2008年5月15日(木)
嫌悪
快感と共に嫌悪も強いと仮定したが、ちょっと違った。
人(定型発達)が楽しく生きて行くには、嫌悪感よりも快感の方が上回らないと成り立たない。
だから、余程快感が大きいんだろうな。
さらに、凄いところは、「嫌悪感」を快感にすり替えるテクニックを持っている事だ。
つまり、定型発達が「いじめっ子」を見つけ「嫌悪」する。
そこで、「罪悪感」という物で味付けされた「苛め」を行う。
「苛め」という行為は、「罪悪感」という、最高の香辛料で味付けされているから、「最高の快感」になる。
こう考えれば、「快感」に相対する「嫌悪」すらも、最高の「快感」になるのだから
この世の中は楽しい事ばかりとなる。
世の中、定型発達の為にある。 当たり前だが、あらためて思う。
作成者
Chip
: 2008年5月15日(木) 12:30
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2008年5月14日(水)
快感
今月は刺激について書き始めたら、意外にも定型発達の「依存」の話になってきた。
さらに昨日気づいた事がある。
つまり、定型発達に於いて「依存」はイコール「快感」なんだな。
この依存が快感であると言う件は5/13以前参照。
だからこそ、定型発達は「依存」するんだ。
私だって酒を飲む。酔っぱらうと身体が暖かくなってふわふわした気持ちになる。
酒は甘くて美味しい。
これを「気持ちいい」と言えば気持ちいいし、「快感」といえば快感なんだけど、
この「依存」の度合い、通常の生活態度、反応、等を考え合わすと、こうなった。
★文字で書くと 「定型発達に於ける快感」と「自閉症に於ける快感」は表現上は同じ。
ところが、脳内で起きている「快感」(定型発達)はとてつもなく強大(自閉症から見て)
できれば、それにずっと浸っていたい程「快感」であるらしい。
こう考えると、なるほど「定型発達」の人たちにアンケートを取ると、半数は「死にたい」と考えた事が無いと言う。
それ程、楽しい事に毎日があふれているのだ。
「快感」の度合いが自閉症の私たちが想像も出来ない程「大きい」と言うことは、
「不快」「嫌悪感」も同じように「大きい」と考えられる。
そう考えれば、定型発達の連中が私たちを信じられない程「嫌悪」し「苛める」のも分かる。
実はこんな所に、真実があるような気がする。
作成者
Chip
: 2008年5月14日(水) 09:54
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2008年5月13日(火)
依存したい。
またぞろ5月になると、NHKでアスペ物が放映される。
先日も放映され、アスペ予備軍が大量発生したようである。
それによると、あなたは、アスペです、と言われるのを期待して、
「私はアスペルガー症候群でしょうか」と掲示板に聞いてくるらしい。
本当にそう思うんなら、精神科に飛び込むんだけど、そうじゃないところがこいつららしいところ。
つまり、「俺が上手くいかないのは何か原因があるに違いない」と思う自分に「依存」し、
「あなたはきっとアスペでしょう」と無責任に言う赤の他人に「依存する」
その場、その場の「ごっこ遊び」だから、予定調和で、そこに居るみんなは仲良し子良しで、幸せになる。つまり「快感」を得る。
これで、また「アスペ」が一人出来上がる。
こう書き表すと、定型発達に於いて、如何に「依存」というものが、
「依存できる能力」というものが大切な物かがわかるし、
私たち自閉症のグループの人間が出来ないことが「依存」であることが分かると思う。
考えてみれば当たり前で、猿山といっしょで、集団生活をする「種」なのだから、そこに「依存」無しではあり得ない。
「依存」無しの種であれば、単独生活をしているはずだ。
だから、知能が若干低い「自閉症」の仲間は、ぷいと突然家からいなくなるのも、当然の事かもしれない。
作成者
Chip
: 2008年5月13日(火) 09:53
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2008年5月12日(月)
共依存
「共依存」を基に刺激を考えてみる。
私の論で言うと、定型発達の場合は、お互いその刺激の強さ故に引きつけ合うと言うことだ。
