的基層は不変であると考えている。庶民がどれほど努力して
も、政治的術数を講じても、絶対に天皇にはなれないし、なろうとする存在
でもない。その意味で天皇は皇統を背にして、肇國以来、国家時間の連続
性にあって、時間を超越した歴史的客体としてある聖なる御存在である。し
たがって、天皇は時代によって区分されることもなく、国民からも、武家から
もいっさいの身分からも聖別されていた特殊な存在であった。その視点で
言うなら、明治期からの天皇の軍神化、及び天皇大権付帯は歴史的に観
て特殊な状況であったことは言えるだろう。

 外部的な力によって天皇から天皇大権が剥奪されても、我々日本人の
精神の根幹には大した重要性を持つことはない。したがって、GHQの取っ
た象徴天皇制は、当初の日本人を安心させ属国統治をやりやすくしようと
した目論見としては成功したわけである。こうして天皇条項で粉飾された
国家防衛の魂のない近代主義憲法が戦後に作動することになった。しか
し、このことが日本人の魂を腐食させ続けており、それはすでに危険な領
域に達している。我々日本人が民族的な退嬰に陥ったのは、立憲君主体
制が廃棄されて天皇が象徴化されたからではない。理由は日本人が歴史
を失ったからである。完全なる過去否定が日本人の魂を浮遊させたのであ
る。

 日本人の先祖崇拝は神道的感性であり原初的なものである。敬神崇祖
の民族性は過去を否定しないところにある。従って、戦後文明の核である
過去否定を前提とした進歩史観は日本人には完全に不整合である。不整
合ではあるのだが、事実として60年の物理的な歴史時間があり、その時
間は日本人の精神性に決定的な変容をもたらしている部分もある。これは
これで無視することはできない。だが、このまま進むことは民族の滅亡に
突き進むしかない。なぜなら歴史の連続性によって出来上がる背骨を持た
ないからである。これを取り戻さない限り、日本は無国籍状態になるだけ
である。

 現行憲法を改憲ではなく廃棄せよと考えるのは、それによって国家の形
態を元の状態へ復帰せよと叫ぶのではなく、まず最初に我が国の文明の
有り方を真剣に模索してもらいたいということが前提になっているのであ
る。国民意識としては戦後の進歩史観一辺倒の誤りを反省し、国民精神
の方向性を元の文明が孕む連続性に回帰させようということなのである。
それには国民の一大覚醒が必要だと考えている。つまり、他者による強
制力で行われた「日本国憲法成立」という「革命」を払拭するためには、革
命ではなく「覚醒」が必要なのである。この覚醒が為されてはじめて、今の
時代に即した憲法思想が生まれるものと考える。従って、上の人が私の
憲法論を解釈改憲派と同質であると批判したことは完璧に的外れである。
私は文明論的見地から現行憲法の存在論的な無効性を冷静に主張した
だけである。

 物事の順序として、憲法から文明は作ることができない。なぜなら憲法
の存在そのものが文明が確立していることから来る結果(アウトプット)だ
からである。文明が初めにあってこそ、憲法思想が生まれるのである。憲
法が生まれてから文明の構築が始まるわけではない。平たく言うなら、日
本人が日本に目覚めれば憲法思想も無理なく自然にでき上がる。そうい
うことを考えているわけである。

 具体的には、現行「日本国憲法」は革命憲法であるから、日本国民の総
意的な否定意見が起これば廃憲は可能である。それを背景として国会に
発議され、国会議員の2/3以上の賛意を以って議決に至れば現行占領
憲法は失効する。革命憲法の失効が起これば、憲法の拠り所は自動的に
大日本帝国憲法に帰属することになる。あとは時代の趨勢や要請に応じ
て改憲して形を整えることである。ただし、この時点で日本人はもとの日本
を取り戻しているという前提を持っていることが肝要な点である。

 余談だが、明治憲法と現行日本国憲法を比較して文明的な視点から論
じようとする時、国民は天皇をどう考えるか、天皇とは何であるかを考える
ことは避けられないことである。私のような一介の凡庸な者が、天皇を堂
々と考えたり説明を行ったりすることは不敬であり荷が重過ぎる。しかし、
日本文明の核に、日本的霊性の核に存在するこの古い家柄の連続性を
真正面に見据えなければ文明論的憲法論は成立しないのである。古事
記の初頭部分(天地の初め)には三柱の重要な造化の神様が登場して
くる。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神である。

 このうち高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と神産巣日神(かむむす
ひのかみ)の二神は、建国から今日まで、この日本という国を強く特徴付
けたある重要な特性と深く関わる神様である。高御産巣日神は天照大神
を天岩戸から出し、神産巣日神は若い頃の大国主神を蘇生させた。つま
り、この二神は物事を生み出す生命力の象徴なのである。日本の神道文
明の根幹には、常にこの二神による造化作用、すなわち「ムスヒ」の形が存
在していた。いわゆる「むすび」である。海外から入ったものを良いものだ
けを取り入れ、それを日本的に変容させ、最後には日本に根付かせると
いう作用のことである。日本人の精神のアーキタイプにはこの「ムスビ」の
力が備わっているのである。そしてこれは日本の歴史の動力学に反映さ
れ、民族の原動力を発揮してきたのである。

 日本民族の巨大な受容性、すなわちこのムスビの神道的受容性こそ、
たとえば明治維新の動乱を乗り切った底力であった。明治維新に当たっ
て日本は和魂漢才から和魂洋才に転換した。つまり、欧米の近代思想、
近代技術など、文明的に和合的する部分を積極的に取り入れ始めたの
である。近代文明の摂取によるムスビである。大きな視点で捉えてみると、
このムスビの力学が大東亜戦争以降はすっかり働かなくなってしまった
のである。これは憲法が近代普遍主義になったからではない。敗戦のショ
ック、そして極東国際軍事裁判の蠱毒(こどく)によって、日本人自らが自
国文明をどこかに置き忘れたからである。

 戦後の日本は文明形成力を失ったまま、夢遊病者のように歩み続けて
いる。これは文明の生態史観で言うと、必然的にアロジェニック(他成的)
な推移(遷移)の形を取っている。それも、以前の第二地域のアジアに於け
る他成的な遷移よりもはるかに劇的な他者志向型文明に成り下がってい
る。他者志向型文明というのも実は正確ではない。事実はアメリカの属国
文明化なのである。文明的視点に立って言えば、今の日本は、かつての
力強いオートジェニック的文明から、主体性を欠いた病的な他者志向の
アロジェニック的文明に変遷してしまったのである。

 私はこの病的な大転換が憲法に起因するとは考えていない。繰り返すが
憲法は飽くまでも文明出力の一つの帰趨に過ぎないからである。日本民
族の懐の深さは民族自身が一番自覚していないのかもしれない。私は
時々こう思うことがある。戦前も戦後も、実は民族のオートジェニックな力
は厳然として継続しており、日本民族は巨大な欧米文明を呑み込もうとし
ているのではないのかと。文明のムスビを行おうにも、相手があまりにも
巨大過ぎて造化の神さまが難儀しているのかもしれない。欧米文明がな
ぜ咽元につかえてしまい、日本人はなぜこんなに苦しんでいるのかを考
えてみれば、私には白人五百年の侵略史があったこと、そしてそれが欧
米文明の蠱毒(こどく)としていまだに破壊的な有毒性を持っていることに
思い当たる。

 悠久なる自然から培った調和と平和を希求するアーキタイプを持つ日
本文明が、殺戮と自然破壊、欲望の加速を是認するアーキタイプを持つ
文明を簡単に「ムスべ」ないことは当然といえば当然であろう。戦後日本
は自国神話の否定から出発し、自国神話を持たない促成国家アメリカを
手本とした。逆である。アメリカが日本を手本にする形こそ本来的なので
ある。アメリカ文明の本質というのは西欧近代主義と、産業革命から勃
興した欲望資本主義の極端な収斂から起こった特異な文明である。他
国の資源や資本を強欲にかき集める欲望拡充型の本質を持っている。
たとえば、ダーウィンの進化論仮説を基にしたハーバード・スペンサーの
唱えるような典型的な社会ダーウィニズムの国である。力による適者生存
の法則を信じて実行する国家である。ここには人類が目指すべき徳性も
公共性も調和的様式もまったく育たないのである。我々日本人には天皇
という自然との調和を体現し、歴史を超越した憧れの対象がある。日本文
明の真の優位性がそこにある。

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2006年7月19日 (水)

現行憲法廃棄、そして創憲への道

    ◎文明的見地から考察した現行日本国憲法失効論

  憲法とは何だろうか。我々国民は、憲法が国家の最高法規であり守るべ
き法体系であることを知ってはいるが、憲法が我々にとって何であり、如何
なる意味を持つのかということになると、それを真に捉えている人ははたし
て何人居るだろうか。最高法規というものは国家の治め方、すなわち統治
原理の最高基準であり、一日も休めない国家運営の仕方を決めていく指針
である。憲法がない国家とは、混沌、野蛮な無政府状態と同じことである。

 なぜ私のような法律に不明なただの素人が、取っつきにくいながらも憲法
という、日常性から離れたものを必死に考えてみようとするのだろうか。そ
れは戦後に成立した現行憲法が、とうの昔に機能不全を起こしていたにも
関わらず、その場その場の目先の都合に合わせて、解釈だけをごまかすこ
とによってどんどん進んだ結果、深刻な行き詰まりに遭遇して身動きが取
れなくなってきたからである。これは、憲法でしか対峙できない大きな諸問
題が、すでに法律論的な解釈では打開できない局面に到達していることを
示唆する。

 特にそのことは、国防、軍事に関する事柄において顕著になっている。
今、日本が遭遇している国際環境は、中国と我が国の領海問題、尖閣諸
島の領有問題、韓国と我が国の竹島問題、北朝鮮による拉致犯罪やミサ
イル攻撃など、我が国の主権と安全がぎりぎりの局面で脅かされ、実際に
侵害を受けている。この危機的な状況下でも、我が国は護憲的な基本を崩
さずに、背水の陣的な場所で打つ手もなく立ち往生している有様である。こ
の状況は国家崩壊の一歩手前なのである。

 国防というもっとも大事なことを根本まで突き詰めずに、60年間も表面上
の解釈改憲でごまかし続けてきたことの深刻なツケ付けを今支払わされよ
うとしている。この解釈改憲のひどさは、与野党両者の対立軸の中にもき
わめて明瞭に見られる。最も端的な例は自衛隊の憲法上の規定であろう。

 憲法第九条の二つの項目を、時代の状況に応じて解釈改憲しながらそ
の場その場で自衛隊の存在規定を行ってきている。わからないのは、武力
の行使に自衛権の行使は当たらない、戦力に自衛力は含まない、自衛の
ための戦いは交戦権の否認にあたらないというものである。九条を素直に
読み込めば、自衛権による戦いと、交戦権による戦いが別個のものである
などいう解釈の余地はまったくないはずなのである。このいい加減な解釈
改憲がどれほど日本人の精神を混乱させ、その深部を蚕食したか言っても
言い足りないくらいである。

 第一、好奇心旺盛な子供の問いに、この問題を明確に答えられる大人は
一人も存在しない。交戦権否定の中で、唯一自衛権による戦いは例外的で
あるなどと言ったら子供は目を丸くして「なぜ?」と問いかける。国民の生命
財産は他国の攻撃から守る必要があるからだよと答えたら、子供は、じゃ
あ戦いは駄目なものじゃないんだ、必要なことなんだと即座に思うだろう。
つまり、子供にとっては防衛を考えたら交戦権否定はありえないのである。
逆に子供が交戦権を否定したら、すでにそこには自衛という力の行使もあ
りえないことになってしまうのだ。子供は矛盾の包摂を許さないからである。
こんな簡単なことを解決もせずに延々とごまかした上に、その問題を思考
停止に置いてきた今までの方法がこれ以上続けられない状況に立ち入っ
てきている。

 交戦ということは、その目的が自衛であろうと、他の目的の戦いであろう
と言葉上では、二つあるいは複数の主体同士の戦いなのである。そこには
戦力の相互行使という以外の意味は存在しない。九条が規定することは、
武力行使の放棄、戦力不保持、交戦権否認である。どう考えてもここに、自
衛の戦力は例外であるなどという解釈は出てこない。ところが現在の日本
ではそれがあるということになっているのである。従って九条は自衛隊の存
在そのものを否定しているにも拘らず、自衛的武力行使だけは例外扱いさ
れ、存在してはならない自衛隊にその戦力行使を付託しているのである。

 このような矛盾した形で国家の運営を行わざるを得ない憲法は棄民的憲
法、すなわち国家の自殺を志向する内実を有した憲法と言えるだろう。つま
り子供にさえ説明不能な憲法内実と現実の乖離は、戦後日本が抱え込ん
だ文明的な矛盾そのものの雛形にもなっているのである。これは現行憲法
が占領下のさなか、日本のあらゆる「武」の力を永久に封じ込めるために作
られた自縄自縛の憲法だからである。

 従って、日本民族の魂もなく国家の正統性もない現行憲法は、ただ第九
条を改憲なり撤廃すれば問題の本質が解決されるというものではない。
我々は現行憲法の存在そのものを根底から否定する必要がある。つまり
廃棄した上に、帝国憲法の連続性を持った我が国固有の憲法を創出する
必要がある。ところが、非常にやっかいな問題がここに出てくるのである。

 現行日本国憲法はも最も改変しづらい性格に出来上がっている。すなわ
ち硬質憲法である。部分改正はともかくも、全文改正をして事実上の廃棄
に持って行こうとしても、手続き上やっかいな問題が立ち塞がるのである。
それは現行憲法上の手続きを以って全文改正的に現行憲法を撤廃しよう
とすれば条文上の禁則事項に抵触するからである。改正を謳った憲法第
96条には、改正に当たって憲法の自己同一性の保持、すなわち現行憲法
の基本思想を保持したまま行わなければならないという条件が付与されて
いるからである。つまり現行憲法には帝国憲法に復帰できない自縄自縛の
インターロックかかっているのである。

 ここで、現行日本国憲法の改正条文を見てもらいたいので下に記す。

 第9章 改 正 

第96条 
 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、
これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認
には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票におい
て、その過半数の賛成を必要とする。

2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、こ
憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

   現行憲法全体を、別の憲法大系に置き換えるために、大きな枠で全体的
改憲を試行しようとすれば、第96条にある、「この憲法と一体を成すものと
して、」という付帯条文に明らかに抵触することになり、事実上手続きが不
可能である。「一体を成す」という意味は、憲法を成立させる基底となる文
明原理を変えてはならないという意味に解釈できる。もう少し次元を落とし
て言えば、この改正条項ではいわゆる「国体」を変更することはできないと
いうことになる。ここで言う国体とは戦前までの連続性に基づいた国体で
はなく、戦後にGHQの主導で国家の在り方をむりやり変更されてしまった、
謂わば擬制的な戦後体制を指している。それは現在まで我々が引っ張っ
てきたアメリカもどきの社会体制のことである。 

 つまり、現行憲法思想の屋台骨である西洋近代普遍主義の内実を抜き
去って、別の文明大系に基づいた憲法を樹立することはできないというこ
とになる。平たく言うなら、アメリカ型の文明観を否定した改正は出来ない
のだぞということになる。ということは、素直に見て全文改正法では帝国憲
法との連続性は取り戻せないということになる。いかにGHQの奸佞邪智が
手の込んだものかわかる思いがする。戦後の我が国はまったく厄介な歴
史のベクトルを持ってしまったものである。

 私は現行日本国憲法の成立実体が「八月革命説」にかなり近いものだと
考えている。もっとも、革命という言葉そのものは能動的主体性を持った言
葉であるから、他者の強制力によって作られた憲法は厳密には革命ではあ
りえない。しかしながら、GHQの手でフィリピン憲法をなぞらえた下書きが行
われ、その強制付与でできた現行憲法は、その憲法原理が旧憲法のそれ
とはまったく異質なものとなり、日本固有の文明や国体の連続性という視
点から見ると、現行憲法は巨大な断裂の上に出来上がっている。まさにこ
の形態は思想革命であり、それまでの統一的な連続性から独立した、まっ
たく別個の国家法規にすげ替えられてしまったと言う事ができる。言葉上
ではまったく奇妙な話だが、八月革命説の「革命」とは他者主導による革
命なのである。他者に煽られて起こしたクーデターが現行憲法の本質だと
いうことになる。

 現行憲法成立には、天皇の「上論」もあり、少なくとも大日本帝国憲法第
73条の改正手続きを経てはいるが、新憲法成立過程で、私はこの条項の
適用解釈にすでに深刻な分裂が起こっていると見ている。それは旧憲法第
73条では、国体に関する規定は改正できないという考えられていたから
だ。しかし、それでも、GHQ主導で出来上がった現行憲法が日本国民の発
意で行われたように見せかけるために、第73条によって改正手続きが行
われた。その見せ掛けの改正手続きには、実は深刻な憲法思想の分裂が
あったことを指摘する人をまだ見たことがない。

 この時、我が国はポツダム宣言を受諾したことによって、国体の連続性を
選ぶか、あるいは旧憲法の「失効」を選ぶかのギリギリの決断を迫られてい
たのである。民意としては当然ながら国体の連続性を確保したいはずであ
ったが、それがどうしてもできなくて我が国は旧憲法の失効を選んだ形に
余儀なくされてしまったのである。この背景には被占領国の主権剥奪という
悲しさがあったのである。逆に言うと、占領国が被占領国の憲法を勝手に
制定することは国際法違反なのであるが、これは建前であって実際は有無
を言わさず固有の憲法を、西洋近代主義の権化のような無国籍憲法に取っ
て変えられたのである。連合国総司令部(GHQ)の占領下で強制的に賦与
された経緯がある。日本が喉元に短刀を突きつけられて、いやいやながら
成立させた現行憲法には、我が国の歴史のレジティマシー(正統性)が存
在しないのである。
 
 この意味が理解できるだろうか。日本には日本固有の文明があり、西洋
には西洋近代主義の文明がある。我が国固有の文明思想から成る大日
本帝国憲法と、英米型の法理論に基づいた、いわゆる「向こうの形」の憲
法体系のことである。大日本帝国憲法の失効とは、過去の日本文明の完
全否定を意味しているのである。ここから、現行日本国憲法が戦前以前の
日本文明の完全否定で出来上がっている事実を、今の日本人の何割が認
識しているだろうか。アメリカの考えは、国際法的には日本を主権独立国
のように扱ったと見せるために、新憲法がいかにも日本人の主体的意志
で作られたかのようにしつらえた。

 しかし、その内実は日本文明の強制失効だったのである。この事実を見
極めないで生き続けているのが戦後日本である。我々は自覚しなければ
ならない。GHQの占領政策は、単なる戦勝国の支配という形態ではなかっ
た。占領支配をはるかに越えて、彼らは日本の文化、歴史、伝統的精神
構造のすべてを破壊し、まさに日本から日本的なるものをすべて奪胎する
ということをやらかしたのである。これは文明の破壊作業なのである。その
文明破壊の中心にこそ、今我々が崇め奉っている現行憲法が置かれてい
たのである。つまり、現段階でも、メイドインGHQの烙印が押された日本国
憲法が厳然と鎮座している事実とは、占領政策の真の目的、すなわち日
本の完全破壊がいまだに粛々と継続していることを意味している。現行憲
法は有毒憲法なのである。

 現行憲法は、思想的文明的にはそれまでの帝国憲法が属していた世界
とまったく異なる法思想になっている。しかし、それを樹立し遵法する主体
は同じ日本民族であるから、形態としては憲法に革命が起きたと捉えるこ
ともできる。ただ、何から何への革命が起きたのかと考えると、それは文明
的本質を考えるとわかりやすい。革命によって起きた転換は、日本文明か
ら西洋近代主義への変容である。

 戦後日本の国民精神が浮遊し揺曳している最大の原因がそこに起因す
る。戦前も戦後もDNAはまったく変わらない同じ日本民族であるが、遵奉す
る最高法規の精神原理が欧米近代主義に取って変わられたのである。日
本人自らの意志がなく、占領強制の中で与えられた憲法は、戦後、徐々に
日本人の精神を蝕んでいった。民族の魂が存在しない最高法規を頭に載
せられたまま時を過ごせば、日本人が脆弱になるのは当然である。自分た
ちの魂から抽出した法体系と異なるものを遵守しなければならないのは苦
痛以外の何物でもない。そういう背景をいつまでも保つことは日本人の内
面を破壊する。すでにその顕著な兆候は色濃く出てきている。ここに現行
憲法は改正ではなく完全廃棄する必要があるのである。

 日本人は戦後の近代主義への転換を反省し、欧米文明はあくまでも参考
とするものであって、本来の日本文明がそれと同化してはならないのだと
いう意識を強く持つことが肝要である。日本は神代の昔から日本文明の系
譜を持つから、そこへ回帰してから憲法理念を樹立する必要があ。そうしな
ければ民族は内部から瓦解する。

 私は憲法こそ、その国固有の文明、及び歴史的連続性を踏襲しなければ
ならないと考えている。今の憲法は革命憲法であるから96条の付帯条文
に拘束されることはないと思う。悪い思想に基づく革命であるから、その悪
い思想を捨象して、自国文明の流れに沿う思想を確立し、それを志向すれ
ばいいと思う。その場合、今の憲法の自己同一性を背負って進む必要はな
いと私自身は考えている。つまり、廃棄に当たっては現行憲法からの連続
性は考える必要はなく、きっぱりと廃棄して、一旦は大日本帝国憲法に復
帰することができると思う。

 つまり、廃憲のためには、国民意識がそれに賛成か反対かの前に、独自
文明の連続性を復活させるか、あるいはこのまま行くのかどうかにかかって
くるわけである。このまま行くという選択をした場合、日本文明は間違いなく
消滅することになり、それは無主体の国、すなわち属国になるということで
ある。日本人が日本人をやめるときである。

 廃憲から創憲への流れは、法理論的な難しいことを考える前に日本人が
全体として先祖主権を認めることが先決である。GHQがその占領期に徹底
して行ったことは、完璧な占領支配だけではなく、日本国史の完全否定な
のである。つまり、日本人が過去に築き上げたすべての事象、すべての営
為は悪であったという歴史の改造であった。聖書を信奉する彼らは、日本
文明そのものが、旧約聖書に出てくる悪徳の街、ソドムとゴモラに等しい悪
の歴史だと言っているのである。ソドムとゴモラは神ヤハゥエの怒りを買い、
神の閃光でたちどころに破壊された。アメリカ軍の原爆投下はこれとまった
く同じで、日本という東洋の悪徳の国に神の怒りを代行したという意識が
投影されているに違いない。

 アメリカが行った日本の過去否定、すなわちこれは先祖主権の否定であ
る。先祖主権を否定して国の未来はない。従って先祖主権を否定して出来
上がった憲法とは紛れもなく革命憲法なのである。もっとはっきり言えば、
現行憲法の文明原理には「日本の本質が」ないのである。この事実を考え
ることを回避して、思考停止状態になっていたのが戦後日本である。改憲
だ、加憲だなどと言う前に、日本人は己に先祖主権を回復する必要があ
るのである。すなわち日本文明に立ち戻ることである。そのためには何と
しても自覚しなければならない国民精神がある。それが先祖の心を保った
ままの「日本」なのである。

 つまり我が国の伝統文化、国体、国柄、皇統、これらが国民精神の中核
に位置するものであって、けっして欧米由来の精神原理に立脚する必要は
ないという自覚を強く持つことである。これは日本人全体が、自国固有の正
統な文明感性を至上とする意識を持てばいいのである。つまりは日本国憲
法成立以前の国民精神原理こそ紛れもなく正統であったことを自覚するだ
けでいいのである。

 この一大覚醒が起こることが文明の連続性を取り戻し、日本人が本来の
日本人に戻る唯一の道なのである。この意識の鮮明さを持てば、現行憲
法の失効棄却は当然のことであると気が付くはずである。私と同じ日本
国民同胞に言いたい。アメリカは日本人の先祖を、日本民族そのものを、
ソドムとゴモラの住民に等しい悪徳の権化として裁いた。これについて何
も感じることはないのだろうか。五百年に及ぶ白人(アングロサクソン)の
世界侵略史を省みて、彼らに日本を悪として裁く権利があるのだろうかと
いう熾烈な思いが募る。 キリスト教を旗印に、弛まない破壊と殺戮、略
奪、支配、搾取、悪徳の白人帝国があった。その本質が最も色濃く抽出さ
れて出来上がった新興国家アメリカに日本を裁く権利や資格などはまった
くない。従って東京裁判そのものが、彼らの暴虐的性格から出た私怨の
裁判であることは明らかである。

 日本人は現行日本国憲法が、徹底した日本否定の土台に出来上がっ
ていることを認識する必要がある。この認識が出来上がった時点で現行
日本国憲法は失効する。なぜならこの憲法は革命憲法だからである。革
命の正当性が否定された時点でこの憲法は効力を失うのである。従って、
現行憲法は廃棄こそが正しい選択である。

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2006年7月17日 (月)

戦艦大和(25)◎時代の空気とは

  ◎如何ともしがたい時代雰囲気の差異

 吉田満が書いた「戦艦大和ノ最後」は、角川博氏が旗を振って「男たち
の大和/YAMATO」という東映の映画作品になって、昨年12月に公開さ
れた。しかし、吉田満の同著は、すでに1953年、昭和28年にも新東宝
株式会社から「戦艦大和」という題名で作品化されている。私が生まれた
年の翌年である。この作品はすでにDVD化されているから、「男たちの大
和」を見た方々は、是非、この作品も鑑賞することをお勧めする。

 この初期の大和映画は、戦艦大和がその最後を迎えてからわずか8年
後に造られた作品である。モノクロームの映画ではあるが、時代の雰囲
気が非常によく表されていた。一方、前にも書いたが昨年の「男たちの大
和/YAMATO」は、あの時代の空気の再現に完全に失敗している。その
意味で私はこの映画の人物描写や背景描写をまったく評価していない。
この映画が価値を持つ唯一の部分は原寸大の大和のロケセットを使った
ということくらいであろうか。あとは敵機に波状攻撃された時、最後の戦
いを行った戦闘シーンも評価できる。

 しかし、大和出撃時の乗組員たちの様子や事細かな人間描写は、昭和
28年の「戦艦大和」が圧巻である。この映画では、当時の空気を非常に
よく現出している。終戦後わずか8年後である。GHQが如何に日本国民の
洗脳を執拗に行った後であっても、製作スタッフや俳優さんたちは、戦艦
大和と同じ時代の空気を吸っていた方々であるから、演技でも自然に当
時の空気を醸成できたのだと思う。

 私はこの昭和28年作の映画作品を観ていて、ある感慨に耽ったことを白
状する。戦艦大和は沖縄死守のために出撃し、途中で無念の轟沈を遂げ
たが、敵機群との最期の戦いの時、大和の46センチ主砲が何度も火を
吹いていたシーンがあり、それを観ていて涙がにじむ思いであった。なぜ
なら、吉田満の「戦艦大和ノ最後」を下敷きに造られた作品ならば、大和
の最後において、主砲は一発も撃たれなかったことは当然知っていたは
ずである。ところが映画では思いっきり主砲を轟かせていたシーンが作ら
れていたのは、スタッフの大和に対する強い思い入れがそうさせたので
あろう。

 大和の最後は、数百機の敵機による波状攻撃で、味方の援護機が一
機もなく、撃たれ放題で沈められたのである。生き残った人たちが口々に
する慙愧の思いは、最後に敵機に向かって一発も主砲を撃たなかったこ
とにある。この無念さを忠実に再現することはスタッフには、悔しくて到底
できなかったものと見える。その心情がよくわかるだけに、彼らが大和の
最後に主砲を撃たない映画を作ることは忍びなかったことがわかったの
である。だから私は製作スタッフの心意気に涙が出たのである。史実と
は異なるが、主砲を放ったシーンを敢えて入れたことに、私は少しも責め
る気持ちは湧かないのである。私が監督であったなら、私も戦闘シーン
に主砲を発射させていただろう。

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2006年7月15日 (土)

米国産BSE牛肉輸入問題に見えるアメリカの日本観

 このあいだ、特定危険部位である背骨の混入で、再度輸入禁止になって
いた米国産牛肉の輸入が再々開されることになった。今月末にもその第一
貨物が日本に到着する予定である。

 BSE(牛海綿状脳症)が、牛肉食を介して人間に感染が起これば、人間
の脳にも同じ病変が生起し、確実な推移として自己精神の蚕食の末に死
にいたる。いわゆるクロイツフェルト・ヤコブ病である。調べてみると、脳に
異常な蛋白質(プリオン蛋白)が蓄積し、脳神経細胞の機能が障害され、
脳に海綿状の変化が出現するプリオン病と呼ばれる疾患群の代表的なも
のと書いてある。発症後はわずか一、二年以内に全身が衰弱し、呼吸困
難や肺炎などで死亡する。

 脳がスポンジ状態になる病気だと考えると、その恐ろしさ無残さがよくわ
かる。イギリスの発症児童の様子と、その家族のいたたまれない気持ちを
テレビで観て知ったが、何とも言えない悲愴な気分になった。このクロイツ
フェルト・ヤコブ病(CJD)には有効な治療法、進行緩和対策は皆無である。
その意味では超一級の難病であろう。家族の誰かが罹患したら、それを見
守る家族にも精神の蚕食が起こる絶望的な病気である。

 輸入解禁において、今回、問題になっている点は、日本人の総意として、
米国の畜産業が行っているQC(品質管理)に信頼がまったく持てなくなって
いるということにある。つまり、日本人は今のままだと、プリオン混入の牛肉
を無理やり輸入させられると考えているのである。全頭検査どころか、杜撰
この上ないアメリカのBSE検査対策に大きな疑念を持たざるを得ない状況
である。我々消費者は米国産牛肉を口にできるだろうか。

 今回起こったことは、日常的に口にする食の安全を、日米の政治的な力
学関係で無視してしまったことである。日本人はまったく愚かにもほどがあ
る。経済的な駆け引きで勝ち負けは起こるにしても、今回の場合は日本国
民の生命に直接関わる重大事であるから、ことの本質を政治的な決着だ
けで済ますわけには行かないはずなのである。米国は日本に対して早く輸
入を再開しないと貿易問題に発展させると再三脅しをかけていた。これに
屈して我が政府は十分な安全対策をアメリカに講じさせることなく輸入解
禁を決断したのである。

 小泉純一郎は国民の食の安全を完全に犠牲にして危険極まりない米国
産牛肉の輸入に踏み切った。それと引き換えにした国益的代価とは何で
あろうか。エルビス・プレスリーの邸宅であるグレースランドに、ブッシュ夫
妻と一緒に行った栄光なのか。ブッシュに頭をなでてもらうために巨額の
米軍再編費を払い、国民を地獄の死に至らしめるBSE牛肉を輸入するこ
の男には、国民を護る意識は皆無なのである。

 アメリカのダブルスタンダードのひどさ、悪辣さはあらゆる外交姿勢に見
え隠れする。この二重基準をTPOによって強圧的に使い分けるアメリカの
狡知さは、ストレートに相手国を威圧するシナよりも何段階も悪質である。
BSE問題にもアメリカの傲慢身勝手なダブルスタンダードが露呈している。
それは自国への牛肉輸入に対しては相手国に徹底的な品質管理の要望
を出し、それが、マニュアル化された文書まで出して管理している。ところ
が日本への輸出には骨髄液が飛び散って肉に付着することなどお構いな
しのひどい手抜きでやっているのである。

 この感覚は東洋人を人間と看做していない証拠であろう。東洋の猿が我
が国の品質管理にはのぼせた口出しをするな、動物の分際で越権行為で
あるという感じである。これは彼らが日本に原爆を投下して生物被害実験
をした感覚に等しいのである。BSEの不完全対策牛を、政治的な圧力によ
って我が国に強制的に買わせる米国の思惑を見て、日本人は基本的な疑
念を持たないだろうか。

 まず考えられることは、日米同盟も基本的に日本人をそういう存在とみな
して行っているという事実である。けっしてこの同盟関係は互角ではないし
相互互恵的でもない。日本は今、アメリカから国富を吸い取られる存在とし
てのみ価値を持つと考えられている。また、軍事的にはシナとの緊張緩和
を行う緩衝地帯として日本を位置づけているのである。日本へ輸出する牛
肉のBSE対策の実情を考えれば、有事にアメリカが日本を本気で軍事的
に守る事はないと断言してもよい。

 アメリカに異常に依存する日本人が多い今、アメリカのBSE対策のいい
加減さを見て、彼らが軍事的に日本を保護することは有り得ないことを痛
感するべきである。同盟国の友人に、金を取って毒入りの肉を供給する感
覚のアメリカ人が、日本国家の危機に軍事出動するだろうか。その辺のと
ころを冷静に銘肝するべきではないか。日本人は早くアメリカ頼りの甘い幻
想から目覚めるべきであろう。

  ところで、我々日本人は民族的に神道的な潔癖性を持っていて、食べ物
については極力清潔に扱うことを旨とする性向を持つ。スポンジ脳症を惹起
する感染的な蛋白質異常プリオンには、日本人は総毛立つようなおぞまし
さを感じているはずである。だから、牛肉処理が、そうとう確かな除去環境
にあると確信できなければ、まずそれを口にする日本人はいないだろう。
米国がやっている畜産牛の品質管理とは、我々日本人の神道感覚で見た
なら、完全に「ケガレ」の感覚で食品を扱う部類に属するのである。今のま
まで米国が日本に牛肉を輸出すること自体が日本の食文化、神道文化の
破壊になるのである。同盟国ならば相手の文化を尊重するのが前提であ
ろう。我が国の神道文化を完全に無視しているアメリカがはたして同盟国
と言えるだろうか。アメリカを人権と人道主義のモデル国家として見ている
日本人がいたなら、それは完全な思い違いである。

 このあいだ、米国産牛の輸入について私の知人に聞いてみた。彼は、
「輸入は政治的には仕方がない、どんどんやればいい。でも俺はスーパー
や肉屋で米国産は買わないし、女房にも買わせない、国が輸入したって、
消費者が買わなければいいんじゃないか」と冷笑的に言った。ああ、みん
な考えていることは同じなんだなとつくづく感じた次第である。

 日本人が米国産牛肉を食わないと知った時、すなわちほとんど消費され
ないという事実を目の当たりにした時、米国はどんな対応を取るのか興味
津々である。日本人が食うまで輸入関税を引き上げるつもりだろうか。あの
悪名高いスーパー301条のように。今のままの検査体制で出荷された米国
産牛肉を輸入した場合、病気に感染した物を食べて発病するには、長くて
数十年の潜伏期間があるからさし当たっての危機感はないかもしれない。
しかし、国民の何割かは確実に件の業病を発症することになる。国家の
危機管理とは外敵の侵害に対応するだけではなく、自然災害や今回の
ような致死的な病気の蔓延を防ぐことも必須である。その意味で日本は食
の危機管理もできない国に成り下がっている。

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2006年7月14日 (金)

やっぱり西村眞悟氏の逮捕は官邸主導の国策捜査だった

 この間、書店で宝島社から出た「暗闘!平成日本タブー大全Ⅲ」というの
を買った。副題は「マスメディアの隠蔽報道にだまされるな!」である。その
中にすこぶる興味を引く記事が載っていた。それは、ジャーナリスト高木一
人氏が寄せた『追跡!「拉致問題」の幕引きを狙う官邸の世論誘導』という
論稿である。

 これに、冷静な眼で捉えた、拉致問題における国内の動きがよく分析さ
れていると感じた。ルポライターの著者が北朝鮮担当の公安当局者に聞
いた話が土台となっている。公安当局のその人物によれば、特定失踪者
問題調査会が発表したのは、拉致被害者及び、その疑いが濃厚である不
審失踪者は延べ460人になり、その内20人近くは国内で消息が確認さ
れた。従って、あとの440人近い失踪者がすべて拉致被害に遭ったわけ
ではないだろうが、実に多くの日本国民が北朝鮮によって拐取されている。

 実際、国内マスコミは、平壌宣言以前は数人の拉致が認めれればそれ
で進展だとという論調だったそうである。思い起こしてみると、拉致被害者
が大々的にクローズアップされる前までは、国民はほとんど無関心であっ
た。日本の世論は北朝鮮が拉致を認めた途端に、今までは完全に無視す
るか、棄民的な感覚で拉致に無関心だったのが一転して、拉致問題の全
面解決を求める風潮に変わった。日本国民は全面解決を念頭に置いて硬
化し、拉致問題進展は膠着状態に陥った。

 それが今に至っているが、この拉致問題の象徴的存在が横田さんご夫
妻である。この間に不可解なある動きが二つあった。一つは西村眞悟氏の
唐突な逮捕であり、もう一つは拉致実行犯がわかったという報道であった。
後者から説明する。拉致被害者の本格的奪還という意味ではまったく進展
はしていないが、昨年の暮れに、NHKが拉致実行犯について衝撃的な報
道を行った。「地村さんと蓮池さんを拉致した実行犯はシン・グァンス(辛光
洙)工作員であると、蓮池さんが証言」と、「横田めぐみさんを拉致したのも
シン・グァンスだったと曽我さんが証言」というニュースが流された。

 詳しいことは省くが、その記事ではそのシンなる実行犯の真実性が怪し
いことと、NHKがそのスクープで情報操作をした疑いがあるということが書
かれていた。興味深いことは、西村眞悟氏の逮捕と拉致実行犯割れは、
一つの線で結びついたものであるという捉え方である。実は私自身もそう
いう感じがしてならなかったのである。西村氏の逮捕劇は、明らかに小泉
官邸サイドの謀略、すなわち国策捜査である。それは正統な歴史認識を
持ち、硬骨漢でもあり、拉致被害者を心底慮る西村眞悟氏が、北朝鮮国
交正常化実現しか頭のない売国官邸サイドが最も敵視する存在だったか
らである。

 この記事にも書かれてあるとおり、拉致問題と国交正常化を切り離して、
国交正常化を急がせる勢力が官邸サイドを中心に存在し、これらが横田
ご夫妻の活動を心中、最も不快なものと考えていることは間違いない。横
田早紀江さんがブッシュ大統領と面会したという事実が北朝鮮のみなら
ず、小泉や飯島勲首相秘書官などを中心とする北朝鮮シンパに大きな衝
撃を与えたことは確かである。横田さんご夫妻を筆頭とする拉致被害者家
族に小泉が面会しない事実を世間はいぶかしく思っているが、そういう裏
があると考える。シン・グァンスに関する一連の大々的な報道は、政府は
拉致問題にもきちんと真面目に取り組んで、精神誠意意を尽くして頑張っ
ていますよというポーズと看做せるのである。その実、拉致問題は放棄し
たくて仕方がないのである。

 西村眞悟氏が逮捕拘留されている最中の12月、北京の日本大使館で
は、日朝間の事務レベル協議が行われたが、そこの議題は、拉致問題と
核問題、そして過去の清算を含む日朝国交正常化を三者併行して協議し
て行く事が合意されたのである。つまりはこういうことである。三種類の協
議を併行させて進むということは、一見、問題ないように見えるが、その
真意は、拉致問題と国交正常化の緊密なリンクを解くということにある。
すなわち、問題を個別に恣意的に協議していくということであり、国交正
常化だけを先に行うという方向性も考えられるのである。それが西村氏を
国策捜査にかけて活動を封じたことの真の狙いであろう。

 官邸の目的は拉致問題の解決にはまったくなくて、巨額な賠償金(実際
は援助という名目なのだろうが)を支払う国交正常化にのみに絞っている
のである。西村眞悟氏が中心となった拉致問題の解決は、日本国家の自
主性復権にベクトルが向かうから、官邸サイドの意向とは背反するわけで
ある。官邸のそういう思惑があったから西村氏は天岩戸に閉じ込められた
のである。これこそ、邪魔者は手段を選ばず排撃する小泉内閣らしい暗黒
政治ではないか。

 西村眞悟氏には本物の国士としての正統性が備わっている。従って拉
致問題を彼が中心に行うことは、北朝鮮や朝鮮総連、及び彼らの仲間に
なって国家を裏切る非国民たちの売国計画の邪魔になってしまうのであ
る。従って、国策捜査で西村氏は言論を封じられ、その間に日朝協議は
国交正常化に的を絞った話し合いを行ったのである。これを謀略と言わ
ずして何と呼ぼうか。

 小泉の首相としての任期は九月までであるからあとわずかである。今、
北朝鮮はミサイルを撃ち込んで毒々しい存在感を打ち出している。こうい
う中にあって、小泉という男の劇場型のサプライズが起こらないとは誰も
言えないのではないだろうか。ミサイル騒動の事態打開の帰結として、
小泉が日朝国交正常化を劇的に成し遂げる可能性を決して否定できな
いのである。この男が日本破壊の〆としてそれをしないように国民は油
断してはならないだろう。

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2006年7月13日 (木)

国際包囲網に立ち往生する日本

 北朝鮮のミサイルはすべて日本海に落ちている。識者や評論家たちは、
アメリカへの示威行為と見ているものが多いが、これまでの北朝鮮の外交
姿勢の延長戦で推察すれば、このミサイル発射の示威の目的国が日本で
あることは明らかである。アメリカへの示威行為だとするなら、額賀、安部、
麻生の強行制裁論は少し腑に落ちないところがある。特に、試論というこ
とではあろうが、ほとんど時を同じにして、額田防衛長官の「北朝鮮におけ
るミサイル基地先制攻撃論」は、これまでの経済制裁論の繋がりを考えれ
ば奇異な飛躍に感じる。

 専守防衛論による相手国への先制攻撃論は憲法九条と抱き合わせてや
る筋のものである。なぜなら専守防衛で相手の攻撃の出鼻を挫くという先
制攻撃作戦は、交戦権の範囲を理解しないと出来ないからである。正直言
って、そのような複雑怪奇な論議をするくらいなら九条を撤廃した方がよほ
ど理にかなっていると私などは思う。・・こういう類の筋論である。ところがで
ある、今はその筋論を欠いていきなり先制攻撃論にリンクしてしまってい
る。そのことがいたって奇妙に感じるのである。今回の騒動において、日
本が取り得る立場は、筋としては経済制裁の範囲である。額田長官の頭
が武力的な先制攻撃に直結するには、ファクトとしてよほどのことがなけれ
ばつじつまが合わないだろう。

 なぜなら、ミサイルの着弾地域が、取り敢えずは日本国土や近海ではな
いから、仮想攻撃目標がアメリカなのか、日本なのかまだ不明な段階で抑
止政策よりもかなり直截な制裁論を打ち出したからである。北朝鮮の攻撃
対象国が日本だと明らかにわかる示威発射ならば額田発言は当然であ
る。しかし、ロシア領海内へすべてのミサイルが着弾したなら、ミサイル基
地の先制攻撃論がすぐに浮上することは大きな違和感がある。もしかした
ら、今回のミサイルのすべてとは言わないが、ノドンの一発が日本沿岸部
に落ちているのかもしれない。

 着弾ポイントがニュースで示されるよりもはるかに日本に近い領域である
なら彼らの反応はわからないでもない。しかし、それならば、真の着弾ポイ
ントを隠蔽して報道情報を操作したことになる。本当の危機を国民に隠蔽
する体質の方が悪質である。国民がパニックを起こすから刺激するのは得
策ではないなどと考えていたなら、これこそ国民に対する重大な裏切りであ
り北朝鮮のように悪質な政治感覚である。もっとも、郵政民営化の時のよう
に、きわめて悪辣な世論誘導を行った小泉内閣ならばいかにもやりそうで
ある。

 だがニュースソースが限られている以上、真相はわからない。奇異に感
じるのは、いつもは出遅れてアメリカパパに意見を伺い、一呼吸も二呼吸
も遅れて控えめな声明を出す日本が、今回は安部官房長官を筆頭に素早
い強硬制裁論をぶち上げたことである。とすれば、既知のニュースで言わ
れている以上の桁外れの危機が実際には起きていたと考えたくもなる。そ
う考えれば、北朝鮮の外交官が「今、日朝関係は米朝関係よりも悪化して
おり、日本とは対立の局面に入っている」と言ったことが整合性を帯びてく
る。

 一方、ミサイル騒動に同期して、韓国拉致被害者の一人であり、横田め
ぐみさんの夫であるキム・ヨンナム氏(16歳で拉致された)とその家族と
の、大々的で感動を装った面会が行われた。こういう国家的演出その他の
パフォーマンスを考えれば、今回のミサイル発射の意図は、日本を脅かし
て揺さぶる行為としか考えられないのである。その真意は、前回でも言っ
たように、日本が拉致問題を終息せずに国交正常化から遠のいている方
向を見て、痺れを切らしてきたというところだろう。

 国交正常化とは、彼らにとっては莫大な金額を日本からせしめることに
等しく、国家と体制存続にとって死活問題の中心となっている。朝鮮総督
府の36年間は、大日本帝国が我が朝鮮民族を奴隷状態に置いて横暴な
支配を行った、従って、その賠償金を払ってもらうのが当然であるというの
が、彼らの言う「国交正常化」の真意である。小泉純一郎という男は、村山
富市とほぼ同じ歴史認識であり、昔にいういわゆるアカそのものである。こ
の自虐史観を基にした彼が、国交正常化で北朝鮮に莫大な賠償金を支払
うということに何の疑念も抱かないのは当然なのである。

 この男の本質的な悪質さは、アカ世界観バリバリであるにも関わらず、売
名的な靖国参拝を行うことにある。作家のあの井上ひさし氏でも、伊勢神
宮は嫌いでそばを通ることも避けて遠回りすると自らが言っているくらいで
あるから、反日的日本人としては小泉よりはよほど正直で人間らしい。とこ
ろが小泉は、左手で日本の国柄を破壊しまくり、右手で偽りの靖国参拝を
行う性格破綻者である。こういう輩に騙される国民は自らの不明を恥じる
方がいい。

 小泉政権と売国外務省の拙劣な外交で、チンピラ北朝鮮に過大な期待を
持たせてしまったことは事実である。彼らには彼らなりのチンピラ論理と筋
があるのである。これを過大に期待させ、拉致問題を引き延ばして北朝鮮
支配層の現生(げんなま)妄想を目一杯に膨らませたのが小泉政権であ
る。彼らは今、我々北朝鮮を嗜虐的にいじめている日本という見方をしてい
るようである。外交でチンピラ国家に見せ金をちらつかせることは絶対にや
ってはならないことなのである。ところが小泉はこの禁を見事に犯し、チン
ピラの本性を拡大させてしまったのである。これが今回のミサイル騒動に
繋がったのである。

 チンピラは金に眼が眩み、それを得るためには手段を選ばずに揺さぶり
をかけてくるからである。横田めぐみさんの偽遺骨提供もその一つである。
彼らはその遺骨提供でめぐみさん問題にけりが付くものだと本気で考えて
いた節がある。ところがDNA鑑定で遺骨は偽物と判明し、日本はますます
硬化した。北がめぐみさん生存説否定の企てと同時に、ミサイル発射で日
本を揺さぶったことは間違いないだろう。すなわち、もう我々は我慢できな
いのだ、もう時間がないのだ、日本よ、早く出すものを出せと。彼らは何と
しても日本から巨額の金を引き出したいのである。

 私は小泉政権が北朝鮮と国交正常化を行なうという基本的姿勢そのもの
が外交政策上とんでもないことだと考えている。日本国民を金正日が命令
して拉致したことがわかった時点で、本来は日本政府が徹底的に非難し、
拉致被害者の即時帰還を求めた上、国家賠償を北に求めるべきである。こ
れに応じない場合、本来ならば宣戦布告してすぐにでも北朝鮮を攻撃する
べきである。これが日本と北朝鮮の本来の筋のある関係である。

 ところが、北朝鮮は日本に憲法上の交戦権がないことをいいことに、好き
勝手に難癖つけて日本から多額の金をむしる算段である。この実態がある
にもかかわらず、小泉純一郎は国交正常化という亡国的な政策に終始し、
二度も平壌訪問を行った。日本国民の拉致拐取という国家主権を侵した山
賊へ日本の宰相が表敬訪問外交を行ったのである。しかも、国交正常化が
成立した暁には多額な「援助」という詐取的な国家賠償を支払うことになる
のである。こんな馬鹿な話は歴史上、前代未聞であろう。

 小泉は、アメリカの言うがままに構造改革という名の新自由主義体制(ネ
オリベ)を日本に敷き、この伝統ある日本社会を急速に弱肉強食を旨とする
無機的で非情な市場原理主義に改変している。その結果、日本人の精神
劣化は加速的に進んでしまった。それだけでもこの売国宰相は日本史の
汚辱として後世に列記されるが、北朝鮮との亡国外交でも日本の恥として
その名を留めるだろう。北朝鮮、韓国、シナが日本に押し付ける歴史観は
すべてが、アメリカが捏造した戦勝国正義史観で構成された虚偽の歴史認
識である。

  60年前のあの戦争を太平洋戦争史観と認識していることが最大の誤り
であって、正しくは日本側から見た大東亜戦争史観を主体的に把握する必
要がある。この歴史認識の錯誤が戦後日本の決定的な脆弱性を招いたの
である。日本の国際政治関係がいつも不利な立場に追いやられ、結局は
相手の言うがままに流されてしまうのは、基本として米国に押し付けられた
誤った歴史認識が国民、政治家の心を占めているからである。

 それにしても、北朝鮮の複数ミサイル発射について、日本のテレビやメデ
ィアに登場する識者たちの意見はひどいの一言に尽きる。経済制裁という
のは、日本が現段階で取り得る最大の制裁であるが、それでさえも、あい
もかわらず無能きわまる慎重論が堂々と横行しているのだ。慎重さの極限
は無能無主体ということである。話は逸れるが、交戦権を放棄した経済体
制などは理論的に有り得ないのである。なぜなら、国際経済上の駆け引き
は、場合によっては、最後に戦争できる力を行使できるというバックボーン
に支えられているから実効性を持つのである。戦後の日本は工業技術や
生産力は他国を抜きん出ていたが、商業、つまりは貿易の面では最後は
アメリカの言うがままになって凋落の憂き目に遭っている。理由はたった
一つ、交戦権、すなわち自国防衛権の行使が出来ない鎖に縛られている
からである。

 この実態を無視して、肩書きの立派な識者諸氏が役に立たない勝手な
ことを言っている。たとえば、北朝鮮はならず者であり、追い込めば自暴自
棄になって、何をやらかすかわかったものじゃない、だから経済制裁で刺激
したり追い込んだりせずに、辛抱強く話し合いで打開を図るべきであるとい
う意見はいまだに多い。たとえばその典型的な人物、NGOレインボーブリッ
ヂ代表代行の小坂浩彰などは、まるで北朝鮮の駐日大使みたいな印象で
ある。この人物の本音は拉致問題を棚にあげて国交正常化を急げというこ
とだろう。

 北朝鮮という国家が、我が国の何の罪咎もない国民を拉致拐取しておい
て、おそらくは百人以上はいるであろう拉致被害者を、日本から強引に拐
取、そればかりか日本を敵視する思想を植えつけ、そういう国家的な教育
機関などで働かせる。そういうことに適応しない拉致被害者の運命がどう
なるか想像に余りある。まったくむごい話である。対話と圧力路線は果たし
て有効なのであろうか。私はその路線に悲観的である。

 日本から拉致された国民が全体で何人かわからないが、少なくとも数百
名は越えているものと思う。この多くの被害者が全員無事であるとは限らな
いし、その帰還が交渉によって果たされると考えるには無理がある。拉致
を、特務機関の一部が暴走してやったということにしている国が、百名を越
す拉致に対しても同じ論法が通用するとは思えない。明らかに国家的な意
図による拉致犯罪である。従って、圧力と話し合いの次元では北朝鮮が拉
致の全貌を表に出すことは決してないだろう。

 拉致の全貌を明らかにすることは、自ら悪の枢軸国家を証明することにな
り、それは体制の崩壊を意味する。今生存しているすべての拉致被害者を
全員帰還させるには、日本による徹底的な戦闘行為以外にないように思え
る。ここに日本が陥っている最大のジレンマがある。結論的にはっきりと言
えるのだが、交戦権を持たない憲法大系では自国民の拉致被害者を救う
手立ては一つもない。国民を山賊国家に拐取されても、被害者を棄民的に
放置することしか出来ないのである。今、日本が遭遇している国家的な現
実は、他国による侵害行為に対して、自国の憲法大系がまったく無力であ
ることを目の当たりにして茫然としている姿であろう。

 拉致被害者奪還の何の有効な手立てもない現実と、ミサイルを撃ち込ま
れたら、先制攻撃も出来ず、何の迎撃手段も持たない我が国の丸裸同然
の現実が、何の余裕もなく突きつけられているのである。日本国民は今、
国家とは何か、主権とは何かに目覚め、外国の理不尽な侵害に対して決
然と物を言えるまともな国家に衣替えする必要を迫られている。衣替えと
は、自国民をきちんと防衛できる正しい憲法を制定することである。拳銃を
向けて迫ってくる奴に、何の武器も持たずに「お前は間違っている」と言っ
ても返事は言葉ではなく、相手の発砲である。

 かつての社会党が非武装中立論をぶち上げて、保守層の嘲笑を浴びた
ことがあるが、現在の日本もそれと大差ない現実にある。今の日本は「有
武装完全不使用」である。武器はあるが、武の精神が沈んでいるのであ
る。日本は、一つの大きな現実を悟ることが必要である。家族を守ることは
どの家庭でも父親であれば覚悟しているはずである。だが、国が防衛でき
なければ、大切な家族も郷土も守れないのである。この世界では国を捨て
て生き抜くことは出来ない。国を追放され、何千年ものディアスポラ(離散)
で世界の片隅で逼塞しながら生きてきたユダヤ民族のような運命を日本人
も選ぶのだろうか。

 今、小松左京の「日本沈没」がリバイバルされているが、原作者は、日本
が沈没した後の日本民族の離散の状態を書きあらわしてみたいと思って
いたらしい。沈没はしないまでも、国がシナに併呑されたらおしまいであ
る。北朝鮮の背後にはシナの日本侵略意志が強く透けて見えるのである。

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2006年7月 7日 (金)

ミサイルを見ても米国パパ頼りの日本

 北朝鮮ミサイル連続発射の真意とはなんだろうか。評論家諸氏が
さまざまなことを言っているが、いまひとつ彼らの目的が見えない。日
本海に立て続けに落としているが、その事実をテポドン2の失敗と捉え
ている見方もあるし、着弾ゾーンを敢えて限定し、その気になれば、ア
メリカの如何なるエリアにも正確に飛ばす能力があるんだぞという示
威行為に見えるという人もいる。

 着弾領域は日本海のある場所にまとまっているが、その領海はロシ
アである。ロシアは事前に了解していて猿芝居を打っているのだろう
か。領海に打ち込まれたにしては通り一遍の反応であり、むしろ日本
やアメリカに自重を求めているような雰囲気である。シナも似たような
鈍い反応であり、日米はこれ以上、北朝鮮を刺激する対応は控える
ようにと言っている。

 言われているように、北朝鮮はマカオの銀行口座凍結によって金
一族が相当に財政的に逼迫していることは事実であろう。おそらく
先軍国家であるから、金正日が軍部掌握にかなりの支障を来たして
いるのかもしれない。この状況で軍部の不満が鬱積し、軍部から金
正日は、日本との国交正常化、つまりは巨額な国家賠償金をなるべ
く早くせしめてくれと突き上げられているのかもしれない。

 北朝鮮が日本に求めていることは国交正常化ではない。どのよう
な名目であろうとも、朝鮮総督府時代の国家賠償を日本から取りたい
と考えているのである。ここに日本が注意しなければならない歴史認
識がある。シナ人しても、韓半島人にしても、我が国の教科書問題と
靖国参拝問題に執拗に干渉するのは、畢竟、等価交換なしに如何に
日本から巨額の金をむしり取るかにあるのである。つまり、東京裁判
史観を頑強に日本国民に固定化することによって、日本の国富を恒
久的に搾り取ろうとする海賊的野蛮性から出ているのである。

朝鮮総督府時代は、李氏朝鮮という極限的に無秩序で貧乏な半島状
況を日本が巨額の国費を投入して改善したのである。そういうプラスの
側面を無視して、日本を侵略国家という単純な位置づけによって、いつ
までも金を脅し取るという彼らの手法自体が、詐欺師的な国家品性、
民族品性を物語っている。

 北朝鮮も、拉致問題を契機に平壌宣言で国交正常化を狙ったが、日
本がそれに沿ってまったく動かないどころか、拉致問題を拡大してきた
という思わぬ方向に行ってしまった。彼らの取らぬ狸の皮算用が崩れた
というよりも、国の財政が逼迫してどうにもならないところまで来たのか
もしれない。国交正常化などは、彼らに取っては名目に過ぎない。あく
までも過去の歴史の清算という形で巨額な賠償金を日本から貰いたい
のである。乞食根性を偽りの歴史問題にすり替えるという意味では、シ
ナも韓国も同罪である。同じアジア人として恥ずかしい限りである。

 万景峰号寄港停止半年などと制裁するのであれば、期限を無限定にし
て、ミサイルの前に拉致問題への報復措置としてやるべきであろう。そ
の前に、ミサイルについて米国に頼りきっている日本人の性根が間違
っている。話し合いの限界をとうに超えている現実が、今のような国際
状況なのだ。日本はアメリカに頼らずに軍隊を持つべきである。日本の
文明を死守するという目標があれば、若者のアパシーやアノミーは、瞬
間的に氷解し、日本は秩序高い国家に向かうことができる。

 日本のために徴兵制を復活し、日本のために核武装を行うべきである。

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2006年6月27日 (火)

戦艦大和(24)◎大いなる主客転倒

 ◎アメリカは「美しい白鳥の子」なのか?

 前回では、アンデルセン童話「醜いアヒルの子」になぞらえて戦後日本
の姿を大雑把に描写した。それを書いていて、最後に面白い発想が浮か
んだ。その思い付きとは、アメリカを「醜いアヒルの子」形式で寓意的な話
にしたらどうなるかである。もう、気づいているかもしれないが、話としては
当然、「醜いアヒルの子」の逆転倒置のストーリーになる。この話では物語
に出てくるすべての価値観が、「醜いアヒルの子」とは正反対の倒置概念
で作られるのである。

 ____物語「美しい白鳥の子」____

 ある池に、美しい白鳥のお母さんがタマゴを抱いて、今か、今かと孵化
のときを待っていました。そのタマゴの中には、ひときわ小さなものがあり、
それが孵(かえ)ってヒナになると、姿かたち、色合いがあんまり他の兄弟
姉妹と違うので、みんなに不思議がられました。他の兄弟たちは、そのこ
とを悪くは取らず、むしろ自分たちにはない好ましい特徴だと感じていまし
た。彼を兄弟の誇りと想い、その変わった白鳥の子を大事にしました。お
母さん白鳥も、この子は毛色が変わっていて小柄だけれどもとても可愛い
子だから、元気でよい大人に成長して欲しいと心で祈っていました。
 
 風変わりな白鳥の子は、兄弟にほめられ、親に特に可愛がられて「僕
は白鳥の中でも特に美しく立派なんだ、白鳥の中でも選ばれた存在なん
だ」と思うようになりました。

 みんなから大事にされ、尊敬された美しい白鳥の子は、自分が鳥類の
中で最も美しく優れた存在だと思うようになりました。「自分は美しい白鳥
の中でも、特に優れた存在として生まれた特別な白鳥なんだ。世界は自
分のためにある」と思い込みました。

 凡庸な兄弟たちと一緒にいるのがつまらなくなり、美しい白鳥は魅惑に
満ちた外の世界を探検したくなり、外に出て行きました。ある池に達する
と、そこには色が茶色、小柄で風体の上がらない地味な鳥たちが泳いで
いました。美しい白鳥の子は思いました。「なんてぶざまで醜いやつらな
んだろう、よし、自分の美しい姿を見せ付けてうらやましがらせてやろう」
と考え、その鳥たちのそばまで泳いで行きました。

 美しい白鳥の子は、自分が近づいても、彼らが一向に驚く気配も尊敬
する気配も見せないことにいぶかしく思いました。すると、醜い鳥の一羽
が彼に「兄弟はどこから来たのかな?」と呼びかけました。何?僕のこと
を兄弟だと?なんて無礼なやつなんだと憤然としてきびすを返し岸に上
がりました。あいつらは偉大なもの、美しいものがわからないんだ、なん
て低俗な奴らだ、と、もう一度振り返って彼らを見ました。その時、ふと足
元の水面に目をやったら、水鏡には、やつらと同じ醜い一羽の鳥が映っ
ていました。

 その時、美しい白鳥の子は、はじめて自分が醜いアヒルの子であるこ
とに気が付いたのでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 この話は童話「醜いアヒルの子」を価値の倒置概念で書き直したもの
である。戦後の日本が、自らの文明を放擲し、その真の姿を忘却した状
態を、「醜いアヒルの子」として表したとすれば、極東国際軍事裁判で日
本を罪深き「醜いアヒル」にしたアメリカは、当然、正義と理想の代弁者
である「美しい白鳥」だということになる。アングロサクソンは確かに肌色
の白い民族である。しかし、彼らは美しいのだろうか。彼らは正義の使
者なのだろうか。彼らは、日本の二都市に原爆を炸裂させ、一般民間人
の虐殺を目的として非道きわまる都市空襲を行った。

 この人類犯罪を糊塗する目的でアメリカは極東国際軍事裁判を東京
に開廷し、日本がいかに残虐非道な国家であったのかということを執拗
にあげつらい、一切の抗弁を無効にして戦勝国の報復意志のみで日本
を裁いてしまった。ドイツナチスを裁いた思想とまったく同様に、日本を、
「人道に対する罪」及び「平和に対する罪」という、国際法にない事後遡
及の裁定思想で裁いた。戦後も日本の国富を吸い取る算段を宗主国気
取りで怜悧に実行しているアメリカ。考えれば、私には彼らが旧約聖書・
イザヤ書に出てくる「明けの明星」ルシファーに思えてくる。嘘を正義とし、
自らの犯罪を押し隠し、実質、属国同盟である安保を盾に我が国の国
富を貪欲に、恒久的に吸い取ろうとしているアメリカこそ、悪魔の申し子
である。アングロサクソンの侵略史を振り返ってみれば、先人たちが彼
らを「鬼畜米英」と呼んだのはけっして的外れな表現ではなかった。

 繰り返すが東京裁判では、日本を平和に対する罪、人道に対する罪で
勧善懲悪的な悪者として裁いた。極東国際軍事裁判をなぜ「東京裁判」
と言うのだろうか。そのことは、ただ単に東京で開廷されたからという意
味ではない。それは今、サッカーのワールドカップを開催しているドイツの
都市、ニュルンベルグでナチス犯罪を裁いた軍事法廷を指標にしたから
である。大日本帝国軍人が、ナチス犯罪と同位、あるいはそれ以上の人
類犯罪を犯したという前提にしなければ、アメリカの行った原爆投下と都
市空襲の大虐殺は正当化できないからである。

 大東亜戦争、日米戦はアメリカが日本に仕掛けて勃発した戦争であ
る。善悪の因果関係から言うなら、明らかに米英が悪いのである。白
人国家は数百年に及ぶ覇権侵略で、有色人種の国家群をことごとく踏
みにじり、奴隷化、植民地化、圧倒的な搾取を行ってきた。その最後の
標的が我が日本であった。先人たちは国家を防衛するために必死で欧
米の工業技術を取り入れ富国強兵策に邁進してきた。それは植民地化、
奴隷化を阻止するためであった。

 大正八年、パリ講和会議の際、国際連盟規約委員会の席上、国際連
盟の常任理事国であった日本は、「人種あるいは国籍如何(いかん)に
より法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」という人種差
別撤廃条項を案件した。しかし、欧米列強に蔓延(はびこ)るあまりにも
強い差別意識を斟酌した日本は、そうとうにトーンを減じて、「国家平等
の原則と国民の公正な処遇を約す」と、人種という言葉を除外して表現
を極力控えて提出した。

 ところが、国際連盟提唱者である米国のウッドロー・ウィルソン大統領
が、この提案を「重要案件は全会一致でなければならない」と、それま
で民主主義的な多数決原理に従っていた方法を突然ひるがえして強硬
に反対した。16ヶ国中11カ国が賛成していたにも関わらずである。米
国大統領自らが民主主義の国是を破棄して日本のもっともな提案を蹴
ったのである。日本にだけは適用できないデモクラシーということである。
世界で最もダブルスタンダードが得意な国はアメリカである。こんな国が
世界の警察を気取っているのだから世も末である。

 大東亜戦争勃発には、さまざまな誘因が入り組んでいるが、東亜百年
の歴史の中で日本が置かれた状況は、結局は対米戦が不可避な方向
へ進んできていたと私は思っている。ハルノートを上手くかわしたとして
も、時間の問題で対米決戦は起こったはずである。なぜなら、米国が日
本を列強として共存させる意志がなかったからである。幕末、黒船の砲
弾外交で、米国は一方的に開国を迫った。やむなく開国した日本は、工
業技術を取り入れ必死で国力の増強に努め、アジアで唯一帝国主義国
家を築くことができた。

 しかし、彼ら白人国家は日本の台頭を許容できなかったのである。そ
の底意は、植民地になる運命(さだめ)の小国日本が、自分たちと対等
の国力を持つこと自体が許せなかったのである。黄色い猿が自分たちと
同位同列の国際地位を持つなどとんでもないということであった。社会ダ
ーウィニズムによる白人優位主義、白人優生志向の枠組みを崩すわけ
には行かなかったからである。ウィルソンが、日本が提起した国際連盟
に人種平等条項を盛り込むことを忌避に等しい状態で受け入れなかった
のは当然のことであった。

 横暴な白人国家の侵略に、最後まで果敢に抵抗し、反撃を行った唯一
の有色人種国家が我が日本であった。日本が米英を中心とした白人国
家群と死力を尽くして戦った結果として、戦後はインドを始めとし、アフリ
カ諸国など、二百にあまる国家が独立を果たした。ここに白人の帝国主
義、植民地主義はその汚辱の幕を閉じたのである。しかし、戦勝国とな
ったアメリカは、日本的な国是、伝統観念、その民族性を徹底的に敵視
して、極東国際軍事裁判という、謂わば日本そのものを、日本の存在そ
のものを裁くという人類犯罪的な凶行を行ったのである。

 「醜いアヒルの子」という童話の落ちにはないが、白鳥が憧憬すべき
正義の価値だとすれば、当然、アヒルという存在は自身を優れたものと
思っている不正義の価値であり醜悪なる存在ということになる。日本民
族を品性極悪な民族と決め付けたアメリカこそ、醜悪な品性と価値観を
持つアヒルに相当する存在なのである。数百年も有色人種を殺戮して
きた白人は、その血で汚れた口で、大東亜の解放のために戦った日本
を「人道に対する罪」と「平和に対する罪」で裁いたのである。裁かれる
べき人類的な犯罪者が、東亜解放のために立ち上がった日本を裁いた
のである。これこそ大いなる主客転倒ではないか。

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2006年6月16日 (金)

戦艦大和(23)◎戦後の日本は醜いアヒルの子

  ◎戦後の日本は醜いアヒルの子である

 アンデルセン童話集には、有名な「醜いアヒルの子」という話がある。戦
後日本の姿を寓意的な童話であらわすとすれば、この「醜いアヒルの子」
が最もぴったり合った物語であろう。

 アヒルのお母さんがタマゴをあたためていた。中にはひときわ大きなタマ
ゴがあり、それが孵(かえ)ってヒナになると、姿かたち、色合いがあんまり
変わっているので、兄弟のアヒルたちにいじめられた。お前はなんて不細
工なやつだ、見れば見るほど不細工なやつだと馬鹿にされ、しまいにはお
母さんアヒルからも、どこかへ行ってくれればいいと見放されてしまった。

 みんなからいじめられ、侮蔑されて、とことん悄気(しょげ)ていた醜いア
ヒルの子はそこを飛び出し、とある場所で白鳥を目撃して感動する。「あん
な美しい鳥になれたならどんなにか幸せだろう」。醜いアヒルの子はその
まま厳しい冬を越す。春になってあたたかくなってきた。醜いアヒルの子は
羽ばたいてみたら空に浮き上がった。飛べるのだった。堀に舞い降りた醜
いアヒルの子は、そこにいた白鳥たちがいっせいに自分に近づいてくるの
を見て、「ああ、僕は殺されるんだ、でもいいや、みんなからいじめられる
よりも、あんな美しい鳥に殺されるほうが少しはましだ」と思った。

