「男と女」

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我が人生−20−(定年・再就職)

  自衛官の定年は階級によって若干の違いはあるものの、僕の場合は56歳でした。

定年の誕生日の来る前の定期異動日の平成16年12月1日、僕は34年余り勤めた航空自衛隊を退職し

ました。僕の人生の大部分を過した自衛官としての生活、数々の思い出があります。それはこれまでに書

いて来たとおりですが、その航空自衛隊を退職するにあたっては寂しさと将来に対する不安が残ります。

  就職は、退職後2か月後と決まりました。公務員の再就職については審査会があり、それが定年にな

った後で開かれるのです。

2ヶ月間は、仕事もなく収入もなくの生活でした。それで定年になったら是非遊びに来いと言っていた

シンタニさんのところに行くことにしました。その様子は書庫「アメリカ旅日記」に書いたとおりです。

挨拶状や年賀状を書きながら、アメリカ旅行もして最初の1か月はアッと言う間に過ぎました。

年が明けて平成17年、お正月を過ぎた頃から暇になりました。季節は冬、寒いので出掛けるのもおっく

うで、毎日夫婦二人きりで顔を合わせていることがこんなに大変なものかと思いました。

  平成17年2月1日、僕は再就職をしました。就職先は、中央区八丁堀にある「富士電機ITソリュ

ーション」と決まりました。主として富士通のコンピューターを販売したり、それに伴うシステムを開発・

提供する会社です。

http://job.mycom.co.jp/08/pc/visitor/search/corp78048/outline.html

役職は”営業本部顧問”、会社でのいろいろな相談に応じる仕事ですが、ハッキリ言って普段は暇です。

自衛隊への挨拶回りや、定期的に自衛隊に顔を出して情報をもらうくらいが主な仕事の内容です。

  会社では、最初5人の顧問がいました。旧大蔵省出身の人が3人、航空自衛隊出身が僕ともう一人

です。よく仲間内で飲みに行ったり、定時になると顧問室パーティーと称して、会社の若い人達を呼んで

飲み会などをしていました。

  また一日に一度、女の子がお茶を入れてくれます。彼女達に「今日も、きれいだね。」と声を掛けた

ら、今までいた自衛隊とはちょっと違う反応でした。どうやらこれはセクハラに当たるみたいで、すぐに

やめました。他に、「結婚しないの?」などということもセクハラです。職場によって、セクハラの内容

も微妙に違うようです。

  その年の7月、僕はボランティアで防衛大学校同窓会の事務局の仕事を手伝うことになりました。

メンバーはひとつまたはふたつ先輩がいて、更に会長や理事ともなると昔、自衛隊では位人臣を極めた

ような人ばかりです。でも昔は怖かった先輩達も、みんなボランティアでの集まりなので、極めていい

雰囲気です。

  同窓会での仕事の内容は経理ですが、これはなかなか大変です。それなりの金額を管理しなくては

なりませんし、へそくりのこと以外で銀行回りなどしたことのない僕にとって何もかもが大変でした。

特に気を使うのが、貯金通帳を持って歩いている日に飲み会などが入った場合です。退職金でも弁償でき

ない金額ですから、本当に気を使います。そんなときに助けてくれたのが先輩達でした。学生時代には屋上

に上げられて腕立て伏せをさせられた先輩達もここでは仲間、本当に助け合ってやって行っています。

ボランティアの仲間には、役所や会社にはない独特な和気あいあいの人間関係があるのです。

  我が社は、扱っている製品は富士通のものが主ですが、資本的には富士電機を親会社としています。

元々、富士電機が親会社で、富士通はその子会社です。簡単に言うと、富士電機がお父さん、富士通がお

兄さんと言っていい関係です。いずれも古河グループに属していて、ここに再就職している自衛隊OBの

会に「古河三水会」がありますが、先輩の紹介でここにも入ることになりました。

  去年、千歳に行って戦車に乗ったのも、今年伊勢に行ってヘリコプターに乗ったのも、この古川三水

会の研修旅行でした。

  自衛隊で後輩のところに行っても、あまり頻度が多いと嫌われますし、会社の顧問だけだと時間を持

て余す日々ですが、同窓会と古川三水会のお陰でそれなりに変化のある生活をさせて貰っています。

  人生での大きな変化に孫ができたことがあります。平成17年5月、初孫ができました。

息子夫婦は車で40分のところに住んでいるのですが、よく嫁が孫を連れてやって来ます。夫婦二人きり

の生活でしょっちゅう喧嘩ばかりしている我が夫婦ですが、孫が来たときだけは喧嘩も納まってしまいます。

  嫁の父親は、僕と同じ年齢で、埼玉県警の警察官です。たまに二人で飲みに行きます。大宮の駅の

裏通りの決まった店です。お互いに仕事の愚痴や女房の愚痴を言いながら飲むのも、これまた楽しいもの

です。

  またある先輩から「今はブログの時代だ。」と言われて、このブログを始めたのが平成17年の5月

でした。それから毎日のように投稿をするようになり、今では一日の重要な日課になっています。

たくさんの人に訪問していただき、またたくさんの人のブログを見ると、いろいろな人生があることが

わかります。そしてその一部は、小説よりも変化に富んでいるのです。

  最初、覚えていた自衛隊定年後の人生に対する不安も、会社の人達はいい人ばかりだし、同窓会や

古川三水会、あるいは昔の職場の人達との飲み会などもあって、それなりに充実しています。

これから先のことはわかりませんが、とにかく今は日々楽しい毎日です。

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我が人生−19−(目黒)

我が人生−19−(目黒)

