2008年5月31日(土)
出会い
出会いというのは、偶然でもあり、必然でもあるんだろうけど、
一度チャンスを逃すとなかなかそれを取り返すことは出来ない。
私たちが、2002年の自閉症カンファレンスに出席したとき、
弁護士の阿部真理子さんと同席した。
阿部さんは、当時設置されたばかりの、「成年後見人制度」についての講演で訪れたのだ。
阿部さんは、私の妻を紹介されると、
「原稿読みました。大変でしたね。よく頑張ったわね」と妻を絶賛していた。
この時の理解は全く異なり、私は、「クビになりながら、会社側と戦った妻を絶賛した」と理解していたが、
妻は、「私(妻)が書いた原稿を読んで、おーちゃんの事をほめてたんだよ」と言い張る。
真偽のほどはさておき、妻はもう一度、阿部さんに会いたいと言っていた。
しかし、そこは本物の受動型。
一切自分から、会うための行動を起こすような事も、手紙を出すことも無かった。
4年ほど経って、また、自閉症療育関係者が集まり、それに私たち夫婦も参加した。
その時聞いたのは、阿部さんの死だった。
その場に、阿部さんも呼ぼうとなり、連絡を取ったところ、その数ヶ月前に、病気で亡くなったらしい。
彼女は、自閉症の息子を持ち、子供を育てながら、弁護士資格を取ったそうだ。
実際会ったときも、ハイパーで忙しく動き回り、生き急いでいるようなエネルギッシュな感じだった。
自閉症の事を知る、数少ない弁護士であり、私たちの力となってくれそうな人が突然死んでしまった。
妻は、今でも「話したい事がたくさんあったのに」と今でも悔しがる。
年を取ると、そんなことが大切だと実感するのです。
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Chip
: 2008年5月31日(土) 09:31
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2008年5月30日(金)
中枢性の統合
はい、とすぐ言えないのは、中枢性の統合に由来する。
中枢性の統合が弱くすぐ概念化出来ないために、簡単に同一だと考えられない。
たとえば、「今の気持ちは・**・と言うことですね」と言われたときに、
定型発達の場合には、自分の気持ちと、相手が言った事と、
概念として同一と、瞬時に、0.00?秒の早さで、判断し返事をするのだ。
ところが、自閉症の場合は、中枢性の統合が弱く、簡単に概念化出来ないから、
「えーと、それとはちょっと違って、***」とか、
「そうじゃなくって、***・・」とか、
「さあ、・・・」とか、の反応になる。
これが、人間社会のコミニュケーションに於いては、ほとんどの人間がじれったくなって、
「もう、いい!」と怒り出すんだよね。
これは、我々自身も同じ反応をしていて、
自閉症だから、自閉症の返答の仕方を許容出来ると言うことにはならないんだ。
逆に、「あいつ、自分が、はいと言うことが無いくせに、人には厳しいんだよな。
自分の返事の仕方と同じじゃないか」って事にもなりがちなんだ。
テレビのインタビューを見て、腹を立てる。
それは、まるで自分を見ているようで、自分に腹を立てているのかもしれない。
自分の事って分からないもんなんだよ。
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Chip
: 2008年5月30日(金) 10:14
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2008年5月29日(木)
はい
はい、と言わない事はこんな所にも出てくる。
クロムはテストも受けて「アスペルガー症候群」と診断を受けた。
しかし、簡単に「はいそうですか」とはいかない。
万が一間違いだったら困るから、一生懸命違う部分を探そうとする。
今でも、探している。(多分)
ところが、「あなたはアスペルガー症候群ではありません」と言われても、
「はいそうですか」とはならない。
今度は、アスペルガー症候群であるらしい部分を探そうとする。
ほとんどの、アスペの連中が、掲示板に来ては誰かから、
「きっと、君はアスペだよ」と言われることを希望し、その通りだと安心してアスペになる。
このアスペの連中とは違うのがよく分かる。
クソチンコはその代表格で、ADHDと疑って大阪教育大のアホの竹田契一に「自閉症の一種アスペではないか」と言われ
「上出来」とその診断に喜び、すぐアスペになりきっている。
もしニキリンコが本物のアスペルガー症候群で、自分の事を「ADHD」と疑って
違う診断を受けたら、それこそその場で、パニックを起こし、
絶叫を上げながら、顔をバンバン叩き、病院中を走り回り、あげく部屋の中で迷い、クソ小便を垂れ流すところだ。
アスペを芝居するなら、それぐらい徹底的にやってもらいたいよな。
何れにしても「アスペルガー症候群」は、簡単に「はい」と言えないだけではなく、