 意外なことに、近づいた白鳥は「こんにちは、新人さん」と挨拶をした。び
っくりした醜いアヒルの子は、水面に映った自分の姿が、自分が強く憧れ
ていた、あの真っ白に輝く白鳥の姿であることをはじめて知ったのであっ
た。

 
こういう物語である。この話は下手に受け取ると、自虐と自己愛のどん
でん返しにも見えるが、素直に解釈すれば、日本人の求道精神を想起さ
せる感じもある。皮相的に見るなら、人間の自己同一性の探求を寓話化し
ている。みんなから、お前は恥よ、無様よのうと言われるよりも、美しく死ぬ
方を選ぶ覚悟は、武士道精神である。

 奇態な姿のアヒルの子に生まれ、兄弟たちにさんざん馬鹿にされ、いじ
め抜かれた末に自己放擲に陥り、死を覚悟する。その時になって、初めて
世界は自分の真の姿を開示した。実にその姿は、彼の究極の理想である
鳥、優美な白鳥であった、めでたしめたし・・・。白鳥とアヒルのコントラスト、
話は単純明快であるだけに、この童話は映像的なイメージが鮮明である。
この童話を存在論的に捉えてみると、それなりに味わい深い物ではある
が、私はこの物語が、日本文明の魂を戦前に置き忘れまま、自分たちの
正体が見えず、何をやればいいのかわからずに足掻いている戦後の日本
に見えて仕方がない。

 戦艦大和に想いを馳せているうちに、戦後の日本が何か非常に大事な
ものを戦前に置き忘れてしまったのではないのかという疑念が日々に強ま
っていた。そしてそれは、戦艦大和の魅力に取りつかれれば取りつかれる
ほどいっそう強まるばかりである。終戦後、60年もの時は過ぎ、戦前の空
気や時代性を肌身で感じていた世代がこの世から去っていく。同時に若い
者がお年寄りから話を聞くという日本の伝承的風習が、核家族化など社会
の伝統構造の分解で断ち切られてしまい、物語としても戦前の文明に触れ
る機会は失われつつある。

 文明というものを大きく俯瞰すると、その民族国家に特有な性格や志向
性というものが見えてくる。我々は、その姿を過去の時代に造られた建築
様式とか、膨大な文学的文献などに見て取ることができる。この文明が孕
む民族の志向性は、特にその時代の美的な様式性に現われてくると考え
る。「醜いアヒルの子」は、戦後日本の文明的退嬰と、戦後に生きる日本
人全体の一貫した精神性の喪失、つまり、自国文明の認識を喪失したま
ま無様に生きている日本人を見事に言い当てている。

 ここで再びブルーノ・タウトに言及する。建築家である彼が、精力的に
「日本論」を書いて日本に知られ始めた時期が、ちょうど戦艦大和が設計
され、建造に着手されたころと一致しているようである。彼が完成した戦艦
大和を見たとしたら、彼の審美眼には大和がどのように見えたのか非常に
興味のあるところである。私は日本美の精髄として、タウトが伊勢神宮と桂
離宮を掲げたことは鋭い眼力だと思っている。特に、彼が伊勢神宮(おそ
らくは内宮の神明造りを主に指していると思うが)を、稲田の中の小屋、つ
まり、わらぶき屋根の農家の結晶的な建物だと看做したことは卓見と言う
ほかはない。確かに伊勢神宮には支那の影響を受けていない日本古代
の純粋な様式がある。

 そればかりではない。タウトは伊勢神宮にも、桂離宮にも、彼が建築家
として洞察した日本人特有の「釣り合い」の玄妙さをそこに見たのである。
これはいっぺんには説明しづらいが、建築的幾何学的な微妙な「間」はも
ちろんのこと、建築と人間、あるいは建築とその周辺の景観との微妙な釣
り合いの妙を捉えたのである。私は以前に、戦艦大和の美しい造形美は、
建造者がその美的意匠を意識して仕上げたのではなく、限られた条件下
で究極までに機能性を追及していて自然に出来上がったものだと書いた。

 実は、この考えはブルーノ・タウト自身も同じようなことを言っている。「日
本人論の中の日本人」を書いた築島謙三氏の言葉によれば、機械の外面
を美しくしようとして実現される美は芸術的な美ではない。機械に最高度の
機能を発揮させようと努力するところに、巧まずして芸術美が生じることが
あると。これこそ、戦艦大和の造形美にもぴったりと当てはまる言葉なの
である。

 「重要なのは、一切が実用的に極めて優れていると同時に、また外観も
端正なことである。しかし、それだけでもまだ十分でない。さらに何ものか
がこれに加わらねばならぬ、・・定義し難い、或はまったく定義し得ない何
ものかである」(タウト著作集より)

 建造者たちが戦艦の戦闘機能を究極的に追求した時、無意識に出来上
がった意匠が戦艦大和の類まれな船影美であった。しかし、タウトに倣う
わけではないが、戦艦大和にも機能美だけでは説明不能な、定義し難い、
あるいはまったく定義し得ない何ものか、超越した美がそこに現出してい
るのである。これこそが失われた日本文明を探る重要な鍵なのである。こ
れを気配という表現で言うなら、西行法師が伊勢神宮で感じた空気、気配
が案外近いものかもしれない。次の歌はあまりにも有名であるが、この歌
が簡素、控えめ、幽玄、そして清明な日本美の本質を最も的確に表してい
るのかもしれない。なぜなら、この歌自体があまりにも控えめで、表現する
ことを極力に抑えているからである。しかし、この歌を詠む日本人には、西
行の感得した伊勢神宮全体の神気、森閑の佇まいが浮立文字的によく理
解できるからである。この歌には、神道と仏教の融合性、すなわち本地垂
迹以前の日本人の原初的な信仰体系が感じ取れる。

 何事のおはしますをば知らねども
 かたじけなさに涙こぼるゝ      (西行)

 
 タウトは、日本人の文化意識の源泉が農家にあると考えた。かやぶき農
家というファクターの結晶的存在として伊勢神宮を捉えた。これは確かに間
違いない見方である。しかし、もう少し拡張的にこれを深く見つめると、農家
の先には山川草木の自然がある。伊勢神宮、あるいは桂離宮において、
彼が言うところの「釣り合い」の妙とは、私には人間が住む場所と自然との
調和的な関係性、あるいは絶妙な緊張感を孕んだ空間を造り出すことにあ
ると考える。伊勢神宮は大きな森の中にあり、桂離宮は日本の山河を凝ら
した庭園と一体になっている。伊勢神宮は鎮守の森の清冽な世界に鎮座
しており、桂離宮は風雅な庭園に清楚な様式美で建っている。

 両者の建築様式に共通に出ているものは、風土と建築様式の関係であ
る。あるいは土地柄と建築様式を生かした絶妙な空間配置とでも言えよう
か。建物とは、ただ雨露を凌ぐための構造物ではない。そこに人間が住む
こと、あるいは建物を祭祀などの場所として使用するに際しても、そこは人
間に文化的、文明的な空間感覚をもたらす場所なのである。建物自体は
自然という空間に対しては静的であるが、動く人間にとっては、目まぐるし
く変化する動的空間を媒介する場なのである。これは建物の内側と外側、
それぞれに動的空間がある。

 日本人は移ろうもの、変化するものに独特の心情を持っている民族であ
る。従って、桜花を愛でることや紅葉を愛でることは、移ろう自然のものの
あはれに心を投射し、同時に自己や他者、世の中の諸行無常、有為転変
に心を委ねて諦観することである。日本人は動きの中に静を観て取ること
ができる。逆に静の中に動きを観ることができる。変化の中に瞑想と祈り
を感じる心性がある。

 築島謙三氏はタウトについて言う。鋭い知性と美的感受性を持つ彼が、
比較美学論の立場に立って、日本人の生活、美意識、伊勢神宮、桂離宮
などを、連繋ある有機的全体として捉え、それが、他の芸術、文物への鑑
賞の土台をなし、果ては日本人の国民性の把握へと進み得たものと思う
と。戦艦大和に顕現した日本美は、戦前最後の日本的美意識の結晶であ
った。それが戦闘用兵器に忽然として現われたのは、その時代にはまだ
日本の文明が国民意識の中に燦然と花開いていたからだと言うことがで
きる。戦艦大和には、海に浮かぶ鉄の城としての威厳だけではなく、まさ
に西行が歌った、言葉で表現し得ないもの、定義し得ない何ものかが息づ
いていた。それこそが、それまでの日本にきちんと残存していた我が国の
文明感性ではなかっただろうか。

 ここで再び「醜いアヒルの子」の話に戻ろう。大東亜戦争に死力の限り
を尽くし、屍に屍を累々と重ねて日本は敗北した。敗戦直後の日本人は、
大東亜戦争に精魂を使い果たし、疲労の極限で、体内の酸素をすべて使
い切って精神のブラックアウトを起こしてしまった。日本人全体がその精神
の空白、虚無に揺曳している時、マッカーサー率いるGHQは、日本人の
その巨大なブラックアウト症状の上に、さらに洗脳を施したのである。これ
が太平洋戦争史観、すなわち東京裁判史観なのであった。昭和27年、
精神のブラックアウトから蘇生した日本人は、食べ物、生活物資の総てを
失っていたことに気が付き、まず食べることを目指して、がむしゃらに闇市
状態を脱却した。気が付いたら日本は世界第二の経済大国に成り上がっ
ていた。しかし、精神の深い虚無空間に施された洗脳史観は絶大な効果
を持って、戦後の日本人を囲繞し続けている。

 戦後、食うことに専念し、先祖から営々と築き上げてきた文明創出の
志向性を忘却した日本人は、自身が醜いアヒルの子になってしまったこ
とに気が付かず、自分たちはアジア友邦を残虐な目に遭わせた醜く忌ま
わしい過去を持っていると思い込んでしまった。また、日本が友邦と思い
込んだ支那と韓半島は、ことあるごとにお前は醜い国だ、残虐な国だと
日本に対して言い続けている。日本人はすっかり落ち込んで自分たちが、
独自に偉大な文明を歩んでいた事実を忘却してしまったのである。

 戦後の日本は文明を創出していない。創出したと思い込んでいるのは、
醜悪な町並み、醜悪な郊外型店舗群、世界に無類の秀麗な国土を、コン
クリート漬けにして破壊しただけである。日本人はいつになれば自分の
正体が白鳥であることに気付くのだろうか。日本文明とは、たぐい稀なる
自然が化身した優美な白鳥なのである。時代が日本を戦争に駆り立て、
その時代は必死に足掻きながらも戦艦大和という偉大な船を健造した。
国家を防衛するために精魂込めて造られた世界最大最強の戦艦には、
無意識ながらも、日本型文明の最後の美が顕現されていた。それは今、
三千名の英霊と共に四分五裂して海底に横たわっている。

 日本人が、この英霊たちの殉国死を、無駄死にだったと思い込んでい
るうちは未来永劫にアヒルの子のままである。アヒル(家鴨)とは、マガモ
を改良した家禽である。謂わば養鶏と同様に人間に喰われてしまう存在
である。気が付かないだろうか。日本人が今、家畜化され、その労働力
の成果がアメリカに喰われていることを。この二番煎じを虎視眈々と狙っ
ているのが支那である。先祖たちの築き上げた文明を亡失し、略奪を基
本とするならず者国家にいいように搾取される現状に怒りを覚えないだ
ろうか。この状況に陥ったのは、アメリカや支那が悪辣で狡猾であると
いうことだけではない。日本人自らが、国柄としての文明を喪失している
ことに最大の原因がある。この文明感性を再び呼び起こすことができれ
ば、日本人はおのれに覚醒し、優雅に空を羽ばたく白鳥になれるのであ
る。 

 

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2006年6月 5日 (月)

戦艦大和(22)◎日本文明には自然や先祖に対する涙の共感がある

   ◎日本文明には自然や先祖に対する涙の共感がある

 現在に生きる我々は、先人たちが、その時代の営為の中で弛まなく築き
上げてきた文化や文明に触れる時、彼らに対する深い共感からにじみ出
る涙は最も重要な鍵となる場合がある。日本人の大半が、北朝鮮に拉致
された、横田めぐみさん、他百名を越える同様の被害者たちに大きなシン
パシーをあまり感じていないことと、同じ戦後を生きる日本人が、自国の
過去の歴史に理解や共感を示すことができないという事実は、実は同じ
精神の有り方から出ている。それは国民同胞同士の共同体感覚、すな
わち、日本人同士の一体感、連帯感の喪失である。戦後の日本人は、
占領軍の言うままに民主主義を新たな精神パラダイムとして受け入れ
たが、それを機能させるための根幹的な国民思想を持たずに過ごしてき
た。

 民主主義そのものは、イギリスのジョン・ロックから始まり、その成り立
ちは教会権威に対抗して起きた啓蒙主義に源流を置いている。しかし、
民主主義が統治形態として機能するのは、その前提としてキリスト教倫
理が横たわっているからである。戦後日本の民主主義が、個人主義で
はなく、暴力的かつ無知蒙昧で醜悪な利己主義の代名詞に成り下がっ
たのは、統治原理を秩序付ける思想が根底に存在しなかったからであ
る。話は逸れるが、私は多神教・汎神論の国に、唯一神の権威を借りて
秩序を維持するタイプの国民統治原理は無理だと考えている。

 特に、日本の場合で唯一それが可能だった場合を考えれば、天皇を
現人神(あらひとがみ)として温存した場合のみであっただろう。それな
らば、欧米とは完全に異質ではあるが、日本固有の民主主義原理が、
それなりに機能して発達した可能性はあったのかもしれない。しかし、
戦争に敗れたからと言って、日本文明という精神原理の異なる国に、
フランスジャコバン党の革命原理と同質な世界観のアメリカ型民主主義
を一気に導入しても、国民精神に混乱、分裂が生じることは目に見えて
いたはずである。ところが、日本は七年の占領期間が終息した後も、つ
いに、その検討や修正を行わず、喰うための経済にのみ指向性を振り向
けて今日に至っている。

 その結果、何が起きたのかと言えば、日本人はお隣さんとなかよく「つ
るむ」という共同体精神を喪失し、個の充足、個の権利意識のみが突出
し、常識的な価値観としてそれが根付いた。その結果、民族に特有の相
互互恵感覚やいたわり、公への奉仕意識が溶解した。お隣さんの不幸は
わが身の不幸という、かつては当たり前だった共感、同情の国民精神が
吹っ飛んでしまい、北朝鮮というカルト的な犯罪国家に国民同胞を拉致
拐取されても、まるで他人事のように応じている。何度も言っているが、こ
の規模の国民拉致は十分過ぎる「戦争事由」に相当するのである。戦前
の日本人ならば、相当な義憤に駆られ、早急に政府の宣戦布告を要求し
ていただろう。それくらいのひどい事件が拉致事件なのである。

 ところが、政府を筆頭として、拉致事件にはまるで及び腰である。小泉
内閣に至っては、拉致事件について最も正当な対応ができる西村眞悟
氏を牢屋に監禁して置いて、犯罪国家と国交正常化の成立を画策すると
いう売国政策を行うという体たらくである。政府も国民も拉致という事態
を看過するような心持になっている。これを別の言葉で言えば、これは明
らかに「棄民」感覚なのである。ここまで言ったら、私の言う意図がわかっ
たと思うが、現代日本人が歴史を理解しないということと、拉致被害者や
被害者家族に対して大した同情も共感もせず、怒りもしないという趨勢は、
今の日本人を囲繞する「個への浮遊」感覚という意味で同じ所から出て
いるのである。すなわち、それは他者などには基本的に興味がない、国
家なども興味がないという自己への埋没なのである。これが同胞への棄
民感覚を生んでおり、国家共同体のアンバンドリングを加速させている。

 かつての日本人は、同胞のために怒り、同胞のために涙した。それは
天皇を国の大黒柱として、日本人が一大家族のようになかよく、互い同士
の安否を気遣っていたからである。しかし、今の日本人は、国家や国民と
いう言葉でさえも希薄な観念としてしか浮かんでこない。日本人が日本人
であるためには、自然の移り変わり、野の草花の変化に心を留め、他者
に目を配り、静かに、そして強い一体感を持てるということにある。これを
為しているのが、日本人特有の情緒性であり、和の精神性なのである。
特に今の日本人は情緒性を無価値なものとして無視する傾向がある。そ
れは欧米人の観念主義に毒されているからである。永い時間、国土の美
しい自然によって涵養された美的な情緒性こそ日本人特有の妙なる本質
である。これが基層にあるから、日本人は同胞の不幸に目を閉じていられ
ないのである。

 いまさら説明の必要はないかもしれないが、人間が涙を流すという現象
は、人間に内在する原初的感情の一つの肉体的な表出である。人間が生
物として、他生物と隔絶する典型的な特徴は、言語を持つとか、技術力を
発揮するとか、哲学や科学を思考し、それを文明的な出力として形にでき
る能力があるなど、さまざまにあるのだが、その中でも、涙を流す性質は
飛び抜けて興味深く、かつ重要な性質だと思うのである。
                   
 涙腺がゆるむという生理的な現象は、人種を問わず人類すべてに普遍
性を持ち、一番わかりやすい。涙の典型は、悲しみの感情の表出である。
たとえば肉親や親しい知己などを失った時などに出る涙である。あるいは
死というものを介在しなくても、親しい者同志が別離の境遇に置かれる時
である。また、悲しみ以外でも人間は涙を流す。何かを目にしたり、読ん
だり、聞いたりして、普段は隠れている精神の深奥に共感や同調が働い
た時、自然に感情が惹起されて涙を流すことがままある。その場合の感
情は、悲しみとは違い、むしろ肯定的な感情の場合が多い。また、音楽
や他の芸術に感動した時の涙もある。感動の涙はカタルシスを伴い、カ
タルシスはよりいっそうの涙を伴う感動の増幅作用である。

 歴史を理解するとはどういうことなのであろうか。我々が戦後教育で習
った歴史とは、客観性という名目を強調した無味乾燥な経時的な事象の
陳列である。こんなものが、一生を通じて行う世界認識や、政治感覚、人
生体験にとってどのような積極的な意義を持つと言うのだろうか。私は以
前から強く思っているが、歴史を知るという行為は、ただ単に経時的な事
象を記憶するということとは違うことだと考えている。特に日本人が日本
史を知る場合には、そこに登場するあらゆる事象や人物が、今生きてい
る我々と時空的に緊密な連続性を持っているという認識を持たなければ
ならないと考えている。

 それは現代人と過去人が、それぞれの時代という時空の異なる場所に
いても、同じ民族としての時間を越えた同一性が存在するからである。し
たがって、先祖たちの営為に伴う感情の有り方や動きは、今の我々でも、
かなりのリアリティをもって理解できるはずである。そういう情緒的、情念
的共感は過去の歴史に生きた先祖たちの行動の意味を探る上で非常に
有効な方法論だと思う。日本の歴史教育は、欧米のカント的デカルト的ヘ
ーゲル的な世界観のもとで行われているせいか、歴史の事象を記号論
理的な把握だけで終えてしまう場合が多い。

 歴史は、存在論的には不可解の塊りである人間が作るものであるから、
それを解釈する手法として、線形的な捉え方は事実を歪曲してしまうこと
になる。人間はオートマトン(自動人形)ではないのであるから、現実に生
きている我々が、その時代に現実に生きていた先祖たちを理解するため
には、情緒を媒介にした心の共振作用を惹起することは有効であると考
えている。人間が他者の行為や意念に共感して感動を覚える時は、涙を
伴うことがままある。その行為が、自己犠牲や自己放棄による愛他的行
為の場合は特にそうである。これに感応した時、この時に覚えるあの精
神の解放感(カタルシス)を経験してこそ、我々が本当の意味で先祖たち
を理解したと言えるのではないだろうか。歴史を「情理」で理解するという
ことは、つまりはそういうことのように思える。したがって、機械論的な理
解よりも、共感性を伴う感情的な理解の方がより高度で深遠な理解の方
法だと考えるのである。

 そういう基本を持たなければ、歴史という過去の生々しい生きた時間は
本当の意味で把握し様がないと思うのである。ならば、過去の生きた歴
史に触れるには如何なる心的態度が必要かということになるのだが、私
はそれこそが、日本人としての感情を介した共感作用にあると思う。すで
にこの世にいない過去の日本人も、現代に生きる日本人も同じ日本人で
ある。この同じ日本人が、時間という橋を隔てて、ある事象に対して共観
し、共感する時、歴史の実相が姿を表すような気がしている。すべての歴
史事象に感情移入や共感を行う必要はもちろんないのだが、先祖たちが
命を賭けて悩み、迷いぬいた末に判断して取った行動については、後世
の我々は可能な限り、その時代性をよく捉えた上で彼らの心情に共感す
ることは重要である。この考えの基本には、日本人には時代を超えた精
神性のアーキタイプが存在すると考えるからである。

 戦艦大和シリーズを書いていて、私自身は本当に言いたいことや考え
たことの根幹にはまだ触れていない。私が大和に関して感じたことや考
えたことが、どれほど真相に接近しているのか、あるいは乖離しているの
かわからないが、少なくともそれを言わずにいられないという気持ちは強
くある。それは大和の見事な造形性と、船影の威容に熾烈に惹かれてい
るからである。戦艦大和という謎に満ちたあの存在とはいったい何であっ
たのか、あの巨大な存在感の背景には何があったというのだろうか。戦
後という「非大和的な時代」の空気で育った我々にとって、戦艦大和が象
徴した時代性や文明の姿、その本質を私は純粋に知りたい。そして、戦
艦大和の撃沈とともに海底に沈んだ先人たちの統一された文明意識、そ
して当時の日本人が抱いていた伝統的な歴史観を私は知りたいと思って
いる。

 少なくとも、大和が象徴する時代性が、一般に理解されているように、
マルクス主義的な歴史観で言われている、いわゆる「軍国主義」の時代
などでは断じてあり得ない。我が国の教育要綱では、戦艦大和は軍国時
代の象徴であり、その最後は軍国時代の終焉だったという流れで捉えら
れている。すなわちマルクスの階級闘争史観である。国家間が戦争に入
った場合、文明の環境装置群の中で、軍事システムが突出して働くこと
は、国家生存の原理から当たり前のことであり、クラウセヴィッツの言う
ように、国家間闘争における軍事的行為自体には、どのような意味でも
善悪のファクターは存在しない。

 しかし、ある歴史的な経過の中で、国と国との相対的関係性を通観し
た場合、そこには戦争という収束に向かうべく、ある種の不可避な国際
政治力学は確かにあったことは間違いない。その意味においては、日
本とアメリカの相互関係はけっして等価ではない。大東亜戦争はアメリ
カ側による一方的な侵略の様相が見えている。

 日本人の誤った戦争観は、戦争が始まった時点から、歴史の起承転
結を見ていることである。どちらが先に攻撃したか、どの国から先に開
戦の口火を切ったかに重要な視点を置き、それ以前の相互関係や経
過の意味を捉えようとしない。国家のサバイバルとは言っても、ここに
は国益の確保と固有文明の維持という二つの筋合いがある。大東亜
戦争とは、その意味を解釈する時、以上の二つの意味合いだけではな
く、さまざまな位相が重畳されている。

 国家という一つの生命体も、食べることによって自分の身体(国民、
国土、経済など)を養って行かなければならず、時のABCD包囲網のよ
うに、物資の流れや供給を、国際社会に故意に停止させられた場合、
自存自衛の行動を起こす必然性は生まれるわけである。これを裏付け
ることの一つに、1951年のマッカーサーが「日本のあの戦争は自衛
の要素が強い」と発言したことである。戦争には大きく分けて二つの位
相がある。一つは、資源確保や領土の拡大を狙って外に侵攻して行く、
いわゆる侵略的戦争、もう一つは自国文明の防衛から起きる自衛戦争
である。

 戦後日本の大東亜戦争史観は、一般には自衛よりも侵略的位相が
はるかに強いものだと受け止められているが、その歴史的通念ははた
して正しいものと言えるだろうか。深い考察の下にその捉え方を再
探勝する必要がある。話を過去への共感から歴史を理解するという流
れに戻すことにしよう。日本の歴史を彩るさまざまな有名な登場人物に
は、その精神の形から学ぶべき人物が大勢出ている。たとえば、建武
の中興における楠木正成親子の話や、源平合戦時の熊谷直実と平敦
盛の話、また赤穂浪士の主君への忠節の一貫性などには、日本人の
精神の原型が強く出ている。

 歴史の連続性は重要であると、東京裁判の桎梏から自由になった多
くの人々は言う。しかし、それを実感として捉えることは、論理的な思考
や認識だけでは不足なのであり、そこには共感という情緒空間の介在
が必要である。この歴史の連続性が機能しているかどうかを判定するこ
とは、実はさほど難しいことではない。それは日本史上に現われた典型
的な人物に共感ないし同情ができるのかということにある。戦後の日本
人と戦前の日本人の大きな差異は、過去の物語に対して涙を流す度合
いがまったく違うことにある。戦前の人々は先祖たちを情緒的に、涙の
共感性を以って理解できる教育の中に育っている。その力づけに「教育
勅語」は、かなり重要な精神の態度を涵養したことは否定できない。

 戦後は、自国歴史を共感として捉えるどころか、進歩に出遅れる型を
持った究めて後進的で暗愚な歴史を歩んでいたと、否定的に考える教
育が積極的に行われた。そのために、日本人は先祖の営為を肯定的
に評価しないという、ある意味での自己否定に陥った。これが、戦後文
明の創出を阻んでしまったのである。私は、ある歴史的な人物の情意や
行為にシンパシーを持って涙した時は、特に彼らと同じ時間、そして同
じ認識を共有できると信じている。涙を流して共感するという状態も、人
類に共通な、多種多様な理解力の一つの典型である。我々は、なぜ絵
画や演劇、映画などを好んで観ようとするのだろうか。

 それは、日常生活という、ある意味では恒常的な繰り返しの生活様式
に彩(いろどり)を添えるために、娯楽として文芸的な文化を楽しむため
だけのものであろうか。文藝を鑑賞するというのは、形態的には受動的
な行為に見えるが、観る側の想像的な関与性で言うなら、非常に明確な
能動的行為である。文藝を観たがるという性質は、文藝に彩られている
他者性と、自己との相関関係を意識的に造ることによって、ある種の自
己確認を行おうとしているからである。ここにおいて、涙の共感性は、そ
の理解において重要なファクターとなる。人間が持つ、こういう性向は、
生活というトータルな営為の中ではそうとうに大きな比重を占めている。

 人間が、文藝を鑑賞しようとする性向は、実はその世界存在において、
無意識ではあるかもしれないが、自己存在の歴史的な位置づけを確認
するという意味もあるのではないだろうか。そして、こういう文芸娯楽を
追体験として鑑賞できる能力は、その人間個人個人の人生体験の多
様性や質によってさまざまな変化に富んだ世界をその目に映すことが
できる。この部分は科学的に数量化や定型化できないファジーな領域
であるが、人間生存にとっては非常に重要な要素でもある。なぜなら、
こういう人間の性質が集合し、共通した世界認識のもとで文化が形作
られるからである。

 人が生きるという行為は、ある時間の中で、自分自身の現在性の弛ま
ない集積であるから、当然、そこには感情の湧出も大きな関係を持つ。
最も切実で身近なことであるはずなのになぜか、現在進行形のその状
態の意味を、把握したり、認識したりできずにいる。生きるとは何だろう、
それはどういう意味を持つのか。自分がこの世に存在しているということ
は一体どういうことであろうか。自分はどこから来て、どこへ行こうとして
いるのか。この根源的な問いかけは、じつは古今東西で、人間存在に
まつわる普遍的なものであり、そのために人類史は人文科学というもの
を産み落とした。歴史の探勝とは、実はその自己同定、世界同定に連
なる重要な行為なのである。しかし、多様な人種が多様な哲学や宗教、
芸術を生み出しても、それは表現の多様性を生み出しながらも、それな
りの時間経過のうちに定型化しただけで、人類は相変わらず自己や世
界の存在論的な究明に悩み続けている。

 すなわち世界とは?自分とは?という問いかけが止んでしまったわけ
ではない。どの時代でも人間はその解答を得ようとして、千差万別の苦
しみを味わい、必死な足掻きを行ってきたし、それは現在も継続中であ
る。そういう世界同定、自己同一性を希求する刻苦精励的な営為が、さ
まざまな文化を起こし、結果としてその集積が各地に文明という足跡を
残してきたのである。人類史開闢以来、継続されてきたその営為はい
まだに普遍的に続いている。

 ところが、20世紀後半から、その問いかけの中において、外部条件
は急速に変化してきたのである。近代や前近代に比して、現代が決定
的に異なっていることは、世界性の中で、その物理的空間性の範囲が、
過去に比べて完全に限定化されてしまったという事実にある。つまり、
自分たちが属している世界というものが、以前までの地域(ローカル)
的な範囲ではなく、明らかにグローバルな「地球」という範囲に限定さ
れてしまったのである。

 交通科学、情報科学の発達によって、人類の世界認識は、限定空間
としての地球という認識に変わりつつある。人種相互の交流、国家間の
交流が盛んになり、人間の世界感覚は、古代や中世に比べて地球とい
う包括的な世界へ変わってきた。こういうグローバルな空間認識の中で、
文明創出の意味合いも変化してきている。しかし、脱国境、脱人種、脱
地域的な文化の創出が、地球文明という大枠の文明へ発展することは
原理的には有り得ないのであるから、もし、アメリカが狙っている「ワン
ワールド・オーダー」なる世界文明が志向されたとしたら、それは現代
の「バベルの塔」でしかないはずである。

 ここで、ジャン・ジャック・ルソー的な世界観を奇形に発展させた愚かな
人々、はっきり言って、何でもかんでも革命は自由な世界を実現し、伝統
は旧弊な堅苦しさであると硬直的に考えているグループは、国境やナショ
ナリズムを無形化無価値化した地球市民とか、コスモポリタンなどという
言い方をして、これからの人類のパラダイムが、いかにも国際的な生活
感覚の在り方に移行するかのような迷妄の言説をばら撒いた。固有の伝
統的文明感性を喪失した戦後の日本は、この左翼的な迷妄の世界観に、
空気的に感染したのである。

 これが、日本固有の伝統観念、そしてそれを継承発展させていく美意
識を希薄化させ、民族の品性や生命力を低下させてしまった。日本人の
文明創出の根幹には、民族の特質的性格としての「もののあはれ」と、
先祖に対する「涙の共感性」がその基層精神となっている。この精神性
は、日本列島の類まれなる美しい自然が長い時間をかけて日本民族に
作用した結果である。日本人の民族感性は自然によって涵養されたの
である。したがって日本人の文明創出の出力には、いつの時代でも、美
しい国土、美しい山河の存在が形象的に現われてくるのである。戦艦大
和の船影の美しさもその例外ではない。

 この自然から涵養された美意識は、どの時代にも日本民族の営為の
中に現出されてきた。しかし、戦後、アメリカ擬似文明に取り込まれた
日本人からは、この本来的な美意識は湧出しないのである。それは、
文明を創出する日本原理が働かないということなのである。

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2006年6月 4日 (日)

戦艦大和(21)◎文明を置き忘れた戦後の日本

    ◎戦後日本のインフラには文明が存在しない

 戦後の日本人は究めて大きな勘違いをして生きている。戦後の日本人
は、日本建国史上の連続性から鑑みれば、その歴史の正統性から見て、
明らかに巨大な錯誤の“核”を、精神の基層においてしまった。それは、
一言で言うならば、戦後日本は文明を戦前に置き忘れたということであ
る。また、それは必ずしも正確な言い方ではないが、自らのかけがえの
ない文明を脱ぎ捨てて、アメリカの物真似に奔走したからである。日本
人は、文明創出の原動力に費やすべき、精神的な“核”をアメリカ一辺
倒に据えてしまったのである。アメリカ型文明とは、西欧近代が到達し
た黄昏の文明であり、それは人類の強欲性の開花そのものである。こ
の文明は、一言で言えば、他者を食いつぶす型を持つ。他者や自然を
生かす型を持つ日本文明とは対蹠的な背反性を持つ文明である。

 日本人はそれに気づきかけて大東亜戦争を戦った。しかし、戦後の日
本人は敗戦に意気消沈し、せっかく気づきかけたアメリカ文明のいかが
わしさを忘却し、再び近代主義、すなわち強欲な物質主義を憧憬した。
その結果、精神の方向性を巨大なる錯誤によって狂わされてしまったの
である。その錯誤の本質が何であるのかを、日本人は自らの悟性と論
理でその意味を認識し、その迷妄の精神世界からなるべく早く脱出しな
ければならない。そうしなければ、この地球上に優曇華(うどんげ)の花
よりも稀少な文明を開化させた、我が日本のかけがえのない本質が泡
沫となって消え去ることになる。これを防ぐために、日本人は民族の特
質としての“悟性”を最大限に働かせ、この類まれなる日本文明の再構
築を行う必要がある。

 このような言い方をしても、すぐには何を言っているのかピンとこない人
たちが大勢いると思う。今、私は“悟性”という言葉を唐突に使用したが、
それは物事を理解する上で非常に重要なことである。悟性と言えば、よく
禅寺で座禅を組み、“悟りの境地”とか、“無我の境地”などというイメージ
を思い浮かべるが、私の言うことはそのような高尚で難しい話ではなく、ご
く普通の意味での、物事を見究める事、正しく認識することというものであ
る。

 その前に、「日本文明の再構築」という大雑把な概念を少し説明してお
きたい。構築、再構築と言っても、私の言わんとしていることは、社会の
インフラ再整備ということではない。ご存知の通りインフラとは
Infrastructureであり、社会の基盤整備という意味である。それは、人間
が健全な社会生活を営む上で、生活、健康、安全、環境防衛、経済の安
定性や持続的発展の可能性などを助ける社会システムの構築のことであ
る。しかし、この社会インフラの思想そのものは、生態学的文明論におい
ては、文明の環境装置群そのものではない。

 社会インフラというものは、国民の総意的な文明感性の統一性から生じ
るプラグマティックなシステム構成なのである。今の内閣や政治家たちの
姿勢には、この見識が思いっきり不足しているように思える。目的と手段
というように分けた場合、政府の言う社会インフラというものは、明らかに
手段に属することである。手段というものは目的が明確であって初めて成
立するものであり、手段が目的化することは、文明意識の愚鈍化そのもの
である。つまり、社会インフラを口角泡を飛ばして熱弁する政治家は、社会
インフラの文明的な思想や位置づけがまったくできていないのである。

 社会インフラは国や地域の統一的秩序をもたらし、その中で起こる文化
の多様性や将来に向けてのさまざまな意味における志向性に需要な概
念である。この概念は、結果として文明の重要な装置群の枠組みにはな
り得るが、それ自体はけっして目的ではない。重要なことは、社会インフラ
が成立するためのプリンシパルな土台に、文明の在り方、及びその方向
付けが絶対的に必要なのである。聖書では、神の言葉として「はじめに
言葉(ロゴス)が有った」と言っているように、インフラというものには、大
前提として文明観念の構築が絶対条件として必要なのである。

 我々の国家民族は、どのような文明世界に伝統として立脚しているの
か、そしてその文明思想をどのように継承し、どのように未来に発展させ
て行くのかというヴィジョンが先であり、これを国民精神として明確に意
識に刻み付ける必要がある。戦後の日本は明らかにその意味での伝統
的な文明意識を喪失しているのである。一つの端的な事例として、その
ことは戦後の社会インフラの無秩序性、雑然性に現われている。インフ
ラには、都市整備、道路網整備、教育機関整備、情報インフラ等、さま
ざまなジャンルがあり、社会性を構成するあらゆる要素に及んでいるが、
こういう社会インフラのハードが構築されてそれが機能するためには、
当然、それを統括的にオペレーションするソフトが要る。そのソフトにな
り得る思想が文明観なのである。

 文明こそ、人間が社会に存在するための最も基本的な土台なのであ
る。文明の生態史観を導入すると、私が言わんとしていることの大要は
理解できると思う。すなわち、国家や民族が健全であるためには、不断
なるオートジェニック(自成的)な文明の創出が必要なのであり、それは
受け継がれた伝統的文明観を継承することによって保全され、新たに
更新されて行くのである。ところがである。大東亜戦争の敗戦にまみえ
た日本は、戦勝国アメリカの言うがままに自国の伝統文化に疑念を持ち、
それを捨て去るか、あるいは思考停止に持って行くかという最も暗愚な
方法を取ったまま、六十年もの歳月を歩んできている。

 戦後の日本が行ってきたことは、文明の要素が存在しない、言わば魂
無きインフラであった。そのために戦後の日本は、その偉大な潜在力を
発動して世界に冠たる経済大国の地位を得たが、国民はけっして真の
満足にいたることはなかったのである。なぜなら、日本が得た経済大国
という地位は、一見自生的な発展には見えるが、それは、我が国特有の
文明観や国柄を無視して行われたために、産業革命的な大量生産、大
量消費の限られた範囲でしか効果のない発展に帰趨し、戦後文明の新
たな創出にはなんら寄与するものではなかった。そのために、バブル以
降、平成の日本は極端に国家的生命力が低下してしまったのである。

 日本はもともと高度な社会インフラを築き、それを地道に発展させて行く
能力があったが、それは民族の共同体的統一性が取れていたからであり、
自分たちの文明というものを強く意識していたからに他ならない。戦後日
本の鬼神も驚くような経済発展は、ただ、焦土から脱却したいという願望
に絞られたからである。それでも、戦前文明のオートジェニックな精神性
は、わずかだが残存しており、その遺産で経済的な国力を築いてしまった
とも言える。

 逆に考えれば、文明的な土台を持たずにあれだけの経済発展を成し遂
げた事実は、それだけ日本人が持つ潜在的ポテンシャルが巨大であるこ
との証左となっている。私は、今描いている戦艦大和シリーズでは、文明
の確かな証として各時代時代に、その文明の本質から抽出される何らか
の“美”が社会や環境に反映されるということを大きなテーマとして強調的
に取り上げている。

 明治、大正期の国策的な国家神道は、それが国家統一の原理的な指
針とされていた戦前でさえもそれなりの批判があった。GHQによる「神道
指令」によって明治以来の国家神道体制は崩壊したわけである。我々戦
後の日本人はそのことを、明治政府が国家体制の強化のために無理や
り造った、本来のネイティブな神道とはまったく異なる人工的な神道大系
が崩壊したというように理解している。国家神道は日本の伝統文化に対
し、確かに少なくない弊害をもたらした。その一つを言えば、神社合祀令
による鎮守の森の大幅な減少がある。

 しかし、考えてみれば戦前文明は、この国家神道を一つの求心力とし
て進んできたことは間違いない。私が言いたいことは、このいびつだっ
た国家神道を全否定することによって、そこに込められていた、何か重
要な日本的伝統的精神が忘却され、それとともに日本人が文明を創出
するという、民族生存の基本原理そのものが埋没されてしまったのでは
ないのかという基本的な疑念にある。これについては、短い説明は困難
であり、そのうち綿密に考えてみたいと思っている。

 要は、幕末から明治新体制発足にかけて、この当時の日本人が強く志
向したことを第一に考える必要がある。それは、国家崩壊を招く国内動
乱を敢えて起こしてたとしても、欧米列強に対して強力な防御力を持つ
新たな国家体制を樹立するという一念にあったことである。欧米列強に
対等に対峙できる国造りを明治政府が目指した時、何が最も適切な国
家体制なのかという深い考察があったはずである。その結果が天皇を
軍神として立憲君主体制を確立し、国家神道を基層に置いた明治新体
制が案出されたというわけである。当時はそれが最適と思われた国家
体制であったということがある。今、国家神道は、さまざまな批判や糾
弾を浴びているが、それはほとんどが全否定に近いネガティブなもので
ある。

 問題はその「全否定」ということにある。ここで考えてみなければなら
ないことは、“戦前文明の核”としての国家神道は、はたして全否定さ
れるべき悪玉なのかということにある。こういう視点も必要だと私は思
うが、それは日本という国に滔々と流れていた「日本文明の水脈」が
国家神道という求心力によって、大東亜戦争敗北まで護られてきたと
いう視点を持つことである。国家神道とは、天皇を軍神としてシンボラ
イズするために急拵えされた、ある種の硬直的な国家装置として機能
したことは否定できない。にも関わらず、それが日本人の文明的感性
をきちんと保ってきた役割を果たしてきたことは誰も指摘していない事
実である。

 天皇は、日本にあるすべての神社の頂点にある祭司の長でもある。
多様な神道系列の中で、国家神道というある種の単純化、統合化が
行われたことは、国家共同体の結束力を、防衛の方向に統一強化す
るためでもあった。この時期に欧米列強が軒並みに帝国主義化して、
日本もそれに合わせるために帝国主義へと変貌したと見るのは早計
である。日本が明治以来、国策とした「富国強兵」は、欧米と同列な
力による覇権主義への道ではなく、国家防衛、文明防衛としての意味
が強かったのである。

 軍事面で海外に太刀打ちできる十分な装備もまだ保有していない維
新の段階で、日本文明を継承し、しかも国際的に自衛の力を有すると
いう国家喫緊の方向性が定まった時、明治からの国家神道体制を無下
に全否定する者達は、自分自身が、それに代わる有効な国家護持の
主体性を、どのように持ち得たのかを提示する必要があると思える。そ
の提示を明確に為し得ないままに、国家神道を一言の下に全否定する
ことはけっして論理的な態度とは言えないだろう。

 戦後日本は戦禍で荒廃した焦土の中から、衣食住の充足だけを考え
て、必死に産業経済を立て直し、その勢いで高度経済成長を成し遂げ
た。しかし、この線形的な国民ダイナミズムには文明継承と創出の意志
が欠落していたのである。そのために、特に平成に至ってから、我が国
は軍事のみならず、経済体制までもアメリカの膝下に奴隷的に踏みつけ
られてしまったのである。アメリカの完全属国化が小泉内閣によって加
速的に進行してしまった現代日本の様相は、まさに、戦後、わずかなが
ら残存していた日本文明の残滓が、漸減し、それがまもなく消えうせてし
まう瀬戸際に突入したことを示しているのである。

 日本文明の残滓という言い方は甚だ奇妙ではあるが、我々日本人の
DNAはしっかりと保たれているわけであるから、その残滓を文明の種火
だと考えれば、それがいきなり燃えてきて、文明を再興することは充分に
可能だと考えている。日本が再び独自の文明国家に復権するためには、
論理の力以前に、日本人ならではの美的な覚醒が必要となると考える。
言い換えるならば、日本人に文明的な覚醒が起こらない限り、現在のア
メリカによるアロジェニックな強制性からは絶対に脱出することはできな
いということである。

 今の日本人が陥っている巨大な錯誤とは、社会インフラが上手く行け
ばそれなりの文明が築かれると考えていることにある。それはまったく
逆である。まず初めに日本文明への覚醒が為され、次にその文明の方
向性が確立されることである。これによって初めてインフラが整えられる
のである。

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2006年5月28日 (日)

戦艦大和(20)◎戦後日本の文明構築力は弛緩した

  ◎戦後日本は文明エントロピーを増大する方向に歩んだ

 私はなぜ、戦艦大和にこれほどまでに惹かれているのだろうか。小学生
のころにプラモデル・キットの紙箱に描かれてあった、波しぶきを上げて進
む大和の勇壮な姿に憧れた記憶は確かにあった。しかし、必ずしもそれが
今の基層的な原体験になったとは思わない。子供のころは、一番好きなも
のが、戦車やブルドーザーであった。それは無限軌道輪の力強さに惹か
れていたからである。地面の凹凸を物ともせずに進む姿にたまらない感動
を覚えていたからである。

 戦艦大和は、目に見える場所にすでに実物はなかったわけであるから、
実物のスケール感も、鉄の浮き城の剛毅な硬質感も知りようがなかった。
雑誌やプラモデルの箱に描かれた挿絵が船体を認識する唯一の情報源
であった。しかし、人が描いた挿絵からでも、その受ける印象は圧倒的な
迫力のある戦艦だと感じていた。私はその頃、道なき原野を豪快に走破
する戦車の重厚な迫力と同じような機動性を、海上の戦艦大和に感じて
いたようである。もちろん、子供なりに直観的に大和の調和の取れた美的
なスタイルは見ていたとは思うが、興味の中心はまず力強さであった。

 あれから四十年近く隔たって、自分は戦艦大和の新たな面に強い魅力
を感じ取るようになっていた。つまり、戦艦大和に対する興味や感動のファ
クターが、子供の頃と逆転したのである。それは力強さよりも、大和に顕
現された美的特質が、自分の深奥を揺らしてやまないことである。もちろ
ん、私は今でも戦艦の持つ剛毅、豪快なイメージは好きだが、今は戦艦
大和に顕現された、軍用という用途から想起する世界をはるかに超えた
日本特有の文化のデザインに尽きない興味を抱いているのである。

 前にも書いたが、戦艦大和にデザインされた秀麗かつ緻密な芸術的形
状は、建造に携わった者たちが意識して仕上げた造形性ではない。これ
は、先人たちが当時、その持てる技術の最高水準を駆使し、一つの国家
的機密プロジェクトの中で組み立てる中で無意識に出たものである。そこ
には、乗用車や電化製品など、市場に出回る民需要品のような商業主義
的な意匠、あるいは新規性を示す意図的なデザインなどは微塵も見られ
なかった。戦後日本の産業品や構築物、あるいは公共的な人工環境群
に、日本独自の文明的なデザインがまったくなかったわけではないが、文
明そのものが湧出する統一的なデザインは皆無だったとは言えるだろう。
戦後の由々しき問題点は、戦艦大和に無意識に現われた文明の美的な
統一性が、社会のどこにもほとんど表現されて来なかったということにあ
る。

 「大和」建造が計画された昭和八年当時、それはまだA140計画と呼ば
れていた。大正十一年のワシントン軍縮条約では、主力艦の数量の制限
と合わせて、基準排水量は三万五千トン以下、備砲の口径は四十センチ
以下に制限された。また、昭和五年のロンドン条約では、主力艦の建造
中止期間が五年延長されて、昭和十一年末までと決まった。

 当時の世界の軍艦事情は、米、英、日の主力艦保有比率が、五:五:三
であった上に、主力艦の建造中止機関を五年も延ばされたのである。米、
英はこの間、条約決定条件に抵触しない一万トン規模の軍艦を大量生産
することができたし、既存の戦艦を改良することができた。しかし、日本海
軍の既存艦はこの間に老朽化し、いざ英米と対峙する時には、圧倒的に
数が少ない老朽艦で、相手国の多数の最新鋭艦と戦うという悪夢を見るこ
とになった。

 ここに、ワシントン条約を脱退して超弩級大和級戦艦の設計思想が決定
されたのである。最終的に決まった大和の仕様規模は、主砲四十六セン
チ砲八門以上、副砲十五、五センチ砲三連装四基、二十センチ砲連装四
基、速力三十ノット以上、総排水量は七万トンクラス。設計大綱は三つあ
り、一つは、他国の追随を許さぬ卓越した戦闘能力を有すること、すなわ
ち量産せず、相手国の量的規模に太刀打ちできる戦闘能力を有すること。

 二つ目は、緒戦において相手に大打撃を与える主砲を有すること。その
ために四十六センチ主砲を装備する。これは戦艦決戦において相手側の
攻撃レンジの外側から優位に砲撃できること、すなわちアウトレンジの考
えである。三つ目は、機動力を重視し、仮想敵国の同型戦艦よりも、速力
において三ないし五ノットの優性を有すること、そのためには艦速を三十
二~三十五ノットにすることであった。このような設計思想は当時の国力
的な背景を考えれば当然のことであった。ここで、歴史というものを私は
考える。

 日本が、欧米列強と同列な潤沢なる物資がなく、しかも、産業革命的に
も後進的立場から出発している国であったなら、たとえ、列強に対峙する
ためとは言え、大艦巨砲思想を持てるものだろうかということである。つま
り、アウトレンジの戦闘思想を思いついたとしても、それを実現し得るハー
ドとソフトが備わっていただろうかという疑問である。

 私は国家の技術産業能力が、イギリスから始まった技術的な産業革命
の潮流だけで成り上がったのであれば、我が国は大艦巨砲戦艦どころか、
欧米の戦艦と同等のものを建造することさえ無理なことであったと思うの
である。ところが、日本はこの当時、大和級という史上最大の超弩級戦艦
を建造したのである。当時の非常に貧しい条件化でこの偉業をやり遂げ
た日本の奇跡的な国力の背景は、欧米のヘーゲル的で経時的な歴史観
では説明し得ないことなのである。

 ここにおいて、戦艦大和建造の背景に、日本という国の文明の生態史
観的な視点がそれを説明できるのである。すなわち、日本におけるオート
ジェニック(自成的)な産業技術の進展は、江戸時代の鎖国期間に十分
に熟成されており、それが土台となって、明治以降の欧米の産業技術に
適応し、ある部分ではそれを陵駕できたということである。この見方は戦
艦大和の技術史的な意味において、非常に重要で興味深いことである
が、今私が行っている考察は、大和の美学的な内実を主眼にしているか
ら、技術的な視点からのその展開は控えておく。しかし、欧米に対して技
術的な適応性、進歩性を当時の日本が持てたという事実は、日本文明の
根幹的な在り方と深く関わってくる事象でもあるから、産業技術史の生態
史観的な認識の基本は心に留めておきたい。

 話を最初の流れに戻すが、大和という戦艦に顕現された文化、芸術性
を、今は考察対象としている。戦艦大和が大東亜戦争の終焉を象徴した
戦艦であったということは、ほぼ異論はないであろう。しかし、それと同時
に戦艦大和は戦前文明そのものを、美術的モニュメントとして有した歴史
的な構造物であるから、その文明モニュメントが破壊されて海底に沈んで
しまったことは、戦前に実体として現われていたそれまでの日本文明の
形も一緒に沈んでしまったことを意味する。勘違いしてもらいたくはないが、
文明の形が沈んだという表現は、日本文明そのものの自成的な潜在力が
死んでしまったということではもちろんない。

 もしそうならば、時代に応じた日本文明の在り方や未来の可能性を展望
することさえ、むなしい発想となる。日本文明の蟻塚を創造していく、活力
や方向性が打ち出せないでいるのが戦後の日本なのである。高度経済成
長を成し遂げたことは、民族の一つの力ではあるが、戦前までに行われた
きた文明の絶え間ない建設はまったく行われていない。これから展開する
が、戦後日本のすべての社会インフラや経済発展の核には、文明が健康
体であったなら、必ず現出する美的構築物や美学的な様式性はまったく
ないのである。それは都市の景観、町並み、地方の無茶苦茶な道路行政、
環境行政にはっきりと出ている。国民の総合的な営為の結果が、荒廃し
た社会景観しかもたらさなくて、どうして文明が築けるというのだろうか。

 これはすなわち、民族の衰亡と言ってもいいだろう。戦後六十年は、日
本人の精神を涵養する日本文化の集積は行われず、その環境的な結果
としての日本文明の構築は成されて来なかったのである。これが、今の
日本人が抱える最大の問題である、日本人は戦後の世界観の大規模な
修正を行い、それと共に戦艦大和に顕彰された正統なる日本の文明性
に回帰することである。その上で、新しい文明を構築していくビジョンを探
る必要がある。こういう方向性を持つことが民族生存のための需要な課
題なのである。そのために緊急を要する第一の条件は、アメリカの属国
感覚から少しでも早く脱出することである。

 明治維新から戦前、つまり終戦時まで、日本は紆余曲折はあったが、
独自固有の文明の集積は絶えず行われてきた。これを、文明エントロピ
ーの絶え間ない減少化という姿で観るならば、明らかに戦後の日本は
文明エントロピーの絶え間ない増大に向かってきたと言えるのである。
それを文明の生態史観的な言い方に換えると、戦後日本とは、日本固
有のオートジェニック(自成的)な文明創出を停止した状態で、アメリカに
よるアロジェニック(他成的)な社会インフラと、伝統精神から乖離した他
動的な国民精神に安住してしまったという情けない事実があったという
ことである。

その傾向は現在に至っていっそう強まってきており、現在はその他成
的な遷移(変化)の極限、すなわち極相(クライマックス)に到達しようと
しているのである。これは文明エントロピーの姿で観るなら、増大の究
極地点、すなわちアメリカ的な新自由主義世界という、いわゆる他者文
明的な平衡地点に到達しようとしているのである。こういう戦後日本の
概括的な動性を、梅棹の文明生態史観的に言うならば、戦後の日本は、
それまでの「第一地域」の領域から離れて、明らかにアロジェニックな
「第二地域」に属するグループに入ってしまったということになる。この
変化を現代的な国際政治力学で言い換えるならば、日本はシナの華夷
秩序に再び飲み込まれようとしていることになる。つまり、日本のオート
ジェニックな連続性が中断してしまった形になっているのであり、これは
国家の自立性の破綻なのである。文明的な秩序形成能力の衰亡、す
なわち、これは日本文明の完全な崩壊が間近に迫っているということと
同義なのである。

 今の日本が突破しなければならない、民族・国家的な最大の問題点と
は、アメリカによる我が国への支配的な実態にある。この他成的な強制
力から自由になることが喫緊の課題である。これを成し遂げるための精
神的な自覚は、我が国が固有の文明を有していて、その文明の集積は
戦前まで確かに行われていたという歴史観に目覚めることである。そう
いう正しい歴史観に復権すれば、日本人は正統な文明の連続性を取り
戻し、21世紀の新たな外衣をまといながら、再び生命力に満ちた力強
い文明観で生きることが可能になるだろう。

 日本文明の復権こそが、かつて三島由紀夫が檄文で語ったこと、すな
わち、「生命を超える価値、それは日本である」ということの真意だと私は
確信しているのである。生命を超える価値と言う素晴らしい文明性を絶え
間なく築き上げていた日本は、大東亜戦争に敗北してから、その自国文
明に生きる気力を喪失した。そのため、基本的な文明創出の営為性を失
い、文明もどきであるアメリカの自堕落な享楽的世界観に取り込まれた。

 アメリカの世界観、すなわち近代主義の成れの果ての世界観は、人間
や自然的存在を愚弄するイミテーションの文明である。ここには希望も未
来も存在せず、破壊と享楽の志向性しか見えない。アメリカはすでに文明
エントロピー的に観て熱的な平衡死の段階にある。文明生態学的に観て
アメリカは、死相を伴った極相的地点に入ってしまっている。ここから世界
秩序の安定化や環境修復の可能性はまったくあり得ない。

 戦艦大和に顕現された文明の形こそ、日本が、いや、世界がその手に
再び取り戻すべき、希望の文明なのである。冒頭で、私は戦艦大和にな
ぜこれほどまでに惹かれているのだろうかと言ったが、その答えを言う。
戦艦大和こそ、忘却した日本文明の正統なる象徴なのである。だからこ
そ私は戦艦大和に、単なる憧憬を超えた熾烈な郷愁と回帰願望を覚え
るのである。

    (参考図書 前間孝則「戦艦大和誕生(上)(下)」)

 

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2006年5月22日 (月)

戦艦大和(19)◎戦前最後の偉大なる文明モニュメント

 ◎戦艦大和こそ戦前最後の偉大なる文明モニュメントである

 前回では、「戦後教育の本質とは、煎じ詰めれば、欧米の近代主義その
ものの世界観である。当然、この世界観で自国の歴史や文化、芸術を分析
しても実りある発展的な回答は得られない。」と書いた。補足すれば、近代
主義の世界観では、なぜ有効性が乏しいのかということであるが、これは
案外簡単に指摘できる。結局、この世界観は要素還元主義なのであり、機
械的単線的な世界像である。

 ここでは思考様式が単純化される傾向が顕著になる。人間の営為に関
わる複雑性や多様性すべてが、単一な要素還元主義として解釈されてし
まうという傾向が発生してしまうのである。我々戦後生まれの日本人は、
物心付いた時から否応なくこのような思考方式に従ってしまう習性が身
に付いているのである。

 戦後教育で我々が与えられた近代主義的な世界像のイメージとは、ずば
り言ってアメリカニズムである。アメリカの文明観、歴史観が西洋近代主義
というものの一つの行き着く先を示している。文明の生態史観的な見方か
らすれば、アメリカ一辺倒の世界観が、どれほど我々に誤った文化感性を
持たせてしまうかという言い方ができてくる。「西洋の没落」を書いたシュペ
ングラーは、西欧近代観念の終焉をテーマにしたが、その取り扱い方はキ
リスト教の終末論的世界時間の基底にある予定調和的な世界観によって
行われている。謂わば、ニュートン・ライプニッツ的な世界像から少しも抜け
出ていないのである。

   これを自明の理として子供たちにおしつけ、これを自明の理としてありが
たがって六十年の戦後を歩んできたのが日本である。欧米の歴史観には、
そういう進歩史観の大前提が強固に持続しており、先進地域ではギリシ
ャ、ローマ以来受け継がれてきた自分達の文明が唯一無二の文明だと思
い込んでいる。前回にも言及したが、仮に自分たちの文明に比肩できる文
明がどこかに存在したとしても、それは、やがて自分達のレベルに追いつ
いて来るものだという単線的経時的な思い込みに立脚しているのである。
これが線形的な世界観による要素還元主義的歴史観である。

 森本哲郎も言っているように、考えてみれば、このような独断的、自己中
心的、思い上がった歴史観もないわけである。世界史はヨーロッパ史が代
表すると思いこむことが、学問的に言って大きな間違いなのである。こうい
う欧米白人の傲慢な侵略性を助長するような歴史観、文明観のアンチテー
ゼとして、「文明の生態史観」的なアプローチはいたって重要なのである。
ここで再び生態史観的な文脈に戻ろう。 

 旧世界においては、高度の文明国となることに成功したのは日本、そし
て、その反対側に位置する西ヨーロッパだけである。これと中国、東南アジ
ア、インド、ロシア、イスラーム諸国との間には顕著な歴史的発展格差があ
る。誤解のないように言っておくが、ここで言う「発展」という意味は、産業革
命史的な発展経緯をたどった文化圏ということである。

 梅棹忠夫博士は、旧世界のこの2つの地域のうち、前者を「第一地域」、
後者を「第二地域」と名付けた。彼の考察によれば「旧世界を横長の楕円
にたとえると、第一地域は、その楕円における東の端と西の端に、僅少に
位置している。特に、東の部分は小さい。第二地域は、その全体地域(楕
円)の残ったすべての部分をしめる。第一地域の特徴は、その生活様式が
高度の近代文明であり、第二地域の特徴はそうではなく、前近代的な型が
多いということである。

 また、梅棹博士は言う。重要なことは、第一地域の近代化が「オートジェ
ニック (自成的) なサクセッション」の過程であるのに対し、第二地域の近代
化は「アロジェニック (他成的) なサクセッション」だと述べている。そこで私
自身の解釈を少し加えるが、第一地域と呼ばれた西ヨーロッパと日本は、
形態的に見れば確かに両者とも自成的な遷移(オートジェニックなサクセッ
ション)で近代化を成し遂げたという同一性を有しているが、質的にはまっ
たく異なるものである。それは両者における文明の質的差異によるものな
のである。

 なぜ、文明の生態史観的な考察経緯の中でそれを言ったのかといえば、
論理の道筋で多くの生態史観論者が「オートジェニック」という部分で、イギ
リスと日本を同位同値的に取り込んでしまっているからである。実はこの部
分は注意を要することなのである。ここで気をつけないと、オートジェニック
(自成的)という概念が、イギリスを中心とした近代主義の開花としての「進
歩主義史観」という、いわゆる欧米主軸的な論理水脈に流れてしまうから
である。

 そうなってしまうと当然ながら、日本論、日本文明論は最終的にまったく
意味を有さないおどろおどろしいものとなる。これを防ぐためにイギリスの近
代化、すなわちその自成的秩序には産業革命的な進展史があり、日本の
近代化に見られる自成的秩序には江戸時代の産業技術の振興史があっ
たことを強調して置く。この両者には自成の同位性、共通性はまったく存在
しない。第二地域を媒介とした間接交易があったからと言って、自成秩序
の同質性は必ずしも生まれるものではない。ただ、両者のオートジェニック
なサクセッションには、「共時性」と言ってもいいほどの不思議な同期性が
見られることは確かである。イギリスの場合は、産業革命による急進的な
技術産業立国への遷移であり、日本の場合は、ゆるやかな独自技術の
産業的発展という遷移である。今は、この視点がかなりの重要性を帯びて
いるということだけを示唆しておく。この視点を得るには、川勝平太氏の
「日本文明と近代西洋」がいい参考になる。 
 
 今行っている戦艦大和を基調にした日本文明論において、論理展開上
ではあまり詳述する必要はないが、イギリスの産業革命史的な発展史が
重要性を持つのは、欧米白人の侵略史観を考察する場合に限ってだけで
ある。戦艦大和自体が、そういう欧米的な侵略史観による攻撃性に対す
る防波堤として出現しているからである。大和に浮き出た日本美の塑型
とは、文明の統一性に顕現される民族の美的かつ防衛的な意志の表出
に他ならない。これを考察する場合、戦争や国際状況など、いわゆる周辺
的外縁的条件が、民族意識を何らかの形で触発したということはあるのか
もしれない。少なくとも、戦艦大和に顕現した日本美は国家防衛という戦
闘技術的な側面から無意識に出たものである。

 文明において、民族の営為の象徴として出てくる時代の美的なモニュメ
ントには、意識、無意識を問わず、国家防衛の意味合いが強く出ているよ
うに思う。もっとも、文明という概念そのものが、人間の統一的な営為から
出た環境的な装置群であることからすれば、この文明を守ることと国家を
護ることは同位的な概念であることは明らかである。

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戦艦大和(18)◎船体に見える二層の美

  ◎大和とともに晦冥に沈んだ日本美の系譜を考察する

Yamatoaa

 戦艦大和は、大型建造物として掛け値なく美しい。その美しさは、他の
戦後的な建物、たとえば近代的なドームやパビリオンのような大型構築
物よりも、飛びぬけて際立った美しさを持つ。ざっと概観しても、無骨な直
線は一本もなく、わずかにまがった流麗な曲線の集合体として統一的か
つ三次元的な造形美を構成している。どこから眺めても、曲面的な流線
構造を持つ、まさに奇跡的な造形美を醸し出していると言えるだろう。戦
艦大和が模型としても、最もよく愛好されているものであることは、第一
には、その美的造形性が突出しているからである。

 前回で、「大和に顕現した日本美の系譜」というタイトルをわざわざ銘打っ
て置きながら、肝心の「日本美の系譜」の展開までには至らなかった。今
回もそこまで行けるかどうかわからない。なぜなら、このテーマには文明
論が深く絡んでいるからである。日本に限らず、ある民族の美意識や文
化意識を探勝する時、その民族が背負い、たどってきた文明を考察しな
ければその本質はよく見えてこないと考える。

 従って、文明の統一的な一貫性から生じる美を考察する場合、ただ単に、
芸術的モチーフの様式の変化や外国の影響などを論じる系譜からは離れ
て、その文明が持つ本質的な内実に肉薄する必要がある。ここにおいて、
美を探究する人の把握する文明観がそれぞれに異なっていれば、時代が
顕現した美の解釈も当然ながら違ってくるのである。

 私自身は文明を把握する方法論として、文明の生態史観を使いたい。そ
のために、いささか、しつこいとは思うが、梅棹忠夫博士の生態史観をもう
少し確認しておこうと思う。我々のように、戦後生まれで、戦後教育で育っ
た日本人は、国家というものの文明観、歴史観に、巨大な観念的錯誤を持
ってしまっている場合がほとんどである。戦後教育の本質とは、煎じ詰めれ
ば、欧米の近代主義そのものの世界観である。当然、この世界観で自国
の歴史や文化、芸術を分析しても実りある発展的な回答は得られない。

 そうは言っても、文明の生態史観が完璧なアプローチ手法として完成され
た概念であるというわけでもない。今西錦司や梅棹忠夫が他界した今、こ
の系譜の学問が優秀な学者さん達によって、より深く、より高度に踏襲され
て欲しいと願っているだけである。私はその一人として、たとえば川勝平太
氏などに大きな期待を寄せている。文明の生態史観的な手法がまだ揺籃
期であることは、戦後意識と言われる、いわゆる国民の半睡状態を覚醒す
るという喫緊の状態に、残念ながら大きな遅滞を招いている一因にもなっ
ている。

 しかし、この文明解析手法は、欧米由来の近代主義的な方法論に比べ
て、明らかにその有効性は桁違いに高いと確信している。この観点から、
日本の文化や美の系譜を調べていくという方法を私は選ぶことが多くなっ
ている。もちろん、歴史へのアプローチも、生態史観的な手法を用いること
によって、知りたい歴史の本質を抽出したいという気持ちがある。

 私は、戦艦大和の全身的な船体に、日本という文明圏からしか生まれな
い統一された日本美の塑型を見て取ることができる。冒頭にも書いたが、
戦艦大和の美しさは群を抜いており、戦後六十年という時間に、その美し
さに比肩できるような美の構築はいまだに為されていないことを問題視す
る。これが私の戦後への解釈の重要な基底感覚となっている。

 唐突に話を飛躍させるが、栃木県の日光東照宮は、ただの「お宮」では
なく、江戸文化の凝集的なモニュメントである。有名なドイツの建築家であ
るブルーノ・タウトは、日光東照宮の入り組んだ建築様式、陽明門の華美
で色彩豊かな装飾性を見て、「あの野蛮なまでに浮華な社廟」と、思いっき
り否定的な言辞を吐いた。そして彼は、桂離宮や伊勢神宮の簡素清明な
建築様式を見て、これこそ日本の美であり、本質だと言ったことは有名で
あり、日本の多くの者たちがこの説に幻惑され、その系譜は今もって続い
ているというのが実体である。

 ブルーノ・タウトの語った日本美についての見識は、わかりやすいだけ
に非常に魅力があり、ついつい引き込まれてしまう。彼は言う。桂離宮は
ミカド文化の流れであり、東照宮はショーグン文化の流れであると。この
二層の系譜から戦艦大和の美を比定した時、戦艦大和の造形的な美の
佇まいは、明らかに桂離宮の書院造や借景をイメージさせるものであり、
伊勢神宮の簡素清冽な建築様式を髣髴とさせるものである。もちろん、
広く捉えるなら、日本刀の洗練された美しさもそのイメージに重なるもの
である。絞って言うなら、戦艦大和に顕現した様式美は、日本の神殿、
伽藍、城郭等の伝統的な建築様式に共通するイメージとして捉えること
が、もっとも自然でわかりやすい道なのかもしれない。

 しかし、ブルーノ・タウトが指摘したこの日本美の探索には、大きな欠陥
が付随している。それは日本美に固有の動的なエネルギーの存在を彼自
身が感じ取れなかったということにある。タウトの桂離宮ベタ褒めは、いわ
ゆる外国人にもわかりやすいように、観光様式化されたスタティックな侘び
寂びに通じるものであり、否定的に言うならば、箱庭(はこにわ)的、静的
な日本美学に拘泥しているようにも見える。しかし、それは間違いというこ
とではなく、局面的な解釈である。そこには、美を捕捉する視点に不足し
ている論理素材があるということである。それこそが日光東照宮に凝集さ
れた日本的情念による動的なエネルギーと空間性なのである。

 「紅葉(もみじ)の美学」を書いた栗田勇によれば、日光東照宮の二天門
に諧調的に施された、金色、朱色、黄色、緑の極彩色の装飾は、主に紅葉
の色彩と、間に混じる緑の照葉をデザインしたものであるという。金色は陽
光のデザインであろう。そうなると、タウトの指摘した、「あの野蛮なまで浮
華の社廟」という断定は、日本美のもう一つの要素を見逃していた無神経
さの証とも言えるだろう。実際は陽明門の過度と言われるきらびやかな装
飾は、我が国の照葉樹林の変化に富んだ樹相や葉相を表している。また、
二天門の上部装飾には、整然と組み込まれた升組み(ますぐみ)があり、
そこに施された緑、黄、朱、群青、金という五色の彩色は、日本の山々の
紅葉と緑葉、そして暮れなずむ藍色の空、金色はそこに照り映える夕暮
れの陽光を表している。つまり、その陽光は黄昏(こうこん)色なのである。

