アザレアのまち音楽祭ディレクターの部屋

鳥取県倉吉市を中心に、アザレア(つつじ)の季節にかけて開催する「アザレアのまち音楽祭」のディレクターの部屋です。

舞台スタッフの逆鱗と利用者

 先日(6/11)、アザレアのまち音楽祭の定例幹部会(水曜日会)を開いていましたら、音楽祭事務所に倉吉未来中心の舞台関係職員がおいでになりました。御用の趣は、アザレアのまち音楽祭のホームページに掲載されているアンケート・コメント欄のコピーをお持ちになり、お伺いしたいことがあるとのことでした。ところが、お話を伺っていると、アンケート・コメントに対するディレクターの回答内容が実態とは異なるとの抗議だったのです。ところが、「抗議などではなく、実態を正確に把握していただくために、ディレクター・コメントの実際をお伺いしただけであり、認識の違いをご指摘させていただいた」とのことでしたが、形容詞を殺ぎ落とせば、ディレクターのコメントは間違った認識であると抗議に来たと解されても仕方ないものでした。
 その問題になったコメントは次ぎのようなものです。
「■照明⇒金澤さん、立ち位置が悪く、折角の柔和な顔が照明による影が出来ていました、残念。照明で言えば、マリンバの門脇さんの顔も「黒つぶれ」していました。演奏の障害になるのかもしれませんが、折角の美顔が映えない。
◆言い訳と反省⇒照明の問題は、会場である倉吉未来中心の運営組織の脆弱さを露呈したものです。事前にすべき作業が行われておらず、ゲネプロが始まってから照明器具を調整している有り様でした。ですから、ステージ前面には照明が当らず暗くなってしまったのです。確かに舞台正面からの照明は、マリンバの反射光が奏者の目に入り演奏の障害になることはあります。ですから上手い照明家は、サイドからソフトな光を当てるなど、工夫するものです。今回の、というより、これまでもそうですが、照明器具は扱えても照明のスキルが未熟だったのでしょう。この問題は、技術プロパーの責任だと思っています。」
 この様なコメントです。
 実は照明について、当日は問題がありました。ゲネプロの最中に舞台照明をいじり、明るくしたり暗くしたりするなど、指揮者はいらいらし、楽譜が読めず演奏が出来ない状況を作り出していましたので、ゲネプロが終わるまで照明はいじるなと指示を出しました。結局、そのままでゲネが終わって本番を迎えるまでに調整をしなかったという事なのでしょう。あれでは照明スタッフのサボタージュだとの認識を、私はしましたので「技術プロパーの責任」と書いたのです。つまり、「照明器具は扱えても照明のスキルが未熟」と揶揄した表現が、舞台責任者の逆鱗に触れたということでしょう。その怒りの矛先が、未来中心を利用する顧客たるアザレアのまち音楽祭事務局に向けられ、突然訪れて、丁重だが慇懃無礼な申し様でしたので、私は「殴り込みにおいでになったのですか」と問うほどでした。
 いろいろな話の中で、「ゲネプロの最中に舞台照明をいじり」との下りを示し、スケジュール表にはリハーサルと書いてあり、ゲネプロではなかった、との主張をされて、唖然としました。リハーサルは「単なる練習会」であり、ゲネプロは「本番そっくりに止らず演奏をするもの」との主張をし、リハーサルであったので照明をいじる事に問題はなかったと強弁されるのです。これには開いた口がふさがらず、まあまあということでお引取り願った訳です。専門家だってリハーサルとゲネプロの厳格な使い分けはしないものですし、本番直前にやるリハーサルは、まさにゲネプロだってことは自明の理です。そんな事を、鬼の首でもとったように屁理屈をつけて我田引水するさまは、プロなんかじゃなくド素人です。ホールスタッフの使命は、「演奏家にいい気分で演奏していただくこと」だと、肝に命じるべきなのです。
 そもそも、この問題は、聴衆の皆様から寄せられたアンケート・コメント(今回は評価委員でしたが)に対する、音楽祭の全責任を負うディレクターとしての回答であり、利用者サイドの努力では、いかんともしがたい問題であり、その要因はまさに倉吉未来中心舞台スタッフの問題だったのです。たとえ、利用者サイドに問題(ゲネプロ直前に演奏位置の移動)があったとしても、顧客に対してあの言い草はないでしょうと言うのが本音です。ホールは、職員の働く場ではありますが、職員のために存在するのではない事を認識すべきです。
 このアザレアのまち音楽祭のホームページの書き込みに対して、顧客たるアザレアのまち音楽祭事務局においでになったのは、館長の命でもなく、総務部長も感知しないとのことでしたが、そんな事が組織としてあるのでしょうか。たとえ舞台スタッフの一員だとしても、対外的に物申されれば、倉吉未来中心を代表する言動となります。「倉吉未来中心の運営組織の脆弱さを露呈した」との、ディレクターの記述は的を射ていたとの証明になります。私たち利用者は、未来中心職員のご機嫌をとって、スムースに演奏会が出来るように努力をし、有難く使わせていただくという姿勢を強要されているようで、はなはだ不愉快です。わざとトゲトゲしくする必要は全くありませんし、楽しく協働できる環境を望むものです。今回の倉吉未来中心の舞台関係職員の来訪は、正に利用者サイドと、管理者サイドに大きな溝を作るものだと心配しています。(館長はどう対処するのでしょうか)
 この問題の根は、ホール運営の基本に起因するものですので、別項で述べたいと思います。来訪された舞台関係職員の方には、個人的に悪気など一切なかったものと考えています。又お会いすることが再三あると思います。ニコニコした笑顔で、ご一緒に音楽会を作りたいものです。