「暴力」と「弱い者いじめ」「虐待」「罪悪感」という香辛料たっぷりで味付け補強された「刺激(つまり快感)」と
「暴力」にたっぷり味付けされた「優しさ」という「刺激(つまり快感)」に
お互いが慣れ惹かれ合うというのが、私の考える定型発達の「共依存」である。
(刺激→快感→「好き」)
一方、自閉症の場合は「依存」自体が無いというのが、私のスタンス。(刺激→刺激 「好き」「嫌い」に結びつかない)
だから、例えば、強烈な締め付け(これは、自閉症側の受け取った思い)を熱心に働きかける親と
「親は子供の事を思ってすること」「子供を憎む親は居ない」「子供は親孝行しろ」「子は親の言うことを聞くものだ」等々
「常識」と呼ばれるものにありとあらゆる方向から規制を受けている子供が、
一見「依存」或いは「服従」しているかに見えるが、
これは、「依存」ではなく、「忍従」であると考える。其処に定型発達のような「快感」が無いのだ。
だからこそ、この与えられ続けた「刺激」が、ある日暴発点に達するのである。
現場で、「知恵遅れ」の人たちや「自閉症」の人を見ている人ならば分かると思うが、
「知恵遅れ」の人は、いとも簡単に人の助けを借りる事が出来るし、また、人に甘えるのも上手いし、甘えて良い人を見分けるのも上手い。
一方、自閉症の人は、人に頼ろうとせず、働きかけても、頼りにしないのだ。
こんなところでも、「依存できない」と言う特徴が現れている。
つまり、一方が自閉症のグループであれば、「共依存」は成り立たず、
「支配」と「忍従」がそこにあるだけなのだ。
ちょっと煮込みが足りず すまんです。
作成者
Chip
: 2008年5月12日(月) 09:41
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2008年5月11日(日)
在ることの難しさ
在るからこそ考えられると言うのは勘違いである。
例えば、脳内の電気信号の流れをあなたは感じることが出来るか?
知識としては脳は電気信号のやりとりで成り立っていることを知っている。
しかし、知っているからといって、理解していること、分かっていることとは別だ。
SAMについては尚更だ。
脳内の電気信号で組み立てられているソフトの問題だからだ。
自分の中で、そんなプログラムが自動で働き、目が動き顔が動き身体が動く。
すべて無意識下で自動で動くモノを理解しろというのは、
空気の中の分子の粒がどんな風に動き回っているか、目の前の空気を見て考えろと言うようなモノで、
物事の成り立ちから、同じ様な構造のモノを思い浮かべ、その構造の在り方をすべて理解した上で、
そのプログラムの動きを仮定し、その仮定を裏付ける現象を発見するという、
一流の科学者、特別の知性無くしては理解し得ないのである。
これら、人間(自閉症)の科学の端に到達したのが、フリスであり、バロンコーエンであり、ハッペであり、ウイングだ。
彼らが長い人生を掛けて懇切丁寧に説明しても、現実に理解するのは難しい。
日本の児童精神科医は、満足に理解もせず(出来ず)、自分の思いつきを補強するためだけに、引用し利用するだけだ。
彼らの論文は、その序文と結論が不一致のお笑いのような論文を平気で出す。
取り敢えず出しておけば、後はサポーターがテレビで取り上げる。
これが、杉山登志郎、辻井正次の作り出した、日本の自閉症の環境だ。
最も理解から遠い人間が、理解したつもりになっているのは、本当に困るんだよ。 どんな職場でも「知ったかぶり」が一番困るんだよな。
私たち「自閉症」は、とにかく自分を見つめよう。
立派な本になっているからといって、真実とは限らない。
でも、取り敢えず信じちゃうのが自閉症なんだよな。 否定するのには、何年も何十年もかかるって言うハンデがあるんだ。
作成者
Chip
: 2008年5月11日(日) 18:08
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2008年5月10日(土)
無いが在る
無いからこそ考えられる事がある。
これを概念で語ると、禅問答モドキになり果てしがない。宗教に通じるモノがあるな。
そうではなく、もう少し具体的に考える。知識ではなく体験として考えなければならない。
私たちは今生活をしている。