Photo_3
   東照宮二天門の升組(ますぐみ)


Photo_2
       (東山魁夷 「秋翳」)

 実は、日光東照宮に顕著に見られる装飾性は、ほとんどは、日本の自
然の姿を忠実に描写した非常に優れて芸術的な様式性とみなすことがで
きる。これは建築様式のみならず、欄間(らんま)様式の最高峰の芸術と
しても高い価値を持つ。こういう視点を無視して、上野アメ横通りの雑多
な空間性と日光東照宮を比定するような乱暴な試みには問題がある。多
様な装飾性が織り成す東照宮の様式美を、アジア的な雑然性と同位に
置く見方がいかに間違いであるかわかるだろう。日本美の本質は桂離宮
だけではないのである。

 そうは言っても、私自身、つい最近までは、戦艦大和の美と共通した日本
美が、桂離宮と伊勢神宮の神明造りだと決め付けていた
つまり、タウト的
系譜だけで物を考えていた過去がある。ある意味それは無理のないことで
もあった。なぜなら、戦艦大和の写真は無彩色のごく少ない枚数でしかな
く、写真がスタティックな二次元画像である以上、動的な大和のイメージは
つかみにくいものだったからである。加えて、大和という軍艦の舳先に直径
六メートルの菊花の御紋章がデザインされていることや、船の名前が「やま
と」であることも、そういう皇統系譜のイメージが強く出ていることは否定で
きないものであった。

 日本型建築物にも、戦艦大和にも、文明的統一性によって生まれた共通
した日本美の様式が出ているのである。それは大和をスタティックに眺め
れば、明らかに伊勢神宮や桂離宮の本質を感じるが、波を掻き裂いて進む
動的な戦艦大和には、日光東照宮のダイナミックな自然描写のエネルギー
に共通した「美の位相」が見えたはずである。動く大和を見られない現代の
我々には、その日本美の系譜が見えにくくなっているのである。私がなぜ、
戦艦大和のもう一層の美に思いを馳せたのかと言えば、何年か前に体調
を崩して、とある病院に入院した時、かつて、南方戦線に赴いていた八十
歳近いご年配のお隣さんから大和の目撃談を聞いたからである。

 栗田艦隊によるレイテ湾突入時であるから、その話は昭和19年10月
ころであろう。彼がどういう位置にいて、どの場所から見たのか失念した
が、停泊している大和と推進中の大和を両方見たそうである。静止した大
和は圧倒的な巨大さを示し、その威容に魂消(たまげ)たそうである。魂消
るという言い方は何度もしていたが、如何にもこの年代に合っている表現
だと思った。戦艦大和が波を切って動いた時、彼は兵隊仲間とともに唖然
としたまま押し黙って見ていたそうである。彼は色々と大和の印象を私に
語ったが、特に印象に残った感想があった。

 それは、静止していても、動いても、戦艦大和という船は、それまでの船
の概念を越えていたそうである。こんなものは見たことがないと。まず、大
きいのに驚いたが、大和には何とも言いがたい気品があったことに感動し
たそうである。そして、力強く推進する大和を見たとき、彼は生涯忘れられ
ない、名状しがたい畏怖の念を持ったそうである。それは、「大和が日本
にある限り、この戦争はけっして負けることはない」という絶対的な確信だ
った。この感慨が、当時の日本人に普通にあった「神州不滅」の心象風景
であったのかどうかはその時聞き漏らしてしまったが、少なくとも大和が体
現した国家像に大きな愛情と誇りを持ったという感じを受けたのである。
大和と遭遇した彼の衝撃が如何に大きかったか私にはよく理解できた。

 戦艦大和建造に携わった先人たちの気持ちが、船体に高雅な美を結晶
化させたこと、これこそが私独自の戦艦大和論なのである。私が感じたこ
とは、そのご年配者が大和を語っている時、彼は追体験として大きな感動
をその胸に甦らせていたことはよくわかったのである。彼はこうも言ってい
た。推進中の大和には「隙(すき)」というものがなかったそうである。

 隙ということの正確な意味はわからなかったが、推進中の大和には、ど
んなものが向かっても、とても太刀打ちできるものではない、そこには泰
然自若という表現を超える物凄い風格があったそうである。私も大和には
人一倍好奇心を持っていたから、食い下がっていろいろ聞いてみた。特に
彼の目撃談話から得た新しい情報を再構成してみると、それまで大和に
感じていた印象に新たな印象が付加されたことに気が付いた。つまり、
私には動いている時の大和の情報が異常に少なかったわけである。従っ
て、その分、その御年配者の目撃した動的な戦艦大和の印象談に強く心
を動かされたのである。その印象の中にはそれまで知らなかった新たな
戦艦大和が確かに見えた気がした。

 すなわち起動した時の大和の美的な印象なのであった。そこに見えた
大和は、もはや静的な桂離宮ではなく、日光東照宮に様式化された、我
が国のダイナミックな自然の象形化された強烈なイメージなのであった。
もちろん、そこには台風や雷雨、洪水などの荒ぶるイメージだけではなく、
変幻する紅葉空間も強く想起された。それは、象徴化され、昇華された我
が国の自然、すなわち、山處(やまと)の国の体現なのである。推進する
戦艦大和がなぜ紅葉空間に凝らされるのか。

 戦艦大和は誕生から死まで、その寿命期間のほとんどが大東亜戦争、
対米戦争そのものと同期しており、その死に様は日本人の特攻死そのも
のであった。それは、春に新芽を出してから秋に色づき、まさに落葉する
間際にいっそうの鮮やかさに彩られる紅葉の美学を想起させるからであ
る。日本人にとって、桜花の落花の有様と紅葉の輝きは、生と死の連続
性において同質である。紅葉の燃えるような輝きは、この世とあの世の狭
間(はざま)にある輝きである。これが戦艦大和の最後の旅立ちにもっと
も相応しいイメージとして私は捉えたのである。

 紅葉は「凋落の美」という叙情的でスタティックな鑑賞感覚で捉えられ
ることが多いが、それはあくまでも皮相の一面である。紅葉とは言っても、
そこには千変万化の諸相がある。陽光に映える紅(くれない)や黄色の
紅葉は、日本人の生の情念そのものから発するまぶしい紅蓮の炎なの
である。紅葉(もみじ)狩り行った時に感じないだろうか。紅葉に染まった
山の中、緩急の曲がりくねりやアップ・ダウンがある杣道(そまみち)を歩
いて行くと、近景の紅葉、あるいは遠景の山々の紅葉が、自分の位置の
在り方に呼応してダイナミックに劇的に変化していく光景を心に留めたこ
とはないだろうか。

 この風景のあざやかな変幻は、若葉色が萌える季節よりもはるかに劇
的な変化なのである。なぜならば、秋深き照葉樹林に乱舞する陽光は、
そのあざやかな原色的な色彩を増幅し、変化に富んだ山々の奥深い空
間性を観る者に迫ってくるからである。こういう動きのある劇的な空間は、
それを観ている者の情念を幻惑し、深奥から妖しいエネルギーを呼び起
こすのである。観る物の位置に従って、圧倒的な光の強弱と色相の変化
をもたらすその光景は、山里にひっそりと閉ざされて生きてきた民族の始
原的な心象風景を共振させるのである。それはあたかも、山々そのもの
が秘めていた情念を一気に解放しているかのようでもある。この光と色彩
の劇的な輻射は、まさに日本民族の裡に秘めた凄まじいエネルギーその
ものなのである。

 西欧近代主義的な感性による美学に慣れた日本人にはわかりにくい
ことなのかもしれないが、欧米人やシナ人の情念は外側に発散するが、
日本人の情念は内側に沈潜する。大雑把な言い方では、前者に属する
民族性は発散(divergence)であり、後者、つまり日本のそれは収束
(convergence)である。今は、この程度に抑えておくが、欧米の発散性
は、進取の気性というよりも侵略性向である。一方、日本の収束性という
性向は、内懐に外のものを取り込んで変容させることにある。別な言い
方をすれば、これは日本特有の文化的な「ムスヒ」のことであるが、本論
の主旨から外れるのでこの辺でやめておく。

 発散と収束、両者におけるこの関係は舞踏性にもっともよく現れてい
る。たとえば、スペインのフラメンコ・ダンスは、情念が外側に直線的に
激しく向かう。一方、日本の能の動きや日本舞踊の「舞い」は、情念が
螺旋的曲線として内側に静かに向かうのである。形態的に見ると日本
の踊りは、西洋に比べて確かにスタティックではある。しかし、目に見え
ない情念の内圧は日本の方が桁外れに大きいのである。

 日本の静かな舞いには隙がない。それは心に秘める凄まじい内圧を
保っているからである。一見、静かな風情を保つ日本人が一度怒ると、
秘められたその内圧は一気に爆発に向かうのである。話の流れにはそ
ぐわないかもしれないが、一昔前の東映のやくざ映画は、いじめ抜かれ、
侮蔑され続け、我慢に我慢を重ねたすえに、主人公の怒りがついには
爆発して敵対するヤクザを壊滅に導くというストーリーが定番であった。
昔の純粋に筋を通すヤクザにも「舞い」の原型はあった。そういう原型
は、たとえば「次郎長三国志」の山本長五郎の行動パターンなどにもよ
く出ている。究極の我慢の上に思いを爆発させるのである。

 「舞い」というのは、心を殺し、相手の攻撃や、自己に沸き起こる軽挙
妄動に繋がる想念を優雅に躱(かわ)しつつも、ゆっくりと確実に内面の
精神的なポテンシャルを高めて行く、日本人特有の心理様式なのである。
だから、観客は舞踏を観ながら、その様式に同調し、自己の内圧を高め
て行くのである。西欧の舞踏は観客でさえも発散の形を持つが、日本の
舞踏は、観客も舞う主体とともに収束の型を持つ。すなわち精神のチャ
ージである。実は、赤穂浪士の話にも、この形は、典型的な民族心理の
アーキタイプとして出ているのである。

 高倉健扮する捨て身の超人的なやくざも、大東亜戦争でアメリカに果
敢に挑んだ日本人も、アーキタイプとしては同じ型を持っているのであ
る。血まみれになって日本刀を使いこなす義憤のヤクザ、米国艦載機
の銃撃に、血の海の中で鬼神の如くに応戦する大和艦上乗組員は、
奇しくも紅(くれない)に萌える紅葉の凄まじい情念の同一性が垣間見
える。ここに見られる潜在的な民族エネルギーとは、美学的に言うなら
ば、明らかに「紅葉の美学」なのである。このような民族性が持つ普遍
的な位相は、戦艦大和の形状にも、その最終行動にも、美的形象とし
て現われているのである。

 つまり、推進起動性能を発揮した時の戦艦大和は巨大で純粋なエネル
ギーの塊なのである。隙がないという表現は、そういうことなのであろうと
私自身は合点したのである。美学において、日本と欧米が表現するエネ
ルギーは対蹠的な位置にある。欧米のエネルギーはプロメテウスの火、
あるいは太陽神アポロンである。しかし、日本のそれは、死に往く間際に
燃えさかる情念の炎であり、此岸と彼岸の境で昏(くら)く輝く紅葉の篝火
(かがりび)である。また、それは漆黒の闇の中、天岩戸の隙間から漏れ
輝くアマテラスの光でもある。荒れ狂う大波濤をものともせずに静かに推
進する戦艦大和、動きの中に見えるこの勇壮で高貴な姿は、神武東征の
御陵威(みいつ)であり、日本の自然が持つダイナミックなエネルギーで
ある。それは紅葉の山河における空間変化に凝らされる、あでやかで強
靭な日本文明の形象なのである。

  南方の戦地で、戦艦大和と遭遇したあの御年配の衝撃と感動は如何ば
かりであっただろうか。戦艦大和のとてつもない存在感は、戦闘マシーン
としてのメカニカルな迫力をはるかに越え、すでに戦艦とは思えない別の
光景がそこに現出していたと私は思う。それこそが、船体に顕現した、高
雅で威厳ある大和朝廷の弥栄(いやさか)だったのであり、神州と呼ばれ
た、類まれなる美しい国土を擁した日本そのものの顕彰なのであった。そ
れは、伊勢神宮内宮本殿の簡素清明なたたずまいと、四季折々の山河
に溢れる、荒々しく、そして繊細な自然の無意識による様式化であった。
この二層の美的本質を、戦艦大和という世界最大の戦艦に統合した統
一原理こそ、悠久という時間の橋に燦然と輝く皇統文明なのである。


 このように、戦艦大和に顕現された日本美には、二層にわたる美の系譜
が、完成された形として統合されていたのである。

(参考図書:栗田 勇「紅葉の美学」)

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2006年5月21日 (日)

戦艦大和(17)◎大和に顕現した日本美の系譜

 ◎大和に顕現した日本美の系譜

 戦後時間は、今、六十年を越えて経過しようとしている。この間に日本は
戦艦大和に比肩できるような何か時代的な美のモニュメントを創造し得た
のだろうか。この問いに私はノーと言わねばならない。この問いかけを、皮
相に解釈した場合、我が国の戦後は、戦艦大和よりも規模の大きな時代
的なモニュメントを多数造ってきているではないかと思うかもしれない。

 たとえば、造船で言うなら、戦艦大和の大きさをはるかに凌駕するマンモ
スタンカー類であり、テーマパークで言うなら、全国各地に散らばっている
多種多様な大型テーマパークがあるじゃないかという思いである。私が言
いたいのは、規模、形、枠としてのモニュメントのサイズを問いかけたので
はなく、文明というものの統一性が、時代に応じて生み出す美の祖形的構
築があったのかどうかということなのである。

 ここにおいて、前回、なぜ私が文化と文明を考察したか、その主意を明ら
かにして置こうと思う。私は国防観念というものが、官民、為政者を問わず
国民の美意識が基(もとい)となって出てくるという考え方を持つ。これがあ
るから、伝統や文化に湧出する日本美を、ただイベント的、観照的な対象
として捉えているわけではなく、文明の方向性や質を決定していく重要な
動的要素として捉えているのである。

 こういう思想潮流から観た場合、文化と伝統、あるいは、それらを包含す
る総体的な文明というものに、美というものが様式的、装飾的に、そして
統一的に現れてくるということは、それを芸術的な側面だけで捉えるので
はなく、文明の装置群を構成する重要な契機として見る視点を養う必要が
あると考えている。従って、戦艦大和という構造体に湧出した無意識の美
は、戦前の文明観を忠実に顕彰した一つの明確な形(様式)なのである。

 戦艦大和に顕現された美は、時代が戦争という動乱にあって、戦艦とい
う国家防衛のための戦闘マシーンに無意識に生まれた美である。しかし、
この日本美は、時代が平安朝や江戸期のような太平であろうと、日清、日
露、大東亜戦争時のような怒涛の戦乱期であろうと、明らかに統一的な文
明性から湧出するものである。私が言いたいことは、時代を超えて通底す
るこの美の本質に深く迫る行為は、その時代時代の民族意識や文明観を
端的に表していると思っているからである。歴史を過去に遡って追体験す
るということは、先人たちの情念や発意に対し、後追い的に共振し共感す
ることであり、その時代の全般的な心象風景を探る行為である。

 私の日本認識の中心として、戦後の日本は明らかにある種の亡失の上
に歩んでおり、その亡失の対象とは民族の生命力にとって必要不可欠の
重要度を持っていたと看做しているからである。果たして、戦後に亡失し
た戦前の本質とは一体何であったのか、それを問いかけ、その姿を鮮明
にすることで日本民族の営為の志向性を探ることは可能だと考えている。
そのために文明と文化というものをある程度は概念的に把握して置く必
要がある。少なくとも、戦前の日本の姿とは、国家神道によって出来上が
ったいびつで硬直的な国家像ではない。そこには建国以来の文明的な水
脈が確かに存在したことを失念してはならないと考える。

 前の記事では梅棹忠夫博士の説に倣い、文明の定義を自分なりの解釈
で述べた。ここでは、その話の延長をもう少しやらなければならない。文明
とは人間と人間を取り巻く装置群であり、システムである。その装置群の総
体は、人間の営為によって築き上げられた環境システム群でもある。この
システム群を具体的に言えば、諸々の構築物、建築物、組織、制度類、工
業体制、芸術類、交通網、教育システム、行政システム、情報システムな
どが上げられる。こういうものを含めた一切の総体的な環境を文明と定義し
てもいいだろう。

 では、文化とは何かと言えば、人間の精神的な営為によって築き上げら
れた諸々の動的な人間的装置系と言える。これは私自身の捉え方である
が、文化は文明に包摂される、より狭義の概念ではあるが、文明との決定
的な差異は、常に人間の作為が直接関与する能動的発展的な価値の大
系である。非常に強引な言い方が許されるとするなら、逆に文明とは、能
動的な文化の集合体が、ある時間内にそれなりの統一性と秩序を伴って
発生した、静的な結果としての環境装置群と言えるだろう。

 私自身が勝手に考えていることなのかもしれないが、文化と文明の定義
が紛らわしいのは、文明が文化よりも広義の概念であるにも関わらず、そ
れはスタティックな環境としての性格があるということであり、文化は文明
に包摂されるが、それは能動的であるということである。これも強引な言い
方ではあるが、文化が時系列的な発生の契機となり、結果として文明が出
来上がるという図式も成り立つのである。しかし、注意すべきことは、前述
したダイアクロニカルな(経時的な)線形性で考えているのではないという
ことである。能動的な文化大系が、人間の営為を存在論的に媒介して、結
果として静的な文明に至るという文脈である。すなわち、文化によって有機
的にデザインされた環境装置群が文明である。ならば、遺跡とは何である
のかと考えた場合、そこには生きた人間がいないのであるから、装置群は
機能を停止している。従って、それは文明の形骸的残滓であり記録であ
る。

 文明の生態史観論で戦艦大和を見た場合、大和は、時代における文明
的統一性が非常に明瞭に顕現した一つの完成された装置である。もちろ
ん、戦艦大和という一つの際立った装置を、軍艦として機械的、機能的に
分析することは可能であるが、ここでは戦艦大和に顕現した日本美に絞
り、日本論的な集約として考察してみたい。

 ある掲示板でこういうことを言った者がいた。国際関係において、日本と
いう国は「固定論理」を嫌い、「情況論理」のみで動く宿痾を持った国だと。
まあ、文脈からして彼なりの独特な歴史観があったにせよ、この言い方で
は不穏当と言うか、重大な誤解を招く惧れがある。情況論理だけが国際
関係の動力学的要素だと断定した場合、日本は受動性しか持てない国で
あるという硬直した方向付けになってしまうからである。

 もしかしたら、彼の言いたかったことは、文明の生態史観で言うところの
オートジェニック(自成的)、あるいはアロジェニック(他成的)ということだっ
たのかもしれない。その文脈で言うならば、情況論理と固定論理の対比的
考察は初めて意味を有してくる。もちろん、ここでは国家の固定論理がオー
トジェニックに、情況論理がアロジェニックに対応している。

 生態史観の最も特長的な視点は、近代化をサクセッション、すなわち遷
移(せんい)として捉えることにある。こういう動力学的な国家観は十分に
考察する価値がある。しかし、国家同志の関係性に対し、ダイレクトに固
定論理、情況論理というスタティックな二項対立概念を用いても実相から
乖離するだけである。そこで、その固定論理的な国家姿勢、情況論理的
な国家姿勢を意味ある手法として捉えるためには、西欧の近代主義的な
歴史解釈を応用することではなく、生態史観的に動的に思考する必要が
ある。私としてはまったく賛同できないアプローチではあるが、日本という
国が情況論理だけで動きやすいという見方を深めるのであれば、彼は固
定論理と情況論理という二値論理に拘泥せずに、環境に応じて自らを適
応させてていく空間を確保するという能動的な第三の視点、すなわちニッチ
(niche)に該当する概念を提示する必要があった。

 生態学に馴染みのない人のために少し解説するが、森林生態学では、
特に遷移(Succession)と極相(Climax)という概念を用いる。ニッチ(niche)
という概念も文明の生態史観にとっては非常に重要な概念であり、むしろ
それが生態学の本質と言えるものであるが、今の時点では、遷移と極相
というものを簡単に説明して置く。

 わかりやすいように森林生態学の初歩的な概念を用いれば、植生は不
変固定的なものではなく、条件の変化に適応した動的な多様性を開示す
る。この動きを遷移と言う。そしてこの遷移が最終的に行き着く平衡状態
を極相と言うのである。ある森林を一つ複雑な生物体として観た場合、こ
の生物の生存力として環境の変化に適応するために遷移という衣替え的
な動きを行う。そして、環境の変化に適応する諸条件に整合した植生を持
ったとき、この森林は極相として一種の平衡状態にいたる。

 国家の動力学的な国際対応も、その都度に自成的、他成的な差異は
生じるにしても、微妙に、あるいは劇的に遷移と極相を繰り返しているの
である。そして、国際関係が文明と文明の衝突という側面もあると考える
なら、他国家との関わり方如何においては、民族の美意識も微妙にかつ
劇的に揺動するのである。ただし、国民に統一的な文明観が持続してい
るならば、その美意識の極端な揺らぎは起こらず、むしろ外来のものを取
り入れて、日本は自然に美の変容(止揚)を行うことができるという巨大な
キャパシティを持っている国である。

 戦艦大和とは、その意味でも技術的に黒船を取り込んだだけではなく、
我が国の文明の統一性において、見事に美意識を顕彰させた格好の事
例なのである。

(参考図書;「文明の生態史観」梅棹忠夫)

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2006年5月19日 (金)

戦艦大和(16)◎文化及び文明について。私見

 ◎文化及び文明、私見

文明について少し考える。我々はヨーロッパの文明、アラブの文明、アジ
アの文明など、比較的簡単に「文明」という言葉を多用するきらいがある。
文明というのは、当然のように自明であるように思われているが、実はそ
の定義となると非常に難しい面がある。文明というものの本質は何である
のかと考えていくと、大きく捉えるならば、ある時間内における人類の営為
の総体的な顕現という見方がある。

 以前、文化と文明について以下のように考察したことがある。英語で文
明はcivilization、文化はcultivationに相当する。どちらの用語も日本語で
は「文」が付いているので、これらの語感が与える印象は実に紛らわしい。
私自身、論述をしていて、この二つの言葉を使用するに当たり、意味上の
明確な区分を意識せずに使っている場合が多いようだ。今までこの両者の
用語については、さまざな論議が交わされており、いまだに確たる定義は
ない状況にあると思う。

 文明と文化を区別して考えるようになったのは19世紀のドイツかららしい
が、私なりに二つの大きな区分を言うためには、まず、「文明の生態史観」
を書いた梅棹忠夫の説を借りて説明した方が効果的であろう。私の文明史
観は氏の文明史観にかなり近いからである。表現は異なるがそこに通暁す
るベーシックなものは非常によく似ている。彼の生態史観的な方法論では、
文化の概念には二つの捉え方があって、一つは、文化というものが通時的
(ダイアクロニック)な前後関係において文明と比定されていること。もう一
つは、文化と文明が不即不離の関係であり、両者が同時存在的、かつ併
存的(パラレル)な関係を保っているということ。これは文化が文明に包摂さ
れるということにおいてはより明確な位置づけと言えるだろう。

 通時的ということの意味であるが、たとえば文化人類学者のM・エリアー
デなどが、文化という語を用いるときは、先ず文明というものを、近代以降
の現代文明と位置づけ、伝統的に調査研究してきた未開社会の文化的要
素を集合的に文化として捉えている考え方がある。つまり未開社会の文化
とは、やがては現代文明に至る経時的過程の途上にあるという見方であ
る。不正確な言い方ではあるが、端的に言うなら、文化の集合的要素が時
間的な後追いとして、ついには文明に至るというリニア(線形的)なベクトル
を持つということである。

 梅棹忠夫はこの考えを否定する。実は私もこの通時的関係には異を唱え
る一人である。この考え方の基底には、未開社会とは、我々が属している
現代的生存空間とは時間的距離によって隔たっているとする考え方であ
る。文化というものが文明という、より大がかりな枠の中に包摂される概念
であると考えたとしても、私の感想を言うならば、この考え方の根底には、
欧米人特有の近代主義をベースにした短絡的な進歩史観の傲慢さ、放埓
さが横たわっている。つまり欧米的進歩史観のいかがわしさが出ているの
である。

 現代技術文明は、高度に進化したさまざまなテクノロジーで成り立ってい
るから、明らかに、「高度技術文明」とは言うことができるだろう。だが、これ
を人類の最終モデルとして理想化、絶対化するのは間違いである。現代技
術文明以外にも文明は多岐多様に存在し、過去にも多く存在してきたから
である。例えば青銅器文明があり、鉄器文明があった。また土器文明があ
り、我が国の縄文時代のように、照葉樹林型の森林文明もあったわけであ
る。

 物質的な方向に出るか、精神的な方向に出るかの違いはあるが、ここに
文明という概念にとっては、成熟度、あるいは価値上の差異は存在しない
わけである。歴史の経時的推移が即進歩であるという通念は悪しきダーウ
ィニズムの弊害であろう。しかし、欧米白人が好んで概念化しているこのダ
イアクロニック(通時的)な進歩史観は、今も有効に彼らの基本的な世界観
に染み渡っているのである。今は展開をしないが、彼らの線形的な文明観
には、キリスト教特有の予定調和的な終末論的世界時間が深く関わってい
るのかもしれない。キリスト教的な経綸感覚と、ダーウィンの「種の起源」に
言われる進化の仮説的時間感覚を、彼らは、その概念的対立があっても、
実は両者を矛盾なく受け入れているようにも見える。

 文化とは歴史的伝統空間の中で、古代から連綿と引き継がれた人類の
営為がその基層概念を為しており、文明とは、文化と同時存在的に発生し
たさまざまな装置群、システム群の総称を言う。文化文明論を展開するとき
りがないが、我が国、日本の民族的時間は数千年、国家的時間は約二千
七百年である。この永い時間の中には、日本特有の数え切れない文化の
集積があり、数え切れない装置群、文明の出力があったのである。これら
には天皇を求心力とした滔々とした連続性があり、巨大な力や能力が蓄え
られているのである。これを探る日本論は興奮と可能性に満ちている。

 文化とは、膨大な装置群や社会制度群で成り立っている文明という環境
の中に生きる人々が、精神的投影を行った秩序ある出力という風に私は解
釈している。つまり、文明とは歴史の中における環境の総体であり、文化と
はその中から湧出した人間の精神性から形作られた営為の総称ということ
になる。これを言うと、文明は環境なのであるから自己目的を持たないが、
文化は精神の表出であるからそこには人類が何を目指しているかという
「自己目的」があると考えてもいいだろう。

 神話の精神的雛形、あるいは十七条憲法のような掟群、現代ではマスメ
ディアなどの公共媒体など、歴史の中において、さまざまな文化の湧出、そ
して文明の要素である環境装置群を見れば、そこには民族が何を志向して
いるかが見えてくるのかもしれない。歴史考察や民族学とは、このような視
点から見ることによって、人間の本質を探る行為なのであろう。それはとり
もなおさず、自分とは何者なのかという問いかけへの探訪なのである。

 日本人として先祖のたどった歴史や営為の本質を追体験する行為とは、
人間存在の意味を探る重要な旅なのである。

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2006年5月17日 (水)

戦艦大和(15)◎黒船超克は民族の悲願

  ◎黒船超克は民族の悲願としてあった

 ふたたび、戦艦大和に見える船影の美に迫ってみたい。以前に書いた
「戦艦大和(13)◎船影に見る亡失の日本美」と少し重複するが、私は現
在の日本が失っている万古の日本美が実は戦艦大和ともに沈んでしまっ
たと考えている。そのことを、先の記事で導入的に次のように書いた。

 日本人の心に「お国」が甦らなければ、日本美は復活しないのである。
別な言い方をすれば、日本美が国民意識に戻ってくれば、先祖たちへの
敬愛も、子孫たちの幸福も願うことができる。そうなれば、磐石な国防意
識も必然的に出てくる。日本人とは、国家の安泰を祈る気持ちが強くある
ときが一番幸せを感じる国民性を持つ。何度も言うが、護らねばならない
ことをしっかりと認識することが大切だと思うのである。「お国」とはそうい
うものだと考えている。

 つまり、日本人が本来の伝統的な美意識を日常的な佇まいとして気持
ちの中に甦らせなければ、結果的に、祖国、未来、国防に対して愛情を
持って考えることはできないというのが私の基本にある。しかし、日本美
を復興させようと言っても、美の本質は説明しづらいほど多岐にわたり、
それぞれに多様性がある。従って、これは一筋縄では行かないのである。
また、生活環境の激変によって、子供たちが自然環境から重要な美意識
や情緒を涵養することが難しい情況になってきている。

 たとえば大店法規制緩和による郊外風景の人工化などである。高速輸
送化や生活環境のコンクリート化によって、人々の社会環境にいわゆる
「遊び」の空間がなくなっていることも重要である。昭和30年代は、いたる
ところに空き地や野原があり、親子でキャッチボールをしたり、野花を摘ん
だりするいわゆる「ゆとり空間」があったが、日本が経済成長を遂げるに従
って、ゆとり空間に使われていた土地は急速に地価担保空間となり、子供
たちが自然と触れ合える空間は閉ざされて行くことになった。このことは、
コンクリート護岸工事によって川辺空間や海辺空間が危険な場所に変化
してしまったことも大きい。

 里山や自然の川辺に親子で遊べる空間が消滅したことが、どれほど日
本人の情緒涵養にマイナスの効果をもたらしたか、はかり知れない影響が
ある。親が子に、人間の基本として何か重要なことを伝えるためには、言
葉や背中を見せるだけでは足りないのである。それを自然に行うために
は、古来から変わらない野辺や河原の自然の舞台装置が不可欠だったの
である。野辺や川辺や海辺は、教育のための絶好の教室だったのである。
親の愛情や権威はそこでこそ、効果的に子供に伝わったのである。

 戦後、日本人がどんな重要なものを失ったかと問うなら、それは間違い
なく日本人特有の「情緒空間」であると言うことができる。子供たちが育つ
過程で、大人の世界に憧れ、夢を持ち、人として将来に健康な希望を求め
ていくためには、この情緒空間の存在がはかり知れない重要度を持ってい
ることは間違いない。これが、社会性、道徳性を育み、日本人としての伝
統的な美意識を継承させて行くよすがとなる。

 何度も言うが、美意識は他者への愛情だけではなく、郷土や国家に対す
る強い愛情を生む。これが国防意識の醸成には不可欠なのである。考えて
みればこれは当然であろう。守ろうとするものに愛情があるから守る気持ち
になるのである。愛情がないものをどうやって守るというのだろうか。戦後の
教育や社会整備の基本にあった思想には、この愛情教育が皆無であった
ことは考えねばならない。知育や効率だけに絞った教育が我が国に何をも
たらしたのか。それはミーイズムに拘泥するという、謂わば美意識とは対
蹠的な便益性と享楽性である。これはいまさら多くの説明を要しないであろ
う。

 戦艦大和は数葉の写真しか残っていないが、それでも最近はC.Gやイラ
ストなど、大和の美しい復元図が目に入るようになった。日本人は、戦艦大
和をただ珍しい時代の巨大戦艦というモニュメントで見るよりも、この戦艦の
船影に髣髴と現れた日本人の美意識の原型を見るべきである。大和を美し
いと感じる日本人が今どれくらいいるのかわからないが、もし、大和の船影
に万古不易な日本美の塑像を感じ取る日本人がいるなら、それは民族の
DNAが共鳴したからにほかならない。そこには戦後亡失した日本美がたし
かに存在しているのである。

 時代時代で、日本特有の文化や文明を作っていくことにはさし当たって
の喫緊性はないのだが、国家防衛というものは明らかに緊急性がある。
国家防衛とは言っても現実には二種類のものがある。一つは文字通り軍
事的な国家防衛の構えである。もう一つは、実はこれが戦後日本人の最も
大きな問題であるが、日本人の精神における内面的な防衛観念のことで
ある。戦後の我が国は、東京裁判史観を基底にした教育や、具体的にア
メリカ任せで軍事を忌避してきた特殊な事情のため、人々は国防意識に
かなり疎い情況に陥ってしまった。

 私は、歴史における日本人の心理的な風景として、戦艦大和という存在
は、黒船というものに対し、国家防衛の心象的象徴として現れた軍艦だと
考えている。戦艦大和を否定的に語る人々は、例外なくこの戦艦が、時代
に遅れて出来上がった前時代の遺物のように言う。たとえば、時代は航空
戦主力に移っているにも関わらず、海軍は大艦巨砲主義にこだわるという
大愚を犯し、巨額な経費と手間をかけて無用の長物を造った。これだけの
経費とエネルギーを注ぐのであれば、その分を性能のいい戦闘機製造や
航空母艦建造に費やすべきだったとか、さまざまな批判を言う。

 大和に対するそれらの否定的言辞は、プラグマティズムに見るなら確か
にその通りであり否定すべきところは何もない。しかし、私は思うが、米国
との艦隊決戦を考えた時、先人たちは黒船という幕末の圧倒的な脅威に
対して、いかにそれを超克するかという命題を持っていたような気がする。
もちろん当初は、戦艦や空母の保有数などの差異を考えた時、日本は米
国と同じように量産する手立ては取れないわけであったから、戦艦大和と
いう超弩級戦艦に戦いの一点集中的な突破力を求めたことだろう。

 しかし、それを実現した時には、すでに時代が航空戦主力に移行してい
た。ここには確かに戦艦大和の悲劇性が存在していた。しかし、先人たち
は必死で大艦巨砲主義にこだわった。これを、今の我々は愚かにもほど
がある、海軍は何という頭の固い旧弊な考えから抜け出なかったのだろう
かと、半ば呆れ顔で問う。しかし、この当時の先人たちが大艦巨砲主義に
こだわった理由を深く見つめると、私にはどうしても幕末の黒船襲来を思い
浮かべてしまうのである。これが、元寇時の蒙古・高麗軍の襲来とどこが
違うのだろうか。明らかに両者とも、海を越えてやってきた軍事侵攻であ
る。

 幕末の先人たちは、黒船が象徴する西欧の圧倒的な国力や軍事力に
対して、心底から恐怖感と惧れを抱いた。つまり、このままでは遅からず、
我が国は奴隷国家に成り下がり、先祖たちの思いも皇統も灰燼に帰すこ
とになると。おそらく、今の我々には想像を絶するような危機感とともに熾
烈なる国防意識に目覚めたと考える。先人たちは考えた。黒船を凌駕す
る強い「黒船」を自らの手で作り上げねばならぬ、それが為されてこそ、日
本は欧米に劣らぬ自主独立の地位を護れるのだと。

 つまり、日本人が戦艦大和建造に異常なまでに固執したのは、黒船を
精神的に超克したかったという民族の悲願があったと考えるのである。
もちろん、大和の46センチ主砲は、米国戦艦がパナマ運河の川幅から
その大きさを制限され、主砲対決になった場合、砲弾の到達距離上の
優位性から作られたことが第一のプラグマティックな建造目的ではあっ
た。すなわちアウトレンジの戦闘思想である。しかし、大和建造に携わ
った者たちの無意識の底流には、黒船の超克という民族の精神的な大
悲願があったのではないだろうか。私は大和を考える場合に、そのこと
は忘れてはならないと考えている。

 あとで述べるが、戦艦大和の船体に顕現した美には、国家に対する
民族の無意識の愛情が出ている。そこには、建造に携わった人々の熾
烈な国防意識が、結果として造形的な美を表出させたのである。 美は
愛情を育み、愛情は守る対象を鮮明に映す。国防意識の根底には国家
に対する愛情が不可欠であり、そのためには、伝統的な美意識を復活さ
せることが肝要なのである。
 

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2006年5月12日 (金)

戦艦大和(14)◎臼淵大尉遺訓の瑕疵

  ◎吉田満著・「戦艦大和ノ最後」に書かれた残念な瑕疵

 吉田満の書き著した「戦艦大和ノ最後」は文学的には非常に貴重な戦記
である。感情を抑制し、戦国絵巻物を観るように、大和の最後を再現したそ
の記述は、圧倒的な臨場感を持って心に響いてくる。ただ、文学的、戦記
的には偉大な作品ではあっても、この作品にはどうしても肯じることができ
ない箇所がある。それに対してはきちんと反対の存念を述べて置かなけれ
ばならない。なぜなら、問題の箇所は明らかに当時の思想的な立場や歴史
的な現実にまったく符合しない世界観で書かれていたからである。

 問題の箇所とは、戦後、すでに何度も本やテレビ、映画などで強調され、
好んで取り上げられているので、吉田の「戦艦大和ノ最後」を読んだことの
ない人々にもかなり知れ渡っているものである。それは1981年版「戦艦大
和ノ最後」の36ページに書いてある、哨戒長・臼淵大尉の語った以下の箇
所である。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日
本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当
の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われ
るか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日
本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」

 「戦艦大和ノ最後」を最初に読んだときからずっと心にわだかまっていた
箇所である。この部分は、はっきり言って、吉田満の全体を通しての書き方
や、当事の時代に揺るぎなく流れていた精神性にまったく反した世界観で
書かれている。これは明らかに戦後民主主義に付随した欧米的な進歩史
観で書かれているのである。水上特攻作戦という、謂わば不帰の覚悟で赴
いた乗組員が、「本当の進歩を忘れていた」と断言したとしたならば、臼淵
大尉はみずから大東亜戦争史観を否定して、アメリカ側の太平洋史観を肯
定したことになる。当時の大日本帝国軍人はけっして言わないことである。
したがって、吉田のこの作品に流れる時代性に対して、この箇所の記述は
思いっきり不調和なのである。

 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日
本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当
の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、・・・」

 
この文脈は、一見、精神主義偏重を棄てて、欧米の技術的な合理主義を
徹底しないと、戦争にも経済的な国際競争にもけっして勝てないのだという
教訓を言っているように見える。しかし、ここに言われる真意とは、明らかに
欧米がたどった近代主義的な「進歩史観」を全肯定していることにある。こ
れは、別な言い方をすれば、日本の伝統的な精神を全否定する文脈に帰
結しているのである。大東亜戦争とは明らかに思想戦であった。ここには、
自衛戦争を遂行しながらも、民族の深層では白人の侵略主義から有色人
種を解放するという思想戦としての歴史的な意義があったのである。

 政治評論家の田原総一郎のように、大東亜共栄圏構想を否定する者は
圧倒的に多いが、当時の国民意識の根底には、すべての欧米白人に対す
る人種差別、侵略主義に対する「破邪の聖戦」の気持ちがあったのであ
る。これを、「進歩」優先という脈絡で否定した場合、結果として、その精神
は東京裁判の帰結に合致してしまうことになる。これは自国史否定、つまり
は国体・国柄否定以外の何物でもない。したがって、吉田が付け加えたこ
の箇所は、戦後という未来から強引に持ち出して、無理やり縫い合わせ
、当時にはけっしてあってはならない世界観なのである。

 このような精神の逆転現象は皇軍兵士にはけっして起こりえないものだっ
たはずである。なぜなら最後の決戦に当たってそのような心構えを持ったと
すれば、それは当時の言葉で言う紛れもない非国民なのである。従って吉
田は臼淵大尉にあり得ない話をさせたのである。私は有名なこのエピソー
ドにはかなり以前から強い不快感を持っていた。ヒットした映画・「男たちの
大和」でも確かこのエピソードはキャッチコピー的に使われていたと記憶し
ている。その一つの前提的な解釈を以ってしても、映画「男たちの大和」
が、時代的な空気の再現に完全に失敗している作品であることは明らか
である。

 戦前の日本精神を凝縮したように最後を迎えた戦艦大和に、この戦後的
な進歩史観は、あまりにも強烈な時代錯誤と言う以外にない。まったくあり
得ない話である。吉田がこの箇所を書いていたときは、彼の心に、大東亜
戦争史観から太平洋戦争史観への逆転現象が生じていたとしか思えない
のである。そうでなければ精神の均衡を疑うことになる。マスコミや出版物
が好んでこの箇所を取り上げ、それが、あたかも戦艦大和の時代的な教訓
であるかのように書かれているのは、戦前否定を当然とする今の時代感覚
ではごく当然のことだ言えるのである。しかし、吉田自身が戦前から戦後の
狭間で書いた「戦艦大和ノ最後」に、戦前が持つ価値観を疑念視する気持
ちが若干芽生えたことに、我々後世の人間が責める資格はないにしても、
二百数十万人の戦没者の御霊(みたま)を慮った時、「臼淵遺訓」の捏造は
やはり、腹に据えかねる歴史の捩じ曲げと感じるのは私だけであろうか。

 吉田の本には、吉川英治、小林秀雄、三島由紀夫、河上徹太郎、林房雄
など斯界の蒼々たる人々が跋文を寄せている。彼らは吉田が書いたその
部分に疑念を抱かなかったのだろうか。小林秀雄などは、巻末の跋文に、
「正直な戦争経験談」というタイトルで寄稿している。その中に、「今度のも
のはよほど手を加えたものだと聞いたが、」と書いていることを見れば、吉
田満が当初に書き下ろした原稿に、そうとう手を入れて書き直したものだと
思われる。その過程で、吉田自身の戦後的価値判断が、例の臼淵大尉の
言葉となって書き加えられたのであろうか。

 実は、この箇所に対する私自身の割り切れなさ、違和感、疑念は、八杉
康夫氏の著書「戦艦大和 最後の乗組員の遺言」を読んで氷解した。八杉
氏がこの箇所はあり得ないと断言してくれたおかげで、自分のもやもやした
気分は晴れたのである。やはり、臼淵大尉のあの話は戦後民主主義的な
感覚から出たものであると、私の推察どおりのことが書かれてあった。

 臼淵大尉の戦後民主主義的な世界観から出た例の「訓話」は、吉田自身
の進歩史観的な気持ちの変遷から出たものであり、そのことは彼の偉大な
作品の信憑性と品位をかなり低下させていることは残念なことである。その
部分だけが、最後の戦艦大和の精神だったかのようにマスコミに流布され
てしまったことは、戦艦大和の史実的な検証に悪影響を与えてしまってい
る。大和三千名の乗組員の死が無駄死にであったという戦後評価もかなり
根強く残っているが、そういう見方にも、この臼淵訓話は強い影響を落とし
ている。

 臼淵大尉は、あのようなことを言っていないわけである。それどころか、彼
の実際の胸中とはまったくかけ離れた嘘を書かれてしまったことは、幽冥
の世界にいる本人に対しては侮辱であろう。この点で吉田はあの格調高い
世紀の名作に瑕疵を残したのである。返す返すも残念でならない。吉田が
他界した時、幽冥界では、臼淵大尉が吉田の頭をゴンと叩いて、「吉田、俺
はあんな戯言は言っとらんぞ!」と一喝したことであろう。 

 この箇所と合わせて、著書の最後の方に書かれてあったことであるが、
大和の生存者が救助艇の船べりをつかんだ時、救助艇の指揮官が、その
手首を軍刀で 斬ったと書かれている箇所も、すでに嘘であると判明してい
る。この事実も、当時の軍人を不当に貶める格好の材料として用いられた
ならば「戦艦大和ノ最後」の価値を大きく損ねる効果を持っているのであ
る。

 臼淵大尉の進歩史観的な遺訓エピソードと手首斬りの箇所は、読者に
等しく混乱を与えることになり、あってはならない記述である。だが、そうは
言っても、吉田満の「戦艦大和ノ最後」が、全体を見れば、一大戦記文学と
して孤高の生彩を放っていることは間違いない。それだけに、この二つの
誤った箇所は、この作品の完結性をそうとうに阻害していることが悔やまれ
てならない。

 

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2006年5月10日 (水)

日本核武装の正当性と喫緊性(9)

 ◎靖国神社はシナ人の劣等感を刺激する場所である

 そもそも、なぜ、シナ人や韓半島人は靖国神社参拝という、ごくドメスティ
ックな日本人の行為を毛嫌いしているのであろうか。それを深く見つめると
興味深いあることが見えてくる。まず、言っておくが、彼らは靖国神社その
ものや、そこに祭られている殉国者、殉難者にはまったくと言っていいほど
関心はない。彼らが唯一関心があるのは、日本人が靖国神社に参拝する
ことによって、戦後数十年かかって、徐々にかつ確実に日本人に染み付い
てきた、いわゆるヤルタ・ポツダム体制史観に疑念を抱かせてしまうかもし
れないということである。

 もっと平易に言うならば、日本人が本来の伝統的な精神性を取り戻すこ
とを極度に怖れているのである。シナは昔から、周辺諸国に対して、華夷
秩序(大中華主義)という柵封体制を敷き、片っ端から朝貢させていたと
いう、謂わば旧来からある大国意識が今も抜けておらず、小国の日本だ
けは、何度圧力をかけても思い通りに従わなかったという思いがあった。
そこへ、日本が幕末を迎え、シナが英国とのアヘン戦争によってがたがた
にされていた時、日本は産業革命の潮流に縷々適応し始め、いち早く近
代的な工業生産力を可能にした。アジアで日本だけが高度な工業化を成
し遂げ、軍事的な力とともに産業を振興することに成功した。

 一方、シナは、アジア、あるいはユーラシアの盟主とばかり考えていた大
昔の考え方が抜け切らず、産業革命を取り込むことも、国内の近代的な国
家インフラにも取り掛かることさえできなかった無秩序状態にあった。このよ
うな旧弊な大国主義と国内の秩序紊乱がはびこっていたせいで、シナは日
本に比して圧倒的な劣位に置かれることになった。また、過去の日本が、
漢字を取り入れたり、律令制度や道教・儒教的な世界観を学んだりと、中
華文明に強い影響を受けていた現実があったことから、日本が明治以降、
和魂漢才から和魂洋才に移行していったことが、シナ人の誇りを傷つける
ことになった。

 日本は昔、シナ文明の影響を強く受けただけに、アヘン戦争でイギリスに
翻弄される情けないシナを見て、欧米に対し強い危機感を抱くとともに、シ
ナ人に対してはある種の侮蔑的感情が湧いたことは確かである。これが、
華夷秩序で日本を見下していたシナ人にとっては耐え難い屈辱となり、今
に至っても日本を強く憎悪する元となっている。一方、シナ人にとっては、幕
末から明治へかけて、世界の潮流に合わせ、見事に近代国家に生まれ変
わった日本を見て、日本民族のその大きな潜在能力を認めざるを得なくなっ
ていた。

 これが羨望と憎悪の入り混じったシナ人の対日本観の基本になってい
る。満州帝国の建国はシナ人の憎悪の原因ではない。むしろ、日本が満州
帝国を創立したおかげで、戦後、漢民族が中華人民共和国を造る基となっ
ている。敗戦当時、日本人居留民が満州を引き上げた時、残された膨大な
財産が今のシナの建国財力となったことは渡部昇一氏が指摘していること
である。このように、明治以降はすべての点においてシナは日本の偉大な
ポテンシャルを認めざるを得ない歴史を踏んでいるのである。

 それは、戦後における日本の高度経済成長も同様である。自国民のバン
ドリングのため、大日本帝国を敵視する抗日教育を行っている現代のシナ
も、田中角栄の日中国交回復以来の日本の助力や膨大な資金援助、技
術貢献などについては一切語ることをしない。今のシナの生産技術力向上
による経済発展、また、それに伴う急速な軍事力の近代化や進歩が、日本
の巨額なODA資金や、日本人の技術援助によって成し遂げられてきた事
実は彼らにとって、もっとも大きな禁忌となっている。これだけでも、この国
特有の内政問題が生起しなくても、技術力や経済発展がいずれ大きな壁
にぶち当たることを十分に予想することができる。

 昨年の対日暴動的な反日運動のきっかけのひとつが興味深いデマから
生じたことは、日本人には案外知られていない。それは、角川映画で「男た
ちの大和」を製作するにあたって、実物大スケールの戦艦大和のロケセット
用模型を造り始めたとき、インターネットでシナの若者の間にその噂が広ま
り、ロケセットの戦艦大和は、いつしか「本物の戦艦大和建造」ということに
なっていった経緯があったらしい。これが経済成長を遂げているシナ人の
日本コンプレックスを痛く刺激したと私は見ている。

 シナ人にとっては戦艦大和という存在は、日本の優位性のシンボル以外
の何物でもなく、まさに、日本がアジアで唯一、堂々と産業革命に成功した
ことの絶対的な証として目に映っているのである。日本人が戦艦大和を建
造できたという絶対的な事実は、シナ人にとっては自国劣位を認めざるを得
ないという屈辱以外の何物でもなかった。同時にそのことは、現在の自国
経済成長の原因が日本の余力から生じたという圧倒的な事実を見せ付け
るものであり、シナ人の民族的な自信を根底から覆すものであった。斯様な
理由で昨年のあの暴動的な反日騒ぎは対日コンプレックスの裏返しとして
起こったものである。

 以上のことから、シナ人が、日本宰相の靖国参拝を強硬に反対する真意
とは、日本人の心に「軍国主義」が復活することを怖れてのことではない。
それは、彼らが、アメリカという大国と大東亜戦争を戦い抜いた日本という
国の底力を認識せざるを得ない歴史的な象徴として靖国神社を見ているか
らである。
つまり、日本人が靖国神社に参拝する行為とは、日本人が己の
偉大さに気が付く最も中心的な場所として彼らが見ているからに他ならな
い。

 彼らがもっとも畏怖しているものは、日本人が東京裁判の呪縛から覚醒し
て、本来の日本人に戻ることなのである。アメリカ以外に日本民族の本当
の底力を心底見抜いているのは、反日意識に拘泥するシナ人と韓半島人
なのである。この反日国家が一番憂慮していることは、日本が覚醒して真
の国防観念に目覚め、日本が核武装を志向することなのである。

 我が国が核武装を成し遂げ、ロシアも含む近隣国への抑止効果が現出し
た時、日本人の精神が徐々に日本文明の構築に向かえば、彼らのイデオ
ロギーや文明観は根底から揺らぐことになる。従って彼らは日本が自主独
立を取り戻すことを心底から怖れているのである。特にシナはそのことに神
経過敏になっているのである。日本人は自身が眠れる獅子であることにま
だ気が付いていない。

 ところで、最近、中共政府が、インドに対して国連常任理事国になることを
推奨するような発言をした。これはアメリカと日本がインドと結びつくことによ
って、強力な対シナ包囲網が築かれてしまう動きを牽制するためである。も
う一つは、この動きの中で、日本がインドと同様に核武装への志向を持つこ
とを怖れているのである。アメリカ文明は、シナと同様に侵略と搾取の型を
持っているが、日本文明は真に平和共生を根っこに持つから、彼らのパラ
ダイムから見れば異質この上もない文明の形である。特にシナは日本文明
が華開けば、自国が文明的に保たないということを知っているのである。な
ぜなら、中華人民共和国は大東亜戦争の落とし子として日本の力で生ま
れた国家だからである。

 神道的民族心性から生まれる共生思想を、あらたな世界文明のモデルと
して日本が生まれ変わらなければ世界の未来は絶望しかない。そのため
にも日本は文明として属国的な方向を選ぶべきではない。シナにも、アメリ
カにも、ロシアにも決然として自立した国家として存続するには、当面の条
件としては核武装を行う以外に選択肢はない。

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2006年5月 8日 (月)

日本核武装の正当性と喫緊性(8)

     ◎米軍再編成の動き

 日本人は、本当は自分の目で、情念で、経験知で深く考えなければなら
ないことを故意に退け、ある種の刷り込み的、短絡的な論理展開で似たよ
うな結論にたどりつく。たとえばその一つが「皇国史観」と言われるもので
ある。

 大方の日本人は皇国史観と言うと、すぐにそれは明治の国家神道体系
から発生した日本固有の「軍国主義体制」だと自動的にに思い浮かべる
人が多い。それのみか、そこから、当時の日本は「蓋然性を持った」侵略
国家であったという結論にたどり着くことが多く、それはメディアなどに頻
繁に見られる論述パターンに多く見られる。この見事な三段論法と言うか、
決まりきった思考のフルコースは戦後教育によってもたらされた捏造史
観である。

 こういう史観がなぜ発生してしまったのかと言えば、それはアメリカが大
東亜戦争の評価を、アメリカに都合のいいように捻じ曲げた極東国際軍事
裁判から出ており、戦後の左翼がそれから出た東京裁判史観を、左翼的
な動機で継続させてきたからである。彼らが、我が国の戦前をおどろおど
ろしい侵略的なイメージの「軍国主義」にすり替えたのは、それまでの我
が国固有の国柄に、マルクス・レーニン主義のいわゆる階級闘争史観を
当てはめたからである。その階級の最上位に、天皇という政治的、軍事
的な独裁者がいて、軍部を先軍的に統括し、国民は嫌々ながら挙兵され
たという発想である。まるで当時の日本を北朝鮮と同一視しているような
捉え方である。そのようなことは史実とは乖離していて虚構の歴史である。

 皇国史観と言うのは、天皇を中心とした日本固有の文明形態を言って
いるだけであり、それ以外の意味はない。話は少し飛躍するが、小泉純
一郎が行っている構造改革は、アメリカの陰湿な圧力に従って日本の国
柄の完全破壊を目指している。この国柄の破壊は小泉政権下で劇的に
先鋭化しているが、始まりは明らかに東京裁判にある。

 つまり、日本という伝統国家の枠を破壊するために、アメリカは「太平洋
戦争正義史観」を取り、左翼は「階級闘争史観」を取った。奇しくもこの両
者は、軍部悪玉論で一致していたので、国民を洗脳教育することにおい
ては、互いに相乗効果を及ぼし、堅固に国民意識を呪縛することになっ
た。逆説的に言うなら、共産主義の台頭を防衛しようとしたアメリカは、そ
の共産イデオロギーの思想を利用して、東京裁判史観を強固に持続させ、
日本人の心に伝統観念の溶解、すなわち戦前否定を引き起こしたのであ
る。端的に言えば日本人から歴史観を喪失させたのである。

 ここで小泉純一郎の政治姿勢を振り返ってみて欲しい。彼の靖国参拝
後における談話や、昨年の村上談話引用の件を見ると、明らかに彼の世
界観歴史観が、東京裁判肯定と左翼の階級闘争史観に基づいているこ
とがわかる。日本はアジア諸国に多大な迷惑をかけた、従って日本は二
度と軍事大国にはならないという内容の声明を発表している。小泉の頭
の中にも、多くの日本人が囲繞されている「日本軍国イデオロギー」の誤
った歴史観が支配しているのである。

 国際社会においては、国家が危うくなれば軍事力を発動して防衛しなけ
ればならない。これは普通の国が普通に取る国防理念である。これを軍
国主義と名づけてしまうならば、軍国主義は当然の国防体制である。戦時
体制下、あるいは国際関係に極度の緊張が走った場合、国防のために軍
事優先体制を取るのは当然である。国が危うい時には思想表現の自由と
いうような、いわゆる平時的な権利保護は一時的に優先順位を下位に置
かれて当然である。従って、危急存亡下の翼賛体制はある意味、必要悪
である。

 ところが、今の小泉政権が国民の目を逸らしながら、急いで成立させよ
うとしている、いわゆる「共謀罪」法案は、形を変えた治安維持法であり、
「平時の翼賛体制」を志向するものである。平時の翼賛体制とは、謂わば、
北朝鮮が取っている独裁的な「先軍政治」に近いものとなる。つまり戦時
ではないのに、国民を統制(しめつけ)しようとすることである。

 小泉たちが、今なぜ翼賛体制(共謀罪法案や人権擁護法案)を敷こうと
やっきになっているのか、その理由を考えねばならない。何度も言ってい
るように小泉政権とはアメリカの傀儡政権である。この傀儡政権が翼賛体
制に向かうということは、将来起こりうる何らかの軍事的な危急を想定して
いるということになるのであろうか。そうでなければ彼らが拙速に進めてい
る共謀罪のような法案策定の意味が通じない。小泉構造改革になぜ翼賛
体制の統制社会が必要になってくるのかという理由を考えれば、日本が
米国の完全支配下に入るという想定を持ってはじめてその全貌が見えて
くるのである。

 こういう流れと平行して、今、大きく動いているのは、国内の米軍再編で
ある。キャンプ座間に、米陸軍第1軍団司令部を移そうとする計画があり、
ここで米軍の指揮系統を1本化する構想である。朝鮮半島有事の場合は、
当然キャンプ座間が作戦司令本部となるが、今度の米軍再編の要諦は、
日本の自衛隊がこれに組み込まれ一体化することにある。我々日本人
は、今回の再編成の動きを見て、「ああ、日米同盟が少し強化されたの
かな」というように、安閑とした思いで受け止めているが、ここで重要なこ
とはコマンダーがアメリカだということである。

 自衛隊本部がキャンプ座間に組み込まれるということは、情報の迅速
なやり取りでMD(ミサイル防衛)体制が効果的に機能するためであると
考えている人も多いが、本当の狙いは極東有事の際に、自衛隊を「アメ
リカの軍隊として動かす」というところに狙いがあるものと私は確信してい
る。端的に言うなら自衛隊の傭兵化である。

 こういう流れとけっして無関係だとは思えないのが、今回の憲法改正の
動きである。現内閣や憲法改正に気が動いている者たちは、自衛隊を世
界の貢献に役立てるには憲法制約を考え直す時に来ているというごまか
し論法を行っているが、九条に手をつけるという本来の目的は、当然なが
ら国防概念を主軸として行うべきである。それを貢献などという言葉でごま
かすところに大きな間違いがある。結局は武力行使、つまりは交戦権を持
てるかどうかということが憲法改正の本質なのであるから日本の防衛を第
一に考慮して行うべきものである。

 国防のために交戦権を行使しても構わないという方向が正しい方向なの
である。これが言えないで、改正目的を「国際貢献」などという美名でごま
かすところは、戦後に左翼や平和主義者たちが、九条を人類が理想とす
る平和憲法だと言い続けてきた欺瞞と同じ構造にある。小泉売国内閣が
憲法改正を企んでいるのは、自衛隊の傭兵化への布石ではないだろうか。
雇い主はもちろんアメリカである。そう考えると、現内閣が、人権擁護法案
や共謀罪法案の成立を拙速に進めている理由も見えてくる。

 自衛隊がアメリカの傭兵になることは、通常の地域紛争に用いられる傭
兵よりも立場がはるかに低い。それは、傭兵ならばクライアントから応分の
報酬を貰えるわけだが、アメリカは自衛隊には金を払わない。金を払わな
いどころか、核でお前らの国を守っているのであるから、毎年その分の金
は払えという形が続くのである。このまま、アメリカの言いなりになって事を
運ぶと、日本人がアメリカのために血を流すようなことが起きてくる。今、ア
メリカが日本に求めていることは、毎年多額の金を貢げということと、自衛
隊がアメリカのために血を流して普通に戦うことができる法整備を早く整え
てくれということである。

 共謀罪法案はその露払いの一環と見て間違いないだろう。つまり、これ
は現内閣が年次改革要望書を必死で隠している理由と同じであり、日本
がアメリカの傀儡国家になりつつある現実を国民からひた隠しにする意図
で行われているのである。今までの日本は、国民の生命財産の安全、領
土の保有をアメリカに依存し、金を出してごまかし続けていたが、アメリカ
が出しているサインは、もうその形だけでは継続できないので、我々に都
合の良いように日本も武装して、我々アメリカと一緒に軍事行動を取って
くれと言い始めた段階だと考えている。もちろん、金は今まで通りか、それ
以上に出してもらうということである。日本が、アメリカのこの意向を飲むと
いうことがどんなことを意味するかわかるだろうか。

 それは、日本という一つの国家が完全に溶解し、アメリカの51番目の州
になるということである。大統領選挙があるから、一億三千万の人口を有
する日本州は、おそらく選挙権は与えられずにゲットー化され、間違いなく
二級市民扱いになる。日本人は、あのニューオリンズの貧民の人たちより
も悲惨な生活を強いられるだろう。それは、戦後六十X年をかけて完全な
占領状態に日本が極相化してしまうということである。これは、けっして夢
物語ではなく、近い将来に起こりうる現実として認識しなければならないこ
とである。今、国民は国家の自画像を皇紀2666年の流れの中に取り戻さ
なければ日本民族としての生命力は完全に断ち切られてしまうことになる。

 大局的に日本の自主独立を考える為政者なら、今の時局はチャンスであ
ることに気が付かねばならない。日本の自衛隊が米軍のコマンダー統括
指令のシステムに自動的に組み込まれる方向ではなく、日本が東アジア
地域の睨みになるように核武装を現実化する絶好の機会として米軍再編
の動きを利用することである。

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2006年4月27日 (木)

政権とともに変わる公務員さんの顔

我々一般の国民は、公務員さんに対して、日ごろ、どういう風に思って
いるのだろうか。正直、あまり意識していなかったというところだろうか。

 公務員とは「公」、「務」、「員」、すなわち公(おおやけ)の職務に携わ
る人である。直接、我々が公務員さんに日常的に接する場所は、たと
えば市町村役場であり、そこではさまざまな手続きを行う。一昔前は、
役場の公務員にしても、郵便局員にしても、旧国鉄の職員さんにして
も、公務員のイメージは厳格で取っつきにくい感じであった。まあ、公
務員さんと言ってもいろいろな種類の公務員さんがいるが、ここでは
イメージとして役場の公務員さんを念頭に置いている。一昔前は、国
民はお役所の職員さんに対し、少々の揶揄を込めて「親方日の丸か」
とか、応対に不快な思いをした人は「やつら、威張りくさりやがって」な
どと言っていたことがある。

 ところがである。押しなべていかつい感じだったこの公務員さんたち
が、いつの間にか豹変した。柔和になっていたのである。窓口はすべ
て訪れる人間に対して柔らかく親切に応対するようになってきた。なん
か奇妙だなあと思っているうちにどこへ行っても公務員さんは親切にな
っていたのである。

 国民は、そのおかげで市役所などに行く時の憂鬱感が大幅に軽減し、
役所は対人ストレスを受ける代表格からいつしか除外されていた。警
察署でさえもそうである。昔のお巡りさんは「おい、こら、まて」式のコワ
モテであったが、最近のお巡りさんにはそういう態度を取って市民に嫌
われたら大変だということで始終ニコニコしているようだ。

 私は齢五十を過ぎてふと考えた。これは、日本に民主主義が根付き、
いわゆる「お上」が国民に対して、支配的に威張る時代は過ぎ去り、一
般国民も公務員さんも分け隔てなく、民主主義社会の中で、お互いの
人格や権利を尊重し合ういい時代が到来しているということなのだろう
かと。すぐに、いや違うなこれは、むしろ逆だなと気づいた。

 時代を通暁して公務員さんと国民の関係を見ると、そこにはお上、す
なわち国家と国民の関係性の変遷がはっきりと見えてくるのである。何
も難しいことを言うつもりはない。ことは簡単である。公務員さんが親し
く感じ、全般的に国民に対して親切になり、威張った人々という印象が
抜けている今の世相とは、怜悧な見方をするなら次のことが言える。

 戦後民主主義による個人主義が、人々の価値観を個の自由に収斂さ
せ、個の自由はいつの間にかミーイズムに取って代わられた。その結果、
国民は、自己が公(おおやけ)と連続しているという意識を大幅に希薄化
させてしまった。公というのは規範であり、秩序であり、社会性である。そ
の公が、漸減的に溶解へ向けて進んできたのが、昭和の終わりごろから
平成の今にかけてである。この公(おおやけ)意識の溶解が漸減的に進
んだことと、公務員さんの柔和な態度現出は、明らかに相関関係を持っ
ていたのである。

 私は思う。国家とは、国民の存在理由(レーゾンデエトル)を与えるため
の秩序であり縛りである。それは過去の歴史の積層という連続性から成
り立っている。つまり、人々が自由に幸せに生きる保証を与えてくれる大
きな枠である。この確かな枠があってこそ、国民はのびのびと個人生活、
そして社会生活が送れるのである。おおやけの最大公約数が国家であ
る。私の言いたいことはこうである。国家というものが磐石であってこそ、
国民は「ちゃんと生きる」よすがを持つことができるのだと。

 ただ、重要なことは、この国家という枠が、国民の幸福の根幹である存
在理由を与えるためには、十分な歴史性を背負っているという条件があ
る。つまり、先祖たちの弛まない営為の集積と時間の流れを土台にして
国家というものは意味を持つのである。今の日本人は国家を背負ってる
のだろうか。戦後、我が国は外部からいきなり不慣れな世界観を付与さ
れた。それは、西欧近代主義によって生み出され、アメリカによってソフィ
スケートされ先鋭化された「民主主義」というものである。先鋭化された
という意味は革命を経て出来上がったものという意味である。当然なが
ら、この革命民主主義の本質は伝統時間の集積を全否定する。これが
戦後の日本から日本らしさが漸減し、今まさに消滅の前夜に立たされて
いる主な理由である。我々が憧れたアメリカのモダンな世界観というの
はそういう日本破壊の型を持っていたということである。

 国民は国家を背負い、国家は国民を背負う。この相補関係は歴史の
連続性によって担保される。戦後の日本人は国家を価値否定し、それを
背負うことをやめた。その結果、概念としての国家は希薄化し、国家は
日本人、つまりは国民を背負えなくなってきている。これが日本国民を
囲繞する真の危機である。これから脱出し、国家という概念に実体性を
取り戻すためには、歴史のレジティマシーを日本人の心に甦らせること
である。つまり、神話が示すアーキタイプを再び心に確立することである。
何も難しいことはない。神武から連綿と続く天皇を中心とした国体観念
を持つだけでそれは見事に復活するのである。なぜなら、先祖が踏襲し、
次代に引き継いできたことを我々も踏襲し、また次代に引き継ぐというご
く自然だった日本人の在り方に戻ればいいだけである。今の日本人が
元気がない真因は、国家のあり方を見失ったために、自己の顔さえも
のっぺらぼうのようになんだかわからない顔になっていることにある。

 この話から、公務員さんを見つめなおしてみると、ある帰趨にたどり着
く。それは、公務員さんが厳格であって欲しいということだ。親方日の丸
をしっかりと背負って欲しいということだ。国民に対しては憮然と応対し
ていてもよい。埴輪や能面の顔をして窓口業務を行っても良い。頼むか
ら公務員さんは国家の権威を代行しているという強い誇りを持って仕事
をして欲しい。警察官は昔のような近寄りがたい威厳を回復して欲しい。
たとえば、いきなり現れたら、子供が思わず泣いてしまうような警察官
の方が安心だ。たとえば鬼平のような。それでこそ治安は守られる。

 私は、日本の公務員がコワモテ顔になることを望む。公務員さんと関
わる国民はおどおどとその顔色を伺うような感じになって欲しい。公務
員さん、つまり、官吏の皆さん方が取っつきにくいということは、国家が
確かであるという証左なのである。今の国民は、公務員が所得の面で
も、福利厚生の面でも格段に優遇されていると感じ、羨望の念と若干の
怒りを持って眺めている人たちは多い。しかし、これはとんでもない言い
がかりなのである。公務員さんは好不況に関わらず、身分と所得は充
分に保証されてしかるべきであり、退職後の保証も一般国民よりは格
段の恩恵を受けて当然である。それほど、公務員さんの仕事は厳格で
大切ものなのである。

 公務員さんが厳格で鬼瓦のような表情を持つ国の国民は幸せであ
る。不幸せなのは、公務員さんが揉み手をし、破顔一笑して、桂三枝
のように「いらっしゃあ~~いっ」と迎えるどこかの国である。それは
国家が溶解していることを、この目で確かめてしまうというつらい現実
なのだ。

 国家とは厳格な秩序である。その国家の権威を代行する職業は、そ
の秩序を体現する任務を背負うわけであるから、おのれの生き方を律
し、けっして悪いことはしないという自律的な精神を保持する宿命を持
つ。これが国民に安心感を与えるわけであり、そのことによって国民は
おのれの生活感を確かに獲得できるのである。