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私の「音楽の座右銘」

一冊の本に出会い、人生の指針が得られることは、間々ある。青春時代から限りなくたくさんの本たちに出会い、自分が形付けられるのを感じてきた。音楽を志し、芸術の存在を模索し、「青春の聖書」だとニーチェに出会い、やがてキルケゴールの「死に至る病」に至って自己自身を欲することの意味を見出した気がした。幾万の書との出会いは偶然の重なりだったり、意図したものであったりするが、恩師に薦められるまま読んだシューマンの「音楽と音楽家」(岩波文庫)は、人生を呪縛するインパクトを持っていた。薄い冊子のその本には、子どものために書かれた「音楽の座右銘」が編入されていた。子どもたちに、音楽の学び方を優しく諭したものだが、今でも鮮烈に記憶している。
「一番大切なことは、耳をつくること」で始まるその文は、音楽を学ぶ者にとって福音の書であった。幾度となく読み返し、そらんじてはいつも心の中に持ち歩き、いつの間にか自分の意志と重なって判断の基準になっていた。
「拍子を正しく守ってひくように」との言葉で、酔っ払いのような演奏に拒否反応が出るようになり、「優しい曲を上手に、…難しいものを平凡にひくよりましだ。」の言葉でプログラミングの基本姿勢が確立されたりした。
「大きくなったら、名人よりスコアと交際するように」との言は、音楽家としての自立を促す言葉として肝に銘じたり、「よい大家、ことにバッハのフーガーを…」の言葉を受けて、バッハを課題曲とする小・中・高校生の為のピアノコンクールを立ち上げたりした。
しかし、「山の彼方にも人が住んでいるのだ、謙虚であれ!…」の言葉は、私を著しく奮い立たせた。先人のやってきたこと以外、私は何もしていないし、何も出来ない存在だと知らされ、うぬぼれと虚栄心からの離脱が出来た。
それ以来、私は音楽を志す方々をサポートし、芸術を生きることと人生を歩むことの同義性を訴えるマネージャーに徹する道を選んだのだ。

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アザレアのまち音楽祭の日々

 アザレアのまち音楽祭が始まり、時間的なゆとりが全く無くなり、久しくこのブログに書き込みしていませんでした。最近の様子をご紹介します。各コンサートでは、記録写真と録音の作業を、一人でやっていますので、その晩に録音を一度聴き、編集計画を立てます。そして、CD作成の原盤作りをします。そして、全曲をチェックし、PCでCDをコピーします。その間に、併行して当日のアンケートを集計し、聴衆の皆様から寄せられたすべてのアンケート・コメントをパソコンに打ち込みます。その中には、ディレクターとしてのご意見やご指導に付いてのお答えを書きます。それが書け次第に、HP担当者に当日の演奏風景の写真と共に送信します。そうこうしているうちにコピーが終わりますので、CDにラベル印刷します。その作業が終わりますのが、毎晩三時前になります。このブログを書いている現在は2:28です。今日の作業もこれで終わりですので、これからお風呂に入って寝るわけです。三時過ぎには寝床に入れそうです。明日は、12時に倉吉信用金庫の演奏会場の掃除に行きます。一年ぶりに使いますので出入り口の大掃除です。この通路は、アザレアのまち音楽祭の時にしか使用しない階段であり、サロンの入り口としては、ちょっとした雰囲気を持っています。そんな訳で、久々の書き込みになりました。なるべく時間を作って書き込みをしたいと思います。

