我が人生−19−(目黒)
目黒に移転した幹部学校に着任したのは、平成13年4月のことでした。
定年は翌年の12月1日の予定ですから、残された自衛隊官の生活も1年9か月です。
最初異動の調整があったときは研究部長とのことでしたが、その数時間後には業務部長に変りました。
研究部長は防衛について難しい研究をするところ、一方、業務部長は学校で言えば用務員の親分みたいな
ところですが、私は業務部長と言われて喜びました。何と言っても業務部には若い隊員が多いのです。
100人ちょっとの組織ですが、通信、衛生、会計、輸送、補給、施設、厚生などがあって、実に様々な
仕事をしている人達がいます。
着任するとすぐに、月一回「ハジける会」をしようと提案しました。
課長達はみんな、(嫌々かどうかはわかりませんが)すぐに賛成してくれました。
基地の中にクラブがあって、そこで月に一回希望者が寄り集まって一人2、3千円の会費で飲み会をする
のです。クラブの支配人ともすぐに友達になり、私達の宴会のときは思い切りサービスしてくれました。
また場所柄、山手線の恵比寿が最寄駅、飲み屋はたくさんあります。
今までのように義理の付き合いの宴会ではなく、連日のように飲みに行きました。学校には学生のための
宿泊施設があって、そこには大抵の場合、空き部屋があります。部屋の管理も我が業務部ですから、どん
なに遅くまで飲んでいても泊まるところには困りません。何度となく泊り込みました。
私は、目黒川のすぐそばにあることからそこを目黒リバーサイド・ホテルと呼んでいました。
仕事は、殆んど部の人達でやってくれます。
私は、一人一人の隊員達と話をするために、一日一回はかく職場を廻るようにしました。
問題のない職場でしたが、ひとつだけ気になったというか、大変だと思ったのは、女性の多い職場のこと、
人間関係です。
あるとき、ある女性が話があると言って、私の部屋にやって来ました。難しい話のようですので、私
は部屋のドアを閉めて話を聞きました。彼女は切々と人間関係のことで話をし、そのうち目に涙を浮かべ
ています。そして話が終って部屋を出る頃には気持ちが高ぶったのか目を真っ赤にしていました。
在任2年足らずの間に、そんなことが3回あったでしょうか。私は、すっかり女を泣かせる部長になって
いました。
当時、10数人の若い人、それも20歳前後の人達がいました。
あるとき、まだ19歳のK君が、「自衛隊を辞めたい。」と言って来ました。なかなか優秀な人なのです
が、入隊して1年足らず、ちょっと不安になったのです。部屋に呼んで話を聞きますと、彼も落ち着いた
ようです。そこで私は、彼に任務を与えました。
若い人達と飲みたいから、「ヤングの会」を作れと命じたのです。彼は、積極的でリーダー・シップのあ
るS君と協力してすぐに人を集めてくれました。
それでみんなで居酒屋に行ったのですが、そこで年齢確認をされ、未成年は入れないとのこと、慌てて別
の店を探すなどしたのを覚えています。勿論、彼はジュースとかウーロン茶を飲んでいました。
そんな飲み会が何回かありました。
自分の息子より若い人達は、とても純情で素直です。20歳前後のヤングの中におじさんが一人の感
は否めませんでしたが、それでもとても楽しい飲み会でした。勿論、若い女の子もいます。最後の頃には
他の部の人達も来るようになっていました。
昼間は暇でした。
大抵は書類に判子を押すだけ、それぞれの仕事のことはよくわかりませんし、彼等はベテランですので余程の
トラブルでもない限り私が出て行くことはありません。
衛生課には、二人のお医者さんと一人の歯科医師がいました。
きれいな看護士さんもたくさんいましたので、よく遊びに行きました。と言うのも、実は万年二日酔いの
ような生活で、いつも薬を貰いに行っていたのです。
あるとき、若いK士長に、「君、すまんが、薬を貰って来てくれないか!」と頼みました。
彼は着任したばかりだったので「とにかく一番きれいな看護士さんに、部長が二日酔いで薬を欲しがって
いると言えばわかるから。」と言いました。
彼は喜んで衛生課に行きましたが、しばらくするとショボンとして帰って来ました。
「どうした?」と聞くと、彼が言いました。
「きれいな看護士さんはいなくて、1尉のおっさんが出て来ました。」
とりあえず、私は薬を貰って一安心しましたが・・・。
宮崎と並んで楽しかった目黒基地の想い出は更に続きます。
−続く−
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