海へ行き水に潜る。水の中では呼吸が出来ない。そりゃそうだ。 そこに在るのは水だけだ。
顔を上げる。ようやく息が出来る。 ああ、空気が在る。
水の中には水が在り、空気の中には空気が在る。 共に在る事を感じるわけである。つまり、
水の中に在るときに空気が無いことを知る事が出来、
空気の中に在るときに水が無いことを知ることが出来るのだ。
これを、当たり前と言う人は、まだ考えるレベルが子供なんだな。知識に振り回されているだけだ。
無いからこそ考え知ることが出来る。そういう事もある。
まさしく、SAMが無いからこそ、在る事を。中枢性の統合に欠陥がるからこそ、欠陥が無い事を。知ることが出来るのだ。
そう考えると、それらを知る人は非常に少ないことが分かる。
自閉症の発生率を1/600人(私はこの説を採る)さらに、それを考えられる知能の持ち主を2/100人とすると、1/30000人。
この人が遭う確率が1/900000000となる。
ところが、湯川秀樹と朝永振一郎が同級生であったように、あり得ない話じゃない。
それぐらい難しい話っていう話。 勿論、私が自閉症だという特異事項があるからこそで、天才と言うことではないので念のため。
作成者
Chip
: 2008年5月10日(土) 09:56
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2008年5月9日(金)
依存
「刺激」
「刺激が欲しい」
「依存症」
「共依存」
定型発達の話ではあるが、コメントも含め共依存まで話が来た。
では、依存とは何か。
定型発達は何か失敗したとき、「防衛機制」が働き答えを別に求める。
「**が無ければ、こんな事にならなかった。**のせいだ」
そして、こう判断した「自己意識」を信じ込む。
事実とは若干差があるのは十分知っているのだが、事実は事実として、
自分が信じたい事を、信じたいように変えてくれる「自己意識」を頼りにしているのだ。
これが、まさしく「依存」なのだ。
嘘を吐いたときその嘘に酔いしれる「自己意識」に依存し、
酒を飲みその時の快感に酔いしれる「自己意識。に依存し、
「罪悪感」で強化された「反社会行為」の快感に依存する。
これによって、「依存症」となる。
ところが、「自閉症」「アスペルガー症候群」の場合は、
(これからは、本当に自分を見つめた当事者にしか分からない話)
事実を自分が受け入れられる様に変えてくれる「防衛機制」の働きが非常に弱い。
失敗は失敗のまま、そのままの記憶として残る。
そもそも「自己意識」自体が乏しいのだが、
失敗の事実を自分の「自己意識」は上手く変えてくれず、結果
自分の「自己意識」に甘えることが出来ない。
つまり、自分で自分の事を信じられない、自分に頼ることが出来ないのだ。
自分に「依存」出来ない「自閉症」が、さらに他のモノ、「酒」「麻薬」「他人」に依存出来るわけが無い。
勿論定型発達であっても、何でも事実をねじ曲げる訳ではない。
人間として大切な「防衛機制」が壊れることがある。
こうなったときが「鬱病」である。
ちなみに、「中枢性の統合」が壊れると「統合失調症」である。
「自閉症」も中枢性の統合が正常に働いていないのだが、
SAM(内なるもう一人の自分)が無いから、自分と別の内なる自分が話しかけたり命令したりする事が無く、
「統合失調症」とは現れ方が違うのだ。 今日はちょっと難しいかな。
作成者
Chip
: 2008年5月9日(金) 10:30
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2008年5月8日(木)
依存症
今月の書き込みを下まで来ると、ようやく面白い言葉にたどり着いた。
つまり、
「刺激が欲しい」である。
まさしく定型発達の感情行為「刺激が欲しい」。
定型発達の場合、記憶は幾つかの感情を表す言葉に翻訳され、統合された形になってしまう。
せっかく刺激として行った行為も、それが終わった時点で、「面白かった」という言葉に翻訳されると、
すぐに、中枢性の統合が働き「面白かった事」の引き出しにしまわれてしまう。
こうなると、すでに「刺激」から変換翻訳された「記憶」になってしまうから、二度とその刺激は脳内で再現されることは無い。
だから、また同じ様な「刺激」を求める。
これを繰り返せばまさしく「依存症」だ。
