この漫画は漫棚通信ブログ版でとりあげられていて、初めて知った。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_7806.html
というか、書店で平積みされているのは何度も見たのだが、これがあの『真景累ヶ淵』の話だとはまったく露ほどにも思わなかったのである。
そう。これは前に紹介した三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』の一場面を漫画化したものである。少なくとも第一巻は、映画「怪談」と同じく、「豊志賀」の部分をとりあげている。
原作では、金貸しが旗本に殺された事件を発端にして、その旗本の息子と金貸しの娘がお互いの因縁を知らずに恋仲になる物語である。すなわち旗本の次男だがその出自を自分は知らずに町人の家に居候していた新吉と、三味線の師匠の豊志賀だ。
新吉は21、豊志賀は39である。
いまの39ではなく、江戸末期の39だから、世間的にはかなりの年増だとみなされている。しかも現在のような自由な倫理観のない時代なだけに、この二人が恋仲になってしまうというのは当時としては目もくらむようなスキャンダルだといえる。
さて、漫画のほうである。
漫画は原作の筋を生かしながら、原作ではサラリと流されているところをふくらませたり、原作にはない因縁話をどうもふくめているようなのである(漫棚通信ブログ版で指摘されているように「豊志賀が、宗悦〔殺された金貸し——引用者注〕の死体を入れた『つづら』という言葉に反応したりしてますから、どうやら、このマンガでの豊志賀、原作と違って宗悦殺しに無関係じゃないらしい」など)。
ぼくは、『真景累ヶ淵』の感想のところでも書いたのだが、もともとその物語を「怪談」としては期待していなかった。因果をめぐる壮大な人間の連関が、次々にドラマを演じていく様に心を躍らせたのだ。
ということは、この話を「怪談」として描こうとする、漫画家・田邊の努力にはほとんど反応できなかった。
たとえば、豊志賀の顔が次第に壊れていき、それが新吉への嫉妬とも重なっていく描写については、もうまったくスルーしてしまったのである。
田邊の絵は、絵として単体でみれば確かに迫力がある。
人物を多くは真正面から描き、荒削りの彫刻のような直線でそれらを表現し、目や口などのパーツが微妙にデフォルメされている。単独で絵だけをとりだせば、人をそらさない力をもっているのだ。
しかし、前にも述べた通り、怪談の本質は「絵としての怖さ」ではない。「怪談の恐さは、幽霊の恐さではなく、人間の持つ心情心理の恐さにある。自分自身も持つ、人間的な部分の描写が怪談の恐さにつながるのだ」(芸能史研究家の瀧口雅仁「しんぶん赤旗」07年5月6日付)。
だとすれば、その絵の表現にいたるまでどれほど人間のもつ心理や、人間の関係を効果的に描けたか、ということに「怪談の怖さ」というものは大きく依存しているはずである。
田邊の『累』では、たしかに豊志賀が新吉を「所有」しようとしている描写はあれこれ出てくるのだが、豊志賀が新吉をかけがえのないものとして愛するという描写がない。それがないと、そこから立ち去ろうとする新吉への執着があまりよく見えてこないのである(これは原作でも同じだが、ぼくは原作には怪談を期待していないから原作においては瑕疵にならないのだ)。
これだと、単に、独占欲の強いわがままな年増女、よくわからんままにセックスしてしまった若い男、みたいな感じでしかない。
あと、豊志賀から逃れるために新吉が若い弟子のお久に情を移してしまうところも、もともと原作を読んでいたときも飛躍があるなと思っていたのだが、やはり『累』でもあまり丁寧ではない。
逃避としてお久にのめり込んでいくところはもっと鋭角に描いてもいいはずだ。
もう一つ。ぼくが劇画というものに、エロさをまったく感じない人間だということも災いしている。いまから30年くらい前には主流だった劇画調のエロ漫画をみるとぼくは吐き気がするのである(すまん)。
「宮崎勤のあまりにも有名になった、数千本のビデオが積み重ねられた部屋のいくつかの写真。そのうちの一葉には、万年床のように見える、だらしなく敷かれたままの布団と、枕元に一冊のエロ本が配置されている写真がある。エロ本は確か『若奥様の生下着』と題する劇画誌である。……これらの配置は、当時彼の部屋に足を踏み入れたカメラマンの一人によって配置し直されたものである可能性が当時から指摘されている。この布団とエロ劇画誌の存在が実は、この写真の意味を大きく変えてしまっている。……『若奥様の生下着』と題されたエロ本も八九年の時点では旧世代のものと化したエロ劇画であり、八〇年代半ばには少女マンガとアニメふうの絵柄が複合した、いわゆるロリコンまんがは、当時十分にマーケットとして成立していたはずだから、宮崎勤が後に獲得するパブリックイメージからすれば、そこに『若奥様の生下着』なるエロ本ががあるのは実はあまりに不自然だった。……八〇年代という時代は、布団とエロ本という構図が象徴するような、古典的な性意識が解体していく時代であった」(大塚英志『おたくの精神史』p.74〜76)
『累』には、雨の夜に豊志賀が「淋しいから」という理由で、まだ情を通じていない新吉に「添い寝」を命じるシーンが出てくる。これは原作でも念入りに表現されているのだが、いわばセックスするためではなく他の理由で「いっしょに寝る」という、まあなんつうのか、すごくいやらしいシチュエーションなのである。
「これは『浮気』じゃなくて まだ『浮気心』だ……!!」「『浮気心』とは まだお互いの気持ちを確認しきれてなくてさぐり合っている世界で一番いやらしい時の気持ちのことです」(伊藤理佐『おいピータン!!』5巻p.56)
これほどのエロ設定にもかかわらず、田邊の「豊志賀・新吉 添い寝からついイッパツやっちゃう」描写は、ほとんどぼくに刺激を与えなかった。
「添い寝からエロい状況に移行してしまう」という点では、たとえば東雲太郎『キミキス』1巻で、摩央姉ちゃんが光一のベッドにもぐりこむ描写の方がはるかにエロいのである。それは、東雲の画風が「ロリコン漫画」の末裔だからなのだ。
じゃあ、この漫画をお前は退屈きわまる気持ちで読んだのか、といわれるとそうではない。
実は妙なところに注意がいってしまったのだが、富本節の三味線の師匠である豊志賀のもとに通う男たちの、豊志賀への熱狂ぶり、そして新吉への嫉妬のほうは一つひとつ丁寧に描かれていて、ぼくのなかで立体的な像を結んでしまったのである。
まったく売れない新吉の行商のたばこを、稽古待ちをしている男どもが買う描写、自分は色恋の気持ちで稽古にきているのではないと見栄を張ってみる初老の男、それらの男に新吉のマメさが気に入られていく描写、豊志賀へのプレゼントを競うように持ち寄る男たち……このあたりが一つひとつ生き生きとしている。原作にはほとんどなく、一部ある部分を肉付けしてふくらませているのだ。
この描写によって、新吉というキャラクターが動き出したし、豊志賀をとりまく雰囲気もリアルになってきたのである。
田邊の「画力」に頼りすぎることなく、「怪談」にふさわしいエピソードや描写を重ねることで物語を成就させてほしいものである。
エンターブレイン ビームコミックス
構成:武田裕明
1巻(以後続刊)
2007.10.1感想記
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