その意味で公務員さんの役割は大きい。公務員さんが悪いことをしな
いということは、それだけで国民の倫理規範の涵養になるのである。
母親が子供と役場に行く時、子供は道徳のモデルを公務員さんに見る
ことだろう。子供は思う。あの人たちは怖い顔をしているが悪い人では
ない。家庭とは違う何か別の大事な事をやっているんだな、だから近
づきにくいんだなと思うのである。

 ここに、子供たちとおおやけの接触がある。学校は駄目である。先生
に公がない。なぜなら、先生は「国家は悪いことするんだぞ~っ、公は
野放しにすると戦争するんだぞ~っ」と教育するからである。子供をの
びのびと育てよう、人格を認めて大事に教育しようとして子供たちから
石を投げられ、火傷を負わされる。そこで、先生は言う。「公徳心が必
要だな、こりゃ」と。あんたらが公を駄目だと教えたんじゃないのか。最
も日本的なる公と隔たっているのは先生方かもしれない。その代わり、
彼らは新しい公になっている。すなわち、それは「先公」という呼ばれ方
をする威徳のない「こう」である。

 これを読まれた方々は、公務員さんの顔つきと「おおやけ」の話の関
係か、ふ~ん、そういうのどかな見方もあるのか、じゃあ、これまでの話
で、特に「落ち」はないんだなとお思いだろう。落ちはあるのである。

 
     さて、ここからが落ち話。

 ニコニコ顔の公務員さんが、ふたたびいかつい顔になるような兆しがあ
る。だがそれは私がくどくどと述べたような与太話ではない。小泉路線と
は、日本をアメリカ型に造り替える完全なる売国路線である。その行き着
く姿は、極左急進的な無政府状態である。それは新自由主義という一種
のルソー教に基づく日本国家のインスタント食品化だからである。

 アナーキーとは限りのない「自分」のことである。限りのない自分が何
人か寄せ集まれば、そこは無政府空間である。これが我が国に起ころう
としている。すると、今の政府、つまり、小泉を筆頭とする新自由主義者
たちの集まりは必ずこういう仕掛けを施す。

 この無秩序は警察権力できちんと治める。警察は反乱分子の国民を
なるべく効率よくお縄にするように、そして公務員は、盗聴盗撮しても良
いからしっかりと国民を監視するようにという号令が下される。その一つ
のはっきりとした兆候が共謀罪法案である。法務省の説明は、国連総
会で採択された越境組織犯罪防止条約の国内法化のためだと言う。マ
フィアとか蛇頭などのはっきりした犯罪組織なら意味はわかる。

 しかし、法務省が準備した法案の中身は、国際犯罪を指定する越境
性はなく、対象範囲が国内のサークルや結社や会社のようなごく普通
の組織性を範囲にしているように思う。国際犯罪防止というよりも、これ
は明らかに国内に焦点が向けられており、その意図は犯罪を未然に防
ぐことではなく、現政権批判を封じる言論統制にある。つまり対象のター
ゲットはただの国民なのである。国民を組織犯罪から護るという触れ込
みで、実は国民自身の言論表現をがんじがらめにする目的がこの法案
である。戦時下の危急存亡時ならいざ知らず、こういう準平和状況で、こ
のような治安維持法的な思想を持つ法案が策定されるということは、内
閣がファッショ化しているという確かな証拠なのである。また、マスコミが
この法案成立を側面援護している。つまり、他のニュースを執拗に拡大
再生することによって、この危険な法案の審議過程と成立に煙幕を張っ
ているのである。本当に悪質極まりない。

 私が、小泉純一郎という男を、なぜ売国宰相、国賊と呼ぶのかその
輪郭が見えてきたと思う。小泉は日本の国柄を破壊して、新自由主義
社会を打ちたてようとしている。新自由主義とは思想的に国家を無政
府状態に置く。「小さな政府」とは、煎じ詰めれば無政府社会のことで
ある。そしてこのイデオロギーの行き着くところが夜警国家なのである。

 今、なぜ「共謀罪法案」かと訝っている人たちはこれで疑念が晴れた
と思う。これは小泉構造改革路線の必然的な帰結なのである。何の不
思議なこともない。直視した方がいい。我が国は小泉たちの奸策によ
って夜警国家に堕そうとしている。加えて、完全監視社会、密告社会
がこれに付随する。夜警国家とは、新自由主義社会が遷移して極相
化した社会のことである。そこには究極の格差二極分解構造が現出
する。この典型的なモデルがアメリカである。それは、この間のニュー
オリンズ・ハリケーン被災で世界にまざまざと知られてしまったことで
よくわかると思う。日本もこのまま小泉構造改革を推し進めて行けば、
持てる一割の富裕層と、赤貧洗うが如しの持たざる九割の貧民に分
極化するだろう。

 どうであろうか。前半の話は冗談ぽく書いたのだが、後半の落ち話は
リアルそのものである。小泉改革は軸足を矛盾した二つの考えに置い
て国民を騙し続けている。一つは「小さな政府万歳」とだけ言って、けっ
してその経済構造が新自由主義であることを言わない改革指針を持つ
こと。もう一つは、彼の靖国参拝に見える正統派保守主義の顔である。
もっともこの顔は保守のポーズをしているだけであり、その本心は極左
的かつ虚無主義的な色合いの濃い個人主義である。つまり、日本の歴
史性からは完全に遊離した欺瞞の保守主義なのである。靖国神社境内
を歩む彼の心には英霊は存在しない。

 小泉の悪質なところは、保守の顔をした急進的な国家破壊者だから
である。しかも、その目的は、アメリカ国益のために日本の国柄を積極
的に破壊していることにある。国民を恣意的に統制する人権擁護法案
が先送りになった。彼は今度は任期中に共謀罪の強引な成立を狙って
いる。我々国民は国家の命運が、この詐欺師の綱渡り的な一挙手一
投足で左右されている現実を把握しなければならない。

 ついこの間は、党議拘束までかけて皇統破壊を目指す皇室典範の改
正を企んだ。そのあとは人権擁護法案である。そして今は拙速に共謀罪
をごり押ししようとしている。今までの宰相で短期間にこのようなことをや
ったリーダーがいただろうか。小泉の政策行動のすべてが日本の完全
解体を目指しているのである。
 

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2006年4月26日 (水)

日本核武装の正当性と喫緊性(7)

◎北朝鮮の核武装も日本核武装の正当性の根拠

 中川八洋氏は、著書「日本核武装の選択」(徳間書店)の中で 、朝鮮半
島は今、昔のかなたに去ったはずの、明と李氏朝鮮の関係が復活しつつ
あると書いている。この動きは指摘されたとおり当たっていると思う。北朝
鮮と韓国の融和的関係が見えることと、米軍の韓国撤退の動きがあるこ
とからすれば、方向としては、韓半島の情勢は、昔のシナによる華夷秩序
に再び組み込まれつつある。今は大中華主義と言うのか。

 六カ国協議が事実上、進展しないことは、中共がいたずらに引き伸ばし
ているからである。中共の力と政治力をもってすれば、北朝鮮の核問題と
拉致問題は解決に向かうはずである。一向にこの協議が進展しないのは、
シナとアメリカのヘゲモニーがこの場でも火花を散らしているからである。
ホワイトハウスにおける、この間の胡錦濤(こきんとう)・ブッシュ会談でも、
ブッシュが胡錦濤に六カ国協議進展にシナが力を注いで欲しいと投げか
ければ、胡錦濤は「アメリカ側が条件を呑むことだ」と即座に言い放ってい
る。

 要は、シナは北朝鮮の核兵器を中心とした先軍体制を崩す気はまった
くないのである。こういう動きの中で、シナがアメリカと日本の同盟体制を
切り崩せば、難無く日本を掌中にできると考えていることは明らかである。
今の日本は、アメリカの胸三寸でシナへの供物になる方向へ向かってい
る。日本人はこの状況をほとんど認識していないように見える。米ソ冷戦
時代から今日まで、我が国は日米同盟、つまり、アメリカの核の傘下で生
き延びてきた。

 今、日本人が一番認識しなければならないことは、戦後60年という時
間をアメリカの核の庇護で保ってきた日本が、その持続性が担保されな
い状況に立ち入ってきているという大局的情勢をよく見つめることであ
る。前述したが、アメリカは、軍事、あるいは経済において、日本からの
総合的なメリットを得ることができなくなったと判断すれば、何のためらい
もなく日本をシナの掌(たなごころ)に明け渡す。たとえば、沖縄の兵力を
削減して、グアムに移転するという動きも、軍用機の航続距離が格段に
伸びたことや、高速性能、電子的戦闘能力の革新的な進歩が新しい段
階に入ったことを示している。トランスフォーメーションは地域的な戦略性
だけではなく、技術的イノベーションによる戦闘思想の高度化もある。

 つまり、原潜配備や航空能力、衛星システムの格段の技術革新から、
ハード及びソフト面における戦闘システムの進化が、日本の地政学的な
重要性を低下させてきていることは事実である。日本を東アジア制圧の
軍事的橋頭堡と捉えなくてもよい時期に移ってきているのだ。日本にと
ってこの意味は重大である。我が国が検討に入っているミサイル防衛
MD(Missile Defense)構想であるが、中川八洋氏が言うように、防衛庁
が国内向けに、MDによるミサイル迎撃率が百パーセントであるかのよ
うな幻想を振りまくのは百害あって一利なしである。

 たとえば、実際の迎撃率90パーセントでも、ミサイルが核搭載であっ
たのなら、この迎撃率では壊滅的被害は免れないことになる。ところで、
小泉純一郎の対北朝鮮外交の本質は間違いなく亡国に向いている。
横田めぐみさん拉致に象徴される数百名に及ぶ日本人拉致は、その
事実が判明した時点で十分な開戦事由に相当するはずである。この
認識から日本は北朝鮮と対峙する以外に方向性はないはずであるが、
現内閣は国交正常化というとんでもない売国方針で行っている。

 北朝鮮の首領自らが、国家の拉致を認めているのに、謝罪もなく、
被害者を帰還させる意思もない。ここにおいて、日本の取るべきスタン
スは宣戦布告して北朝鮮本土を攻撃する以外に選択肢はないはずで
ある。然るに現内閣は、拉致問題を一般外交懸案にしたばかりか、同
胞を拉致拐取した明らかなる敵性国家を、友好という欺瞞で国交正常
化を達成する外交目標を持った。この内閣は、国の誇りもなく、国防の
概念もなく、被害に遭われた同胞への連帯感もまったくない棄民内閣
そのものである。

 小泉内閣は日本の国柄を破壊し、日本を米国の指令に従って市場
原理至上主義社会に転換したばかりか、同時に外交では、大々的に
国民同胞を拉致した北朝鮮を友好国として国交の正常化をはかるとい
う姿勢を示した。これだけでもこの内閣は国家犯罪的な内実を持って
いると断言できるのである。これは、民族主義者でなくとも理解できる
売国姿勢なのである。

 北朝鮮存続はシナの意思でもあることから、宣戦布告するなら、当
然シナとの軍事的対峙を覚悟して行わなければならない。ここにおい
て日本がシナの軍事覇権を抑止する方法は核武装しか考えられない
わけである。アメリカは国際的に、日本が同盟国である立場を鑑みて、
日本が自衛から核武装の意志を持つことには表立っては反対できな
いはずである。日本の周辺状況を見ればそれは明らかである。これに
アメリカが反対するとすれば、国際社会の顰蹙を買うことになる。

 しかし、敵性国家であるシナ、北朝鮮、韓国は当然大反対をするだ
ろう。彼らの言い分は、大日本帝国の軍国主義路線への復活阻止と
いう名目である。しかし、戦後60年、日本が帝国主義的な動きや兆候
を少しでも示したことがあるだろうかと日本が言った場合、国際社会は
それを首肯せざるを得ない局面に立たされる。つまり、シナ人や韓半
島人が日本の軍国化に反対する理由が国際社会に支持されうるのか
ということである。日本の軍国化とは言っても、それは国家が危殆に
瀕した時、普通の国家として、普通に武力を行使しうる軍隊を持つと
いう意味しか有さないが。

 極東国際軍事裁判は、当初は説得力を持ったのかもしれないが、そ
の後の日本の歩みをきちんと評価する限り、侵略の意図などというも
のは露ほども示さなかったことを、国際社会は判断せざるを得ないで
あろう。ここにおいて、シナや朝鮮のように、東京裁判史観を国際世界
に向けて再アピールすることは、国家の民度として恥と言う以外にな
いわけである。

 日本が核武装の意志を表明するにおいて、真に問題なのはアメリカ
の判断であろう。アメリカを説得する時、日本は東京裁判の理不尽を糾
弾することを保留し、自衛一本やりを主張することである。それで絡めて
行けばアメリカには国際的に反対する理由を持たない筈である。なぜな
ら、我が国はもっとも深い絆を持つ同盟国なのであるから。もし、アメリ
カが日本の提案に反対したら、大声でその理由を国際社会の前で問い
かければよい。

ただしである。アメリカがあくまでも頑強に反対した場合、前に述べた
ように我々は腹を括り、アメリカの太平洋正義史観の元凶、すなわち極
東国際軍事裁判の不当性を国際社会に向けて高らかに主張し、民族
存亡の決意を込めて核兵器の自主製造に取り掛かるのである。ここで
迷っても迷わなくても時間はないわけであるから、死地に出向いて浮か
ぶ決意をするのである。一番、悪質なのは、「急いては事を仕損じる」と
慎重を旨として結局、惰弱に溺れていく精神である。日本は慎重に様子
見をし過ぎて現状の体たらくを招いているのである。要するに、今の日本
で、慎重にとか、十分に戦略的になどと言うグループは、何もしないで
成り行きに任せようという謂わばヘタレ主義なのである。今、行動を起こ
せる者は民族の立場にあって深い憂慮を持つ者である。

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2006年4月24日 (月)

日本核武装の正当性と喫緊性(6)

    ◎終焉の漆黒か、あるいは黎明の希望の光か

昨年の郵政民営化総選挙時に兵頭二十八氏は言った。「郵政
民営化は瑣末な問題である」と。郵政民営化法はけっして瑣末
なことではない。それどころか、国家の命運を左右する重大な
内実を孕んでいた。この欺瞞的な法案の中身を一切検証させ
ずに国会を引き伸ばし、国民に向かって誠意ある説明をしなか
った小泉自民党の詐術的施政は、国家犯罪として追求されね
ばならない。その最大の追求ポイントはこうである。

 抵抗派、造反派と言われ、金権利権護持とレッテルを貼られ
たまま小泉自民党を追放された勢力が、ここ一番、踏ん張って
問題視した要点、すなわち小泉竹中案における郵政民営化の
中身に、350兆円の国益的な使用法の明確性という問題が生
じ、それが未解決のまま審議が滞った。許しがたいことは、そ
の審議停滞の原因は、小泉・竹中が質問の要点を無視し、あ
るいは他の方向に偏執的にすり替えたことにある。

 それのみか、民営化で生起する、郵貯簡保資金の運用時に
おける市場的なリスクについて、どういう方策を講じるのかとい
うごく当然な質問を一貫して展開させないように、反対の立場
をある者たちを、言論の場から締め出すという不逞な行動を取
ったことである。法案に反対した実に40名の自民党議員を党
外に追い出すということをしたわけである。民主政治の根幹が
この時点で取り返しの付かないレベルで破壊されている。

 小泉の一貫してとったこの非情さは、何によって支えられてい
るのだろうか。それは、彼が敵視したものの精神や背景を見れ
ば瞭然と見えてくる。それはひと言で言えば「日本」そのもので
ある。日本型のシステムを旧構造の腐敗性、遅滞性というきわ
めて短絡的で下劣なる二値論理志向で日本型構造の根幹を破
壊していった。謂わば、創造には破壊が不可欠だ、進歩には停
滞が敵だという単純明快なロジックだけである。

 この一見してわかりやすい旗振りには、恐ろしい落とし穴があ
った。それこそが、米国がかつて南アメリカ諸国やインドネシア、
ニュージーランドに略奪経済的進出を行った時の口癖なのであ
った。米国が経済侵入を行い、その国の富を金融工学的に効
率よく収奪する時に、米国が半ば強制的に打ち立てさせる国家
政策が、「構造改革」の呼び声であった。小泉構造改革の本質
とは、アメリカによる利益誘導システムを日本に打ち立てるため
の「露払い」なのである。抵抗勢力とレッテルを貼られた議員た
ちはそういう小泉の国売り政策を国民に伝えようとして必死に
戦っていた。郵政民営化、拙速すぎるぞ、待て。なぜもっと時間
をかけて慎重に事を運ばないのだと。

 民営化推進与党はそれに真摯に答えるべきであった。ところ
が彼らの悪質なところは、外資問題は適当にはぐらかし、そこ
に国民の目が向かないように、マスコミを動員し、反対派を既
得権益、利権保全、進歩に逆行する停滞派のようなレッテルを
貼って、彼らを徹底的に排撃した。すなわち「頭の古い守旧派、
造反派」というネガティブなイメージ操作を行ない、抵抗派とい
う言葉の連打で構造改革を否定する悪い者たちと位置づける
ことに成功したのである。

 そして、彼らの意見を世間に流布させないようにして、そのま
ま解散総選挙に持って行くという暴挙を行ったことである。テレ
ビがこれに最大限に協力したのである。やはり、映像によるイ
メージ操作の力は強大である。

 国民も、頭を冷やしてよく小泉改革を眺めていれば、内閣が、
構造改革の中身、つまりは、そのベーシックな経済理論をけっ
して説明しなかった理由と、小泉たちの真の目的が見えてい
たはずである。つまり、亀井静香氏、野呂田芳成氏、小泉龍
司氏、小林興起氏、城内実氏、平沼赳夫氏、森岡正宏氏、そ
の他の郵政民営化に反対する議員たち。これらの議員の方々
は、小泉施政の欺瞞を良く見抜いていた方々である。

 特に、前厚生労働政務官であった森岡正宏氏は、「日本会
議国会議員懇談会」の総会で、「戦勝国だけが正しくて敗戦
国だけが悪かったというのは誤りだ。東京裁判(極東国際軍
事裁判)が本当に正しかったのか、国民に訴え、世界にも発
信すべきだ」
と発言し、実に正当な歴史観を持つ議員さんで
あることが証明されたのである。このようなきちんとした歴史
観を持つ方が、日本を新自由主義の市場原理社会一辺倒
に塗り替える政策を行う小泉構造改革を非難しないわけが
ない。

 アメリカの対日圧力が隠微に文章化されたもの、すなわち
「年次改革要望書」の内実が小泉構造改革の本質なのであ
る。それは、アメリカ国益いっぽんやりの構造改悪を強制的
に日本側に押し付ける文章である。悪質なのは、詳細に及
ぶ日本の経済構造や慣習的商習慣を、ことごとく改造の対
象とし、それが実際に法案化されたかどうか確認するペー
パーまで出させるという念の入れようである。つまり、日本
側は逃げが効かないシステムに束縛されているのである。

 これはシナや韓半島からの教科書問題や靖国参拝問題
とは異なる、もっとも悪質な内政干渉なのである。その国特
有の経済システムや伝統的商習慣をこのように変えろとい
う言い方は、占領した宗主国そのものの物言いなのである。
まるで幕府が藩政に口を出すようなものである。それに阿
諛追従し、唯々諾々と従う内閣には国家を運営する資格が
ない。

 それどころか、重大な国家毀損という意味では破防法の
対象ともなるだろう。我々はそういう内閣を容認しているの
である。それでもいまだに支持率が50パーセント近いのは、
国民意識にアメリカ隷従が染み付いているからであり、小
泉たちの傀儡的性格(アメリカのパペット)が見えないから
である。国民精神に、東京裁判という誤った歴史のベール
が降りているのである。

 国民側におけるこの絶望的な事実こそ、小泉売国政権を
五年間も延命させていた真因なのである。この五年間で日
本はどれくらいの国富を失ってしまったかを良く調べた方が
いいだろう。しかも、その米国利益誘導システムは、これか
ら本格的に作動するのである。

 このあと、国の宝であり、国民の汗の結晶である膨大な郵
政資金が外資、要はアメリカ財政に組み込まれてしまうのは
火を見るより明らかなことであろう。今の日本が置かれてい
る冷徹な現実を鑑みて、日本を憂い、対シナ戦略にアメリカ
の強大な軍事力を恃む以外に手がないとするなら、時の日
本が取りうる唯一の方策は、この郵政資金を祖国のために
もっとも有効に使うことにある。

 その方策として、現政権に反旗を翻し、早急に郵政民営化
法案の実施を凍結するべきである。つまり、外資による金融
工学的なリスク市場に郵政資金を絶対に置かないようにする
べきである。以前にも述べたように、郵政資金がキャピタル・
フライトの形でアメリカに流れたら、日本はアメリカの核の傘を
まったく利用できなくなり、そのことはとりもなおさず、チャイナ・
リスクを時間的に早めることになる。チャイナリスクとは、シナ
による日本の軍事占領である。これを防ぐには、我が国が核
武装するしかないのである。

 アメリカという国は、収奪理念が本当の国是なのである。国
民は悟るべきである。日米安保は日本国富の自動収奪機構
としてしか機能していないという事実を。日本から絞り取れる
以上の利益確定が、シナに構築できたら、大国同士の取引か
ら、アメリカは日本をシナに売るというシナリオは非常に現実
的なのである。だからこそ、今、アメリカの核の庇護にあるうち
に核武装を可及的速やかに整えるべきである。この最大の国
家サバイバルに、郵政民営化を利用しない手はない。

 それにはアメリカの垂涎の的である郵政資金を、アメリカに
対等の立場で貸し付けることである。その場合、当然ながら交
換条件は、シナが日本核攻撃の意志を示したとき、米国原潜
の核を支那本土に即時に撃ち込む条約(事実上は安保の改
正となる)を締結し、同時に、可及的速やかに我が国の核武装
を容認させる承諾を得ることである。小泉がそういう国家の生き
残りを賭けて、郵政民営化を推進したのであれば、自分は彼を
全面的に応援していただろう。だが、この暗愚な宰相は、「命を
賭けて」米国に国富を貢ごうとしているのだ。

 米大統領の靖国参拝打診をつぶし、「あの戦争はしてはな
らない戦争だった」などと言う者にそのようなしたたかな深謀
遠慮が働くわけはない。涎をたらしながらブッシュに尻尾を振
る姿は醜い日本人の代表格である。このような穢れた者が靖
国参拝をすることは、英霊に対する侮辱である。国民は自覚
するべきである。小泉政権とは、保守の名をかたる急進左翼
的な革命政権である。その実態を知られたくないために、彼ら
は新自由主義に沿って行われる構造改革の理論的な説明を
避けるのである。

 何度も言っているが、愚劣な進歩主義の衣を装い、ハイエク、
フリードマン的な新自由主義を我が国に敷設するという現内閣
の政治行為は、皇紀2666年の伝統を誇る国体の完全破壊を
意味している。この革命政権は、故三浦重周の言うように根底
に民族主義を持って革命的にぶち壊さなければならないのであ
る。それが今であることを日本人の何人が気づいているのであ
ろうか。

 日本人は対シナ戦略に当たっても、アメリカの奴隷根性か
らは脱却する必要がある。ここが大事なところである。さいわ
い、まだブッシュはアメリカの最高権力者である。彼の気持ち
が変わらないうちに、日米首脳によるトランスフォーメーション
へ寄与する日本の役割を申し出て、戦略的にアメリカと対峙し、
実効的な同盟政策を遂行することが必要なのである。アメリカ
も郵政の350兆円をできるかぎりただ取りしようなどというのは
虫がよすぎる。100兆円くらいはアメリカにやるから、日本の核
武装を承認してもらい、実際の戦略核及び大陸間弾道核ミサ
イルの技術を供与させるように話を付けるべきである。

 シナの東アジア覇権を、できるだけ日本の武力で抑えるとい
う口実に、核武装を行うとアメリカに申し出るのである。国家と
民族の存亡を賭けてこの交渉はやらねばならない。もし、アメ
リカがノーを言っても進むべきである。また、アメリカが日本が
核武装を実行する気配が見えたら核攻撃をすると脅しても、け
っしてあとに引いてはならない。我が国が核武装できなければ
いずれにしろ、日本は滅ぶ。それをわきまえて不退転の覚悟を
持つことである。アメリカが認めなくても、核兵器の研究と実戦
配備は可能である。もちろん核搭載の大型原子力潜水艦も急
ピッチで建造するべきである。

 日本人同胞諸氏よ、もういいではないか、もう。この辺で覚悟
を決めようではないか。これ以上じっと耐えていても民族の運
命に好転の兆しはない。このまま、アメリカの奴隷になることも、
シナの奴隷に堕ちることもご免だ。そういう魂のない生き方は、
我々日本民族の生きる選択肢にはない。先祖のように誇り高
く生きることが適わない未来ならば、民族皆、ともどもに潔く、
そして喜んで滅びようではないか。それが先祖の意思と願い
にかなう唯一の進むべき道である。大東亜戦争は霊的な意味
ではアジア開放のための聖戦であった。先人たちは本当に良
く戦ってくれた。我々もいざというときは腹を決めて後へ続こう
ではないか。それが民族の誇りというものではないのか。

 アメリカやシナという収奪文明のパラダイムが永続する世界
に生き永らえてどうする。それよりは精一杯そのパラダイムと
戦って民族の命運を決めた方がいい。三島由紀夫の自決は
未来の日本人に対する諌死であった。今、この時代、日本人
は三島に問いかけられている。すなわち「生命尊重のみで魂
は死んでも良いのか」と。我々は今、否応なく自分たちに生命
以上の価値とは何であるのか、それを問いかけねばならない
歴史の岐路に立たされている。シナやアメリカの奴隷が嫌だ
ということは、つまりはそういうことなのである。日本人が、日
本人とは何者であるかを、今、まさに問いかけられているのだ。

 日本は軍事的に、経済的に、そして精神的にもアメリカの奴
隷になってしまおうとしているのが今なのである。眠ったまま、
このまま成り行きに任せても少しは生きていけるだろう。心に
奴隷のくびきをはめられて。それよりは、日本民族が悠久の
時間で培った平和共生のパラダイムに、この凶悪な世界を
変えるため、今一度、先祖の武士道精神を甦らせ、民族全
員力を合わせて最後の戦いに入ろうではないか。そのため
の日本核武装論提起である。

 けっして、けっして、アメリカやシナのような野蛮な収奪国
家として日本人が生きるための核武装ではない。日本の神
道的な精神性がこの世界に存続するためである。それは自
然を慈しみ、神を尊崇し、異なった民族同士が助け合うとい
う新しい文明のモデル、新しい文明パラダイムをこの世界に
構築しなければ、地球の存続そのものがないという判断か
らである。日本的霊性が形作る新しい文明モデルこそ、これ
からの世界に必要なのである。キリスト教も、ユダヤ教も、
イスラム教も、血と破壊を呼ぶ型を持っている。我が国の神
道モデルだけがこれからの世界存続に大きく寄与するので
ある。この精神で日本はサバイバルを志向しなればならな
い。三島由紀夫の死は、今の我々日本人に、民族の文明の
型をはっきりと決定しろと呼びかけているのだ。

 自分も良くわかっている。本当は日本人には核兵器は合わ
ない。左翼が、市民的な平和感覚で核兵器を生理的に嫌悪
していることも、もしかしたら、その深層は民族的神道的な嫌
悪感から来ていると感じているからである。日本刀と違って、
核兵器や生物化学兵器は、神道的感性から言えば「ケガレ」
としての忌まわしい武器である。「ハレ」の日本文明を存続さ
せるために「ケガレ」の核兵器で外部の攻撃を抑止しなけれ
ばならないこの現実は、民族の霊的深層にとっては死ぬより
も辛いことかもしれない。しかし、それでも核武装は必要で
ある。我々は次代の日本と世界のために核武装をしなけ
ればならないのだ。

 私はそのように考えている。それくらいの覚悟を持って日本
核武装論を唱えている。36年前の三島由紀夫の自決死は、
今の日本が滅びを選ぶか、新しい日本型の精神革命を遂げ
て生き延びるかを選択させているような気がしてならない。
三島ははっきりと断言して死んでいった。生命以上の価値と
は「日本」であると。もし、アメリカやシナの奴隷を忌避する生
き方を選ぶしかないとすれば、我々は今こそ、その「日本」と
真正面から向き合うしかない。それは先祖たちの魂の型を知
るということなのである。武士道はファッションではない。また
天皇は民族の生命(いのち)である。そして、日本特有の「和」
の精神とは鎮守の森(杜)の厳かな静謐からくる共同体的和
合である。これらを蛮族たちの手にゆだねるよりは、特攻隊
あるいは玉砕した英霊たちと同じように、外夷文明に立ち向
かって果てた方がいいと自分では思っている。それが大東亜
戦争時の日本人すべての心持なのではなかったのか。かつ
ては確かにあった日本人の高貴さには世界的な意味があっ
たはずだ。それをとことん模索して未来を見つめる時が来て
いる。

 
 郵政民営化の話に戻る。アメリカが狙った国富としての郵政
資金は額面350兆円。実際は目減りして本当の額はわからな
い。しかし、百兆円は超えているはずである。これがむざむざ
とアメリカに吸い取られることは阻止することである。しかし、
アメリカは執拗に脅迫して脅し取ろうとする。くれてやろうでは
ないか。ただし、核武装承認と、すぐに実戦配備できる戦略核
ミサイルを何万基か譲り受けることと、大陸間弾道弾技術及び
核装備原潜の供与を要求するべきである。国富百兆円は痛い
が、国を護る事を考えれば安いものである。

 国を存続させる費用であると考えれば国民もなっとくする。し
かし、忘れてはならないのは、日本は最終的にはアメリカの覇
権傘下から離れる根性を持ち続けねばならない。そのために、
郵政資金100兆円は日本核武装への担保としての意味合いを
必ず持たせるのである。むかつくのはやまやまであるが、核武
装に関してはアメリカの現物と技術をもらった方が早い。もしそ
れがまったくできなくても日本は自力で開発すればいい。この
時、アメリカが日本壊滅をたくらんで核攻撃したら、日本とはこ
こまでの命運の国だったと従容として滅んでいけばいいだけ
である。

 神謀あるいは神慮という言葉がある。日本という古い国が、
この世界の未来に必要な国であったならば、神は最終段階で
日本を救うだろう。大東亜戦争に敗れても日本の皇室は残り、
靖国神社も残った。民族自らが神州不滅の言霊(ことだま)を
放擲してはならないのだ。これが日本人としての日本に対す
る信仰である。

 支那を牽制するには我が国が核武装する以外に方図はない。
しかもアメリカに頼まない状態で支那と軍事的対峙を果たしてこ
そ、本当の意味で自主独立国家となる。今、小泉竹中をムチ打
たなければ日本の大事な宝がただ取りされ、日本は完全に丸
腰となりアメリカは同盟から手を引くことになる。そうなったとき、
支那の牙に打ち勝つ武器はなにも残されていないのだ。その
自覚から始まることである。

 兵頭氏が見逃している致命的な視点とは、日本を護るため
の最後の虎の子が、この郵政民営化で失われる危険にまった
く気がついていないことなのである。郵政民営化は国富消尽の
魁(さきがけ)であり、柱でもある。これを失うことは、国家として
の底力が回復不能なまでに損なわれるという暗澹たる現実を示
している。兵頭氏よ、その状態でどうやって日本核武装を模索
するのか。

 従って郵政民営化とはけっして瑣末な出来事ではなく、国家の
屋台骨をのこぎりで切り取る行為に等しいのだ。日本の核武装を
指向するなら、対米関係と日本自身のあるべき姿を深く見つめる
べきである。アメリカを超克し、大東亜戦争を本気で肯定しなけれ
ば、日本は自力走行ができないところまで追い込まれているので
ある。

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2006年4月23日 (日)

竹島を不用意に利用した内閣

  韓国は、6月の国際会議でこの海域の海底地形に
ついて、韓国名を登録する提案をせず、日本も海洋
調査を当面実施しないとした。調査の現場海域で日
韓両国が衝突するという最悪の事態は回避された。
ただ、竹島の領有権問題は残されたままで、再び海
洋調査などの対立が再燃する可能性もある。
   (2006年4月23日1時42分  読売新聞)

小泉は、竹島問題はマスコミなどの挑発にのらないように、
冷静に対応するようにと各閣僚に指示したようである。この
不徳で暗愚な亡国宰相はどこまで国民を愚弄したら気が済
むというのだろうか。

 「日本も海洋調査を当面実地しない」という提案自体が愚
かなのである。この問題は日韓双方で、対等の論議の上で
解決を図る問題ではない。要は国境問題なのである。今か
ら53年前、韓国の李承晩大統領が、竹島と対馬の海洋権
益を狙って一方的に設定した漁船立ち入り禁止ラインがあ
り、これを李承晩ラインと呼ぶ。この違法な線引きは、1965
年の「日韓漁業協定」で廃止した。

 問題はこの「李承晩ライン」を韓国が頑迷に主張していた
13年間に拿捕された船舶数が328隻、抑留された日本人が
3929人、銃撃による死傷者が44人出ていることである。国
際法慣習を無視し、日本人を抑留、死傷させておいて、竹
島を実効支配しているばかりか、再度領有権を主張し、日
本が竹島付近の海底調査を目的として立ち入ると、抗戦も
託さずと威嚇する韓国の神経には怒りを持って対応するべ
きであろう。

 今回の竹島騒動は、領土侵害問題である。謂わば日本か
ら宣戦布告を行うべき国際事件なのである。

 私は、日本のメディアやブロガーたちが、取り敢えずは、
最悪の事態を回避できて良かったが、本質的な問題はまだ
未解決であるなどとしたり顔で言っていることが無性に腹立
たしい。

 何が「最悪の事態」なのだ。むしろ、今まで韓国に無理や
り竹島が軍事占領されている事態を放置していたことが最
悪の事態ではないか。今回は武力衝突に突入して当然だ
と自分は思っていた。領土問題という国家の一大事が実際
に起きている時に、穏やかに対応とか、静観で行くとか、相
手を刺激しないようにとか言っている我が国の為政者こそ
最悪である。こいつらには国家の誇りというものがない。

 日本人はこう考えるものが多い。竹島は、離れた場所に
ある自分たちの生活とは直接関わらないちっぽけな無人島
だ。ここの権益にしても多少の魚が獲れるくらいのもので大
したことはない。大騒ぎするほどではないと。

 ところが、領土問題は島が小さいとか魚がどうとかの問題
ではなく、国土を奪われるかどうかの、謂わば国の命運がか
かった重大な問題なのである。土地を持っている人たちは、
自分たちの土地が、ある日、外国人に所有権をいきなり主
張されたらどうだろうか。とんでもないといきり立つだろう。
竹島問題もまったくそれと同じなのである。領土問題を最大
級の重要懸案として捉えない国はやがて外国に侵略されて
しまう運命をたどる。

 日本が竹島問題をうやむやにして、韓国が今のまま実効
支配を崩さなければ、シナも、小笠原や尖閣諸島の領有権
を日本が手放すと見て、次々と侵略的奪取を始めるだろう。
つまり、竹島問題を慎重に対応し続けて行くと、シナが日本
の領土、領海をドミノ的に侵犯して行く口実を作ってしまうの
である。それでも静観しろという日本の為政者のたましいは
完全に死んでいる。静観したら駄目なのである。

 竹島とは、尖閣諸島や北方領土と同じく、日本人が命を賭
けて死守しなければならない領土なのである。今回の出来
事は紛争まで行って当然なのである。そうなってはじめて、
国家主権に疎くなり眠りこけている国民の意識が目覚める
のである。この折角のチャンスを最初から放擲するつもりで、
小泉内閣は三文芝居を打ったのである。いったい何のため
にであろうか。

 この亡国宰相は、国家の一大事を千葉の選挙戦の一環
として利用したふしがある。拉致問題を選挙戦に利用した
ことと同じ感覚でだ。盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領と小泉総
理は国内的にはともに凋落の状況にある。そこで両者とも
裏で話をつけて民族主義を刺激することにより、人気の回
復を謀った三文芝居だった可能性はある。すなわち、韓国
はポーズで獨島死守を、日本の小泉現内閣は、保守本流の
愛国者ぞろいであり、竹島領土問題に果敢に向かっていく
ぞというポーズをとったわけである。中途半端に領土問題
に手をつけるのは愚か過ぎる。やるなら、選挙など関係なく、
武力紛争を覚悟して自衛隊を待機させ、超法規的に戦争を
行う構えでやる事案が竹島なのである。それを形だけでや
りすごそうなどという浅はかな腹で、心構えのない国民を戦
争の危機にさらしたのである。

 両者話し合いで、当面引き分けたのは、取り敢えずは良
かったなどと本気で思っているのだろうか。戦争を受ける
気があるなら、事前に国民に状況を説明し、本気でやれと
言いたい。売国内閣が国内で格好をつけるのは構わない
が、選挙戦のために領土問題を使うなど言語道断である。
これも国賊内閣のきわめて愚かな国政運営の一つである。

 小泉内閣がわずかでも延命すると、今回のように日本の
国運が急激に傾きかねないというリスクが大きすぎるので
ある。なぜなら現内閣は国防を考えていないからである。

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日本核武装の正当性と喫緊性(5)

   ◎原爆慰霊碑に垣間見える自虐的国家毀損

 今、日本ではあちこちで、格差社会が広がってきて大変だという論調が
大賑わいである。教育格差、所得格差、企業格差、希望格差など、いろい
ろなことが喧々囂々と言われている。これが小泉構造改革のせいであると
いう私と同じ論調や、世耕弘成自民党幹事長補佐などが言うところの、い
や、格差拡大は15年くらい前から継続してあったのであり、今に始まったこ
とではないという論調もある。小泉純一郎にいたっては、「格差というもの
はいつの時代でもあったんです!」と言っていた。格差社会の急激な広が
りを論じている時に、一般的通念的な社会格差を取り上げてどうするのか
という話である。小泉はこの手のとんちんかんな話をまじめにやることが多
々ある。

 話の文脈を無視して、質問者の意図を取り違え、そこから主観的話題を
展開していくこの男、かつては、年金問題の質問に、「人生いろいろ会社も
いろいろ」と言った。これが日本国総理大臣のインテリジェンスなのかと嘆
く前に、この思考レベルは天然なのかもしれない。冷静に見れば、ただの
論理破綻を、大きな声と自己陶酔気味の強弁で辺りを煙に巻いてしまう。
巻かれる者たちも根性が座っていないと言うべきか。彼が総理でなかった
ら思いっきり笑えるフレーズがいくつかあった。この男は大衆芸能の漫談家
になったら成功するかもしれない。なにしろ、実際にやることよりも、彼の話
法そのものがサプライズだからである。話法の意外性と自己陶酔の強弁技
術は大衆を笑わせるには得がたい才覚である。お笑い芸人から一国の宰
相になったものはいないが、宰相からお笑いに転じることは可能であろう。
ただし、彼が祖国を甚だしく毀損した責任は償ってもらわないと芸人転身は
夢のまた夢である。冗談で話が飛んでしまったから元の流れに戻そう。

 今までの、日本特有の経済体制は、不完全ながらも、共和的な所得公
平分配社会であったが、小泉や竹中がアメリカの指令によって、ハイエク
型の新自由主義体制に構造を変革してから、わずか五年で格差の広が
りは国民大多数に実感として感じられるほどひどくなっている。これについ
ては、経済シロウトの私ではあるが、感じたことを別記事で述べていく。

 格差社会というものは、何を比較するのかで、いろいろ多くの格差が考
えられるが、国内の社会という視点を、国際社会という大きな枠に敷衍し
て考えた場合、もっとも大きく目立っている格差が何であるかおわかりだ
ろうか。それは「核格差」である。つまり、核兵器を保有する国としない国
の格差である。考えられる限りでこれほど大きく隔たった格差は他にはな
い。これに経済的視点から、持てる国と持たざる国を重ねた場合、核格差
くらい国家間の不平等を体現するものはないだろう。

 核という兵器は、持っているだけで持たない国々への絶対優位をすで
に有している。これが国際関係において、貿易や他の取り決め、人道的
な扱いまで、持てる国が恣意的な主導権を取ることになる。さすがに世界
の核格差を広げている張本人は小泉純一郎ではないが、小泉は日本を
国際連合の常任理事国にすることに血道を上げて失敗した。日本は敵国
条項に位置している通り、YP体制の敵なのである。国連は基本理念がY
P体制堅持であるから、アメリカが中心となって国連を動かし、早く持てる
国家が早々と「包括的核実験禁止条約(CTBT)」という、まことに手前勝
手な条約を作らせてしまった。これは事実上の核保有禁止条約である。

 国際世界という公平性を志向する社会で、CTBT以前に核を保有した国
がそのまま保有の権利を認められるという正当性がいったいどこにあるの
かという話なのである。自分たちが持つことは許されて、他の国々は一切
保有不可というのは、理不尽という一語に尽きるのである。収奪理念を真
の国是にしている米、英、シナのような国は、今ある優位性を最大限に使
って、自分たちに有利な状態に持っていくのを常道としている。

 18世紀中盤から19世紀中盤にかけて産業革命を行ったイギリスは、産
業革命によって生み出した多様な技術を国外に出すことを禁じる法律を作
っていた。その勝手な技術寡占が、軍事と産業構造の進展という面で、世
界の持てる国と持たざる国の比例的格差進行の原型を形作ったのである。
そういう自分勝手な感覚が包括的核実験禁止条約にも生きているのであ
る。

 CTBTを有効化させるためには、当然、核保有国が率先して核を撤廃す
るべきであろう。従って、我が国や他国が核保有する時は、この批准に縛
られることはない。もっとも、この条約は、採択されていても発効はまださ
れていないから事実上は無効である。理由は原子力施設を有する44カ国
のうち、アメリカを含む12カ国が批准しないからである。国連はアメリカの
傀儡組織である。自分が認めない条約を他国に飲ませるわけには行かな
いだろう、

 日本は国民意思を統一するだけで核保有ができるのである。非核三原
則は、横須賀や長崎に原子力兵器を搭載した空母などが寄港していること
から、事実上無効化されている。しかし、考えてみればこの非核三原則も
間抜けな法律である。この法律に通されている考え方は世界情勢をまった
く無視したものであり、国益や自国の安全には何の役にも立っていないば
かりか、自主的に日本を危険にさらす悪法である。この思想に基づいて造
られたのが、あの広島原爆慰霊碑に刻まれた下記の自爆的文章である。
こんな愚かな誓いがどこにあるというのだろうか。

 「安らかに眠って下さい 過ちは 繰(くり)返しませぬから」

 この碑文は、故雑賀忠義広島大教授が考案し、故浜井信三広島市長が
決めたそうである。もし、犠牲者を慰霊する心があるのなら、この碑文はこ
う書くべきであっただろう。 

「安らかに眠ってください 我々は原爆を投下したアメリカに二度とこ
のような惨事を起こさぬように注意を喚起し、人類が二度と原爆の災
禍に遭うことがないように祈ります」

 現状の碑文を肯定する者たちは、主語を入れなかったことの説明を、人
類的な祈りとしての意味合いがあると苦しい言い訳をしているみたいだが、
それなら主語を「我々すべての人類は」と入れるべきであろう。しかし、直
接に原爆投下をした国はアメリカであるから、兵器として初めて原子力を
人類殺傷に応用したことへの反省をアメリカに促す文があって当然であ
り、それこそが慰霊の誠意というものであろう。

 今の碑文だと、原爆投下主体のアメリカは罪を問われず、いかにも日本
人が原爆投下の誘引を招いた張本人のように解釈されるのである。これ
が敗北史観でなくて何であろうか。原爆被災の因果律を日本悪玉論に置
き換えて碑文からアメリカという人類犯罪の張本人を故意に抜き取ったと
しか思えないのである。

 核武装を行うに当たって、日本人が超克しなければならない精神相は、
非核三原則に見える魯鈍な自縄自縛精神と、広島原爆慰霊碑の碑文に
象徴される、民族毀損を志向した自虐史観である。

  核兵器、持たず・・・、造らず・・・、持ち込ませず・・・。

 しかし、アメリカの核の傘の下にあって、よくこんな幼児的なことを考え
るものだと呆れてしまう。この三原則の国是のままでアメリカがいきなり
離れたらどうなるか、火を見るより明らかであろう。触ると擬態で死んだ
振りをする動物がいるが、それよりも無防備になる。

 危険に対して瞼を閉じれば、危険は見えないから、無いのと同じであ
ると考えているのが今の日本人の防衛感覚である。

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2006年4月22日 (土)

日本核武装の正当性と喫緊性(4)

    ◎物理的な孤立の瀬戸際にある日本

今の日本は、二つの大国に政治力学的にはさまれてしまっている。一つ
は、その内実が形骸と化しつつある日米軍事同盟を維持するアメリカ、も
う一つはわが国が、平成不況の足掻きから無為無策で経済的に踏み込
んでしまったシナである。問題は今の日本に、この両大国との力学的バラ
ンスを政治的にうまく取ろうとする能力がまったく持てないことにある。小泉
は岡崎久彦の言う「アングロサクソン同盟」を涎を垂らしながら嬉々として
実践している。

 日本が、アメリカとシナとの適度なバランスを保持するためには、最低限
度、アメリカとの関係を相対化しなければならない。つまり、シナと、アメリ
カと、我が国のこのトライアングルな関係性を相対化してしまうことにより、
国際政治力学のバランスが取れるのである。ところがである。この構図を
構築するためには軍事力の担保が絶対条件になるのである。この理屈は
ちょっと頭のいい小学生でもわかることである。

 ガキ大将が三人居て、それぞれの遊び場テリトリーを分担する時、この
ガキ大将のそれぞれの力関係で、遊び場の領域分担が決まってしまうこ
とは明らかである。三人のうち、二人が棍棒を持っていて、一人が素手で
何も持たないとき、遊び場は棍棒を持つ二人にほとんど占有されるだろう。
棍棒を持たない日本という国を考えてみればわかるが、高度経済成長期
が終えて、安定期に収束して当然だった我が国の経済は、安定しないで
衰亡に向かっている。この理由は、経済だけでは国家の安定を担保でき
ないということが史実として実証されたということである。

 日本人の深い眠り、つまり洗脳状態の一つとして、こういうネガティブな
志向がある。我が国が世界先進諸国と対等の軍事力を持つことは、アメ
リカやシナが許さないだろうから、そういう考えは現実的ではない。それよ
りも、多少は金がかかってしまうが、アメリカが軍事防衛を肩代わりしてい
るから、今のままで日本が浮揚する対策を考えていけば必ず突破口があ
るはずだと考えている。この思考が、戦後から現在までほぼ国是と言って
もいいほどに不変的に厳守されてきた。厳守というよりも思考停止に近い
ものであった。はっきり言うが、アメリカに軍事を任せる現状維持では、突
破口はどこにもない。どこにも出口はない。脱出の鍵は、国家としてまっと
うな軍事力を持つこと以外にない。

 ご主人様のアメリカが許さないから、ご迷惑をおかけしたシナの皆さま
がたが許さないから、日本国のまともな軍隊の設立は到底できそうにも
ない。ましてや核武装なんてものも、考えるだけでも忌まわしい。と、こう
いう感覚が日本人の大多数にあるのではないだろうか。つまり、精神の
刀狩りを施されたまま、眠ってしまっているのである。アメリカやシナが睨
んでいるから、大幅な憲法改正も核武装もできないという思い込みは錯
誤にほかならない。卑しくも表面的には我が国は西側のまっとうな独立
国家である。北朝鮮、イラク、イランの場合のように、我が国が核武装し
てはならない危険な国だとアメリカには言う根拠がない。YP体制が発足
してから60年過ぎており、その間、日本は一度も武力紛争を起こしてい
ない。徹底して戦いとは無縁であった我が国が自衛のための核武装を
提唱して世界の顰蹙を買う理由はないのである。

 シナ人や韓半島人が言うように、極悪な日帝に核を持たせるなんてと
んでもないという論旨でアメリカが「ノー」を言ったらしめたものである。こ
の時、日本人は腹を括り、民族自らの命運を賭けてアメリカに直言する
のだ。大東亜戦争は民族存亡の自衛戦争であった。従って東京裁判の
裁定結果は、ここにその全面的無効性を貴国に申し渡すと。

 日本は、戦後のYP(ヤルタ・ポツダム)体制というくびきに、お悧巧さん
のように従ってきて、その心情は、「日本は本当に悪うございました、二
度と軍事力は発揮しません。その代わり、経済で頑張ってまいりますの
で、その辺りの摩擦は何卒ご容赦ください」で通してきたし、そのままこ
れからも行こうと考えている。だが・・・、眠い眼(まなこ)の日本人は、そ
このところをよく考えて欲しい。それを継続する時間は残されていないの
だ。

 もう、どんなごまかしや法のねじ曲げをやったとしても、目の前に迫る
「物理的な自主独立」の現実は回避できないのだ。物理的な自主独立と
は、軍隊も核も持たずして、ハイエナの徘徊する荒野に放たれた赤子そ
のものの日本ということである。前述したが、日本の経済力があろうとな
かろうと、たとえ素寒貧になった日本だとしても、大きな価値を見出して
いる国がある。それがシナ(中華人民共和国)である。

 日本を奴隷化することが、シナ国内統一のもっとも効果的な方法論な
のである。その上、日本人を奴隷化すれば、日本の優れた技術をただ取
りできるし、優秀な働き手にことかかない。精神的にはシナ人の優位性を
もっともシナ人が望む形で確保できるわけである。言うことを聞かない反
抗的な日本人には、通州事件の地獄をお見舞いするということである。あ
るいは食人の餌食となる日本人も出てくるだろう。これは単なる想像では
なく、シナに占領されたら間違いなくそのようになるのである。

 何度も言うように、私の語るシナによる日本占領の悪夢を、日本人の最
後の矜持として、何としてでも回避したいのであれば、核武装を行う以外
に方途はない。当たり前のことだが、この兵器は配備された時点で憲法
九条の支配下を超える。核兵器は交戦権の範囲を超えるからである。従
って、本来は憲法の手順を整えてから核装備に移ることが順当なことで
はあるが、我々にはそのような悠長な時間は一切残されていない。やる
べきことは、九条を無効化した時点とほぼ機を一にして核武装を行うこと
である。これができないと間に合わないのだ。

 その理由は、アメリカの対日戦略が、軍事的世界再編成というトランス
フォーメーションに呼応して否応なく変化してしまっているからである。今
の日本は、こういう二者択一の危急存亡に突入している。それは、アメリ
カに今以上に多額の金を貢ぎ続けるか、それとも、自力で国を守って行く
かという選択である。アメリカは日本から国富を吸い取るだけ吸い取った
ら、次の猟場をシナに求める魂胆がはっきりしている。トランスフォーメー
ションの目的が、東アジア地域から撤退して、中東と欧州に力点を置いた
のは、明らかに資源確保の目的にある。たとえば、欧州諸国、シナ、ロシ
アなどとの資源確保におけるヘゲモニーで、なるべく優位に立つ必要が
あるからである。イラク侵攻もその一環であり、イスラエルを軍事的に守
ることによって自らの地位確定を行っているのである。

 一方、東アジア地域からの権益確保は、軍事力による浸透ではなく、
豊かな国を狙って、そこにグローバル・スタンダードを投入し、今まで日
本にやってきたような手法や姦策を労して、金融工学的な「利益確定シ
ステム」を構築することになる。その一等地の漁場、つまり市場として、
シナに目をつけたのである。ただし、シナは日本のような属国関係には
なく、アメリカとは違った意味で狡猾で喧嘩上手であるから、アメリカが
簡単にシナの金融界に潜り込み、利益確定誘導システムを構築するこ
とは容易ではないはずだ。何よりもシナには実効的な核兵器があり、
ヤクザ的恫喝の術も堂に入ったものである。

 ただし、科学技術もそうだが、金融工学における戦略的手法や発想
はアメリカが理論的にも、実践的にも、想像できないくらい進化している
ので、老獪なシナが造る防波堤でも、たぶん突破されてしまうことは確
実だろう。アメリカは喧嘩しないで富が手に入れば、それに越したこと
はないと考えている。従って、アメリカはシナと表面的には可能な限り
協調路線で行くだろう。その兆候が、昨日の胡 錦濤・ブッシュ会談にあ
らわれている。

 さて、このような情勢下で、このようなパワーバランスの下で、日本が
置かれる世界的な位置は、アメリカにとって、日本の地政学的な軍事的
重要性が薄れてきていることである。沖縄は、アメリカが東アジア地域の
植民地化、覇権にとって江戸時代から狙っていた場所である。大東亜
戦争で初めて沖縄を東アジアの軍事的な橋頭堡として確保した。しかし、
いま、大局的世界戦略では、アメリカはここから出て行こうとしている。

 すでにアメリカには、日本を東アジア地域における戦略的な軍事橋頭
堡として保っていくという意味は消えうせたのである。ここにおいて、我
が国が生き残る選択肢はたった一つしかない。それは核武装である。
日本が孤立したら、中国文明圏に吸収されて新しい生き方を求めれば
いいではないかという人たちもいるが、それが民族の自殺行為である
ということに早く気が付いてもらいたい。選択肢はひとつしかない。核
武装である。

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2006年4月21日 (金)

日本核武装の正当性と喫緊性(3)

  ◎ アメリカを睨めなくて、どうしてシナを睨むと言うのか

 昨年の「正論 10月号」で述べていた兵頭二十八氏の対シナ観には、米
国自身の日本への思惑という見方が欠けている。これは国際政治力学的
にもそうだが、国民意思という日本人の精神相の側面からも、アメリカの存
在は重要な視点である。対シナ問題にしても、対北朝鮮問題にしても、対
韓国問題にしても、日本人は基本的に、対アメリカ・コンプレックスを克服し
ないと、これらの問題には立ち向かえないのである。

 前回で私は、東京裁判史観をアメリカ国内史観に言い換えて、「太平洋
戦争正義史観」と便宜的に名づけたが、これは要するに、終戦直後、ヤル
タ会談とポツダム宣言で出来上がった連合国正義史観なのである。つま
り、ヤルタ・ポツダム体制という、今も継続する世界の戦後体制のことであ
る。アメリカは、太平洋戦争(注;太平洋戦争は、大東亜戦争が、連合国側
の戦争史観によって名づけられた呼称)
を、イラク戦争と同様に「正義の戦
争」に置き換えた。そのために必要だったことは、飽くまでも日本を完全な
悪として理由付けすることだった。そこで、極東国際軍事裁判というでっち
上げ裁判を行ったのである。

 アメリカの私怨で設立されたこの国際法違反の法廷は、戦勝国による敗
戦国への復讐という、およそ、裁判という公平な裁きの場とは相容れない
報復思想だけで行われた。ここから出た日本悪玉論という裁定結果を軸と
して、GHQは占領期間中に、日本国内で連合国批判ができないように放
送コードを敷き、日本がわずかでも、あの戦争の正当性を主張できないよう
にして、アメリカを正義とする情報喧伝が繰り返し行われた。日本は悪であ
り、特に軍部指導者は極悪の犯罪人であったという戦争史観を日本人に刷
り込んだ。これが世に言う東京裁判史観である。

 この虚偽の自国毀損史観は、マスコミと日教組のような左翼によって継続
され、戦後60年経た今も尚、続行中である。それを証拠付けるのは村山談
話であり、それを踏襲した小泉純一郎の談話である。つまり、自虐的な負
け犬史観を後生大事に維持しているわけである。困ったことに、この誤った
史観はかなり強い慣性があって、簡単には修正できそうもない。しかし、日
本人はこのアメリカに対する卑屈な負け犬史観を超克しない限り、シナや
韓半島と互角に渡り合えない。彼らは東京裁判による日本人の負け犬史
観を巧妙に衝いてくるからである。兵頭氏の例の論考の中でこう書いている
部分がある。

  日本には「アメリカの奴隷になっても良い」と公言する若者が多いの
で驚かされますけど「シナ人の奴隷になってもよい」と思う人はいないは
ずです。
       <2005年「正論」10月号 P212>

 
 シナ人の奴隷になってもかまわないと考えるメンタリティは、チャイナスク
ールにはあるかもしれないが、まともな日本人ならまずそんなことを考える
者はいないだろう。しかし、まともな日本人だと、自分を思っている日本人
には、アメリカの奴隷になることに対しては、さしたる抵抗感を持たないも
のが圧倒的に多い。彼らはそれを隷従としてではなく、親密な友人関係と
か、同盟国同士の信頼感などという方向で、無理なく自然な自己欺瞞に
逢着しているのである。隷従を親米と錯誤しているのである。小林よしの
り氏の言う「ポチ」である。隷従を憧れと思い違えているところに、東京裁
判史観の真の恐ろしさがある。

 問題は、兵頭氏が指摘しているように「アメリカの奴隷になっても良い」と
いう若者の存在があることである。すでにそういう層が出始めていることが
今の日本の陥っている病弊を端的にあらわしている。この隷米意識の流れ
は、若者層から突出的に出たものではない。これは戦後の日本が抱えた
敗戦トラウマが、時間を経てアメリカへの絶対的な服従観念に固定化し、ア
メリカの言うことは何でも従うのが日本の利益にもなるし、間違いないことだ
という条件反射が身についたのである。この盲従意識を端的に示す知識人
が岡崎久彦氏である。彼は言う。

 「日本はアングロサクソン同盟を持ったときは安定していた。だから、
どんなに焦燥感にかられても米国との同盟軸を見失ってはいけない」

  これについて、彼の言う「安定していた」という意味がいまひとつ判然とし
ない。要は、アメリカ・イギリスには基本的には逆らっちゃいかん、逆らった
ら日本は碌なことにならない。そのもっとも実証的な歴史的事実が太平洋
戦争におけるわが国の敗北であるということなんだと思う。私は岡崎氏の
言う「アングロサクソン同盟」はきわめてたちの悪い言葉のレトリックである
と考える。

 彼はもっとはっきりと本音を言うべきであろう。すなわち「アングロサクソン
への完全なる隷従」だと。日本はアメリカの奴隷国家として生き抜くしか選
択肢はないのだという言い方をしてくれれば、それは、それなりの腹を括っ
たひとつの見解として認めてもよい。もちろん、負け犬史観、典型的な敗北
主義としてそういう見方もあるんだなという意味でだが。

 彼の言葉上のごまかしは、同盟という言葉である。盟主的覇権外交を終
始一貫して取っているアメリカと、同盟という言葉が意味する相互平等的な
関係をわが国がとったことは、歴史上で一度もない。戦後は同盟国じゃな
いかという人がいたら、考えてもみて欲しい。アメリカの軍隊がわが国にこ
の規模で駐留している現実は、事実上の占領状態であると考える以外に
どんな国際関係として説明できるのか。何度も言っているが、西村眞悟氏
が言うように、国家とは護るべきものを持っているから国家なのである。そ
れを他の国の軍隊が守るという異常さは、日本人が自らを損ねる自傷行
為に等しいのである。これは民族魂の自殺である。

 戦後60年の思考停止的な慣行は、日本人が敗戦ショックという位相から
アメリカ盲従という「奴隷根性」に成り下がったという実相を把握しなければ
ならない。眠っている者に、お前は眠っているんだと悟らせることは至難の
ことである。しかし、その自覚からしか、日本人としての矜持は復活しな
い。いかに、現代日本人が陥った精神的な眠りが深いか、それを思うと暗
澹とした気分になる。
 
 日本が戦略的に持たなければいけない肝(はら)に、失ってはならないア
メリカに対する矜持と言うものがある。それは心ある憂国の人たちすべてに
共通する心持ち、すなわち靖国神社を守り、皇室を守っていく民族の基本
精神である。これに加えて、大東亜戦争終局面において、殺人を目的とし
た米国による都市空襲と原爆をけっして忘れない気持ちを保持することも
肝要なのである。

 こういう気持ちを持たずして、どうやってシナや韓半島人の戦略的な政治
攻撃に対峙できる気力が保てるというのだろうか。アメリカの奴隷になって
もかまわないが、シナにだけは隷属するのはいやだというのは、すでに日
本人としての顔を喪失した精神であり、これは深刻なる先祖毀損である。
亡国精神そのものである。亡国精神で周辺国と対峙することはできない。
しかし、今の日本人の精神相はそうなっている。

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竹島のこと

  ◎ 竹島のこと

 竹島周辺海域調査問題で、今、韓国の警戒水域が
上がっている。韓国は、韓国海域に浸入する敵に対し
ては断固とした措置を取ると言っている。

 調査船はどんどん、自国海域の調査をして「拿捕」さ
れるか発砲された方がいいだろう。日韓問題では、今
まで韓国が闘鶏のニワトリみたいに、トサカを逆立てて
がなり立ててばかりいたが、日本は終始冷静な対応をし
てきた。

 竹島は、自国領土なのだから、そろそろ日本側が普
通に実力で領有権を主張するべき時だろう。私は、紛
争という二国間問題に発展した方がいいと思っている。
韓国側は実力的な占領状態において、既成事実を積
み重ねている。これは早々に日本側がつぶさなければ
ならないだろう。リショウバン・ラインが無体なものでも、
不当占拠の既成事実が積み重なるのはよくない。この
辺りで日本はドカンとぶち当たった方がいいだろう。

 竹島領有問題は韓国側ではなく日本の国内問題にあ
る。国民に、贖罪的な歴史観によって竹島の領有権を
感じていない者たちが居ると言うことである。この阻害
要因がなくなれば、国際法的に日本のものであるから
案外すぐに解決するだろう。歴史問題追責は、韓国の
国是なのであるから、この問題に関わりなくうるさく鳴き
続けるだろう。

 日本人には領有意識をグレーゾーンとして思考停止し
ている者が大勢居る。彼らを国土の自主権と言う感覚に
目覚めさせるには、この状態はいい方向に進んでいると
見る。調査船は拿捕されるか、あるいは発砲された方が
いい。なぜなら、そこまで行かないとグレーゾーンのジャ
パニーズは本気で怒らないからである。

 時々、思って暗澹としていることがある。もしかして、今
の日本人は、もう、言葉や文字では目覚められないほど
深く眠りこけているのかもしれない。深い眠りに落ちてい
る人に対して「おーい、起きろ~っ!」と普通に言っても
まだ眠っているみたいな感じであろうか。これを目覚めさ
せるには冷たい水をぶっ掛けるという方法がある。謂わ
ばショック療法である。

 ちょうど今の日本はそうしないと起きられないほど、東
京裁判史観の深い眠りに陥っているのかもしれない。だ
とすれば、今の領土問題にしても、東シナ海でのシナに
よる強行採掘でも、武力的紛争事例が起きた方がいい
のかもしれない。

 無責任に言うわけではないが、日本が覚醒するので
あれば多少の被害や犠牲は仕方がない状況に至ってい
るのかもしれない。

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日本核武装の正当性と喫緊性(2)

   ◎米、シナ、日のトライアングル

 酔っ払いの酩酊感覚にも似た、偽りのパシフィズムに冒されている今の
日本国民でも、最近の世の中の急速な変化にはそれなりに敏感である。
昨年の9/11解散総選挙の時、それまでは政治選挙にさしたる興味をおぼ
えなかった若年層やノンポリ層にも、当時のあの選挙では、国民はどこか
しら国の進路にとって重要だなという雰囲気を察知していて、みんなが緊
迫した面持ちで今回の選挙の意味を汲み取ろうと真剣であったことはうか
がい知れた。

 しかし、結果的に小泉純一郎という戦後最大のペテン師によるマスメディ
アを使ったパフォーマンスに見事に騙され、国民は、小泉が何かいいことを
してくれるのではないかと期待し、「乗り」だけで支持してしまった。国民は
長期閉塞感の出口を短兵急にペテン師に任せてしまい、戦後最悪の政府
体制を許容してしまうことになった。そのことにいまだに気がつかない魯鈍
さが、今の日本人の陥っている凋落のひどさを物語っている。

 さて、軍学者としての兵頭氏の対シナ憂慮は自分もほとんど同様である。
近年におけるシナの対日姿勢の悪どさ、傲岸不遜さを鑑みれば、彼らが、
日本を掌中にできるのは、もう時間の問題だと考えていることは明らかであ
る。この深刻な憂慮は私もまったく同感である。ただし・・、である。兵頭氏
の対シナ指向の中には、決定的に欠けている視点がある。いや、致命的な
視点の欠落と言い換えてもよい。それは日米関係である。日中関係と日米
関係というトライアングルは、それぞれ別個のものではなく、我々が思う以
上に緊密な一体性を持っている。

 世界は、表面的には米ソ二極化の冷戦構造から、米中二極化の「冷戦構
造」にシフトしたかに見えるが、実は、これは冷戦ではなく、経済を通じて、
米中がかつての日米関係と似た関係を築こうとしているように見える。それ
を阻む障壁は、シナが「共産資本主義?」というわけのわからない路線を取
っていることである。資本主義経済に原子力エンジンのように邁進しながら
も、共産党北京中央政府なのである。こんなことは本来あり得ないはずで
あるが、彼らは長年の華僑経済によって資本主義の内実を知悉しているこ
とも、あり得ないことをあるようにしている一つの理由だろう。

 共産主義路線は国是であるから捨てられない。ならば、どうやって求心力
を保っているのかと言うと、それはご存知、悪鬼としての日本帝国撃滅思
想なのである。つまり、彼らは経済は自由主義で、政治は共産主義という
分裂病的な国家体制を維持するために、その両者を整合する接着剤を常
に供給しなければならないという病理に蝕まれている。この接着剤に当た
るのが、我が日本の存在なのである。

 アメリカそしてシナという大国に日本人はちょっとした皮肉を感じないだろ
うか。アメリカも、シナも、その超大国の行動エートスは、キリスト教倫理で
も、儒教でもなく、なんと我が日本なのである。それほど日本という存在は
彼らにとって大きなものなのである。アメリカは東京裁判史観(アメリカ国内
では太平洋戦争正義史観)を維持しなければ崩壊するし、シナは大日本帝
国を敵視して抗日史観を維持しなければ国民のバンドリングができない。こ
の歴史的な状況はある意味、これら二大国家のアキレス腱だろう。

 それはともかくも、シナの分裂症的な国家体制は、アメリカによるグロー
バリズム的浸潤、つまりは金融工学的な浸潤を阻害しているのである。ア
メリカ型民主主義とグローバルスタンダードを、どういう形であれシナに導
入できないでいることが、収奪戦略に明け暮れるアメリカの本当の焦燥感
であろう。

 それはこういうことである。米国は、日米同盟関係が軍事戦力的には日
本の力を当てにせず、煎じ詰めて言うなら日本のカネをあてにして維持して
きた。日本に進駐軍が居座ったのは、文字通り、共産主義の拡大を阻止す
るために、旧ソビエト連邦共和国に睨みを効かせ、同じ共産圏の中華人民
共和国(シナ)の極東覇権を止めることにあった。しかし、旧ソ連は崩壊し、
シナは「名目共産主義」ではあるが事実上の共産主義体制に「背教」してし
まった。アメリカには、共産主義の潮流を、朝鮮半島と日本という防波堤を
使って阻止するという大義名分はなくなった。

 極東アジア地域、あるいは台湾をシナの覇権内に入れても、「権益」にプ
ラスになればアメリカはそれでいいと思い始めている。米国の軍事戦略は
中東地域とヨーロッパに大勢として動き始めている。そういう大局的戦略と
してのトランスフォーメーションの一部として、沖縄駐留兵士のグアム移動
になっている。

 シナを初めとして、インドやパキスタンが核武装を行い、他のアジア諸国
が国力を増してきた今、いかにパワーのアメリカいえども、世界全体を睥睨
することは無理な状況になってきた。そこでトランスフォーメーションという戦
略的軍事配備の再構築を行うことになった。この過程において、自国利益
と国民の危険に関わらなければ、アジアのことはアジアに任せ、アジアから
は今まで通りの金融工学的な利益誘導という手法で富の収奪を行おうと腹
を決めたようである。もちろん、その対象は日本からシナに移り始めている
のだが。

 アメリカは、利益誘導システムをシナに植えつけられると確信した時点
で、日米安全保障条約を破棄する気である。あるいは何らかの経済的打算
から、シナと話をつけ、日本をシナに売り渡すことだろう。そういう近未来の
状況を政治家は想定して国際政治を考えているのか、はなはだ疑問であ
る。

