中西準子のホームページの雑感349-2006.6.13「原子力発電と温暖化」で前回まで話題にしていた槌田敦「CO2温暖化説は間違っている」と並んで取り上げられていたので読んでみることに。
アマゾンのブックレビューを見てみると、
あわせて買いたい
『原子力と環境』と『CO2温暖化説は間違っている』、どちらもおすすめ!
となっていた。これって中西効果?
それはともかく、内容はというと、
第1章 ある環境活動家の変貌
第2章 石油文明の終わりと地球温暖化
第3章 資源小国・日本のおかれた立場
第4章 過密社会化する世界のゆくえ
の4章立てとなっている。
著者の言いたいことを簡単にまとめると、「エネルギー的にも環境的にも日本は原子力抜きではたち行かなくなるだろう。」というもの。その論調は、率直に言わせてもらえば、翼賛的で偏向しており、信用するに足りない。原子力のメリットはこれでもかとばかりに強調する一方、デメリットであるはずの安全性の問題については
実験の失敗ばかりが大きく報道された。成功は小さく一度きりしか報道されない。これでは正しいイメージが世間に伝わらないはずだ。
p112
などと、原子力関連の報道に偏りがあるということだけを主張するにとどまり、実際の安全性はどうなっているのかについての言及はほとんどなされていない。また環境問題についても
地球温暖化による気温上昇は、今後100年間に平均で2度前後と予想されている。温暖化は100年で終わるわけではない。南極と北極の気温は平均値の4倍くらい上がるから、200年後に平均で4度上昇すれば10数度の気温上昇となって、南極の氷は一部溶け出すだろう。全部溶ければ海面は60メートルくらい上昇するそうだから、いずれ東京もニューヨークも海に沈んでしまう。
p81-82
などと危機をあおるような書き方をしている。100年後に平均2度、極地で4倍ってのが正しいとして、200年後に4度って正しいの?単純にそれも極地で4倍していいの?よしんば南極の氷が溶け出すのがただしいとして、全部溶けるなどというありえない仮定で東京もニューヨークも海に沈むなどという予測を行うってのは「環境の危機ばかりが大きく報道された」ことにはならないの?
私は原子力政策について詳しくもないし、賛成でも反対でもないけれど、このように自分に都合のいい部分を強調し、都合の悪い部分は無視するような偏向した姿勢をとる論者の意見は信用するに足りないと考える。
また、一冊の本としての完成度もあまり高くない。
「原子力と環境」というタイトルではあるものの、原子力と環境の関連性について論じるのではなく、原子力問題と環境問題(その他エネルギー問題等)それぞれについて書かれるのみで、話題が拡散している。しかもその論じ方が「日本特有の多神教が世界強調に貢献する」などといった苦笑ものの持論か、使い古されたお話ばかりでまったくと言っていいほどためにならない。第4章など「過密社会が育てた日本の知恵と文化」など日本礼賛で、ほとんど関係ないように思える文章がズラリと並ぶ。まあ記者としてこれまで経験したエピソードくらいか、役に立ちそうなのは。
もっとも、ところどころ織り込まれるトンデモエピソードはウォッチャーを楽しませてくれるだろう。以下、その一部を紹介する。
ムーア博士は原子力推進に転向したが、グリーンピースそのものの反原発の姿勢は変わらないという。「なぜなら、彼らの主張は宗教のようなものだ。捕鯨反対もそうだ」と語った。それは原理主義の一神教の世界の産物だ。世界は多神教が共存、強調する時代に移りつつある。身勝手な一神教の論理を振り回すのは時代遅れだ。
p23
一神教=原理主義かよ。そりゃ原理主義は身勝手で迷惑だけど、一神教が全てそういう性格を持っているわけではないだろ。
日本の技術援助で外国の火力発電の効率が上がったら、それも日本がCO2を減らしたことに勘定する共同実施やクリーン開発メカニズムもまやかしである。たとえば中国が日本の技術で火力発電所を増やすと、どんなに熱効率のいいものであっても、中国のCO2排出量は増えるのに、日本は旧式の中国の火力発電との排出量の差を減らしたと勘定するのがこの制度だからである。
p40
火力発電所の建設前と後でCO2排出量を比較してどうする。クリーン開発メカニズム有り無しでの比較だろ。
もっとも好ましい解決方法は、人口が減ることだと思う。
(中略)
天の配慮によるのだろうか、日本では将来の人口減少が予想されている。すでに2005年から、死んだ人の数が生まれた赤ちゃんの数を上回る、自然減の時代に入った。
政府も国民もこの傾向に賛成かと思ったら大反対のようだ。少子化が続けば国力は低下する。(中略)人口の減少を気遣う気持ちは理解できる。
では人口は増えるのがいいか。増え過ぎて、食えない人が大勢発生すると戦争の原因になる。それでいいのか。
p45
この人の頭の中には増えるか減るかの2つしかないのだろうか。なぜ人口増でも超少子化でもない「ゆるやかな少子化」という選択肢が浮かばないのだろうか。
近年、省エネルギーと資源循環型の社会として、江戸時代を礼賛する風潮も生まれた。資源の乏しい日本でも、江戸の時代の暮らしの精神を生かせばなんとかなると思う人が増えた。しかし、この考え方はかなり間違っている。
日本は資源の乏しい国ではなかった。資源がなくて、国の経済が立ち行くわけがない。佐渡をはじめ日本の各地に金鉱山があった。(後略)
p48
そりゃ資源の意味が違うだろ。資源循環型の資源は物質、原材料としての資源。金鉱山なんかの資源は資産としての資源。
平均寿命が50年のときには、嫁姑の関係は10年間だった。20歳で嫁に行ったとして、その時姑の平均年齢が40歳。10年すれば姑は平均寿命に達したからである。平均寿命が30年延びた結果、嫁姑の関係も30年延びた。
昔の嫁姑の関係は、嫁が若いときの10年間だったから我慢ができたという面もある。40年間も同じ家に嫁と姑が同居していたら、昔には考えられなかったようなトラブルも生じる。
p74-75
平均寿命と平均余命の区別もつかないようだ。40歳の人間があと何年生きるかの計算には平均寿命ではなく平均余命を用いなければいけない。でないと、50歳の人間はすぐに死んでしまう計算になってしまう。統計によると、平均寿命が50年のとき(昭和10年)、40歳の平均余命は30年。20歳で嫁に行ったとして、嫁姑の関係は30年。平均寿命が80年のとき(昭和60年)、初婚年齢も遅れているから25歳で嫁に行ったとして、50歳の平均余命=嫁姑の関係は約32年。ほとんど変わっていない。だいたいこの人平均寿命が50年の時代に生きていたはず(1933年生まれ)なのに、どうして40歳の人があと10年しか生きないなんて思っちゃったんだろう?
しかしまあ、よくこんな文章を書く人が前作の『原子力と報道』でエネルギーフォーラム賞特別賞を受賞できるもんだ。
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