<民博の群像>次代を担う(1)ゼミ発表、辛口で人材育成

 
              
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<民博の群像>次代を担う(1)ゼミ発表、辛口で人材育成

2008/06/04配信

国立民族学博物館でフィールドワークの研究指導をする関雄二教授(中)=大阪府吹田市
国立民族学博物館でフィールドワークの研究指導をする関雄二教授(中)=大阪府吹田市

「僕はね、そもそもフィールドワークに選んだ場所が間違っていると思うんだ」「研究の目的はぼんやりと分かったけど、それによってその村が良くなるのかどうかが見えてこないんだよなあ」。まるで速射砲のような質問の嵐の後、居並ぶ教員たちが助言や感想を述べたが、痛烈で辛口な発言が次々に飛び出した。国立民族学博物館(民博)の大学院演習室で5月29日に行われた、通称「総研大(総合研究大学院大学)1年生ゼミ」の授業風景だ。

 発表者は内田修一。厳しい意見にも、あまりひるんだ様子がないのが偉い。研究テーマは「西アフリカのソンガイ社会と開発援助」。内陸国ブルキナファソの東北部、主にソンガイ族の人たちが住む小さな村を対象に選んだ。

●2度現地入り

 国際援助機関や非政府組織(NGO)などが砂漠化防止の活動をしている地域で、内田は昨年、2度にわたって現地に入った。住民参加で進む事業への村民たちの反応や参加意識はどうなのか、荒廃地を農地に戻したり、植林したりするには先進国の技術だけではなく、村伝来の技術が要るが、その現状はどうか。内田は村民に聞き取りを進め、アンケートして、村社会の特性や変容を浮き彫りにしたいと考えている。

 援助する側が上から押し付けるのではなく、される側の住民が主体的に参加するボトムアップ型の開発援助は時代の要請。地域社会や文化の特性を踏まえた文化人類学的なアプローチが求められているが、日本では援助の現場で活躍する人類学者はまだ数が少ない。内田の研究テーマはきわめて今日的だ。

 内田は日本の国立大学でフランス文学を学んで修士号を取得したが、パリ大学に留学して文化人類学の魅力に取りつかれた。帰国後、広島大で学び、文化人類学の博士課程の研究の場として総研大を選んだ。

 総研大は「日本のトップレベルの研究機関が世界水準の研究者を育てる」を標榜(ひょうぼう)して1988年に開学。神奈川・葉山に本部を置くが、キャンパスはない。民博をはじめ国際日本文化研究センター(日文研)など国立の研究機関18カ所を学びの場にしている。博士課程だけの大学院だ。

 民博には89年、文化科学研究科の地域文化学専攻と比較文化学専攻が置かれた。博物館と同居する研究機関である民博に、新たに教育機関の役割も加わったわけだ。内田は比較文化学専攻。20期生になる。

 内田の発表には同期の1年生4人全員のほか、2年生も2人出席した。教員の数は院生を上回る8人。アフリカ、北米、台湾の専門家や、日本文化研究、民俗学、開発人類学のプロもいるから、多様な意見が出てきて当然だ。

●ホットな領域

 授業の進行役の教授は出口正之。国際NPO・NGO学会の会長を務め、今は理事。この分野の第一人者のひとりだ。「1年生ゼミは研究計画の発表から始めます。それを練り上げ、自分で考えさせるのが目的の授業で、本格的なフィールドワークに備えるのだから厳しくて当然」と話す。入学の際、「ゼミは厳しいよ」と言い渡してあるという。

 興味津々の様子で同期生の内田の発表を聴いていたサウセド・瀬上・ダニエル・ダンテは日系ペルー4世。28歳だ。岡山大で修士号を取っている。その前週、彼もやはり1年生ゼミでしごかれた。「いろいろ言われました。でも、まあまあでした」と明るい表情で話した。

 研究テーマは「ペルーにおけるパブリック考古学」。これもホットな領域だ。考古学は学者だけのものではない。文化遺産とともに暮らす地元の人々や一般の人たち(パブリック)にいかに考古学に関心を持ってもらい、貴重な文化資源の保全活動などに参加を促すのか――。

 指導教官はアンデス考古学の専門家で民博の先端人類科学研究部長の関雄二。自ら指導する院生や若い研究者のために関が主宰する「自主ゼミ」を傍聴した。民博名誉教授の藤井龍彦の姿もあった。実に面白く、ユニークだと思った。何より、熱気に心が動いた。その模様は来週書くことにする。



 次代の民族学や文化人類学を担う若い研究者の卵たちが学ぶ総研大。そこでは民博に籍を置く第一線の研究者たちが真剣に指導に当たっている。「知の継承」が脈々と続いているのだ。総研大に集った人たちの群像を追いながら、民博の今を描く。=敬称略
(編集委員 中沢義則)


●収蔵品、30年で6倍に

 国立民族学博物館=写真=創設の調査費が付いたのは1971年度のこと。有識者による調査会議が文部大臣に基本構想を提出。73年4月、梅棹忠夫を室長とする創設準備室が誕生した。

 74年に国立学校設置法の一部改正法が施行され、民博の創設が正式に決まり、同年6月に創設。博物館施設の工事を終え、開館したのは77年11月15日。奇(く)しくも泉靖一の7回目の命日だった。

 渋沢敬三コレクションや日本万国博覧会世界民族資料調査収集団資料はすでに紹介したが、開館当時の収蔵品は多彩だ。

 代表が「旧東京大学理学部人類学教室資料」。1877年(明治10年)に来日、大森貝塚を発見・発掘した東大教授、エドワード・S・モース、日本の人類学の始祖、坪井正五郎、日本民族学の先覚者といわれる鳥居龍蔵らにゆかりの収集品で、まさに日本の民族学・民俗学の歴史を俯瞰(ふかん)できる。

 開館後もさまざまなコレクションが集まり、自前の収集も進んで、現在の収蔵品は25万7860点。開館のときの6倍になった。
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