昭和37年8月21日 | 東京都五日市町(現在、あきる野市)の地元新聞会社経営の父親の長男として出生 |
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生まれつき両手の掌が上に向けることが出来ず、いわゆる「頂戴ポーズ」が出来なかった。このため宮﨑は幼稚園でのお遊戯が「死ぬほど辛かった」と供述している。 |
中学生のころ | テレビ番組をビデオ録画して収集する趣味を持つ。 |
昭和53年4月 | 明大付属中野高校に入学 |
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学友は、宮﨑の記憶が殆ど無く「目立たないくて暗い人間」という声が多かった。 |
昭和56年4月 | 東京工芸大学(短期部)の画像技術科に入学 |
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この頃、宮﨑はパズルに熱中し専門誌にパズルの回答を頻繁に応募していた。が、異性に関しては宮﨑は手の不自由さからコンプレックスを抱き、興味を持っていない様子だったという |
1982年秋 | カメラやビデオカメラを持ち歩くようになり、テニスルックの若い女性のバンチラ撮影を始める(裁) |
1982年(S57)末 | 子守であった住み込み人がいなくなった。奇妙な風邪薬の大量服用も見られた。(ウィクペディリア) |
昭和58年3月 | 短大を卒業 |
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同年4月 | 父親の紹介で東京都小平市の竹内印刷会社に就職 |
同年夏 | 幼女の裸体や性器を写し始める。 |
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被告人の居室から押収した女児の裸体写真は、84年(S59年)もしくは85年(S60年)の夏に撮影。 |
昭和61年 | 3年後に同社退社。 |
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昭和63年5月 | 宮﨑が唯一心の拠り所にしていた祖父が脳溢血で死亡。 |
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万引きは、祖父の死後にはじまる?(宮崎裁判) |
昭和63年8月22日 | 今野真理ちゃん殺害。この日は、被告の誕生日の翌日にあたります。 |
昭和63年10月3日 | 埼玉県飯能市の吉沢正美ちゃんが行方不明。 |
昭和63年12月9日 | 埼玉県川越市で、難波絵梨香ちゃんが行方不明。 |
昭和64年2月6日(月) | 埼玉県入間市の今野真理ちゃん宅の玄関ドアの前に、骨などの入ったダンボールが置かれる。 |
昭和64年2月10日(火) | 東京都中央区にある朝日新聞東京本社に、「犯行声明」が郵送される。差出人は、「所沢市 今田勇子」。 |
平成元年3月11日 | 同都同区の朝日新聞東京本社に、「告白文」が郵送される。差出人は、今田勇子。 |
平成元年5月21日 | 東雲団地の小学校で、女児のパンチラ撮影。 |
平成元年6月6日 | 東京都江東区の野本綾子ちゃんが行方不明。11日午前11時ごろ、飯能市の宮沢湖霊園の公衆トイレ脇で、バラバラ死体の胴体部分が発見される。 |
平成元年7月23日午後5時頃 | 東京都八王子市で印刷業・宮﨑勤(当時27歳)は小学校1年生の女子(当時6歳)に「写真を撮らせてね」と近づき数枚撮影した後、車に連れ込み郊外の山林で全裸にしてビデオ撮影しようとしたところを、後をつけて来た女子の父親に取り押さえられて警察に引き渡された。(『事件史探索』) |
同年同月24日 | 父親が五日市警察署に「息子が丸一日経っても帰宅しない」と電話。警察は、「八王子署に留置中だが大した事件ではない」と、答える。 |
平成2年3月30日(金) | 宮崎勤に対する殺人等被告事件の初公判が開かれる。 |
作成途中で、書き換えるつもりでいますが、メーンは、HP『事件史探求』様よりコピー。
■画像は、例の著書です(省略)。
著書の佐木は、巻の末尾に、次のような考えをしたためています。
>わたしたちは、人間のマイナスの営みとしての犯罪から、せめて教訓を引き出さねばならない。何が宮崎勤をして凶行に走らせたのか、それを解明するのが裁判なのだ。・・・
それを見て、何を寝ぼけたことを抜かしているんだ、この男は、と思っちゃうわけです。
そもそも裁判とは、容疑者の違反した行為に対して刑法にある条文と照合して、罪名を着せるなど、国家が「正義を行使」する名分上の行為で、実際には、司法関係者が行っています。 この意味で彼らは、国家の認める法的代理人です。
ところで、彼らの行為のどこに、「解明」という二文字が書き込まれているというのですか。
私が特に残念に思うのは、お上が「解明」するものと信じていることです。
作家のみならず、日本国民の多くが、水戸黄門のような「お上」がやるものと思っており、シモの人間のやることに対して、はなから無視していることです。
・・・私のやっていることは、防犯上役に立つプラグマチツクな解明作業かというと、そうではなく、犯罪行動のヒトゲノム的解析?を目標に掲げています。
書くまでもなく、力不足を痛感チュ~!!
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