頭の中では、同じように、「はい」と簡単に納得できず、
ありとあらゆる可能性をぐるぐる考え続けているのである。
これこそ、当事者でなければ分からない話。
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Chip
: 2008年5月29日(木) 22:51
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2008年5月28日(水)
イエーース
下に書いた私自身がすぐ謝ったように、人間は矛盾に満ちている。
矛盾の固まりが人間であって、それも含めて人間なのだ。
今月は刺激について書き始めたら、面白い話が次々出てこんな風になった。
後半盛り上がった討論は、残念ながら、場所が小さすぎて、討論に出来なかったのが残念。
それにしても、二人とも、私が何か言った事に対して、「はい」と言う事が無い。
どうでも良いことなら、簡単に「はい」と返事が出来るはずだ。
ところが、真面目に考えれば考える程、真剣なら真剣である程「はい」なんて簡単な答が出来るわけがない。
とにかく、その状態になったと思われる、自分の状態を正確に伝えようともがく。
もがいて、不完全ながら、話すと、また自分の考えと微妙に違う解釈をされる。
そんな、解釈をされると困るような気がするから、また一生懸命説明する。
そうすると、
「君は、はい、と言うことが無いのかね。そう言う態度は良くないよ。
人に言われたら、はい。これが人として正しい態度だぞ。良く覚えておきなさい」
何かを言われて、すぐ「はい」と言わない。
君たちは、まさしく、正真正銘アスペルガー症候群だ。 「イエーーース」
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Chip
: 2008年5月28日(水) 21:07
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2008年5月27日(火)
誤る
ごめんなさい。 すみません。
なんで謝る必要があるんだ?
とら なんで謝る必要があるんだ?
そんなに悪いことをしたのか?
強いて言えば、自分を誤魔化し、言葉遊びなんて
口から出任せ言ったことぐらいか?
笛 なんで謝る必要があるんだ?
強いて言えば、ここは謝っておけば丸く収まるという
身に染みついた変な社会性を出してしまったことぐらいか?
すみません。ごめんなさい。
俺たちは何万弁謝ればいいんだ?
仕事をもらい、謝り、仕事を仕上げ謝り、請求書を書き謝り、お金をもらい謝り、
何万弁謝るんだ?
実生活で、口が腐るほど謝り続けている。
息をするのさえ謝りながらしている。
ここは、別世界だ。 謝る必要なんか無い。
そんな意見は俺が消す。 謝るな。 ごめんねクロム。
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Chip
: 2008年5月27日(火) 08:39
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2008年5月26日(月)
夏場所
51才にして思うことは、51としての事である。
とすれば、20にして思うことは、20にしての事である。
今思い起こせば、生きる時期、知る時期、語る時期、考える時期、見つめる時期、
それぞれがあったような気がする。
幸い、私は偶然妻と出会い、診断を受け、考える事を知った。
ほとんどの仲間は、自分の事も知らずに死んでいったんだろう。
幸せにも、自分の事を知る必要が無かった、無い人もいるだろう。
しかし、知った以上は考える。
考えたからには、話したい。語り合いたい。
逆に、自分を否定してもらいたい。その上で自分の理解を深めたい。
その上で、語る場所は必要である。
私はジャズが好きだった。
何処へ行っていいかも分からない。
新宿の街をさまよい、渋谷をさまよった。
求めるときに、共有する相手がいれば尚充実する。
積極奇異群であれば、尚更の事なのだ。
語る場所。 必要なのだ。
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Chip
: 2008年5月26日(月) 11:07
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2008年5月25日(日)
2008年定義の旅
物事はすべて定義から始まる。
いや、定義こそがすべてであると言っていい。
1800年ヴィクトールが捕まり、その観察が報告され、
それからなんと、200と8年。
しかし、現実はほとんど進んでいない。
自閉症の事が分かったと言っても、「自閉症も人間です」
のレベルからさほど進歩している訳じゃない。
私も、知りたいとは願っていても、爪の先ほど知っている訳でも無い。
言葉は単語から成り、単語の定義こそがすべてに繋がる。