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詰めの甘い音楽

 鳥取県オーケストラ連盟の演奏会が行われてきていることは知っていたが、個人的には情報が届かず、いつも終わってからコンサートに気がついていた。今回は、注意をはらってカレンダーに印をつけて忘れずに出かけていった。
2008年3月16日(日)倉吉未来中心大ホールでのコンサートであった。入りはお世辞にも良いとは言えず1500のホールに200人程度といったものだった。しかし、この入りが多いか少ないかの価値判断は、演奏が始まってすぐに出来た。会場の静けさ、ホールの響きの豊かさが功を奏して、演奏される弦の響きを艶やかにした。やはり、倉吉未来中心のホールトーンは素晴らしいとつくづく感じさせられた。ホールいっぱいの聴衆で埋まれば、かなり響きが減衰するし、行儀の悪い聴衆の出す騒音があったら、音楽を楽しむ事は出来なかっただろう。そういう意味では、もったいないが、聴衆が少なくても、コンサートの意義は十分に達せられていると思う。コンサートの良さとは、なんといっても演奏の良さに尽きる。
ところで、今回聴いた演奏のレベルの問題は、アマチュアとしてクリアしていると思われた。当初、想定していた思惑を超えて、素晴らしい出来である。今回のコンサートは弦楽中心の編成であり、曲によって様々な大きさに変化させ、曲に合ったアンサンブルを仕組んでいた。フルの弦楽編成は、3プルであったが、コントラバスを四台も入れていたのが特徴かも知れない。低音がしっかりしており、アンサンブルとして上質な響きを作り出していた。当日のプログラムは盛りだくさんであり、練習の事を考えるともっと縮小して、1曲1曲の完成度を高めた方がいいのではと感じた。
演奏が、とてもよく練習されているのかどうかは、判然としない感じがした。大変巧く演奏しているのだが、まるでBGMを聴いているような感興しかなかったからだ。ヘンデルのコンチェルト・グロッソにしたって、もっとワクワクさせる音楽だし、表情というか、メロディのおしゃべりがもっとあるべきだと感じた。これは、プロだって言えるが、ルーティンワークのように、幾度となく演奏している曲に、新鮮な思いで立ち向かっているかどうかだと思う。技術的にアマだって十分弾きこなせるし、良く知っている曲だが、アンサンブルでの表現は、一度や二度の打合せでベストが出せるものではない。だからこそ、プロだって何百回も演奏してきているベートーヴェンのシンフォニーでも、厳格なリハーサルを行うのだ。そのような音楽の推敲が有ったとは思えなかった。
良く知ったポピュラーな曲では、聴く側に自分だけのイメージを持っているから、演奏の善し悪しよりも、イメージをなぞる楽しみ方をしてしまうものだ。だから、童謡メドレーもポピュラー曲も、なんとなく聴けてしまうし、結構楽しめるのだ。
ヘンデルでもそうだったがテレマンでも、始めはワクワクさせるがすぐに退屈する。その理由も、練習のと言うか、つまり音楽作りの「詰め」が甘いのだ。せっかく音楽が鳴り始めているのに、メロディーが飛翔しないのだ。これは、巧い下手の問題ではなく、音楽をいかにドライブするかの問題だと思われる。
しかし、後半で演奏されたバッハは、良く練られた表現が、ビンビン伝わってきた。今回のコンサートで秀一な演奏だったと思う。今回のコンサートは、この一曲で全体的なイメージが良くなったと感じた。
それにしても、全体のプログラム構成が、暗すぎる。別に短調の曲が多すぎるという意味ではなく、音楽のイメージが暗いのだ。ドボルザークなど、私が愛聴して来たものとまるで印象が違った。やはり、アマの指揮者の限界かも知れない。特に第二楽章でのアゴギーグやフレーズのつなぎの「溜め」が皆無であり、ロマン派以降の音楽に欠かせないドラマティックな展開が感じられないのは仕方ない事かも。アマチュアのアンサンブルを聴いて、いつも思う事は、いつも同じ指揮者でなく、外部から招聘することが、良い演奏を発見する近道だと思う。時には若手の指揮者を起用してはどうだろうか。次世代の若手指導者を手元に置くことが、望ましい。
最後に一言。折角のコンサートの始まりを台無しにしたのは、耳をふさぐほど大きなPAの声であった。生音のコンサートに、まったく相応しくないアナウンスであった。コンサートは、出演者のためではなく、聴衆のためのものだという意識を忘れないで欲しい。