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2006年4月20日 (木)

日本核武装の正当性と喫緊性(1)

  ◎通州地獄の再現は原爆死よりもむごい

 近年、我が国の核武装論を唱える人たちが何人か出始めた。数
年前までは、日本と核という文字を列記しただけでアレルギー性拒
絶反応が出ていたが、最近のシナや北朝鮮などの動向を見て、さ
すがに平和逃避の能天気な日本人にもそれなりの危機意識が出
てきたと思える。

 日本核武装論を唱える人を狂気の人間としてサディスティックに
弾劾していたのはつい最近までのことである。日本を心配し、国家
の行く末を真に憂慮する本物の国士であれば、日本核武装論を唱
導することは当然中の当然であるということが最近少し理解されて
てきているようである。ここでも日本国民は、政治家というものの正
当な国防観念というものがどんなものかを考えてみるべきであろう。
周辺国による核の脅威を抑止するに足る最大の方策が核兵器であ
ることは間違いない。政治家がこれを訴えるのが真に国家を思う国
防認識である。ここでも、これを早くから訴えていた西村眞悟氏の
核武装論提起
は、彼が真の憂国者であることを物語っている。宰
相にふさわしい人物とは彼のように国防を第一義に置く本物の国
士である。宰相の資質たるものにもっとも必要なものは、歴史に裏
打ちされた深い国防意識と先見性にある。それを考えた時、西村眞
悟氏以外にそれを有した政治家がどこにいるのかと思う。

 腐ったパシフィズムは、国民を思考停止という国防意識の極限的
な低下に貶め、日本国民としてどうあるべきかという基本的な価値
観を喪失せしめた。国民精神は歴史的連続性から遊離し、日本の
魂を失った、さまざまな雑多な価値観の揺らぎの海に沈んだ。国民
は、今、シナの核攻撃による滅びのリアリティに覚醒するべきであ
る。歴史の正統性を失った日本人には民族国家の危急存亡の事
態が見えないのである。もっと正確に言えば、今の日本人は自ら夢
遊病者となって現実から目を逸らしているのである。

 昨年の郵政解散総選挙の直前に出た「正論」誌10月号に、兵頭
ニ十八氏の「小泉郵政解散の暗号を読み解く」という、いわゆる兵
頭流の小泉郵政法案擁護論が載っていた。その要旨を私なりに要
約するとこうである。今、さしあたって日本の憂慮をもっとも端的に
示す事柄は、シナによるわが国への破壊工作が熾烈になり、より
いっそうのシナ覇権の危険にさらされてきている。支那は今、数百
発の水素爆弾を所有し、そのうちの何割かはわが国の諸都市を標
的としている事実
がすべてを物語っている。もしこの選挙で小泉現
政権派が敗れるようなことがあれば、日本の国権はめちゃくちゃに
なり、シナ外交部とわが国に巣喰うチャイナゲートとのタッグによっ
て、よりいっそうの国家構造の破壊が進む。

 1972年の田中角栄総理による日中国交回復以来、自民党旧田
中派の台頭は、シナ人との親密な友好という美名の下にありなが
らも、その内実は一方的に日本が支那に食い荒らされる方向に進
んできた。従って、対シナ政策の要点は旧田中派政治家の完全撲
滅にあると小泉は見ており、それが「自民党をぶっこわす」の真意
であった。俗に言われる角栄vs福田の確執から出た意趣返しはさ
したる問題ではないし、民営化論議そのものは「瑣末なこと」である。
つまりは対シナ戦略として郵政民営化をぶちあげたのが今回の郵
政民営化騒動の真相である。郵政民営化の目的は旧田中派の絶
滅にある。
                              
 さて、以上は昨年の郵政民営化解散総選挙直前の兵頭氏の見
方であり、時局的には古くなっているが、シビアな国際認識におい
ては、今も変わらない重要性を持っていると考える。だから今、自
分は兵頭氏の小泉擁護論のいくつかの論点に反論しなければな
らない。かなり以前からではあるが、シナの侵略意志が完全に日
本にロックオンされており、アメリカの動きひとつでわが国はシナ
覇権の餌食にされかねない瀬戸際まで来ていることはもはや疑い
ようのない現実である。マスコミはまったく言わないが、実際に支那
は水素爆弾をわが国の諸都市を、仮想ではなく現実の目標として
狙いを定めている。

 東シナ海の天然ガス資源のドリリング&採掘然り、それに関連
して、わが国の領海内において勝手に航行禁止のお触れを出した
り、潜水艦が領海侵犯的な動きをしたり、また、小笠原近辺の領有
を狙う動きがあったりと、支那の日本侵略意思は日毎に露骨にな
ってきている。今回の東シナ海の船舶航行禁止も、日本の出方に
対する様子見だったというのは本当だろう。日本が怖気付いたら次
の戦略を考えているのだろう。

 さて、国家サバイバルの見地から言えば、日本はいまシナの獰猛
な顎門(あぎと)にどう対抗するかが焦眉の急になっていることは論
を俟たない。戦略的にいかにシナに対峙してわが国の命運を引き
伸ばすかに全国民の強い意志を結集させなければならない。しか
し、シナの日本侵略意思が露骨に現実化する鍵は、アメリカが手中
にしていることは最初に認識して置かねばならないことである。シナ
は、日本や台湾を睨みながら、その背後のアメリカとじわじわと駆け
引きをしているのである。その拮抗バランスが崩れたら、すぐに日本
と台湾を侵略するはずである。

 簡単に言ってしまえば、日本をアメリカが見放した時、日本と台湾
はシナに併合され、蹂躙されるのである。米国は日本経済が機能し
ている間は日米同盟を堅持するが、日本からの「利益確定システ
ム」が機能しなくなった時、すなわち日本経済がパンクして米国に
利益誘導がなくなった時、日本は「貢ぐクン」としての利用価値を失
う。そして、その利益確定システムを、シナという新しい獲物の身体
に仕込むことを始めるだろう。そのために、今、米国は政治経済的
にはシナと親和的な付き合いをしている。

 兵頭氏は、「郵政民営化は瑣末な論議」だと言っていたが、私は
瑣末どころか郵政の民営化は、わが国の核被害に直接関わる国
家の危急存亡だと捉えている。ここ十数年来続けてきた日米構造
協議や、国内におけるもろもろの構造改革は、米国へ日本の国富
を誘導する機構作りであった。この利益誘導システムの中心に郵
政民営化があるのである。昨年の郵政民営化是非による総選挙
は、まさにわが国の命運を左右しかねないほどの重大な局面をも
っていた。

 これを一概に説明するのは、それなりの字数を要するが、要は、
郵政民営化によって、郵貯、簡保にストックされていた350兆円と
いう我が国の膨大な国富が、「生のまま」でリスク市場にさらされ、
それが「キャピタルフライト」という形で海外、つまりはアメリカに流
出する。そしてそれはすでに始まっている。今、郵政資金を目当て
に海外投資家の買いが激化している。これが一時的な景気浮揚
を起こしているが、小泉はそれを、構造改革の成果が目に見えて
きたと嘯(うそぶ)いている。今の景気浮揚は、日本経済が屠殺さ
れる直前に一時的に豪華な餌を与えられた状態にある。

  外国市場は、改革が進むという詐術で、日本国内の規制緩和が
進み、投資がやりやすい市場に構造変換し、そこに郵貯資金がな
だれ込む。基本的に海外市場は、ここ数年で日本株は買い、そし
て郵貯資金を巻き込み、最後は売り逃げする。そういう市場的な
収奪構図が見えてくる。小泉を支持した愚かな国民は、自分たち
が汗水たらして貯めた大事な金を小泉たちがアメリカにせっせとた
だで貢ぎ始めたという事実を認識できないでいる。これじゃ、竹中
にIQが低い国民は騙しやすいと思われてもまったくその通りであ
ろう。今からでも遅くはない。子や孫の未来を案じるなら、現政権
路線はなるべく速やかに弾劾、倒閣するべきである。彼らは紛う
ことなき国賊なのだから。

 郵政資金という膨大な国富が、金融工学に無知な我が国の市場
から流れ出たら、経済力を恃みにしていた我が国の国力は急速に
低落する。この状況で、アメリカは日本と軍事同盟を維持していく動
機を持てなくなる。すなわち金の切れ目が縁の切れ目である。アジ
アの覇権はシナに任せ、衰亡した日本は、やがて吸い取る金がな
くなったら突き放す。およそ、米国ほど共生とか相互互恵とかいう
ものと対蹠的な理念を持つ国はないだろう。はっきり言うなら、米国
のアーキタイプとは盗賊DNAなのである。

 アメリカが日本と軍事同盟を結んだのは、最初は日本の刀狩り
(憲法九条厳守)を監視する目的があったが、日本の経済が亢進
するにつれて、同盟の目的が、経済的に半恒久的な利益誘導の
場としての日本を安定的に「確保する」ということに変わった。そこ
で、不平等条約を嵩に来て、ねちねちと日本のカネを搾り取ってい
たのだが、ヤクザのエスカレートと同じで、近年に至って、日本から
効率的になるべく大きな塊で利益を収奪することに切り替えた。そ
れが日本国内での利益誘導システムの構築であり、これは小泉と
竹中が中心になってやっている構造改革によってほぼ実現した形
になっている。あとはなるべく素早く、効率よく、日本から富を吸い
取るだけになっている。

 日米同盟による核の傘下という構図はすでに成り立たなくなって
いるのだ。アメリカが日本と同盟関係を結んでいる理由は、西側資
本主義国家同士の連帯ではなく、都合のいい利益誘導市場として
日本を見ているからである。郵政資金を始めとする日本からの利益
を確保し、日本には奪うべき価値がなくなったと判断すれば、米国
は同盟関係をすぐに破棄するだろう。そうなった時、有無を言わさず
日本はシナの水爆の標的になり、アメリカはそれを座視することに
なる。

 シナは、日本がシナに併呑されるか、水爆攻撃で列島と民族ごと
灰燼に帰されるか、どちらかを選択しろと迫ってくる。シナに占領さ
れるということが、どういうことかを日本人は強く自覚したほうがい
い。それよりは水爆で一瞬のうちに死んだほうが幸せと言うもので
ある。それを確信できる実際の事件があった。そこから冷静にシナ
人というものの伝統的な一面を汲み取って欲しい。大陸的な残虐性
という言葉だけでは足りないと感じるだろう。歴史の要所要所に当
たり前に見られる彼等の残虐性は現代でもまったく変わっていな
い。読むのはつらいかもしれないが、「通州事件」というワードで検
索してみて欲しい。

  たとえば、
http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/tusyu_jiken_1.html

 日本人は平和にぼけていないで良く考えて欲しい。通州で実際に
起きたこの酸鼻極まりない残虐な事件は、シナ人の伝統的な作法で
あり、彼等にとっては少しも異常なことではない。この事件は、東京
裁判に提訴されたが、それは当然ながら却下された。なぜなら、東
京裁判の裁定思想が、デフォルトで日本を悪玉にするという決め付
けに基づいていたのであり、通州事件が訴状に乗ると連合国側に
とって都合が悪いからであった。

 もっとも都合が悪いのは、当のシナ人よりも原爆を落としたアメリカ
である。私は南京陥落時のいわゆるあの大虐殺事件は、アメリカが
無差別都市空襲と原爆の罪を糊塗するために便宜的に捏造したも
のだと考えている。奸佞に満ちたその魂胆は、日本のような残虐な殺
戮を行う民族は、非戦闘員でも、女でも、子供でも、老人でも、原爆で
殺傷して当然であるという、謂わば、究極的な日本民族性悪論であ
った。それは、アメリカが自国の正義を歴史に投影するためにどうし
ても必要な虚偽であった。

 アメリカは、神ならぬ人間の分際で、キリスト教的な原罪観念さえも
凌駕する大罪を日本民族になすりつけたのである。それは日本民族
の存在そのものが悪(evil)であるという決め付けであった。まさに神
をも恐れぬ所業とはこのことであろう。日本人がデフォルトで悪魔な
ら、五百年に及ぶ侵略、殺戮、収奪、植民地化の暴虐をほしいまま
にしてきたアングロサクソンは慈悲深い有翼天使だとでも言うのだろ
うか。

 アメリカは、ドイツ・ニュルンベルグ裁判の裁定思想を無理やり東京
裁判に当てはめ、無罪の日本人を裁いたことは神が許さないだろう。
極東国際軍事裁判とは、国際法的に違法かつ非人道的であり、それ
は私怨による復讐裁判であった。アメリカは日本人がそれに気づくこ
とを怖れている。虚構の南京大虐殺は、アメリカが正義という嘘で塗
り固めた「太平洋戦争史観」を正当化するためにでっち上げた人類史
的な虚構なのである。そういう卑怯な嘘で通していた裁判であるから、
通州事件の提訴は明明白白な証拠があったにも関わらず却下された
のである。

 なぜなら、南京で関東軍がやったと言われているさまざまな虐殺様
式は、通州事件でシナ人がやらかした伝統的虐殺作法と酷似するか
らである。それは我が国の国民性や歴史からは到底想起されえない
行動様式だからである。つまり、南京大虐殺は嘘だということである。
通州事件と南京虐殺の様相を、民族学的な見地から比較検討するこ
とも重要である。それは、日本人が囲繞されている東京裁判史観の
深い昏睡状態から、正気の覚醒に導く一つの方法である。

 シナに占領されたら、列島全体の国民が通州事件の地獄の様相を
目の当たりにし、自身も確実にその運命に巻き込まれることを覚悟し
たほうがいい。のどを針金で通されて引き回され、目をえぐられ、嗜虐
的な娯楽のために嬲り殺されたり、強姦刺殺されたりしてもいいのか
という話である。何よりも恐怖なのは、愛する家族のそういう地獄絵図
を目にすることであろう。偽善ではあっても、キリストを信じていると嘯
いているアメリカ人の方がまだ増しであろう。彼らも国の体面を気にす
るからである。シナの興亡史を冷静に見るなら、彼らに蹂躙されること
が、どういうことであるかを知るために通州事件を念頭に刻み付ける
べきである。もちろん、日本のマスコミは絶対に知らせないが、1949年
から起こっているシナの人民解放軍によるチベット侵攻時にも、この
通州型虐殺や拷問は考えられない数で起きている。これは戦後の話
である。シナのこういう非道きわまる暴虐が日本に向かった場合、そ
れを想像することは夙に容易である。まったく同じ酸鼻な地獄が日本
で再現することになる。

 通州事件とは、シナ人がこういうことをやらかしそうだというのではな
く、実際にそういうことをやってきたという史実の一つなのである。しか
も、日本人が一時も忘れてはならないことは、彼らの歴史において、そ
の虐殺の類型が連続性を保っているということにある。歴史においては、
突出的に起きる事柄と、民族の性向によって再現性を持って起きる
こと
がある。この事件は明らかに後者なのである。原爆の無機的な殺
戮性よりも、同じ人間の形をした鬼畜の所業のほうが、救いがないよう
に思える。銘肝したほうがいい。

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2006年4月17日 (月)

喰われ続ける日本でいいのか

    中国、中間線付近の船舶航行を禁止…ガス田拡張のため
 【北京=末続哲也】中国海事局が、東シナ海の「平湖」ガス田拡張工事の
ためとして、日本が排他的経済水域(EEZ)の境界とする「日中中間線」周
辺の海域で作業船を除く船舶の航行を禁止する通知を今年3月1日付で出
していたことが15日、分かった。

 日中関係筋によると、航行禁止海域は、日中中間線をまたぎ、日本側ま
で広がっている。

 今回の通知には、3月上旬に行われた東シナ海の天然ガス田開発問題
を巡る日中両政府の局長級協議に先立ち、日本側をけん制する狙いがあ
った模様だ。日本政府は、中国の真意などをただしているが、中国の対応
次第では、日本側の強い反発を招く可能性がある。

 海事局のウェブサイトによると、対象は北緯27度7分、東経124度55分
付近から北緯29度4分、東経124度54分付近までを結ぶ帯状の海域。
工事は海底でのパイプラインやケーブル敷設などで、作業期間は3月1日
から9月30日まで。

 中国側は大陸棚を境界と主張する一方、日中中間線を境界として認め
ず、日本が権益を主張する中間線付近のガス田開発について「係争のな
い水域」で行っていると主張している。
          (4/16  YOMIURI  ONLINE  より)

 このニュースを聞いて憤然としない日本人は間違いなくどこかがおかし
い。中共政府が、日本を名指しで難癖を付けてくる場合と違い、このニュ
ースが示すことは、実際上の主権侵害行為である。東シナ海の日中中
間ラインを超えて日本の領海内部まで踏み込み、航行禁止を言い渡す
ことは明白な主権侵害行為である。これは明らかに戦争事由である。こ
のような一大事の時、日本のマスコミは亡国姿勢のせいで、この問題を
通常のニュースの範囲で流している。

 普通の国家なら、号外を出し、政府は声高に主権侵害を抗議すること
が順当な行動である。しかし、日本政府や外務省は静かである。静観を
決め込んで、この事態を傍観するとでも言うのだろうか。心ある国民は皆
憤慨し、相当の憂慮を感じているはずである。いつものことだが、政府は、
シナや韓半島が何か日本に対して問題行為をやった時、なるべく穏便に
やり過ごそうという態度を取る。主権侵害が行われているのにそんな態度
を取る国は日本しかないであろう。だからますます彼らは日本に横柄にな
り、非常識な国際政策をとる。

 政府はマスコミ対策的にいつも同じことを言う。すなわち、「抗議はきちん
とやっている」と。何度抗議しても平然と日本の侮辱をやるばかりか、今回
のように実際の主権侵害行為として、その態度をエスカレートさせる。シナ
のように露骨な覇権意識丸出しのやり方にどう対処するというのだろうか。
「話し合い」という選択肢しか持たないわが国は、抗議という非軍事的な手
段は基本的に無効だということを早く知るべきである。

 いざとなれば実効的な武力展開ができてこそ、国際的な話し合いはまと
もに成立するのである。シナのような大国主義に乗じた横暴な国家に対し
ては、強い軍事力の裏づけが必要である。そのもっとも効果的な軍事力と
は核兵器である。シナや韓国、北朝鮮と実効的な国際関係を続けるには、
軍事的な力の裏づけを必要とする。平和憲法は素晴らしいなどと言ってい
る輩は、「早く自滅しましょう」と言っていることに等しいのである。

 シナのように、話し合いなどということは最初から無視して、権益になる
ことなら、有無を言わせずに実行に移す国とは武力で対峙する以外に方
策はないのである。これが日本を取り巻く冷徹な国際情勢である。これに
対して、わが国は永久に平和を誓った国だからと繰り返し言えば、ああそ
うですか、それは立派な心がけですね、最大限に尊重しますよ、とヤクザ
国家のシナが頷いてくれるだろうか。

 ここに平和主義者の軽挙妄動がある。憲法九条という永久平和の憲法
があると日本人がいくらがなり立てても、覇権意図を崩さない国に対して
は、侵略してくださいと言っていることと同じである。この簡単な事実がわ
からない者が多くいることは不思議ではあるが、彼らは平和の美名に陶
酔した国家破壊者なのである。そもそもシナは強いものには卑屈に恭順
し、弱いものは冷酷に痛めつける下司で野蛮な心性を持つ。

 昨年の日本大使館や企業への破壊的デモの損害を、いまだに補償す
る気配はないことからもそれはわかる。こういうシナみたいな輩には、反
撃できる軍備さえ備えていれば下手に領海侵犯などはされないだろう。彼
らの優位性をぶち破って、パワーバランスを構築する唯一の方策は日本
の核武装なのである。これを実現できれば、シナもアメリカも無体なことを
押し付けては来ない。核武装以外に日本の民族自決が保証される方策
があったら是非とも教えてもらいたい。二度とアヤマチは犯しませんなど
という自虐文を石に刻んで、どうやって生きていくのか。どうやって子孫を
未来に残せるのか。

 今、国際的に言って、もっとも愚かな防衛策を取っている国家は、残念
ながら我が日本と言わざるを得ない。マハトマ・ガンジーの無抵抗主義に
はそれなりの思想があった。それは新約聖書の「山上の垂訓」を心の指
標にしたことである。これをやれる人は、実際に戦うよりも強い精神エネ
ルギーを必要とするように思う。しかし、日本の無条件絶対平和主義に
は思想性が皆無である。こんなものは戦後の浮薄な観念から出された
欺瞞のパシフィズムに他ならない。歴史や国家の連続性から遊離した腐
臭紛々たる偽りの平和主義は、日本人を極限的に蚕食し始めた。これこ
そが、三島由紀夫の予言した「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中
間色の、・・」の国民様態そのものにほかならない。
    
 そもそも教育基本法改正に「国を愛する」という表現を盛り込むことがど
うのこうのと騒いでいるが、歴史のレジテマシーをまったく考慮せずに、そ
んな形骸的なお題目をぶち上げたところで一切の効果は望むべくもない。
ましてや、村山談話を肯定したまま、先人たちの名誉を回復せずして、い
ったいどんな愛国心が生まれると言うのだろうか。占領憲法とセットで押
し付けられた教育基本法などは、日本国憲法とともに廃棄する方がいい。
その代わり、明治憲法を土台とした立憲君主制による新憲法を打ち出し、
それと同時に教育勅語を復活するべきである。

 アメリカやシナのような暴虐な国に無理難題を押し付けられ、刀を抜くこ
ともできずに武士道精神がどうのこうのと言う資格はない。ましてや今の
日本は、刀を使えないように保証する憲法を持っている。まず、この異常
さを正常に変える事である。民族自決と自主独立の中からしか民族の
幸福原理が働かないなら、初めから隷属を強いられてる憲法など、でき
る限り速やかに廃棄するべきであろう。私は護憲論者でも改憲論者でも
なく、現行憲法の無効を信じる「廃憲論」者である。アメリカ人が考えた
草稿で成立された憲法をなぜ護る必要がある?なぜ、それを土台に改
憲する必要がある?話はいたって単純だと思うのだが。

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2006年4月16日 (日)

戦艦大和(13)◎船影に見る亡失の日本美

   ◎船影に見る亡失の日本美

大和は美しい戦艦である。極秘で建造されたため、大和の実際の写真は
非常に少ないようである。おそらく、全体像を捉えた鮮明なものは皆無と言
っていいだろう。十年くらい前のことであろうか、私は少し考えてみたことが
ある。戦艦大和、あるいは戦艦武蔵が、なぜかくも美しい形態を備えている
のかということを。

 それを考えていたところ、その理由が一筋縄でいかないことにやがて気
がつくこととなった。しかし、取り掛かりとしては次のような捉え方を持ってい
た。それは、大和に限らず、たとえば戦車や装甲車、軍艦類、そういう、戦
闘のための機能や機関を備える戦闘マシーンすべてに言えることである
が、美しさの第一の要因は、まさに戦闘目的で造られたというところにある
と考えた。戦うための武器や戦闘機関というものは、効果的な殺戮や破壊
を何よりも優先させるために、戦闘に対して無駄な機能や構造は極力削ぎ
落としている。

 そのために、装飾的な恣意性、あるいは遊び心を含む冗漫さ、複雑さは
一切なく、そこには破壊殺戮というきわめて明確な目標に一直線に向かう
機能的、かつ簡素なデザイン形態が用いられる。これらのものが美しいの
は、たとえば、人間的な権利や個性、能書きを絶対に主張しないからであ
る。造られた存在目的にそういうヒューマニティと言うか、市民思想的なも
のが一切混じっていないところに洗練された簡略美があるのである。戦う
機動機関に、個性というものが垣間見られるとしたなら、たとえば大和の
舳先にデザインされた十六弁菊花の御紋章のように、国威すなわち国の
誇りを表すものであろう。つまり国柄を象徴するデザインである。

 これによって兵士は、死地に赴く時も誇り高くあることができる。国家に
誇りが持てなくては戦う意志も湧かないし護る意味もない。戦後の日本人
は、護る戦いさえも侵略する戦いとしてカテゴライズしてしまったために、
防衛観念に混乱をきたしたままこれを放擲してきたのである。そのため、
防衛という国家最大の存立意義を、日米安保というアメリカ主導の不安
定な条約に託してしまうという、もっとも愚かな錯誤を継続しているのであ
る。他国に防衛を依存するという行為そのものが、国家の正統性(レジ
テマシー)を失うことに気がついていないのである。

 国家の正統性を失った戦闘思想などは、本来あり得ないのだが、戦後
の自衛隊は実際、憲法的にはそういうものとして歩んできている。こうい
う倒錯した思想が生み出す武器とは、笑い事ではないが、必然的に醜悪
な形態を取るのだろう。たとえば、戦車や戦艦が、「俺たちも疲れることが
あるから、たまには休暇を与えてくれ、戦争労働基準法にのっとって」な
どと権利を主張するような自我を持ったらどうであろうか。あるいは市民運
動家のように、戦争反対、軍国主義への動きを牽制しようなどと戦車が言
い始めたらどうだろうか。それは実戦で使い物にならないことを自ら主張し
ていることになり、自らの自己同一性を否定することになる。

 さらに、場合によっては戦闘に対してストライキを起こし、だんまりを決め
込んでしまうような火器があるとしたら、そんな物は醜くて見られたものじゃ
ないと思う。武器から怜悧さや即応的な機能性を剥ぎ取ったら、切れなくて
料理に使えない包丁と同じである。従って、武器や戦闘用マシーンが美し
いのは、まさに戦闘だけに収斂された設計思想が創造する無駄のない機
能美を言うのである。ここで述べた火器や戦闘車両、その他の武器類は、
象徴的に言ったものであって、実はそれらを今の日本人の防衛感覚と言
い換えても一向に差し支えない。今の日本人の防衛観念は、建国史上、
もっとも醜悪な精神性になっている。なぜなら、それは隷従根性なのであ
る。

 と、そこまではトントン拍子に考えたが、いきなり立ち止まってしまった。
「武器の設計思想は戦闘性能だけに収斂される。だから、それらは極限的に
簡素化されて美しいのだ」と言い切ってしまえば、思考的には簡単明瞭で
楽である。しかし、それなら、大和のみを美しいと言わなくても、人類開闢
以来、人の手で生み出された武器、武具類はすべてが美しいということに
なってしまう。支那の武器も、日本の武器も、シリアの武器も一様に美しい
もんだなあ、などと言ったら、そもそも大和を論じる意味がない。そういう汎
用的、通俗的な美学に帰結する魯鈍なロジックは、単なる思考のゴミであ
る。一時的にもそんな水準の低い論理展開を安易に使った自分が恥ずか
しい。

 さて、そうは言いながらも、武器が簡素化された機能美を持つのはたし
かに一面の真実ではある。しかし、本当に知りたいことは、民族の違いに
よって、あるいは時代の違いによって、戦う道具が異なる造形美を醸し出
すということを考えるなら、その民族の美学的特質を思考の拠り所とする
のは当然である。そういう論理地平から戦艦大和の船影の美しさを論じる
ことが大事であると気がついた。それは、大和に関する美的考察を行うこ
とが、日本人今昔の美的感受性を問うこと、すなわち民族固有の感性的
な連続性を光に当てることに等しいことだと気がついた。

 言い換えれば、それは紛うことなき「日本論」なのである。日本論という
高嶺に聳え立つ道標は、私ごとき一介の親父の手に余る巨大なテーマで
ある。そうは言っても怖気づいてばかりではいられない。戦艦大和の魅力
に嵌ってしまったからには、その日本論、日本人論というテーマに挑戦し
なければ、大和とともに晦冥に沈んだ三千名近い英霊たちの弔いにはな
らないと思っている。

 日本論というものはいろいろな切り口があるがテーマとしては巨大であ
る。なぜなら、日本そのものを扱うわけであるから、並大抵の奥の深さ、
頂上の高さではないだろう。私は戦後の知識人、有識者たちに対しては
憤りを持っている。彼らは小賢しく国際関係における日本とか、開かれた
日本とか、のべつ幕なしに高邁ぶってさまざまな論説を打ち立てるが、肝
心の日本については非常に曖昧な見識しか持っていない。彼らの言う訳
知り顔の論説の中に、日本の未来を担う若者や子供が、希望を持ち、祖
国に誇りを感じるエッセンスがどれだけ含まれているのかという観点から
言えば、ほとんど見当たらないと言ったところだろう。

 彼ら有識者たちが、日本を持たずに無国籍な論説しかできないのは、彼
らの芯に日本の正統なる歴史観が存在しないからである。教育、政治、国
際関係、あらゆる国家的な営みに祖国を大事にする感覚が欠けていたな
ら、どうして日本の行く末を良い所に導けるのだろうか。戦後知識人たちの
師匠の中の師匠たる存在が丸山真男である。どんなに頭脳明晰でも、心
に日本がなければ、彼らは「国売り」の類である。

 たとえば、昨年、テレビ朝日の番組で、郵政民営化を頭ごなしに肯定し、
それに反対意見を述べる者を熾烈にこき下ろした、東○大教授の松○聡な
どという輩は、間違いなく心にいっぺんの日本も持たない売国奴である。小
泉純一郎や竹中平蔵と同質の無国籍精神で生きる典型的な日本人であ
る。この男が今は「通信・放送の在り方に関する懇談会」の座長をやってい
る。

 この男が旗を振って地上デジタル放送など、これからの通信インフラをや
って行くと思うと空恐ろしい。通信インフラが巨大メディアのハードとソフト面
を「規程」することを慮ると、それらのインフラには通さなければならない思
想があり、その根幹には日本を外国から守るという姿勢がなければならな
い。しかるにこの男が小泉売国内閣の尖兵として動いていることを見れば、
これは憂慮すべき事態であろう。日本の知識人の大多数はこの輩である。
彼らの傲慢で醜悪な無国籍性からは、大和の美しさ、品格の高さはけっし
て生まれてこない。彼らの世界認識には、防人(さきもり)感覚、すなわち
国や国民を護るという基本がないからである。あるのは、伝統や歴史や国
家の品性が皆無の、中性的で無機質な市民感覚だけである。そこから生
まれるものは、底なしの日本否定という醜悪さのみである。国への愛情な
くして、どうして未来日本の生命を育むと言うのだろうか。

 松○聡の「なぜ日本だけが変われないのか ポスト構造改革の政治経済
学」に、「小泉首相が掲げた廃止か民営化という大原則は云々」とか、「特
殊法人が利権を握っているがために、日本経済の活力が奪われてきた」
という言い方が出ている。学者であるにも関わらず、これでは竹中や小泉
が、国民を欺くために繰り返し使用した「官僚総悪玉論、従って有無を言
わさず民営化」という不毛愚劣な二項論理そのものである。典型的な御用
学者である。この男の名をわざわざ上げたのは、戦艦大和乗組員の誇り高
い顔と比べて、戦艦大和にもっとも似合わない戦後的な顔をしていると思っ
たからである。

 話を戻すが、日本論としての戦艦大和を考える上で、見逃せない大きな
視点が、もちろん日本の歴史という考察課題であるが、その中に、民族の
美学的感性というテーマが浮かぶ。戦艦大和の容姿の美しさに共通する美
しさを、わが国の歴史の中から探し出し、そこから美のエッセンスを浮き彫
りにすれば、それが求める「日本美」の姿なのである。少なくとも、戦前を否
定した戦後民主主義的な感性からは絶対に生まれないであろう日本美の
塑型を抽出していくことにより、本来の日本という本質をたどることができる
ような気がするのである。日本の美を追求していくと、必然的にそれは日本
という文明のアーキタイプに帰趨してしまうのである。

 前述したように、はじめに私は、浅はかにも戦艦大和の美を機能美のみ
に還元するというきわめて稚拙な思考展開を行った。それで大和の秀麗優
美な理由を説明できると考えた。今思えば、そういう思考過程にこそ、歴史
から浮遊した戦後民主主義のお定まりの観念論があった。民族の血と生
命がなく、魂の欠落した合理的な観念論などは何の役にも立たない。

 国家や民族を否定する感性は、人間として最大級の卑しさ醜さを意味す
るわけである。とすれば、戦後の日本人は、国家や民族という言葉に背
を向けて生きてきており、それが平和と幸福への条件であるかのように思
い込んできた。左翼や人権至上主義者の定義によれば、戦闘思想そのも
のが醜いということになっている。偽善のパシフィズムで、守るための戦闘
思想さえも醜いと断定したら、その方が異様に醜い。そういう国家防衛に
樹立しない考え方は、日本の伝統的精神文化から見れば、いかに間違い
であり、大きな自己欺瞞であるかということがわかる。

 日本人の心に「お国」が甦らなければ、日本美は復活しないのである。
別な言い方をすれば、日本美が国民意識に戻ってくれば、先祖たちへの
敬愛も、子孫たちの幸福も願うことができる。そうなれば、磐石な国防意
識も必然的に出てくる。日本人とは、国家の安泰を祈る気持ちが強くあ
るときが一番幸せを感じる国民性を持つ。何度も言うが、護らねばならな
いことをしっかりと認識することが大切だと思うのである。「お国」とはそう
いうものだと考えている。

 私の年代も含め、若い人たちにも少しだけ言いたい。浄福(じょうふく)
という言葉を知っているだろうか。浄福とは清い心の幸福感である。かつ
ての日本人にはそういう幸福感があったのだ。自分たちが住むこの美し
い国土の安泰を願い、そして祈ることにより、謙虚で静かな喜びを感じて
いた過去がある。その感情を、もし少しでも知りたければ、心を静かにし
て「紀元節の歌」を聴くことをお勧めする。かつての日本人が知っていた
浄福のさわやかな空気感がそこにはある。もし、聴いていて涙が出てき
たら、戦艦大和の美しいシルエットを想起して欲しい。そこには失われた
大事な日本がたしかに見えてくると思う。

      雲(くも)にそびゆる 高千穂(たかちほ)の
     高根(たかね)おろしに 草も木も
     なびき伏しけん 大御世(おおみよ)を
     仰(あお)ぐ今日(きょう)こそ 楽(たの)しけれ

          (つづく)

 

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2006年4月11日 (火)

戦艦大和(12)◎最強最大の戦艦、最後の咆哮ならず

Photo_1

 戦艦大和は、昭和20年、4月7日、菊水作戦(天一号作戦)の途上、坊の
岬沖、護衛機が皆無の状態で、米航空隊の集中爆撃を受け、約二時間奮
戦した後、沈没した。沈没開始時に大和は海中で船体爆発を起こし、キノ
コ雲状の巨大な黒煙を上げた。この時、爆圧のために大和の周辺は直径
580メートルのエリアで海面が40メートルも盛り上がったそうである。巨大
な海のテーブルである。それほど大和断末魔の爆発は凄まじいものだっ
た。(この描写は、戦艦大和から生還した八杉康夫氏が著した「戦艦大和
 最後の乗組員の遺言」を参照したものである。)

 このような状況でも生還者は276名いた。案外知られていないことだが、
海に脱出した者で、大和沈没の影響で巻き込まれて亡くなった者の他に、
漂流中に米軍機の機銃掃射で命を落とした者もかなりいたようである。機
上の米国兵は、海面に漂よう戦意も戦闘能力も失った大和の乗組員をタ
ーゲットにして撃ち殺していた。

 敵味方ではあったが、勇敢に戦った者同士の騎士道精神、あるいは惻
隠の情などというものは微塵もない非道さである。それは、B29爆撃機に
よる無差別都市空襲や、二都市への原爆投下を見ても同じ戦闘思想で
行われていることがわかる。

 軍人は、日米双方とも仲間の死傷を間近にして戦闘中は熾烈な怒りを
持っていた。従って、敵方兵員が戦闘不能になった時、たとえ無抵抗で
あっても、これを殺したいと思うのは人情であっただろう。しかし、日本軍
人の現場統率者はけっしてこれを許さなかった。武士道精神が憎悪を超
克していたからである。しかし、米軍兵士は、サファリ感覚と言うか、狩猟
の追い討ちのように無抵抗の日本軍兵士を殺したのである。これを人種
の違いによる戦闘様式の差異であるという言い方もできるが、ここには
明らかに人種差別感覚が存在していた。

 これには、無差別に民間人の殺戮を目的とした都市空襲と原爆投下を
行ったアメリカ白人の意識と同次元の心持がある。わが国へ行った二種
類のタイプの原爆投下は、破壊殺戮効果の実験検証と、ソ連に対するデ
モンストレーションの意味合いがあった。ソ連への見せつけであったのな
ら、同じ敵国のドイツに原爆を投下したほうが、隣接していただけに余計
確実に威嚇効果を望めたはずである。しかし、ドイツに原爆は使用されな
かった。人種が同じ白人系だからである。

 アングロサクソンにとっては、日本人は少し知恵の発達した類人猿と同
程度の動物としか見ていなかったのだろう。彼らアングロサクソンにとって
は、その五百年に及ぶ収奪の歴史から、有色人種はただの狩猟の獲物
としての存在価値しかなかったからである。その獲物に過ぎない分際が、
ロシア白人帝国と戦って勝ったばかりか満州帝国を建設し、シナ大陸の
権益を狙い、偉大なアメリカに戦闘を開始したという事実がどうしても許
せるものではなかったのだろう。

 マッカーサーは占領の手始めとして厚木に上陸した時、アングロサク
ソンが45歳の大人だとすれば、日本人は12歳の子供であると言ったらし
い。さすがに、これから統治する場所で「お前らは黄色いケモノなんだ」
とは言えなかったようである。2666年の国家時間を持つ、古い家柄の民
族に対して驕慢も甚だしい言い草である。物量の優勢と、産業革命の潮
流をいち早く受けたことによる工業技術のわずかな優先で勝っただけの
話である。彼らには勝利のレジテマシーがない。負け惜しみではないが、
条件が同じなら日本人は圧倒的な勝利をものにしていただろう。もともと
は、持てる国と持たざる国の差異から生まれた戦争であった。日本が欧
米の奴隷下に入る条件を飲めば、あるいは民族がそれなりに生き続け
ることもできただろう。

 しかし、思う。三島由紀夫の最後の檄文にあったように、「生命尊重の
みで魂は死んでもいいのか」という気構えは、当時のすべての日本人に
共通のものであったから、真珠湾開戦時、我々の先人たちは確かに感じ
た。開戦の知らせは、英米の大国主義による執拗な圧迫で日々鬱々と
していた日本人に、大きなカタルシスを確かに感じさせたのだった。それ
こそが東亜百年を耐え続け、我慢を重ねてきた先人たちの魂の咆哮であ
った。今を生きる日本人は、このような精神の構えをまるで亡失している。
そもそもその亡失こそ、現代日本を覆う深刻な退嬰の本質なのである。

 私自身は大東亜戦争、特に対米戦は歴史の宿命であり、たとえハル・
ノートを隠忍自重したとしても、時を待たずして対米戦は不可避だったに
違いないと思っている。これは、幕末のペリー提督来航の時から宿命付
けられていたと考える。

 先人たちが、なぜ魂を込めてあの戦艦大和を建造したか。これには
民族の強い潜在意識が横たわっていた。幕末のあの黒船に象徴され
た外来の侵略思想から、わが国の大事なものを守ること、民族のこの
深層意識が世界最大の戦艦大和に結実したのである。先祖たちは黒
船を見て世界の中の日本を深刻に認識し、国家体制の強化として明
治維新の苦悶を通り抜け、昭和に至った。比類なき大和の美しい船体
には民族の無我が体現されている。それは船名通りの大和朝廷の弥
栄(いやさか)なのである。舳先にデザインされた菊花の御紋章と、
戦艦大和の優美な船体に、日本人が何を護らねばならないかがよく
あらわれている。それは日本という古い時間の凝集である。それこそ
が、生命を超える日本という価値なのである。これを心に刻まないと、
特攻と玉砕の真の姿は見えてこないと私は感じている。

 アングロサクソン、彼らの基本は昔も現在も、腕っぷしが強ければ世
界の何を手中にしても構わないというバーバリズムが基本である。徹
底した弱肉強食である。勝ちさえすれば手段や正当性などはどうでも
いいわけである。この世界略奪をほしいままにする彼らの真の旗印は
徹底的な社会ダーウィニズムにある。聖書を信奉しているとは言うが、
その本心は紛うことなき社会ダーウィニズムにある。この世は喰うもの
と喰われるものに分かれており、どのような方法を取ろうとも、強いもの
が喰うということを進化の正当性にしているのである。弱いものは強い
ものに徹底的に奉仕して当然だという考え方である。日本人の民族心
性はそれとはけっして整合しないであろう。

 話が逸れてしまったが、現代に生きる我々日本人は、毎日食べたいも
のを食べている。衣食住には困らない生活を当然としている。このような
感覚で、物資が決定的に不足していたあの当時の日本を簡単に推し量
ることはできない。護衛機を一機も付けずに海上特攻に赴くなんて、なん
という不合理な感覚だと最初から思う人は多いであろう。まったくその通
りである。要は物量なのである。残存していた戦闘機は本土決戦に備え
て温存するしかなかったのである。それとてもとても戦える数量ではなか
った。飛行機を生産する能力は充分にあったが、すでに石油や資材が
そこをついていた。しかし、始めた戦争は簡単には終息できない。開戦
初動の短期決戦に失敗した日本は、二度と引き返せない地獄の地平に
進まざるを得なかった。

 大和最後の出撃は、終戦四ヶ月前の昭和二十年四月六日である。こ
の当時の日本は物量的にも、戦法的にもすでに打つ手を完全に失い、
戦局は終局部に差し掛かっていた。すべて、造られたものはその存在
目的を持って生まれる。戦艦大和も例外ではない。大和の悲劇性は建
造された時、時代はすでに大艦巨砲主義を追い抜き、航空戦に移って
いたことにある。

 しかし、もっとこの戦艦に悲劇を感じることは、絶望的な戦局において
水上特攻任務を与えられたにもかかわらず、大和は戦艦決戦もできず、
最後の最後まで敵機の襲来に対して、艦の生命であった46センチ主砲
を一発も撃てなかったことにある。この世に存在した戦艦は、たとえ時
代遅れでも、最後の戦いの舞台に出たからには、己の最大の武器を使
いたかったはずである。

 戦艦という物の最大の存在目的は、戦いの海という舞台に主砲の威
力を発揮させるために、それを機動的に移動することに尽きるのである。
菊水作戦(天一号作戦)において、大和の最終使命は、駆逐艦数隻を
伴って沖縄本島に到達し、海岸に突入して座礁させ、固定砲台として、
地上戦を行い、弾薬が尽きたら乗員が決死の戦いに挑むという、いわ
ば不帰の作戦であった。この形が大和の最後の理想ではあっただろう
が、護衛機なしでは、途中で敵機や潜水艦に襲撃されることは目に見
えていた。

 坊の岬沖で、第一波の敵機襲来があった時、総員は覚悟を決めたと
思う。八杉氏が書いている。この時、「来るなら来い、アメ公、俺は日本
男児だ」と肝を据えたそうである。しかし、この最後の時に、天候が曇り
空で敵機がまったく見えない状況にあったので、ついにこの世界最大の
主砲が火を吹くことはなかった。もし、晴れていたなら索敵して敵機群の
ど真ん中に何発か撃っていたと思う。

 後世の私が考えても、そこは非常に悔しい思いがする。兵員の戦闘配
置とは、解除命令が下るまでは、最後までその持ち場を死守しなければ
ならない。実際の解除命令は「総員退避!上甲板」という号令である。こ
の号令がかけられたときの大和の状態は艦が左舷に傾いており、各仕
切り部屋の分厚い防御鋼板の扉は重力に対して傾斜してしまい、人力
ではすでに開けられなくなっていた。爆発死を免れた者でも、閉じ込めら
れた状態で、内部の兵員たちは海水と重油に溺れて死ぬしかなかった
わけである。

 大和は浸水で沈みにくくするために、内部は多くの隔壁で仕切られて
おり、内部にいた兵隊たちは外の戦闘状況がわからずに死んで行った。
彼らは任務であるから覚悟はしていたのであるが、私は、船体とともに
海底の晦冥に向かう多くの兵隊さんたちに、「戦艦大和が敵に向かって
最後の轟音を放った」という、輝かしい記憶を残してから旅立ってもらい
たかった。そう切に思う。46センチ主砲発射の振動と音は艦の隅々まで
とどろきわたったに違いないからである。

 私でさえ、それがなかったことは悔しいのであるから、大和生存者のす
べての方々はそれを強く感じながら戦後を生きてこられたと思う。艦が傾
く前に一発でも大和の主砲が火を吹いていたなら、その爆圧は全艦に行
き渡り、船内の任務につく者たちは、閉じ込められ、死に行く間際でも、
「おお、大和よ、やってくれたか」という、戦った武士(もののふ)としての
誇りと安堵は与えられたはずである。感傷的に言うわけではないが、主
砲発射は戦艦大和の最後の咆哮として、死する兵隊さんたちへの送り
火の意味と、日本が最後まで雄々しく戦った証として、敵機のアメリカ人
に聞かせてやりたかったと思う。それが日本人の心根であろう。

 吉田満の「戦艦大和ノ最後」にも、八杉康夫氏の「戦艦大和 最後の
乗組員の遺言」にも、そのことは書かれていた。生存者たちは、駆逐艦
に救助され、佐世保に差しかかった。その時、そこで見た「青空」と桜の
木を見て、みんなは悔し涙にくれ、中には「チクショー」と号泣したものも
いたそうである。それは、たった一日違いの天候の差で、一発も主砲を
撃てなかったことへの慙愧の思いであった。これについて私は、大和の
魅力を感じれば感じるほど胸にこたえてくるのである。


戦艦大和艦歌(坂井保郎 詞)

遠すめらぎの 畏くも
肇めたまいし 大大和
永久に栄ゆる 日の本の
神武の正気 今ここに
こりてぞ成れる 浮きつ城

しこの御楯と 畏みて
たおれて止まぬ 尽忠の
大和ますらお 数二千
心を磨き わざを練り
断乎と守れ 太平洋

ああ悠久に 伝うべき
八紘為宇の 大理想
行くてをはばむ 敵あらば
無敵の巨砲 雷と吼え
撃ちてし止まん 大和砲


(つづく)

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2006年4月 9日 (日)

小泉内閣は破防法適用集団である

◎この構造改革は棄民思想に基づいている

 私は法律にはまったく詳しくないが、ある一つの特異な法律に
対し、一日本人として根本的な思惑を述べてみたい。それは破
防法についてである。わが国には破防法、つまり、破壊活動防
止法という法律がある。 

 まず最初に言っておくが、私は今の小泉内閣、つまり、現政府
に対してきわめて熾烈な怒りを持っている。それは、自分や家族、
親戚、親しい友人知人等、そして多くの日本人同胞が住むこの
国の行方を心配しているからである。時の内閣は、国柄を守り、
国民を守ることを国政運営の大前提としなければならない。しか
し、この内閣はその前提を省みないどころか、自ら積極的にそ
れに背いている。その観点から破防法について少し考えてみた。

 破壊活動防止法、簡単にその成立を言うと、GHQ占領期が終
わった昭和27年、つまり私が生まれた年にできた法律である。
破防法・総則の条文をみると、取締りの対象となるものは「暴力
主義的な破壊活動を行う団体」とある。当時、ターゲットを定めた
暴力主義的な団体とは、マルクス的な共産主義思想をもって暴
力革命を狙う共産党の意味であった。

 それは当時の日本共産党が革命を起こし、国家転覆を謀るこ
とを防止するためにというものであった。GHQの手を離れ、日本
が国内に増殖する共産主義の跋扈を独力で防止する必要が生
じてきた。しかし、当時のことを調べてもらえばわかるが、昭和
25年に朝鮮戦争が勃発し、アメリカのトルーマンは、下手をすれ
ばアジア極東地域が完全に共産化することを危惧した。

ソ連の機関紙プラウダは、アメリカが日本を完全植民地化すると
執拗に言い続け、そのことで自由主義陣営の欺瞞を世界に喧伝
していた。そこで、アメリカは(と言うか、マッカーサーは)は、日
本占領を終えると同時に吉田内閣に対して書簡を送り、国内の
治安維持を名目に防衛軍の設立を要求した。吉田茂は、焦眉の
急としての再軍備は拒否したが、暫定治安部隊として警察予備
隊(自衛隊の前身)の創立と海上保安庁の増員を行った。

 1952年4月、サンフランシスコ講和条約が発効され、日本は独
立した。このような流れの中で破壊活動防止法案は制定された
のである。この法律の背後には、明らかに共産主義の浸透を阻
止しようとしたアメリカの意志が強く働いていたと考える。

 日本共産党は、共産主義インターナショナルの日本支部とし
て外国の共産主義国家の指示で動くため、「外国の通謀として
日本国に対して武力を行使」する可能性があり、日本で革命を
起こせば、外側の共産勢力が応援に駆けつけ、国内を騒乱に
落としいれ、ひいては国家転覆をもたらす団体であると、当時
は実際に起こりうるものとして憂慮されていた。

 しかし、近年にいたり、破防法の適用対象は共産主義という
よりも、その法律の名前にあるごとく、国への破壊を企てたもの
に適用するという概念になってきている。たとえば、オウム真理
教のサリンガスによる都市へのテロ行為や、北朝鮮による日本
人拉致を幇助した朝鮮総連など、いわゆる国民毀損を行った団
体にも適用しようとする概念に移ってきている。しかし、戦後の
日本には、あまりにも左翼的感覚が広がったために、適用され
て然るべき事件は多々生起したものの、まだ実行されていない
現状である。

 たしかに破防法は、「破壊活動」というものの定義を取り違え
た場合、無辜の団体を処罰してしまう危険性がある。そのため
に、いったい何が「破壊」であるのかという定義を真剣に考え、
国民的なコンセンサスを得て行うべき法律である。しかし、この
定義を見定めるには、何が国家的な破壊であるのかということ
の根拠をしっかりと把握する必要がある。それこそが正統な歴
史観、文明観なのである。戦後の日本に生起しているほとんど
の深刻な問題の背後には、国民が歴史観の正統性(レジテマ
シー)を保っていないということに尽きる。

 それがないために、今の日本は、正統な価値観を持つことや、
国際問題の解決に重大な困難を惹起しているのである。破防
法の考え方も例外ではない。国民や政府が正統な歴史観を持
っていれば、当然、国家破壊というものがどういうことであるか
を明確に認識し、定義できるのである。

 オウム事件当時、破防法には国民の八割が賛成していたが、
司法や公安当局、政治家連中が紆余曲折した結果、適用は見
送られた。これは日本人に歴史のレジテマシーが存在しないか
らである。しかし、考えてみれば、破防法を適用できない国には
たして国民や国家の未来を磐石にできるのかという疑念が湧く。
我々が住む郷土の総合体である国家の壊滅を企てた者たちを、
一般刑法でしか取り扱えないということは、国自体の安全を信じ
られないということなのである。破防法がきちんと作動しなくて
どうして国民の安寧と幸福が担保できるというのだろうか。
                                 
  そこで、小泉現政権に言及するが、この内閣が進めている政
策とは、明らかにアメリカに強制されて推し進めている、いわゆ
る新自由主義的経済体制への国家構造の造り替えなのである。
これはただの経済体制の変更ということではない。明らかに日
本という国家構造の破壊作業なのである。それを証拠付けてい
るものは、年間三万数千人に激増している自殺者の数である。

 小泉政権が拙速に推し進める構造改革は、いわゆる英国の
サッチャリズム、米国のレーガノミックスを下敷きにして、ニュー
ジーランド・モデルを無考察に日本に当てはめた社会構造の改
悪なのである。ここで進められる加速的な規制緩和は、従来の
日本社会との整合性などの考慮などはまったく無視しており、
むしろ、革命に近い急進性を特徴としている。郵政民営化を機
軸にして、その無軌道な規制緩和はあらゆる分野に拡大され、
国民利益とはかけ離れたところにある。これらのいわゆる構造
改革とは、日本社会の解体であり、圧倒的な棄民思想によって
貫かれている。棄民政策の最悪の結果が激増する自殺者数で
ある。

 つまり、わが国にミルトン・フリードマン的な国家ビジョンを適用
し、新自由主義を用いるという政治行為とは、わが国の伝統的
な平等観、相互扶助の社会を完全に否定し、自由の名の下に
優勝劣敗構造を極端に推し進める、いわば、明らかなる「国家
破壊活動」なのである。「拒否できない日本」を書いた関岡英之
氏も指摘したように、フリードマン的な市場原理のみに特化さ
れた経済体制を敷くということは、その前提として、国家の
構造を極左急進的なアナーキズムに変える必要があり、こ
れが間違いなく国家破壊そのものなのである。この破壊の
中心に位置するものが、小泉が行おうとしている皇統の破
壊である。


 以前も書いたことであるが、小泉・竹中路線が敷いている今
の構造改革は、左翼革命とまったく同質の社会革命なのである。
ただ、イデオロギー的にはマルクス経済思想を通らずに、官僚主
導否定論と金権利権構造の打破という一種の政治修正的な方
法論で行っているが、その実態は変革様態において、日本国家
の歴史や伝統を完全否定する左翼革命そのものなのである。

ということは、戦後七年目に、共産主義革命への対抗として成立
させた破防法は、その適用対象が、ほとんど当時の憂慮と同じ
性格を持つ小泉内閣にも発生していると看做すべきではないの
か。

 したがって、小泉現政権には破壊活動防止法を適用するべき
であると私は考えている。小泉純一郎とその周辺のグループが
着手した国家破壊活動で、もっとも悪質で破壊的な作業とは、
皇室典範改正への動きである。国家2666年の万世一系の男系
皇孫の連続性を、こともあろうに、時の一内閣による瞬間的な発
想で、女系皇孫も認めようなどいうことは、国柄破壊の最たるも
のであり、これは重大な国家反逆罪に該当する。

  日本という国に、国民を欺瞞してアメリカ主導による新自由主
義体制を敷いたこと、そして皇室典範を女系天皇容認という形で
改悪を進めているこの事実とは、紛うことなき国家破壊である。

 日本文明の核は、皇統という大和朝廷の連続性にある。この
国体、すなわち国柄の真髄を破壊しようとしている小泉内閣とい
う「一団体」は、明らかに破防法の適用団体である。

 これを冗談だと考える人は、なぜそうなのかを論理的に自問し
ていただきたい。きっと笑えなくなる。

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2006年4月 7日 (金)

小沢一郎と小泉の対決が見たいものだ

私は小沢一郎の国会における小泉との対決を見たい。
想像だが、小泉は終始逃げを打つような気がする。政
治家としてのキャパシティにおいて問題にならないので
ある。おそらく大人と子供ほどの力量の差が表れるだろ
う。

 過去に小沢は小泉のことを、長く答弁できないのは、
考えていないからであると言い切っている。そう、小泉
は体系だった政治的議論は何一つできない人間なのだ。

 それくらい知的に問題を抱えた男なのに、五年も総理
大臣を張ってこられたのはフォーチュン(幸運)ではなく、
彼一流の詐話的技術にある。体系的な論考ができない
代償として、ワン・フレーズ・ポリティクスや本質的に都合
の悪い問題を、別の話題にすり替える強弁技術が発達し
たのだろう。

 彼はしばしば余裕をかますポーズを取るが、その実態は、
余裕ではなく大袈裟なポーズでごまかす時間稼ぎなので
ある。内心は早く逃げたくて仕方ないのである。小心者の
小泉が、五年間もそういう見せ掛けの顔をして無理を通し
てこられたのは、本当のところは彼に米国の支援があっ
たからである。

 小泉は政治を三文芝居だと見ており、国民をその観衆だ
と思っている。その主な舞台は国会と仕組まれた記者会見
場である。特に彼が力を入れるのは、選挙応援などの街頭
演説である。街頭パフォーマンスに彼が生気溌剌としてバカ
でかい声でがなり立てているのは、聴衆がけっして討論を
挑んでこないからである。小泉が一番怖れているのはテレ
ビにおける自由討論である。討論能力がないから、深い内
容の突っ込みに対応できず、すぐに馬脚をあらわしてしまう。
そんな男が、田中政治の時代から政界中央で揉まれた強
力な政治センスを持つ小沢と、国政の場でどのように対峙
できるのか。

 小沢の政治的姿勢がどういうものであるか、正直わからな
いが、彼は帝王学を学んでいる感じがある。だとすれば、小
泉と同次元で渡り合うことは考えにくい。貫録勝ちになるだろ
う。

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西村眞悟、首相待望論(9)

 西村眞悟という偉大な人物が居る。この人の言うことは政治に
しても、文化にしても、歴史にしても、よく現状を見極め、哲学的
にも非常に深いことを言う。自分の世界観を研ぎ澄ますことにお
いて、この人物の言うことはほんとうにためになる。西村氏は「眞
悟の通信」でこう言っている。

『今の私の関心は、我が国の文化と文明に向かっている。勿論、
抽象的で学研的な関心ではなく、政治課題としての関心である。
即ち、この政治課題から目をそらして我が国の未来は拓くことが
出来ないと得心したからだ。
 
 この私の傾向は、小泉内閣発足から強くなってきたのだが、こ
の小泉内閣は、具体的には森内閣の記録的な支持率低下から
生まれた。
 そして、森内閣の支持率低下は、森総理自身の「日本は天皇
を中心にした神の国」という発言に対するマスコミなどの異常な
バッシングが引き金になった。
 つまり、小泉内閣そのものが、森総理の極めて文化論的・文
明論的発言から生まれてきたともいえるのである。

 
 ということは、我が国の政治風土としては、文化や文明の「あ
り方」に触れる国民意識の領域において、政変を起こすに足り
る強いエネルギーが蓄えられていることになる。』

      http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=219

 西村氏の慧眼、そしてその洞察力のすごさは、『文化や文明の
あり方に触れる国民意識の領域において、改変を起こすに足りる
強いエネルギーが蓄えられていることになる』、
そして、『従って、
この政局を急激に変動させる動因を秘めた我が国の文化・文明
の領域に関して、政治家は関心を抱かねばならないのは当然の
ことである。』
と言っている箇所である。

西村氏のこの指摘は非常に希望に満ちたものである。日本人に
文化・文明の認識が生じた時、洗脳史観である「東京裁判史観」が
解けると指摘しているからである。これは新しい見解である。戦後
の知識人もマスコミも一貫して東京裁判史観の呪縛から抜け出ら
れなかった。その暗澹たる状況からの脱出は、日本人が自己の
文明史観をふたたび取り戻すことにあると言っている。西村氏は、
日本人の潜在意識に潜むそのための強烈なエネルギーを看破し
ている。私はこの視点がある宰相を心から欲するのである。

 今の日本を囲繞する真の問題とは、西村氏の指摘しているとお
り、日本人が文化と文明を喪失していることにあるのである。政治
に文化と文明だって?生き馬の目を抜く国際政治力学の世界で、
そんな書生風のことを言って何になると思っている人は大勢いるだ
ろう。しかし、今の日本人は、押しなべて悪しきプラグマティズムに
陥っているのである。すなわち、歴史の背骨がない政治力学に囚
われているのである。この状態が日本政治にどれほどの脆弱性を
与えているか、それは想像を絶するほどである。

 概観して、日本人にもっとも欠落しているのは、正統な歴史観の
欠落である。何度も言っているように、どんな民族でも、歴史という
縦軸から遊離してしまった民族は、自らの出自と「顔」を失い、必ず
立ち往生してしまうのである。それが今現在の日本の姿である。歴
史を失うことは、すなわち民族の生命を枯渇させることに他ならない。
この歴史を失うこととはどんなことなのか。

 六十年前、戦局が絶望的に悪化した時、先人たちは、それでも民
族の未来を信じて、自らの生命を犠牲にして、特別攻撃と玉砕という
戦法を取った。我々の先人たちは民族の歴史を未来に橋渡しするた
めに、できることの最善を行ったのである。この行為には後世の我々
は、どれほど感謝しても感謝し尽くすということはあり得ない。なぜな
ら、先人たちの最後の戦いは、民族の歴史存続の行為として、もっと
も崇高な散華だったからである。言葉を変えれば彼らは、民族同胞
に対して、歴史の過去と未来すべての時制に対して、至高なる愛情
を示して消えていったのである。言うなれば、これこそが日本人が持
つ究極の歴史観であろう。彼らの至尊の行為を無駄死にであったと
考える日本人は、その心に祖国感情を持たない不幸を抱えているの
である。

 現代日本の文明史観とは、まず最初にこの認識を土台にして考察
されるべきである。すなわち、守るべきは日本固有の歴史と文明であ
り、その核とは天皇である。現代日本人の胸のうちに、「日本」が住ん
でいないのは今言った認識が欠落しているからである。天皇、そして
皇統とは、ただ単に日本人の象徴的な存在ではない。この古い御存
在は、日本人一人ひとりの生命力を司る根本的な祭司なのである。
天皇を消滅させれば我々日本人は短時間で死滅する。そういう不可
知の御存在である。

 だからこそ、先祖たちは時の政治権力がどういう形態であっても、
一貫して天皇を次元の異なる権威として崇めてきた。世界稀有の永い
国家時間を持つ日本は、皇統という求心力があってこそ、成し遂げら
れたのである。

 このようなすばらしい歴史と、天皇を中心にした日本固有の文明を
持ちながら、戦後の日本人は、この伝統的文明観を野蛮なものとして
意識外に置いてきたのである。そのために民族の生命力が極限的に
低下し、小泉純一郎などという不届き極まりない人物を御輿に乗せて
しまったのである。これを民族の凋落と言わずして何と言う。しかし、
西村氏は、国民が小泉純一郎と言う、もっとも非日本人的な宰相を選
んでしまったことは、森喜朗前総理の「神の国」発言に対する国民の
反動であり、その強さを鑑みれば、これは逆説的に日本人が文化・文
明の意識によって大きく変化できる証左だと見抜いている。ここに西
村眞悟という人物の非凡な眼があるのである。

 単純に考えてもわかると思うが、今の世界環境は大量消費文明の
直接的な影響で逼塞している。西欧ルネッサンス以来、進んできた
近代文明は、産業革命を足がかりに、進化の極地として英米文明を
開花させた。これが地球的なパラダイムとなり、世界は混迷と環境
汚染に蝕まれている。そのために産業革命に出遅れた諸民族は、
英米に怨嗟の狼煙を上げている。これを変えうるパラダイムが生ま
れるとしたら、それは日本文明しかないのである。今後の地球環境
を持続可能な環境にするためには、わが国の神道的調和原理以外
に何があるというのだろう。こういう考察視点を日本人は真剣に考え
てみる必要がある。

その前に、政治的な亡国を招来しないために我々は西村眞悟氏を
日本国首相にしなければならない。

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2006年4月 6日 (木)

小泉は日本政治の振り子運動を破壊した

 民主党の党首が明日に決まる。誰が党首になったとしても、
民主党は政権交代党を目指さなければならない。それもなる
べく早急に。特に今為すべき事は、党是をしっかりと固めて挙
党一致で小泉自民党に立ち向かって行く事である。

 誰が党首になろうとも、取りあえずは必死で小泉自民党の
狂気を鎮め、少しでも早く自民党を解体しなければならない。
大多数の国民は、小泉政治の亡国性に気づいていなくとも、
一党体制は良くないと考えている。すなわち拮抗した力を持
つ二党が交互に政権を担当して行くことが望ましいバランス
を保つ方向だと考えている。

 しかし、今までの戦後政治にそのようなバランスがあったの
かと考えると、派閥抗争の拮抗作用を内に抱えた自民党一
党独裁しか思い浮かばない。すなわち、党政治ではなく派閥
政治なのであった。そのために、権力筋から外れた派閥はマ
イナスにくすぶり、党としてのパワーを殺いでしまう形となった。
法案の成立にしても、他派閥の利権構造に気を配るために、
ひどい時には換骨奪胎という形で妥協案が盛り込まれた。

 小泉純一郎は、第一次内閣を発足した時、「自民党をぶち
壊す」と言って、実際に派閥政治をぶち壊した。その象徴的
派閥はもちろん橋本派である。橋本派とは、田中角栄の負
の遺伝子を背負い、金権利権の巨大な闇を抱えた最後の巨
大派閥であった。日歯連の問題が派閥史終末の顔を覗かせ
た。小泉は橋本派を見事に壊滅させ、国民はそれに諸手を
挙げて賞賛した。

 ところがである。ここに最大級の落とし穴があった。小泉の
巨大派閥政治の破壊で、官僚権力の異常肥大は解消され
たのだろうか。結論から言えばまったく変わっていないので
はないだろうか。小泉の官僚主導すべてが悪というイメージ
付けにも問題がある。官僚で悪いのは愛国情念を持たずに
アメリカのモデルに盲従する行政感覚なのである。小泉はこ
れを温存して、逆に日本の伝統観念を持った官僚を徹底的
に敵視している。これは政治家に対しても同じである。去年
の解散総選挙で、郵政民営化に反対するものは「倒閣運動
だ」と言って徹底的に排斥した。昔で言えば、殿様の出過ぎ
行き過ぎを諌(いさ)めた誠実な老中連中を片っ端から切腹
させるようなものである。

 日本には捨ててはいけない政治力学の伝統がある。それこ
そが、田中の目指した民族利益から出る協調型、相互互恵型
の「和」の政治である。すなわち田中角栄の「正の遺伝子」で
ある。彼は官僚を上手く使いこなした。官僚を敵視せずにみご
とに統御しえたのである。ここに日本特有の和の政治力学が
実践されていた。

 一方、小泉は派閥間の闘争力学を消滅させ、ようやく党政治
を完成したかに見せて、わが国政治史にける最大級の悪行を
やらかしてしまった。日本政治の良き伝統とは、派閥間のエゴ
イズムの駆け引きではなく、行き過ぎた政治権力を自然に振り
戻す力が働いていたことである。これこそ、祖先が作り上げた
共同体的調和作用である。今は詳述しないが、このシステムを
小泉は憲法違反という野蛮な手法で破壊したのである。。

 小泉の行った歴史的な悪意とは何であったのか、何である
のか。わが国は伝統的に長幼の序、中庸の徳が大事にされ
てきた。従って、どの政治家が権力のトップになっても、それが
不穏に、そして鋭利に突出しないような仕組みを温存していた。
すなわち振り子運動である。一つの力学で大きく傾くことのな
いように反作用を起こす振り子の力学が働いていたのである。

それは昨年の例で言うなら、郵政民営化に反対した亀井静香
氏や、その他の郵政民営化に待ったをかけた多くの議員たち
である。小泉の悪行とは、この誠意ある議員たちを、憎悪を剥
き出しにして弾劾したことにある。ここから小泉ファッショがスタ
ートした。

 彼はなぜこういう日本的な振り子運動を憎んだのか。
それこそ、アメリカという悪魔に魂を売ってしまっているからで
ある。日本的な振り子運動とは、要するに民主主義の基礎モ
デルじゃないかと思われるだろう。そうなのであるが、わざわざ、
「日本的な振り子」と言ったのは、明治の五箇条のご誓文を見
てもわかるように、わが国には日本型の民主主義の萌芽がす
でにあって、歴史に生きていたということを言いたかったので
ある。だから、亀井静香氏などの修正勢力を、頭ごなしに排撃
した事実は、日本型民主主義政治の伝統を破壊する出来事
なのである。

 散々書いてきたつもりだが、西村真悟氏が言うように、歴史
の背骨を持たない政治家が国政を司ったら、それは国家国民
にとって最悪の政治に豹変する。それが不幸にして起こったの
が小泉内閣である。この男は日本政治の振り子運動を止めた
だけではなく、国柄によって出来上がった日本の政治経済構
造を破壊し、アメリカに大和の魂を売り渡してしまったのである。

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早く強力な野党が出ないと大変だ

 明日は民主党党首の選挙戦である。マスコミはこぞってこの
ニュースばかり取り上げている。まあ、慢心狂気・小泉自民党
による事実上の一党独裁が続いている今、何でもいいから、と
にもかくにも野党第一党が復活してくれなければ困るというの
が取りあえずの大衆的心情だろう。

 小沢一郎と菅直人、この両者は出自も基本の思想もまったく
違うが、どっちが党首になったとしても、今は一致協力をして、狂
気の売国政権である小泉内閣の暴走を止めて欲しいのは偽ら
ざる気持ちである。

