英語風に読めば、わがイニシャルはKY。これがこのところ、顰蹙(ひんしゅく)を買う言葉になってしまっている。「空気が読めない」と。言われる度に、居心地の悪さを感じたりもしていたのだけれど、その居心地の悪さは、言葉に対する反発から来るものと悟った。
「空気が読めなくて何が悪い」そう思うのだ。空気を読むなんて、迎合と言い換えることだってできるではないか。受け売りも多分に入ってはいるが、国民の多くが空気を読んだ結果が戦前、どこへ突き進んだか。大政翼賛会なんて、空気を読んだことの象徴的ありようではないのか、と。
先日、岡山大で講義した折、自らを鼓舞する意味も込めて、「本当に空気を読むっていうのは、雰囲気に流されるのではなく、冷静に時代を見極めること。それがジャーナリズムの本来のあり方」などと、少しいい格好過ぎるかなと思いつつ言ったら、けっこう共感を呼んだ。
打てば響く若者の姿に安(あん)堵(ど)しながら、「一丸」とか、「一枚岩」とか、組織に檄(げき)を飛ばすには便利な言葉ではあっても、異端排除、ひいては全体主義の危険性をはらんでいることを心しなければならないと自戒した。
そもそも、民主主義というのは、いろんな空気の中に住む人間がいて、けんけんごうごう、かんかんがくがく議論しながら、落としどころを見つけていくものではないのか。いろんな空気の中に住み、いろんな意見を持っていること、それを個性と呼ぶ。個性を尊ぶ社会こそ健全なのだと、KYのイニシャルを持つ男は、強く叫ぶのだ。 (特別編集委員・横田賢一)