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二つの「幻想」

二つの「幻想(ベルリオーズ)」
 去る2月21日、倉吉未来中心で大阪フィルハーモニーの公演を聴いた。これまで、大フィルを若い頃からずっと聴いてきたが、今回の演奏は何かが違っていた。「何かが」と言うには訳がある。オーケストラを始めて聴いたのは、多分小学四年生頃だったと記憶しているが、どこのオケだったか覚えは無い。指揮は近衛秀麿だったと親は話していたが…。その後、オーケストラと言えば関響であり、やがて大阪フィルとなった。大フィルは、私の中でボトムラインとなり、朝比奈先生の音楽に、一喜一憂していた。今でこそ関西には関西フィル、センチュリー響、大阪シンフォニカー、京響、オペラハウス管弦楽団、テレマン室内オケ、兵庫芸術文化センター管弦楽団と賑やかだが、40年以上も前には大フィルと京響がオーケストラのすべてであった。お世辞にも巧いオーケストラではなかったが、大フィルには妙な勢いがあった。それが魅力だったのかも知れない。いつの頃からか、大フィルは聴かなくなった。オーケストラに思い描いていた概念が、私の中で進化して行ったからかも知れない。小沢征爾が日フィルを率いて米子公演を聴いた頃だったかも…。東京のオーケストラ以外は、今でも地方のオケと言われているが、その演奏力に厳然たる乖離があるのだろうか。有名オケは、そのブランドに磨きをかけているものの、ルーティンワークな演奏もある。在京や在阪のオケにしたって、演奏力にむらがある。東京のオケ・メンバーたちは、在阪のオケを見くびっているのは事実だし、大フィルが東京公演でマーラーの六番をプログラムすれば、「大フィルにマーラーがやれるの!」と、ひやかしたりする。この言には、一理あると感じていたが、今回聴いた大フィルは違っていたのだ。
1曲目のベートーヴェンの八番は、朝比奈時代とは異なった音楽構築の仕方であり、やたらとテゥッティが大音量であり、音の塊が荒々しいだけで、音楽の流れが情動的であった。金管のハーモニーは汚いし、弦の響きは相変わらず薄く、以前の大フィル・サウンドが少し進化した程度にしか聴こえなかった。しかし、曲がベルリオーズの「幻想」に変わったとたん、さっきまでと同じオーケストラかと、疑えるほどオーケストラの鳴りが違った。特に1楽章と4楽章が凄かった。聴いていてワクワクさせられた。これは、指揮者のカリスマ性が大きく影響しているだろうが、メンバー達の、演奏に対する「志」が違っていた。「一体となる」って、こういうことだといわんばかりの演奏であった。
演奏者達はいつだって全力でベストの演奏をしていると思っているが、聴く方にしてみれば、平凡な演奏だと、ルーティンワークだと感じてしまうのだ。倉吉未来中心のオープニング時に聴いたN響だって、多くの聴衆はがっかりしていた。テクニックは巧いのだが、音楽に「志」が感じられなかったからだ。ワクワクなんて微塵も無かった。聴いていて、「ああ、そう、それでどうした?」と思わせるものだった。それ以後にも幾つものオーケストラが来たが、文句無く楽しませてくれる演奏は無かった。そんな意味で、今回の大フィルは、「凄かった」のである。聴衆を完全に魅了した。これまで未来中心で聴いた、どのオーケストラよりも素晴らしかった。この感興は久々だった。かつて聴いた、べームとコンセルトヘボウ(英雄の生涯)、ズビン・メータとロサンジェルス・フィル(ブルックナーの四番)、カラヤンとベルリンフィル(特にベートーヴェン)、オザワとボストン(春の祭典)であり、近年では大野とモネ劇場フィル(マーラーの一番)を、思い起こさせた。なんども言うが、今回の大植英次と大フィルの演奏は、これらの演奏に匹敵する感動をもたらせたのだ。大フィルの追っかけがしたくなっている。