私と妻は、幸い時間だけは豊富にあり、身近にいるから、
言葉の定義について、違いがあれば、とことん2時間でも3時間でも話し合う時間がある。
私のこのブログにしても、「自閉症とは何か」の定義の為に、
2年ほど毎日書いてもとどかない。
その定義について、僅かなコメント欄で求めるのは無謀である。
私も考え、そのヒントとなるべき事例を書こう。
皆さんも、しつこく、その定義について考え続けて欲しい。
いや、それから逃れられないはずだ。
私たちは、「アスペルガー症候群」だ
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Chip
: 2008年5月25日(日) 11:46
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2008年5月24日(土)
アヴェロンの野生児(福村出版)
この本は何処かの大学の授業に使われていたみたいで、神田の古書街に行くとよくワゴンセールで見かけます。
1800年フランスの森で、言葉を話さず、獣のような11−12才の真っ裸の子供が捕まりました(野生児)。
その子供を青年医師イタールが引き取り、療育をし、克明且つ精緻な観察で
現在まで優れた医学書として読まれている本です。
彼は、ビクトールと名付けられ、後にゲラン婦人に引き取られました。
ゲラン婦人は、また特異な才能を持ち、ビクトールの最大の親友になったのです。
その中の、私よりも私の妻が強く「共感?」した場面です。
○ゲラン婦人の主人が病気になり、郊外で診察を受けることになりましたが、
ヴィクトールはそれを知らされませんでした。
彼は自分の手伝いの仕事の一つとして、夕食時になると食卓の用意をすることになっていましたので、
ゲラン氏の分も相変わらす置き続けました。
毎日その分は片づけられましたが、翌日になると、きまって彼はまた並べるのです。
病状が悪化し、ゲラン氏は病没されました。
氏が亡くなった当日も、氏の食器が食卓に置かれました。
そうしたことが、ゲラン婦人にどれほど胸が張り裂ける思いをさせたか、[私には]手にとるようにわかります。
この悲痛な場面を目撃して、ヴィクトールは、その原因が自分にあることを悟りました。
自分のおこないがまずかったと考えただけなのか、
夫人の絶望の動機まで見抜いて自分のしたことがどれほど無駄で場違いなものかを悟ったのか、
とにかく彼は自分から食器を片付け、悲しそうにそれを戸棚にしまい込み、
二度と再び並べはしませんでした。
以上抜粋(この時ビクトールは、保護後4年程の頃と思われる(注)山岸)
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Chip
: 2008年5月24日(土) 09:12
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2008年5月23日(金)
えーはなしやなー
ほんまえー話や。
自分で読んでびっくりするようなえー話や。
今でも胸がきゅんとするなー。
彼とは、もう仕事をする縁が無くなったから、2度と会わないし、会おうとも思わない。
思い出の中のえー話や。
ここで、「心に突き刺さった」とあるので、
「なんだ、心が無いって言っておきながら、ここで心とは勝手すぎる!」
なーんて言うのは、子供の理論なんだなー。
これは、日本語の方に問題があるんだけど、自閉症だって、ダウン症だって、知恵遅れだって、
めくらだって、俺だって「心」「自分の気持ち」ぐらいはある。
しかし、このブログで使われている、或いは児童精神科、脳機能学で言われる『こころ』『心の理論』は、
「ヒト」が「ヒト」として「ヒト」の集団を形成する上で、
どの様に共通の意識、合意を得て行動するのか。
その合意を得る道具としての『こころ』なのだ。
だから、「心の理論」と聞くと、
何となくロマンチックな、優しさとか、いたわり合いとか、そんなイメージを持つ人がほとんどの様で、
ネットでもそれを口にする人は、ほとんどが勘違いか誤解で使っているよね。
「心の理論」というのは、あくまで、物理学と同じ様に、
力学、ロジック、論理、として解明できる「こころ」であって、
つらい、悲しい、等という情緒的な話では全く無いのだ。
俺だって心ぐらいあるんだ。 ただ、すぐその場で気がつかない事が多いってだけさ。
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Chip
: 2008年5月23日(金) 10:33
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2008年5月22日(木)
ついに来たか?
昨日は、まるまる休日のような状態で、自分のブログを見ていながら、更新してないことに今まで気づかなかった。
ついに、アルツハイマーが来たか?
