2008年06月14日
ブログの議論は金曜8時。
えっと、最近の拙ブログにはいくつかの流れがあるわけですが、これは
アキラさんとの対話。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51407510.html
http://blog.livedoor.jp/jabberwock555/archives/51309330.html
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51407881.html
および各コメント欄の流れの延長戦にあるものだと思ってください。
(「ほかの流れ」も大きな影響を与えては、います、が・・・早い話が戦闘モードではないということです)
アキラさんとの対話。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51407510.html
http://blog.livedoor.jp/jabberwock555/archives/51309330.html
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51407881.html
および各コメント欄の流れの延長戦にあるものだと思ってください。
(「ほかの流れ」も大きな影響を与えては、います、が・・・早い話が戦闘モードではないということです)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ネットでの議論の仕方について「書いてないものは書いてない」派と「解釈はあり」派に峻別するアキラさんの考えを見ながら、ずっと考えていたのは「そりゃ、その通りなんだけれど、なんかすっきり腹に落ちない」ということでした。
それがどういうことかというと、
「議論の仕方を間違えた」という評価があったとして、でも、それは何を軸にして「間違えた」ということなんだろう。
論理的にか、道徳的にか、戦略的に、戦術的には・・・などなど。
ネットの議論のやっかいなところは、どれほど論理で押さえ込んでも、押さえ込まれた側が「負けてない!」と強弁したら「引き分け」になってしまうところじゃないか、と、思っています。
過去の議論のなかで、「あんたは正しいけど、負けた」というようなめちゃな評価をいただいたことがあり、それに関してはいまでも、ふざけんな、と、思っているわけですが、軸を変えれば、そういう評価もあり得る、というのは認めなくてはいけない。
で。
一気に結論に向かってしまうわけなんですが、
結局のところ、ネットの議論で最優先すべき軸とは「ギャラリーの視点」なのではないか、ということです。
「ネットの議論は私闘」という素晴らしい正論(笑)がありましたが、競技的なルールなどはない。言葉での議論は、どれほど相手を完膚無きまでにやっつけても、相手が戦闘不能になるわけではない。「負けてないモン!」という相手を、とりあえず「ブログというアリーナのなか」ではどうにもできない。
「負けてないモン!」という声を「負け犬の遠吠え」にしか思えなくする、というのが「ギャラリーの視点」ということになる。
ブロガーA、Bが議論をして
「どうみてもAの方が正論」とギャラリーの70%が思ってくれれば「勝ち」となる。
(えっと、これは敵対的議論の場合です。アキラさんと私のような友好的対話の場合がまったく違うのはいうまでもない)
こう考えてみると、ブログでの議論で最悪のやり方というのは(過去何度かやっちまったこともありますが)
・相手が1000字の議論を仕掛けてきたときに、10000字の反論を返す・・・というやり方です。
本当は、これが「正しい」。相手の「間違い」というものを、覆すのには、事実関係や論理構築の面からさかのぼって崩さなくてはいけないわけだから「誠実な議論」を心がければ心がけるほど長くなる。
でも、そうすると、ギャラリーは「こんな長いもん読めないもん」となり、「ま、どっちもどっちなんだろうな」というパブリックイメージしか得られなくなっちゃう。長い時間を掛け、情報を集め、論理構築力の限りを尽くして、相手の議論を覆したにもかかわらず、これほど不当な話はない。
では、どうすればいいか、というと。
「相手の冗長な攻撃をだらだらとさせたあと、強烈な返し技1、2、3で一気にケリをつける」
早い話が、プロレスです(爆)
