2007年6月30日(土)
構造化
一時ティーチプログラムがはやりで、誰もが「構造化」を言った。
しかし、やはりただのはやりで話題になっただけで、
果たして本当の意味を理解して採用していたかというと、疑問が残る。
そもそも、構造化なんて言葉は、英文の直訳で、日本語圏でそのまますんなり馴染むとは考えにくい。
私達もその言葉は、知ってはいても「分かった」とまでは行かず、歯がゆい思いをしていた。
ある日、透明で軽い調味料入れを見つけ、みんなそれに変えた。
透明なので中身の減る様子がつぶさに観察できる。
軽いから、持ち上げるのが楽だから、無意識に敬遠することが無くなった。
そもそも日本ではあまりにも贅沢で、多すぎる食材と、多すぎる献立である。
よく考えると、日本でもホンの六、七十年前までは一汁一采で、
飯炊きや女中が居る家でなくちゃ、たくさんの総菜は食卓に並ばなかった。
いや、女中が居る家ほど逆に質素な食事であった程だ。
欧米ではどうか。
アメリカはファストフード中心で、さらなる食事も質素で簡単。
欧州でも、ディナーなど特別な食事は別にしても、普段はパンとワインと芋とトマト中心の質素な食事だ。
日本だけ本当に異常なほどの食材、食種が揃っている。
そして、一般家庭にもその「色々な食事」という強迫観念が浸透し、誠に献立は多い。
献立が多ければ、それに応じて調理の器具が増え、調味料が増え、食器が増える。
この日本の小さな家の、それもとびきり狭い台所にそれらがひしめくのである。
私達は、台所、つまり食生活の改革から始めた。 つづく。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月30日(土) 09:33
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2007年6月29日(金)
片づけもの
忘れ物と同じで、とにかく散らかす。(らしい)
子供の頃から、「片づけろ!片づけろ」と本当に口やかましく育てられたが、
どうも上手く片づけられないようだった。
ところが、不思議な事がある。
「書道」と「楽器」だけは無条件でいとも簡単に片づけるのである。
これは、後に妻に指摘されて知ったことなのだが、本当だ。
「書道」は高校時代。「楽器」は大学時代。
どちらも異様なほど熱心に打ち込んだのだが、基礎的な事以外自分で学んだ。
きっと、その中に、「準備」「作業」「後始末」という一連の動作が無条件で備わったのではないかと考える。
またどちらも、本格的なものだったから、「書く」「演奏する」以外の余計な作法のようなものは一切無く
上手くなることだけが目的だった。
目的が単純化されているのが特徴だ。
これは、40過ぎてからようやく気が付いた事で、
作法だの、気配りだの、思いやりだの、人間に付随する余計なことを
本来の目的以外に考えはじめると、(或いはその予感がすると)
とたんに嫌になり投げ出してしまうみたいだな。
我が家は、それから徹底的に物を捨てだした。
余計な物はいらない。客用のふとん。客用の湯飲み。その他何時使うか分からない物。
捨てるのはもったいない気がしたから、家の前に「差し上げます」と張り紙をして出した。
ウエッジウッドだろうが、オークラだろうが関係ない。
みんな喜んで持っていく。
今でも半年に一度ぐらいは、使わない物探検隊だ。
人間驚くほど生活に関係ない物を持っている。
出しても出しても未だ出てくる。
最近ようやく、生活が快適になってきた。
本当にさほど必要の無い物に支配されていたのだ。
作成者
自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月29日(金) 05:16
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2007年6月28日(木)
クラスに1人?
