黒夜如果不黒暗 美夢又何必嚮往
破曉會是堅持的人最後獲得的獎賞
黒夜如果太黒暗 我們就閉上眼看
希望若不熄滅就會亮成心中的星光
(S.H.E.「星光」より)
律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネによる福音書8:3〜11)
2008年06月16日
■今までのあらすじ

2007年2月
某ネガティブ粘着ブログ管理人らによる執拗な松永英明攻撃は激しさの度を増していた。連日連夜の彼らによる粘着により、私は神経をすり減らしていった。今から思えば、私は確実に鬱状態に追い込まれていった。
2月19日午前5時ごろ、約15分間にわたって、彼は「資料」と称して、事実ではない内容を含む4記事を連続投稿した。それまでは物事をはっきり言わずにほのめかすことで精神的に追いつめてきていた彼が、このときは実名を記し、強烈な悪意をもって投稿していた。
翌20日未明、私はその悪意に満ちた投稿を見て精神的に激しく追いつめられ、全身から力が抜けていくのを感じた。そして、生きていけないと思い、自死の企図はなかったが、午前1時半ごろ、「精神的苦痛」というエントリーを表明した。このときには、食べる・飲む・寝るといった生命活動を維持するための行動さえも取れないと思うほどの激しい精神的ショックを受けていた。そして、部屋を見渡して、部屋の中にあるものをいろいろと友人に配ろうと思って午前2時すぎに「遺言書」というエントリーを書いた。そして、眠れないまま、しばらく休んだ。
その間、親しい人たちは私が自殺するのではないかと思い、心配していろいろ手配をしてくれた。一方で、エントリーにいやがらせブックマークコメントを残す者もいた。
私は部屋にいるとそのまま飛び降りてしまいそうな気がしたので、郵便物の発送を兼ねて外に出た。そのまま線路に近づくと飛び込みそうな気持ちが出てくるので、神田川沿いに歩いた。神田川に飛び込んでも死ねそうになかったが、ふらふらとさまよっていた。
その間に、滝本太郎弁護士が自宅まで来てくれていた。反応がないため、地元の警察に連絡された。そして、滝本弁護士からは何度も何度も携帯に電話が入っていたが、それに私は気付かなかった。あるいは、気付いても出る気力がなかった。そのまま消え去るしかないかと思っていたのだ。
それでも歩き疲れて、いつしか神田川沿いの塚山公園に来ていた。そこで座ったところ、電話が入った。あまりにも連続して入る電話に少々うんざりもしていたので、もう電源を切るつもりで電話に出た。滝本弁護士からだった。今から警察とともに部屋に突入する寸前だった。私は電話口で説得され、なだめられ、ひとまず部屋に帰ることとした。ただ、少々距離があったので、30分くらいはかかっただろうか。私はそのときふらふらで、ゆっくりとしか歩けなかったのだ。
部屋の下に戻ると、滝本弁護士と、私服含め6人の警察官がいた。警察官にあいさつして、滝本弁護士と一緒に近所で食べることにした。まる一日、何も食べる気力がなかったからだ。少しずつ、少々無理をしながらも喉に流し込んでいると、友人二人が駅まで来てくれていると連絡が入った。彼ら二人に託して、多くの友人たちが気遣ってくれていた。その二人とも合流して、4人で食事などをした。
とりあえず自殺企図は弱まったが、何も食べられないような状態はその後も続いた。
23日であったか。id:BigBang氏と連絡を取って、駅前で会った。私はほとんどふらふらで、ご飯も食べられる状態でもなかったので、喫茶店でぐったりした状態で話をした。
http://d.hatena.ne.jp/BigBang/20070224/p1
おおむねここに書かれたとおりであるので、特に補足はしない。ひとまず、氏と会えたことでお互いの不要な感情的トゲの部分は取り除かれたのではないかと思っている。
なお、このとき、別の友人たちが駅前に来ていたのだが――当日、BigBang氏は会えないかもという話が出ていたのだが、後で急遽会えることになったのだ。その経緯を伝えきれず、友人たちとダブルブッキング状態になっていた。その連絡が来ていることに私が気付かず、そちらはそちらで警察を呼ぶ事態になったりしていた。BigBang氏と話し終えて駅前に行くと彼らがいた。その中には大手マスメディアの人が二人いた。
さて、このころ、医師である友人からいろいろとアドバイスを受け、指定された漢方薬を飲みつつ、心療内科の予約をした。予約まで数日、胸が苦しい状態が続き、つらかった。心療内科ではいろいろと薬を出された。その記録をここで出す必要は特にないだろうが、精神を安定させ、やる気を取り戻し、夜は眠れるようにするための薬を処方された。それから2週間に1回ずつ通うことになる。
なお、上記の流れのなかで、教団信者は一人もいない。すべてまっさらの関係ない人物ばかりである。
その後
当時執筆中だった本は、さすがに仕上げることができず、企画が流れてしまった。これは編集さんにも大きな迷惑をかけてしまって、非常に残念であった。しかし、あの鬱状態で仕事ができるわけもなかった。
それでも、薬は少しずつ効いてきた。どん底の状態からははい上がることができた。そして、仕事の関係でネットをいじる以外はまったく「騒動」から距離を置く日々が続いた。