  目黒に移転した幹部学校に着任したのは、平成13年4月のことでした。

定年は翌年の12月1日の予定ですから、残された自衛隊官の生活も1年9か月です。

最初異動の調整があったときは研究部長とのことでしたが、その数時間後には業務部長に変りました。

研究部長は防衛について難しい研究をするところ、一方、業務部長は学校で言えば用務員の親分みたいな

ところですが、私は業務部長と言われて喜びました。何と言っても業務部には若い隊員が多いのです。

100人ちょっとの組織ですが、通信、衛生、会計、輸送、補給、施設、厚生などがあって、実に様々な

仕事をしている人達がいます。

  着任するとすぐに、月一回「ハジける会」をしようと提案しました。

課長達はみんな、(嫌々かどうかはわかりませんが)すぐに賛成してくれました。

基地の中にクラブがあって、そこで月に一回希望者が寄り集まって一人2、3千円の会費で飲み会をする

のです。クラブの支配人ともすぐに友達になり、私達の宴会のときは思い切りサービスしてくれました。

  また場所柄、山手線の恵比寿が最寄駅、飲み屋はたくさんあります。

今までのように義理の付き合いの宴会ではなく、連日のように飲みに行きました。学校には学生のための

宿泊施設があって、そこには大抵の場合、空き部屋があります。部屋の管理も我が業務部ですから、どん

なに遅くまで飲んでいても泊まるところには困りません。何度となく泊り込みました。

私は、目黒川のすぐそばにあることからそこを目黒リバーサイド・ホテルと呼んでいました。

  仕事は、殆んど部の人達でやってくれます。

私は、一人一人の隊員達と話をするために、一日一回はかく職場を廻るようにしました。

問題のない職場でしたが、ひとつだけ気になったというか、大変だと思ったのは、女性の多い職場のこと、

人間関係です。

  あるとき、ある女性が話があると言って、私の部屋にやって来ました。難しい話のようですので、私

は部屋のドアを閉めて話を聞きました。彼女は切々と人間関係のことで話をし、そのうち目に涙を浮かべ

ています。そして話が終って部屋を出る頃には気持ちが高ぶったのか目を真っ赤にしていました。

在任2年足らずの間に、そんなことが3回あったでしょうか。私は、すっかり女を泣かせる部長になって

いました。

  当時、10数人の若い人、それも20歳前後の人達がいました。

あるとき、まだ19歳のK君が、「自衛隊を辞めたい。」と言って来ました。なかなか優秀な人なのです

が、入隊して1年足らず、ちょっと不安になったのです。部屋に呼んで話を聞きますと、彼も落ち着いた

ようです。そこで私は、彼に任務を与えました。

若い人達と飲みたいから、「ヤングの会」を作れと命じたのです。彼は、積極的でリーダー・シップのあ

るS君と協力してすぐに人を集めてくれました。

それでみんなで居酒屋に行ったのですが、そこで年齢確認をされ、未成年は入れないとのこと、慌てて別

の店を探すなどしたのを覚えています。勿論、彼はジュースとかウーロン茶を飲んでいました。

そんな飲み会が何回かありました。

  自分の息子より若い人達は、とても純情で素直です。20歳前後のヤングの中におじさんが一人の感

は否めませんでしたが、それでもとても楽しい飲み会でした。勿論、若い女の子もいます。最後の頃には

他の部の人達も来るようになっていました。

  昼間は暇でした。

大抵は書類に判子を押すだけ、それぞれの仕事のことはよくわかりませんし、彼等はベテランですので余程の

トラブルでもない限り私が出て行くことはありません。

  衛生課には、二人のお医者さんと一人の歯科医師がいました。

きれいな看護士さんもたくさんいましたので、よく遊びに行きました。と言うのも、実は万年二日酔いの

ような生活で、いつも薬を貰いに行っていたのです。

あるとき、若いK士長に、「君、すまんが、薬を貰って来てくれないか!」と頼みました。

彼は着任したばかりだったので「とにかく一番きれいな看護士さんに、部長が二日酔いで薬を欲しがって

いると言えばわかるから。」と言いました。

彼は喜んで衛生課に行きましたが、しばらくするとショボンとして帰って来ました。

「どうした?」と聞くと、彼が言いました。

