◇大岡玲(あきら)・評
(講談社現代新書・756円)
◇「国民の司法参加」の裏にある危険
二十一世紀になってわずか数年の間に、日本政府は、国民の自由意志や権利を制限・抑圧できる可能性を秘めた法律を、次々に成立させてきた。個人情報保護法や有事法制のようにマスコミで激しく騒がれたもの以外では、たとえば、「生涯にわたって健康の増進に努める」ことを「国民の責務」とする健康増進法などがその典型だろう。これによって、健康の保持ができない人間を差別し排除する権利が、国に与えられてしまった。
二〇〇九年に開始が予定されている裁判員制度の場合も、国民の司法への参加によって「裁判に『健全な社会常識』を反映させる」ことができる、という建て前の裏側に、その種の危険性がいくつも含まれている、と著者・西野氏は警告する。しかも、昨年行われた新聞社の世論調査では、七割以上の人間が裁判員にはなりたくない、と回答したという。そんな法律が、なぜ成立してしまったのか?
西野氏によれば、「終戦直後にできた、いまの裁判制度」を、「戦後半世紀を経て、根本的に見直そう」という趣旨のもと、一九九九年にできた司法制度改革審議会に、その発端がある。「審議会委員十三名のうち、法律専門家の数をあえて半数以下の六名とし」、「ずぶの素人の委員を多く」したこの審議会で、「最初から特に重要とされていたテーマ」のひとつが、「陪審制または参審制」の導入だった。
陪審制導入論者と反対論者が激論し、「陪審制への思い入れが強すぎる委員が審議中に興奮のあまり、反陪審派の委員に口汚い罵声(ばせい)を浴びせる」といった事態にまで発展した審議会は、結局両者を調整しきれず、妥協の産物として参審制度(市民参加型司法だが、陪審制度とはかなり異なっている)にきわめて近い裁判員制度というものを提案した。言いかえれば、委員たちにとっても不満足な法律が、妥協の産物として出現したのだ、と著者は書く。
しかも、「審議会では、裁判員制度を採用すると、刑事裁判のどこが、なぜ、どうよくなるのか、という議論」はまったくなされておらず、そもそもいまの刑事裁判制度のどこにどのような問題があり、それは現行制度の手直しで対応できないものなのかどうか、といった検討もされないまま、一足飛びに新制度への移行が決められたのだ。まことに軽はずみな審議過程としか言いようがない。さらに、この最終意見を受けて政府が作った法案は、わずか三カ月足らずの国会審議のみで可決、正式に公布されたのである。その拙速ぶりには、呆(あき)れを通り越して、暗澹(あんたん)たる気分にさせられる。
その結果、「手抜き審理が横行」し「真相の追求が図られなくなる恐れがあ」る上に、「被告人にも、犯罪被害者にも辛く苦しい思いをさせ」、「裁判員に動員される国民の負担があまりにも大きい」という、実施の「必然性がない」「迷惑な制度」が生まれたわけである。おまけに、この法律は「費用がかかりすぎ」、「憲法に違反」している疑いまであるという。
そんな裁判員などに選ばれて貧乏くじを引きたくない、と思う人のために、西野氏は具体的な逃れ方を細かく指南してくれる。この本の読みどころである。罰則規定で脅しをかける国家側の論理に対抗すべく、さまざまな策を提示する著者の筆致は、明快かつユーモラスだ。
現行の司法制度が完全であるなどとは毛頭思わないが、まずやるべきは今の制度の欠点をすべて洗い出し、漸進的に改革することだろう。無謀な一足飛びで多大なリスクを負わされるのは、ご免こうむる。
毎日新聞 2007年9月16日 東京朝刊