忘れ物表を作ると必ず私と競うおっちょこちょいが必ずクラスに1人いる。
今考えると、ADHDの人間であることが分かる。
しかし、ADHDだからと言って、単純に自閉症のグループとは言えないし、
実際、私が転校を繰り返ししてきた中で、妻と同じように価値観が一緒の人間には
出会ったことが無かった。
この事から考えても、お間抜けな杉山が抽出した、アスペルガー症候群が6%も居る、
っていう話は簡単に眉唾だと言うことが分かる。
6%も居たら、16人に1人だから、クラスに二人もいるじゃないか。
もし、クラスに二人もいたら、ベテランの教師ならば、毎年二人を相手にして、
その教育ノウハウなんてすぐ出来てしまう。
現実には、特徴的なアスペルガー症候群に出会うことが、滅多に無いから、
本当に出会ったとき、面食らうし、
遭ったときのために、勉強会に出てくるのである。
大学教授ってのは本当に現実を知らない脳天気なヤツだ。
今思い返せば、私の小中高の生活の中で、アスペルガー症候群とおぼしき子供に、
会わなかった訳ではない。
ちょっと下に書いた、泣くと面倒な子供だ。
その子は自分でも十分分かっているから、
中学に入学してからの自己紹介で、自分の事を「欠点は泣きやすいです」
と話した。
私はそれを聞いて、「俺もだ」と言いたいところをぐっと我慢していた。
同じ学年で似たようなヤツは彼1人。
しかし、養護学校には多分自閉症の仲間が居る。
他の学年に彼のようなヤツは見ない。
それらを考えると、中学3学年全体で3人。
720人で3人
240人で1人 これが、いい線じゃないだろうか。
ベテランの先生達もこの数字の方が納得いくだろう。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月28日(木) 05:24
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2007年6月27日(水)
忘れ物王
妻と宿題の話しをすると必ず、
「それは宿題をしないんじゃなくて、出来ないんだよ」と言われる。
確かに、改めて考えると、宿題を憶えていられない言い訳のような気がする。
ついでに、私はずっと忘れ物王だった。
私が行く学校、学校どこへ行っても忘れ物表を作る事になる。
なんと中学2年生なのに、忘れ物表を作った担任までいた。
忘れ物表では、大体2番手でこの二人はとびきり抜け出ているのが特徴だ。
私はずっと、「みんなは誤魔化すのが上手いだけだ」と思っていたし、
実際、転校が多く、よそのクラスに友達なんかいないから、
借りに行くこともできない。
「正直に申告すれば、みんなおなじような数になるに違いない」
だれに言われようが、全然平気だった。
今になって思えば、確かに私は忘れ物が多い。
仕事をしていてもそうだ。
しかし、仕事の場合切実度が全く違う。
おろおろしていたのは、新人の2年ぐらいで、あとは自分で自分をコントロール出来るようになった。
やはり、自分で考え、自分で何とかしなければならない状況が人を変化させる。
こどもの頃いくら口やかましく言ったって何の進歩もない。
ただ、忘れ物表が無力だとは言わない。
何故なら、過去を思い出し、自分の特性を知ることが出来るという大きな働きがあるからだ。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月27日(水) 08:12
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2007年6月26日(火)
宿題
積極奇異形について書くと大上段に掲げたが、他人(ヒト)の事はつぶさに観察できるのに、
自分の事となると、なにが自閉症に繋がるのか、何が該当するのか、からっきし意気地が無い。
まさしく自閉症の典型だね。
小学校2年生のある日、夜嘘泣きして姉の注意を引いた。
「トール君、なに泣いてるの?」
「絵を描く宿題やってないの」
「いまからでも間に合うから、おかあさんに言ってあげるよ」
やさしい姉の助言で母は宿題を手伝ってくれた。
「まったく。もっと早く言いなさい」
宿題は紙芝居の絵をそれぞれ担当の一場面を書いていくという宿題だ。
翌日、宿題の画用紙を持って学校へ行ったが、宿題は集めなかった。
これは、私が記憶する、私がやった最後の宿題だ。
その後、学校での宿題は一度も家でやったことは無く、平気だった。
「宿題は、学校で勉強が出来ない時に、家で勉強するためにやるので、
分かっている俺は宿題をしなくてもいい」
私は、チョットばかり勉強ができるのをいいことに、宿題を2度としなくなった。
これが、大学卒業するまでそうだったから、大学卒業するのに5年かかっちゃった。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月26日(火) 09:17
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2007年6月23日(土)
誰が貴重か
下の集まりの時に、あるグループホームの人の悩みを聞いた。
自閉症のグループの青年が、なかなか上手く生活出来ない。
私の乏しい経験から悩みに答えたが、果たしてそれが役に立つか。
自閉症でも、火の始末、身の回りの整頓が出来るならば、
本当は独りで住んだ方が良いと私は考えている。
何故か。
私の身の回りでも、引出が消えたり、持ち物が消えたりは日常茶飯事だ。
独りで住んでいれば、自分しか疑いようが無く、ひたすら捜すしか手がない。
しかし、親を含め他人が居るなら、自分プラス他人を疑わなければならなくなるので、
