あるお宅に月参りに行ったとき、いきなり奥さんがこう言った。
「お参りの方向が、逆だったんですね!」
何のことか分からず、よく話を聞いてみると、浄土真宗ではない他の宗派の親類のウチで法事があり、そこでみんなが話している内容を聞くと、
こうしなきゃ亡くなった人が浮かばれない、とか、
これをきちんとしないと供養にならない、とか、
亡くなった人のためにコレコレこういうことをしないとダメだ、とか・・・・
話の内容が、亡くなった人に対する事ばかり。 みんなそれぞれの長年の経験から培った「考え」を吟味点検することなく主張するから、話す内容がバラバラで、そこに「仏教の教え」はなかった、ということ。
で、奥さんは冒頭の言葉を言ったのである。
他宗派は「死んだ人のため」という方向性でお参りするけど、浄土真宗は「お参りの方向が、逆だったんですね!」と・・・。
つまり、浄土真宗の法事や法要すべては、この私が「教えに会う」ことがメインになっている。
いや、他の宗派だってそうなのだ。
お経はそもそも「お釈迦様の話した教え」が書き留められたもの。内容を紐解けば、「私のため」に書いてあるのだ。【般若心経】だって、この世のものの起こり方、存在の仕方を「空」と見つめて、自分の枠(執着)から解放された人生の歩みを教えている・・・亡くなった人に子守唄みたいに聞かせるものではなく、この私が聞き、学び、会わなければならない内容が示されている。
でも、いつのまにか、自分不在の、いや、自分が不在じゃなくても、自分の都合を守るために死者を供養する為の仏事に傾いてしまった。
いや、僕はこの「供養」という言葉も嫌い。その「供養」というキーワードを簡単に言いすぎることで、誤魔化していることが多く感じる。
まず、
私にとって、いま、今日、現在、ここで、亡くなった人(先祖)は、どのような「存在」となっているのか?その1点を問うてみるのだ。
(A)法事や「供養」を忘れたり、怠ったりしたら、我々に何か「災い・不幸」をもたらしてくる「悪霊・怨霊」の類(たぐい)なのか?
(B)私に先立って「命」を教えてくれる「仏(先生)」なのか?
・・・・・こう尋ねると、「もちろん(B)。「仏さま」です」と答えるだろう。
しかし、たまたま災難・不幸が続き、インチキ占い師に見てもらい、その不幸の原因が「先祖じゃ!!!」・・・・な~~~んて言われようものなら、血相を変えてお寺にやってくる人がいる。
不幸の矛先をすぐに「先祖」の責任に結びつけ、先祖を「悪霊」にしていることにも気付かずに。そう、教えの中身も、お寺にも何にも興味も示さない人が、法事の周り年になると、血相を変えて現れる。そして、週末は法事のオンパレードになる。
それでも、「法事」といっても、「教えに会う」ものではなく、
「はい、これで安心しました」
「親類への面目を保てました」
「これで天国から守ってもらえるね」
・・・・大半はそんな反応でしかない。
いや、もちろん、法事というキッカケで滅多に会えなくなった遠方の親類一同が集まって、「お食事会」「懇親会」をする・・・というのも大事なことである。僕だって、親類一同で集まってワイワイと盛り上がってみたい。最近さびしいから・・・。(苦笑)
でもなぁ、僕は、
「亡き人をワルモノ」にして、それを鎮めるための「法事」として勤めようとしているニュアンスの人を見ると、つい言葉が喉まで出かかってしまう・・・・。
なにも、そんなに意固地になって法事なんかしなくたって大丈夫だって。化けて出ないって。法事をしたってしなくたって、どっちだって、関係ないって。
極論を言えば、
亡くなった人が迷っているのではなく、生きている私たちが迷っているのだ!!
としっかりとおさえておけば、問題はクリアーになる。
何が言いたいか?
法事なんてしなくていい!
ということじゃない。
法事をするなら、仏教の「中味」も知ってください、ということ。
勝手に「仏教」を改編しないでください、ってこと。
親鸞様の言葉が収録された「歎異抄」第5章では
「親鸞は父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まふしたることいまださふらはず」(訳・わたくし親鸞は、父さん母さんの追善供養の為に、1回も念仏を言ったことなど未だかつてありません)
と言われている。
この「念仏」という言葉を「法要」とか「法事」に置き換えてみてもいい。
浄土真宗の宗祖・親鸞聖人ご自身が「亡くなった人の為ではない!」とおっしゃっているのである。
そして、前にも紹介した本ですけど、
去年の5月、京都の本山の「住職修習」でご一緒した「ぐり♪さん」のお爺さまが、この第5章に対する「受け止め」を述べられている一節を紹介する。
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どうかすると先に死んだ人のために追善供養をするように思うのが律儀のようである。ほんとうの習わしはそうではなく、先人の死によって自分が「死」を学びとることなのである。そうすれば死んだ人は私のために仏の使いとなって世の無情を教えてくれる尊い方となって拝まれよう。
追善供養はむしろ私のための営みであった。
※【高光一也著 『別冊ひとりふたり これでよかった ~私の歎異抄ノートより~』(昭和59年 法蔵館)P.22】
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