2月24日、久しぶりに「山陰フィル」を聴きに言った。メインに「幻想」をやると言う事なので、どんなものかとやっかみ半分で聴きに行った。山陰フィルはフル編成のアマオケの中では最右翼に位置するもので、相当レベルが高い。かつて、ブラームスの一番を聴いたが、その演奏は聴衆をどこか別次元に誘うものがあり、心動かされる名演であった。その後、ニューイヤー・コンサートでオペラ・アリアの伴奏を聴いたが、まるでオペラを知らないような的外れの対話しかできず、音楽になっていなかったこともある。この現実がアマなんだが、指揮をしている今岡氏は大変優れた才能をお持ちであり、指揮棒だけみていると、素晴らしい音楽が放射されている。いわば、「笛吹けど踊らず」の類いである。この辺りが山陰フィルの限界だろうが、その後の進化を聴いてやろうと出かけた訳だ。
1曲目の「フィンランディア」は、いかにもアマらしい、演奏者サイドに音楽の歓びが置かれた演奏であり、聴衆は置いてきぼりを食らった。金管は音群として良くまとまってはいるが。
2曲目のシベリウスのヴァイオリン協奏曲にはがっかりさせられた。オケの練習不足というか、やっつけ仕事のようないい加減な演奏は、アマとして仕方ないかも知れないが、ソリストの力量までアマのレベルでは聴くに堪えない。シベリウスが弾きこなせるまでのスキルがないというか、音楽作りがまったく到達していないのだ。譜面づらをなぞるぐらいなら、弾きこなせるヴァイオリニストはごまんといる。気分だけで表現を試みても、それが実際の音にならなければ、演奏の意味は無い。とにかくシベリウスが弾けていなかった。少なくとも、プロとしての修練を積んでいるものであれば、その自覚が無ければアマと一緒だ。それにしても、オケは酷かった。おざなりの演奏をしていて、その認識がまるで無いのは、いただけない。弱奏のトレーニングがほとんど何もなされていないから、ハーモニーのディテールがザラザラしており、お世辞にも上手いと言えない拙さであった。演奏が終わった後、ソリストにオケが拍手し、ソリストがオケに拍手する姿を見て北朝鮮の人民服を思い出し、吐き気を催した。最近、プロオケに帝王がいなくなって、お互いが媚びあう習慣が出来ているようだが、そんな事をアマオケまで真似る必要は無いだろう。
ところが、三曲目の「幻想」が始まると、オーケストラの様相が一変した。山陰フィルとして「幻想」は二度目であるらしいが、最初から妙に緊張感が保たれていた。所詮アマオケですから、大フィルのような圧倒する「幻想」にはならなかったが、山陰フィルの「幻想」として素晴らしい演奏になった。指揮の今岡氏が、メンバーをいかに掌握していたかを証明する演奏であり、その限界もまざまざと見せつけた。しかし、大フィルを聴いた後では、「幻想」が違って聴こえたのも事実だった。多分、今岡氏は、単に笛を吹いているだけで、オケを踊りたくさせる演奏になっていないのかもしれない。現在の山陰フィルのレベルがあれば、アマオケであっても指揮者がプロであれば、自分の音楽性を外すことなくきちんと仕切るはずである。つまり、音楽作りのレベルとは、現実と向き合った時に、どの辺りで、折り合いをつけてしまうか、どこまで追求するかの違いだと思っている。そんな意味では、山陰フィルの限界は、指揮者の限界だと改めて感じさせられた。あれだけの素材があれば、プロの指揮者だったら、もっと聴衆をワクワクさせるだろうし、感動の渦を巻き起こす事も可能なはずである。しみじみと、プロとアマの越えがたい「乖離」の大きさを痛感した。
アンコールは不要であった。あんな拙いリベルタンゴは、聴きたくなかった。あれではカフカの「変身」である。帰りの車の中で口直しに、いや耳直しにヨーヨー・マを聴いてほっとした。

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