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デッキで、こだまする、静寂。 Tattakaの日記 RSSフィード

2008-06-19 [雑談]日雇い・アキバ・インターゾーン このエントリーを含むブックマーク

mixiより転載して再編集

日雇い

そういえば、専門(学校)の非常勤(講師)の日雇い労働化について、過去に山田大輔も日記に書いていたけれど。

たくさんの学校を知るわけではない。ただ確かにここ10年あまりの間に、非常勤講師に対する学校側の態度も変化してきた。外部の講師は扱いにくく、ルールを逸脱しやすいかもね。けれどだからって歴然と常勤講師が「管理」、非常勤が「日雇い」という形に収斂していくこの状況はどうよ?

一般派遣労働が本来的(名目上?)には技術者だったり、ある種の特殊な能力へ期待されてた筈が、いつでも首が切れる便利な労働力とみなされてきた過程と呼応する。対価や拘束ではもちろんましだとしても。

でも「教育」だからね忘れてしまいがちだけど。

講師の他に、警備員や日給での労働を転々としたりしなかったりしたが、サラリーマンとの違いは歴然。抑圧と屈折、必要な規律の他に、横行するつまらない差別、目に見えない圧力。

おそらくは日雇い労働の屈折はサラリーマンにも遡及する。

会社もまた、じっと本当に働かない人が一番守られるという理不尽。今は違うのかしら?でもそういう人は叱られようがなにしようがまず辞めない。

そんなこんなで、常用雇用の労働力も低下し、劣悪な環境での一時雇用に頼る悪循環は日に日に増す。

アキバへ車で]

あの事件についてあまり知らない。テレビとかで得る情報くらい。

みなそうだと思うが情報が溢れすぎててウンザリする。

とはいえ気にはなる。やれやれ。

あの人がオタクかどうかもよく知らない。変なナイフ買うくらいだからミリタリー好きなんだろう。普通に工場で働けるし車も乗れる。

彼を叩く気持ちはよくわからない。犯罪や人殺しが悪いという話は一般論で、殺す彼の気持ちがわからないのに殺された家族の気持ちはわかるという不遜さはなんだろう。

小学校でも中学でもクラスで人を苛める気持ちはわからない。だから結果的に苛められたりもする。

抑圧される人の気持ちをわかりたくない人は抑圧する側に立つことで、自分は違うという意識を保つとでも言うのだろうか。ならば抑圧された人を作った人はその抑圧の結果にも責任を持つ必要がある。理屈から言えば。

普通に考えれば殺した人を憎み、殺された人を憐れむならば、殺す動機を作ったかもしれない自らを戒めるだろう。その程度の想像力が欠如した社会ならばいくらでも人は人を殺す。

車を借りて走るならば、なぜ旅に出ないのか。

わざわざ福井(だっけ?)でナイフを買って、静岡で車を借りて秋葉原に行く。

そこまで揺らぐことなく目標を定めなければ可能にならない犯罪だということはイメージできる。

仮に車で移動中に人を跳ねたら違ったか。おそらくは人を跳ねないように慎重に現場に向かったのだろう。

その間にブログに記事を打つ。自殺や旅という選択肢はないというのはわかる。理解はできないが。

車の閉鎖された空間は外界を遮断し、窓の外の風景は直接の光景に思えなくなるとしても、ドアを開けて外に出れば風に当たる。救助してる人を背後から刺すということは、意識的に行為を認識し、狙って刺したということだろうか。

わからなくなる、考えれば考えるほど。

インターゾーン

 映画作家デヴィッド・クローネンバーグは、そのフィルモグラフィの初期において、思惟により現実が変容すること、とりわけ身体の変容について著しい関心を示しているが、ある時期からそうしたテーマは控えめになり、より現実的なドラマに移行してきたようにみえる。

 だがそうではなく、イメージの物質化として描かれたテーマが、やがてイメージの中における身体の問題へと拡張してゆくと考えれば、『デッドゾーン』『戦慄の絆』を間に挟み、今日の身体的アクションへと彼の関心が移行していく軌跡がけして突然の転向でないことがわかる。

 ところで、そうした過程の中で作られた『裸のランチ』の映画化ではインターゾーン表象に失敗しているようにみえる。その大きな要因はおそらくイメージされざるイメージを現実の外部に設定しようとしたからではないだろうか。

 イメージされたものが物質化し現実に表象されることのみではなく、イメージされざるイメージが現実に溢れる事態が訪れていると考えた『イグジステンズ』においては、ヴァーチャルな身体がイメージされた世界で傷つくことにで、イメージへ遁走する身体に青山真治の言葉による「実感」を与えようとしているようにも思える。

 冒頭で述べた最近のアクション/身体へのクローネンバーグの関心も、ヴァーチャルな世界の中での身体性の回復と非現実からの現実の奪還として理解されるし、そこでは救済より「修復」というテーマが散見される。

 村上春樹もまた『アフターダーク』以降(ではないが強いて言えば)、洗練した語りを放棄してでも、現実に貫入するイメージの強度とその危険もしくは可能性を記述することに力を注いでいる。

 個人がイメージする能力の退行は、現実のイメージ化もしくはイメージの現実化と平行して起きており、「イメージすることの回復」こそが現実の危機を回避する手だてとしてアクチュアルな問題に思えるというのはこうしたことからも考えられる。

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