ニキリンコの様に「嘘を吐く」は何度も繰り返され、酒による刺激も繰り返し行われる。
私は、自身の体験から、「自閉症は依存症になり得ない」との仮説を立てていたが、
偶然クソチンコが翻訳した「グニラ・ガーランド」は自著の中で、麻薬もやったが、すぐに止めることが出来たと述べていた。
私も、7年程吸っていた煙草を、3日で止められた。
酒も大好きで、外でみんなと飲むのは好きだが、家では飲まない。
だから、鬱の頃は誰とも会わなかったので、6年ほど酒は飲んでいなかったし、
最近は、わざわざお客さんに声を掛けて、年に一回飲むぐらいだ。
その間、酒は全く必要ないし、喉から手が出るほど欲しいと言うこともない。
煙草を簡単に止めた私は、「覚醒剤もきっと止められる」と豪語していたが、
グニラは実際に止めていた。
わたしは、まさしく定型発達と自閉症の脳構造(記憶システム)の違いにあると考えている。
作成者
Chip
: 2008年5月8日(木) 11:44
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2008年5月7日(水)
仮説
この刺激に対する反応について定型発達の場合について考えると、また面白い。
これは、主に斉藤学先生の話を基に考えつないでいった話。
世の中には、その立場にふさわしくない行動をとる人間が必ず居る。
女子高生買春をする高校教師。
万引きをする警察官。
その他もろもろ。
ふさわしくない人間がその職業に就いたと言うより、「罪悪感」がその犯罪の引き金になった。 というのである。
この「罪悪感」を「刺激」に変更してみると、
まさしく「刺激」を求めて自らが行動したと言うことになる。
これが、今の世情、法律と逆らっているから犯罪とされるだけで、
同じ刺激でも、大食いや、極端に辛い物を食べるという行動は非難されにくい。
「良い刺激」か「悪い刺激」に関わらず、刺激を指向するのだ。
女性1000人切り、男あさり、売春、窃盗、詐欺、うそ、万引き、過食、拒食、飲酒酩酊、家庭内暴力、苛め、自傷。
(この先少し飛躍してオリジナル)
こう考えると世の中(定型発達)の刺激的なことはすべて「こころ」によるものだ。(あたりまえか)
「こころ」があるからこその行為。
しかし、自閉症は其処にある「刺激」に対して、どう対処して良いか分からない行為。
行き着く先は、ヒステリーか、悪くすれば殺人。
定型発達は自ら刺激を求め反社会行為を繰り返し、
自閉症は刺激の「好き」「嫌い」が分からず、逃れる術を知らない。 って言うのは乱暴な話かな。
もう少し煮込みが必要な話ですが、 手の写真(4/27頃参照)をやっとアップ出来ました。
作成者
Chip
: 2008年5月7日(水) 05:35
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2008年5月6日(火)
言葉
下に書いたが、本当に書きたい事の何分の一か分からない。
文章は紙に書けるホンの一面を見ただけだからだ。
つまり、マーブル状にチョコを練り込んだパン生地があったとする。
それを、ナイフで切った切り口が文章で、そこの面の模様しか見えない。
しかし、会話であれば、その生地全体を見回しながら、
斜めに切るとどうなるか。
薄く真横に切るとどうなるか。
縦にまっすく切るとどうなるか。
と言うように、その時々に応じて、考え、仕事の途中で突然思いついたり、
何気なく口から出てきたり、相手の行動を見て思いついたり、
ありとあらゆる時間を使って考え、話し、意見を交換出来る。
そして、何とか言葉に出来ないニュアンスという物を、
何か相手の理解出来る言葉に変換出来るまで、延々と続く。
会話であれば、この様に立体で物事を見て考える事が出来るが、この二次元の文章で物事を伝えるのは本当に難しい。
作成者
Chip
: 2008年5月6日(火) 06:26
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2008年5月5日(月)
事件
「すき」と「嫌い」の意味が分からずただただ刺激の強さのみを受け入れている。
この刺激の元が人であったらどうなるか。
私の場合先輩だったが、まだ逃げ道があった。住んでるところは別だったからね。
しかし、その相手が家族だったらどうだろう。当然逃げ場が無い。