本当に大変だ。時には腹も立つし、時には逆に怒られもする。
他人の存在だけで、非常にやっかいな生活を強いられる事になる。
しかし、問題はそうではなく、すでにグループホームに居る青年の話だ。
その問題を少しは和らげ、運営しなくてはならない職員の人の話だ。
きっと、私の話は役に立たず、職員の人たちの知恵で、問題の解決を図るのだろう。
貴重なのは、私の話ではなく、その地道な努力を続ける職員の人たちその人なのだ。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月24日(日) 08:35
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中座
話は中座する。
昨日ちょっとした集まりがあった。皆意識の高い福祉に携わる人たちだ。
時間が無くて、ニキリンコ、つまり、沢木あさみ、つまり、泉流星、つまり浅見純子
そして、同じく福祉を食い物にしている詐欺ビジネスに一生懸命のパートナー沢木昇つまり浅見昇吾の馬鹿げた作り話について詳しく話せなかった。(名前をいっぱい持ってるんだよな)
興味がある人は、ブログの他ホームページの方を覗いて下さい。
そして、フーテンの寅さん。無法松の一生の話しもしたかった。
無法松の一生、国定忠治は、私にとって涙無くして見られない物語。
特に、板東妻三郎の無法松と辰巳隆太郎の国定忠治は逸品だ。
ところが、私の世代が20代の頃すでに伝説だった辰巳隆太郎と板妻。
それから30年も経っているのだ。
若い人など誰も知らないと、妻に指摘された。
たしかにそうだ。
寅さんだって、もう死んで何年も経っている。
もうチョット若い人にも分かる話をしなきゃならないな。
ところが、文学、芸術は古くなることで、ふるいに掛けられ、そこに本物だけが残る。
今の人に分かりやすい教材は何かあるだろうか。
しばらく捜して見ようと思う。
5月は自閉症の受動形について話しています。
6月は自閉症の積極奇異形について話していく予定でしたが、
もう少し長くなりそうなので、今しばらくお付き合いを。
作成者
自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月24日(日) 08:25
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2007年6月22日(金)
おしっこ
「おかあさん。おしっこ」
「おちんちんの先つまんで我慢しなさい」
「・・・」
「おかあさん。おしっこ」
「・ ぁっ、ちょっとまってね。もうすぐだからね」
私はおねしょが止まなかったように、どうも尿の連絡が乏しいようだ。
突然尿意がやってくる。
しかし、母にそれを伝えてもよく忘れられた。
5才になり、ようやく幼稚園に登園した。
長女は3年保育。
次女は2年保育。
かすの私は1年保育だ。
卒園式が近づいた頃ではないかと思う。
この記憶はきちんとした時期の特定が出来ないのだが、
とにかく、机を片づけてみんなが整列したときだ。
整列を始めてはじめて、おしっこが出そうなことが分かった。
もうみんな整列をしている。
ついに、がまんしきれず、立ったままおしっこをしてしまった。
おしっこは足を伝い、足下に水の輪をつくった。
列は一斉に綺麗に左右に分かれ、その中心に私がいた。
せんせいは慌てず「おしっこに行きたい人は行って下さい」といい、
子供達は争うように便所になだれ込んだ。
「おかあさん。恥ずかしかったよ。おしっこ漏らすの女の子だけだから、男の子のパンツ無かったんだって」
私は、昨日女の子のパンツをはかされて、家に帰ったのだ。
母は、パンツを洗い、幼稚園に届けに行ったのだ。
この頃は、言葉が遅かった名残なのか、未だ思ったことをなかなか言えなかった。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月22日(金) 09:06
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2007年6月21日(木)
母
自閉症の研究には家族血縁の調査は欠かせない。
しっかりものと言われる母は、一方気が強く、とにかく勇ましい言葉が大好きだ。
情けない私は、いつも叱咤、叱咤されていた。
話は前後したが、横浜に引っ越してから初めて家族で横浜高島屋に出かけた。
大食堂でお子さまランチ。見たことにない国の旗が、チキンピラフに立っている。
父と母はビールで乾杯している。
帰ろうと一階を歩いているとき、
母が突然目を開いたまま、朽ち木が倒れるようにゆっくり後に倒れた。
「おぃ!おぃ!おかあさん!どーした!」
気が付くと階段の踊り場にいた。
お母さんは寝ていて、お医者さんと看護婦さんが覗き込んでる。
母はのろのろと起きあがり、家に帰ることになった。
私はこの後、2度同じ様な状況を目撃している。
私が目撃しているのだから、少年期もなんらかの痕跡があったのではないかと考えた。
私達夫婦は、なんとか過去を知りたかったが、
親類縁者のガードは堅く、逆にアルツハイマーになった父を引き合いに、
「前野(母の旧姓)の家には脳の病になった人間は居ません」と断言されてしまった。
しかし、あれは「てんかん」だったと私は考えている。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月21日(木) 05:04
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2007年6月20日(水)
ガンバレ!
