日本軍の将校は泣いている少女の頭をピストルで撃った
高校日本史の教科書検定意見で沖縄戦の集団自決に日本軍の強制があったとする記述が削除されたり、米兵による犯罪や婦女暴行事件がくり返されていることに県民の怒りが広がっています。沖縄平和取材班(前号既報)の3人は沖縄戦体験者の仲松庸全さんを訪ねました。仲松さんは天皇制や日本軍の真実、米軍占領下の沖縄などについて私たちに語ってくれました。
私は生まれてから「皇民化教育」(注)を徹底して受け、骨の髄まで軍国主義者でした。県立一中の同級生はほとんど鉄血勤王隊に入りました。私は通信隊見習いとして首里受信所に配属されました。軍人勅諭や戦陣訓をたたき込まれ、日本男児
として天皇のために尽くすと、火の玉のような気持ちでした。
しかし、そんな私も次第に戦争への疑問を抱きはじめました。ひとつは、強制連行されてきた朝鮮の人たちが使い捨てにされていたことです。食事も与えられず酷使され、やがて銃弾にあたって吹き飛ばされる姿を見ました。慰安所の女性たちも見ました。
首里の丘から見ると、海岸はアメリカの軍艦で埋めつくされていました。本土から飛んでくる「日の丸特攻隊」は、ほとんど撃ち落とされました。首里も那覇もやられ、みんな北部や南部に逃げました。私も摩文仁(まぶに)に行くよう命令されました。途中、日本軍の壕に入れてほしいと頼んでも、「沖縄人はスパイだ」と断られ、岩陰に隠れていると、後から来た軍曹に「ここを空けろ。戦争は軍隊がするんだ」と軍刀を突きつけられました。
沖縄戦の終結は司令官の牛島満中将が自決した1945年6月23日と言われていますが、私たちは日の丸鉢巻と手りゅう弾3発を渡され、「最後の一兵まで戦え」と命令されました。爆撃で家族が全滅し、「絶対に復讐する」と言っていた仲間の1人が数日後、斬り込みに行ったきり、戻りませんでした。日本軍への疑問は日に日に強まりました。
隠れている壕の中には、毎日「出てきなさい」と日本語で訴える米軍の拡声器のが聞こえてきました。
ある日、小学2年生くらいの女の子が泣いていると軍の将校が近づき、ピストルで少女のこめかみを撃ちました。泣き声は止み、わずかに射す陽の中で少女の体が崩れ落ちるのが見えました。体が震えました。
1週間考え抜き、捕虜になる決心をしました。着ていたシャツを破って白旗を作り、撃たれる覚悟で壕を飛び出しました。将校が、「貴様、国賊たたき斬ってやる!」と叫び、私の耳元で日本刀が「ヒュン」と鳴ったのを覚えています。私は海に向かって駆け下りましたが、将校は追ってきませんでした。その時、私は17歳でした。
砂浜で、倒れているお母さんを3歳ぐらいの女の子が揺さぶっていました。どうすることもできず、私は海を見ながらただ歩くだけでした。岩陰に隠れていた人たちが次々と出てきて、私の前にも後ろにも長い列ができました。収容所に入れられ、私の戦争は終わりました。
「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」と言ったのは、ドイツの元大統領ヴァイツゼッカーです。事実を認めて、ふたたび過ちを繰り返さないと宣言することが真の平和への道だと思います。
米軍占領下の沖縄では銃剣とブルドーザーと軍用犬で土地が奪い盗られ、米兵に撃ち殺されても鳥とまちがったと言えば無罪になりました。ひき逃げされても罪に問えない。沖縄は戦前も戦中、戦後も「捨て石」にされました。日本国憲法は素晴らしいと思い、うらやましかった。
沖縄は1972年に本土復帰しましたが、アメリカ軍の基地は残され、苦悩は続きました。しかし今、教科書検定問題も、相次ぐ暴行事件に対しても、沖縄県民は決して泣き寝入りすることはない。本土の良識とむすびついた沖縄のたたかいは必ず
成果を生み出すし、ねばりづよくたたかえば見通しは生まれてくると思っています。
(注)皇民化教育 国内では天皇を中心とする大日本帝国への忠誠を国民に強要し、植民地や占領地域では強制的な同化政策が行われました。朝鮮や台湾では日本語が強制され、沖縄では沖縄の言葉を学校内で使用した児童生徒は方言札(罰札)を首から下げさせられました。