それも未成年だったら尚更だ。
非常に強いプレッシャー(働きかけ)にさらされる毎日。
その刺激は「好き」なものか「嫌い」なものか分からない。
強い刺激であることは分かる。しかし、それを「好き」としてよいのか「嫌い」としてよいのか。
分からないままに毎日、何か分からない感情が鬱積する。
「好き」か「嫌い」かが分かっていれば、癇癪をおこす程度で収まる。
しかし、彼は「好き」か「嫌いか」をモニターする術、つまり「SAM」が無かった。
この刺激には必ず「あなたの為なんだから」が付いてくるからだ。
そして、ついに限度を超える。
定型発達では思いもつかないような事件を起こすのだ。
「SAM」なんだよー。やっぱり「SAM」なんだなー。
私たち夫婦は事件が起こる度に、事件について話し合う度に、アスペルガー症候群について話す度に、同じ言葉に行き着くのだ。
作成者
Chip
: 2008年5月5日(月) 11:19
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2008年5月4日(日)
「好き」の意味
私は、たまねぎという「良くない刺激」に魅せられていたと言うことになる。
パブロフの犬ならば、刺激がマイナスの作用をしているならば、そこには近づかないようになるはずなのに、
身体の反応が時間を経過してから現れる為か、全く学習しなかった。
今、なぜこんな事を言っているのかと言うと、そこには妻の食生活がある。
妻は、非常にアレルゲン体質で、身体に色々な不調が現れる。
ところが、本人は全くその関連性を理解できなかったのである。
それどころか、「好き」である食べ物は、ことごとくアレルゲンで、悪影響がある物ほど欲求するのである。
では、「好き」とは何か。クソチンコは何でも簡単に「好き」「嫌い」が分かるから、別格別扱いとして、
私たち夫婦に於いて「好き」とはいったい何だったんだろう。
大学時代、先輩にあれほど苛められた。この前考えたら、殺しても良かったんじゃないかと思うぐらいだ。
しかし、私はひたすら寄っていった。
これも考えてみれば、先輩は「刺激」の固まりである。
まさしく私自身が「好き」「嫌い」の状態を理解出来ずにただ刺激に反応していたのではないか。
子供の頃、椎茸を食べられなかった。(これは直接的な反応である)
成長すると、ある日食べられるようになり、さらに大好物となった。
しかし、椎茸はまさしくアレルゲンだった。
「好き」も「嫌い」も刺激に対する反応である。
つまり、刺激だけを考えると、同じ意味になってしまうのである。
ただ、ここで問題なのは、「好き」も「嫌い」も分からずに刺激を求めてしまうのは、
私たち夫婦が自閉症だからだろうか。
定型発達の場合はどうなのだろうか。
この辺はまだまだ難しい問題を含めているのだ。 昨日はさぼってごめんね。
作成者
Chip
: 2008年5月4日(日) 11:28
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2008年5月2日(金)
たまねぎ
今は新たまねぎの時期で一番美味しい時期だ。
居酒屋に行けば、必ずオニオンスライスを頼み、
この間も、質のよいサーモンの薫製を見つけたので、早速オニオンスライスとサーモンのマリネを食った。
サーモンが終わり、残ったたまねぎも残らず平らげた。
すると、なんだか頭が痛い。
実は、この予感はずいぶん前からあって、オニオンスライスは好きなのに、食べるとその後で頭が痛くなるような気がしていた。
最近は食べている最中も頭がほんのり痛くなるような感じなのだ。
おとといは、新たまねぎをソーセージと炒めて、パンに挟みホットドッグのようにして食べた。
さらに、炒めたたまねぎもそのまま美味しく食べたのだが、
やはり、ズーンと頭が痛い。
どうも、たまねぎのせいで頭が痛くなるようだ。
これは、いつもの食事がシンプルで、ほとんど変化が無いから、直ぐ分かる。
どう考えても原因はたまねぎだ。
これは本当に驚いた。
何故なら、道産子の私は、子供の頃から喰うのはたまねぎとジャガイモだ。
何が無くてもたまねぎとジャガイモ。
みそ汁から、ラーメン、ありとあらゆる物にたまねぎは入っている。
そして、そのたまねぎは私の大好物でもあるのだ。
そのたまねぎが、私の頭痛に大きな役割を持っていたとは。 ショック!