「きれいな看護士さんはいなくて、1尉のおっさんが出て来ました。」

とりあえず、私は薬を貰って一安心しましたが・・・。

  宮崎と並んで楽しかった目黒基地の想い出は更に続きます。

                                −続く−

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我が人生−18−(契約本部)

我が人生−18−(契約本部)

  平成12年12月、私は調達実施本部に航空機の監督・検査を担当する課長として着任しました。

調達実施本部は防衛庁の機関で、航空自衛隊とは別の組織、私が航空自衛隊以外の組織で働くのは初め

てのことでした。

最初の仕事は、組織改編です。調達実施本部は翌年1月には契約本部として改編されたのでした。

契約本部の職員の大部分は事務官です。

自衛官ばかりの航空自衛隊とは、随分雰囲気が違います。

自衛官であればお互いに助け合うような雰囲気があるのですが、ここでは一人一人が仕事をしていて、

そんな雰囲気がありません。私の課は、自衛官が多かったのですが、それでも陸、海、空の自衛官が

いて、それぞれ違う雰囲気を持っています。

陸上は上司を大事にするけど本音を言わない、海上も上司の言うことは絶対的ですが、やはり報告せず

に仕事を進める傾向がありました。

勝手なことを言うのが航空自衛官、どっちが上司かわからないような口をききます。

  最初の仕事は、航空機及び関連メーカーの視察でした。

三菱重工、川崎重工、富士重工、新明和工業、日本飛行機などなどです。

日本だけでなく、アメリカのメーカーの視察にも行きました。

テキサス州にあるロッキードです。

このとき、二度ともワシントンにあるアメリカの契約本部のようなところにも寄りました。

ワシントンには、防衛研究所で一緒だったシンタニさんがいます。

私は、彼のうちに泊めてもらいましたが、彼は私がカニが好きなことを覚えてくれていて、市場で買って

来て食べさせてくれました。

二度目のとき、彼が言いました。

「お前が定年になったら、是非奥さんを連れて来い。」

私は、固く約束をしました。

  契約本部での仕事はけっこう大変でした。

会社でいろいろなトラブルがあって、それが新聞に叩かれるのです。

パソコンの盗難、飛行機への悪戯事件、電車の中の資料のおき忘れなどなど、なぜかそれが新聞に書か

れて大騒ぎになるのでした。

日曜日にテニス・コートのマイクで呼び出されたりもしました。

それまで持つのを止めていた携帯電話を再び買ったのはこのときでした。

今まで、携帯でまで女房に追いかけられてはたまらないと思い持たなかったのですが、持ってみるとメ

ール機能がついていて、とても便利なのです。

それ以降、私は毎朝俳句や和歌を作って、メール友達に配るようにしました。

日頃、疎遠な人とも意思疎通ができるし、電車の中でも退屈しないのでとても便利です。

今では、離せないものになっています。

  いろいろな会社のトラブルで忙しい日々が続きましたし嫌な思いもしましたが、助かったのはこの

ときの上司がとてもいい人だったことです。

  ここで大変だったのが、やはり女性職員でした。

一人一人はいい人なのですが、お互いが合わないのです。

この間に立つと、まるで妻と姑のトラブルの間にいるような心境になっていました。

  契約本部では大部屋でした。部屋の中は禁煙、タバコを吸うには80メートル歩いて廊下の端っこ

の喫煙所まで行かなければなりません。

そこでは狭い場所にたくさんの人が集まって煙がもうもうとしています。

でもここで知り合った人とすっかり友達になり、今でも親しくさせてもらっています。

  いろいろ会社のトラブルに追いかけられた契約本部での2年4か月でしたが、最後の自衛官勤務は

航空自衛隊になることになりました。定年まで1年8か月、今は目黒に移転した幹部学校に行くことに

なったのです。

                                −続く−

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我が人生−17−(浜松)

我が人生−17−(浜松)