自殺ネタ。
学生時代、本当にガードが解けてぼーっとしているときに、
死ぬ話を、誰に話すでもなく口走っていた事が何度かあったような気がする。
それを聞いた相手というのは、多分、気の置けない相手だったんだろう。
逆に、相手が死ぬことについて話し出すのを聞いて、こっちがびっくりする。
慰めてもらうために死にたいなんて言うんじゃない。
どうもそこでは「そんなに言うなら死ねば!」という答えをずっと待っていたような気がする。
幸い、私の友人の中ではそんなことを言う人間は居なかった。
仕事で、連日残業徹夜の連続で、本当にいつか死ぬんじゃないかと思ったときに、
「トクシさん。俺が死んだら、俺のパソコンあげるから、もらってちょうだい」
と、無意識に言ったら、
「そんなもん、いらねーっちゃ。生きててケレ」と言われビックリした。
何かその時、心に突き刺さった。
後から考えたら、彼の母親は早く死に、父が遠洋漁業で航海に出ている間、姉が母代わりに育ててくれたのだ。
彼は、きっと死の意味を良く知っていたのだろう。
彼の言葉は、私を救った言葉の一つである。
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Chip
: 2008年5月22日(木) 03:03
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2008年5月20日(火)
眠り狂死郎
先週土曜日午後2時に珍しくファミレスでうち合わせがあった。
いつもうち合わせが長いお客さんで、今回も夕方5時までかかった。
我が家に帰り、風呂に入りすぐ寝た。
翌日はようやく9時に起き、飯を食い、すぐ長椅子で横になると寝てしまう。
目覚めたのが午後2時。そこでまた飯を食い、今度はベッドで寝るとあっという間に7時。
晩飯を食った後また寝て、何とか起きあがれたのが、夜中の12時だった。
ようやく、人疲れが取れ、何とか朝9時までに仕事を仕上げられた。
本当に人に会うと疲れるようになった。
逆に、疲れと感じる様になったから、突然仕事が出来なくなるようにならなくなったと言うべきか。
小学校の時は、全く人疲れなんて事を考えたことも無かったが、
中学に進むと、今までと全く違う緊張があるんだろう。
なんと、中学1年生の1学期だというのに、授業中に寝てしまい、
「中学1年で授業中に眠るなんて初めて聞いた」とみんなに言われたが、
言われて直る物でもなく、高校時代は「眠り狂死郎」と言われた。
このあだ名が一番気に入ってたんだけど、その後誰も言ってくれなかったな。
作成者
Chip
: 2008年5月20日(火) 21:25
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2008年5月19日(月)
だめだめ
自殺はとにかくダメ。
理由は、ダメと決まっているから、ダメといったらダメなのだ。
考えてみれば、定型発達は防衛機制が働いていて、自分にマイナスな事は省き、
自分のプラスになることを積極的に取り入れる仕組みになっている。
ところが、いくら定型発達の防衛機制であっても、働きが悪くなることがある。
それが、鬱病だ。
自閉症は、防衛機制が働かない、或いは、働きが非常に悪いのが特徴だから、
これから言うと、生まれつき、天然鬱病だ。
こう考えると、子供の頃から「死にたい」と考えるのは当たり前だね。
自殺は「鬱病」であるからこそ行う。
私たちが自覚するほどの鬱病は、天然鬱病がさらに悪くなった状態だから、
本当に、死ぬ元気もない。
「自殺」は「鬱病患者」が中途半端に元気なときにやってしまうという。
それもまた、よく分かる。
自閉症は「天然鬱病」であるから故に、脳機能薬が良く効くんだろうね。
子供が暗い気持ちになったとき、「明るい気持ちになる薬」を処方して貰うのは、いけないことなんだろうか。
やっぱり、子供に連続投与はまだ消極的なんだろうか。
しかし、私の妻は言う。「子供の時に、ルボックス飲んでいたら、人生が変わっただろうな」
作成者
Chip
: 2008年5月19日(月) 16:40
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2008年5月18日(日)
もやもや
定型発達は中枢性の統合が強く、概念化がしっかりしているから、簡単に「好き」「嫌い」に区別されるから、
なんでも「好き」か「嫌い」で判断するんだな。
自閉症児が同じ事を繰り返すんです。
「ああそれは、その事が好きなんでしょう」
自閉症児がどうしても部屋の中に入りたがりません。
「ああそれは、入るのが嫌なんでしょう」
思い返してみれば、何万回この手の回答を聞いてきたか。
そして、それが、役に立たなかった事を見てきたか。
私が子供の頃、悩んでいたのは、私の心の中の「もやもや」だったんだろうか。
「もやもや」は、頭から離れることが無く、「もやもや」している。
「もやもや」している間は、ずっと「もやもや」を考えている。
「もやもや」を考えていても、ちっとも何かが解決する事はない。いつまでも「もやもや」しているだけだ。
「もやもや」があると、くたびれてすぐ眠くなる。朝も眠い。昼も眠い。
大人になって「もやもや」は消えたか? 少し減ったかもしれないが、消えはしない。 「もやもや」
作成者
Chip
: 2008年5月18日(日) 23:24
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2008年5月17日(土)
自殺を本気で考えた?