 小沢一郎、この男は正直何を考えているかわからない。昔、田
中角栄政権全盛のころ、角栄には秘蔵っ子のようにかなり可愛
がられた経緯があり、そのつながりで角栄の長女である田中真
紀子が応援している。田中角栄というのは、「日本列島改造論」
に示されたように、日本中の土木事業や道路敷設を「均等」にす
ること、すなわち地域格差を是正して、生まれ故郷の東北新潟
やその他の寒村や僻地の生活文化水準を、中央並みに実現し
ようとして猛進した。ニックネームをブルドーザーと言われ、中央
の金を地方に持ってくる型の典型的な口火を切った。まさに土木
金権体質の教祖と言われた所以である。しかし、戦後歴代宰相
の中で、田中角栄のみが米国の経済支配にこぶしを上げたこと
は記憶に鮮明に残る。

 しかし、田中角栄という男は、いろいろと批判の元は造ったが、
歴代宰相の中では、際立って民族利益派であったことは間違い
ない。詳しくは言わないが、日本の石油輸入ルートを米国メジャ
ーの息のかかっていない場所に求めたことが、アメリカの怒りを
買い、ロッキード疑獄に嵌められて総裁の地位を剥奪された。こ
の当時の日本人が普通の国際的な常識程度の民族意識に目
覚めていたなら彼の失脚はなかっただろう。

 小沢一郎が、大塩平八郎のような心を持っていた角栄の思想
をどれほど汲んでいる男なのかわからないが、田中的な国民擁
護意識を持っているのであればある程度は期待できるだろう。し
かし、以前から気になっていることは、小沢が過大な期待をかけ
る国連中心主義である。国連ははっきり言うと、アメリカの傀儡
組織である。こんなものに国際正義の担保を重く見ているところ
は、もしかしたら小沢も追米主義なのかと思うことがある。

 一方、菅直人であるが、彼は小沢と違って、出自は市民運動
から出ただけに、その思想的基盤は完全にアカ、すなわち左翼
である。しかし、彼が厚生大臣であった時、薬害エイズの責任を
認めたことは大きい。この人はアカではあるが国民を向いてい
る政治家であることは確かである。私は国会における小泉攻撃
では、この男が一番適していると考えている。国会の質疑の技
術ではこの男の右に出る者は居ないだろう。攻め方が非常に鮮
やかである。ただし、攻められるとかなりもろい欠点がある。

 菅直人は公約として、日本の「最小不幸型社会の実現」を掲げ
た。私は彼の国民を向いたそういうものの考え方が好きである。
自殺者が年間で三万数千人、不意に電車を止める人身事故は
ほとんどが経済苦からの自殺である。中流社会から下流社会へ
の雪崩(なだれ)現象とは、日本が本来有する高度な社会的エ
ントロピーが急速に増大していることを示しているのである。そ
れはなぜか。小泉たち売国奴が日本人の魂をドブに捨ててい
るからである。

 理想としては、小沢一郎の策士としての強靭な戦闘能力と、菅
直人の弁論攻撃能力が合体すれば、小泉たちのヤサグレチンピ
ラ内閣は総崩れになると思うのだが。小泉内閣は政治の芯が欠
落していて一人ひとりはもろい。それでも五年の長期政権を保っ
たのは、後ろ盾にアメリカが居たからである。よらば大樹の陰で
持った政権である。小沢が田中角栄の心を継承し、真の民族意
識を持つ男であるのなら、少しは期待できるかもしれない。

 田中真紀子はどっちかと言えば、アカの菅直人に近いが、父
親ゆずりの感性で、政治家は腕っ節が強くなければならないと思
い込んでいる。だから、打倒小泉には小沢しかいないと考えてい
る。それなら、打倒橋本龍太郎の時に、小泉を選んだ目の悪さは
どうするのかと思う。小泉を総理大臣にしたのは他ならぬ彼女で
ある。最悪の男を宰相にした手前、小沢の豪腕で小泉を引きずり
落として落とし前をつけるということなのか。恨みだけで動いてい
るようにしか見えないのだが。

 とにかく今は、共産党あるいはカルト的宗教団体以外であれば、
どんなものでも登場して小泉政権を打倒することが先決である。

 

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2006年4月 5日 (水)

亡者どもが進める構造改革

 構造改革を押し進める中心的な議員たちは、今やっている
構造改革の思想的な背景が新自由主義に沿って行われてい
ることを、マスメディアなどでは決して口外しない。何故なのだ
ろうか。彼らは小さな政府の構築という言葉を口をすっぱくし
てがなりたててはいるが、構造改革の全体的な姿が、何をモ
デルにして行われているのかをまったく言わない。

 これは簡単である。言わないのじゃなくて言えないのである。
小泉・竹中構造改革路線が、ハイエクやフリードマンなどのア
メリカ新自由主義経済学者の思想に基づいているなどと本当
のことを言ったら、国民は、ああ、これは日本の国家構造の造
り替えなんだなと、すぐに気が付いてしまうからである。

 ハイエクなどの経済モデルを、初歩的にでも国民が知って
しまえば、現在広がりつつあるさまざまな国民格差発生の真
因が暴かれてしまうことになる。もちろん所得の傾斜配分の
実態が何に起因しているのかも知られてしまうし、日本の伝
統的な文化構造が破壊されている真因も納得するだろう。小
泉首相、安部官房長官、竹中総務長官、武部幹事長、世耕
弘成幹事長補佐、谷垣財務大臣、与謝野馨内閣府特命担
当大臣等々、よくテレビに出て発言しているが、彼らの口か
ら、我々の構造改革路線は新自由主義で行っております、
または新古典主義に基づいていますなどと一度でも口にし
たことがあるだろうか。

 口では「小さな政府論」をがなりたててはいるが、経済思想
について、それ以上のイデオロギー的な講釈はけっしてしな
いのである。現状の経済構造改変のデザインを、国民にわか
りやすく説明してしまうと、今の改革が、一目でアメリカの強
制命令で行っていることが露呈してしまうからである。

 小泉純一郎を是認して任せている国民は、IQ程度が相当
低いと思われても仕方ない。彼らは今の内閣が国家倒壊を
目論んでいることに気がつかず、基本的には現状改革路線
に期待を寄せているからである。

 日本人よ、覚醒してくれ!亡国内閣に気がついてくれ!
この内閣がアメリカに魂を売った亡者どもの集まりだと
いうことを。

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2006年4月 4日 (火)

世耕議員のトンデモ発言の背景

「日本から世襲がなくなったら、そもそも日本が成り立たない
  じゃないですかぁ」

  前の記事で、内閣中枢に居座る世耕弘成議員が、「朝まで生テレビ」で
思わず発した上の言葉に私が強く拘るのにはそれなりの理由がある。実
は、この発言が象徴することは、小泉現政権のただならぬ売国本質を良く
あらわしているからである。ただ単に世耕議員の言葉尻をつかまえて面白
おかしく書いているだけではない。この発言の裏に見える小泉内閣の本質
とは、ひと言で言うなら政策展望も、国家のグランドデザインも、何一つ持
たない、戦後史上最悪の内閣ということだけである。

 世耕弘成は自民党幹事長補佐、党改革実行本部事務局長の肩書きを持
つ小泉構造改革内閣の中枢にいる重鎮である。謂わば構造改革実行部隊
の参謀本部長に当たる役職である。この人物が、小泉構造改革の基底を
流れるアメリカ流新自由主義路線の思想を真っ向から否定する思想的言辞
が上の言葉である。すなわち、世襲肯定言辞である。

 この発言の真意とは、世耕自身が新自由主義的社会構造を、日本に敷
設することに反対だから思わず言ったのではない。事実はまったくその逆
であり、鉄の意志で新自由主義に陶酔しているからである。言葉を変えれ
ば、彼は、日本的な構造すべてを完璧に破壊し尽くすことに強い執着を持
つ小泉・竹中のパペット的な存在である。

 だとしたら、何ゆえに新自由主義への障壁である伝統や世襲という日本
的な伝統構造を強く肯定する表明をしてしまったのかということであるが、
それは間違いなく国民への偽装言辞だったのである。関連して述べるが、
去年の武部幹事長の行動の一環を思い出していただきたい。

 目立ったのは、武部幹事長がホリエモンを自民党の相談役のように持
ち上げたことは大きいが、そのことはさて置いて、二つの行動が特に年末
にあった。一つは、全国のブロガーを招いて懇親会を開いたこと、あと一つ
は、小泉チルドレンを召集して、浅香光代の公演を見学に行ったことであ
る。この二つは微妙に関連した出来事なのである。

 ブロガーを招いて意見を聞くという武部幹事長の行為は、政権存続五年
目に入る小泉政権が、政権に対する世間の思惑と評価の中で、もっとも気
になる部分を聴取する目的にあった。どういうことかと言えば、世間が小泉
政権の本当の姿をどれくらい把握しているかを調べることである。小泉政策
の真の狙いは、米国の要求にしたがって日本の伝統的構造を破壊し、アメ
リカ型の社会構造に作り変えることである。

 そのアメリカの意志による国家構造の造り替えは、実は1980年代から始
まってはいたのだが、小泉政権は、日本の国体構造転換の最後の仕上げ
として登場したのである。この事実は、関岡英之著「拒否できない日本」
や、浜田武夫著「騙すアメリカ 騙される日本」、本山美彦著「売られ続ける
日本 買い漁るアメリカ
」という著書等に端的に記されている。このブログを
見ている皆さんにも是非ご一読をお勧めする。まともな矜持をお持ちの人で
あれば、間違いなく憂国心情に駆られ、小泉売国倒国内閣への怒りで血圧
が300近くまで上昇するから、是非とも気をつけて読んでもらいたい。

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 構造改革最高、聖域なき規制緩和、と声高に叫びながら、今、行われて
いる構造改革が、いかに日本にとって「すばらしい善」であるかのように言
い続けているこの内閣は、日本からアメリカに効率よく国富を流出させるシ
ステムを造ることと、日本独自の文化伝統などを徹底破壊することに本当
の狙いがある。この現実を国民のどういう層がどれくらいの割合で気がつ
いているのかを調べるのが武部幹事長がネットブロガーを招いた真意であ
る。

 つまり、武部たちは、テレビメディアの情報操作は上手く行ったが、インタ
ーネットの中には自分たちの売国姿勢に気がついているものが多く居るこ
とに重大な関心を持っているのである。巨大なダムもアリの一穴から崩れる
ことがあるように、ネットから湧き出る真実の現政権批判から、自分たちが
総崩れになってしまう危惧を抱いているのである。余談ではあるが、人権擁
護法案の真意は、ネット情報を閉鎖する目的で発案されているような気がす
る。

 目立たなかったが、武部幹事長の暮れの行動二つめは小泉チルドレンた
ちを浅香光代の公演に連れて行ったことである。この時の武部幹事長の説
明は「新人たちに日本の良さを感じてもらうため」だと言った。これは、国民
の一部から、現政権の政策がアメリカ的な方向へ傾いてきていることを批
判されたことへの言い訳的なパフォーマンスなのである。つまり、ネットや
一部出版社から出ている「真正」の小泉批判が、テレビや新聞メディアに大
きな反小泉の流れをもたらすことを最大限に警戒しているのである。それは
とりもなおさず、日本破壊を狙う真の悪党、アメリカが日本国民の意識の覚
醒を怖れているということでもある。そのために、小泉政権は、我々は日本
の良さや日本的なるものをこんなにも大事にしています、慈しんでおります
よという見せかけを行わねばならなくなったのである。

 見せ掛けの構造改革で日本を精力的に壊している彼らが、騙しおおせな
い国民の一部を異常に気にしているのである。これが政権の戦略に大きな
修正を与えた。小泉・竹中が「年次改革要望書」の存在を認めさせる野党
議員の質問を可能な限り無視していたことは、特にネットのブロガーの一部
たちにものすごい反発と警戒心を与え、憂国情報発信のトリガーとなった。

 そこで、小泉や世耕たち、政権中枢部はマスコミ戦略の変更を余儀なくさ
れたのである。それが「日本大好きキャンペーン」なのである。その走りが
武部率いる浅香光代公演見学なのであった。そこで、例の朝生における世
耕議員の発言を目に留めて欲しい。

「日本から世襲がなくなったら、そもそも日本が成り立たない
 じゃないですかぁ」

 どうだろうか。世耕議員のこの「日本大肯定」発言は、日本破壊を旨とす
る偽りの構造改革を進める自分たちが、実はアメリカの傀儡政権であるこ
とを覆い隠す必死の作戦として出たものであることがわかる。

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2006年4月 3日 (月)

PSE法(電気用品安全法)に対する疑念

 電気用品安全法(PSE法)に対する疑念

 最近、テレビなどで騒然としたから、このPSE法というもの
はかなり知られてしまった法律だが、ミュージシャンの坂本
龍一や、多くの人が抗議の意志をあらわすまで、正直私は
まったく知らなかった。おそらく多くの人が知らなかった法律
なんだろうと思う。なぜなら、この法律によって多大な影響
を受ける音楽業界の人や、直接中古電気製品を扱う業者
が死活問題として大騒ぎするまではほとんど誰も注意を払わ
なかったからである。思うのだが、政府がひっそりと法案を
通しているときは、例外なく後ろめたい内容のものが多い
ような気がするのだが。

 この法案は、2001年に成立施行され、2006年3月31ま
で猶予期間があったそうだ。今4月だからすでに完全施行期
に入っている。しかし、考えれば考えるほど馬鹿丸出しの法
律である。この法律でいったい誰がメリットを受けるのだろう
か。この法律の縛りは明らかに有害無益である。

ざっくばらんに言うなら、この法律のテーマは、中古電気製
品、または輸入電気製品、新規電気製品の絶縁抵抗が安全
であるというお墨付きを政府が与えるというものである。つま
り、漏電で火災や感電事故が発生する恐れがないようにと
いう配慮らしい。

 私は、突出したこの安全基準の考え方そのものに無理があ
ると思う。電気製品は一般に極端なコンパクト化や安全思想
を欠いた設計を行うと、電源負荷がかかった時、回路間、ある
いは回路とその他の構造体との間で、絶縁抵抗が低くなる、
つまり導電しては行けない箇所に導電現象が起こりやすいと
いうことは考えられるかもしれない。

 だが、世界で膨大な種類の製品が生産される今日、工場
出荷品に対して、政府がボルテージ耐圧試験を、一概に何
キロボルト、何メガボルトと決め、それをチェックすること自
体がそもそもナンセンスだと思うのである。なぜなら、そうい
う大きな耐圧電圧が必要な機器は限られているからである。

 たとえばブラウン管(CRT)を使う機器は、カソードからアノ
ードに電子線を飛ばすために数千~数万ボルトの電圧がか
けられる回路になっているが、ヘアドライヤーや掃除機など
の機器は通常は100ボルトで使われている。高圧回路が
存在しない製品に大きな電気的耐圧試験を行うことに意味
があるのだろうか。しかも絶縁耐圧なんてものは、工場出荷
前に常識的にどこの工場でも行っているはずである。それを、
政府機関が勝手にやって良不良を選別するという魂胆がさ
っぱりわからない。

 電化製品の絶縁容量は、湿気や粉塵、空気中の不純物
など、環境要因によって変わってくる。つまり、使う場所や
使い方によって安全度合いは大きく変わるものなのである。

たとえば、飲食店の厨房などのテレビを思い出せばよくわ
かる。炊事の煙や油煙、湿気などが製品の寿命を短くする
だけではなく、中の回路の絶縁度を下げてしまうこともある。
わかりやすいのは、綿埃が機器の中に入って電気回路に
付着し、それが湿気を帯びてしまった場合であろう。これは
即、ショート(短絡)回路を形成する。

 一般に、実際の使用場所とは異なる、たとえば試験室の
ような安定した場所で絶縁耐圧試験を行っても、ほとんど意
味はないと考える。製品の感電事故や漏電火災事故の安
全を考えるのであれば、一定条件下の絶縁耐圧試験よりも、
実際に製品が使われる環境や雰囲気の問題、あるいは器
具の適切な使い方に注意を喚起することがむしろ、よっぽど
安全というものを実効的に捉える考え方である。

 そういうわけで、強制的にPSEマークをつけることに、合
理的な意味は見出せない。しかし、政府はなぜこのような
無用な法案を考えたのだろうか。意味のない法案作成は
あり得ない。この法案の本当の意味が、実は国民の安全
ではなく、政府の都合でやられたものだとしたら、どんなこ
とが考えられるだろうか。

 これは小泉構造改革の経済思想を考えると見えてくる。
彼らの経済政策の誤りは、不況の原因が需要サイド不足
から来ているのを見誤って、あるいは故意にそうしている
とも考えられるが、需要の喚起を行うべきときに、供給(サ
プライ)サイドの改善しか考えていないということに尽きる
と思う。

 供給拡大の一つの窮余の策として、PSE法の規制で電
化製品の中古市場をつぶすことによって、巷に強制的に
新規の電化製品を行き渡らせようという考えなのではな
いだろうか。デフレ不況のときは総需要を喚起することが
経済政策の定番である。ところが小泉政権は逆に供給サ
イドに血眼になっているのである。そのための思いつきで、
中古製品の流通を止めて、新しい製品を消費者に回す魂
胆ではないだろうか。これはほとんど効果はない。一時し
のぎにもならないだろう。なぜなら、国民側の消費マインド
から生じた需要喚起ではないからである。

とにかく、この法案はわけがわからない。

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世を耕すという名の議員さんが発したトンデモ発言

 先日、テレ朝の「朝まで生テレビ」を観ていたが、途中で眠って
しまい、後半部から少し見た。誰が何を話したのか、あんまり印
象には残っていないが、つい笑ってしまった場面を観た。それは
参加者の一人である世耕弘成(せこうひろしげ)自民党参議院
総務委員長の面白過ぎる発言である。

 話題としては、格差社会というものを考えるとき、一代目の社
会的成功、不成功が後を引き、その子孫の格差が決まっていく
のかどうかということだったと思うが、その話の流れの中で、参
加者の誰の発言だったか思い出せないが、たしか次のような質
問が出ていた。

 小泉純一郎総裁も、安部晋三官房長官も、麻生太郎外相も
そうなんだが、かなり多くの二世議員、つまり世襲が輩出して
いる現状で、その世襲議員が中心となって自助努力や能力主
義のようなものを唱えるのは矛盾ではないのか、そういう環境
で格差社会を固定せずに是正させることは可能なのだろうか。
どう思いますか、世耕さん?というような問いかけだったように
記憶してる。

 私は観ていて呆気に取られたのだが、世耕弘成という人物
は、興奮して手を上げ大声を上げながらこう答えた。

 「日本から世襲がなくなったら、
  そもそも日本が成り立たない
  じゃないですかぁ」

 これには正直、私も魂消(たまげ)てしまった。こんな意想外
のセリフを吐く小泉内閣の重鎮がいたとは驚きである。笑って
はみたものの、ん?ちょっと待てよと思った。彼のブログを見た
ら、世耕議員は仮にも、自民党幹事長補佐であり、党改革実
行本部事務局長と書いてある。

 小泉構造改革の重要な任命を帯びた一員であるなら、「世
襲がなければ日本が成り立たない」などとは口が裂けても言
ってはならないことなのである。なぜかと言えば、小泉・竹中
ラインが推し進める「構造改革」とは、アメリカに強制されて行
っている、いわゆる「新自由主義」(ネオリベ、新古典主義、
ニュークラシカルなどとも言う)を標榜して行っているからであ
る。この経済思想は伝統や世襲が大きな敵であり、理想の市
場競争至上主義を実現するためには、構造的な世襲、つまり
は伝統的なシステムを破壊しなければならないからである。

 市場の抜け穴や法の網目を潜り抜ける才覚のある者や抜
け目なく行動するものが、「自助努力」によって大きな利益を
受ける社会を構築するのが小泉たちの目的である。慣習的
な世襲は、新自由主義的な立場からみれば、数々の阻害
要因の中でも上位を占めるほど悪いものなのである。理論
的にそうなのである。

 だから世耕議員が「世襲なくして日本あらず」などという国
家構造の根底に関わる間違った発言をしてはならないので
ある。この発言一回で、小泉・竹中ラインが行っているリカー
ド、ハイエク、フリードマン的な流れに従う日本改造計画が、
いかに出鱈目でいい加減な思想性で行っているかがわ
かるのである。彼は、新自由主義という改革路線の大指針
を、自ら裏切る発言をしたのである。日本的構造システムを
破壊し、破壊するための立て看板である新自由主義という
錦の御旗さえ平然と裏切るこいつらとはいったい何なのだと
思うわけである。盗賊団でさえ、オキテというものがある。
これを守らずして盗賊の存続はできない。小泉内閣という
売国団は、自らのオキテさえ、きちんと保持しえないバガボ
ンド集団ということか。

 構造改革の中核に居る世耕議員が自らの思想をひっくり
返すようなことを不用意に言うことは致命的である。いくら夜
通し眠らずの疲れた頭でも絶対言うはずのない発言なので
ある。構造改革論者としては自己否定そのものだからである。

 もしも彼がうっかり発言だと思っていないのなら、政治家を
やる資格はないであろう。頭が悪すぎる。またまた小泉構造
改革内閣のお粗末な一面を垣間見た思いである。このグル
ープはお粗末ではあっても、効果的な日本破壊を行っている
ことだけは確かである。 

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2006年4月 1日 (土)

自分は先人たちを心から信じる

◎日本人は無類の自己陶冶に成功した民族 

    中国の胡主席「靖国参拝中止なら首脳会談」

 【北京=森本学】中国を訪問中の日中友好7団体の代表団
(団長・橋本龍太郎元首相)は31日、北京市内の人民大会堂
で胡錦濤国家主席と会談した。胡主席は「中日関係が困難に
直面した原因は日本の少数の指導者がA級戦犯を合祀(ごう
し)する靖国神社を繰り返し参拝していることだ」と強調し、小
泉純一郎首相の靖国参拝を直接批判した。そのうえで「靖国
参拝がこれ以上行われないことになれば首脳会談をいつで
も開く用意がある」と述べ、首脳対話再開の条件を提示した。

 胡主席が日本の要人と会談するのは昨年10月17日の首相
の靖国参拝以後では初めて。両国の関係の冷え込みについ
て「原因は中国にも日本人民にもない」と主張し、批判を首相
ら指導者に限定。橋本氏が首相時代に靖国参拝した経緯に
触れて「多くの日本人の心の中にある靖国神社はたいへん身
近な人の姿だ」と理解を求めると、「政府の代表者が行くことは
政策を表していると考える」と切り返した。 (21:07)
       (NIKKEI NETより引用)

 日中友好7団体の代表団と一緒に橋本龍太郎前首相が
北京で胡錦濤国家主席と会談した折、主席はいつものご
とく歴史問題を靖国参拝に象徴させて日本側をちくちくと
いたぶった。シナ人と韓半島人政府筋は、歴史問題で政
治的に日本側に圧力をかけ、一貫してそれを国際交渉の
前提条件として打ち出し、日本側から何らかの大きな譲歩
を引き出すというあざといことをやり続けている。

 日本側は韓国やシナに対しては戦後数十回も謝罪し続
けているが、この二国にはこれでいいということはない。金
づるを見つけたから、日本が呼吸をし続けている間はでき
る限り最後までタカってやるという意識である。まるで、チン
ピラヤクザのメンタリティそのものである。国家のたたずま
いとして、このような恥ずかしい国々はないだろう。日本人
の大多数は、これを不快とは感じつつも、日本が戦時中に
彼らに対して悪いことをしてしまったから仕方がないだろ
うと、何となく思っている。

 しかし、よく考えて欲しい。果たしてそうだろうか。日本
人が漠然とシナに対して、戦争侵略史観という贖罪史観
を持つのは何に対してだろうか。その中核を重く占めてい
るのは間違いなく「南京大虐殺」と呼ばれるものである。こ
の重いしこりがあるから、日本人はシナ人や韓半島人(朝
鮮人)の居丈高な「恨み言」に萎縮するしかないのである。
南京虐殺が百パーセント彼らの言うとおりであるのなら、
我々は同民族として恥ずかしいし、申し訳なく思うが、あ
のわけのわからない虐殺数と虐殺状況をいったい誰が歴
史的に確認したと言うのだろうか。

 人類は近代に入ってから、特に産業革命以降も国家間
の戦争は絶えなく生起している。クラウゼビッツによれば、
戦争は政治の一形態である。本来、戦争に善悪観念は
適用できないものである。人同士の戦い、部族間の戦い、
国家間の戦争は、人類始原、黎明のときから人間存在に
シャム双生児のように付きまとっているものである。人間
存在から戦争する動物としての性質を否定して考えたら、
人間は人間としてのアイデンティティを保持し得ないのだ。

 戦争はいやだ、残虐だ、悪事の中でも群を抜いた悪事
だと考えている人々が大勢居る。平和主義者と言われる
人々である。彼らの存在哲学は根底的な錯誤に基づいて
いる。人間という存在を、過去から現在までじっと通観し
た場合、他者と喧嘩しないで生きている人間などは誰一
人として居ない。

 喧嘩というものはほとんどの場合、両者に正義がある。
これが直線的に進むと殺し合いという決着方法を取る。
国家間も同じである。ある政治経済的な件名が、いくら
徹底して話し合っても決着が付かない場合、戦争に移行
することがある。この場合も両国に正義、言い分が存在
する。盗賊のたぐいによる殺しでなければ、人間はほとん
どの場合、正義の名の下で殺し合いをする。哀しいことだ
が、これは人類の不文律の一つである。

 人間は霊長類のトップに居るホモ・サピエンスである。
人間は、働く動物・ホモ・ファベルであり、遊ぶ動物・ホ
モ・ルーデンスであり、経済的動物・ホモ・エコノミクス
であり、そして、喧嘩や殺し合いをする動物・ホモ・ファ
イターである。人間の定義はまだ多くあるが、人間同士
は仲の良い状態よりも圧倒的に険悪な場合が多くある
ということからすれば、掟(おきて)、規則、法律体系、
領地、国境などを人類が定め、枠として国家を造ってき
たことが何となくわかるような気がする。

 以上述べたことは、すべての国家が平等に同じ地平
に立っていると言っているのではもちろんない。蓋然的
にそういうことであろうかと推考しただけである。今、存
在するすべての国家群が同じ地平に立っているなどと
いうことはあり得ない。たとえば、アメリカは産業革命の
波を受け、独自に発明の才を駆使し、その科学技術を
いち早く軍事技術に転用し、軍事力を楯に、世界の侵
略国家のナンバーワンの地位に着き、勝手放題に世界
を食い荒らした。シナは、1950年代からチベットを侵略
して残虐な殺戮をほしいままにしていた。このような国
家関係に同等な正義などはない。アメリカもシナも悪で
ある。

 法律大系は、古くはバビロニアのハンムラビ法典があ
り、古代イスラエルでは「モーゼの十戒」などがある。法
律思想の根底にはほとんどの場合、人間性悪説がある。
人は放っておくと何をするかわからないという発想が基
底にある。

 そこで、これを見ている方々はビールでも飲みながら
よく考えてみて欲しい。戦争に出たこともなく、しかも戦後
生まれの戦後育ちの一人に過ぎない私に、あの南京で、
帝国陸軍とシナ人との間に如何なる出来事が起こったの
か、文献や記録以外からどうしてその真実を確認できる
だろうか。その文献や記録と言われる物だが、戦勝国家
群以外の第三者が記録したものがいったいどれだけある
だろうか。これは当然、あの伝聞を悪意で解釈した捏造
の「ラーべの日記」などは論外である。

 極東国際軍事裁判から離れた第三者によって記録され
たものならともかく、ほとんどの記録伝聞はシナを中心とし
た戦勝国由来のものであろう。ここに真実性を確証する方
途はあるのだろうか。だとしたら、日本民族の民度、すなわ
ち伝統的な規律感覚、規範感覚から、当時の日本軍人の
道徳観念を推し量る以外にないのではないだろうか。

 そこで、日本人はあるたった一つの事実を思い浮かべて
欲しいのである。それはわが国が建国以来、どれくらい時
間を有しているのかということである。それが南京事件と
どういう関わりがあるのだと思うかもしれないが、ここで国
民一人一人建国時から現代までの国家存続時間というも
のを深く心に留めて欲しいのである。かつて皇紀という紀
元年代が使われていた。皇紀とは日本書紀が記す神武
天皇即位の年を元年とした年代のことである。それによれ
ば今年は「皇紀2666年」である。

 アカデミズムが言う日本建国年代ははっきりしていない。
しかし、わが国は大和朝廷が成立してから二千年を超え
る時間を背負った古い家柄である。この間に政権は変化
したが、朝廷は一貫して存続し、国民も民族の入れ替わ
りがなかったことは確かである。日本が世界にもっとも誇
れる事実は、この国家時間の長さにある。

 前述したように、人間社会が律法大系と国家という枠を
造ったのは、人間同士が争い殺しあうという性質を制御
するために行ったという理由はかなり大きいと思うのであ
る。国家時間が長くなればなるほど人間の持つマイナス
の性質が刻々と陶冶され、研鑽されて、全体として望まし
い規範社会が築かれて行くと思うのである。これを一貫し
て実現し得た国家はわが日本をおいて他にはない。ロー
マ帝国でさえ滅びた。驕れるものは久しからず。我々が
平家物語を文学として残したのは民族陶冶による当然
の結果である。祖先の深い知恵の一環なのだ。

 このような観点から、わが国の国家時間の長さを胸に
手を当てて考えたとき、日本ほど人間の自己陶冶を行っ
て、人間が根源的に持つ戦いや残虐性の情念を鎮める
ことに成功した民族は世界に無二なのである。従って、
大東亜戦争の発端である真珠湾攻撃が、覇権拡大の野
望からではなく、民族の自存自衛から起きたと考えるの
はけっしてこじ付けではない。あの戦争は米英が悪意で
日本の締め付けをやらなかったら起こり得ないものであ
った。

 渡部昇一氏の記述に、大日本帝国陸軍は世界のどの
国の軍人よりも軍律が抜けん出て良かったということが
書かれてあった。日本の国家時間を考えればこれは当
然のことである。皇軍は廉恥の意識をしっかりと持って
いた。天皇陛下の赤子としてやってはならないことをし
っかりと胸に刻んでいたのである。そういう軍人たちが
部隊単位で現地アジア人を残虐にいたぶることはあり
得ない。戦後流布された日本軍人極悪説は、東京裁判
から発信された虚妄の説なのである。

 もう一つは戦後という60年間を考えてみても、日本人
のDNAには他国への侵略意図はなく、共生感覚が強く
あることはすでに証明されている。日本は、他国に対
しては、人が良すぎるくらい支援したり知恵を貸したこと
のほうが圧倒的に多い。我々の先祖が残してくれた記
録類や文学の類を注意して読めばわかると思うが、南
京大虐殺と言われる殺しの手法のいったいどこに日本
的な風習や意志が見られるのか。あの中に見られる
殺戮の行動様式すべてが、通州事件において、実際
にシナ人が日本人にやらかしたこととほとんど酷似し
ていることを念頭に叩き込んで欲しい。

 戦後マッカーサーが断じたように、日本人が蓋然的に
幼稚で悪逆な民族だとすれば、その性格は押し隠しよう
もなかったはずであるから、戦後60年の間に世界の顰
蹙を買うような、奸知に長けた悪辣なことをやったはずで
ある。あたかもシナのように。そんな痕跡はどこにもない。
アジアでの買春ツアーやバブル成金の下品な世界行脚
は末節の出来事であり、国家的な指向ではなかった。そ
ういうことはどの国でもそれなりにある。

 日本人が長い時間に培った和の志向性を鑑みれば、南
京でシナの言うような虐殺は起こりようがないはずである。
森村誠一は、戦争は常人を狂気に追いやるなどと、もっと
もらしいことを言ったが、これも人間存在というものを皮相
的に見て、捉え方を間違っている。戦いは、人間に先験的
に備わっている性質の一つに過ぎない。戦争次元に移行
して人間が全体的な狂気にとらわれるなどということはけ
っしてない。世界の多様な民族国家は、それぞれ独自に
人間の殺戮本能や攻撃性の陶冶を試みてきたが、それに
一番成功した民族こそ、我々日本人だったのである。

 しからば、日本人が起こした大東亜戦争は、なぜ、かくも
執拗に、いつまでも悪人の所業のように言われ続けて
いるのだろうか。なぜ、シナ人と韓半島人は日本を恒久的
に責め立てるのだろうか。ここに一つの巨大な歴史の詐術
がある。実のところを言えば、一番、日本を悪玉に仕立て
上げて、そのことを隠れた国是にしている国がある。日本
の戦争責任を戦勝国の有理(有利)のみにたより、一方的
に日本を悪として裁いてしまった国がある。この戦勝国の
有理とは、無理が通れば道理が引っ込むの「無理」なので
あるが。ありていに言うなら、勝ちさえすれば敗戦国には
何をやってもよいということをアメリカは実践した。アメリカ
は日本の過去を悪として故意に裁いた。それが東京裁判
であった。

日本とシナの問題、そして、日本と韓半島の問題は百パ
ーセントアメリカ一国に原因している。日本のマスコミは、
占領時代の放送コードを今も後生大事に堅持しているの
で、この事実は決して言わない。シナも南北朝鮮も何か
ことがあるたびに日本の戦争責任をこれでもかと執拗に
追求する。外交の席ではたまにニコニコ顔で応対するこ
とはあっても、けっして戦争責任追及の手をゆるめない。

 シナ人と韓半島人は、アメリカの日本断罪史観に乗っ
ているだけでなのである。我々は真摯に事の真実を認
識する必要がある。皇統を戴く日本という至尊の国が持
つ悠久の国家時間が、アメリカという奸佞邪知(かんね
いじゃち)の国によって歴史を捻じ曲げられ、悪と断罪さ
れ、世界史の中に固定化されてしまったのである。これ
をシナ等のチンピラ国家が利用しているのが現実である。

我々は最近、日本人特有の「和」の原理で頑張ろうなど
と軽い気分で言う。しかし、この和の精神こそ、わが祖先
たちが長い時間に亘って自己陶冶し、築き上げてきた民
族精神なのである。幕末に黒船を見て驚きながらも、わ
ずか90年に満たない時間で、世界最大、超弩級戦艦の
「大和」を造り上げた日本人の優れた創造性や能力も、
この膨大な国家時間の蓄積に由来しているのである。

 日本人はアメリカの底意を見抜いて、本来的な民族矜
持を取り戻さないとカルタゴやパルミラのように消失の運
命をたどることになる。日本人よ。我々の祖先たちは世界
一立派な人間だったのだ。信じたほうがいい。私は本気
でそう思う。

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2006年3月30日 (木)

自爆テロも特攻も米英なくしては生まれなかったのだが・・。

 今、イラク国内は内戦状態にあるようだ。暫定政府ができて、
一応は選挙経験を有した政府になったが、とても安定した政府
とは言いがたいお先真っ暗な状態である。イスラム教シーア派、
スンニー派の宗派対立は、もはや内戦といっていいほど激化し
ており、駐留米軍に対してもイラク人の怨念は増大している。混
沌、無秩序社会が強まるばかりの現状である。本格政権樹立ま
でにはまだまだ遠いだろう。自衛隊はもう関わらないほうがいい。
アメリカの同盟国家とは言ってもイラク侵攻に加担する道理はな
い。

 昨日のニュースで、国内の六割を占めるシーア派の一部政府
組織が、スンニー派の国民を捕まえて拷問したり、殺したりして
いる状況を報道していたが、我々日本人では到底考えられない
ような凄惨な拷問と殺しをしているようである。生きたまま、頭に
回転しているドリルの歯を刺して殺したり、股から首にかけて一
直線に切り裂いたり、無残この上ない殺し方をしている。この人
たちは、わが国の特攻のみならず、シナで起きた通州事件も参
照しているのか。

 アラブの民は、もともとベドウィンと言って、家畜を放牧しなが
ら、あちこちを行き巡る不定着の生活を送っていた伝統がある
から、農耕社会的な日本民族とは当然ながらかなり性格は違
っている。我々日本人から見れば、他者や生き物に対して、残
酷になる時は徹底しているのである。遊牧民の伝統生活にお
いては、家畜を屠殺し、骨を断ち切り、皮を剥ぐ習慣が身に染
み付いているから、彼らはナイフの取り扱いが巧みだし、血に
は慣れているのだろうが、同胞に対しても似た感覚でできると
いうのだろうか。

 私自身、サウジアラビアで七ヶ月暮らしてみて、周辺アラブ国
のアラブ人と一緒に働いた経験があるが、彼らが怒ったときに、
尋常じゃないものを示したことは記憶に残っている。宗教的な侮
蔑を感じた時や、親を馬鹿にされた時などの彼らの怒りは大層
凄まじいと現地到着時に聞いていた。自分はその方向で彼らと
トラぶったことはないが、給料計算の誤解で恨まれたことは一度
ある。私は当時、プラント・エンジニアだったから、装置設置関係
の仕事でしかアラブ人と関わらず、金払いのことにはまるでタッ
チしていなかった。私が使っていたあるアラブ人は給料を私に減
らされたと誤解してしまった。

 勘違いだということを説明するために、拙劣なアラブ語で必死に
食い下がってはみたが無駄だった。そのあと、私はたちの悪い日
本人として割の合わない弾劾を受け、ナイフまでちらつかされて
往生したことがある。だからこそ、最近騒ぎになった回教創始者で
あるマホメットの風刺画に、アラブ社会が全体的な怒りを示した時
は、まさにさもありなんと思った。信仰心が篤いことは尊敬に値す
るが、我々の育った教育環境や神道的社会感性からすれば、信
仰的な部外者に対しては許容性がかなり狭いと感じる。その不寛
容は今の宗派間対立に顕著に出ている。

Saudihiro2
(SAUDI ARABIA RIYADH 郊外にて 後ろの動物はベドウィンの羊 1980年)

 私個人は、イラクに対して、アメリカの一方的、かつ暴虐な軍
事侵攻が今日の混迷の事態を招来したことについて、大きな憤
りと同情を感じている。しかし、今、生起しているこの宗派間対立
が、あるイラク人が述べていたように、アメリカ及び、イスラエル
諜報機関の画策であるとしても、(多分そうなのだろうが)同じ民
族同胞に対してここまで憎悪と残虐性を示すことには根底から抵
抗感がある。不思議なのは、アメリカの暴虐性を心底から感じて
いるはずのイラク人なら、宗派の違いを超えて心を合わせるのが
普通だと思う。同じ歴史的な逆境に生きるイラク人であれば、む
しろ団結して当然の成り行きであろう。それがたとえ、西側の諜
報機関の画策があったとしても、なぜ憎悪を増大する反対の方
向に行くのか理解しがたい。それだけ、謀略的破壊が巧妙だと
いうことなのか。アメリカの侵攻意図は、イラクに軍事的橋頭堡
を築くことによって、石油利権確保とイスラエル共和国防衛とい
う二つの意味合いがあるのだろう。

 聞くところによれば、少数派であるスンニー派アラブ人は、前フ
セイン政権時の裕福な北部アラブ人が多いそうである。その権
益を守ろうとする一部北部のスンニー派が、フセイン政権壊滅後
に恨みを晴らされていて、あとの大多数のスンニー派はそのとば
っちりを受けているのだろうか。しかし、そうだとしても正直、残酷
すぎると思う。これが生命の育たない砂漠で生き抜いた民族の正
直な姿なのだろうか。この辺は、緑溢れる豊穣な生命空間で歴史
を育んできた我々日本人がうかがい知れないところである。

 これはアラブ人を差別しているわけではない。アラブ人は日本人
とは歴史も民族性も大きく異なると言っているのである。私がアラ
ブ過激派の自爆テロと日本の神風特別攻撃が質的に異なると考
える所以はこういう歴史性の違いにもあるのである。精神風土が
違うのである。この差異が環境風土から来ているのか、人種的な
血脈性から来ているかはわからない。アラブ人は宗教の民族だと
は言えるが、決して和の民族ではないのだ。そういう違いを持った
アラブ人が、日本の特攻を取り入れて自死攻撃をやることは理解
はできるが、それが特攻隊員の末期の精神性と同質であるという
ことは断じてない。自爆テロは行為の始めから完結に至るまで血
なまぐささが付きまとっている。

 アラブ人も、マホメットが布教するまでは異教徒だったはずであ
る。布教が浸透してイスラム教徒になったのである。彼らの信じる
神の経綸の中で、異教徒にも改宗させてアッラーの偉大さを広げ
ていく展望があるとするなら、そして、テロ行為が新たなる時代の
あらたなる戦争形態だとしたら、その「無差別性」が未来の回教
徒を殺しているとはなぜ考えないのだろうか。そういう観点からも、
人の命を無差別に奪うことは、はたして神の所業に適っているこ
とだろうか。はなはだ疑問である。

 イスラム過激派の自爆テロと特攻隊を、どっちも同じ戦争行為
じゃねーのか、という、「戦争」という単一概念で括り、同質性を
アピールする感覚は、小泉純一郎の単純きわまる愚劣な二項
対立とどこかしら共通した愚昧さを感じるのである。余計なこと
だとは思うのだが、アラブ人には祖国感情が必要だと思う。彼
らのそれに相当するのはアッラー一筋であろうが、現実に国家
が危殆に瀕している今、祖国感情を盛り上げて真の敵アメリカ
に反旗を翻して欲しい。

 イスラム社会が横暴覇権国家であるアメリカを憎む気持ちは
よくわかる。歴史的にも米英のアラブ侵略は是認できるものは
何もない。英国の有名なT・E・ロレンス(アラビアのロレンス)は
中東地域を好き勝手にかき混ぜたイギリスの手先であった。ま
た、特にアメリカは人類が産み落としたニムロデ王の再来であ
る。アメリカのユニラテラリズムとはバベルの塔そのものにほか
ならない。傲慢の極地を行く国家である。白人五百年の侵略史
の中で、白人侵略帝国の総帥国家であるアメリカにまともに戦
いを挑んだのはわが日本だけである。アラブ人が終戦までの
日本を英雄視してもそれは当然のことである。

 対アメリカという意味では、私はイスラム社会にシンパシーを
持つが、無差別自爆テロという、ある意味哀しくもあり、残虐き
わまる報復方法しか取れないことと、わが国の特攻を同一視す
ることは先人たちの究極の武士道精神を汚すことになると考え
ている。特攻も自爆テロもどっちも「戦争なのだから」という不毛
のカテゴライズは、わが国の戦後を席巻したあのニヒリズムに導
くだけなのである。

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2006年3月26日 (日)

自爆テロと神風特別攻撃はまったく別物

  つい先日のことだが、ニュースで、イランの自爆テロ養成組
織に触れていた。その養成機関の女性リーダー、ラジャエファ
ール書記長は、「我々のグループの最大の目的は殉教の文
化を広めることだ これは神風特攻隊をイスラム教の言葉に言
い換えたものである」と断じた。

 このニュースは何度か繰り返して流されたから、観ていた人
も多いと思う。自爆テロという言葉が世界の人々に重大な意味
を帯びてしまったのは、例の2001年、アメリカ合衆国、ニューヨ
ークにおける世界貿易センター・ツインビル及びペンタゴンへの
同時多発テロ事件である。したがって、この「自爆テロ」という特
別の意味を持つ流れの中で、イランのある組織が「自爆テロリ
スト」を養成しているというニュースは多くの国民の耳目を引い
たに違いない。

 しかし、どのニュースキャスターも、新聞も、この自爆テロの性
格が日本の神風特攻隊になぞらえて言われたということに敢え
て反応していないのはなぜだろうか。私はこのニュースに対する
日本人の無反応を、非常に深刻な精神の病気だと考えている。
テロリスト養成機関のリーダーは、はっきりと、自爆テロは殉教
の文化であり、それは神風特攻隊をイスラム教の言葉で言い換
えたものだと断定している。つまり、わが国の特攻隊が行った、
体当たりの「特別攻撃」が、イスラムの自爆テロと同一次元の
ものであると言っているのである。

 このニュースを聞いた日本人は、それを、なるほどと頷いて聞
いていたのであろうか。おそらく反論の声が聞こえなかったこと
が、多くの日本人がそれを首肯していたことを裏付けているの
だろう。私はこのニュースを聞いたとき、即座にこう思った。日本
は、すぐに政府スポークスマンを通じて、例の言葉を語った組織
とイラン政府に厳重な抗議をしなければならないと。

 理由は、日本の神風特攻隊とイスラム過激派の自爆テロには、
ほとんど共通性がないということである。これは、その行動形態
も、突っ込む精神も、それに至る背景もまったく違う行為なので
ある。まず、自死という部分では似ていると思うかもしれないが、
その解釈に当たっては、両者は似て非なるものである。自爆テ
ロは殉教、特攻は殉国、イスラムの場合は唯一神アラーへの帰
依から、日本の場合は皇国への帰依からという差異はあるが、
両者とも帰依する対象を持つ宗教的情熱が自死をもたらしたも
のであるから、ほとんど同じ死の意味を持つという論調が優勢
である。

 違うのである。宗教的情熱という共通ワードを持ってきて、強引
に両者を同質のものと一括りにしている論調は、あまりにもイス
ラム社会と大日本帝国を理解していない、いわば無知と言って
もいい話なのである。

 手元に一冊の本がある。題名は「カミカゼの真実」、副題は「特
攻隊はテロではない」というものだが、著者は須崎勝彌氏、光文
社の刊行である。

VFSH0685

この本の作者は、元海軍飛行予備学生で特攻隊に居られ、戦
後はシナリオライターとして大映や東宝などで「人間魚雷回天」
や「連合艦隊」などの作品を手がけた人である。氏がこの本を執
筆する動機に至ったのは、立花隆によって、特攻隊と自爆テロ
リストが同一次元で語られていたことに抗議するためであったと
述べている。自身も特攻兵であったことから、本物の特攻隊の
心や魂を共有した側から、どうしても自爆テロと特攻の同質性
のイメージには我慢できなかったようである。

 この真摯な訴えは、当然、今回の例のニュースにも当てはま
るものであるから、氏の見解をお借りして、一応このブログにも
書いておきたいと思った。立花隆はかつて「文藝春秋」誌に、
イスラム原理主義の過激派の自爆テロ攻撃の源流も、日本赤
軍のテルアビブ空港乱射事件にあったと書いているそうである。

 日本赤軍は岡本公三を除いて、乱射した二人の日本人は手
榴弾で自爆死した。それまでの中東には自殺戦法という発想
はなかったが、これがアラブ人を感動させ、それ以降は自爆テ
ロが中東地域に発生した。標的はもちろんイスラエル共和国で
ある。立花隆はこのテルアビブと、日本の特攻と、あの9.11の
同時多発テロを、宗教的情熱というキーワードによって同じ文
脈の流れに組み込んでしまった。日本赤軍の革命闘争と、イ
スラム過激派の自爆テロと、神風特別攻撃隊、これら三者の
虚妄の系譜が出来上がってしまい、当の日本人がこの錯誤の
ロジックに飲み込まれている。

「現人神(あらひとがみ)の 支配する神の国で育った若者たち
の熱狂的な愛国心は、テロリストたちの宗教的情念に通ずる」
という立花隆の文脈に対して須崎勝彌氏は真っ向からこう言
っている。「熱狂的な愛国心とはマインドコントロールをされた
状態を意味するようだが、大正生まれの出陣学徒はそれほど
までに貧しかっただろうか。理性はそれほどに脆かっただろう
か。感性はそれほどに粗野だったのだろうか
」と。続いて次の
ようなことを書いている。

 まず、突入形態であるが、テロリストが法悦境に浸りながら
貿易センタービルに突入したという立花の解釈は妥当だろう
か。満席に近い乗客を乗せた機内は、阿鼻叫喚のパニック
状態であり、中にはコックピットを奪取しようとした動きも起こ
ったに違いない。悲鳴と怒号が飛び交う機内で、テロリストた
ちが法悦の妙味に浸るなどということは到底無理であったこ
と。

 ここからは私の意見を言うが、「攻撃的」な殉教がかろうじて
成立する状況とは、己の宗教を冒涜し、己の宗教を殲滅する
意志で攻めて来る敵に対して行う行為のみである。そのため
に、いくら異教徒であるとは言え、イスラムに敵意を持たない
一般の人々を巻き添えにする殉教行為には純粋性や大義は
微塵もない。テロの犠牲者になった三千数百名の人々の内、
いったい何人がイスラム社会を敵視していたのだろうか。また、
貿易センタービルにいた五万の人間は、憎いアメリカ人ばか
りではなかったはずである。

 一方、わが国の特攻は空中特攻、海上特攻、水中特攻、な
ど数種類の特攻形態はあるが、たとえば250Kg爆弾を搭載し
たゼロ戦特攻を見ると、搭載爆弾の重さで殺がれた速度で、
迎撃射撃や艦砲射撃の回避行動もままならない状態で一気
に敵艦に向かって行った行動は、ハイジャックし、迎撃戦闘も
なく多くの人間を巻き添えにして行った自爆テロ機とは大きく
状況は異なる。わが国の特攻作戦はあくまでも戦争行為であ
り、敵国の一般国民は一人も巻き添えにしていない。本土防
衛の最終的な手段として、そして大義に運命を投じる日本人
の形として、極限的な状況で取った戦法である。形態的にも
まったく違うのである。

 また突入時の精神的な様相は、自爆テロは報復の憎悪を込
めた殺意、すなわち過去の経緯に向かっているが、特攻は
報復の意図ではなく、国の存続、民族の存続を願うこと、つま
りは未来を見つめて行っている。どっちも血なまぐさい殺人で
はないかと言う者はいるが、行為の意味において両者はまっ
たく異なるものなのである。突入死するゼロ戦の搭乗員は憎
悪に凝り固まった殺人者ではなく、マインドコントロールされた
刺客でもない。目的は殺人ではなく、敵戦艦や空母の戦力の
殲滅であった。貿易センタービルは西側世界の経済の象徴か
もしれないが、決して反撃してこないただの建物なのである。
しかも、中にいる生きた人間は軍人ではない。これを知りなが
ら、敢えて自爆攻撃に至る精神状態とは、純粋な宗教的法悦
に近いことだとは到底思えない。宗教的パッションに浮かされ
た洗脳状態と考えたほうが理に即している。それは殉教とい
うよりも殺戮そのものを目的にした殺意である。イスラム宗教
そのものはカルト体系ではないにしても、解釈次第ではどんな
宗教も過激なカルトに移行する。

 特攻隊員の末期の精神状態をうかがえる遺書は比較的多く
残っている。靖国神社発行の「英霊の言之葉」などにも書かれ
ている。それを見る限り、彼らの末期の心境は、武士が切腹す
る心境に通じる静かなものである。澄んだ心で祖国や故郷、家
族の行く末を想っている。これはほぼ祈りに近い心象風景であ
る。このどこに、無差別自爆テロの血なまぐさい気配があるとい
うのだろう。自爆テロの発想は特攻を意識したものではあろうが、
その性格はまったく異なる空間に属しているのである。

 今回のイラン・テロ養成組織のリーダーの殉教文化による
自爆テロの説明が、神風特攻隊と同位同列に語られるのを
黙認してはならないと思うのである。これを同じものとして看
過している日本人は、心も虚妄の太平洋戦争史観の醜悪さ
に染まっている。私が言う虚妄の太平洋戦争史観とは、大東
亜戦争史観を無理やり捻じ曲げたアメリカが、戦勝国の傲慢
性によって捏造した、極東国際軍事裁判思想(東京裁判史
観)の別名である。

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2006年3月23日 (木)

民主党はフキノトウなのか?

 民主党はもう存続理由を持たないのではないか。これは、今回
の偽メール騒動の不手際だけを言っているわけではない。政治に
詳しいわけではないから、正鵠を射たことは言えないのだが、そ
れでも素人なりに民主党の党是と言うか、党の方針の未定さが
はっきりと見て取れることから、この政党には野党としても存在意
義は見出せない。

 これは、昨年の郵政民営化是非の総選挙におけるころから感じ
ていたことだが、民主党には党としての一致した政治思想が確立
していないことは明らかである。当時は岡田党首であったが、小
泉・竹中ラインが進める構造改革に堂々と反意を示すことを肝心な
政策にしなければならなかったのだ。郵政民営化や構造改革の
審議のとき、唯一、櫻井充議員がアメリカの対日要求、すなわち
「年次改革要望書」の存在を問いかけ、小泉内閣の政策遂行が、
アメリカによる強制的なプログラムで行われているのではないの
かというごくまっとうな質問をしていたことは評価できる。

 そこから小泉自民党を戦略的に攻めていけば、あるいは政権の
姿勢に大きな影響を与えた可能性はあった。ところが、党の大ま
かな方針自体はそこにはなく、構造改革そのものには賛成であり、
郵政民営化にも賛成であるがうちはこういう方針を採るみたいな
あいまいな言い方に終始した。これは、与野党とも同じ政策を持
つという意味で、政治学的にはバッケリズム(Butskellism)という
ものらしいが、小泉構造改革に対して同列路線を持ってしまった
ことで、民主党の命運は決まっていたようなものである。

 民主党は、バッケリズムを採らずに小泉・竹中構造改革路線に
断固として反対し、それを貫いて行くべきであった。もともと民主
党の最大の弱点は、横路議員に代表される護憲派と、今は党籍
を離れているが正統保守の西村眞悟議員の派が混在していた
ことにある。保守とリベラルを足してある数で割ると適度な党是が
出来上がるなどということは絶対あり得ない。特にイデオロギーで
異なる者たちが混在した場合、党はまとまらない。

 私は良く知らないが、民主党の中にも従米路線の者たちがか
なり居て、それで小泉構造改革が対米要求そのままに行われて
いる現実を追求できない党なのであろうか。それなら日本という
国はお先真っ暗である。小泉を攻めようにも、イデオロギーも党
是も固まっていないのであれば何も武器を持たない間抜けな戦
士である。西村眞悟氏という偉大な政治家がいたところだけに
何か物悲しい気分になる。

 東北秋田ではフキノトウをバッケという。春の風物でおひたし
などにして酢味噌などで食すと美味しい。民主党のバッケリズ
ムは、ただ自民党に喰われてしまうだけのバッケなのか。

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2006年3月22日 (水)

売国内閣がイチローに栄誉賞?ふざけるな

 小泉内閣の文部科学大臣がイチローに国民栄誉賞を授与
することを検討しているとニュースで言っていた。まったく強い
不快感で一杯である。日の丸を背負い、WBC日本チームを世
界一の座にまで持ち上げたイチローの功績は、日本人として
賞賛してもし尽くせないくらい大きなものである。国民の気持
ちとしては、イチローに日本人の名誉を顕彰する立派な賞を
冠したいのは真情である。

 しかし、よく考えてほしい。今の政府がイチローに「賞」など
というものを贈る資格や権威があるだろうか。今の政府は、
小泉純一郎が総理大臣になってから続いた第三次小泉内閣
である。この政権が推し進める構造改革がいったい日本に何
をもたらしたのか。年間、三万数千人にいたる自殺者を出し続
け、所得格差は無情にもどんどん大きくなってきている。一部の
大企業や外資関係だけがうるおい、かつての日本社会のマジョ
リティを占めていた中流的な階層社会が完全に消えつつある。
中流的な意識が消えつつあると言うことは何を意味するのかと
言えば、それは社会の不安定要因がきわめて大きくなってきた
ということである。そのために、国民意識を暗い絶望感に導い
てきている。

 最近の電話詐欺や犯罪の質を見ればわかるように、日本は
安全神話が崩壊している。特にお年寄りをだます詐欺がここま
で頻繁に出てくると、思いやりや和と言う、伝統的な日本人の
民族性を真っ向からくつがえす悪質な犯罪が増えてきているこ
とを実感するだろう。これは宰相たる小泉純一郎や、その有力
側近たちに愛国情念や国民を守るという意識が完全に欠落し
ているからである。小泉や竹中を先頭とする売国政治家一味
は日本を国家ごとアメリカに売っているのである。

 小泉が最初に打ち出した「米百俵」の故事は、表面的にはハ
イエクの経済モデルを踏襲したことを示している。経済が軌道に
乗るまで我慢しなければならない時期があると。今我慢すれば
未来に希望が出てくると、「構造改革なくして景気回復なし」など
とのたまっていた。それで五年の間どうなった。自殺者が二万人
台から三万人を超えた。これでは棄民政策ではないのか。

 実際はアメリカに日本の国富を流出させる機構作りをせっせと
やっているだけなのだ。その典型が郵政民営化であった。ハイ
エクモデルというのはごく簡単に言うなら、一部の金持ちや企業
を優先して儲けさせれば、やがてはそれらが動力機関車の役割
を担って、他の大多数の企業や国民を牽引して国全体の経済が
持ち上がるという論理である。日本社会は、ハイエクやフリードマ
ンの新自由主義を取り入れたかに見えるが、何のことはない。小
泉自身にはまったく経済学的な展望は皆無であり、彼は米国エ
ージェントである竹中平蔵の政策指針を鵜呑みにして実行してい
るだけである。竹中の指針とは、完全なる従米政策である。つま
り、現今内閣の政治指針は米国を宗主国とする完全植民地に日
本を改造する目的しかない。このような政府を我々は受け入れて
いるのだ。

 イチローの話に戻すが、文部科学大臣の小坂 憲次がイチローに
国民栄誉賞を付与するという話は、イチローのみか、日本国民ま
でも冒涜するひどい話なのである。言っている意味がわかるだろう
か。小泉現行内閣には日の丸がまったくない。国家意識がまった
くない。それは現内閣が売国内閣だからである。イチローや王監
督率いる日本野球チームが、WBCで初代チャンピオンになったこ
とを国民全体が歓呼の念を持って祝ったことは、日本人に国家の
栄光を体現したことを喜んでいるのである。この状況を見て、小泉
売国内閣がイチローに国民栄誉賞を贈るということは、日本国に
対する冒涜以外の何物でもない。日の丸を愚弄し、国民がおとな
しくしているのを見計らって、女系天皇肯定を盛り込んだ皇室典範
改造を、党議拘束をかけてまで強引にやろうとした小泉純一郎。心
から日本を捨て、国民を棄て、皇統を捨てようとしている内閣が、
日の丸に熱い血をたぎらせたイチローにいったいどんな栄誉を与
えるというのか。正直に何かの賞を与えるのなら、イチローには
「抵抗勢力筆頭賞」を与えたいわけだろう、おまえらは。心にもな
いことをやるなと言いたい。

 日本国の名誉を高めてくれた大功労者のイチローに、売国内閣
が関与することは我慢ならないことなのである。現内閣が関与せ
ずとも、国民はイチローたちに大きな喝采を送っている。それだけ
で十分なのである。心に、日本ではなくアメリカしかない売国内閣
が下手に賞など出したらイチローの愛国心を侮辱することになる。

 小泉・竹中路線が崩壊し、日本に愛国内閣が誕生した暁には、
イチローたちに真の国民栄誉賞を与えることを考えればいい。

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祖国感情が招いた初代世界王者

 王ジャパン、本当に良くやってくれた。日本はWBC初代世界
チャンピオンとなってしまった。これで、体格の劣る日本人でも、
欧米やラテン系民族のパワー野球に互角に戦えるどころか、
戦術と覇気で見事に勝てることを証明した。

 何も野球のみではないのだが野球というゲームは、俗に風
向きと呼ばれる得点ベクトルが、不思議とどっちかのチームに
顕著に傾くスポーツである。大事な場面でミスが出ると、立て
続けにミスが続出したり、逆に、幸運なプレイが出ると次々に
似たような得点につながる良いプレイが出ることがある。今回
の決勝戦にはそういう「傾き」が特に目立っていた。この得点ベ
クトルがどっちのチームに向くかの契機は、運不運の不確定
要素も確かにあるのだが、それよりも、チーム全体の気力や
執念が強力に作用しているように見える。

 キューバチームは予測もそうだったが、実際に見ていても、
パワーと技術に秀出ていて、誰が見てもものすごい強豪チー
ムであったことは間違いなかった。しかし、日本にはこのチー
ムの圧力を跳ね飛ばす力が芽生えていたのだ。チームに順
風の流れを呼び込むには、ワザと気力の合体なのだが、今
回の王ジャパンには明らかにそれ以外の要因が働いていた。

 それこそが前回で触れたイチローを中心とした祖国感情な
のである。イチローは、MLBのマリナーズでプレーしているうち
に、日本人としての自己同一性に強く目覚めたようである。そ
の意識変容が強かったのでマリナーズ球団との間で、WBC
出場に当たっての揉め事を振り切って日本チームに参加した
らしい。この時、ヤンキースの松井秀喜が参加する意思のな
いことを知ってかなり怒ったということは、イチローの WBCに
かける思い入れがどれほど熾烈であったかがよくわかる。

 イチローは野球を通じて日本の優秀さを世界に誇示したか
ったのである。話は少し逸脱するが、ブルース・リーが好きな
私は、ここでブルース・リーがハリウッド映画に賭けた情熱の
理由を思い出した。1960年から1970年当時は、シナ人が世
界で三流扱いをされていることにブルースは心を痛めていて、
シナの伝統武芸であるカンフーを、アメリカ映画を通じて世界
に知らしめたいという気持ちが強くあったことが、ハリウッド映
画参入への動機だったのである。ブルース・リーと言う一天才
には強い祖国感情・民族感情があったのである。 イチローの
気持ちにもこれと似たところがあって、祖国の日の丸を世界
の舞台で燦然と輝かせたいという気持ちが心を強く占めてい
た。

 この祖国感情が発露となったイチローの気持ちが、チーム
全体の志気を極限的に高めたのである。そして、アメリカの
あの恥ずかしい審判として名を上げたボブ・デビッドソンの判
定くつがえしが、王監督以下、チーム全員の負けじ根性に火
をつけた。私にはデビッドソンのあの理不尽な判定ひっくり返し
が真珠湾攻撃直前のハル・ノートとダブって見えるのだ。あれ
じゃ誰でも怒る。それから、韓国戦に二度続けて敗れたことは、
野球の先輩格としての日本チームに強い屈辱感を与え、なん
とかこの雪辱を晴らしたいと思うようになっていた。試合が終え
たとき、ベンチに残って泣いていた選手がいたことでもそれは
わかる。

 日本中があきらめムードになり、チームも帰国するしかない
と思ったとき、メキシコ・アステカの神は日本に微笑んだ。メキ
シコがアメリカに勝利して、日本チームに準決勝、決勝への道
がいきなり開かれたのである。そういえば、アステカの神も太
陽神であり、わが国のアマテラスも太陽神である。三度目の韓
国戦からは、日本チームの内圧は極限的に高まり、強烈な結
束感がお互いに生じていた。心身ともに最高の闘争状態にな
っていたと思う。これを実現した直接のトリガーは明らかにイチ
ローである。祖国日本の栄光を背負ったイチローの精神的励起
がチームの潜在力を賦活した。この状況が、日本で見ている多
くの国民に感化を与えないわけはない。

 今日の熱狂はものすごいものだった。日本中の老若男女が、
日本チームの一挙手一投足に目を瞠り、熱狂的に応援したよう
である。普段、野球に興味のない者まで感動して見ていた。もし
も、この試合が日本のスタジアムで行われていたら、たぶん戦
後の巨人・阪神天覧試合よりも熱狂的な応援が行われていただ
ろう。日の丸を背負ったイチローの気持ちが日本全土に伝播し
たことは今の日本では画期的な出来事であったと思う。

 日本人が元気がないのは、経済的低迷や政治的混迷のせい
だけであろうか。実はそれは局面的な理由であり、本当は国家
意識の低下が真の原因だと自分は思っている。今の日本は、
政治に日の丸がまったく見えない。政治家の精神に日本が育
たない。国民は潜在意識の中でこういう閉塞状態に辟易してい
るのだ。こういう中で、イチローが王ジャパンのみか、日本人の
精神をあっという間に日の丸の栄光にいざなってくれたのであ
る。この意味は単にスポーツの勝利を超えて非常に大きい。

 国家意識も愛国情念も皆無どころか、日本の国体(国柄)破
壊を天職と心得ている亡国宰相・小泉純一郎よ。今回のWBC
優勝にけっして次のような言葉を吐くんじゃない。それはイチロ
ーたちに対する冒涜だ。

”よくやったあ! かんどうしたぁ ”
 

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2006年3月20日 (月)

イチローは日本に目覚めた

 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC) で、日本は韓国戦第三戦目で
圧勝した。面白いことに、WBC が開催される直前までは、この大会は日本
では一部のプロ野球ファンを除いてはほとんど関心を持たれていなかった。
実は、私自身もあまりこの世界大会に興味を持っていなかった。ただ、私
の年代はほぼ例外なく、O、N(王・長嶋)を圧倒的な実在のヒーローとして
憧れた世代であるから、監督である王さん率いるチームが少しでも勝ち進
んで、世界の王の名声を再度高めて欲しいという気持ちはあった。

 その程度の関心しかなかったのだが、対アメリカ戦で起きた例のタッチ
アップ判定を見ていて強い怒りが巻き上がった。テレビでこれを見ていた
いた日本人は、私のみならず、例の球審がやってしまった、あまりにも無
体な判定くつがえしに、心底怒ってしまったのである。私なんぞは、あのい
かつい顔をした白人審判の理不尽な行動に、白人至上主義の傍若無人さ
を見た気がして、しばらく憤然としていた。このことは、当然ながらもオリンピ
ックで頻繁に起きる、白人優位判定に自動的にリンクして私の怒りを倍化さ
せたのである。対戦相手が東洋人やラテン系民族ならば、アメリカに多少の
えこひいきをしても当然だという胸糞悪い根性がありありと見えていた気が
する。黒人奴隷を牛馬のようにこき使い、原住民インディアンを殺戮しながら
建国し、国力を蓄えてきた国柄に恥じないキャラを体現した行動様式であっ
た。評論家の中には、タッチアップは主審が判定するものであり、主審がそ
う見えたのだから仕方ないと訳知り顔で言った者がいたが、この場合は怒
って当然である。主審権限が優先するなら、近くで見ていた最初に判定した
審判の判断に従うのが合理的な問題処理であったはずだ。

 しかし、ひどい国際感性である。スポーツは厳然とした公平性が担保さ
れてこそ、競技の意味があるわけだが、規則の番人である審判があのよう
な恥知らずを露呈すると、国際スポーツ親善と娯楽の意味が雲散霧消して
しまうのである。王監督の言うごとく、かの審判の異常判定は、野球発祥の
地としてのアメリカ自体が、その見識を問われ兼ねないという異常な行為で
あったと考える。スポーツ親善は確固たる国際交流の一つであるから、アメ
リカは審判団32人のうち、22人をアメリカ人で占めるWBC組織のあり方を反
省し、今回のありえない審判の行為を正式に世界に謝罪するべきなのであ
る。そうでなければホスト国として無礼極まりないだけでなく、世界に恥ずか
しいことになる。

 とにかく、これが日本人のスポーツ・ナショナリズムに火をつけて、今は俄
然、WBCが熱狂的な目で見られているのは面白い現象である。一番興味
深いことは、今回の騒動で、日本チームがイチローを中心にして一体感に
目覚め、日本本来の共同体的結束を瞬時にして築いてしまったことである。
こうなったらチームは強い。二回目の韓国戦では惜しくも敗れたが、その奮
闘振りには目を瞠(みは)るものがあった。6:0で圧勝した三回目の韓国戦
では、チーム自体に鬼神が乗り移ったごとく鮮やかな活躍が見られた。日
本チームに二連勝したとき、韓国メディアは「日本の野球における自信を完
膚なきまでに叩き潰した」という論調を繰り返して報じていたらしいが、日本
はそういう報道はしない。日本人は、韓半島人に対してコンプレックスを持た
ないから、勝ったことをことさら大げさに吹聴する意識もない。これは民度の
違いである。