  平成11年の夏、子供達を東京に残し、私達は夫婦で浜松に赴任しました。

上の息子は就職し、下の息子はまだ大学生でした。

  浜松では、司令部の総務部長でした。

主な仕事は、総務、人事、会計、厚生、訓練などです。

中でも大きいのがお客さんの接待、外国からの高官でも来れば駅に出迎えに行かなければなりません。

駅に出迎えに行って改札口で待っていると、遠い昔のことを思い出しました。

百里にいた頃、T旅館で女将さんに「養子に行ってもいいのか。」と聞かれたときのことです。

私は、養子に行って旅館の番頭にたいなことをするのは嫌だと思って断ったのですが、この歳になって

駅に出迎えに行くのなら、旅館の番頭の方が良かったのでないかとじみじみ思いました。

  外国の高官と言えば、あるとき中華人民共和国の高官の一団が来たことがありました。

昼間は概況説明や基地見学などをして、夜は懇親会です。

浜名湖畔のホテルで、お互い7、8人同士が向かい合っての宴席です。

中央はそれぞれのトップが座っていて、ここには通訳もいるのですが、一番端っこの私達のところには

通訳がいません。筆談をと思ってメモは持って行ったのですが、これも思うように通じません。

漢字も違いますし、同じ漢字でも意味が違うのです。

やっと通じた単語がひとつ、「乾杯」でした。中国語では、カンペイと発音します。

向かい合って黙って飲んでいて、目が合うと「乾杯!」です。

なんと私達は2時間、乾杯だけで過ごしました。

そして2時間の宴が終ったときには、完全に出来上がっていました。

それにしても中国人もお酒は強かったです。

  浜松での上司は厳しい人でした。厳しいと言うより、激しいという方が正しいのでしょう。

何かあると、激しく叱られました。

今まで、岐阜、木更津、市ヶ谷で激しい上司に仕えましたが、それに負けずと劣らない激しさです。

普段は優しいいい人なのですが、怒り出すと大変でした。

私は、加害者の心理と、被害者の心理について考えさせられました。

怒る方、すなわち加害者にしてみれば、「叱るけど、普段は優しくしているし、飲みにも連れて行って

いる、十分フォローしているのだからそんなに負担にはならないはずだ。」と考えます。

ところが被害者、叱られる方にしてみれば、「いつ叱られるのかわからない。」から四六時中恐怖の中

にいることになるのです。

そんな私を見て、部下で女性自衛官のS子ちゃんが言いました。

「部長、可哀相ね。職場でも地雷原を歩いていて、家でも地雷原を歩いているんでしょ!」

職場の地雷原のお陰で、私は血圧が170くらいまで上がりました。

先輩に勧められて、自衛隊の岐阜病院で人間ドックを受けることにしました。

病院に着くと、早速血圧測定です。

血圧を測っていた看護婦さんが言いました。

「三好さん、120とちょっとです。」

このとき私は血圧は精神的ストレスの影響が大きいことを初めて実感しました。

このときは、女房が来ていて良かったと思いました。叱られた夜、一人官舎でじっとしていたらきっと

発狂したかも知れません。

  浜松でも、行き付けの飲み屋がありました。

今はもう店を閉めていたのですが、「月の砂漠」という店でした。

ママさんは60歳過ぎ、なかなか気風のいい人です。

私は、何回か行っていましたが、女房はいつもどこに行っているのだろうかと思っていたようです。

そんなある日の夕方、官舎の玄関のチャイムが鳴りました。

出てみると、「月の砂漠」のママさんで、手に卵を持っています。

浜松の栄養のある卵を女房に持って来てくれたのです。女房は大喜び、これで私は堂々と飲みに行ける

ようになりました。商売というのは、こんなところにあるのですね。

仕事以外は、浜松でも楽しく過ごしました。

鮎取りに行ったり、佐久間ダムの方に行ったりと、けっこう見るところが多いのです。

  浜松に来て、1年が過ぎようとしたある日、朝出勤すると上司が言いました。

「僕は、ここで最後になるかも知れないが、そんなときに君みたいな総務部長で実に残念だ。」

それからしばらくして、私は市ヶ谷にある契約本部に転勤することになりました。

浜松勤務は1年と5か月、自衛官として歩んで来て、一番短い勤務でした。

しかしみんなに見送られて基地を離れようとするとき、私は思わずスキップを踏みたい気分になってい

ました。

                                 −続く−

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我が人生−16−(市ヶ谷・十条)

我が人生−16−(市ヶ谷・十条)