タイミング良く、内閣府の調査で、自殺を本気で考えた人が19.1%いると発表された。
勿論記事の論調は、こんなにも居るというのだが、私から見れば本当に驚異だ。
何故なら、私自身もずいぶん前から(小学生の頃から)死にたいと思っていたし、
いや、死ねないから生きているというスタンスだった。
妻も含め、数少ないきちんとテスト診断を受けたアスペルガー症候群も、
はっきりとは言わないが、自殺願望がありそうな臭いがする。
そんな連中をはぶいたら、定型発達の自殺願望者は10%ぐらいか?
まあ、それくらい定型発達であるということは、「生きやすい」「楽しい生活」だと言うことだな。
道理で、クソチンコが、定型発達の時の浅見淳子と、自閉症の芝居をしているクソチンコになった時を比べ、
「自閉症はつらく悲しいのです」と言う訳だ。
こんな事、比べなきゃ分かるわけが無い。
ちなみに、俺は、つらく悲しいなんて一度たりとも思ったことはないが、
生きていたくない。死にたい。事故でもなんでもいい。と思うことはしょっちゅうだ。
しかし、それが、「つらく、悲しい」には、全く繋がらない。
つらく悲しいと言ってるクソチンコは「私は転んでもただ起きない」とすごーーーーーーーーーく前向きで、忘れっぽいんだよ。 これが自閉症というヤツの顔が見たい。
(ウソ。見たくもない)
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Chip
: 2008年5月17日(土) 10:26
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2008年5月16日(金)
「好き?」
話を元に戻そう。
この「刺激」の説も、元は妻が言い出した事だ。
★「楽器吹くの好き?」 −「別に好きって訳じゃ無いけど」
★「じゃあ嫌い?」 −「嫌いじゃないよ」
★「じゃあ好き?」 −「まぁ、強いて言えば面白いかなぁ」
★「今の仕事好き?」 −「好きじゃ無いよ」
★「じゃあ嫌い?」 −「嫌いじゃやってられないな」
★「じゃあ好き?」 −「今やってるのは、面白いっちゃぁ面白いな」
妻は、この調子で2年くらい何かにつけ私に質問し続けていた。
しばらく経ったある日、
「おーちゃんは、(好き)まで行かないんだよ。せいぜい(面白い)止まりなんだよ。
きっと自閉症は好きなんて高度なことは概念化できないんだな」
初め、妻がいったい何を言っているのか、その意味が何なのかさっぱり分からなかった。
しかし、しばらく経ち、また、自分たちの生活を見直していたら、何となく分かり始めた。
つまり、物事について「刺激」としか受け取っていない。
それが、自分にとって「快感」なのか「不快」なのかも判別せずに、ただただ「刺激」としか理解出来ないのではないか。
「不快」であれば、それから逃げれば良いのだが「快、不快」どちらなのか「本質の所」で理解出来ない。
定型発達が、すべて「快」「不快」に分け、「不快」を「快」に変換する術まで持っているというのに、
私たちは、闇雲に「刺激」に突き進んで行くだけである。
それから逃れる術はなく、その正体すらも分からない。
だから、「ヒステリー」を起こすか、「殺人」を起こすしか術が無くなってしまうのだ。 どうだ。論理的にすっきりするだろう。
作成者
Chip
: 2008年5月16日(金) 09:31
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