 イチローは野球を通じて熱血的な祖国愛に目覚めていることは間違いな
い。彼はメジャーリーグに移籍して歴史的な成績を残し、天才肌のクールガ
イと言われながら、国籍や人種を超越した完全な実力主義だというイメージ
で見られていた観がある。しかし、今回のWBC戦で彼が見せた一面は、強
い祖国愛で野球をやっていた一人の熱血的な日本人プレーヤーであったこ
とは特筆に価する。彼が、祖国愛という自己同定にいつ目覚めたのかはわ
からないが、少なくとも今のイチローは、日本を強く意識している一人の愛国
プロ野球選手である。このイチローの日本的情念がチームの全員に伝播し、
チームを一丸にして大きな力を発揮したのは間違いない。イチローの思い
は、偉大な王監督に恥をかかせたくない、立派な成績で凱旋帰国させたい
という強い敬愛の念もあった。その長幼の序の気持ちが核となって、チーム
全員に日本精神をみなぎらせたのである。本来、イチローは能力主義の典
型のような感じで見られていたはずである。実は私も彼の欧米的な個人主
義的姿勢に好感情は抱いていなかった。力や技があれば、どこの世界でも
一流で通じるのは道理ではあるが、日本の外に一歩出たら日の丸を背負う
のは当然であるという観点からは評価できないと思っていた。しかし、今は
彼の心に厳然と芽生えた日本が強く鎮座している。この彼を嫌うことは私に
は不可能である。

 こういうイチローの気持ちは、かつての日本にあった和の共同体精神その
ものに限りなく近いものだと思われる。これは、日本人の行動様式にかつて
は普遍的に見られたもの、つまりは、長幼の序を中核にした「和を以って貴
しと為す」という、あの十七条憲法の精神である。日本という国は、人々が
心を合わせたとき、もっとも巨大な潜在力を発揮できる国なのである。この
民族性向はいつの時代でも自然な形で発揮してこそ、日本人本来の力と秩
序が形成できるのである。然るに、戦後、時の経過を経るにしたがって、こ
の結束力は融解し、あらゆる社会から結束力の解体現象が生じている。つ
まり、アンバンドリングである。すべてのものがアンバンドリング、すなわち発
散の方向に向かい、共同体的結束力が壊滅状態に瀕してしまったのであ
る。このために日本人の産業的パワーや経済力はもとより、独自の文化を
創出していく力さえ地に落ちてしまった。

 日本が無理やり身にまとうこととなった、米国的民主主義の方向性は、国
民精神のアンバンドリングとして民族を衰退に導いた。戦後の日本は、その
民主主義のベーシックに流れる近代主義というものの本質をよく見極めずに
単純な形で導入した。それは、自らが長き間にわたって培った精神のバンド
リング、すなわち国民的共同体意識を放擲してまで導入に値するものなの
かどうかをまったく考えずに60年の歳月を費やして今日に至った。その結果
がどうであったのか。これは言うまでもないことだが、すでにはっきりとした
マイナスの結果が出ているのである。すなわち、個々の人間からも、社会か
らも、社会の総体と言うべき国家からも、一様に「国柄」というものが抜け落
ちてきたのである。すなわち、醜くゆがんだ個が突出して、公が崩壊したの
である。

 日本の国柄、それは日本を日本として性格づけるすべてのオリジナルな
特徴を言う。米国が中心となって進める経済イデオロギーは新自由主義と
呼ばれるものである。これは平たく言えば、市場原理主義による世界の均
質化を志向する一つの思想である。これはターゲットにするすべての国家
の独自構造を解体に導く危険な本質を持っている。この単色で無機的、優
勝劣敗構造のグローバリズムを取り入れた世界に生きる人間は、否応なく
先祖伝来のライフスタイルを保つことができない状況に置かれ、そこには人
間として生きる本来の自然な状態さえ望めないという機械論的な性格に彩
られた社会しか選択の余地がなくなるのである。これは実質的な破壊その
ものである。            
                                                            
 話を野球に戻すが、イチローがWBCに賭けた、いわゆる「彼らしくない」情
熱の正体は明らかに日本人としての祖国感情である。それは今の日本にも
っとも欠落しているベーシックな感情体系であり、その精神は民族共同体意
識から来ている。イチローが奮起してこの感情を鼓舞したことによって、チー
ムが一丸になり、対韓国第三回戦では、本来の実力を十分に発揮できたの
である。イチローが行ったこの感動的な共振作用は、日本人の共同体意識
のアーキタイプ(原型)とも言える祖国感情、郷土愛感情を呼び覚ました。イ
チローは本物の国際人になったのである。

 近代史において、日本人の精神のバンドリングがもっとも顕著にあらわれ
た歴史的事象とはなんであろうか。それは大東亜戦争である。特に対米戦
末期における日本人の精神的結束は世界の常識の範疇を超えていた。
そういう精神の位相からも、あの戦争の意味を汲み取ることは重要である。

 それはともかく、イチローよ、明日のキューバ戦でも強い共振作用を起こし
て、オールジャパンを奮起させ、世界一になってくれ。

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2006年3月 6日 (月)

小泉構造改革は国家を脆弱にする

世界各国の実力野球選手が覇を競うWBC(ワールド・ベースボー
ル・クラシック)が開催された。この競技に松井秀喜は出場しなかっ
た。これにイチローが激しく怒ったそうである。たかが野球、たかが
娯楽スポーツじゃないか、そんなことにしゃかりきになる必要はない
のじゃないか、と言ってしまえば語弊はあるかもしれないが、それ
でもWBCをボイコットした松井を怒るイチローの心根には正直うれ
しい気持ちになる。

 五輪にしても、ワールド杯にしても、国を背負って戦うことに意味
があると思っているからである。荒川静香選手の、日の丸国旗を手
にした「凱旋氷上パフォーマンス」を、NHKが故意に放送しなかった
ことが象徴しているように、政府も含めて今の日本には、おしなべ
て国家意識が薄弱化しているのである。国家意識の消失傾向は、
大東亜戦争贖罪史観及び戦争忌避感覚の究極的な帰結として生
じたものである。

 今回のトリノ・オリンピックでの惨敗も、コーチや選手、そして現政
府に国家意識が薄れたことが大本の原因であると自分は思ってい
る。もう一つは、小泉内閣の強引に押し進める構造改革によって、
企業モラルには社会性が欠如し、市場原理のみでコーポレート・ガ
バナンスを行う風潮が蔓延したことにある。企業には利潤追求とと
もに、社会を堅実に営むための手助けを行うという、いわゆる企業
責任もあると思う。それは企業でできる社会貢献、社会福祉である。
このような日本的な企業風土や美風がすっかり廃れた社会にあっ
ては、当然ながら企業精神に国家という観念はなくなる。

 従って、企業に国家意識がなくなれば、世界的に通用するレベル
の能力を有したオリンピック選手やスポーツ選手を育てて国際舞台
に送り出そうという意欲がなくなる。今までは、会社名を背負った抱
え込みの選手が活躍すれば、企業自体の名誉とともに抜群の宣伝
効果が得られるという二重の効果が期待できた。しかし、新自由主
義的な構造改革の余波で、企業は宣伝効率のよいマスコミ媒体を
使うことしか考えなくなってきている。当然、オリンピックなどはメダル
を獲れる可能性に賭けていては宣伝効率が悪いし、スポーツに金を
かけることが無駄なものという意識が出てきている。従って、選手が
のびのびと実力を鍛えるフィールドがなくなってきているのも事実で
ある。これは企業の考え方に如実に国家意識が欠落したことの一つ
のあらわれと言える。

 フィギュアスケートなども、荒川が金メダルを獲り、浅田真央などの
人気も相俟って、選手を育てる機運が高まってきているが、決定的な
問題が生じている。それはスケートリンクが急速に全国から消えてい
るのだ。これも、間違った方向性を持つ構造改革を進めたために社
会に余裕がなくなって経済的な維持が出来なくなったからである。リ
ンクの経営者たちは利用者の激減で採算が取れなくなったと言うが、
一般利用者自体も遊技やスポーツに金をかける余裕がなくなってき
ているからである。

 「小さな政府」とはリカード、フリードマンなどの新自由主義(新古典
派)経済学からきているが、要は、政府の影響を極力狭めて、市場の
自由性にすべてを任せようとする考え方なのである。自由市場に高
度な調節機能、すなわち神の見えざる手が働いているというアダム・
スミス以来の考え方である。しかし、素人の自分が考えてみても、こ
の流れには違和感がある。難しい経済原論では説明できないのだが、
市場と自由が強力にリンクした場合、社会という枠組みが、金銭や証
券至上主義に特化されてきて、社会規範や伝統的観念が押し殺され
てしまうところにこの経済の最大の欠点がある。つまり、簡単に言えば、
経世済民思想とは対蹠的な方向性を持つ非人間的な改革と言えるだ
ろう。この捉え方を敷衍すれば、人間の幸福原理を市場経済のみに収
斂させ、そこには公徳観念や公益性などいう領域は消滅してしまうの
である。公益性の最大級の消滅とは国家概念の崩壊なのである。マクド
ナルドやポップコーンを食うことにしか幸せを感じないどこかの大国と同
じレベルに成り下がっていいのか。ルソー的な革命哲学を究極まで煎じ
詰めるとああいった馬鹿国家になってしまうのである。

 小泉-竹中路線が進めている現構造改革の方向性と内実は、今述
べた新自由主義の欠陥を最大限に内包した欠陥改革なのである。こ
の構造改革を押し進める竹中平蔵の言い分は、構造改革路線に批判
的な者すべてを、「抵抗勢力」と断定し、自分たちが進めている構造改
革を蓋然的に正義の改革であると強弁していることである。この間のテ
レ朝のサンデープロジェクトでも、経済学者・内橋克人氏が、「今の構造
改革は弱者切り捨て、強者優先である」と投げかけたところ、竹中は激
高して、「抵抗勢力はすべてそういう言い方をして既得権益を守る」など
と見当違いのことを言ったらしい。

 小泉構造改革の本質とは、日本社会をアメリカ型のシステムに置き換
える政治的な作業なのである。つまり、故意に格差社会を構築する構造
の「改悪」なのである。たかがスポーツ、されどスポーツであるが、今の
社会構造、雰囲気のままでは、何も熟慮しないで暴力的に行う「小さな
政府」思想のおかげで、選手たちは国際社会で活躍できる実力を養え
ないだろう。国民が当然のように楽しんでいたスポーツの世界にさえ、
小さな政府の悪影響が波及しているのである。国民生活にもたらすこ
の構造改革の直接的な影響は、一般家庭や、中小零細企業に死活的
な破壊を起こしているのである。わずかな国民や一部の大企業ばかりが
極度に潤い、大多数の国民や中小零細企業が塗炭の苦しみに喘ぐ構造
社会、はたしてこれがまともな国家と呼べるのだろうか。「国家」とは国の
家と書く。国という家庭に住む一億数千万の大家族が、互いに助け合
わずに兄弟姉妹、親子、孫などを犠牲にして弱肉強食を目指したら、家
庭が円満に存続できるわけはない。

 しかし、小泉・竹中という稀代の売国奴たちが目指す日本はそのよう
な日本なのである。とにかく、小泉・竹中路線を存続させれば存続させ
るだけ、日本は奈落の底にまっしぐらに突っ走ることになるのである。
東西冷戦構造が崩壊し、世界は共産主義の無力性を認識した。しかし、
それに代わって台頭してきたのが、資本主義のいびつな申し子である
新自由主義であった。日本人が錯誤を犯した最大の見方は、共産主義
と日本型共存システムを同列視して、伝統的な「和のシステム」を駄目
な方式とみなしたことである。この結果、小泉たち国賊が進める新自由
主義に経済の活路を期待するというとんでもない間違いをやらかしたの
である。すなわち、ケインズ的な要素は共産主義の悪夢としてすべて否
定するという歴史的な錯誤に陥ったのである。グローバリズムにどうや
って適応するかではなく、このようなヤクザ型国際経済にどうやってノー
を突きつけ、一国の独立を維持して行くのかが重要である。日本がそれ
を率先することによって、他のアジア諸国に欧米型強者優先の経済に
免疫性と強力な抵抗性を示し、模範となる姿勢が望ましい。このまま行
けば大東亜戦争以前の白人覇権の世界に逆行することになる。

 この観点で、他のどの国にも脅されないでやっていくためには、日本
は国軍をきちんと有し、核武装を整えるべきである。軍事的に弱いから
いつまでもアメリカの属国から抜け出せず、シナには舐められるのであ
る。まともな軍隊がない国にまともな経済国家を期待すること自体に大
きな無理がある。アメリカに言われて改憲するのは間違いである。やる
なら核武装まで睨んで、一気に廃憲し、明治憲法を復刻してから新憲法
を造るべきである。命のないパシフィズムは日本人の魂を蚕食するだけ
である。日本人よ、日本刀の美しさをよく噛みしめて、凛とした自尊の心
持ちを思い出せ。

 日本は小泉的な魑魅魍魎に揺曳している場合ではない。

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2006年3月 3日 (金)

小泉を信じる者は自分の良心を疑うべし

 自民党がここまで執拗に永田議員や民主党の首を絞めにかかるの
は対党姿勢から言えば当然のことである。しかし、それにしても表面
に出てがなり立てている逢澤自民党幹事長代理は、猿侯(おんこう=
猿のこと)のように品格のない下卑た顔である。弱った相手をサディス
ティックにこれでもかと責め立てる逢澤の顔はまったく醜い。(まあ、
こいつは嫌いなんだの一言でいいのだが)

 逢澤は、あの3人のイラク人質事件の時、中東に赴き、格好だけつ
けて何の政治的な仕事もなし得なかった無能な人物である。そんな奴
が、まるで鬼の首でも取ったかのごとく猿顔の歯をひんむいて意気猛
々しく永田を責めている。醜いことこの上ない映像である。本来ならば、
党首の小泉純一郎が堂々と民主党の非を言うべきであるが、奇妙な
ことに彼の物言いは豆腐のような柔らかさだ。一応、形としては逢澤
みたいな下っ端の小間使いみたいな奴に民主党攻撃をやらせておい
て、これ以上、発火物を出さないようにしたい意図が見え見えである。
小泉周辺の自民党員に深刻な後ろめたさがあるのは間違いないだろ
う。

 自民党は余裕綽々で民主党に寛容な姿勢を示しているのか、それ
とも、逢澤の猿攻撃に輪をかけて突っ込みすぎると、藪を突っついて
蛇を出すことを恐れているのかのどっちかだろう。おそらく後者だろう。
小泉自民党と堀江の関係性に拭いがたい胡散臭さがつきまとってい
るのはもはや常識だろう。

 メール騒動でドタバタしていたら、いつの間にか一般会計予算案が
通過していた。国民の血の結晶である税金の使い道、内訳の審議を
まったく国民に見せることなく知らないうちに通過させてしまった。議
会制民主主義は、国民の代表が国会で大事な懸案を必死で審議す
るところに本分があると思っているが、これではその機能が死んでい
るに等しい。

 多くの国民は小泉政権の奸佞をなぜ見抜けないのだろうか。小泉
政権の本性とは、占領当初のマッカーサーGHQの占領統治体制の
再構築なのである。その政策骨子はすべての日本的なるものの廃
止にうち立てる、民主主義社会と言う名目のアメリカ型インフラ、そし
て天皇制度の撤廃なのである。今、日本人はまともな政治家を見つ
けたいと思ったら、その指標を「反米」で見抜くしかないのである。日
本が陥っている問題のすべての元凶はアメリカの対日画策にある。
現在進行中の構造改革も日本のためではなく、アメリカ国益一辺倒
のベクトルを持っていることを認識するべきである。小泉の任期はあ
と半年ほどであるが、この間に気をつけないと女系天皇容認の皇室
典範改正案が成立する可能性は十分にある。とにかく、これだけは
なんとしても阻止しなくてはならないだろう。

 日本人の性向として、付和雷同的に一つの方向にワーッとなだれ
込んでいくことが多々ある。これが良い振り子現象として働けばいい
のだが、悪くするとレミングの集団自殺みたいな自滅的な爆走をしか
ねないダイナミズムを産むこともある。私はいずれそういう大きな動き
が起こると考えている。日本人の振り子的な揺動が、今度は反小泉
に動くとき、よく覚えておいた方がいいことがある。

 それは現政権で小泉マンセーを叫んで自己保身しているような政治
家は日本を建て直し、先祖の意志を継続していく力などまるでない、寄
生虫のような存在であることを知るべきである。反小泉の幕開けが起
きたとき、郵政民営化に諸手を挙げて賛同した政治家連中は意識的に
排斥する必要がある。それでなければ、日本はアメリカのよこしまな奸
策からいつまでも逃れられずに民族の生命を衰弱させていくだけである。

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2006年3月 1日 (水)

ホリエモンは米国統治の象徴である

 宮崎学氏編集の「直言」の中で、経済学者の植草一秀氏が次のように
言っている。

重大なことは、ホリエモンが小泉政権の「改革」政策の象徴だったことだ。
昨年9月11日の「刺客」選挙で小泉政権はホリエモンを全面支援した。竹
中総務相は「改革は小泉純一郎とホリエモンと竹中平蔵がスクラムを組ん
でやり遂げます」と絶叫していた。ホリエモンが象徴していたのは、「弱肉
強食」、「拝金主義」、「外資優遇=対米隷属」、「市場原理主義」、「格差
社会」だった。

    http://web.chokugen.jp/uekusa/

 小泉純一郎が進めている構造改革は、植草氏が述べているように拝金
主義、対米隷属、市場原理主義である。この構造改革の本質を一言で言
ってしまえば弱肉強食である。戦後から六十年、この間の日米関係を俯瞰
するとある一つの見方が浮かんでくる。それは戦後の日本が時間を経るに
従い、徐々にあるいは急激に日本の伝統や心持ち、日本的共同体の心を
失ってきているのは、戦後日本人の自覚的な生き方にその原因を求める
ことも必要だと思うが、内在的な原因とともに、外在的な原因も重要な視
点であると思う。

 日本人がこれほどまでの精神な退嬰を起こしてしまった外在的な主原因
とはいったいなにか。それはズバリ言って米国の対日画策である。我々日
本人は、東京裁判史観の催眠から目覚めかけた者でも、現在にいたって
も、まさか米国による日本解体が今持って進行中であるという意識は持っ
ていない。しかし、もう本気で日米の実態を見定めなければならないだろう。
「年次改革要望書」と言い、BSE問題と言い、米国は戦後の長い間行って
いた対日間接統治をやめて、最近は直接統治に移行してきた事実を自覚
しなければならない。

 米国による直接日本統治と言うと、そんな馬鹿なと思うかも知れないが、
直接統治の「直接」の証拠は、小泉純一郎と竹中平蔵が核となっている現
政権なのである。小泉の日本破壊の狂気が何に基づいているのかはよくわ
からない。しかし、竹中平蔵の場合は、ハーバード・シンジケートなる米国対
日謀略機関の尖兵であることは間違いない事実
であり、竹中の構造改革思
想や経済改変が小泉政権の枢要と言い切っても間違いないだろう。小泉政
権が日本のための政権ではなく、米国の傀儡政権であることはさまざまな
政策意図に顕著に見られる。

 たとえば、世界でいち早く米国のイラク侵攻を指示したことと、国論を無視
して自衛隊をイラクに派遣したこと、派遣期間をこれもまた国論無視で延長
したことなどは、間違いなく米国による直接統治そのものであり、このような
国家の一大事に主権的思想は介在しなかったことがそれを物語っている。
イラク戦争とは戦争ではなく、あれは米国による一方的かつ全面的な侵略
である。イラク側からすれば暴虐な侵略にやむなく対抗した戦いであった。
このように国際的な大義のかけらもない侵略に、有無を言わせず日本を組
み入れてしまったのも米国の意のままに動く小泉政権がもたらしたことであ
る。
   
 BSE問題でもわかる通り、米国は日本人の神道的潔癖性から来ている全
頭検査を頭ごなしに無視して、米国流の検査方式を堅持したまま牛肉の輸
入を強制し、それをやむなく受け入れた日本に、輸入再開一ヶ月で、今度は
取り決め無視の背骨混入の肉を輸出するという杜撰さを示した。この理不尽
な米国の姿勢に見えるものは、日本を植民統治しているという露骨な米国
の意識である。「年次改革要望書」も間接統治的な押しつけではなく、堂々
と公開されていることからすれば、あれは直接統治の一つの型である。

 小泉政権が直接米国統治政権、すなわち傀儡政権であることは、ホリエ
モンの持ち上げ方を見るとよくわかる。今、騒がれている送金指示疑惑メ
ールなるものは、メールの真贋よりも、堀江と小泉派自民党の金銭がらみ
の結びつきと裏社会の結びつきの、いわゆるトライアングルの巨大疑惑を
国民に知らせたことに意味がある。山崎行太郎氏も言っていたが、ことの
本質を提起した永田議員の自爆的行動は、大きな意味で小泉政権の反国
家的意図を白日の下にさらすということでは非常に勇気のある行為である
と言える。民主党員には二種類の人間が居て、旧社会党的なアカの流れ
と、旧自民党に背を向けた比較的良心的な保守層がいる。小泉にはめら
れて党籍を離脱した西村眞悟氏などはその良心派議員層の代表格であ
った。今回の送金指示メールは、ガセネタですいませんでしたで終わって
はもらいたくない。民主党はめげずに小泉自民党の巨悪を掘り出してもら
いたいものである。自民党は一応非難めいたことは言っているが、その印
象はこれ以上この問題は続けないで欲しいという意向が明白である。彼ら
の顔にはやましさがありありと浮き出ている。

 本質的な問題は、武部幹事長が堀江を自民党のマスコットに仕立てよう
としたことに凝縮されている。ホリエモンとは、宗主国なるアメリカが日本を
どういう国に仕立てようとしているかを物語る端的な象徴的人物なのであ
る。堀江の世界観はあまりにも単純でわかりやすい。すなわち、この世は
老人や伝統や国家などは阻害要因であり、もちろん天皇などは不必要で
ある。日本の理想的国家形態は虚業マネー集団が跋扈する株取引社会
にするという発想である。堀江とは、市場原理主義を名目とした、歴史の
連続性を無視した享楽的金銭至上主義者であり、あらゆる革命理論の産
みの親であるジャン・ジャック・ルソーも舌を巻く単純さ、明快さの革命家な
のである。アメリカの理想的市民の良きモデルであり、左翼パラダイスに生
きる指標的人物として格好のモデルなのである。

 武部たちの嘘を国民はきちんと見抜いて欲しい。武部や小泉が、ホリエ
モンを、ただ郵政民営化に賛同する経営者だったからあの時は応援をした
などと言っているが、それは大嘘である。ホリエモンこそ小泉竹中構造改
革の理想化されたモデル的人物なのである。竹中-小泉が進める構造改
革路線は、アメリカが日本に強制的に導入しているフリードマン的新自由主
義であり、その経営者的理想像としてホリエモンを持ち上げたのである。小
泉たちは、構造改革が目指す日本解体による新自由主義的な世界を率先
する象徴的な旗手として堀江貴文を掲げたのである。

 小泉政権のこの姿勢は反国家的であり、武部が堀江を「わが息子、わが
弟です」と言ったことは決して軽視してはならない。この言い方にこそ、小泉
政権の危険な思想性が顕著に現れているのであり、それは許し難い反国
家的姿勢なのである。もっと言うなら、このことは日本が直接的にアメリカ
統治に移行している現実を物語っているのである。堀江は数冊の本を出し
ている。その一冊でも読んでいたなら、彼の単純明快な世界観が手に取る
ようにわかる。それを踏まえても彼を応援した小泉自民党は、自身も堀江
と同じ世界観に立脚していることがありありと見えているではないか。たと
え、小泉たちが、堀江人気に乗じて若者票を誘因させるだけの魂胆であっ
たとしても、当然ながらその人物の品格や思想(世界観)を調べたはずで
ある。その結果が問題なくOKなのであるから、武部たち現政権は堀江と
同根の世界観を持っていることを端的に示している。

 武部と堀江の関係を深くえぐり出して、小泉自民党が持つ反国家的な本
質を暴き出すべきである。
 

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2006年2月23日 (木)

ああ民主党、なんというお粗末さ

 ああ民主党、なんというお粗末さ

  民主党の永田寿康議員が爆弾提示した、堀江社長の送金指令
メールは偽物であったようだ。実際のところ真贋はわからないが、
確認するすべがない以上、偽物と断定されても仕方のない状況に
陥ってしまった。しかし、民主党はなんという稚拙さであろうか。国
家の破壊者である小泉自民党は、 昨年末以来、耐震強度偽装事
件、ライブドアの証券取引法違反事件、アメリカ産牛肉のBSE汚
染問題、さらには防衛施設庁の談合などの逆風四点セットで弱り
目にたたり目であったが、永田寿康や前原党首のポカで、ほんの
わずかに息を吹き返して来た感じがする。

 それにしても、永田があっけらかんと言い放った次の言葉には
呆れて涙が出る思いをした。期待値を高くした自分が悪いのか。

「そうり、どのような条件をクリアしたら真生のもの
認めることができるのか知恵を貸してください。」

 戦いを仕掛けている当事者が敵方に、「どうやって戦ったらいいのか
教えていただけますか?」と永田は訪ねたわけである。開いた口がふさ
がらないとはこのことだ。なんなんだ、この議員は???

 亡国を推進する小泉政権を牽制し、暴走を防がなければならない
野党第一党の民主党はあまりにも稚拙でだらしがないことが白日
の下にさらされてしまった。こんな体たらくだから、昨年の郵政民営
化総選挙に負けてしまったのだ。まさにごった煮政党の悲劇である。
問題は暴走機関車のブレーキとなるべき民主党がこのありさまでは、
小泉政策の危険性が格段に跳ね上がる可能性をもたらしていること
にある。こんなことでは、国家破壊しか考えていない小泉が、残り少
ない任期を踏まえて何をやらかすかわかったものじゃない。

 逆風四点セットと女系論反対の機運で、小泉の狂気の炎が少しは
弱まってきた大事な時なのに、永田は馬鹿なことをやってくれたもの
である。第二の楢崎弥之助になるのはいいが、相手に致命傷を負わ
せないで必ず自爆する攻撃をして何になる。堀江と武部らの金銭が
らみの癒着はいかにもありそうなことである。ありそうなことと、実際
に確証をつかんでいることとはまったく違うことである。永田は軽挙妄
動そのものだ。党や国民に迷惑かけたなどというレベルではない。こ
とは重大である。永田や前原が辞めればいいという問題ではない。こ
れで小泉自民党に、あの狂気の総選挙時のような勢いが盛り返した
ら、それは計り知れない国家的毀損を進めてしまうのだ。自民党にい
いように虚仮にされ、党の方針も定まっていないような民主党には存
続する価値がない。

 小泉自民党がやらかした郵政総選挙は、議会制民主主義の崩壊
である。これを糺す役柄である民主党が、無責任な行動を取ってしま
ったことは、これも議会制民主主義を疑念にさらすことになってしまっ
た。このあとの小泉の動きであるが、消えかけた火にガソリンをかけ
るようなことにならなければいいが。

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一連のホリエモン騒動と小泉政権

 一連のホリエモン騒動と小泉政権

 今世間を騒擾(そうじょう)させているライブドアの事件は国民の予想
をはるかに超えてすそ野の広い展開になってきた。ライブドアと裏社会
との関係や、現政権と堀江との癒着構造が見え隠れしてきている。堀
江からと言われる送金指令メールの真贋が今焦点にのぼっているが、
武部に堀江から金銭の授受があったのかということが、国民のもっと
も知りたいことであろう。昨年のあの忌まわしい郵政民営化是非選挙
で、堀江と武部らの間にギブアンドテイクという関係があったのは否定
しがたい事実である。

 その際、堀江から幹事長の武部に金が流れたのかと言うなら証拠や
当事者の証言がなければわからない。しかし、堀江が大与党である自
民党のお墨付きを喉から手が出るほど欲していたとすれば十分にあり
得る話である。ギブアンドテイクが五分五分のものでなかった場合は、
不足分を堀江が金で支払ったことはあるのかも知れない。堀江にしろ、
小泉にしろ、武部にしろ、竹中にしろ、彼らには系統だった思想性など
はまるでない。思想性が皆無であることが小泉たちの唯一の「思想」な
のである。

 そういう意味ではホリエモンと小泉は明らかに仲のいい親子兄弟なの
である。違う部分は、堀江は露骨に金銭至上主義者であり、小泉たち
は国家破壊を目指していることであろうか。いずれにしても亡国感性で
は同じ穴の狢(むじな)である。おそらく彼らは、新自由主義経済が何で
あるのかとか、歴史や伝統に則した国家観が何であるのかなどというこ
とはまったく考えていないに違いない。両者に共通する悪質さは、国家
という観念を持たないどころか、憎んでいる様子が見えることである。小
泉には国家観が異常に希薄である。そのためにまったく日本のグランド
デザインが描けないのだ。この政権が悪質なのは、国家展望を持たな
いことに起因する。言葉を換えて言うなら、それはインチキ政権なので
ある。愛国とは対蹠的な嫌国的自滅政権である。小泉純一郎とは、東
京裁判による戦争贖罪史観が極限的にバイアスした結果、国家自滅
の意志を持ってしまった戦後最悪の宰相なのである。

 小泉の政治姿勢は、ただ、アメリカの命じるがままに日本を構造変換
すれば、国家の解体が早まるという破壊的意図だけで築き上げられて
いる。その基本的な想いは、日本ではなく、朝鮮半島(韓半島)に由来
しているのかも知れない。過去、日本を売国する施政を打った宰相は
何人かいたが、小泉の場合は彼らの売国意志の総括として登場した
確信犯的な日本破壊者としてのメンタリティで貫いている。そういう意
味ではこの男は平成の大妖怪である。この男が一分一秒でも宰相の
座に居座れば、それだけ日本という国家が毀損されてしまうのだ。

 話は戻るが、意外だったのは検察の姿勢である。私は、経済学者の
植草一秀氏の冤罪や西村眞悟代議士などの逮捕は、小泉政権への
反意を示す有能な政敵や経済学者を、不自然極まる理由で攻撃した
こと、つまり検察と内閣中枢が意を寄せ合って、国策捜査というものを
恣意的に行っているものとばかり思っていた。事実、そう考えなければ
おかしい逮捕劇であったことは確かである。

 しかし、今回の一連のライブドア捜査、及び社長・堀江貴文の逮捕と
その後の展開は、検察の並々ならぬ強固な意志で行われていること
が見える。このことは、小泉内閣の主導で行われていた国策捜査なる
ものが、首相周辺部の内部分裂で破綻したのか、あるいは検察の中
に国家の危機感が芽生え、良識派が勢いを得たのか、どちらかである
と思えるが真相はわからない。いずれにしても日本の深奥から危機意
識が発動し、検察の動きに反映したと考えたいものである。小泉純一
郎の存在そのものが、国家内部的な危急存亡の主因なのであるから。

 検察の動きはライブドアの不正を追及しているが、その視線の彼方
には、明らかに現政権への思想的反意が見受けられる。つまり、ハイ
エクやフリードマンの流れからきた新自由主義経済体制への拙速な方
向転換に「待った」をかける意志が発動してきたのではないのか。日本
人すべてが小泉マンセーではなかったはずなのだ。

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2006年2月19日 (日)

天佑神助(天人五衰、小泉崖っぷち)

   天人五衰、小泉崖っぷち

小泉政権が揺曳している。国家をあやうく覆滅させる寸前までその
政治手法を国政の本道から逸らした日本国宰相・小泉純一郎は、
その愚名を燦然として歴史に残すことだろう。

 そもそも日本人は性格的に、物事を白や黒、あるいはこれかあれ
かの二項対立・二値論理的なデジタル思考にはそぐわない民族性
を持つ。AでなければB、あるいはBでなければA、そういうかたちの
思考法は欧米的と言うかアングロサクソン流の思考法である。日本
人は縄文の時代から、複雑多岐にわたる森羅万象を具現した自然
になぞらえ、神道的な感性から、その心の在り方はデジタル思考よ
りもアナログ思考であり、もっと言うならば複雑系の思考形態とだ私
は思っている。

 複雑系とは言ってはみたが、私自身も皮相的な内容程度にしか
知らない分野の知識であるから、その全体像の正確な把握などと
いうレベルからはまったくかけ離れているし、断片程度の知識しか
ない。もっとも複雑系はミクロ・マクロレベルでもすっきりとした形で
は見えない学問であるのだが。ユークリッド幾何学に対して非ユー
クリッド幾何学(たとえばリーマン幾何学などの曲面幾何学など)
があるという単純な理解のみで複雑系を考えている。言いたいこ
とは、欧米人が歩んだ近代主義というものはニュートン力学と同
様に線形的でわかりやすく、日本人がその長い文明とともに培っ
てきた伝統的かつ神道的な思考感覚は、非線形的ですっきりとし
た形ではわかりにくいというほどの意味合いで使っている。

 だが悲しいかな、戦後60年を経て日本人の思考形態はアメリ
カ人に似てきて、その心は非常に「わかりやすく」なってきている。
戦後、アメリカをモデルにして、そういう西洋近代主義に則った、
努めてわかりやすい教育を受けてきた成果が効果的に出てきた
からである。日本人がおしなべてデジタル思考になってきたのは、
テレビの地上波がデジタル放送になったり、パソコンや携帯電話
が進歩したせいもないとは言えないだろうが、十中八九戦後教育
のたまものである。

 奥ゆかしさや控えめという公的な徳目を馬鹿にして、俺が、私が、
という個人主義を標榜した醜悪なミーイズムが跋扈した今日、日
本人はその奥深い思考形態も影を潜め、すっかり二項対立に陥
ってしまったのである。これはアメリカ・マンセーの戦後知識人に
とっては願ってもない状況になってきたとも言えるのだろうが、困
ったことに行政の長であり、国家の頂点にある宰相たる人間が、
この短兵急な短絡思考で国策を遂行するという非道い状況に今
の日本は置かれてしまったのである。悠久の歴史時間を有する
日本人が、享楽性しか持たない新興国家アメリカの軽薄きわま
るメンタリティに汚染されたことは国家的な危機そのものである。
戦後教育の大失敗としての現象的象徴こそが小泉純一郎その
人である。   

 まだ記憶も新しい昨年九月の郵政解散総選挙で、小泉は「郵
政事業民営化に賛成か反対かどっちだ?」と、傍若無人に国民
に問いかける選挙を行った。日本の宰相が軽薄な二項対立解散
総選挙を行ったら世も末である。明治から続いた郵便事業に官
僚的な腐敗はあるにしても、そのことをもって郵政を全否定する
根拠にはならない。ましてや、アメリカの年次改革要望書に沿っ
て郵政民営化を強行し、国富を外資や海外ファンドに無防備に
さらす法案を実行するなど売国的国策そのものである。

米百俵の空々しい故事を言って、国民に無駄な我慢を強い、そ
の結果が毎年三万人の自殺者を出しても平然と厚顔無恥を貫く
この小泉という男は許し難い国賊的宰相である。竹村健一が好
意的に言っていたが、今、海外からいろいろなファンドが郵政資
金に殺到しているそうである。その名目は「日本人は金の運用
が下手だから我々が上手く運用してあげよう」だそうである。こ
れが好ましい状況なのか。酒販組合事務局長の背任横領事件
では、イギリスの得体の知れないファンドに投資して144億円が
露と消えた。郵政資金がそのような顛末をたどらないと小泉・竹
中が保証したのか。そういう危険性を防ぐために民営化に待った
をかけた誠実な政治家たちを排斥してしまうという、狩猟民族も
かくありなんという冷血な手法を実行した。それは、民営化に賛
成か反対かの極端な二項対立をしつらえ、すべての反対者や
留保者を、抵抗勢力として一蹴するという暴虐な手法であった。
国民は小泉の邪心を見るべきであろう。

 郵政の勢いに乗じて小泉の奸佞邪知はまだ続いた。この悪た
れ宰相は、皇家の聖域にもメスを入れようとしたのである。アカ
っぽい有識者を集め、皇室典範を女系天皇肯定論で押し通そう
とした。日本の聖域であり、伝統の中心である皇統に、成り上が
りの一介の宰相がわずか30時間の審議で拙速に決めていいわ
けはない。不遜きわまりないことである。政治は俗の領域である。
俗の領域で皇統の神聖を安易に決めていいはずはない。小泉は
この国会でなんとしても成立させると意気込んでいたのである。
ところが秋篠宮姫である紀子様ご懐妊の知らせを受けたとたん
に小泉の論調が180度変わって慎重派に転じた。この男は「私
はもともと慎重派なんですよ」と厚顔にもうそぶいたのである。
何が慎重派だ。党議拘束をかけて今会期中に成立させると強
弁していたことを覆して白々しい限りである。小泉の魂胆は、典
範改正の反対派を標的にして、またしても得意の二項対立を掲
げ、反対者には脅しをかけ、国民には郵政民営化時のようにマ
スコミを利用した単純な詐話を武器にして、強引に成立にもって
いく算段だったはずである。本質から離れたところに問題をすり
替え、皇室民営化賛成か反対かという論調にするつもりだった
のだろう。この男には聖も俗もなく自分は皇室でさえ変えうる力
があるのだという不遜きわまりない傲慢さを示したのである。

 小泉の強引さが通らなくなったきっかけが、紀子様のご懐妊で
ある。この悪辣な宰相が日本の霊的な中心まで破壊しようと目
論んだとたんに、皇室内で男系皇孫ご誕生の可能性という一大
吉報がおとずれたのである。これは亡国の宰相・小泉によって
確実に滅びに瀕した日本に神風が吹いたようなものである。紀
子様がたとえ内親王をお産みになられても典範の拙速な改訂は
当面免れたのである。天佑神助とはまさにこれを言うのであろう。

 戦後とは、日本神話の全否定から出発している。今、亡国の宰
相・小泉純一郎が、我が国を完全なアメリカ型に改変しようとした
ことは、この日本から神話的要素を完全撤廃するということである。
端的に言えば、それは皇統の廃絶なのである。私は小泉が朝鮮
的なメンタリティを持っていて、日本的なものすべてに対して嫌悪
感を持っているように見えてならない。アメリカ的な社会システム
への改変意志も、それはアメリカを見習ってのものではなく、単に日
本破壊の有効な手段としてやっているような感じが見える。日本
国民は最悪の宰相を戴いたのである。このような最大級の内部
的な危険を抱えた今、秋篠宮家に生まれる御皇孫がもし男子で
あったなら、この国家危急存亡の時宜に鑑みて、それはこの日
本に神州不滅の神話がふたたび甦ることを顕彰することになる
だろう。皇室の危機を脱却することと、新自由主義の荒波から国
民が回避することが重なれば、日本人にはふたたび天皇と臣民
の紐帯が強く結ばれる。そのことは日本人が新たな生命を取り戻
し、同時に民族の自己同一性を確かなものにすることにつながる。
時代の危機をバネにして我々はそのように進むべきであると思う。

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2006年1月23日 (月)

戦艦大和(11)◎形に顕現した民族の美意識

   形に顕現した民族の美意識 

 さて、件の映画の話に戻ろう。この映画の圧倒的な価値は大和の
実物大スケールの模型にこそあるのだ。戦艦としての大和は、比類
のない超弩級型バトルシップとして世界の海軍史に屹立しており、
それが実写スケールで銀幕に再現されたことは、戦後史上、真に画
期的なできごとと言ってもいいだろう。この映画の価値は、戦艦大和
自体が強いメッセージ性を持っていることにより、それを実物大のスケ
ール・モデルで撮影したことが、戦艦大和という存在の重量感や具
体性を、きわめて現実的に再現して人々の眼前に出せたことにある。

 戦艦大和の威風堂々とした存在感、そして船形の優美さは、簡単
に言ってしまえば、それは「日本」というメッセージなのである。角川
春樹氏がこの作品にかけた意気込みは、氏自身が撮影した冒頭シ
ーンにおける、海底に沈む実物大和の菊の御紋章の映像に現れて
いる。彼は語っている。

「海底に沈む実物大和の菊の紋章の映像は、私が撮影したもので
す。それを実際目の前でみた時からこの映画を“つくらされている”
ような、魂に導かれて出来た映画だと思っています。」
と語ったよう
に、入魂の心境で製作に取りかかったようだ。この映画の物語性、
史実性は重要ではあるが、登場人物に主眼を置く映画作品という
ものは、監督や脚本家の表現主体をどこに見ているかで、その意
味や客観性は大きく異なってくる。だから、登場人物の内面や行
動様式の表現は、史実的客観性というよりも、作品を書いた原作
者の着眼性、歴史観などが如実に表れ、それは一つの文学作品
というジャンルのフィクションを構成している。今回の「男たちの大
和」にしてもその例外ではない。

 しかし、今回の映画の出来栄えは、文学作品としての映画とい
う枠をはるかに超え、解釈の相違の余地のない、実物大の大和
の映像そのものが、明らかなメッセージとしての史実性を持つこ
とにこの映画の真骨頂がある。戦艦大和の実物大模型を使用し
たことで、大和自体の存在感に圧倒的な真実性が付与され、そ
のことが観る者に強いメッセージを訴え掛けてくる。大和の船体
そのものが、バトルシップという専門性の高い船の機能美を超え、
「日本精神」そのものが形として様式化したような感じがある。
大和は艦体自体が明らかに強いメッセージ性を持つ。この着目
に賭け、これを映画という手法によって世間に問いかけた角川
春樹氏の一世一代の思惑は、非常に有意義な仕事として高く
評価する必要はあるだろう。

 難しいことを言うつもりはないが、もっとも単純な事実として、
戦後、戦艦大和はなぜかくも不動の人気を保ち続けているの
であろうか。自分の年代が小学生、あるいは中学生であった
ころ、プラモデルで圧倒的な人気があったのは、零戦と戦艦
大和であった。戦艦にしても、戦闘機にしても、他に多くの存
在があったのだが、だんとつに人気があったのはなぜか零戦
と戦艦大和であった。特に戦艦大和は飛びぬけて人気があっ
た。小学生であった自分が当時、戦艦大和に心を昂揚させた
のは、それが体現する圧倒的な性能だけであったのだろうか。
性能だけが魅力の根源だとしたら、外国の戦闘機や戦艦、潜
水艦などにはそれを超えているものはあったはずである。それ
でも、戦艦大和が今にいたっても、これだけの人気を保持して
いることには何か説明可能な明確な他の理由があるはずであ
る。

 大和は実戦的にはほとんど戦果らしい戦果を残していない。
建造され、無駄に待たされ、戦局が悪化してから沖縄水上特
攻作戦に出され、援護の飛行機もなく、米軍戦闘機によってむ
ざむざ撃沈されてしまった。大和は世界に比類のない巨砲(46
センチ)を装備したにも関わらず、時代は完全に航空母艦と攻
撃機のセットが戦闘の主流になっていた。軍記的に冷静に見
ると、大和は戦闘思想的には時代遅れの悲劇性をすでに持っ
て生まれた軍艦であり、ほとんどその戦闘性能を発揮すること
なく海底の藻屑と化してしまった。大和には、軍記の枢要であ
る雄雄しい戦闘シーンや華々しい戦果の物語は付随していな
い。唯一、レイテ沖海戦で戦闘したことくらいであろうか。

 当時、大和級の戦艦としては戦艦「武蔵」があったが、それ
は戦後60年を経て忘れ去られようとしている。しかし、なぜか
大和に熱い心を燃やす人間は今も後を絶たない。いったいそ
れはなぜなのか。それについて、ここ何年か考え続けてきた。
零戦及び戦艦大和が、子供や大人の心を惹きつけてやまな
い魅力は性能以前のそのフォルム(形態)にあったと思う。両
者に共通している形態としての精悍さ、優美さは、製作に携わ
った者たちが意匠的デザインや造形美を狙ったわけではない。
当時の技術者にしても、製造指針では、戦闘性能だけを考え
て必死で取りかかったに違いない。そこには機能的に意識し
たデザイン以外には、造形美学的意図などはまるでなかった
たに違いない。しかし、出来上がった零戦や戦艦大和は単な
る機能美を超えて、日本固有の造形美を醸し出すことになっ
たのである。

 (つづく)

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2006年1月17日 (火)

亡国の徒、小泉純一郎

 下記の文は、昨年、衆議院の郵政民営化を問う総選挙の9月11日に
ある掲示板へ投稿したものである。あれから五ヶ月、自分の小泉純一
郎に対する評価はこの時とまったく変わっていない。それどころか、日
増しに彼の危険性を痛感している。

  ------------------------------------------------------

      小泉純一郎は亡国の徒輩である

 小泉純一郎が進める構造改革とは、ずばり言って日本国家の構造解
体である。

 くりかえす。小泉構造改革は政府みずから行う祖国日本の完全植民
地化への布設であり、国家の完全無力化なのである。

 まず小泉の靖国参拝の公約不履行であるが、誰もが知ってのとおり、
彼は八月十五日の参拝をいまだに実行していない。実はこれは亡国へ
の踏み出しなのであるが、アメリカの対日要求の成果として結実に向か
う郵政民営化には、異常なほどの執心で日夜奮闘しているようである。
これが公約だからと再三再四繰り返している。だが、公約実行を口に
するなら最初にやっておくべきだったのは当然ながら八月十五日の靖
国参拝であっただろう。

 この宰相が、支那や韓半島人あるいは国内左翼系による参拝非難
を受け、それに対してなんと申し開きをしているかご存知だろうか。そこ
をよくこころに留めてほしい。彼は下記の理由を何度か述べている。

 『 こころならずも戦地に赴いて亡くなった方々を追悼し、                       

  不戦の誓いをあらたにするために参拝します。』   

 あるいは談話の中で、『 これは平和のために参拝するんです、二度
と戦争をしないために 』などと臆面もなく言ってのけている。よく注意し
て聞いてほしい。靖国神社には、明治維新から大東亜戦争まで、戦没
者、事変殉難者の御柱が240万あまりまつられている。小泉は日本国
の宰相でありながら、心ならずも戦地で亡くなったかたがただと、英霊
の御霊(みたま)を位置づけている。小泉は当事の、軍人として徴用さ
れ、戦死した国民や戦禍に逝った国民を、なんと、行きたくない戦争に
無理やり引っ張り出させられて、むなしくも犬死を遂げた人々であると
公言したのである。なんという恥知らずなのであろうか。これでは社民
党の思想・歴史観レベルと同じではないか。

 行きたくもない戦争に軍部の主導でしぶしぶ出かけ、死んでしまった
という言い方。これこそ紛れもないあの「階級闘争史観」そのものでな
くてなんだろう。田原総一郎なども赤紙を階級闘争史観でしか見てい
ないがこれとまったく同じ世界観である。しかも、これはかの無法なる
極東国際軍事裁判における裁定思想とまったく同じ流れから発した言
説として国民は心に刻まなければならない。「平和に対する罪、人道に
対する罪」という国際法にはない原則を急遽創出し、戦勝国が一方的
に力ずくで日本を悪の権化であると裁定した私刑のための裁判であり、
司法の理念がない人類的にも非道な裁判である。日本国家完全悪玉
史観なのである。これが世に言うところの東京裁判史観であり、今日ま
で、悠久の国史を背負った誇り高い大和民族を内部から痛め続けてい
るものの元凶なのだ。

 さて、次に彼が言った参拝理由に『不戦の誓いをあらたにするため』
というのがあるが、これも完全なる英霊毀損であり、国家的な意味にお
いても重罪である。なぜなら、国家の存立意義は防衛することと不可
分にある。国民が祖国のために戦うことは名誉なのである。だからこそ
殉国者は単なる死者ではなく、靖国神社では、一柱、二柱と数えられる
神になるのである。これは外国の宗教様式を適用することではなく、我
が国固有の戦死者を祭る形式なのである。従って、この祭礼様式は、
明治以来、日本人が日本人の伝統に従って行う連続性に基づいてい
ればいいことなのである。当事の軍人さんや銃後の国民が、左翼アカ
の言うように、いやいや戦争に狩り出された末に死んだのだと小泉は
言明しているのである。

かつてNHKのアナウンサー・堀尾正明が、俳優・今井均との対談番
組で、「特攻隊は集団ヒステリーだから」と言ったことがある。小泉の
戦死者認識はこれとなんら変わることはない。したがって、彼が戦後
60年目の終戦記念日に「村山談話」を踏襲したとしてもなんら不思議
なことではない。典型的な左翼メンタリティの宰相である。国が危急存
亡に陥ったら戦うのは理の当然である。その意識で殉国した方々に対
して「二度と戦争を起こさないように願う」などと言って拝んだら、戦死
者に対する最大の侮辱であろう。小泉は東京招魂社の存立意義を取
り違えているのである。この意味を国民が宰相に教えなければならな
いこの現実はあまりにも非道い。

 戦友同士が「靖国のおやしろでまた会おうな」と死んでいき、覚悟を決
めた軍人がふるさとの家族に、靖国の桜の下で会いましょうと書き残し
ていったことを小泉はどう考えるのか。お国のためにいさぎよく散って行
かれた人たちのまん前で、「不戦の誓いをあらたにします」などと左翼イ
デオロギーそのままの心持ちで拝殿に立たれたら、二百四十数万の英
霊たちは、心静かに安んじて居られないだろう。日本国宰相が英霊の
おやしろで、自国毀損の誓いを立てながら進める構造改革の本質がこ
の姿勢からはっきりと汲み取れるのである。 もうひとこと、これに関し
て言っておくことがある。

 あとで知られたことであるが、2002年に米国大統領ブッシュが夫妻で
来日した折り、ブッシュは日本の外務省に「靖国神社をお参りする用意
があるがいかがだろうか?」という大統領たっての打診があったそうで
ある。これが実現した場合、わが国の暗くて閉塞感にみちた戦後精神
史にとって画期的な鶏鳴となって響いたはずであった。よく聞いてほし
い、米国大統領と日本国総理大臣がそろって靖国参拝を実現させた
場合、いったいどんなことが起きていただろうか。

 戦後から今日まで、日本国民の内面を執拗に囲繞していた東京裁判
史観に風穴をあけることがことができたはずである。これが実現された
とき、日本人はその精神の負け犬根性を超克し、本来の強い生き方に
羅針盤を戻すことができたはずである。これを表現するなら、戦後精神
の抜き去りがたいトゲ、しこり、つまり戦後日本人を継続的にむしばんで
いる執拗でぶ厚い贖罪観念に、まっこうから爆雷を炸裂させたほどの効
果的なできごとになったはずである。戦後刷り込まれた詐術的捏造史観
は、すっかり日本人を意気消沈させた。戦後の経済成長はもちろん世界
史的に評価される画期的なできごとではあるが、反面、日本人は贖罪史
観の苦しさにあえいでいて、そこから逃避するために民族エネルギーを
経済のみに特化的に振り向けてしまった感も否めない。すなわち民族の
偉大な潜在力を視野狭窄的に経済にふりむけてしまったのである。

 その結果、精神史の退嬰をまねき、今日のような出口の見えない閉塞
感に呪縛されてしまったのである。この間違った贖罪史観は徐々に日本
国民の精神を蚕食していった。こういう潮流で進んだ戦後の空気に、ブッ
シュの靖国参拝は画期的な風穴を開ける出来事になったはずである。
小泉純一郎も、ブッシュ大統領も、いわばハレの反対のケガレである。
彼らが靖国の拝殿に参詣する価値があるかどうかは疑問ではあるが、
英霊たちに一瞬の間、眼を瞑ってもらえれば、そのあとに支那、北朝鮮、
韓国の連中は雑言を言わなくなり、国民は安らかにお参りができるはず
であった。

 なによりも英霊たちは、自分たちが不当に貶められていた60年もの戦
後の靖国史が、健全な方向に向くことを喜んでくれたはずであった。日本
はあの裁判とGHQ作戦による精神の施錠から開放される契機となって
いたはずであった。これが国民精神の啓明に働きかけるベクトルの大き
さはいかばかりであっただろうか。かえすがえすも惜しい話である。そして
小泉自身の犯罪的な不徳から生じた歴史的な不明に怒りが募るばかり
である。

 もう一度よく聞いてほしい。日米首脳の同時靖国参拝を阻害した張本
人はだれか。それは現象的には外務省・阿南惟茂を中心とするチャイナ
スクールの一派と、それに連なるOB連中の加藤紘一などが血相を変え
て阻止に動いたといわれている。しかし、日本国宰相である小泉純一郎
がこの千載一遇のチャンスを活かす気があったのなら、彼の権限でチャ
イナスクールとチャイナゲートの勢力を制圧し、間違いなく日米首脳参拝
を実現していたはずである。洞察力のない目の曇った国民の一部には、
小泉の闇雲に強引な政治手腕を評価する者もいるが、それだけの牽引
力と政治力がもしも本物だとしたら、あの四年前に彼は喜びいさんで、
ブッシュとともに英霊の御霊(みたま)の前に感謝の花を手向けていただ
ろう。これが日本史、世界史にとってどれほど大きな出来事であるか想
像できるだろうか。そう、これは実質上、ヤルタ・ポツダム体制の完全な
る終焉の幕引きにつながるできごとになるはずであったのだ。小泉はこ
れをみずからの手で葬りさったわけである。まことにもって、許しがたい
宰相である。

 小泉が知覧の特攻記念館を見学し、特攻隊や家族の心根に涙したと
言われているが、三文役者だって涙は流す。宰相となってからの彼の姿
勢を見ていると、この男が国益や愛国情念で動く者だとはとうてい思えな
い。小泉純一郎の靖国参拝を見て、彼を愛国者だとか、保守の鑑だなど
という風に見ている国民が居たら、彼は自分のIQレベルを心配した方が
いい。小泉の靖国参拝にはまったく心がない。哀悼の気持ちもない。あ
るのは人気をあてにした醜悪な演劇的心根だけである。山崎拓の下半
身ゴシップじゃないが、人徳と政治は別物だなどと考えている者が居る。
そんなことだから、こういう売国手合いを野放しにしてしまうのである。韓
国人が日の丸の旗をアホな顔して食いちぎっている光景を見ると思わず
笑ってしまうが、彼らの民度の低さを馬鹿にする前に、小泉純一郎を宰
相にしてしまった日本国民の民度低下を自覚したほうがいい。

 小泉純一郎。この男を信用することは祖国日本の未来を消失すること
である。この男は亡国の徒輩である。彼を政治の舞台から引きずり落と
さなければならない。くりかえす。小泉構造改革とは、国体を破壊し、日
本国家の解体を目指す売国政策にほかならない。

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2006年1月 1日 (日)

元日の「朝まで生テレビ」を観て思う

  元日深夜から朝にかけて、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」を見て思ったことがある。
出演者の大半は、小泉内閣路線の肯定派であり、否定派では社民党の辻元清美、
あるいは経済学者の金子勝が居た。姜尚中は、どのような話の切り口から入っても、
必ずいつものように東京裁判史観肯定論に帰結させている。司会者の田原総一郎
は、かなり以前から、あたかも決まりきった儀式を行うように、司会権限で姜尚中に
多くの発言時間を与えていた。ここにテレビ朝日のイデオロギー的な反日姿勢が良く
出ている。姜尚中に東京裁判肯定史観を繰り返し発言させるという意味は、日本民
族極悪論を継続させて行くための意志が垣間見える。ここには、シナや韓半島民族
の戦略的な日本攻撃に与したテレビ朝日の強固な反日思想が一貫してある。

 さきほど、出演者の多くは小泉内閣肯定派と言ったが、実際は出演者の半分かそ
れ以上が小泉路線反対の立場なのかもしれない。ひょっとしたら、それぞれにメディア
であからさまに反小泉を表現すると、社会的立場上、不利な状況になることを避けてい
たのかもしれない。それで反小泉言説を自重した部分があったのかもしれない。大体
にして、討論のテーマが2005年とはどういう年であったのか、その総括としての意見を
述べることであるなら、小泉純一郎による、あの国政史上もっとも愚かな郵政民営化是
非を問う解散総選挙を、賛否両論的に議題にあげるのが当然である。然るに、司会者
の田原総一郎は、小泉批判を言うやつはただじゃ置かんぞという睨みを利かせていた
から、出演者たちの自由な討論は最初から不可能であったように見える。小泉純一郎
の資質や政治姿勢を総括的な話題として避けたこと自体が、テレビの偏向報道がいま
だに続いていることを示していたと思う。

 辻元清美の発言で違和感を持ったのは、彼女は小泉路線に対し、「新自由主義」へ
の構造変革だと真実を衝いた指摘をしており、新自由主義型の構造改革の弊害として、
市場原理至上主義による徹底した競走社会と貧富格差の二極分化社会を挙げていた。
辻元の思想的立場でそれを反小泉姿勢として言うのは非常に奇妙な感じがする。自
分は、小泉・竹中路線を文明論的な観点から反対の立場を取る者であるが、辻元
清美のイデオロギー的立場から反小泉を言う場合、新自由主義路線への変更だから
反対というのは、明らかにイデオロギー的な自己矛盾である。共産主義思想、特に
辻元などが関わる先鋭的な共産主義(赤軍派など急進的なコミュニズム)思想では、
経済学者のハイエクやフリードマン的社会思想などは理論的に言って、強い整合性を
持つはずである。つまり、辻元の目指す理想の日本像に対しては、小泉改革路線は
一歩も二歩もその理想に近づくことになるから、本来は歓迎すべきことなのである。
小泉・竹中路線が進めていることは、明らかに日本社会を、アメリカ型のフリードマン的
社会構造へ変換することであるから、これは共産主義革命後の理想的な世界像と見事
に一致する話なのである。つまり、国家の枠も、伝統も、日本国特有の皇統もきれいに
取り払われた市民社会への変貌なのである。

 アメリカがなりかけている新自由主義の極相的世界も、マルクス・レーニンが目指し
た共産革命後の世界も、畢竟は左翼的パラダイスなのである。そういう意味では、西
部邁(すすむ)氏が言うように、アメリカも旧ソ連も、大きな意味では同じ世界像を目
指していたことになる。ここに共通しているのは、古いものや伝統的構造や枠、承継
的な文化というものがすべて不要なもの、悪しきものとして無価値化される世界であ
る。従って、小泉・竹中路線が敷いている今の構造改革は、左翼革命とまったく同質
の社会革命なのである。ただ、イデオロギー的にはマルクス経済思想を通らずに、
官僚主導否定論と金権利権構造の打破という一種の政治修正的な方法論で行って
いるが、その実態は変革様態において、日本国家の歴史や伝統を完全否定する左
翼革命そのものなのである。ただし、左翼構造の型は、旧ソ連型ではなく完全にアメ
リカ型である。

 小泉内閣では政治形態に非常に奇妙な現象が起こった。それは小泉与党内閣が
あまりにもリベラルな「国替え」、すなわち極左的革命政権となってしまったから、今
までの共産党とか社民党のいわゆる正統派左翼野党が保守的な姿勢を持つという
逆転現象が生じたことである。この奇妙な逆転現象の流れの中で本来はバリバリの
左翼思想家である辻本清美が「新自由主義反対」という共産主義テーゼに反する主
張を繰り返すのである。これは笑い事ではない。それほど小泉内閣が進める国家改
造路線は国体に反する姿勢を持つということなのである。

 

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2005年12月28日 (水)

西村眞悟、首相待望論(8)

 
 西村眞悟氏は言う。国が成り立っていく条件として、「国益と国民の財産、安全
を守ること」が国たる由縁で、政治家はそのことを使命としなければならない。国
の安全を守ることは、日米安保におぶさっていて、今までは、対外的な国防はア
メリカの庇護の下でなんとかやってこれた。しかし、第二次イラク戦争の前あたり
から様子は変わってきて、日本は同盟国として応分の軍事負担をして欲しいという
ニュアンスが出てきている。一方、列島を取り巻くアジアの周辺状況は、シナは、
潜水艦による領海侵犯はやるし、日本を無視した形で東シナ海の天然ガス採
掘を稼動させているなど、せせら笑いながら我が国の主権侵犯を行っている。
これに対してアメリカは日中間の問題として静観を決めている。また、台湾と
シナの関係はきな臭く、いつ発火するかわからない。朝鮮半島情勢も目が離
せない。

こういうアジアの周辺状況、そして、日本の原油確保の問題を見ても、非常に重
要な中東情勢などを鑑みると、現在の日本が、もはや日米安保の傘に防衛を任
せるという選択肢は選べない状況になっている。もっとも、日米安保に寄りかかる
ことによって、日本は対外的な危機管理にほとんど真剣な神経を使わずにきた。
このために、我々は真の国防感覚から遠い意識に拘泥してしまい、六十年間も
そこに止まってしまった。このことが、日本人にまともな国家観を醸成させること
を妨げてきたという深刻な現実があった。この悪弊は吉田茂時代にその原点に
なる形を作ってしまったが、その考察はあとで行うことにしよう。国家が一人前の
国家足らんとするなら、自国の防衛は自国で行うということが大前提である。こ
のごく当たり前のことをやらなかったから、戦後の日本人の頭から、国家という
ものの観念は急速に希薄となっていった。伝統に基づかないアメリカ付与の戦後
民主主義は、偏頗な個人主義思想を蔓延させ、その結果として国民は徹底的な
アノミー(無連帯)に蝕まれた。当然、それは日本古来からの共同体観念を融解
させることになり、今小泉が推し進める新自由主義体制への構造転換は、そう
いう個人主義という名の無連帯の究極相として開花し始めたたことになる。まさ
に、GHQの撒いた種が小泉政権になって大きな結実となったと言えるだろう。

 日本人の国家観の融解は、精神相から言うなら個人主義の極相としてのアノミ
ーから、国の在り方から言うなら国防を他国に任せたからということになる。国を
きちんと保つためには、いつの時代にも富国強兵という形は不変の国是なのであ
る。そういう意味でも「国是」の塊である明治憲法(大日本帝国憲法)を、占領軍
の命じるがままに廃棄することから成立した現行日本国憲法の国是は根底から
疑ってかかるべきであろう。戦後の日本人は、国家観形成にもっとも枢要な概念
である国防意識を曖昧なままに放置し、それから逃げ続けてきた。西村眞悟氏は、
自分の問題意識の根底は国家と民族の魂の問題だと言っている。自分が西村眞
悟という男を全的に信頼し、この人物はなるべく早く日本国宰相にしなければなら
ないと確信できたのは彼の思うその自覚である。国家の魂、民族の魂、それは、
政治家として、日本人としてこれ以上に大事な心構えはほかにない。

 国民の品格が低下するのは国家観が曖昧になったときである。我々は現在だけ
をただ漫然と生きているわけではない。親の時代からも、その親の時代からも、そ
の先祖の時代からも、滔々と流れる連続性の中に生きている。人間存在の根源に
は、単に実存的な存在論だけではなく、こういう歴史的な連続性の中にある自分を
考える、あるいは自覚しないと、真の意味で生きているとは言えないはずである。
歴史的な連続性という存在感には過去だけではなく、未来の子孫たちへの橋渡し
として自分たちがこの世に存在しているのだという概念も当然必要である。このよ
うに過去時制、未来時制に自分を投射しながら、現在の自己確認を行うところに
本物の国民としての自覚が生まれる。これが歴史的存在としての国民意識である。

 我々は、大東亜戦争に敗北し、歴史的にも、国際法的にも不当な極東国際軍事
裁判を行われ、日本人が一番失ってはならない国家観、そして国防観を喪失して
しまったのである。国民が歴史の連続性から浮遊してしまったら何が起こるのか。
それは日本民族としての自己同一性の喪失である。今の日本人の無力感の根底
を占める問題の大半はそこに起因する。護憲、改憲、加憲など憲法問題を皮相的
に論議する以前に、為政者も国民も官僚もまず考えなければならないことがある。
それこそが、民族の歴史性を前提にした国家の在り方についてである。過去と未
来を背負った存在として、今の我々がこの国土に生きるなら、もっとも近い戦前の
過去を意識しないこと、あるいは極力これを忌避するような意識の在り方は決定的
な間違い、つまりは巨大な錯誤であることがわかるだろう。

 この錯誤に基づいてどんな小手先の政治観、人生観を持とうとしても、それは砂
上の楼閣であり、けっして生命を持たないだろう。自分はむしろ、戦後の日本人が
戦前を無視して生きてきたことに大きな驚きを覚える。自国の過去を否定した生き
方を選んだ民族は長くは持たないと思うからである。日本人は自国の過去否定を
しながら、なんとか秩序を保ち続け、六十年の時間を行き続けている。大東亜戦争
において、戦勝国アメリカが植えつけた「日本悪玉論」を、六十年もの長い間、後
生大事に持ち続け、それでも国を保っていることに驚きを感じる。逆説的に言うなら、
日本人とは、ここまで国家精神を蚕食されても、まだ秩序を維持して行けるだけの
巨大な民族アビリティを持っているのである。これは現在を生きる我々の力ではな
い。これは先祖たちが長い時間を弛まなく積み重ねてきたことから出来上がった巨
大な遺徳の力なのである。これに感謝し、尚且つ、先祖たちの遺徳、威徳を次の時
代に継承させて行く義務を我々は背負っている。

 人間の病気に急性と慢性があるように、国家の危機にも慢性と急性がある。こ
の戦後六十年というのは、明らかに日本国の慢性的な危機である。急性は近い歴
史では大東亜戦争だろう。この時も負けはしたが、国民は総決起的に心を合わせ
て国難に立ち向かっていった。まさに「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」の精神で
ある。日本人は驚くべき生命力の強い民族である。教育勅語の精神を忘れ、長
い間、武士道精神を持ち続けた国民の心から、完全な「刀狩り」が行われてもいま
だに滅びないで国の秩序を保っているのだ。

 この理由がわかるだろうか。今から二千数百年前に日本という国が起こり、連綿
と続く皇統を基軸にして、国家の連続性を保ってきた過去がある。この過去の重さ、
時間の集積に涵養されてきた民族意識の練成は、日本人にとてつもない精神の強
靭さをそのDNAに刻み付けた。これが急性アノミーに陥っても、六十年も国の秩序
を維持していける日本人の底力なのである。しかし、この巨大な力も、もしかした
ら命運尽きる時が迫っているのかもしれない。9/11日の総選挙で国民は、小泉が
指揮する売国政治内閣を思考停止状態で存続させてしまったからである。

         (続く)

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2005年12月27日 (火)

隷従か矜持か、その選択は近いかもしれない

 自分のつたないブログを見ていただいている方々に言いたいが、現内閣が
自分の見ているように、国策捜査を恣意的に行い、政策に反する意見を持っ
たり、米国による実質的な植民地化に気づいた人たちが、次々と検察ファッ
ショによって、身に覚えのない犯罪名で拘束されるような事態が頻発したとき、
できれば、覚悟を持って生き抜いて欲しいのである。絶対に最後まで抵抗して
欲しい。人生を長い目で見れば、孤立無援で不利な状況に至っても、堪えて
自己の信念を貫けばあとで後悔しなくて済む。人は個人では弱いから逮捕さ
れたり拘束されたりすれば、苦しさから逃れるために嘘の自白や捏造を肯ん
じてしまうことがあるだろう。日本人は本来誇り高い人種である。もし、国策捜
査などというものに遭遇した場合はがんばって欲しいと思う。非現実的なことを
言っているように思われるかも知れないが、戦後GHQが愛国者を百万人もパ
ージ(公職追放)したように、今の政権はまかり間違えば日本を守ろうとする人
々をこっぴどく痛めつけかねないという予想はしておくべきである。小泉が言う
「抵抗勢力」の正体とは日本人であろうとする普通の人間なのである。最終的
にはこういう愛国層が標的になる可能性は大きい。

 日本人の悪い性癖には、長いものには巻かれろという処世的な諦観がある
が、現内閣の敷く路線に靡いて行っても、おそらくいいことは一つもないだろう。
なぜなら、この内閣が指向する日本社会は、日本人であることを否定しなけれ
ばならない社会だからである。国民は熾烈な競争原理にさらされ、日本的な和
の共同体は生まれない殺伐とした社会になるだろう。なぜなら、アメリカ型の社
会に地ならしされるからである。この間のハリケーン被害でニューオリンズの惨
状が露呈したように、アメリカという社会は、事実上「夜警国家」に成り下がって
いる。九割五部の貧乏人と残りの僅かな大金持ちが二極分解した世界である。