  再び補給本部勤務、ここでは計画部長でした。

なぜか私が着任すると頭に”無”がついてしまって、無計画部長と言われてしまいます。

補給本部は、女性事務官の多いところでした。100名近くいたと思います。

ある日、部長会議で本部長が言いました。

「我々、補給本部は、幹部自衛官だけでなく、曹士自衛官もいる。また多くの事務官もいて、それぞれ

違うコミュニティを持っている。彼等の意見も十分に聞かなければならない。」

私が言いました。

「はい、そのとおりですが、ひとつお忘れになっています。女性の世界です。彼女達もまた別のコミュ

ニティを作っています。彼女達のこともよく掌握しておく必要があると思います。」

本部長は、ムッとした顔をして言いました。

「それならお前がやれ!」

私は、早速、20代、30代、40代、50代の女性を10人づつ集めて話を聞く場を設けました。

20代の女性達は実に直でした。30代の女性達は、元気一杯張り切っていました。50代の女性達は

悟った感じでした。大変だったのが、40代の女性達でした。

「そもそも、あなた達部長連中から始まって、みんなが若い女の子を甘やかし過ぎる。あれでは私達が

若い子を指導しても一向に効果があがらない。」から始まって、自分達の身の不遇を歯に衣を着せるこ

となくぶつけて来ました。

このときばかりは、宮崎で鍛えた女性観も全然役に立たず、ただひたすら黙って聞いているだけでした。

公務員の世界も、次第に女性の処遇を改善して来ましたが、彼女達が取り残された最後の世代だったの

です。

  思うに、規模にもよりますが、組織の基本単位は課(自衛隊で言えば隊)です。

宴会をするにも課単位ですし、仕事をするのも課が基本単位です。

部長で来てからというもの、部でまとまって何かすることはありません。ちょっと寂しい気がしました。

当時、部長の面倒をみるのは企画課でしたから、宴会などは企画課の宴会に参加していました。

  企画課の庶務に、まだ大学を出たてのM子ちゃんがいて、いろいろ私の面倒を見てくれていました。

彼女は、機転のきく女の子でした。

ある日、彼女が古い文書を持って来たので、私がちょっと怖い顔をして言いました。

「君、駄目じゃないか。たとえ庶務でも、文書の回覧ひとつにせよちゃんと目を通して持って来るもの

だ!」

すると彼女が笑顔で言いました。

「あ〜ら、部長!私、こうして注意されたの初めてです。嬉しいです。ありがとうございました。」

僕は、デレ〜ッとなって言いました。

「いや、いいんだ。これから気をつけるんだよ。」

またある日、彼女に言いました。

「君、今日もきれいだね。」

すると彼女が言いました。

「あらっ、部長もとても素敵ですわ。」

彼女は、やがてエリート官僚と結婚することになります。

  彼女のお陰で、私のファンクラブが広がりました。

若い20歳代を中心としたグループが春の花にちなんで「菜の花組」、30代の女性達が「ひまわり組」

40歳代以降が「コスモス組」です。

補給本部は、この間に市ヶ谷から十条に移転しましたが、十条では彼女達と大衆演劇をやっている篠原

演芸場に月例の観劇によく行ったりしたものでした。

  補給本部にいるとき、会う女性に必ず「今日も、きれいだね。と声を掛けるようにしました。

ところが、しばらくすると「無計画部長はセクハラだ。」という噂が立つようになりました。

でもよくよく聞いて見ると、どうやら噂を立てているのは、私が相手のことをよく知らなくて声を掛け

ない女性達だったのです。

このときも女性の難しさを改めて実感させられました。

  仕事の方は、5人の課長と課の人達がやってくれました。

みんな優秀なので、私が何もしなくても、大きなトラブルはありませんでした。

  私生活としては、この頃から趣味でE−Mailを始めました。

何人かの人達とは、今でもメール交換を続けています。メールの世界は、現実とは違うバーチャルな世

界、昼間のテニスやゴルフとは違った趣味の世界に入ることができました。

  補給本部の企画課でも、積み立てをして年末には一泊の忘年会に行っていました。

私も参加させて貰うのですが、コンパニオンを呼んだりして幹事が予算を心配するくらい盛り上がりま

した。

  そんな補給本部勤務も2年で終わり、次は浜松に行くことになりました。

内示があったその日、私は家族にその旨を話しました。

すると息子が言いました。

「父ちゃん、浜松に行くのなら、母ちゃんを連れて行きなよ。俺達が怒られるのは真っ平だぜ。貰った

のは父ちゃんなんだから、ちゃんと責任を取れよな。」

結局、私は息子二人を東京に残して、女房と二人で浜松に行くことになりました。

                                  −続く−

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