「ほら!トール!がんばれ!」
近所の子と相撲を取ることになった。
母はカメラを構えている。
「ほらっ。どーした。それっ」
「いぃいっ。こうやって、えいってやんなさい。しっかりしてよ」
こっちは2才まで歩かなかった発育の悪い4才児。
相手も4才だから、どっちもどっちだと思うんだけど、
思うように相撲は取れない。
どうやら、私が勝つところを写真に写りたいらしいのだが、
上手く勝てないから、歯がゆくてしょうがないらしい。
「そらっ!もう一番」 「がんばれっ!そらっ!」
母親のかけ声だけ勇ましく、二人はふらふらだ。
いい加減母も諦めたらしく、
「きょうはこれくらいにするか。まったくぅ、トールは情けない」
何か限界まで相撲を取らされた相手の子は、
顔色を変えて、掛けだして帰っていった。
あのことは仲良しだったのに、それからほとんど家には遊びに来なくなった。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月20日(水) 08:57
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2007年6月19日(火)
横浜
鎌倉の仮住まいを後にして、横浜に引っ越した。
当時は三ツ沢とは言え未だ開発途上で、家の前はキャベツ畑。
近くには茶畑もあった。
引っ越してからは、友達作りというか、近所の子供を集めてご紹介ってとこか?
回りに何人かの子供と私と母が居た。
「**ちゃんは大きくなったら何になるの?」「**」
「あっそう。::ちゃんは?「****」
「トールは何になるの?」 「お嫁さん」
「えっ?トールは男だからお嫁さんになれないのよ」
「お嫁さん」
「可笑しいねぇ」
「だって、働かなくていいから、楽だもん」
一瞬、沈黙の中(この、クソガキ)って
心の中の声が聞こえそうなくらい母に睨まれた。
どーですか。皆さん。
こんな風に憎たらしいガキなんです。私は。 分かりますか?
参考までに、この時点で4才と4ヶ月であります。
そして、こんな些細なことを余計なことに、50才を過ぎても尚
しつこく憶えているのです。
やっかいな存在なんですよ。 分かりますか?
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月19日(火) 08:45
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2007年6月18日(月)
鎌倉から
4才になったばかりの頃鎌倉に仮住まいしていた。
家のすぐ前には四方晴海(後のチャコちゃん)の家があった。
はるちゃんはまだ3才で、近所の年頃の子供達は幼稚園でいない。
遊び相手がいないから、毎日のように「とーるちゃんあそぼ」と来た。
彼女は気まぐれで、午前中スカートをはいて遊びにきてると、
「トール君は男だから遊ばない」と胃って帰る。
午後には今度ズボンをはいて「トール君あそぼ」と来る。
母は、「あの子双子?」って私に聞いた。
四方晴海の家は海にせり出した非常に優雅な家で、
家に呼ばれて遊びに行っても、結局家の中には入れてもらえなかった。
その頃のわたしが、「誘拐未遂」事件を起こしていたのだ。
父が私に夜間飛行機というブリキのおもちゃをおみやげに買ってきてくれた。
糸を部屋の角と角に斜めに張ると、飛行機が火花を光らせながら飛ぶというやつである。
夜間飛行機は私を虜にした。
夜間飛行機。なんてロマンチックな響きだろう。夜間飛行機。
なんで夜間飛行機って言うのか何度も母に聞いたが分からなかった。
「やかんと同じ材料で出来ているから、やかん飛行機だ」
私はひとり納得してうっとりしていた。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月18日(月) 10:22
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2007年6月17日(日)
泣くな
「泣くな!」
毎日毎日母にしかられる。
とにかく泣くことは良くないらしい。
「泣くな!」
テレビを見て泣いても怒られる。
「あはは、ほらみてごらん。テレビ見て泣いてるよ。あはは!」
怒られるどころか今度は笑いものだ。
「ほら、ヨーコ、カーコみてごらん。トール泣いてるよ。あはは!」
笑われ、悔しくて、ますます泣き声は大きくなる。
「アハハ、アハハ、あー可笑しい。あははは」
痛くて泣いたことなんか無い。
初めて注射を受けたときも、泣かなかった。
だって、痛いかどうかも分からなかったし、針が刺さるときにチクッとして、
そのあとぴりぴりって、なんか膨らむ感じがしたけど、痛いって事とは別で、泣くほどの事ではなかった。