(えっと、私がいうプロレスというのは1980年代中盤ぐらいの新日本プロレスと考えてください。長州が藤波にケンカを売り、アニマル浜口と維新軍団を結成し、藤原義明が乱入し、わけがわからなくなった、というあたり。あのころの金曜8時は毎週生中継でのプロレス中継で・・・もちろん、プロレスというのは「ある程度、筋書きのあるドラマ」だと思うのですが・・・あと10分で、どう「調理」するのか、イメージしながら「当たった」「はずれた」と見るのは、本当にわくわくドキドキないベントであった)
話を戻せば、相手に最大限のデモンストレーションをさせ、「誰が見ても、議論の根っこになっている」部分を、ラリアットからスコーピオンデスロックで押さえ込んだら、勝ち。
というようなことに気がついたのは、
たんぽぽさんのところで、地下に眠るMさんの議論を見たからでありました。
未読の方は、ぜひ、ご一読を。そのタイガースープレックスの切れ味はエキサイティングの一言でした。久々の大型新人登場!という感じ(新人かどうかはわからないけど)
こういうことを書くと「邪道だ」という人もいるけど、もちろん私はいまでもブログというのは(各個人レベルの)真実探求の場であると思っている。でも、そこで起こる議論が、おたがいの知性と情報力を高める好結果をもたらすことはほとんどない。単なるノイズにすぎない場合がほとんどだ。だとしたら「くだらんケンカはさっさとけりつけて」しまったほうが「真実探求」という目的にもかなうことになる。なにより「1000字の議論に10000字で返して、どっちもどっちといわれてしまった徒労感」を知らない人にはいわれたくない。
で。
こういう観点をもちこんで、アキラさんとの対話を、もう一度トレースしてみると、別の答えが出てくるような気がする。めんどくさいから、私はしないが(<おい)
まだまだ未熟だ。jabberwock。
憧れの地下に眠るMさんを、夜空に浮かべて、頬を紅潮させながら、議論スクワットをはじめるしだいでありました。
ネットでの議論の仕方について「書いてないものは書いてない」派と「解釈はあり」派に峻別するアキラさんの考えを見ながら、ずっと考えていたのは「そりゃ、その通りなんだけれど、なんかすっきり腹に落ちない」ということでした。
それがどういうことかというと、
「議論の仕方を間違えた」という評価があったとして、でも、それは何を軸にして「間違えた」ということなんだろう。
論理的にか、道徳的にか、戦略的に、戦術的には・・・などなど。
ネットの議論のやっかいなところは、どれほど論理で押さえ込んでも、押さえ込まれた側が「負けてない!」と強弁したら「引き分け」になってしまうところじゃないか、と、思っています。
過去の議論のなかで、「あんたは正しいけど、負けた」というようなめちゃな評価をいただいたことがあり、それに関してはいまでも、ふざけんな、と、思っているわけですが、軸を変えれば、そういう評価もあり得る、というのは認めなくてはいけない。
で。
一気に結論に向かってしまうわけなんですが、
結局のところ、ネットの議論で最優先すべき軸とは「ギャラリーの視点」なのではないか、ということです。
「ネットの議論は私闘」という素晴らしい正論(笑)がありましたが、競技的なルールなどはない。言葉での議論は、どれほど相手を完膚無きまでにやっつけても、相手が戦闘不能になるわけではない。「負けてないモン!」という相手を、とりあえず「ブログというアリーナのなか」ではどうにもできない。
「負けてないモン!」という声を「負け犬の遠吠え」にしか思えなくする、というのが「ギャラリーの視点」ということになる。
ブロガーA、Bが議論をして
「どうみてもAの方が正論」とギャラリーの70%が思ってくれれば「勝ち」となる。
(えっと、これは敵対的議論の場合です。アキラさんと私のような友好的対話の場合がまったく違うのはいうまでもない)
こう考えてみると、ブログでの議論で最悪のやり方というのは(過去何度かやっちまったこともありますが)
・相手が1000字の議論を仕掛けてきたときに、10000字の反論を返す・・・というやり方です。
本当は、これが「正しい」。相手の「間違い」というものを、覆すのには、事実関係や論理構築の面からさかのぼって崩さなくてはいけないわけだから「誠実な議論」を心がければ心がけるほど長くなる。
でも、そうすると、ギャラリーは「こんな長いもん読めないもん」となり、「ま、どっちもどっちなんだろうな」というパブリックイメージしか得られなくなっちゃう。長い時間を掛け、情報を集め、論理構築力の限りを尽くして、相手の議論を覆したにもかかわらず、これほど不当な話はない。