 小泉がインタビューを受けて、「構造改革の目的は何ですか?」と問われた
時、彼は「国民の幸せのためです」と言ったが、その国民とは二極分解した
あとの少数派の金持ちのことを指している。本来、夜警国家とは、市民(国民
ではない)生活の秩序を維持するために、必要最小限の治安や外敵からの
防衛を果たすための国家形態を言う。しかし、先のハリケーン被害において、
アメリカのFEMAや連邦警察は、被災者の住民に銃を向けた。FEMAというの
は災害やテロ勃発時の緊急出動ということになっているが、本来は自国民の
暴動を制圧するための組織にほかならない。夜警国家とは自由主義体制が
必然的にたどる形態である。小泉内閣は今、日本にアメリカ型の新自由主義
社会を築こうとして構造の変革、すなわち日本的構造の大破壊を敢行してい
るのである。天皇を戴く日本国民は国家の構造を夜警国家にしてもいいのだ
ろうか。僅かな大金持ちと圧倒的多数の貧乏人に分極する社会の中で、日
本人の警察が日本人に銃を向ける社会になってもいいだろうか。

 テレビの評論家やコメンティーターたちは、子供たちや大人の狂ったような
犯罪の続出を示して、日本社会が昔とはちがい、変質しつつあるから、自分
のことはなるべく自分で守ることを考えなければならないなどと脳天気なこと
を言っている。今の日本に強制的に起きつつある潮流はそんな生易しいもの
ではない。今起きていることは、国家構造の改変、すなわち「国替え」なので
ある。日本がアメリカの傀儡(パペット)国家に変えられているのである。国民
はあまりにもこの変化に無頓着である。自分の身の回りを守るより先に、国
を守らなければ犯罪多発国家は延々と続くことになる。

 戦後世代として昭和に生まれ、平成のぬくぬくとした現在までわれわれ日本
人は独裁政権というものの体感的実感がまったくない。日本国民はまさか、ス
ターリンやポルポトのように、血の匂いに満ちた強烈な独裁体制に日本が入
って行くなどということは想像の埒外だと思う。自分が思うに、国民は郵政民
営化、是か非かの二者択一解散総選挙に幻惑され、民主党のだらしなさも
相俟って、小泉自民党を選んでしまうという大失態を冒してしまったが、この自
民党は以前の自民党ではない。この新自民党は、小泉が靖国参拝しているか
らといって保守ではない。強いて言えばイデオロギー的には極左に近い革新
政党なのである。まったく今までとは異質な政党が出来上がり、これは事実上
の革命政権である。小泉や竹中には、国家の伝統や連続性、国柄を守るとい
う観念は微塵もない。

 国家の連続性に則っていない政権には、権威の正統性は存在しない。国体
を破壊するような政権には、天皇の下にある議院内閣制は機能しない。事実
上、現内閣は、欧米型デモクラシーとも、旧来の日本型デモクラシーとも、まっ
たく異質であり、民主主義の機能を果たさない行政構造に変異している。独裁
体制というのは、基本的に日本人に馴染まない体制だと思うが、制度上、今
の小泉には「どのような」法案でも恣意的に可決させてしまうことが可能である。
こういう体制下で、怨念と権力欲剥き出しの愚かな宰相が愚かな政策を進め
た場合、国は崩壊の道を歩むことになる。我々は、今の変化をグローバルな
時代の趨勢だとか、衣替えだとかいうように安易に考えていないだろうか。今、
進んでいることは、アメリカの傀儡政権となった小泉内閣による国家簒奪なの
である。

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西村眞悟、首相待望論(7)

 少しだけ、政治経済から離れたことを言う。自分のブログの姿勢は、政治経済
に限定したいとは思わない。本来、政治経済は自分にとってもっとも暗い分野で
ある。小泉が第一次内閣をスタートさせた当時から、なんか妙な違和感が常に付
きまとっていた。それは彼が、それまでの宰相とは性格が異なり、田中真紀子が
言ったように奇人変人の類だからと、特別、注視もしていなかったが、その違和
感は日増しに強くなっていた。特に小泉純一郎と竹中平蔵が中心となって推し進
める政策は、ある種の自分の直感であろうが、何と言うか、日本にとって非常に
良からぬ物だという印象が強くなっていた。

 そこで、不得意な経済の本やブログなどを渉猟してみて、自分の印象の正体が
徐々に見え始めてきた。それは小泉・竹中路線が現在進行形で進めている構造
改革というものの目標設定が、まったく見えてこないという事実であった。この構
造改革の先に何があるのか、どのような国家のグランド・デザインを描くのか、
彼らの言説からはまったく浮かんでこないのだ。 これは今になってわかったの
だが、かれらには日本の将来の全体像をどういう風に持って行くかというビジョ
ンが欠落している。小泉が言う「創造的破壊」には創造がまったくない。何か不
具合のものを刷新するために、既存のシステムや規制を破壊する場合、破壊と
同時に新たに作るもののビジョンを示す必要がある。このビジョンがない場合、
それはただの無秩序への破壊であり、現状よりなおさら悪くなる。基本的に小泉
の姿勢は破壊だけである。

 ところが、本当に彼らには、国家のビジョンが描けていないのかと調べていた
ら、彼ら自身がけっして口にはしないある明瞭な国家ビジョンが浮かび上がって
きた。国民にはけっして知らせたくないグランド・デザイン。それこそがアメリカ型
の新自由主義(ネオ・リベラリズム、あるいはニュー・クラシカル)経済の日本導
入である。自分は佐藤優氏の「国家の罠」を読んでいて、小泉たちが進めている、
国家デザインの巨大な転換に思い至った。官僚の腐敗や金権利権政治の旧弊
打破を名目にして、実は日本の構造転換を急いでいる。だから、愛国理念を持
つ政治家や経済学者をどんな手を使ってもつぶす魂胆が見える。植草一秀氏の
冤罪や西村眞悟氏の逮捕も、この構造変換にもっとも邪魔な斯界の実力者であ
るという理由である。ここから推量すると、小泉・竹中たちの計画の遂行には、
愛国情念の深い政治家や経済学者、その他のジャンルの識者たちのパージが
行われていくという展開だろう。ひどい内閣をまつりあげたものである。 
 
 今日の日本のデフレギャップは異常に大きくなっており、もはやこれを中途半端
な政策では解決できなくなっている。そもそも、小泉がことあるごとに発する、デフ
レの原因が構造にあるという言い方には官僚の奸佞邪智(かんねいじゃち)が含
まれている。金融政策とは言っても、西村氏によれば、同じ発想の組織が金融政
策と財政政策という二つの経済政策をばらばらに運用したことがデフレ不況の原
因だと言っている。金融政策は日本銀行、財政政策は政府の財政当局が担当し、
これらには発想の新規性も進展もなく、過去十数年間、失敗の連続であった。そ
こには官僚の硬直性と無能だけしかなかった。

 この官僚組織の硬直性を前提として政府が対策を出すから、ますます偏執的に
なり、構造ばかりを目の仇にする小泉内閣の政策が生まれた。官僚を敵視する
小泉の勇ましい発言とは裏腹に、官僚主義にどっぷりと浸かった構造改革路線
になっている。官僚主導の構造改革の奸佞邪智とは、悪いことはすべて自分た
ちの政策ではなく、構造のせいにして国民の追及から目をそらせていることにあ
る。もうひとつは、国債の額だけを強調し、国民に巨大借金を背負う苦しみという
洗脳を施していることにある。財政均衡を取り戻すという名目に隠れて、総需要
喚起という大きな目標に目が向かない。日本は内閣によって巨大債務国家を印
象付けられているが、一方では世界一の債権国でもあるから、巨大な債権で債
務を償還する方法をとってもいいはずである。たとえば、日本が保有するアメリカ
国債で日本の国債を償還すれば、今苦しめられている膨大な国債金利支払いは
アメリカがやってくれることになると西村氏は言う。

 おそらく、日本の政治家や経済学者はとっくの昔にそこには気づいていたはず
である。気づいていながら現実の政策としてまったく手を打てないのはなぜか。
そこにこそ、日本人の隷米意識が強くわだかまっているからである。

 
         (続く)

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2005年12月23日 (金)

西村眞悟、首相待望論(5)

 
 
 西村眞悟氏は、構造改革そのものを否定してはいない。小泉純一郎、そして竹
中平蔵らが押し進める構造改革が、根本的に誤謬のもとにあることを怒っている
のである。西村眞悟という御仁を、世間はバリバリの右翼的政治家であるとか、
かなりきわどい言辞を弄ぶ失言居士だとか言って、間違った人物像を持ってしま
う嫌いがあるが、実際の彼は分け隔てなく他者を見るやさしい心根の人であり、
日本人として最高峰の国士クラスの見識を持つ偉大な人物である。そして、す
ぐれて繊細かつ有効な経済的知性を合わせ持つ、まさに得難い傑物である。日
本は今、歴史的な国家の危機に瀕している。内憂外患の極地に瀕した我が国を
救うために登場した歴史的な政治家が西村眞悟その人である。

 国家転覆を画策し、小泉純一郎を神輿に乗せて、敷島の麗道を完全破壊に導
こうとしている勢力が政権の中枢に巣食う現状は、古くは奈良時代の僧である弓
削道鏡、室町幕府三代将軍の足利義満の皇位簒奪計画に匹敵する国難に今の
日本が置かれているという認識を自分は持っている。それほど、小泉政権が主導
する今の日本は危機的な状況にある。政権中枢が姦策の砦となっている今、正
義の旗を掲げてこれを誅求できる立派な国士は、正直、西村眞悟氏しか見当た
らないのである。これを見抜いた小泉政権中枢は、西村氏を真の脅威と感じ、早
いうちにこの力を奪っておこうと考えた。それが今回の西村氏の逮捕劇である。
逮捕理由などどうでもよかったのであろう。西村氏の政治的な力を封じることが
現政権の目的である。この逮捕は紛うことなき国策捜査によるものである。心あ
る国民は現政権のこの奸意と危険性を的確に見抜いてもらいたい。今、西村眞
悟を国政の場から退ける行為は、日本の将来にとって取り返しのつかない禍根
を残すことになる。

 西村眞悟、彼の慧眼は、小泉純一郎という、歴史的に不徳な男を取り巻く連中
の奸心を見事に見抜いており、これらが国政を運営している我が国の現状を深
く憂慮している。さて、西村氏の経済的知性をこの辺で披瀝して行こう。西村氏に
よれば、景気対策としての構造改革はまったく無効であると断じている。まずイン
フレになった時を思い出すと、インフレーションとは、需要が溢れている時に供給
が追いつかなくなり物価が跳ね上がる。この時の不況とは、供給側の供給能力
が貧弱になることが原因となっており、対策としては供給サイドの構造を改革し
て、より需要に見合った多くの品物が行き渡るシステムを構築することにある。

 反対に、デフレとは、供給側はいくらでも品物やサービスを供給できるのに、需
要が少なく、品物は売れない、物価は下がる、企業の売り上げは落ちる、働く人
の給料は下がり、それでまた需要が減るという悪循環のサイクルに入る。今の日
本は典型的なデフレ・スパイラルに陥っている。この対策は需要を喚起してそれ
を増大することに尽きる。小泉政権の構造改革は、この単純明快な手順とはま
ったく逆方向のベクトルを志向している。つまり、需要喚起を行わず、供給サイド
の方にしか目を向けていないのである。これはエコノミストの植草一秀氏も繰り
返して指摘していた小泉批判の要点でもある。西村氏によれば、小泉構造改革
は、税金の無駄遣いを検証して改めることに始まり、経済の無駄をなくすること、
すなわち効率性を増して生産性を高めることを念頭に置いたものである。という
ことは、構造改革とは需要の喚起ではなく、明らかにサプライサイドだけのシス
テム改良ということになり、まったく景気回復には効果がないどころか、逆にデ
フレ・スパイラルを加速する事態を招いているのである。リストラや経済格差が
拡大し、自殺者急増や所得の二極分解が進行するという不安の中で、需要心
理がどんどん冷え込んでいるのに、積極的に供給拡大施策をとって何を馬鹿な
ことをやっているんだということである。

 ふと考えた。もしかしたら、小泉・竹中は、積極的に逆方向の経済政策を行っ
て日本経済を不況のどん底に至らしめ、日本国内の企業に、まさに第二、第三
の長銀を作ろうと画策しているのではないのだろうかと。そうすれば、弱った企
業にハエがたかるように金融外資が群がることになる。郵政民営化が国富の
外資流しだとすれば、彼らの推進する経済政策のベーシックもいわゆる「国売
り」の構造を仕掛けていると考えても間違っていないような気がする。そういう
視点で眺めると、小泉政権のデフレ加速的な経済政策は、故意に日本経済を
不況に陥れる算段であるのかと思えてくるのである。

         (続く)

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2005年12月22日 (木)

西村眞悟、首相待望論(4)

 
 民主主義的多数決で選ばれる首相は権力者であるが、世代を超え、時代を超
えた伝統的権威は時限を区切らない歴史性の中にある。だから伝統的権威は今、
現存している国民だけにある権威ではない。アメリカには伝統的な君主が存在し
ないから、国民の直接選挙で大統領と元首が一緒になった制度にしている。これ
は、最初の選挙戦で、ブッシュ・ジュニアがゴアに負けていたのをブッシュ家のコネ
と金でごまかして勝ったとマイケル・ムーアが数年前の本で書いていたように、選
挙戦の公正が疑われれば、国家を代表する元首の正統性が崩れてしまうという
欠点を持つ。

 しかしながら、日本のように歴史的伝統的な君主が存在する国家は、元首の権
威に対する信頼感は不変であり、国民は その権威で国家を信頼する土壌がで
き上がっている。ところが首相公選制とは、この伝統的権威を廃棄するという制
度なのだ。9/11日の小泉による衆議院解散は、伝家の宝刀として衆議院議員の
首を切ることができた。なぜ、これが可能だったのかと言えば、議院内閣制では、
首相は伝統的権威から任命された地位にあるからである。だから日本の首相に
は、本来は強力なリーダーシップが取れる。しかし、参議院で否決された法案を
首相自体が不服として衆議院の解散権を行使することは、法案成立によほどの
国益性と正当性がなければ日本国民は納得しないだろう。

 しかし、今回のあの性急で異常な解散劇に、国民が納得する正当性がいった
いどこにあったのだろうか。テレビや他のマスコミで、一時も休まない構造改革と
か、民営化反対か賛成かという愚にもつかないワンフレーズを繰り返し、国民を
思考停止状態に持って行き、勢いで小泉自民党に勝利をもたらしたのである。
郵政事業には国民の勤労と汗の集積である膨大な国富がある。この国富の使
い道を、何が危険かという側面をいっさい俎上に乗せず、民の力でできることは
民に任せようとかで強引に押し切った。また、民営化に当たっての危険性を、真
摯に議論し尽くして、安全な形で民営化を行おうじゃないかという、すべての議員
や経済学者の意見を徹底的にマスコミから封じてしまったのである。このように、
極限的に偏頗な状態で郵政民営化法案を断行してしまった小泉は、伝統的権
威を嵩にきて、日本の政道に大きな傷をつけてしまったのである。

 小泉ウオッチャーのある人々は、小泉を自分のイメージ操作として、マスメディ
ア、特にテレビを最大限に有効に使った天才的な人物だと評価するものがいる
が、自分の見解では、小泉にはそのような才知と器用さは微塵もない。しかし、
結果的にそういう力を行使できた裏には、アメリカの徹底的なバックアップがあ
り、特にテレビや新聞メディアには、米系資本の保険会社の広告収入による言
論統制がはたらいていたと自分は確信する。あの選挙戦で小泉に有利に動い
た力には圧倒的な米国の介添えがあったと断言してもいい。米国は、なぜ日本
の郵政民営化に対してそれほどまでに執着し、膨大な金を使ったのかと言えば、
それは年次改革要望書の「要望」を実現させて、郵政資金をハゲタカが舞い飛
ぶ国際金融市場に開放させるためである。小泉・竹中路線が進めた郵政民営
化法案とは、日本の経済ダイナミズムを賦活するためではない。それはあきら
かに米国の要求に従って郵政資金を米国に供するためだけの法案である。小
泉がこれに命を賭けたということは、日本の生命線を握る膨大な国富の流出に
命を賭けたことになる。このような売国宰相はかつて出たことがない。それだけ
ではない。この国賊宰相がやっている構造改革とは、2665年の国体伝統を誇る
我が国の国家的性格を著しくゆがめるための体制変革なのである。

 そもそも、西村眞悟代議士が9/11日の解散総選挙後に開かれた民主党両院
議員総会で、『マネーゲームの世界に国民をなだれ込ませているのが小泉なん
です。あれは狙撃してもいい男なんです!』と言った、いわゆる狙撃発言の真意
は、朝日新聞などが言うように法治主義の否定だなどという脈絡にはまったくな
い。狙撃という言葉にばかり反応して、西村氏の深い憂国真情を見て取ることが
できない状況があったが、あの発言の真意は、西村氏の政治家として、また日
本国民としての揺るがぬ良心が言わせたことなのである。

 小泉純一郎は、そもそも宰相の座に座るべき人間ではない。あの男は日本の
国体を破壊するために首相権限を最大に行使している国賊的人間である。彼個
人が郵政の民営化にどのような思惑を持っていたにしろ、日本の大事な国富を、
アメリカの奸佞邪智(かんねいじゃち)に固まった欲望に沿う形で、民営化という
衣にくるんで野ざらしにすることは、単に現在の国益に反するだけではなく、伝統
的国体に対する裏切りである。

   (続く)

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西村眞悟、首相待望論(2)

 西村眞悟氏は魂の政治家である。真に日本国家の将来と日本人の安全を考
える歴史に得がたいタイプの政治家である。現今の政治家でこの男以外に国政
を任せられる者はいないだろう。そのことは、四年前に彼が出した「誰が国を滅
ぼすのか」という本を一冊読むだけで確信して言えることである。その本の「まえ
がき」にはこう書いてある。

 政治家としての基本的な考えとは何か。それは一口で言えば
 「魂のことを心がけよ」ということである。その魂とは虚空のど
 こかにあるのではない。日本の歴史と自然の山河の中にある。
 
  そもそも経済とは経世済民であることを忘れた経済論だけが
 政治なのか。小泉内閣の聖域なき構造改革も、目的は経済回
 復にあるらしい。「ぼろは着てても心は錦」というではないか。心
 はぼろでも、金さえ増えれば政治の責務は果たされるのか。

  そうではない。私の問題意識は本書末尾でも述べるが、国家
 と民族の魂のことである。・・・・中略・・・・。

  祖国に対する愛を知らない政治家は、背骨を持つことができ
 ない。・・・この祖国への愛がなければ、今後の日本の再生は
 ない、と私は確信する。

 西村眞悟氏が述べた「国家と民族の魂」、そして「祖国への愛」という姿勢は、
この著書の随所で、そのことが単なる美辞麗句ではなく、彼の本心であること
が明瞭に記されている。また、彼の行動様式には、明らかに、日本という国家、
そして日本民族という存在の連続性と一貫性が見られるのだ。それが政治家
にはもっとも重要な資質なのである。尖閣諸島の上陸と日の丸国旗掲揚は国
家国土への愛から、拉致問題で横田めぐみさんの存在を公にして、精力的に
拉致被害者救出の力となっていることは、民族同胞への愛から。これらの政治
家としての姿勢には、個人的エゴによる集票意識や欲得、ただ威張りたいだけ
の権力志向などは微塵もなく、彼の行動、発言のすべては愛国、憂国の尽きな
い情念から出ている。西村眞悟氏の情動のすべては、純粋で尽きない愛国意
識だけから湧き出ている。

 さて、小泉純一郎の首相公選論に異議を唱えた西村眞悟氏の話にもどろう。
西村氏の著書「誰が国を滅ぼすのか」によれば、戦後構造の反省として、小泉
首相筋から出た首相公選論は、「無知と無内容」であると一気に弾劾している。
無知なのは、民主主義国家なのに彼らには「国民主権」の意味がわかっていな
いことであり、無内容なのは、我が国の伝統的な国家の「かたち」が、公選論の
前提として捉えられていないからであると書かれている。

 小泉内閣はマスコミが作り上げた虚妄の人気内閣であり、その人気の実態は、
テレビタレントやシンガー的な要素が大半を占めている。そのことは、彼の数え
切れない不用意な発言にいくつも見ることができる。たとえば大相撲における優
勝力士への総理大臣杯授与時の「痛みに耐えてよくがんばったあ~っ」などとい
うタレントの絶叫のような発言は、国政を預かるものとしては品格に欠ける。最
近も朝青龍の表彰式で、「新記録!大記録!見事だ~っ!」 と絶叫した。自分
でも呆れたのは、国会答弁で、勤務実態がないにも関わらず、幽霊社員として
厚生年金に違法加入していたとして追及された際、民主党の岡田代表に、「人
生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ、岡田さんあなたの会社もそうで
しょ?」と発言したことである。「人生いろいろ」とは島倉千代子のヒット曲である。
小泉は、国政の場で、年金という非常にシビアな問題に対して、歌謡曲の次元
で答えたということは、首相メンタリティが人気を気取るタレントと変わらないこと
を示している。

 問題は、衆愚政治のスタイルにすっかり呑み込まれてしまった国民の無知蒙
昧にもある。国民は小泉のこういう奇態なパフォーマンスに気圧されて、彼に対
する正統な批判力をすっかり喪失してしまった。その結果、9/11日の総選挙で
小泉を全面的に支持してしまい、彼の真の奸佞邪智(かんねいじゃち)を見過ご
している。国民が郵政民営化を拙速に認めてしまったことは、歴史的な国益の
毀損をもたらすことになるかもしれない。人気があれば国政を指揮する者の勤
めが果たせるのかと西村氏は問いかけている。人気があれば首相公選論は正
しいのかという命題が生まれると。小泉は、国民直接選挙、すなわち公選論で
首相を決めれば、その首相はアメリカ大統領と同様な強権を発動できる、また、
その方が国民主権との整合性が高いと考えている。

 西村氏は言う。政治制度は各国の歴史と伝統の上に機能する。従って、首相
公選は日本では「NO」であり、アメリカ、フランスではかまわない。もしかして、小
泉は国民主権を取り違えている可能性がある。小泉は国民主権の概念を、一
人一人には主権があるから、その一人一人が首相を選ぶのは当然であるとい
う考えがあるようだが、誰でもバラバラに国家共同体を代表して外交したり、治
安維持のあり方を決定できるとすれば、それは明らかにアナーキーだと言って
いる。

 まさにそうなのである。小泉・竹中路線が進めている構造改革の終局的な目
標地点は、西村氏の推定したように間違いなく無政府主義国家であり、極左的
アナーキズムなのである。さらに言うなら、それは共同体解体であり、煎じ詰め
れば国家解体を目標にしているとしか言いようがない。日本のこれまでの社会
構造の枢要は、共同体がいかにうまく機能できるかという観点で築き上げられ
てきた。国民主権という意味は内政的に個人が一人一人有していて国政の場
に発言権を持つことではない。国民主権とはあくまでも外に対して屹立する概
念なのであり、それは「歴史的共同体としての国民」が「対外的に不可侵の権
利」を有するという概念である。

       (続く)

 

 

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西村眞悟、首相待望論(1)

我が国の戦後史は、時を経るにしたがって、「日本らしさ」が刻一刻と漸減する
道程をたどってきた。平成に入って、その減衰曲線は急勾配となり、ついには、
小泉純一郎が政権を確保してから、日本という国家のエキスは、手から砂がこ
ぼれるような勢いで失われつつある。このままではわずかに残存する最後の日
本的な良心さえも滅ぶだろう。

 この国の政治家や官僚には、日本の国土と日本国民を守るという、第一義的
な発想が決定的に欠落している。日本という国は不思議な国家である。古くは、
蒙古・高麗軍が二度も博多湾に来襲した元寇がある。この時は日本全国の神
社仏閣が心を合わせ、天に向かって国家護持の祈念を行った。また、武家や
朝廷も一致団結して国防に粉骨砕身した。特筆すべきは、この時、全国の地方
武士が決起し、外敵に対して獅子奮迅の戦いをやったことである。明治維新は
欧米の技術を受け入れ、国際的な趨勢の中で、国家を富ませ、強力にするた
めにそれまでの封建的な武家中心の社会構造を、帝国主義国家に大きく転換
しなければならなかった。

 江戸幕藩体制から維新への大変革は、真に国難であったが、江戸城の無血
開城を見てもわかるように、幕府側、朝廷側ともに傑出した国士たちが出現し
て国家の崩壊を免れている。また、宮崎学氏によれば、正史には登場していな
い史実であるが、大東亜戦争が終結した際、連合国総司令官マッカーサーが
厚木飛行場に到着するにあたり、絶対に負けを認めない抗戦勢力が玉砕覚悟
で飛行場を占拠し、飛行機の残骸を敷き詰めて司令官の到着を妨害しようとし
た。米軍は、マッカーサーが攻撃を受けて厚木に着陸できなかった場合、沖縄
から飛行機を飛ばして皇居に原子爆弾を投下する予定であった。第三の原爆
投下である。この事態に臨んでこれを見事に阻止した男がいた。

 当時の土建屋の親分である安藤明である。彼は集結していた徹底抗戦の軍
人たちを説き伏せ、飛行場の残骸をきれいに撤去してマッカーサーの到着を難
なく実現させた。しかも、彼はその後、精力的にGHQの将校たちに働きかけ、
天皇の戦争責任の回避や、天皇とマッカーサーの歴史的会見の下準備を行っ
た。安藤明はフィクサーと言われ、表には出ない人だったらしいが、国体護持
のために己の力を最大限に使いきった大物であった。昭和の国士である。この
ように、日本史においては、国家が国難に遭遇すると、決まって救国の大人物
が登場して日本の針路を決定して行くことになる。それが表であろうと裏であろ
うと。

 さて、現在に目を投じてみよう。平成の今日、日本は安泰なのであろうか。小
泉政権が発足し、彼は自分でも言ったように自民党を根こそぎ破壊してしまった。
「創造的破壊だ」と言いながら、聖域なき構造改革の呼び声で、彼は国柄の破
壊を繰り返し続けている。小泉純一郎による最大の国家破壊は郵政民営化法
案の可決であろう。この法案成立のために、彼は日本的民主主義の根幹であ
る「和ヲ以ッテ貴シト為ス」の協調精神をぶちこわし、異常な執念を持って政敵
や意見の食い違う同僚を排斥した。年金問題や外交、他の重要懸案を白紙状
態にして、郵政民営化を拙速審議のままに強引な形で通過させたのである。
その方法は、衆議院でほとんど賛否両論的な僅差で可決した郵政民営化法案
が、参議院で否決されたことを見て強引に衆議院解散総選挙に打って出たこと
にあった。

 郵政民営化の十分な説明もなく、国民をだますような形で、「郵政民営化、是
か非か」を国民に直接問いただすという名目で行った。国民は郵政事業をほと
んど問題視していなかったし、切迫した改革の気分にはまるでなかった。郵政
事業そのものがどのような仕組みなのかよくわかっていないのに、構造改革だ
と銘打って、民営化を行うと言われても国民には一ヶ月足らずでは、それがど
のような意味か、また、どのように国家経済に寄与するかなどを判断する暇
(いとま)はなかったはずである。判断しようにもマスコミが民営化法案の問題
点や不可解な箇所を一切放送せず、その点を明確に指摘できる経済学者や
政治家連中をことごとく排斥するという異常な報道姿勢が取られた事実は、現
状の国政に、明らかに思想統制が行われつつあることを示している。

 この異常な状態で、構造改革は良いか悪いかの判断を投票行為に特化させ
たことは、小泉純一郎という男が稀代のペテン師であることを物語っている。小
泉が行った解散総選挙というこの行動様式は、彼が政権に着く前に語っていた
「首相公選論」の雛形的実施である。この首相公選論に早くから異議を唱えて
いた男がいた。西村眞悟代議士である。

     (続く)

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2005年12月12日 (月)

◎(続)西村眞悟代議士とエコノミスト植草一秀氏逮捕劇の裏に

 ◎(続)西村眞悟代議士とエコノミスト植草一秀氏逮捕劇の裏に   
   (彼らの逮捕には国策捜査の邪悪な意図が透けて見える)

 ◎国権の濫用が始まった可能性がある

 小泉政権の中枢部には、政敵に対する国権の濫用を行う意志が
あり、はじめにそれは、目立たないように行われたが、第三次小泉
内閣が発足して以来、それは日増しに露骨になっているとみていい
だろう。この国権濫用の濫觴(らんしょう)としては、まず最初に鈴木
宗男氏の逮捕が上げられるだろう。小泉構造改革を直接には名指
ししていないのだが、「国家の罠」を書いた佐藤優氏は、それを次の
ように翻訳して語っている。

 『現在の日本では、内政的におけるケインズ型公平配分路線から
 ハイエク型傾斜配分路線に転換、外向的には、地政学的国際協
 調主義から排外主義的ナショナリズムという二つの線で「時代の
 けじめ」をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗男
 氏がいるので、どうも国策捜査の対象になったのではないかという
 構図が見えてきた』    (同書p292~293)

 経済構造の性格転換を、単純な見方で捉えると、国家介入型から
新自由主義型に構造転換を起こしたというように、国内で自然発生
的に進んできたという見方をすると、今生起している事象の本質を
完全に見誤る。この社会構造の切り替えは、小泉政権が、自律的、
非他動的に行っているかのように見えるが、実態は外圧による国家
構造のメタモルフォセスである。これを、ひた隠しに隠したままで政
権運営を行っているのが、小泉・竹中路線なのである。

 それはさておき、ハイエク的社会とは、強い創造的な個人や企業
が主役になり、他の個人や企業の動力的牽引力になるということで
ある。「隷従への道」を見ると、政府や国家に象徴されるあらゆる全
体主義的計画主義的思考は、本来、歴史が長い間に築いた自生的
秩序を阻害し、一面的、画一的な価値を押しつけることで自由を剥奪
してしまうという考え方である。自生的秩序とは今で言う複雑系のシス
テムを念頭に置いたものである。市場の失敗を何らかの人為的コン
トロールで修復することはできないという見方は、ケインズ的な政府
介入制御の考えと対極に位置するものである。

 一方、ミルトン・フリードマン著「政府からの自由」を読むと、フリード
マンはハイエクよりもむしろ確信的な政府不要論者である。自分は、
今の日本が罹っている巨大な構造疾病、つまり構造転換は、ハイエ
ク的転換と言うよりも、フリードマン的転換と言った方がより近い気が
する。アングロサクソン流の新自由主義者たちが支配する、現代ア
メリカの思想的潮流とは、「拒否できない日本」で、関岡英之氏が書
いているように、政府の市場へのあらゆる干渉行為は、アメリカの建
国理念に反すると、はっきりと言い切っているフリードマン的思想が
完全に主流となったように思うのである。アダム・スミスの自由主義
を踏襲し、ハイエクから始まった新自由主義の流れは、フリードマン
に充分に練られてからロナルド・レーガンに受け継がれ、「小さな政
府」というスローガンの理論的支柱を形成した。いわゆるレーガノミ
クスである。

 このフリードマン流の自由主義が、現在に至るアメリカの経済潮流
であり、グローバリゼーションのベーシックとなっている。つまり、アダ
ム・スミスの現代的進化形態であるフリードマン流の経済思潮が、今、
日本を覆い尽くそうという構造改革の眼目なのである。近年、世界中
を暴風雨のように荒らし回っている金融自由化の波は、このフリード
マンの思想に支えられている。

 自由化の波という世界潮流は、蓋然的に発生したものではなく、東
西冷戦後のアメリカ一極体制を押し進めるために、マネタリストたち
が戦略的に行っているものである。小泉首相が血眼になって驀進し
た郵政民営化法案は、その成立に実は、巨大な二つの思惑の実現
が託されていたのである。一つは、今まで何度もブログ上で書いたよ
うに、民営化の直截的な目的は、アメリカの対日要求である「年次改
革要望書」に従って、日本市場への外資参入時の障壁を撤廃するこ
とにあった。つまり、政府保護の完全撤廃による郵政資金の自由化
である。これによって、簡保と郵貯資金が開放型経済系の枠組みの
中に無防備な形で放り込まれることになった。

 斯界のさまざまな人たちが指摘していることだが、小泉政権は郵政
会社の持ち株比率で、外資枠を20%以内にする安全基準の条文造
りをしなかった。成立要求の審議をのらりくらりとかわし、ついに解散
総選挙後の特別国会でも未審議のままに終わった。また郵政株式
会社は保有資金の20%しか外国債券を取得できないという安全弁
となる条文をついに入れることはなく現在に至っている。郵政資金の
キャピタル・フライト(資金逃避)や外資による侵攻に関する質問に対
し、小泉・竹中両氏は言を右顧左眄して取り合わなかった。このきわ
めて奇異と言える外資規制審議の一貫した忌避は、郵政民営化の真
の目的が、日本経済の賦活化とは別の場所にあることを示している。

 郵政民営化のもう一つの目論見は、小泉首相が再三繰り返したよ
うに、構造改革の要に郵政民営化があり、これを突破することで、す
べての聖域なき構造改革が可能になるという言い方に含まれる真意
にある。これは、日本の経済構造を上述のフリードマン的新自由主義経
済へ相転換することを指し示している。西村眞悟氏の問題発言とされ
た『マネーゲームの世界に国民をなだれ込ませているのが小泉なん
です。あれは狙撃してもいい男なんです』と言う中で、「マネーゲーム
の世界」と彼が言っているのは、フリードマン的新自由主義経済を指し
ており、マネーゲームというのは、グローバリゼーションにおける金融
工学(フィナンシャル・エンジニアリング)的な侵出を意味している。

 アメリカの言う市場開放とか、市場の自由化というものは、国と国
とが対等の国力を持ち、軍事力や財力が均衡している条件のとき
だけ、いわゆる「自由競争原理」の意味が成り立つ。実際の世界
は、アメリカだけがはなはだしく国力の点で突出していることを考え
れば、世界各国が不均衡な状況で、市場を完全自由化すれば、国
力、金融力の勝っているアメリカの一人勝ちという結果しか招かな
い。ここに門戸開放の悪どさ、胡散臭さがある。この形は、今から約
150年ほど前に黒船の威力で結ばされた、かの悪名高い不平等条
約である日米修好通商条約の形と基本的には一緒である。

 郵政民営化とは、国民が汗水流して稼ぎ、国家による安全な担保
を信じて預けた膨大な郵政資金、つまり国富が、最終的にはアメリカ
の国庫に流れて行く仕組みの構築なのである。小泉純一郎及び竹中
平蔵は国を売る政策遂行に血道を上げたのである。

 平成15年に、全国木材産業政治連盟が主催した講演会で、植草
一秀氏が行った小泉批判の中には、次のような言動がある。

 『一般的には改革派と抵抗勢力に分けられるが、中身をみると
  「亡国派と救国派」勢力という表現の方が正しいような気がす
  る。我々が日本の国益を守る。国益とは日本の物は日本人が
  持つ。これが民族自決であり、日本の資産を全部外国の人が
  持つ状態を植民地という状態で、それは避けるべきである。』


 植草氏のこの言い方は、小泉・竹中路線が体現する生の実像をそ
のまま表現しており、まさに自分たちの祖国日本を強く憂慮する高潔
な国士としての物言いなのである。このように本物の国益的姿勢で
小泉経済姿勢を糾弾できる植草氏は、現政権の売国的な方針から
すれば、非常に目障りであり、それは当然ながら、アメリカの自国利
益に反することになる。植草氏に被せられた冤罪は破廉恥罪であり、
これは本人の人格を将来にわたって否定しようとする非常に悪質な
国家犯罪である。これほど不名誉な濡れ衣が着せられたことを鑑み
れば、植草氏が現政権にとって如何に邪魔な存在であるかが窺い
知れる。植草氏、西村氏の逮捕事例を見ても、時の政権が自分たち
の目論見に邪魔であるからと言って、個人に対して検察の力を不当
に行使することは、法治国家の国是としてあってはならないことであ
る。自分は植草氏に期待を寄せる一人であるが、日本に数少ない国
益的な感性を持つ経済学者として是非ともその才能と辣腕を余すとこ
ろなく揮っていただきたいと願っている。たくさん読んだわけではない
が、今まで目に触れた植草氏の文献を読む限りにおいて、難しい部
分はわからないながらも、氏の高潔な人柄と国を想う気持がひしひし
と伝わってくる。自分の力は微々たるものであるが、植草氏の潔白を
機会ある毎に言い続けて行こうと思う。なぜなら、国難に瀕している
今の日本に、どうしても必要な経済学者だからである。

 西村氏は小泉構造改革の中身の危うさをよく見抜いている御仁で
ある。聖徳太子の時代から、民族的、共同体的な「和」を国是とする
日本人に、日本人の宰相自らが、主体的に非日本的な市場原理至
上主義システムを敷設することは、国益的観点、あるいは民族自決
の精神から言っても、売国的所業と言えるだろう。これが狙撃発言
の真意である。これを日本に導入することは、すなわち国体の否定
を意味することになる。我が国にとって死生を決する大問題である
のは、この新自由主義導入で必然的に生起する思想的な改変が、
伝統構造の徹底的な破壊を目指すことである。
ずば
り言えば、日本
において、それは皇室の消滅を要求することになる。
その端的な動
きが、小泉内閣の、「皇室典範に関する有識者会議」での、女系天
皇容認への動きである。万世一系の皇統、すなわち国体の本義を
破壊する方向性を明確に示している小泉首相は、弓削道鏡による
皇位簒奪に匹敵するような大逆罪を犯そうとしていることになる。

 小泉施政が持つ排外的ナショナリズムの根幹には、最終章として
皇統の破壊画策がしっかりと腰を据えているのだ。彼の靖国参拝は
こういう国家転覆の意図をごまかす、いわばカムフラージュでなので
ある。西村眞悟氏がこういう地獄の宰相を許すはずがないのである。
それを敏感に察知した小泉内閣中枢は、明確なターゲットとして西
村氏を国策捜査の俎上に上げたのではないかと自分は見ている。

 文藝評論家の山崎行太郎氏も言っているように、西村代議士の
逮捕は意図的な西村潰しである。西村氏の小泉批判は、上述の
流れを踏まえてやっているので、これはポピュリズムを基調として
大衆を誑(たぶら)かす現政権にとっては致命的なリスクを背負っ
ているということになる。従って、西村氏が小泉施政のインチキ性、
売国性を国民に大々的に流布する前に、可罰的違法性の範囲内
にある要件を以って、強引に逮捕に踏み切ったのである。可罰的
違法性というのは、厳密に言えば犯罪ではあるが、誰もがやって
いる軽微なもので、通常それには司法の謙抑的効果が働いてお
り、逮捕には至らない。

 これはまともな社会というもののバランス感覚というか、一種の
見識である。しかし、今の小泉政権下では謙抑主義がまったく機
能しない状況になっていて、干渉主義に移行しているということで
あろう。内閣や検察の恣意次第で誰でも逮捕できるということにな
り、それは現代版魔女狩りが開始されるということである。

 この状況では、小泉施政に批判的な愛国者は次々と毒牙にかか
ることになってしまうのではないだろうか。にわかに平沼赳夫氏や
亀井静香氏が心配になってくる。彼らは清廉であっても、可罰的違
法性狙いが恣意的に行われたら、原理的には誰でも検察のターゲッ
トになりうるからである。国民はこれから唐突に逮捕される政治家や
有名識者たちが不自然に続出したら、国策捜査の疑いをかけるべき
である。

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2005年12月11日 (日)

◎西村眞悟代議士とエコノミスト植草一秀氏逮捕劇の裏に

◎西村眞悟代議士とエコノミスト植草一秀逮捕劇の裏に
(彼らの逮捕には国策捜査の邪悪な意図が透けて見える)

 今回の西村眞悟代議士の逮捕は、五年目に入る小泉政権が推進
する構造改革の流れと決して無縁ではない。彼が唱え、実行しつつ
ある構造改革そのものが反国益的性格を持つことが強く影響してい
るのだ。ずばり言って、小泉首相の政策展望の基底には、日本とい
う国柄の破壊、つまりは、日本を日本たらしめている、多様な属性の
徹底的な解体を目指す意図が確実に出ている。

 わかりやすく言えば、この首相は、日本人特有の精神風土として、
日本人の眼に見える形で、あるいは見えない形で、すべての社会階
層に伝統的に息づいている人間同士の信頼からなる相互扶助精神、
協調的付き合い方、許容性など、国民的美質をことごとく無効なもの
とする社会に造り替えようとしている。この国柄の破壊政策は、もち
ろん精神風土のみならず、過剰すぎる規制緩和やその他の経済的
な構造改悪に及んでいる。その筆頭に上げられるのが郵政民営化
である。

 大東亜戦争に敗北し、占領軍に植え付けられた戦後民主主義体制
を六十年も続けてきたことの「負の総決算」として、我が国は今、その
代価の残額のすべてを、小泉政権によって支払わされかねない状況
に陥っている。経済に疎い自分でもよく見えるが、小泉純一郎が政権
を発足してから着実に進む日本変革は、開闢以来、国家の性格が、
今まで日本人が経験したことのないような異質性に置き換えられてき
ている。この異質性の内実にはさまざまな見解があるだろうが、今、
はっきりと言えることは、日本らしさが急速に消滅しつつあるというこ
とである。これを民族の主体的な精神相から言うなら、日本人の心の
亡失ということである。

 これらの日本亡失はさまざまな分野に及んでいるのだが、今、政治
経済に限って言うなら、この社会的変異を視覚的によく示しているの
が、2004年4月、エコノミストの植草一秀氏の冤罪逮捕であり、9/11の
解散総選挙であり、民主党議員の西村眞悟氏の国策逮捕である。植
草氏は、かねてから、小泉・竹中経済路線は国益に反するという徹底
的な政策批判を繰り返し、精力的にマスコミ、特にテレビで訴えていた
時期があった。それは単に感情論や夜郎自大的な物言いではなく、一
流のエコノミストらしくきちんとしたデータ提示と理論に裏打ちされた言
説であった。

 平成15年5月9日、全国木材産業政治連盟主催の講演「日本経済の
現状と展望」では、彼の時局分析では、かなり手厳しい小泉・竹中批判
を行っている。「改革なくして成長なし」という小泉首相の言葉とは裏腹
に政策が完全な失敗を繰り返していることを強く指摘し、景気が低迷して
いるときの緊縮財政政策の危険を訴えた。小泉路線の転換、すなわち
サプライサイドの逆効果性を指摘することから始まり、内需喚起型の
景気回復策を提起した。不良債権処理問題でも、注意すべき点は、経
済を改善させながら行うのが常道であるにも関わらず、現政権のやり
方は、経済を悪化させながら、不良債権処理のルールを不明確に行う
という、タイミングを考えない拙速性が逆の効果をもたらしているという
指摘をしている。金融の抜本的な一括処理は、日本経済が余力を残し
ていた当時は効果が出たと思うが、今のように低迷を続けているとき
は却って、企業倒産は増大し、銀行は破綻するというものである。事実、
その通りに推移しているのが現状である。

 植草氏の指摘など、国益重視の経済学者の意見を参考にするなら、
景気低迷をもたらしている小泉・竹中路線の構造改革は、景気浮揚を
いつまでもさせないことが、彼らの政策上の真意なのではないかと思
えてくる。小泉首相は以前、「丸ビルやディズニーランドが混んでるか
ら不況ではない」と言ったらしいが、植草氏はこれに鋭く水を差す。不
況とは供給力が需要量を上回り、そのギャップが大きい状態を指すと。
また、小泉施政初期から、彼の「米百俵」が悪質な嘘であることを見抜
いていた。すなわち、今の痛みに耐え、よりよい明日を目指すという名
目は、その政策遂行の愚かさ、理論の不構築、展望のなさから、現状
構造改革を継続する限り、よりよい明日などというのは幻想で、より痛
い明日しか来ないことを指摘している。

 現内閣が、故意に不況を促進するという作業仮説を立てると、小泉・
竹中路線の背後にいるアメリカの意図が見えてくる。これは決して陰
謀論でもなんでもなく実際に起きたことであるが、米系ファンドのリッ
プルウッドは長銀(現新生銀行)を10億円で買収し、1200億円を増資
した上で、2004年2月の上場時には2300億円という上場利益を得た。
不況を放置して置いて企業倒産をどんどん増やす。これを一番歓迎し
ているのがアメリカであり、不良債権ビジネスに乗り出し巨額な利益を
紡ぎだす魂胆を持っている。俗にいうところの禿げたかファンドである。
       (続く)

     参照URL
     http://www.zenmoku.jp/moku_kankei/keiei/uekusa_lec/

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2005年12月 4日 (日)

◎(続)小泉内閣が行おうとしている日本解体の姿を見よ

 (19)ペットボトル文明・敷島文明

  ◎(続)小泉内閣が行おうとしている日本解体の姿を見よ

 文藝評論家である山崎行太郎氏は、ブログ『毒蛇山荘』の巻頭
に、『文藝や哲学を知らずして、政治や経済を語るなかれ』と言っ
ている。このことは、今の日本ではもっとも深い真実を言い当てて
いる。文藝や哲学は、世界という存在と人間という存在の果てしな
い探求の世界を開示し、人間を、「個」や「集団」、空間的な関わり
合いの存在から、今度は生きる存在、死ぬ存在としての、不思議
で実存的な深淵をかいま見せる動物へと昇華させる。このように、
内面を掘り下げて外界に投射し、外界の種々の現象を見て、内面
を陶冶する円環は、生きる真摯な姿勢として、特に為政者や民族
の命運を担う宰相にある立場の者にとっては不可欠なものだった
はずである。

 濃密だった日本精神が漸減し希薄化したのが戦後空間である。
今の日本人には哲学的な思索や、自己の正体を求める純粋な文
藝的空気が極度に欠落し、人々の関心を占めていることは、ほと
んどニヒリズムとプラグマティズムである。戦後時間が推移するに
従って、日本人には本来普通の性向だったはずの、美的な探索
を求める感性自体が極度に鈍磨してしまった。これは現実的に言
えば、国民も、為政者も、官僚も、徳目や規範が生まれ育たない、
きわめて低俗な社会しか実現し得ない精神構造に堕してしまった
ということなのである。戦前日本を「有徳志向社会」と位置づける
なら、それがきれいな下降曲線で漸減した戦後とは、「背徳志向
社会」を構築した歴史であったと言っても、大きな間違いとは言え
ないだろう。もっと辛辣に言うなら、戦後社会とは、日本が「ソドム
&ゴモラ」化を目指して進んだ堕罪の一幕ということになる。言う
までもなく、日本が目指した「旧約の背徳シティ」とはアメリカのこ
とである。

 今の為政者は上に立つ者の徳性の中でも、特に不可欠な「ノー
ブレス・オブリージュ」さえもすっかり忘却している状況にある。自
分が西村眞悟代議士を高く評価しているのは、明らかに彼もノー
ブレス・オブリージュを強く持つ希有な政治家として見ているから
である。彼が日本を忘れていない数少ない日本人の一人だから
である。佐藤優氏が書いているように、日本の社会モデルが、
ケインズ型の公平配分路線から、ハイエク型の傾斜配分路線へ
転換する時、日本人らしい政治スタイルを堅持する鈴木宗男氏
は、「時代のけじめ」として、象徴的に人身御供にされた。彼は
国策捜査の犠牲者である。

 この事例を鑑みて、西村氏がなぜターゲットにされたのかを考
えてみると、結論は一つしか出てこない。西村氏が求心力となっ
ている拉致議連が、小泉首相の亡国的北朝鮮国交正常化実現
に邪魔であるのは目に見える原因であるが、大きく見れば、小泉
施策の根幹が、アメリカによる日本の完全植民地化にあることに
強く起因している。憂国派筆頭として、当然ながらこれを看過でき
ない西村氏は激烈に小泉政権の批判を開始した。西村氏は世間
一般でイメージされているように右翼こちこちのお人ではない。彼
は鋭い洞察力で把握した正統な歴史観をベースに、見事な国益
的経済論を披瀝できる頭脳の持ち主である。

 小泉首相とはまったく正反対のリフレ論者であり、彼独特の公
共事業拡大で国内に有効需要を喚起するという、いわゆるケイン
ズ発展型の国益的経済思想を持っている。当然ながら郵政民営
化には大反対である。振り返ってみるとよくわかるが、小泉首相
の憎悪の対象となった政治家は、まず例外なく郵政民営化に反
対の立場にある人々であった。この流れを見ると、外資導入政
策の中心的課題であった郵政民営化に対して、経済理論的」
に国民にわかりやすく説明できる政治家
がもっとも強く小泉・竹
中の憎悪を招いたと考えるのが妥当であろう。

 小泉首相たちは、郵政民営化の真意を絶対に国民には知られ
たくなかったし、それは今でも変わらない。なぜなら売国的所業
だからである。彼らがもっとも国民に知らせたくないのは、日本の
構造が、ハイエク的傾斜分配型に変えられつつあるということと、
完全に米国経済の膝下に置かれる道を選択した現実である。

からこそ、この亡国的事態をきちんと国民に説明できる能力のあ
る政治家を、悪人として血祭りに上げる必要があるからである。

 アメリカは構造的に日本を五十一番目の州に組み入れることは
できない。直接投票制の大統領選が行われる国で、人口一億二
千万強の黄色人種の州を作るわけにはいかないからである。日
本人の大統領が固定化するからである。

 従って、アメリカは日本統治を傀儡政権維持でやることに決めた。
その前段階として、構造をアメリカ型に造り替える必要があり、小
泉政権に白羽の矢を立てたのである。下手をすると小泉内閣以後
の政権には「日本」が消滅して、黄色い肌のアメリカ人が跳梁跋扈
するパペット国家になりかねないのだ。

 日本国民すべてが、今日本で何が起きているかをしっかりと自
覚して、無窮の皇統を戴いた国家の体面を元に戻さないと、本当
に日本は沈没するかもしれない。そういう歴史的局面に今の日本
は否応なく置かれている。日本人は今こそ覚醒しなければ、無国
籍化をたどりながら、亜種のアメリカ人に成り下がるだろう。

 小泉首相は、かつて第一次小泉内閣に就任したとき、「米百俵」
の故事を得々としゃべった。今を我慢して明日の幸せを勝ち取ると
格好をつけたのはいいが、小泉首相が牽引する現政府が、日本の
経済社会に異質な経済体制を取り入れたことによって、真面目に
働いても必要な米俵が確保できないために、年間自殺者が三万人
を越え、いっこうに減る様子が見られない現実をどう説明するのだろ
うか。また、米を食うのを我慢して作る学校とはいったい何を教える
学校なのだろうか。伝統や皇統、民族の歴史などを悪の根元として
全否定する教育を施し、日本がアメリカに次ぐ新興国家として新た
に誕生することを奨励する学校なのか。

 ところで米百俵はどこへ行く?学校をつくるためではなく、目の青
い親分に上納する下準備として米俵を整えただけではないのか。
今の飢えを我慢した果てに待つのは、主食を上納したあとに到来
するさらなる飢えではないのか。米はむかしから民族の主食、国民
食である。大事な食べ物である。これを麦製の酵母饅頭に全面的
に変えることは、すなわち、おまえは何人なのかということになる。

 郵貯と簡保資金とは、言うなれば主食の米のようなものである。
これを宗主国に上納することが、9/11の選挙戦の意味なのか。
ケインズ型からフリードマン型に構造変化をするということは、単に
横文字経済学の変化を意味することではない。マルクス経済学は
共産主義国家が破綻して歴史に埋もれ、忘れ去られた。問題は、
ここで、マル経と同列に見られたケインズ革命の精神も歴史の忘
却の彼方に追いやられて無効化に向かったことである。代わりに
新自由主義(ネオ・リベラリズム)、すなわち現在の米国型の経済
体制しか突破口はないと日本人が思い始めたことは、国家の命運
を左右しかねない大問題であり、まさに巨大なる民族的な錯誤だと
言えよう。この過てる思いこみの延長上に、米(郵政資金)をアメリ
カに年貢米として上納する方図しかないと決めたのなら、政府はそ
の見返りをアメリカに求めることが政治の要諦であろう。

 しかるに、小泉首相はその見返りさえ何も求めず、ただ言われ
るがままに唯々諾々と従っただけである。なんのための阿諛追従
なのか。見返りに核武装の約束を取り付けるくらいのことはやるの
が一国をあずかる宰相の役目だろう。米(郵政資金)を米(アメリカ)
に貢ぐなど、たちの悪い洒落ではすまされない。

 ケインズ主義、ケインズ革命などとと言うと、知識人たちは、行き
詰まった公共投資が廃れた今、ほとんど有効性のないがらくたの
ような経済学だという扱いをしているようだが、日本はこの経済学
を歴史のどぶに棄てる前に、今一度、ケインズの日本的な進化形、
発展形を考える道が残されている可能性を追求した方がいいと自
分は思う。少なくとも今、小泉・竹中路線が遂行している亡国型経
済体制よりは国家サバイバルの可能性を濃密に有しているような
気がする。

 問題は、ハイエクやフリードマン的経済思想が、人間の優し
さや環境の大切さ、民族性、伝統観念など、これら人間の生存
要件にまつわる諸々の局面に、ことごとく親和性を持たないと
いうことにある。効率と金融工学だけの機械論的世界観をベー
スにした優勝劣敗経済は、日本人のもともとの性質をいちじる
しくゆがめてしまう効果をもたらしている。言うなれば、これは「反
経世済民」思想というものである。

 これが、小泉純一郎の考える、バカでもチョンでも、ただケンカ
に勝ちさえすればいいのだのというチンピラ気質にぴったりと合
ってしまった。こういう者たちが得意とするフレーズは、造反派撲
滅、利権体質一掃、金権腐敗退散、時代の進歩に追いついて
いけないやからなどのレッテル貼りをして、日本人の世界観を有
した貴重な勢力を、旧弊的構造派として排斥することにある。

 こういった、破壊しか考えていない者たちの金科玉条は、変化
を肯定し、最優先せよなのだ。アルビン・トフラーの時代予測は
非常におもしろいのだが、彼の思想の背後には、暗にフリードマ
ンと通じるアメリカ至上主義がかいま見えている。

 日本人は新規なものの考え方に弱い。それだけ欧米に強い関
心を抱く性向を持つわけであるが、気をつけないと、あちら製の思
想には、おもしろさとは別に皇統を断絶しようとする意志が内在さ
れている場合が多い。

 小泉首相自身には多分、はっきりとした自覚はないだろうが、彼
が今進行させている「構造改革」とは、フリードマン的世界観に日
本人の心持ちを改造する計画の一環なのだと断言できる。これこ
そ、かつて三島由紀夫が、その鋭い洞察力で垣間見た近未来日
本の姿そのものであろう。

      三島由紀夫の有名な予言的言辞

         ↓

   「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
    このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないか
    といふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代は
    りに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、
    富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残
    るのであらう。」

  
 この予言の中の、「経済大国」というのもプラザ合意まではたしか
に当たっている。「無機的な、空っぽな、ニュートラルな」というのは、
舗装用転圧ローラーに圧搾される路面のように、今の日本人の精
神を功利主義や虚無主義、刹那主義に塗りつぶしている様相を示
している。これらは、今の日本に襲来する市場原理至上主義が内
包する世界観の嵐のことである。

 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/(山崎行太郎氏の毒蛇山荘)

    参考図書

 佐藤優「国家の罠」(新潮社)

 

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◎小泉内閣が行おうとしている日本解体の姿を見よ

 (18)ペットボトル文明・敷島文明

 ◎小泉内閣が行おうとしている日本解体の姿を見よ

今まで徐々に進んでいた経済構造の変形は、小泉政権が発
足してから急速に加速している。

 佐藤優氏の「国家の罠」を参照して言うが、日本は内政的に、
ケインズ型の公平配分路線から、ハイエク、フリードマン型の
傾斜配分路線への転換が、小泉内閣登場によってより先鋭化
してきた。この動きは橋本内閣時代から緩慢に進んでいたが、
小泉政権下に移ったとたんに、転換しつつあるこの二つの社
会構造の間にあった緩衝領域は完全に取り払われた。この事
象を端的に示しているのが、ホリエモン、村上世彰、三木谷ら
IT成金たちの登場である。

 現在、急速に社会構造の相転換が起きているのだが、大部
分の人々はこの激烈な変化に無関心であり、バブル破綻以来、
国民に重苦しくのしかかっていた閉塞感から脱却できるなら、
まあ何でもいいかという感じである。国民全体を蚕食するこの
投げやりな気分の中、小泉内閣は構造改革を高らかに唱導し、
国民の無関心をいいことに、裏では日本国の息の根を止める
社会構造の改変を進めている。

 自分も経済学にはまるで門外漢に近い人間なのだが、小泉
首相はもっとひどい門外漢に感じる。なぜなら、彼自身の口か
らマスコミを通じて日本経済の概要や展望を語るのを一度も耳
にしたことがないからである。構造改革という言葉はいつも威
勢よく口にするが、経済のどういう部分をどういう風に変えて行
くかを、政治経済のトップの位置にある者が一度も見解を披露
しないのは異常である。

 小泉首相は国会答弁中に再三再四このように言う。政策や
法案の内容をつまびらかに言うのは自分の役目ではない。そ
れは専門家連中が突き詰めることであって、自分はおおまか
な方向性を指摘するだけだと。確かに、総理総裁たる者は、政
策の概要を把握して、大きな方向付けをやるという重要な判断
力を求められるだろうし、国民も国会議員もそのために彼に権
力を付託している。しかし、国家の運営を任される以上、国政
指針の最低限度の説明責任は果たすべきである。

 小泉首相の指針演説などには、肝心の国政の柱となる考え
方がまったく示されていない。それどころか、日本の経済構造
を米国型の経済構造に切り替え、社会構造さえもそのように
変革して行きたいという、一番単純で明確な方針説明 さえや
らないのである。彼は、自民党をぶちこわすとか、官僚政治を
ぶちこわすとか威勢のいい発言はよくするが、日本をアメリカ
型の構造に転換するなどという本音はけっして言わない。竹中
平蔵は、日本の経済構造をアメリカ型に転換する中心軸的な頭
脳として機能している人物である。しかし、彼もまた、経済学者
でありながら、今アメリカを発生源として日本に波及している大
きな経済的津波が、いったいどんな性格のものであるかをいっ
さい言わずに押し黙っている。それは、アメリカが採用している
新自由主義の潮流が、日本の社会風土にとって、おもいっきり
いかがわしいものだからである。この潮流を引き入れるゲートを
開くこの男が、日本人全般に対して犯罪的な後ろめたさを持っ
ているからである。

 経済門外漢、ど素人の自分でさえ、今の内閣が押し進める構
造改革の方向性が、概略的に言って、市場経済におけるケイ
ンズ型の国家介入重視路線から、ハイエク型・フリードマン型
の新自由放任主義路線への構造変換であることにはっきりと
気がついてるのだ。

 なぜ、国政を預かる最高位の宰相がこの概略的展望を国民
に向けて言えないのだろうか。ここに、小泉純一郎・竹中平蔵
スクラムで進められている構造改革路線の最大の欺瞞性、イ
ンチキ性が潜んでいるのである。このインチキ性の最大の本質
は、彼らの遂行する構造改革の本質が「国柄破壊」だというこ
とである。この事実を隠すために彼は愚にもつかない小手先の
パフォーマンスで国民の耳目を眩ましているのである。

 国民が小泉首相の低俗なパフォーマンスに安易に誤魔化さ
れてしまう背景には、テレビ世代として育った国民に、テレビ情
報を無批判的に受け入れてしまうという大衆サイドの習慣性の
問題がある。テレビ業界が行う愚民教育番組の無節操な垂れ
流しに対して国民が免疫性を持たない現実がある。これについ
てはメディア論の重要な要素であるから、言いたいことは多くあ
るのだが今はやめておく。ただ、言えることは、9/11の総選挙
では、テレビが行っている愚民化推進姿勢の実利的な効果が
はっきりと出たことだけは確かである。

 日本という国は、過去、権力者を掲げるときに、彼に対して通
常の一般人以上の徳性をきびしく求めていた。大衆は、人の上
に立つ者にはそれなりの人徳と強い人格陶冶を無言で求め、
当の本人もそれに沿うために、厳しい克己心と不断の人間的、
社会的素養を積む努力を惜しまなかった。しかし、現在の日本
には徳や道徳、高潔な人格などという言葉は、為政者にも大衆
にもすでに死語となり果てている。この高潔な徳性を求める社会
を決定的に崩壊せしめたのは、教育基本法の精神と、テレビと
いう公器の出現であった。教育基本法は教育勅語に対する反意
として登場し、テレビが供給している大衆娯楽番組は、古来から
日本人に伝承されていた伝統的な美質をすっかり奪い去ってし
まった。それほど、テレビという報道媒体は影響力が大きい映像
メディアなのである。

 この民族的な精神の危機に乗じて、今フリードマン的な世界観
の津波がこの敷島の日本に一挙に押し寄せている。

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2005年12月 2日 (金)

◎西村眞悟議員を擁護する

   ◎西村眞悟議員を擁護する 

 西村眞悟衆議院議員が弁護士法違反で逮捕されてしまった。こ
れは実に大きなできごとであり、暗澹たる思いを抱かせる。彼に批
判的な者や敵視している陣営にとっては好ましいことかもしれない
が、憂国心情を持った人たちにとっては大問題である。

 西村眞悟氏が国家のために貢献した事跡はことのほか大きい。
まず、彼が防衛政務次官であったころに、物議をかもして結局は
辞任に追い込まれた発言がある。それは日本核武装論の提起で
ある。シナ、北朝鮮、韓国などの敵性的周辺国が、日本人の東
京裁判史観につけ込み、多額の賠償や内政干渉を慣例的に行う
という昨今の傲岸不遜な姿勢や、東シナ海の領海侵犯的天然資
源開発などの主権侵害行為が実行されてきたことを鑑みれば、
先進国として核武装論を考えるのはごく当然の話である。これを
不穏当として反射的に否定して叩く方が見識の欠落した感覚で
ある。

   尖閣諸島の領土問題で、西村氏は上陸して日本国旗を掲げた。
これは、日本人として立派な行動であり、見習わなければならな
い模範である。この行為は、右翼とか愛国思想などという思弁的
範疇を越えていて、やむにやまれぬ情念の発露としての行動であ
る。政治的駆け引きや、戦略的条件の外側にある発意が為したも
のであって、まさに西村眞悟氏らしさの真骨頂というべき行動であ
った。領土や主権を主張するいかなる弁舌よりも、日の丸国旗を率
先して打ち立てるという単純で鋭利な行動こそが、日本人同胞の血
を滾らせたのである。日本人はおしとやかで静かなたたずまいが信
条の国民である。それがあるから、やるべき時には、静かな情熱が
凝集して簡潔な行動様式を迷いなく選ぶのである。これを体現した
西村氏こそ、忘れかけた原日本人と言うべきモデルなのである。

 自分は最初にこの話を知ったとき、なぜかオーストラリア・シドニ
ー湾で特攻作戦に出た特殊潜行艇の乗組員であった松尾敬宇海
軍中佐の死に様を想起した。打算のない行動様式という脈絡にお
いて、西村氏の魚釣島上陸も理屈抜きに訴えるものがあった。

 西村氏は、北朝鮮による拉致問題を、参議院予算委員会にて
最初に公的な場に持ち込んだ人である。拉致犯罪の元凶が何に
よるものか、わかっている人たちはいるにはいたのだが、その犯
人を北朝鮮であると公の場で言明した功績は大きい。

 小泉首相の国家展望なき亡国施政をストレートに批判した。日本
に、精力的にマーケット原理至上主義を敷いている小泉純一郎を、
「狙撃されて当然の男だ」と非難したこと。狙撃という表現は、たし
かに不穏当すぎる言葉であり、勇み足だと思うが、その心情にお
いてはまったく自分も同じ気持ちである。日本国総理大臣の地位
にある者が、日本国に馴染まないどころか、国益や国家主権を著
しく毀損しかねない社会構造の変革を独断的に完遂しようとしたら
誰かが諫めなければならない。この状況が今の日本なのである。

 幕藩体制の江戸時代、殿様が誤った政(まつりごと:政策)を考え
出して実行しようとする時、家臣が命を懸けてそれを諫めるという
風習があった。山本朝朝の「葉隠れ」の中に、常朝が若いとき、あ
る家臣を見て、「奉公の至極の忠節は、主(あるじ)に諫言(かんげ
ん)して、国家を治むる事也」とある。小泉内閣による施政の根本
的な誤謬によって、年間三万人を数える自殺者が出ている現実は、
「生みの苦しみ」などということとはまったく別次元の政治的失策が
原因となっていることは間違いない。

 特に、中小零細企業経営者に塗炭の苦しみを嘗めさせる経済政
策は、政府系金融機関の一本化で、ますます経営者の首を絞める
ことになるだろう。これは明らかに棄民政策である。この状況に罪
責を感じない宰相は国政を預かる資格を有しない。それどころか、
この内閣を継続させたら、ますます無辜(むこ)なる人間に犠牲者
が増えることだろう。

 日本の内閣制度は、アメリカの大統領制とは異なり、首相が個人
的に強権を発動することは滅多にない。法案策定も、国家的問題も、
宰相が単独で判断して政治的決断に至るということはそうそうでき
ないシステムになっている。敵対的な政策遂行よりも、親和的な遂
行を選ぶ慣習が常識化されていた。この形は、昔から地方におけ
る村落共同体の常会の習わしが示すように、基本的には合議制が
取られていた歴史に基づいている。日本の代議制は、欧米の形態
を凝らしてはいるが、その実体は昔ながらの村落共同体的空気に
よって運営されるものであった。しかし、その空気を今回の小泉首
相はことごとく消滅させ、首相の独断的専横を可能にしてしまった。
この危険な状況をもたらしたのは、彼を衆愚的に指示した国民が
無知だからである。

 本来なら、参議院で否決された郵政民営化法案を白紙状態にし
て内閣が総辞職するべきところを、「郵政民営化、賛成か反対か」
という、本質からはずれた二元論で、無理やり解散総選挙に打って
出た。選挙では、テレビメディアを最大限に利用して郵政自民党を
巨大化させてしまった。小泉首相お得意のワンフレーズ・ポリティ
クスは執拗に繰り返され、まるでナチ親衛隊宣伝省のゲッペルズ
の洗脳手法を採用したかに見えた。

 時の宰相が、もし、法律の不備を衝いて反日的な政策目標を密
かに立て、表面では景気浮揚や愛国姿勢を謳った場合、議会制
民主主義の中で、誰もそれを諫めたり阻止したりできない状況下
にあるとすれば、国民の誰かが超法規的な行動を起こして首相権
限を剥奪しなければ時代は暗黒政治へ向かうだろう。この場合、
それを防ぐ有効な手段とはなんだろうか。

 端的に言えばクーデターか狙撃である。この場合、行為において
は当然刑法に抵触するが、国家的見地における時代の救国要請と
しては仕方のない場合もあるのではないだろうか。はっきり言って、
現代日本のように、要人の襲撃がまったく起こらない時代は近代
国家成立史の中では却って異常なのではないだろうか。日本は今、
国家が擬似的爛熟期に入っている。こういう時は国民精神が退嬰
し、外部からの侵入に無防備になるのではないだろうか。内閣の
施政に命を賭けて反対する者がいない時代とは、国家の衰退を
意味すると自分は考えている。あまたの国民は経済的不満を感
じているが、思想的に、あるいは民族自尊的に今の現状に憂いを
じる者は表面的には至って少ないと感じるのは自分だけだろうか。

 このように国民が全体的に凋落し、国家意識や正統なナショナリ
ズムが低迷した時は、西村眞悟氏のように吼える政治家が必要な
のである。その意味で彼の存在は非常に貴重であり、特に危険な
内閣を抱えた今、彼のような愛国情念は国家にとって不可欠なの
である。

あと、彼の功績では、人権擁護法案反対とか、女帝問題とか、西
村氏入魂の愛国的言論活動はつとに重要である。

 このように、今の日本が陥っている深刻な窮状に、まっこうから正
論を叩きつけるこの政治家は、ぜったいに健在であってほしい。これ
ほどの愛国的政治家を、なぜ今、表舞台から引きずりおろさなけれ
ばならないのか。国家の損失になるとは考えないのか。今、彼を引
きずり落とすことによって、どれほどの国家的損失を被るか考える
想像力はないのだろうか。彼の逮捕には国策捜査という真意がは
たらいていないだろうか。

 日本という国柄が融けかかっている昨今、本物の愛国政治家の
存在意義はきわめて大きい。

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