完全な鬱状態で、午前中は起きられない、午後からもやる気がでない、そして夜は安定して眠れない。そんな状態の中、わずかにできる仕事をこつこつとこなした。社長は私が以前の活気ある状態とまるで違っていることに気付き、いろいろと配慮してくれた。
ネット関係は非公開mixi日記にひきこもる状態となり、日記でもときに不安定なことを書いて心配されたりもした。しかし、ごく最近知り合った近所のmixi友達なども助けてくれたので、最悪の事態は免れたのだった。
初夏のころだったか、渋谷の占い師のところに行った。8月22日から運勢が好転する、と占い師はホロスコープを見ながら教えてくれた。そこで、ひとまずの区切りとして8月22日までは、例の回想録を公開せず、非公開のまま書き進めることにした。ただ、8月22日になったら公開すると決めていたわけではない。とりあえず、一般には伏せたまま、BigBang氏をはじめとする数人にのみ回想録ページを公開していた。
そのころは資格を取るために渋谷に毎週通ったりするくらいには回復していたが、それでも回想録は非常に膨大な資料になりつつあった(現時点で300ページを超えている)。予想をはるかに超える大規模な作業であることがわかった。それで、8月22日の公開は延期することにした。もちろん、その後も書き進めている。
秋には資格を取ったが、それでも鬱状態から完全に解放されたわけではなかった。
精神的にかなり回復してきたのは、今年に入ってからである。
回想録や、自前のウィキ(閾ペディアことのは)の編集などをしつつ、ブログの方はこちらもメインも休止していた。回想録なしでブロガーとして復帰することにためらいがあったためである。
現在、鬱の治療はほぼ終わりに近づいているように思われる。薬もかなり減った。というより、ほとんどなくてもいいようになった。
復帰のこと
今回、この備忘録ことのはインフォーマルを更新し始めたのは、特に深いきっかけがあるわけではない。
ただ、「遺言書」に名前を挙げられた某氏より、「検索するとそちらのダイアリーがひっかかるので、何とかしてくれ」と言われたので、表紙から下げたいと思ったのだ。だから、「久々の更新」は全角空白一つだけにしておいた。それにブックマークがつくのだから、世の中何が起こるかわからない。
それでも、更新してしまったことで、後戻りはできなくなった。
回想録の完成・公開はまだまだ先になりそうだが(ある程度完結しなければ公開する気はない)、少なくともこれまでの経過報告と、回想録を執筆中であって公開意志はあるということを表明しなければ、ブログの再開は許されないだろう。そう思って、この「今までのあらすじ」を書くまではまともな更新ができなかったのである。
回想録のこと
途中で書きかけの回想録を悪意によってさらされたために移転したりもしたが、こちらも淡々と書き進めている。何しろ、書かなければならないことは膨大だが、資料が手元にないため必死で記憶を喚起しなければならないときなどは非常に筆が進まない。それでも、現在、2003年春までは書き進んでいる。教団の分裂が始まったころのことで、両陣営からの視点を盛り込むために苦心している。放棄するつもりはないので、気長に、気長に、気長に待っていただければ幸いである。
ブロガー
私は「ブロガー」であることにさほどこだわりを持っていない。当初から述べているように、私はもともと「更新のしやすいツール」としてブログを利用しているだけであって、何かブロガーとしてどうこうしたいという思いは強くない。わかりやすくするためにブロガーを名乗ったりすることもあったが、それはジャーナリストってわけじゃない、というくらいの意味だったり、ネットでいろいろ更新してます、というくらいの意味だったりする。賞とか肩書きは、「もらえるものならありがたくいただく」だけの話であって、別にこだわりはない。
「ブロガー」という言葉は、「ドライバー」とか、「歩行者」といった言葉と同レベルの言葉だと思う。ブログを書いていれば誰でもブロガーだが、ブログから離れたら別の分類に移行して当然である。私はブロガーとして生きる気などない。ブロガーとしても行動するだけの話である。
最近は、自前で設置したMediaWiki(Wikipediaと同じようなものが作れるウィキツール)を利用するのが便利だと思っているので、「ウィキを更新する人」の方に重点が移行しているかもしれない(Wikipediaではなく、自前のウィキを充実させることに関心がある)。私自身、現在の指向性として、アピールツールともいえるブログより、淡々と記録をまとめて論文もどきや資料集を作っていくウィキに大きな関心がある。
ところで、ブログを書く人がブロガーだが、ウィキを書く人は何と言うのだろう。ウィキペディアだとウィキペディアンだから、ウィキアンとか何かになるのか。それだと語呂が悪いが。
まあ何でもいい。私が徳力氏認定「アルファブロガー」と呼ばれるのが気に入らない人は、私をアルファブロガーなるものから外してもらってかまわない。私は肩書きではなく、中身で勝負する。
けろやんへ一言(私信)
idでコメント書いて直後に消して、同じ内容を別ハンドルで書いたら、同一人物だってわかるから。ついでにIP情報もわかってしまうから。今後はやめときな。