では、どうすればいいか、というと。
「相手の冗長な攻撃をだらだらとさせたあと、強烈な返し技1、2、3で一気にケリをつける」
早い話が、プロレスです(爆)
(えっと、私がいうプロレスというのは1980年代中盤ぐらいの新日本プロレスと考えてください。長州が藤波にケンカを売り、アニマル浜口と維新軍団を結成し、藤原義明が乱入し、わけがわからなくなった、というあたり。あのころの金曜8時は毎週生中継でのプロレス中継で・・・もちろん、プロレスというのは「ある程度、筋書きのあるドラマ」だと思うのですが・・・あと10分で、どう「調理」するのか、イメージしながら「当たった」「はずれた」と見るのは、本当にわくわくドキドキないベントであった)
話を戻せば、相手に最大限のデモンストレーションをさせ、「誰が見ても、議論の根っこになっている」部分を、ラリアットからスコーピオンデスロックで押さえ込んだら、勝ち。
というようなことに気がついたのは、
たんぽぽさんのところで、地下に眠るMさんの議論を見たからでありました。
未読の方は、ぜひ、ご一読を。そのタイガースープレックスの切れ味はエキサイティングの一言でした。久々の大型新人登場!という感じ(新人かどうかはわからないけど)
こういうことを書くと「邪道だ」という人もいるけど、もちろん私はいまでもブログというのは(各個人レベルの)真実探求の場であると思っている。でも、そこで起こる議論が、おたがいの知性と情報力を高める好結果をもたらすことはほとんどない。単なるノイズにすぎない場合がほとんどだ。だとしたら「くだらんケンカはさっさとけりつけて」しまったほうが「真実探求」という目的にもかなうことになる。なにより「1000字の議論に10000字で返して、どっちもどっちといわれてしまった徒労感」を知らない人にはいわれたくない。
で。
こういう観点をもちこんで、アキラさんとの対話を、もう一度トレースしてみると、別の答えが出てくるような気がする。めんどくさいから、私はしないが(<おい)
まだまだ未熟だ。jabberwock。
憧れの地下に眠るMさんを、夜空に浮かべて、頬を紅潮させながら、議論スクワットをはじめるしだいでありました。
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1. オカルトは嫌いじゃないんだが [ 百丁森の一軒家 ] 2008年06月14日 21:13
小説とかね、よくできたオカルトはけっこう楽しく読む。でも、社会生活で、とりわけ問題解決が必要な局面で、そういう概念に基づいて発言されたら、やはり、「勘弁してよ〜」ということになる。 何故かというと、オカルト的体験とかそれに基づく「理論」て、他人同士が
2. 「すべての被差別者」云々は「その被差別者」を隠蔽しようとす [ nagonaguの日記 ] 2008年06月14日 23:14
チェーホフの「かもめ」におけるダイアローグは、互いに交わることのない虚空に響くモノローグの連鎖のようである。コミュニケーションについて思いをめぐらしながら、そんなことを思い出した。 ■ 自己のことしか語らず、相手の状態や考えに関心を払わない人物は、精神分
この記事へのコメント
1. Posted by ちょちょんまげ
2008年06月14日 14:18
猫さんはすごいですよね。
でも、私はやっぱり彼には「直接的な罵倒」は控えてもらいたい。
もったいないと思うことしきり。
でも、私はやっぱり彼には「直接的な罵倒」は控えてもらいたい。
もったいないと思うことしきり。
2. Posted by たんぽぽ
2008年06月14日 15:11
地下に眠るMさん、すごいでしょう?
わたしとは、ネット上の旧知だけど。
(ユングについての、たんぽぽの師匠なんて
おっしゃったかたもいたけど。(笑))
わたしとは、ネット上の旧知だけど。
(ユングについての、たんぽぽの師匠なんて
おっしゃったかたもいたけど。(笑))
3. Posted by
nagonagu
2008年06月14日 23:17
あの場での地下に眠るMさん、この世の人とは思えなかった。なんか「降臨」という言葉がすんなり出てくる。
4. Posted by
アキラ
2008年06月15日 08:41
やっぱり論に「枝葉」がないほど、強烈な返し技になるんじゃないでしょうかね。
反撃の糸口が見当たりませんから。 (^o^)
反撃の糸口が見当たりませんから。 (^o^)