なんでみんな泣くんだろう。
一緒に注射を受けた子供達は、全員痛くもないのに泣いていた。
小学5年生の秋、泣いていたとき突然「もう泣くのは止めよう。止められる」と初めて思った。
以来本当に泣くのを止める事ができた。
父が死んで葬儀の挨拶をしたとき、一瞬胸が詰まり涙ぐみそうになったが、泣かなかった。
私は泣かなくなった。 いや、泣けなくなったのだ。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月17日(日) 09:16
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2007年6月16日(土)
泣く
自閉症のグループの子供が泣き声になっているのを聞くと、胸が締め付けられる。
私もよく泣く子だった。いつからかは分からない。
「あんたはいつもニコニコ機嫌のいい子だったのにねぇ」
母のぼやきは毎日だ。
泣き終わった私にはその言葉は針のむしろだ。
母曰く、私はいつもニコニコ機嫌の良い赤ん坊で、本当に手が掛からない親孝行だったそうだ。
それが、毎日のように泣く様になったのは、いつからなのだろう。
「あれっ?今日トール泣かなかったね。珍しい日もあるねー」
「そんなこと無いよ。いつも泣いてないもん」
母は小学4年にもなった私に、屈辱的な言葉を投げかける。
私も、なぜ泣くのかは分からない。
何か言おうとすると、胸があつくなり、身体に力が入り、そのままでは声が出ない。
涙が出て、身体の力が少しだけ抜けると、やっと声が出る。
もうその時の声は泣き声で、やたら大きな声だ。
私だってそんな大事にしたくない。しかし、出来ないのだ。上手く声が出せないのだ。
「コノヤローー、マテーー」
教室の外をいつものあの子が、クラスメイトを泣きながら追いかけている。
「あーー。また泣いてる。泣くと怖いよ」
あの子とクラスメイトだった子が、めんどくさそうにつぶやいた。
私は、学校では何とか気を紛らわせて、泣くことを押しつけていた。
未だクラスのみんなには、ばれていない。
しかし、彼の気持ちは手に取るように分かる。
私もうちに帰ると、姉妹家族に泣かされる。
しかし、泣いて初めて言いたいことが言えるのだ。
いつからか、何故なのか。 本当に謎だ。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月16日(土) 05:54
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2007年6月15日(金)
笑いもの
いつも母がこの話をするときは、頬笑ましい話しとしてではなく、笑い話として話すのをよく憶えている。
「トールはよく箱の中で本を逆さまにして読んでいたのよぅ」
箱は当時おもちゃを入れていたミカン箱ぐらいの木箱で、
これは好んで入っていたことをよく憶えている。
その後夜眠るときは、自分の敷き布団の下に足を折り込んで挟めたり、
時には姉の敷き布団の下に足を入れさせてもらっていた。
最近気が付いたのだが、私の場合眠くなると足が非常にだるくなる。
だから、足の裏をたたいたり、小さく曲げたりするのだが、これは本当にだるい。
大学時代叔父の家に泊まったとき、何気なく足をパジャマの裾より内側に入るように足を小さくたたんだら、叔父が、
「小さい頃のくせは抜けないもんだなぁ。おまえが小さいときもいつもそうやってたぞ」
叔父がいう私の小さい頃とは、我が家に叔父が居候していた頃で、丁度私が、0才〜4才直後の頃の話だ。
よく自閉症の子供が狭いところに入ろうとしたり、
狭いところにぎゅーってしてるのは、なにか手足がだるいのではないだろうか。
とにかく、3才過ぎの私は、絵本を逆さまに読んでいたのだが、
これは、逆さまに読みたいのではなく、吝嗇の母は新しい絵本など絶対買わず、
何度も同じ絵本を繰り返し読み聞かせるので、
こんなつまらない絵本を何度も声を出して読むのは、逆さまに読んだら、きっととてつもなく面白いに違いないと思って、
逆さに読んでいただけで、正逆が分からずに読んでいた訳では無いのだ。
22ヶ月を過ぎて「自己」が確立した幼児なら、
母親が本を逆さまにして読むのは、自分の為に逆さまにしているということを、無意識に、自動的に理解してしまうのだ。
これが、自閉症児の私と定型発達の幼児との大きな違いなのである。
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自営業 山岸徹 50才
: 2007年6月15日(金) 11:42
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