こんなに好きな物が、身体に災いをもたらす物だなんて。
私はいったい何を「知覚」して「好き」と判断したのだろう。
たまねぎは私にどんな「刺激」を与えていたのだろうか。
作成者
Chip
: 2008年5月2日(金) 10:49
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2008年5月1日(木)
おふだ 悪魔退散
浅見淳子という虚栄心だけは旺盛な自称女性企業家が出版社勤務の経験から出版業を始めた。
主に自分と夫の浅見昇吾が翻訳した本を大手出版社に売りつけるブローカーの仕事だね。
アサミちゃんは、小知恵が回り、自閉症ネタで商売しようと思ったんだな。
そこで、自閉症キャラの「ニキリンコ」を作り商売にし、
さらにアスペキャラの「泉流星」も作って商売にしてるんだ。
朝鮮人を苦しめた日本人には何をしても良いから、ウソ八百はつき放題。
おまけに、「防衛機制」は過剰に働き「自己像」は肥大しまくっている。
挙げ句の果てに、記憶力が悪く、ついたウソも直ぐ忘れるから、後から追求されても全然平気なんだね。
これは詐欺師としての大切な能力だけどね。
メールも適当な名前で、出し放題。
私のところにも、「ADHDのエジソンクラブ」の高山さんの関係者を装って「ガセメール」を送ってきた。
2007年9月15日の所参照。
でも、今頃はすっかりそんなことまで忘れて平気。
さらに、このブログにも、名前を変えてはコメントを書いてくる。
私が読んで、妙だと思ったメールは削除しますが、その中で浅見淳子ではなく、純粋にコメントを書いたと言う人はクレームを受け付けます。
だけど、今まで10通以上削除してるけど、誰も文句を言わないなぁ。
今日の書き込みは、月初めの悪魔払いのお札(おふだ)です
作成者
Chip
: 2008年5月1日(木) 19:20
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刺激
今月のお題は刺激。
そもそも刺激について考え始めたのは、私と妻のどうにも理屈に合わない行動について、
考え始めたからなのだ。
学校でも会社でも嫌なヤツは居る。
周りに相談すると、「近づかないようにすればいい」
こっちが関わりを持ちたくなくても、向こうが寄ってくる。
もしくは、関わり合わざるを得ないんだな。
また、ある時はほっときゃいいのに、どうしても我慢できずに介入しちゃう。
そんな感じなんだ。
クソチンコのように、「感覚過敏で」とか事前に説明しながら「パニック」の演技をする訳じゃない。
何かの刺激に対して、自分自身がどんな対応するのか、その場になってみなきゃ分からない。
食べる物、見る物、人、出来事、世の中刺激で埋め尽くされている。
その刺激に対してどういう対応、対処、学習をしているか。
事実を元に研究しましょう。
作成者
Chip
: 2008年5月1日(木) 19:17
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